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scene 12 : lady in red

自分の名を呼ばれているのに気付いて、我に返った。

「ああ、済まない。何が来たって?」

彼女が戯けた表情をして、黙ったまま前を指差す。丁度エレヴェータの扉が開くところだった。些か決まりの悪い思いを味わいつつ乗り込み、目的の階のボタンを押す。他にも数人乗ってきたが、同じ階に行く人はないようだった。

「ね、本当にわたしなんかが一緒に来ちゃってよかったのかしら」彼女が小声で聞く。
「まるきりの部外者なのに。有名な研究者のひとなんかも来るんでしょ」

「来ても大した数じゃないだろう。元々は研究所の内輪だけの創立パーティだが、たまたま昨日うちも関係している学会のワークショップがあったので参加者を誘ったというだけの話だ。うちは元々男性の比率が高いから他にも同伴者を連れた所員は多いだろうし、緊張するようなものじゃない」
「それならいいけど」彼女はまだ少し心配そうな様子で、普段よりも濃い目に紅を引いた唇をすぼめて言う。着ている深い赤のドレスに合わせているのだろう。そんなドレスを持っていることさえ今日まで知らなかった。

「こういうパーティってどんな感じなのかよく分からないから ― 学生同士のとは全然違うだろうし、専門関係の集まりだって文学系ってごく内輪で地味だもの」
「分野が違うだけで大して変わりはないさ。僕を含めて研究者なんて、大学から出るのが面倒で居着いた学生が気付いたらそう呼ばれているような職業だし」

僕の軽口にちょっと諌めるような目つきで笑って、彼女は軽く片手を挙げて指先で髪を直した。普段はそのまま下ろすか後ろで留めるかしている癖のない髪を、今日は少し凝った風に上げて纏めている。過度な程に明るい人工の照明も、緩やかに流れる細い繊維の束の上に落ちて柔らかな色合いの光に変質していた。

いつの間にか二人だけになっていたエレヴェータが目指す階に着き、軽い音を立てて扉が開いた。彼女がすいと前に出る動きに一拍遅れて首筋の後れ毛が踊る。香水だろうか、一瞬微かに甘い香が漂う。エレヴェータ・ホールを過ぎると、会場を探すまでもなく直ぐ目の前がもう受付だった。この階は宴会場の他には小規模の会議室や控室くらいしかないようだが、どうやら今夜は一階丸ごと貸切りにしているらしい。ホテル自体そう大きくはないが、年に一度の創立パーティとは言え民間の研究所にしては豪勢なものだ。それともやはり例の学会の参加者を意識して今年は多少張り込んだのか。こちらとしてはそんなことより、システム入れ替えが遅々として進まない所内のコンピュータ端末関係の方に資金を集中させて欲しいものだが。

受付を過ぎると殆ど間髪を入れずに飲物の盆を持った給仕が現れたので、彼女にソフトドリンクを頼む。彼女はアルコールが嫌いではないが極端に弱いので、家でも殆ど飲まない。会場は既に結構な数の人で賑わっていた。ここにいる全員が所員という訳では無いにしても、普段自分のセクションにばかり籠っていると建物全体でどれ位の人数が働いているかなど余り気にしないものだなと思う。

奥のテラスの方から、軽く手を挙げて友人が近付いてきた。彼女とも既に見知っているので親しい挨拶を交わす。と言うより寧ろ僕など歯牙にもかけず彼女ばかり見て、見違えたのドレスが似合うの魅惑的だの褒めちぎっている。彼女も照れながらも満更でもないようだし僕が文句を言う筋合いではないのだが、そろそろ止めてもよかろうと思う。丁度後ろを通った給仕の盆から一番大きなグラスを選んで、彼女の肩に伸ばそうとしていた手に押し付けてやった。

「おお、元気そうだな。久し振り」居たのか、と言わんばかりの顔で友人が恍ける。
「昨日会ったが」
「そうだったかな。G博士に会ったか?」唐突に話題が跳ぶのは相変わらずだ。
「...今来たばかりだと彼女が言ったろう。来てるのか?」
「来てるから会ったかと聞いてるんだろう」

どうやら誇張して僕の真似をしているつもりらしい嫌に気取った口調に、丁度運ばれてきた飲物を受取りながら隣の彼女がくすくす笑う。彼女に何やらアピールしている友人(眠そうな眼で無意味に勿体振ってああとかううとか唸るのが僕だと言いたいらしい)を横目に、僕も適当に目についたグラスを手に取った。G博士というのはこの分野のいわゆる大家で、昨日のワークショップでも基調講演を務めていた。政府顧問などもしているという話だが、普段は現役の一教授として某大学で教鞭を執っている変わり種の研究者だ。長くて堅苦しい名前を発音するのが面倒だ、と言って友人が勝手にG博士と呼んでいる。こういう場には余り姿を見せないと聞いていたので、少しばかり意外だった。

「なかなか面白かった」普段の口調に戻って友人が言う。
「あんなこ難しい論文を書くからどんな頑固爺さんかと思ったが、これが偉く陽気で冗談好きなおっさんでね。何でも論文なんか読むのは専門家ばかりだし、どうせああだこうだ文句をつけられる相手に向かって冗談を飛ばしても仕方ないから、読み手の希望通り目一杯堅苦しくて面白くない論文を書くことにしてるんだと」
「頑固爺さんって、ご本人に言ったの?」彼女が聞く。
「言ったよ。やたら受けて今度大学の講議を聞きに来いと言われた。実際かなり興味はあるし、これを機会に行ってみてもいいと思ってる。昨日の講演を聴き逃したのは失敗だったな」
「昨日の講演も、大学の講議と比べればやや『専門家』向けだったかな。だから大学に来いと言ったんだろう。学生向けと言っても内容はかなり高度で充実しているし」

「何だ、大学で聴いたことがあるのか?」友人が意外そうに言う。
「もう随分前に二回程だが。いい講議だよ、論文の調子とは全く違う」
「そんな話は初耳だ」
「僕も初めて話した」
「今まで博士の話題が出ても一言も言わなかったぞ」
「聞かれなかったからね」
「普通そういうことは言えよ」
「酔ってないか?文法が変だ」

彼女にはこの友人と僕の会話がTVのコメディ並みに面白く聞こえるらしく、隣で肩を震わせ声を殺して笑っている。友人は言語は変化するものだ、どうせならこの際徹底的に古い文法の壁を破壊しようとうそぶきながら、既に何杯目か知れないグラスを求めて給仕を捕まえに彷徨い出た。

「ね、それは何?」漸く笑いが治まった彼女が、興味深げに僕のグラスを指して言う。
「ヴェルモットだ。そう飲み辛くはないと思うが」
手渡すと、彼女は中を覗き込んでから遠慮がちに唇に運び、軽く頭を傾げて恐らく舌に載せる程度しか含んでいない液体を吟味した。グラスに微かに残った口紅の跡を拭う指先が綺麗だと思う。

「ちょっと辛いけど、味は好きよ。さっぱりしてて葡萄酒みたい」
「ああ、白葡萄酒に色々入れてあるだけだ。もっと甘い種類もある。気に入ったなら今度買ってみようか」

彼女は人指し指を軽く顎に触れてちょっと考えた。普段もよくする仕種だが、今日は妙に指先が気になる、と思って今更ながらいつもより爪に艶があることに気付いた。マニキュアほど強烈には目立たないが、何かで磨いたのだろうか。

「でも、わたしはあまり飲めないし、残してしまったら勿体ないわ」
「葡萄酒ほど直ぐには変質しないから、一度に空けなくても構わない。それでも残ったら料理に入れてもいいし」
「そう?なら買ってみたいわ。わたしも少しくらいはお酒が飲めるようになりたいもの」
「家でなら、酔って眠くなってもそのまま寝室に直行できるしね」

そう答えると、彼女は直前の台詞の笑顔の余韻を残したまま一瞬静止し、次の瞬間ぱっと顔を赤く染めて黙り込んだ。そう言えば暫く前の誕生日を祝った夜、残った葡萄酒を彼女が飲み過ぎて(と言ってもグラス半分程度だが)殆ど正体が無くなったのを寝室まで運んで寝かし付けたことがあった。それに言及したつもりは無かったが、彼女の様子からするとその件を思い出したのか。ちなみに服のままでは暑いし寝心地が悪かろうと寝巻に着替えさせたのだが、そのお陰で翌日散々「何も無かったか」問い詰められる羽目になった。酔っ払って介抱されたことに対する照れ隠しもあったかも知れないとは言え、仮に何かあっても今更大したことは無かろうと思うのだが、正直こちらも多少疾しく感じるところが無くはなかったため詰問に対して断固無罪を主張できなかったのも災いして、彼女は未だに何か疑っているらしかった。

そんな事を回想しつつ彼女が返して寄越したグラスを何となく回して、つい今し方その指の触れた同じ場所に口を付けてから、我ながら子供じみたことをすると内心可笑しくなった。それに気付いたかどうか、まだ微かに頬を染めてふいと目線を外した彼女が僕の肩越しに何かを見つける。

「お帰りなさい...あら」

友人が戻ってきたのだろうと思ったが、最後の「あら」で釣られて振り向いた。確かにそこに居たのは友人だった、がその後ろに件のG博士が控えていた。背丈はそれ程高くないが、身体つきががっしりしているのと押し出しがいいせいで存在感がある。大学の講議を聴きに行ったのは僕がまだ別の大学の院生だった頃なので十年程も前になるが、博士は当時とそう変わらないように見えた。

「ははあ、やはり君か」
目の前にぴたりと立ち止まった博士にいきなりそう言われて、挨拶のタイミングを逃した。

「何だ知り合いだったのか?だからそういうことは先に言えと」
「いや、違う。博士、何かお間違えでは」
「いやいや、私はこれで結構物覚えはいい方でね。昨日も来とっただろう」
「ええ、確かに講演を拝聴しましたが」

訳が分からない。講演を聴いていたと言っても開始間際に入ったのでずっと後ろの席だったし、博士の記憶力がいいというのは知られた話だが、幾ら小規模のワークショップでも席をほぼ埋め尽くした100人を超える聴衆の全員を覚えている筈もあるまい。
「うん、あれでああ、あの時の学生だなと思い出してね。君なら他の分野に進んでもよかろうと思ったが、この道を選んでくれたと知って正直嬉しかったな」
博士は顎髭を撫でながら上機嫌で言う。
「あれはもう十年以上前になるなあ。おっと、いかん」

急に向きを変えて、博士は彼女のほうへにこやかに片手を差し出した。

「失礼、懐かしかったもので。ご無礼しました」
「あ、いいえ。初めまして」
彼女も些か面喰らいながらも挨拶を交わした。

「十年ってお前、一体何をやらかしたんだ」友人がこちらを胡散臭そうに見ながら言う。
「僕は別に ― 」
「うん、彼に言い負かされてなあ」博士がますます機嫌良さそうに応える。
「言い負かした?博士をか」
「いや ― 」
「実に初歩的な間違いを彼に指摘されてね。悔しいので詭弁で煙に巻こうかと思ったんだが、見事にかわされて論破された」
「お前 ― 」

呆れ顔の友人と、目を丸くして博士と僕の顔を交互に見ている彼女の視線に耐え切れなくなって片手を挙げる。

「博士は大袈裟に言われているんだ。間違いというのも博士は分かっていてわざと提示したのに、先走った僕がたまたま引っ掛かっただけで」
「わざと?」彼女が首を傾げる。
「はあん、餌ですか」友人が言う。
「ふふふ」博士は嬉しそうに髭を撫でた。「面白い表現だ。いや、これが餌を撒いても食い付くどころか見てもくれない学生が多くてね。大抵は自分で回収するのに却って苦労するんだが、あれは久し振りに面白かったなあ」

博士は面白かったかも知れないが、十年も前の学生時代の浅はかな言動を思い出させられる方は堪ったものではない。無論僕自身当時のことを覚えてはいたが、正確には引っ掛けると言うより時々作為的に講議に小さな綻びを作って学生の注意を喚起し、そこから更に次の問題に発展させるための緊張感を持続させるのが博士のやり方の一つのようだったし、講議の内外で毎日数え切れない程経験している学生とのやり取りのうちの一つなど幾ら記憶力がいいと言っても十年以上も覚えているとは夢にも思わなかった。

「つまり、博士が最初から学生からの反応を期待してわざと間違って見せたのに、あなたが思惑通り乗せられてしまったってこと?」
当たっているだけに無慈悲な彼女の問いに、博士はこれ以上ないと言う位楽しげに応える。
「いやいや、そう簡単な話でもなくてね。実際彼の指摘は非常に的確で ― 」

「いや、博士 ― 頼みます」
多分その時の僕は、とてつもなく情けない顔をしていただろうと思う。その場を逃げ出さなかった唯一の理由は彼女が博士との会話を楽しんでいるらしいからだった。しかしいたたまれなさも限界だ。

「はは、どうやら彼は貴女の前で武勇伝を語られるのが苦手らしい」
博士は彼女に向かって陽気に言った。
「今度機会があったら、彼の居ないところでゆっくりお話しましょう」

「今度」などという機会が永遠に訪れてくれないことを心から願ったが、彼女は明らかに僕とは意見を異にするようだった。

「ああ、ここにいたのか。博士もこちらでしたか」

聞き覚えのある声に振り向くと、うちの研究所の所長だった。普段は殆どネクタイも絞めずに白衣姿で所内を彷徨っている(自分も人のことは言えた義理ではないが)が、仮にもパーティの主催者である今日は流石にそれらしい服装をしていた。恐らく夫人の見立てだろう。所長は彼女にもにこやかに挨拶すると、僕に向かって言った。

「ちょっと向こうへ来ないかね?君の研究テーマに関心を持っている方がいらしてね」彼は親指で背後を示した。反対側の隅の一角に一見して所員ではなさそうなグループが見えた。昨日の参加者の面々だろう。

「うん、私も聴きたいな」博士が言う。

「君はどうする?余り面白い話じゃないかも知れない」振り返って訊ねると、彼女は小首を傾げて考えた。

「俺は少し何かつまみたいかな。何か取って来ようか」彼女が迷っているのを見た友人が提案する。

「そうね...ちょっと、向こうのテラスに出てみたいの。ここは少し暑いし。いい?」
「もちろん。こちらはそう長くは掛けずに戻るから」

文学系の彼女には全く専門外の話題になるので退屈だろうと思ったから、正直なところそう言って貰って助かった。彼女もその辺りを気遣ってくれたのだろう。友人と一緒に残すのが多少気になったが、僕の居ないところでは割に品行方正な男だと思うので信用することにして、僕は博士と一緒に所長について奥のグループに合流した。

ワークショップ参加者は、予想に反して結構な人数が流れて来ていた事が分かった。知名度だけでなく人望もあるらしいG博士が来るというのが吸引力になったのかも知れないし、こういう場で旧知に会ったり各分野の情報交換ができるというメリットもあるとは言え、遠方から来る者も多いだろうにわざわざ滞在を延ばしてパーティに出席するとは大学や各研究機関も意外に暇なのかと思う。招待客の中にも何人か顔見知りがいたのと僕自身の研究内容について予想外に興味を示した研究者と話が長引いたのとで、思っていたよりもその場に長居してしまった。博士も初めは会話に参加していたが、暫くして別のグループから声が掛かって移動した。

ちょっと他所を見ていた隙に、彼女の姿が視界から消えたのが気になる。暫く前までは奥のテーブルの近くに友人と立って何人かの所員と談笑したりもしていたのだが、テラスに出ているのだろうか。ここからではよく見えない。特に自分が過保護だとも思わないし、彼女を信用していない訳でも無いのだが、今日はどうも勝手が違うと言うか落着かない。初めて目にするドレスかいつもと違う髪型か化粧の仕方か、それとも場所のせいか、本人は普段と何が変わった訳でも無い筈なのに何かが違うようで、それが何なのか自分でも分からない。未だ彼女の姿が見えないので段々不安になって会話も上の空になってきた頃に、友人がこちらに近付いてくるのに気付いた。

「彼女はどうした?」
「テラスの方で酔いを醒ましてる」
「酔った?彼女はアルコールに極端に弱いんだ。自分で飲んだのか」
「間違えたらしい。俺がオードヴルを取りに席を外した時に回ってきた給仕が、ソフトドリンクと間違えてカクテルを渡したらしいんだな。俺がもっと早く気付けばよかったんだが、カクテルもジュースも見分けがつかん人間だからなあ。済まん」

申し訳無さそうな友人に気にするなと言いながら、内心自分の無責任さを罵った。やはりもっと早く戻るべきだったのだ。給仕も給仕だ、学生の臨時雇いでもなかろうに。その場の面々に暇を告げてから、僕はテラスに向かった。
 my lady in red  (8k) テラスは思ったより広かったが、少し風が出てきていたせいか人は余りいなかった。半円形に張出した手摺のところに直ぐに彼女の赤いドレスを見つけたが、一人ではない。どうやら給仕姿の男が傍に立って色々と話し掛けているようだ。彼女は笑って何か答えながら時々首を振っている。取り敢えず気分が悪そうではないので少しほっとした。近寄ると彼女が気付いて、こちらに笑いかけた。彼女が何か言うと給仕は若干心残りな風でその場を離れ、僕の脇を通りしなに軽く会釈して室内に戻った。

「ごめんなさい、せっかく盛り上がってたのに途中で邪魔してしまったんじゃない?別に気分が悪くなったわけじゃないから大丈夫って言ったんだけど」
少し困ったように彼女が言う。
「いや、もういい加減切り上げようと思っていたからそれはいいんだが、本当に大丈夫か?座っていた方がいい」
「本当に大丈夫よ」彼女は笑って、「ここで風に当たってた方が気持ちいいの。中は人いきれで少し息苦しいんだもの」

手摺にもたれ眼下の夜景に眼を向けて、彼女は深呼吸した。酔って少し暑いのだろう、頬が火照ったようにほんのり赤い。水が入っているらしいグラスを唇に運び、縁に付いた紅をさり気なく指先で拭う。場所が違うせいか丹念に磨かれた爪のせいか、見慣れた仕種がどことなく艶かしく映る。

「今のは?」
給仕が去った方を指して訊ねると、彼女は手にしたグラスを示した。

「お水を持ってきてくれたのよ。何だか申し訳ないくらいに親切にして貰ったわ、凄く恐縮されちゃって」
「すると飲物を間違えて渡したというのはあの給仕か」

むっとしたのが声に出たのか、彼女はとりなすように言った。

「別の人の頼んだものと取り違えたみたいなの。グラスや色が似ていたとかで...大忙しだったみたいだし、一つや二つくらい間違うわ」
「だがアルコールとソフトドリンクを取り違えるのは問題だろう。君はそう酷く酔ってはいないようだからまだ良かったが、健康上の理由で飲めない人なら大事になっているかも知れない」
「そんな人は最初からもっと用心深くしてるわ。気付かずに飲んでしまったわたしも悪いのよ、甘かったしあまりお酒みたいな味がしなかったのもあって。喉も乾いてたし ― でも半分くらいしか飲んでないのよ、途中で変だと思ったから」

普段弱い酒を二、三口飲んだだけで見事に酔っ払う彼女がカクテルを半分も飲めば、ふらついて気分が悪くなっても不思議ではない。だが実のところ、僕が気にしていたのはその事だけではなかった。

「それにしてももう少し注意して然るべきじゃないかな。最初のグラスを持ってきたのも彼だろう」
「そうだった? ― そうかも知れないわね」ちょっと考えてから彼女は言った。「あなたって本当によく見てるのね」

憶えているのは僕の注意力が鋭いからではない。最初に彼が彼女に給仕した時から何となくその視線が気になっていたのだ。グラスを受取って礼を言った時、たまたま彼女がにこやかに笑っていたのも何か誤解を招いたのかも知れない。

「さっき僕が来た時、頻りに君に話し掛けていたようだったが」

「何かお薬を持ってきましょうかって聞いてくれてたの。具合が悪いわけじゃないから大丈夫って言ったんだけど、自分の失敗だしできることがあれば何でもしますからって何度も様子を見に来てくれたのよ。仕事熱心で親切なひとだわ」

仕事熱心な給仕が注文を間違えた上に特定の客一人だけといつまでも話し込むだろうか、と喉まで出かけた言葉を辛うじて飲み込む。失敗は失敗として、被害自体は大きくなかったのにそこまですべきものだろうか。彼女はそう信じているようだが、純粋な親切心からというのも疑わしい。そもそもグラスを取り違えたのも、何か別の事に注意を奪われていたせいではないのか。だがそう口にしてしまうとどう考えても嫉妬しているようにしか聞こえないし、実際そうなので何とか自制した。代わりに彼女の腰の辺りに落ちている肩掛けを引き上げて掛け直してやる。まだ寒いという程でもないが、余り素肌を夜風に晒すのも良くはないだろう。無論出来れば人目に晒して欲しくないというのも個人的に無くはない。

「ありがとう。ね、ここってこんなに眺めがいいとは思わなかったわ。テラスも広いし、気持ちいい」
そう言ってから彼女はふと瞬きをして、グラスを傍のテーブルに置いた。

「どうした?」
「ごめんなさい、ちょっとバッグを持っていてくれる?イヤリングを外したいの。酔ったせいかしら、何だか少しきつくて」
「ああいい、僕が外そう」

こちらに顔を上げた彼女の耳朶に下がっている、ドレスの色に合わせた紅い石の耳飾りの片側を外して、もう片方に指を触れた時彼女と眼が合った。ふわりと微笑む長い睫毛の下の瞳は、酔っているせいか少し潤んで見えた。また微かに甘い匂いが漂って、急に心泊数が上がる。

「ありがとう、すっきりしたわ」

僕が差し出した耳飾りをハンドバッグに仕舞った彼女の、綺麗に整えられた爪先が注意深く留金を留める。眼下に見える夜景を指差していつも見る街とは違うようだと言う横顔は、まだ少し酔いを残した仄かな薔薇色の頬をして、後れ毛が首筋で微風に遊ぶ。多分、僕も少しばかり酔っているのだろう。見たことのないドレスを纏いシャンデリアのきらびやかな光を反射して笑う彼女、いつもと変わらないようでいて自分のよく知っている彼女とはどこか違う眼の前の女性に。思い掛けぬ時に一瞬鼻孔をくすぐっては誘うように消える香りと柔らかに微笑む瞳、普段よりゆったりとして微かに甘えるような響きを帯びた声。このまま酔いに身を任せるのも悪くない、と思う。

「どうかした?」

不意に尋ねられて我に返る。

「いや、別に ― 」

彼女はくすくすと笑った。

「何だか今日のあなた、少し変だわ。いつものあなたじゃないみたい、しょっちゅうぼんやりして...疲れた?」
最後の問いは囁くように、少し心配そうに発音された。

「いや、そうじゃない。何と言うか、僕も余りこういう場には慣れないからかな」
適当に口から出任せを言う。ずっと君に見蕩れていたのだとは流石に言えないし、こんな場所で言ったとしても彼女を戸惑わせるだけだろう。

「そろそろ帰ろうか」頭で考えるよりも先に言葉が出る。

彼女は小鳥がするように首を傾げてこちらを見上げた。

「そう?でも、もう少しだけここに居てもいい?あなたが本当に疲れてなければだけど」
「勿論酔いを充分醒ましてからで、急がなくていい」慌てて取り繕うように言った。「退屈だったかと思ってね」
「あら、とても楽しかったわ。あなたの同僚の人達とも会えたし、あなたが珍しく困り果ててるところも見られたし」

これは先刻、博士に若気の至りを暴露された時のことを指しているのだろう。僕の反応を見て彼女は悪戯っぽく笑った。

「やっぱり連れてきてもらって良かったわ、あなたが人気者なのも分かっちゃった」
「人気?僕が?何かの間違いだろう」これは率直な感想だった。自分は元々愛想の良い方ではないし、面白味の無い奴だと言われるならともかく人気者になる性質とは程遠いと思う。だが彼女は、それはあなたが知らないだけだと言う。

「特に女のひとにね、ずいぶん好かれてるわ。わたしがあなたの連れだって分かった途端に皆の表情が変わるもの。多分わたし、かなり嫉妬されてると思うわ」

これは完全に彼女の思い違いだろう。第一僕がいるセクションだけを取っても研究所全体から見ても、女性職員の数は男性に比べて未だかなり少ない。僕が普段直接接触する所員でも女性は殆どいないし、そんな状況で好かれるも何もなかろう。そう言うと、彼女は訳知り顔で知らないのはあなただけだと繰り返した。

「それから、博士にも会えたし。そうそう、さっきちょっと見えたのよ。あなたは他の人達と話が盛り上がっているみたいだし、挨拶せずに帰るからよろしく伝えてくれって。今度一緒に大学においでって、わたしまで誘っていただいたわ。あなたのこと随分気に入ってらっしゃるみたいで、何だかわたしも嬉しかった」

彼女は軽く肩を竦めて本当に嬉しそうに笑った。何の脈絡も無く抱き締めたい衝動に駆られて、危ういところで自分を抑える。

「別れる時、わたしの手を取ってキスされるのよ。古風な方ね。どうかした?」

「いや別に」

動揺を隠そうと室内に顔を向けて視線を彷徨わせる。彼女の手を ― いや、『一緒においで』?気に入られているのは寧ろ僕ではなくて彼女のほうではなかろうか。少し入ったところのテーブルで同僚と話していた友人が気付いて軽く手を挙げる。その向こうを通りかかった先刻の給仕が、こちらをちらりと窺うのが見えた。


やはり、そろそろ引き揚げた方が良さそうだ。




26.9.2003

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