■ 2001年に読んだ本
  
ミステリーにおける十戒とは?短編集の作品の並べ方は?ミステリーの応募作品に、あらすじは必要か?登場人物の名前はどうやってつける?
 ショートショートの名手である著者が、豊富な知識を元に語るミステリー談義の数々。


 雑誌に掲載されたエッセイを一冊にまとめた本ですが、全編にわたってミステリーに関する様々な話題が提供され、さくさくと読めて楽しめました。著者の知識、そしてそれをうまく料理する腕は素晴らしいと思います。この本の中で、たくさんのミステリーが紹介されています。僕の読んだものも少なからずあったりして、その記述も面白かったし、読んでいない作品については読んでみたいと思わせる書き方がされています。ただ、ネタばらしに関しては少し甘めになっていますので、注意は必要です。(もちろん、こういったエッセイや書評においてミステリのネタをどこまで書いていいのか、という問題についても著者はいろいろと考察されており、その話題自体もこの本の中に出てきます。)
 この著者の作品は、「旧約聖書を知っていますか」を読んだことがありますが、これも非常にわかりやすく書かれて好感を持ちました。読書の楽しさをどうにか伝えたい、という著者の意志がびんびんと伝わってきました。
 島に呼び寄せられた10人は、マザーグースの歌詞になぞらえ、一人一人殺されてゆく。そして、最後に残ったのは―。
 ミステリーの女王クリスティの代表作。


 あらゆるミステリー作品の頂点に立つともいえるこの作品を、実はまだ読んでいなかったりしました。大筋ぐらいはそりゃ知ってましたが、細かい内容などは知らず、読み始めました。もう、何の文句もないですね。古さを全く感じることなく、きっちりと騙されてしまいました。海外ものが苦手なので、クリスティ作品もこれ以外には「アクロイド殺人事件」ぐらいしか読んだことがありません。それも、中学生の頃ですから、犯人は覚えていても細かい内容はもうすっかり空っぽ。これを機にいくつか読んでみるのもいいかも、と感じた次第。
 それでも映画は好きで、結構見ましたね。「ナイル殺人事件」「クリスタル殺人事件」「地中海殺人事件」などなど。「ナイル〜」は、僕のお気に入りの映画です。あれは素晴らしかった。トリックも真犯人の正体も。それから、主題歌の「ミステリー・ナイル」が大好きで、確か僕が初めて買った外国人歌手のレコードがそれだったと思います。
2001年12月 「アンハッピードッグズ/近藤史恵」 (中央公論新社・文庫)
パリに住む、真緒と岳のもとに、空港で持ち物を全て盗まれた新婚夫婦が迷い込む。パリを舞台に繰り広げられる、男と女の物語。

 去年、パリに行く前にインターネットで「パリ」をキーにこの作品が引っかかりました。急きょ購入し、パリに着いてから読みました。ピカソ美術館やベルサイユの記述を読んで、自分もそこに行ってみたりして、随分と役に立ちました。
 内容は、女性から見た恋愛模様、というところでしょうか。変にドラマティックにならず、不条理な心理がうまく描かれていると思います。そのせいで、主人公やその相手に、ちょっとイライラしてしまいました。何というか、その場しのぎばかりの行動に恋愛だの何だのといって遊んでいるだけじゃないの、と。でも、現実世界でも、こんなもんなんでしょうかねえ。
2001年12月 「最後の殉教者/遠藤周作」 (講談社・文庫)
「沈黙」の主題ともなった、長崎での切支丹弾圧に材を取った表題作をはじめ、リヨンでの留学経験から書かれた「コウリッジ館」「ジュルダン病院」など十篇。

 旅には欠かせない、遠藤周作の作品。今回は、より深い意味がありました。著者の留学先であるリヨンに行くことにしたからです。パリには三度目ですが、リヨンは初めてでした。氏の作品に何度も出てくる通りや公園を訪ねて歩く旅は、本当に充実したものになりました。下宿先であるプラ通りをホテルのそばで見つけた時には、胸が一杯になりました。そして、本作品の「男と猿と」や他の作品にも出てくる、リヨンの北にある広い公園(名前は書かれていない)、そこに一匹の猿が置き捨てられている檻。その場所も探しました。猿はいませんでしたが、檻はこれじゃないかというのがあり、それは本を読んで僕が抱いていたイメージに正にぴったりのものでした。
 リヨンはとても美しい街でした。あそこで過ごした三日間のことは忘れません。他にもこの作品集には、「肉親再開」という作品が収められ、パリに住む妹を訪れる兄の立場から、パリの街が描かれています。その中で、中世美術館(クリュニー美術館とも言う)にある一つのキリスト像が、まるで目を射るかのごとき強い光を発している、という記述がありました。僕は絵などにあまり興味がなく、ルーブルとピカソ美術館にちょっと行ったぐらいで中世美術館というのは名前も知りませんでした。でもパリでこれを読み、場所を確かめて行ってみました。閉館前ぎりぎりに辿り着き、とにかくキリスト像を探して歩きました。そして、辿り着いた時のあの感慨。確かにそのキリスト像は、記述にあった通りの凄い作品でした。僕は、その二日後にもう一度そこを訪れ、今度はゆっくりと見て廻りました。僕は、この美術館がパリでは一番好きになりました。
 遠藤氏の作品がなぜこんなに僕の心に迫るのか、よくわかりません。特にキリスト教に興味があるわけでもないのに、氏の作品であれば、どれでも受け入れてしまいます。
 表題作「最後の殉教者」は、正に「沈黙」の短篇版、といったところですね。人は弱いものだが、それを受け入れ、許すのがキリスト教である、と、この作品でも訴えられています。
 なお、巻末の解説が素晴らしいので、これもお勧め。
2001年12月 「五体不満足 完全版/乙武洋匡」 (講談社・文庫)
「障害は不便です。だけど不幸ではありません。」周りの人々の理解と協力の中、乙武少年はのびのびと育ち、成長していく。ベストセラー「五体不満足」に、後に付け加えられた第4部を含む”完全版”。

 実に不謹慎な言い方をするなら、どこか胡散臭いと思っていました。なんかきれいごと過ぎる気がして、それからあまりにもベストセラーになってしまったのもあって、興味はありながら読むことを避けていました。それが急に、「今の自分に必要なものが、この本の中にあるかもしれない」と思えてきて、旅行に持って行く本の一冊に加えました。
 いや、すごいですね。なんというか、よく頑張ったねっていうのもあるんだけれど、人間とはこういう風にもなれるんだ、というか。びっくりしてしまいました。まず何より、両親や先生など、周りの人達の理解と努力、これなしには成立しないでしょう。五体不満足で生まれた我が子を、「可愛い」と思える素晴らしさ。世間の常識に捕らわれずに生きることがどれだけ大切かと思わせます。
 それから、本人のこのパワーは何なのでしょう。持って生まれた何かが備わっているのでしょうか。僕は人間とは弱いもので、ほんの小さな躓きから駄目になっていくものだ、という根本認識があるのですが、それが揺らぐほどの衝撃を受けました。
 それから特筆すべきは、付け加えられた第4部。この部分は、それまでの内容と書き方が全く異なっています。本がベストセラーになった後、まるで天使か聖者のように扱われることに対する不満・鬱積が綴られています。全ての障害者が自分のようではないと訴える彼の苦悩は、それは生々しいものでした。しかし、この部分があるからこそ、それまでの記述が単なるきれいごとに終わっていないのだと、思います。これから買われる方には、この完全版の方を、強く勧めます。
2001年11月 「キライなことば勢揃い/高島俊男」 (文藝春秋・単行本)
「させていただきます」「じゃないですか」「あげる」「いやし」――。世に氾濫するこれらの言葉、ちょっとおかしくないですか?「週間文春」に連載されている人気エッセイ「お言葉ですが…」シリーズの第五冊。

 読み始めの三分の一くらいまでは、何か老人のたわごとのようであまり気に入らなかったのですが、読み進めるうち、著者の言葉に対する深い思いが伝わってきて、以降は面白く読むことができました。現在テレビや新聞などで当たり前のように使われている言葉でも、疑問を投げかけ、「ちょっと待った」をかける。そして、言葉というのは常に変化し続けていくものだという認識を踏まえながら、「これは良くない」ではなく、「私はこれが気に入らない」という視点で書かれていることに好感を持ちました。こうやって自分のサイトに拙いながら文章を載せている身として、大変ためになりました。
2001年11月 「ミーのいない朝/稲葉真弓」 (河出書房新社・文庫)
「父が死んだ時も、夫と別れた時も、私はこんなに泣きはしなかった――。」愛猫ミーと過ごした二十年の日々を優しく描く、詩&エッセイ。

 うーむ、卑怯だ、この本は。ネコが出てきて、作者とともに暮らす愛らしい姿が描かれて、最後に死んでしまうんじゃあもう、泣くしかない。表紙になっている写真がまた例えようもなくかわいくて、書店で見つけた時には既に買うように導かれていました。思惑(おもわく)がありそでなさそで、少し機嫌が悪いようにも見える、ふっくらとした頬、引き結んだ口もと。美人猫ですねえ。
 この猫「ミー」が、フェンスにぶらさがっているのを作者が見つけるところから、エッセイはスタートします。そして、何度かの引っ越し、そのたびに激変する環境。いつしか夫とも別れ、猫との二人きりの生活が続いていきます。
 作者は、小説家であると同時に詩人でもあり、エッセイの合間に詩が織り込まれています。そして、エッセイの部分でも、柔らかい比喩を多用した魅力的な表現がたくさん詰まっており、それがこの作品をより味わい深くしているのだと思います。
 ひとつ、これは凄いと思った文章がありました。夫とうまくいかなくなり、離婚を間近に控えた時期。

 「夫との壊れかかった生活のど真ん中に、のどかな顔をした猫がいて、ミーは私の心を知らなかった。」

 猫が死ぬ前の数年間、都心のマンションで、老いた猫を介抱する姿は壮絶を極めます。正に生と生とのぶつかりあい、それでもめげずに懸命に乗り切った作者には、心からの尊敬の念を抱きます。同じく昔、猫を飼っていた身として。
2001年11月 「七回死んだ男/西澤保彦」 (講談社・文庫)
時間の「反復落とし穴」に陥り、同じ日を何度も繰り返し経験する久太郎。その中で殺された祖父を救おうとあらゆる手段を試みるが、ことごとく失敗する。誰も助けてくれない状況の中、祖父の死を防ぐことができるのか―。

 西澤保彦さん、初読。なるほど、こういう感じの作品を書く人なのですね。楽しめました。同じ日が何度も訪れるという超自然、SF的設定の中で行われる殺人を論理的に解明するというのは、僕には新鮮でした。本格ミステリ好きの方にとっては、「異端」だと思われるかもしれません。著者があとがきで書かれているように、実際、イロモノ的に扱われている節もあるようです。でも、僕としてはこれはアリです。これを非現実的といって切り捨てるのであれば、本格もので登場する、雪の山荘や嵐の孤島なども同じだと思います。リアリティ云々の論議が書評でよく見られますが、小説のリアリティとは、それが本当に現実世界に存在し得るかどうかではなく、単に、読者がしらけずに読み切れるか、気持ちよく騙されるかどうか、という点にあると思います。現実世界にあり得るかでいうなら、登場人物達の会話がいつも細かな言い間違えの一つもなく行われている点などからしてもう、リアルではあり得ません。
 この作品でも、気持ちよく騙してもらった、そんな印象を持ちました。確かに、読み終えた後に深い感慨が残るような作品ではありませんが、読書の楽しみを味わえることは約束できます。
2001年11月 「イエスタデイ/清水義範」 (講談社・文庫)
1964年。高校生の志水義夫は、同級生達と小説を書き、見せ合っては喜んでいた。グループは同人誌を発行し、大学受験に失敗する―。著者の学生時代を半自伝的に描いた表題作ほか、「レトロ」をテーマにした7篇を収録。

 著者の学生生活が窺える表題作「イエスタデイ」と「続・イエスタデイ」が、特に面白かったですね。著者の小説家としてのなれそめを知るドキュメント的な意味で、興味深く読めました。この「イエスタデイ」シリーズは、もっと続けてほしいですね。その他の短篇も、「レトロ」を題材に、タイムトラベルSFなどが並びます。物語としては、昔の出来事がただのんびりと書かれているだけで、特に大きなドラマやオチはありません。懐かしい雰囲気をじわーっと味わうのが良いかと思います。
2001年10月 「R.P.G./宮部みゆき」 (集英社・文庫)
ネットという仮想空間において構成された”家族”。その”お父さん”が殺された。やがて容疑者が浮かび、真相を突き止めるため、疑似家族たちが取調室に呼ばれた――。

 宮部みゆきさんの最新書き下ろし作、それも文庫本書き下ろしという、作者にとって初めてのパターンとなりました。
 内容からして、この文量は妥当でしょうね。最近のミステリーの例に漏れず、宮部氏の作品も本当に分厚いものが多くて、読むのを躊躇してしまいます。それが、文庫本で300ページ足らず。帰省の前に寄った本屋で衝動買いしてしまいました。
 感想はというと、ミステリー的には楽しめました。読みやすい文体は相変わらず。そして、ミステリー戯曲のようなものを書きたかったと作者が言っている通り、一幕の舞台劇のような展開になっていて、それも面白いと思いました。<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>犯人は途中でもうあからさまにばれてしまいますが、それよりも最後に空かされる、舞台装置に仕掛けられた謎には驚きました。気持ちよく騙された感じで、脱帽です。

 ただ、宮部氏の作品を読んでいつも思う通り、文章に文学的な味わいが少ないということと、人物のリアリティが薄いということは、本作でも感じました。
2001年10月 「自分の構造/加藤諦三」 (PHP・文庫)
なぜ人は生きることを苦しいと感じてしまうのか。なぜ人は他人の言葉に傷ついてしまうのか。なぜ自分ばかり不幸な目に遭うのか。全ての原因は自分自身にある!自分の認識の仕方とその克服の具体的な方法を、ここに紹介する。

 昔よく読んでいた加藤諦三氏の本、これは再読です。前に読んだ時ひどく感銘を受けたのですが、内容を忘れてしまったので、文庫本になったのを機会に読み直して見ました。
 もう、この本は、凄い!素晴らしい!諸手を上げて絶賛です。今の僕のことが全て書かれているようで、身につまされて涙が出てきそうです。氏の作品はいくつも読みましたが、本書は別格ですね。もちろん、これは「僕にとって」という意味であって、この本を読んでピンと来ない人も多くいると思います。
 人と会うと何か疲れてしまう、それは、自分を実際以上に見せようとしているから。本当には何がしたいのか自分でもよくわからない、それは人に認めてもらうことばかりを考えているから。不眠症でどうしても眠れない、それは不眠症である自分を受け入れられないから。ひとつひとつの事象についてその深層心理の分析を行い、解釈が与えられます。そしてさらに、それをどう克服していけばいいのかという、具体的な行動方法が書かれています。本としてのまとめ方も奇跡的なまでに充実しています。
 とにかく、未知の世界に飛び込む決意をすること。そして、そのための行動を選択していくこと。ひとことで言えば、そういうことでしょうか。
 もう、この本は僕には手放せないものになりました。生きる指標にしたいと思います。そして、この本に出会えた幸運に感謝したいと思います。
2001年10月 「ほんとうの話/曽野綾子」 (新潮社・文庫)
キリスト教徒であること、一児の母親であること、小説家であること。様々な立場にある自分自身の中から溢れる、深く慈愛に満ちた言葉を集めたエッセイ集。

 今年の5月・9月と立て続けに読んだ「太郎物語」が気に入り、今度は著者のエッセイに手を出してみました。遠藤周作氏の友人ということで、遠藤氏のエッセイも好きな僕は、期待して読みはじめました。最初は何となく、ひねくれたような考え方や書き方が引っかかり、「あー、この人は小説は面白いけど、エッセイは今一つだな」なーんて、思っていました。ところが、読み進めるうち、その常識にとらわれない、自分なりに見定めた、人としての生き方に大いに共感を覚え、「やっぱりエッセイもいいわ」と考え直しました。
 キリスト教徒とは言っても、それを無理に勧めるのではなく、自分がキリスト教から得たものを優しく語りかける。それは正に遠藤周作氏の小説などに通じるものです。そして、人生を基本的に「哀しいもの」ととらえるところも。
 また、たまたまこの時期にタイムリーなアラブ世界の話題もあって、いっそう興味深く読めました。著者は、酷暑の中東に単身で乗り込み、その中で、戦争と常に対峙して生きている人々の生に執着した生き方に、強く感銘を受けたといいます。
 しかし、こんな矛盾だらけの世の中で、自分の人生にどう折り合いを付けていくのかというのは、やっぱり大問題だな。
2001年 9月 「太郎物語−大学編−/曽野綾子」 (新潮社・文庫)
名門明倫大学に合格しながらも、地方の大学への進学を選択した太郎。両親から与えられた豪華なマンション、見知らぬ土地で出会う奇妙な人びとなど、置かれた環境に戸惑いながらも順応し、太郎は成長していく。

5月に「高校編」を読み、久々に文学と呼べる作品にゆき当たったという気がしました。文体は飄々としているが軽くはなく、青春期の少年の心が見事に描かれていると思いました。そんな話を友人にしたところ、この「大学編」もお勧めだよと、僕の退職祝いにプレゼントしてくれました。
 相変わらず、巧いですねえ。登場人物たちの、何とも言えない存在感!太郎の思い上がった小賢しさは、時に憎らしくなるほどです。特に大きなドラマがある訳でもないのに読ませてしまうんですよね。特にお母さんの、一見放任主義に見えながらもツボを押さえた愛情表現が、素晴らしい。太郎と会話するシーンは、どれも好きです。
 親子って何だろう、なんて最近よく考えます。子供が成人したのに、いつまでも構おうとする親がいます。現実世界では、たいていそうですね。これってほんと、害悪だと思うんです。そんな態度がどれだけ子供を傷つけ、子供に迷惑をかけているのか考えもせず、しかもそれに「愛情」という名を付け、子供に反論の余地を与えない。
 本作に出てくる太郎の母親にも、葛藤はあるのだろうと想像します。もっと自分の子供に手をかけたい、いつまでも一緒にぐだぐだと過ごしたい。それでもその気持ちと戦い、必死で何気ない振りをして、太郎を羽ばたかせてあげようとしているのだと思います。
 理想の母親像だと、僕は思います。現実にはなかなか難しいですね。僕が将来父親になったとして同じようにできるか自信はないがお手本にしたい、そう思いました。
なぜ男は女の話も聞かずにアドバイスばかりしたがるのか、なぜ女は方向音痴なのか。安易な「平等論」を捨て、男女の違いを脳のしくみやホルモンなどから解き明かす。

言わずと知れた、ベストセラーですね。1年前ぐらいから気になっていたのですが、やっと読むことができました。内容は、専門的過ぎず、軽薄過ぎず、巧い線で突いてきているなという印象を受けました。
 男女平等という思想がいつの間にか男女は全く同じであるという方向に動いているのは、僕もおかしいと思っていました。男女の違いはある、そんなことは明らかでしょう。大体、外形的にも、生殖能的にも違う。これが、考え方や行動様式においても違うということになっても、何ら不思議ではありません。そんなことない、男も女も同じだという読者のため、著者は学問的説明を最小限にし、統計学的な見地も多用してこれを説明しています。そしてもちろん、ここに書いてあるのはごく一般的な徴候であり、それに該当しない場合ももちろんあるということも、本書では大前提として述べてあります。これも説得力を増す要因になっています。僕もこの本の中で、「男は〜だ」と書かれている部分について、なるほどと納得させられることもあったし、あまりピンと来ないこともありました。
 著者は、夫婦である男女二人です。どの部分をどちらが書いたのかはわかりませんが、二人で話し合いながら訂正しながら書かれているというのにも、好感が持てます。男女の付き合いにおいて、この本は一度読んでおいて損はないと思いますね。
2001年 9月 「破線のマリス/野沢尚」 (講談社・文庫)
首都テレビの報道番組「ナイン・トゥ・テン」の名物コーナーのビデオ編集を、一手にひき受ける遠藤瑶子。ある日、郵政省官僚を名乗る人物から一本のビデオテープを受け取る。そこには、郵政省と私立大学との癒着を示す重大な映像が収められていた。このビデオを編集し、番組で流した日から、瑶子の人生は狂い始める。

1997年、第43回江戸川乱歩賞受賞作です。テレビの脚本家が書いた小説、ということで何となく軽薄なイメージが最初からあったのですが、やっぱり、というか何というか、ウムムな作品でした。
 <注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>

この作品で作者が書きたかったのは何なのでしょう。純粋な推理小説ということでは全くないし、瑶子や麻生の人間性を描きたかったにしては弱すぎるし。また時折、テレビ局関連の薀蓄が随所に出てくるのですが、いかにも付け足しというか知識のひけらかしという感じで萎えます。物語は特に大きな見せ場もなく終わっていきます。瑶子が麻生の部屋に忍び込むシーンや最後の対決シーンなど、貴志祐介氏が書いたらさぞ面白い見せ場になったのになあと思ったりします。

 それから。僕は瑶子という人間は嫌いです。大体、裏付けも取らずにあの映像を放送することは、どう考えてもおかしいでしょう。自分は必ず正しくて自分以外の人間は無能で話を聞くにも値しないと思っている。世の中には正義の味方と悪者しかいない、正義の味方がエイヤっと悪者を倒して終わるというような単純な世界の捉え方をしているような気がします。人にはそれぞれ、他人にはわからない様々な事情があるんだということを考えてみるべきだと思います。
2001年 8月 「十角館の殺人/綾辻行人」 (新潮社・文庫)
一家惨殺の名残を留める角島十角館に訪れた、ミステリ研究会の面々。単なる好奇心から始まった島内生活だったが、そこには恐ろしい罠が仕掛けられていた!

綾辻行人さんは新本格ミステリの第一人者として知られる作家ですが、僕は今まで「殺人鬼」というスプラッタしか読んだことがありませんでした。まずは入門として、デビュー作となった本作品から手をつけてみました。本土から完全に孤立した島での犯罪というのは、本格推理小説として王道を行く「吹雪の山荘」パターンの変形です。これが書かれたのは既に10年以上前になりますが、この「連絡を絶たれた孤島」というのも、かなりパターン化されたようです。確かに、一週間後に向かえに来てくれる船を待つ以外に本土との連絡手段は何もない、という環境はワクワクさせられます。
 犯人については、途中からある程度予想はしていました。<注意!!以下、完全にネタバレです。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>島の様子と平行して本土側の話が語られる。そこに何かある、と。守須が妙に事件の究明に否定的になっていたこと、昼間は絵を描きに行くといって一人きりになっていること、などから、ほぼ彼が犯人とみて間違いないとまで思っていました。ただ、ヴァンと同一人物だったとは恐れ入りましたね。島側では全てニックネームで呼び合い、本土側では本名、というところで、名前に何かトリックがあるのだろうとは思っていましたが。

 ただ少し、伏線に乏しかったように思います。途中で示された謎が、実はこういうことだったのか、という感動が薄いように感じました。ま、これは僕が本格推理ものを読んだ時にいつも感じることではあるのですが、途中まではワクワクして読み進めるのに、謎がわかってしまうと、途端に尻すぼみになってしまって読後感が浅い、というのは否めません。それから、文章の美しさ、というのか、文章を読んで心に沁みる、ということがないというのも実感です。本当に優れたミステリにはそれがあると思うのです。
「株で儲けるってどういうこと?」「パソコンの使い方は?」「どういう風に売買すれば儲かるの?」などといった、インターネットを使った株取引を始めるための第一歩となる実用書。

著者の藤原慶太さんというのは、参加者10万人にも及ぶバーチャル投資ゲームで、連続日本一、そして 2位も2回という凄い成績を挙げたプロの投資家です。ここ最近、この手の本で勉強中なのですが、ちょっと対象範囲が広すぎて、内容が浅くなってしまっています。パソコンを触ったこともない人のためにマウスの使い方から説明してあったり、株についても基礎から丁寧に書かれてあったりしますので、そのレベルの説明はいらないんじゃないかという気もしました。ただ、非常にわかりやすく書いてあって好感が持てます。いかにわかりやすくするかという考慮の跡が伺えます。ただもっともらしいタイトルを付けて出版すればいいという本が多い中、これは素晴らしいことだと思います。
2001年 8月 「痴人の愛/谷崎潤一郎」 (新潮社・文庫)
河合譲治は喫茶店の給仕をしていたナオミに惹かれ、まだ十五歳だった彼女を引き取り、成熟した女性に育て上げようとする。実際、彼女の肉体は完璧であり、譲治は次第にその魅力に翻弄されるようになる。

谷崎潤一郎、初読。まず、時代を感じました。冒頭から、「ナオミ」という名前がハイカラだ、という記述が出てくるのもびっくりですが、改行で一文字分を空けないこと、「……」や「――」は今は2文字分なのが、3文字分使ってあることなど、現在の文章記述の常識から離れていることにも違和感を感じてしまいます。
 内容的には、実は裏表紙のコメントなどから、官能的な記述が多い作品なのだろうと想像していました。(別に、それを期待していたわけではありません!)しかし、実際にはそのような部分は全くなく、それでいてこのような作品が書けるのだなと感心してしまいました。
 この作品の根底に流れるのは、大正末期あたりの時代を背景にした欧米至上主義だと思います。ナオミというのは、要するに映画(「文中には「活動」と書かれている)などで皆が憧れる外国人女優に近い存在、それを崇め、そして翻弄されている愚かさが描かれているのだと。この現代では、社会に翻弄される様を描くような作品はあまり見当たりません。それだけ自由な社会に暮らしているのだと言えるのでしょう。その意味で、ピンとこない部分も多くありましたが、面白く読むことはできました。
2001年 8月 「超・殺人事件/東野圭吾」 (新潮社・単行本)
突然支払いを迫られた税金対策に、そして、昨今の大長編ブームを背景に、自作の改竄・割り増しを余儀なくされる、ミステリ作家たち。人気ミステリ作家である東野圭吾氏が、自身への悔恨も含めて暴く、現代ミステリ事情とは?

読みながら、声を出して笑ってしまうシーンが、いくつもありました。タッチはまるで、清水義範氏の作品のようです。本当にこの人、器用な作家だと思います。普段から、色んなことを考えて生きているのでしょう、きっと。
 昨今のミステリ業界の特徴として、例えば「パラサイト・イブ」や「すべてがFになる」などのように、理系知識を総動員して書かれた作品が目につくこと、それから、京極夏彦氏などのように、とにかく長大な小説が多いこと、などが挙げられます。それらが、本作品では徹底的に茶化されています。特に、「超長編小説殺人事件」が最高。編集者から、3000枚の小説を書けと命じられ、とにかく蘊蓄を詰め込み、くどいほどの描写を続けて水増しをする作家。これなんて、本当にありそうに思えますもんね。しかしこれ、まともに京極夏彦さんのことを非難しているようで、大丈夫なのって思ってしまいました。
 軽く読める短編集として、お勧めです。ま、深い内容はないんですが。
2001年 8月 「頭のいい失業生活の知恵/佐藤治彦 監修」 (日本文芸社・単行本)
失業ということをマイナスイメージでとらえず、思い切り楽しんでしまおう、そんなスタンスで書かれた失業・転職マニュアル。ポジティブ思考で、人生の岐路を乗り越えろ!

この本を貫くポリシーには、強く賛同します。失業は、恥ずかしいことでも何でもありません。何より、今自分の立っている足元をしっかり見つめて、最良の選択をしていくことが大切だと感じます。ただ、リストラ解雇などで退職を余儀なくされた人、それも40代以上の妻子持ちの方などにとっては、話は全く違うでしょうね。こんなにお気楽に考えることはできないかもしれません。
 前に読んだ数冊と比べてまず良かったのは、資料が最新のものであるということ。失業保険の給付日数が、前に読んだものは不正確で、この本で初めて最新情報を得ることができました。
 それ以外の項目についても、やるべき手続きの全てが網羅されているという訳ではないのですが、ポイントを押さえた的確なアドバイスが、わかりやすい言葉で書かれています。
退職時には実に様々な手続きが必要となり、そのほとんど全てを個人で行わなければならない。定年や転職の際に少しでも有利な方策がとれるための、実用書。

 この手の本の中では、比較的好印象を受けました。退職前後で、いつ何をすればいいのか、そのためにはどこへ行けばいいのかが、整理して書かれてあります。実際、この本を片手に作業を進める場面も出てくるかと思います。
 ただし、不満はあります。理由は、二つ。まずは、定年での退職と、それ以外のまだ若い時点で退職する場合とがごちゃ混ぜになっているところが実用的でなかった、ということ。そのどちらにも対応できるように表紙や前書きで書かれていますが、結局、どちらにも中途半端になってしまっています。
 それからもう一つ、この手の実用書に一番あってはならないのに実際は本当に多くていやになるのですが、言葉の統一がなされていない点。これはもう、致命的です。読んでいて、イライラしてしまいます。例えば、「離職票」と「離職証明書」。同じものかなあと最初は思っていたのですが、途中、それらが明確に分けて書かれている記述がありました。そこで僕は、「あ、この二つは、似ているようで違うものなんだ。気を付けなくっちゃ」と思いました。しかしその後、「・・・離職証明書(離職票)・・・」という記述がありました。これからすると、両者は同じものです。意味的にも同じもののように書かれています。結局今も、同じものなのか違うものなのか、わからないままです。
 言葉の一字一句を大切にして欲しい、と思うのです。特に、書いている方は常識だと思っている事柄でも、その世界に通じていない一般人にとっては、わからないことだらけなのです。同じ言葉は同じ意味、違う言葉は違う意味、と明確に書いて欲しいものです。そのうえで、実際には混同して使われる場合にそれを記述するという方法が取られればいいと思います。確かに、実社会では、あいまいに使われている言葉というのは実に多いものですから。
2001年 7月 「智恵子抄/高村光太郎」 (新潮社・文庫)
精神に病を抱え、若くして亡くなった智恵子を偲ぶ、夫光太郎による渾身の軌跡。50篇近い詩の他、六首の短歌と三篇の散文を含む。

 高校の時の教科書に「レモン哀歌」が載っていて、瑞々しい、それでいて熱情のこもった作品だなあと感じたことを思い出しました。
 言葉の選び方が素晴らしいと思います。場面場面において、陳腐にならない、正にそこにぴったりでかつ斬新な言葉が並べられています。こういった作品が、すらすらとほとばしるように生み出されたのか、それとも一つ一つ悩み苦しみながら書かれたのはわかりませんが、普段、詩というものに縁遠い僕にも、胸に迫ってくるような言葉の力が確かに感じられました。
一口に退職するといっても、その前後の自分の動き方で、もらえる筈の給付がもらえなかったり、その額に差が出てきたりする。退職をマイナスに捕らえず、前向きに考えるため必要な手続きが記された実用書。

 あああ、これはあまり良くありませんね。「50万円は全体トクするポイント」など、あからさまに一目を惹くようなキャッチコピーに警戒してはいたのですが..。
 まず、説明が中途半端です。あまり難しくならないよう、わかりやすい言葉で説明しようという意図はわかりますが、いろんな選択肢ごとの貰える金額の差などの表示が不十分で、この本一冊だけで退職に臨むのには頼りなさすぎます。その点では、今月に読んだ「知って得する退職前後の『手続き・届出』一切」(前出)の方が優れています。こちらは、これ一冊あれば、何とか一通りの手続きに対峙することはできそうですから。
 そして、これも取っつきやすいようにという意図だと思いますが、突然言葉遣いが粗野になったりするのも、僕はあまり好意的に受け止められませんでした。
2001年 6月 「かめくん/北野勇作」 (文藝春秋・文庫)
かめくんは、カメである。とはいっても、普通のカメではない。二本足で立つカメ型ヒューマノイドであり、人がかめくんのことをカメと呼ぶというだけの話である。かめくんはボロアパート「クラゲ荘」に住み、倉庫作業の仕事にでかける。かめくんはどこまでいってもかめくんであり、かめくんでしかない――。

少し前にネット上で評判になっており、初めて徳間デュアル文庫というものに手を出しました。
面白かったです!なんとも言えない不思議な感触。冒険小説のようなドラマがあるわけでもなく、哲学的思索を問いかけるのかというとそうでもない。何となく何かの比喩や風刺になっているような部分もあるけれど、よくわからない。危険な思想をはらんでいるような気もする。しかし作者も、そういった不安定でよくわからない浮遊感のようなものを表現したかったのであって、決して難しいことを語ろうという気はなかったんじゃないかと思います。この、のほほんとした雰囲気を味わえればそれでよい、その裏に何か感じ取れる部分があれば、それはそれで読者の好きにすればいい、ということではないでしょうか。
 非常に説明しにくい作品です。でも、僕はとても気に入りました。読んで、感じてもらうしかないですね。この作品を言葉で表現するのは難しいです。
2000年1月1日から12月31日に刊行された国産本格ミステリのベスト10を発表。さらに、有栖川有栖・笠井潔・北村薫という三氏の座談会も掲載。

いまや「ミステリ」というと、かなり広い範囲で捉えられていて、雑誌や店頭などでミステリと紹介されている作品は結構読みますが、いわゆる「本格ミステリ」というのは、実はあまり読みません。従って、ベスト10はおろか、ベスト30位内の作品においても、僕の読んだ本は一作もありませんでした。いわゆるトリックが主体のガチガチの推理小説よりも、人間ドラマが盛り込まれたような作品のほうが、自分としては好みです。
 有栖川有栖・笠井潔・北村薫という三氏の座談会は面白かったですね。三人で、創元推理文庫に収められている本格ミステリの歴代ベスト30を決めようというのがテーマなのですが、それぞれの思惑や好みが違っていてそれが微妙な遠慮とわがままを入り交じらせながら話が進んでいきます。特に、北村氏のお茶目さが意外でした。
2001年 6月 「D-ブリッジ・テープ/沙藤一樹」 (角川書店・文庫)
横浜ベイブリッジがゴミの山と化した未来社会。そこで一本のテープが発見された。そしてテープからは、ゴミと共に捨てられた少年の独白が流れる。

第4回日本ホラー小説大賞短編賞受賞作品。というわけで期待していましたが、僕には今一つピンときませんでした。話の筋にも表現にも特に秀でたものは感じられず、セリフが延々と続く特殊な形式も、然り。廃墟に残された一本のテープというのはそそられる設定なのに、もったいない気がしました。
チャールズ・マンソン、ジェフリー・ダーマーなど、全米を震え上がらせた殺人鬼たち。彼らを異常な殺人に駆り立てたものは一体なんなのか、そしてその背景は――。FBI在籍中、数々の殺人犯との対話を通じ、「プロファイリング」技術を確立させた著者が明かす衝撃の真実!

10年ほど前にベストセラーになった作品の文庫版です。「踊る大走査線」や「羊たちの沈黙」などで出てくる「プロファイリング」という言葉が生まれた本でもあります。著者にかかると、「アメリカン・サイコ」等、衝撃的問題作とされるフィクションなど、話にもならないほどかわいいものらしいのです。確かに、真実の殺人者の素顔や現場はすさまじく、読むに耐えない部分もあります。いきなり冒頭の記述で僕は、読む気が失せてしまいました。これは食事しながらは読めません。
 しかし、ノンフィクションならではの迫力はもう、圧倒的です。新聞などの報道では、人びとに無用な衝撃を与えないため、そして犯人しか知り得ない情報を隠すため、しばしば犯罪の一部が伏せられます。日本でも恐らく同様の配慮はされているはずで、これまでにも似たような凄惨な犯罪が行われてきたのだろうと想像すると、恐ろしくなります。
 ただし、プロファイリングは日本ではあまり受け入れられていない気がします。犯罪が、そんなコンピュータからの分析なんかで解決できるものか、という警察の反発、それから、一歩間違えば、差別だと言われかねない側面によるものだと思います。強姦殺人は白人男性に多い、とか、痩せた男性に異常犯罪が多い、などとはなかなか大っぴらには言えないことでしょう。ただ、著者自身も語っておられる通り、プロファイリングとは確固たる技術ではない、ということ。それから、犯人を捕らえるのはあくまでも警察の地味で綿密な捜査によるものだということ、犯人を捕らえるため全国民を対象にするより、最初から犯人像を絞ってかかる方が捜査の手間からすると断然有利になること、そういう認識で有効に活用していけばいいのだと思います。
2001年 6月 「株で毎日を優雅に暮らす法/秋津学」 (中経出版・単行本)
誰もが考える、株の儲けで生計を立てる夢を実現するための方法とは?実際に月10%の利益を稼ぎ出している著者による、実践的手法の数々。

タイトルに惹かれて、思わず買ってしまいました。著者はイギリスに住み、パソコンを使ってネット上で株の売買を行い、月10%以上の利益を出しているそうです。
 自分自身、この手の本で株について今猛特訓中です。これで100%確実というわけではなさそうですが、知っているのといないのとでは全く違うと思います。理論的な話を説く本が多い中、本作は実に実践的でわかりやすいのが良いです。ページ数の割に中身が薄いのが難点ではありますが、いずれこれを自分の売り買いに実践してみようと思っています。
2001年 5月 「怪しい人びと/東野圭吾」 (光文社・文庫)
金策から自分の部屋を友達に貸し与え、金を受け取るということを繰り返していた男はある日、自分のベッドに見知らぬ女が一人で寝ているのに気が付いた――。「寝ていた女」ほか、策士東野圭吾氏のアイディア溢れる推理短編集。

僕にとって東野氏の作品は当たり外れが多く、評価に迷うところです。本作は初めて読む短編でしたが、非常に読みやすく、謎解きもスマートだと思いました。ただ、いわゆる本格推理ものを読むと、謎が解けるまではぐいぐい引っ張り込まれて面白いのですが、謎が解明されてしまうと、急に尻すぼみになって読後感が浅い、という印象を受けることが多いのです。本作でもいくつかありました。
 嫌な友人と灯台守とを描く「灯台にて」が一番良かったですね。それから「結婚報告」は、文体といい、謎解きといい、清水義範氏の作品かと思ってしまいました。
2001年 5月 「太郎物語−高校編−/曽野綾子」 (新潮社・文庫)
世間の常識にとらわれず、奔放な青春を謳歌する山本太郎。友情も恋愛も、全て自分流。時には人を傷つけたり傷つけられたりしながら、太郎は成長していく。

曽野綾子という作家を初めて読みましたが、すごくいいですね。特に、家族偏重主義やつまらない常識にとらわれないのが素晴らしいと思いました。太郎は高校生だけれど自分の頭で考えて行動するということができており、一見放任主義と言えそうな家庭環境が実はそのあたりをちゃんと育んでいるのだということもよくわかります。かなり理想的ですけどね、この一家は。
 ただひとつ、太郎の行動で、僕がどうしても許せないところがあります。友人である藤原の兄と付き合っている小柳さんに対し、言葉の暴力を浴びせ掛けるシーン。彼女のことが気に入らないのは勝手です。それはうなずけます。でもそれなら黙って立ち去ればいい話でしょう。相手に向かって暴言を吐く、その態度には、自分はそんな低俗な考え方はしない、自分は正しいのだ、という非常にいやらしい考え方が伺えます。太郎は、立場や状況の変化で、人間などどうとでもなってしまうものだということを自覚すべきでしょうね。一歩間違えば、自分が相手と同じ行動をとっているかもしれない、そんなあやふやで不確実な世界に生きているのだということを考えるべきでしょう。
日頃新聞やテレビで何気なく使われている経済用語も、改めて問われると解答に窮することが多い。これを読めば、最新の用語や概念の一通りがやさしく理解できる、お得な一冊。

ためになりました。特に、僕のような経済不得意人間にも最新事情の一通りがよく理解できる、なかなかいい本だと思います。この手の書物は本屋に行くと溢れるほどに置いてありますが、本当にためになる本というのは意外に少ないものです。本書は、どうすればわかりやすくなるのか、という点がかなり考えられているなあという印象を受けました。単純に図を使ったり項目分けをしたりしているだけの本は、これを見習ってほしいものです。
2001年 5月 「死刑執行人の苦悩/大塚公子」 (角川書店・文庫)
現在日本においても引き継がれている死刑制度。その陰で、執行に立ち会う刑務官たちの苦悩はないがしろにされてきた。本書は、死刑制度のためにその人生を暗く塗り固められてしまった人々のエピソードを紹介し、死刑廃止を訴える。

 駄目です、この本は。僕は、駄目だと思います。物事の捉え方があまりにも一面的に過ぎます。
 死刑執行人とその家族たちの悲劇は、確かに痛ましいものだと感じます。特に、本人ではなくその娘さんからのインタビューで構成される第八章には、涙を誘われました。タイトルにもある通り、死刑を行うことで執行官たちが苦しみ、傷を負うことになる点は、確かに問題であり、改善していく必要があると感じます。しかし、本作の論点はそこにとどまるべきなのに、たびたびぶれていくのです。

 死刑囚が、判決を受けてから執行まで、毎日を恐怖に怯え、息もつけずに苦しみ続けること。拘置所での生活が悲惨なものであること。死刑囚の遺族もまた生活を追われ、辛い思いをすること。それから、多くの死刑囚達が宗教や芸術に目覚め、崇高な人格に変容していく、こんな素晴らしい人たちを殺していいのか、という指摘。
 つまり、死刑囚やその遺族がかわいそうだ、だから死刑はやめよう、という単純な論理に何度もすりかわっていくのです。
 僕は、死刑には賛成です。もちろん、死刑制度というものが完璧だとも、最高だとも思っていません。ただ、考えられる限り、現時点では最も妥当だと、これ以外に解答はないだろうという見地から、そう考えています。
 集団で社会生活を送るためにはルールが必要なのは、言わずもがな。そのルールに反した場合には、何らかの罰を与えることも、他に解はない。そして、自己防衛などのやむを得ない場合を除いて、人を殺した場合、どうするか。他への見せしめ、犯した罪に対する罰、被害者の遺族に対する慰労、これらの意味で、もっとも妥当だといえるのは、死刑だと考えます。人を殺した人間が数年の懲役で出てこられるような社会よりも、人を殺したら死刑になる社会のほうを僕は望みます。
 死刑囚がかわいそうだ、と書かれていますが、別に、生まれてきたら死刑囚だった、ということではないのです。人種差別や部落差別とは、わけが違います。罪を犯し、その犯した罪に対してそうやって苦しむことが、罰として与えられたのです。端的に言えば、苦しんで当たり前、という以外に何があるのか。
 死刑囚の遺族がかわいそう、という点については、少し話が違います。アメリカなどでは、殺人犯の身内の人間が差別を受けることはあまりないと聞きます。これは、周りの人間の行動の是非を問うべき問題であって、だから死刑は良くない、とはならない。当たり前の話です。

 それから、本書に何度も出てくる、死刑囚の人格の話。死を目の前にして、崇高な人物に変わっていく、そんな人間を殺す権利があるのか、というやつ。これに対しては、罰という点で考えれば、罪を犯したあとでどんなに素晴らしい人間に変わろうが、そんなことは関係なく死に処せられる、そういう罰なのだ、とまず言いたい。それだけのことをやってしまった以上、どんなにそれを悔いても、もう遅いのだ、という罰なのです。
 だいたい、崇高な人格に変貌したと言いますが、そんなことがどうやってわかるのか。そういう「演技」をしている場合と、どうやって判別できるのか。さらに、「崇高な人格」とはいったい何なのでしょう?詩や俳句を書いたり、普段の見かけがなんとなく冷静沈着な感じだったり、涙を流して罪を悔いたり、こういう所見がみえたら、「崇高」なのでしょうか?ばからしい。そんなこと、人間に判断できるはずがないでしょう。イメージ先行の、浅はかな考えだとしかいいようがありません。

 本当に語られるべきなのは、そうやって崇高な人格に変貌した「かのように見える」囚人たちを、殺さなければならない刑務官の苦悩でしょう。そちらをもっとクローズアップしたほうが、問題解決の方向性が見えてくると思います。例えば、執行は普段囚人との接触がない刑務官にするとか、別の死刑囚や懲役囚が執行を行うとか。本作の中で、執行のハンドルを動かす人間を複数にし、誰のが本当に動いたのかわからないようにする方法が採られている、と書いてありました。これを作者は、苦しむ刑務官が増えるだけだと一蹴していましたが、僕は、解決の方向は間違っていないと思います。要するに、いかに死刑をなくすかということではなく、いかに刑務官の苦しみをなくすかということが大事なのだと。

 それから、殺されてかわいそう、ということについては、更に言いたいことが一つ。これは僕が自殺を擁護する理由とも重なるのですが、生きていくことが死ぬことよりも素晴らしい、ということが果たして言い切れるのかどうなのか。例えば、死後の世界が完璧に立証されて、それが素晴らしい世界だとわかったら、死ぬことだっていいことになるかもしれない。生まれ変わって、別の人生を歩めるかもしれない。「死」が「生」よりも劣る、とは誰にも決して断言できないと思うのです。
 なんか少し、会社を辞めることや離婚することに似ているような気がします。反対する人がもう盲目的に、今のまま頑張ってみろよ、と言ってる図式に。

 それからこれは、先の「崇高な人格」にも通じます。例えば、死刑にならずに生き延びた場合、もしかしたら一般社会に復帰してから苦労して自暴自棄になってくだらない人生を送るかもしれない、そのことと、死刑が確定した後に短い期間であっても宗教や芸術に目覚めて日々を送ることと、比べてどちらがいいと言えるでしょうか。そんなこと、誰にも「わからない」のです。どちらがいいと、言い切れるはずがないのです。だから僕は、一方的にこちらがいいと決め付けてかかる論法には納得できないのです。

 本書では、さらに冤罪の問題で死刑反対が唱えられますが、見当違いも甚だしいでしょう。冤罪云々は死刑の是非とは関係がなく、裁判制度そのもの、人が人を裁くということ全体の問題です。もちろん、できる限りなくしていかなくてはならないことですが、冤罪の可能性があるから死刑はやめましょう、ということにはならないはずです。
2001年 5月 「殺意/乃南アサ」 (双葉社・単行本)
真垣徹は、的場直弘を殺した。二人は、真垣が中学生の頃からの知り合いだった。なぜ殺したのか、との警察の問いに、真垣は決して答えることはなかった――。

昔読んだ「鬼哭」と対になる作品です。「鬼哭」では殺される側の心理、本作では殺す側の心理が描かれています。ずっと読みたいと思っていましたが、文庫版では「殺意・鬼哭」と併載になったため、新書版のものを探すのに苦労しました。
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 物語は、殺人犯真垣の独白に終始します。実験的で面白い試みだとは思いますが、成功しているとは言い難いでしょう。あまりにも堂堂巡りで単調で、深みがないと思います。結局真垣が的場を殺したことに、自分でも明確な理由が見出せない、それはなんとなくわかります。ただそのことを形を変えて何度も繰り返し、挙句の果てに、遺伝子によって受け継がれた殺戮の本能に結論を求めるという終わり方は、どうにもピンときませんでした。もう少し短くするか、あるいは「鬼哭」と組み合わせて、章ごとに殺す側と殺される側との心理が交互に語られるような形式にすれば良かったのではと感じます。
2001年 4月 「ガイアの思想/田坂広志 編」 (生産性出版・単行本)
地球は、それ自体が一つの大きな生命体である――。J・E・ラブロック博士の提唱する「ガイア理論」は、世に大きな衝撃を与えた。1997年11月、そのラブロック博士本人を含む、科学者・映画監督など5人のメンバーが集まり、ガイアについて対談を行った。対談の模様、およびメンバー各自の掌編を収録。

ガイア理論のことを知ったのは、遠藤周作氏の対談集「好奇心は永遠なり」からです。地球が大きな生命体であり、海水の塩分濃度や大気中の成分が一定に保たれているのはそのせいだ、というような考えでしたが、僕が一番面白いなと思ったのは、病気というものは実は地球全体の人口抑制のために存在する、という考えでした。天然痘がこの世からなくなった同じ年に、エイズの最初の患者が発見されているという例に、なるほどとうなずきました。
 この本は、ガイア理論について詳しく書かれたものではなく、ガイアを信奉する科学者たちが集まって行われた対談を収めたものです。それぞれが自分の立場で捉えたガイアについての意見を述べられており、それぞれ非常に興味深いものばかりでした。ただ、内容はなかなか高度で難しく、全て理解できたわけではありません。あまりにも様々なことが、この本の中に収められています。また何度か繰り返して読むことになると思います。
 参加者のガイアの捉え方も微妙に違っているのですが、なかでも一つ、環境問題との関わりについては、意見が明確に分かれていると感じました。地球のために我々人間が環境を良くしていく努力をすべきだ、というものと、いや、ガイアにはそんな人間の力を超越した自浄作用があるのでそんな必要はないんだ、という意見。僕はことあるたびに書いているのですが、後者の意見をとります。
 これは怠け者の都合の良い論理に聞こえるかもしれませんが、まず、人間と、その他の動物たちを分けて考え、人工対自然という図式を作るのが僕にはどうにも納得できないのです。僕ら人間は、地球という自然の中で生み出されたもので、別に、違う星からやってきたわけではありません。ただ少しだけ知能が高いというだけの動物ですし、しかも、普遍的に見て本当に知能が高いのかどうかも判断できるものではありません。それなのに、我々が地球を救わなければならない、などというのは傲慢だという気がしてならないのです。本の中(だったと思いますが)に、いいたとえがありました。人間が地球を救おうなどと考えることは、シンナー中毒でヘロヘロになった不良息子が、親に向かって「孝行するよ」と言っているようなものだ、と。
2001年 4月 「それから/夏目漱石」 (新潮社・文庫)
三十を過ぎて定職も持たず、親の金に頼って奔放生活を続ける代助のもとへ、仕事に失敗した親友平岡、そしてその妻三千代が現れる。三千代への秘めた想いを抱きながら、厳格な父に反発し、独自の生きる道を探ろうとする代助はしかし、自分で金を生み出せないという事実と、道ならぬ恋に対する世間の非情を思い知る。

面白かったー。「三四郎」がどうも馴染めなかっただけに、その続編ともいうべき本作にもそれほど期待していなかったのですが、テイストは全く異なり、ひょうひょうとしながらも奥に深い思索を伴った、僕の好きな「こころ」に似た作風でした。
 昔ながらの考えを絶対に曲げようとしない父親に対する反発。若者なら誰しも体験するところではありますが、いかんせん経済能力や世間体にどうしても左右されざるをえない現実との折り合いに苦しむ様は、時代を超えて共感できるものがあります。そう、10代20代の頃と比べて僕も、この「折り合い」ということを意識するようになりました。自分の本当の理想とするものと、現実に実現可能なものとの折り合いをどうつけていくのか。特に、仕事においてそれはしょっちゅう考えることです。それだけではない、はずなんですけどね。
2001年 4月 「株をはじめるための本/ダイヤモンド社 編」 (ダイヤモンド社・単行本)
株価が上下するしくみ、株の種類や各種資料の読み方からはじまり、株の買い方、種類の選び方など、初めて株に挑戦しようという人に向けた入門書。

うーん、感想は、掲げた点数の通りです。この手の本はいっぱい出ているのですが、あまりいいのはないものですね。まず、専門用語を説明するのに専門用語を使わないこと。やたら図を載せればいいもんじゃない、丸や四角で囲んだ文字と矢印で構成された図なんて、書いているほうが考えるほどわかりやすいものではないこと。本を読んだ人が最終的にどういったメリットを享受できるのかを考えること。そのあたりを考えてほしいな、と思うわけです。
平成3年秋、「本の学校『作文術』」と題する講座が開かれた。作家久美沙織氏が、全くの作文程度の書き方からはじまり、小説家を目指して新人賞に応募する場合のテクニックにいたるまで、実践的な手ほどきを行い、評判となった。その講座内容をここに収める。

文章関連の本は、2月に読んだ「うまい!と言われる文章の技術」に引き続きとなります。本作は、小説家を目指す人々にとっては必読の書と言われ、長く愛されているようです。講座の内容を収めたものですが、毎回、その場でテーマが出され、受講者が15分程度で書いたものの中から選りすぐって次回の講座で添削をする、という手法がとられています。具体例で示されるのでわかりやすく、ためになりました。
 また、小説を書く、ということについて言うなら、「マクガフィン」という概念には驚かされました。簡単に言うと、「脇役をうまく書け」ということになりますが、目立たないところは目立たない風に書く、というようなことでしょうか。なるほど、と感心しました。
2001年 4月 「殺戮にいたる病/我孫子武丸」 (講談社・文庫)
若い女性を狙い、殺しては陵辱を繰り返すサイコキラー、蒲生稔。被害者の一人と知り合いだった元刑事は、その妹と共に、事件の真相に迫る。そして犯人は――。

スーパーファミコンやプレステのゲームになった「かまいたちの夜」の原作者、我孫子武丸氏の代表作とされる作品です。<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>僕は最初、ホラーサスペンスものだと思っていました。その殺人シーンのすごさが「売り」なのだと。犯人、元刑事、犯人の母親という3人の叙述が繰り返される形で構成されています。最初は独自に動いていたこれら三者が、話が進むにつれ段々と接近していきます。そのスリルを味わうものだと思っていました。それがあのラスト!何かあるかなとは思っていたのですが、全く見事に騙されました。この作品、分類としては本格推理ものに入るようです。最初にそれを知っていなくてよかったと思います。
2001年 4月 「葉桜の日/鷺沢萠」 (新潮社・文庫)
自分は何者なのか。どこから来て、どこへ行くのか。青年ならば誰しもが抱くこれらの思いを淡々と描く二作品「葉桜の日」「果実の船を川に流して」を収録。

才能、ですね。まざまざと思い知らされました。青年期の男性特有の考え方、そして行動の仕方が見事に描かれています。これを女性が書いたことにまず驚かされ、しかも二十歳そこそこで書いたということにまた驚かされました。
 二作品のうち、個人的には「果実の船を〜」がより素晴らしいと感じました。とにかく、そこに出てくるキャラクターが正に生きているという実感があるのです。そして、ひょうひょうとやり過ごしているように見えて実はいろんなことを考え、感じているのだという若者の内面を見事に捉えてある。凄い。
2001年 3月 「赤い雨/戸梶圭太」 (幻冬舎・文庫)
赤い雨が降ったその日から、日本中で似た事件が多発する。今まで不当に虐げられてきた人たちが反旗を翻し、報復行為を行い始めたのだ。いじめっ子が、非道な起業家が、ひき逃げ犯が、次々と殺されていく。通常の倫理観を無視した私刑が横行するパニック小説!

最近元気な戸梶さんの、「問題作」と言われる作品です。主に少年犯罪などで、加害者の人権だけが手厚く保護され、被害者側がないがしろになっているような現状に、真正面から「それって、おかしいんじゃないの?」という疑問を小説ならではの形でぶつけた作品と言えるでしょう。考え自体はおおいに結構だと僕は思います。

 ただ、小説としての出来はどうかというと、ただ単純にその反抗を、事件としていくつか並べただけにすぎないと思うのです。それ以上のものは何もありません。被害を受けた時の報復というのは常に人々が抱く幻想だけれど、だからといってそれをそのまま許してしまっても仕方がない、とか、報復行為は所詮むなしいものだ、とか、何かしらのメッセージなりがあればいいかなと思うのですが。

 ところで、これを読んで思い出したのは、僕の敬愛する藤子・F・不二雄さんの一連のSF短編群でした。例えば、「ウルトラ・スーパー・デラックスマン」という作品があります。ある日突然絶大な力を得たサラリーマンが、悪いやつらをどんどんと倒していく。やがて彼は、悪者を見つけて倒すことに使命感を感じるあまり、ほんの些細なことでも力を発揮するように変貌していきます。そして誰からも恐れられるようになり、自身も他の人間を避けて住むようになる。つまり、「絶対的な正義」とか「真に理にかなった裁定」とかを人は望むが、それは非常に危険な概念であり、そして実はそんなものなどない、そんな願いは決してかなうことはない、といったところでしょうか。
「私」には、二人の父さんがいた。一人は実の父親で、高い教育を受けて良い会社に入り、働き続けることが第一だと教えてくれた。彼は生涯働き続けたが生活は楽にならず、常に請求書に追われ、そのためにさらに仕事を増やしていった。もう一人は友達の父親で、「私」に、金持ちになる方法を教えてくれた。「金のために働く」のではなく、「金を自分のために働かせる」ことを教えてくれた。彼は、町で有数の資産家だった。

現在、ベストセラー本に名を連ねているこの本のことは、あるサイトで紹介されていた記事から知りました。そのサイトの管理者が絶賛していたのを読み、金持ちになる方法論が書いてあるとの紹介に惹かれたのです。
 今や大金持ちになった作者の幼児期から、話はスタートします。「金持ちになりたい」と思い立った作者は、友達の父親に教えを請い、アルバイトをさせられます。彼の教えは、「金を自分のために働かせろ」ということでした。
 もう、出だしからワクワクして読み止まりません。話は、損益計算書と貸借対照表の読み方をマスターしろ、資産と負債の違いを見極めろ、など実践に及んでいきます。
 しかし結局のところ、金持ちになるための具体的な方法論はほとんど書かれていません。どちらかというと、心構えというか、精神論に終始しています。もちろん、具体論は、時代や国によって異なりますし、状況も変化していくので、ここでもし書かれていたとしてもあまり意味はないでしょう。それでも、株や不動産の運用例が、2,3書かれています。
 刺激されましたよ、正直。今現在の自分の資産の運用方法を考え直してみようと思っています。本の中では、安全重視のポートフォリオでは意味がない、増えるのはごくわずかだ、という記述がありました。確かに僕もうっすらとそう感じることはありました。ただそれを、闇雲にまたリスクの高いやり方に変えるのも能がないと思います。ここ何年か、為替連動債券や日経平均連動債券で痛い目に遭っていますから。
 この本の中では、不動産と株が、資産としての二本柱だと書かれています。とりあえず、株をやってみようか、今は絶好のチャンスだし、なんて考えたりしています。
2001年 3月 「占星術殺人事件/島田荘司」 (講談社・文庫)
完全な密室と化した土蔵の中で、男の死体が発見された。死体のそばで見つかった手記には、6人の処女の体で完全なる女性を作り上げようとする計画が残されていた。やがて、殺された男の娘六人が行方不明になり、日本各地で死体となって発見される。死体からは全てどこか一部分が切り取られていた!

「週刊文春」の20世紀のベストミステリの何位かに選ばれ、絶賛されていました。その設定を見て、読もうと思い立ったのですが、評価通りに楽しむことができました。こういうガチガチの本格推理ものというのは意外に読まないのですが、やっぱり楽しいです。この不可能犯罪が、どのように暴かれるのか、そこにどんな真実が隠されているのか。しばらく生活の一部になってしまうほどです。
 「アゾート」と呼ばれる、六人の女性の体の一部分を使って完璧な女性を作り上げる、という出来事の裏に潜む真実。これがわかった時は、唸りましたね。うーむ、なるほど。こういうことか、と。<注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>ただ、それ以外の謎の解決が今一つのように感じました。足跡や一枝殺し、特に密室の謎については、ぞんざいに扱われたような気になってしまいます。それほどアゾートの謎が強烈だということかもしれませんが。そういえば、このアゾートと全く同じトリックが、「金田一少年の事件簿」で使われていたらしいと、ネットで知りました。僕は「金田一の〜」もよく読むのですが、幸い、トリックは覚えていませんでした。それにしても残念な話ですね。

島田荘司作品はこれで初読でしたが、次には「奇想。天を動かす」か「異邦の騎士」なんかを読んでみたいと思います。
朝日新聞論説委員の立場から語られる、良い文章、人を惹きつける文章を書くためのポイントの数々。

こういった解説書の類は、説教臭さが滲み出て気分を害することも少なくはありません。読み始めた時には少しそれを警戒していたのですが、読み進めるうち、そんな心配はないことがわかってきました。「自分も自信はないけれど、何か役に立てれば」という姿勢で書かれていて、素直に読めるのです。(というと逆に僕の言葉が偉そうに感じられるほどに。)
 内容は実践的で、結構ためになります。僕も、人の書いた文章に対して、言いたいことが一つだけあります。それは、「たった一度でもいいから、自分の書いた文章を読み返して下さい」という、それだけ。ほんとに、たったこれだけのことをしていない人が実に多いのですよ、「立派に」働いている社会人の中にも。数枚の文書の中で、一カ所二カ所の間違いは、誰にでもあります。それが、1ページに複数箇所の間違いを発見することがあって、閉口してしまいます。一度見直せば、ほぼ全ての間違いを発見することができます。それをやらない人というのはもう、文章を書く以前の問題ですね。
2001年 2月 「原民喜戦後全小説<上>/原民喜」 (講談社・文庫)
その日の朝、突然、私の頭上に一撃が加えられ、眼の前に暗闇がすべり墜ちた−。八月六日、原爆の投下された広島の惨劇を描いた連作「夏の花」「美しき死の岸に」を収録。

原民喜さんという作家は、遠藤周作さんのエッセイで知りました。その中で、広島で被爆し、東京に出てきたが人とあまり話さず、最後に鉄道自殺を遂げてしまったことを知りました。それから原さんの小説を探し、ついに講談社から発売されているのを見つけ、読むことができました。が、途中で挫折してしまいました・・・。
 僕の場合、読むのが極端に遅く、体調が悪いと、本当に読み進めるのが辛い時があります。それも、抜群に面白い話なら何とか読めるのですが・・・。面白くないわけではありません。恐らく、自身の体験なのでしょう、広島の惨状を事細かに記した内容はリアルではあるのですが、あまりに淡々としていて、代表作とされる「夏の花」を終えた時点で、本を置きました。また、その気になった時に、続きを読みたいと思います。
「かんたんにしあわせになりたい」をキーワードに、いかにも現代人が抱きそうな悩みの数々を、簡単な言葉で解き明かす。4歳児「なると」と飼い犬「ゴン助」が中心の、テーマに沿った4コマ漫画も併載。

著者は、NHKの人気アニメ「おじゃる丸」の原案者でもあります。この手のお手軽啓蒙本は久しぶりですが、時々、はっとする言葉が書いてあったりして、そこそこ楽しめました。
 漫画に出てくるキャラクターも可愛くて良いです。特に、犬のゴン助。人間のヨーコさんのことが好きになるが、犬であるという理由で振られ(当たり前だが)、人間になろうとするが最後はこのままがいいと落ち着いて終わる。振られる前後の表情がいじらしいです。
2001年 2月 「共犯者/山崎永幸」 (新潮社・単行本)
1994年、世間を騒がせた愛犬家連続殺人事件。犯人がなかなか挙げられなかったのは、死体が見つからなかったからだ。しかし、共犯者の山崎は見ていた。目の前で、被害者たちが「透明に」されていくのを−。

かの悪名高き「愛犬家連続殺人事件」。この本は、共犯者として死体遺棄で逮捕され、実刑3年を言い渡された山崎氏本人の手によるノンフィクションです。実際に彼が書いたものかどうかはわかりません。と、疑ってしまうのも、内容が実によくできているからです。
 記述によれば、主犯の関根元は、殺人を犯したあと、必ずその死体を解体し、肉や内蔵は細切れにして川へ捨て、骨は焼いて灰にし、やはり川に流すという方法で処分してきた。この内容がすさまじい。「OUT」と被るようですが、こちらは何せ、事実ですからね。風呂場で解体をし、女性ならば屍姦さえ行ってしまう関根をそばで見ながら、いつ自分が同じ処理をされるかもしれない、と考える恐怖感は、実際にその場にいた著者でない限りは書けないでしょう。読んでいて、ちょっと気持ちが悪くなります。
2001年 2月 「メルキオールの惨劇/平山夢明」 (角川春樹事務所・文庫)
他人の不幸をコレクションする老人の依頼で、男は寂れた町に建つ一軒家に立ち入る。目当ては、若き未亡人が手にかけた息子の、頭蓋骨だった。しかし男は次第に、この家や町に潜む異常な空気に気付く。

牧野修氏を初めて読んだ時と同じような感覚に襲われました。これぞモダン・ホラー、といったところでしょうか。文体が独特で良いですね。特に、シニカルにぶっ飛んだ比喩が冴えていて、才能を感じます。作者は、B級ホラーの評論なんかもやっているらしいのですが、カルトな世界での幅広い知識を持ち合わせていらっしゃるようです。
 話は、日本なのかアメリカ西部なのかよくわからない町の、一軒家の中でほとんどが語られます。この町の雰囲気が文章からすごくよく伝わり、頭の中にしっかりと風景が出来上がっていきます。見事な表現力です。キャラクターも素晴らしく、これを読んだ人はみな、鎖に繋いだ犬を頭の上でプロペラのように振り回しながら登場する朔太郎に唖然とすることでしょう。
 ただ、中盤まで素晴らしかった内容が、後半なぜか急ぎ足になり、最後もうまく落ちたとは言えないような終わり方になっているように思います。また、キャラクターも御都合主義で動いているように思える所が、やはりラスト近くにありました。
 でも、一読の価値アリ、でしょう。ハードボイルド好きには、その語り口が好まれるかもしれません。
2001年 1月 「蕎麦ときしめん/清水義範」 (講談社・文庫)
鹿爪らしい言葉で書かれた論文や社史ほど、その見当外れぶりに笑いを禁じ得ない場合がよくある。人が文章を書くということのおかしさ・不思議さを徹底的に追求し、パロディ化する、清水義範パスティーシュ小説の原点とも言える作品集。

ヨーロッパの旅行中に読もうと購入し、持って行ったが読まずに終わった作品です。旅に出る時にはだいたい清水氏の作品を1冊持って行きます。ただ、長年ずっと読み続けてきたせいか、食傷気味になってきました。かなり初期に出た作品なので、それ以後の熟達した作品群と比べると、見劣りするのかもしれません。
 名古屋出身の著者が、名古屋人の言葉や特質をデフォルメして書くタイトル作、僕も名古屋に住む、非名古屋出身人として、なるほどとうなずかされました。その他では、結局は間違いだったと発覚する研究論文の前書きを集めた「序文」と、イカサマ麻雀の老人達を描く「三人の雀鬼」が気に入りました。この人の書く老人は最高ですね。本人も、少しピントの外れた老人達を書くのが好きなのでしょう。
2001年 1月 「死の接吻/アイラ・レヴィン」 (早川書房・文庫)
富豪の三人姉妹の末っ子ドロシイに取り入り、その財産を狙った『彼』だったが、結婚前に彼女の妊娠が発覚してしまう。計画変更を余儀なくされた『彼』は自殺に見せかけてドロシイを殺害し、次女エレンに手を延ばす。妹の自殺を信じられず、独自の調査を開始したエレンの前に現れる男達−。『彼』は、一体この中の誰なのか!?

過去に名作とうたわれた作品には、定期的に手を出して読んでいます。もちろん、事前にあらすじを見て気に入ったものに限りますが。今回、またも翻訳もの苦手なのが発露してしまいました。どうにも読むスピードが上がらず、自分の気持ちも盛り上がらぬまま読み終えることになりました。ただ、面白くなかったかというとそうではありません。この作品の特徴としてよく挙げられると思いますが、物語前半部のドロシイとの絡みにおいては男の名前を伏せておき、その後のエレン編において男を何人か登場させ、読者に犯人が誰かを推理させるという点。このアイデアには感心しました。それから最後に長女マリオンが登場し、作品の注目点は、彼の犯行がどのようにばれるのか、あるいはばれないのか、ということに移っていきます。最後まで読者を飽きさせず読ませる工夫がなされています。これを書いた作者は当時23歳だという話ですが、すごい頭ですね。
2001年 1月 「コンセント/田口ランディ」 (幻冬舎・単行本)
引きこもりの末、自宅アパートで死んだ兄。葬儀に出向いた後、ユキは彼の幻影に消耗し、元恋人であった大学教授を訪ねる。精神分析を続ける彼女の前に提示されたのは−。

昨年話題作となり、新聞の書評を見て以来、読みたくてしかたなかったこの作品。しかし、思ったよりも淡々とした流れで、読むのに時間がかかってしまいました。
 作者は女性なのですが、まず思ったのは、「女の考えていることはよくわからん」ということ。特に、何度となくセックスの描写がでてくるのですが、そこに至る導入、というか、なんで今この男に抱かれるのかという理由づけがわからんのです、ハイ。
 小説の中の言葉としては、「欲情して」と書いてある。ただ、男の欲情とは根本的に異なる気がする。男は対象を見て欲情するのに対し、女は内からそれを感じる、というのか。何故にこの時この場で「欲情して」しまうのか、とんと理解できません。相手の男が特別かっこいいとか魅力的とかでもなく、逆にそいつを軽蔑してたりするのに、ですよ。もちろん、これを総じて女はどうこう、というのは乱暴でしょうが。この主人公は、公園の便所にいた浮浪者ともいたしてしまうのですから。
 ともあれ、話は引きこもりの兄の死からはじまり、様々なテーマを内包して進んでいきます。自然と超自然との間を行ったり来たりするのが、慣れないうちは自分の中でうまく消化できず、それが読み進まなかった原因かもしれません。
 <注意!!以下、少々ネタバレ気味です。読みたい方はマウスでドラッグして表示させて下さい。>他人と繋がるコンセントを抜いたのは、実は自分自身だったのだ、というのは面白いと思いました。そこからシャーマニズムにまで発展するのも凄いと思います。処女作には作者の言いたいこと全てが詰まっている、とはよく言われますが、本当にいろんなことがこの作品には詰まっている、そんな気がします。
2001年 1月 「夜の蝉/北村薫」 (文藝春秋・文庫)
日常の中にミステリーは存在する−。書店の専門書がなぜか数冊まとめて逆に並べられていた。避暑地の別荘ではチェスの駒が消え、劇場の座席には、来る筈のない人が座っていた。円紫師匠と<私>が活躍するシリーズ第2弾。

読みながら随所で、「巧いなあ」と感心することしきりでした。ストーリーの流れが、というより、言葉の選び方が本当に上手だと思います。作者のセンスと、文学をはじめとした豊富な知識がミックスされて、このような作品が出来上がるのでしょう。前作「空飛ぶ馬」に比べると、二作目というのもあってやや衝撃には欠けます。特に、ミステリーと、少女達の生活模様という二つのテーマにおいて、前作はやや前者よりなのに対して、本作は後者よりになっています。それが少し冗長のように僕には思えたのはたぶん、僕がミステリー的要素を好むという、正に好みの問題でしょう。僕には、「空飛ぶ馬」でのバランスが最適に思われました。
 といっても、安心して楽しめる良品であることに変わりはありません。すいすい読めて、後でじわっとくる。そんな読感も好きです。ちなみに、三作の短編が含まれていますが、僕の一番は「六月の花嫁」です。