何だか周りが騒がしい。鳥?人の声?人だとしても何を言っているのかちっとも分からない。ああ、静かにして。ひどく眠い。ずいぶん長い時間寝たような気もするけど、うるさくてぐっすり眠れなかったから―お願いだから眠らせて。
やっと静かになったらしい。眠らなければ。でも何だか体が落ち着かない。何度も寝返りを打つ。悪寒がする。あ、嫌な感じ。墜ちそう。眼を覚まさないと下に墜ちてしまう。眼を―
夢?嫌な感じ。眼覚めなければどこまでも下に墜ちてしまうところだった。それとももしかしてまだ覚めていないのだろうか。でも落ちるってどこへ?ベッドの上にいたはずだし今だってそうなのに。時々疲れたりすると夢うつつの時に、体が足の方へすうっと落ちて行くような感覚に襲われることがあるのだった。周りが明るい。起きないと。今日は ― ああ、そう午前の授業があるから。今何時?時計が見えない。いつもこちらに向けてあるはずなのに、彼がどこかに移したのだろうか。動きたくない。起きなくちゃ。遅い時間なら、彼が心配して起こしに来てくれるはず。ああほら、ドアの開く音がする。彼がそっと寝台の縁に腰を下ろして、額にキスして、「お早う」と― ?
重い瞼を何とか持ち上げて、薄く眼を開ける。確かにそこに彼は居たけれども、いつもは穏やかな眼が奇妙に深刻な色を浮かべている。
「先刻より上がったか」
小さな溜息と共に呟いて、彼がわたしの額に当てていた手を離す。
「熱があるの、わたし?」
そう言ったつもりがほとんど声にならない。それが自分の声だったのかどうかもはっきりしなかったが、彼が聞き付けてこちらに屈んでくれる。
「眼が覚めたのか。寒くないか」
「―少し」
今度はさっきより声が出た。喉に何かが引っ掛かったような感じですんなり言葉が出ない。
「もう一枚毛布を出そう。少し体を起こせるか」
上体を起こそうとしたが、腕も体もひどく重くて動くのが億劫だ。ほとんど彼の腕に寄り掛かって何とか起きる。背中に枕を当て肩にカーディガンを掛けてもらってありがとう、と言おうとしたのにまた声がうまく出ない。ゆっくり飲むようにと手渡された耐熱グラスには温かい半透明の液体が満たしてある。レモンの良い匂いがして、喉がとても渇いていたのを思い出す。立ち上がりかけた彼が、わたしが話そうとしたのを見て再び座り直す。
「今日、午前の授業が一つあるの。今何時?」
「9時少し前だが、さっき研究室に電話して今日は休むと言っておいた」
寒くないよう布団を直してくれながら少しだけ表情をほころばせてそう言うと、彼はわたしがそんな時間まで寝過ごしてしまっていたのに驚いている間にクロゼットから毛布を出しに立った。その背中を眼で追いながらよく働かない頭でレジュメは先週出したから大丈夫、とか後で友人から講義の内容を聞いておかないと、とか考えながらグラスを口に運ぶ。レモンと蜂蜜を湯で割って、他にもカモマイルやペパーミントや、わたしの好きなラヴェンダーも入っているようだった。乾いた喉を優しく滑って潤していく温かな液体を一気に流し込んでしまいたいのを我慢して、一口ずつが身体に染み込んでいくのを確かめるようにして飲む。飲み干してしまって一息着くのを待ってから彼がグラスをそっと取って脇に置き、布団の下に毛布を入れ、もう一度横になったわたしの肩まで布団を掛けてくれる。体が重くてだるいので枕に頭を沈めるとほっとして、ふうと力が抜ける。頬や体の外側は変に火照っているのに、背中のあたりから体内に嫌な寒気が拡がる。昨日朝の電車の中で酷く咳をしている人が近くにいて、何となく嫌な予感がしたのだった(こういう予感はよく当たる)。一昨日夜更かしをして論文資料をまとめたりしていたから、寝不足で疲れていたのだろう。今週は今朝の授業で終わりだったので、ちょっと早めに気が抜けてしまったのかも知れない。この時期学校や職場でも風邪が流行っているらしいから―
「何か欲しいものはないか」いつもよりも抑えた、いつもよりもっと優しい声で彼が言う。
「ううん、それより」
忘れてしまわないうちにと急いで続ける。さっきからずっと何かが頭の隅に引っ掛かっていて、それが何だったかやっと思い出したのだ。
「ね、仕事は?9時じゃあなたまで遅れちゃう」
「それも気にしなくていい。今日は僕も休みを取ったから」彼は事も無げに言う。
「え、どうして?わたしのため?だめ、わたしは寝ていればいいだけなんだからあなたは」
彼の長い指がふわりと唇を塞ぐ。
「今は研究所もそう忙しくない。僕一人一日いなくとも何の不自由もないだろう」
「でも」
指が離れたのでもう一度抗議を試みるが、今度は彼のいつになく厳しい眼に後が続かなくなってしまう。
「今日は僕の言う通りにする。いいね」ちょっと怖い。
「...はい」
途端にその灰色の眼が和らいだ。大きな手が髪を撫で、彼の唇が額に軽く触れる。いつもより少しひやりとするけれど嫌な感じではない。
「いい子だ。もう少し眠るといい、僕はここに居るから」
言いくるめられたようで納得いかないような、でも何か安心したような心持ちで、素直に従うことにして寝床に体を沈める。どちらにしても正直なところ続けて考えたり話したりするのもちょっと辛かったので、むしろ彼が有無を言わさず議論を終わらせてしまったことが何となくありがたかった。
本当は、側にいて欲しい。まさか彼がわたしのためだけに仕事を休むとは思ってもみなかったけれど、わたしを置いていつも通りに仕事に出かけてしまったら―それで当然ではあるのだが、きっと寂しい思いをしただろうと思う。彼と出会う前も、両親が父の仕事のために家を離れてからは一人で住んでいたのだし、風邪をひいて寝込むことも年に一、二度はあったが、その時はその時で何とか切り抜けていた。立てないほど具合が悪くなったことはなかったし、大抵は一日二日たっぷり眠れば回復してしまう方なのだ。心細さを感じたことがなかったとは言わないが、子供ではないのだから一人で何とかできると思っていたし、実際そうしていた。でも彼と知り合ってからは、わたしは普段元気な時でも彼がいないと何かが欠けているような、自分の一部をどこかに置き忘れてきてしまったような気がしてしまう。だからこんな時に彼と離れたらちょっと心細いかも知れない。そう思って布団の縁から見上げると、出会った彼の眼がふわりと微笑む。
きっとひどく心細いに違いない、今彼がこの部屋を出て仕事に行ってしまったら。
そう確信したのが覚えている最後のことで、わたしはすぐに眠ってしまったらしい。
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