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scene 8 : if tomorrow never comes

If tomorrow never comes
Will she know how much I loved her?


ぎくりとした。

その歌詞が不意に耳に飛び込んできたのはいつもより早く仕事を終えた帰宅途中、ふと立ち寄った店で特に当てもなく陳列棚のCDを繰っていた時だった。

その曲を聞くのは初めてではない。確か姑く前までラジオなどで頻繁に流れていた曲だったと思う。聞くともなしに聞き流しながら、悪くはないがいささか感傷的に過ぎるなと思った程度だった。歌詞にしても何度も耳にしている筈なのに、何故今になって急に気になるのか自分でも分からない。恋人或いは妻の安らかな寝顔を見守りながら、真夜中にふと自問する男。もし自分が朝になっても目覚めなかったら、彼女を独り残してこの世での生を終えてしまったとしたら、彼女は彼女に対する自分の想いがどれほど深かったか分かってくれるだろうか。

これまで自分が示してきた愛情は、取り残された彼女に幾らかでも慰めを与えられるほどに満ち足りたものだったか。自分にとって彼女の存在は他の何よりも大きいこと、例え何があったとしても彼女への想いは決して揺るぎはしないことを、自分は可能な限りの手段を用いて伝えようと努めていたろうか。

愛する人達を失くしたこともある。余りに早く余りにも突然に、愛され慈しまれるのを当然のように受け入れ、その暖かな時間は永遠に続くかのような幻想を漠然と抱いていた頃、彼等に対する愛情と信頼を言葉にする術さえ覚えぬうちに「明日」は永遠に失われた。だからこそ二度と同じ過ちを繰り返すまいと、まだ側にいる大切な人々に対して僕に許された時間と手段の全てを使って心を尽くそうと誓ったのではなかったか。そして他の誰でもない彼女に―

僕は彼女に、出来る限りの言葉と態度を尽くして想いを伝えていただろうか。

気がつくと店を出て、夕方の賑わいの中の繁華街を足早に歩いていた。心臓の鼓動がいつになく速いのが分かる。歩き慣れた道が妙に長い。買物や誰かと待ち合わせをする人々の間を縫い、何かに背を押されるように交差点を渡り、公園の入口を遣り過ごし半ば駆け足で歩道を抜けて漸く建物の入口に辿り着く。いつの間にか細かい霧状の雨が降り出していた。エレヴェータの中の十数秒さえいつもの何倍も長く思える。ドアの鍵を開けて玄関に飛び込んだ時には幾らか息が切れていた。靴や上着を脱ぐのももどかしく居間に向かう。


「お帰りなさい」

一瞬、その場に立ちすくんだ。聞き慣れた声、いつもの優しい発音。振り向いたその眼が僕を捉え、ふわりと微笑む。

「部屋にいると分からないけど、外は寒いのね。あなたの周りだけ空気が冷たいみたい。雨の匂いがするけど、降り出した?あ、ちょっと濡れてるのね」

タオルを手渡してくれる彼女の、いつもと変わらぬ暖かな笑顔。灯を点したような明るい榛色の瞳。強張っていた身体から力が抜けてすうと楽になるのが分かる。何か暖かなものに優しく包み込まれ、自分の周囲の空気が柔らかく滑らかに変質する。落着くに連れ一体何を一人で焦っていたのかと自分が滑稽に思えてくる一方で、こうして甘えてしまうのがいけないのだという警鐘が頭の隅で鳴り響く。

「どうかした?」僅かに首を傾げて彼女が聞く。

「ああ―いや、何でもない。...ただいま」
入ってきた時最初に言うべき一言を今頃口にしてから、我ながら間の抜けたタイミングだと思う。

「お帰りなさい」だが彼女はにっこりしてもう一度、ただその言葉を繰り返すことが嬉しいかのように言う。

「シャツは着替えなくて平気?この季節の雨に濡れると風邪をひきやすいから。ちょうど今お茶を入れようと思ってたところだったの。それともココアのほうが暖まるかしら」

話しながら台所の戸棚からマグ・カップを二つ出し、僕のカップを手にしたまま既に卓上に出ている紅茶の缶を見て考え込む。背中をこちらに向けているので顔は見えないが、少し身体を傾けたり首の角度を変える度に癖のない髪が緩やかに踊る。

「ね、ココアにする?」再び訊ねられて、知らず彼女の様子に見蕩れていた自分に気付く。
she (6k)
「ああ、君がそれでよければ」

答えながら歩み寄ってそっと腕を伸ばす。気付いた彼女の動きが止まる。そのまま背後から、丁度さっき彼女が言葉と笑顔で抱き締めてくれたように出来る限り優しく、手にしたカップごと彼女の身体を腕の中に絡め取る。驚いて一瞬僅かに身を竦めた彼女は、直ぐに警戒を解いてこちらに身体を預けてきた。頬に触れる柔らかな髪がさわさわと微かな音を立てる。

「愛してる」

殆ど頭で考えるより先に言葉が滑り出る。

「どうしたの、急に」

不意に纏わりついて来た子供をあやすような口調で彼女が言う。それでも心臓の鼓動が少し速まったのが腕を通して伝わって来て、直接見なくとも微かに潤んだ瞳とほんのり紅潮した頬が眼に浮かぶ。

「僕は言葉で気持ちを伝えるのが下手だから―君に会えたことにどんなに感謝しているか、君と居られることが僕にとってどれほど大きなことか。だから」

両腕にほんの少し力を込める。

「使い古された言葉でも、僕にはこれくらいしか言えない。君を愛している」

腕の中の彼女が小さく溜息をつき、俯いていた頭を僕の肩に軽くもたせかけた。

「言葉にしなくても、伝わってくることもあるわ」彼女の声が囁く。
「何も言わない方がずっとよく伝わることも。でも」

途中で言葉が切れたので、肩越しに横顔を覗き込む。

「でも?」

首を反らせてこちらを見上げ、彼女ははにかむように笑った。

「どんなに使い古されても、魔法の呪文の効き目はなくならないのよ」

「魔法の呪文?」
「そう。だから」

彼女はこちらに身体を半回転させ、背伸びして僕の頬に軽く唇を触れると耳許で言った。

「とても嬉しい。わたしも、あなたを愛してる」

ようやく聞き取れる程の優しい声で、だがはっきりと発音されたその言葉は、音となったその瞬間に何か柔らかで滑らかな見えないヴェールのようにふわりと僕を包んだ。多分、彼女の言う通りなのだろう。物語や詩歌や映画で数え切れぬほど目にし耳にして、そのため今では用いることさえある意味避けられているように見える短い言葉、僕自身普段は殆ど気にも留めなくなっていたような決まり文句だというのに、それはまるでたった今初めて聞いた言葉のように新鮮で刺激的で、そして優しく暖かだった。自分にとって大切な人の口から発せられたとき、その短い音節の使い古された言葉は魔法の呪文となって忽ち心を捕らえ酔わせてしまう。そしてそれは―それは彼女にとっても同じなのだろうか。普段その表情で仕種で溢れるほどの愛情を示してくれている彼女が発する「呪文」が僕を捕らえて離さないように、不器用で愛想のない僕の言葉でも彼女を惹き付けることができるのだろうか。

彼女は少し頭を傾げて僕を見ると、首を小さく竦めて笑った。 光を柔らかに反射する明るい色の眼は茶にも豊かな金色にも見えて、見詰めるとそれこそ引き込まれてしまいそうになる。

ああ、そうか。

彼女がたった今言ったではないか、言葉にしなくとも伝わるもの、何も言わぬ方がずっとよく伝わるものもあると。真摯で偽りのない想いはいずれ伝わるのだと、他ならぬ彼女が示してくれている。彼女とて普段ははっきりと言葉で感情を示す質ではない、だが包み込むような笑顔も優しい発音で綴られる言葉も僕に向けられる柔らかな色合いの瞳も、それらは全て「あなたを愛してる」という呪文の別の形なのだ。うわべだけの言葉はどれほど飾り立てようと空しく響くように、心の伴わぬ行為は相手の心も捕らえることはできない。彼女のように感受性の豊かな女性なら直ぐにそれを感じ取ってしまうに違いない。ならば―その彼女が今こうして笑っていてくれるのなら、多分彼女はもう分かっているのだろう、素直な愛情表現のできない男であっても彼女への想いだけは何よりも強いということを。丁度幼い頭を絞ってあれこれ言葉を探す子の心を忽ち察する母親のように、不器用な言葉など聞く必要もなく察してくれているのだ。言葉にはならぬ想いを感じ取り受け入れているからこそ、相手への愛情と信頼もより強く揺るぎないものとなるのだろう。

それでも、彼女が嬉しいと言ってくれるなら、その言葉で笑ってくれるなら、それを口に出すことは意味があるのだと思う。だから抱き締める腕にもう少し力を込めてもう一度繰り返す。

「愛してる」

彼女が恥ずかし気に笑って俯き、淡い薔薇色のさした頬を僕の胸に埋める。本当は彼女のこんな様子が見たいだけなのかも知れない、と秘かに思う。

その時、台所の隅に置いてあるラジオからこれもよく耳にするバラードが流れてきた。無論僕が帰宅する前に既に彼女がつけていたので、単に僕が今のこの瞬間まで周囲の音を意識していなかったに過ぎないのだろう。人気男性歌手の声が君の為なら命も捧げよう、と情感たっぷりに歌う。そう言えばこの手の曲でも最近は直接愛している、と呼び掛けるものはあまり聞かないような気がする。彼女の身体の温かさと重みを胸に心地良く受け止めながら、やはり余りに率直で単純な言葉だと避けられるのだろうか、などと漠然と考えていると、ふと腕の中の彼女の表情が曇ったのに気付いた。

「わたし、この曲好きじゃないわ」
「うん?」

顔を上げた彼女は、つい今し方までとは違って不安気に見えた。

「ね、あなたは」そう言ってしまってから少し言い淀む。

「―あなたは、本当に心から愛し合っている人のために死ねると思う?例えばその人が目の前でとても危ない目に遭っていたら、代わりに自分の命を投げ出せる?何の理由もなく自分のために死んで欲しいって言われたら、喜んでそうできる?」

些か意外な質問だったので、暫し彼女を見詰め返したまま考える。愛を告げられて抱き締められた状態でなお「わたしのために」と言わないのがいかにも彼女らしくて微笑ましかったが、僕を真直ぐに見る彼女の表情は奇妙な程に真剣だった。もしも彼女が目の前で致命的な事故に遭いかかっていて、僕の命を引替えにすることでそれを救えるかも知れないとしたら。彼女が自分への愛の強さを証明するために死んで欲しいと言ったら。これは余りに極端だし彼女が例え冗談でもそんなことを言う性質ではないのは分かっているが、理由は何であれ僕は彼女の為に自分の命を一瞬の迷いもなく投げ出せるか。今流れていた歌のように僕も君の為なら喜んで死のうと誓うことが、彼女の望む答えなのだろうか。僕は―

「答えは―Noだ」

彼女は瞬きしただけで殆ど表情を変えず、ただじっとこちらを見詰めたままだった。今は丹念に磨かれた琥珀のように透き通って見えるその眼にはまだ感情の動きは読み取れない。自分の答えは彼女を失望させることになるだろうか、という微かな不安が頭を掠める。

「僕が彼女を誰よりも大切に思っていて、彼女も同じように感じてくれているなら、彼女を救うために僕が命を落とせば彼女は悲しみ自分を責めるだろうし、その傷を負ったまま独りで生きていかなければならなくなる。そんなことは僕には耐えられない。大切な人の為に人生を捧げはしても、どんな状況であれ、例え言葉の上だけであっても進んで命を投げ出そうなどというのは僕には単なる独り善がりな自己満足にしか聞こえない。自分が死ぬことによって相手を守ることに―本当の意味で守ることになるような状況があるとも思えない。だから」

先刻から彼女の両手に包まれたままのマグ・カップをそっと取って後ろのテーブルに置き、彼女を少し強く抱き寄せてその眼を覗き込む。

「僕は君の為に死んだりしない。もし君が危ない目に遭っていたら僕は何を置いても君を救おうとするだろうが、同時に僕自身も助かるよう全力を尽くす。君が僕の存在を必要としてくれているなら、僕は力の及ぶ限り生きて君の側にいられるよう努力する。それが僕の答えだ」

黙ってじっと聴いていた彼女の頬が再び徐々に染まり、唇が微かに開き、そして花が綻ぶような笑顔になった。

「ありがとう」

礼を言われるとは思わなかったので、爪先立って僕の首に両腕を巻付ける彼女を些か戸惑いつつ受け止める。やがて腕を解いて体を離すと、彼女はちょっと悪戯っぽい顔で言った。

「でも、もしあなたがわたしを守るために死んじゃったら、きっとわたし悲しむよりも怒るわ。わたしのこと何も分かってくれてないって思うもの。だから泣いたりしてあげない。お墓にお花も持っていってあげない」
「それはひどいな」
「でしょう?だから」

口調はふざけていたが、彼女の眼は微かに潤んで見える。

「勝手に一人で死んじゃったりしないでね」
「しない」

彼女はじっとこちらを見詰めてから、俯いて僕の胸に額をつけると呟くように言った。

「約束?」
「約束する」


If tomorrow never comes ―

明日が来ないかもしれないと案じる暇があるなら、今この瞬間に彼女の唇から笑みが消えないよう、彼女の眼がいつまでも暖かな灯を点していてくれるようにこうして抱き締めていようと思う。未来が何をもたらすのか、この穏やかな時間が明日もまた続いていくのか誰にも分からない。人の力では抗えないものがあることも分かっている。だが自分にとって何よりも愛しい人が今腕の中に居て、その人も自分を大切に思ってくれる限り、明日はまたやって来ると信じたい。かけがえのない存在を失う痛みを知っているからこそ、彼女にはそんな思いをして欲しくないと思う。明日の朝も彼女にいつもと変わらぬお早うを言うため、彼女の傍で彼女の笑顔に応えられる自分でいるために可能な限りの努力を払おう。例え不器用でも、自分なりのやり方で彼女の信頼と愛情に応えられるよう心を尽くそう。そしてそうすることは時ならぬ別れをした人達の想いに少しでも、何がしかの形で報いることにもなるだろうか。自分勝手な願いかも知れないが、そうであって欲しい。腕の中の彼女の温もりと微かな息遣いを感じながら、そう思う。

lyrics from "if tomorrow never comes"
written by Kim Blazy/Garth Brooks
(c) Marr Songs/Major Bob Music
performed by Ronan Keating 2002



7.2.2003

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