雨が降っている。
雨は好きだ。霧雨も、雷雨や驟雨も(よそゆきを着て出かけてでもいない限り)それぞれに好きだけれど、少し肌寒くて、空気がいつもより澄んでいて、窓を開けるとかすかに土の匂いがして、車も街のざわめきも風の音もさあさあと降る雨の音に包み込まれていつもよりヴォリュームを落としているような、そういう雨の日が一番好き。今日は朝からずっとそんな雨が降っている。こんな日は人の気分も何となく静まるのか、午前中に一つだけあった大学の授業も、もともと人数が少ないとは言え不思議に落ち着いて粛々と進んだような気がする。
珈琲沸かしがこぽこぽと音を立て始めた。いつも使っているマグ・カップを揃えてテーブルに出して温めるうちに、珈琲のいい香りが漂ってくる。静かで、時間さえ普段よりゆっくりと流れているように感じられる日だった。大抵いつも何か音楽を流している居間のステレオも、少し抑え気味の柔らかな明かりの中で今日は沈黙している。こぽこぽの音がひときわ高くなって、しゅうっと湯気を出して珈琲湧かしが静かになると、BGMは窓の外の途切れない雨の音だけになった。カップに珈琲を注ぐと、部屋の中でさえ少しひんやりした空気に湯気が立ち昇る。自分の分に少しだけミルクを入れて、カップを二つ手にして居間に戻ると、ソファに座った彼がかすかに眉を寄せ何か考え込んだ顔をして、手の平を上に向けて開いた右手を見つめていた。さっき台所でちょっと振り返って見たときからほとんど姿勢が変わっていない。サイドボードの上に立ててある蝋燭の灯から拡がる光の輪が、彼の横顔を照らし出している。
「どうかした?」
彼の前に立って体を屈め、覗き込む。
「え」
彼が少し驚いた、というより夢から醒めたような顔をして眼を上げる。カップを差し出すと、今まで見ていた手でそれを受け取った。
「ああ、ありがとう」
長い指で 、カップの胴の上の方をつまむように持って一口飲んでから左手に持ち替えると、わたしの質問に答えていなかったのを思い出したのか、
「ーいや、別にどうもしないが」
と言われても何となく気になる。
「でも。手に怪我でもした?」
「手?僕が?」
自分のカップをテーブルに置いて、隣に座ると彼の右手を取る。自分のことになるとあまり構わないところがあるひとだから、怪我ならちゃんと手当てしないと。でも見たところ別にどこも何ともないようだ。されるままになっていた彼はわたしが手を押したり引いたり(だって打ったり骨折したりということもあるし)ひっくり返したりしているのが可笑しかったのか、笑いを堪えているような顔をして自分からその手をわたしの眼の前に広げ、何度か握ったり開いたりしてみせた。
「何ともない。ほら」
わたしの手よりもずっと大きい。当たり前だけれど、男の人なのだと改めて思う。わたしはそう手が小さいわけでもないし、そもそもいわゆる女性らしいーつまり指がほっそりしているとか華奢だとかいう手ではないのだが、彼の手と比べるとずっと小さく見えて、握られるとすっぽり隠れてしまう。彼の手に触れられるのは好きだ。ここに居ていいんだよと言われているようで、何となくほっとする。
「だって、ずっと右手を見て考え込んでたから」
少し弁解がましく言う。そのつもりはなかったとは言え、彼の手に触るために怪我がどうとか言ったように取られなかったろうか、とちょっとやましい気持ちになったから(考えてみれば、そう取られたとしても困る立場なわけでもないのに)。だが彼は言われて初めて自分が手を見つめていたことに気付いた様子で、ちょっと意外そうな顔をした。その視線が一瞬泳ぎ、また戻ってきたときには少し面白がってでもいるような色が浮かんでいた。
「働けど働けど云々、と言うだろう。あれだ」
彼の口からそんな言葉が出るとは思わなかったので、ちょっと面喰らう。経済観念の薄いわたしには研究所員の平均年収などというものがどれくらいなのか全く分からないが、別に浪費癖があるわけでもない彼の経済状態が悲観するようなものではないくらいは知っている。笑っているので(少なくとも眼が)そう深刻なことではないのだろうとは思ったけれども、何となくはぐらかされた感じがしたのでちょっと疑わしげな視線を彼に投げてから、テーブルから自分のカップを取って珈琲を飲んだ。彼はわたしの様子を伺うようにして、見るともなくこちらを見ている。
「じゃあ、これからはもっと倹約しないと」
「うん?」
わたしはわざと深刻な顔をして、手にしたカップの中を見つめながら続ける。
「贅沢は敵でしょ?珈琲も、もっと安いのを買うようにしてーおいしくはないかも知れないけど」
彼は食べるものなどにもあまりこだわらないので(料理は得意だし、香草や香辛料の使い方もわたしが教えてもらうくらいだが)、お茶などの嗜好品も大抵わたしが選ぶものをおいしいと言って飲んでくれるけれども、珈琲だけは彼が選ぶことになっていた(それでも一緒に買うときはわたしの意見を確認してくれる)。これでなくてはだめだとか特にうるさいというわけではないし、毎日飲むのでそう高価なものは買わないとは言え、妥協はしない。横目で様子を窺うと、わたしの言葉に彼は少し首を傾げて、
「それはー困るな」
本気で困ったように言うので、思わず笑ってしまう。彼も表情を和らげてわたしを見下ろす。振り向いたときに肩から落ちて頬にかかった髪を、彼が指先でそっと払って耳に掛けてくれる。何か気にしているらしいけどその理由を笑って話してくれない右手、左利きの彼がときどきそのことを忘れてしまったかのように使う右手。大きな手、長くて骨張った指、でもそれはとても繊細で優しい。触れられると不思議に嬉しくて安心するけれど、同時に自分の胸の鼓動が速まるのも感じる。今その手は「ここに居て欲しい」と言っている気がした。
窓の外の雨は止む気配がない。多分明日の朝まで降り続くのだろう。
彼の眼が微笑む。蝋燭の灯にかすかに揺れるようにも見えるその瞳の色は、光の具合で深い緑にも金に近い色にも変わる。自分は今その眼にどんなふうに映っているのだろう、とちょっと考える。頬に触れるか触れないかくらいの彼の手が少しくすぐったい。笑おうとしても、ちゃんと笑顔になっているのかどうか自信がない。わたしは今、どんな顔をしているのだろう。スロー・モーションのように、彼の体がこちらに傾く。
たゆたっていた時間が静かに立ち止まる。雨の音だけがさあさあとかすかに耳に響いていた。
13.9.2002
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