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scene 20 : such a long way home

視界の隅に映った何かに気を引かれ、ふと顔を上げる。10代半ば位の少女が眼の前を通り過ぎたところだった。ああ、髪だ。ふわりと背後に靡く髪に思わず彼女の姿を探したのだ。あれは全くの他人でここに彼女が居る訳はない、何も浮かれ立つ理由は無いのだとこの数日間幾度繰返したか知れぬ呪文を胸の中でなぞり返し、内心苦笑して視線を他所へ向ける。少し離れた壁際の席には親子連れが座っていて、母親に服を整えてもらっていた三歳位の幼女がこちらを見てはにかむ。

隣の友人が弄んでいた携帯電話の電子音に釣られて振り向く。向こうもちらとこちらに視線を走らせ、電話機を上着のポケットに放り込むように収めると大きな欠伸をして椅子の背に寄り掛かった。彼の前の椅子では所長が先刻からうとうとと居眠りをしている。空港の待合室にはざっと見て30人余の人々が、半時間と言われ続けて一時間以上搭乗が延びている飛行機を待っていた。昼前には離陸している筈だったが既に正午を回って久しい。空港から車で約一時間程の大学で開かれた大きな会議を昨日終えて、勤務先の研究所所長と同僚兼友人、僕の三人は朝食後宿を引払い、予定通りに関係者の車でここまで送って貰ったが、機体整備という理由で予定の便はチェック・インが半時間程遅れ、その後も余り歯切れの良くない言い訳で今までフライトが延びていた。会議自体は3日間で予備のワークショップのようなものが1日半程あったのだが、うちの研究所が実行部に関係していたのと自分達自身発言の予定を控えていた事もあって多少早めに現地入りしていたので、都合先週末から丸一週間家を離れていた事になる。

無論安全な飛行のために万全を期して機体整備なり取替えなり必要な措置を講ずるのは航空会社として当然だし、こちらとしても無事に帰宅出来る事が最重要な訳だが、理屈は理屈として感情的に既にかなり辛い状況にある身としては身勝手は百も承知の上で『無事に且つ速やかに』帰途に着ける事を望まずには居られないのだ。『家に帰る』という事に自分がこれ程執着するようになったのを、今でも時折不思議に思う瞬間がある。以前なら同じような状況に陥ったとしてもただ漫然と時間を潰していただろう。帰りたくない訳ではなかったが是が非でも戻りたい理由も無かった。例えば出先で自分の身に何かあったとしても、その時はその時で諦める他なかろうと思っていた。一人暮らしを始める以前、祖父母と一緒に暮らしていた頃でさえ ― 両親が早く亡くなった分互いの関係は恐らく世間一般の祖父母と孫よりも近いものになっていたと思うが ― それは余り変わらなかった。

彼女と二人で暮らし始めてから ― 事情があって離れて暮らしていた数ヶ月を別にして ― これまでにも2,3日から数日の出張や泊り込みの研究調査は時々あったが、一週間というのは最長だった。実のところ長い出張は極力避けていたのだが、今回はそうも行かない状況だった。ある程度覚悟していたとは言え、少なくとも最後の3日間は彼女の事を全く考えなかった瞬間というものがどれ程あっただろうかと思う。とにかく何を見ても聞いても彼女に関連付けて考えてしまう。自分の脳の回路が彼女に繋がるもの以外全て切断されているか、或いは知らぬ間に全ての回路が彼女に直結するよう繋ぎ直されているかのようだ。それはそれで仕方ないものとして行動すればまあ仕事上支障が出る訳ではないが、物理的に彼女が側に居ないという事実は厳然として残る状態で始終彼女の事を思い出させられるのが辛い事には変わりない。

沈黙して久しかったワイヤレスから短く素っ気無いアナウンスが流れ、どうやらフライトの準備が整ったらしい事を告げる。乗客達がやれやれといった様子で移動を始め、隣の友人も大きく伸びをする。ぐっすり眠り込んでいたように見えた所長も寝ていた事など忘れたかのようにすいと立ち上がって鞄を肩に掛けた。国境を越えるとは言え実質的には中距離の国内線扱いに近い中型機なので、乗込む際の気安さや客室の造りは飛行機より寧ろバスか何かに近い感覚で、エア・バスという呼名はよく付けたものだと思う。しかし短時間の道中でも、水平飛行に入った途端に軽食が出てくるところでこれは旅客機なのだと思い出させられる。スナックは断って水だけ貰い、窓外に視線を戻す。彼女がここに居れば多分窓側の席を選んだろう。今は昼間だが、夏の休暇で飛行機を利用した時は雲の上の夕陽や眼下に拡がる山や川、薄暮に煙る街の様子を飽きもせず熱心に眺めては隣の僕に報告していたのを思い出す。

近くで動いた何かに釣られて顔を上げると、立ち上がった前の席の若い女性と視線が合う。また長い髪だ。女性はこちらににこりと微笑んでから通路に出て行った。最近時々全く見知らぬ女性に笑い掛けられる事があるような気がするが、彼女と離れていると少しでも彼女を連想させるような外見の女性にふと気を引かれる機会も多いのでたまたま視線が合ってしまうのかも知れない。ただそれが子供から年輩の婦人まで年齢的に幅があるため、彼女と似た色の外套を着ていたせいで振り向いて眼が合った中年女性に道を訊ねられ、そのまま10分余りも世間話をする羽目に陥るような事もたまにある。無論普段から四六時中擦れ違う女性を気にしている訳では無い。今回のようにある程度長い時間自宅を離れる、つまり彼女に会えないような状況に置かれると自分でも殆ど意識しないままに彼女の面影を脳裏に描き始め、居る筈も無い場所にその姿を探してしまうようだ。先刻の待合室での事にしても、ぼんやりと彼女は今頃どうしているだろうかと考えていたら彼女と同じ位の長さの髪が視界に入ったのでどきりとしたのだろう。しかし今の女性など髪の色からして全く違うのに『髪が靡いた』だけで反応するのだから、我ながらかなり重症だと思う。だがそれも後二時間程の辛抱だ。

時計を見ると既に離陸から一時間余りが経っていた。そろそろ着陸体制に入ってもいい頃だ、と思った時に機内放送が入る。

「大雪だ?冗談だろ」

丁度飲み干そうとしていたワインを気管かどこかに入れたらしく一頻り咳き込んだ友人が言う。目的地の空港付近が現在大雪で一時閉鎖されているため、この飛行機は行先を変更して郊外の別の空港に向かうと言うのだ。

「向こうのホテルを出た時は快晴だったがね。大雪とはまた随分な歓迎の仕方じゃないか」 通路を挟んで友人の隣の席の所長がさして驚いた風でもなくのんびりと言う。
「車はどうしろってんだ、あっちの空港の駐車場に入ってるんだぞ」友人が呻く。
「ターミナル・バスなら動いているだろう。それで戻ればいい」
「甘いな。この国の都市部の交通機関が雪に弱いのを知らん訳じゃないだろ?今頃バスもあらかた途中で雪溜まりに突っ込んでるか、発車する前に雪達磨に潰されてるかのどっちかだ」

余り楽しくない予想だが所長には面白かったらしく、愉快そうに笑う。

「確かに今頃はバスも列車も大混乱だろうねえ。妻の車が空港に来る途中で立ち往生していないといいんだがな」
「奥さんなら賢明だからまず大丈夫です。雪に突っ込む前に消防署か給油所に走って救援を頼みますよ」

友人の良く分からない保証に所長はまた声を上げて笑った。だがこちらはそんな気分にもなれない。予定通りなら昼過ぎには到着して午後早いうちに帰宅出来ていた筈が、今の時点で既に午後2時半を過ぎている。本来の空港まで戻れば友人の車に便乗させて貰う約束だが、彼が言ったように幹線道路も混乱している可能性を考えると夕方迄に着ければ幸運といったところか。一応自宅には向こうの空港から遅れそうだと連絡は入れたが、余り遅くなりそうなら今一度途中で電話した方が良さそうだ。

変更になった空港も元の空港程ではないが矢張り多少吹雪いているという事で、何度か上空を旋回した後3時過ぎにどうやら無事着陸した。飛行場の一番隅の滑走路に降りたらしい機体までパッセンジャー・ステップが到着するのを待つにも普段より時間が掛かる。空港関係の車両も慎重に運転しているのだろう。漸く接続された階段を降りると粉雪が横殴りに顔に吹き付けてくる。

「これでテレビ・カメラとファンでも待ち構えててくれりゃ、まだにこやかに手でも振って降りる気分になるんだがな」
友人が肩を縮こまらせて連絡バスに乗り込みながら言う。所長は携帯電話に奥方からメッセージが入り、既にこちらの空港に車を走らせているようだったので、バスが空港ビルに着いたところで別れる事になった。

「お疲れさん、週末はゆっくり休みたまえ」所長はさして疲れた様子でもなく手を振り、帰ったら息子に雪達磨を作れとせがまれるだろうなと呟きながら到着ロビーの方向へ漂って行った。

「あの人もタフだな、外見は日陰の伸び過ぎたモヤシみたいだが」友人がその後ろ姿を見送りながら言う。

確かに所長は見るからに切れ者という風体ではないが、民間のものとしては規模も大きい研究所を極めて効果的且つ円滑に巧く運営していると思う。設立から所員の人選にも彼自身が関わっていて、個性が強くぶつかり合う事も稀ではない個々の人間関係も不思議と上手く取り持っている。恐らく相手に警戒感を抱かせ難い風貌と性質が幸いしているのだろうが、彼自身ある程度それを心得て立ち回っているのだろう。所謂切れ者とは違うがいつの間にか周囲の者の信頼を得ているタイプだ。彼女も以前会った時にいいひとだと言っていた。

空港間の連絡バスの発着所に行くと臨時着陸した便の乗客専用の搬送バス乗場へ誘導されたが、既に長蛇の列ができている。2台ほど見送った後漸く乗れたがほぼぎゅう詰め状態だ。友人が鞄を両足に挟み置き場の無い両腕で鉄棒でもするように天井の手摺を握りながら、缶詰の鰯の気持ちが良く分かるとぼやく。大体予想はしていたが、空港を出て一般道路に入った途端バスの進みは極端に遅くなる。道路全体が見渡す限り(そもそも視界が悪いので大して遠くまでは見えないが)のろのろと安全運転中という状態なのだ。車内の後ろの方で誰かの携帯電話が鳴る。友人が小さく舌打ちしてこういう場所では切っておけよと呟く。その言葉が終わるか終わらないかの内に直ぐ近くでまた別の呼び出し音が鳴り、彼は大袈裟に顔を顰める。

「君のだ」
「あ?しまったさっき切り忘れたか」

彼は鉄棒から片手を離すと胸のポケットから電話機を出し、電源を切った。

「いいのか」
「こういう時に電話を掛けてくる方が非常識だ。少しくらい待たせても罰は当たらん」

こちらの状況など相手側は知る由も無いと思うが、こういう問題で彼と議論しても更に飛躍した論理で応戦されるのが常なので反論は控える事にする。恐らく掛けてきたのは恋人だろうから多少の照れもあるのだろう。

自分が出張等で家を離れている間、彼女に連絡を入れる事は殆どない。連絡したくない訳では無い。友人は暇を見ては度々携帯電話で恋人とメッセージをやり取りしているようだったが、自分の場合は一度何らかの手段で連絡を取ってしまうと抑えが利かなくなると言うのか、声など聞いたら衝動的に次の飛行機で蜻蛉返りしかねないので自制する他方法がないのだ。彼女もこちらの心境を知ってか知らずか特に連絡を求める事はしないでいてくれるので有難い。とは言えこれが2日3日なら出先で忙しくしている内に何とか過ぎるが、今回は既に限界に近い。飛行機に乗る前に空港から電話した時は幸か不幸か留守番電話だった。

外の様子ははっきりは分からないが、バスは漸く空港に向かう道路に入ったらしい。発車時に比べて確かに降る雪の量もかなり増え、まだ4時前だというのに空は大分暗い。程なく車は空港に到着し、僕達を含めた乗客は自分の周囲の空間が広くなった事に感謝しつつロビーに向かう。構内はかなり混雑していたが二人共機内に持込んだもの以外に荷物は無かったので、こういう事態である事を考えれば比較的速くロビーに出る事ができた。既に欠航になっている乗入れ便も多かったようで、自分達の便は何とか国内に着陸できただけでも運が良かったのかも知れない。そのまま駐車場に向かおうとすると友人に呼び止められる。彼は今歩きながら短い会話をして切ったばかりの自分の携帯電話を黙ってこちらに差し出した。連絡を入れておけという事らしい。有難く忠告に従ってそれを受取る。

恋人への電話を第三者が居合わせる場所で掛けるのが照れ臭いという心情は、場合に依っては確かに共感できる。単なる連絡程度ならともかく ― 実際今自分がしようとしている事にしてもそうには違いないのだが、普段ならともかく何日振りかで初めて彼女の声が耳に飛び込んできたら思わず何か突拍子もない事を口走りかねない。そういう事態を危惧して呼び出し音を聞きながら秘かに呼吸を整えたが、電話に出たのは数時間前と同じ面白味のない自分自身の声の応答メッセージだった。多少ほっとしながら要件を話す反面些か心配になり始める。僕が出張等から戻る日は彼女は出来る限り在宅している事が多いのだ。普段通りなら今日は大学に行く日でも無い筈だし、友人と出掛けてでもいるのならともかくこの荒天でどこかで独り立往生などしているのでなければいいが。

バスに乗っている間車は駐車場ごと雪に潰されているに違いないと悲観的になっていた友人の予想に反して、駐車場も車も先週末にそこを離れた時のまま無事だった。寒さのせいかエンジンも中々掛からない。漸く走り出した時には思わず溜息を吐いて座席に体を沈めた。多少時間が掛かったとしても取り敢えずはこれが帰宅への最終行程だ。友人には世話を掛けるが後は座っているだけで殆ど玄関先まで送り届けて貰える。

だが安心するのは早過ぎたらしい。友人が車のラジオを付けた途端、この直ぐ先の高速道路が事故のため通行止めになったというニュースが入った。走り出した途端に今乗ろうとしている高速が閉鎖とは運が悪いにも程がある、優良ドライバーで罰金を払ったことがない(これは一応事実だ)自分に交通局が嫌がらせをしているに違いないと友人が毒づく。

「まあ俺達の他に、少なくともあと数千人かそこら運の悪い道連れがいるのが多少の救いだな。今直進して行った後続の車が結局戻るしかなかったと気付く時の憤慨振りを想像すると少しは慰められる」

一般道路に降りる方向へハンドルを切りながら彼が言う。しかしその僅か数分後、大通りの渋滞を遣り過ごすため横道へ入ろうとした車の前に同じことを考えたらしい別の車が多少性急に割り込んできて、接触を避けようと咄嗟にハンドルを切ったこちらの車は見事に鋪道の縁石に乗り上げた。どこか擦ったらしかったが、戻ろうとしてもタイヤが雪に取られて空しく空回りする。友人は無数の矢に身体を貫かれた殉教者もかくやという表情で天を ― 実際は車の天井を ― 仰いだ。

「これまでだな。俺達の運命は決まったぞ。ここで遭難して明日の朝仲良く凍死してるところをレスキュー隊に発見されるわけだ。凍傷で手がやられる前に、俺の全財産は全国悪質ドライバー殲滅協会の設立に使ってくれと遺言でも書いておくか。俺も大概運が悪いがお前と最後の時を迎えるとは思わなかった。短い付き合いだったな」
「悪いがここで君と凍えている暇は無い。何れにせよ未だ凍死する程の気温でもないし、少し歩けば給油所があるだろう」

寒いとか雪道用の靴でないと転んで脳震盪を起こすとかいう友人のぼやきを聞き流しながら暫し歩き、給油所の看板を探し当てる。ここもどうやらこの雪が原因のトラブル対処で既に手一杯の状態らしく、友人の車は必要な処置をした後明日中に彼の自宅まで届けて貰うよう手続をして、近くの駅まで歩いて列車に乗る事にした。

「駅が近いですよと言うのは簡単だ。そこに行ったからって列車が動いているとは限らないわけだが」

友人の暗い予感に反して列車は動いていた。週末にしては乗客もそう多くない車内で暫し揺られた後、彼は乗換えのため先に列車を降りる。

「乗換え線が動いてるように祈っててくれ。俺もこの列車が途中で停まって線路の上を歩かされずに済むように祈ってやる」

妙に具体的な別れの挨拶を聞いて程なく、乗換駅まで後二駅という時に列車が急に停車した。幸い程なくして再び走り出したが、結局その先で何か線路に問題が起きたという理由で車両は急遽最寄駅止まりになった。仕方がないので乗換駅まで一駅分歩く事にする。接続列車 ― 正確には『接続する予定だった』列車だが ― が確かに動いているのを駅員に確認して乗換駅の方角へ歩き出すと、雪は先刻よりも強くなっている。10分程歩くと、前方に雪溜りに突っ込んだらしい乗用車を頻りに押している人影が見えた。近付くに連れて車の外で押しているのは男性で、中にはハンドルを握っている若い女性と彼等の子供らしい赤ん坊が居るのが見えた。この状況で彼女がこの場に居たら間違いなく手を貸してやろうと言うだろう。こちらの気配に気付いて振り返った男性に歩み寄って手伝おうと申し出ると、彼は汗の滲んだ額を拭いながら喜んでその提案を受入れた。もう10分以上もここで往生しているが、元々そう多くない他の車も自分達の安全運転に努めるのに精一杯で一向に助力を得られなかったらしい。数分間の努力の後車は大きく揺れて、漸く雪溜りから脱出した。新手のアトラクションとでも思ったか中の子供が歓声を上げる。両親は良ければ都合のいい場所まで乗せて行こうと言ってくれたが、車の向いていた方向からして彼等の目的地は自分とは逆方向らしかったのと駅ももう直ぐそこだったのもあって辞退した。が、果たしてその駅に着くと列車は沈黙していた。5分早ければ最後の列車に乗れた、と言う駅員の声を背後に聞きながらタクシー乗場に向かう。

来た方とは反対側から駅の構内を抜けようとすると、階段の手前にこれからスキーにでも行くかのような服装でサキソフォンを吹いている青年が居た。哀愁を帯びた旋律を聞きながら丁度その前に差し掛かろうとした時急に彼は中途で曲を止め、別の曲を始めた。危うく躓きそうになって立ち止まる。それは彼女の気に入りの曲だった。機嫌が良い時等に彼女はよくその歌を繰返し口ずさむのだ。自分自身好きな曲でもあるし普段なら街角で耳にしても何の支障も無いが、今この時に聞かされるのは正直勘弁して欲しかった。青年を見ると向こうも演奏を続けながら上目遣いにこちらを見る。ポケットを探り、通りすがりに落として行くつもりだった硬貨の代わりに紙幣を引き出す。それを渡して悪いが別の曲にしてくれないかと頼むと、彼は些か驚いた様子で紙幣を受取ったが直ぐに訳知り顔になって2,3度頷き、何をどう理解したのか僕の肩を親し気に軽く叩くと別の曲を吹き始める。それもまた彼女の好きな曲だった。居堪らなくなり何とかもう一枚紙幣を探し出して足元の箱の中に置くと、僕はタクシー乗場に急いだ。

既に列が出来ている乗場に着くとタクシーもほぼ出払っているらしく、申し訳程度に設置してある風避けに隠れるようにして半時間ばかりも過ごす。漸く自分の番かと思ったところで直ぐ後ろに並んでいた親子連れの子供がぐずり出したので先を譲り(彼女が居れば矢張りそうしただろう)、次の車が到着するまで更に15分待つ。後部座席に乗り込んで行き先を告げた時には、どうかこれが最後の行程であってくれと祈るような心境だった。これまでのところ結果的に友人の予想がほぼ当たっているので、ここに彼が居ないのは幸いだったかも知れないと思う。

だが彼が居ようと居まいと、今日は尽くこちらの望む通りには事が運ばないように定まっているらしい。運命論者ではないが実際そういう日というのはあるものだ。幾つ目かの信号で停車した直後にエンジンが何やら不可解な音を立て始めたと思ううち、程なく車は動かなくなった。車を包んだ奇妙な静寂の中、我知らず漏れた溜息が運転手のそれとぴたりと重なる。無線で救援を呼んだ彼は代わりの車も呼ぼうと言ってはくれたが、彼の口振りからしてどうやらその代わりの車も5分10分では来そうにない。同じように列車や自分の車に頼れなくなった長距離利用の客が集中しているのだろう。結局僕はそこで車を降り、歩いて家に向かう事にした。ここからなら40分も歩けば着くだろう。

タクシーから降りて歩き出し、頭上を仰ぐ。風はほぼ凪いだようだが雪は更に激しさを増している。水分の少ない粉雪なので払えばさらりと落ちるが、そうする間にも引っ切り無しに降るため余り意味が無い。途中に公衆電話を見つけて家に電話してみると矢張り未だ留守番電話だ。出来るだけそちらに考えが向かないようにはしていたがいよいよ心配になってきた。もう夜も9時 ― いや違う、腕時計がいつの間にか止まっている。朝起きた時に普段通り螺子を巻いた記憶はある。先刻車を押した時にでもどこかにぶつけたか。だとすると既に10時は回っている頃だ。出掛けていたとしても戻っていい時刻だが、僕が戻ると分かっている日に長時間外出する事自体彼女らしくない。まさか本当にどこかで立往生でも ― いや、ここであれこれ憶測を巡らせても詮無い。とにかく先ずは自分が家まで帰り着く事だ。途中でもう一度電話をしようにも手持ちの小銭を使い切ってしまった。こんな事態は予想していなかったので、行きの飛行機を降りる際に滞在先の通貨と混じらないよう整理する意味もあって粗方募金袋に入れてしまっていたのだ。友人ではないが雪道用に作られている訳ではない靴でこれだけ長時間歩き回っていれば足も冷えるし、出張先が比較的気候の穏やかな土地だったから服装にしてもそう暖かいものではない。寒さには割に強い方だが流石にそろそろ辛い状況になってきた。

途中でまた一台動けなくなっている車に手を貸し、眼の前で滑って横転したピザの配達帰りの二輪車を手伝って起こし、坂道で背後を歩いていた年輩の婦人の袋から転がり落ちて来たオレンジを12個拾う。ここまで来ると世間のあらゆるものが何かの気まぐれで何としても自分を帰宅させまいと ― 寧ろ彼女に会わせまいと邪魔をしているのではないか、とそれこそ友人でも言い出しそうな突拍子も無い考えに捕われるが、不具合があると動けなくなる交通機関に比べて自分の脚は僅かずつではあっても家との距離を縮めつつある、と何とか自らを励ましてひたすら家路を辿る。知っている筈の町並も一面の雪景色になると一体今どこを歩いているのか確信が持てなくなる瞬間が時折あって、何やら非現実的で奇妙な気分になる。幸い後は通り掛かった居酒屋の二階の出窓から落ちてきた雪を頭からかぶった程度で、漸く見慣れた建物が視界に入ってきた。上の階の部屋は暗いが、彼女が在宅しているなら明かりが点いているだろう居間の窓はこちら側からは見えない。


未だ数ブロック先の建物に引き寄せられるように、僕は我知らず歩調を速めていた。

12.2.2005

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