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scene 14 : find me

プラットフォームに滑り込んできた列車に、思わずほうと安堵の溜息をつく。

大学の最寄り駅に着いてから20分余り。列車は架線の点検か何かでもう15分近く遅れていて、何度見上げても定刻の発車時間しか出さない表示板にそろそろ苛々してきたところだった。普段は帰宅時に多少列車が遅れても呑気に構えている方だけれど、今日は待ち合わせがあるので遅れてもらっては困るのだ。扉が開くのももどかしく、同じくじりじりしながら待っていた人達に続いて乗り込む。

遅れたせいか、いつものこの時間帯に比べても乗客が多い。地元の駅までは20分足らずなので座れなくても苦にはならないが、今日は車内が全体に込み合っているので少し息苦しい。発車して駅構内を出た後も、列車はほとんど加速しない。次の駅までの間がいやに長く感じられる。降りたと同じくらいの数の乗客が入れ替わりに乗って来るので、混み具合はほとんど変わらない。長い停車時間の後ようやく扉が閉まって発車、それでも速度は上がらない。問題があったのはこの辺りなのだろうか。しばらく徐行運転が続いたが、次の駅との中間あたりでさらに速度が落ち、とうとう停止してしまった。車内のあちこちから溜息が聞こえる。状況の説明もないまま数分が過ぎてゆく。

時計を見ると、あと10分ほどで約束の時間だった。次の停車駅を含めてあと二駅。駅を急いで出ても待ち合わせの店までさらに10分はかかるから、時間に間に合う可能性はとうに消えてしまっている。一つ前の列車は、少なくとも大学駅を出るまでは普段通り動いていたらしい。せっかく院生研究室を早く出たのに、なぜわざわざ遅らせてしまったのだろう。まだ時間に余裕があると思って教授の部屋に寄ったりしなければ良かった。資料の本なんて来週借りても構わなかったのに。そんなことをあれこれ考えているうちに、列車は出力を下げ ― エンジンを完全に切っているわけではないと思うが、正確に何と言うのかよく分からない ― 車内が妙に静かになる。周囲の乗客もほとんどが黙ってはいても、首を振ったり天を仰いだり窮屈そうに身動きしたり、どこに向けていいか分からない無言の不満をそれぞれに持て余している。

停車して10分近く経ってからようやく車内アナウンスが入り、線路の点検にもう少し時間がかかる旨を車掌の声が告げる。架線、ではなくて線路そのものの問題だったのだろうか。いよいよ我慢できなくなったのか乗客がさわさわと不満の声を上げ始める、とそれから数秒もしないうちに車内のエンジン音が戻ったかと思うと、がくんと大きく一揺れして列車が走り出す。ちょっと拍子抜けしたような雰囲気の中で、誰かが「線路より情報系統を点検した方がいいな」とわざと周囲に聞こえる声で言ったので皆笑い出し、それで何となく張り詰めていた車内の空気が和やかになった。見知らぬ同士の人達も苦笑して顔を見合わせながら雑談を始めたりして、こういうときたまたま同じ空間に居合わせた他人同士がある種の親近感のようなものを感じるようになるのは、もちろんあまり度々こういうことがあっても困るのだけど、それはそれで面白いなと思う。

その後も途中停車はなかったものの列車は徐行運転を続け、地元駅の到着は定刻より半時間以上遅れた。改札を抜け外に出て、立ち並ぶ店々の前を急ぎ足で通り過ぎて待ち合わせ場所に向かう。時間に遅れたからと言って怒る人ではないが、きっと心配しているだろう。辺りはすっかり日が暮れて、ひやりとした空気に街の灯が眩しい。約束の店は、繁華街を抜けて通りを一つ入ったところにある。内装も落着いて静かな雰囲気なのが気に入って、彼と知り合う前から時々利用している喫茶店だった。ようやく店の前に辿り着いて、思わずまた溜息をつく。25分強の遅刻。急いで入る、前にガラス戸に映った自分の髪が少し乱れていたので、指先で直す。遅刻しているのだからそんなことをしている場合ではないのだが、彼の前ではできるだけきれいにしていたい。一緒に暮らしていれば自分がどう見えるかなんて一々気にしなくなると言う友人もいるし、わたしにしても四六時中化粧や髪型を気にするわけではないとは言え、彼が見てきれいだと言ってくれるなら、自分なりにきれいに見える努力はしたいと思う。

 (9k) 扉を押し開けた途端、珈琲の香ばしい匂いと暖かな空気に迎えられる。珈琲もいいけれど、座ったらココアが飲みたいとぼんやり考えながら、細かく仕切ってあるため少し入り組んだ造りの店内を奥に入り、突き当たりの席に向かう。別にどの席にいるか決まっているわけではないが、何となく彼は奥の席を選ぶだろうと思う。視界に彼の姿が入ったのと、彼が読んでいた本を閉じてこちらに視線を向けたのがほとんど同時だった。ちょっとどきりとする。普段一緒に住んでいるのに、外で待ち合わせるのはいつもと何か違う気がするのが不思議だ。彼が本を置いて立ち上がり、椅子に座らせてくれる。

「遅れてごめんなさい。心配したでしょ」

少し切れた息を静めながら腰を下ろすやいなや、眼の前のテーブルに魔法のようなタイミングでカップが降り立った。たっぷりと注がれたココアが柔らかな匂いの湯気を立てている。去って行く店の人から彼に、呆気に取られたまま視線を移す。彼は尋ねるような表情で、

「それで良かったかな。別のものが良ければそれは僕が貰って注文し直せばいいが」
「ううん、何となくココアが飲みたかったんだけど」
「じゃあ、取り敢えずそれを飲んで」

まだ少し驚きつつ、言われるままにカップを口に運ぶ。この店のココアは濃いけれど、変に甘ったるくなくてふんわりしていて好きなのだった。自分で作る時もこんなふうに入れたいと思いつつ、なかなか上手く行かない。入れたてのココアは優しく体を暖めてくれるようでほっとする。人心地ついて架線だか線路だかの点検で列車が遅れた話をすると、彼は僅かに眉を上げて、まあ多少遅れても安全第一で運行してくれた方が有難い、と言う。

「車や何かで個人で移動しているなら、こういう場合気が焦ってスピードを出し過ぎるという危険もあるが、公共機関なら乗客が幾ら焦っても、乗物本体さえ慎重に動いてくれればまず危険はないだろうしね。自分以外にも同じ状況に置かれている人が周囲にいるというのも多少の慰めにはなるし」
「そうね。なかなか列車が動かないときは皆苛々してたけど、誰かがちょっと冗談を言ったら何となく車内の雰囲気が和やかになったの。ああいう時って、そういう機転が利く人に感謝するわ」
「そうだな」彼は微笑んで、「居合わせた人間の心理的ストレスが大きくなるほどある種の連帯感と言うか、共感の度合いが高まるんだろう。極端な例を挙げるなら同じ窮地を切り抜けた戦友のような心理かな」
世間話などしてしばらく過ごした後、店を出て繁華街を少し歩くことにする。今日は帰宅時間が同じ頃になりそうだったので久し振りに外で食事をすることにしたのだが、待ち合わせには遅れたといっても夕食の時間には少し早いし、二人ともまだ空腹と言うわけでもなかった。

「そうだわ、どうしてココアが飲みたいって分かったの?それもあんなタイミングで出てくるなんて」

歩き始めてからそう聞くと、彼はちょっと肩をすくめる。

「君は遅れたと思って急いで来るだろうし、何か思い掛けない事故で遅れたにしても気分的に落着くものの方がいいかと思ってね」

そろそろ来そうな気がしたので先に頼んでおいたが、丁度良かったな、と何でもなさそうに言う彼を見ながら、つくづく不思議なひとだと思う。遅れたことに焦って慌てて駆け込んで来るだろう、だから気持を静めるのにココアが良さそうだ、というのは推測できたとしても、なぜ「そろそろ来そう」などということが分かるのだろう。ココアだってお湯を入れるだけのインスタントものでもないのだし、作るのにかかる時間や他の注文との兼ね合いも考えれば、たとえ遅れず時間通りに現れるのを想定してそれに合わせたとしても、あそこまでぴったりとタイミングが合うのは難しいと思う。もちろん単なる偶然に過ぎないのかも知れないけれど、彼の場合そういう「偶然」がこれまでに一度や二度ではないから不思議なのだ。隣を歩きながらそんなことを考えていると、彼がこちらを覗き込むように少し首を傾げる。

「顔色が戻ってきたな」
「わたし、顔色が悪かった?」
「さっき店に入ってきた時は少し青白かった。列車が混んで空気が悪かったのかなと思ったが」

言われてみれば、列車を降りた時少し頭が重かったような気がする。とにかく早く待ち合わせ場所に行かなければと焦っていたのでほとんど自覚もしなかったのに、彼はちゃんと見ていてくれるのだなと感じる。普段でも今日はちょっと寒いかなと思っていると実は熱があったり、暑い日に軽い熱射病状態になったりしているとき、彼がいち早く気付いてくれる。そのくせ自分のことにはあまり構わず平気な顔で無理をするところがあるひとなので、逆にわたしも気をつけていなければならないのだが。歩いているうちにそろそろ珈琲の買い置きが切れそうなのを彼が思い出したので、いつもコーヒー豆を買っている店に寄ることにした。週末のせいか、狭い店内はいつになく混み合っている。もともと両隣の店の狭い隙間のようなところに建っている縦に細長い建物なのもあって、店内に6、7人も入れば大混雑状態で、当然一つしかないレジもすぐ列ができてしまうのだ。彼が行って買って来ると言うので、わたしは外で待つことにする。もともと珈琲を選ぶのはいつも彼に任せているのだった。

「じゃ、そこのデパートの前にいるわね」

通りの向いにあるデパートの、広くなっている玄関前で待つことにする。ウィンドウに飾られた服や日用品をひとしきり眺めてから向いの店に視線を戻したが、彼は出てこない。店内はまだ混み合っていて、彼がどこにいるのかも分からない。背が高いので普段なら人込みの中でも目立つのだが、店の入り口の頭上が低くなっている上、梁や柱周辺に色々下げたり置いたりしてあるのでかえって見えないのだ。ふと、奇妙な気分になる。ほんの数分前まではすぐ隣にいた彼の姿が見えないのが、何かとても不自然な気がした。このままずっと彼が来なかったら自分はどうしたらいいのだろう、と思う。急に心臓の鼓動が速まる。今にも彼が店から出て来るはずなのは分かっているのに、独り街中に取り残され置き去りにされたような気分。待ち合わせに遅れたわたしを待つ間、もしかして彼も一瞬こんな思いを味わったろうか。よく知っているはずの街が、急によそよそしい顔の見覚えのない場所に思える。こんな感覚は以前にも、どこかで覚えたことがあった。

そう、あれはある事情でしばらく彼と離れていたときだった。彼が何を考えているか分からなくて、そうしようと思えば自分から電話をかけることも、会いに行くことさえできたけれど、彼がそれを望んでいないような気がして(それは実際、ある意味当たっていたのだが)どうしてもできなかった。彼がいつの間にか手の届かない遠い人になってしまって、彼の傍に居られない自分は住み慣れた街にさえ拒まれているようで、どこに身を置けばいいのか分からなくて、「ここ」に ― それはどこなのかさえ分からないのだけど ― 居てはいけない、居られないような気がした。でも ―


目を凝らして見ていた向いの店から、二人連れが出てきた。その向こう、店の奥に彼のセーターの緑色がちらりと見える。心臓が跳ねる。考えるより先に体が動いて、ショウ・ウィンドウの脇の壁の窪みに飛び込む。ここは向こうの店側からは死角になっていて、すぐ近く ― わたしの横に並ぶあたりまで来ないと人がいるのは見えない。一瞬姿が見えたときに会計をしていたとすると、もう店を出て来る頃だ。姿が見えたことでほっとして奇妙な妄想は止まったけれど、今度は彼がわたしを見つけてくれるだろうかと少し落着かない。自分でもなぜこんな子供っぽいことをしているのだろうと思いつつ、身を潜めている壁の傍をデパートに入る人が通り過ぎる度にどきりとする。ウィンドウの照明から外れているせいか、わたしがここの壁に貼り付いているのは皆意外に気付かないようだった。気付いたら少し驚かれるかも知れない。もう彼は店を出たろうか。通りを横切ってきて、見渡してもわたしがいないので不思議に思っているのだろうか。デパートの中にいるかと思うかも知れないし、

タイル敷きの床を歩いて来る、規則正しい靴音。すぐ後ろでそれが止まる。

「待たせて済まない。レジが混んで手間取った」

振り返って隠れていた壁の窪みから出ると、珈琲の入った袋と本を抱えた彼がにこりとする。

「行こうか」

こちらもつられて笑顔になって、なぜ隠れているのが分かったのか尋ねる機会を逃してしまう。

「その本と珈琲、持ち辛そうよ。鞄に入れるわ」
大学の本や資料を入れた肩掛け鞄を示すと、彼はああそうかと言って手を伸ばす。

「荷物をそこに入れて、僕が持てばいい」
「でも本や紙類が入ってるから結構重いわ」
「だから僕が持つ。元々本しか持っていなかったんだし、気付かなくて済まなかった」

彼はさっさと鞄を取り上げる。元から通勤鞄のようなものを持たないし、一刻も早く目を通さなければならない資料でもない限り仕事場から何か持ち帰るということも滅多にしない彼は、研究所に出かけるときも帰るときも大抵は列車の中で読む本くらいしか持っていない。鞄を取られたわたしはそれさえ持っていないので、急に身軽になってしまう。

「あ、珈琲は持つわ」

本に続いて紙袋も鞄に入れようとした彼を制すると、ちょっと不思議そうな顔でこちらを見る。

「小さくすれば充分入るが。別に潰れるようなものでもないし」
「だって、何も持ってないのも手持ち無沙汰だし。それにこれはわたしが持っていたいの」
有無を言わせず袋を奪い取って歩き出すと、彼も後ろに続きながらくすりと笑った。

「持っていたいなら、別に構わないが」
「ね、どうしてすぐ分かったの?わたしが壁のところに隠れてるって」

彼は意外そうな顔をして、隠れていたのか、と言う。

「どこかに映ってたわけでもないでしょ?それともお店の中から見てた?」
「いや」
「でも、すぐ分かったの?」
「そうだな」

自分でも不思議そうな、複雑な表情でそう答えてから、彼は申し訳なさそうにごめん、と言う。

「どうして謝るの?」
「いや、せっかく隠れていたのに気付かなかったわけだから」

本気で困った顔をする彼が可哀想なような愛おしいような奇妙な気分になって、思わず吹き出してしまう。けれど彼はそれでますます困惑したらしく、いつもからは想像もできないような情けない表情になる。何と言っていいか言葉を思い付けなかったので、わたしは彼の腕を取った。普段町中で腕を組んだりはほとんどしないのだが、今は無性にそうしたいような気がしたのだ。彼はそれで、わたしが気分を害したわけではないのは理解してくれたらしい。

「その袋は本当に入れなくていいのか?邪魔そうだが」
彼はわたしが持つ珈琲の袋を指し示すように、半ば受取ろうとするように手を差し出す。

「でも大切なものでしょ?だからこうやって特別気をつけて持ってるの」
「なるほど。すると僕が持っているものはそう大切じゃ無い訳だ」彼はわたしにつき合うように言う。
「そうね、珈琲ほどじゃないわ」

彼が短い笑い声を上げる。彼が声を立てて笑うのは珍しいので、何となく嬉しい。

冗談めかして言ったけれど、半ば本気なのだ。彼の好きなものだから ― もちろん半分近くはわたしも飲むとは言え、彼が選んで大抵は彼が入れてくれる珈琲だから大事に抱えて持っていたいような気がしたのだった。笑ってくれたことで、彼もそんな心情を察してくれたような気がした。

彼が差し出したまま下ろしていなかった左手に袋を渡す代わりに、手を取ってその掌の傷に軽く口づける。されるまま左手を委ねた彼は、わたしが見上げると穏やかに微笑んだ。


しばらく離ればなれが続いた後再会したとき、彼は左手を怪我していた。 怪我の原因は今もはっきりとは分からない、けれど推測はできる。程なくして久し振りに彼の元に戻ると、そこは最後に見たときとほとんど変わっていなかった ― ほんの小さな変化を除いては。戸棚には以前は無かった強い種類のアルコールの瓶が入っていて、同じ棚に入っていたはずの、そういう種類の蒸留酒を飲むときは多分それを使うだろうと思うようなグラスが一つ無くなっていた。それに気付いた瞬間、彼の掌の傷はそのグラスでついたに違いないと直感した。落としたか何かでたまたま割れた破片でうっかり切ったなら、あんな場所にあれほど深い傷は残さない。多分、彼は素手であれを砕いた ― 握り潰した、のだと思う。

いつも穏やかで冷静なひと、というのは感情が薄い人とイコールでは決してない。むしろとても繊細で情熱的な一面を持っている彼は、わたしや他の多くの人よりも感情を制御する術に長けているだけなのだ。そんな彼がグラスを ― いわゆるカット・グラスで、特別薄く割れやすいようなものでもない ― 砕いて自身を傷つけるほど、抑えられないほど感情を昂らせた原因。わたしのことなのだろうと思う。自惚れ過ぎかとも考えたけれど、そう信じられるだけの理由もある。わたしは彼があの時期のことについて、間違った判断でわたしを傷つけたと今も自分を責めているのを知っている。原因を話したがらなかった掌の傷は、彼にとっては自らに対する戒めのようなものなのだと思う。でもわたしにとって、それは彼の思いの深さを語ってくれる愛情の証なのだ。だからそれを眼にする度、わたしはそこに口づけないではいられない。辛い時期のことを思い出させるためではなくて、彼がそんな傷を負うほどにわたしを思い、案じてくれていたことに感謝するため、そして彼の心情を察することができなかったのをわたしがどんなに悔やんでいるか伝えるため、二度と同じ間違いを繰り返さないと誓うために。彼はわたしがそうすることに初めは少し戸惑っていたようだったけれど、少なくともそうされるのを嫌がってはいない、と思う。


「ね、わたしを待ってる間心配した?」
「そうだな」
「もしかしたら、来ないかも知れないと思った?」
「何かの理由で来られないかも知れないとは思ったな。一番ありそうなのは列車が遅れたか ― これは半時間以上待って来なければ駅に確認してみようかと考えていた。それか君が途中で具合が悪くなったか、何かの事故に巻き込まれたか ― これは余り考えたくないが、可能性としては否定できない」

「すっぽかされるとは思わなかった?」

「それは無いな」彼は即座に答える。

「君はそういうことをする性格では無いし、第一例えここですっぽかしたとしてもいずれ同じ家に帰って来るわけだし」
そう言ってから急に何かに思い当たった(組み立てた公式や学説を順調に説明している最中、突然見落としていた重大な要素に気付いたような)風に一瞬口をつぐみ、こちらの表情を探るようにして、

「すっぽかそうと思ったのか?」

その口調がいかにも意外そうで、どことなく情けない感じだったので少しおかしくなる。

「思わないけど。でも、もし ― もし列車も遅れてなくて、事故でもなくて、それでも来なかったらどうしてた?」

彼は少し考えて、

「その時は、こちらから捜しに行く」
「捜しても見つからなかったら?」
「また捜す。君を見つけるまで」
「捜さないで、ってわたしから電話か手紙が来たらどうする?」

何となく面白くなってきて聞いてみる。彼はまた少しだけ考えて、

「それでも捜すな。何か厄介な事に巻き込まれたとすれば、電話や手紙は第三者に強制される可能性もある。実際に君を前にして、君自身の口からなぜ僕に待ちぼうけを喰わせたか話してもらうまでは捜し続ける」

その答えに思わず吹き出してしまう。

「失踪した理由じゃなくて、待ち合わせをすっぽかした理由を聞くの?」
「発端はそれだからね」涼しい顔をして言ってから、彼は急に真面目な口調になる。
「それで、近く失踪する予定でもあるのか?」
「それは言えないわ。行方不明になる前に来週水曜日に失踪しますって予告する人はいないでしょ」

彼はちょっと眉を上げて、
「尤もだ。ところで逃亡計画中の姫君は晩餐には何をご所望かな」
「そうね、イタリア料理がいいわ」

即座に答えると、今度は彼が吹き出した。

「取り敢えず食べている間は逃げ出されずに済みそうだ」
「腹が減っては何とか、って言うじゃない」
「すると危ないのは食後かな」
「忘れて油断した頃ね」

彼はこちらの顔色を読もうとするように、少し首を傾げる。

「夜中のうちに闇に紛れて、というのは無理だな」
「どうして?エルクに見張らせるの?」エルクは子犬の頃から彼が育てているので、彼の言うことには忠実に従う。
「その前に僕が寝床から出さない」

そう言って彼はにこりと笑った。時々こういう冗談なのか本気なのか、含みがあるのかないのか分からないことをいきなり真顔で言うので、どう応えていいものか分からないわたしはただ絶句して赤くなるしかない。仕方がないので、聞かなかった振りをして(赤くなった時点でその「振り」は無駄なのだが)通りかかった店のショウ・ウィンドウにことさら見入ったりする。と、彼がわたしの手を引っ張って、緩く絡んでいた腕をしっかり組み直した。見上げると今度は彼の方がそっぽを向いている。何だか可愛い。

「ね、本当にわたしが失踪するかも知れないと思う?」

彼は(いかにもウィンドウの新型掃除機に心を奪われていたのを中断されて我に返ったかのように)振り返ると、

「自分でも気付かずに迷い出る可能性はあるな、余り油断すると」
「それは失踪じゃなくて...ちょっと方向音痴なだけよ」

彼はまた短く、弾むように笑った。


彼のことをほとんど諦めて、それでももしかすると偶然会ってしまうかも知れないほど近い距離にいるのが辛くて(そしてそれを秘かに期待してしまう自分が嫌で)一人で街を離れたとき、彼は一体どうやってかは分からないけれどわたしの居場所を探し出し、迎えに来てくれた。左手の怪我に気付いた時だ。思ってもみなかった場所での再会に心底驚いたわたしは思わず、なぜこんなところにいるのか、と彼に問うた。

君がここに居るから。

それが彼の答えだった。彼はそれ以上説明しようとしなかったし、自分自身その時はその言葉の意味を深く考える余裕もなく、説明を求めることさえ思いつかなかった。でも多分、あの時の言葉が全ての答えなのだと今は思う。わたしが離れてしまったと思い込んでいた彼の心は本当はいつでもすぐ傍にあって、彼はただそれが示す道を辿っただけなのだろう。わたしが現れるのを予期してココアを頼んでおいてくれるのも、体調の良し悪しに本人より早く気付くのも、隠れていることさえ気づかないほどたやすく居場所を見つけてしまうのも、彼が物理的にだけでなく精神的な意味で、常にわたしの傍に居てくれるからこそできることなのかも知れない。わたしにしても、彼に関することは「何となく」分かる、ということはよくある。うまく言えないけれど、互いに相手を大切に思って気にかけていれば、理屈や常識とはどこか別の次元で「通じ合う」ということは確かにあるのだと思う。


「ね」
「うん?」
「もし迷ってどこかに行っちゃっても、ちゃんと見つけてくれる?」

彼の眼が、ふわりと和らぐ。

「ああ」
「約束?」
「ああ」
「じゃあ、指切り」

言われるまま、彼は小指を絡める。

「ね、そっちも」
「両手で指切りというのはあまり聞いたことがないが」
「いいの、絶対の約束なんだもの」

半ば強引に左手も引っ張ってくると、彼はちょっと面白がっているような顔をして同じことを繰り返す。並んで歩きながらなのでちょっとややこしい。

「これで姫君にはご安心頂けたかな、両肩に剣を置いて誓わせた訳だから」少しふざけた口調で彼が言う。
「『誓わせた』?騎士は自ら進んで忠誠を誓うものだと思ってたけど」
「ああ、それは確かに、いや勿論」彼は慌てた風に言って、わざとらしく咳払いをする。
「我が全身全霊を傾け危険をも顧みず、姫君失踪の緊急時には無事発見のためあらゆる手段と努力を惜しまぬ所存」
「何だか変よ、それ。騎士じゃなくて後の方は警察署長の記者会見みたい」

眉を寄せて言うと、彼は含み笑いをしながらわたしの前に腕を差し出す。わたしは少し気取ってその腕を取り、彼を見上げる。

「じゃ、迷わないように晩餐の席まで案内して頂ける?」
「お望みのままに」

きっと彼は本当に、わたしがどこにいても見つけてくれるのだろう。互いの思いが離れない限り、彼はいつでもわたしを見失わずにいてくれると思うから ― だからこれから先も彼に見つけてもらえるよう、そして逆の立場になった時に同じように彼を迷わず見つけることができるように、彼を信じていよう。人の心に ― 自分自身の心にさえ「絶対」を求めることはできないと理解できないほど子供ではなくなったけれど、それでも信じられるものがあること、それを信じさせてくれるひとが傍に居ることは、とても幸せなことなのだと思う。

*


帰宅後わたし達はラジオのニュースで、列車の遅れは結局一部区間の線路の不具合が原因だったことを知った。とりあえず運行に支障はないと判断されたので一時運転が再開されたが、その後の点検で判断が覆ったためわたしの列車の後続は一時間から二時間遅れ、かなり遅い時間までダイヤは大混乱になっていた。しかも時間通りに大学駅を出た一つ前の列車は全く別の電気系統の故障で駅と駅の中間で停車し、乗客は寒空の下を次の駅まで歩いたあげく、ようやく着いた時には次の列車(わたしの列車だ)は出た後で、後続も止まっていたため振替え輸送のバスを何十分も待つ羽目になったらしい。

「つまり、君と仲間の乗客達は運が良かったということだ」

ニュースを聞き終わった後、彼が物語を締めくくるような調子で言った。

「一番幸運だったのは、珈琲を飲みながらのほほんと待っていただけで君を探しに出る必要も無かった僕かな。後は君が突然気紛れを起こして逃亡しないように、しっかり眼を光らせていればいい訳だ」

たとえその気まぐれを起こしたとしても 、少なくともその晩のわたしにチャンスはなかったと思う。エルクの力を借りるまでもなく、彼が街中で言った言葉を律儀に守ったのだ。



3.12.2003

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