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...and it takes two. scene 4 : fragrance of autumn

数歩行き過ぎた彼が立ち止まって振り返ったので、わたしは自分が思わず足を止めていたのに気付いた。

「あ、ごめんなさい」
我に返って彼に追い付く。彼はわたしが見ていた方に視線をやって、

「ああ、金木犀だな」

公園の入り口にある濃い緑色の茂みに、無数のオレンジ色の花が一面にちりばめたように咲いている。わたしの大好きな花だ。

「今日はまだ早いし、公園を通って行こうか」

彼が言う。彼もわたしも帰り道や休日は公園の中を好んで通ったが、朝は(少なくとも一緒に出るときは)その外の歩道を使うことが多い。少し道を戻って、公園に入る。やはり朝は出勤や通学で気ぜわしいせいか、他にわざわざここを通っている人もほとんどいない。不規則に何本か植えられている金木犀の木を眺めながらゆっくり歩き、風が吹くたびにさわさわと運ばれてくる香りを一杯に吸い込む。金木犀の香りには、ひんやりして透き通った秋の風が似合うと思う。外出しなくても窓を開ければかすかに花の香を含んだ空気が流れ込んでくるこの時期が、一年のうちでも一番好きだ。どの木も艶のある濃い緑の葉に、金色の花がこぼれそうなほどに咲き乱れている。 しばらく前から街を歩くとあちこちから甘い爽やかな香りが漂い始めていたので気にはなっていたけれど、一昨日の帰り道に見たときはまだこんなに開いていなかった。

そう、昨日雨がー

「昨日雨が降ったからかな」

「え」

何を言ったわけでもないのに、同じことを考えて口に出したような言葉に驚いて振り返る。彼はわずかに首をこちらに向けて、

「初めて会った時に、君がそう教えてくれた。金木犀が香り始めて暫くすると大抵雨が降って、その翌日に一斉に花開く。それまで僕は気にも留めてみなかったが、君に言われてそういうものかなと思った」

どきりとする。

「ーそうだった?」

彼はほぼ完全にわたしに顔を向けると、意味ありげに微笑む。また心臓がどきんと跳ねる。

「でも」何か言わなければならないような気がして急いで続ける。「でも、わたしがそう思い込んでいるだけかも知れないの。雨が降る前から花はちらほら咲き始めてるし、降らなくてもちゃんと咲くし。雨が降ると空気が洗われた感じで木や花の色も鮮やかに見えるから、オレンジ色が引き立って眼を引くのかも知れないし」

「だが今年は君の説通りになった」

何と答えていいか分からなくて、花に気を取られた振りをして曖昧に笑う。いつの間にか立ち止まってしまっていたわたしたちは、何となくまた歩き出す。

金木犀の花は、雨の翌日に一斉に開く。そう、彼と初めて会ったとき、わたしがそう言ったのだった。さっきはああ言ったけれど、本当は忘れるわけがないーあの時話したこと、彼の言葉の一つ一つの抑揚、小さな仕種まで全部、今でもはっきり憶えている。あの時も前日の雨が上がって、金木犀の大きな木があちこちにある大学の構内の隅々まで、咲き誇る花の香りが漂っていたのだった。その日の授業を終えて植込みの蔭になっている芝生のベンチで本を読んでいたところに、他の学部の研究室に用事で来ていた彼もたまたま時間を潰しに来てー

あの日のことを、彼がそんなに細かく憶えていたとは思ってもみなかった。もちろんすっかり忘れているとは思わなかったけれど、わたしがたまたま口にした変な「自説」までそんなにはっきり憶えているなんて。口に出してしまってから会ったばかりの人にこんなことを言うなんて、と後悔したが、彼は今度から君の説を裏付ける証人になれるように気をつけてみよう、と笑ったのだった。そう言えばあれが彼の笑顔を見た最初だった。あの時は、その彼とまたこんな風に金木犀の季節を迎えることになるとは思っても見なかったけれど、それからしばらくの間その時の場面を繰り返し頭の中で再現しては溜息をつく日々を送っていたので、彼の言葉も自分の言ったこともそらんじられるほどになってしまったのだった。

横目でちらと彼を見上げて、いつの間にか彼もこちらを見ているのに気付いてまたあわてて俯く。そのとき今までより強い風が吹いて、ちょうど横を過ぎようとしていた丈の低い金木犀から砂糖菓子のような花が幾つかこぼれ落ちる。また、どちらからともなく立ち止まる。

「せっかく開いたのに、こんなにあっさり散っちゃうのね」
木の下には、既にちらほらと散った花が地面にオレンジ色の斑を描いている。答えがなかったのでふと見上げると、彼も散った花を見下ろしている。普段あまり感情を表に出さないその顔に浮かぶ表情がとても優しくて、静まりかけた心臓がまた落ち着かなくなる。

「ああ、すまない」
わたしの視線に気付いたのか、彼が振り向いて言う。
「そうだな、うっかり触れると散らせてしまうような繊細な花だから」

再び歩き出しながら、そっと彼の様子を窺う。もしかして彼も初めて会ったときのことを考えていたのだろうか。そう思ってから、自分の利己主義に少しうんざりする。傍にいるからと言って、何を見ても自分のことを考えてくれるとはもちろん限らないのに。しばらく無言のまま並んで歩いていると、何も聞いたわけでもないのに不意に彼が言った。

「君に似てるなと思って」
「ーえ?」

驚いて彼を見上げる。

osmanthus (6k) 「似てるって、金木犀が?わたしに?」
「初めて会った時に、そう思った」
「だってー」

「あまり嬉しくはないかな、植物に例えられるのは」
言葉が見つからず絶句するわたしに少し済まなそうな顔をする彼に、慌てて首を振る。

「違うの、金木犀は大好きだから嬉しいんだけどーでも、どう見たってわたしじゃイメージにー合わないと、思うんだけどー」

彼が微笑してじっとこちらを見ているので、最後の方は何だかぼそぼそ言い訳しているような感じになってしまう。でもわたしなら金木犀から、少なくともその花から連想するなら可憐で華奢で愛らしくて、わたしとは似ても似つかない人を思い浮かべる。普段お世辞など言わないひとだけに、一体どこが似ているのか聞くのも何となく恥ずかしい。肩に掛けた鞄の持ち手を意味なく弄びながら黙り込んでいると、わたしの様子を窺っていた彼が口元に拳をやって笑いをかみ殺しているような音を立てる。

「あ、からかって面白がってるでしょ」

「いや、そんなことはない」
慌てて無理に真面目な顔を作って彼が言う。

「本当に似ていると思ったんだ。笑ったのは君が何ともいわく言い難い顔をするから」

そんなことを言われると余計に頬が熱くなるのが分かるので、怒った振りをして食って掛かる。
「嘘ばっかり、わたしがどぎまぎするのを見て楽しんでるくせに。嘘つくとすぐ分かるんだから」
そう、彼が嘘をつくと顔に出るのですぐに分かる。だから今彼は嘘をついていない。分かってはいるけれど、恥ずかしいのと照れくさいのとでわざと大袈裟に怒って、笑いながら攻撃をかわす彼の背後に回って拳で背中を叩いたり押したりする。後ろ手に捕まえようとする手を避けながら、子供のように彼にまとわりつく。

本当は、ただ嬉しいだけなのかも知れない。結局わたしのどこが金木犀なのかは聞かずに終わってしまいそうだけれど、初めて会った時のこと、わたしにとってとてもとても大切な記憶を彼もまた同じように憶えていて、大切にしていてくれたことが嬉しくて、でも何と言っていいか言葉が見つからなくて、だから妙にはしゃぎたかったのかも知れない。そして多分彼も、それを分かってくれていると思う。彼とふざけ合いながら駅に向かう道、そんなことを考える。



27.9.2002

--> "two" gallery

--> scene 5

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