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scene 19 : trick and treat

「こんなに大きな教室で講義を聴いたのって、久しぶり。楽しかったわ」

席を立っていく学生たちを眺めながら、わたしは少し高揚した気分のまま隣の彼に言った。自分は学生と言っても大学院生なので授業はほとんどなく、いくつか自主的に受けている講義も学生の数が少なく研究室や教授室で直接受けているので、学部の頃のようなある程度の大きさの教室での授業は実質的にもう機会がなくなっていた。彼は微笑んでわたしが羽織った上着の襟を指先で直すと、教壇の博士に視線を向けた。博士は既に5、6人の学生たちに取り囲まれて質問攻めにされていたが、こちらに気づくと相好を崩し、頭の上で開いた片手を部屋の入口に向かって振り回すような仕草をした。彼は了解の印に軽く片手を挙げ、こちらに向き直った。

「教授室だ。助手が居るだろうから先に行って待っていよう」

この講義室は今の授業が今日の最終だったのだろう、学生達と入れ替わりに、制服を着た清掃作業員の女性が用具を入れたワゴンを引いて入って来た。ワゴンの車が変な方向を向いてしまうらしく戸口でちょっと引っ掛かったので、邪魔にならないようにこちらも少し脇へ避けてやり過ごした。

「結構広い教室なのに、一人で掃除って大変そうだわ。うちの大学だとこれくらいの部屋は二人くらいで担当してた気もするけど。若いひとみたいだし、手慣れていればこれくらい大した広さじゃないのかしら」

話しながら、学生の間を縫って廊下を歩く。講義室のある建物は割に新しいが、教授室は廊下で繋がった南側の古い棟にあるらしかった。わたしはこの大学に来るのは初めてだったが、彼は何度か来ているので勝手を知っている。講義をしていた教授は彼と同じ分野の、その方面では著名な研究者で、しばらく前に知り合ってから彼を通じてわたし自身も交流を深めていた。彼の友人兼同僚の影響で、知り合いの仲間うちではいつの間にか長い本名の頭文字だけ取って『G博士』と呼ぶのが常になってしまっていた。もちろん親しい間以外でそれを使うわけではなく、博士本人は『博士』という呼称自体苦手らしいので、本人に対しては単に『教授』と呼ぶのだが。

「大学って、建物に入ってみるとどこでもわりと似た感じがするわね」
「そう突飛な設計も出来ないだろうし、ある程度大きな総合大学は似たり寄ったりになるだろうな。後は学部や大学そのものの色や空気のようなものが多少ある程度だろう」

確かに建物の古い新しいの違いはあっても、大学である限りそれぞれの建物や部屋の用途は同じなのだから、使いやすいように設計すればどこも大体同じようになるのだろう。今いるのは自然科学関係の学部の棟なので学生たちの雰囲気も少し違うけれど、文学部の建物に入ればまるで自分の大学にいるような気がするのかも知れない。それでも、自分の大学では普段は気にもしないようなことでもいちいち目に留まるのは、彼が言うように『大学』という共同体そのものの微妙な空気の違いが新鮮に映るからだろうか。

「なあに、これ」

視界の隅に映った何かが気になったので、思わず立ち止まった。学会のポスターや研究会の案内などが貼ってある学生向けの掲示板に、マジックペンで縁を赤と緑の縞に塗られた一際目立つ貼り紙があった。読んでみると何のことはない学生課からの連絡事項で(もちろん学生課にとっては大切な用件なのだと思うが)、事務上の手続き確認のことで数人の学生を呼び出しているものだった。含み笑いをしながらまた歩き出す。

「ああでもしないと、きっとみんな注目してくれないのね。毎日何度も前を通っていても、そこにあるのに慣れてしまうとろくに見もせずに通り過ぎてしまったりするもの。急いでいるときは後でよく見よう、と思ってそのままになったりして。友達もこの間、参加したかった学会に危なく申し込み損ねるところだったわ。ポスターはひと月も前からずっと貼ってあったのに」

旧館の二階にある教授の部屋には、彼が言った通り助手の男性がいて招き入れてくれた。彼はこの人とももう顔見知りらしい。彼と同年代か少し年下らしい男性は、話好きそうな感じのいい人だった。部屋はそれほど広くはなかったが、窓際に教授のものらしい大きくて古そうな木製の机がこちらを向いて置かれていて、手前の端寄りに助手の人が使っているらしい机が二つ、片方にはコンピュータの端末が載っていた。助手の机の反対側の端寄りにこじんまりした来客用のソファとテーブル、窓以外の壁はほとんど本棚で埋まっている。古い紙の匂いが何となく落ち着いて、簡素だけれど居心地の良さそうな部屋だった。

「ちょうど良かった、ちょっと助けて下さい」

助手の男性はわたしに挨拶した後、彼に言った。

「どうしても計算が合わないんです。何度やっても弾かれる。どこか勘違いしてますか?」

彼は助手氏に促されて、机の上のコンピュータの画面を覗き込んだ。どうやら地球の言語で、何かの数式らしい、ということくらいしかわたしには分からない摩訶不思議な記号がずらりと並んでいる。

「ああ、ここかな」

彼は10秒ほど画面を眺めて、画面の中央より少し下のあたりにわたしにはやっぱりわけの分からない記号や数字をいくつか打ち込んだ。すると小さな電子音がして、画面が別の数式に切り替わった。彼の隣で画面を覗き込んでいた助手氏が、今の電子音が蛙の口を通って出てきたような音を立てて頭を抱えた。

「そんなところが抜けてたのか...合わないわけだ。何度も見直したはずなんだけどなあ。せっかく修理が来て調子良くなったと思ったらここで引っ掛かって、さっきから20分も往生してたんです。教授には黙っといて下さい」

「呼んだかね?」

まるで計ったかのように、教授が部屋に入ってきた。助手氏は振り向く寸前にまた電子蛙の真似をして、

「いや!もうすぐいらっしゃるだろうと言ってたんです。抜群のタイミングです。えーと、お留守中に学部長が来られました。再来週の特別講義の概要の確認と、あと『栗だった』と教授に伝えてくれと」

教授が拳を固めて勝ち誇ったような歓声を上げた。

「何です?」
「栗毛だよ、馬だ。彼の弟が持ってる牝馬が先週末あたりに出産予定でね、生まれてくる子馬が何色になるか、彼は葦毛、私は栗毛に昼食を賭けた。うん、きっといい馬になるぞ」

教授はわたし達をソファの方に促して、自分で珈琲を入れるために傍の戸棚から食器を出した。教授が後ろを向いた隙に、助手氏が祈るような仕草をして彼に謝意を表す。

「この間は夕食をありがとう。旨かったなあ」教授が言う。
「よかったわ。今度は奥様もご一緒にいらして下さい」
「うん、ありがとう。彼女も会いたがっててね。講義は退屈しなかったかね?」
「とても面白かったわ。本当は少し心配だったけど、もっと早く伺えばよかった」

自分は理数系は苦手だったので、正直なところ講義が理解できるとは思っていなかったのだが、教授の講義は色々な例や他の分野との関連性を提示しながら普通の言葉で分かりやすく説明していて、自分でも驚くほど楽しかった。教授はそれは良かった、とにこにこして珈琲を勧めてくれて、自分の分の珈琲は窓際の机に持っていき、机を挟んでこちらを向く形で座った。

「出る前に書類を整理したいので、ちょっと失礼。本当は今日も妻が来られればいいと思ったんだが、明日どこぞのバザーがあってその手伝いに狩り出されたとかで、午後からミンス・パイを1800個焼くらしい。クリスマスには少しばかり気が早いんじゃないかと思うんだが、ミンス・パイが毎年の恒例らしいんだな。彼女も残念がってたが今回の夕食は見送るそうだ」

教授は話しながら机の上の書類を選り分け、要らなくなったらしい何枚かの紙をまとめて小さく折ると最後にそれを一ひねりして、ほとんど見もせずに部屋の隅の大きな金属製の屑入れに向けて放り投げた。紙屑は屑入れの中に吸い込まれるように消えて、コツンという音を立てた。

「本当は彼女がウズラが好きなのもあって、今日の店に予約したんだがね。ウズラ料理が旨いんだ...おかしいな」

「何です?」コンピュータ作業に戻っていた助手氏が言った。

「うん、論文がない」
「机の引き出しじゃないですか」
「いや、午前中ここにいた間に少し手直ししたから、紙挟みに挟んだだけでここ(と教授は机の奥の左端を手で軽く叩いた)に出したままにしておいたんだ。変だな。学部長が間違って持って行く訳もなかろうし」

助手氏はちょっと考えた。

「ないでしょうね。持ち帰るような書類はなかったし、教授の机の前に立って話されてましたけどほんの5分足らずだし、机の書類に手を触れたりは...その羊は弄んでましたが」彼は机の隅にある、羊の形をした金属製の文鎮を指差した。

「うん、なぜか彼はこれがお気に入りらしいね。念のために行って聞いてこよう。ちょっと失礼」

教授はわたし達に向かってそう言って立ち上がりながら、また小さく畳んで捻った紙屑をひょいと放ると部屋を出て行った。やはりほとんど眼も向けず無造作に投げたように見えたのに、紙屑はまた見事に屑入れの中に消えた。わたしの視線に気付いたのか、助手氏がちょっとにやりとして言った。

「それ、教授の癖みたいなものなんです。ほとんど機械的に投げてるようですが、外れたことはまずないですよ。教授は専門のことでも他のことでも、何かアイディアを思い付くととにかく書き留めるんです。その量が半端じゃないもんで、事務の方から一日おきに印刷物の余りやら要らない紙類を貰ってきてあるんです。一度書き留めるともう脳にインプットされるらしくて、ほとんど書いた端から畳んで捨てるから屑入れは常に紙屑で一杯です。だからそんなに大きなのを置いてあるんです。変わった人ですよね」

確かに、教授の机の片隅には既に何か印刷してあるらしい紙の束が白い面を上にして揃えてあった。隣にはどこかの博物館にでも飾ってありそうな、でもよく磨かれ手入れされているらしい古いタイプライターが置かれている。反対端にはラップトップ・タイプの最新型らしいスマートな形のコンピュータ端末、その側にはやはり年代物らしい真鍮のペン立てとインク壺のトレイがあって、机の上は過去と現在が違和感なく共存したちょっと不思議な空間になっていた。

「しかし、本当に論文が見つからないとなるとなあ...教授のことだからどこかに置き忘れってこともないだろうし」

人の良さそうな助手氏の表情が真面目になった。G博士は記憶力がずば抜けていいことで知られている人らしいので、思い違いの可能性はあまりないのだろう。

「雑誌の論文ですか」彼が聞く。
「ええ、締め切りが三日後なんですよ。ここ最近発表した論文は共同研究が主でしたが、今回は教授の単独執筆です。教授はああいう人だから原稿も未だにタイプライターで手打ちだし、完全に仕上がるまで複製は取らないんです。普段は結構締切りまで余裕を持って仕上げるんですが、今回は途中で急に政府筋からお呼びがかかって、ちょっと手こずったりしたことがあって一度延ばしてもらったんで、本当にぎりぎりなんです」

教授が上機嫌の顔で戻ってきた。

「ありましたか?」助手氏が聞く。
「いや、ないよ。週明けに『子鹿亭』でご馳走してもらうことになった。はは、遺伝学的法則にも常に多様性と例外があるってことを忘れちゃいかんね。(ここで教授は助手氏の表情に気がついて咳払いをした)うん、それで論文だが、紙挟みを見たような気はするが触ってはいないそうだ。まあ中を開けば一番上に題名の頁があるから論文だと分かるだろうが、外から見ただけでは何だか分からん訳だし、彼が持って行っても何の得もないしね。学部長の他に、留守の間に誰か来たかね?」
「二コマ分あった割には静かでしたよ。学生が一人と、あとは郵便配達くらいです。でも学生は教授が講義中と言ったらまた出直すと言ってすぐ帰りましたし、配達も僕が戸口で郵便を受取りましたし」

教授と助手氏は一応机の周辺と部屋の内部をざっと探したが、論文もそれが挟んであった紙挟みも見つからなかった。助手氏は深刻な顔でため息をついて、

「やっぱりないですか ― これ、つまり誰かが故意に持って行ったってことですよね?」

「まあ、紙挟みに脚が生えて君が背中を向けてる隙にドアから出て行ったか、羽が生えて窓から飛んで行ったかじゃなければそうかねえ」教授が何だか呑気そうに、換気のために半分ほど開けてある空気窓を見上げながら言った。

「そうかねえって教授、あれが来月予定通りに載らないと信用問題ですよ」
「学部長が来たのは私の講義が始まって半時間後くらいという話だったが、他の二人が来たのは?」
「ええと、学生はその10分くらい前ですね。郵便は学部長の15分か20分後くらいです。あ!」彼が急に叫んだ。
「何だね」
「その学生、借りた本を返していくと言って机の側まで行きました。そこの本棚です」

彼はわたし達が座っている側の奥の壁にある本棚を指差した。教授が立って、示された辺りの棚の本をざっと一瞥した。

「これかね?」教授は暗い茶色の装釘の本を一冊取り出して、助手氏に見せた。

「だと思いますよ。正直なところ僕はよく見てなかったんで、その辺りに戻してた、って程度しか憶えてないんですが」
「これは私の本じゃないよ。その学生は名前を言ったかね?」
「いえ...見覚えがない顔だとは思いましたが、真直ぐその本棚のところに行ったんで勝手を知ってるんだろうと」助手氏はショックを受けたらしかった。「すると、そいつが犯人ですかね?」

「まあ待ちたまえ」気色ばむ彼ををなだめるように教授が言った。「部屋に誰も居なかったことはなかったかね?」
「いえ、僕が席を外す時は鍵を掛けてから出ましたし...それも西門のポストに郵便を投函するために10分足らず程度、一度きりです。これは郵便配達が来た半時間後くらいだったと思います。戻ってきて少しして三限目終了の鐘が鳴りましたから」

「修理の人が来たと言いませんでしたか」

彼が口を挟んだ。助手氏は片手の平で頭を叩いて振り返った。

「そうだった、何か忘れてるような気がしてたんです。コンピュータの調子が悪かったんで四限が始まる前に電話をして、来たのは今から1時間足らず前です。15分くらいいました」
「だが、その時も君はここに居たんだろう」

教授の言葉に、助手氏の顔から少し血の気が引いた。

「一度、その場を任せて席を外しました。ほんの5分程度ですが、手洗...その、目的地が多少この部屋から離れてるもので」彼は声を落としてちらりとわたしの方を気にしたので、わたしは聞かなかった振りをして視線を泳がせた。
「鍵は掛けてません」助手氏は呻くように言って頭を抱えた。「迂闊でした」

「まあ、中に人が居るのに鍵を掛けようとはあまり思わんだろう。例え掛けたって彼が中から開けたら何の意味もないし」教授がなだめた。「修理の人は前に来たのと同じかね?」
「いえ、見たことのない男でした。手際は良かったし、身分証もちゃんと見た...つもりだったんですが、自信はないです」

彼はすっかりしおれた様子だった。

「すると、彼かも知れないわけですか...工具の入った鞄なら、充分隠して持って行けますね。それとも僕が居ない間に別の誰かに論文だけ持ち出させたとか?とにかく修理店に電話してみます」
「まあ待ちなさい、大事にする前にちょっと落ち着いて考えてみよう」
「でも教授、故意に持ち去ったなら窃盗ですよ。締切りまでもう日にちもないのに、落ち着いてる場合じゃないです」

「その論文を誰かが持ち出したとして、何が目的なんでしょう?」わたしは我慢できなくなって聞いた。

「うん、そこだな」教授はこちらを振り向いて言った。「例えば間違った本を返しに来た学生だったとして、それをどうするつもりか。専門外の者にとってはただの紙切れだし、高値で売れるものでもないからね」
「自分の論文として発表する?」助手氏が少し自信がなさそうに言う。
「それはちょっと考えられんなあ。どこかで出版するとしても今日明日に発表できる訳はないし、大体の内容は既にこちらで出版社に伝えてあるから、先に盗難届を出しておけば例え題名や内容を多少変えて他の場で発表したとしてもすぐ分かるだろう」

「相手が必ずしも学生とは限りませんが」彼が付け加えた。

「うん、それはある」教授は頷いた。
「教授と同じ研究者かも知れない、ってこと?」わたしは言ってみる。
「その可能性はある。だがそうだとしても、それを発表して教授から訴えがあれば相手の信用が危うくなるのは変わりない」
「でも、写しは取ってないのでしょう?例えば向こうが、元々自分のものだった研究内容を教授が何かの方法で知って、盗作しようとしたって主張したら ― ごめんなさい、本当にそんなことがあるとは思わないけど」

教授は気分を害した様子もなくにっこりした。

「それもあり得るな。こちらには、それが私の著作物だということを完全に証明するものは残念ながらない。ここにしかね」

そう言って、教授は自分の頭を人指し指でつついて見せた。話している間にも鉛筆を握った左手はせわしなく動いて、紙に何か書き付けては一杯になると畳んで屑入れに放っている。会話している最中でも別のアイディアが次々と浮かんでくるのだろうか。これまで会った際にも時々手帳に何か書き込んでいるのは見ていたが、自分の机に座っているとより活発に脳が働くのかも知れない。

「だが相手がある程度の業績のある研究者だとしても、この研究分野での教授の知名度と信用はほぼ確実に向こうより高い。仮に教授の著作権が証明できなかったとしても、相手に対する業界内の不信感は間違いなく残るだろう。向こうもそれ位予測できない訳はない」彼が言う。
「本当に私が学生か若い研究者の論文を盗作して、相手がそれを取り返したとしたら、そういう先入観は余りいいことじゃないがね」と教授。
「教授がそんなことをするわけがないし、今はそんな仮定をしてる場合じゃないですよ」助手氏がもどかしそうに割って入った。

「そうだわ、向こうが原稿をそのまま出版社なりどこなりに持ち込んだとしたら、タイプライターの印字から証明できないかしら」と言ってみて、わたしはすぐ自分の案がありそうにないことに気づいて彼を見た。
「 ― いくら何でもそんなうかつなことはしないわね。もう一度打ち直して、原稿はできるだけ早く処分するかしら」

「盗んだ論文を自分のものとして発表するつもりなら、そうするだろうな。だがやはり手間が掛かり過ぎるしリスクも大きすぎて可能性としては低い。そもそも誰であれ論文を盗んだとすれば、まずたまたまそこに置いてある紙挟みに挟まれた見ただけでは何か分からないものを、未発表の論文という使いようによっては価値のある書類だと認識する必要がある訳だから、教授が常に書きかけの論文を同じ紙挟みに挟んでこれは今度発表する大切な論文だと見せて回ってでもいない限り、たまたまここに来てそれを見つけ、中を確認して何であるかを知って持ち去ったと考えた方が筋が通る。教授が締切りの迫っている論文を執筆中だと何らかの経路で知ってこの部屋に原稿があるはずだと当たりを付けたとしても、教授室や事務室などをを無人にする時は鍵を掛けるのが普通だろうし、上手く口実を作って怪しまれずに入れたとしても誰かが居合わせるその場で目的の物の内容を確認した上で見咎められずに持ち去るのは難しい。片手に隠れるようなものならともかく書類の束だしね」

「盗作するために盗んだのじゃないとすれば、何のため?」

わたしの質問に、彼はほとんどすぐに答えた。

「締切りや執筆状況をある程度知っている者だと仮定すると、締切り直前に盗み出して出版される雑誌の掲載枠に穴を空け、教授の信用を落とそうとしているんじゃないかな。最近論文の事について誰かに話されましたか」

彼の問いに、教授はにやりとして答えた。

「話したね。というより三日前の学会に論文が掲載される雑誌の編集主幹も来ていてね、ぎりぎりになるだろうがどうやら間に合いそうだという話をした。大声で話していた訳じゃないが、会場は混んでいたから周囲の複数の人間がそれを耳にしていても不思議はないな」

彼は頷いて、

「その時にそれを聞いていた誰か、あるいはその誰かから話を聞いた者が元々教授に対して悪感情を持っていて、何かの手段でここに入って論文を見つけ、上手くすればこれを持ち去ることで教授の立場を悪くすることができるかも知れないと考えた可能性はありますね。これなら一旦持ち出しさえすれば、後は自分で何の行動を起こさなくても結果は現れる」
「すると、教授が締め切り直前まで原稿をタイプせずに、写しも出版社に渡すぎりぎりまで取らないのが常なのも向こうが知ってることになりますね」助手氏が言った。

「そういうことになるだろうね」教授が頷く。「まあ別に秘密にしている訳でもないから、同業者で知っている者も実際にいるしね。またそこから話を伝え聞いた者もいるかも知れん」
「一体どこのどいつですかね、そんな卑怯な手を使ってまで教授を陥れようなんて考えるのは」助手氏が憤慨した様子で語尾を荒げた。
「陥れると言うのも大袈裟な気がするがね」教授は机に頬杖をついて言った。「ともかく、実際誰が実行可能だったか個別に考えてみよう。その学生(と仮にするが)が作為的にここのものではない本を返しに来たとすれば、この部屋に入る口実を作るためだったということも考えられる。しかし君の目を盗んで机の上から紙挟みごと書類を持出すのは、さっきも出た通りよほど巧くやらない限り見咎められるだろう」

助手氏は眉を寄せて考えた。

「確かに一挙手一投足を監視してたわけじゃないですが、視界の中には入っていたので不審な行動をしたら気付いたと思います。青い紙挟みですよね?机の上にあるものの中では目立つ色だから、それを動かしたら視界の隅でも気が付きますよ。本を二、三冊抱えてただけで鞄の類も持ってなかったし、服だってシャツ一枚だったから隠すところもない ― と思いますが。紙挟みは本よりも大判だから、間に挟んでも隠し切れずにかえって目立つだろうし」
「学部長はどうかね?」
「学部長も疑うんですか?何の得もないってさっきご自分で言われたじゃないですか」

驚いて眼を見開いた助手氏に、教授はいたずらっぽく目配せして見せた。

「ふふ、そりゃ得はないさ、彼の専門分野は私と少し違うしね。しかし賭けに負けて面白くなかったんでちょっと悪戯したってことはあるかも知れないぞ」
「まさか、子供じゃあるまいし。それにさっき教授が学部長の部屋に行かれた間にもう一度よく思い返しましたが、僕がずっと面と向かって話してましたから、奇術師でもない限り机の反対側に置いてある紙挟みに気付かれずに手を伸ばして隠して持って行くなんて無理です」

「ふむ」教授は腕組みして呟いた。「次は郵便配達か」
「さっきも言った通り、彼は戸口から中に入ってもいませんよ。彼が犯人だったら僕は教授の髭を食ってもいいです」
「それはあまり楽しくなさそうだから、配達員は取り敢えず除外しよう」教授は自分の顎髭を撫でながら言った。「あと残るのはコンピュータ修理の男か」

その名前が出た途端、助手氏は再び苦悩の表情になった。

「やっぱり、それしかないですよね...僕がいない間に鞄の中に論文を押し込んで何もなかったようにコンピュータの修理を続け、戻ってきた僕と普通に会話して、そ知らぬ顔をして立ち去ったわけだ」
話している間に落胆より怒りが勝ってきたらしく、彼は勢いよく自分の机を振り返った。
「今度こそ修理店に電話します」

「もう一人、この部屋に入った人間は居る」

ほとんど独り言に近かったけれど不思議によく部屋に響いたその声の主を、わたし達は一斉に見た。わたしのすぐ隣に座っている彼だった。

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