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scene 16 : morning after

「あ、帰ってきたわ」

ソファの足元に横になっていたエルクと思わず顔を見合わせて、わたしは見るともなくぱらぱらとめくっていた雑誌をほとんど放り出すようにして玄関に急いだ。もう夕食の時間もとうに過ぎて、夜半近くになっている。今日彼が仕事の後に久し振りに同僚に誘われていたのは分かっていたので心配はしていなかったとは言え、帰りが待ち遠しいことには変わりない。最近では帰宅を察知するのも、子犬の頃から彼と一緒にいるエルクより早いくらいになってしまった。

玄関の少し手前で鍵を出そうとしていたところだったらしい彼は、勢いよく開いた扉にちょっと驚いたように手を止めてこちらを見た。

「お帰りなさい」
「ただいま」

普段と何も変わりない様子の彼も、近付くとふわりとアルコールの匂いがした。ビールの匂いはあまり好きではないけれど、彼はワインや蒸留酒の方を好んで飲むせいか嫌な匂いとは感じない。玄関を入り先に立って居間に向かう短い間、今日の天気とか街の賑わい具合とか特に意味もないことをお喋りする。子供の頃帰宅した父にまとわりついて、思いつく限りのことをしきりに話しかけたのと似ているかも知れない。自分の言ったことに答える彼の声が聞きたいだけ、なのかも知れないけれど。

「お腹は空いてない?」
「ああ、店ごとに結構色々食べた」
「店『ごと』って、そんなに何件も行ったの」
「3件」

「遅くもなるわけね」

思わず少し大げさに溜息をつくと、彼は急に申し訳なさそうにこちらを覗き込んで心配させたかな、と言う。本当は何度時計を見直したか分からないくらいじりじりして待っていたのだが、こんな風に言われてしまうとなじる気になどなれるはずもない。彼に気を遣わせるような言い方をしたことにひどく罪悪感を覚えた。

「そういうわけじゃないの、遅くなるのは分かってたし。いつもは寄り道せずに早く帰ってきてくれるんだから、こんな時くらい時間を気にせずにゆっくりして構わないのよ。わたしじゃお酒はあまり付き合えないし」

でも、やっぱりあなたがいないと寂しいから、という言葉は呑み込んだ。口に出さなくても彼は分かってくれていると思うし、自分だって友人たちと食事や買物に出かけてつい遅くなる時もあるのだから、彼にばかりいつも早く帰ってくれるのを期待するのは虫がよすぎるのだ。わたしが遅い時は彼もさっきまでのわたしのような気持で待っていてくれるのだろうか、とちょっと自惚れてみる。考えてみれば、個人的にあまり馴染みがないので3件と聞くと多いような気がするだけで、自分に当てはめるなら食後のデザートは場所を変えてアイスクリームのおいしい店で、珈琲はまた別のカフェで、というのと似たようなものなのだろうか。そう言うと、彼は笑ってそうかも知れないな、と答えた。

「寝室に行く前に、お茶を入れましょうか」
「そうだな、少し咽が乾いたし」

彼が浴室を使う間にお茶を入れることにして、お湯を湧かしてカップを二つ温め、戸棚からティーバッグの入った缶を出した。休日の午後などゆっくりお茶を楽しみたい時はちゃんとポットを出して茶葉から入れるが、平日の朝や出先から戻った時などは大抵、直接マグ・カップに入れられる手軽なティーバッグを使っている。お湯を注いだところで、浴室からごとんがたんと何だか変な音が聞こえてきた。行ってみると、戸惑ったような面持ちの彼が浴槽の縁にちょこんと腰掛けていた。彼の体格からして『ちょこんと』と言うのも変かも知れないが、いつもの彼に似合わずどことなく情けなげな風情だったのでそんなふうに感じたのだろうか。

「どうしたの?」
「少し足元がふらついた」
「大丈夫?」
「ああ」

そう言いながらも、彼は少し慎重に立ち上がる。

「このまま寝室に行った方がよさそうね。お茶も持って行くわ」
「そうだな、頼 ― 」

そこで彼はこちらによろけて、とっさにわたしの背後に半開きになっていたドアに手をついたので、わたしは彼と閉じられたドアの間の狭い空間に挟まれる形になった。

「...大丈夫?」

いきなりで驚いたのもあって、ドアに貼り付いたまま同じ質問を繰返した。彼は特別酒類を好むひとではないし、二人の時はわたしに合わせてあまり飲まないので実際どれくらい飲めるのかよく知らないけれど、飲んだときでも酔ったような素振りを見せたことは今までなかったのだ。

「ああ、済まない。参ったな」少し苦笑いしながら、彼は体を起こした。「さっきまでは何とも無かったんだが」
脇に寄って腕を取ると、彼は尋ねるようにこちらを見た。

「だって、またよろけたら危ないもの」

一瞬笑いをかみ殺したような顔をした彼は、それでも大人しく腕を預けたまま寝室に向かった。確かに、例えば彼が昏倒してこちらに倒れかかってでも来れば多分支え切れずに下敷きになってしまうので、実際あまり頼りにはならないかも知れない。

「あなたがお酒でふらつくなんて、初めて見たわ。そんなに飲んだの?」
「確かにあれだけ飲んだのは久し振りかな、矢鱈と発破をかけられてね。僕よりも友人の方が大分出来上がっていたが。無事に帰り着いているといいんだがな」
「まさか車で帰ったわけじゃないでしょ?」
「いや、タクシーに乗せたから少なくとも玄関までは辿り着いただろう」

彼の友人は相当な酒豪で、普通に酒類が好きな人でも呆れるほどの量を飲んでけろりとしている(らしい)ひとなので、その彼が『出来上がる』ほどというのは一体どれくらいの量なのか、考えるだけでも酔いそうだ。いくら何でもそれだけ飲めば、少なくとも一緒にいた彼が黙って車を運転させることはないだろうとは思ったが、本人の自由意思に任せたらたとえどれだけ出来上がっていても陽気に運転して帰りそうなのが恐ろしい。それはともかく彼も同じくらい飲んだとすると、それで足元がふらつく程度ということは、彼は友人よりさらに強いのかも知れない。

寝台の縁に腰を下ろした彼に、少し上目遣いで見上げられてちょっとどきりとした。普段は大抵こちらが見上げる側だからだろうか。

「今お茶を持って来るわ。少し出過ぎたかも知れないわね」

ドアに向かおうとすると、ふいに腕を掴んで引っぱられた。何がどうなったのかよく分からないうちに、気がつくと寝台の上で彼の腕の中に捕まってしまっていた。今までは特に気にならなかったが、ここまで距離が近いとさすがにアルコールの匂いもはっきり分かる。極端に弱いのでこれだけで酔ってしまいそうだ。不意を突いたことに抗議する言葉を探して思わず見上げると、彼の灰色の眼に捕らえられた。しまった、と思う。

「あの ― お茶が濃くなっちゃうわ」
「薄過ぎるよりはいい」

視線を動かさずに彼が言う。こういう風に見つめられると、彼のほうから逸らすか ― 眼を閉じる状況になるまでは、自分から視線を外せなくなってしまうのだ。それを知ってか知らずか、わたしを引き止めておきたい時に彼はよくこの手を使う。でもここで負けたら、せっかく入れた二人分の紅茶が台無しになってしまう。二人とも濃いめに入れた方が好みとは言っても、あまりに出過ぎたお茶はミルクを入れても渋みを隠せないので結局捨てるほかない。

「濃いのにも限界があるわ。咽が渇いたって言わなかった?」
「少しくらい待てる」

彼は待てても、紅茶はその間にますます濃くなるし冷めてしまう。第一、「少し」と言っても一、二分程度で解放してもらえるとは思えなかった。もともとは時間にしてもその他のことにしても正確な言葉遣いを心がけるひとなのだが、こういう状況の時だけは信用できないのだ。

「すぐ戻って来るから ― 」

何とか離れようとわずかに体を引くとすかさず抱き締められたので、視線の呪縛からは解かれたけれど今度は物理的に逃げられなくなった。普段でもいきなりこういうことをすることがあるので、酔っているのかどうなのか判断できない。食堂のテーブルの上の紅茶を気にしながら、少しきつく言うべきか油断させて逃れる作戦を講じた方がいいか漠然と考えた。

「ね、お茶がね」

ふわ、と長い指に唇を塞がれる。彼はにこりと笑って、こちらに議論を再開する隙を与えずに指を自分の唇に置き換えた。普段の彼は人の言葉を途中で遮るようなことはしないのだが、これもこういう場合だけは別だ。こちらも本気で嫌がっているわけではないのを見通されているのかも知れないけれど。ああもう、いつもこれで丸め込まれてしまうのだと自分の優柔不断さを呪う間にも、頬に血が上って頭がくらくらしてくる。本当に匂いだけで酔いそうだ。彼の唇が離れるまでにずいぶん長い時間が経ったような気がした。何だかぼんやりしてきて ― でも、そうだ、何とかして早く食堂に行かなければ。

「あの、ね」
「可愛い」

耳もとで彼が囁く。本格的に危うい。体に力が入らなくて、考えがまとまらなくなってきた。

「だから ― 」
「愛してる」
「 ... 聞いてる?」
「うん」
「なら ― 」

言いかけて、何の話をしていたのか忘れてしまったのに気づいて先が続かなくなる。何と言おうとしていたのか思い出そうと数秒間ぼんやりしていると、彼の動きが止まった。少し待ってみたが、変化がない。

「 ― ねえ?」

返事がない。どうやらわたしを抱き締めたまま眠ってしまったようだった。驚いたのと何だか拍子抜けしたのとでしばらく座ったままぼうっとしていたが、ずっとそうしているわけにもいかないし、彼がもたれてくれば重たくもなってくる。仕方なくそのまま背中に腕を回し抱きかかえて何とか横たえ、身体にしっかり巻き付いたままの腕をどうにかほどいて抜け出した。彼はすっかり寝入ってしまって眼を覚まさない。

「 ... 酔っ払い」

ちょっとむっとして呟いてから、つい今し方まで何とか説き伏せて逃れようとしていたくせに、途中でやめられ ― つまり、相手が眠り込んでいざ自由になってみると不満に感じるのは、ずいぶん自分勝手だと気がついた。ぐっすり眠り込んでいる彼の顔を見ているうちに何となくおかしくなってきて、自分も隣に横になってみる。そう言えば、普段は眠りに落ちるのはほとんどわたしが先で、起きるのは大抵彼が先なので、こんな風に彼の寝顔を見ることはあまりない気がする。酔って人に抱きついたまま寝入ってしまうなんていつもの彼からは考えられないので、実は貴重な機会なのかも知れない。寝顔が何だか可愛い。もうしばらく見ていようか。そんなことを考えているうちに急に眠くなってきて、わたしもいつの間にか、眠り込んでしまった、 ― らしい。

*

 (7k) 眼が覚めると周りが明るかった。でも空気はまだ少しひんやりしていて、早朝なのだなと思う。ふと気配に気づいて見上げると、彼がすぐ隣に座っていた。いつの間にか起きてシャワーを浴びてきたらしく、バス・ローブ姿のままだ。困ったような途方に暮れたような妙な顔でこちらを見下ろしていたようだったが、わたしが目覚めたのを見ると少し表情を和らげた。今のどこか情けない顔をつい最近見たような、と思ったところでゆうべの記憶が戻ってきた。

「大丈夫?」
「うん?」
「二日酔いなんかになってない?」

そう言うと、彼はまた奇妙な ― 『痛いところを突かれた』とでもいうような ― 顔になって頭を抱えた(片手だけれど、それに近いしぐさだと思う)。

「ああ、いや、お陰で極めて爽快な目覚めだったが。 ただ ... その、ゆうべ僕は何か変なことをしなかったかな、と」
「憶えてないの?」

珍しく語尾を濁すような言い方をする彼に思わずそう返すと、彼はほとんど悲愴と言っていい面持ちになった。

「いや、帰ってきて君と話をして、少し足元が危なかったので寝室に来た辺りまでは憶えているんだが」
「捕まえて放してくれなかったのは?」

彼は天井を仰いで少し考えてから、

「それは憶えてる。話を聞けと君に怒られた。その後だ」
「別に怒ったわけじゃないけど ... そのあとって、わたしに抱きついたまま眠っちゃったのよ。そのままずっと一緒に座ってるわけにもいかないし、どうにかちゃんと寝かせるのが結構大変だったんだから」

少し責めるように言うと、彼は神妙な様子をしつつどことなくほっとしたように見えた。

「そうか、済まなかった。しかしまあそれだけで良かった」


何が良かったのかよく分からないけれど、普段人一倍理性的で記憶力がいいだけに、酔ったために自分の言動の記憶を確信を持って辿れないというのが彼にとってはかなり情けないことなのらしい。とりあえず、彼は酔った勢いで女性を口説いて後から忘れたと言い訳するひとではないらしいのと、ゆうべのあれは眠り込む直前まで酔いに関係なく全くの正気でやっていたことは分かった。

「でも、ほんとにあなたが少しでも酔ったところを見たのって初めてよ」

彼は軽く肩をすくめて、

「自分でもそこまで飲んだつもりはなかったが、いつになく勧められてね ― ゆうべも言ったが。彼は機嫌がいいと人の分まで勝手に次々注文する癖がある。向こうも珍しく酔っていたから最後の頃は結構な勢いだったな」

いかにも彼の友人らしいので、容易に状況が想像できた。でも、取り消しもせず注文されただけ全部消費する彼だからその友人が務まるのかも知れないとも思う。

「何かよほどいいことがあったのかしら」
「らしいな。特にそれについては触れなかったが」意味ありげにちょっと片眉を上げて彼が言う。

「月曜になったら、友達に聞いてみるわ。彼女ならあっさり教えてくれると思うし」

彼に合わせて自分も肩をすくめて見せた。彼の友人はわたしの大学の友人とつき合っているのだが、結果的にわたしたちが二人を引き合わせたことになったのもあって、彼らの動向はやはり何となく気になる。何やかや言いながら結構うまくいっているようだったが、彼の友人の方は話好きのわりに照れ屋なところがあって、自分の私生活については彼にさえ冗談に紛らせてしまって詳しく話さないようだった。けれど逆に彼女の方は勿体振らずに色々教えてくれるので、事実上二人の状況はこちらに筒抜けなのだった。

「それにしても、彼が酔っ払うならやっぱり相当な量だったんじゃない?あなたも同じくらいは飲んだんでしょ」
「まあ大体ね。それでも特に量を過ごしたつもりはなかったんだが。最初の店で軽く食事をしながら二人でシェリイを一本、マデイラを一本、次の店でカクテルを色々取り混ぜて5杯、ウィスキーを1杯、グラッパを1杯、3件目でまたウィスキーを」

わたしの顔を見て、彼は数えるのを止めた。彼には大したことはなくても、聞き手にとっては既に想像の域をはるかに越えた状況だということに気づいたらしい。普段飲まなくても、それぞれがどれくらい強いかくらいはそれなりに分かる。

「それで何ともないの?」
「足に来た。許容量を過信したかな」

真面目に考え込んでそう言うので、吹き出してしまった。酔ったと言ってもいちいち何を何杯飲んだかや自分の行動も結局しっかり憶えているところが、妙に彼らしい。それでも彼の様子からするとまだ納得できないらしく、頭の中で飲んだ量と推定許容範囲の食い違いに折り合いをつけようとしているようだった。

「そう言えば、彼にしても昨日は意外に早く酔いが回ったな」
「最初から『酔うつもりで』飲んでたってことはない?いいことがあると気持ちよく酔えるって言うし。あなたを誘ったのだって、嬉しいことがあったからつき合って欲しかったのと、あなたがいれば酔っ払っても何とかしてくれると思ったのもあるかも知れないわ。どう?」
「ふむ」彼は面白そうな顔をする。「それはあるかも知れないな」
「あなたと二人だけで、気を遣わなくてよかったのもあるかも知れないし。気心が知れた相手だとリラックスするでしょ」
彼の反応に気をよくして、自分はろくに飲めもしないくせにその場で思いついたことを色々言ってみた。

「そうだな、精神的なものも結構影響するから ― 」

そこでふと言葉を切って、彼は何かに思い当たったように改めてこちらをじっと見ると、ふいににこりと笑った。よく分からないけれど、何かしら彼なりの結論に至ったらしい。

「まあ、今後はあまり調子に乗って飲み過ぎないように注意しよう」どことなく上機嫌で彼が言った。
「でも少し足元がおぼつかない程度なら、暴れたり周りに迷惑をかけた記憶がなかったりするのに比べればずっとましだわ。それは、ふらついて危ないこともあるから何ともないに越したことはないけど、帰宅してからだったからそんなに危険もなかったし」
「寛大だな」
「そう?悪酔いしたりしなければ、たまに気持良く酔うのもいいんじゃないかと思って。自分が飲めないとそういうのも羨ましいのかしら。でもそうね、人にくっついたまま固まっちゃうのはちょっと困るけど」
「確かに。反省してる」
「反省するほどのことじゃないけど ― 何?」

彼が急にこちらに屈んで頬にキスしたので、思わず声が跳ね上がった。彼は少し体を起こして当然のように、

「ゆうべの続きだが」
「続きって ― 」
「中途で半端になったから不満なんだろうと思って」
「不」

完全に違うとも言い切れないので、すぐに反論の言葉が出てこない。わたしの表情からそれを見て取ったらしく、彼は再びこちらに屈んだ。けれどこれで屈してしまうと「不満でした」と認めたも同じことになるので、何だか悔しい。それにしてもさっきから何か、ずっと引っ掛かっていることがあったのだけど ―

「あの ― そうだわ、お茶!」ふいに思い出した。
「うん?」
「食堂に行った?」
「いや」
「じゃ、まだカップに入れっぱなしよ。もうとんでもなく苦くなっちゃってるわ」

すっかり忘れていたが、二人分のマグ・カップがゆうべからティーバッグを入れたままになっているのだった。今頃はもう色も味も恐ろしい状態になっているに違いない。慌てて起き上がろうとしたが、少しも動じない彼に優しく押し戻された。

「一晩経過した時点で可能な限り悪い状態に達している訳だし、今行っても後から行っても大差ない」

確かに、カップに茶渋が残りやすくなることを除けば、彼の論理はもっともかも知れない。と半ば納得してしまったのをまたもや察したらしく(そんなに分かりやすく表情に出るのだろうか)、彼は今度はわたしの髪に唇をつけた。石鹸の香りと、額に触れるまだ少し湿った髪と、ほんのかすかに残っている ― ような気がするアルコールの匂い。二日酔いなのはわたしのほうかも知れない。

「でも」

最後の抵抗の言葉を(特にその後に続く反論を思いついたわけでもなかったが)彼はごく軽く触れる程度の口づけで遮ってから、

「無駄にするのが気になるなら、後で僕が飲む」
「ほんとに?」
「ああ」
「二人分?」
「約束する」
「ちゃんとカップもきれいに、あ」


結局、わたしは陥落した。


*



ようやく食堂に行けたのは、朝もだいぶ遅くなってからだった。辛抱強く待っていたエルクがあわてて朝食を準備したわたしではなく、彼のほうへ漠然とした非難の視線を向けていたような気がしたのは、わたしだけではなかったと思う。彼は約束は守るひとなので、一晩かけて抽出された二人分の冷えた紅茶を宣言通り残さずに消費した。その日はミルクの減りがいつになく速かったのと、彼が二つのカップを洗い終えるまでいつにも増して寡黙だったのも、多分気のせいではない、と思う。



15.6.2004

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