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...and it takes two. scene 6 : do you believe in miracles?

「こんなにひどくなるとは思わなかったわ。天気予報が外れたのって久し振り」
少し息を切らせた彼女が、エレヴェータのボタンを押しながら言った。

街に出て日用品などの買物と食事を済ませた休日の午後、建物を出る度に厚さと重さを増していた雲から到頭雨粒が落ち始めたと思う間もなく、忽ちのうちにこの季節には珍しい雷雨になった。激しく降りしきる雨の中を縺れるようにして建物の入口に辿り着いた頃には稲光と雷鳴もかなり激しくなっていて、二人共立っているだけで床に小さな水溜りが出来る程、頭から爪先までぐっしょりだった。その割に彼女は何故か妙に楽しそうで、まるで外で思う存分遊んできた子供のような顔をしている。

「部屋に着いたらまずシャワーを浴びてね。びしょ濡れだもの」そう言う彼女もたった今泳いできたような髪だ。
「君の方が先だ。そんなに髪が濡れていたら風邪をひく」
「わたしの盾になって何度も車の水しぶきを浴びたでしょ、あなたの方が先」
「何なら一緒でも僕は構わないが」

一瞬言葉に詰まった彼女の顔が見る間に朱色に染まる。そこでエレヴェータの扉が開き、促されてやや慌てて乗ろうとした彼女はまだ開き切っていない扉に肩から突っ込んで増々真っ赤になり、俯いたまま再び閉まる扉に向き直った。

「大丈夫か?」

黙ったまま熟れた水密桃のような顔をこくこくと頷かせる彼女が未だ下を向いているのと階数のボタンを操作する作業があったのとで、何とか笑いを堪えている顔を不自然に見えないように逸らすことができた。一緒に暮らすようになってもう結構経つが、未だにこういうちょっとした軽口にもまともに反応してどぎまぎする彼女が何とも可愛くて、大人気無いと思いつつもつい時々からかってみたくなる。これ以上順番について議論するとまた何か言われると思ったか、部屋に着くと結局彼女はそのまま先にシャワーを使うことにしたようだった。

「 ― あ」

背後から追い掛けて来た声に振り向くと、彼女は浴室のドアに手を掛けたまま困った顔でこちらを見た。

「着替えの普段着がほとんどないんだわ。昨日、夏服をあらかた仕舞い込んじゃったから ― 今日帰りに冬服を少し取って来ようかと思ってたのにすっかり忘れてたの。天気予報を信じて今朝たくさん洗っちゃった分は、出かける前念のために取り込んだからまだよく乾いてないだろうし。それはそれで、ずぶ濡れになったのを洗い直さずに済むからよかったんだけど。着てしまえば乾くかしら」

彼女は今ではほとんどの時間をここで過ごすようになっていたが、元々両親と住んでいた家がすぐ近くなので今のところ服などは必要に応じて持ってきたり戻したりしている。

「僕の服でよければ着ているといい。生乾きの服など着たらそれこそ風邪をひく ― 多少大きいのを我慢してもらえば割に暖かいと思うが」

洗ったばかりの自分の服を寝室から探してきて手渡すと、彼女は少しはにかんでそれを受け取り、僕にも早く着替えるようにと念を押して浴室に入った。その言葉に従ってこちらも大分濡れてしまった服を取り敢えず替え、買って来た物を出し、何か熱い飲物でも入れようとケトルを火にかけてから留守番していた犬にミルクをやり、少し早いが食事も出してしまおうかと考えていたところに、濡れた髪にタオルを絡ませながら彼女が浴室から出てきた。どうやらえらく大急ぎでシャワーを浴びたらしい。

「お待たせ、あなたの番よ。寒くなかった?」
「君こそそんなにあっという間に出てきたら、暖まる暇もなかったろう」
「大丈夫よ、部屋が暖かいし。ね早く、エルクのごはんはわたしがするから」
相槌を打つように、犬も短く吠える。

手にしていたドッグ・フードの箱を問答無用で取り上げられて浴室の方へぐいぐい背中を押され、犬も彼女と一緒になって急かすかのように後ろからついてくるので、仕方なく素直に浴室に向かう。エルクと呼ばれた大きな銀灰色の犬は元々その母犬の頃から僕が飼っているのだが、彼女と知り合ってからはどうも飼主よりも彼女の方に忠実なのではないかとしばしば疑いたくなることが多い。風邪をひかないよう彼女が心配してくれているのは分かるし犬にまで嫉妬する訳ではないが、何となく釈然としないものを感じつつ熱いシャワーを手早く浴びて居間に戻った。さっきよりも部屋は暖かく、何か甘い匂いが漂っている。

「ずいぶん早かったけど、ちゃんと暖まった?」

台所で何やら動き回りながら彼女が聞いた。それは先刻の僕の台詞だと言いそうになって止め、彼女のところへ行く。既に食事を終えた犬は傍に座って彼女を見守っていたが、もう一人来たのを見届けると居間のソファの足元の指定席に移動した。

「今ホット・チョコレートを作ってたの。この方が体が暖まるかと思って」

彼女が振り向いて言う。先刻よりも整えられた髪は火の傍にいたせいか既に少しふわりとした質感を取り戻し始めていて、頬にも仄かに赤味がさしている。鼻歌など歌いながら手鍋の中身を一頻り掻き回して火を止めると、彼女は温めた二つのカップにそれを注いだ。彼女が鍋や何かを流しに片付ける間に、カップを居間のテーブルに運ぶ。外は天気のせいで既に大分薄暗くなっていたが、居間は天井の照明を落として代わりに幾つかのランプと蝋燭が点してある。台所の明りを消して戻ってきた彼女はビスケットの載った皿をテーブルに置き、少し首を竦めて悪戯っぽく笑った。

「エルクが食べてるところを見たら、ちょっと何かつまみたくなっちゃったの」

それに答えるように足元の犬が頭を起こして奇妙な声を出す。普段僕が直接何か言っても精々尻尾をぱたりと動かすか頭をそびやかすかして了解の意思表示を示す程度なのだが、彼女の言葉には実にまめに反応する。彼女はそれに笑顔で応えてから、テーブルを迂回してソファの反対側に来た。隣に腰を下ろす前に何気なく髪を掻き上げる。

一瞬心臓が半回転したような、背骨を何かが走り抜けたような感覚を覚えた。一言で言うならぞくりとした、と表現するのだろう。ほんのり上気した白い肌の上に未だ乾いていない髪がしっとりと寄添う様は、柔らかな照明の中でひどく艶めいて映った。長い睫毛の翳りの下で深い飴色にも見える眼は直接こちらを視ていなくとも、その暖かな色の双眸に魅入られたようになってしまう。自分の服を着せたのさえ殆ど忘れていたのだが、やはり彼女には大分大きく余裕のあり過ぎる男物の服が却って女性らしい身体の線を引き立たせていて ― はっきり言ってこういう図は眼の毒だ。少なくとも出先で雨に遭って慌ただしく帰宅した午後に、ホット・チョコレートとビスケットと犬を前にして見せられるものでは無いと思う。

「どうしたの?早く飲まないと冷めちゃうわ」

隣に座った彼女が怪訝そうに聞き、自分のカップを取り上げた。少し猫舌の彼女は両手で包んだマグ・カップを覗き込むようにして、息を吹き掛けて冷ましている。ふっくらした唇から眼を逸らそうとすると、今度は未だ湿った髪の間から覗く白い首筋に視線がいって困る。トレーナーの襟ぐりが彼女には大き過ぎるのがまずい。いや別に服が悪い訳でも無論彼女に非がある訳でもなく、自分がそういう眼で見るのが問題なのだ。だが一度意識し始めるともういけない。カップの中のとろりとした液体を漸く注意深く一口飲むと、彼女は小さく溜息をついた。

「やっぱり、濡れても帰ってきて良かった。外よりずっと落ち着くもの。ね」
内心落ち着いているどころではなかったところに急に振り向いて同意を求められたので、何やら自分でもよく分からぬ事を口の中でもそもそ呟いて同意した事にして貰う。

「ね、この服」こちらの動揺などまるで気にも留めぬ風で彼女が言う。
「ほんとにあったかくて気持ちいいの。夜まで着ててもいい?」
「ああ、それは、勿論」

駄目だ、と言う言葉を熱いチョコレートと一緒に辛うじて呑み込んでそう答えた。自分から着ろと言っておいて今更眼のやり場に困るから着替えてくれ、などと言える訳はない。第一、今のところ彼女は他に着替えが無いのだ。こちらの内心の葛藤など知らぬ当人はそんな些細な事は忘れたのかどうでもいいのか、サイズの合わない着古したトレーナーがいたく気に入ったらしく、ご機嫌でビスケットの半欠けをエルクに食べさせたりしている。位置関係から言って僕の組んだ脚の上に上体を乗り出す格好になり、彼女が反対側に体を傾けると肩から落ちた髪が膝をくすぐり、微かな花のような香りが漂う。こうなると最早拷問に近い。
just washed (7k)

「あ、ごめんなさい。眠い?」

不意に体を起こし、こちらを見上げて彼女が言った。取り敢えず問題の対象をまともに見ないようにして、何か他のどうでもいいことに考えを集中しようと努力していたのがそう見えたらしい。

「いや」

湯上がりの恋人に膝の上に無防備に上体を投げ出されて居眠りする男が居たら、是非お目に掛かりたいものだ。

「邪魔?」
「いや」

確かに邪魔ではない。困りはするが正直なところ止めて欲しいとも思わない。

「良かった」

安心した顔をして、彼女は再び僕をクッション代わりにして犬にあと半分のビスケットをやり始めた。一連の言動は明らかに全く無邪気なものだから余計に困る。奔放などという性格からは程遠い女性なのだが、時折特に機嫌がいいと思い掛けず猫のように甘えてくる事があって、無論本人は何の他意もないし僕としても大概は何の文句もないのだが、場合に依ってはー少なくともこの状況ではー挑発以外の何物でもない。何とか気を逸らそうと再びカップのチョコレートに口をつけ、その熱く甘い飲物の名前からふと古い流行歌を連想したので強引にそちらに意識を向ける。何と言ったかあの歌はーI believe in miracles ー you sexy thing. いかん、これでは堂々巡りだ。妙に人間臭い仕種でこちらをちらりと見るエルクに内心を見透かされたようで、何かやましい気持ちになる。先刻の軽口の仕返しをここで一人と一匹から何倍にもして返されている気がしてきた。根拠のない疎外感から、彼女の注意を引きたい気に駆られて言葉を探す。

「何だか随分楽しそうだな」

確かに雨の中飛沫を跳ね上げながら家路を急いでいた時から、彼女は矢鱈と楽しそうだったのだ。

「だって楽しいもの。ね」エルクと戯れながら振り向かずに彼女が答える。犬がまた相槌を打つ。
「ずぶ濡れになったのに?」何とかこちらを向かせたい。
「濡れるなら徹底的に濡れた方が気持ちいいわ。それに」
「それに?」

「あなたと一緒だもの」

膝の上に俯せになったままこちらを見上げてにっこりすると、彼女はまたエルクに向き直った。
「二人一緒に買い物してお昼を食べて、一緒にびしょ濡れになって、家に帰って熱いシャワーを浴びて、暖かい服に着替えて、一緒にホット・チョコレートを飲めるって、すごく楽しいわ」

「 ― なるほど」

そう言われてみて初めて自問する。今この瞬間の心境を表現するなら ― ごく個人的に多少悩ましい状況ではあるとは言え ― 「楽しい」以外の何だと言うのだろう。今日これまでにした事の一つ一つはごく些細な何でもない事で、一人でも幾らでも経験する事ではある。だが例えば彼女が傍に居なかった一年前に、同じ事を一人で経験して楽しいと感じたろうか。否、彼女と一緒だからこそ何でもない些事が特別な経験になるのだ。土砂降りの中を泳ぐようにして帰って来た時さえはしゃいでいたのは彼女だけではない、自分も同じ位楽しんでいたのだ。第一独りなら、特に急ぐ理由もないのに敢えて濡れて帰ろうなどとは思うまい。彼女が傍に居てくれて、詰まらぬ事でも「楽しい」と言ってくれるから自分もそう感じるのだ。この部屋にしても一年前にもエルクはいたし、家具の配置も置いてある物もほとんど変化は無い。だがそこに彼女と言うただ一つの要素が加わっただけで、一年前とは何と違って見える事か。自分自身が変わった訳ではない、周りの世界が変わってしまったのだ。まるで魔法にでもかけられたように ― そう考えて内心苦笑する。自分も多少変わったのかも知れない、こんな比喩を使うとは。先刻のあの些か戯けた歌もそんなことを言っていたか。

Yesterday I was one of the lonely people...

「今はエルクもいるから、三人ね。あなたはホット・チョコレートは飲めないけど」

どちらがじゃれているのか分からないような仕種をしながら彼女が言う。

「おいしかった?良かった」

結局ビスケットを二枚分平らげた犬に気を良くして、彼女はその首を抱き締めた。大人しくされるままになりながら僅かに首を傾けたエルクと眼が合う。

多分この時初めて、僕は犬に嫉妬した。


words from "you sexy thing"
written by Anthony Wilson/Erroll Brown
performed by Hot Chocolate 1975




15.11.2002

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