珈琲が好きだ。
本来飲食に関しては興味が無くははないが特に固執する方でもないし、珈琲にしても中毒と言う程依存している訳ではない(と思う)が、忙しさに紛れて一日飲まないと何か物足りないのも事実だ。祖父もその傾向があるし、亡くなった父も毎食後の珈琲を欠かさなかったのを記憶している。嗜好というものも矢張り何かしら遺伝子に受け継がれるのか、或いは単に子供時代の刷り込みのようなものなのかは分からないが、理由が何であれ現在の自分が珈琲好きであることには変わりない。買物に出ても珈琲だけは決まって自分が選ぶことになっている ― これは彼女が任せてくれるからなのだが。無論彼女が入れてくれることもあるし、彼女は紅茶もよく飲むので一緒に飲む機会も多くなったが、それでも自分で入れる場合は殆ど珈琲になるのが常のようだ。
最初はその珈琲の夢を見ているのか、夢にしてもこれ程はっきり香りを感じるのは珍しいなどと思っていたが、どうやら実際に辺りに香りが漂っているらしい、と気付いたのと枕許の気配で一気に眼が醒めた。彼女がこちらに身体を屈めて、そっと様子を窺うように見下ろしていた。僕が眼を開けたのを見るとにこりと微笑む。
「今朝は早いな」
「週末にわたしが先に起きるなんて、珍しいでしょ」
彼女は手にしたマグ・カップを差し出した。先刻からの香りの元はここだったのだ。
「自分が飲みたかったから、ミルク入りにしてみたんだけど。ブラックの方が良かった?」
起き上がってカップを受取る。エスプレッソにミルクをたっぷり入れてあるらしく、少し泡立った表面から香ばしい匂いが立ちのぼった。誘われるように口に含んだ熱い珈琲の苦味と溶け合ったミルクの甘味がどこか懐かしい。
「いや、朝にこういうのも悪くない」
「ちょっと南欧風でしょ。お天気は北欧風だけど」
寝台の隣に並んで座りながら、自分のカップから一口飲んで彼女が言った。
「ああ、今日は雨か」
カーテンを完全に開けていないので外の様子は良く分からなかったが、光の具合からして空が大分暗いらしいのは窺える。空気もひやりとして、カップから立つ湯気が一層暖かく感じられた。
「さっき降り出したところよ。多分今日は一日雨」
そう言って彼女はシーツの中に滑り込む。
「でも、こういう週末も好きよ。こんな風に暖かくして、家の中でのんびりゆったり過ごすの。今日みたいな雨の日って時間がゆっくり流れるような気がするわ。静かだからかしら」
カップを両手で包んで、彼女は僕の脇に丸まるようにして身体を寄せた。こういう状況でなら幾ら時間がゆっくり流れてくれても構わない、と思う。既に眼はすっかり覚めていたが、ここのところ多少忙しかったし、一日何をするでもなく怠惰に過ごすのも中々贅沢かも知れない。珈琲を彼女越しに枕許のテーブルに置き、そのままずるずると身体を滑らせ再び寝転がると、彼女が笑って見下ろす。
「もう一度寝るの?一日ごろごろする?」
「たまにはそれもいいかな。ベッドで朝食の贅沢ができるのも休日ならではだし」
彼女は小首を傾げて少し考える素振りをした。
「魅力的な提案だけど、実は朝食も南欧風にクロワッサンを買ってきちゃったの。屑が散らかるからベッドで食べるのはちょっと無理ね」
「トーストだって大して変わらないだろう。後で払えばいい」
話しながら頭の横にあった彼女の左手を何となく弄び、少しひやりとした指に自分の指を絡ませる。 その手は僕に預けたまま、彼女はもう片方の手を伸ばして自分のカップを僕のものの隣に置いた。
「クロワッサンは油が多いから駄目。シーツが染みになっちゃうもの」
「洗えばいい」
テーブルから戻ってきた彼女の右手が、その反動の勢いのまま人指し指を僕の胸にぴたりと突き立てた。
「だ・め。わがまま言わないで、食べたいなら起きてダイニングまで行くの」
厳しい口調で決めつけて、彼女は既に議論の勝利を確信したようににこりと笑った。どうも母親にでも説教されているような心境だ。仕方なく多少大袈裟に溜息をついて降伏の意思表示をすると、彼女はふわりと表情を和らげて悪戯っぽく微笑んだ。「母親」と「恋人」の決定的な相違は(例え自分の方が相手より十も年上だとしても)こういう表情に対する男の側の反応に依るのかも知れないなどと漠然と考えながら、音もなく彼女の肩からひと束滑り落ちた髪を空いている左手を伸ばして耳に掛け直してやる。そうするのは彼女が邪魔だろうと思うからというより、彼女の顔が視界から隠れるのが気になるというこちらの勝手な都合に因るところが大きい。彼女は僕の手を取ると、掌の傷痕にそっと唇をつけた。
彼女がそうするのはもう習慣のようなものになっていた。当初は手首の上から人指し指に向かって大分深く切れていたその傷も今では目立たなくなってはきたが、完全に消えることは無いだろう。それはある事情で彼女と暫く離れていた時期についたもので、意識してやったことではないとは言え我ながら馬鹿げた怪我をしたものだと思う。だが彼女はそう思わなかったようだった。程なくして再会した時彼女は直ぐにその傷に気付いたが、僕が話したがらないのを察して追求はしなかった。だが彼女がここに戻ってきた日、久し振りに二人でコーヒーを飲むため食器を出そうとしていた彼女が急に走るように傍に来ると僕の左手を奪わんばかりの勢いで取り上げ、包帯の取れて間もない傷に口づけ、自分の頬に押し付けてぽろぽろと涙を零した。恐らくたまたま眼に触れた以前とは多少変わった状況から、傷の原因を推測したのだろう。勘の鋭い彼女に推測を許すような状態のままにしておいたのは迂闊だったと思う。だがその時の僕は彼女の頬の柔らかさと自分の手を濡らす涙の温かさを感じながら、ああ本当に彼女が戻ってきたのだななどと呑気なことを考えていた。
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