ここはどこだろう。暗い。
真っ暗、ではないらしい。自分がどこかの部屋の中にいるのも分かるし、家具や窓の配置も見て取れる。見覚えのある、と言うよりとてもよく知っている部屋。それでいてひどくよそよそしく感じられる。ああそう、これはわたしの家。しばらく前まで、わたしは家族とここに住んでいたのだった。なぜ今戻ってきたのだろう。何か取りにくる用事でもあっただろうか。思い出せない。
ああ、違う。わたしがここにいるのは ― そうするしかなかったから。今のわたしにはここより他に行くところがないから、ここで待っていなければならないから。いつまで? 分からない。しばらくの間。何て漠然とした言葉。寒い。なぜこんなに暗いのだろう。家族と一緒に何年も住んで、父の仕事のため母や弟もここを離れてからは自分一人で住むのにもすっかり慣れていた場所のはずなのに、なぜこんなに冷たく空虚に感じるのだろう。一人で、彼と一緒に暮らし始めるまでは ―
会いたい。
不意にはっきりとした言葉となって意識の水面に浮かび上がった想いに、瞬間心臓の鼓動が停まる。慌てて抑えようとしても一度現れてしまったそれはもう、止める術もなく一気に溢れ出してしまう。会いたい。彼に会いたい。今すぐこの殺風景な部屋を飛び出して彼の元に戻りたい。でもそれは、今はできない。今は? いつならできる? いつになれば会える? 最後に別れてから、最後に彼の声を聞いてからもうどれくらい経ったのだろう。あとどれだけ待てばいいのだろう。全てが終わるまで、
終ワラナカッタラ?
違う、そんな筈はない ― そんな筈は。コノ一人キリノ長イ長イ時間ガ終ワラナカッタラ、イツマデモコノママダッタラ? こんなことを考えては駄目。モウ二度ト彼トノ生活ニ戻レナカッタラ? だめ。待っているのはわたしだけで、彼はもう戻りたいとは思っていなかったとしたら。体からすうと血の気が引く。それはずっと頭の隅にあった、そこにあるのは気づいていたけれど必死で見ない振りをしてきた怖れ。でももうわたしはそれを見てしまった。そしてそれは思っていたよりもずっと大きくて、見る間に「怖れ」ではなく「現実」となってわたしを取り囲んでしまう。終わりなどない、いやもうとっくに何もかも終わっていたのだ。彼とわたしの時間はもう戻らない、わたしはもう彼の生活の一部ではない、かつてわたしが居た場所には、今はあのひとが居るから ― それともわたしこそが、何かの間違いでほんの僅かな間だけ彼の人生に迷い込んだのだろうか? そうなのかも知れない。「邪魔者」はわたしのほうだったのかも知れない。彼はもうわたしを必要とはしていない。でも、それではわたしは? わたしはどうすればいい? 今でもこんなに彼を必要としているのに。こんなに会いたいのに。こんなにも ― 愛しているのに。 寒い。こんなに暗い所は嫌。体温も視覚もじわじわと奪い取られるような ― 部屋から出ようとしても脚が上手く動かず、もつれて床に倒れてしまう。硬くて冷たい床。その上にじかに倒れているのにその冷たい面から、その空間全体から拒まれ弾かれているような疎外感。わたしの居るべきところはここではない、でも他に行くところもない。わたしの帰るべき家はもうどこにもない。迎えに来てくれるあなたはもういない。あなたに会いたい。一人にしないで、わたしを見て、もう一度わたしの名を呼んで ―
自分の声に驚いて目が覚める。叫んだ? それともあれは夢の中だったのだろうか。でも心臓の鼓動はひどく速い。こんな夢、ここしばらく見なかったのに。息を殺し、夜の静寂が乱されていないのを確かめてから、そっと深呼吸をして動悸を鎮める。
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