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scene 21

scene 21 : the look of love (dos)

その後はホテルの周辺を散策したり海辺に降りたりして過ごし、夕方部屋に戻って軽くシャワーを浴びて汗を落とした。何か声がしたようだったのでバス・ローブ姿のまま浴室から顔を出すと、彼が窓側にあるベッドサイド・テーブルの電話を切ったところだった。

「意識が戻ったそうだ」振り向いた彼が短く言う。
「それで?」
「『犯人の顔は見ていない ― と、彼は言っている』らしい」

あまり予想していなかった答えだったので少し拍子抜けしたが、彼の慎重な言い方が気になった。

「そう言ってるけど、実際は犯人を知っているかも知れない、っていうこと?」

「僕は警部の言った事をそのまま繰返しただけだ」とことさら関心がなさそうに言った彼は、すぐにいたずらっぽく片眉を上げる。「が、彼の話し振りからして君の説もあり得ると考えてはいるようだ」
「でもご主人の言う通りだったとすると、さっきの参考人の男性はどうなるのかしら。そうだわ、そのひとのことは聞いてみた?」

彼は普段は寡黙だけれど、必要となればわたしなどよりもずっと饒舌になるし、さりげなく相手を誘導して聞きたい情報を喋らせたり、直接核心には触れない話をしながら相手の言葉の端々から欲しい答えを導き出したり、ということさえできてしまう。わたし自身時々この手に乗せられてしまうのだ。わたしやこのホテルの従業員よりは口が固い(はずの)警察官でも、彼なら雑談に紛らせて周辺の情報を2、3引き出せそうだ。案の定、彼は即座に答えた。

「取引関係の知り合いで地元の人間らしい。矢張り朝食堂で見掛けた人物のようだが、部屋には行ったが仕事の件の確認でほんの数分話しただけで直ぐに帰ったという事だ。夫人は仕事の話の邪魔にならないよう席を外す事にしたらしいね」

「それで、時間を潰すために庭に出たのね」
「因みに、夫君は違うが奥方の家族が元々この土地の出身で、それもあって夫君は折に触れて地元に寄付や援助をしているそうだ」
「ここの住人じゃないのに名士扱いなのは、そういうことなのね。でも、ご主人もその取引仲間はすぐ帰ったって言ってるなら、結局その男性は関係ないのかしら」
「証言が本当だとすればね」
「もし嘘だったら?」
「実際は二人の間には何か諍いが起こって、その結果傷害事件に発展したかも知れない」
「でも、殴られたご主人本人がそうは言ってないんでしょう?」
「彼を庇う事で、何か自分の利益になる事があると考えたのかも知れない」
「弱味を握ったっていうこと?そういう計算高いタイプなのかしら。ここで見た感じは快活でらいらくなひとのようだったけど」
「私生活では君の言う通りかもしれないが、仕事については結構なやり手のようだし、必要なら駆け引きの材料になりそうなものは利用する可能性もある。無論、今の推測は全て『彼は実際は犯人を知っている』という仮定に基づいたものだから、実際彼は全く裏表の無い人物で誰に殴られたかも本当に知らない、という可能性も充分ある」

「奥さんは今、どうしているのかしら」ふと気になって呟いた。
「殆ど夫の傍を離れずに献身的に看病しているそうだ」
「そう、警部さんが教えてくれたの?」

少し皮肉を込めた問いに、彼は悪びれもせずににこりとした。

「君の見立ては間違っていなかった訳だ。夫婦仲はすこぶる良かったそうだ」

今朝ちらりと見た、青ざめて今にも倒れそうな様子の彼女を思い出す。ほっそりしてたおやかな印象の、笑顔がどこか少女のように愛らしい女性だけに、余計に痛ましかった。もし、自分が彼女の立場に立ったとしたら。彼があんなことになって、半日も意識不明になっていたら ― 考えただけで身がすくんだ。たとえ命に危険はないと保証されても、彼が目覚めるまで生きた心地がしないだろう。そう思うと他人の気楽さであれこれと素人推理をしたり、彼女が犯人である可能性まで考えているのが何だか申し訳なかった。

ふいに、彼がわたしとの間を隔てていたベッドにぽんと片手をつき、その上を軽々と飛び越えた。そのまま眼の前に腰を下ろした彼は、見下ろしたまま突っ立っているわたしの手を取った。まだ驚きから覚めない状態で促されるまま膝に座ったわたしを、彼は少し眩しそうな眼で見つめて言った。

「確かに、殆ど話した事もない赤の他人について無闇に詮索したり推測したりするのは不謹慎かも知れない。だが今回の件では君と僕は少なくとも関係者な訳だし、例え口には出さなくとも事態の進展が気になるのは無理からぬ事だと思う。だとすれば、胸の中で独りあれこれ思い巡らせるよりも話してしまった方が健康的だし、考えも整理出来るだろう。実際のところ今朝の一件以来、ここのホテルの従業員は殆どが臨時私立探偵と化しているようだしね。無論自分から客に対してその話題を出したりはしないが、多少水を向けてやると謹んで『ここだけの話』を耳打ちしてくれる。第一発見者が君だと知っている者の間では、君は勇気あるヒロイン扱いだ」
「まさか」
「いや、こういう話は得てして誇張されて伝わるからね。この辺りは気候的に暖かい事もあってか住民も温和で人なつこいが、噂話好きという性質も持ち合わせているらしい。中には撲殺されそうになって悲鳴を上げた被害者の部屋に君が飛び込み、暴漢を返り討ちにしたと思っている者も居るようだ」

あまりの尾ひれのつき具合に唖然として聞いているわたしに、彼は続けた。

「ここまで脚色された話が伝わっているとすれば ― 勿論無闇にそんな事を吹聴して回る者は居ないだろうが ― 実は第一発見者が犯人かも知れないという大胆な推理を展開している者が居ても不思議はない」
「わたしが?昨日会ったばかりのひとを蝋燭立てで殴るの?」
「または僕がね。実際にあの短い時間にあの部屋で何があったかは、その場に居た者しか知り得ない。或いは口裏を合わせて単なる第三者を装っているかも知れない。僕達の部屋は直ぐ隣だし、ホテルで働いている者なら客同士の揉め事や苦情を聞く事も珍しくはないだろう。従業員には知らされなかったそういういざこざが何かの弾みで拗れたかも知れない。若しくは元々知り合い同士で何か怨恨があったか ― そこまで飛躍して考えている従業員が実際に居ると言っている訳ではないが、こういう非日常的な事件が起こればある程度の好奇心を持ち合わせている者なら多少なりとも罪の無い推測や憶測を巡らせているだろう」

自分自身について色々と突拍子もない推測が飛び交っているのかも知れない、と思うと何だかおかしくなってきて、そして少し気分が軽くなった。確かに、さまざまな人が出入りするホテルでも今回のような『事件』はそうしょっちゅうあることでもないだろう。老舗ホテルとは言っても、そこで働いている従業員はわたしたちと変わらない人並みの好奇心を持った人間なのだし、表向きは粛々と仕事をこなしながら、身内だけになれば色々とうわさ話をしていても何の不思議もないのだ。実際に当事者達の名誉や心情を傷つけるようなことをしたりしない限り、日常生活に多少のスリルを求めることは誰にでもあることなのかも知れない。

彼は、必要もないのに他人のことを詮索したり、それを別の人に広めたりするようなひとではもちろんないけれど、人の性質や行動についてはある意味割り切ったところがあって、いわゆる俗っぽい見方や考え方なども、何か意味や価値があると思えば抵抗なく受け入れる。今度のことで彼があえて『俗っぽい』素人推理を進んで楽しんでいるように見えるのは、彼自身ほかの種類の本とあわせて推理小説もよく読むこともあるかも知れないけれど、多分わたしがあまり余計なことをあれこれ考えて、せっかくの休暇を沈んだ気分で過ごすことにならないよう気を遣ってくれているのだと思う。

「じゃあわたしたちも、万一本当に警察に疑われた場合を考えて、なぜ自分が犯人じゃないかをはっきり論証できる準備くらいはしておいた方がいいのね」

ちょっと冗談めかして言うと、彼は微笑んだ。

「多分ね。それはともかく、今夜は部屋で何か頼む事にしようか?」
「夕食?あなたがそれでよければ、構わないけど」
「いや、そのまま着替えない積りかと思ってね。僕は一向に構わないが」

彼の視線を追って自分の胸元に眼を落として、初めて自分がまだバス・ローブ姿だったことを思い出した。くしゃくしゃに乱れたままの髪をもてあそび始めた彼の手をすり抜けて、わたしはあわててもう一度浴室に駆け込んだ。


*


気がつくと、周りが明るかった。もう朝?彼の姿は見えないけれど、窓のカーテンは既に一杯に開いてある。窓を開けて風を入れるために一歩踏み出して、突然気づいた。

違う、これはわたし達の部屋ではない。ここは、隣の ― これ以上、進んではだめ。ここから出なければ。ベッドの向こうに何があるか、もう分かっているもの。彼を呼びに行かなければ。けれど、体が言うことを聞かない。頭は戻れと命令するのに、足は一歩ずつ窓際へと進む。空気が重く沈んで、息が苦しい。眼をそむけたいのに、それもできない。ゆっくりと歩を進めるにつれて、床に落ちている燭台が視界の中に入ってきた。そして、窓の下に倒れているあのひと ―

目が覚めた。辺りはまだ暗い。上体を起こして覗き込んでいた彼に気づいた瞬間、言いようのない安堵感に包まれた。ほとんど飛び込むように抱きついたわたしを、彼はしばらく黙って抱き締めてくれた。それでもその胸にしがみつくようにして、体温と規則正しい心臓の鼓動を確かめる。夢の中で目の前に倒れていたのは、彼だったのだ。夕方、もしも自分があの奥さんの立場だったら、などと考えていたせいかも知れない。

「大丈夫か」わたしが落ち着いたのを見計らって、彼が言う。
「ええ ― ちょっと、怖い夢を見ちゃった」
溜息をついて体を離すと、彼が枕元の灯りを点けた。

「今朝の事か」

頷きながら、何がそれほど気にかかるのだろう、と日中何度も漠然と自問していた疑問をもう一度考えた。あちこち歩いたり、彼と話をしたりして最初のショックからはじきに回復したし、身近で起こった小説のような出来事にわくわくしさえしたけれど、それでも何か嫌な感じのするものが、ずっと小さなとげのように胸の片隅から抜けなかった。もちろん、今朝のような場面に行きあわす機会などそうあることではないし、実際に暴力的な場面に居合わせてはいなくてもショックは充分に大きい。自分が極端に恐がりだとは思わないが、血を流して倒れている人を目の前にすれば気分が悪くなってもおかしくはない、と思う。あのご主人が気を失っているだけだと分かった後は大分気が楽になったけれど、それでもあのとき自分が感じたもの ― 何と表現していいか分からない『それ』が、朝以来ずっと心に引っ掛かっていたのだった。

彼の指先がふわりと頬に触れて、自分がうつむいて考え込んでいたのに気づいた。彼はいつもするように少し首を傾げて、わたしの眼を覗き込んだ。

「君はあの時、彼が ― 」彼は慎重に言葉を選んで言った。「生きているとは思わなかった。そうだね」

ゆっくりと、わたしは頷いた。そう、あのときわたしは、倒れている男性がまだ生きているなどとは夢にも思わなかった。だから気絶しているだけだ、と彼が言ったときとても驚いた。なぜ?なぜそれほど確信していたのだろう。確かにあのとき視界にに飛び込んできた光景はまるで、推理小説かドラマに出てくるようなものだった。真鍮の燭台が落ちていて、側には人が血を流して倒れていて、小説なら殺人事件の場面そのものだ。まさに絵に描いたような『書斎の死体』的場面に遭遇して、すっかり彼が殺されたものと思い込んでしまったのだろうか。そう言ってみると、彼は少し考えて、

「そういう事も確かにあるかも知れない。単に倒れているだけではなく、頭に怪我をしているのを見れば余計にね。だが、彼が間違いなく死んでいると君が直感的に判断した理由が他にあるんじゃないのか」

静かで揺るがない眼と、柔らかだけれどしっかりと支えてくれるような低い声の効果だろうか。今まで自分でもはっきりとつかめずに口に出すのをためらっていたことを、言葉にできるような気がしてきた。

「あのね ― 笑われるかも知れないけど」けれど、彼が誰であれ話している相手の言うことを笑い飛ばしたりしないことは、自分が一番よく知っている。「最初にあの部屋がおかしいと思ったとき ― 人の声かそれに似た音か、何かが聞こえてドアに近づいたとき、何て言えばいいか分からないけど、とても変な感じがしたの。部屋に入って、間取りや調度品や内装の色合いもこの部屋と大体同じようなのも見て取れたけど、こことはまるで違うように感じたの。ベッドの向こう側に、あのひとが倒れているのを見つける前から」

言葉を探して迷っていると、彼が助け舟を出してくれた。

「空気が違った?」

また、ゆっくりと頷く。

「この部屋の隣だもの、陽射しの入りかたなんかもそう違いはないでしょう?わたし達が食堂に行くときと同じように、あの部屋もカーテンを一杯に開けてあったし。でも、この部屋ではとても明るくて気持ちよく感じたのに、あの部屋は何だかとても変だったの。窓の外は明るい青空なのに、部屋の中はどこか寒々しく見えて ― とても妙な雰囲気だった。息苦しくて、まるで ― まるで、空気そのものが死んでいるような」

あの男性の青ざめた横顔が、また脳裏に浮かんだ。血の気のない頬、髪を濡らして額に流れ落ちる血さえ色を失ったようで ― ぞくりとして思わず唇を噛む。けれど、抱き寄せてくれた彼の肩に頭を載せていると、何だか今自分の言ったことがとても馬鹿げたことのように思えてきた。

「やっぱり、わたしの思い込みね。あなたが抱きとめてくれたときも、部屋の空気が ― 何て言うのかしら、歪んだような揺れたような気がして、めまいがしたの。自分がそんなに臆病だとも、想像力がたくましいとも思ってなかったけど。きっと推理小説に感化されすぎなんだわ」
「そうとも言えないかも知れないな」
「え」

彼は数秒間じっとこちらを見つめてから、口を開いた。

「昼間も言ったが、君は自分で認識しているよりもずっと正確にあの場を見て取っていたのかも知れない」

予想もしなかった答えだった。時間の感覚がどうとかいう話はともかく、『変な雰囲気だった』などという漠然としたことはきっとその後に見た異様な光景に影響されて、後から経緯を思い返した自分が無意識に付け足してしまった脚色のようなものだと思っていたのだ。

「じゃああなたも、そんなふうに感じたの?」
「いや」
「なら、やっぱりわたしの妄想だわ」

がっかりして言うと、彼は微笑んだ。

「そう判断してしまうのはまだ早い。もう一つ気になっていた事があったんだが、君が警部の質問に答えていた時、姿見と帽子掛けが窓際に移動してあったという話をしただろう」
「ええ」
「あの時、君は何か別の事を思い出したんじゃないか」

「何かって ― 」
問い返そうとした言葉のなかばで、ふいに思い当たった。彼を見ると黙って先を促されたので、わたしは頷いた。

「そう ― その話をしたとき、あの帽子掛けにハンガーが下がっていて、そこにあの青いスカーフがかけてあったのを思い出したの。ちょうどわたしが、肩掛けを下げておいたみたいにして。でも ― 」
何をどう言えばいいのか分からなくて、もう一度彼を見る。

「あの時、幾つかの証言を総合すれば夫人は裏庭に出ていた。直前に僕達が夫妻に会った時には彼女はあのスカーフを首に巻いていたから、彼女は証言通り一度夫とその取引相手と一緒に部屋に戻り、その際にスカーフを外し、その後再び部屋を出た事になる」
「そうね。そうなんだけど ― 」
「だが次に僕達が彼女を見た時、彼女は再びあのスカーフを身に着けていた」

そうなのだ。ご主人が担荷で運び下ろされるのに付き添ってきた時の彼女は、確かにあの青いスカーフを首に巻いていた。警部に帽子掛けのことを話した時、あの時の彼女の様子もふと一緒に思い出したのだった。

「でも、ホテルの人が駆け付けた後に外から戻って、ご主人に付き添って行くことになったときにまたスカーフを巻いたなら、別におかしくないでしょう」

なかば彼に確認するように言いながら、自分自身引っ掛かるものを感じていた。今にも倒れそうなほど取り乱した状態の彼女に、一度外したスカーフをまた巻いてから出かけようなどと考える余裕があっただろうか。その疑問も既に察しているらしい彼は、直接わたしの問いに答える代わりに言った。

「夕方の電話で警部が、明日の朝もう一度ここに来ると言っていた。その時に少し話せるだろう。君の言う『妄想』と関わりが無くはない事についても確認できると思う。彼は割に話し易いタイプのようだし今回の事もそう難しく考えてはいないようだから、多分少し位なら雑談に応じてくれるだろう」

「何を話すの」
「それは明日になれば分かる」
「今教えてくれないの?」

彼がどこか謎めいた表情のまま何も言わないので、少しすねた振りをして見せる。彼はくすりと笑って、

「その他にも集めておきたい要素が一つ二つあるんだ。そちらとの整合性が確認できれば警部と会う価値も有るが、現時点では未だ不確定だからね。 ... そうそう民間人に気安く情報を教えてくれる訳じゃないからね、こちらも多少の努力は要求される訳だ」
終わりの方は少しおどけた表情になった。
「然れば、姫君には今暫く御辛抱の程を」

彼はわたしの手を取って、指先に恭しく唇を付けた。『その他の要素』が何なのかも気にはなったけれど、それも今は教えてもらえそうになかったので、仕方なく少し大げさに肩をすくめて許諾の意思表示をした。促されるままもう一度横になり、彼の脇に丸くなる。彼は後ろ手に灯りを消すと、シーツを引き上げながらこちらに身を屈め、わたしの肩先に軽くキスした。時々彼がするこの仕種は、何か特別に親密な愛情表現をされているようで、いつも嬉しいようなくすぐったいような気分になる。自分でも認識できていなかったほど曖昧だったものを言葉にして整理できたからか、それとも彼に任せておけば何とかなると安心したからか、ずっと頭の隅にあった漠然とした不安のような気掛かりのようなかすかなさざ波は、いつの間にか凪いでいた。


次に目覚めたときには辺りは本当にすっかり明るくなっていて、もう着替えた彼が枕元に入れたてのお茶を持ってきてくれたところだった。その様子からして、どうやらすでに『ひと仕事』してきたらしい。

「警部さんに会う準備はできたの?」

お茶をすすりながら上目遣いに質問すると、彼は落ち着き払って答えた。

「もう半時間もしない内に来るだろう。今隣の部屋を鑑識係が再訪している」

あやうくお茶を吹きこぼしそうになって、咳き込みながらあわてて身支度を整えた。彼は外出するわけでもないのだし、支度など五分もあればできるものと考えていたらしい。

「女性はそうもいかないの、出かけなくても人に会うんだもの。わたしが寝間着のままで警部補さんに会っても構わないなら、そうするけど」

椅子に座ってわたしが右往左往するのを見守っていた彼は少し考えていたようだったが、浴室に入ろうとしたときに背後で「それは、確かにまずい」と呟くのが聞こえた。
警部が部屋を訪れるまでには、幸い寝間着からは着替えて人に会う準備は大体整っていたけれど、それでもこちらがロビーに下りて話をするものと思っていたので少し驚かされることになった。あいさつを交わした後、わたしがもう昨日のショックから回復したかどうか気遣ってくれた警部は、勧められるまま奥の居間のソファに腰を下ろした。一呼吸置いて問いかけるような顔をした彼に、警部は意味ありげに頷いた。

「あったようです。今大急ぎで分析させてますが、まあまず間違いはないでしょう」
「そうですか、無駄な手間にならなくて良かった。夫人は?」
「相変わらず夫の傍から離れません。一応見張りは付けてありますが、端から逃げたりする気はないようです。ああ失礼、まだこちらにはお話しになってなかったですか」
二人の顔を見比べたわたしの様子に気づいて、警部は少し申しわけなさそうに言った。

「あの、それじゃやっぱり、犯人は ― 」

自分で使った『犯人』という単語に何となく戸惑って口ごもると、警部は訳知り顔に二、三度頷いた。

「まあ、間違いなさそうです」
「取引相手の男性は?」
「昨日のうちに無罪放免です。彼を目撃した庭師の証言と詳しく突き合わせたところ、事件があった時間には彼は既にホテルの敷地を離れていたことが分かりました。当初から奥方の疑いは濃かったものの、燭台の指紋が拭き取ってあったので確たる物的証拠がなかったんですが、お連れに昨日衣装棚の中を調べたらどうかと言われて」そう言って警部は彼の方を見たが、彼の表情に気づいて訂正した。「ああ、いや『雑談』でね、衣装棚は女性なら楽に入れるほど大きいとか、庭に行ったなら靴に土が付いたかも知れないとか、まあそんなことをおっしゃったんです」

わたしは驚いて彼を見た。

「じゃあ、最初にわたし達が部屋に入ったとき、衣装棚に奥さんが隠れていたの?」

彼は遠慮がちに咳払いをして警部の方を見たが、警部が笑って先を促すような仕種をしたので、軽く頷いて答えた。

「衣装棚の中に残っていた土がこのホテルの裏庭の土と一致すれば、そういう事になるだろうね。昨日は夜明け前に通り雨があって土が湿っていたから、二度も庭に出れば靴にもそれなりに土が付くだろう」
「念のため指紋も採りました」警部が補足した。「棚の中に入って扉を閉めれば、外から閉めた時とは違った具合に指紋が付くでしょうしね。まあ、それくらいは拭き取る余裕もあったかも知れませんが」
「推測ですが、多分無かったでしょう」彼は少し考えながら言った。「衣装棚に隠れたのは、慌てて部屋を出ようとした時に人が来る気配を感じて咄嗟に取った行動で、恐らく殆ど考える暇も無かったでしょう。部屋を出る前に燭台の指紋は流石に思い出したようですが」
「それで、さっき鑑識の人がもう一度来てたのね。でもどうしてあのとき、彼女がまだ部屋にいたって分かったの?」

「君があのスカーフに疑問を持ってくれたお陰だ。彼女は証言通り朝食後に一度部屋に戻り、その際当分外には出ない積りでスカーフを外した。しかし夫君と仕事相手に気を遣って席を外し、結局庭に出ることにした。恐らく多少風があったため直にスカーフを忘れた事に気づき、既に夫だけになっていた部屋に取って返したんだろう。その時に何か不測の事態が起こって彼を殴ってしまった。恐慌状態に陥ったところに君の気配がしたので、彼女は咄嗟に衣装棚に隠れた。君が聞いたのは、彼女が思わず漏らした叫び声かも知れない。気付かれずに隠れ果せた彼女は僕達が立ち去るのを待って素早く部屋を抜け出し、入れ違いに上がってきた従業員が合鍵で部屋に入るのを見計らって自分もたった今来たように振舞い、彼等に『彼女は反対側の階段から上がってきたところだった』と思わせた。その辺りは従業員がもう少し早く上がって来るか、彼等が来るまで僕達が部屋に留まっていれば不可能だった事だし、僕も寝台の下や浴室は覗いておいて衣装棚を見なかったのはいい加減間が抜けていたが」

多分彼は、とにかくわたしをその場からできるだけ早く遠ざけたかったのだ、とその時わたしは思った。彼が自分も少しあわてていた、と言ったのはきっとそういうことだったのだ。

「確かに、その場にいるのが見つかれば何があったかすぐに分かってしまうし、とっさに隠れるのは理解できるけど、どうしてそれが分かったの?それに、庭には二度出たって言った?もう一度はいつ?」
「一度目は朝食を取る前だ。彼が帽子を持っていたのを憶えているだろう?食事前に二人で庭を散歩して、そのまま食堂に来たんだろう。二度目に夫人一人が出た時は水を撒いていた庭師が見かけている。だから夫が殴られた時彼女はその場に居なかった、という話も信憑性があった訳だ。だが実際彼女はその直後に部屋に戻ったんだろう」

「でも、どうして彼女があの場に隠れていたとはっきり言えるのか、まだよく分からないわ。その衣装棚のことや何かがはっきりすれば ― 情況証拠っていうのかしら、それは揃うんでしょうけど、ご主人を殴った後、わたしが上がって行く直前に部屋を飛び出したかも知れないでしょう」
そう言ってから、自分の説が矛盾していることに気づいた。
「そうだわ、それじゃスカーフがまだ部屋にあった説明がつかないのね?彼女がホテルの人たちと一緒に部屋に入ってからスカーフを巻き直したなら別だけど」

彼が頷いた。

「それは先刻彼等に確認した。部屋の外で会った時、彼女は既にスカーフを着けていたそうだ。となれば、僕達があの部屋を出てからホテルの従業員が部屋に駆け付けるごく短い間に、彼女がそれを持出した事になる。僕達が出る時には扉を完全に閉めたから部屋は施錠されていたし、夫妻が使っていた鍵は寝台の上に置いたままだったから、あの時夫人が部屋に居なかったとすればその後外から戻った彼女が部屋に入る事は出来ない。だが元から部屋の中に居たなら、スカーフを取って中から扉を開け、また閉めて出て行く事ができる」

「確認したいことって、そういうことだったのね」
「それもあるが、もう一つスカーフに関連して確かめたい事がある。一寸眼を瞑ってご覧」

唐突に言われて、きょとんとして彼を見た。

「言葉で説明するよりも、先に見て貰いたい物があるんだ。いいと言うまで眼を閉じていてくれないか」

よく分からないまま眼を閉じると、彼が立ち上がる気配がした。ベッドの周囲あたりを歩き回って、何かを動かしているようだった。やがて彼は戻ってきて、わたしの手を取った。

「まだ眼は閉じたままだ。おいで」

彼に手を引かれて立ち上がり、ゆっくりと歩く。どうやらベッドの足元に近いあたりまで来たところで、彼が眼を開けてもいい、と言った。言われた通りにする。

どきりとした。自分が立っていたのは、やはりベッドの足元から少し離れた ― つまり昨日隣の部屋で倒れているご主人を発見したとちょうど同じ位置だった。けれどそれを認識するより先に、部屋の様子がさっきとは違っていることに驚いたのだった。家具の配置などではなくて、空気が ― まるで昨日の隣の部屋のようだった。晴れて青空の見える外とは対照的に、冷たく死んだような空気 ―

思わず隣の彼を見上げようとすると、彼の肩ごしに姿見と、隣の帽子掛けが眼に入った。二つはちょうど昨日の隣の部屋と同じあたりに置かれていて、帽子掛けの掛け釘に下がったハンガーに青い、昨日あの夫人が首に巻いていたスカーフが掛けてあった。よく見ると、窓から射し込んで鏡に反射した日の光が、姿見の斜め前の位置にある薄いスカーフを通してわずかに色づき、弱められた光を部屋の中に放っていた。ちょうどわたしが立っているすぐ目の前あたりを、スカーフを通過した光の帯が斜めに横切り、床とベッドの足元付近に落ちている。つまりわたしは昨日、ちょうどその光の帯を通して彼を見下ろしたことになる。

「こういうことだったの?」見上げて言うと、彼は微笑んだ。
「すると、やはり君が見たのはこういう状況だったか」
「ええ、同じよ。これ、あの奥さんのじゃないのね」
近くで見ると、色は似ていたがそれは彼女のしていたスカーフではなかった。そもそもそれはスカーフでもなくて、何か薄い化学繊維の切れ端のようなものだった。

「本物は今も彼女が持っているだろう。これは先刻、下で従業員の女性に頼んで探して貰ったんだ。宴会か何かに使った装飾の残りらしいが、目的は充分果たせるだろうと思ってね」
「薄い布だったせいで、反射した光は遮られなかった代わりに色が微妙に変化して、奇妙な印象を与えたのね。でも、どうして気づかなかったのかしら」
「部屋全体が明るかったために、僅かに変質した一部の光がはっきり区別し難かったんだろう。室内がもう少し暗ければ、鏡に反射して布を通過した光が目立ってそれと分かったかも知れない」

そう言いながら彼が片側のカーテンを引くと部屋の中は少し薄暗くなり、鏡に反射した光はさっきよりもはっきりその道筋が見えて、青ざめた色も分かりやすくなった。

「それから、その光の辺りをじっと見ていてご覧」

彼が手で示したあたりを言われるまま見ると、ふいにその光がかすかに揺れるように変化した。彼に視線を戻したわたしは、彼がハンガーに手を掛けて少し動かしていたのに気づいた。あのとき ― 空気が歪んだ、と感じたのはこれだったのだ。ハンガーに掛けられたスカーフはガラスのように厚みも色の濃さも均一ではないから、それを通した光もまだらに見える。スカーフがわずかでも動けば、それを通した光も揺れたように見える。そう言えばあのとき、上の空気窓が少し開いていたのだった。

「窓から入った風で、スカーフがかすかに揺れたのね」
「入口の扉も開いたままだったから、君自身は風を感じなくても窓から扉へと常に空気が吹き抜けていたんだろうな。その時には君の視線は倒れている彼に集中していただろうから、前にも増して『妙な空気』の原因を探す余裕は無かっただろう」
「彼女は、ご主人を殺してしまったと思ったのかしら」
「どうかな。フロント・デスクに掛けた内線電話を彼女が衣装棚の中で聞いていたとすれば、死んではいないらしいというのは分かったと思うが、棚の中に身を隠した時点では自分が殺してしまったと思ったんじゃないかな」
「でも、やっぱりあのひとがそんなことをしたなんて信じられないわ。それは、どんなひとなのか知っているわけじゃないけど ― 見かけた時は二度とも本当に仲がよさそうで、互いにいたわりあっているように見えたもの」

「いや、実際そうだったようですよ」背後でそう言った警部の存在を、わたしはほとんど忘れていたことに気づいた。「しかしまあ、信頼が深いほどそれを裏切られると憎さ百倍というのもままあることですし」
「ご主人が奥さんの信頼を裏切った、ということですか?」

警部はちょっと視線を泳がせた。

「ああ、まあ今のところはまだ何とも言えませんが」
「それが原因だとして、奥さんが『裏切られた』と知ったのは食堂でわたしたちが会ったすぐ後ね。食堂ではとてもそんな風には見えなかったもの。あの短時間の間に、何があったのかしら」彼が倒れていたと同じあたりに何となく首を巡らせて、ベッドの枕元のテーブルにふと眼が留まった。「電話 ― ?」

彼が頷いた。

「夫人が一人で庭に出た隙に、彼が誰かに ― 恐らく夫人には会話を聞かれたくない電話を掛けていて、思い掛けずその最中に夫人が戻って来て会話の一部を聞き、事情を察してしまったとしたら?このホテルの部屋の扉は、きちんと閉めれば自動的に施錠されるが独りでに閉まるタイプではないから、商談の終わった取引相手が出て行く時に扉を完全に閉めずに帰り、彼もそれに気づかぬまま電話を掛けたとすれば、彼女が戻ってきて扉に近付けば話し声が聞こえただろう」
「ご明察です。確かにその時間に彼は外線電話を掛けていました。相手も確認済みです」

警部がどこか含みを持たせた言い方で受けた。多分その相手は、ご主人の愛人のようなひとだったのだろう。

「ひどいショックだと思うわ。ご主人への信頼が大きいほど」
「まあ、これから取り調べてみないことには何とも言えませんが、棚の中の土や何かの証拠を揃えて提示すれば、あっさり自白するんじゃないかと踏んでいます。何と言うか、既に精神的にかなり参ってるようですし。貴女が現場の情況を正確に記憶なさっていたお陰で、早いうちに証拠を揃えられて非常に助かりました。やはり心理学をご専攻で?文学ですか?常に脳を活発に働かせるというのが肝要でしょうなあ。いや、本当に助かりました」
「いえ、わたしは彼に頼りきりで、何もしていませんし」何の話かよく分からないながら、あわてて訂正する。「でも彼女が認めた場合、やはり罪になるんでしょうか」

警部は肩をすくめた。

「幸い被害者は、精密検査の結果で異常がなければ後はしばらく頭痛に悩まされる程度の怪我で済んだし、痴話喧嘩が多少大事になったようなものだとしても、全く何もなかったってことで済ますわけにはいかないでしょう。まあご主人の対応にもよりますが」
「彼はどんな様子なんです、ずっと夫人が傍に居るんでしょう」彼が聞いた。
「これがまたちょっと奇妙なんです、それこそこれ以上ないってほどの良き夫振りで。むしろ倒れそうなのは夫人の方で、その彼女をえらく気遣ってますが、上辺だけという風にも見えません。自分を殴ったのが彼女なのは十中八九分かっていると思うんですがね。ここはこういう田舎町ですからそうそうドラマみたいな事件は起こらないとは言っても、私もこれで嘘や隠し事にはそこそこ鼻が利くつもりなんですが。まあ、何にしても当面は鑑識の結果待ちです。さて、そろそろお暇しないと。色々とご協力感謝します。息子にも理論より実践で役立つような勉強をしろと精々発破をかけておきますよ」

わたしたちは警部を見送りがてら、そのまま階下に朝食を取りに下りることにした。 もう一度、なぜか彼ではなくてわたしの方に大袈裟にお礼を言うと、滞在中にまた進展があれば連絡する、と言い残して警部は立ち去った。

24.10.05

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