■ 2018年に読んだ本
  
2018年12月 「恋するフェルメール/有吉玉青」 (講談社・文庫)
フェルメールの全作品を世界に訪ね歩く旅エッセイ。美術鑑賞の手引きというより、自分がどれだけフェルメールを好きなのか、タイトルどおりフェルメールに恋をした少女のように、思いを書き綴っている。「結局絵画の良さなど言葉にできないものだから、絵を見た時の自分の気持ちで表現するしかない」という姿勢は、純粋な美術ファンには不評のようだが、僕は気楽に読める美術エッセイとして、また同じくフェルメールのファンとして、じゅうぶん楽しく読ませてもらった。やっぱり、「牛乳を注ぐ女」が最高だよね。
2018年12月 「クリエイティヴ脚本術/ジェームス・ボネット」 (フィルムアート社・単行本)
脚本などのフィクションを創作するための指南書、ということで手にとってみたら、かなり学術的な内容なのでたじろぐ。学術書というには大袈裟だが、出てくる用語が「アーキタイプ」「ストーリーホイール」「シュガーコート」など馴染みのないものばかりで、説明の図もさっぱり理解できない。流し読みしながら、物語を作るというのはこういうものなのかなあと、なんとなく納得できるところだけを拾っていった感じ。読むには相当に気合いのいる本。しかしこれ、本当に役立つのかなという疑問もあるのだが。
2018年12月 「コンビニ人間/村田 沙耶香」 (文藝春秋・文庫)
読書会の課題本だったので、二回通して読んだ。2016年の芥川賞受賞作であり、ものすごく大雑把に言えば、現代の純文学ではこういう作品が評価されていると思ってよいだろう。
 主人公は、コンビニでアルバイト店員として働く古倉恵子。彼女はコンビニでの勤務以外に何も喜びを見いだせないため、三十代になっても結婚もせずバイト生活を続けている。家族をはじめ周りは奇異な目で彼女を見ているが、彼女自身はとくに苦にも思っていない。
 最初は、古倉に対し、なぜそうなるの、なぜそう思うの、という疑問だらけで読み進め、しばらくすると彼女なりの理屈がなんとなくわかってくる。彼女が周囲の人を理解できず、それでもなんとか合わせて生きていこうとする様子は、まるで異星人もの、ロボットものSFを読む感覚だった。人からいびつに見られようと、本人が幸せならそれでいい、普通の人ほど歪んでいるのだ、とある程度は納得させられる。どんな仕事でも工夫次第でやりがいは見つかるし、どんな仕事でも不平を並べることはできる。好きな仕事に打ち込んでいるならそれでいいだろう、どんな人にも居場所はあっていいはずだ、という気になってくる。
 ただ、二回目に読んでみると、さほど真新しい考え方でもないという気がした。本を読むからには、なにか自分の価値観や固定観念を揺さぶってほしいから、その点で不満は残った。同時に、やはりこの女性は幸せになる方法を会得できていないのだと思ってしまう。どれほど自分と違う生き方であっても、幸せな人には輝きがある。この古倉という人にはそれが感じられないのだ。
 また、小説の出来としては、白羽やバーベキューの知人など、ちょっと極端に都合良くオーバーに描き過ぎだという印象を受けた。
2018年12月 「誰でもない/ファン・ジョンウン」 (晶文社・単行本)
ファン・ジョンウンという“腫れ物”に初めて触れ、打ちのめされた。派手に表出しない暴力性が、それでも確かに存在する空気感として伝わってくる。朝鮮戦争、失郷民、IMF危機。全てをそうした事情では済ませられないだろうが、知ることは重要だ。異国の文学を読む意義を充分に感じさせてくれる
 収録八編のうち、置きにいった作品は一つもなく、息継ぐ暇さえ与えてくれない。冒頭の「上京」、それから三作目に置かれた「上流には猛禽類」はいずれも韓国特有の格差社会での戸惑いを描いたもので、馴染みはないものの強く興味をそそられる。もしもこれらが地味で読みづらいという人には、「ヤンの未来」が映画的でキャッチーだからここから読むのもいいかもしれない。その他、大事な人への思いをノートに綴る「ミョンシル」、常に笑っている女性に秘められた思いを描いて哀しい「わらわい」など、まさに全作お勧め作品のオンパレード。「笑う男」に出てくる交通事故に遭った男が、意識があって会話もしているのに、頭がどんどんふくらんでくるという異様さも忘れがたい。
 一見地味な描写をたどっていった先で放たれる一撃の鋭さに撃ち抜かれる。オリジナルアルバムにしてベストアルバムといえる、大傑作。短編集としては僕の2018年ベスト。いや、オールタイムベストかも。
2018年11月 「堆塵館/エドワード・ケアリー」 (東京創元社・単行本)
時間ができたのを機に、アイアマンガー三部作を読み通すことを決意。一作目の本作だけは再読で、展開はぜんぶ知っているはずなのに、それでも驚愕の展開に興奮し、存分に楽しむことができた。冒険エンタテインメントとしてほぼ完璧なのではないか。緻密に構築された、こうした異世界小説を初めて読む人だと、ごみ屋敷の歴史、アイアマンガー一族や誕生の品など、導入となる説明に少々戸惑うかもしれない。それでも、難しい内容はまったくないので、読み進めれば子供から大人まで誰にでも楽しめる内容だと思う。そして本作のラストで世界はひっくり返り、次巻へと続く。もうすぐに次を読まないと気が済まなくなる。
2018年11月 「穢れの町/エドワード・ケアリー」 (東京創元社・単行本)
一作目『堆塵館』を最初に読んでから2年が経過し、ようやく続きを読むことができた。クロッドとルーシーはいったん物語から姿を消すのかと思いきや、そうでもなかった。舞台は堆塵館からルーシーの故郷、フィルチングへと移り、新しいキャラもどんどんと加わっていく。話はどんどんスケールを増していくばかり。そしてふたたび、どうなるのか、というところで次巻へつづく。うぎゃあ! これを刊行直後に読んだ人は、待ち遠し過ぎて何人か死んだに違いない。
2018年11月 「肺都/エドワード・ケアリー」 (東京創元社・単行本)
三部作の、遂にこれが完結編。舞台は大都会ロンドンに移る。個人的にロンドンは何度も訪れた大好きな街なので、知っている地名が出てくるたびに興奮して楽しく読んだ。終盤ではヴィクトリア女王まで登場し、この物語に巻き込まれていく。史実を元にしたフィクションとして、心躍る内容になっている。全体を通して、やや話を広げすぎた印象はあるけれど、この壮大な物語を見事に収めてみせた著者の力量に感服。楽しい時間をありがとうと言いたい。
2018年10月 「ネバーホーム/レアード・ハント」 (朝日新聞出版・単行本)
既訳の『優しい鬼』『インディアナ、インディアナ』がいずれも傑作だったレアード・ハントの、待望の新訳。前2作同様、舞台はアメリカ南部で、南北戦争に参加した一人の兵士の物語だ。
 冒頭の一文に、〈わたしはつよくてあのひとはつよくなかったから、わたしが国をまもりに戦争に行った〉とある。〈あのひと〉とは、夫のことだ。病弱な夫の替わりに、妻である彼女が男装して〈アッシュ〉と名乗り、戦場に紛れ込んでいるのだ。
 彼女は射撃の腕前や戦場での行動において、男勝りの能力を見せる。戦場では誰もが加害者となり、被害者にもなる。被害者として彼女が遭遇する状況も苛烈だが、加害者として経験することも相当にきつい。僕が特に胸を衝かれたのは、戦線から離れて敵方の一般人と遭遇する場面。そこでは戦闘は起こらないのだが、彼らはアッシュに、「あなたの話を聞かせてくれ」とねだる。「あんたたちがあたしらをひとりのこらず殺すっていう話、もういちど聞かせてよ」と迫るのだ。皮肉というかなんというか、戦争という異常な事態においては、想像もつかない世界が口を開けている。そしてラストも相当にハードだ。読む者は心してかかる必要がある。胸に突き刺さるような一作。
ミステリー小説は最近あまり読まないのだけれど、今年前半で本作の評判がものすごかったものだから、つい読んでしまった。そしてやはり、僕にはもうミステリ小説というものは必要ないのではと思った。
 最近は新潮クレストブックスなどの一般小説を読むのに慣れているせいか、冒頭の描写からしてくどくて説明的で、コテコテ感を覚えてしまった。しばらくしてそれに慣れると、ストーリーは面白いので引き込まれていく。驚愕の展開が2回ほどあり、確かにそこは驚くのだけれど、感動するほどではない。ラストに向けてその驚きさえ薄くなっていき、この先、Aの道かBの道か、と想像させた結果、Aだった、という、ほぼ先を見越せる展開になってしまう。
こうした自己啓発本は若い頃ならいくつか手を出したが、最近はほとんど読まなくなった。とはいえ興味がなくなったわけではない。今回、読書会の課題本になったのもあって読んでみた。
 まず思ったのは、これは啓発本というより科学解説書の体裁をとっているということ。つまり、ある実験をおこない、その結果から論を組み立てていく方式だ。紹介されている理論や方法論にはまずまず納得できるし、自分でも試してみたいとも思った。また、既に自分で実践している方法もいくつかあった。
 しかし、本書で紹介されている実験には首を傾げるものも多い。被験者が数十人レベルの実験もあり、そこから「人間とは〜だ」という結論を出されても困る。また、被験者の状況に左右されるだろうという実験もあって、そうした実験結果から単純に何かを導き出すことは無謀だ。また、実験結果から明確に導き出せる理論と、かなりそこから飛躍して出てきた理論とが混ざっており、さらには、後半になるに従い、単純な精神論・根性論のようになっていくのも気になった。
 本書の内容を一言でまとめれば、「自分にはこうなりたいという希望があるのに、なぜその通りに行動できないのか」に焦点をあて、希望する方向へと行動を変えていくための方法論だ。僕が実践しようと思った、あるいは既に実践していることをまとめれば下記の通り。

・ついやってしまうムダな行動について、それをしようと思い立った瞬間を意識する。/やる前に10分間待ってみる。/やってしまったあと、それが本当に自分を幸せにしたのかを考える。/誘惑するようなものを近くに置かない。
・集中力を高めるため、適度に運動し、よく眠ること。深呼吸や瞑想をすること。

 こうしたポイントは各章ごとに最後にまとめられており、読み返す時に非常に有用だと思った。また、本書が人間の面白さを伝える内容にもなっているというところにも惹かれた。この点でもっとも印象に残ったのは、保育園で子供のお迎えに遅れる人に対し、遅れたら罰金を課すようにしたところ、逆に遅れる人が増えた、というもの。お金を払うことで許された気になるのが実に人間臭い。
 こうして、やや首を傾げる内容はあるものの、(本はそもそも何でもそうだが、)内容のうちで自分が取り込める部分は取り込んでいけばいいのだと思う。全てが自分にピッタリ、なんて本などあり得ないし、もしあったとしたら逆に疑ったほうがよい。
戦場からの帰還兵数人について、帰還後の生活を丹念に追った渾身の一作。非常に重く苦しい内容だ。
 イラクやアフガニスタンに派兵された二百万人のうち、五十万人がPTSDあるいはTBI(外傷性脳損傷…実際に脳に損傷を受けて障害が残ること)に苦しんでいるという。それは帰還兵のみならずその家族を巻き込む。彼らの多くが家族に暴力をふるい、家庭を壊していくからだ。彼らの苦悩は簡単に解決できるものではない。こうした帰還兵を治療するシステムがアメリカにはいくつかあるらしいが、薬物治療がほとんどで、治らなければ似たような施設をたらい回しにされる。
 本書を読んで強く感じたのは、戦争とは、それが終結してからも何年、何十年に渡り、人々に害を及ぼすものだということ。帰還兵自身を蝕んだ災厄が暴力という形で家族にも影響を及ぼし、そうして育った子供達がまた似たような家庭を作るとすれば、いったいいつになったらこの苦しみの連鎖が終わるのだろうと気が重くなる。実際、帰還兵の治療施設には、イラクやアフガン戦争にくわえ、ベトナムからの帰還兵も混じっているのだ。だから、帰還兵をどう治療するのかということはもちろん大事だけれど、僕らはこうした書籍から、戦争がいかに理不尽で巨大な害を生むのかを肝に銘じなければならない。
イギリスの階級社会が色濃く残る1920年代。若いメイドのジェーンは、近くに住む貴族の息子ポールとの許されぬ関係を続けている。タイトルの「マザリング・サンデー」とは、年に一度、メイドが里帰りのための休日をもらえる日のこと。初めて聞く言葉だったが、それ以外に休みがないことにも驚かされた。
 1924年3月30日。この年のマザリング・サンデーが、ジェーンのその後の人生を形づくる決定的な一日となる。ジェーンはその後、偉大な作家となるのだが、何度もこの日の記憶に立ち戻っていくのだ。
 「人生を感じる」とか、「人生を味わう」ということは、すべて過去の記憶に思いを巡らすことだ。たった今起こったことでさえ、次の瞬間に過去になってしまうのだから、それらは全て、言ってしまえばあいまいな記憶の集合体でしかない。とすれば、「もしこうなっていたら」という可能性や夢想といったものさえ、本当にあった出来事の記憶とさほど違わないことになる。ならば、そうした夢想を含めて自分の人生と呼んでもいいのではないか、というのが本作の提案であり、なんだかとてつもない概念を突きつけられた気がする。人生のもう一つの扉を開けたら果てしない風景が広がっていた、みたいな感じ。
 160ページほどの文量で、平易な文章だから誰にでも読める。あらすじからすると若い女性の恋愛話みたいで、「だったら俺はいいや」と敬遠されそうだけど、51歳おっさんの僕が読んでも大いに感銘を受けた、今年一番の傑作。
ペンギン好きには惹かれるタイトルだし、文学的にもかなり評価が高い作品。前から気になっていたのをようやく読むことができた。
 主人公は、売れない小説家のヴィクトル。同棲相手が去っていった部屋で、一羽の皇帝ペンギンと暮らしている。彼は出版社から、生きている人の死亡記事を書いてくれと依頼される。死んだ時にすぐに掲載できるよう、そうした記事を溜めておくのだという。いい稼ぎにもなったので精を出して記事を書くが、あるとき、自分が記事にした人が現実に死亡し、新聞に掲載されるのを見て、怖れを覚える。やがて、死亡記事関連で知り合った男の娘ソーニャ、ソーニャのベビーシッターとして雇ったニーナの三人での生活が始まるのだが――。
 ペンギンが、脚色されずにただのペンギンとして登場するのがとてもいい。妙に擬人化されてたり、特別な能力を備えたりもしない。ただじっと佇み、たまに部屋から部屋に移動したり、食事をしたりするだけ。氷の張った湖にでかけると、正に水を得たように湖で泳ぎ、また戻ってくる。とりわけ愛嬌を振りまいてくれるわけでもないが、ごくたまにヴィクトルのひざにお腹を当てて、甘えるような素振りをするのもたまらない。とくに、幼いソーニャとペンギンを連れてピクニックに行く時、助手席に座ったヴィクトルが後部座席を振り向くと、ソーニャとペンギンがほぼ同じ背格好、というシーンがとても好きだ。
 ストーリーは波瀾万丈というほどではないけれど、少しずつ謎が深まっていき、ミステリー的要素も備えている。その中で、ヴィクトルの孤独や独立直後のウクライナの抱える閉塞感、危機感が滲み出てくる。ヴィクトルが、孤独なくせに疑似家族をさほど有り難く思っていないところもいい。読み進めていくと、彼の住むアパートの侘びしい空間やウクライナ全体の持つ空気感が、まさにそこにいるように感じられてくる。いつまでもこの世界に浸っていたいと思わせる作品。とても好きな小説になった。
2018年 8月 「二十歳の原点/高野悦子」 (新潮社・文庫)
再読だが、前に読んだのはもう18年も昔のこと。学生運動とは歴史として知ってはいたものの、こうまで学生の意識や生活に影響を与えたものなのかと、衝撃を受けた。今回読み直して感じたのは、人はどうやって自殺に至るのかというところ。周囲からすれば、なんでそんなことで、という理由で人は自殺をする。本人ですら、後から考えれば同じ思いを抱くはずだ。だからこそ、ほんの些細なことで救えもする。二十歳での自殺はどう考えても哀しい。
「アメリカ文学史の重要な分岐点となる傑作」と名高い作品だが、僕はまったく知らず、読書会の課題本になったのを機に読んでみた。オハイオ州にあるワインズバーグという架空の町が舞台の連作短編集。初読時には、悪くないけれど地味な物語だなあというくらいの感想しかなかった。それが、二回目を読み始めるやぐいぐいと引き込まれ、染み入るように物語世界が頭に入ってきたので驚いた。本でも映画でもたいてい二回目のほうが楽しめるものだが、これほど極端な例は初めてだ。結果、忘れられない小説となった。
 たとえば現実世界で訪れた旅先の町をふと懐かしく思い出すのと同レベルで、この小説内の町や人々を思い出す。小説を読む醍醐味は別の人生の疑似体験であり、その意味でこれほど強烈な作品はなかなかない。
 一編一編はごく短いものばかりだ。だから、一つのシーンが短く断片的に、エッセンスだけを抜き出すようにスタッカートで描かれていく。登場するのは誰もが一癖ありというか不完全さをさらした人達。初読時には不条理に思えた彼らの言動が、二回目に読むとなんとなくしっくり収まる気がする。とくに強く感じたのは、彼らの意思と行動、精神と肉体のアンバランスさだ。心で思っていることと実際の行動とが異なり、それが読者にも周りの人にも説明されないから、理解もされない。それでも、実際の我々の行動だって似たようところは多々ある。
 物語の多彩さにくらべ、人物像は類型的だ。主人公は痩せて無口で内向的な男性が多く、女性は痩せて背が高い人が多く、彼らと敵対する人々はおしゃべりで低俗で人の心を推し量れない。これはおそらく作者の人間観が色濃く反映されている気がする。その奥にあるメッセージは、「想像力が人生を豊かにする」というもので、しかしそれは同時に「想像力が人生の無意味さを悟らせ、どうせ死は避けられないという無常観・無力感も引き起こしてしまう」ということでもある。
 最後に、読書会で披露した自分なりの解釈だが、最後に颯爽と旅立っていくジョージ・ウィラードのシーンが実は過去の出来事のように僕には感じられた。そうするとそこまでの物語は、夢破れて故郷に戻ってきた後の話ということになり、いっそうこの作品が皮肉なものに思えてくる。調べてみると、確かに各短編の時系列はバラバラではあるが、ラストの一編は時系列的にも最後に来ることがわかった。だから僕の説は却下される運命なのだが、この解釈はけっこう気に入ってもいる。

★下記の別ページに、自作の資料2つ(登場人物の一覧表&各短編の設定年代)とその説明を掲載してあります。これらは読書の手引きとして、自由に使ってもらって構いません。
『ワインズバーグ、オハイオ/シャーウッド・アンダーソン』資料ページ
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン98冊目。97冊目が2011年に読んだ「若草物語」だから、実に7年ぶりの再開となる。
 本や映画で本作を鑑賞したことのない人でも、主役のスカーレット・オハラの名前は聞いたことがあるだろう。そして何故か、“美しくて清らかな人”というイメージを持っているのではないか。でも、映画か本に触れた人ならわかるのだが、このスカーレット、とんでもなく傲慢で嫌ったらしくて男にモテることと金のことしか考えない、真性クソ女なのだ。裏を返せばそうとも取れる、というレベルではなく、最初からそのように描かれている。だから当然、共感も持てないし、この女を好きにもなれない。このチャラチャラした女が、金持ちのハンサム男に次から次へと色目を使い、みんなが自分を好きでいてくれないと不満になるけれど、本当に好きになった相手からは拒絶されてヤケになり、好きでもない別の男と結婚し、その間に例の色男レット・バトラーと出会い……という具合に話が展開していく。
 「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーンだから読んだけれど、そうでなければ早々に読むのをやめていた。そして一冊を読み終えてどう感じたかというと……実は、案外面白かったというのが正直な感想だ。もちろんスカーレットのことは1ミリも好きになれないけれど、細やかな心理描写、人物表現や自然描写の豊かさ、ストーリー運びの面白さなど、やはり小説として良く出来ているところはたくさんある。これは人々が夢中になるのも理解はできる。もちろん、特上の小説というほどではないが、この先どうなるのだろうという気にはさせられる。ただ、まだこれが4巻も続くのだから、本当に続きを読むかどうかはわからない。
2018年 7月 「橋のない川(一)/住井すゑ」 (新潮社・文庫)
「’95新潮文庫の100冊」を全部読もうキャンペーン99冊目。遂に残り一冊のところまで来た、と思ったらなんと、700ページ近い大著で、しかも全7巻のうちの一冊だという。こんな機会でない限り絶対に読まなかった。
 流し読みに近い感じで読み進めていく。
 明治後期の、奈良県にある被差別部落が舞台。誠太郎と孝二の住む小森部落は、エタと呼ばれる最下層に属していた。学校や社会では、何かにつけエタだからと差別を受ける。序盤は兄の誠太郎が主人公となり、誠太郎が奉公のため家を出てからは、弟の孝二の視点で描かれる。やんちゃな誠太郎と、おとなしくて思索的な孝二。正反対の性格の二人で、受ける差別への対処もそれぞれだが、差別されること自体は変わりがない。部落出身の彼ら一家は、どこまでいっても不当な扱いを受け、その苦しさが全編に渡って描かれる。
 内容としては陰惨なものだが、だからこそけなげに生きる誠太郎と孝二が逞しく思える。そして、著者の文章が素晴らしく、この暗く広がりのないテーマを、よくここまで豊かに書き綴ったものだと感心する。差別はいけないと一面的に主張するのではなく、まず人間ドラマがきっちりと構築され、そこにじわじわと人々の置かれた境遇やその苦しさが積み上げられていく。さらに、言葉に詩情があふれているから、苦しいばかりではない、人間の生きる価値もそこに見えてくる。
 あまり気乗りがせず読み始めたが、これは凄い小説に出会えた。続きを読めるかどうかはわからないが、この一冊だけでも充分に読む価値はあったと思う。
アンソニー・ドーアの『すべての見えない光』は2016年のベストと言える一作だったが、本作は同著者による短編集だ。もともと著者は短編作家として名を馳せた末に、短編を紡ぎ合わせるように形作った『すべての〜』で花開いた経緯がある。
 冒頭の表題作は、記憶を体外にブロック化して保存できるようになった世界を描く、近未来SF。保存された記憶はいつでも再生し、まるでその場にいるように再体験できる。認知症を患う74歳のアルマ、その使用人のフェコ、アルマの家に侵入するロジャーとルヴォの二人組。様々な人物が、記憶を巡る物語の中で絡み合う。SF的妙味にあふれた力強い小説だけれど、描かれているのはあくまでも人間模様だ。この点で、カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』に読感が似ている。
 そのほか、ダムに沈む村で居残り続ける一人の女性を描く「一一三号村」、ナチスの時代に孤児院で過ごすユダヤ人少女達を描く「来世」など、読み応えたっぷりの作品がつづく。この著者は、しっかり物語を描き込んだ上でそこに豊かな世界観、人間観を味わわせてくれるから、読みやすさと読み応えが同居しており、誰にも勧められる作品を書いてくれる。
日本人画家としては僕が一番好きな佐伯祐三の、回顧本。おもにパリ時代の作品を取り上げ、描かれた場所を尋ね歩き、制作の背景を探る。佐伯祐三の生涯を知るうえで非常に興味深い一冊であり、僕もこの本の著者のように、作品の風景を実際のパリで確かめてみたいと思った。ただ、佐伯祐三視点での回想が続く中に、ときおり唐突に著者の経験談や感想が、「私は〜」と挿入されるので、戸惑ってしまう。著者の感慨は僕にはあまり興味がないので、佐伯祐三の回想のみで通してほしかった。
ユベール・マンガレリは『おわりの雪』『四人の兵士』と読んできたが、この著者の邦訳作品は現時点でこの三作のみである。そして、これが著者初の一般向け長編小説だ。

 片田舎に住む貧しい親子。父親は工場の職を失い、家の中でバラを育て始める。何十個ものビンでバラの苗を育て、いつかそれが大金を生むものと信じている。彼らに幸せは訪れるのだろうか。
 二人の生活はあまりに貧しい。それでも小さな息子は生活の中で自分なりの喜びをみつけて生きている。バラが売れると目算した皮算用で、親子はレストランで食事をとるのだが、ここでの息子の心情はとてもせつなくてやりきれない。派手なドラマなど何も起こらない日常に、これほどせつない人生がある。読み終えて、すぐに言い表せない心情が自分の中に湧き上がる。いい小説だと思う。
2018年 6月 「銀の匙/中勘助」 (KADOKAWA・文庫)
最初に読んだ時にはやや読みづらく、なんだかふわふわしてとらえどころがなかったが、もう一度読み返すと描写の美しさ、的確さが際立って感じられ、特に後半部分は珠玉の文章にあふれている。
 最初に欠点を書いておくと、これは著者自身の自伝を元にしているからかもしれないが、物語構成に難がある。とくに、甘やかされたボンボンでひ弱でいじめられっ子だった主人公が急に勉強ができるようになり、体格もよくなってガキ代将みたいになっていくのが、(現実がどうだったにせよ)小説として説得力に欠けている。だから、兄に反抗するシーンも唐突さが否めない。さらに、これは著者のせいではないが、風俗や風景、事物が今とかなり違うので、現代の読者にはぴんと来ない。
 それでもやはり、本作の美しさ、豊かさは特筆ものだ。なにか古文を読んでいるようなリズム、端正な描写にときおりユーモアをまぶしたりしながら、的確にシーンを綴っていく。
 初読ではよくわからなかった本作のテーマも、実は割とストレートに書かれている。それは、家族制や男女論など、旧来の道徳意識への反抗だ。人生とはそういった社会規範と関係なく自分の力で切り開いていかなければならず、それは孤独で辛い道のりだが、そこにこそ幸せがある、と本作は訴える。社交性ばかりが重要視される現代にも通ずるテーマだから、いま読んでもじゅうぶん価値がある。序盤で過保護クソ野郎の主人公に嫌気が差してしまうかもしれないが、その先をぜひ注意深く読んでほしい。読むほどに味わいを増す一作だ。

 最後に一点、指摘しておきたいのは、現代仮名遣い表記についてだ。近代以前の古い作品においては、旧仮名遣いが現代仮名遣いに改められる。それは仕方がないのだが、「ゐ」は「い」に置き換えられるべきところ、本作ではばっさりカットされている。だからたとえば、「はひってゐた」が「はいってた」、「柄がついてゐる」が「柄がついてる」などというように、いわゆる「い抜き言葉」になっているのだ。これでは文章のリズムがまるで崩れてしまい、文芸として由々しき事態だ。読み始めてこのい抜き言葉が頻発するので、著者は文章がヘタなのかと思ってしまった。
 調べてみると、僕の持っている角川文庫版のほか、新潮文庫版も岩波文庫版も全て同じ状態のようだった。ネット上にある青空文庫版で「新字旧仮名」として公開されているものでも、「ひとつになつてゐる」「面白がつてゐた」などの表記はあるのに、上記の「はひってゐた」は「はひつてた」、「柄がついてゐる」は「柄がついてる」というように、なぜか部分的に「ゐ」がカットされている。そして、角川文庫版を確認すると、「ひとつになつてゐる」は「ひとつになっている」、「面白がつてゐた」は「おもしろがっていた」という風に、部分的には「ゐ」→「い」の変換が正しくされている。

すこし調べてみると、現代版や青空文庫版の大元になった底本は岩波書店版「中勘助全集第一巻」であり、さらにその親本が角川書店版「中勘助全集第一巻」だ。この角川書店版が作られる際、最初の旧仮名遣い版から一部の「ゐ」だけを削除した状態になっている。岩波書店版には、新聞掲載時の初版も併録されており、巻末にこうした経緯が紹介されている。ただ、なぜ一部の「ゐ」だけが削除されたのかはわからない。いったいどういう事情なのだろうか。
2018年 6月 「トリエステの坂道/須賀敦子」 (新潮社・文庫)
イタリア人と結婚してイタリアに暮らし、日本文学のイタリア語訳を手掛けていた著者によるエッセイ集。元は作家志望だっただけあって、比喩をふんだんに取り入れた文体はそのまま小説にもなりそうだ。
 結婚したのちに数年を過ごしたイタリアでの暮らしを回想する形式で、様々な場面が語られる。結婚した夫の実家が貧しく、それゆえの苦労が絶えなかったらしい。どこまでも家族をめぐる話ばかりなので、途中でちょっと疲れてしまうが、個人的には数ヶ月前のイタリア旅行の記憶と供に、イタリアの景色を思い浮かべながら楽しく読むことができた。一番の目当ては最終章「ふるえる手」で語られるローマで、サン・ルイージ・デイ・フランチェージ教会にあるカラバッジョの絵が、著者を大いに刺激したというところ。この絵は僕も現地で見て深い感銘を受けたので、おおいに共感しながら読んだ。
2018年 5月 「パタゴニア/ブルース・チャトウィン」 (河出書房新社・文庫)
ずっと前から読みたいと思っていた本作。入手難の状態が続いていたが、昨年、文庫版で発売された。パタゴニアはかつて僕が旅した中でも思い入れの深い場所だ。本を読むことであの風景に出会えるかも、という期待があった。
 読む前は、旅行記プラスそれにまつわる思索、という感じで、星野道夫さんやサン・テグジュペリのような内容だと思っていた。あるいは、かなり文学的志向の強まった椎名誠や沢木耕太郎といったあたり。しかし、本作は手ごわかった。著者がパタゴニアを旅行することは確かなのだが、そこで出てくるエピソードが至って奔放で、ブッチ・レイノルズ&サンダンス・キッドの物語を筆頭に、数限りない人物にまつわる大小様々なエピソードがたんまりこってりと盛り込まれている。そもそも登場人物の多い作品が苦手なもので、それぞれの話がなかなか頭に入っていかず、作品全体のイメージもつかめないままだった。また別の機会に、こういう内容の本だと知った上で再読してみよう。
2018年 4月 「深夜特急6/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
ずっと好きで読み続けてきたシリーズも、遂に最終巻となる。前巻あたりから表出してきた“いかに旅を終わらせるか”というテーマが、遂に如実に示される。すでに最終目的地ロンドンは近い。ここが旅の終わりの地なのか、それでいいのか、自分はそれで満足なのか、と常に自分に問いかけつつスペイン、ポルトガルへと進んでいくくだりでは、著者と共に読む我々も、どこで終わるのが正しいのかと考えさせられてしまう。
 もちろん旅の正しい終わり方などなく、当事者がどう感じるのか一点にかかっている。シリーズ全体を通し、旅とは何なのか、なぜ旅をするのか、どう旅を終わらせるのか、といったテーマに対し、いつも真摯に向き合い、体当たりで答えを探っていく過程が本当に面白く、好きだった。終わってしまうのは読む側にとっても寂しい。あっけないラストは救いでもあった。
2018年 4月 「イニュニック「生命」/星野道夫」 (新潮社・文庫)
1990〜1993年に書かれたエッセイをまとめたもの。星野道夫さんのエッセイ集としては二作目にあたる。著者の最高傑作『旅をする木』に比べると、文章がやや粗い気もする。しかし、書かれている情景や考え方にはやはり強く惹かれる。とにかくどこまでもアラスカを愛し、写真と文章でアラスカを描き続けた人だった。いつも同じことを書いているようでいて、無限の広がりも感じる。アラスカだけを綴っているのだが、そのアラスカがとてつもなく大きいのだ。
2018年 4月 「まいまいつぶろ/高峰秀子」 (河出書房新社・文庫)
女優・高峰秀子さんのエッセイ集。たくさん出版されている彼女のエッセイのうち、何の気なしに手にとった本作だったが、かなり初期に書かれたものだった。自身の生い立ち、五歳で子役として映画界に入ってからの経緯などが綴られる。とくに、仕事に対する思いや周りの人との交流について書かれた部分では、僕が見た映画や知っている俳優などがぽんぽん出てきて面白い。後半、『二十四の瞳』について書かれた章を読むと、生徒役の子供達とは、やはり本当の教師と生徒のような関係だったことがわかる。子役の一人を知人の養子に迎える仲介役を務めた話などが興味深い。そして巻末は、松山善三氏との結婚式前後のエピソードで締めくくられる。
 全編に渡り、彼女の奔放な性格が窺えて面白い。けっして名文・美文の類ではないけれど、性格が文体ににじみ出ている感じ。なにせ子供時代から自分の気持ちを押し通してきた人だし、現在動画で見られる映像などを見るにつけ、気っ風の良い女性だったことが窺える。
子供の頃から、古典ミステリの傑作として知ってはいた。ふと本屋さんで見つけて購入し、旅行のお供に読んでみた。12編の短編が収められており、一作目の「青い十字架」で探偵役のブラウン神父が登場する。ここから二作目の「秘密の庭」に至る、驚くような展開が素晴らしい。今も昔も、これほど冴えない風貌の探偵役はめずらしいだろうが、そんな彼が明晰な推理を披露するというギャップが大きな特徴だ。ホームズ物を読み飽きた人には、またひと味違う作品群を楽しめることうけあい。
 ただ……僕自身はこうしたミステリエンタテインメントをもうそれほど必要とはしていない。謎が解ける快感は、終わってしまえば心に残る読書体験には至らず、もっと読み応えのあるもの、読む前と後とで人生観が変わるような小説を読みたいと思ってしまう。
2018年 2月 「深夜特急5/沢木耕太郎」 (新潮社・文庫)
人気シリーズの第5弾。アジアとヨーロッパの交錯するトルコで、旅はアジア編からヨーロッパ編へと移る。これまで何を見ても感激し好奇心をそそられていた著者が、何を見ても心が動かない。それはなぜだ、どういうことなのだ、という考察が繰り広げられる。そこが面白い。
 巻末の、著者と高田文夫さんの対談も面白かった。本書に何を感じるのかという議論を読み、僕もどこにこの本の魅力を感じるのか、旅とはどういうものか、などなどいろんなことを考えた。
 この第5巻では、旅をどう終わらせるのかという考察が強く表に出てくる。僕は、旅とは必ず終わらせるべきものだと思っている。それは、本書でも語られるとおり、旅=人生と考えれば、人生の終わりは必ず来るわけで、“どう終わらせるのか”というのは人生の大きなテーマだと思うからだ。
2018年 2月 「望楼館追想/エドワード・ケアリー」 (文藝春秋・単行本)
「堆塵館」で度肝を抜かれたエドワード・ケアリー。過去の長編二作はいずれも絶版になっており、なんとかネット古書で見つけたのが本作。
 主人公の〈ぼく〉は、望楼館と呼ばれる建物に住んでいる。昔は大きな邸宅だったのを、改築して集合住宅にしたものだ。〈ぼく〉は白手袋を片時も脱ぐことがなく、町の中心部にある台座で微動だにせず立っているのが仕事。汗と涙を常に流し続ける元教師のピーター・バッグ、一日中テレビの前から動かないクレア・ヒッグなど、他の住人も奇妙な人ばかり。そこへ新たな住人が引っ越してくるところから騒動がはじまる。
 一寸先は闇、というか、一寸先が謎であり、どうなっていくのか展開がまったく読めない。一つの館とその周辺で起こる出来事ばかりなのに、この壮大な世界は一体どういうことだろう。著者は創造力の化け物か。
 過去と現在が交錯する中で、〈ぼく〉と同じ体験をするうち、読者は物語の凄みに圧倒され、世界に飲み込まれてしまう。読んでいると、ピーター・バッグのように汗と涙が出っぱなしになるかと思うほど、僕には衝撃の一作となった。

2018年 2月 「カラヴァッジョ巡礼/宮下規久朗」 (新潮社・全集)
画家・カラヴァッジョに取り憑かれた著者が、イタリアにあるカラバッジョ作品を求めて旅をする。ミラノ近郊の生誕地からローマを経て、ナポリ、シチリアへと旅はつづく。殺人を犯したカラヴァッジョは逃亡の後半生を送るのだが、その足取りに沿って、各地の作品が紹介されている。
 僕はカラヴァッジョが好きで、その人間性とは裏腹の素晴らしい芸術作品を見るたび、ほれぼれしてしまう。本書はイタリアにある作品を全て紹介してあるのだが、表記方法がバラバラで結構読みづらい。きっちり見開きの半分に作品画像、その横に説明、というフォーマットが徹底されていればもっといい本になったと思う。
2018年 1月 「四人の兵士/ユベール・マンガレリ」 (白水社・単行本)
年始めに読んだ本作が傑作で大満足。タイトルどおり、四人の若き兵士達の愛おしい日常が描かれる。他愛もないけれど、そもそも人生とは日常でしかない。起伏のあるドラマも魅力ある悪役も出てこず、みんないい人ばかり。それでも優れた小説は書けることに、心底驚かされた。以前に読んだ『おわりの雪』も良かったが、本作のほうがよりわかりやすいので、ユベール・マンガレリを初めて読む人にはこちらのほうをお薦めしたい。
2018年 1月 「長い旅の途上/星野道夫」 (文藝春秋・文庫)
テレビで星野道夫さんの息子・翔馬君がアラスカを旅するドキュメンタリーを放送していて、急に読みたくなったので再読した。2015年4月に読んだ時にも感じたが、遺作集として様々な媒体から集められているせいで、同じ文章が重複していたり、まとまりに欠けている面はある。それでも、星野さんの文章は本当に素晴らしく、身体に染み渡っていくのを感じる。特に第一章については文句のつけようがない。これからも折に触れ読み返す作品になると思う。
絵を見るのが好きで、展覧会にもよく行く。西洋画において、特に中世の絵画でのモチーフは、大半がキリスト教にまつわるものだ。当時の人々が一般教養として持っていた知識が当たり前のように散りばめてあり、そのあたりがわかると俄然、鑑賞する楽しみも増える。本書はそういう人にはぴったりの入門書だと思う。僕もキリスト教の知識は本当に浅いものでしかなかったが、“絵画鑑賞の手引きとして”のキリスト教が語られていて、断片的ではあるものの、それなりに体系付けされた知識が得られた。今後、絵を見るのがさらに楽しくなる一冊。
『すぐわかるキリスト教絵画の見かた』がキリスト教の歴史をたどりながら絵画を紹介する本なら、こちらはルネサンスの歴史をたどりながら絵画を紹介する本だ。2作を続けて読んだおかげで、ずいぶん理解が深まった。
 本作では、ダ・ヴィンチやミケランジェロ、ラファエロといった有名画家ばかりではなく、日本人には馴染みの薄い画家や彫刻家、建築家までが歴史に沿って紹介されており、ただ“売れる”ことだけを狙った書物とは全く志が違う。しかも読みやすくて文量も少なく、入門書としては非常に優れたものである。これを持ってイタリアに出掛けたい。