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scene 10 : in the still of the night

ここはどこだろう。暗い。

真っ暗、ではないらしい。自分がどこかの部屋の中にいるのも分かるし、家具や窓の配置も見て取れる。見覚えのある、と言うよりとてもよく知っている部屋。それでいてひどくよそよそしく感じられる。ああそう、これはわたしの家。しばらく前まで、わたしは家族とここに住んでいたのだった。なぜ今戻ってきたのだろう。何か取りにくる用事でもあっただろうか。思い出せない。

ああ、違う。わたしがここにいるのは ― そうするしかなかったから。今のわたしにはここより他に行くところがないから、ここで待っていなければならないから。いつまで? 分からない。しばらくの間。何て漠然とした言葉。寒い。なぜこんなに暗いのだろう。家族と一緒に何年も住んで、父の仕事のため母や弟もここを離れてからは自分一人で住むのにもすっかり慣れていた場所のはずなのに、なぜこんなに冷たく空虚に感じるのだろう。一人で、彼と一緒に暮らし始めるまでは ―


会いたい。


不意にはっきりとした言葉となって意識の水面に浮かび上がった想いに、瞬間心臓の鼓動が停まる。慌てて抑えようとしても一度現れてしまったそれはもう、止める術もなく一気に溢れ出してしまう。会いたい。彼に会いたい。今すぐこの殺風景な部屋を飛び出して彼の元に戻りたい。でもそれは、今はできない。今は? いつならできる? いつになれば会える? 最後に別れてから、最後に彼の声を聞いてからもうどれくらい経ったのだろう。あとどれだけ待てばいいのだろう。全てが終わるまで、


終ワラナカッタラ?


違う、そんな筈はない ― そんな筈は。コノ一人キリノ長イ長イ時間ガ終ワラナカッタラ、イツマデモコノママダッタラ? こんなことを考えては駄目。モウ二度ト彼トノ生活ニ戻レナカッタラ? だめ。待っているのはわたしだけで、彼はもう戻りたいとは思っていなかったとしたら。体からすうと血の気が引く。それはずっと頭の隅にあった、そこにあるのは気づいていたけれど必死で見ない振りをしてきた怖れ。でももうわたしはそれを見てしまった。そしてそれは思っていたよりもずっと大きくて、見る間に「怖れ」ではなく「現実」となってわたしを取り囲んでしまう。終わりなどない、いやもうとっくに何もかも終わっていたのだ。彼とわたしの時間はもう戻らない、わたしはもう彼の生活の一部ではない、かつてわたしが居た場所には、今はあのひとが居るから ― それともわたしこそが、何かの間違いでほんの僅かな間だけ彼の人生に迷い込んだのだろうか? そうなのかも知れない。「邪魔者」はわたしのほうだったのかも知れない。彼はもうわたしを必要とはしていない。でも、それではわたしは? わたしはどうすればいい? 今でもこんなに彼を必要としているのに。こんなに会いたいのに。こんなにも ― 愛しているのに。 寒い。こんなに暗い所は嫌。体温も視覚もじわじわと奪い取られるような ― 部屋から出ようとしても脚が上手く動かず、もつれて床に倒れてしまう。硬くて冷たい床。その上にじかに倒れているのにその冷たい面から、その空間全体から拒まれ弾かれているような疎外感。わたしの居るべきところはここではない、でも他に行くところもない。わたしの帰るべき家はもうどこにもない。迎えに来てくれるあなたはもういない。あなたに会いたい。一人にしないで、わたしを見て、もう一度わたしの名を呼んで ―


自分の声に驚いて目が覚める。叫んだ? それともあれは夢の中だったのだろうか。でも心臓の鼓動はひどく速い。こんな夢、ここしばらく見なかったのに。息を殺し、夜の静寂が乱されていないのを確かめてから、そっと深呼吸をして動悸を鎮める。

「どうした?」

囁くような声に隣を見ると、眠っているものと思った彼がいつの間にか薄闇の中でこちらに顔を向けている。さっきの夢の空虚な色を失った薄闇とは違う、ひんやりと藍色に透き通った薄衣のような空気を通して、彼の静かな視線に見つめられているのを感じる。

「起こしちゃった?ごめんなさい、何でもないの」

言い終わる前に彼の手がついとこちらに伸び、長い指先が濡れた頬をそっと拭ってくれる。自分でも泣いていたことに気づかなかったのに、こんなに明かりの乏しいところでなぜ彼には分かるのだろう、とぼんやりと考える。

「あ ― ありがとう」
「嫌な夢を見たのか」
「うん ― ちょっと、疲れてたからだと思うの」

曖昧に答えてから少し体をずらして側に寄ると、彼がシーツの間に腕を入れて抱き寄せてくれる。肩に頭を載せて軽く目を閉じると彼の規則正しい胸の鼓動と温かな体温が伝わってきて、乱れた気持ちがゆっくりと静まってゆくのが分かる。強張っていた身体が徐々にほぐれ、呼吸が楽になる。あの夢を満たしていた冷たい喪失感と空虚な絶望が遠ざかり、代わりに暖かく柔らかな何かに包み込まれるような感覚が拡がっていく。あれはわたしの過去の不安と妄想が造り上げたただの夢で、今ここに居る彼が、触れれば確かめられるこの暖かさが本物なのだ、と体全体で感じ納得する。心地良い安堵感の中で、わたしは自分の声が言うのを聞いた。

「あのね ― あなたと、離れてた時の夢を見たの」
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*


ふと、目が覚めた。


まだ部屋は暗い。多分眠りに落ちてから何時間と経ってはいないだろう。習慣で隣に眠る彼女に眼を遣る。少しひやりとした空気を伝わって微かに耳に届く寝息を聞きながら彼女の肩までシーツを引き上げた時、その規則正しいリズムが乱れた。起こしたかと様子を窺っていたが、彼女は窮屈そうに身動きしただけだった。震えた、と言った方がむしろ近いかも知れない。目は覚まさないようなので自分も取り敢えず再び横になったが、様子が気になる。彼女の息遣いは最前までの穏やかなものではなくなっていて、呼吸は速く浅くなり、時々苦し気にさえ聞こえる。一度起こした方がいいだろうかと考えているとやがて彼女は寝返りを打って急に鋭く息を吸い込み、暫しあって今度はゆっくりと、長い溜息をついた。どうやら目覚めたようだった。

こちらに微かに首を巡らせ、様子を窺っているのか少しの間じっとしていた彼女はまた小さく溜息をつき、それから息を整えるようにゆっくり、だがそっと深呼吸をした。

「どうした?」

彼女が驚いて振り返る。

「起こしちゃった?ごめんなさい、何でもないの」

少しかすれた彼女の声の語尾が微かに揺らいだ。薄闇にほの白く浮かび上がる頬に手を伸ばして指先を滑らせると、やはり涙で濡れている。彼女は小さな声でありがとう、と言うと戸惑った様子で顔を伏せた。

「嫌な夢を見たのか」
「うん ― ちょっと、疲れてたからだと思うの」

僅かに躊躇した後、彼女はそう答えた。確かに彼女は今日 ― いやもう昨日か ― 提出するエッセイか何かを前の晩遅くまで何度もまとめ直していたから、普段より些か疲れてはいたようだった。だが ―

彼女がこちらに寄り添ってきたので、片腕を身体に回して抱き寄せる。されるまま僕の肩に頭を預けた彼女の呼吸はまだ少し乱れていたが、暫くそうしているうちに徐々に落着きを取り戻したようだった。僕の胸に軽く手を当て、眼を閉じて半ば眠ったように見えた彼女は、やがて何度目かの溜息をつくと言った。

「あのね ― あなたと、離れてた時の夢を見たの」


ああ、そうだったのか。

短い間だが、彼女と僕は一時期離れたことがあった。それはどちらが望んだことでもなく、ある事情で暫く距離を置くのも止むを得ないという判断からだった。少なくとも当時の僕にはそれが最善の策と思えた。そもそも彼女自身には何の関わりもない事だったから、敢えて巻き込んで嫌な思いをさせたくないということもあった。彼女も僕の立場を慮って、やや渋々ではあったが納得してくれた。ほんの暫くの間のことだから互いを信頼していれば何も案ずることはない、そう思った。

だが程なく自分の考えの甘さを思い知らされることになった。発端となった問題自体が予想以上に複雑化し長引いたこともあったが、何よりも彼女と離れるということがどういうことか僕自身理解できていなかったのが問題だった。彼女に寂しい思いをさせてしまうのは気がかりだったが、自分にとって彼女の不在がどれだけ大きなダメージとなるかまで考えていなかったのだ。動揺を彼女に悟られぬよう連絡も極力控えたが、それによって早く元の生活に戻れる状況にしなければという焦りと何を放り出しても彼女に逢いたいという欲求の狭間でのジレンマが一層大きくなった。彼女への思慕が強まるほど電話さえも苦痛となり、程なく僕は一切の連絡を断った。それが彼女を不安にさせることを知りながら逃げたのだ。

わたしは大丈夫だから、心配しないで。

元の家まで送って行って別れる時、彼女はいつものように笑って言った。だがそれは無論、僕に負担を掛けまいとする彼女の精一杯の気遣いだった。例えほんの短い電話でも何らかの形で繋がりがあった時はまだ耐えられただろう、だが離ればなれの時間が長引いてやがて僕からの連絡が途絶えた時、辛うじて寂しさに耐えていた彼女の不安は怖れに変わり、絶望となった。彼女が僕を信頼していなかったのではない。何の保証もない状況で一途に僕を信じようとしてくれた彼女に対して、不安を与える要素が余りにも多すぎたのだ。そして彼女をその極めて危うい立場に置いた僕自身は、自らの苦境にばかり気を取られ彼女の心情を察しようとしていなかった。いや察していても敢てそれに目を向けようとしなかった。 不甲斐無い自分に縛り付けておくよりいっそ別れてしまった方が彼女のためなのかも知れない、とも思った。その一方では彼女が自分を待っていてくれることを望み欲しながら ― 否、これも正確ではない。それがどれ程辛くとも彼女がきっと待っていてくれるであろうことを「知りながら」、僕は傲慢にも彼女に否応なくその役割を強い、自由を奪ったのだ。傷付けたくないと自分に言い訳しながら、実際は最も酷な形で彼女を傷付け苦しめていた。 本当に大切に思うなら、どんな理由があったにせよ彼女と離れるべきではなかったのだ。彼女自身は元々当たり障りなく遠ざけられることではなく、例え愉快な経験ではなくとも僕の傍で共に事態を見極め乗り越えたいと望んでくれていたのだから。

「君には、辛い思いをさせた」

先刻より距離も近いので、顔を上げた彼女の表情も見て取れる。彼女はふわりと微笑むと小さく首を振った。

「わたしだけが辛かったわけじゃないもの」

それでも、カーテンを透かして射し込む淡い月明かりの中でその眼は少し潤んで見える。指先で彼女の乱れた髪を直すと、彼女はもう一度微笑んで僕の肩にことんと顎を載せ、上目遣いでこちらを見た。

「前にもそんな夢を見たことがあるんじゃないのか」
「知ってたの?」

ここ暫くはなかったようだが、僕が気づいただけでも以前に一、二度、やはりいつもより少し疲れた様子だった夜などに彼女がうなされていたらしいことはあった。彼女は何も言わなかったし、同じ夢を見ているのかも知れないとまでは考えが及ばなかったが。今更ながら自分の注意力の無さが呪わしい。辛い記憶の傷が未だ癒えていない彼女を差し置いて、その原因を作った自分は元の生活に戻れたのをいいことに、彼女の寛大さに甘え何事もなかったかのように安穏としていたのだ。そんなことを考えていて余程情けない顔をしていたのか、彼女が小さく笑って言った。

「でも、心配しないで。もう平気だから」
「だが」
「そのうちに見なくなるわ。あなたがいてくれるもの」
そう言って笑うと、彼女は僕の頬に軽く額をつけるようにして顔を伏せた。

そうであって欲しい、と思うのは多分余りに自分勝手なのだろう。だが僕自身彼女と出会い共に時を過ごすようになってから、それまで長い間悩まされてきた悪夢をいつの間にか見なくなった。彼女の存在が何かの形で作用したのだろうとしか僕には思えない。ならば、その逆もあり得ると思いたい。彼女がそう信じてくれるなら、彼女が辛い思いをした時の記憶にもうこれ以上脅かされることが無くなるような、その痛みを隠して無理に笑う必要も無くなるような毎日を重ねていけるよう心を砕くのが自分のすべきことであり償いなのだろうと思う。だから彼女が、今まで黙っていたことを自分から話してくれたことが素直に嬉しい。

「ね」

俯いたまま、彼女が少し甘えた声で言う。

「うん?」

「傍にいてね。ずっと」
「ああ」

一時期 ― 全ての誤解が解けて再び元の生活を再開させた頃、彼女は以前と同じように笑い、明るく振舞ってはいたが、どこか不安気に見えた。それは彼女が将来に関する話を避けているのに気づいたことではっきりした。彼女自身殆どそれを意識してはいなかったと思うが、漠然とした未来の話題ではなくても、僕達二人に関する何かちょっとした予定や約束の話になると彼女は言葉を濁し、そっと眼を逸らした。来年とかいつかという表現だけでなく、普段の日常の中でごく当たり前に出てくるような来月、来週、明日という言葉さえも口にするのを躊躇していたように見えた。まるで明日が来る前に僕が彼女を独り残して突然消え去ってしまうのではないか、そんな約束など守られることなく霧散してしまうのではないかと怖れているかのように、曖昧な未来への期待をもたらす言葉は戸惑いと共に壊れ物のように受け止められ、所在無げにその場に置き去りにされた。そんな様子もいつしか消え、そういう話題になっても言葉を選ぶことが無くなったのはここ最近の事だと思う。僕は彼女の身体に回した腕に力を込めて抱き寄せ、もう一度言う。

「君の傍にいる。ずっと一緒に」

「ありがとう」

囁くような声で、彼女はそう言った。その言葉を君に言わなければならないのは僕の方だと喉まで出かけて、自分に必要なのはそれを口に出すよりも、その気持ちを態度で彼女に示すことなのかも知れないと感じて思い直す。彼女を傷つけたこと、彼女がそれを赦し受け入れてくれたこと、こんな男でも傍にいて欲しいと思ってくれていること、彼女が示してくれる溢れる程の愛情と信頼に対して、自分なりのやり方で謝罪と感謝を伝えることが僕のすべきことなのだろう。


腕の中で穏やかな寝息を立て始めた彼女の肩をシーツで包み、髪にそっと口づける。夜明け前のほんの僅かな時間、夜の濃さと静けさが最も深まる瞬間に、僕は愛しい人の優しい息遣いを子守唄のように聞きながら、自分の意識もまた彼女を追って深く暖かな眠りへと滑り込んでゆくのを感じていた。


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3.6.2003

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