「ね、心理学がどうとか警部の息子さんがこうとかって、何の話?」
警部の車を見送った後、建物に戻りながら聞いた。
「ああ、昨日話した従業員の中に警部を多少知っている人が居て、彼の子息が僕の居た大学に在学中だと教えてくれてね。昨日電話で話した時にそれを思い出して触れてみたら、心理学を学んでいるそうで ― 犯罪心理学らしいが ― つまり警察官である父親にとっては期待の息子だね。僕自身一時心理学を選んでいた時期もあったから多少話が弾んだ」
「それで、何だか急に仲良くなったのね」
「警察官と言えども些細な切っ掛けで親近感が高まる事はあるものだ」
彼はこともなげに言ってのけたが、ちらりとこちらを窺うように見てからわずかに口元をほころばせた。
「もう少し聞いてもいい?」
食事を終え、待ち構えたかのように回ってきた給仕の男性にコーヒーを頼んでから言うと、彼は黙って先を促した。
「奥さんがご主人を殴ってしまう直前までの行動について、いつの間にあんなに詳しく調べたの?警部さんが教えてくれたの?」
「いや、捜査中の件については流石に口は固いからね、こちらで大体見当をつけるしかない」
「どうやって?」
「先刻も言ったように、君の記憶力に助けられた。僕自身はあの時彼女のスカーフがあの場に在った事には殆ど気を留めていなかったが、君がはっきり憶えていてくれたお陰で君が感じた『奇妙な雰囲気』がスカーフのせいかも知れないと思い当たった。一方そこにそれが在ったとすれば、少なくとも彼女が一度夫と一緒に部屋に戻ったという部分は事実という事になる。君が夫君を発見した頃には彼女は庭に居た事になっていたから、誰かそれを証明できる第三者が居ないか探してみた。警察も先に同じ経緯を辿ったんだろう。すると丁度その頃に仕事を始めた庭師が、彼女が建物の中から庭に出て来るのを見ていた。そこまでなら『一度部屋に戻ったがその後また庭に出た』という夫人の供述が証明されただけだが、彼女の様子を少し詳しく聞いてみるとその時は確かにスカーフはしていなかったと言う。そうすると彼女が一度外したスカーフを再び身に着ける事ができた機会は、非常に限られる事になる」
わたしは少し考えた。
「部屋に駆け付けたホテルの人達の証言で、彼女の証言通りならその機会もなかったことが分かったわけね。でも庭にいたはずの時間に本当は部屋の中にいたなら、わたしたちが部屋を離れたほんの短い間にスカーフを取って部屋を出て、従業員が上がって来るはずのロビーに通じる階段とは逆の階段まで戻るくらいの時間はあった」
彼が頷く。
「燭台の指紋も、衣装棚から出てスカーフを取りに行った時に思い出して拭いたのかも知れないな。彼女が本気で自分のした事を隠そうとしていたのかどうかは分からないが ― 一刻も早くその場を離れたいなら、スカーフを取りに戻る事自体不必要な行動だからね。元々部屋に取って返した理由を不意に思い出したのかも知れないし、その辺りはかなり混乱した状態で取った一貫性のない行動だったんだろう」
夫人が二階から降りてきた時の、青ざめた横顔を思い出した。あの時は、ご主人の容態を心配してうろたえているのだとばかり思っていた。けれど実際は彼が生きていたことを知って、自分の行為が暴露されてしまう恐怖に怯えていたのだろうか。彼女は、彼が死んでしまうことを願っていたのだろうか。片時も彼の傍を離れずに看病していたのは、いつ目覚めて自分を殴ったのは妻だ、と糾弾するか分からない夫を見張るため ― ?でもその考えは、真相が明らかになった今でも実際にありそうなこととは思えなかった。
少し考え込みながら目の前のコーヒーのカップを見つめていたわたしは、そのすぐ隣にすみれの砂糖漬けや木の実、粉砂糖を飾った可愛らしいケーキの皿が置かれたのを見て、思わず顔を上げた。給仕の男性がにこにこして立っていた。
「あの ― 」
「当ホテルでも人気の一品で、地元の伝統菓子でございます。ぜひお召し上がり下さい」男性は恭しく言った。「当ホテルより、勇敢なご婦人への心尽くしでございます」
「あ ― 」昨日の夕方彼が言っていたことを思い出して一瞬言葉が出なかったが、何とか笑顔を作った。「 ― どうもありがとう」
給仕はたいそう満足した様子で引き返して行った。彼の方を見ると、明らかに笑いをこらえている。
「僕を睨まれても、別に僕が君について妙な噂を広めている訳じゃない」
「にらんでなんていないわ、ただどこまで尾ひれのついた話が広まってるのかと思っただけよ」
粉砂糖で雪化粧した胡桃をかじりながら、わたしは溜息をついた。
*
その日の夕方、ちょうど外から部屋に戻った時に警部から電話があって、夫人が夫を殴ったことを認めた、と教えてくれた。衣装棚の中から採取された土のことを持ち出すまでもなかったらしい。やはり夫にはここの地元の町に愛人がいて、仕事の名目で一人で滞在する時には逢瀬を重ねていたようだった。夫人は昨日まで全く何も疑わなかったわけではなかったが、たまたま部屋に戻った際に夫の電話の会話の一部を聞き、不安が現実だったことを知ってパニック状態になり、夫を殴ってしまったのだそうだ。我に返って彼を殺してしまったと思い、再び混乱状態に陥ったところに誰かが来る気配がしたので、とっさに目に入った衣装棚に飛び込んだ。隠れている間は恐怖と後悔でほとんど室内の会話も耳に入らない状態だったため、夫が生きていると知ったのは一度部屋を抜け出し、その後戻ってきて既に駆け付けていた従業員と話した時だったらしい。あの鮮やかな青いスカーフは夫からの贈り物で、夫人はよく好んで身につけていたのだそうだ。
「でも、やっぱりわたし、あのご主人が奥さんをないがしろにしていたとは思えないの」
ホテルの庭を抜けて、昔の城塞が残っているあたりを彼と並んで歩きながら、わたしは言った。海の向こうには鮮やかに染まった夕陽が沈もうとしている。 彼は少しの間その光景を見つめていたが、やがて言った。
「先刻の警部の話では、彼は愛人とは別れる積りだったと言っているそうだ。夫人が聞いてしまった電話はその女性と会う約束をするものだったが、相手が自分と結婚するよう要求し始め、彼はそれを愛情からではなく打算からと判断していたので、元々夫人と離婚する積りは全く無かった彼はこれを機に愛人の方との関係を清算する事にして、昨日会った際にその旨を伝える積りだった、と」
「それ、少なくとも奥さんと別れるつもりはなかった、っていうのは嘘じゃないような気がするわ。もちろん、浮気はとても自分勝手なことだと思うけど ― 彼の奥さんに対する物腰とか話し方とかそういうものは、外面を保つためにそうしようと思えばうまく装うこともできるかも知れないわ。でも、あのひとが奥さんを見るときの表情 ― 何て言ったらいいのかよく分からないけど、眼差しとか、彼女の動作を見守るときの視線の動きとか、そういうちょっとした表情がとても優しくて、本当に奥さんを大切に思っているひとなんだって感じたの。そういうものまで偽れるとは、わたしには思えないわ」
石造りの壁にもたれてじっと聞いていた彼は、少し間を置いてから言った。
「彼の人となりを知らないから何とも言えないが、世間には同時に複数の相手に思いを掛けられる人間も実際に居るようだし、或いは彼にとってはその愛人は飽くまで割り切った関係だったのかも知れないな。奥方は人一倍愛情深い女性で彼を信じ切っていたようだから、それを知りながら別に秘密の関係を持っていたのは決して誉められたものではない事には変わりないが」
「そうね。ご主人に対する愛情と信頼が大きいほど、他の女性がいると知った時のショックは大きいでしょうし。だからと言って彼を殴ってしまうのは、混乱しているとしてもやっぱり極端に過ぎると思うけど、彼女の気持ちは分からないこともないわ。想像だけど、彼がこれからその愛人に会いに行くと思ったとしたら、それを何とかして止めたかったんじゃないかしら。それに、我に返って彼を殺してしまったと思った時の彼女の心境を考えると、どんなに絶望しただろうと思うわ。とっさに隠れた衣装棚の中で人がいなくなるのを待っていた時は、きっと恐ろしくて悲しくて、息が詰まりそうだったのじゃないかしら」
「君が言っていたあの部屋の妙な空気は、光の加減だけではなく彼女の追い詰められた心情を感じ取ったせいもあるかも知れないな。君は場の雰囲気や人の心の動きに敏感だから」
彼が言うほど自分がそういうものに敏感かどうかは分からないけれど、あの部屋に入った時に感じた息苦しく冷たい絶望感のようなものは、確かに光線の具合が少し変わった程度のことだけが原因とも思えなかった。あの重く寒々とした空虚感は、同じ空間にいた彼女が感じていたものだったのだろうか。わたしは無意識に、彼女がすぐ側にいることを感じ取っていたのかも知れない。
「ね、もう一つ聞きたいの。ご主人が倒れているのを見つけた時、あのままわたし達のどちらかがその場に留まって、どちらかがホテルの人を呼んできていれば、奥さんが部屋を出る機会はなかったのよね?その後は警察の調べが終わるまで、誰かしら部屋にいたはずだもの」彼の少し気の進まなそうな肯定の表情を見て、わたしは続けた。「わたしが動揺していたから、あなたはあえて部屋を一時無人にしても、できるだけ急いで階下へ連れて行ってくれたんでしょう?」
そう、元々単純だったはずの事態がややこしくなってしまったのは、わたしのせいなのだ。あの時わたしがもっとしっかりしていれば、多分夫人はその場で見つかって、何があったかすぐに明らかになったはずなのだ。そう思うとひどく自分が情けなくて、彼やホテルの人や警察や、それになまじ隠れおおせてしまったために丸一日以上罪の意識に苛まれなくてはならなかった夫人に、ひどく申しわけなかった。けれど彼は、ゆっくりと首を振った。
「君が自分を責めることはない。あの場合はあれが最善の方法だったと思うよ」
「でも」
彼はこちらに体をひねると、じっとわたしの眼を見た。
「君の為だけではなくて ― ある意味、彼女の為にもあの方が良かったかも知れない」
「奥さんのため?」
「君は今、彼女は夫を必死で引き止めようとして殴り、殺してしまったと思い込んで絶望したのではないかと言っただろう。混乱状態の中で本能的に身を隠してしまったために彼女は増々自分を追い詰め、部屋の中で僕達が交わしていた会話も耳に入らない程に恐怖と後悔に苛まれていた。その情況で誰かが彼女を発見したとしたら、確かに事件は直ぐに解決するだろうが、彼女の精神状態はどうなっていたかな」
自分がしてしまったことへの後悔と恐怖と、いつ誰が扉を開けるかも知れないという強迫観念に息を殺して、狭くて暗い棚に隠れていたのだ。想像するだけで息が詰まりそうだった。そんな状態で誰かが扉を開け、罪を責められたら、既に極限まで緊張した精神の糸は切れてしまったかも知れない。
「多少時間は掛かったが、結局彼女は警察が追求するまでもなく自ら罪を認めた。その時間を与えられた事は、彼女にとって寧ろ幸運だったのかも知れないと僕は思う」
見上げると、彼の眼がふわりと微笑んだ。彼は、わたしが思い悩まないようにそう言ってくれたのかも知れない。でもあの場で彼女が見つかっていたら、何が起こったかはあまりに明らかで、彼女が自ら進んで罪を認める機会はなくなってしまっていただろう。夫が意識を取戻すより先に、彼女は病院にも付き添えずに独りで警察で取り調べを受けていたかも知れない。そう考えると ― 結果論だけれど、彼の言う通りなのかも知れない。もちろん、だからと言って彼に甘え通しでいいわけではないし、もっと自分がしっかりしなければと思うのは変わらないけれど。
「これからどうなるのかしら、あの二人」
「少なくとも彼の方は、出来るだけ穏便に済ませたい意向のようだ。警部の話では、自分の風評や何かを気にしてと言うよりは奥方を案じての事らしい。彼女に殴られた事実を敢えて黙っていた事も考え併せれば ― 好意的に解釈すれば、だが ― 彼は彼で、奥方が自制を失って夫を殴る程取り乱した事にショックを受けたのかも知れない」
「それで初めて、自分が奥さんに対してどれほどひどいことをしていたか気づいた?」
彼は頷いた。
「希望的に考えればね。だが彼女に対する愛情が全て上辺だけのものだったとすれば、幾ら自分の浮気が原因とは言え下手をすれば命を失いかねなかった訳だから、それを盾に夫人と離婚するなり自分の利益になる条件を認めさせるなり出来た筈だ。しかし聞く限りでは、彼が真相について口をつぐんでいたのはそれが目的だったとも思えない。これは僕の推測に過ぎないが、彼は実際にはもっと早く意識を取戻していたんじゃないかと思う。周囲の状況を大体把握した上でどうしたものかと思案していたのかも知れない。警部も言っていたように彼は、大方の事情を推測していた者から見れば不思議な程夫人を気遣っているようだし、本当にそうだとすれば夫妻がもう一度やり直す余地はまだあるかも知れないな」
「そうなって欲しいわ。だって本当に ― 本当に素敵なご夫婦だと思ったんだもの」
溜息をつくと、彼は黙ったままわたしの肩に腕を回した。いつか、わたしも ― わたしたちも、あんな風に穏やかに愛し合う二人になれたらいい ― はっきりと思ったわけではないけれど、ただ旅先で行き会わせた人以上の漠然とした興味をあの夫妻に感じたのは、多分二人を見る度にそんな憧れにも似た感情を覚えていたからなのかも知れない。彼はわたしがこんなことを考えているのを、知っているだろうか。しばらくの間彼の肩にもたれて、空と海を鮮やかに染め上げて沈んでゆく夕陽を見つめる。
「時々、思うことなんだけど」
城壁に頬杖をついたまま、自分でも少しおぼつかないながら切り出す。
「小説や何かでよく、『真実』という言葉を使うでしょ?真実を明らかにするとか、隠された真実とか、真実は一つだけだとか。でも、『真実』って何なのかしら。奥さんがご主人を殴って怪我させたのは、明らかになった真実?ご主人に愛人がいたのは隠されていた真実?それなら、二人が互いに愛しあっていたことは真実じゃなくなるのかしら。あんなに幸せそうで、お互いを慈しみあっているように見えたのも、結局みんな偽りだったことになってしまうの?何だかよく分からないの」
「最初の二つは、少なくとも『事実』だな」彼は少し考えてから言った。
「『事実』は『為された行為』 ― つまり実際に起こった事、何らかの形で客観的に確認できる事だ。確認可能な時点でそれは『事実』と呼べる。今僕達が見ている空が赤く見えるのも、海がそれを映して赤く染まって見えるのも『事実』だ。だがそれを『真実だ』という言い方はしないだろう」
「そうね」
「『真実』には『事実』と重なる意味合いもあるが、必ずしも何かが起こる事が要求される訳ではないし、確認し得る状況が在るとも限らない。君が感じる違和感は、『真実』と『事実』が時として混同して用いられる事に因るのかも知れない。今言ったように二つの言葉の意味合いは重なる部分も確かにあるが、全く同じではない。他方とは違ったものを指す部分が在るからこそ、わざわざ二つの言葉を使い分ける訳だしね。これは飽くまで僕の解釈だが、隠された真実とか真実は一つだと言うような表現は言葉の響きとして『真実』の方が劇的に聞こえるために多用されるだけで、厳密には寧ろ『為された行為』としての『事実』を指す場合が殆どじゃないかな。真実は必ずしも一つとは限らないと僕は思う。寧ろある事柄を立場の違う複数の人間が見た場合、それぞれに異なる真実が存在する事もあり得るだろう」
彼はまた少し考えて、
「例えば、君はこの空を見てどう感じる?」
「とても綺麗だと思うわ。少しずつ変化する色と光が神秘的で」
急に尋ねられたので、改めて目の前に拡がる夕焼けを見直して出てきた感想をそのまま答えた。
彼は微笑んで、
「だが、そうは思わない人も存在する。何か夕焼けに否定的な思い出がある人や ― または天変地異やもっと超自然的な事柄を、眼に見える自然現象から予測できると考えている人達も居るね。実際にそれが可能かどうかは別として、今眼前で自然現象として起こっている事実を同じように見ても、君が美しいと思う夕焼けを彼等は何か不吉な前触れと見るかも知れない。或いは、君がよく知る友人が何か人から非難されるような行為をしたと聞かされた時に、君は『そんな事をする人ではない、本当にしたとすれば何か理由があるはずだ』と言うかも知れない。その場合例え他の者がどう考えたとしても、『理由も無くそんな事をする人ではない』というのは君にとって動かし難い真実じゃないか?」
わたしは頷いた。
「あの二人についても、同じなのね。事実が明らかになったからといって、表面に現れたものが誰から見ても絶対の真実だ、とは言えないかも知れない」
今度は、彼が頷く。
「『絶対の真実』というものが実際に存在するかどうか、それは人それぞれの『真実』の解釈にも依るだろう。少なくとも僕が個人的経験から言えるのは、『事実』は言わば人の見方や想いとは無関係に、好むと好まざるとに関わらずただそこに在るものだ、という事だ。『真実』は ― ここに在る」
彼の指が、わたしの胸元を示した。
「君はあの二人の様子を見て、互いに愛し合い慈しみ合っている仲の良い夫婦だと思った。それは何の先入観もなく彼等を見た君の眼に映った、紛れもない真実だと僕は思う。詭弁やこじつけの理論ではなく、ある事柄に関わる者が純粋にそう信じ、また信ずるに足る理由があると考える時、その人にとってそれは動かし難い真実であり何よりも重いものだ。今回の不幸な出来事を事件という観点から見る警察にすれば、『夫の浮気に逆上した妻が彼を殴った』のは事実であり真実 ― この場合『真相』と言った方がいいかな ― だが、夫妻がそれぞれの過ちを認めた上でなお相手への愛情や労りを失っていないとすれば、例え周囲がどう見ようと二人の真実はそこに在ると言えないかな」
それまで『真実』という言葉が使われるのを見たり聞いたりするたびに感じていた漠然とした疑問や矛盾が、はらりと解けたような気がした。完全に納得できたわけではないけれど、自分でも気づかないうちに少しずつ少しずつまとわりついてきていたものが落ちて、体がふうと軽くなったような感覚。潮風を含んだ新鮮な、それでいて柔らかな空気をゆっくり吸い込んで隣を見上げると、彼がにこりとする。
「ね」
「うん?」
「あなたは、夕焼けを見てどう感じる?」
彼はちょっと眉を上げた。わたしはふと、彼自身のことを考えたのだ。彼が幼い頃に事故で両親を亡くしたのは、よく晴れた日の夕方だったという。燃えるような夕焼けだった、といつか彼が話してくれた。自分には単純に綺麗だとしか感じられない夕焼けは、彼にとっては悲しい記憶を呼び起こすものなのかも知れない。けれど、彼の眼はふわりと微笑んだ。
「美しいと思うよ。特に」彼の指先が、わたしの頬にふいと触れる。「君の瞳に映る夕焼けはね」
「わたし?」
夕陽を映して金色に見える彼の瞳に少し見とれていたわたしは、ちょっと戸惑った。その隙をつくように、彼がこちらに体を屈める。
「あ、だめよこっち向いちゃ」
「ん?」
「あなたの眼だって、夕陽を反射してとても綺麗なんだもの。こっちを向いたら陰になっちゃうわ。ね、この角度だと金色に見えるの」
「と言われても、僕には見えないが」押し戻されてされるまま顔を海側に向けながら、ちょっと不服そうに彼が言う。
「わたしだって、自分の眼に映る夕焼けは見られないもの。おあいこよ」
彼は吹き出すと、少しふざけて片腕をわたしの体に回し、引き寄せた。 |
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「昨日君が言っていた曙の女神が、今どうしていると思う?」
「女神?夜明けの女神なんだし、今は陽が沈むところだから、眠りにつくんじゃないの?」急に話題が変わって、そう言えばそんな話をしたのを思い出しながら答えた。
「一寸違う。彼女は日没から夜明け前までの間、恋人の床で過ごすんだ」彼はにこりとして言う。「つまり、これからは恋人同士の時間という訳 ― 」
「ちょっと待って」
わざと厳しい声で言って、向こうのペースに巻き込まれないようにもう一度彼の体を押しとどめる。
「その前に、女神だってお腹は空くと思わない?喉も乾いたし」
彼は一瞬困った顔をしたが、やれやれ、と言うように溜息をついて体を起こし、背後を示した。
「じゃあ、取り敢えず何か軽く取ろうか。そこなら夕陽が沈むのを最後まで観られる」
海に面している建物の一階はカフェになっていて、外の芝生にも沢山テーブルが並んでいる。その上に掛けられたクロスの裾が潮風にふわりとなびいて、夕陽の色に染まっていた。わたしたちは一番海に近い席を選んで、飲物を注文した。
「もう一つだけ、気になることがあるんだけど」
「うん?」
「あのスカーフが部屋の中にかけてあったこと、わたしが言うまであなたは思い出さなかったように言ってたでしょ」
「『ように』ではなく実際、君の指摘で初めて認識した」
「それが何だか不自然なの。いつものあなたならそれくらい憶えてるはずだし、あの時だってわたしが思いつかなかったようなことまで、色々気をつけてたでしょう?スカーフのことだけ憶えてなかったなんて変だわ」
わたしが自分で見てはいてもほとんど認識していなかったことを思い出させてくれたのも、全て彼なのだ。本当は彼自身ちゃんと分かっていたことを、わたしの言葉が切っ掛けで『謎が解けた』かのように少し大袈裟に言っているのだと思っていた。気遣ってくれるのは嬉しいけれど、必要以上に立てられるのはかえって居心地が悪い。でも彼は、わたしの指摘に本気で驚いたようだった。
「しかし、事実だから仕方ない」彼は少し困った顔になった。「周囲の事にまで気を配る余裕が無かったからね」
「だって」反論しようとして、突然気づいた。そうなのだ。彼は多分、あのとき ― 自分で言うのも自惚れていると思うけれど、『わたししか見ていなかった』のだ。最初からわたしを探していて、隣の部屋の中に見つけたわたしがひどく動揺しているのを見て取った時点で、彼はほとんどの注意をわたしの様子に集中させたのだと思う。だから最初に部屋の様子を一通り見て取っていたわたしよりも周囲を気にする余裕がなかったし、とりあえずその場に必要な措置を取った時もとにかくわたしを早くその場から遠ざけたかったから、普段の彼ほど徹底した確認もできなかったのだ。
「そう ― なの」自分で解決してしまったので何だか言葉が続かなくなって、仕方なくそう言った。
わたしがどうにかして納得したらしいのを見て取った彼は、こちらを見つめたまま彼にしては珍しく少し照れたような笑顔を見せた。ちょっとどきりとしながら、彼に肩にキスされる時に感じる嬉しいような少しくすぐったいような、ふわりとした幸せな気分になった。あの二人が本当に互いを思い合っていると確信したのも、きっと自分が彼のこんな表情を知っているからなのだ、と思う。言葉がなくても、どんな表情をしていても、眼を見れば自分を大切に思ってくれていることがはっきりと分かる。言葉よりも雄弁で、時間にも色あせない愛情に溢れた眼差しで彼が見つめるから、わたしは彼を抱き締めずにはいられなくなる ― そんな古い歌があったっけ。頭の中でその旋律を追いながら、何となく視線をほかのテーブルに泳がせる。わたしたち以外にも何組か、建物に近いテーブルに出て夕陽のパノラマを鑑賞している宿泊客がいる。そのうちの一組の注文を取り終えた給仕の男性が、戻りしなにこちらを見てにっこりと笑った。それで、また別のことを思い出した。
「気のせいかも知れないんだけど」
テーブルに乗り出して、少し小声で言う。
「ホテルのひとたちが、何だか昨日よりも愛想がいいような気がしない?それは、もとから皆丁寧で愛想はいいんだけど...何て言うのかしら、変に優しいと言うか」
「別に悪い事でもないだろう。無愛想にしてくれと頼む訳にも行かないだろうし」
「それは、そうなんだけど。ね、本当に何も変なこと言ったりしてない?」
「僕が?」彼は心底驚いた顔をする。
「だって、あちこちでホテルのひとと話して情報収集してたのはあなただもの」
「目立たないようにはした積りだが」
「あなたが鹿撃ち帽や口ひげを見せびらかして探偵したりしないのは、分かってるの」少し焦れったくなって言う。「でも、大抵の従業員はあなたとわたしが『第一発見者』だって知ってるわけでしょう」
「第一発見者は君だ」彼がすかさず訂正した。
「そう、それよ。色々話を聞く時、そうやってわたしの宣伝をして回らなかった?」
「宣伝をした憶えはないが」
「でも、わたしが自分の部屋じゃない隣の部屋に招かれもしないのに入って行って、倒れている隣人を見つけて、第一発見者として警察の事情聴取を受けたのは伝えて回ったわけね」
「多少誤解されて伝わっていた部分を適宜訂正しただけだが」彼はこちらの表情を窺うような顔になる。「まずかったかな」
わたしは溜息をついて、首を振った。誤解されたまま尾ひれがついた話が広まるのは困るけれど、たとえそれを訂正したとしても、そこからまた尾ひれがついて別の話が広まることも充分あり得るのだ。彼は何事にも正確を期するが、自分のことに関しては常に控えめを保つひとだ。目立たずに情報を集めるにはそれが役立つのは確かだけれど、なぜかその分一緒にいるわたしが目立ってしまうことになるらしい。彼の話し方に問題があるのではないだろうか、と考えていたところに、飲物が運ばれてきた。続けて目の前に恭しく置かれたオードヴルの皿に、満面の笑顔の給仕を驚いて見上げる。
「あの ― ?」
「新鮮な地元の産物を取り合わせました、料理長自慢の一品でございます。当ホテルの心尽くしとしてぜひ、猛女たる若奥様に」
「わ」
『猛女』という形容に驚く暇もなく、続いた二人称に絶句した。
古めかしい大仰なお辞儀をして、満足した様子で引き揚げて行った給仕の後ろ姿と彼を見比べながら、まだ言葉が出てこないわたしに、彼はシェリィを一口含んでから落ち着き払って言った。
「昔、この一帯の統治者が汚職疑惑で失脚しそうになった際に、その奥方が奔走して夫の無実を証明し、彼を追い落とそうとしていた対抗勢力の陰謀を暴いたそうだ。この辺りでは彼女を称えて『猛女』は女性に対する一般的褒め言葉として使われるらしい」
「一体、どういうとんでもない話が伝わってるの?どうしてあなたじゃなくてわたしなの」
「僕に聞かれても困るが、君に不利な事でも無さそうだし、折角の好意だから有難く頂けばいい」
「でも」
「魚介類も野菜も好きだろう」彼は色鮮やかかつ芸術的に盛り合わされた皿を示した。
「好きだけど、でも」
「では、猛 ― いや、若奥様に乾杯」
そう言って彼はグラスを軽く上げ、わたしを黙らせた。わたしは仕方なく溜息をつき、燻製の鮭を詰めたオリーヴの実をひとつ、彼に投げ付けてやりたいのをかろうじて抑えて自分の口に放り込み、多分夕陽よりも紅く染まっている顔を海に向けた。
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