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scene 7 : fever
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何だか周りが騒がしい。鳥?人の声?人だとしても何を言っているのかちっとも分からない。ああ、静かにして。ひどく眠い。ずいぶん長い時間寝たような気もするけど、うるさくてぐっすり眠れなかったから―お願いだから眠らせて。
やっと静かになったらしい。眠らなければ。でも何だか体が落ち着かない。何度も寝返りを打つ。悪寒がする。あ、嫌な感じ。墜ちそう。眼を覚まさないと下に墜ちてしまう。眼を―
夢?嫌な感じ。眼覚めなければどこまでも下に墜ちてしまうところだった。それとももしかしてまだ覚めていないのだろうか。でも落ちるってどこへ?ベッドの上にいたはずだし今だってそうなのに。時々疲れたりすると夢うつつの時に、体が足の方へすうっと落ちて行くような感覚に襲われることがあるのだった。周りが明るい。起きないと。今日は ― ああ、そう午前の授業があるから。今何時?時計が見えない。いつもこちらに向けてあるはずなのに、彼がどこかに移したのだろうか。動きたくない。起きなくちゃ。遅い時間なら、彼が心配して起こしに来てくれるはず。ああほら、ドアの開く音がする。彼がそっと寝台の縁に腰を下ろして、額にキスして、「お早う」と― ?
重い瞼を何とか持ち上げて、薄く眼を開ける。確かにそこに彼は居たけれども、いつもは穏やかな眼が奇妙に深刻な色を浮かべている。
「先刻より上がったか」
小さな溜息と共に呟いて、彼がわたしの額に当てていた手を離す。
「熱があるの、わたし?」
そう言ったつもりがほとんど声にならない。それが自分の声だったのかどうかもはっきりしなかったが、彼が聞き付けてこちらに屈んでくれる。
「眼が覚めたのか。寒くないか」
「―少し」
今度はさっきより声が出た。喉に何かが引っ掛かったような感じですんなり言葉が出ない。
「もう一枚毛布を出そう。少し体を起こせるか」
上体を起こそうとしたが、腕も体もひどく重くて動くのが億劫だ。ほとんど彼の腕に寄り掛かって何とか起きる。背中に枕を当て肩にカーディガンを掛けてもらってありがとう、と言おうとしたのにまた声がうまく出ない。ゆっくり飲むようにと手渡された耐熱グラスには温かい半透明の液体が満たしてある。レモンの良い匂いがして、喉がとても渇いていたのを思い出す。立ち上がりかけた彼が、わたしが話そうとしたのを見て再び座り直す。
「今日、午前の授業が一つあるの。今何時?」
「9時少し前だが、さっき研究室に電話して今日は休むと言っておいた」
寒くないよう布団を直してくれながら少しだけ表情をほころばせてそう言うと、彼はわたしがそんな時間まで寝過ごしてしまっていたのに驚いている間にクロゼットから毛布を出しに立った。その背中を眼で追いながらよく働かない頭でレジュメは先週出したから大丈夫、とか後で友人から講義の内容を聞いておかないと、とか考えながらグラスを口に運ぶ。レモンと蜂蜜を湯で割って、他にもカモマイルやペパーミントや、わたしの好きなラヴェンダーも入っているようだった。乾いた喉を優しく滑って潤していく温かな液体を一気に流し込んでしまいたいのを我慢して、一口ずつが身体に染み込んでいくのを確かめるようにして飲む。飲み干してしまって一息着くのを待ってから彼がグラスをそっと取って脇に置き、布団の下に毛布を入れ、もう一度横になったわたしの肩まで布団を掛けてくれる。体が重くてだるいので枕に頭を沈めるとほっとして、ふうと力が抜ける。頬や体の外側は変に火照っているのに、背中のあたりから体内に嫌な寒気が拡がる。昨日朝の電車の中で酷く咳をしている人が近くにいて、何となく嫌な予感がしたのだった(こういう予感はよく当たる)。一昨日夜更かしをして論文資料をまとめたりしていたから、寝不足で疲れていたのだろう。今週は今朝の授業で終わりだったので、ちょっと早めに気が抜けてしまったのかも知れない。この時期学校や職場でも風邪が流行っているらしいから―
「何か欲しいものはないか」いつもよりも抑えた、いつもよりもっと優しい声で彼が言う。
「ううん、それより」
忘れてしまわないうちにと急いで続ける。さっきからずっと何かが頭の隅に引っ掛かっていて、それが何だったかやっと思い出したのだ。
「ね、仕事は?9時じゃあなたまで遅れちゃう」
「それも気にしなくていい。今日は僕も休みを取ったから」彼は事も無げに言う。
「え、どうして?わたしのため?だめ、わたしは寝ていればいいだけなんだからあなたは」
彼の長い指がふわりと唇を塞ぐ。
「今は研究所もそう忙しくない。僕一人一日いなくとも何の不自由もないだろう」
「でも」 指が離れたのでもう一度抗議を試みるが、今度は彼のいつになく厳しい眼に後が続かなくなってしまう。
「今日は僕の言う通りにする。いいね」ちょっと怖い。
「...はい」
途端にその灰色の眼が和らいだ。大きな手が髪を撫で、彼の唇が額に軽く触れる。いつもより少しひやりとするけれど嫌な感じではない。
「いい子だ。もう少し眠るといい、僕はここに居るから」
言いくるめられたようで納得いかないような、でも何か安心したような心持ちで、素直に従うことにして寝床に体を沈める。どちらにしても正直なところ続けて考えたり話したりするのもちょっと辛かったので、むしろ彼が有無を言わさず議論を終わらせてしまったことが何となくありがたかった。
本当は、側にいて欲しい。まさか彼がわたしのためだけに仕事を休むとは思ってもみなかったけれど、わたしを置いていつも通りに仕事に出かけてしまったら―それで当然ではあるのだが、きっと寂しい思いをしただろうと思う。彼と出会う前も、両親が父の仕事のために家を離れてからは一人で住んでいたのだし、風邪をひいて寝込むことも年に一、二度はあったが、その時はその時で何とか切り抜けていた。立てないほど具合が悪くなったことはなかったし、大抵は一日二日たっぷり眠れば回復してしまう方なのだ。心細さを感じたことがなかったとは言わないが、子供ではないのだから一人で何とかできると思っていたし、実際そうしていた。でも彼と知り合ってからは、わたしは普段元気な時でも彼がいないと何かが欠けているような、自分の一部をどこかに置き忘れてきてしまったような気がしてしまう。だからこんな時に彼と離れたらちょっと心細いかも知れない。そう思って布団の縁から見上げると、出会った彼の眼がふわりと微笑む。
きっとひどく心細いに違いない、今彼がこの部屋を出て仕事に行ってしまったら。
そう確信したのが覚えている最後のことで、わたしはすぐに眠ってしまったらしい。
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ひどく息苦しい。真っ暗ではないがねっとりと絡みつくような濃い灰色の闇。こんな灰色は嫌い。自分の立っている所がどこなのかも分からないような―そもそも立っているのかどうかもはっきりしない。空気はむせ返りそうなほど密度が高くて熱いのに周りは妙に空虚で、足許がはっきりしなくてとても頼り無い ― あ、またあの嫌な感じ。落ちそう ― 眼を覚ませば大丈夫、ただの夢なのだから。それともこれは夢と覚醒の狭間?どちらにしても眼を覚ましさえすれば ― でも瞼が重くて眼が開けられない。息苦しい。どうしよう、堕ちる。闇の中を手探りしてもどこにも体を支えるものがない。掴まる所も立っている所も。すう、と体が落下する。堕ちる ―
ふわりと落下が止まって、呼吸が楽になる。体が何か柔らかくて暖かいものに包まれる。いい気持ち。まだ薄闇の中だけれど、さっきまでとは違う暖かな灰色。この色は好き。これは良く知っている色だもの、だって ―
眼を開ける。
濃い灰色の瞳。緑、碧?少し不思議な色合いの陰影。わたしの視線を捉えてそれが微かに微笑む。それを返そうとして、やけに距離が近いのに気付く。次の瞬間、さっきと同じようにベッドの上にはいるけれども、自分と布団の間に彼がいることに気がついた。つまりわたしはほぼ彼に抱き締められた状態で寝ていることになる。彼は服を着たままだがわたしは寝巻だけ。引いていた熱がまた急に頬に戻ってくる。
「あの」
うまく調節がきかなくて自分でもちょっと大きすぎたかと思った声に、彼が僅かに眼を見開く。息が暖かく感じるほどの距離からまっすぐわたしを見詰めたままだ。男性にしてはやや長い睫の下で少し眠そうにも見える柔らかな眼差しは、見ようによっては別の意味に取れなくもない。
「うん?」
「わたし熱がある ― の、よね?」
その変な質問の意味を一瞬考えたらしい彼は、落ち着き払って答えた。
「熱はしばらく前から下がってきているようだ」
「あの、でも」
「暑いから離れてくれと言うなら」彼は動じずに続ける。「そうするが。手さえ放してくれれば」
言われて初めて、自分の手が彼の袖をしっかり握りしめているのに気付く。どうやら熱にうなされている間に自分から彼にしがみついたらしい。多分わたしがどうしても放そうとしないのに困って、彼は仕方なく一緒に横になってくれていたのだ。それをわたしは勝手に早とちりして、てっきり彼が ―
熱が上がっていた時よりもひどいくらいに頬が熱くなる。ちらと上目遣いに見ると、彼は明らかに笑いたいのを堪えている顔で言う。
「少し元気になったようだ、さっき軽いものを作ったから温めて持ってきてみようか」
そう言えば、少しお腹が空いたような気がする。控えめに頷くと彼が喉の奥で小さく笑う。
「あ、何があっても食欲は無くならないなって思ってるでしょ」
確かにそうなので思われても仕方がないのだが。
彼は笑ってそれには答えずに体を起こした。今まで寄り添っていた身体がふいと離れる。
「あ」
「うん?」
忘れていたけれど、わたしの手はまだ彼のセーターをしっかり握ったままだった。彼と自分の間に滑り込んだ空気がひやりとする。元気になってしまうのが勿体ない、ような気がした。あと少しだけ甘えていたい。顔を上げると彼と視線が合う。わたしを見下ろす緑がかった濃い灰色の眼がちょっと悪戯っぽく微笑む。
「あの、もう少し」うまく出て来ない言葉を懸命に探す。
「うん」面白がっているように彼が相槌を打つ。
「 ― あとでもいい?」
彼はもう一度わたしの背中にそっと腕を回して、布団が肩に掛かるよう直してくれる。服を通して彼の身体の温もりが伝わって、目覚めた時のふわふわした感じが戻ってくる。暖かくて柔らかなものにくるまれているような心地よさと安心感。
「もちろん、今日は君がお姫様だから」
「お姫様?」
「そう。何事も仰せのままに」
「言う通りにしろって怖い顔したくせに」
「...そんなに怖かったか。済まない」
彼が困った顔をするので思わず笑ってしまう。
「心配して言ってくれたんだもの、謝ることないわ。それより」
「うん?」
「わたしこそご免なさい。仕事まで休ませちゃって」
「それこそ気にしなくていい、君のと言うより僕のためだから。例え仕事に行ったとしても君がどうしているか一日中気が気でないだろうし、早く元気になってくれないと困るのは僕だ」
こういうことを言われたとき、嬉しいのだけど何と返せばいいのかわたしはいまだに分からない。今日は普段にも増して頭が働かないので、それ以上あまり考えないようにしてもう一つの用件を忘れないうちに言うことにする。
「それからさっき、勘違いしちゃったことと」
「さっき?」
「あの ― 」言葉を選ぶうち無意識に彼のセーターの袖を弄んだので、彼はわたしが最前目覚めた時のことを言っているのを察したらしい。
「ああ、それも謝らなくていい」
見上げると、彼はあらぬ方を見て半ば呟くように言う。
「そう的外れとも言えないし」
「え」
その時初めて、今着ている寝巻がさっき自分で着替えた覚えのあるそれとは明らかに違うのに気付いた。
「もちろん、寝ている病人を襲ったりはしないから安心していい」
言葉が見つからないわたしに彼はにっこりして付け加える。
「 ― 元気になるまでは」
その晩、少しだけ熱がぶり返した。
14.12.2002
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