「あ、帰ってきたわ」
ソファの足元に横になっていたエルクと思わず顔を見合わせて、わたしは見るともなくぱらぱらとめくっていた雑誌をほとんど放り出すようにして玄関に急いだ。もう夕食の時間もとうに過ぎて、夜半近くになっている。今日彼が仕事の後に久し振りに同僚に誘われていたのは分かっていたので心配はしていなかったとは言え、帰りが待ち遠しいことには変わりない。最近では帰宅を察知するのも、子犬の頃から彼と一緒にいるエルクより早いくらいになってしまった。
玄関の少し手前で鍵を出そうとしていたところだったらしい彼は、勢いよく開いた扉にちょっと驚いたように手を止めてこちらを見た。
「お帰りなさい」
「ただいま」
普段と何も変わりない様子の彼も、近付くとふわりとアルコールの匂いがした。ビールの匂いはあまり好きではないけれど、彼はワインや蒸留酒の方を好んで飲むせいか嫌な匂いとは感じない。玄関を入り先に立って居間に向かう短い間、今日の天気とか街の賑わい具合とか特に意味もないことをお喋りする。子供の頃帰宅した父にまとわりついて、思いつく限りのことをしきりに話しかけたのと似ているかも知れない。自分の言ったことに答える彼の声が聞きたいだけ、なのかも知れないけれど。
「お腹は空いてない?」
「ああ、店ごとに結構色々食べた」
「店『ごと』って、そんなに何件も行ったの」
「3件」
「遅くもなるわけね」
思わず少し大げさに溜息をつくと、彼は急に申し訳なさそうにこちらを覗き込んで心配させたかな、と言う。本当は何度時計を見直したか分からないくらいじりじりして待っていたのだが、こんな風に言われてしまうとなじる気になどなれるはずもない。彼に気を遣わせるような言い方をしたことにひどく罪悪感を覚えた。
「そういうわけじゃないの、遅くなるのは分かってたし。いつもは寄り道せずに早く帰ってきてくれるんだから、こんな時くらい時間を気にせずにゆっくりして構わないのよ。わたしじゃお酒はあまり付き合えないし」
でも、やっぱりあなたがいないと寂しいから、という言葉は呑み込んだ。口に出さなくても彼は分かってくれていると思うし、自分だって友人たちと食事や買物に出かけてつい遅くなる時もあるのだから、彼にばかりいつも早く帰ってくれるのを期待するのは虫がよすぎるのだ。わたしが遅い時は彼もさっきまでのわたしのような気持で待っていてくれるのだろうか、とちょっと自惚れてみる。考えてみれば、個人的にあまり馴染みがないので3件と聞くと多いような気がするだけで、自分に当てはめるなら食後のデザートは場所を変えてアイスクリームのおいしい店で、珈琲はまた別のカフェで、というのと似たようなものなのだろうか。そう言うと、彼は笑ってそうかも知れないな、と答えた。
「寝室に行く前に、お茶を入れましょうか」
「そうだな、少し咽が乾いたし」
彼が浴室を使う間にお茶を入れることにして、お湯を湧かしてカップを二つ温め、戸棚からティーバッグの入った缶を出した。休日の午後などゆっくりお茶を楽しみたい時はちゃんとポットを出して茶葉から入れるが、平日の朝や出先から戻った時などは大抵、直接マグ・カップに入れられる手軽なティーバッグを使っている。お湯を注いだところで、浴室からごとんがたんと何だか変な音が聞こえてきた。行ってみると、戸惑ったような面持ちの彼が浴槽の縁にちょこんと腰掛けていた。彼の体格からして『ちょこんと』と言うのも変かも知れないが、いつもの彼に似合わずどことなく情けなげな風情だったのでそんなふうに感じたのだろうか。
「どうしたの?」
「少し足元がふらついた」
「大丈夫?」
「ああ」
そう言いながらも、彼は少し慎重に立ち上がる。
「このまま寝室に行った方がよさそうね。お茶も持って行くわ」
「そうだな、頼 ― 」
そこで彼はこちらによろけて、とっさにわたしの背後に半開きになっていたドアに手をついたので、わたしは彼と閉じられたドアの間の狭い空間に挟まれる形になった。
「...大丈夫?」
いきなりで驚いたのもあって、ドアに貼り付いたまま同じ質問を繰返した。彼は特別酒類を好むひとではないし、二人の時はわたしに合わせてあまり飲まないので実際どれくらい飲めるのかよく知らないけれど、飲んだときでも酔ったような素振りを見せたことは今までなかったのだ。
「ああ、済まない。参ったな」少し苦笑いしながら、彼は体を起こした。「さっきまでは何とも無かったんだが」
脇に寄って腕を取ると、彼は尋ねるようにこちらを見た。
「だって、またよろけたら危ないもの」
一瞬笑いをかみ殺したような顔をした彼は、それでも大人しく腕を預けたまま寝室に向かった。確かに、例えば彼が昏倒してこちらに倒れかかってでも来れば多分支え切れずに下敷きになってしまうので、実際あまり頼りにはならないかも知れない。
「あなたがお酒でふらつくなんて、初めて見たわ。そんなに飲んだの?」
「確かにあれだけ飲んだのは久し振りかな、矢鱈と発破をかけられてね。僕よりも友人の方が大分出来上がっていたが。無事に帰り着いているといいんだがな」
「まさか車で帰ったわけじゃないでしょ?」
「いや、タクシーに乗せたから少なくとも玄関までは辿り着いただろう」
彼の友人は相当な酒豪で、普通に酒類が好きな人でも呆れるほどの量を飲んでけろりとしている(らしい)ひとなので、その彼が『出来上がる』ほどというのは一体どれくらいの量なのか、考えるだけでも酔いそうだ。いくら何でもそれだけ飲めば、少なくとも一緒にいた彼が黙って車を運転させることはないだろうとは思ったが、本人の自由意思に任せたらたとえどれだけ出来上がっていても陽気に運転して帰りそうなのが恐ろしい。それはともかく彼も同じくらい飲んだとすると、それで足元がふらつく程度ということは、彼は友人よりさらに強いのかも知れない。
寝台の縁に腰を下ろした彼に、少し上目遣いで見上げられてちょっとどきりとした。普段は大抵こちらが見上げる側だからだろうか。
「今お茶を持って来るわ。少し出過ぎたかも知れないわね」
ドアに向かおうとすると、ふいに腕を掴んで引っぱられた。何がどうなったのかよく分からないうちに、気がつくと寝台の上で彼の腕の中に捕まってしまっていた。今までは特に気にならなかったが、ここまで距離が近いとさすがにアルコールの匂いもはっきり分かる。極端に弱いのでこれだけで酔ってしまいそうだ。不意を突いたことに抗議する言葉を探して思わず見上げると、彼の灰色の眼に捕らえられた。しまった、と思う。
「あの ― お茶が濃くなっちゃうわ」
「薄過ぎるよりはいい」
視線を動かさずに彼が言う。こういう風に見つめられると、彼のほうから逸らすか ― 眼を閉じる状況になるまでは、自分から視線を外せなくなってしまうのだ。それを知ってか知らずか、わたしを引き止めておきたい時に彼はよくこの手を使う。でもここで負けたら、せっかく入れた二人分の紅茶が台無しになってしまう。二人とも濃いめに入れた方が好みとは言っても、あまりに出過ぎたお茶はミルクを入れても渋みを隠せないので結局捨てるほかない。
「濃いのにも限界があるわ。咽が渇いたって言わなかった?」
「少しくらい待てる」
彼は待てても、紅茶はその間にますます濃くなるし冷めてしまう。第一、「少し」と言っても一、二分程度で解放してもらえるとは思えなかった。もともとは時間にしてもその他のことにしても正確な言葉遣いを心がけるひとなのだが、こういう状況の時だけは信用できないのだ。
「すぐ戻って来るから ― 」
何とか離れようとわずかに体を引くとすかさず抱き締められたので、視線の呪縛からは解かれたけれど今度は物理的に逃げられなくなった。普段でもいきなりこういうことをすることがあるので、酔っているのかどうなのか判断できない。食堂のテーブルの上の紅茶を気にしながら、少しきつく言うべきか油断させて逃れる作戦を講じた方がいいか漠然と考えた。
「ね、お茶がね」
ふわ、と長い指に唇を塞がれる。彼はにこりと笑って、こちらに議論を再開する隙を与えずに指を自分の唇に置き換えた。普段の彼は人の言葉を途中で遮るようなことはしないのだが、これもこういう場合だけは別だ。こちらも本気で嫌がっているわけではないのを見通されているのかも知れないけれど。ああもう、いつもこれで丸め込まれてしまうのだと自分の優柔不断さを呪う間にも、頬に血が上って頭がくらくらしてくる。本当に匂いだけで酔いそうだ。彼の唇が離れるまでにずいぶん長い時間が経ったような気がした。何だかぼんやりしてきて ― でも、そうだ、何とかして早く食堂に行かなければ。
「あの、ね」
「可愛い」
耳もとで彼が囁く。本格的に危うい。体に力が入らなくて、考えがまとまらなくなってきた。
「だから ― 」
「愛してる」
「 ... 聞いてる?」
「うん」
「なら ― 」
言いかけて、何の話をしていたのか忘れてしまったのに気づいて先が続かなくなる。何と言おうとしていたのか思い出そうと数秒間ぼんやりしていると、彼の動きが止まった。少し待ってみたが、変化がない。
「 ― ねえ?」
返事がない。どうやらわたしを抱き締めたまま眠ってしまったようだった。驚いたのと何だか拍子抜けしたのとでしばらく座ったままぼうっとしていたが、ずっとそうしているわけにもいかないし、彼がもたれてくれば重たくもなってくる。仕方なくそのまま背中に腕を回し抱きかかえて何とか横たえ、身体にしっかり巻き付いたままの腕をどうにかほどいて抜け出した。彼はすっかり寝入ってしまって眼を覚まさない。
「 ... 酔っ払い」
ちょっとむっとして呟いてから、つい今し方まで何とか説き伏せて逃れようとしていたくせに、途中でやめられ ― つまり、相手が眠り込んでいざ自由になってみると不満に感じるのは、ずいぶん自分勝手だと気がついた。ぐっすり眠り込んでいる彼の顔を見ているうちに何となくおかしくなってきて、自分も隣に横になってみる。そう言えば、普段は眠りに落ちるのはほとんどわたしが先で、起きるのは大抵彼が先なので、こんな風に彼の寝顔を見ることはあまりない気がする。酔って人に抱きついたまま寝入ってしまうなんていつもの彼からは考えられないので、実は貴重な機会なのかも知れない。寝顔が何だか可愛い。もうしばらく見ていようか。そんなことを考えているうちに急に眠くなってきて、わたしもいつの間にか、眠り込んでしまった、 ― らしい。
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