自分はかなり、嫉妬深い方だと思う。
昔から、親しい友人が自分の知らない別の友人の話をするのを聞いたりしていても、単純にその話を楽しむ一方で胸の奥に寂しいようなもどかしいような、はっきり言葉にできないけれど何となく嫌な感じのするもやもやしたものがあるのに気づくことがあって、年齢を重ねるうちにそれは姿の見えない相手に嫉妬しているのだと自覚するようになった。自分自身にしても友人はそれぞれに皆大切だし、誰が一番などという考え方ができるわけがない。それなのに友人に関しては嫉妬するというのは、相手に対してばかりこちらを一番に考えて欲しいと望んでいるということだから、そういう利己的な感情を覚える度に自分の幼さと傲慢さが恥ずかしくて、何の落ち度があるわけでもない友人に対してそんな理不尽なことを思うのが申し訳なかった。友人だけでなく小さな子供や動物でさえ、自分以外の人に懐いているのを見ると漠然とした不満を感じてしまうのだから、我ながらつくづく身勝手だと呆れる。不満、と言うより不安と言った方が近いかも知れない。好意を持っている相手に自分が忘れられてしまうのではないか、という根拠のない不安。例えば、子供時代に親が自分に充分な注意を払ってくれていないと感じていた人が、成長してことさら他人の注目と好意を集めたいと思うようになったりする、という話も聞いたことはある。けれど自分の幼少時代を振り返っても、憶えている限りではそんな不満が鬱積するようなものではちっともなかった。弟が生まれた時も両親の自分に対する扱いが変化したとか、愛情が薄まったなどと感じた記憶は全くないし、自分自身も弟ができてとても嬉しかったことしか憶えていない。そう言えば、家族に対しては特に嫉妬を感じたことはない。『忘れられる』ということがないと確信できるから、なのだろうか。結局、ただのわがままななのだと思う。もちろん実際に表情や態度に嫉妬を表すわけではないし、自覚するようになってからはそんな後ろ向きの感情を胸の中に溜め込んで自己嫌悪に陥るより、嫉妬するほど好きだと思えるひとがいるのは幸運なことなのだ、そのひとの友人でいられることに感謝すればいいと思うことで、以前よりも楽に考えられるようになった。
とは言っても、相手が彼の場合はいまだにそれがうまく行かない。だから大学の図書館を出たときたまたま会った友人から、彼が構内を長身の美人と並んで歩いていた、と聞いて内心かなり動揺した。
「来てるって知らなかった?待ち合わせしてるのかと思った」
わたしの様子を見て友人が言った。彼の勤める研究所は大学とは離れた場所にあるが、色々と研究協力などをしている関係で所員がうちの大学の研究室と行き来することも多い。そもそも初めて彼と出会ったのも、彼がそういう用事でたまたま大学を訪れていた時だった。一緒に暮らすようになってからは、彼の来る予定とわたしが大学に出る日が一致したときはあらかじめ打ち合わせておいて、学内で待ち合わせたりすることも時々あった。
「いつも予定が決まってるわけじゃないし、急に何か用事ができたんじゃないかしら」
「そういう時、携帯電話があると便利なのに。二人ともいまだに持ってないんでしょ?まあ、要らないと思ってるなら無理に持つ必要もないけど。いつでも連絡可能っていうのも、かえって都合が悪いこともあったりするしね」
「そうなの?」
友人はちょっと意味ありげに眼を見開いてみせた。
「場合によってはね。携帯電話とかメッセージの手軽さに慣れちゃうと、我慢が利かなくなるってこともあるわよ」
「それ、個人的経験から学んだことかしら」
ひやかすように言うと、どうやら推測が当たったらしい。友人がつき合っているのは彼と同じ研究所の同僚で、お互いよく知っているのだ。彼女はことさら顔をしかめてみせて、
「携帯電話を新しくしたからって、目新しい機能を試すためにいちいち人を実験台にしなくてもいいじゃない?半日の間に変なメッセージがいくつも入ってて、いたずらかと思ったわよ。ちょっと便利なおもちゃ程度にしか考えてないんだと思うわ」
「何だか可愛いじゃない。それに実験を口実にあなたのご機嫌を伺ってるのよ、きっと。そういうところあるでしょ」
「まあ、ね」満更でもないような顔で友人が言う。「もう少し落着いてくれてもいいとは思うけど、お宅の彼と歳は変わらないんだし ... そう、その彼だけど、さっき見た時は楡のカフェを出るところだったから、今なら追いつけるかもよ。多分海洋学部の方に行ったと思うわ」
「別に今追い掛けなくても、帰れば会えるもの」
とは答えたものの、友人と別れた後は心中穏やかどころの話ではなかった。『楡のカフェ』というのは構内にある別のカフェと区別するための学生間の通称で、建物のすぐ外に古い楡の樹があるのでそう呼ばれている。古めかしい建物が多い敷地内で一番最近改装された棟にあって、ガラス張りで明るく静かなので、今日のような天気のいい午後は授業の合間に一息入れる学生や本を読む人がのんびりしていることが多い。わたし自身空いた時間を潰すときや、それこそ彼との待ち合わせによく利用していた。そのカフェに彼が自分ではなく他の女性といたと思うと、何となく自分のお気に入りの場所をその見知らぬ女性に取られてしまったような、複雑な気分になった。けれどもちろんカフェは公共の場所だし、そのひとにしても多分大学の関係者なのだから、学内の施設を利用するのは何の不思議もない。彼が一緒だったからこんな風に感じてしまうだけなのだ。悪い癖 ― 会ったこともない女性に嫉妬して、勝手な憶測を巡らせている。彼に関することになると、自分は15歳くらいから少しも成長していないのではないだろうか、と思うほど我ながら子供っぽくなると思う。ふと気がつくとあれこれ考えながらすごい勢いで歩いていたらしく、カフェも正門も通り過ぎていつの間にか購買部のある建物の前まで来ていた。自然科学関係の学部の棟はそのすぐ向こうだ。
追い掛けようと思って来たわけではないのだし、第一本当に彼がこちらに来たかどうかも分からない。そのまま帰ったかも知れない。でもせっかく普段はあまり来ないところまで来たのだし、この辺りは樹も多くて花壇も綺麗に整備されているから、少し散歩していってもいいかも ―
いた。
その花壇に挟まれた敷石の鋪道で、彼と友人が言っていた女性(だと思う)が立ち話をしていた。彼はこちらに背を向けているが、女性の方はここからでもかなり人目を引く容姿なのが分かる。学部研究室の関係者、なのだろう。書類のようなものを手にしているので、カフェでは仕事の話をしていたのかも知れない。もちろんそれは分かっていたけれど、わざわざここから少し歩く必要のあるカフェに行かなくても、この棟にだってちょっとした喫茶室くらいなかっただろうか。背は彼より少し低いくらいだが、ハイ・ヒールの靴を履いているので実際はもう少し低いのだろう。それでもわたしよりはずっと背が高くて、均整の取れたスタイルだ。髪もふんわりと形よく整えられて、これで白衣など羽織っていればハリウッド映画に出てくる美人科学者のようだ。科学分野の女性は、皆あんな短いタイト・スカートを穿いているのだろうか。すらりとした綺麗な脚なので、見せたくなる気持も分からなくはないけれど。二人が何を話しているのかまではここからでは聞こえない。彼女は笑顔で彼の腕に親しげに手を置くと身を翻し、ヒールの音を小気味良く響かせて建物に入って行った。何か考え込んだようにその後ろ姿を見送っている彼の背後から近付く。
「今日来てたなんて、知らなかったわ」
「ん?ああ、所長の用事の代理でね」
彼が振り向いて、まるで数分前までわたしと話していたかのように答える。
「驚かないのね、わたしがここにいても」
彼は軽く肩をすくめた。
「君はここの院生だから別に不思議はない。後ろにいるのは気付いていたし」
背中を向けていても気づくほど、目立った行動をしていただろうか。元々彼はわたしの気配には不思議なほど敏感なので、それこそ今さら驚くことでもないのかも知れないが。それはともかく、もしわたしが近くにいることを知らなかったらあんなにあっさり別れたりしなかったかも知れない、と思うのは考え過ぎだろうか。さっきの彼の様子が何となく気になって釈然としない気分を抱えつつ、彼がそのまま研究所に戻らず帰宅すると言うので、一緒に駅に向かって歩き出した。
「カフェで君の友人を見かけた」
「知ってるわ」
反射的に答えてからしまった、と思う。これでは、いかにも彼女から彼が来ていることを聞いて急いで追い掛けてきたように見えてしまう。いつもならそんなことを気にもしないが、今日に限ってはそう思われたくなかった。けれど言ってしまったことは取り消せないので、仕方なく続けた。
「わたしも会って少し話したから。あなたが美人と一緒だった、って言ってたわ」
「美人?ああ、先刻の彼女なら研究室の助手だ」
「親しいの?」
「いや、会うのは二度目だ。最近入ったらしい」
その割にはずいぶん仲良さそうに見えたけど、と言いそうになるのを抑える。
「きれいなひとね、女優みたい。スタイルもいいし」
「女優は容姿より才能が必要だろう」
「でも彼女は別に女優になるわけじゃないでしょ。きれいなのは間違いないし」
「そうかな」
「そうよ」
「君が言うならそうなんだろう」
「わたしがどうこうじゃなくて、好みはともかく10人に聞いたら9人はきれいだって言うわ」
「残りの一人は?」
「へそ曲がりか、何か後ろめたいことがあるひと」
そう答えて反応を窺ってみたが、彼は特に表情を変えずに「ふむ」と呟いただけだった。彼が普段から容姿に関する一般的な基準をあまり気にしない(美の基準が違うわけではなくて、見た目の印象に影響を受けにくいということらしい)傾向があるのは分かっているとは言え、つい今し方まで親しげにして名残り惜しそうに見送っていた女性のことを話しているのに、ことさら興味がなさそうにはぐらかすかのような言い方をするのがかえって気になった。用事を済ませてもう帰るばかりなのに、カフェを出たあと途中にある正門を通り過ぎてわざわざ研究室のある棟まで戻ったということは、彼女を送って行ったわけだし ... と思うとますます落ち着かない。列車の中でも極力彼とは目線を合わせないようにして窓の外の景色や車内をぼんやり眺めていたので、話はあまり弾まなかった。もっとも普段でも、会話の大半はわたしが話しているのだが。列車を降り、先に立っていつもより足早に改札口を出る。
「随分急ぐんだな」
「途中でお野菜を買って帰りたいの」
そう言ったからには買わないわけにもいかないので、帰り道の途中にある食料品店に入った。ジャガイモに玉葱に人参に、重いものばかり選んで彼が持つ籠に次々と放り込む。
「ジャガイモはまだ買い置きがあったと思うが」
「今あるのは今日で全部使い切るから、いいの。あと林檎も買いたいわ」
ついでにオリーヴ油の大瓶と、缶詰めもいくつか追加した。彼は黙って精算の終わった食料を袋に移し替え、わたしの後について店を出た。
「他に買物は?」
「ないわ。あったとしてもあなたの両手はふさがってるし、それ以上持てないと思うけど」
「そうでもない」
皮肉を返されたのかと思って彼を見上げると、普段と変わらずにこりとされたので慌てて視線を逸らした。彼はもともとわたしに比べてずっと言葉少なだし、いつもなら互いに黙っていても気まずく感じることなどないのに、今日はその沈黙がひどく重い。何もなかったように話したいけれど、そうすれば心に引っ掛かっていることがそのままになってしまって、わだかまりになって残るだろう。だからと言って、このもやもやを払うために彼に何と言えばいいのか、何を聞けばいいのか言葉を思いつけない。もどかしい。二人で帰宅する時はわざと回り道をして近くの公園の中を通ることも多いのだが、そんな気にもなれずにとにかく早足のようにして家路を急いだので、帰宅した時には少し息が切れていた。彼は普段(わたしより背が高い分脚も長いので)わたしに合わせてゆっくり歩いてくれているのか、これだけ急いでも難なくついて来て平然としている。何となく、悔しい。
買い置きのジャガイモの残りを一気に消費するために、夕食は冷凍してあった白身魚を使って魚のパイを作ることにした。新しく買ったものを適所に収めてから、野菜籠から出したジャガイモを全部水を張った鍋に入れる。彼はいつものように珈琲を入れるため、戸棚からカップを出した。
「君も珈琲でいいかな」
普段なら尋ねるような表情で黙って珈琲豆の容器を示してこちらの意向を伺う彼も、今日はこちらがわざと視線を合わせないようにしているからか言葉で聞いてきた。
「わたしはお茶にするから、お気遣いなく」振り向かずに、できるだけ素っ気なく答える。
「余計なお世話かも知れないけど、さっきも珈琲を飲んだばかりじゃなくて?大学のカフェで」
言ってしまってからさすがに嫌味が過ぎたと後悔したけれど、彼はまたふむ、と呟いた。
「そうだった。僕もお茶にしよう」
こういう時、彼はとんでもなく鈍い。ここまで素直に応対されると、本当は分かっていてわざとかわしているのではないかとも疑いたくなるが、彼がそんな性質のひとではないのは自分が一番よく知っている。皮肉に気づかなかったことにほっとする一方で、こちらの気持をちっとも察してくれないことに(それが矛盾しているのは充分分かっていても)一層いら立ちがつのる。魚に熱を通していたわたしの傍に、彼がミルクを入れたお茶のマグ・カップをそっと置いた。背後でちゃんと二人分手際よく入れていたのを知りながら、たった今気付いたかのようにあらありがとう、などと言ったのは自分でもわざとらしいにも程があると思う。勝手に嫉妬して勝手に拗ねている自分が滑稽なのは百も承知だし、 小さなことにいつまでもこだわっているのも心が狭いとは思うが、さっき彼女の後ろ姿を見送っていた彼を思い出すと ― 正確に言えば、彼女の『脚を眺めて』いた彼を思い返すと、どうにも振り払えない嫌な思いが胸の中に渦巻いて、普段のようには振る舞えなかった。これがさっき会った友人(とその彼)なら、こんな風に悶々とする前にその場で思ったことをはっきり言って冗談にでもしてしまえるのだろうが、自分にはそれができない。彼だって男性なのだから魅力的な女性には興味を引かれるだろうし、脚線美に見とれることだってあるだろう、ということくらいは自分にも分かる。でも『理解』できるから『納得』できるとは限らない。恋人はわたしなのだからいつでもどこでもこちらだけを見ていて欲しい、というのはとてつもなく自己中心的で子供じみた考え方なのだ、と分かっていても、結局無意識にそれを求めてしまっているのだ。
茹で上がったジャガイモの皮を剥いていると、彼が傍に来た。
「僕がやろう」
「結構よ、一人で充分」
「だがその量を潰すのは結構力が要る」
「ご心配なく、今とってもジャガイモを潰したい気分なの。座ってて下さる?」
「何か先刻から怒ってるな」
「別に。怒る理由なんてないと思うけど」
「僕もそう思うが、君がそういう話し方をする時は怒っている時だ」
最後のジャガイモの皮を手から払い落として、不思議そうにこちらを見下ろしている彼に向き直る。
「お願いだから、大人しく居間で座ってて頂けるかしら」
これ以上刺激しない方が賢明だと判断したのか、彼はちょっと戯けたように眉を上げると一度テーブルに置いた自分のマグ・カップをつまみ上げ、黙って居間に移動した。こんな風に彼に当たるのは理不尽だ。それは分かっていても、相手が全く悪びれないほど反比例して抑えられなくなる自分の嫉妬心が疎ましくて、それを何とか抑えつけようとするとついきつい物言いになって、何か言うほど自己嫌悪が深まる悪循環に陥ってしまう。どこにぶつけていいのか分からないフラストレーションを ― 居間のソファからの彼の視線を感じつつ ― とりあえずジャガイモを思い切り潰すことに向けた。一通り潰し終えてバターとミルクで伸ばしたところで、彼がわたしの名前を呼んだ。
「なあに?今忙しいの」
どうしてこういう言い方になってしまうのだろう。彼の方を見さえせずに ― こんな受け答えをされていい気分のはずがないのは分かっているのに。自分はなぜいつまでもこんな小さなことにこだわって、せっかくの彼との時間を無駄にしているのだろう。腹を立てているのは彼に対してではなくて、心の狭い自分自身に対してなのかも知れない。いつまで経っても大人になれない自分が腹立たしいのに、そのいらいらを『こちらの気持ちを察してくれない』という身勝手な理由で彼に向けてしまっているのだ。彼だって魔法使いでも超能力者でもないのだから、はっきり言葉で伝えずに分かってくれ、と言われても無理な話ではないか。思わず唇を噛みしめた。
また、彼がわたしの名を呼ぶ。さっきと同じ高さ、同じ抑揚。普段呼ぶ時と同じ優しい発音だけれど、彼の声は抑えていてもよく通る。どきりとして思わず振り返ると、彼は微笑んでこちらに片手を差し伸べた。
「おいで」
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