■ 2008年に読んだ本
  
ホームズもの長編第3作にして最高傑作とされる作品。西部イングランドのダートムアと呼ばれる沼沢地が舞台です。一歩踏み入ればいたるところに底なし沼が口をあけ、脱走囚が徘徊し、口から火を噴く巨大な魔犬が襲いかかる、なかなか派手な設定と展開で、これぞ長編冒険ものといった感じですね。ただ今回はホームズの活躍する場面がすくなく、かわりにワトスン先生が単身で現場に乗り込み、なかなかの頑張りを見せてくれます。まあそれも最後にはホームズの皮肉の的になってしまうわけですが。
 ホームズものの長編は全部で4作しかなく、そのうち3作を読みました。前2作を読んだ時にも感じましたが、どうもホームズものは長編より短編のほうが合っている気がします。鮮やかな推理であっと驚く、という仕掛けがあまり効果的になされないのが一番不満なところですね。本作でも犯人はかなり早い段階で知らされ、あとはいかにしてつかまえるかという展開になっています。問題の魔犬の正体も……、なんだか拍子抜けしてしまいました。
2008年11月 「雪国/川端康成」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン90冊目。
 難しい小説だなあこれは。言い回しがどうとかいうことじゃなく、文章を通して作品世界を頭の中に構築するのに、かなりの熟練度を要します。もちろん作者の意図とは別に、読者それぞれに違った作品世界ができていいわけだけれども、作者の仕掛けたいくつかの仕掛けがあって、それを読み違えたり気づかなかったりするのは、単純に損です。

 端的に言えるのは、独特の官能表現です。冒頭のカマシのくだり、「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった」は誰でも知っているほど有名(その割に、「トンネルを抜けると、そこは雪国だった」などと別の文章で覚えていたりしませんか、皆さん?)なのに、その他の部分でとても教科書には載せられないような表現が多数出現します。
 本作は、無職で遊び歩いているばかりの男、島村と、温泉芸者駒子の恋愛模様が話の柱なわけですが、島村がもうどうしようもないぐうたら野郎で、なんでこんな奴がいいのかわからないけど駒子は彼に夢中な様子で、それを素直に出せない性格だから会話が妙に回りくどくなる。そこへ急に、駒子の唇を蛭(ひる)にたとえて口づけを交わすシーンが入ったり、駒子が片方の乳房に手をやって、「片方が大きくなったの」と言うや、「その人の癖だね。一方ばかり」と別の男の存在を見透かした島村が返し、「両方平均にって、今度からそう言え」と付け加えると、「平均に? 平均にってそう言うの?」と無邪気に駒子が問い返す。そして二人のいる家のぐるりを蟇(がま)が鳴いて廻る描写が出てきて、それが二人の情交を暗喩してたりするわけです。昭和十年に本作が発表された時は、伏せ字だらけだったそうです。

 ストーリーはほとんど無いようなものです。事実、本作は独立した随筆文のような形で発表されたものをつなぎ合わせ、最後に「雪国」というタイトルをつけたような成り立ちの小説です。ただ、日本語の表現として実に美しい文章がいくつも出てきて、確かにこれはすごいと思わせます。また、上記の、蟇が情交を表しているということは別の書評を読んで気づいたほどで、他にもいろんな暗喩に気づいていない可能性を思うと、やはり難しい小説だなあと感じるわけです。

 一点書き添えると、確かに美しい表現が頻出するいっぽう、じつに無邪気にあからさまな表現が出てきたりするのには違和感を覚えました。たとえば、美しいものを表現するのにただ「美しい」と書いたりするような、他の部分では遠回しに遠回しに表現しているくせに、突然今度は直接的な言い回しが出てきたりします。このあたりは小説としては疵なんじゃないだろうかと思ったりするのですが、どうなんでしょう。
2008年10月 「友情/武者小路実篤」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン88冊目。
 若き脚本家野島は杉子に恋をし、思い悩む。些細なやりとりで一喜一憂を繰り返し、苦悩する胸の内を、親友の大宮に打ち明ける。大宮は常に野島の味方となり、励まし、なんとか杉子との仲がうまくいくよう画策してくれる。ところが杉子は大宮に思いを寄せてしまい、それに気づいた大宮はヨーロッパへ旅立つ。そこへ杉子からの手紙が送られてきて、大宮も自分の内にあった杉子への思いに気づく。大宮は野島への深い友情ゆえに、自分と杉子とのことを隠さず打ち明ける決心をする。

 青春の書、直球ど真ん中という感じですね。まあこうした小説や映画によくあることですが、野島は杉子のどこに惚れたかというと、外見なわけです。それ以外に魅力的な要素はほとんど描かれません。僕自身、たしかに若い頃のそうした経験を思い出すことはできるけれども、これを読んだ41歳で既婚の僕にとって、大きく共感できる要素はありませんでした。
 今回読んで最初に抱いた印象は、なんと残酷な話だなあ、というものでした。大宮に宛てた杉子の手紙の中に、野島に対する気持ちが書かれているのですが、これが悲しくなるほど辛辣です。なにせ、「私は、どうしても野島さまのわきには、一時間以上は居たくない」ですよ! こんなひどい言われようがあるでしょうか。それまでの杉子の、やや奔放ではあるものの、楚々とした上品で快活な調子からこの手紙での発言へ至る落差に、かえって笑ってしまうくらいの衝撃を覚えました。

 上述のとおり、作品の後半4分の1ほどは、杉子と大宮とで交わされる手紙をそのまま記した書簡体小説となります。普通の文体と書簡体が混在するというのは比較的珍しいと思います。(漱石の「こころ」のように、誰かの手紙の内容がそのまま書かれることはあっても、小説の一部だけが往復書簡の形式で書かれている例はあまりないと思います)
 ここで野島と我々読者は、これまでの杉子と大宮との言動の裏に隠された真意を知ることになるのです。野島にしてみれば大宮の友情からくる行為だと思っていたものが実はまったく違う意味だった、ということがつづき、あたかもミステリーの謎解きをするような思いにさせられます。

 ただ本作のキモは、タイトルどおり、友情とはなにかという点でしょう。自分を信頼してくれる友がいて、その友の恋した女性と自分との間に愛情が芽生えた場合、はたして身を引くのが友情なのか、女性と結ばれてもなお示せる友情があるのか。大宮の場合は後者を選んだ。野島にそのことを受け止められる度量があると踏み、杉子と結ばれたことを隠さず打ち明けることが最大の友情の表現だとしたのです。

 ときどき、変な具合に切れる文章が出てきたりして、あまり名文とは思えませんが、総体的には読みやすい小説だと思います。20年前に読んでいたらもっと熱くなれたかもしれません。
2008年10月 「変身/フランツ・カフカ」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン89冊目。
 ある朝起きてみると巨大な虫になっていた。有名な書き出しではじまる作品です。虫になるというのは比喩でもなんでもなく、本当に主人公は虫になってしまい、平べったくて大きなお腹やたくさんあってうまく動かせない足をどうしようか、などと悩む姿などが延々と描かれていきます。ところが不思議なことに、本人や家族は、人間が虫になってしまったことをすぐに受け入れてしまいます。もちろん、悩んだり苦しんだりするけれども、超自然的な現象に対する苦悩というよりは、たとえば犯罪を犯したり重病にかかったりした時と同じような、いわば“普通の”苦しみなのです。読んでいる者にとっては居心地が悪く、これは最後まで続きます。
 ラストの展開には、唖然とさせられました。不条理なのは、主人公ザムザが虫になってしまったことではなく、虫になったザムザに対する周囲の扱い方なのです。著者の父親に対する反感、社会に対する不満など、さまざまな解釈が可能でしょうが、正解は読む者にゆだねられています。
2008年 9月 「未来いそっぷ/星新一」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン86冊目。
 ショートショートで有名な星新一さんの作品を、初めて読みました。僕はミステリ系でよく“切れ味鋭い”などと評される短編が、好きではありません。どうも、最後のオチのためだけに作品が書かれ、描写も何もあったものではなく、読後の感動もないものが多いからです。僕はこうした作品は、“小説”とは別物なのだと考えるようになってきました。
 本作も同様です。あらすじがまずあって、描写や細かい設定などは取ってつけたような、どうでもいいようなものです。また、書かれてからかなりの年数が経っていることもあり、オチの大半は予測がついてしまうため、読後の驚きもあまりありません。やはりこれは、小説ではないのでしょう。
2008年 9月 「ハムレット/シェイクスピア」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン87冊目。
 恥ずかしながら、シェイクスピアをちゃんと読んだのはこれが初めてでした。何かにつけ題材やあらすじ、出てくる言葉などが引き合いに出されるので、なんとなく知ったつもりでいましたが、ちゃんと読んでみるとやっぱり印象は違いますね。だいたい戯曲を読むということもほとんどない有様ですから、小説のように取り組むと最初からつまずいてしまいます。翻訳文は比較的簡潔でわかりやすくはあるものの、たとえば王に向かって従臣の者が話す場合、「お妃様が、ひどく御心配あそばされまして、そのお言いつけによりお迎えに参じたのでございます」など、煩わしい尊敬・謙譲語が多発したり、劇中劇ではまったくの古文調での会話が続いたりなど、読む辛い箇所があることは確かです。また、すべてがセリフと説明だけで進むため、描写というものがほとんどありません。このため、誰かが死んだりするような重要な場面でも、信じられないくらいあっさりと筋が進行していきます。そのあたりに、どうしても違和感を感じてしまいます。

 ただ、巻末に、訳者の福田恆存氏による「シェイクスピア劇の演出」という小文が載っており、ここに戯曲というものが何たるかがじっくりと論じられています。これは必読です。素晴らしい文章です。
2008年 8月 「はつ恋/ツルゲーネフ」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン85冊目。
 あらすじは何となく知っていたのですが、ちゃんと読むのはこれが初めてです。16歳の少年ウラジミールが、隣に越してきた年上の少女に恋をする。少女は自分の美貌を武器に、周りに群がる男数人を相手に日々王様ゲームのような遊びをして過ごしています。ウラジミールはその輪に入ることはできたものの、少女の不可思議な言動に惑わされるばかり。やがて少女が別の相手に恋をしたことに気づくが……という内容。

 解説にもありますが、作品全体にただよう暗い影に、なんだか読むのが苦しくなります。これは絶対ハッピーエンドにはなりっこないよなあと感じます。作者の来歴からして、ただのラブストーリーではなく、時代の閉塞感、どうせ頑張ってもむくわれないんだという悲壮感がにじみ出ているのでしょう。そういう意味での読みづらさはありました。暗い小説はけっして嫌いではないのですが、肌に合うようで合わない小説でした。
2008年 8月 「新・世界の七不思議/鯨統一郎」 (東京創元社・文庫)
衝撃のデビュー作「邪馬台国はどこですか?」(書評はこちら)に続く、歴史新解釈シリーズ第2弾。今回はアトランティス、ストーンヘンジ、ピラミッドなど、世界の七不思議に迫ります。バーにたむろしている素人の宮田が、今回も歴史学者の静香を煙に巻きます。語り手であるハートマン教授を新たにメンバーに加え、バーテンダーの松永との4人で織りなす歴史談義。前作より切れ味に欠けはするものの、やはり知的興奮を覚える一冊。とにかく読みやすく面白いので、万人にお勧めの一冊です。
2008年 7月 「墨攻/酒見賢一」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン84冊目。
 以前に読んだ「後宮小説」(書評はこちら)と同様、中国を舞台にし、史実に独創を加えた歴史小説です。中国ものや歴史ものは人物名や地名が覚えづらく、大の苦手です。本作も、このキャンペーンがなければ決して手にすることはなかったでしょう。
 読み始めの数ページは苦痛でした。それが、10ページ、20ページと進むにつれ少しずつ慣れてきて、3分の1ほどにさしかかったあたりではもうどっぷりとのめりこんでいました。

 諸子百家の時代、墨家と呼ばれる思想集団が存在したことは史実です。墨家は義を重んずると同時に戦闘のプロ集団であった、というあたりから著者の創作が入ってきます。本作は、墨家の一人、革離(かくり)が小国、梁(りょう)の城を守るため派遣されるところから始まります。墨家の戦い方は、徹底的に守ること。革離もその教えにしたがい、城を守る準備を始めます。迫り来る趙(ちょう)の軍勢は2万、それに対し梁の城内には数千の人間しかおらず、しかも彼らは戦闘のプロではない。城主は色欲に溺れ、その息子は革離に敵対心を燃やす。絶対的不利な条件の中で、革離は超人的な指導力をもって戦にのぞみ、戦果をおさめていきます。

 主人公、革離の徹底した墨家的戦法に、圧倒されます。敵がこう攻めてきたらこう守る、次にこう来たらまたこう防ぐ、このやりとりが無茶苦茶に面白いのです。革離の人間性もまたその中に見えてくる。こんな短い小説の中に、よくぞここまで深い内容を収められたものだと感心します。ラストの展開もまた素晴らしい。

 中国関連がお好きな方には絶対的にお勧めの作品ですし、僕のように中国苦手、漢字苦手という方も、最初の10ページだけ我慢して読んでください。面白さは保証します。
最近、テレビで椎名誠さんの番組を見て、久しぶりに何か読みたいなあと思って買ってきました。しかも題材は、僕が二度訪れたアフリカの旅行記です。ナイロビ、マサイ・マラ国立公園、ナマンガ、アルーシャ、モンバサといった、僕にはなじみの深い地名とその描写が出てくるたび、過去に使ったガイドブックを引っ張り出し、また、自分の書いた旅行記(こちら)を読み返し、さらには記憶の糸をたどり、頭のなかで自分のたどった道行きを再構成して楽しみました。

 ただ、以前はとても魅力的に思えた椎名さんの文体には、ちょっと食傷気味になってきました。それから、椎名さんの旅の仕方は、基本的に出たとこ勝負です。事前のリサーチはわざとやらない、知ってしまうとそれをたどる旅になってしまい面白みが薄れる、という考え方のようです。ここは自分とは意見の異なるところです。僕は行く場所について事前になるべく多くの知識を得ることで、さらに旅が深まると考えています。
2008年 6月 「本を読む女/林真理子」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン83冊目。
 なかなか興味深く読むことができました。ただし、本書巻末の解説や多くの書評にあるような、読書を支えに一人の女性が激動の時代を生き抜いた、という感想は全く持てません。いったいどこをどう読んだらそういう感想になるのか。だって、著者の母親がモデルという主人公の万亀(まき)は、大事な人生の岐路においてことごとく状況に流され、間違った選択をしています。そして後からそれをうじうじと悩み、あげくは時代のせいにする。物語の後半、戦火が激しくなってからは確かに厳しい生活苦に見舞われますが、それ以前の生活はどちらかといえばめぐまれている部類に入るでしょう。なのに、そこでも道を誤ってしまう。彼女がどんどん不幸になっていくのは時代のせいなんかじゃなく、ひとえに彼女の判断力、行動力のなさによるものです。

 この本を読んで感じたポイントは大きく分けて2つあります。一つ目は、自分の頭でちゃんと考え、それに基づいた行動をしましょう、ということ。つまり、そうしなかった主人公はご覧のとおり不幸な人生を送っているわけです。自分の希望があるにもかかわらず、誰かにこうしなさいと言われれば、あっけなく従ってしまう。元から自分もそうしたかったのだとさえ思ってしまう。そして後からじわじわと後悔が沸いてくる。自分の人生は自分のために生きるべきなのに、その責任を他に転嫁してしまう。ゆえに彼女は常に不満を抱えて暮らしています。
 この点で最も許し難い箇所は、自分の子供を死なせてしまうところ。子供の容態が悪くなり、芙美(万亀の母親)は必死で奔走しているにもかかわらず、万亀はたいして動こうとしない。あげく、ああお母さんはすごいなあと眺めている。お前が必死になって動け!

 ポイントのもう一つは、家族からの“愛情”という名のおせっかいが、どれだけ悪い影響を及ぼすかという点。しっかり者という性格で描かれる母親の芙美は、万亀にとって大切なことを勝手に決め、それを押しつけます。しかも、あなたのためを思って言っているのよ、と言わんばかりに、それが親から子への愛情なのだと思いこんでいる。自分がいかに非道いことをしているか考えようともしない。親の愛情とは、子供を受け入れることです。子供が何をしようともそれを信頼し、認めてあげることです。なのに芙美は、自分の考えを子供に押しつける。そうして万亀は、自分で物を考えず、決められず、なんでも他人任せにする人間に育ってしまう。こんなの愛情だとは僕は認めません。

 ここまで書いてきて気づきました。この小説をひとことで言い表すとこうなります。
 “親が子供の自我を奪い取り、結果、子供が不幸になるお話。”

 僕はこの小説を読みながら、ずっとイライラと怒りを感じ続けました。そう感じさせるのは小説の力ですので、否定するつもりはありません。ただ、「ナイン・ストーリーズ」などの素晴らしい小説を読んだあとでは、技法的に圧倒的な差を感じてしまいます。本書を読んでいると、なんだかずっとあらすじを読んでいるような気になってしまいます。描写ではなく説明で筋が進んでいくからです。しかもときおり、「てにをは」に難がある文章が出てきたりして、また眉をひそめてしまいます。
2008年 6月 「ホラーハウス社会/芹沢一也」 (講談社・新書)
本書には、「法を犯した『少年』と『異常者』たち」というサブタイトルが付いています。少年犯罪および精神異常者による犯罪について書かれた良書です。

 少年による凶悪犯罪が増えている――。よく聞く話ですが、これがまったくのデタラメであることもまたよく言われることです。統計によると、少年による殺人事件の検挙者がピークを迎えるのは1951年と61年であり、その数は300〜400人でした。これが、1970年には200人、1975年以降は100人前後で推移しています。つまり、ピーク時と比較して、ここ30年、殺人を犯した少年の数は4分の1以下に激減したというのが実状です。なのに近年は、凶悪少年犯罪が増えている、少年法を改正せよ、との風潮が主流を占め、ついに2000年に法改正されるに至ります。

 著者によれば、ターニングポイントは1993年の「山形マット死事件」だといいます。7人の少年が同級生を体操マットに巻き付けて殺した。7人は逮捕されたものの、様々な経緯のすえ、7人全員が犯行を否認します。その過程で2つの問題点が明らかになりました。一つは、審判のあいまいさです。なんと、少年審判には検察官が出席しないのです。つまり、事実を究明する立場の者がおらず、被告を弁護する弁護士と裁判官だけで審判が下されるのです。そして、たとえそこで有罪とされたとしても刑務所には送られず、少年院などの矯正施設に送られ、数年で社会に戻ってくる。
 そもそも刑法には、犯罪の真相を究明し、犯した罪に応じた罰を与え、その償いをさせるという意味と、犯罪者を矯正し、社会復帰をさせ、再犯を防止するという2つの意味があります。少年審判においては前者の意味あいは薄く、犯罪を犯した少年の矯正というところに重点が置かれており、犯罪の真相を探るという点がおろそかにされていくのです。
 もう一つの問題点は、審判過程の秘密性です。少年事件では、少年の将来性をおもんぱかるため、審判は非公開とされます。被害者の家族でさえ、裁判の様子を知ることはできません。つまり、大切な我が子を殺された親は、事件が正しく解明されることもなく、どういった裁判がおこなわれるかを知ることもできないという、二重の理不尽な仕打ちを受けることとなるのです。

 「山形マット死事件」でこうした問題点が指摘され、少年法改正への声が高まるなか、追い打ちをかけるように1997年、酒鬼薔薇事件が起きました。さらには2000年、17歳の少年が立て続けに起こした主婦殺害事件、西鉄バスジャック事件などが世間の注目を浴び、世論の方向は定まりました。それまでの、少年を保護し、犯罪を犯した者に教育を施して社会復帰をさせようとする社会から、凶悪犯罪を犯した少年には厳罰を与え、排除しようとする社会に変わったのです。
 少年犯罪と同様、精神異常者による犯罪についても同様のことが言えます。かつて、精神病院が作られたときのコンセプトは、精神に病を負った者を治療し、社会復帰をさせるというものでした。それが近年、異常者を隔離するための施設となっているのが実態です。

 少年にせよ精神異常者にせよ、通常の人間と異なるものを排除し、さらにはそうした異常者の予備軍まで見つけ出し隔離する。そうした社会のことを著者は「ホラーハウス社会」と名付け、警鐘を鳴らしています。確かにこれまでの少年法、また、精神異常者への対処には問題があった。ただ、現状のように、なにか怪しい者がいれば即座に排除しようとするやり方にも大いに問題があるのではないかということです。

 なかなかにダイナミックな論述が見られる本です。多くの示唆に富み、多面的な考え方の大事さを実感させられる本です。
2008年 6月 「斜陽/太宰治」 (新潮社・文庫)
上に書評を載せた「本を読む女/林真理子」に本作の内容が紹介されており、約10年ぶりに再読しました。有名な出だしのところから読者の心をわしづかみにし、そのまま最後まで読み進まざるを得ません。これはすさまじい文学なのだけれど、今回気づいたのは、文体の多彩さでした。かず子という女性の一人称語りなのですが、実に自由奔放な語り口なのです。前に読んだ「走れメロス」(書評はこちら)に併録されていた「女生徒」もそうでしたが、太宰の書く女性の一人称形式は本当にうまいと思います。良い文学というのは、実はどんな風にしても書けるんだなあと感心させられます。文量もすくなく、たいへん読みやすい一篇ですので、すべての人にお勧めの作品です。
小栗左多里さん著作のベストセラー漫画「ダーリンは外国人」は、2巻とも買って楽しく読みました。本書は、その小栗さんの“ダーリン”であるトニーさんによるエッセイ集です。

 博学のトニーさんらしく、さまざまな国の格言やことわざを引用しながら、日常生活で思うことがつづられます。ちょっとあまりにも真面目すぎて、というか考え方がまっすぐすぎて面白みに欠けるきらいがありますが、後半でいくつか共感できる部分がありました。

 「自立してから結ばれよう」という章で、たとえば結婚して二人の男女が共に暮らしはじめる場合、一人一人が自立してからのほうがよい、という主張が語られます。「人」という字のようにお互いが助け合ってやっと一人前、という考えに疑問を呈していて、どうせなら半分+半分=1、という関係より、1+1=2、の関係でありたい、というのです。
 僕もその考えに大賛成です。二人で50%ずつの力を出して100%とするなら、僕は一人で100%の力を出して、一人で生きていく道を選びます。でも、一人だとどう頑張っても100%しかできないところを、二人なら200%にすることができる、だからこそ一緒にいる意味があるんだといつも思っています。

 「『黄金律』より『黄金判断力』」の章も面白かったです。人からしてもらいたいことを人にしなさい、という黄金律が常識的には正しいとされているが、本当にそうなのか、というもの。これも僕がいつも思っていることにぴったり当てはまります。世の中に非常に多い、「余計なお世話」というものですね。とある劇作家の興味深い言葉が引用されています。「自分が人からしてもらいたいことは、決して人にするな。趣味が違うかもしれないから」。

 「私の幸せ、あなたの幸せ」という章も素晴らしい。人に何かをしてあげようというなら、まず自分がしっかりしてなくてはならない。たとえば自分の小さな子供と飛行機に乗っていて、気圧が激減して天井から酸素マスクが降りてきたらどうするか。自分のことより先に子供に酸素マスクをかぶせてあげる、という人が多いと思われるが、これは違う。まずは自分の酸素マスクをしっかり装着してから、子供の面倒をみるのがよい。これは機内で流れる安全ビデオでも推奨されていることで、要するに子供のほうを優先させた親が途中で意識を失ってしまったら、親子ともども助からなくなるからだ。
 「滅私奉公」という言葉があり、自分を完全に犠牲にして相手につくすことが礼賛される風潮があるが、完全に自分をなくしてしまったら、相手に与えるものも何もなくなってしまうではないか、そんなこともトニーさんは書いている。非常に共感できる考え方だ。僕は常々、人に何かをしてあげる前に、しっかり自分自身を見つめなければならない、と思っている。そして、そのうえで人に何ができるかを考える。人は、自分を通してしか物事を見つめることはできないからだ。
2008年 5月 「生物と無生物のあいだ/福岡伸一」 (講談社・新書)
めちゃくちゃ面白いでっす! 久々の満点をつけてしまいました。
 ベストセラーだということで最初は眉唾で読み始めたのですが、いやー、読み止まらない。様々なものがこの本には詰まっています。分子生物学の歴史、それにまつわる人間ドラマ、著者の来歴や成長過程。それらが絶妙に配置され、巧みな筆さばきによってドラマティックな議論が展開される。行き着く先に大きくそびえたつテーマは、「生命とは何か」です。この至高の問いに、著者は答えを明示しています。もちろん仮説です。しかし僕はこの答えに深く納得しました。

 誰にでも読める、というふれこみはおそらく正しいのでしょうが、生物学にまったく知識や興味のない方が読んでどうかというのはなんともいえません。読みやすく書かれてはいますが、難しい箇所がまったくないわけではないのです。それでも僕はこの本を、万人におすすめします。

 本書のクライマックスは、中盤を過ぎたあたりで訪れます。驚くべきキーワードが提示されるのです。

 “秩序は守られるために絶え間なく壊されなければならない。”

 そしてその直後、著者が示した「生命とは何か」の答えはこうです。

 “――生命とは動的平衡にある流れである。”

 上記の2文だけでは何も理解できないでしょう。
 気になる方は是非読んでみてください。
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン82冊目。
 サリンジャーといえば「ライ麦畑でつかまえて」が有名ですが、僕はこれを社会人になりたての頃に読みました。何もしないでぐだぐだ文句ばっかり言ってる主人公にぜんぜん共感できず、くわえて僕の会社に同じように文句ばっかりの奴がいてそいつにそっくりだったのもあって、あまり印象が良くなかったのを覚えています。もちろんこれは、そうした時期と状況にある思春期の男の子を描く話であり、それを見事に表現した作者に喝采をおくるべきなのでしょうが、当時の僕には本作の良さがわかりませんでした。

 そしてこの「ナイン・ストーリーズ」ですが、いや見事な短編集ですね。本来なら5点満点でもいいくらいですが、マイナス1点は僕の読解力のなさです。
 「ライ麦〜」のようなひねくれた感じはありません。題名どおり9編の短編が収録されており、最初の「バナナフィッシュにうってつけの日」と最後の「テディ」には衝撃の展開がありますが、それ以外の7作については大きなドラマ性はなく、日常を生きる人々の生活が描かれるだけです。ただ、どんな平凡な人間にも考え方や行動様式に独特の癖があるもので、そのあたりを絶妙に突いてくるんですね。

 とにかく描写の正確さに驚かされます。しかも単調な説明ではなく、五感を駆使し、動きの中で実にスムーズに人物像や風景が頭の中に入ってきます。大部分の作品は会話が主体で形成されていて、会話の仕方からその人の性格や相手との関係性がじわりと浮かんでくる。その仕組みも素晴らしい。サリンジャーは天才的に書き殴るタイプの作家ではなく、小説修行をたくさんしたようです。だからこその研ぎ澄まされ、計算しつくされた構成なのでしょう。

 ミステリーのようなドラマ性を求める方には、すこし読みづらいかもしれません。僕もそうでしたが、中盤の「笑い男」で引き込まれた後、「エズミに捧ぐ」では冒頭3ページほどで主人公の来歴や性格などが見事に表現されているのを見て感心させられました。とある学校に絵画の講師として雇われた男の生活を描く「ド・ドーミエ= スミスの青の時代」も、めっぽう面白いです。
2008年 5月 「食品の裏側/安部司」 (東洋経新報社・単行本)
“知れば怖くて食べられない”と帯には書かれています。これは、市販の食品がいかに食品添加物に侵されているかを紹介した本です。加工食品には必ずといっていいほど添加物が使われており、しかもその量は我々の想像するよりはるかに多いのです。なかには“添えもの”どころか、クズ食材を添加物によって食品らしく仕立てたものが堂々と売られているケースさえあります。

 著者は以前、食品添加物の商社に勤務し、添加物の神様とあがめられるほどのトップセールスマンだったそうです。そもそも何故添加物が使われるのか。理由にはさまざまあって、保存性を高めたり見栄えをよくしたりするだけではなく、食感を出すため、さらには工場の型抜きの際にはがれやすくするためなど、多岐に渡ります。著者はセールスマン時代、顧客のニーズに合わせて添加物を処方し、問題を解決していくことが面白くてたまらなかった、強い使命感を感じていたといいます。

 しかし、「ミートボール事件」を機に、事態は一変します。クズ肉に大量の添加物を加え、非常に安価なミートボールを作る仕事に彼は関わっていました。ある日、同じ製品が自宅の食卓にならび、子供が美味しそうにそれを食べていたのを見て、彼は驚き、子供の手からその製品を奪い取りました。「こんなものは食べちゃ駄目だ!」とっさに彼はそう叫びました。この時初めて、自分は製品を作る立場にあると同時に、それを食べる消費者でもあるのだと気づくのです。そして消費者側に立った時、自分自身はもちろん、妻や子供にもこんなものは食べさせたくない、そう思ったのです。著者は翌日、会社に辞表を提出しました。

 食品添加物の毒性を検証し、警鐘を鳴らす本は多数ありますが、それでは何故そうした危険な添加物が使用されるのかについてはほとんど触れられていません。本書ではそのあたり、食品加工現場の状況が如実に記されています。いっぽう、添加物が何故いけないのか、どういう毒性があるのかについてはほとんど述べられていないのが残念ではあります。ただ、著者は本書を、添加物にほとんど興味のない人向けに書いたものだと思いますので、もう一歩先をと考える読者はまた別の類似書を手にして更に知識を深めていけばよいのです。食品添加物に関する書物として、本書は大きな意義を持つものだと思います。
2008年 4月 「口笛をふく時/遠藤周作」 (講談社・文庫)
久しぶりの遠藤周作作品。しかも、僕が初めて読んだ遠藤作品がこの本だったのでした。そのころ僕は大学生で、当時の友人が、これ読みやすいから読んでみたらと貸してくれたのがきっかけでした。講談社文庫というのはフォントがすごく読みやすく、内容にも大いに共感して一気に読破したのを覚えています。以来、遠藤周作ファンになり、ずっと読み続けてきました。

 本作はその後絶版となり、普通に本屋さんで目にすることはなくなりました。数年ぐらい前にふと読み返してみたい衝動に駆られ、ブックオフなどで探していたら、最近ようやく入手することができました。内容はほとんど忘れていましたが、戦争世代の父親と戦後世代の息子との断絶が大きなテーマだったことだけはうっすらと覚えていました。

 さて、そこで感想はというと、久しぶりに読んだ懐かしさはあったものの、期待したほど心を動かされることはなかったのです。遠藤さんの小説やエッセイを読み続けて思うことは、あまりにも物事を簡単に決めつけてしまう傾向にあることです。本作についても、戦中世代の父親は人の弱さや優しさに関心があって情緒的、戦後世代の息子は人の心を顧みることはなくすべてを合理的かつ功利的に処理していくものだと、あまりにも単純に描いています。現実というものはそんなに簡単に白黒つくものじゃないはずです。遠藤さんは他の著作でも、西洋人と日本人、男と女、若者と年寄り、など、二者を対立させてこっちはマルでこっちはバツ、というような言い方をしています。どうもこのあたりが納得いかないのです。戦中世代にだってずるいところはあるでしょうし、戦後世代にだって人に対する思いやりがゼロではない。そしてそれは人によってまったく異なりますし、同じ人間だって時と場合によって考え方は様々に変化します。

 もうひとつ、遠藤氏の小説作品で気になるのは、伝えたいメッセージをあまりにもあからさまに書いてしまうことです。上に書いたような内容をそのまま文章にしてしまう。また、登場人物の台詞として書いてしまう。エッセイやドキュメンタリーなどと違い小説というのは、直截的にメッセージを書くのではなく、長い物語の中で、それを読み終えたあとでじわっと浮かび上がるものだと思うのです。

 ほかにも、視点人物がころころと変わることで感情移入しづらくなっている点、日本語としてあまりよろしくない文章がいくつか出てくる点など、瑕疵が目立つ作品です。それでもやはり、遠藤氏の小説家としてのテーマがぎっしりここには詰まっています。遠藤文学の入門編として適している作品なのは間違いないでしょう。
裁判傍聴記。タイトルにつられて買ってはみたものの、これは駄目ですね。裁判を傍聴する方法や裁判の実態がどういうものかについては、これを読むとある程度はわかりますが、ただそれだけの本です。傍聴歴が浅いためネタに乏しく、掘り下げ方もまるでなってない。三流ライターの書いた三流本。
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン81冊目。残り19冊となりました。
 昨年、ヘップバーン主演の同作映画を見ましたが、世評の割にはあまり楽しめませんでした。映画は原作の設定・内容をある程度踏襲しているものの、大きな違いがいくつかあります。最たるものはラストシーンで、原作ではホリーが〈私〉のもとを離れてブラジルへ渡り、その後アフリカを放浪するのに対し、映画では〈私〉と結ばれることになります。これに原作者のカポーティは激怒したそうです。

 今回、原作を読んではみたものの、うーん、こちらもそれほどのめりこむことはできませんでした。いろんな書評を読んでみると、主人公ホリーの奔放な生き方に惹かれる、という意見が圧倒的に多いのですが、僕が読んだかぎり、そこには賢さとか筋の通った潔さなどは感じられず、ただ無茶苦茶をやっているだけにしか思えませんでした。

 訳もあまりいいとは思えません。巻末に訳者の解説がありますが、ここで文章が上手でないことがわかってしまいます。村上春樹氏の訳した新刊が最近出たようなので、そちらを読むと評価が変わるかもしれません。
 ちなみにこの解説においても、原作と映画との違いに言及されており、かなり映画の出来に批判的な意見が書かれています。

 本作は短編集であり、表題作以外に3作品が収録されています。これらのうち、「クリスマスの思い出」という小品が気に入りました。7歳の少年の目から見た、年老いた従姉との生活を描いた作品です。「ティファニーで朝食を」とはまったく異なる作風ですが、解説によると、「ティファニーで〜」のほうがカポーティにとって異色作と言えるようです。翻訳も、本作については生き生きとしていて、全文が「〜しています」「〜です」などのですます調現在形なのも、作品世界に合っていると思います。

(注)グレー部分はネタバレ気味です。マウスでドラッグして表示させて下さい。
「ティファニーで朝食を」に併載されていた「クリスマスの思い出」の姉妹作品であり、たまたま手元にあったので読んでみました。共にクリスマスのひとときについて語られるお話なのですが、「クリスマスの思い出」は年老いた従姉との楽しい経験が語られるのに対し、こちらは離れて暮らしている父親との、言ってみればいやな体験を描いた作品です。(最後にフォローがあるので、それほど暗い話ではありませんが。)

 こちらは村上春樹氏の翻訳で、さすがにいい味を出していますね。文章は非常に簡素でありながら、的確な言葉を選び、並べていく。子供の視点から見た世界ですので、難しい言葉は使えない。それでいながら、微妙な感情の揺れ、親子の関係性の機微などが実にうまく表されていると思います。

 著者のカポーティは、本作は「クリスマスの思い出」の裏返しなんだ、という意味のことを語ったそうです。確かに二作を並べて読んでみるのは意義深いことだと思います。僕も、村上訳で「クリスマスの思い出」のほうを読んでみたいと思います。
以前に読んだ同著者の「出すと病気は必ず治る」(感想はこちら)と、かなり似通った内容ですので、どちらか一方を読めば足りるように思います。違う点を挙げるなら、食事法、運動法、薬を使わずに病気の諸症状を治療するやり方などが詳細に書かれていること、それから著者のやり方で実際に病気が良くなった実例が紹介されていること、ぐらいでしょうか。

 前著を読んだ時にも思ったのですが、著者の石原先生のおっしゃることについては、その根拠に乏しいのが難点だと思います。「病気にならない生き方」(感想はこちら)の新谷先生の場合、30万例以上の胃腸を内視鏡で診察し、その膨大な臨床結果からの意見という説得力があります。「病気にならない人は知っている」(感想はこちら)のケヴィン・トルドー氏の場合は、自身が難病にかかったあと、20年間にわたり全米50州と世界各地を訪れ、500万マイル以上の旅をする中で、健康や医療に携わる数千人の専門家・関係者や、薬や手術で治らない病気を自然療法で治した経験を持つ数万人の人々の話を聞き、独自の理論を形づくってきたという点でやはり説得力があります。
 ところがこの石原先生についてはそうした素地がないため、信憑性に欠ける印象があります。水のとりすぎを批判している点、「相似の理論」なども、首をかしげてしまいます。
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン80冊目。残り20冊です。
 「羊をめぐる冒険」(2002年8月の感想)を読み終えたとき、僕はこの作家は苦手だなあと感じました。そして今回、短編ならどうなのかと読み始めましたが、最初の「蛍」はなかなか好感触でした。「納屋を焼く」も悪くない。スカした会話文は鼻につくけれど許容範囲、そう思って読んでいると「踊る小人」で我慢の限度に近づき、「めくらやなぎと眠る女」の前半で挫折しかけました。それでも登り坂を登り切ったように、後はすんなり読めました。

 全作を読み終わっての感想は、悪くはありません。なんとなくこの作家の特性がわかった気がします。長編一作と本作を読んだ限りで作者を語るのは早いと思われるかもしれませんが、それでもあえて言います。村上春樹という人は多彩な文章芸を見せるタイプの作家ではなく、どこまでも村上春樹節を奏で続ける人なのだろうと思います。
 何気ない日常を淡々とつづるその中にぽんと非日常を突っ込むのは、単なるテクニックに過ぎません。それは主に、主人公の友人知人の死という形で訪れます。「納屋を焼く」では、放火という犯罪でした。そこで日常と非日常、正常と異常という対比が生まれ、物語に深みができて読者の感情を微妙に揺らします。

 もうひとつ気づいたのは、物語に登場する小道具やエピソードが、すこしずつずれたタイミングで再登場することです。これにより、文章に淡い幻影がともない、なんともいえない綾を生み出します。それがとりもなおさず主人公の思考形態を表しているのだと思います。つまり、一つのことを深く考えるというよりも、いろんな物事が現れては消えていき、また波のように戻ってくる。理屈の通ったものよりもむしろ抽象的で無意味なことが無関連に連続して登場するのが、人の思考なのだというわけです。小説にはそれがそのまま文章として表れます。だから、理に落ちない箇所がいくつも出てきては消えていく。そこは無理に理解しようとしてもできない。作者も理解させようとは思っておらず、作者自身さえ理屈立てできない記述なのです。だから読む側も固執することなく、ゆったりした文章の流れと雰囲気に身を任すのがよいのだと思います。そうでなければ、とくに「踊る小人」などはとても読めません。

 ただ、文章ひとつひとつを取ってみると、意外に硬いというか、お手本どおりなんですね。他の純文学作家のように文法規則にあえて逆らうことで効果を出すようなことはありません。一文一文は清く正しく、真面目な文章なのです。なのに一つの作品を読み通してみると、確実に村上春樹節を奏でる文体が浮き上がってくる。これは非常に高度な技だということが言えると思います。

 最後に収められている「三つのドイツ幻想」は、とても短いながら、上記の特性が見事に発揮された好編です。これにより、この短編集がとても引き締まったものになっています。
2008年 1月 「病気にならない生き方2 実践編/新谷弘実」 (サンマーク出版・単行本)
1年前に読んだ一作目が素晴らしかったので、続編である本書を手に取りました。が、中身はほとんど前作の焼き直しでした。実践編ということで、食事内容や日々の生活についてより詳しく説明されているのかと期待していましたが、そうした内容はごくわずかでした。一作目を読めば、本書を読む必要はないと思います。
 ただ、最後のまとめのあたりにあった、体はこれまでの人生の集大成であり、幸福感と感謝の念を持つこと、という考えには賛成です。一人の人間は単なる個体ではなく、体中の細菌類と共に共生している命の集合体なのだと思います。おごることなく、共生している仲間の一員として自分の体をいたわることは、非常に大切なことだと思います。
2008年 1月 「狭き門/ジッド」 (新潮社・文庫)
恋愛小説であり、心理小説であり、キリスト教文学であると言うこともできるでしょう。とくにキリスト教に関する部分で、日本人にはかなりわかりづらい内容になっていると思います。訳文も、まわりくどい敬語表現があったり、英文直訳的に感じられる表現が頻出したりと、平易ながらも読みづらさを感じることがありました。

 病弱な青年ジェロームは従姉のアリサと思い合うようになるが、純粋な愛をはぐくもうとするジェロームに対し、アリサはつれない態度をとります。それは恋の駆け引きや、思春期の女性特有の無邪気さから来る残酷などといったものではありません。彼女は母親の不倫を経験し、不徳なものに対する強い拒否感から、神に対する徳行というものを何より重く感じています。神への徳、無償の愛、そのためならば自分の幸福さえ投げ打ってしまう。それゆえ、ジェロームからの愛を喜ばしく思いながらも避けるようになります。これがジェロームにはわからないし、読んでいるこちらにもわからない。自らの幸福さえ求めない神への奉仕とは何なのか。それは機械的、盲目的な作業にさえ思えてしまいます。

 作者のジッドは、ニーチェに傾倒していたようです。アリサの行動にはなるほど、虚無主義的な面が強く感じられます。
 このあたり、巻末の解説で素晴らしい解釈がなされています。――アリサの行為には何の目的もなく何の効果もない。彼女は、人は幸福のために作られていないと信ずる。人の世に幸福を求めない彼女は、どこにそれを求めるのか。どこにも求めない。天上の大歓喜に浸ろうともしない。犠牲の喜びさえ感じようとしない。彼女は当てもなく身を鞭打って苦しむ――。

 巻末には、訳者を含め数人の手による文章が載せられていますが、とくに、1923年に書かれた石川淳氏の「跋(ばつ)」という文章が素晴らしいです。

 本作品に出会えて、なんだかとても嬉しく思います。読んでいる途中はよくわからなかったものが、解説まで通して読んでみていろんなことがわかってきます。これは何度か読み返す作品になるかもしれません。
 僕の大好きな遠藤周作さんもジッドはかなり読み込んだようで、氏の著作「恋愛とは何か」の中にも、本作品について長く言及する箇所があります。
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン79冊目。素直に、「面白かった」と言える本でした。タイトルは誰でも知っているでしょうし、少年少女時代に読んだ方も多いでしょう。逆に、子供時代に読まなかった人は、いまさら手にしようと思わないかもしれませんが、それはもったいない。大人が読んでも十分に楽しめる内容です。著者自身、元々は大人のために書いた作品だとおっしゃっているそうです。

 やんちゃな少年トム・ソーヤーと彼の友人たちの日常が描かれ、その大半は他愛もないものです。しかしその中に、子供特有の残酷さ、単純さ、くだらなさなどが、大人である著者のどっしり落ち着いた視線から描かれています。ですので、トム・ソーヤーがいくら馬鹿馬鹿しいことをしでかしたり、ありえないほど予定調和な展開が訪れても、読んでいるほうが馬鹿馬鹿しい気分になることはありません。そのあたり、児童文学やライトノベルを読む感覚とはまったく異なります。

 後半は、友人の一人、ハックルベリイ・フィンとの大冒険で盛り上がりを見せます。終わり方もなかなかさわやかで、続編となる「ハックリベリイ・フィンの冒険」も読みたくなります。
 僕は、記憶はさだかではないのですが、子供時代に本作を読んだことはなかったと思います。そのかわり、小学校時代に、「アーサー王と会った男」という作品を読んだことがあって、これがべらぼうに面白かった記憶があります。さらに、中学時代に、ヤンキーのなんとかという題名の本を図書館で借りてきて、読んでみたら「アーサー王と会った男」と同じ作品だった、ということもありました。ネットで調べるとやはりこの作品は人気があるようで、ものすごく読みたくなってしまいました。現在、「アーサー王宮のヤンキー」とか「アーサー王宮廷のコネチカット・ヤンキー」という題名で販売されているようです。