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...and it takes two. scene 3 : do it right

最近、利き手が変わった。

物心がついてからついこの間まで、自分は左利きだとずっと思っていた。思う以前にそれは単なる当たり前の事実でしかなかった。変わったと言っても、字を書いたり食事をしたりほとんどの日常生活をする上では今も左手を使うし、仕事でもそうだ。だから自分自身、最初はその小さな変化に気付かなかった。

「どうかした?」
「え」


顔を上げると、彼女の大きな榛色の眼が覗き込んでいた。傾げた首の後ろからすんなりした髪がひと束、窓の外で降りしきる雨にも似た微かな音を立てて滑り落ちた。手にした珈琲のマグ・カップからは香ばしい湯気が立ち昇っている。

「ああ、ありがとうーいや、別にどうもしないが」

受け取った珈琲を一口飲んでから、まだ訊ねるようにこちらを見ている視線に答えてそう言ったが、その眼にはまだ気遣わしげな色が浮かんでいる。

「でも。手に怪我でもした?」
「手?僕が?」

彼女は自分の珈琲をテーブルに置くとソファの隣に腰を下ろし、カップを持っていない僕の右手を両手で包んで検査でもするように注意深く押したり引いたり、裏表をためつすがめつした。温かく柔らかな感触にされるままになりながらも少し可笑しくなって、自分から彼女の目の前に手の平を広げて何度か握ったり開いたりしてみせる。

「何ともない。ほら」

彼女は困ったような、少し拗ねたような眼で僕を見上げた。

「だって、ずっと右手を見て考え込んでたから」

ああ、そうか。

どうやら物思いに耽りながら、その問題の手をじっと見つめていたらしい。そんなに長い時間考え込んでいただろうか。別に隠すようなことではないが、その理由を説明しても妙な話にしか聞こえないだろう。他愛無いこととは言え、やや心配性の気のある彼女は自分に何か原因があるのかと気に病むかも知れない。

「働けど働けど云々、と言うだろう。あれだ」

適当に軽口に紛らわしてしまおうとそう答えた。彼女は意外そうに眼を丸くすると、それで納得したわけではないようだったがちょっと呆れたような、咎めるような表情を向けてからテーブルから自分のカップを取り、座り直した。手を検査していたときはこちらに体を寄せていたのをふいと引かれたので、何となく寂しくなる。

寂しい?

そんな言葉が頭に浮かんだことに、我ながらいささか戸惑う。実際は今も彼女は手を伸ばせば直ぐに届く距離にいるのだから、この程度で寂しいなどと言うのは何とも我侭、いやほとんど馬鹿馬鹿しい。それでも、今一瞬胸を掠めた感情を表現する最も適切な言葉は「寂しい」以外にないと思う。
そんな感情を自分の中に認めていること自体、奇妙なものだと思う。もともと一人が苦にならず、むしろその方が楽だと思っていたくらいで、これまでずっとー随分と長い間ー誰かが居なくて寂しいなどと感じたことはなかった。いや例え感じたとしても、それを認めることを自分に許さなかったのだろうか。それが今はー

「じゃあ、これからはもっと倹約しないと」
「うん?」

間の抜けた応答をして彼女の横顔を改めて見直しながら、その言葉がさっき自分が思いつきで言ったことに対する返答だと思い至るまでややあった。例え小さくとも嘘はつくものじゃないと思う。彼女は両手で包むように持っている自分のカップを眉を寄せて覗き込むと、

「贅沢は敵でしょ?珈琲も、もっと安いのを買うようにしてーおいしくはないかも知れないけど」
「それはー困るな」

半ば本気でそう言うと、上目遣いにこちらを窺っていた彼女の顔がほころんで悪戯っぽい笑顔になった。振り向いた拍子にまた、肩からはらりと髪が零れ落ちて頬にかかる。彼女の顔が隠れてしまうのが気になるので、手を伸ばしてそれを払い、耳に掛けてやる。

ーああ、まただ。

こういうときだけ何故か右手を使うのに気付いたのは、二週間ほど前だったろうか。彼女に何か手渡すとき、彼女の手を取るとき、肩を抱き寄せるとき、普段なら自然に利き手の左を使っているであろうところに、気がつくとなぜか右を使っている。利き手で力が入り過ぎるのを無意識に避けているのかとも思ったが、そもそも力余って怪我をさせるほど怪力なわけでもないし、自分がそこまで粗暴だとも思わない。それにそういう理由なら、寧ろ利き手の方がコントロールは容易だろう。通常は左利きが当然であるのと同じように、その瞬間は確かに右が利き手になっていて、その認識の下に体が反応しているのだ。彼女に何か聞かれた時、説明するのにペンさえ何度か右に持ちかけたので初めて気付いたのだったか。これまでそんな経験は全く無かったし、今でも彼女以外の誰と接するときもそんなことはないのだが。

she (4k) 彼女に関わる動作のときだけ右利きになるということか。やはり何か心理的なものが関係しているのだろうか。

こんな些細なことさえ分析しようとする自分が、時々少しばかり疎ましくもなる。端くれとは言え科学者と呼ばれる部類の人間の習性のようなものだろうか。無論、海水温度のデータを取るのと人の心の動きを探るのは違う。心理学をかじったこともなくはないがーだが例え専門分野が何でどういう種類の知識に明るかろうと、ありそうな説明を見つけて理屈をつけても、恐らく納得できないだろうこともぼんやりと感じている。どういう訳かは分からないが、彼女に接するときだけ右利きになる。それで何の不便があるわけでも、彼女に負担を強いるわけでもない、ならば取り分け原因を突き止める必要もないではないか。そうも思う。彼女はその小さな変化には気付いていないだろう。本人でさえ初めは認識していなかったのだ、それ以外の者がこんな取るに足らぬことを一々気に留める筈もあるまい。まして昔から互いを知っているわけでもないのだ。

眼の前の彼女がほんの少し首を傾げて、髪を直したその右手に頬を寄せるようにして微笑んだ。暖かな色の瞳はまるで蝋燭の灯を少しだけそこに移したかのように見える。まだ乾き切っていない細く艶のある洗い髪が、微かにひやりとして指を撫でる。

この手は、ずっと彼女を待っていたのかも知れない。

ふとそんな考えが浮かぶ。思い当たった瞬間、その科学的でも論理的でもない考えは結論に至らぬ仮定をあれこれ組み立てては壊ししていた頭の片隅に、いともあっさりと居を定めたような気がした。それは今思い付いたと言うより、最初から知っていたことを漸く思い出したと言った方が近い感覚だった。そうなのかも知れない。いや、多分ー
榛色の瞳に引き寄せられるように彼女の方へ体を屈めながら、何故かぼんやりとした安堵感を覚えた。

*
「ね」

二杯目の珈琲を煎れるために立ち上がった彼女が、ふと振り向いた。少女のようにほんのり頬を染めた様子が愛おしくて、その腕を掴んだままの右手に少し力を込めながら見上げる。

「うん?」
「あなたって、両手が利くの?」
「ーえ」
右手がするりと椅子に落ちた。

「初めて会った頃は、左利きなんだなと思ったんだけど。ときどき右も使うでしょ?何か渡してくれるときとか、手を取ってくれるときとか。わたしは子供の頃からずっと右しか使えないから、そういうのってちょっと不思議なの。というより羨ましいのかしら」

そう言って笑うと、彼女は空のカップを手にして台所に立った。一人残された僕は急に高くなったように思える雨音の中で半ば放心して、半ば彼女が戻ったら何と話したものかと考えながら、置いてきぼりにされた右手を見つめていた。



20.9.2002

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