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scene 13 : breakfast in bed

珈琲が好きだ。

本来飲食に関しては興味が無くははないが特に固執する方でもないし、珈琲にしても中毒と言う程依存している訳ではない(と思う)が、忙しさに紛れて一日飲まないと何か物足りないのも事実だ。祖父もその傾向があるし、亡くなった父も毎食後の珈琲を欠かさなかったのを記憶している。嗜好というものも矢張り何かしら遺伝子に受け継がれるのか、或いは単に子供時代の刷り込みのようなものなのかは分からないが、理由が何であれ現在の自分が珈琲好きであることには変わりない。買物に出ても珈琲だけは決まって自分が選ぶことになっている ― これは彼女が任せてくれるからなのだが。無論彼女が入れてくれることもあるし、彼女は紅茶もよく飲むので一緒に飲む機会も多くなったが、それでも自分で入れる場合は殆ど珈琲になるのが常のようだ。

最初はその珈琲の夢を見ているのか、夢にしてもこれ程はっきり香りを感じるのは珍しいなどと思っていたが、どうやら実際に辺りに香りが漂っているらしい、と気付いたのと枕許の気配で一気に眼が醒めた。彼女がこちらに身体を屈めて、そっと様子を窺うように見下ろしていた。僕が眼を開けたのを見るとにこりと微笑む。

「今朝は早いな」
「週末にわたしが先に起きるなんて、珍しいでしょ」
彼女は手にしたマグ・カップを差し出した。先刻からの香りの元はここだったのだ。

「自分が飲みたかったから、ミルク入りにしてみたんだけど。ブラックの方が良かった?」

起き上がってカップを受取る。エスプレッソにミルクをたっぷり入れてあるらしく、少し泡立った表面から香ばしい匂いが立ちのぼった。誘われるように口に含んだ熱い珈琲の苦味と溶け合ったミルクの甘味がどこか懐かしい。

「いや、朝にこういうのも悪くない」
「ちょっと南欧風でしょ。お天気は北欧風だけど」
寝台の隣に並んで座りながら、自分のカップから一口飲んで彼女が言った。

「ああ、今日は雨か」
カーテンを完全に開けていないので外の様子は良く分からなかったが、光の具合からして空が大分暗いらしいのは窺える。空気もひやりとして、カップから立つ湯気が一層暖かく感じられた。

「さっき降り出したところよ。多分今日は一日雨」
そう言って彼女はシーツの中に滑り込む。

「でも、こういう週末も好きよ。こんな風に暖かくして、家の中でのんびりゆったり過ごすの。今日みたいな雨の日って時間がゆっくり流れるような気がするわ。静かだからかしら」

カップを両手で包んで、彼女は僕の脇に丸まるようにして身体を寄せた。こういう状況でなら幾ら時間がゆっくり流れてくれても構わない、と思う。既に眼はすっかり覚めていたが、ここのところ多少忙しかったし、一日何をするでもなく怠惰に過ごすのも中々贅沢かも知れない。珈琲を彼女越しに枕許のテーブルに置き、そのままずるずると身体を滑らせ再び寝転がると、彼女が笑って見下ろす。

「もう一度寝るの?一日ごろごろする?」
「たまにはそれもいいかな。ベッドで朝食の贅沢ができるのも休日ならではだし」

彼女は小首を傾げて少し考える素振りをした。

「魅力的な提案だけど、実は朝食も南欧風にクロワッサンを買ってきちゃったの。屑が散らかるからベッドで食べるのはちょっと無理ね」
「トーストだって大して変わらないだろう。後で払えばいい」

話しながら頭の横にあった彼女の左手を何となく弄び、少しひやりとした指に自分の指を絡ませる。 その手は僕に預けたまま、彼女はもう片方の手を伸ばして自分のカップを僕のものの隣に置いた。

「クロワッサンは油が多いから駄目。シーツが染みになっちゃうもの」
「洗えばいい」

テーブルから戻ってきた彼女の右手が、その反動の勢いのまま人指し指を僕の胸にぴたりと突き立てた。

「だ・め。わがまま言わないで、食べたいなら起きてダイニングまで行くの」

厳しい口調で決めつけて、彼女は既に議論の勝利を確信したようににこりと笑った。どうも母親にでも説教されているような心境だ。仕方なく多少大袈裟に溜息をついて降伏の意思表示をすると、彼女はふわりと表情を和らげて悪戯っぽく微笑んだ。「母親」と「恋人」の決定的な相違は(例え自分の方が相手より十も年上だとしても)こういう表情に対する男の側の反応に依るのかも知れないなどと漠然と考えながら、音もなく彼女の肩からひと束滑り落ちた髪を空いている左手を伸ばして耳に掛け直してやる。そうするのは彼女が邪魔だろうと思うからというより、彼女の顔が視界から隠れるのが気になるというこちらの勝手な都合に因るところが大きい。彼女は僕の手を取ると、掌の傷痕にそっと唇をつけた。

彼女がそうするのはもう習慣のようなものになっていた。当初は手首の上から人指し指に向かって大分深く切れていたその傷も今では目立たなくなってはきたが、完全に消えることは無いだろう。それはある事情で彼女と暫く離れていた時期についたもので、意識してやったことではないとは言え我ながら馬鹿げた怪我をしたものだと思う。だが彼女はそう思わなかったようだった。程なくして再会した時彼女は直ぐにその傷に気付いたが、僕が話したがらないのを察して追求はしなかった。だが彼女がここに戻ってきた日、久し振りに二人でコーヒーを飲むため食器を出そうとしていた彼女が急に走るように傍に来ると僕の左手を奪わんばかりの勢いで取り上げ、包帯の取れて間もない傷に口づけ、自分の頬に押し付けてぽろぽろと涙を零した。恐らくたまたま眼に触れた以前とは多少変わった状況から、傷の原因を推測したのだろう。勘の鋭い彼女に推測を許すような状態のままにしておいたのは迂闊だったと思う。だがその時の僕は彼女の頬の柔らかさと自分の手を濡らす涙の温かさを感じながら、ああ本当に彼女が戻ってきたのだななどと呑気なことを考えていた。

それ以来、彼女は事あるごとに僕の左手を取っては傷痕に唇をつけるようになった。それはごくさり気なく自然な動作で、例え誰かが眼にしたとしても若干風変わりな愛情表現の一つ程度にしか見えないだろう。なぜ彼女がそうするのかはっきりは分からないが、彼女の両手が僕の左手を包み唇が傷痕に触れる度、僕は何か暖かなものに抱かれているような不思議な安堵感を覚える。傷が未だ新しかったあの夜でさえ、彼女に触れられて感じたのは痛みではなく暖かさと充足感だった。彼女のその行為に対して僕がある種の感謝のようなものを感じていることを、彼女自身は知っているだろうか。

「仕事は昨日で一段落したんでしょ?」その左手を今度は彼女が玩具にしながら言う。
「ああ、漸くね。 ― そう言えばゆうべはいつの間に眠っていたのかな」

彼女は自分が浴室から戻るともう僕はぐっすり寝入っていた、と言った。

「本なんて1頁もめくってなかったみたい。しばらく帰りも遅かったし、疲れてたのね。さっきわたしが起きたときもまだぐっすり眠ってたもの」

彼女は僕の手を自分の頬にもう一度押し付けた。柔らかな肌の感触と頬にかかる髪の質感が心地良い。ふと見ると、カップを置いたと同じテーブルの向こう端にその本が置いてある。ここのところ読書する暇もなかったのでやっと少し落着いて読めるかとゆうべ開いてみたのだが、表紙を開いたその後の記憶がない。自分では余り意識していなかったが、それなりに責任のあるプロジェクトを一つ完了させて緊張が解けたのか。関わっていたメンバーも暫くは腑抜けて使い物にならないかも知れないなどと考えていると、彼女が少し気遣わしげに、僕の表情を覗き込むようにこちらに体を屈めた。下ろしたままの洗い髪がまたさらりと落ちて、眼の前に揺れる。

「せっかくのお休みなのに、ちょっと早く起こし過ぎたかしら。もっと寝ていたかった?」
「いや、良く寝たお陰で疲れも取れたようだし、すっきり眼が醒めた。が」
「が?」
 kiss*(7k)
やや心配そうに聞き返した彼女は小さな叫び声を上げて、次の瞬間には榛色の眼を驚きに見開いたまま仰向けになって僕を見上げていた。

「暖かくして一日ごろごろする、という君の提案も非常に魅力的だ」

彼女の頬がぱっと紅く染まった。

「あのね、さっきのはそういう意味で言ったんじゃなくて」
「そういう、というのはどういう意味かな」

揚げ足を取られ彼女が一層紅くなって絶句している間に、すかさず唇を塞ぐ。一瞬強張った彼女の身体が直ぐに緊張を解いて自分を受け入れてくれるのが嬉しくもある一方、些か物足りないような気もするのは男の我侭かとも思う。とは言え彼女の両腕が甘えるように首に巻き付いてくるのはこちらとしても大いに歓迎すべき状況な訳で、何の文句もあろう筈が無い。その腕が背中に下がって、僕をもっと自分の方へ引き寄せるようとするかのように力が込められ、

今度は危うくこちらが声を上げるところだった。しまったと思った時には既に形勢が逆転して、僕は見事に彼女の下に組み伏せられていた。彼女を圧し潰さないよう身体の片側に体重をかけて均衡を保っていたのを上手く逆手に取られたのだ。朝食のことで言い包められた仕返しもあって(無論それだけではないのは認めるが)不意打ちを試みたが、実に呆気無く返り討ちにされた訳だ。一番腑抜けているのは自分かも知れない。

「油断したでしょ?」予想外の展開に言葉も見つからない僕を見下ろして、勝ち誇ったように彼女が言う。

「...参った」漸く出た言葉が矢張り降伏宣言なのが情けないことこの上ない。 「君は優秀な暗殺者になれる」

彼女は声を上げて笑い、体を起こした。こちらもやや気を取り直して捕まえようと片手を伸ばしかけたが、その手ごと素早くシーツで包んで押さえ込まれてしまった。常に比して動きが機敏に思えるのは早起きの効用なのだろうか。

「クロワッサン、焼きたてを買ってきたから早いうちに食べて欲しいの。着替えなくてもいいから、カップ持ってダイニングに来てね」

抗議の言葉は一切聞く耳持たぬといった態度でさっさと寝台から降りると、彼女は自分のカップをテーブルから取り上げた。踵を返しかけてふと振り返り、小さく笑う。

「お腹は空くでしょ?食べたらまたごろごろしてもいいから。寒くないように何か羽織ってね」

こちらに屈んで額に軽く唇をつけると、彼女は未だ呆然としている僕を残して部屋を出て行った。腕に残った彼女の体温を惜しみつつ、今の最後の台詞は果たして完全に突っぱねた訳ではないと仄めかしたのか、それとも単にそうしたければ二度寝でも三度寝でもして勝手に一人で自堕落な朝を過ごすがいいという意味だったのかと暫し思い巡らす。結局本人に確認するのが一番良かろうという結論に至って、僕は部屋着を羽織り、枕元のマグ・カップを取り上げると(雪辱戦の機会を密かに期待しながら)立ち上がった。部屋を出る前に窓際に行き、半分程引いてあったカーテンから外を窺う。白く煙る空からは絶え間なく雨が降り注ぎ、彼女が言ったようにどうやら一日降り続きそうな気配だった。窓を閉めたままでも微かな冷気が部屋に入って来ている。表の通りを走る車の音も街の雑音も雨の音に混じって曖昧になり、その途切れない雨音さえやがて音と意識しなくなる。彼女が「静か」と言っていたのはこういうことかと思う。


今日みたいな雨の日って、時間がゆっくり流れるような気がするわ。


ならば、その静かにゆったりと流れる時間を存分に活用して彼女と過ごさないのは ― どう過ごすにせよ ― 勿体無いというものだ。僕はカップの底に残った冷えた珈琲を飲み干すと、クロワッサンと二杯目の珈琲と彼女が待つダイニングに向かった。




1.11.2003

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