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...and it takes two. scene 5 : welcome home

「ねえ、こんなにゆっくりしてて大丈夫なの」

ふいに聞かれて、わたしは壁のコラージュ風の額装絵から視線を戻す。午後の最後の授業が終わって買物がしたいと言う友人二人と電車で街まで戻ってきて、結局一緒に何件か店を回ったあと喫茶店でお茶を飲んでいたのだった。

「うん、まあ」曖昧に答えてやり過ごそうと思ったが、もう一人の友人がすかさず言う。

「あ、今日は彼が遅いんだ」
「なるほどね。いつもならこの時間にこんなにのんびりしてるなんてこと珍しいものねえ」

全てその通りなので、笑って肯定するしかない。

「仕事の後に、同僚の人に誘われてるんですって。そういうのはあまり好きじゃないから普段は断ってるみたいだけど、今日は親しい人と二人だから」
「女の人?」
「男のひと」
「ほんとかなあ」

ことさらに疑わしげな顔をされて、思わず吹き出してしまう。

「わたしも一、二度会ったことあるもの。面白いひとよ」
「でも、ほんとにその人とは限らないじゃない。いくら女性が少ない職場って言ったって、いないわけじゃないんでしょ。いつもと違う行動をするっていうのはね、怪しいぞ」

彼女はどうしてもわたしを疑心暗鬼にさせたいらしい。もちろんわたしだって、例えば彼が他の女性と一緒に食事しているところを目の当たりにしたりすれば、同僚だと説明されても内心穏やかではいられない、だろう。自分は結構嫉妬深い方だと思う。でも彼が相手は男性だと言えばそうなのだし、嘘かも知れないなどとは考えもしなかった。なぜと言われてもはっきり答えられないけれど、彼がそういうことでわたしに嘘をつくということ自体あり得ない気がする。

「あ、でもそろそろ。電話が入ってるかも知れないし」
時計を見てそう言うと、友人がほら心配になってきたでしょ、と勝ち誇ったように言う。敢えて否定すると更にからかわれそうなので笑ってやり過ごして席を立つ。二人もそれを機に帰ることにして、わたしたちは揃って店を出た。もう外は大分暗い。

「じゃあ、また来週ね」

駅の方向へ向かう友人達を見送ってから歩き出す。週末の街は普段より賑やかで、夕闇が濃さを増し風が冷たくなるほどに街灯や店のイルミネーションは明るく輝いて、行き交う人々の数は増えてゆく。友達とふざけ合いながら歩き過ぎる女の子達をやり過ごして、立ち並ぶ店の飾り窓を覗き込んだり新しい映画のポスターを眺めたりしてゆっくりゆっくり繁華街を抜ける。

彼が帰ってくるまでまだ間があるのは分かっているが、戻った時にそこに居て出迎えられるようにしていたいと思う。わたしが何かで遅くなったとき、彼が待っていて迎えてくれるのはとても嬉しいから。彼と一緒にいられるだけで嬉しい。彼の傍にいるわたしが他のどんな時より一番自分らしいような気がするから、どこにいても何があっても彼の元に戻るのが待ち遠しい。一緒にいられる時間があるなら、それを少しでも無駄にしたくないとも思う。友人達との時間ももちろん大切だし、他の用事の時間を削ってでもというのでは決してないが、それ以外に自分に与えられた自由な時間のありったけを使って、彼がそれを望んでくれる限り一分でも一秒でも長く傍に居たい。ちょっとくらい待たせても逃げるわけじゃないんだからなどと冷やかす友人達も、本当はそのあたりを察してくれているように感じる。大学院生とは言えこの歳になっても周りをよそに一向に浮いた話の一つもなかったわたしなので、さりげなく気遣ってくれているのかも知れないと考えるとありがたいと思う。

デパートの窓に綺麗な茶器のセットが飾られているのが眼に入って、足を止める。横に置いてある紅茶の缶が凝っていて可愛い。食器棚に買っておいたお茶はまだ切れていない筈だから大丈夫。明日は朝のうちに久しぶりにケーキを焼くのもいいかも知れない。雰囲気作りの意味なのか、隣には草色のスカーフがくるりと丸めて置いてある。彼はほとんどネクタイを締めないけれど、こんなスカーフでも似合うと思う。もっと深い、眼の色に合わせた深い緑色の。クリスマスには緑色のマフラーを編んでみようか、編み物は余り得意じゃないけどー

よく知っている匂いがふわりと鼻をかすめて、条件反射的に心臓がどきんと跳ねる。振り返るより先に、背後から伸びた腕に肩を包み込まれてしまう。仰ぎ見ると彼が頭の上から覗き込んでいた。
「ただいま」

「お帰りなさい」

ウィンドウの前で百面相をしていたのを見られていたろうか、とちょっと考えながら(わたしは一人の時も見るもの聞くものに対して思ったことがそのまま顔に出るので)、腕を解いた彼に向き直って周囲を見回す。

「どうしたの、まだこんなに早いのに。一人?」近くに彼の友人がいる様子はない。

「自分から誘っておいて朝から風邪気味だとぶつぶつ言っていたので、酒など飲まずにさっさと帰って寝ろと前の駅で無理矢理降ろした」

そう言って彼はちょっと悪戯っぽい眼をする。非社交的なわけではないが余り口数の多くない彼は友人もそう多い方ではないと思うけれども、この同僚とは気が合うらしい。彼とは全然違うタイプだが、気さくで楽しい人だ。

「残念ね。早く治るといいけど」
歩き出しながらそう言ったが、風邪をひいて彼の帰宅を早めてくれたその人に少しだけ感謝している自分に気付いて、心の中で慌てて謝る。

「どうした?」
わたしがふと思い出し笑いをしたのを見て、彼が聞く。

「ううん、ちょっとおかしかったから。デパートのウィンドウの前でただいま、なんて」
そう言うわたしだってお帰りなさい、と答えたのだけれど。

「ああ」彼も少し笑って一度口をつぐみ、前を見たまま半ば独り言のように言った。

「僕の家は、君だから」

I'm home (10k)
ああ、そうか。家と言うとつい特定の建物や場所のように思ってしまうけれど、本当は自分にとって大切な人がいる場所、その人そのものが家なのだ。彼はわたしをそれだけ大切に思っていてくれて、それが分かったからわたしも自然にお帰りなさい、と答えたのだろう。家族でも恋人でも友人でもいつでも自分を喜んで迎えてくれる人が居るところなら、そこは例えどこであっても自分が安心して帰ることのできる家になる。わたしにとって彼の傍が一番安らげる場所であるように、彼もまた疲れを癒すことのできる暖かな場所をわたしの中に見つけてくれているのだ。

嬉しい。何と表現していいのか分からないけれど無性に嬉しくて、嬉しいのに涙腺がゆるんできて困ってしまう。何か言いたいのだけど今口を開くと泣き声になってしまいそうで、ただ彼の側に寄ってその腕に手を絡める。彼と出会ってから、わたしはなぜか以前より涙もろくなったような気がする。何も言わず、わたしに合わせて歩調を前よりも緩やかにしてくれた彼の横顔をそっと見る。子供の頃に両親を亡くした彼は、その時一度戻るべき家も失ってしまったのかも知れないとちょっと考えた時、気付かれないように見ていたつもりだった彼が急にこちらを振り向いて微笑む。時折ふいに見せられてどきりとしてしまう柔らかな笑顔。普段はあまり動かぬ表情と少ない言葉のその内側には外からでは分からない繊細で豊かな感情が隠れていて、彼が常にさりげなく周囲の人に、そしてわたしにそれとは気付かないほどの細やかな心配りをしてくれているのをわたしは知っている。辛い思いも悲しい経験もたくさんしてきている筈なのにそんな風に振舞えるひとだからこそ、笑っていて欲しいと思う。彼に対する尊敬と感謝と憧れの気持ちをどれだけ返してあげられるのか、自分にそんな力があるのかも分からないけれど、わたしにできることならどんなことでもしてあげたいと思う。彼がわたしを家だと思ってくれている限り、彼が必要としてくれる限りいつでも両手を広げて迎えてあげたい。

「夕食は?」少し歩いてから彼が聞く。

「ううん、まだ。今まで友達の買物につきあって、お茶を飲んでたの」
「そうか。何となく魚が食べたいような気がするので鮭でも買って帰ろうかと思ったんだが」
「ほんと?わたしもお魚が食べたかったの」

一人だと思っていたので何か有り合わせの物を適当に食べようかと漠然と考えていたのだが、今急に魚が食べたくなった、ような気がする。

「何かハーブがあるといいかな」
「この先のお店のならきれいよ。じゃあわたし、サラダを作るわ。ジャガイモがまだあったと思うから」

少し急ぎ足に横を歩き過ぎていく背広姿の男性も、さっきのわたしのように友人達と別れて信号を渡っていく学生らしい男の子や時計を気にしながらタクシーに乗るエンジ色のスーツを着た女性も、皆それぞれ自分を待っていてくれる人のいるところへ、それぞれの家へ帰っていくのだろうか。それは何でもないことのようで、本当はとても贅沢なことなのかも知れない。 例えば今彼が急に、せっかくの週末だから君がそうしたいならどこか外で食事をするか、それとも夜景の見えるホテルにでも部屋を取ろうかと言ったとしても、きっとわたしは一緒に家に帰って一緒に夕食を作って、普段と変わらない金曜の夜を過ごしたいと答えるだろう。何も特別なことをしなくても、変わったことがなくても、大切な人が隣にいていつもと同じように笑っていてくれるのは、きっととてもとても幸せなことなのだと思う。


21.10.2002

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