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scene 9 : lost, and found

「わたしの買物はこれで全部だけど。他にどこか見たい所、ある?」

デパートの下りエスカレータで振り返って聞いたわたしに、彼の声が頭上から答える。

「いや。大分あちこち歩いたから、どこかで少し休んで帰ろうか」
「そうね、そう言えばちょっと喉が乾いたし」
次の階でエスカレータを降り、案内板を見て確認する。

「ここの喫茶店に一度友達と入ったことがあるけど、落着いた雰囲気でコーヒーもおいしかったの」
「じゃあ、そこにしよう」
「ええとね、確かそのお店の向こう側 ―」

向きを変え歩き出そうとして、何かに引き戻される。彼は隣にいるし、周囲に何も引っ掛かりそうなものはないので不思議に思って振り返る。小さな女の子がこちらを見上げていた。白い可愛い手がわたしの深緑色のスカートを掴んでいる。眼が合うと女の子は息を呑み、慌ててその手を離した。ぱっちりした眼がこれ以上はないくらいに真ん丸に見開かれている。

「どうしたの?」

女の子はびっくりしすぎて声も出ないらしく、ただ信じられないものを見るようにわたしの顔を凝視している。歳は三つか四つくらいだろうか、わたしを母親と勘違いしたのだろう。彼女の前にしゃがんで目線を同じ高さにして、安心させようと笑いかけてみる。

「お母さんと一緒に来たの?」

しばらく戸惑ってから、女の子はようやく小さな声でおずおずと答えた。

「...ママ」
「ママと来たのね。お買い物?」

こくんと頷く。彼女の視線が逸れた隙に母親の姿を探して周囲に視線を走らせてみるが、それらしい人は見当たらない。休日の人混みの中で見失ってしまったのだろうか。縫いぐるみを胸の前に抱いた女の子も、まだ状況がよく飲み込めないらしく不思議そうにあたりを見回す。ケープの付いた赤いコートに、よく櫛を入れられたさらさらの髪が可愛い。

― あ

一瞬、何か漠然としたものが脳裏をかすめる。以前にもこんなことがあったような気がした。既視感と言うのだろうか。何だったろう、ずっと昔にどこかで。思い出そうと少しぼんやり考え込んでいたわたしは、前の床をじっと見つめていた女の子が不意に小さな体を緊張させ、きゅっと唇を噛んだのに気づいて少し慌てる。いけない、自分が母親とはぐれて迷子になったことにはっきり気付いてしまったのだ。縫いぐるみを抱えた両手がぎゅうと胸に押し付けられて、大きな二つの眼にみるみる涙が溜まる。何か言わなければ。何でもいい、注意を逸らすもの ―

「ね、あのね ― 」

その瞬間、目の前で女の子の体がふわりと宙に浮いた。思わず一緒に立ち上がる。女の子はわたしの頭よりもずっと高い場所から、呆気に取られて今自分を抱き上げた人を見下ろしている。あまりに驚いて泣くことも忘れてしまったようだった。
lost (7k)

「一緒にママを探しに行こう」

彼が腕の中の彼女に言う。女の子は一瞬彼をじっと見つめて、黙ったままこっくりと頷いた。

思い出した。そうだった、あの時も ―

「ね、きっとこの子のママ、わたしと似たスカートを穿いてたんだわ」彼について歩き出しながらわたしは急いで言った。
「ママ、こんなスカートを穿いてるの?」わたしのスカートを示して訊ねると、女の子はそれを見つめてちょっと困った顔で考えてから、やや自信がなさそうに頷く。多分それを着ている人が母親ではなかったと分かった今、自分の記憶が信用できなくなっているのだろう。

「ああ、それで間違えたんだな。この背丈だと顔よりも自分の目線の高さにくる服の柄や色を見るから」

あの時もそうだった。ずっと昔、わたしがちょうどこの子くらいだった時、こんなふうに迷子になったことがあった。あれはどこだったろう。デパート?いやもっと広い場所 ― ターミナル駅?空港?やはり人がとても大勢いて、沢山の色があって、何もかもがきらきらして色んな方向へ動いていて ― 気がつくと母の手を離してしまっていた。あの日の母はきれいな花模様のスカートを着ていた。母がそれを穿くと必ずと言っていいほど父がよく似合うと褒めた、大人になったらわたしに頂戴、と何度もねだったフレアのスカート。結局それは今も母が大切に持っていて、今でもやっぱり母に似合うけれど。

「ここからなら周りがよく見渡せる。君のママは見えるかな」

彼の問いに、女の子はぐるりと首を巡らせる。わたしも一緒に見渡して緑色のスカート姿の女性を探してみるが、やはりそれらしい人は見当たらない。女の子も首を横に振り、片手で彼のジャケットをぎゅっと握って俯く。

「大丈夫、ママも君を探している筈だから。すぐに会える」

― すぐに会える。

あの時も誰かがそう言って、とても心細かったわたしはなぜだかその言葉で少し安心したのだった。ちょうどこんな風に彼のシャツの袖を握って ―

彼?

そう、わたしを抱き上げてくれたのも男のひとだった。振り向くと母がいなくて、行き交う人々は忙しそうに通り過ぎるだけで誰もわたしを見てくれなくて、急に自分が世界中の人から拒否されているような気がしてとても不安になって必死で母を探した。人込みの中にあの大好きな花模様を探して、ようやく見つけたそのスカートに飛びつくようにして掴んで ―

「この階にはいないのかも知れないな。案内所に行ったかも知れない」
彼が言ったので、わたしたちは下の階の案内所に行ってみることにした。エスカレータで下りる間も母親らしい人がいないか目を配る彼の代わりに、女の子に色々話し掛けてみる。

「可愛い熊さんね。あなたのお友達?」
女の子はさっきからずっと胸に抱き締めている縫いぐるみに目をやって頷いた。
「クリスマスに、来たの」
「クリスマス」という言葉をゆっくり注意深く発音しながら小さな声で答える。
「サンタさんが連れてきてくれたのね」

女の子は頷いて、初めて少しはにかむような表情を見せた。その間も小さな手はしっかりと彼のジャケットを握りしめていて、短い間に彼女はすっかり彼に信頼を寄せているようだった。ふと、その手が妙に気になる自分はもしかしてこの子に嫉妬しているのかなという考えが頭に浮かんで、我ながら少し呆れる。こんな小さな、それも迷子の女の子なのに。あの時のわたしと同じように不安に押しつぶされそうになりながら、突然放り出された外の世界で何とかして自分の存在を確認しようと懸命になっている迷子。

わたしがスカートを掴んだ人は母ではなかった。見上げると全く知らない、母よりも多分大分年かさの女性が見下ろしていて、わたしは声も出ないほど驚いた。でもそのひとはとても優しそうで、わたしの方へしゃがんでどうしたの、と笑いかけてくれた。そのひとの夫らしい男性は最初少し怖そうに見えたけれど、やはり体を屈めて心配そうに色々聞いてくれた。でもその時のわたしは混乱していたこともあってうまく言葉が見つからなくて、何を言ったらいいか分からなくなって泣き出しそうになった。その時、不意に抱き上げられたのだった。

デパート内にアナウンスが入る。迷子のお知らせ。3歳の女の子、赤いコート、縫いぐるみ。この子だ。放送で流れた名前を彼女に問いかけてみると、女の子は頷いた。

「もう大丈夫だ。下でママが君を待ってる」
彼の言葉に女の子は不思議そうな顔をする。尋ねるようにこちらを振り返った彼女に笑って頷くと、まだ半信半疑ながら少し明るい表情になった。

その男性 ― いや、あの時はとても背が高くて大人に見えたけれども、今思い返してみるとまだ精々十代半ばくらいの少年だったように思う。父に同じような格好に抱き上げられる時ほど高さがなかったし、腕や肩も少し細い感じがした。彼はびっくりしているわたしを軽々と抱き上げて、一緒にママを探そうと言った。驚きながらもその「一緒に」という言葉が何だかとても心強く感じられて、子供でも大人でも父以外の男性には人見知りの激しかったわたしが一瞬のうちに彼を信頼した。きっとスカートの模様が似ていたんだよ、と言ったのも確か彼だった。彼の両親 ― それともあれは祖父母だったのだろうか、彼らのように色々気づかって話しかけはしないけれども、時々眼が合うと黙って微笑んでくれる灰色の瞳がとても優しくて、不思議に安心した。

灰色の眼?

ママ、と叫ぶ女の子の声で我に返る。エスカレータを下りた先にある案内所の前に立っていた女性が娘の名を呼び、良かったわ、ご免ね、と言いながらこちらに小走りに近付いて来る。わたしのものよりも少し裾が広がっているが、よく似た緑色のロング・スカート姿だ。彼の腕から乗り出すようにした女の子はそのまま母親の腕の中に抱き取られて、今まで我慢して抑えていたものを一気に解き放つかのように声を上げて泣き出した。

あの時のわたしもそうだった。自分はどうなってしまうのだろうという不安を心の隅に感じながらも、唯一信頼できる(と感じた)不思議な少年と大人の人達と一緒に居ることに少しずつ慣れてきていた時不意に名前を呼ばれ、振り向いたその声の方向に母を見つけた。ご免なさいね、と母が手を差し伸べたその瞬間、無意識に考えないようにしていた自分は今まで迷子になっていたのだという事実を改めて思い出し、それに驚いて泣き出してしまったのだった。母にしがみついて泣いて泣いて、気付いた時には一緒に母を探してくれた人達はもう立ち去ってしまった後で、母がさあ、もうすぐパパが来るのにそんな顔してたらびっくりするわよ、と笑って言った。あれはそう、やはり空港だった。母と一緒にどこかから帰ってくる父を迎えに行った時で、久しぶりに父に会えるのと普段より少しおめかししていたのとでちょっと浮き浮きしていて、多分ロビーで母が到着便の確認か何かに気を取られていたほんの少しの間に手を離してしまったのだ。無事に母と再会した後到着した父を迎えて車で帰宅して、お土産を開けたり食事をしたりするのに紛れて迷子になったことも、一緒に母を探してくれた人の ― 人達のことも、いつの間にか忘れてしまっていたのだった。多分、ついさっき不意に思い出すまでずっと。

小さな娘の頬をハンカチーフで拭い、乱れた髪を直してやりながら、母親はしきりにわたしたちに感謝する。商品の支払いの列が混雑して手間取り、手荷物を持ち替えるためほんの少し娘の手を離して、すぐ後ろにいるものと思っている間に見失ってしまったという。どうやら女の子は母親を探して一人でエスカレータに乗り、階を移動してしまったらしい。母親に促されて女の子はまだ少ししゃくり上げながらこちらに向き直って、小さな声だがはっきりとどうもありがとう、と言った。

「どういたしまして。良かったわね、もうママの手を放しちゃ駄目よ」

女の子は真面目な顔で大きく頷いてから、急いで母親の手を探してぎゅうと握る。 彼とわたしは思わず顔を見合わせて微笑んだ。女の子もようやくほっとしたのかちょっと恥ずかしそうに、でも初めて満面の笑顔を見せた。

しっかりと手を繋いで、時々こちらを振り返りつつ去って行く母子を見送りながら、何となく不思議な気分に捕らわれる。忘れていた遠い昔の自分自身の後ろ姿を見ているような、それ自体迷子になっていた記憶がようやく自分の元へ戻ってきたような奇妙な感覚。あの時のわたしは、彼らに「ありがとう」の言葉を言っただろうか。言ったかも知れない。よく憶えていない。なぜこれほどきれいに忘れていたのだろう。一度思い出せば、断片的とは言えこんなに時間がたった今も一つ一つの音や映像、それにあの時の空気が鮮やかに思い起こせるというのに。母が歩くのに合わせてふわふわと揺れるスカートの花模様、荷物のカートを押す女性の背後に翻る鮮やかなエメラルド色のサリー、迎えに来た男性と嬉しそうに抱き合う女性、きらきらした文字が描かれた店先に並ぶ色とりどりの箱や人形、ひっきりなしにカシャカシャと乾いた音を立てる頭上の表示板、わたしが間違えてスカートを掴んだ女性の柔らかそうな薄い栗色の髪、抱き上げられた時の彼の腕の暖かさ、青い木綿のシャツの手触り、覗き込むと不思議に安心する深い灰色の瞳。光の具合で碧や緑色の影が差して ―

「どうかしたのか」

尋ねられて初めて、自分が彼の横顔をじっと見つめていたのに気づく。

「え?あ、ううん。良かったわね、すぐにお母さんと会えて」
「そうだな。さて、どうする」
「え」
「もう一度戻って、君の言っていた店に行こうか」エスカレータを示して彼が言う。

「あ、そうね...」ちょっと考える。
「あのね、ええと ― やっぱり少し休んでいきたい?」

彼は軽く肩をすくめてどちらでも、という仕種をしてみせる。

「僕は特に疲れてはいないし、君次第だ。次の機会でもいいし」
「そう?じゃ、また今度でもいい?何だか帰りたくなっちゃったの。帰ってから家でコーヒー飲むことにしてもいい?わたしが入れるから」

彼が笑って出口の方へ促したので、わたしたちは建物を出て家に向かって歩き出した。ちょっと見回してみたが、先に出た母子の姿はもう見えない。

「きっとあの子、今日は家に帰るまでお母さんの手を放さないわね」
「だろうな」彼も微笑んで答える。

話しながら彼の横顔を盗み見る。自分でもよく分からないけれど何か落着かない。あの女の子に昔の自分を重ねてしまっているせいかも知れないが、何だか ― わたしも昔迷子になったことがある、と話してみようか。誰でも子供の頃は一度や二度迷子になることくらいあるし、大抵は周りの大人が気づいて助けてくれるものだ。どこにでもある話だし、今日のようなことがきっかけで自分の同じような体験を思い出しても不思議ではない。

「あのね」
「うん?」
「あの ― ええと、可愛かったわねあの子」
「ああ」
「母親って色々大変だと思うけど、やっぱり子供って可愛い」
「ああ」
「わたしもあんな子供が欲しくなっちゃった」
「そうだな」
「そう ― 」

はたと我に返る。彼の様子を窺いながら切り出そうかどうしようか迷っている話題のほうに半ば気を取られていたけれど、今わたしは何だか、聞きようによってはかなり意味深長ことを言わなかっただろうか。いや、それよりもそれに対する彼の返事はつまり、その、わたしと、

ちらりと彼を見ると、目が合ってしまってにこりとされたので思わず顔を伏せる。つい今しがたのやり取りを何度も思い返すほど頬が熱くなる。でも、もしかすると彼はそう深く考えずに相槌を打ったのかも知れない。けれど普段、確かに割合からいえばわたしの方が喋る量は圧倒的に多いとは言え、彼はいつもちゃんと話を聞いていてくれて適当に返事をするということはない。その彼がああいう話題に対してああいう同意の仕方をするということはやはり彼も、つまり、本気でそう思っているということなのだと思う。一緒に暮らしているのだし、そういう方面についてももちろん一度も考えたことがなかったわけではないけれども、こんなことをあれほど不用意に言ってしまった自分が恥ずかしくて、頭を抱えてその場にうずくまりたい心境に襲われる。その上あんな風にさらりと応えられたら ―

名前を呼ばれ、我に返って立ち止まる。振り返ると彼が3メートルほど後ろに立っている。道が二手に分かれるところで、緩やかに左に曲がる道を行かなければならないのをわたしはどんどん歩いてそのまま真直ぐ行く道に入りかけていたのだった。彼は笑いを堪えているような顔で傍に歩いて来る。

「君も、しっかり手を繋いでいた方が良さそうだ」
そう言って彼は本当にわたしの手を取り、本来の道に戻って歩き出す。普段外を歩く時に手を繋ぐことはほとんどないので、繁華街ほど人通りが多くないとは言え気恥ずかしい。

「あの、大丈夫よ。ちょっとぼんやりしててうっかり曲がり損ねただけだもの。ね」

だが彼は手を放そうとせず、進行方向を向いたまま言った。
「今になってまた迷子になられたら困る」

「え」

― また?

思わず顔を上げる。すると彼もふいとこちらを振り返って、


あの時と同じ暖かな灰色の眼が、優しく笑った。




8.4.2003

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