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scene 15 : mobile

「それなら、うちに来ればいい」
「あ?」

我ながら間抜けた声を上げて、俺は同僚兼友人を振り返った。既に人気の少なくなった廊下をエレヴェータ・ホールに向かいながら、出るのが一緒になった友人をどこかで一杯やらないかと誘ったのだ。色よい返事が返ってこないのは百も承知だったが、こっちは元々今夜は多少奮発して外食する予定だったのを直前で反古にされてくさっていたから、少しばかり憂さ晴らしをする相手が欲しかったのかも知れない。他人の幸せに水を差してやりたいという偏狭な考えもなくはない。そんなこんなでたまにはつき合ってくれても罰は当たらんだろうとなじったところ、「それなら」と返ってきた訳だ。どうせすげなく断られると思っていたから、逆に誘われるとはなかなか予想外だった。

気の抜けた返事は別に相手の言葉が聞き取れなかったのではなく、一応遠慮した「あ?」だった訳だが、向こうも脳内で自動的に「本当に行ってもいいのか」か何かに変換したらしく、肩をすくめて

「一人増えても困りはしないだろう。夕食はシチューか何かにすると彼女が言っていたし」と言う。
「ふん。そっちが迷惑でないなら有難く乗らせてもらうが、一応連絡した方がよかないか。毎週末『夕食あります、急の訪問客歓迎』と看板を出してる訳じゃなかろう」
「ああ、そうかな」

エレヴェータのドアが開いて奴がロビーの公衆電話に向かう前に、上着のポケットから携帯電話を出して手渡した。

「いいのか?有難う」

職場でも町中でも至る所からふざけた電子音が聞こえてくるこのご時世にあって、この男は携帯電話というものを一度も持ったことがない。常に連絡手段を手元に置く必要があるほど忙しくないし、複雑な機械は苦手だというのが本人の言い分だが、受け取って一瞥しただけで何の躊躇もなく速やかに操作するのがまた癪だ。持ち主が一週間かかってどうにかボタンを押し間違えずに使えるようになったものを、今初めて貸した奴が一瞬で使いこなすとは何事だ。俺が普段使う時に盗み見て憶えているに違いない。だから最初から操作手順を教えようという無駄な気遣いを省略して渡したとしても、俺が責められるいわれはない。

そもそも、初めて会った時から胡散臭い奴だと思ったのだ。当時俺は政府系の研究機関に入っていたが、幾つかの民間団体と共同で進めることになった研究プロジェクトにたまたま参加したところ、提携相手だった大学付属の研究施設に奴がいた。同年代だというのに妙に落ち着き払っ ― はっきり言って年寄りじみていたから、若く見えるのをいいことに2、30歳ばかり鯖を読んでるんじゃないかと一時は本気で疑った。プロジェクトの中心人物の一人だった大学の化石みたいな教授と互角に渡り合っているのを見れば、疑惑も深まろうというものだ。渡り合うと言えば活気があるように聞こえるが、この二人の場合機材やら何やらを運び込んだり配置したりで慌ただしい部屋の隅に座り込んで大量の資料書類を机に積み上げ、時々ぼそぼそ何か言って互いに書類を回し合う他は珈琲をすすりながら延々頁を繰るという、少なくとも外見上は著しく不活発かつ鬱陶しい渡り合い方なのだ。今は関係事項の検索や閲覧も大抵機械がやってくれるから当時に比べれば楽とは言え、どっちにしてもこういう類の退屈な過程は何かしら事を始めようという場合それなりに必要になる作業ではあるが、当時も今も自分から喜んでやる奴は滅多にいないだろう。

何よりうんざりするのは、眼を通した書類の内容を全部憶えているらしいことだ。「全部」というのはつまり、先行する研究や実験で出た数値などの細かいデータから、それが何章何頁のどの辺りに載っているとかいうところまで全部ということだ。既に端末もどんどん軽量化して検索手段も容易になり始めていた頃ではあったが、実際に欲しい資料を欲しい時に抜き出そうと思うと結局紙の資料をひっくり返した方が早かったから、こういう妙な特技を持つ人間は結構 ― かなり重宝したが、そういう人力に頼るような面倒臭い作業をやっていたかと思うと、必要になれば最先端の機械類も何の苦もなく使いこなしてしれっとしている。うろたえたり激昂するところも知り合ってこのかた見たことがない。爺さんもほどよく耄碌でもしていれば可愛げもあろうが、悠然と構えている割に仕事は速いし処置も指示も的確、忙しそうにも見えないくせにいつの間にか一仕事片付けているタイプだ。不愉快なほど無愛想でもないが、必要なこと以外はほとんど話さないから周りの者もことさら話し掛けない(結果仕事がはかどる)。その癖たまに偉くひねった冗談を真顔でぼそりと言ったりするから頑固爺、もとい多少偏屈な古株連中に妙に気に入られる。まあ一言で言って嫌な奴だ。少し詳しく言えば物凄く嫌な奴だ。だが俺の場合、第一印象が悪い奴ほどなぜかずるずると付き合いが続くのが常なのだ。

多少速度を落としても歩きながら話していたのに、まだロビーから外に出てもいないうちに友人が電話を切った。言っておくがうちの研究所はごく慎ましい規模だし、昼休みにサッカーの試合ができる余裕のロビーを備えている訳でもない。奴が電話中に発した意味のある言語といったらほとんど「今から出る」と「一人増えた」の二言だけで、あとはああとかううとか相槌を打つ程度だから、足りない情報は全部電話の向こうで補っていると思われる。

「歓迎するそうだ」電話を返してよこしながら奴が言う。玄関を出て駐車場に入ったところで、ふと思い出して気になった。

「さっき切る前に、一瞬俺の方を見てから否定してたのは何だ?」

友人は助手席のドアを開けてから車の屋根越しに、

「君に何か好き嫌いがなかったかと聞かれたので、ないと答えた」と言って中に入った。

「あるぞ。俺はマーマレードが大嫌いだ」

運転席に乗り込んでからそう言うと、奴はシート・ベルトを締めかけていた手を止めて一度まともにこちらを見据えてから(お前は馬鹿かと言いたいならはっきり言え)、また視線を戻してベルトを締めながら言った。

「君を朝食に招待する機会があれば気をつけよう」

「オレンジだけじゃなくてレモンも生姜も虫酸が走るほど嫌いだぞ。瓶を見ただけで寒気がする。あんなものを発明した奴には国連で全世界に向けた謝罪文を読ませるべきだ」
「国連の概念が出来る遥か前に亡くなっていると思うが。それに多分最初に作ったのは女性だろう」
「女性だろうが何だろうが罪は糾弾されるべきだ。マーマレードを最初に作ったのは俺の父方の祖母さんみたいな女だったに違いない。あの祖母さんのお陰で子供の頃は涙もべたつくくらいマーマレード漬けにされたんだ。祖母さんの家の裏が果樹園になってて、毎年夏になると俺の頭が入りそうな特大の瓶に溢れるほど詰めた自家製マーマレードを持って来てな。あんな非常識なサイズの瓶を売る業者もどうかしてる」
「いいお祖母さんだな」

今度はこっちが奴を穴の空くほど凝視して、さっきの報復も含めて思い切り呆れた顔をしてやる。ちなみに信号で停車していたので問題はない。こいつは一体人の話を聞いているんだろうか。どこをどう聞けば祖母さんと子供時代の俺の楽しい思い出話をしているように解釈できるのか、50語以内で簡潔に説明して欲しいものだ。
とは言え、確かに祖母さんが嫌いだった訳ではない。あの夏毎のマーマレード攻撃さえなければ、俺だっていい祖母さんだと言えた、だろう。今も田舎で健在だが、多少耳が遠いのをいいことに都合の悪い話は聞こえない振りをするのと30半ばの男を未だに子供時代の愛称で呼ぶ以外は ― まあそれはともかく、どうもこの男は昔から人が話している本題とは全然別の結論を一足飛びに出す癖がある。話題そのものから完全に逸れる訳じゃないが、こっちがA-1の話をしているといきなりA-12bあたりの項目を指摘してくるのだ。その項目自体については間違ってはいないからまた始末が悪い。全く無関係な話としてきっぱり否定し辛いのだ。奴には奴なりの判断材料と論理の過程があるのだろうが、善良で常識的な人間の思考回路を混乱させるのは感心できない。


初対面の時の予想通り、研究チームが解散してそれぞれの職場に戻っても何となく連絡は続いた。お互い忙しい時は1、2年音沙汰がないのも珍しくなかったが、それでも相手の動向は漠然と把握していたし、機会があれば会ってもいた。そんな状態で何年か経った頃、何かの話題のついでに向こうが最近新設された民間の研究所が職員を募集しているという話をした。その時は特に詳しく聞かなかったが、主要メンバー何人かの専門が自分の興味分野と重なっていたし、正直当時の職場は何かと窮屈で嫌気が差していたから、多少自分で調べた後その研究所にコンタクトを取ってみた。すると思いのほか話がうまく進んで、拍子抜けするほどあっさり採用が決まった。どうもうまく行き過ぎた気がするので、何か落とし穴があるんじゃないかと疑った俺の勘は正しかった。2ヶ月後に移った新しい職場には、ちゃっかりこの男が先に腰を据えていたのだ。

奴によれば、与えられた情報をどう活用するかも最終的に動くか動かないかも本人次第な訳だから、今回はたまたまそれぞれの利害が似たようなところにあってこういう結果になったんだろうということだったが、こっちの専門分野は奴も当然知っているし、職場に不満を持っているのも何となく察していたはずだ。その上でこっちが十中八九興味を持つに違いない話題をさり気なく持出すというやり口を、周到と言わずして何と言おう。奴の場合はいわゆる引き抜きみたいなものだったらしいが、例の素敵に化石化した教授の勧めもあったようだ。向こうは何も言わないが、俺のケースが妙にすんなり運んだ裏には何かしら奴の口利きがあったと睨んでいる。まあ結果的に今の職場にはそれなりに満足しているし、別に余計なことをしてくれたとは思わないが。


「近くに酒屋があったか?俺は文化的な生活を営んでるから食前食中食後にアルコールがないと楽しい食卓が囲めないぞ」
「彼女の両親から送ってきた葡萄酒がある。ドイツの白とスペインの赤」
「いい両親だな」彼女の両親に会ったことはないが、好きになれそうだ。

車を停め、階上に上がって玄関のドアに近付くと、何やら瞬時に空腹感を覚えさせるような匂いが漂っている。

「お帰りなさい、ちょうどいい時間だったわ」彼女がキッチンで肩越しに振り返る。
「あとはパスタを茹でればいいだけよ。葡萄酒があるけど、空ける?」後半は半分俺に向けた質問だ。いい娘だ。

葡萄酒の瓶の開栓を引き受けているうちに、友人と彼女が手早く食卓を整えた。ここには他に大きな灰色の犬がいるが、既に食事は終えたらしく居間のソファの足元に寝そべって、客が入ってきても多少尻尾を動かして認識した旨を示しただけだった。犬は飼い主に似るというのは本当らしい。

「今日は少し冷えるから、暖まるかと思って貝のチャウダーにしたの」
彼女が腰を下ろしながら言う。相変わらずにこやかで当たりが柔らかい。同居人とはえらい違いだ。
「あとはトマト・ソースのチキンのパスタと温野菜。メインって言うほどのものがないけど、沢山あるからお代りしてね」

こっちにしてみれば、今夜は一人酒で食事なぞ適当にごまかすことになると思っていたから、彼女が野菜籠と麦の穂を抱えた女神にも見えようと言うものだ。いきなり予定をキャンセルした相手も ― 早い話が彼女の友人で、たまたま俺の交際相手でもある訳だが ― 袖にした相手がこんなところで労せず人間らしい食卓を囲んでいるとは思うまい。自分でも必要とあればそれなりに食うに耐えるものくらいは作れるが、その時の気分次第で材料を買うから使い切れずに残るか、予想外に大量に出来上がって数日同じものを胃に詰め込む羽目になるので、外で適当に食べた方が無駄もなく我慢もせずに済むということになる。唯一問題なのは、その場合も気分によって食べたいものを食べるので栄養学的観点からは甚だ心もとないことだ。ここで食べる場合その辺りのバランスもそれなりに考慮してあるメニューだからという訳でもないが、つい食が進んで勧められるままにやたらと食べてしまった。当然酒も進むので、食事も半ば辺りで友人が二本目のスペインものを空けた。彼女の父親はいける口らしく、どちらも有名どころじゃないが味は上等だった。

「気軽に空けてよかったのかな、わざわざ親父さんが送ってくれたんだろ」

「飲んでもらえてかえって嬉しいわ。父もわたしが飲めないのは知ってるから彼に送ってきたんだけど、彼も二人の時は飲まないんだもの。一緒に飲んでくれる人がいないと空かないの」
「別に我慢して飲まない訳じゃない」友人が言う。
「でも、あなたも葡萄酒は好きでしょ」
「好きだが、無いと食事が進まないわけでもない」

「もっと好きなものを眺めながら食えるなら充分満足ってとこか」
合いの手を入れると奴は横目でこっちを一瞥して、

「そうだな」

何もなかったかのようにまた食事に戻った。つくづくからかい甲斐のない男だ。まあ二人分照れてブロッコリをひたすらミクロン単位に切り刻んでいる彼女に免じて許してやるが、一緒に暮らしているならこういう風に素直な反応を見せる方が可愛げがあるということくらい学ぶものだ。

この男に関していちいち驚いたり呆れたりするのははるか昔に止めたが、彼女の存在は少しばかり意外だった。そもそも俺の知る限り、二人が知り合ったのは奴がこっちに移ってきてからのはずだ。だが俺自身が来た時点で奴だってまだ引越して2、3ヶ月程度だったはずだから、大まかに言えば奴が引越したのと二人が会って一緒に住み始めたのはほぼ同じ時期ということになる。昨今の若い連中には別に珍しいことでもなかろうが、それをこの覇気のない隠居爺みたいな男がやってのけるとは誰も思うまい。

奴を恋愛沙汰に縁のない男と思っていた訳でもない。現に知り合った当初も、付き合っている相手はいた ― らしい。大学やプロジェクト関係者の噂を小耳に挟んだだけだが、当時同じ大学の施設にいた同僚でえらい美人だという話だった。その時は事実なら奇特な美人もいたものだと思った程度で、本人が全く話さないものをことさら詮索する気にもならなかったが、こっちに移って自分自身大分落着いた頃、今は大企業傘下の機関にいるらしいその奇特な美人が研究協力の交渉でうちの職場に派遣されてきて、何年も前の話を思い出すことになった。彼女は当時の研究チームの一員じゃなかったが、大学で何度か見かけてはいたのだ。確かに美人だったし、仕事面でもいわゆる切れるタイプだったから、うちの職場でも何かと噂にはなっていた。が、一方で友人は個人的に厄介なことになっていたらしい。研究協力云々というのはもちろん事実だったが、どうやら彼の女史としてはついでに奴を自分の職場に引抜いて凱旋土産にしようとか、他にもまあ色々と個人的な目論見があったらしいのだ。大方は後になってから何となく分かったことで、表面上は何の変化もないように見えたが、そのごたごたが原因で奴は一時的に今の彼女と距離を置かざるを得ない羽目になっていたようだ。

何も変化がないように見えたと言ったが、奴の様子がどことなく妙なのに気付いてはいた。で、ある日どうにも気になったので、夜も結構遅くなってから奴を訪ねてみた。すると彼女はいないわ玄関の鍵は開け放しだわ入った途端に犬に吠えられるわ、とどめに薄暗い部屋で幽霊みたいな顔をした男が片手を真っ赤にして現在進行形で血を滴らせていれば、俺ほど繊細でなくとも驚くなと言う方が無理な話ではないか。ちなみに怪我の原因は寂しさのあまり手首を切ったとかいう劇的なものでは全くなく、持っていたグラスを割れ物として常識的に取り扱わなかったためらしい。床に根が生えたように重い奴を小突きながら傷を洗うやら何やらの処置をして何とかそれなりの手当てを終えると、奴は自分の手と俺の顔を見比べ、ようやく眼が醒めたような顔で礼を言ってから、まだテーブルに散乱したままのグラスの破片を眺めて「意外に脆いものだな」と呟いた。

翌日から、友人は人が変わっ ― いや元に戻ったと言うのが正しいか。取り敢えず眼の前にあった仕事を一日でごっそり終わらせると数日間の休暇を取って職場を離れ、戻って来た時には以前と全く変わらない隠居爺になっていたので、事の次第を問い質す気も失せた。何をどうやって元の鞘に収めたのかは未だによく知らないが、彼女も以前と変わらず不満もなさそうなので(この男に不満を持たずにいられること自体偉大だと思うが)よしとしよう。まあそんなこんなで現在に至っているようだ。
 (12k) 「昼間にオレンジ・ケーキを焼いたの。デザートにどう?」

食事もあらかた片付いた頃に彼女が言った。文化的生活を旨とする自分としては、食事をデザートと珈琲で美しく締めることに異議のあろうはずはない。

「マーマレードが嫌いと言っていたと思ったが」珈琲を挽きながら友人が言う。
「嫌いだよ。オレンジ・ケーキは好きだ。旨いなこれは」最後のは彼女に向けた賛辞だ。
「そう?良かった。マーマレードが嫌いだったの?」
「話せば長く悲惨な物語でね。いたいけな子供時代のトラウマが原因で空き瓶を見ただけで寝込む体質になった」

「お祖母さんが毎年手作りのマーマレードを届けてくれたそうだ」
彼女の同情を引こうという意図を見抜いたのか、友人が嫌味なほど簡潔に話をまとめた。

「あら、素敵なお祖母様」

この男の何が良くて彼女が一緒にいるのか不思議だったが、一瞬二人の接点が漠然と見えた気がした。

「そんな祖母さんでいいなら、そのうち俺の田舎に招待するよ。今はうちの両親と住んでるんで自分の果樹園はないが、材料さえ預けりゃ大喜びで鍋を出して来る」
「ぜひお願いしたいわ、マーマレードは大好きなの。作り方のこつも聞きたいし」
「そんなことを聞いたが最後、永遠に終わらない講釈を聞かされた挙句アリの行列みたいな字がびっちり詰まったレシピを押し付けられる羽目になるぜ」

「ますます素敵」彼女は眼を輝かせて言う。「わたし、一度憶えたと思ってもよくうっかり材料や過程を落としたりするけど、紙に書いてもらえればそんなこともないもの。それにお年寄りの話を聞くのって好きよ、昔のことや色んな知恵を教えてもらえるし」

年寄り好きという辺りに更に二人の接点を見たような気がしたが、とりあえず彼女はかなり本気らしい。恐ろしい匂いのする大鍋の横でうちの祖母さんが彼女に「孫の昔話」を語る図が脳裏をよぎって、何やら背筋がうそ寒くなった。一定時間を過ぎると出生時から十代中盤あたりまでの話題が祖母さんにしか理解できない関連性をもって延々と連なり、メビウスの環のごとく不可思議なループを描き始めるのだ。絶望的な気分で友人の方を盗み見ると、向こうもこっちをちらと見てにやりとした ― 正確に言えば、普通に表情の変化がある人間ならにやりと笑った状態であろう、と眼の色で判断できるということだ。
こいつが表情に乏しいのは先にも言ったが、最近それに多少の進歩が見える。こっちがいい加減慣れたのもあるかも知れないが、前の職場にいた頃に比べて確かに感情の変化が読み取りやすくなった。とは言えせいぜい横這い状態だったグラフに時たま微少な振幅が出るようになった程度だし、一般的に見れば相変わらず「無表情な男」と形容されるのは間違いない。ところが彼女はどうもそう思っていないらしい。彼女自身は表情も豊かだしよく笑う、つまり友人とは対極にいるような人間で、両方とも普段あまり感情にむらがないのが共通点と言えば言えなくもないが、判断の元になるそれぞれの基準状態からして差があり過ぎる。例えで言うなら空のヒバリと深海のナマコほど違う。だが彼女が友人の話をするのを聞いていると、一体誰の話題なのか一定間隔で確認したくなるほど奴は表現力の宝庫のような人間として描写され、特に「笑う」という動詞が頻出するのだ。

最初は、今自分がしたように微妙な顔色の変化を「笑った」と解釈した上でそう言っているのかと思ったが、そうでもないらしい。確かに同性の友人に対する時と恋人に対する時では、態度や口調もそれなりに違ってはくるだろう。一般的傾向としてそれは分かる。が、この男が彼女の前でだけ陽気な笑い上戸になるという現象が起こり得るかと聞かれたら、例えこの眼でナマコが脱皮してカワセミになるのを確認した後でもあり得ないと断言できる。ということは、例え他の人間には眉一つ動かしていないように見えたとしても、彼女はこの表情筋が硬化したような男が実際に「笑っている」と見ているのだ。そして彼女がそういう話をしている時の奴の様子から判断するに、本人も笑ったつもりなのだろう。無愛想なナマコが多少なりとも表情のあるナマコに進化したのも彼女の影響とすれば、その称賛に値する成果を短期間に上げた彼女が被検体の様子を最も仔細に観察できてもまあ不思議はないということか。

あれやこれや他愛のない話などしているうちに夜もいい時間になり、さすがにあまり長居するのも野暮だろうと暇を告げた。

「もう少し時間を置かなくて大丈夫かしら。車でしょ?二本も空けたのよ」
既に空になって久しい葡萄酒の瓶を見ながら、彼女が疑わしげに言った。

「二本ったって実質的には一人一本分だろ。それにいくら何でもこの程度で運転に支障が出るほどやわにできてない」
「まあそうだな。アルコールに関しては彼の自己判断は信用できる」
友人が珍しく加勢した。関して「は」というのが多少気になったが、まあ聞かなかったことにしてやろう。

「あなたがそう言うなら、信じるけど」
まだ多少心配そうに彼女が言う。俺の言葉と態度だけでは信用できないという意味なのか若干気になったが、まあ聞かなかったことにしよう。

「そうだわ、ちょっと待ってて」
彼女は立ち上がってまだ卓上に出ていたケーキの残りを器用に包むと、簡単な贈り物風の体裁にして渡してよこした。

「残り物で申し訳ないけど、二人で食べてね」
「二人?」
「明日会うでしょ?」
当然のことのように彼女が言った。つまり、まあさっき言った彼女の友人のことを言っているわけだが、いきなり話を出されるとさすがに困惑するでなはいか。

「明日ね。さあ、どうかな。俺もそうそう暇でもないし」
「彼女も好きだったはずだから、多分喜ぶと思うの」
どうやらこっちの言うことは聞く価値なしと判断されているらしい。仕方ないので素直にそのケーキと夕食の礼を言って、下まで送るという友人と一緒に玄関を出た。

「急に転がり込んだのに、すっかり長居して悪かったな」
エレヴェータの中でそう言うと、友人は軽く肩をすくめた。

「いや、彼女も君が来ると色々話せて楽しいようだし」
確かに、この男と二人だけでいて常に活発な会話を維持するのは至難の業だろう。

「ああ、そうだ」停めてあった車に乗り込もうとすると、友人に止められた。「君の携帯電話を」
「あ?何だ彼女に知れるとまずい電話でもかけるのか」 手渡そうとすると首を振って、

「気を遣って電源を切っておいてくれるのは有難いが、そろそろ電話を入れた方がいいだろう」
「俺が?どこに」

奴はわずかに片眉を上げた。

「明日会うならね。お休み」
こいつらは二人揃って突然正常な会話ができなくなったのだろうかと訝しんでいる間に、友人は片手を挙げてさっさと建物に戻っていった。

しばしその後ろ姿を見送った後、車のドアを開けて運転席に座り、シート・ベルトを締めた。エンジンをかけようとした時、助手席に置いたケーキの包みが視界に入った。一度仕舞った携帯電話を出して電源を入れる。時間を置いて3度、同じ番号から着信があったらしい。

もう一度、助手席を見る。

何となくうまく乗せられたような気もするがまあいいか、と独りごちて、俺は通話ボタンを押した。




3.5.2004

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