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scene 21 : the look of love (uno)



空気が動く。ひやりと澄んだ大気がかすかに、ゆるやかに波立つ。彼がもう起きているのだ。寝過ごしてしまったろうか ― 今日は何曜日だった?でも何か、いつもと少し様子が違うような気がする、とぼんやりと考える。

彼がそうっと、こちらに身をかがめる気配がした。額に、ふわりと唇の感触。耳もとで囁くように名前を呼ばれる。柔らかで暖かな眠りにもう少しだけ身体を沈めていたい欲求と、瞼を開ければ彼の灰色の瞳がすぐそこにあるはず、という期待の間で少しだけ迷うこの瞬間が、秘かに好きなのだった。結局、期待の方が勝って目を開けると、彼がにこりとする。光の加減によって緑や青の影がさすその眼は、明かりの乏しいところでさえ夢や記憶の中のそれよりもいつも実際の方が深く、優しく、繊細だと思う。部屋の内装に馴染みがなくて一瞬戸惑ったけれど、昨日から休暇で海辺に来ているのだった、と思い出した。

「どうしたの」

半分寝ぼけた声でそう尋ねたのは、まだ外は薄暗いようだったからだ。非常識に早いというほどではなくても、休日に好んで起き出したい時間でもない。彼は直接質問には答えず、わたしの部屋着を差し出した。心地よい寝床を諦めるのは少しだけ惜しかったけれど、どこか後ろ手に宝物を隠している子供を思わせる彼の様子に、きっと何か見せたいものがあるのだろう、と思ったので素直にそれを受け取り、少しきつめに羽織る。

「おいで」

ベッドから降り、促されるまま窓際に行くと、彼は閉まっていたカーテンをすいと引いた。

思わず、薄闇に慣れた眼を瞬く。すでに少し開いてある窓の外の、芝生が敷かれているらしいホテルの敷地の向こうには静かな海、そのさらに向こうにはくすんだ蒼い陰影を描く対岸の陸地が横たわっていて、その稜線の一点に今開いたばかりの薔薇の花びらのような朝日が顔を覗かせていた。鮮やかな色に眼を奪われ、息を呑む。細くたなびくような雲がわずかに見える澄みわたった空の、天頂に近い方はまだ紫から暗い紺色で、星さえ輝いていたけれど、昇ろうとしている太陽の周囲からは少しずつその明るい色が広がり始めていた。窓を一杯に押し開け、出窓の手すりに飛びつくようにして身を乗り出すと、冷たい外気から守るように彼が背中越しに体を重ね、肩を包んでくれる。夜のうちに雨が降ったらしく、空気は土と緑の匂いを含んで清々しかった。息を殺すようにして見守るうちに、少しずつ少しずつ昇る朝日は淡い色になるほど輝きを増して、周囲の空も薔薇色から明るい黄色の範囲を広げて天頂の紺を照らしてゆく。ぴんと張り詰めていた空気が徐々に和らぐようだ。それでも、その静かで厳かな風景はわずかな動揺にもたちまち乱されてしまいそうで、自分の心臓の鼓動さえ気になる。太陽の光をきらきらと反射する波の打ち寄せるかすかな音と、遠くの鳥のさえずりの他は静まり返った朝の風景の中で、わたしたちはしばらくの間魅入られたように明けてゆく空を見つめていた。そっと溜息をつくと、彼が肩ごしにこちらを覗き込んだ。見上げたわたしに黙って微笑んだその頬に、少し背伸びして『ありがとう』と『おはよう』兼用のキスをする。

昨日は車で途中あちこち立寄りながら来て、ここに着いたのは陽が落ちてからだったので、この部屋の窓が東を向いていることも、こんなにきれいに海が見渡せることも気づかなかった。多分彼は、最初から知っていてこの部屋を予約してくれたのだと思う。しばらく忙しかった時期が終わったから何日か続けて休暇を取れる、と彼が言って、わたし自身は時々自主的に聴講している講議や自分の論文の下調べ以外はそうしょっちゅう大学に行く必要もないため、たまにはこんな時期に旅行もいいかも知れない、という話になった。ここは大きな街からは少し離れていても保養地としてはいい立地だし、ホテルの建物自体が歴史的にも価値のある立派なものなので、本当なら宿泊料もばかにならないと思う。本格的シーズンの時期を外れていることと、観光関係の仕事をしている彼の学生時代の友人がツアー料金のような形で割引になる手配をしてくれたおかげで、ほとんど町の民宿のような価格で泊まることができたのだった。横に広い部屋は入ってすぐ横手にゆったりした浴室、奥にベッドがあって、続き部屋には一般家庭の居間のようにしつらえられたソファや椅子、低いテーブルが配置してあって、壁には水彩画が飾られている。落ち着いた色合いに使い込まれた木製の家具は、手にしっとりとなじんで使い心地がよさそうだった。

けれど、たとえ部屋がそれほど立派なものではなかったとしても、穏やかに澄んだ空気の中で彼の腕に頭をもたれさせ、くすんでいた風景に色を付けながら昇る朝日を眺めるのは、それだけでとてもぜいたくな気分だった。

「こんな空を見ると、『ばら色の指をした暁の女神』っていう句を思い出すわ。ポープの詩だった?」
「ホメロスかな。『今や薔薇色の指した朝が目覚め、その聖なる光を天空に差し掛け』」
「そう、それだわ。『暁の女神』じゃなかった?」
「そう言う時もある。擬人化された『朝』や『暁』の枕詞が『薔薇色の指』という事になるかな」
「『灰色の瞳のアテナ』と同じね。どうしてわたし、ポープだと思ってたのかしら」
「ポープはホメロスを英訳しているし彼自身の詩にも神話的な要素が多いから、どこかで混同したのかも知れないな」

そう言いながら彼はふいとわたしの手を取って、爪先に軽く唇をつけた。


文学は本来こちらの専門分野だけれど、彼の方がずっと知識が広い上に記憶も正確なので、今ではちょっとしたことは自分で調べるより彼に聞く悪い癖がついてしまった。それでも、一つ聞くと関連情報を色々教えてもらえるのが辞典を引くのと少し似ているし、むしろただ資料を読むより彼の言葉で教えてもらった方が記憶に残る ― ような気がする、と自分に言い聞かせているのだった。すっかり眼も覚めてしまったので、わたし達はそのままゆっくり身支度を整えた。思いがけず綺麗な夜明けを見たこともあって、子供の頃に普段より早起きすると何かとても素敵な一日が待ち受けているようでわくわくした、あんな気分になっていた。ラジオの天気予報で今日は少し風が出ると言っていたので、持ってきた薄い肩かけを出してハンガーにかけ、浴室の前にある大きな衣装棚の横の帽子掛けに下げた。各部屋に帽子掛けまで備えてあるホテルもあまりないと思うが、ここのものは特に古そうな木製の、大きな屋敷の玄関ホールにでも置いてありそうな立派なものだった。隣には衣装棚とは独立した姿見も置いてある。

「成る程、そういう使い方もあるか」彼が帽子掛けを見て言った。「避暑地だし男性よりも日除けのための女性用の帽子を持ってくる客がいるのかとも考えたが、今時帽子掛けを使う機会もそう無さそうだと思っていた」
「ここに出しておけば、出かけるときに忘れないかと思って。隣に姿見があるから、通る時自然に振り返るでしょ?でも、ここにハンガーを掛けてしまうと空いている掛け釘に帽子を掛けにくくなるから、あなたが帽子を持ってきてなくてよかったわ」
「そもそも帽子など元から持っていないが」
「買ったら?結構似合うと思うわ。シルク・ハットとは言わないけど ― そうだ、麦わら帽はどう?ほら、ボート遊びをする人がかぶるようなてっぺんが平たくて、ぐるっとリボンが巻いてあるの。きっと似合うわ」
「どこで使うんだ」
「もちろん、ここでよ。ボートに乗れるところは近くにたくさんありそうだもの。だめ?」

『だめ』とは言わないまでもかなり複雑な彼の表情を見て、仕方なく帽子の話はやめにした。今日の予定は特に決めてはいなかったが、天気は安定しそうだったし、車で近くを少し回るか緑が多いホテルの敷地内を歩いてみようか、などと話しながら、朝食を取りに階下に下りた。回廊からもガラス張りの中が見えるダイニング・ルームは、あまり混んでいなかった。元々それほど部屋数も多くないこのホテルは夏は予約で一杯になりそうだけれど、この季節はさすがにゆっくり休暇を過ごしに来る人もあまりないのだろう。そのせいか、数少ない宿泊客同士が何となく打ち解けた雰囲気になる。廊下の反対側から歩いてきた老夫婦も、それまでの互いの会話の続きのようにこちらに笑顔を向け、親しげに朝のあいさつをした。こちらもそれを返して、彼らに続いて食堂に入る。ちょうど入れ違いに、夫婦らしい男女が食事を終えて出て来るところだった。この二人には昨日到着したときにも会っていた。あちらもそれに気づいたらしく、すれ違うときにお互いあいさつを交わす。仲の良さそうなひとたちで、最初に見た時から好感が持てた。男性の方はざっくり編んだ麻のセーターに、パナマ帽というのだろうか、少し古風でいて粋な感じのする白い夏用の帽子を手にしている。淡い色の肌触りの良さそうなドレスを着た女性は、首に薄いシフォンの鮮やかな青のグラデーションのスカーフを巻いていた。背中に長く垂らしたそれがとても似合っていたので、夫君と腕を組んだ後ろ姿を思わず眼で追った。食堂の入口でちょうど入ってきた二人の知り合いらしい男性が話しかけ、三人は一緒に出て行った。帽子掛けが必要な男性もちゃんと居るようだ、と彼が小声で言う。

「奥さんのスカーフ、よく似合ってとても綺麗ね」

そう言うと、彼が少し首を傾げてこちらを見た。

「そう言えば、君は余り青いものは身に付けないな」
「色は好きなんだけど、わたしが青を使うと顔色が悪く見えるらしいの。肌に赤味が足りないのね。だからあんな風に青を素敵に身につけられる人ってうらやましいわ」
「彼女は彼女で魅力的だが、君とは違う人間だからね。君には他にももっと似合う色がある」

にこりとしてそう言った彼に何と返していいのかよく分からなかったので、照れ隠しにあまり意味もなく持っていたバッグを探った。それで、食後に飲む薬をすっかり入れ忘れていたことに気がついた。元々この季節になると特定の植物に反応して、それほどひどくはないけれどアレルギーの症状が出ることがあるので、緑の多い場所に行くならとあらかじめかかりつけのお医者に飲み薬を処方してもらっていたのだった。

「僕が取って来ようか」
「鞄の中に入れたままだから、ちょっと分かり辛いと思うわ」薬の小箱をランジェリー・ケースに入れておいたのを思い出しながら答える。「行って取ってくるわね。すぐに戻るから先に食べてて」

鍵を持って、急いで食堂を出る。わたし達の部屋は階段を上がって、廊下を右に折れたところから三つ目の扉だった。鍵を差し入れようとした時、今通り過ぎたばかりの左隣の部屋から人の声が聞こえたような気がして、思わず振り返った。通った時少し開いているのに気づいた扉から、廊下に光が漏れている。何となく気になった。

開いているのに気づいた時は、その部屋の宿泊客が風を通すために開けてでもいるのだろう、と思うともなく思った程度だった。けれど、何かが変だった。何が?それをはっきり確かめたい、という漠然とした好奇心に動かされて、引き寄せられるように扉に近づく。隙間からそっと覗くと、人がいるようには思えなかった。遠慮がちに扉を叩いて少し待ってみたが、何も返事はなかった。中に向かって声をかけても、やはり応答はない。誰もいないのだろうか。でも、さっき声がしたのは確かにこの部屋からだった。短い叫び声のような ― それともあれは、人の声ではなく何か別の音だったろうか。だとしても、部屋を空けているとすれば入口を開け放したままにするのは無用心すぎる。こういう保養地のホテルばかり狙って入り込む泥棒だって大勢いるのだし ― 頭の中で色々言い訳を考えながら、そろそろと扉を押し開けた。

視界に入ってきた部屋の中はわたし達の使っている部屋と同じ間取りで、家具も大体同じか似たようなデザインだった。奥にあるベッドのカヴァーも、その向こうの窓のカーテンも同じ。ベッドの上には見覚えのある帽子と、部屋の鍵が無造作に放り出してあった。カーテンはほとんど窓一杯に引いてあって、朝の陽射しが部屋の中に射し込んでいる。大きな窓の上の空気窓が少しだけ開いていた。ついさっきわたしたちが出た隣の部屋と何も変わらないようで、何かが大きく違っていた。窓の外には青空が見えていて、暖かくなり始めた陽射しが部屋を満たしているのに、部屋の中は不自然なほど静かで寒々としているようだった。自分達の部屋ではそんな風には感じなかった。一体何なのだろう、この奇妙な静けさ、空間を満たす冷たい緊張感のようなもの。ぼんやりとそんなことを考えながら、意識するともなく窓の方へと進む。部屋の入口からは死角になっていたベッドの向こう側、床の上に何かが見えた。金属の ― ああそう、燭台だ。わたし達の部屋にも同じものがあった。テーブルの上に、ルーム・サーヴィスのメニューを立てかけて置いてあった。その燭台の側に、別の何かが落ちている。違う。落ちているのではなくて ― 駄目。これ以上進んではだめ。戻って、誰か人を呼んで来なければ。頭の中ではそう思うのに、体が言うことを聞かなかった。燭台の側に見えたのは男性の靴で、それは灰色のフランネルのパンツに繋がっていて、その先は ― 白っぽい、見覚えのあるセーターを着た男性の体に続いていた。ついさっき、食堂で見たばかりの ― けれど不自然に曲げられた体の向こうに見える横顔はさっきとはまるで違って、ぞっとするほど青白い ― そして、その耳の上あたりの髪が何かでべっとりと濡れていた。

― 血。そう認識するまでに、ずいぶん時間がかかったように感じた。人を呼ばなければ。彼を ― そう思った時、眼の前の空間がゆらりと歪んだような気がした。目まいがする。何か捕まるものを求めて、後ろ手に手探りながら後じさって ―

倒れる、と思った瞬間、両肩を後ろからふわりと抱きとめられた。

「大丈夫か」

反射的に見上げると、彼の気づかわしげな視線に出会った。ベッドの向こう側に視線を走らせた彼は素早くわたしの前に立ち、肩を抱いて入口の方へ促した。

「おいで、出た方がいい」
「でも」

口ではそう言いながら、視界を遮られることで捕われてしまっていた『それ』の呪縛から断ち切られたようで、そうしてくれた彼に漠然と感謝した。彼はわたしを一度部屋の戸口まで連れて出ると、廊下の壁沿いに置かれている長椅子に座らせ、すぐに戻ると言って再び中に入ったが、本当に一分も経たないうちに戻ってきた(少なくともそう感じた)。わたしが手渡したハンカチーフの上から扉の取っ手を握って注意深く閉める彼の様子をぼんやり見守りながら、部屋の扉は閉めると自動的に鍵がかかるのだった、と思い出した。

「ね、あのひと」変にかすれた声は、自分のものではないようだった。
「気絶しているだけだ」彼は安心させるように言った。
「本当に?」

彼は頷いて、

「脈も多少弱い程度だが、頭を怪我しているからこの場は下手に動かさない方がいいだろう。取り敢えず今フロント・デスクに報せたから、直ぐに合鍵を持って来る筈だ」

階下まで歩けるかと聞かれて、わたしは頷いた。男性の命に別状ないらしいと分かって、さっきよりも大分足元がしっかりしたような気がしたが、それでも彼に支えられるようにして階段を降りた。降り切ったところで出会った二人の従業員は、彼と小声で手短に言葉を交わした後階上へと急いだ。二人を見送って、彼は食堂ではなくフロント・デスクへとわたしを導いた。

「直ぐに救急車と警察が来るそうだ」
「警察?」

ああ、そうか。ただ人が倒れていただけではないのだから、警察も呼ばなければならないのだ、と今更ながら気づいた。落ちていた燭台と、 ― 血と。あの状況からすれば、『誰かが』あのひとを後ろから燭台で殴った、と考えるのが普通だろう。そうだ、そう言えば彼の奥さんは?

彼がわたしをロビーの椅子に座らせて5分もしないうちに、救急車がホテルの外に停まった。慌ただしく入ってきた救急隊員をホテルの従業員が階上へ誘導する。近くの廊下や食堂から出てきた宿泊客が数組、何事かと遠巻きにして様子を窺っていた。こちらに近づいてきた五十絡みの男性がこのホテルの支配人だと名乗り、通報に関して感謝したりわたしを気遣ったりしてくれているうちに、さっきの救急隊員が怪我人を担荷に乗せて降りてきた。すぐ後ろに、ホテルの従業員に支えられた女性がついてくる。怪我をした男性の奥さん ― 食堂で見た、青いスカーフの似合う女性だ。ついさっきはあんなに生き生きとしていた顔が、今はスカーフの色を映したように青ざめていた。支配人は外の救急隊員と言葉を交わすため出て行ったが、間もなく救急車が病院に向けて出発すると戻ってきて、わたしたちを支配人室に案内してくれた。

ほどなく警察が到着して、先に上の階の部屋を見る間、わたしたちはしばらくの間そこで待たされた。支配人は警察や他の泊まり客の応対などに追われているのか途中で席を外したけれど、従業員の女性がお茶にビスケットを添えて持ってきてくれた。引き止められなかったとしても、さすがにもう一度食堂に戻って朝食を食べる気は失せていたが、熱いお茶はありがたかった。やがて警察の人達が下に降りてきたらしく、地元警察の警部と自己紹介した四十代くらいの男性と、若い巡査が部屋に入ってきた。質問は丁寧にゆっくり尋ねてくれたし、隣に彼がいてくれたのでそれほど緊張せずに自分の見たことを話せたけれども、隣の部屋の異変に気づくきっかけになった声についてはあまり確信を持って答えられなかった。

「男性の声か、それとも女性の声だったか分かりますか」

そう聞かれてもう一度よく思い出してみたが、やはり自信がなかったので首を振った。

「分かりません。少しくぐもったような声でしたし ... 人の声だったかどうかも、はっきり分かりません。その時はそうだと思いましたけど、何かがきしむような音だった気もしますし。すみません」

警察の人にしては穏やかそうな(普段警官と接する機会などないので、ドラマや小説の『警官』の印象と比べれば、だが)警部は気にしなくていいと慰めてくれて、男性を見知っていたのかどうか尋ねた。わたしはゆうべ到着した時と、倒れているのを見つける少し前にも食堂で会ってあいさつはしたけれど、それ以外は話をしたこともなかったし、隣の部屋に宿泊しているのも知らなかったと言い、隣の彼も同じように答えた。

「食堂で挨拶された時は、夫人と一緒だったんですね」
「ええ。あの」
「はい?」
「さっき奥さんを見かけた時、とてもショックを受けてらしたようでしたけど、大丈夫でしょうか。どこかに出ていらしたんですか?」

「ええ、ちょうどホテルの従業員が部屋の鍵を開けようとした時に裏庭から戻られたようで ― 廊下の奥のもう一つの階段は、庭に降りられますからね。無理もありませんが大層驚かれたようです。まあご主人に付き添って病院に行かれましたから、万一彼女自身が具合が悪くなっても大丈夫とは思いますが。この後私も病院の方に行って、彼女にも詳しく話を聞かなくちゃなりません。他に何か、気づかれたことはありませんでしたか?ちょっとしたことでも、妙だったとか変わっていたとか」

「いえ、特には気づきませんでした」そう答えてからふと思い出して、「もともとは部屋の入口近くにある姿見と、それから帽子掛けが窓際のほう、ベッドの足元から少し離れたあたりに移動してありましたけど」
「ああ、確かにありました。元の位置は違うんですか。窓からの自然の光で見られるように移動したんでしょうかね。他には? ― どうかされましたか」
「あ、いえ」自分が少しぼんやりしていたのに気づいて、あわてて答える。
「他に何かありましたか」

少し考えて、やはり特に変わったことは思い出せないと答えた。差支えなければご主人が意識を取戻したら報せて欲しい、と彼が言うと、警部はわたし達も行きがかり上心配だろうからと快く承諾してくれた。結局、解放された頃には朝もだいぶ遅くなっていた。また後で何か聞くことがあるかも知れない、と言われた程度で特に行動を制限されたりはしなかったけれども、これから遠出するような気にもなれなかったので、地元の町を少し歩いた程度で基本的にホテルの近くで過ごした。しばらくは、彼も気遣ってくれたのか今朝の一件にはあえてあまり触れなかったが、被害者の命に関わるような事態ではなかったことと、普段から推理小説をよく読むこともあって、わたし自身この頃には非日常的な場面に遭遇したショックよりも好奇心の方が勝ってきていた。

「あのご主人、もう気がついたかしら」町中のカフェで、遅い昼食のような早いお茶のような軽食を取りながら切り出してみた。
「そうだな、今頃はホテルの方に連絡が来ているかも知れない」彼が言う。
「ね、どう思う?今朝のこと」

彼はグラスを持つ手を一瞬止めて、少しおどけたように眉を上げて見せた。

「『誰の仕業か』か。君はどう思う」

逆に尋ねられ、ちょっと言葉に詰まって仕方なく肩をすくめた。

「あなたならもう見当をつけていそうな気がして、聞いたんだけど」

けれど彼も、わたしを真似するかのように軽く肩をすくめて、

「僕も君同様、被害者の知り合いでもないし話さえした事もない。わざわざ自分で自分の頭を気絶するほど殴るというのは普通余り考えられないが、普段からそういう奇矯な事をやりかねない人物だったかも知れない。可能性は幾らでもある。ただ先刻下で君を待っていた時にフロント・デスクで聞いたんだが、同じ時間帯に庭師が、裏庭を通って敷地内を出た泊まり客ではない男性を見かけているらしい。警察も既に詳しい話を聞き出しているだろう」

「『不審な人物』ね。ホテルの人達はどう思っているのかしら」
「滞在者の財布を狙って入り込んだ空巣か何かと、運悪く鉢合わせして居直られたのかも知れないと言っていた。つまり外部の者の突発的な犯行という見解だ」
「あの部屋に入る時、わたしもそれを考えたわ。初めは誰もいないと思ったから、入口を開け放して留守にするなんて不用心だ、誰が通り掛かるか分からないんだから、って。こういう保養地ではよく聞くもの、利用客のふりをして何人かで入り込んで、どさくさに紛れてお財布や貴重品を盗んで行く窃盗団とか」

「実際、先の忙繁期に少し離れた地域でそういう窃盗団が一頻り界隈を騒がせたらしいから、それもあってホテル側は同じ集団がこちらに手を広げたかと懸念しているようだ。救急車と同時に警察を呼んだ対応の早さはその所為もあるだろう。ただ、わざわざ客の少ない閑散期に動けばそういう手合いは逆に目立つ危険性もあるし、常習犯ならその辺りは心得ていそうなものだ。それに」
「それに?」
「無用心に戸を開けたままにした部屋に曲者が入り、そこに彼が戻ってきて鉢合わせして殴られたのだとすると、傷の位置と彼が倒れていた場所が不自然だな」

確かに、泥棒と対峙したのなら正面から殴られるだろうし、危険を感じて部屋から逃げようとしたところを後ろから殴られたのなら、奥の窓際ではなくて入口近くに倒れるだろう。でも、例えば彼が戻って来るのに気づいてとっさにどこかに隠れた泥棒が、それに気づかず入ってきた彼が背を向けた隙に殴った、というのは?彼は頷いた。

「無いとは言えないな。だが掏摸や空き巣の常習犯は余程追い詰められない限り積極的な暴力行為は避けるだろう。却って騒ぎが大きくなって人を呼ぶ可能性が高いし、やり慣れない事をすると証拠を残し易い。寧ろ部屋の主が完全に後ろを向いたら、その隙に何とか上手く部屋を抜け出そうとするかも知れない。無論これも泥棒の立場に立ってみないと実際のところは分からないが」
「泥棒じゃないとしたら?」

彼はまた肩をすくめた。

「それもまた可能性は多いな」
「ご主人は何をしているひとなのかしら」
「輸入宝飾品や衣料を扱う仕事をしているらしい」彼は即座に答えた。「ここのホテルにも仕事と休暇両方でよく宿泊しているようだ。 ... 先に言ったフロント・デスクの係がたまたまあの部屋に最初に駆け付けた従業員の一人だったので、多少打ち解けてね」

わたしの表情に気づいて補足しながら、彼はちょっといたずらっぽくにやりとした。

「それで、二人とも何となくあか抜けた感じだったのかしら」自分の知らないうちにこれだけ情報を集めていたところからして、『たまたま』という表現は控え目に過ぎるのではないかと疑いながら、新しい情報を記憶にある夫妻の姿に重ねてみる。きっと、経済的にも精神的にもそれなりに余裕のある生活をしているひとたちなのだろう。

「ホテルの馴染み客なら経営者や従業員ともそれなりに親しくなるだろうし、地元にも個人的な知人が出来るかも知れない。仕事も兼ねて滞在していたとすれば、取引先や仕事の関係者で彼がここに宿泊している事を把握している者も居ただろう。その内の誰かと何か揉め事が無かったとも限らない。この地域でもある程度名前が知られているようだし ― 」

「それもホテルの人に聞いたの?」
「いや、最初から警部が来たからね。通報の段階で既に『殺人』ではなく『傷害』事件なのは分かっていた筈だし、通常なら少なくとも最初は制服警官が駆け付けるだろう。上の階級の警官が来たという事は、恐らく被害者が地元でも(ホテル側が通報する際に彼の名前を出して通じる程度に)名を知られた人物で、捜査に慎重を要する可能性もあると判断されたのではないかと思う」

彼の話し方で説明されるせいかも知れないけれど、無理のない推論に聞こえる。

「警部さんは、どう考えているのかしら」
「今のところはかなり広い範囲を対象にしているだろう。最も被害者に近い人物という可能性も含めてね」

「奥さん、ていうことね」わたしは溜息をついた。ある程度予測していたことではあるけれど、あまり積極的に考えたい選択肢ではない。
「最初から相当有力な容疑者が存在するのでもない限り、捜査の手順としてもまずは二人の夫婦仲から調べるだろうな」
「でも、食堂で見かけた時はとても仲のいいご夫婦に見えたわ。奥さんはちょっとかわいらしい感じだけど、落ち着いた専業主婦っていう印象で、たとえ喧嘩したとしてもご主人を物で殴るようなひとには思えないけど。もちろん、他人の家庭のことなんて外から見て分かるものじゃないかも知れないけど」
そう付け加えはしたものの、やはりあの二人にそういう極端な諍いはしっくりこない気がした。

「警部さんは、病院に行って奥さんにも話を聞くって言ってたわね」
「もう一通りは済ませているだろう。その内に彼が眼を醒ませば、一気に解決する事も考えられるしね」

『解決』という単語を彼がうっかり使ったのではないことは、わたしにも分かった。少なくとも泥棒や外部の見知らぬ人間が犯人だったなら、被害者が目を覚まして証言しても『探して捕まえる』までは解決したことにはならない。彼はどうやら、見知らぬ泥棒よりも被害者と親しい人物が犯人だと考えているようだった。

「あなたが言ったように、もうホテルに連絡が入っているかも知れないわね」


けれど、ホテルに戻っても警察からの知らせは届いてはいなかった。その代わりに、参考人として警察に呼ばれた男性がいるらしい、という情報をフロント・デスクの人が教えてくれた(彼が雑談に紛らせて聞き出してくれた)。早い時間に彼が仕入れてきた情報の人物と同じ人らしい。わたしたちは寝室の奥の居間になっているスペースで、町を歩き回った足をしばらく休めながら新しい情報を検討した。

「その参考人が犯人なのかしら」
「先刻の話では誰なのかがはっきりしなかったから何とも言えないが、わざわざ警察に呼び出されたのならある程度重要視されていると考えていいかも知れないな。食堂で夫妻に会った時、出口で知り合いらしい男性と話していただろう」
「ええ」ほとんど反射的にそう答えてから、彼が何を言おうとしているのか気がついた。「あのひとなのかしら」

「その可能性はある。あの朝の短時間にそう次々と知り合いに会う事もないだろう。あの男性が傷害の犯人だと仮定すれば、彼も一度夫妻の部屋まで行き、奥方が庭に出るため部屋を出た後に何かの切っ掛けで凶行に及び、君が階段を上がって来る直前に逃げた事になるかな」
「ご主人はまだ、意識が戻らないのかしら」
「僕が見た限りでは頭部の傷はそう深刻なものではないようだったし、気絶と言うよりは寧ろ眠っているのに近いような状態だったが、頭を打った場合決して油断はできないからね」彼は考え深げに言った。

「早く気がつくといいけど ... でも何にしても、わたしが聞いたのはやっぱり人の声じゃなかったみたいね」
「そうとも限らない。倒れた後意識が朦朧とした彼が発した声かも知れないし ― 或いは、君が言ったように何かの物音かも知れない。扉が軋む音とかね」

思わず、部屋を入ってすぐ横の浴室の方向に眼が行った。町中で話していた時の『犯人が部屋のどこかに隠れていた』という仮定を思い出したのだった。けれど彼は首を振った。

「いや、浴室は部屋を出る前に覗いてみたが誰も居なかった」

その言葉で、わたしは何となくほっとした。自分と同じ空間に、たった今人を殴り倒したばかりの犯人がまだ潜んでいた、という考えはさすがに背筋が寒くなる。

「その参考人の男性が関係あるなら、その時はもう部屋にいなかったはずだものね。でもあなたらしいわ、わたしは誰かいないか確認するなんて思いつきもしなかったのに」
「僕は先に君の様子を見て大体どういう状況か予測出来たから、気分的に余裕があっただけだ。何の心構えもなくあんな光景に遭遇した君が動揺するのはごく普通の事だ」

仮に最初にあの場に行ったのがわたしではなく彼だったとしても、やっぱり彼は同じように平静だったと思う。そう言うと彼は苦笑して、

「それは買い被り過ぎだな。現に僕もあの時多少慌てていたし、今思えば注意力も散漫になっていた」

思い返してみてもそんな様子があったとは思えなかったけれど、彼が何か考え込みながらじっとこちらを見つめているので、何となく言葉を返しそびれてしまった。でも今朝のことを思い返しているうちに、ふと慌ただしかった時には思いつかなかった別の疑問が浮かんだ。なぜ彼はあの場に、あれほどタイミングよく来てくれたのだろう。さっき警部に話した時は、わたしのことが心配になったので後を追って来たと言っていたけれど、そんなに長い時間あの部屋に留まっていただろうか。

「本気で心配するほど長時間ではないが」彼は少し考えるような顔をして、「君の事だから、ああいう時は僕を待たせないようにと極力急いで戻って来ようとするだろう。実際飛ぶようにして食堂を出て行ったし」
「 ... そんなにすごい勢いだったかしら」
「鞄の荷物にしても未だそう色々出したり方々に移動させてもいなかったから、直ぐに目的の薬を見つけて戻って来た筈だ。その割には少し時間が掛かったようだったので念のために上がってみると、隣の部屋の扉が開いていて中に君が居たという訳だ」

つまりわたしは彼の過保護が幸いして、よろけて転んで頭を打たずに済んだのらしい。それに彼の話からすると、わたしは自分で思っていたよりも長い時間あの部屋にいたようだった。まるでスロー・モーションの画像のように思い出されるあの時の状況は、長く感じても実際には部屋の扉を開けた時からよろけて彼に受け止めてもらうまでせいぜい2、3分もなかったのだろうと思っていた。

「強い衝撃を受けるような出来事に遭遇した場合、確かに時間的感覚が曖昧になる事はあるだろうが、逆にそういう時程感覚が鋭敏になる事もある。君はパニック状態に陥り易い性格でもないから、君自身が思っているより当時の状況を正確に捉えていたのかも知れないな」

彼はまた、わたしの顔から何かを読み取ろうとするかのようにじっとこちらを見て言った。

21.10.2005

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