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 slowdays new pieces

2006

■ A piece of moment 1/8

 アイちゃんフィーバーである。昨年、2005年はまさにアイちゃんの年だった。「アイちゃん大躍進」「アイちゃん首位独走」「アイちゃん意気込みを語る」とあけてもくれてもアイちゃん一色。えっどのアイちゃんかって。もちろん私および当サイトにとってアイちゃんといえば、京大霊長類研究所のヒロイン、チンパンジーのアイちゃんである。アイちゃんといえばチンパンジーに決まっているのであり、他にどんなアイちゃんが存在するというのだろうか。地元の小学生たちが霊長類研究所へ見学に行ったときのこんなエピソードがある。アイちゃんはペットボトルのフタを器用にくるくる回してあけ、中の水を飲みはじめた。小学生たちがへえと感心しながらその様子をながめていると、アイちゃんは中身を半分飲み干したところでふうとため息をつき、慣れた手つきでペットボトルのキャップを再びくるくる回し、今度はきちんとフタを閉めたのだった。呆然とする小学生たち。アイちゃんは行儀だって良いのである。小学生たちもあと100年くらい生きていればきっとそれくらいの芸当も出来るようになるのではないだろうか。そのころアイちゃんは、キャップと飲み口を分別してペットボトルのリサイクル活動に取り組んでいるはずである。現在、アイちゃんは一児の母。子育て奮闘中である。Webサイトも開設していて、彼女の育児奮闘日記も読めるのである。
 → チンパンジーアイのホームページ

 もうひとつ、2005年に気になった言葉といえば、「美女木ジャンクション」。ラジオを聞きながら授業の準備をしていると、いつも決まって「美女木ジャンクションは3kmの渋滞」という交通情報が入る。交通情報担当の女性が発する「びじょぎじゃんくしょん」の響きが妙に気になって、いったいどんなところだろうと一瞬、思考が停止するのであった。あまりに気になるので、今回、インターネットで「美女木ジャンクション」を検索してみたところ、なぜかずらずらとエロマンガがヒットする。美女木ジャンクション著「大巨乳」の見出しに思わずイスから転げ落ちそうになる。いったい何事かと思ったら、「美女木ジャンクション」というペンネームのけっこう有名なエロ作家がいるらしい。ああやっぱりペンネームにつけたくなるよね、うんなるなるという感じである。というわけで、2005年、もっとも気になった言葉は、「アイちゃん」と「美女木ジャンクション」。本年も夜露死苦である。

■ A piece of moment 2/9

 「高くてまずいものはあるが安くてうまいものは存在しない」。
 10年以上前の山本益弘の言葉である。名言だと思う。多分そうなんだろう。でも、同時に嫌な奴だなと思う。最近、よくこの言葉を思い出す。

 朝の満員電車。ぎゅうぎゅう詰めの車内。目の前に立ったおじさんが夢中で携帯をいじっている。40を少しすぎたくらいのアタマの薄くなった小柄な人物。神経質そうな手つきでちゃかちゃかと携帯のキーを押している。なんだいおっさん不倫でもしてんのかよ朝からマメだねえとちらっと画面をのぞくと株の取り引きだった。満員電車の中で人目もはばからず、取引銀行→口座番号→パスワード→売買銘柄と手慣れた様子で株のネット取引を呼び出していた。おれパスワード見ちゃったよおじさん。こんな人混みの中でそんなことやってて平気なのとこっちの方がはらはらしたのであった。不倫メールよりこっちの方がハレンチなような気がする。ライブドアの株をなんとか処分したくてあせっている人なんだろうかと一瞬アタマをよぎったが、彼は「三菱自動車」「売却」「OK」と流れるような指さばきで入力し、何事もなかったかのように携帯をコートのポケットにしまったのであった。本当に携帯で株の取り引きをやっている人なんているんだな。私にはSF小説の出来事のように思えたが、彼が特殊なケースではないのなら、株価はたぶん上がっていくんだろう。

 デンマークの風刺漫画をめぐるイスラム教徒の抗議と暴動。TBSのラジオ番組では、「ムハンマドを風刺漫画にするのは無神経だ」とデンマークの新聞社に批判的。番組にはイスラム問題の専門家が電話で参加し、「ヨーロッパ社会のイスラム蔑視の蓄積が背景にある」コメント。でも、15年前にサルマン・ラシュディの「悪魔の詩」で原理主義団体がラシュディの暗殺を示唆して以来、ヨーロッパ各国のメディアはイスラム問題を扱うときものすごく神経質になっている。もともと風刺の笑いはヨーロッパメディアの文化である。王室から福祉制度まで毒を含む笑いの矛先が向けられる。そこには社会に対して批判的な眼差しを向け、それを表現していくことが民主社会を支えるという基本的な了解がある。そうした中でイスラム問題を取りあげるときだけ、まるではれ物でも扱うような状況というのはどう見ても健全ではない。とくに最近は、作品の中でイスラム問題を取りあげたオランダの映画監督が暗殺され、イスラムについて語ること自体がタブーになっている。今回のデンマークの新聞は、こうしたイスラム問題を取り巻く息苦しい言論状況を打破しようとして編集者があえて攻撃的な企画をおこしたという。差別を意図した表現ではないのに暴力的な抗議をするのはあきらかに過剰反応である。この風刺画はブッシュ大統領がイラク攻撃を十字軍にたとえたのとは性質が異なる。ヨーロッパのイスラム教徒には原理主義者が多いが、今回のようにインドネシアのイスラム教徒まで大規模なデンマーク製品のボイコット運動をするというのは、イスラム教徒イコール原理主義者という印象をもたらし、ヨーロッパ社会にイスラム教徒への警戒心をさらに強めることになる。つまり、「言論の自由も民主主義の価値も尊重しない狂信的な人たち」というイスラム教徒につきまとうステレオタイプの強化である。イスラム問題にメディアが今以上に神経質になり何も言えない状況をつくることは、イスラム教徒自身が自分の首を絞めているように見える。イスラム教もキリスト教も仏教も創価学会もオウム真理教もものみの塔も信じるのは勝手だが、それを批判する言論を封じるのは間違っている。

 ラジオ番組では、番組ホストの荒川強啓が「我がニッポンはもっと大らかな国です。こんな神経質な状況はありません。なんたって、結婚式は神式、葬式は仏式でやっちゃう国ですからねえ」とおどけていた。おいおい……。本当におおらかな社会だと思うのなら、ラジオ番組の中で、天皇をネタに一発ブラックなジョークをかまして欲しいところである。

 このムハンマド風刺漫画事件で気になるのは、ブッシュ大統領がイスラム教徒の抗議運動について「いち新聞社の風刺漫画に暴力的な抗議運動をするのは間違っている」と発言をくりかえしていること。イスラム問題であのおっさんが出てくると、文脈がずれてしまって話がややこしくなるのである。きっとデンマークの新聞社としてもブッシュに擁護してもらいたくはないはずである。

■ A piece of moment 2/11

 バイクで走っていると、クルマのウィンカーには神経質になる。多くのドライバーはあまり後ろを見ないまま、左折したり車線を変えたりするので、巻き込み事故を避けるためには前を行くクルマのウィンカーに注意を払う必要がある。それでもときどき怖い思いをする。ほとんどのドライバーはウィンカーを出すタイミングが遅い。乱暴な運転手だと曲がり始めてからウィンカーを出すケースも多い。もうひとつの理由に、最近、へんな位置にウィンカーが付いているクルマが増えてきたことがある。ふつう、後のウィンカーはバンパーの上あたりにテールランプとならんでいる。乗用車に限らず、トラックもこの位置にある。路面から70cmくらいで、バイクや乗用車の運転手からはもっとも見やすい高さになる。ところが、ここ何年かで急に増えた「ミニヴァン」と呼ばれるあれのどこが「ミニ」なのかよくわからない巨大な箱形のハッチバックの乗用車には、天井に近い位置にウィンカーがついているものがある。なんなのこれ。だいたいミニヴァンは車高が高くて2m近い。その天井近くでウィンカーがちかちかしててもわからんよ。とくにバイクで後についたときは、見上げるようにしないとウィンカーの点滅が見えない。図にすることんな感じ。

 設計上の欠陥だと思うんだけど、デザイナーがひらめいてしまったんだろうか。安全性に関わるものなので、ウィンカーとテールランプの位置は路面からの高さで規格を統一するべきである。渋滞の中の1台だけ天井近くでちかちかさせていても見落としがちで危ないのである。と、こんな所で文句を言っていても世の中がどうにかなるとも思えないので、自動車メーカーと国交省に書面を送ってみようと思う。リコール相談の部門で良いんだろうか。

■ A piece of moment 2/12

 変なところについているクルマのリアウィンカー、ひとまず国交省自動車交通局のWebサイトにリコール受付のページがあったので記入する。パブリックサーヴァントな人たちに税金分働いてもらおう。
 → 国土交通省自動車交通局審査課リコール対策室

 「まもなく開幕トリノ・オリンピック!」とテレビは連日のように騒いでいたわりに、地上波はどのチャンネルも中継をやっていない。ライフル銃をかついでクロスカントリーをやる世界軍人選手権みたいな競技が気になってるんだけど。あれ、軍人と警察官以外に出場者はいるんだろうか。

 今年の大河ドラマ「功名が辻」をまとめて見る。あんまりすごいんでイスから転げ落ちる。こ、これは……いったい……。なんというかコテコテの時代劇というか、テレビ東京の正月時代劇というか、20年くらい時間がさかのぼったような演出と配役。じじいとばばあが厚塗りの化粧を塗りたくって「時代劇でござい」という調子の大げさで古くさい芝居をしている。いったいこの20年間の大河ドラマの変化はなんだったのというようなザ・テレビ時代劇である。BGMに梅沢富美男の演歌がかかるとちょうど良いんじゃないか。小劇場出身の若い俳優が多かった2年前の「新撰組!」とは、出演者の平均年齢で30歳くらい差がありそうな感じ。織田信長は西部警察・館ひろし!、木下藤吉郎は妖怪・柄本明!!、とどめのお市の方はザ・大地真央!!!。お化け屋敷か見せ物小屋かどんどこどろどろ。大地真央が小娘芝居をする様子は、まるでドリフの時代劇。あまりのすごさにしばらく呆然とする。そもそも織田信長なんて50前に死んでるのに……。なぜか時代劇だと「大物」俳優の役どころになるけど、信長の暴力性や奇行や狂気を年配の俳優が演じると芝居がわざとらしくて正視できない。あれは渋谷のチーマー崩れみたいな若いタレントが演じてちょうど良い役柄ではないかと思う。今回の大河ドラマは、制作側が確信犯的に尖った部分をなくして、じじばば俳優のオーバーアクションで収まった調子にしている感じ。あと一歩で「水戸黄門」か「三匹が斬る」か「吉本新喜劇」である。大地真央と浅野ゆう子の芝居が恐すぎるので、もうこれ以上見る気がしないのである。

■ A piece of moment 2/13

 バイクのチェーンに油をさす。うちのはセンタースタンドのないバイクなので、油をさしてはちょっとバイクを動かしまた油をさしてをくり返して、チェーンを1周させる。ああめんどくさい。めんどくさいので、以前、やはりセンタースタンドのないバイクに乗っていたとき、車体をサイドスタンド側に大きく傾けて、後輪をまわしながら一気に油をさそうとしたことがある。結局、傾けすぎてバイクの下敷きになり、道端でジタバタもがいたあげく、通りがかったおばさんに助けを求めたのであった。いったい何が起きてるのというおばさんの呆然としたカオが忘れられないのである。現在のバイクは車体重量300kg近い巨体なので、下敷きになったら死にそうな気がする。仕方なく、ちょっとずつ動かしては這いつくばって油をさす。ああめんどくさい。油をさし終わって走らせてみると、チェーンが少し伸びたみたいでじゃらじゃらとうるさい。いつものバイク用品店まで行って、チェーンの張りを調整してもらうことにする。「チェーン調整500円」。なんで工賃がこんなに安いんだろ。月曜日でヒマなのか、整備担当のニイチャンはチェーンのリンクひとコマひとコマに油をさしながら動きが渋くなっていないかチェックしている。バイクがでかいので、メンテナンススタンドに乗せるときは二人がかり。リアのアクセルシャフトをやたらと軸の長いレンチでゆるめ、チェーンの張りを調整し、リアタイヤがまっすぐになるよう何度もチェックしながら左右のボルトで微調整していく。で、タイヤの空気圧までチェックしてくれて500円。所要時間20分。なんか悪いなあという感じ。整備のニイチャンのタバコ代にしかならないじゃん。コピー機の修理なんて紙送りのローラーをひとつ交換するだけで1万円ふんだくるぞ。あんまり安いので、いっそ月に1度のチェーン清掃・注油もぜんぶ店にまかせてしまえばいいんじゃないとも思うが、それもなんだか申しわけないような気がして複雑な気分の「チェーン調整500円」なのであった。やっぱ悪いからチェーンの清掃と注油くらい自分でやって、3ヶ月に1度、調整とチェックだけ店にやってもらおうと悔い改める。めんどくさいなんて言って悪うございました。それにしてもバイク屋って儲かんねえだろうなあとちょっと悲しい気分にもなる「チェーン調整500円」なのである。

■ A piece of moment 2/14

 めずらしくオリンピック中継を見ている。面白かったのはスキーのダウンヒル。各選手、スタート時に叫び声があがる。なんだろうと思ったら、鬼軍曹みたいなコーチがスタート前の選手に気合いを入れているのだった。「お前はできる!お前は最高だ!お前が1番だ!行け!行けェー」なんて調子で、まるで「ロッキー」のセコンドのおっさんか自己啓発セミナーのインストラクター。やっぱりダウンヒルみたいに山のてっぺんから落っこちるようにして滑り降りる競技は、気合いとアドレナリンが不足したらやってられないんだろうと妙に納得する。ハッパをかける鬼軍曹にあわせて選手も「うりゃあおぉぉぉ」のような雄叫びをあげ、斜度60度くらいありそうな斜面に突撃していく。クレイジーである。見てるぶんにはこういう景気の良い競技のほうが圧倒的に楽しい。滑りおえた選手はたいてい勝っても負けてもからっとしている。上位に入った選手はうひゃうひゃしてて脳内物質がさぞ大量に出てるんだろうという感じ。悲壮感を漂わせて「メダル獲れなくてすいません」なんてやってるのを見るとこっちまで気が滅入ってくるのである。

■ A piece of moment 2/16

 ずいぶん以前から奇妙に思っている職業がある。いやあれはもしや職業とは言えないのではないか。ヘッジファンドと呼ばれる投資業である。広い意味では、銀行や保険業の投資部門も含まれる。ふつう、職業というのは何かをした「報酬」として金銭を得る。その何かは形あるものであったり、形のないサービスだったりするが、それによってどこかの誰かが楽しんだり助かったりして、その対価として報酬を得る。バイク屋のニイチャンは油まみれになってチェーンを調整して500円の報酬を得、スーパーのレジのおばちゃんはキーを操作し続けることで時給870円の報酬を得る。この行為が職業の一般的な概念である。しかし、投資業の場合、お金を増やすこと自体が業務であり、目的である。もちろん「カネのための仕事」はいくらでもあるし、それを批判するつもりはない。「職業は自己実現」という思いは思春期に抱く理想主義的願望にすぎない。実際に仕事を通じてそうした充足感を得られるのはひとにぎりの幸運な者に限られる。しかし、投資業では、「お金を得ることが目的」というだけでなく、それ自体が業務になっているという点で特殊である。そこにはどこかの誰かに喜ばれたり感謝されたりするサービスや製品といったお金の対価になるものが一切介在しない。純粋にカネを増やすためだけにカネを操作する。これを職業といえるのだろうか。あえて言うなら「おカネ屋さん」というところだろうか。ただむしろ、この行為にあてはまる概念は「ゲーム」である。他人のカネでポーカーをやっているようなこの行為を「マネーゲーム」と呼ぶのは、きわめて的を射ている。実際、こうした業務に関わる本人、とりわけアメリカ人は、しばしば「人生はゲームだ」という言葉を口にする。自分の業務に由来する一種の人生観ということなんだろう。ただ、傍でみている者にとってこの表現はズレているように感じる。正確には「彼の生活と社会的役割はすべてゲームになってしまっている」と表現するべきではないだろうか。

■ A piece of moment 2/17

 先週、「横浜事件」をめぐって再審請求を棄却する判決が横浜地裁で出された。次の新聞記事はそれを報じたもの。

横浜事件、免訴の再審判決 横浜地裁、拷問の事実に言及
朝日新聞 2006年02月09日14時21分
 戦時下最大の言論弾圧事件「横浜事件」で、治安維持法違反で有罪が確定した元「中央公論」出版部員の故・木村亨さんら5人(全員死亡)に対する再審判決公判が9日、横浜地裁で開かれ、松尾昭一裁判長は無罪か有罪か判断せずに裁判を打ち切る「免訴」判決を言い渡した。治安維持法が廃止されたことを理由に形式的な判断を示す一方、当時の取り調べで拷問が行われた事実に言及。「訴訟記録が廃棄され、確定判決が残っていない事態もあってかなりの時間を要し、被告らが死亡して再審裁判を受けることができなかったのは誠に残念」と述べた。
 弁護側は約60年前の判決の証拠とされた自白は拷問による虚偽の内容で事件はでっち上げだったと主張。事実認定に踏み込んだうえで無罪を言い渡すよう求めてきた。
 事件は42年から終戦直前にかけ言論、出版関係者約60人が「共産主義を宣伝した」などとして治安維持法違反容疑で逮捕され、拷問で4人が獄死。終戦直後の45年8〜9月、約30人が横浜地裁で有罪判決を受けた。
 元被告らは86年から4回再審請求したが03年3月までに全員死亡。同4月に横浜地裁が再審開始を決定した。東京高裁は05年3月、拷問の事実を認定、「自白の信用性に顕著な疑いがある」として検察側の抗告を棄却、再審開始が確定した。
 公判には元被告の遺族が証人出廷し「十分審理をせず有罪を言い渡し、再審請求を退け続けた司法の責任を認め、謝罪してほしい」と訴えた。
 有名な事件である。事の経緯は次のようなものである。戦時中、神奈川県特殊高等警察のでっちあげによって、数多くの思想家や雑誌編集者が「共産主義者」とされ、治安維持法違反の容疑で逮捕、取り調べを受けた。取り調べ時の拷問は苛烈を極め、自白を強要された末、でっちあげの自白によって有罪とされた。その後、日本の敗戦により治安維持法は失効し、釈放される。しかし、有罪という判決自体が取り消されたわけではないので、名誉回復のために再審請求をしてきた。正当な裁判によって、自白が拷問によるでっちあげであり、容疑が事実無根であることを明らかにし、政府による謝罪を求めるというわけである。今回の判決は、自白が拷問によるものであることを指摘したが、治安維持法がすでに廃止されているために、もはや有罪とも無罪とも判断はできないというもの。当然、遺族としてはこの判決は承服できないので、現在、控訴を検討中。

 しかし、この裁判についてはひとつの疑問がわいてくる。横浜事件での罪状は「治安維持法違反」である。自白が拷問によるものであるかどうかという以前に、有罪の根拠は治安維持法である。治安維持法自体が思想と言論の弾圧を目的とした悪法であることは誰もが認めるところであろう。「戦前の日本社会はそれほど悪いものではなかった」という右翼思想の持ち主であったとしても、治安維持法を良しとする者はいないはずである。したがって、法律自体が間違っているのであり、その間違った法律によって有罪とされたことは、決して「不名誉」ではないはずである。共産主義活動をした容疑で有罪とされたことが、拷問によるでっちあげかどうかは重要とは思えない。横浜事件の容疑者たちが、実際に共産主義者であったとしても、「不名誉」にはあたらないし、むしろそれを有罪とする治安維持法のほうが自由権の弾圧であり、人権侵害である。なので、この再審請求で、原告が何を求めているのかが見えてこない。まさかとは思うが、横浜事件の容疑者は、実際は熱烈な反共思想の持ち主で、共産主義者と間違われたことに強い憤りを感じているのだろうか。

 幸い、職場の社会科教員室には「歩く戦後史」のようなおじさん先生が大勢いるので、昼休みに横浜事件について尋ねてみた。そこで疑問が解決することはなかったが、翌日、おひとりが事件の資料を持ってきてくださった。感謝。資料を読んで驚いたのは、こうした思想弾圧に関わった特高警察の関係者で、戦後、罪に問われた者がほとんどいないという点である。特高警察による拷問がいかに残酷なものであったかはよく知られている。また、自分の点数稼ぎのために、しばしば無関係の者に「国家の敵」のレッテルを貼り、検挙者数を増やしていたことも知られている。警察官の点数稼ぎのために拷問が行われ、容疑者の中には多数の獄死者を出したというのは、どう考えても異常な事態だが、「アカのひとりやふたり殺しても大したことではない」というのが特高警察関係者の基本的な認識だった。こうした特高警察の手法は、ナチスの強制収容所職員同様、人道に対する重大犯罪である。にもかかわらず、ほとんどの特高警察関係者は、戦後、罪に問われることはなかった。ドイツと異なり、日本人自身の手で戦時中の人道への犯罪を裁くことができなかったわけである。特高警察の流れをくむ公安警察では、いまだに共産主義を危険思想として敵視する傾向が残っていて、職員には「アカなんかつぶしちまえ」式の発言をする狂信的な反共主義者が少なくないと聞く。今回の横浜事件の再審請求は、こうした拷問に関わった特高警察関係者の責任を問うことが目的なのではないだろうか。「名誉回復」というのはあくまで裁判をおこすきっかけにすぎず、その審理の中で、特高警察関係者の証言を引き出し、その非人道性と関係者ひとりひとりの責任を法廷で糾弾するというのが本質的な目的だったのではないだろうか。戦後日本がうやむやにしてきた戦時中の人道犯罪について、横浜事件というひとつのケースを突破口にして関係者の罪を問おうとしたのではないか。そう考えると、横浜事件の容疑者たちが、戦後、これほど長い年月にわたって事件の再審にこだわってきたことも腑に落ちる。

■ A piece of moment 3/2

 先日、広告業界への就職活動をしているという学生さんからメールをもらった。以前、Webにまとめたベネトンの広告についてのメールで、企業が経済的存在から社会的存在に移りつつある中、企業広告も長期的には企業の社会性をアピールするものへシフトしていくのではないかという内容だった。

 ただ、この20年、人間を労働資源としてしか見なさない傾向は強まっているように思える。「個々人がより楽しく生きていくためにはどういう社会を築いていけばよいか」という発想は影をひそめ、「より効率的で発展的な社会を築くためには個々人に何をさせればよいか」という論理が幅をきかせている。最近あちらこちらで聞かされる「少子化は財政難と産業の弱体化をもたらすからもっと子供を産め」という発言も「健康保険の支出を削減するために健康に悪影響を与える喫煙は撲滅するべき」という発言も「NEETが増えたら私たちの年金はどうなる」という発言も、ビッグブラザーのプロパガンダとしか思えない。ファシストの論理である。タバコくらい好きに吸わせろってんだ。歩きながら吸ったりしないからさ。経済効率が良くて産業が発展的でも、楽しく暮らせないなら無意味じゃん。ファシストの論理が「正論」としてまかり通っていく様子は不気味である。みなさんへんだと思わないんでしょうか。

 バブル期に流行語になった「メセナ」。もはや誰もそんな言葉を使わないし、言葉自体知らない人も多いかもしれない。企業が行う文化活動や社会貢献事業の意味である。それがバブル期の流行語に終わってしまったのは、企業にとっての文化活動や社会貢献事業がたんにバブルのカネ余り対策にすぎなかったためで、その社会性のなさを「メセナ」という気どったネーミングで誤魔化していたというところだろう。そういう意味では、「メセナ」というとらえどころのないカタカナ語は、イメージだけで中身のない企業の社会貢献をよく表現している。はたして、長い目で見ると企業が経済的存在から社会的存在に移りつつあるんだろうか。私には、「殖産興業」をスローガンに滅私奉公を求めた明治の頃からたいして変わらないように思える。

 「それ、1963年型のトライアンフ・タイガーだけど、部品、まだ出るんだよね」。バイク屋のオヤジさんが店の片隅にある朽ちかけた空冷2気筒のバイクを指して言う。「ホンダもカワサキも部品をとっておくのは、製造終了からせいぜい7〜8年かな、日本と向こうの企業体質の違いなんだろうけどね、ホンダは前は20年くらい出たけどね、最近の合理化で部品倉庫をどんどんつぶしちゃったから、いまは他と変わらないね、だからCBヨンフォアや1100Rはプレミアがついて高値が続いていたけど、部品の入手が難しくなった途端に業者間の取引相場はがくんと落ちたよ、もうそれははっきりわかるくらい、やっぱり古いバイクをいじって楽しむならヨーロッパのメーカーのほうが良いんじゃないかな、トライアンフなんていっぺん潰れかかったのに40年以上前のバイクで純正部品が出るんだから懐が深いよね、あ、うちはホンダの店だけどさ、あははは」って、そんな気弱なこと言ってないで、俺の21年もののホンダも直してよ、オイル漏れが止まらないんだけど……。

■ A piece of moment 3/4

 半年ほど前、友人から、「風水」で方角が悪いことを理由に子供の席替えを担任に要求した母親の話を聞かされた。クラスの席替えをした翌日に、母親が小学校へ乗り込んできて「風水で方角が悪いと出たから席替えをやりなおしてほしい」というわけである。しばらく笑い転げた。悪い冗談としか思えないが、友人によると新聞に載っていた出来事だという。いま作成中の試験問題に、信教の自由の保障についての例として面白いかなと思い、次のような問題をつくってみる。

【問題】 ある公立小学校での出来事です。クラスの席替えをした翌日、児童の保護者が学校を訪れ、学級担任に席替えをやりなおして欲しいといいました。担任が理由を尋ねると、子供の席を風水で占ったところ「運勢を悪くする」と出たためとのことです。次のAとBの主張を参考に、信教の自由の点からこの出来事を判断し、あなたの考えを述べなさい。

A 席替えをやりなおすべきである。「風水」は古代中国に起源のある占いで、広い意味では民間信仰のひとつといえる。保護者がそうした民間信仰を強く信じている場合、その子供も同じ信仰を持っていることが予想される。したがって、保護者と児童の信教の自由を保障する点から、クラスでの座席を変更することが望ましい。近年、公立学校でも生徒・児童の信教の自由を尊重する傾向にあり、様々な信仰に応じた対応が求められている。例えば、肉食を禁じた宗教戒律を理由に給食ではなく弁当を持参することが認められ、また、水泳や武道の授業が特例として免除されることも一般的になっている。今回の出来事もこうした動きのひとつとしてとらえるべきであり、保護者と児童の信仰は尊重されるべきである。風水による占いは、宗教的戒律とまでは言えないが、自らが信じる民間信仰で「運勢を悪くする」とされた席に座ることは、その児童の学習意欲をいちじるしく低下させることが予想される。児童のより良い学習環境を整えるため座席を変更するべきである。

B 再度の席替えは行うべきではない。肉食の禁止・人前で肌をさらすことの禁止・格闘技の禁止といった宗教的戒律は、生徒・児童個人の対応によって学校生活と共存できるが、席替えのやり直しは「風水」という民間信仰にクラスの児童全員を巻き込むことになる。これは、そうした占いを信じない者にまで特定の信仰を押しつける行為であり、クラスの他の児童の信教の自由をおかすことになる。また、この小学校は公立小学校である。教室は公共の場であり、特定の信仰を理由に公共の場が改変されるのは、国や自治体の宗教活動・宗教教育を禁じた憲法20条に違反することになる。したがって、担任の教師は、席替えをやりなおすことなく、他の児童の信仰の自由の点から保護者を説得し、また児童が学習意欲をなくさないよう励ましていくべきである。
 なーんて。もっともらしくAとBの主張を書いてみたけど、書いていて小学校の教師なんてやってらんねえなというのが私の感想。当方、そんな出来事でガキを励ませるほど人間ができてません。ニヤニヤしながら「で、お子さんに人肉食の慣習はないんですか」なんて言って保護者を激怒させそうである。出題するにあたって、実際にあった出来事なのかウラをとろうと新聞を検索するがぜんぜん出てこない。いちおうインターネットでは、「風水」「小学校」「席替え」でいくつかの文章がヒットしたので、それなりに話題になったみたいだけど、実際の出来事なのかウラがとれないまま出題するのはまずいので、問題から削除する。民主党の永田議員じゃないけど、ウラをとらないのは破滅をまねくのである。というわけで、出題しなかった代わりに、ここに書いているというしだいです。

■ A piece of moment 3/12

 → イナバウワーそば

■ A piece of moment 3/22

 春休みでのんびりモード。のんびりだけど、うちのぼろバイクはバイク屋へ行ったきりである。適合する部品が入らずに修理が滞っているようで、電話をする度に、バイク屋のおっちゃんは「いやーいま部品を探してるところなんですよねえ」という調子で、なんだか自分がラーメン屋に催促の電話をしているせっかちな客になったような気にさせられる。でも、もう2ヶ月近くたつんだぞ。バイク屋の作業場の奥でオイルと冷却水を抜かれ、エンジンの部品を取り外されたまま放置されている様子を見ると、腹を割かれて魚河岸に転がっているマグロを連想する。ああこのままもう生き返ることはないんじゃないかと不安がよぎったりして気分低迷。なにもする気がおきないのであった。ごろごろしてポワロの短編を読む。ものすごく時間を無駄にしている気がする。

■ A piece of moment 3/23

 今月あたまに行った学年末試験、何か重要な問題を出題し忘れたような気がしていてずっと引っかかっていた。試験から2週間以上経過した今日、突然思い出した。自転車のチェーンに油をさしながら突然思い出した。裁判員制度の是非について出題し忘れていたのだった。授業ではけっこう時間をとって解説したのに。ちなみにこんな問題。

【論述問題】 裁判員制度の是非
 まもなく日本でも裁判員制度がはじまります。しかし、裁判員制度の導入にあたって、その是非が議論されてきました。次のAとBの主張を読み、裁判員制度の是非について、あなたの考えを述べなさい。


A  裁判員制度は導入するべきではない。「国民の声を裁判に反映する」というと聞こえは良いが、世論とは、しばしば感情的に流される傾向がある。そうした「国民の声」が裁判に反映され、判決を左右することになったら、裁判は公正なものではなくなり、法廷が被告を吊し上げる場になってしまう危険性をはらんでいる。このことは、一般の人々のほうが裁判官よりも被告に重罰をのぞむという傾向が出ていることからも明かである。裁判官は法律に精通した専門家であり、法律に則って厳正に裁く「プロ」である。裁判を公正なものにしていくためには、法律の隅々まで正確に理解し、その理解に基づいて判断していく姿勢が求められる。したがって、法律の専門家である裁判官にゆだねるべきであり、「国民の声」はむしろ意図的に排除する必要がある。

B  裁判員制度を導入するべきである。日本の社会は専門家の発言権が強く、世論はしばしば軽視される傾向にある。国民にも「偉い人におまかせ」「専門家におまかせ」という意識が強く、民主制が定着しているとは言えない状況である。役所を「お上」と呼ぶ慣習もいまだになくならない。しかし、民主社会の基本原理は、ひとりひとりの能動的な社会参加による自治である。裁判を民主的なものにしていくために、国民参加による裁判員制度の導入は不可欠であり、先進国で裁判員制度や陪審員制度を採用していないのは日本くらいである。法律とはすべての人にあてはまる「決まり事」であり、ひとにぎりの法律専門家しか理解できないとしたら異常な状況である。本来、法律はすべての人が理解できるものでなくてはならない。たしかに、裁判員が感情に流されて、法廷が被告を吊し上げる場になるようなことはあってはならない。しかし、だからといって裁判員制度を否定するのは本末転倒であり、裁判員になったときに公正な判断ができるよう国民の意識を高めていくことが必要である。

【参考資料】裁判員制度 少年「成人より厳罰」25% 国民意識にばらつき 最高裁が初の調査
毎日新聞 2006年3月16日 東京朝刊
 ◇殺人の裁判員想定…国民意識にばらつき
 09年までに導入予定の裁判員制度に向け最高裁が初めて行った量刑意識調査で、国民が裁判員として少年による殺人事件の審理に加わった場合、4人に1人は「成人より量刑を重くする」と考えていることが分かった。裁判官の9割は「軽くする」と答えており、少年への厳罰を求める一部の国民と、更生を重視する裁判官の意識の違いが浮かんだ。一方、国民の4人に1人は「軽く」、2人に1人は「どちらでもない」と答えており、国民の間で量刑意識にばらつきがあることも鮮明になった。
 調査は昨年8〜9月、20歳以上の国民に対し、殺人事件の量刑判断に被告の年齢や前科、被害者数など39の要素がどう影響するかを質問。「重くする」「軽くする」などの選択肢で1000人から回答を得た。刑事裁判官766人にも同様の調査をした。
 被告が少年の場合に「重く」「やや重く」と回答したのは、国民では、それぞれ12・3%、13・1%だったが、裁判官はいずれも0%。一方、国民の24・7%は「軽く」「やや軽く」、同49・9%は「どちらでもない」と答えた。
 ほかに「飲酒で判断力がやや低下していた」「被害者が被告の配偶者」という場合も、国民の方が量刑を重く考える傾向があったが、他の36要素では目立った違いはなかった。
 最高裁は「国民の間に多様な意見があることが明白になった。裁判員制度の下でどのように量刑を議論すべきかを研究する際の貴重なデータ」としている。【木戸哲】
 私のまわりでは、圧倒的にAを支持する声が多い。なにやらエリート意識がちらちらと見え隠れする感じがして鼻持ちならないのである。気にくわん。日本社会の抱える本質的な問題に思える。というわけで、来年度の授業で出題する予定。

■ A piece of moment 3/25

 まとめて映画をみる。よかったのは「ミリオン・ダラー・ベイビー」。重厚な映像、登場人物の複雑な内面を描き出す繊細なシナリオと叙情的な演出、とりわけモーガン・フリーマン演じる初老の元ボクサーが魅力的だ。ただ、最後の30分はもやもやした後味の悪さが残る。アメリカで公開された際、物議をかもしたというのもうなずける。主人公のヒラリー・スワンクは女性ボクサー。師匠であるトレーナーのクリント・イーストウッドと二人三脚で快進撃をつづけ、タイトルマッチに挑むことになる。ところが、試合中に相手の反則で頸椎を骨折し、首から下が完全に麻痺してしまう。病院のベッドで寝たきりになった彼女を前に、トレーナーは自己嫌悪に苛まれつつ献身的に着きそう。そんなトレーナーにやがて彼女は安楽死の依頼を切り出す。トレーナーは断るが、みずからの信仰と彼女への思いの間で揺れる。悩むトレーナーのもとに、ある日、彼女が自殺未遂をおこしたという連絡が入る。自ら舌を噛み切り、出血多量で意識不明の状態だという。病院に駆けつけたトレーナーは、血まみれの彼女を見ながら、決意する。深夜、病院に忍び込み、彼女に話しかけながら、人工呼吸器を取り外し、多量のアドレナリン注射をする。彼女が息を引き取るのを見とどけ、彼は町から去っていく。

 この後半部分で後味が悪いのは、クリント・イーストウッド演じる初老のトレーナーが自らの良心と信仰で思い悩むばかりで、寝たきりになった彼女と向き合おうとしないところにある。教会の神父に相談するよりももっとやることがあるだろうと思う。病院のベッドで寝たきりになった彼女を前にして、彼は困ったような顔で笑うことしかできない。彼女のボクサーとしての生命は終わったが、寝たきりになっても彼女の人生は終わっていない。重い障害を負っても楽しく生きる道はいくらでもあるのではないのか。しかし、彼はそれを見ようとしない。絶望する彼女といっしょにただ所在なくうろうろし、力なく笑う。彼女自身が自分の状況に絶望するのは仕方ない。でも、傍らにいる彼までいっしょになってただ落ち込んでいてどうする。にもかかわらず、彼は、大学に入学してみてはどうかとあいまいな笑顔で彼女にすすめることくらいしかできない。むしろ、目の前の彼女よりも、自らの信仰と良心という抽象的概念に閉じこもろうとしているかのようである。その様子は、もし自分が同じ状況になったらやはり安楽死をのぞむだろうという彼の思いがあるように見える。それは映画の作り手であるクリント・イーストウッド自身の思いでもあるのだろう。そのために、この後半部分がやけに押しつけがましいメッセージに見えてしまう。安楽死や尊厳死を否定するつもりはない。でも、それは手を尽くした末の最後の手段だろうと思う。トレーナーのふるまいは手を尽くしたとは言い難い。にもかかわらず、映画は信仰の告白であるかのように叙情的に幕を閉じる。そこに後味の悪さともどかしさが残る。

■ A piece of moment 3/26

 「スターウォーズ」シリーズもまとめてエピソード123をみる。苦行のような7時間。途中、5回も寝てしまってその度に記憶のとぎれた場面にさかのぼって見なおしたので、実際は10時間以上かかった。このシリーズがどうしてこんなに人気があるのか、さっぱり理解できない。どう見ても、古いパルプノベルのスペースオペラの世界である。特撮にカネがかかっているだけで、登場人物たちはどれもディズニー映画のように類型的で薄っぺらく、宇宙戦争の舞台になる世界には緻密さと創造性に欠けている。グロテスクな宇宙人は数多く登場するが、その世界はアメリカの田舎町のライフスタイルをそのまま宇宙に置きかえているにすぎない。登場人物たちは、まるで改造車を運転するように宇宙船を操縦し、敵をやっつけるたびに「ヒャッホー」と歓声をあげる。辺境の貧民街はトレーラーハウスのようだし、首都の高層ビルの室内はアメリカのホテルを連想する。さらには、半裸の宇宙人王女、粗野で残忍なトカゲ型宇宙人、目をピカピカ光らせるロボット、アラブ商人を連想させる強欲な宇宙商人、光線銃、冷酷なアンドロイド、などなど、使い古されステレオタイプ化されたアメリカ大衆文化の模倣がもううんざりするほど延々とくり返される。この種のカルト映画がアメコミマニアのようなある特殊な層に熱狂的に支持されるのはまあわかる。でも、社会現象になるほど幅広く支持を集め、30年近くにわたって人気を維持しているというのは、ヒジョーに不思議である。マイケル・ジャクソンの言動やジョージ・ブッシュの政策とともに現代社会の七不思議である。

 エピソード123では、特別な力を持ったひとりの若者が「ダースヴェーダー」と呼ばれる悪の化身になるまでが描かれる。この若者の内面性をいかに深く掘り下げていくかが物語の核になるはずなんだけど、この肝心の部分がまったく描けていない。思春期まるだしのキャラクターが、ただ師匠の堅苦しい教えに反発しているというだけ。この程度の葛藤で悪の化身になってしまうなら、学校なんてダースヴェーダーであふれているのである。師匠も師匠で、チベット仏教あたりから引用してきたような言葉をもっともらしくならべているが、その教えは決まり文句のくり返しで退屈である。物語の薄っぺらさを象徴しているのがエピソード3のラストシーン。3作を通してのクライマックスである。そこでは悪の道を歩みはじめた若者とそれをなんとか止めようとする師匠が正面から対決する。互いの信念をかけて両者はぶつかりあう。にもかかわらず、ふたりの対決は、ただ電撃が飛び交い、ネオン管のような刀を振りまわすだけのチャンバラにすぎない。それまでもっともらしく語られてきた「暗黒」や「調和」や「正義」の真偽が問われることもなく、「フォース」と呼ばれる心の宇宙が表現されることもない。悪は悪で善は善というだけで、まるっきりB級アクション映画という感じ。それにしてもスカッとしないB級映画である。

■ A piece of moment 3/27

 うちのアパートに新しい住人が増えた。
 土曜日の朝、もう5年以上誰も住んでいないはずの隣の部屋のほうからがさがさ音がする。なんだろうと玄関を出るとちょうど隣から人が出てきた。40代後半くらいの男性、ツィードの上着にメガネ、温和そうな物腰、どうみてもうちのぼろアパートには似つかわしくない雰囲気。彼はこちらに会釈し、4月から隣の部屋に入ることになったと簡単に自己紹介をはじめた。学芸大の教員で、隣の部屋は書斎代わりに使おうと思っているとのこと。学問の世界の住人らしく穏やかな語り口で、「それほど長居はしませんのでうるさくはないと思います」と話した。よりによってこんな廃墟寸前のぼろアパートに入るとは物好きな人だな、と思っていたら、彼に続いて若い女性が部屋から出てきた。マスクをしていて顔半分は見えないが、学生ふうである。うわあアヤシイ。怪しすぎる。ふーん書斎ねえ。

■ A piece of moment 4/18

 隣に入った学芸大のおっさんはとんだくわせものだった。週末、いままでの習慣で、バイクを隣の部屋の入り口にとめて整備をする。ひと段落ついて、遅い昼飯をとりに出かけ、戻ってみると、バイクは足場の悪い場所へ動かされ、ひっくり返っている。ガソリンタンクがブロック塀の角に直撃したようで、ぼっこり凹んでいる。状況から見て隣の住人が動かしたとしか思えないが、隣人はそのまま立ち去ったようで、部屋にも人気がない。そりゃあ部屋の入り口にバイクを置いておいたのはこちらが悪い。でも、ひっくり返して、そのままいなくなってしまうとはどういう了見だ。汚い奴。翌日、不動産屋がやってきて、「隣の方から電話で連絡が来まして、バイクを壊したのは自分ではないので誤解されたら困ると言ってます」と告げる。なんだそりゃ。不動産屋を介してくるとはますますもって汚い奴。上等じゃねえか。ひっくり返したのが彼ではないとしたらなぜバイクが壊れたことを知っているのか、部屋の入り口にとめたおいたのはこちらが悪いが、バイクを動かさないと部屋に入れないのにどうやって部屋に入ったのか、バイクが自分で足場の悪い場所へ歩いていってみずからひっくり返ったというのか、そもそもバイクが隣人のものであるのは明らかなのに一言もなく立ち去って翌日に不動産屋を通して「自分ではない」などと言ってくるのはどういうことか、わざわざアパートの敷地に入ってきて盗むわけでもなくただ動かしていく者などいない、と理詰めで問いつめると間に入っただけのかわいそうな不動産屋氏は言葉に詰まる。話にならないので、不動産屋に電話し、直接隣人の電話を受けたという人物にもう一度同じ説明をくり返し、板金屋での修理見積もり額が10万円だったと告げる。その後、隣の住人が訪れた気配はないが、謝らないのは高くつくことを隣人にも教えてあげる予定。そう、よく接触事故で自分のほうから謝ったら自分の非を認めることになるから謝ってはいけないなどという人がいるがあれは間違い。謝らないことでかえって相手の怒りを買って高い修理費を請求されるケースのほうが多い。イギリスの保険会社の調査によると、謝らなかったケースでの請求金額は平均で2割り増しとのこと。今回の一件でこの数字がやけにリアルに感じるのであった。

 そんな事件もあって、バイクはトラブル続出。このふた月は修理にかかりっきりで、雨にも負けず風にも負けず近所のおばさんの冷ややかな眼差しにも負けず仕事のない日は日の出とともにボルトを回す日々が続いている。夢中で機械をいじっているとき、自分が言語で考えていないことに気づく。これはなかなか興味深い体験で、映像のイメージと手のひらに伝わる感触が次に自分がするべきことを決めていく。ひとまずオイル漏れは止まり、タイヤと前後ベアリングを交換して、どうにかまっすぐ走るようになったけど、まだまだ先は長いのであった。先日は青梅からの帰りに本屋へ寄ったら、突然、エンジンが始動しなくなり、家まで2キロの道程を押して帰る。バイク様には心身ともにしごかれています。300kgのバイク様を汗だくで押しながら、どんよりした夜空を見上げて俺いったい何なにやってるんだろうという気分。

 先週、新しい学校での授業が始まる。今年度は青梅の定時制と出戻りの立川。

■ A piece of moment 4/26

 3ヶ月ほど前、近所の古本屋で諸星大二郎の「西遊妖猿伝」全巻が売られているのを見つける。まだ学生だった頃に連載がスタートして、これは面白いと思っていたら突然、話の山場で連載が中断してしまい、再開したと思ったら今度は雑誌が変わって版元も変わって刊行のペースもやたらとゆっくりでもう追い切れなくなって、その後どうしたんだろうと思っていたら、いつの間にか完結していたらしい。全16巻、8800円。高い。古本屋の値段とは思えない。1冊あたり550円。やっぱり高い。しばらく悩む。ほら、続きもののマンガってかさばるでしょ。本棚に入れると場所とるし、以前のようにもう何度も読み返したりはしないし、読み終わって売りに行くにも大判のマンガ16冊をえっちらおっちら担いでいくのもしんどいし、それにマンガに8800円はなぁとしばし迷った末、購入を見あわせる。でも、アタマの隅にずっと引っかかっていて、この3ヶ月間、ときどき思い出してはやっぱり買おうかなと迷っていたのだった。で、今日、ようやく決心がついて、仕事の帰りに万札を握りしめて古本屋へ乗り込む。「くださいな!」。売り切れていた。そりゃ売り物だから売れることだってあるのかもしれないけど、まさかあれを買っていく人がいるなんて思いもしなかった。せっかく決心したのに。こうなると気持ちの収まりがつかないのである。高ぶる購買意欲に収まりがつかないので、未練がましく店の隅々まで探すが、やはり売り切れていた。連休中にゆっくり読もうと思っていたのに。

■ A piece of moment 5/3

 古本屋で100円で売っていたナンシー関を7冊まとめて読む。いずれも90年代中頃に書かれたテレビ批評。読んで感じたのは、この10年間のテレビのかわらなさ加減。10年たってテレビが発信するものにこれほど変化がなくて良いのかというくらい変わっていない。80年代から90年代半ばにかけて、テレビをはじめとする大衆文化の雰囲気は大きく変わった。意図的に80年代的なものを否定するように、それまでと異なる文脈を提示するようになった。80年代文化の気どった調子が鼻についてきたのだろう。もっともらしく解釈する上っ調子な評論や斜に構える雰囲気が消え、バカさと勢いと予定調和を前面に出して、ストレートに前へ押し出してくるようになった。出演者に関西芸人の割合が増え、70年代ファッションが回帰し、女性タレントの眉が急激に細くなり、知らないのは恥ずかしいことではなくなり、「なにそれ知らない」の一言が古い世代を切って捨てるための伝家の宝刀となった。とくに「なにそれ知らない」が正義になったのは、80年代から90年代中頃にかけての文脈の変化を象徴している。知らないのは恥ずかしいことであるというのが世間的な共通認識だと思っていたので、テレビ番組のタレントや教え子の高校生があっけらかんと、いやむしろ勝ち誇った調子で「なにそれ知らない」「わっけわかんねえ」と口にするとき、それをどう解釈してリアクションしたらいいのかいまだに戸惑っている。そんな80年代から90年代半ばにかけての変化と比べて、この10年の変化のなさは、昨夜放送されたバラエティ番組と1996年のものと区別がつかないくらいだ。細かいところでは、関西局製作の料理番組で金子信雄につっこみを入れるアシスタントでしかなかった東ちづるが、いつの間にかはるか以前から「女優」であることが既成事実であるかのように中堅女優としてまかり通っていることやテレビ界の毒蝮三太夫みたいだったみのもんたが、ババアいじり以外の部分で視聴者に認知されるようになったことなど、個々のレベルでの変化はあるけど、全体としてテレビが発信している雰囲気は、10年1日のごとしで、本当に10年たったのという感じ。メディアに対する自分の感覚が鈍くなっていることやテレビをあまり見なくなったことを差し引いても、それにしてもなあと思う。

 あえてテレビメディアの変化をあげると、スポーツナショナリズムの高まり。80年代末から90年代前半にかけて、オリンピックや国際大会の度にニッポンチャチャチャで露骨な応援中継をしたり、結果がすべてだと言わんばかりにメダルの数に執着するのは、もういいかげんうざったいから勘弁してくれという雰囲気があった。ナショナリズムを煽る以外にもスポーツを楽しむ方法はいくらでもあるだろうって。しかし、この間の冬のオリンピックでも野球でも、アナウンサーも解説者もスポーツ中継の公正さなど眼中にないという調子で、終始「日の丸ニッポン」の応援放送に徹していた。「日の丸戦士」「メダルのために」「ニッポンの勝利のために火の玉になって」とおいおいっていう言い回しを実況のアナウンサーは臆面もなく絶叫する。煽る煽る、もう恥ずかしくて聞いてられないくらい。2002年のサッカー大会を経験して、スポーツ中継を盛り上げるには、ナショナリズムを煽るのが一番手っ取り早いと悟ってしまったのかもしれない。その演出は確信犯的だ。まるで、力道山や白井義男が「外人」レスラーやボクサーを倒すのに熱狂していた戦後間もない頃に、時間が巻き戻されたみたい。いや見てないけど。野球人気低迷にもかかわらず視聴率は高かったようだし、今後、スポーツの国際試合は、ナショナリズム高揚のためのテレビショーとして定着しそうな気配である。試合の中継権が1社買い取り制となり、実質的にテレビ局主催のパブリシティであることは周知の事実だ。スケートにしてもバレーボールにしても日本人選手や日本チームの出場する国際試合は、各局テレビ的演出てんこ盛りで、もうこれはスポーツ中継とは異質の世界という感じ。ニッポンチャチャチャのリズムもいつの間にか変わってるし。松岡修造やジャニーズ君たちが「ミラクル真央ちゃん!」や「プリンセス・メグ!」と絶叫するとき、我々はいったい何を見せられているのだろうか。なんちゃって。そういえば、ワールド・ベースボール・クラシックで日本が優勝して、勝谷誠彦は、王監督を「日本人の誇り」「サムライの中のサムライ」などとナショナリズム丸出しで持ち上げていたけど、まさか王貞治が日本国籍に帰化していないことを知らないんだろうか。

■ A piece of moment 6/1

 2年間の移行期間を経て、ようやく授業の映像資料をビデオからデジタルに切り替える。せっせと古いニュース映像をパソコンに取り込んできたので、主な資料はだいたいデジタル化できた。ビデオテープの山ともオサラバだ。ネックになっていたのはMPEGファイルをDVDに変換する面倒さだったけど、去年あたりからMPEGファイルをそのまま再生できるDVDプレーヤーも出まわるようになってきた。今回、購入したのはこれ。9000円也。自腹。
 → DV-393
 公立学校は、50万円もするプラズマテレビや10万円もするハードディスクレコーダーは買うくせに、こういう使いやすくて安価な機器はどんなにたのんでも買ってくれない。いったいどこの誰が学校の視聴覚教室でハードディスクレコーダーの録画機能を使うというのだろう。アンテナにすらつながっていないというのに。高価な機器を買って、なるべく誰にも使わせないようにカギのかかった部屋に閉じこめておくというのが役所方式である。去年まで勤めていた高校では、リモコンの電池が切れて事務室に新しいのをもらいに行くと、「ちょっといいですか、村田センセー」とジャガイモみたいな顔をした事務長が不機嫌そうに出てきて、都庁の予算配分のしくみと学校における備品請求の手続きについてえんえんと20分にわたって解説してくれたのであった。要するに、事務が備品を管理しているわけじゃないんだから、電池なんかで事務室に来るなと言いたいらしい。いままで気づかなかったがここはカフカの城だったのである。上等じゃねえか。事務長の胸ぐらをつかんで、そのジャガイモ顔を吊し上げそうになったのは、そこでの2年間でもっとも愉快な思い出のひとつである。行政改革に必要なのは、予算の削減よりも先に、カフカの住人たちを全員ヨドバシカメラに派遣して、接客と耐久消費財の正しい使い方を学ばせることである。センパイやフロアチーフがスパルタンに教えてくれるはずである。

■ A piece of moment 6/6

 10年ほど前から掛け捨ての共済保険に入っている。掛け金は月額2000円と少額で、そのぶん保障金額も入院時に1日5000円とわずかなものである。(→都民共済。)保険のカタログを見ていたら、交通事故以外の「不慮の事故」でも、14日以上の通院なら1日あたり1000円の保険金支払いがあるとのこと。ここ何年か慢性腰痛で、すっかり整形外科の常連さんになっているので、保険金の請求をしてみることにした。10年近く加入していて初めての請求である。「不慮の事故」の範疇に、歯磨きしていたら突然「ぎっくり」や朝目が覚めたら「腰に違和感」やバスケで腰をひねって翌朝「足腰が立たない」といったものが該当するかどうかは保険屋さんのプロの判断にまかせるとして、ともかく書類を取り寄せる。郵送されてきた書類一式を見ると、こちらが提出すべき書類は3つ。
  ・承諾書
  ・診断書
  ・事故報告書
 たかだか2万円程度の保険金請求になんでこんなに手間がかかるんだろう。承諾書は自分の名前を書くだけだから良いとして、診断書は病院で書いてもらわねばならないし、事故報告書は友人に証人になってもらって署名してもらわねばならない。めんどくささにうんざりしつつ、腰痛治療のついでに整形外科へ診断書の書類を持って行く。受付のおねえさんはすました顔で「1通6000円になります」と言う。金額を聞き間違えたのかと思い、思わず聞きなおす。「診断書の発行には6000円かかります、先生がヒマなときに記入していただくことになるので作成には1週間程度必要です」という。ぺら紙1枚にずいぶんぼったくる。6000円の根拠を述べよ、なめんな。もらえるのかすらわからない2万円の請求に6000円の出費は馬鹿らしいので、診断書はやめて保険屋に電話で聞いてみる。症状と通院記録さえわかればいいなら、診断書でなくても病院の通院記録とカルテのコピーで十分ではないかと主張するが、保険屋さん、診断書は必ず必要ですの一点張りで取り合ってくれない。病院も病院で「通院記録やカルテの持ち出し・コピーはできないことになっています」とにべもなく断られる。内申書だって開示できる時代に、自分の身体について記されたカルテを本人が見ることも持ち出すこともできないなんて不合理だ、自己決定権が医療の原則のはずだと主張するが、受付の女性は、めんどうな患者がうるさいことを言ってごねてるとしか受け取っていないみたいで「すいませんができません」としか言わず、受付の女性同士、口をへの字にして互いに顔を見合わせている。暗澹たる気分。2万円の保険を請求するだけなのに。保険請求のしくみと医療制度自体に欠陥があるように思える。医療関係で積極的に情報開示に取り組んでいるのは薬局だけじゃないのか。いままで何も知らずに10年近くも掛け金を払い続けていたなんて、自分の馬鹿さ加減に情けなくなる。きっと損保ジャパンにだまされたのも俺みたいに知恵の足りない連中なんだろう。そんなわけで、只今、とっとと保険を解約すべきか、上限の90日間通院したところでまとめて請求すべきか、林真須美さんのところへ相談に行くべきか思案中である。

■ A piece of moment 6/12

 ラジオで藤原正彦がエレベーター事故について話している。「アチラの人はまず謝らないんですね、日本と西洋とではまったく違う社会原理で動いているので、むこうの企業は事故の原因が究明されるまでアタマを下げることは絶対ないんです、それに比べて日本は和の社会、情緒を重んじる社会なので、まず謝る、まあ、日本は謝りすぎるきらいもありますけどね……」。この手の「日本人ユニーク論」はとっくに絶滅したのかと思っていたけど、21世紀になってもしぶとく生き延びている様子。例のベストセラー本のほうも内容が想像つきます。さぞやビバニッポンであふれていて、成果主義導入でリストラされそうなおじさんを勇気づけたり、近頃の若い連中はなっとらんと息巻くおじさんをけしかけたりしているんだろう。レヴィ=ストロースが「構造人類学」で、すべての社会は独自の価値と発展性を持つとする文化相対主義の立場を打ち出したのはもう50年も前のこと。文化的差異を認め、違いを違いとして受け入れつつコミュニケートし、異なる文化的背景を持つ者が共に暮らす社会を築いていく方法を模索するのが今日的課題のはずなんだけど、いまだに「日本は世界で唯一の情緒と形の文明」などという与太話のような文化論が通用してしまうとは驚きである。まるで、明治の日本人が西洋人を赤鬼と呼んでおそれ、舶来品をありがたがり、その反動で「お前なんか恐くないぞ」と強がってみせているみたいだ。100年前からタイムスリップしてきた人なんだろうか。

 犯罪の制裁には、法的制裁と社会的制裁とがある。法的制裁は罰金や懲役といった法的制度に基づく罰で、社会的制裁は村八分や共同体からの追放といった地域社会の慣習に基づく罰である。近代化にともなって多くの社会では、こうした制裁は慣習によるものから法的制度に基づく制裁に比重が移ってきたが、日本の場合は社会的制裁のウェイトが現在でも重い。そのために刑期を終えた者が出所しても、それだけでは罪を十分に償ったとは認められない。もちろんほとんどの都市部では地域社会など崩壊しているが、マスメディアが崩壊した地域社会の代わりにバーチャルな村社会の村人的世論を形成し、罪人の村八分や追放をとなえる。日本企業が事件を起こしたときに「まず謝る」のは、こうした村人的世論が形成された場合だけである。ひたすら腰を低くして閉門百日とすごしていれば、そのうちに忘れっぽい世論は許してくれる。攻撃的な世論が形成され、感情的にいきり立っているときに論理的に反論しても、世間の反感を買って損をするだけである。なので、本当に悪いと思っているのかに関係なく、処世術としてまず謝る。したがって、逆に、村八分をとなえる攻撃的な世論が形成されていない状態では、たいていの日本の大手企業は傲慢なほど強気である。高度成長期、水俣病の原因企業であるチッソは、経済発展を最優先課題とする政府を味方につけて有機水銀排水を流し続けた。患者にはじめて頭を下げたのは、水俣病の公式確認から17年経過してからのことだ。地元の熊本大学は早くから水俣病の原因をチッソの工場排水にあると指摘していたが、当時の工場長は「熊大ごときが何を言う」と取り合わなかった。「熊大ごとき」とはよくもまあ言ったものである。また、戦時中、三井鉱山や三菱鉱業をはじめとする多くの財閥系企業は、中国や朝鮮半島からの強制連行者に奴隷労働をさせたが、戦後、彼ら個人に謝罪することはなかった。また、そのことで国内世論の批判を受けることもなかった。村人の眼差しはよそ者には冷淡である。内向きの「情緒」で集団が動くことの危険性は、20世紀の歴史がさんざん証明したはずにもかかわらず、なぜいまさら藤原正彦の発言がもてはやされるのだろう。みなさん疲れてるんだろうか。

 はじめに書いたラジオ番組での発言は、エレベーター事故をめぐってスイスの会社と日本の会社との比較についてのもの。なので、文脈からいうと「日本企業は」になるべきところを「日本は謝りすぎる」と言う。藤原センセー、日本がアジア諸国にアタマを下げることにはご不満なようである。例のベストセラー本の宣伝文句はこんな調子。「日本は世界で唯一の「情緒と形の文明」である。国際化という名のアメリカ化に踊らされてきた日本人は、この誇るべき「国柄」を長らく忘れてきた。「論理」と「合理性」頼みの「改革」では、社会の荒廃を食い止めることはできない。いま日本に必要なのは、論理よりも情緒、英語よりも国語、民主主義よりも武士道精神であり、「国家の品格」を取り戻すことである。」これ、主語をドイツとドイツ人に置きかえると、ナチのプロパガンダである。番組司会者の荒川強啓は、ベストセラー作家をゲストに迎えたということで、ヨイショを連発する。いやいやいやまったくもってそうですよねえ西洋人は肉食で狩猟民族で我々ニッポンジンは農耕民族ですからねえええまったくそうですねえ……。与太話には与太話で応えるのもラジオパーソナリティの芸なんだろうか。ラジオを聞いていて目眩がしてきた。もしかしたらどこか遠くの宇宙にあるもうひとつの地球の「西洋人」と「日本人」の話だったのかもしれない。
 ご参考までに → 西洋人は狩猟民族?

■ A piece of moment 6/23

 少しだけテレビのサッカー中継を見た。こんな時でないとお顔を拝見することもないロナウドさんを4年ぶりに見た。「太った」という噂は聞いていたが本当に太っていて、どこかで見たような顔になっていた。誰だっけと2日ほど悩んだ末に、「アダムズファミリー」の「おじさん」であると思い至った。高校生たちにベンサムの功利主義はシムシティの発想であると講義している最中に、突然「アダムズファミリー」の「おじさん」がコサックダンスを踊っている場面がアタマに思い浮かんで、「あっロナウド」とシナプス形成されたのであった。

 マンガ「スラムダンク」の連載終了から早10年、すっかりバスケはマイナースポーツに逆戻りし、日本では細々と中継されるだけになったNBAのプレーオフ決勝も少しだけ見た。久しぶりに見たら、やけに止まってる時間が長く感じる。長すぎる。とくにラストクォーターでファールゲームになってしまうともうイライラして見てられない。3分間の打ち合わせ、プレイ再開とおもったら数秒でファール、ゲーム中断またも30秒間の軽い打ち合わせ、再開、という調子で短いセットプレーの連続が延々とくり返される。止まってる時間のほうが長えじゃねえか、こら。個人的にはファールゲームは見ていてイライラばかりがつのるので禁止するべきじゃないかと思う。なぜアメリカ人はあれを我慢できるのか不思議でならない。そういえば、アメリカで発明されたスポーツは、アメフトも野球も基本的に止まっている時間のほうが長くてセットプレーの連続である。なぜだろうと勝手な考察をしようかと思ったが、きっと大勢の社会学者たちによって、そんなアメリカンスポーツの形態とアメリカ社会との関係について、様々な解釈がされているはずなので、やめた。関係ないが、大橋巨泉がコメンテーターになって、スポーツバーでくだを巻いているおじさんみたいな調子で喋るアメフト中継が好きである。元選手を「解説者」にすえるスポーツ中継のあり方は、そろそろ見なおすべきではないかと思う。

 さらに自動車のレース中継も見た。5分で寝た。ぜんぜん見てられない。アメリカのオーバルコースのサーキットについて、ぐるぐる回っているだけで何が面白いんだという批判をよく聞くけど、ヘアピンがあろうと長い直線があろうと同じコースをぐるぐる回ってるだけという意味では、基本的にサーキットレースはみんな同じである。その様子はハツカネズミが車を回している姿を連想させる。モンツァもル・マンもホッケンハイムも個人的にはみんな同じに見えてしまうのである。やっぱり「乗り物」である以上は、A地点からB地点に移動してほしいのである。「チキチキマシン猛レース」が自動車レースの原風景である私としては、どこにも行かずにぐるぐる回っているサーキットレースは許せないのである。

■ A piece of moment 6/24

 衛星放送でやっていた「東京キッド」を見る。当時12歳の美空ひばりが絵に描いたようにこまっしゃくれた子役で、子役というのは昔も今もかわいくないものと決まっているらしい。映画はそんな「少女スター」美空ひばりが病床の母と死に別れ、健気に街角で歌い、やがて生き別れていた父親に引き取られてアメリカへ行くというどうでもいい話。とりあえず美空ひばりの歌うシーンはふんだんにあるから、あとはもう煮るなり焼くなり勝手にしてちょうだいとでっち上げた感じ。昨年末に「東京キッド」の歌詞を聞いて以来、なぜ東京キッドがマンホールにもぐるのか気になっていたので、ひたすら我慢してみていたが、最後までマンホールにもぐる場面なんか出てこなかった。なんじゃこりゃ。依然として「東京キッド」の歌詞は意味不明である。むしろ映画を見たら、どうでもいい映画のどうでもいい主題歌という感じがしてきて、歌詞の意味よりもなぜあんなのが昭和の名曲になってしまったのかのほうが気になっている。

■ A piece of moment 6/27

 夏になると棒々鶏が食べたくなる。よく冷やした鶏肉を細く切り、辛味噌をからめて食べる。少しお酢も加えて、酢味噌にして食べるといっそう美味しい。酢漬けのきゅうりと一緒に食べると幸せである。冷やし中華も棒々鶏ふうの味つけにすればいいのにと思うのだが、不思議なことにあの甘ったるい味つけでないと冷やし中華を食べた気がしないという冷やし中華愛好家も大勢いたりして、世の中複雑である。で、棒々鶏、自分でつくるのも億劫なので、仕事の帰りにバーミヤンに寄る。バイクを運転しながらアタマの中は棒々鶏で一杯。ごはんと中華スープがついて714円也。冷やしてある鶏肉を切って味噌をからめるだけなので、待つこと数分で棒々鶏登場。時給840円の新人バイト君がつくったのかもしれないけど、ちゃんと美味しい。この手の低価格ファミレスは価格破壊が流行っていた10年ほど前に急増したけど、どうやって経営が成り立っているのか不思議である。食事時を外していたせいか、店内に他の客はなく貸し切り状態だった。

 何年か前のこと、喫茶店で、5人くらいのおばさんグループが隣のテーブルに座った。30半ばから40すぎくらいで、そろいのジャージを着ている。どうやらママさんバレーの仲間らしい。ひまな日曜日にひとりでずるずるとコーヒーを飲んでいた私は、ぼんやりとバレーボールおばさんたちの会話を聞く。ところが、そんなこちらのぼんやり気分と静かな喫茶店の雰囲気に反して、彼女たちの会話は激しいものだった。その場にはいないコーチとメンバーについて、声を荒げて批判が展開される。「あのコーチの指導法ってさあ、前近代的っていうか理にかなってないじゃない、この練習じゃいくらやったって上達なんかしないわよ、まず目標をたてて、それを実現するためにはこれとこれとこれをするっていうふうにしていかないと今のままじゃ駄目になる一方よ」「あ、言えてる、だってあのコーチ、実績だってないしさ、思いつきであれやれこれやれって言ってるだけなのよね、早いうちにコーチの交代を要求するべきよ、練習メニューがどうこうっていう次元じゃないもの」「あんな練習やってられないわよね、なめんじゃないわよって感じ、でも、私たちから交代を迫るっていうのも角が立つし、田所さん経由でそれとなくコーチに言ってもらうのがいいんじゃないかな」「交代を要求するならいまがチャンスよ、いまやらないでこの状態に慣れてしまったらずるずるこのまま行っちゃうもの」……。ママさんバレーというのは、「ハァーイ田中さんパースっ」なんて調子で少し太めのおばさんたちが運動不足解消に和気あいあいとやってるものだと思っていたんだけど、どうも実体はぜんぜん違うらしい。スポコンの世界である。その風通しの悪そうな人間関係と彼女たちの威圧的な空気に圧倒される。田所さんが何者かはわからないがその苦労がしのばれるのである。コーチ批判がひと段落つくと、今度はその場にいないメンバーのひとりがやり玉に挙がった。「あの人と一緒だとラリーがぜんぜん続かないから練習にならないのよね」「あっあたしも、あの人とだけは組みたくないのよね、あの人と一緒だとこっちまで下手になったような気がしてくるんだ」「あたしあの人と一緒だとイライラしてきて思い切りボールぶつけてやりたくなってくる」「そうそうあたしも、ねえ、なんであの人うちのクラブに入ったの」「吉井さんの知り合いみたいじゃない、でも吉井さんだって保護者じゃないんだから、いまの状態じゃ居づらいわよね、このままだと吉井さんがやめちゃってあの人のほうが残っちゃいそうじゃない」「それ最悪」「それとなく他のクラブを勧めてみるとか」「あはは、それなら石井さんが適任ね、彼女、穏やかだけど雰囲気で相手を納得させちゃうから」「そうね、彼女が適任ね」……。恐い。ママさんバレー恐すぎる。要するに汚れ仕事を派閥の下っ端に押しつける相談だったのである。いい年したおばさんたちの同好の集まりだっていうのに、このよどんだ人間関係はなんなんだろう。彼女たちのグループ特有の現象であってほしいところだが、その後、近所の小平体育館でも、休憩所でおばさんたちが似たような会話をしているのを何度か耳にした。グループ内での確執や派閥をつくっての村八分というのは、この種のスポーツ団体に共通した傾向なのかもしれない。コーヒーの味がやけに苦く感じたのであった。もし、ママさんバレーのコーチを依頼されたとか、メンバーに誘われているという人がいたら、よくよく検討するべきである。

■ A piece of moment 6/30

 ママさんバレーの一件を職場で話すと、ベテラン男性陣たちはみなさんそろって同じようにニヤニヤしはじめる。「村田さん、ママさんバレーが和気あいあいだなんて幻想だよ、それはおとぎ話の世界」という言葉に一同ウムウムとうなずく。どうやら生徒の母親たちから同じ調子でとっちめられたりせっつかれたりした経験が少なからずあるらしい。御苦労様でござんす。とりわけ、女子バレー部の顧問は憮然とした顔で、「あの連中がそのまま30になり40になったらどうなるかもう目に浮かぶじゃない、ああ早く顧問やめたいよ、誰か代わってくれないかな」とぼやき出す始末。人間生きていくのは大変である。

 来月からタバコ値上げのため、気休めと思いつつ2カートンまとめて購入してみる。暑い日が続く。

■ A piece of moment 7/1

 1980年代、アパルトヘイトの続く南アフリカで、日本人は黒人勢力から「バナナ」と呼ばれていた。70年代に各国が国連の人種差別撤廃条約を批准し、アパルトヘイトを続ける南ア政府に圧力をかけるために取り引きを停止する中、日本だけは南アとの貿易を継続した。南アで採掘される貴金属が欲しい産業界からの要求に押し切られたのである。日本の行為は、当時、国際社会の中で孤立していた南ア政府から深く感謝され、「名誉白人」という奇妙な称号が日本人に与えられることになった。一方、黒人勢力からは当然ながら忌み嫌われた。「バナナ」という呼び名は、見た目は黄色いが、一皮むけば、その中身は自分たちを差別する南アの白人政府の連中と同じで真っ白だという侮蔑の意味が込められている。エコノミックアニマルと呼ばれた日本らしいといえば日本らしい外交のあり方である。保守系政治家や経団連関係者からは、「人権でメシが食えるか」と開き直ったような発言が聞かれた。日本が人種差別撤廃条約を批准したのは、南アのアパルトヘイトが終わった1995年のことだ。アパルトヘイトに対する処罰条約については、最後まで批准しなかった。

 政治的判断は利益と理念に由来する。両者が絡み合ったところで、政治的判断は為される。しかし、日本ではプロの政治家や外交官になるほど、国際問題について「国益」という文脈でしか発言しなくなる。戦後の60年間、日本から世界に向かって何らかの理念や理想を発信したことは皆無である。2年前、日本の安保理常任理事国入りをめぐってバタバタしていたとき、様々なメディアでさかんに聞かされたのは、日本は国連の費用の1/4を負担し続けているのに国際社会における日本の発言力は小さすぎるというものだった。きっと外務官僚たちは本気でそう思っているのだろう。だから常任理事国入りして日本の国際発言力を高めるべきと主張は展開される。しかし、彼らは、国際社会が耳を傾けるべき何らかの理念を日本が発信したことなどいままであったのかと顧みたことがあるのだろうか。日本が常任理事国になったらこのようなことをしたいという理念を示すことすらなかったというのに。結局、常任理事国入りをめぐっては、巨額の選挙資金をばらまき、醜悪な選挙工作を展開した末に、常任理事国入りのめどは断たれ、立ち消えになった。不様である。中国が強固に反対の立場を表明し、頼みの綱にしていたアメリカの反応も冷ややかだった。他の国々からも、日本が常任理事国になろうとしているのはたんに国益を高めたいだけと容易に見透かされていた。日本に友達はいなかったのである。それから2年、日本のメディアがあれほど大騒ぎをした常任理事国入りの話は、もうすっかり聞かなくなった。いったい選挙工作でいくらばらまいたのか、この騒動で国際社会における日本の立場の何が明らかになったのか、無責任に常任理事国入りを画策して騒ぎ立てた主犯は誰なのか、常任理事国入りの道がたたれた今こそ、メディアはこの騒動を冷静に評価するべきなのに。

 ここ数年、日本では毎日のように北朝鮮工作員による日本人拉致事件が報道されている。テレビも新聞も拉致事件における北朝鮮の非人道性を糾弾するという論調である。日本政府もこの事件を重大な人権侵害だとしてさかんにアピールしている。しかし、北朝鮮を攻撃したいアメリカ以外、国際社会の反応は冷ややかである。拉致事件はたしかに人権侵害だが、世界中でたくさんおきている人権問題のひとつであるという認識だ。そして日本は、そうした様々な人権問題についてなんら積極的な働きかけをしてこなかった。アパルトヘイトの時も、ピノチェトがチリで言論封殺と虐殺をくり広げた時も、ミャンマーの軍事政権がアウンサン・スー・チーを軟禁した時も、日本は何もなかったかのようにそれらの国々と貿易を続けた。地球の反対側で肌の色の黒い人間や貧乏人がどれだけ弾圧され殺されても、「人権でメシが食えるか」と黙殺してきたのである。そのツケがこういう所に回ってきている。つまり、日本政府が拉致問題の非人道性を声高に唱えても、自分が被害者になったときだけ人権問題を持ち出してきて大騒ぎしているというふうにしか見られない。

 そんなことをこの記事を読みながら考えた。フランスが言いだした「国際連帯税」、いつかこういう理念を日本から発信する日は来るんだろうか。それは目先の利益にはならないかもしれないが、国際社会での影響力を高めることで、長期的には国益にもつながるはずなのに。今回、日本はリーダーシップをとるどころか、反対の立場だそうである。やっぱりねという感じである。

国際連帯税、仏が導入 途上国支援で航空券に上乗せ
朝日新聞 2006年07月01日00時41分
 途上国支援のために航空券に課す「国際連帯税」が1日、まず提唱国のフランスで導入される。すべての航空会社のフランス発の航空券に1〜40ユーロ(約146〜5840円)を課税、税収を感染症対策などに回す。英国や韓国も同種の制度導入を検討しているが、航空会社の反対もあって日米などは消極的だ。
 フランスの課税額は、国内線と欧州域内(欧州連合25カ国+ノルウェーなど3カ国)線のエコノミークラスが1ユーロ、ビジネス、ファーストクラスが10ユーロ。それ以外の国際線にはそれぞれ4ユーロ、40ユーロを課税する。日本行きエコノミークラスは4ユーロ(約580円)高くなる計算だ。乗り継ぎでフランスの空港を経由する客(滞在12時間以内)には課税しない。
 年約2億ユーロ(292億円)と見込まれる税収は主に途上国の感染症予防や治療に役立てる。仏政府は、薬剤を大量購入して効率的に分配する仕組みを整えることで、メーカーに生産増や値下げを促せるとしている。
 連帯税の正当性について、仏政府は(1)航空市場はグローバリゼーションの恩恵で年5%成長を続けており、少額の課税には耐えられる(2)途上国の航空旅客は少なく、経済力がある層に広く浅く課税できる(3)仕組みが単純明快で、全航空会社が対象なので自由競争もゆがめない――と主張する。
 仏の連帯税収入(年2億ユーロ)だけでもエイズウイルス感染者130万人の治療が可能になる、という。6月28日に記者会見したドストブラジ仏外相は「事態は、地球規模の薬局が必要なところまできている」と述べた。
 国際連帯税の導入を表明しているのは17カ国。ブラジル、ノルウェー、チリ、韓国は今秋にも導入する予定という。ただ、17カ国には受益国、それも旧仏植民地が多く含まれ、主要国への広がりを欠く。仏政府は7月の主要国首脳会議(サンクトペテルブルク・サミット)で、日本などの参加を改めて促す方針だが、最大の航空市場を抱える米国は反対。日本でも、燃料高や集客競争に直面する航空大手が反対し、税の元締である財務省も冷ややかだ。

●「国際連帯税」の導入表明国(仏政府調べ)
フランス、ブラジル、ノルウェー、チリ、韓国、英国、キプロス、コンゴ、コートジボワール、ガボン、ヨルダン、ルクセンブルク、マダガスカル、モーリシャス、ニカラグア、マリ、カンボジア

■ A piece of moment 7/6

 夜中に目が覚めたので、サッカーの試合を見る。ワールドカップもいつの間にかもう準決勝、フランスとポルトガルの対戦。バスケットボールと違ってサッカーの場合、技術的なレベルが高くなるほど点が入らなくなるので、準々決勝ではふた試合が延長戦までやっても勝敗がつかずPK合戦になった。負けてうなだれる選手たちを見ると、PK勝負で勝ち残りを決めるやり方は、残酷だなと思う。チェスのことを引き分けの確率が多すぎてゲームとしては欠陥があると指摘する人は多いが、引き分けの確率ではサッカーも似たり寄ったりではないかと思う。なので、重要な場面で審判がファールをとるかどうかという判定が勝敗を大きく左右する。今回のワールドカップでは、ファールの後のセットプレーでゴールが入り、その1点を守りきって勝敗が決まるという試合展開がやけに目立つ。もちろん選手たちは、微妙なファールの判定が勝負の分かれ目になることを百の承知なので、オーバーアクションでひっくり返って見せ、ここぞとばかりに審判にアピールする。あざとい感じがするが、上手な転び方をして審判にアピールするのもテクニックのひとつということになっているらしい。フランスとポルトガルの試合でも、前半、ファールをもらったフランスがPKを決め、そのまま1点を守って勝った。決めたのは若ハゲのジダン。ゲーム展開はポルトガルのほうが押していた。

 5年くらい前、ドキュメンタリー番組にジダンが出てきて、故郷の町マルセイユを案内するというものがあった。ジダンの両親はふたりともアルジェリアからの移民でムスリム、ジダンはマルセイユのスラム街で育ったという。「貧乏でおもちゃなんか買えなくってねえ、なんでもいいからボールを蹴っ飛ばして遊んだんだ、狭い路地でみんなボールを取り合って、こうしてごちゃごちゃした路地でボールを操る中で色んなテクニックもおぼえたよ、ほらこれがマルセイユ・ルーレットのルーツなんだよ」と得意技のボールを後ろに出してくるっと回るテクニックを披露していた。大柄な身体といかつい顔に似合わず、訥々と話し、ときおり愛嬌のある顔でにっこり笑う若者だった。フランス代表の選手たちには、ジダン同様、北アフリカからの移民の子孫が圧倒的に多い。フランスの国籍制度は生地主義なので、不法移民の二世であっても国内で生まれた子供にはフランス国籍が保障される。国別対抗のワールドカップがしばしばナショナリズムの発露として右翼のお祭りになりがちなのとは対照的に、彼ら移民の子孫である選手たちはナショナリズムの高まりの中で政治的に微妙な位置に立たされる。2002年のフランス大統領選挙で、極右政党・国民戦線の党首ルペンが出馬し、アラブ移民の排斥をとなえて支持を集めていた時、ジダンをはじめとするサッカー選手たちは、「ルペンはフランスの恥」と書かれたプラカードを持ってデモ行進し、ルペンに投票しないよう呼びかけた。ジダンはテレビのニュース番組にも出演してルペン批判を展開、その様子はジダンの逆襲と呼ばれた。今回のワールドカップでも、FIFAのキャンペーンの一貫で、ジダンは試合前に「SAY NO TO RACISM」と書かれた大きなプラカードを掲げる。そんなジダンも今年で34歳。ハゲ頭にもすっかり違和感のない風貌になった。今回のワールドカップで引退することを表明しており、試合後のインタビューでは必ず記者から「また引退試合になりませんでしたね」と声がかかり、ジダンは笑う。飄々とした彼のキャラクターにサッカー関係者が親近感を抱いているのが伝わってくる。悲壮感はまったく感じさせない。ポルトガルとの試合後、お約束のユニフォームを交換で、ジダンは仲の良いフィーゴとシャツを交換した。彼はなぜかその場でフィーゴのシャツを着はじめ、ひとりポルトガルの赤いユニフォームでチームメイトの所へ戻り、お疲れさんと仲間たちの肩をたたいてまわった。

■ A piece of moment 7/11

 カメラ付き携帯電話の普及で、デジタルカメラの市場はあっという間に縮小した。5年前、毎週のように新製品が登場していたのがウソのようだ。各メーカーは軒並み利益率の高い「デジタル一眼」に移行し、ふつうのデジカメは、高価なデジタル一眼レフとカメラ付きケータイとの間にはさまれ、ニッチ商品になりつつある。しかし、どう考えてもデジタル一眼の形態は写真を撮るための道具として不自然である。もともと、一眼レフカメラは、ロールフィルムをモータードライブでびゅんびゅん巻き上げて連写するためにあの形状になった。横長の形状はロールフィルムを横送りするためのもので、やたらと大きなボディといかついグリップは巻き上げ用のモーターと電池を内蔵するため、プリズムの入った三角アタマは対物レンズがとらえた映像をフィルムとファインダーで共用するためのものだ。しかし、フィルムを使わないデジタルカメラには、そのいずれも必要がない。当然、機能性からいえば、デジタルカメラはまったく異なる形状になるべきである。1秒間に5コマも6コマも連写する人なんて、スポーツ写真専門のカメラマン以外に存在するとは思えないし、大きな液晶モニターのついているデジカメで、わざわざファインダーをのぞき込んで撮影する人もめったにいないだろう。機能満載のデジタル一眼は、メカマニアのためのギミックとしか思えない。メカマニアやカメラオヤジは、高価な機械を所有し、玩具としていじることでご満悦かもしれないが、それは何かを創作し表現するための道具ではない。では、デジタルカメラはどういう形態が機能的なのか。両手でしっかり持つことができ、液晶を見ながらボタンを操作しやすい形状、となると答はもうとっくにでている。PSPとゲームボーイである。どちらも持っていないが、携帯型ゲーム機はきわめて合理的なかたちをしている。持ちやすく操作しやすい形状で、胸の前に掲げたときにちょうど見やすい位置に液晶モニターがくるようになっている。おまけに軽くて丈夫。つまり、PSPに回転型のレンズがついた形態がデジタルカメラの基本形のはずである。デジカメがすべてそういう形をしていたらそれはそれでつまらないが、ひとつもないという現在の状況は不自然である。メーカーによると「カメラらしくない」形は消費者に受け入れられにくいので売れないということだが、マーケティング重視のモノづくりは保守的で退屈である。「カメラらしい」形というのが、35ミリフィルムを使ったコンパクトカメラと一眼レフでしかないというのも発想が貧乏くさい。なんてことをビックカメラの店頭でデジカメをいじりながら考えた。液晶モニターを見ながらカメラを胸の前に構えたとき、レンズが正面を向く製品は一台もなかった。使いにくいことこのうえない。結局、買わずに帰る。今後、携帯電話に付いているカメラの性能が良くなったら、デジカメは近いうちにすべて駆逐されるはずである。

 ワールドカップはジダンの頭突きで幕を閉じる。大笑い。

■ A piece of moment 7/21

 授業のページに靖国問題を追加。 → 靖国神社参拝問題

 昭和天皇の靖国発言メモ、参拝反対派は勢いづき、賛成派は大あわて。でも、「陛下のお言葉」で一件落着するんだとしたら、日本の民主主義っていったい何なのという感じがする。天皇は国事行為以外政治に関わらないのが現憲法のしくみだ。ただ、だからといって天皇に私的な場でも政治的発言は一切するなというのは、人間をやめろというのと同じだし、マスメディアに天皇の発言が漏れてくるのも当然のことで、それを報道するなというのは無理がある。なので、天皇の靖国への見解も「ひとつの考え」として受けとめるのが、象徴天皇制における天皇発言への基本的なスタンスだろう。天皇がA級戦犯の合祀について、批判しようが支持しようが、それを錦の御旗にするべきではない。参拝賛成派は天皇の発言メモを報道した新聞を批判するような姑息なことはせずに、昭和天皇の考えを正面から批判するべきである。でも、そうなると「天皇のために」戦った軍人を祀るという靖国神社の存在意義自体がゆらいでしまうので、論理の循環状況におちいるのであった。そもそも靖国神社に強いこだわりを持つ人々は、天皇発言をひとりの人間の見解にすぎないと見なすことができるんだろうか。自己矛盾に憤った右翼が怒りをスクープした日経に向けるとしたらあまりにお粗末。天皇制も靖国神社も廃止して、信仰に由来する権威と政治権力とを完全に分離してしまえば、すっきりするんだけど。

 ところで、靖国神社や護国神社への合祀について、遺骨を神社に収めることだと思っている人がいるけど、これは間違い。神社の帳面に名前を記載して魂を祀る儀式を行うというもので、あくまで儀礼的・形式的行為である。だから、靖国神社や護国神社に合祀されたことに不満を持った遺族が提訴したケースはややこしくなる。もし、遺族の意志に反して神社が勝手に遺骨を神社に移してしまったのなら、それは明らかに犯罪だけど、「魂の登録」という神道上の儀式となると形而上の話になってくる。例えば、オウム真理教から「アレフ」になった団体が、ある日突然、麻原彰晃を崇拝するのをやめて、小泉純一郎を神として崇める教義を唱え出したとする。事務所や修業場には巨大な小泉純一郎のポスターがベタベタと貼られ、中にはピンク色のハートマークが書き込まれていたりする。信者は修行場でそのポスターに向かって五体投地するだけでなく、派手な宣伝カーで街頭へあらわれ、小泉純一郎の魂を崇める教義を盛大に唱えながら踊っている。マスメディアもその奇妙な活動をさかんに注目しはじめた。あのイメージの悪い団体から崇め讃えられるのは、実質的に褒め殺しと同じである。小泉純一郎事務所は「迷惑だから」としてその活動をやめるように注文するが、アレフ側は「政治的意図は一切なく、純粋に自分たちの信仰なんだから変えることはできない」という。さらには、「本人の意志とその魂の有り様とは関係がない」などというわかるようなわからないようなことを言いだした。さあどうするってなわけで、たとえ裁判になったとしても、そこに何らかの犯罪行為がともなわない限り、信仰や教義のあり方自体について法律が介入する余地はないわけで、どうにもならない。裁判所では魂は扱っていないのである。というわけで、靖国の「合祀」を遺族がどんなに嫌がっていても、裁判所は神社の教義にまで踏み込んで「祀るのをやめろ」とは言えない。クリスチャンの妻が死んだ自衛官の夫を護国神社に合祀されたことに異議をとなえたケースでは、一審二審で妻の「心の平安」を尊重する判決が出されたが、これは妻が拒んでいるにもかかわらず自衛隊という公的機関が一方的に護国神社に合祀の依頼をしたことについて、政教分離の点から違憲と判断されたもので、「合祀された魂」という宗教的教義については裁判所としても口を出しようがない。おまけに靖国神社の教義では、いったん合祀された魂は分けることは不可能なんだそうで、厄介である。合祀という儀式が政治的に利用されることがなければ、たんに奇妙な宗教というだけのことだが、靖国神社はもともと政治的意図を持って運営されてきた神社なので、ひたすら厄介である。もっとも、私の魂が祀られることはどう考えてもなさそうなので、そちらの心配はないのであった。

■ A piece of moment 8/23

 暑さでへばっています。近所のファミレスに涼みに行くのが日課。ドリンクバーとほうれんそうの炒め物で短編小説を数本。店から出ると深夜にもかかわらずほとんど気温が下がっていないようで、風呂場のような空気が手足や首筋にまとわりついてくる。街頭に照らされたアスファルトをとぼとぼ歩いていると、大量の水蒸気をはらんだ空気には、重さと実体があるような気がしてきて、町全体が熱帯魚の水槽に入ったかのような錯覚をおぼえるのだった。

 最近話題の変なボクサー。ボクシングに積極的関心を持たず彼の試合を一度も観たことがない私の所にも、発言が無礼だの下品だの若者に悪影響がでるだのといった批判のほうは聞こえてくる。変なの。ボクサー君に何を求めてるんだろう。面白いボクシングをしてくれればそれで良いじゃないの。マザー・テレサでもダライラマでもないんだし、ましてや一緒に暮らすわけでもないんだから。そもそもボクシングが上手というだけの若者をロールモデルにしようという発想のほうがどうかしているのである。若者の手本にしたいのなら、難民キャンプで医療活動をしている人たちなど、それにふさわしい人を選べばよいのである。同様に清原が夜の六本木で場外ホームランをかっ飛ばそうが、三浦カズがキャバクラでハットトリックを決めようが、イチローが不倫相手の人妻に奴隷プレイを強要しようが、彼らのスポーツ選手としての評価には関係ない。彼らは相手を殴ったりバットでボールをひっぱだいたり蹴っ飛ばしたりするのが上手な人たちであり、それ以上でもそれ以下でもない。優れたスポーツ選手であることと高潔な人格や高い社会見識は無関係である。「あこがれの選手」を偶像化し、彼らに優れた人間性を求めようとするメンタリティは、物語の登場人物に恋愛感情を抱いてしまうティーンエージャーなみの幼稚さである。また、顔と名前が知られているというだけでスポーツ選手を社会的名士あつかいをするメディアの中のパブリックイメージもそうした幼稚なメンタリティの上に成立する。元スポーツ選手にニュースやワイドショーのコメントをさせたり、国会議員に引っ張り出したりするのは、もはや狂気の沙汰としか思えない。したがって、批判されるべきはガラの悪いボクサー君ではなく、昼のワイドショーで連続殺人事件についてもっともらしくコメントをしていた元ジャイアンツのピッチャーと彼を起用した番組プロデューサーのほうであり(すぐに番組は終わったけど)、また、自称「教育改革とスポーツ振興に熱心に取り組んでいる」元スケート選手のおばさんと彼女の所属政党なのである(こちらはまだ現役)。ただ、試合前の記者会見で鶏モモにかぶりつくパフォーマンスは中途半端でいただけない。どうせやるなら生きたヒヨコかカエルでも丸呑みするべきである。ついでに口から盛大に火を吹いてくれればなかなか大したもんである。えっ肝心のボクシングの試合もつまんなかったって。なら早めにプロレスに転向してもらうといいんじゃないでしょうか。

■ A piece of moment 8/24

 二学期の授業では、人権問題のあれこれを取りあげる予定で、靖国問題も含めて信教の自由の問題も登場する。ややこしいのは、社会慣習・伝統慣習と宗教的行為との境目で、地鎮祭は?葬式の後の清めの塩は?お彼岸のぼた餅は?クリスマスのケーキは?お正月に区役所が門松を飾るのは?と例をあげるときりがないほど微妙な話になってくる。いちおう最高裁では、公共団体が地鎮祭をとりおこなうまでは合憲で、靖国神社に玉串料を払って玉串の儀式をしてもらうのは違憲というところで線が引かれている。まあ、地鎮祭は家を建てるときにやる一般家庭も多いし、社会慣習として定着しているから税金でやってもOK、でも、靖国神社の玉串の儀式は社会慣習として定着していないし宗教儀式とみなされるので税金でやっちゃ駄目という判断。妥当な感じもする。そんな説明をした上で、生徒に聞くとだいたい8割くらいが最高裁の判断を支持するという。でも、待てよと思う。クリスマスの日に公立小学校の給食にちょっとしたケーキが出たとする。それはまあいい。クリスマスにケーキを食べる習慣は社会慣習として定着しているし、ケーキが出るくらいでキリスト教の儀式とは言えないだろう。でも、学校に神父さんを招いてお昼の時間に校内放送でミサをやったとしたら、どうか。校内放送で神父さんが「みなさんも祈りを捧げましょう」なんて言う。それはちょっとという感じで、どう考えてもまずそうだ。新聞沙汰になって、神父さんを呼んだ教師と校長のクビが飛びそうである。そう考えると、クリスマスの日に公立学校に神父さんを招いてミサをやるのと、公立体育館の建設にあたって神主さんを招いて税金で地鎮祭をやるのと何が違うのかということになってくる。どちらも宗教家を呼んで儀式を執り行ってもらうという点では同じである。神父さんのクリスマスミサがまずいのなら、神主さんの地鎮祭も税金でやっちゃまずいのではないか。そう問いかけた上で、再び生徒に聞くと、今度は逆転して7割が地鎮祭もまずいという。良いという3割の生徒に、それなら公立学校で神父さんにクリスマスのミサをやってもらうのも良いのかと聞く。それは駄目だと彼らは口をそろえて言う。では、クリスマスのミサと地鎮祭とは何が違うのか。彼らはむむむと口ごもり、やがてひとりふたりの気のきいた生徒が、社会慣習としての定着具合の違いを指摘する。地鎮祭には一般性があるが、クリスマスのミサはカトリックの信者に限定されると。では、とさらに生徒に尋ねる。定着具合や一般性というのは、日本で神道は多数派でカトリックは少数派という信者の数の違いによるものではないのか。だとすると、多数派の宗教儀式は税金でやってもOKで、少数派のは駄目という発想になる。それは信教の自由の侵害ではないのか。少数派の信仰を弾圧する行為にあたるのではないのか。神父さんだと違和感をおぼえるのに、神主さんなら慣習として受け入れやすいという状況はたしかにある。しかし、20条の政教分離は神道思想と一体化した戦前の政治のあり方への反省が背景にあり、むしろ慣習化した神道儀式にこそきびしく適用されるべきものではないのか。そう問いかけると状況は煮つまり、生徒からの意見は出てこなくなる。信者の数以外に、クリスマスミサと地鎮祭との「一般性」の違いって何でしょう。ポイントは、ふだん神社とつきあいのない人たちや浄土真宗や日蓮宗やクリスチャンやムスリムの人たちが、家を新築する際には地鎮祭をやるのかという点で、そうした人々も地鎮祭をやるのなら、宗教をこえて社会慣習として定着しているということになる。ところが、ややこしいことに地鎮祭には神式以外にも、仏式、キリスト教式などなど色々あるのであった。むむむむむ。そうなると、地鎮祭自体は宗派をこえて一般性を持つように見える。あ、でも、宗派によって様式の異なる地鎮祭を「一般的」というだけで役所が神式でやろうとするのは、他の信仰を持つ人々の信教の自由を侵害することになる。やはり税金使って神主さんを呼んじゃまずいのではないか。どうせならいっそのこと、公共施設の建築にあたっては、ラビを呼んでユダヤ教式の地鎮祭をやることにしてくれたら、興味深いので、私、見学に行きます。というわけで、論述問題として出題してみたい気もするけど、採点がややこしそうです。
 → All About 地鎮祭レポート
 → 社団法人 兵庫県建築設計事務所協会 建築の儀式の神式・仏式・キリスト教式の比較
 → カトリック松原教会 クリスチャン神父のQ&A (こちらの神父さんは地鎮祭を「迷信」として否定しています)
 → 津地鎮祭訴訟 上告審判決

■ A piece of moment 8/27

 疑問のページの「ドミニク」について、新しい情報をいただいたので、追記しました。
 → 疑問の泡2.ドミニク

■ A piece of moment 9/7

 以前書いた「だめんず・うぉ〜か〜」の文章がへんだったので全面的に書き直す。書き直してもやっぱりへんだけど。
 → 疑問の泡80.だめんず・うぉ〜か〜

■ A piece of moment 9/10

 散歩途中、道端の猫をなでる。獅子鼻で妙に立派な顔つきをしているので大将と呼んでいる奴で、今日も緊張感なく長々と寝そべっている。推定体重10kgの巨漢。嬉しそうなのでさらにわしわしなでる。もっとなでろというので片手をアタマにもう片手をアゴの下に両手でなでまくる。喜んでもらえてなによりである。大将、よだれがたれてますぜ。


 お昼に松屋で肉野菜炒め定食を食べる。なぜか店内は冷房が効いていなくて、アタマから汗を流して肉野菜炒めを食べていると、二十歳前後の男の子が入ってきて、思春期の男の子特有のぶっきらぼうな調子で牛丼弁当を注文し、「お持ち帰りで」という。自分が持ち帰るのに「御」の尊敬語をもちいるのは変なんだけど、こうした店でテイクアウトを注文するときに客が自ら「お持ち帰りで」と言ってしまう感覚はなんとなくわかる気がする。実際、よくそういう場面に出くわす。なぜだろうとしばし考える。「お持ち帰り」というのはいうまでもなく、「御」+「持ち帰る」という相手への尊敬を込めた表現だけど、たいていの人は日常会話の中で「お持ち帰りになりますか」なんて言ったりしない。どういう場面で使われるかというと、ほとんどが商売上の取り引きがらみであり、牛丼やハンバーガーのテイクアウトを注文した時や大型の電気製品を買ってそのまま持って帰るときに、もっぱら店員さんが言う決まり文句である。つまり、「お持ち帰り」という言葉は、「御」+「持ち帰る」という相手への尊敬表現としてではなく、取引のオプションを表す業務用語として認識されている。したがって、自分の動作に「御」をつけても違和感を感じにくく、牛丼のテイクアウトもナンパした相手を連れ帰るのも「お持ち帰り」となる。敬語表現は業務上の会話でしか使われなくなってきており、逆に業務における会話ではやたらめったら使われるので、このまま敬語の業務用語化が進行すると、今後、自分の行為に「御」をつけるのも慣習として許容されていくのではないかと思う。個人的には、敬語が正しく使われていないことよりも、業務上の言葉をやたらに敬語で飾り立てるビジネス習慣のほうが下品に感じる。ビジネス敬語は体裁をつくろうための業務用語にすぎず、そこに敬意の念は込められていない。「女の子のお持ち帰り」は、そんなビジネス敬語を業務外に転用した表現でさらに下卑ている。企業慣習を批判する視点をもたず、ただ順応しようとするアタマの悪い若いサラリーマンたちが言いはじめたのだろう。ていねい語以外、敬語表現は廃止すべきだと思う。

■ A piece of moment 9/14

 昨日の授業のテーマは、インドで現在も続いているカースト制度。カーストの最下層、ちょうど日本の「えた・非人」に相当する被差別階層の不可触民について、彼らの置かれている状況と彼らの声とを紹介するアメリカCBSによるテレビレポートを見た後、こんな課題を出した。
 インドのカースト制度は、2000年にもおよぶ長い歴史を持つ身分制度です。人々を職業と肌の色で階級づけ、上位のカーストに所属する人々が下位の人々を支配するしくみとして続いてきました。人々は長年にわたって、親から子へ同じ職業を引き継ぎ、結婚も同じカースト内で行われてきました。また、カースト制度は、ヒンズー教の教えと密接に結びつき、インド社会の様々な伝統慣習に根づいています。そのため、1950年に制定されたインド憲法では、カーストによる差別を禁止し、被差別階級である不可触民を廃止したにもかかわらず、実際にはその後もほとんど改善されておらず、現在に至っています。
 国連は人権問題には国境はないという立場をとっており、人権委員会は、しばしば、このカースト制度の問題を指摘しています。しかしその一方で、カースト制度は職能制として長年インド社会に定着してきた伝統慣習なので、外国人が口を出すべきではないと主張する人々もいます。日本政府はこの問題にどのような立場をとるべきなのか、次のAとBの主張を参考にしてあなたの考えを述べなさい。

A 人間の社会には様々な文化や慣習があり、制度や法律も社会によって異なっている。カースト制度は、欧米や日本の基準から見ると「差別」だが、カーストに基づいて代々同じ職業につくという制度は、人々に職業を割り振るしくみとしてインド社会に定着してきたものである。このしくみによって安定した社会を築くことができたからこそ、カースト制度が2000年にもわたって続いてきたといえる。このような制度について、欧米各国や日本が人権侵害と批判するのは、西洋近代社会の基準に基づく一方的な解釈であり、インド文化を尊重する姿勢に欠けるのではないだろうか。カースト制度を慣習としてこのまま続けていくのか、それとも改革していくのかということは、インドの人々の判断にまかせるべき課題であって、日本政府が口をはさむ事ではない。

B どのような社会・文化に所属する者であっても、自尊心が踏みにじられ、人から見下されたとき、怒りや憤り(いきどおり)をおぼえる。カースト制度が人々に職業を割り振る職能制としてうまく機能してきたというが、それは不可触民たちの自尊心を踏みにじることで機能してきたしくみである。いくら長年にわたって続いてきたインドの伝統であったとしても、このような差別的な慣習が許されるはずがない。この状況を改善するため、日本政府は積極的に働きかけ、差別される人々に手を差しのべるべきである。いままで日本は経済的な利益を優先させ、アパルトヘイトを行っていた頃の南アとも貿易を続けるなど、国際的な人権問題に積極的に取り組んでこなかった。今後、日本が人権問題に積極的に取り組んでいくことは、国際社会における評価や地位を高めることにもつながるはずである。
 中根千枝や養老孟司 は、カースト制度について一種の職能制としてうまく機能しているのだから、近代的価値観で批判するべきではないと言っている。しかし、この「うまく機能している」というのは、あくまで下層民の忍耐の上に成立している職能制である。死体や汚物の処理はすべて彼らの仕事とされ、公共の井戸を使用することが禁じられ、店では別のコップや皿を使わされるという状況について、彼らが自尊心を踏みにじられると感じ、不可触民の優遇措置をめぐってインドでは度々暴動や虐殺が起きていることを考えると、「職能制としてうまく機能している」という解釈はあまりに一面的だ。カースト制度についての見方は、どの階級に所属するかで大きく異なり、当然のことながら上流階級に所属する者ほど、カースト制度を肯定的にとらえる。中根千枝も養老孟司も上流階級に所属するインド人しか知らないのではないかと思う。なので、「職能制としてうまく機能している」という発想は問題外として、課題の論点を、日本政府がこの問題にどのように対応すべきかに置いた。

 ニュース映像を見ながら、テレビドラマの「スタートレック・ネクストジェネレーション」を思いだした。宇宙船エンタープライズ号の乗組員たちが銀河のはてで様々な異文明に出会うというSFドラマで、そのエピソードの多くは、社会問題や人種問題を宇宙人に置きかえて、一種の思考実験を試みるという内容だった。文化人類学を専攻した作家がシナリオを書いていたのかもしれない。とりわけ、異文明における弾圧や虐殺に直面した際に、宇宙船の乗組員たちが彼らに関わるべきなのか自問自答しながら、その文明の独自性を妨げずに状況を改善する方法を模索するというエピソードは、このシリーズの軸になっていて、乗組員たちは様々な場面でそうした判断をせまられる。見ていると、こちらの価値観が試されているような印象を受けた。ドラマとしての評判も良かったようで、その後、数多くの続編がつくられたが、後のシリーズになるほど単純な冒険活劇に先祖返りしていき、現在放送されている新シリーズでは、保守化するアメリカ世論の影響なのか、宇宙船船長の超人的な活躍によって、悪の異星人の陰謀から地球と宇宙の平和を守るという古典的な勧善懲悪のストーリーになっている。唯一の見どころはレオタードみたいなコスチュームを着た宇宙人美女。惰性で見ているが、かなり苦痛である。

■ A piece of moment 9/18

 8月9月と録りだめたテレビドラマをまとめて見る。次回が楽しみなのから惰性で見ているのまで、継続的に見ているのは次の7本。10段階で評価してみたりする。

 ・シックスフィート・アンダー(3期) → 5
 「アメリカン・ビューティ」の脚本家、アラン・ボール製作総指揮による心あたたまらないホームドラマ。舞台はロサンゼルス郊外、主人公の一家は家族経営で葬儀会館を営んでいる。彼らを描くまなざしは現実感が希薄で、登場人物たちが激しいセックスをくり広げても崩壊の予感をはらんだまま家族が食卓を囲んでいても、共感も批判もせず、彼らの営みを遠くからながめるように描かれる。(ゲイカップルのセックスシーンがやけに多い。アラン・ボールの趣味らしい。)個々のエピソードよりも登場人物たちが抱く既視感と末期のまなざしで日々の出来事を描写することが物語の核になっている。登場人物たちの空想の中で死者が語り出す場面も多いが、これは表現が直接的すぎてあまり多用されると興ざめ。最初のシリーズは面白かったが、2期に入って、葬儀会館の一家よりも各話ごとに登場するそこで葬式をあげる人々の物語にウェイトが置かれ、少々散漫になる。3期ではいきなり主人公の長男の状況が変化していて混迷中。3期全体を通してシリーズの伏線を張ろうとしているような印象を受ける。3期に入って1話ごとの完結性はふたたび薄れ、ゆっくりとしたテンポでメインキャラクターの状況と心境の変化が描かれていく。映画の「アメリカン・ビューティ」では、崩壊していく家庭と現実感の喪失が加速するように展開していったが、連続ドラマで一気にそちら側へ行ってしまうと後が続かなくなってしまうので、毎回、行きつ戻りつという感じで宙ぶらりんの状態が継続している。見ていると放置プレイを受けているような気分。主題が連続ドラマという形式に合っていないような気もする。3期の起伏なくだらだら続く展開はつらいものがあるが、後に来る大きな展開への伏線と解釈することにして、長期戦のかまえ。また、ほぼ完全な続き物の展開なのにシナリオの担当者が毎回異なるため、メインの登場人物たちの性格描写にブレが大きいのも欠点。1話ごとの完結性を捨てて続き物として引っぱっていくなら、ひとりの脚本家がシナリオを担当するべきである。
 ・ER(11期) → 3
 10年以上続いているおなじみの病院ドラマ。今シーズンは、唯一のオリジナルメンバーになったカーターくんまでとうとうシカゴ・カウンティ病院を去ってしまう。それでもドラマは続くどこまでも。カーターくんの最終話ははなむけになるようなエピソードもなく、現在のメインキャストは最近加わったメンバーばかりでカーターくんとは共有する思い出もほとんどなく、彼はわびしく去っていく。いちおう送別会は開かれるが、参加者はまばら。それすらも途中で事故が発生してみな病院へ戻ってしまい、送別会の席にはカーターくんだけが取り残される。マーク・グリーンが脳腫瘍で病院を去ったとき、カーターくんは彼から「君が中心になれ」と言われる。それを思い出しつつカーターくんは、新たにチーフレジデントになったモリスに同じ言葉をかけるが、べろべろに酔っぱらっているモリスは「へえっ?」という反応。現在のERメンバーがチームとして機能していないことばかりが強調される最終話で、ドラマとしても破綻すれすれ。これでまだ続くんだろうか。もしシカゴで事故にあってもカウンティにだけは運ばれたくないのである。
 ・華麗なるペテン師たち → 10
 BBC製作による詐欺師集団を描いたドラマ。ひと癖ある5人組みの詐欺師チームが、えげつない儲け方をしている人間を標的にし、巧妙に網を張り、鮮やかに大金を巻き上げていく。1話完結の連作。これは面白かった。洒落たオープニング、複雑なプロットとスピーディな展開、油断して見ているとこちらまで一緒にだまされてしまう巧妙な演出。見るたびに「やられた」という気分になる。6話で終わってしまったのが残念。
 ・翔ぶが如く → 9
 1990年に放送された大河ドラマの再放送。ドラマ自体は良いんだけど、再放送なのに週1本ペースで初回放送と同じ1年かけてやっている。古いテレビドラマの再放送で構成されているCSチャンネルは、シリーズをまとめて一気に放送するからこそ存在意義があるはずなのに、どうしてこういう番組編成をするのか理解できない。ドラマは西郷隆盛と大久保利通との友情を軸に、幕末の動乱と明治の新政府が描かれていく。明治維新を境に1部・2部にわかれる構成になっていて、ドラマの雰囲気は大きく変化する。1部は幕末を舞台にした一種の青春ドラマで、西郷と大久保を中心に若い薩摩藩士たちが倒幕に向かって進んでいく高揚感がある。2部では一転し、倒幕の功労者となったふたりは周囲の思惑の中で身動きがとれなくなり、やがて決定的に対立、西南戦争へと向かっていく。こちらはマクベス的な運命論がドラマ全体に重くのしかかっている。司馬遼太郎の原作は2部だけだが、したり顔で時代を語る司馬節が鼻につく2部よりも、脚本の小山内美江子によるオリジナルの1部のほうがだんぜん面白い。西郷に西田敏行、大久保に加賀丈史、他、佐藤浩市、蟹江敬三、内藤剛志、樹木希林、石田えりと良い役者が収まるべきところに収まっているという感じ。大根の加山雄三までよく見えてしまうから摩訶不思議。草野大梧による薩摩弁のナレーションがまた良くて、彼の訥々とした語りが1部全体のトーンをつくりだしている。
 ・スタートレック・エンタープライズ(4期) → 3
 ようやく完結。やたらと好戦的でヒロイックな展開には、ファンも背を向けたようで、第4シーズンで終了。完全に惰性で見ていただけだったので、終わってほっとしている。なぜかラスト3話になってから調子が上向くが、これはいままでのシリーズの遺産に乗っかってのこと。最終回がネクストジェネレーションのメタフィクションとして描かれているのは、エンタープライズがひとつのドラマとして魅力に欠けていたことを象徴している。やたらとシリーズのつくられたスタートレック世界は、アメコミのように閉じた小宇宙を形成していて、300年間におよぶ未来史は巻物のように長い年表になる。完全に一見さんお断り状態。ドラマの各エピソードはひとつの物語としてどうこう言うのではなく、スタートレックワールドを構成するパーツとしてとらえるべきなのかもしれない。ドラマとしては不健全だと思うが、マニアは増え続けるDVDのコレクションとさらに詳細な年表の作成に意義を見いだしているんだからそれで良いような気もする。女性乗組員のセクシーシーンは歴代のシリーズの中で最も多くて、バルカン星人美女の見事な腹筋が唯一の見どころだった。
 ・ジェシカおばさんの事件簿(1〜3期・日本語吹き替え版) → 5〜7
 ご存知ジェシカおばさん。1話完結の連作で肩の凝らないミステリー。眠いときに見ても大丈夫。寝ちゃっても大丈夫。わくわく感もずしっと残る手ごたえもないけど、嫌味のないストーリーとこなれた演出で楽しめる。45分間の暇つぶし。それ以上でもそれ以下でもない。ただ、各エピソードは当たり外れが大きい気がする。20年以上も続いているシリーズだけど、なぜか日本では初期の古いシリーズばかりくり返し再放送されている。森光子の吹き替えでなくても良いから4期以降も放送してほしいのである。
 ・刑事コロンボ(旧シリーズ) → 6〜9
 こちらは旧シリーズの再放送だけで満足。何度も見ているのでもはやちゃんと見ることはないけど、CS放送で流されているだけで良いのである。「奥様は魔女」や「ペリー・メイスン」「ミステリーゾーン」なんかと一緒で、見なくてもいつも番組表には載っていてほしい気がする。

 あと、評価不可能な一本。アニメ。
 ・攻殻機動隊 STAND ALONE COMPLEX
 むずかしいアニメである。サイボーグ美女の主人公はなぜかいつも下着姿である。職場のオフィスでも町中でも、マドンナがMTVで着ていたみたいなTバックのボンデージスーツでうろうろしている。主人公はその格好で遠い目をして認識論や国家論を語ったりするのである。シュールである。15年くらい前に少しだけ読んだ原作はサイバーパンク風味のソフトポルノみたいなマンガだったので、その内容自体の良し悪しは別にして、こちらなら主人公が下着姿で高層ビルの屋上からジャンプしようとその下着がTバックだろうとボンデージだろうと半乳が出ていようと別に違和感はない。主人公は読者と作者自身のオナペットであり、ストーリーに関係なく半裸でマシンガンを乱射したりするのもサービスシーンである。いやむしろ、半裸のサイボーグ美女がマシンガンを乱射したり高層ビルからダイブしたりする活躍を描きたいという欲求こそがまず先に作者にあって、そのセクシャルファンタジーを可能にする舞台装置として、「電脳化」、戦争による社会の荒廃、超法規的な秘密警察の活動という背景が構築されていたのだと思う。要するに「そういうマニアックな好みの人もいるのね」という程度の他愛のないソフトポルノという印象だった。原作では、性的快感を脳に直接転送するプログラムに主人公が接続して悶えつづけるなんていう露骨なエピソードもあったように思う。ところがアニメ版の主人公は同じ格好で登場するにもかかわらず、押井守の影響なのか、やけにシリアスな話が増え、セクシャルなエピソードはまったく出てこない。緻密に描かれた作画と妙に緊迫感のある演出で、重たい雰囲気の中、特殊工作員との戦闘が繰りひろげられ、主人公は遠い目をして人間と人工知能の身体感覚の違いについて語る。なんだかまるでランジェリーパブに行ったら、半乳あらわなおねえさんにいきなりデカルトの心身二元論について講義されるような感じ。もちろん、ランジェリーパブに勤めるおねえさんがデカルトを愛読していてもいっこうにかまわないわけだけど、下着姿のセクシーなおねえさんを前にしたら、身体と精神の二元論について論じたり武装テロリスト制圧のための60ミリ口径ハンドガンについての薀蓄を聞かされりするのでなく、もっと別の展開を期待するのである。もっともそれはたんに私が俗物であるためであって、世の人々は半乳あらわなボンデージおねえさんのお色気にびくともせず、彼女が遠い目をして語る認識論や国家論について心の中でうなずいたり相づちを打ったりしているのかもしれない。わからない。まったくわからない。なんだかひどく難しいことをやろうとしているアニメに見える。
 → TwistedSpace: 攻殻機動隊STAND ALONE COMPLEX

■ A piece of moment 9/23

 2日がかりでバイクの修理。1日目、ガソリンタンクの交換。4月にお隣さんに倒されてべっこり凹んでしまったガソリンタンク、半年間、ゴムシートを貼ってごまかして使っていたが、先週、ようやく中古の出物を入手。ヤフーオークション偉大なり。内部にサビはなかったので、とりあえず内側をガソリンで洗浄だけしてえっちらおっちら取り替える。やたらと大きいので重労働。車体に取り付けていたら、道行く小学生が「おしおきだべぇ〜」と言いながら去っていく。なんだありゃ。2日目、エンジンからサーモスタットへ出る冷却水のゴムホース2本を交換。4月にオーバーヒートした際、エンジン右側から緑色の冷却水が噴き出す。見るとゴムホースが劣化してふにゃふにゃになっていて、サーモスタットとの接続部分が密閉できなくなっている様子。ゴムパーツは全部交換したいところだけど、20年も前に製造されたバイクのゴムホースなんてメーカーにもストックがないので、とりあえず径の合いそうなゴムホースを探し、2ヶ月かかって入手。これもヤフー。部品は手に入ったけどどう考えても面倒な作業になりそうなので、4ヶ月間放置して今日に至ったのであった。V型エンジンの前シリンダーと後シリンダーのそれぞれからサーモスタットへ出ているゴムホースで、手の入らないじつに嫌な位置にホースの接続箇所があって、その後もちびちび冷却水が漏れているのが気になるけどその嫌な位置にあるホースの接続箇所を見ると作業する気が失せてしまって4ヶ月経過。で、作業は予想どおり悪戦苦闘する。新しいホースがうまくはまらずにじたばたやっていたら、背後からすたすたと足音が聞こえる。なんだまたガキんちょの野次馬かと振り向くと、目の前にカラスがいて、カラスは何やら興味深げな様子でしげしげとこちらを見ているのだった。小首をかしげながらこちらの作業状況を観察する様子は、昼飯後の授業の生徒たちよりずっと賢そうで、仲良くしておけばそのうち修理を手伝ってくれるにちがいない。まあお近づきに緑色の冷却水でも一杯どうぞ。ぼくの手が入りにくいところのボルト締めはカラス君にまかせるから、よく見て、手順をおぼえておいてね。さあさあ冷却水もう一杯いかが。蛍光緑色で抹茶みたいだよ。冷却水の経路はサビと水垢で赤茶色になっていたので、洗浄剤で洗った後、新しい冷却水を入れてどうにか終了。カラス君と遊んでいるうちに日も暮れる。さらば土曜日。




■ A piece of moment 9/24

 友人宅で晩ご飯を食べながら「世界不思議発見」を見る。家でひとりで見るのはつらい番組だが、世間話をしながらとりあえずつけておくのにちょうど良い。ひさしぶりに見たらスタジオのセットはずいぶん変わっていたが、番組の構成は10年前からまったく同じだった。感心するのは、この種の番組が異文化をレポートする際、忠実に文化相対主義の視点に基づいていることだ。アフリカやニューギニアの伝統的な部族社会をレポートするとき、「野蛮」「未開」「おくれている」といった論調は絶対にもちいない。中央アフリカの牛糞と泥を塗り固めてつくった家屋や昆虫を油で炒める料理について、レポーターはヨーロッパの宮殿や晩餐を紹介するのとまったく同じ調子で語る。若い女性レポーターが芋虫のから揚げに顔をしかめることはあっても騒ぎ立てることはない。大げさではなく、1980年代にこの種のテレビ番組が増えたことが、日本人の文明観を変えたのだと思う。それがひいてはアイヌ文化や沖縄文化の再評価にもつながっているのだと思う。ヨーロッパのテレビドキュメンタリーの中には、いまだに「ヤコペッティの世界残酷物語」のような調子でアジアやアフリカの風俗をレポートするものも少なくない。そこでは、「彼らは西洋文明とはまったく違うまなざしで現代を生きているのである」というナレーションとともに、その生活習慣の奇妙さや滑稽さが強調され、見せ物小屋的にレポートされる。レヴィ=ストロースが1950年代に唱えた「それぞれの社会・文化には独自の発展性と価値を持っている」という文化人類学の視点は、近代文明を異文化として受け入れた日本にむしろ根づいているのではないかと思う。

■ A piece of moment 9/26

 受験の話。去年まで受けもっていた高校は進学校で、とくに早稲田に進学する生徒が多い。そうした中に、早稲田を蹴って、農工大や電通大や都立大(首都大学)といった地味めの国公立を選択する生徒もいる。家庭の経済的事情なのかなと思ったらどうもそれだけではないようで、進路指導担当者によると、「本人に研究したいことがあってコツコツやるタイプなら、地味めの国公立でじっくり専門分野に取り組むのも良い選択だと思うよ、とくに理系は」とのこと。なるほど合理的である。進路指導担当者はつづけて、「もちろん就職や人脈づくりではネームバリューのある早稲田のほうが有利だけどね、だから、本人の希望と資質を見てアドバイスすることにしてるんだ」と言っていた。へえと感心した記憶がある。「東大フタケタ」が職員室の合言葉みたいな高校だったので、進路指導は予備校や進学塾みたいにとにかく有名大学に生徒を押し込むことだけを考えてるのかと思っていたら、案外まともなことをやっているのであった。もちろん、両方合格する力があっての選択肢であることは言うまでもないけど。

 で、今年は別の進学校と定時制高校とのかけ持ちで落差が大きい。ただ、どちらも多摩地区の学校で、都心部とくらべてのんびりしている。そのせいか、進学校といってもいまいち合格率は伸び悩んでいる。進路指導担当者によると、「気合いが足りないんだよね」とのことだが、授業を受けもった感触だと、習ったことはおぼえるけどその知識を使って知らないことを類推したり自分なりの考えを組み立てる能力に乏しいという感じ。マジメだけど応用力に欠けるというか、知識が教科書の中だけで完結してしまって自分の考えに活かされていないという印象。なので、生徒たちの書いたレポートがどうにもつまらないのである。こちらが授業で解説したことをそのまま要約して書いてくる生徒多数。なんだこりゃ鸚鵡じゃあるまいしと愚痴りつつレポートの文章を読む。今日は50人ぶん読んだところで気が滅入って挫折。ところが、こういう生徒は定期テストだとたいてい点数が良い。定期テストは「知っていれば解ける」基礎的な内容で範囲も狭いので、授業でやったことをとりあえずおぼえておけば7割8割はできるのである。そのため、通信簿の「5」や「4」は実質的に努力賞みたいなもので、社会的なセンスや社会への問題意識はほとんど関係ない。ただそれだとあまりに不毛なので、私はレポートの配点を重くして、鸚鵡みたいなレポートを書いてくる奴は減点することにしている。一方、入試問題は、知っていることから知らない事柄を類推する能力が求められる。とくに現代文と公民はその傾向が著しい。公民分野は出題される範囲が広いため、すべてを丸暗記で対応するのはほぼ不可能で、授業で習った知識・参考書から得た知識・新聞やテレビから得た知識といったものを組み合わせて「こうではないか」と類推していくことが求められる。そのため、ただ丸暗記で定期試験を切り抜けてきたという生徒は、いままでの成績が良くても苦労することになる。まだ先のこととはいえ苦労しそうな生徒が多そうでちょっと心配。

 疑問の泡の54番、「自称アーチスト」について加筆修正する。
 → 54.自称アーチスト

■ A piece of moment 9/27

 交換したガソリンタンク内にホコリかサビが残っていたらしく、キャブレターがオーバーフローしてしまう。エンジンを始動した途端、キャブからどばどばとガソリンが流れ出してきて呆然とする。手を抜かずに徹底的にタンク内を洗浄しておけば良かったと後悔してももう後の祭りでキャブ分解清掃3万円コースが確定。泣けてくるぜ。くー。
 「自称アーチスト」をさらに加筆。

■ A piece of moment 9/28

 81番目の疑問、「合コン」を加筆修正。 → 81.合コン
 84番目の疑問を追加。 → 84.東京キッド

■ A piece of moment 10/3

 バイクが修理からあがってくる。キャブレター分解清掃、フロート室のパッキン4つ交換、パンクしたフロート交換、キャブレター同調、エンジンオイルとオイルフィルター交換で、しめて4万円也。キビシー。税金もまだ払い終わっていないのに。食費をケチるため、ひさしぶりに国分寺でスタ丼を食べる。10年ぶり。10年間値段据え置きで550円也。味も量もあいかわらずでとりあえず腹いっぱいになる。本日の出費、バイク様4万円、おれ550円。ご主人様とその下僕の図式がいっそう明瞭になった一日である。夜、友人宅の猫先生にアニマルセラピーで慰めてもらう。

■ A piece of moment 10/4

 授業で、生徒たちの書いた靖国参拝のレポートについて論評する。日本はアジアの国々と仲良くやってほしいですマルオシマイってなんじゃこりゃ良い子の作文じゃないんだから、そのためには具体的にどうすればいいのかを論じるのが政治経済のレポートなわけで、それをせずにただ仲良くやってほしいですマルオシマイっていうのは要するに私は何も考えてませんって投げ出してるのと同じなわけで……とねちねちやっていたら、ひとりの女子生徒が突然素っ頓狂な声で「えええっ新しい総理大臣にかわったの!?」という。何事かと思ったら、どうも彼女はレポートの作文集を読んではじめて安倍晋三内閣が誕生したことを知ったらしい。ああ授業が君の役に立って僕も嬉しいよ。一同大笑いで論評などどうでもよくなってしまう。めげない彼女は、「な、なにその笑いは、みんな知ってたの新首相誕生って」とじたばた両手を振りまわし、さらに一同を楽しませる。ちょうどいま安倍新首相の方針演説について各党からの代表質問をやっている真っ最中だから、家に帰ったらテレビニュースつけてみてね、きっとトップニュースで取りあげられているはずだよ。なぜかそういう回の授業に限って副校長による授業査察に当たっていて、授業後、「いやいやとっても楽しい授業でした」という副校長の目は少しも笑っていなかったように見えたのは気のせいだろうか。

■ A piece of moment 10/8

 キャブレターのオーバーフローは止まったものの、今ひとつエンジンの調子が悪いので、再び、オートバイをバイク店に預かってもらう。再度のキャブオーバーホールになりそうだけど、今度はクレーム修理でタダでやってくれるはずなので、気が大きくなっているのだった。キャブが上手くはまっていないみたいで吸気音がするのと、まだスローが詰まっているのかエンジンがなめらかに吹け上がらないことをバイク屋のオッチャンに指摘する。

 試験問題作成中。論述問題に消費税値上げの是非について出題する。もし、生徒の答案が役人の答弁みたいな文章ばかりだったらどうしよう。こんなテーマを出題する自分が悪いんだろうか。科目の性質上、授業や試験では政治やら経済やらについて論じることになるわけだけど、どんな政策が良いかというのは些末な問題にすぎない。そんなことよりも、自分がどんな生き方をしたいのかが重要なはずである。政治的課題はその延長線上にあるものにすぎない。自分がどう生きたいかという個人的な視点があって、はじめて、どういう社会が好ましいのかが見えてくる。自分がどんな生き方をしたいのかわからない者たちが、机上の空論で天下国家を論じてもグロテスクなだけだ。まず国家ありきという国家主義の発想をしている限り、人間の暮らしはマスのものとしてしか映らない。役人やニュースのコメンテーターが自分の生き方と無関係であるかのようにマスの視点で政治を論じるのは一種の職業病だけど、他の者たちまで病人のふりをする必要はない。パーソナルな視点や願望に基づく発言をしていくべきだと思う。ちなみにこんな問題。
1.財政赤字の増加にともない、近年、消費税の増税が議論されています。次のAとBの会話を読み、消費税値上げについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以上)

A 現在、日本の財政赤字は、国と地方をあわせると債務残高は800兆円近くにのぼっている。バブル崩壊後の長い不況で、財政赤字の額は増え続けていて、小泉政権の5年間で約400兆円も増えてしまった。おまけに、日本はまもなく超高齢化社会をむかえようとしていて、今後、高齢者のための社会保障費はますます増加する。ひとりあたりの社会保障サービスが縮小されても、高齢者はどんどん増えるわけだから、社会保障費全体の額は増え続けることになってしまう。小さな政府改革による財政支出の削減だけでは限界があるし、財政赤字解消のためには、消費税を10%程度に値上げする必要があるよ。
B でも、消費税は誰もが一律に課税されるから、低所得者ほど家計に与えるダメージは大きいよね。小さな政府政策で社会保障を縮小して、さらに消費税を値上げすることになると、低所得者や高齢者の暮らしを大きく圧迫することになる。それに、消費税値上げが検討されている中、その一方で、所得税の最高税率は50%から37%に引き下げられ、高額所得者は減税されている。また、不況対策として、企業にかかる法人税も20年前とくらべて10%以上も減税されている。つまり、財政赤字を理由に、社会保障を縮小して、さらに消費税値上げを行うというのは、しわ寄せをすべて社会的弱者に押しつけることになってしまう。赤字財政の解消イコール社会保障の削減・消費税値上げという発想は間違っているよ。もっと他にやることはあるはずだよ。
A そうは言っても、財政赤字が増え続けているのは事実だし、このまま何もしなければ、将来に大きな負担を残すことになってしまう。世界的に見ても日本の消費税率は低くて、スウェーデンが25%、フランスが約20%、イギリスが約18%、ドイツが16%とずっと高い税率が設定されている。世界的な基準に合わせるなら、消費税はもっと高くてもいいと思うよ。
B そうしたヨーロッパの国々は、日本よりも社会保障が充実していて、公立学校の学費や医療費はほとんど無料になっているよ。それに、消費税(付加価値税)は日本のように一律ではなくて、日用品や食料品は安くてぜいたく品は高いというように品物ごとに違っていて、低所得者の暮らしを圧迫しないように工夫されている。そういう事情を考慮せずに、数字だけを比較するのは無意味だよ。日本の場合、消費税の値上げぶんをすべて社会保障費にあてるというのならまだしも、税の使い道を定めず、ただ赤字財政の埋め合わせのために消費税を増税するというのは反対だよ。
A でも、2005年の総選挙では、小泉改革が支持されて自民党が大きく議席を伸ばしたよね。このことは、日本もアメリカ型の小さな政府をめざすことを国民が支持したと言えるんじゃないかな。ならば、アメリカのように、貧富の格差は大きくても、人と企業の競争が活発で、経済活力がある社会へ向かっていくべきじゃないかな。また、そうでないと、経済のグローバル化が進んで企業の国際競争が激しくなっている時代に、日本企業は生き残れないよ。高額所得者の所得税や企業の法人税を値上げするのは、日本経済の活力をそぐことになってしまう。努力して社会的に成功した人にどっさり所得税をかけるというやり方は、労働意欲をそぐことにもなる。競争を活性化させつつ、税収入を大きくふやすためには、消費税を値上げするのがもっとも合理的だと思うよ。
B それは乱暴だよ。2005年の総選挙で小泉改革が支持されたのは、あくまで、郵政民営化についての支持だったはずだよ。それは官僚の権限と利権が大きすぎるから、役所の規制を緩和しようという判断であって、社会保障の縮小と消費税値上げが支持されたわけではないはずだよ。それに、消費税が値上げされれば、消費活動が抑えられることになるから、やはり経済の活力をそぐことになるよ。まず、ムダな財政支出をもっと削減する必要があるし、消費税値上げよりも、所得税の最高税率や法人税の値上げを先にやるべきだと思う。それでもなお、消費税の値上げが必要というのなら、使い道を社会保障費に限定するべきだと思う。だって、生まれた家が金持ちかそうでないかで、その子供の将来が決まってしまうような社会はまずいじゃない。努力して自力で成功した人が高額の収入を得るぶんにはかまわないけど、日本の場合、高額所得者のほとんどは、親から財産や社会的地位を受け継いだ人たちだよ。国会議員だって二世・三世ばかりだし。社会保障の削減と消費税の値上げは、こうした社会階層の固定化をいっそうすすめることになるよ。

■ A piece of moment 10/13

 連休は試験問題の作成とバイクの整備で終わってしまう。バイクはまだエンジンの調子が悪くて、あれこれ調べたところ1気筒爆発していないことが判明する。排気量が大きいぶん1気筒作動していなくてもそれなりに走るので、なんかパワーがないけどこんなものだったかなと納得しかけたところで4番シリンダーが死んでいることをつきとめる。なんだかエンジンが1基死んでも飛んでるジャンボジェットみたい。1気筒減ったおかげでオーバーヒートの心配もなくなって燃費もよくなって地球にも優しいバイクになったのである、めでたしめでたしってわけにもいかないので、地球に優しくないバイクにしてもらうためにバイク屋に再々入院する。何度もクレームを持ち込んで無料修理してもらうのもなんだか悪いなあと思う反面、1気筒死んでるエンジンを「修理完了」と客に引き渡すっていうのもプロとしてどうなのよっていう思いもあって、複雑な心境。バイク屋のオッチャンは、「点火系じゃないの」と再度のキャブレター分解修理をしぶる。複雑に組みあわされた4連キャブを分解するのが億劫なのはわかるし、タダ働きで半日つぶしてられないっていうのもわかるけど、電気系統はこちらでもチェック済みで、点火プラグの点検では2度も感電して身をもって点火系に問題ないことを証明しているのであった。「電気は来てます、キャブだと思います」。さあさあ、キャブレター、オーバーホールしてくれたまえ。

 ひさしぶりに映画館へ行く。立川のシネコンでウディ・アレンの新作「マッチゲーム」。今回もまたエグイ話で急所を突かれて打ちのめされて帰る。今作ではウディ・アレン本人をカリカチュアライズした神経質なチビメガネキャラは登場せず、ストレートなドラマが展開される。個人的にウディ・アレンはシリアスなほうが好みで、心の中のもろい部分をえぐられて登場人物たちがのたうちまわるベルイマン的展開がないと彼の映画を見た気がしないのである。「私のなかのもうひとりの私」「夫たち妻たち」「地球は女で回っている」と今作が個人的なベスト。ヒロイン役のスカーレット・ヨハンソンは、登場シーンの卓球の場面ではぞくぞくするほど艶めかしいけど、話がすすむにつれてただ自分にだらしないだけの若い女に見えてくる。その様子は主人公の心理変化と重なっていて、たぶん意図的にそう描かれているんだろう。映画館はがらがらで客は8人。前に恵比寿で「おいしい生活」を見たときは平日の昼間にもかかわらず女性客でほぼ満席だったけど、立川に有閑マダムは似合わないのであった。

■ A piece of moment 10/14

 ようやくバイクの修理完了。エンジンを始動させるとなめらかなエンジン音とともにアイドリングがはじまる。そうそうこの音、4発のアイドリングはこうでなくっちゃ。「何度も手間かけてすいませんねえ」とバイク屋のオッチャン。いえいえ直ればすべてOK。アクセルを開けるとルゥーンとモーターみたいに柔らかいエンジン音をたてて回転が上がっていく。これがV4のエンジン音なのだ。ひさしぶりの感触に空いた道路でフル加速してみる。目の前の景色が引きのばされて後方へ飛び去っていく。うはははは。これが4気筒の加速なのだ。地球に優しくなくて申しわけないけどやっぱりエンジンはこうでないと。気分が良いのでしばらく乗り回す。信号待ちで夕暮れの空を見上げる。空気は冷たく乾燥し、風景は陰影が濃い。緑がかった紺色の空は西の方にかすかに赤い日が残っている。

■ A piece of moment 10/17

 下の画像は、マサチューセッツ州ウォルサムにあるAFプロテイン社のエリオット・エンティスCEOを2001年にアメリカCBSが取材したテレビレポートからのもの。お気に入りのニュース映像のひとつで、遺伝子組み換え技術について授業で取りあげるときにもよく資料として使っている。このエンティスさん、世界初の「遺伝子組み換えシャケ」を開発した人物である。他の魚から取り出した成長を促す2種類の遺伝子が組み込まれ、ふつうのシャケよりも4倍から5倍の早さで成長し、わずか1年で60cmに達する。



 まるまると肥ったいけすのスーパーサーモンを見ながら、エンティスさんは、スーパーサーモンがいかに素晴らしいかを語る。世界中が自分の研究に注目していることにまんざらでもないという様子で、ときおり笑みを噛み殺しながら、遺伝子組み換え技術にはまったく問題がないという調子でその可能性を語る。「遺伝子組み換え食品は危ない、人類を破滅させるという人がいましたが、ほら、10年たった今でも空は落ちてこなかったじゃないですか」という彼の無責任なほど脳天気な言葉でレポートは締めくくられる。まるでチキンレースをやっているかのようだ。マンハッタン計画に関わった物理学者の言葉を思いだす。「人間は核兵器を作り出す程度には賢い、しかし、核兵器を使わずにいられるほど賢くはない」。

 バイオテクノロジーに関わる研究者の多くが、彼と同じような考え方をしているようで、生態系に与えるダメージや命を操作することの倫理的問題を指摘されると、まるでオモチャを取りあげられた子供のように口をとがらせる。とにかくなんでもいいからやらせろという感じで、その様子を見ながら苦笑する。純粋で知的好奇心にあふれているといえばそうだけど、一方で、そのメンタリティの幼さと視野の狭さは気になる。以前授業を受けもった生徒が理学部でバイオ関係を専攻しているというので、研究室の様子がどうなのか聞いたことがある。「高校の時、遺伝子操作の問題やりましたよね、あれ、自分でも引っかかっていて、研究室に入ったばかりの頃、センパイたちに遺伝子操作とクローニングの危険性についてどう思うか尋ねてみたことがあるんです」。センパイたちはすこし怪訝そうな顔をして、「なにが悪いっていうのさ」と口をそろえて答えたという。研究室のあまりにおたくな雰囲気に「なんだか逆に不安になりました」と彼女は苦笑いしていた。「やりたいからやりたい」というのが研究者の本音で、将来の食糧不足対策になるとか高級食材を低価格で提供といったお題目はつけ足しにすぎない。そもそも、バイオテクノロジーが飢えた人々を救わないことは明白である。飢餓は食料の絶対量の不足によるものではなく、富の偏りによるものだからだ。トウモロコシをアフリカの貧乏人に喰わせるより、牛に喰わせて太らせた方が利益が出るというシステムで世界経済は動いており、食料がどんなにあまっていても飢える人々が出るようになっている。この富の偏りを解消しない限り、1年でシャケが60cmになろうと腐らないトマトが大量生産されようと、肝心の飢えた人々にとって関係ない出来事である。もっとも彼らに関係なく、開発企業に大きな利益をもたらすことだけは確かである。逆に、この富の偏りを解決できれば、スーパーサーモンなどいなくても100億や150億の胃袋を満たすくらいのことは可能である。
 → WIRED NEWS 1999年9月20日号 遺伝子組み換え鮭が食卓へ

■ A piece of moment 10/24

 遅ればせながら「ヒトラー 最期の12日間」を見る。タイトルの通り、ベルリンにソ連軍が進行する中、戦況が絶望的であることを悟ったヒトラーが自殺するまでの12日間を描いた映画。総統付きの若い女性タイピストの視点を通じて、ヒトラーと彼を取り巻く人々の様子が描かれる。ヒトラーやゲッベルス、ヒムラーといった歴史上の人物だけでなく、主要な登場人物たちはタイピストもふくめてすべて実在の人物がモデルになっている。監督のオリヴァー・ヒルシュビーゲルは、前作の「es」で、支配と服従のロールプレイ実験によって残虐性と暴力性を帯びていく被験者たちの様子を描いたが、本作でも支配と服従の関係における心理描写に焦点があてられている。ヒトラーは、過去にくり返し描かれてきたカリカチュアされた悪の権化としてではなく、総統という役割を演じるひとりの独善的な人間として描かれる。このリアルなヒトラー像については、いくつかの評論でヒトラーとナチスを美化していると批判され、物議をかもしたが、美化しているようには見えなかった。むしろ、ヒトラーをカリカチュアされた悪の権化として描き、ヒトラーとナチスの行為に人間性を見いだそうとしないほうが無責任に思える。ヒトラーと彼の信奉者との関係はしばしば教祖とその信者との間に見られるもので、そこには、崇拝する者へ身も心も捧げ、個人と国家が直結することの喜びがある。それは個人が個人として自由である限り到達できない快感である。だからこそ、民主主義を無責任な政治システムと批判し、「英雄」が全責任を負う独裁体制を理想とするヒトラーの主張を大衆は支持した。悪い魔法使いによって善良な人々が欺かれたという一方的な図式ではないからこそ、ナチスの残した問題は根深い。この関係の危うさに目を向けない限り、ナチスの犯罪は特殊な人々による特殊な行為として棚上げされることになる。その意味で、ヒトラーと彼を取り巻く者たちの内面描写に力点を置いたのは、きわめて正攻法である。ただ、オープニングとエンディングの両方に登場するタイピスト本人のインタービューは説明がましい。現在の彼女は、「私はなにもわかっていなかった」「若さは言い訳にならない、自分の愚かさを恥じている」と当時を回想する。わかりやすいメッセージではあるが、このインタビューをはさんだことで、映画の解釈を方向づけ、映画の作り手が逃げ道を用意しているかのような印象を受ける。同時にそれは、登場人物たちの生々しい心理描写にベールをかけ、時間の向こう側へ収めてしまっているように見える。

 ソ連軍の激しい攻撃によってベルリン陥落がせまる中、官邸では、連日、ナチス幹部による夜を徹してのバカ騒ぎがくり広げられている。それは一種の極限状況で、彼らは状況に絶望しつつも、自らが手にした権力とナチスに抱いた夢にしがみついている。ヒトラー周辺の者たちの行動は3つのタイプにわかれる。ヒトラーとともに自決することを望む者、ヒトラーを見限って保身に走る者、民衆と祖国を救う手段を模索する者。ヒトラーに心酔し、政治理念を共有するゲッベルスや若いSS隊員は、ナチスの存在しない未来を思い描くことはできない。ある意味で純粋であり、愚かであり、幸福な者たちである。彼らにとって民衆は愚かな大衆であり、顔のないマスの存在にすぎない。英雄と自らが共有する美意識のみが唯一残されるべき重大事であり、兵士や民間人が死に絶えようと取るにたりない出来事だと考えている。愚かな大衆の死は自業自得であり、同情をおぼえる必要などないという。その独善的なメンタリティは、「ポア」が救済だと言ったオウム真理教信者に通じる。またある者たちはヒトラーを見限る。ナチスに取り入り権力の座を手に入れたが、彼らは絶望的な戦局の中で保身に走る。ヒムラーやゲーリングなど、打算的に権力に近づき、状況判断できる立場にいた軍幹部に多い。打算的であるぶん、彼らの言動はわかりやすい。わずかにひとにぎりの者だけが、兵士や民衆を救おうと奔走する。しかし、官邸に集う人々にとって大衆の死は取るに足りない事柄にすぎず、彼らの耳にその言葉はとどかない。結果的に彼らは裏切り者の疑いをかけられながら、無力感を抱きつつ目の前の業務に没頭する。

■ A piece of moment 10/25

 なぜかNHKのニュースでスターバックスの値上げがくり返し報道されている。トップニュースの扱いである。「スターバックスが日本に上陸して10年、初めての値上げになります、日替わりのレギュラーサイズが260円から280円へ、モカなんたらかんたらが320円……」ってそんことが重大ニュースなのかいな。吾輩、7年前に一度だけ入ったスターバックスで灰皿よこせと要求し店員に嫌な顔をされて以来、もう二度とスターバックスには入らないと固く決意している。(店内禁煙の喫茶店が存在するなんて思いもしなかったのである。)なのでレギュラーサイズが280円になろうが280万円になろうがどうでもいいのであって、各商品のディティールまで世論の関心事であるかのように報道するNHKの意図を汲みかねているのである。物価の値上げを促進しようとしているんだろうか。

■ A piece of moment 10/27

 録りだめておいたドキュメンタリー番組をまとめて見る。ロシアの新興財閥とプーチンとの抗争、アルゼンチンの労働運動活動家、ソフトコンタクトレンズを発明したチェコ人科学者、ホールフーズマーケットの社長、ネパールでの政府軍と毛沢東主義者との内戦などなど。毛色の変わったところでは、イタリアのテレビ局が制作したアイスクリームの歴史なんていうのもある。この種の大衆文化史は大好き。「アイスクリームのカサを増やすため、各メーカーはいかに空気をアイスクリームに取り込むかに工夫を凝らしました」なんて皮肉な調子の解説に笑う。「その責任の一端はサッチャーも担っているんですよ、彼女は政治家になる前は科学者で、アイスクリームにより多くの空気を取り込む研究をしていました、イギリスでアイスクリームを買うときは手にとって重さを量ってから買いましょう、お金を払って空気を食べさせられることになりますよ」。また、「ハーゲンダッツ」が、ニューヨーク・ブルックリンにあったアイスクリーム屋の商標だったっていうのも初耳。北欧風の名前やCMはマーケティングによるイメージ戦略だそうで、「デンマークにもドイツにもハーゲンダッツの店はありません」とのこと。身のまわりのモノの由来を聞くのは楽しい。おかげで妙にアイスクリームを食べたい。チョコクッキーの入ったアイスクリームとその味覚が意識の中をめぐっている。ところで、スターバックスの複雑な商品構成はイタリアン・ジェラートのトッピングに由来するんじゃないかと思いつく。

 引きつづきごろごろしながらCS放送のマンガを見る。「灼眼のシャナ」、難しいアニメである。名前からして難しいが、「しゃくがん」と読むらしい。現実と隣り合わせにある不思議な世界の話のようだけど、やたらと物語世界の構造が複雑に設定されていて、途中から二三回見たくらいではさっぱり内容がつかめない。一見さんにはちんぷんかんぷんな会話でファンタジーな物語が展開されていく。「紅世(ぐぜ)の王、天壌の劫火との契約によりフレイムヘイズとなった炎髪灼眼(えんぱつしゃくがん)の討ち手、お前を討つのは私の務め、トーチにしてミステス、この世界においてお前の存在の力はすでに失われている……」ってなにがなんだかさっぱりのテクニカルターム連発。現代フランス思想かいな。ただその一方で、登場人物たちのメンタリティと言動は稚拙で利己的だ。登場人物たちの稚拙なメンタリティと世界の構造の複雑さとのギャップがあまりに大きくて、どう受けとめたらいいのか戸惑う。こういうアニメが増えた気がするけど、コンピュータゲームの影響なんだろうか。コアなネットワークゲームの閉じた小宇宙を連想する。絵柄は絵に描いたようなアニメ絵。人気があるようで映画化もされるとのこと。どんな人が見ているのか気になるのであった。
 → 灼眼のシャナ

■ A piece of moment 10/28

 今月はじめに北朝鮮が核実験を実施。国内世論、日本政府、国連それぞれから批判の声が上がっている。「よくやった」という声はきかない。では、北朝鮮が核兵器を持つことの何が問題なのか。ふたつの点から考えることができる。ひとつは人道上の問題。核兵器はその巨大な破壊力で無差別の大量殺戮を可能にする。つまり、核兵器を保有することは不特定多数の人間を人質に取ることを意味している。ひとつの人間集団が他集団の生命の与奪を握ることの暴力性、さらに、それをちらつかせることで自らが優位に立とうとする卑劣さを指摘することができる。もうひとつはパワー・オブ・バランスの問題。核兵器の保有は周辺国との軍事バランスを大きく変化させるため、周辺国の人々や政府に危機感をもたらし、軍事力増強のエスカレートをもたらす。つまり、戦争が起きやすくなり、戦争になった場合の被害を大きなものにする。

 では、北朝鮮の核実験を「暴挙」「許し難い」と批判する声はどういう論理に立っているのか。まず、アメリカ、ロシア、中国といった核保有国。言うまでもなく核保有国には、人道的立場から北朝鮮の核実験を批判することはできないので、あくまで「東アジアの不安定化」という軍事バランスの視点からのものである。ただし、この3カ国の批判には、自らの核の保有を含む軍事大国という優位な立場を失いたくないという意図が見えかくれする。核拡散の禁止は、保有国の削減・廃絶をともなってこそ正当性があるのだが、米ロ中とも核廃絶の動きはまったくない。とりわけブッシュ政権は核戦略の再評価を政策にかかげており、地下核実験の再開と新型の小型核の開発を打ち出している。したがって、アメリカの北朝鮮批判は、国際社会になんらかの理念や理想を示すものではなく、アメリカの東アジアへの影響力の維持という国益によるものと言える。しばしばこの問題がヤクザや不良グループの抗争にたとえられるのはそのためであり、親分衆がはねっかえりの若僧を「お前さん、どう落とし前をつけるんだ」と圧力をかけているという野蛮な図式があてはまる。では、日本政府はどういう文脈からこの核実験をとらえているのか。自前の核兵器を持たず、自衛権の行使に様々な制約のある日本としては、持たないからこそいくつもの切り口がある。ところがよくわからないことに、北朝鮮批判の急先鋒となってきた自民党タカ派の代議士とその支持勢力は、同時に日本の核保有をうながす発言もしてきた。明らかに内と外のダブルスタンダードで、論理的に破綻しているのだが、「北の核実験は許し難い暴挙」といった口も渇かないうちに、「日本の核保有は論理的には可能」「核武装の議論は必要」という。子供にもわかる矛盾なのに、それを取材する記者たちからは、「では、北朝鮮を批判できませんね」という指摘は出てこない。政治部記者というのは政治家の太鼓持ちなんだろうか。さすがに政府はこうした発言に神経質になっており、本質的に核武装論を共有するはずの安倍晋三も首相になってからは口をつぐんでいるが、政府として何をめざしているのかは見えてこない。北朝鮮の核実験をめぐって、力のかけひき以上のなんらかの理念を表明したのは、広島と長崎の被爆者団体だけに見える。

 北朝鮮をめぐるタカ派のダブルスタンダードは、拉致問題でも露骨だった。「拉致事件は国家による人道への犯罪である」。その通りだ。しかし、彼らは、自国の被害については人道上の視点から批判を展開する一方で、戦争責任という加害になると、一転して人道上の問題としてとらえるのは間違いだという。話がそちらになると、「戦争とは国家と国家との力のぶつかり合いであり、それを人道問題として批判するのは愚かである」、「過去の出来事を現代の価値観で裁くべきではない」などといったバカな発言をする。戦争が力のぶつかり合いであるのは、政府と軍隊レベルでとらえた場合だけであり、個人の体験や民衆の視点でとらえた場合、それは暴力と殺戮以外の何ものでもない。戦争を「純粋な力の衝突」とする発想は、この世界を国家間のせめぎ合いというきわめて狭い視野でしかとらえていないことを意味する。強制連行や日本軍の残虐行為について、人道上の視点から問題をとらえようとしない者に、拉致事件を批判することはできないはずである。強制連行と拉致事件とのちがいは加害と被害というだけで、両者は本質的に同じ性質の問題であり、いずれも国家による人道への犯罪である。強制連行事件を「人道問題として批判するのは愚かである」としてその責任を否定するならば、拉致事件もまた「人道問題として裁くべきではない」となるはずである。その矛盾をはらみつつ自国の被害だけをアピールすることは、聞く者に「お前はどっちの味方なんだ」と敵味方の二者択一をせまる行為であり、その行きつく先は「文句があるなら日本から出て行け」という発想である。やはりこれもヤクザの言い分である。

■ A piece of moment 10/31

 1980年代半ば、我が家の近所では、小規模なレンタルビデオ店が雨後の竹の子のようにあちらこちらに開店した。1990年代に入るとともに大手の進出によってしだいに淘汰され、ここ二三年はダウンロード配信の影響なのかさらに淘汰がすすみ、現在、小平・国分寺近辺ではとうとうツタヤ一軒のみとなってしまった。完全に独占市場である。10年前に埼玉との県境の学校で教えていたとき、レンタルビデオ屋の話をしたら、生徒が「なにそれ、ツタヤのこと?」と言いだして大笑いしたことがあるが、もはや我が家の近辺も同じ状況であり田舎の中学生を笑ってられないのであった。(代わりに増えたのがブックオフとブックセンターいとうで、半径10km以内のところに十数店舗。)そんなツタヤ小平店が半額キャンペーンとのことだったので、見逃していたウディ・アレンの「ハリウッド・エンディング」を借りようと散歩がてら3キロの道程を歩く。半額の効果なのか店内はけっこう混んでいる。30分近くかけて店内を隅から隅まで探すが「ハリウッド・エンディング」は見つからない。タイトルの配置はツタヤ独自のジャンル分けでならんでいるので、たまにしか利用しない私にはなにがどこにあるのかさっぱり見当がつかない。「ハンナとその姉妹」が「サスペンス」のコーナーに置いてあったりしてまるで迷路かパズルのようだ。結局、音を上げて店員氏に検索してもらう。しばらくして店員氏は「当店には置いていないようです」という。一昨年公開されたばかりの作品なのにないっていうのも変なので、「邦題が違うのかもしれません、監督・主演のウディ・アレンが落ち目の映画プロデューサーに扮して……」とあらすじを説明するが、店員氏はあまり映画を見ない人なのかポカンとした顔をして「それはどんなジャンルの作品でしょうか」と聞く。そんなもん知るかい。店の勝手なジャンル分けを客に強要するツタヤのやり方自体に腹が立ってくる。おちょくってんのかアンタ。あきらめて「メリンダとメリンダ」「コーヒー・アンド・シガレッツ」「ミュンヘン」の三本を借りて帰る。「ハリウッド・エンディング」の邦題は、「さよなら、さよならハリウッド」と判明。一度で用事が済まないことが多い。
 → 「さよなら、さよならハリウッド」

 10月も終わろうというのに温かい日が続く。今年はまだファンヒーターを押し入れから出していない。

■ A piece of moment 11/1

 例の水増し履修事件の波紋の拡大で、勤務先の高校にも教育委員から監査が入るとのことで、突然、副校長から年間授業計画と週間授業案の半年ぶんを書いてくれといわれる。ちゃんと授業やってますよというアリバイづくりのためらしい。私のところにまでにまで事件の余波が来るとは思わなかった。で、いつまでに提出すればよいのかと尋ねると、「明日まで」……おいおいおい。いきなりそりゃ無茶ですぜ。原稿料くらい出してほしいところである。

■ A piece of moment 11/4



 近所を徘徊している野良。5年ほど前にどこからともなくやってきて、わが家のある界隈を縄張りにしていている。夜中に窓辺でがさごそ音がするので何事かと思ったらこいつが伸び放題の雑草の上でごろごろと転がっていたり、雀まるかじりの食事中だったり、日々バイクカバーに臭いおしっこをかけて縄張り管理に励んだり、ライバルのデブの茶トラとケンカしたりとひと頃傍若無人をきわめたけど、最近、今ひとつ元気がない。野良にも色々事情があるんだろう。夕方、閑そうにうろうろしていたので後をつけて写真を撮ってみる。ぼくらはみんな生きているの気分だけど、野良のほうは変なのに後をつけられて迷惑そうだった。

■ A piece of moment 11/5

 今年も授業で「在日外国人の地方参政権問題」を取りあげることにしたので、資料のページのAとBの会話を加筆修正する。毎度のことながら誤字が多い。
 → 永住外国人の地方参政権

■ A piece of moment 11/6



 最近の個人的ヒット。スリーエフのとろろ昆布おにぎり。スリーエフはめったに見かけないので、見つけたらとりあえず買うことにしている。焼き海苔のかわりにとろろ昆布が巻かれていて、かぶりつくと「もふもふ」という食感がする。とろろ昆布は口の中で「もふもふ」からしだいに「ねばねば」に変化していく。ああ幸せ。食べるときは口一杯頬ばって食べたい。ただし、歯に付くのでこれから人に会うというときは注意。

■ A piece of moment 11/15

 税金の支払いが遅れているとのことで市役所から電話がかかってくる。「近々振り込みますので」「よろしくお願いします」と短い会話の後、電話を切る。収入は増えてないのに地方税は年々重くなっていて悩みのタネである。電話を切ってしばらくして、なぜ市役所の収納課が我が家の電話番号を知っているのか疑問がわいてくる。少々不気味である。再度収納課に電話をかけ問い合わせたところ、市役所内のコンピュータには、転入した際に記入した住民登録の内容が入力されていて、納税等の業務連絡に限って市職員がそのデータを閲覧・利用することが可能になっているとのこと。でも、住民票には自宅の電話番号は記載されていない。要するに本人に閲覧可能な住民票以上のデータが市役所のコンピュータには登録されていて、市側はそれを利用できる状況にあるということらしい。囲い込まれている感じで非常に不気味である。電話番号以外に自分についてどういうデータが登録されているのか気になるので、「閲覧はできますか」と尋ねると、住民のコンピュータデータは市の業務上のものなので本人は見ることはできないという。ますますもって気味悪い。電話の向こうの市役所職員は「あくまで業務上の利用に限って」とか「住基ネットとは別に市役所内だけのデータで」とか「住民登録した際のデータだけの登録で」と強調していて、さも個人データが厳重に保護されているかのような口ぶりだけど、そういう問題ではない。住民票+アルファの個人データを市役所がもっていて、本人がそれを閲覧できないというのが問題なのである。自分のデータに何が記載されているのかわからないわけだから、「住民登録した際のデータだけ」といわれても確認のしようがない。前に防衛庁で問題になったように、もしかしたら、こうして問い合わせをしているだけでも「うるさい住民」としてチェック項目が追記されることだってあり得る。なんせ本人がデータを閲覧できないんだから。管理しているのは住民課だというので、今度は住民課に電話をかけ、役所のコンピュータに登録されている住民票+アルファのデータについて、「+アルファの部分」を削除してほしいと依頼する。住民課の職員はデータの削除が可能かどうか調べてみてわかりしだい電話するとのこと。しばらくして、「ご本人の希望ということで電話番号を削除しました」という電話がかかってきたが、そう言われても確認のしようがないわけでやっぱり釈然としないのであった。ひとまず「お手数かけました」と電話を切る。もし再度収納課から税金のことで電話がかかってくるようなことがあったら、住民の個人データの記載と運用について、本格的に調べてみようと思う。

 話変わって、西武・松坂の「入札」。なんだか食肉業者の競りみたい。「最高入札者はボストンレッドソックスです」というラジオニュースを聞きながら、ボストンの食肉業者が松阪牛の歯並びから肛門まで入念にチェックして、サーロインいくらフィレいくらと胸算用している姿が思い浮かぶ。最高級でキロ7億円だよなんて。

■ A piece of moment 11/18

 バングラデッシュのグラミン銀行とその頭取であるムハマド・ユヌスさんが今年のノーベル平和賞に決まった。1990年に放送されたCBS「60mins」でグラミン銀行が紹介されているのを見て以来、ずっと気になる存在だったので、その活動がもたらした影響力の広まりや国際的な評価の高まりには感慨深いものがある。ここ数年では様々なドキュメンタリー番組でグラミン銀行の活動を見かけるようになった。ただその一方で、でもなあともやもやした疑問も感じている。

 グラミン銀行は貧しい人々に無担保で小口の融資を行う金融機関である。こういう金融機関を「マイクロクレジット」という。グラミン銀行の成功によって、マイクロクレジットは1990年代以降、世界的に注目されるようになり、途上国への援助のあり方に革新をもたらした。そのやり方は具体的に言うとこんな感じ。ひとりの自転車タクシーのおじさんがいるとする。おじさんは10時間自転車タクシーを漕いで、その日のもうけは150円。おじさんは貧乏だから自前の自転車タクシーを持っていない。なので、村のお金持ちから自転車タクシーを借りている。その借り賃が100円。借り賃を払って、残りの50円で家族にその日の食料を買うと手元にはほとんど何も残らない。その次の日も同じことがくり返される。おじさんはいくらせっせと毎日10時間自転車タクシーを漕いでも365日常に素寒貧で、その日暮らしの状態が続く。そこでグラミン銀行は、おじさんに自転車タクシーを買うお金を融資する。おじさんは2000円を借りて自転車タクシーを購入する。これでもう村のお金持ちから自転車タクシーを借りる必要がなくなり、おじさんとその一家は毎日そのぶんの100円を貯めていくことで事業を拡大したり、生活にゆとりをもたらしたりすることができるというわけ。グラミン銀行はそんな貧しい人たちの生活を変えるきっかけづくりをして、彼らを後押ししている。その支援はあくまで融資であって、お金をあげるわけではない。年利20%の利子もきっちり取るし、取り立てもけっこう厳格に行っている。グラミン銀行の活動を一時的な援助に終わらせず、継続的な経済活動にしていくためには必要不可欠な方針だろう。また、それによってグラミン銀行も利益を上げ、活動の規模や範囲も広げていくことができるという相乗効果も期待できる。無担保で小口の融資をそれなりの利子で行うという点では、日本の消費者金融と基本的に同じなんだけど、「消費者」のための融資ではなく、貧困者の自立のための融資という点でその方向性はまったく異なる。グラミン銀行が画期的だったのもそこで、連中にカネを貸しても返ってくるはずがないと既存の金融機関がそれまで相手にしなかった貧困者を対象に融資を行い、彼らの生活を改善し、かつ、ほとんど貸し倒れがなく、グラミン銀行自体も確実に利益を上げている。「援助」や「慈善」が大嫌いな山形浩生は、こちらのコラム(『ケイザイ2.0』)で例によって性悪説の立場からグラミン銀行についてもその営利性を指摘し、良くも悪くも善意とは無関係の功利的な存在としてとらえている。(この人の文章を読むといつもリチャード・ドーキンスを連想する。)しかし、もともとグラミンは貧困者の支援から出発しているし、現在も融資の対象は貧困者に限られているので、彼の認識は少々一面的に思える。というわけで、私もグラミン銀行の活動を評価しているんだけど、ただ気になるのはおじさんのその後である。いままで1日の収入が50円だった人が、同じ時間の労働で150円稼げるようになったとき、いままで通り働いて150円稼ごうとは思う人は少数のはずである。多くの人は、もう100円稼いだし今日はそろそろあがるかなとなるのではないか。とくに私のような怠け者は、3日に1日働けばいいや、かつかつだけどまあいままでが働き過ぎだったんだしさとなる。グラミンはそれを許さない。いままで通り毎日10時間働いて経済活動の規模を拡大するようあの手この手でうながす。携帯電話の貸し出し事業や太陽光発電といったグラミンの最近の業務拡大もその一環である。バングラデシュの経済発展と自立という意味では確かに正しいんだけど、そのやり方は童話の「モモ」に出てきた時間泥棒を連想させる。童話の時間泥棒たちは時間をだまし取るための口実として合理化と多角経営を顧客に説いていたけど、こちらはあくまで善意からそれを説く。でも、それなりに食えていけるのなら携帯電話なんかなくても良いじゃない。携帯電話のある生活よりも、手を伸ばせばいつでも採れるバナナの木と毎日3時間昼寝ができる生活のほうに私はあこがれる。

 1990年のCBS「60mins」より。まだ髪も黒くて若々しいムハマド・ユヌスさん。

■ A piece of moment 11/19

 このところ急に冷え込んできて、とうとう我慢できなくなりファンヒーターを引っ張り出す。たまった洗濯物をまとめて洗う。シーツと布団カバーもついでに洗濯する。冬ごもりの準備が着々と進んでいる。読むべき本もたまってきた。森のあちらこちらにドングリをうめているリスの気分。

 我が家のぼろバイクは11月も順調に故障し続け、タコメーターと右前ウインカーが作動しなくなり、1番シリンダーの排気管からは排気漏れが発生。もっとも壊れてもどう対処すればいいのかもうだいたい見当がつくようになったのであわてることもなくなった。むしろひとつずつネガティブ要素をつぶしていけるのが嬉しい。前向きなのである。タコメーターは内部の電子部品がダメになっていたようなのでオークションで落札した中古のメーターに交換。ウインカーは電球の接点を磨いて対処。排気漏れはガスケットを交換したいところだけど、ひとまずボルトを増締めして応急処置。今年の4月からずいぶん手を入れて、電気系統、冷却経路、足回りのベアリング交換、各種ゴムホース交換と修理してきたので、故障箇所も細かい不具合に限られてきた感じ。1年半前に買ったときの状態が30点だとしたら、現在は60点くらい。ラジエーターのファンもちゃんと回るし、フロントブレーキもよく効く。もう都心の渋滞路だって大丈夫。21年ものの古いバイクを新車同様の100点満点にするには膨大な手間と暇と気力とお金がかかるので、ふだん乗るバイクとして70点くらいのコンディションを維持していくことが今後の目標。フルレストアされたピカピカのクラシックバイクよりも、少しくたびれていて角の取れた中古バイクのほうに道具としての愛着を感じる。

■ A piece of moment 11/22

 遠足で授業もないので、昼すぎにバイクで相模湖まで出かける。道程約100kmの間、ずっと渋滞。路肩のすり抜けとダンプの後ろで排気ガスを浴びながら数珠繋ぎになってのろのろ運転とのくり返しで、へとへとになって帰宅。ツーリングというよりまるでお父さんの家族サービスという感じ。お父さんはもうビール飲んで寝ちゃうよ。相模湖の遊覧船スワン号は、目玉が黄色にチカチカ光っていてまるでメカゴジラのようだったし、東京の渋滞地域に住む者にとって昼間のツーリングなんて行くもんじゃないと再認識。

■ A piece of moment 11/27

 社会科準備室でレポートの採点しながら、進路指導担当者が3年生相手に進路の傾向と対策を語っているのをぼんやりと聞く。「なあもっと上を目指せよ、こんな大学入ってもしようがないだろ、いくらスベリどめっていっても、それに早稲田・慶応っていったって昔と違って狂ったように難関ってわけでもないんだし、いざ就職する段になったら何学部かが重要になってくる、大手の商社や銀行を希望するなら経済か経営、商学部だと会計士になるなら良いけど企業では軽く見られるね、学部によって入社面接の場所からして差をつけられるんだぜもう露骨にさ、まあ外部の者からみれば早稲田・慶応でスゴイねってなるから大学の名前だけで威張りたいなら入りやすい学部を選べばいいけど、学内の人間にとってわけのわからん新設学科と経済学部・法学部との格差は歴然としている、とくに企業への就職を希望するなら経済学部のコネクションは絶対的だ、もっとも経済に受かるような連中は国立も受かるからそっちへ流れるんだけどさ、その地球なんたら学科なんて三田のキャンパスの人間から見れば隔離学科だよ、まあ差別される者の気持ちが理解したいっていうなら止めないけどさ……」

 どこかで聞いたことのある話の展開で、なんだろうこの論理はとしばらく考えて思い出した。サラリーマンをやっていた頃のことだ。何かの間違いで私が採用された会社は新入社員だけで200人近く採用する大手のメーカーだったが、文系の新入社員たちの大多数が経済・経営学部出身者で占められていた。明治・法政・日大あたりの経済・経営が多かったように思う。彼らの共通した傾向は、大学を就職のためのステップアップの場だと割り切っていて、なにかを考える場だとは見なしていないことだった。ゼミは大手企業への人脈づくりの場で、その研究内容ではなく大手にパイプのあるゼミほど人気ゼミになり、どれだけのOBが大手に就職しているかでゼミのヒエラルキーが決まるという。それはまるで「いい大学に入っていい会社に就職」という中学生の思い描く将来像のような単純さと視野の狭さで、彼らの話を聞いていると自分が中学校に舞い戻ったかのような錯覚をおぼえた。私はダイヤモンド社からでている企業研究なんて学生が読むものではないと思っていたのだが、彼らのほとんどはそうした企業情報に精通しており、人事部の誰それは重役も一目置くほど切れ者らしいとか何々銀行から引き抜かれた経理部長は通産省とのコネクションがあるなどという私にとってはどうでもいい噂話が研修の数週間目にしてまことしやかに囁かれていた。異文化との接触という意味では興味深い体験だったが、昼休みの度にくり返される社内政治のうわさ話と同期の女子社員との合コン企画話には辟易とさせられた。他に話題はねえのかよ、バカじゃねえかこいつら。もっとも逆に彼らからすれば、昼休みにラブレーの「ガルガンチュア」を広げて嬉々として読みふけっている私が浮世離れした変人か、社会人失格者に見えたのだろう。もちろん大学院で西洋哲学をやってたなんていう変なのは私だけで、文学部出身者も200人の中にたったひとりしかいなかった。新入社員のパーティ会場で互いに場違いな臭いを嗅ぎつけて知り合った彼は、中央大で日本文学を専攻していたといううらなり瓢箪のような顔をした文学青年で、経済・経営学部出身者とのあまりの意識のちがいに「カルチャーショックですよ、これは」と呆然としながら、でも自分たちの場違いさがなんだか可笑しくてふたりで笑ったのをおぼえている。彼はいまでもあの会社に勤めているんだろうか。

 3年生が帰った後、進路指導担当者に大学時代の専門を尋ねると、ちょっと誇らしげな様子で「慶応の経済」と言った。ああやっぱり。でも、逆に教員でこういう人もめずらしい気がする。

■ A piece of moment 11/28

 またもや試験シーズンに突入。定期試験だから来るのは当たり前なんだけど、来るたびにわずらわしいのである。仕方なく問題をつくるが3問で飽きてしまい、録りだめた「おじゃる丸」30本をまとめて見ることにする。「おじゃる丸」連続5時間マラソンと意気込むが3本見たあたりで寝入ってしまう。どうも10月からはじまった新シリーズはハートウォーミングな話が多くていまいち。前の4月からのシリーズがぶっ飛んだナンセンスものが多かったので、今回はあえて叙情的な話を多くしているのかもしれないけど、あのマンガに心あたたまる展開を期待している人なんているんだろうか。ゼンマイ仕掛けの宇宙船で地球を脱出したトミーさん一行のその後がどうなったのかちゃんと落とし前をつけてほしいのである。

■ A piece of moment 11/30

 立花隆のWebコラム、「メディア ソシオ-ポリティクス」第89回 東大生にも蔓延!履修漏れ問題 「ゆとり教育」が国を滅ぼすを読む。立花隆は東大生の「学力低下」を示す現象として、原田武夫著「タイゾー化する子供たち」(光文社)から引用しながら、現在の連立与党が自民党と公明党であることを知らない女子学生や 「東京札幌間の直線距離」「1円貨の直径」「1枚の紙の厚さ」といった日常的な数値の常識問題にとんでもない答えをする学生を例にあげ、その「学力低下」を嘆き、「ゆとり教育」なんてくだらないことをやっているからこうなるのだという。ふうん、立花隆までそう言うのか。どうやら「ゆとり教育」がダメというのはほぼ日本の常識になりつつあるらしい。

 でもさ、社会常識と基礎学力とは別ものなんじゃないの。自民・公明の連立与党や1枚の紙の厚さといったことは、日常生活の中で触れる知識であって、学校で習うような事柄ではない。ゆとり教育で授業時間が減ったことの問題をどうこういう次元の話ではなく、むしろ、授業時間が減って若者たちが自由に使える時間が増えたにもかかわらず、若者たちがそうした社会常識に触れる機会が少ない社会状況や家庭環境をどう改善したらいいのかを考えるべき事柄のはずである。このコラムでもうひとつ奇妙な点は、東大生なんだから社会常識についても他の学生よりも知識があるはずだという立花隆の思いこみである。難しい入試を突破して入学した東大生たちは受験勉強に多くのエネルギーと時間を割いてきた若者たちであって、他の若者たちよりも受験に関係しない社会常識や日常体験が少ないのは、むしろ当然のことである。そう思ってこのコラムを読むと、「東大生にもかかわらず」と嘆く立花隆の東大信仰は滑稽ですらある。こうしたエリート校の学生の社会常識の欠如は、日本に限ったことではなく、欧米でも一般的な現象になっている。とくに大学教育の専門化が進んでいるアメリカでは、すでに1980年代にエリート大学のなかでも優等生が集まる経営学部と工学部の学生ほど、社会常識に欠けることが指摘されている。(プラグマティズムのアメリカでは、就職に有利な経営学部と工学部のほうが経済・政治学部や理学部といった基礎理論を学ぶ学部よりも人気が高い。)1990年に出版されたスタッズ・ターケルの「アメリカの分裂」によると、各大学で行った社会常識の調査で「第二次世界大戦でアメリカはソ連と戦った」と解答した学生は半数以上おり、とくに経営学部と工学部ではその割合が高かったという。最初にそれを読んだときは誇張された数字だろうと思ったが、それから15年たった現在では、その数字が現実的なものに思える。80年代から90年代にかけて、日本の学校の集団主義や横並びが批判され、しだいにアメリカ化してきているのだろう。もっとも、大勢の学生が第二次大戦でアメリカが戦った相手をソ連だと思っていたとしても、あるいは自分で米を研ぐことすらできなかったとしても、自分の専門分野で優秀な成果を上げてくれればそれはそれでかまわないと考える人もいるだろうし、社会常識や日常体験の欠如を理由にして一概に大学教育の専門化や「受験エリート」を否定することはできない。

 世間的には「ダメ」と結論づけられつつある「ゆとり教育」だが、その基本的な考え方は、たんに知識の暗記ではなく、その知識を活かして自分なりに考察し表現できる力を養うというもので、その方向性はどう考えても正しい。これだけ高度に情報化された時代に、ただ記憶している知識の量が多いというだけでは、安いパソコン1台ぶんの価値しかない。ゆとり教育の問題は、めざすべき方向性ではなく、「考察し表現できる力を養う」ための授業カリキュラムと入試の改革とがまったく実現しておらず、結果的に授業時間が減っただけという状況にある。ゆとり教育を批判する人々は、学校の授業時間数の増加と暗記中心の内容に戻すことを主張しているようだが、それでは本末転倒に思える。「考察し表現できる力を養う」というのは要するに知識よりも知恵をつけようということで、この単純だけど困難な課題について、では具体的にどうすればいいかという議論をしないまま、ただゆとり教育にケチをつけて授業時間を増やせといっているだけでは何も本質的な問題は解決しないように見える。一方、若者に知恵や社会常識を身につけさせることの困難さにくらべて、大学生の「基礎学力の低下」のほうの対処はずっと簡単で、入試を共通一次時代の国公立のように文系理系を問わず社会科2科目・理科2科目を必修にしてしまえば良いだけのことである。立花隆の言うように「世界史と世界地理の知識は現代人に必須」と多くの人が考えるのなら(本当かよ)、社会科4科目くらいを入試の必修科目にすればいい。多くの高校がインチキをしていた履修水増し事件も「受験に関係ないから」というのが共通の理由なので、受験科目が増えればとりあえずこちらも解決する。でもそうすると、入試科目の多い大学は受験生から敬遠されて学生が集まらなくなるから大学としては入試科目を増やしたくない、でも、学生の基礎学力の低下は目にあまる、という大学側のジレンマの中で、学生の基礎学力の低下の責任を高校と義務教育に押しつけているというのが現状ではないかと思う。入試内容は各大学の判断でそれぞれ大学ごとに独自に行っているが、その社会的影響力の大きさを考えると、高校・大学合同である程度のコンセンサスを定める必要があるのではないかと思う。

■ A piece of moment 12/1

 こんな新聞記事を見つけた。会社を辞めようとした従業員に経営者が言いがかりをつけ、その従業員の背中一面に「不動明王」の入れ墨を彫り込ませたという事件。逮捕された社長の水野裕明容疑者(47歳)は事件への関与を否認しているが、入れ墨の代金9万円は彼が負担しており、警察は従業員を辞めさせないために入れ墨をさせたと見ている。被害者の従業員は自分以外にも同じように入れ墨をさせられた者がいると供述しており、警察ではその事実確認をしているところだという。まるで西村寿行のバイオレンス小説のような話で、彫り物が「不動明王」っていうのもエグイというか暴力的な感じ。ヤクザが自分の女を逃がさないよう彫り物を入れさせるって話はよく聞くけど、社員に対してとなると虎の穴か石川島の人足寄場みたいだ。入れ墨の強制というのは「傷害罪」が適用されるのかと思ったら、直接社長本人が彫り込んだわけではないので「強要罪」での逮捕とのこと。(強要は3年以下の懲役刑で傷害よりもずっと軽い。)事件の舞台となった会社はすでに倒産しているが、水野裕明容疑者は大阪を拠点に年商100億以上の売り上げ額のある健康食品会社グループを経営しており、かなりのやり手の様子。六本木ヒルズの一室を東京の自宅にしていたり、社会人サッカーチームのオーナーにもなっていたりと事件の社会的影響も大きそうだ。第一報は新聞の小さな事件記事だったが、翌日の続報ではスポーツ新聞が「ヒルズ族の事件」という扱いで詳しく報道しはじめた。(日刊スポーツの「兄弟盃」と書いて「さかずき」と読ませる記事はスポーツ新聞らしくておかしい。)記事を読む限りでは、悪徳商法で暴利をあげているヤクザ企業の経営者が、その商売のノウハウと社内のヤクザな実情を知っている従業員を逃がさないために荒技を使ったという事件に見える。被害者の元従業員は自分が「優秀な営業マン」だから手放したくなかったのだろうと供述しているが、悪徳商法という点ではむしろ深く関わってきた共犯者ではないかと想像する。でないと、社長に脅されたくらいで「不動明王」を彫り込んだりはしない。逮捕された社長は大阪を拠点に活動しているようなので、「ヒルズ族の事件」という扱いはピンとこないが、案外、六本木ヒルズにもヤクザ系の企業やその関係者もけっこう入っているのかもしれない。経営者の暴力団との関係を中心とした人となりと彼がグループ経営している健康食品会社の内情が気になるところ。ともかく現在、情報収集中。


従業員に入れ墨、健康食品販売会社社長を強要容疑で逮捕
朝日新聞 2006年11月30日12時36分
 従業員に無理やり入れ墨をさせたとして、警視庁は大阪市中央区瓦町1丁目、健康食品販売会社会長水野裕明容疑者(47)を強要の疑いで逮捕した、と30日発表した。
 高井戸署の調べでは、水野容疑者は以前に役員を務めていた健康食品販売会社「アッシュエムズコーポレーション」の従業員の男性(36)が退職を申し出たことに言いがかりをつけ、東京都港区の六本木ヒルズの一室で「おれはヤクザと兄弟分だ。入れ墨をいれないと(従業員の)長男を暴力団事務所に預ける」などと脅して入れ墨をするよう強要。04年6月から同11月にかけて3回にわたり、都内の入れ墨の彫り師に依頼し、男性の背中に不動明王の入れ墨の筋彫りをさせた疑い。
 入れ墨の代金約9万円は水野容疑者が負担していたという。同容疑者は「やらせていない」と容疑を否認している。

退職希望の社員に入れ墨 健康食品会社社長を逮捕
北陸中日新聞 (2006年11月30日 12時54分)
 警視庁高井戸署は30日までに、退職を希望した社員を脅して無理やり入れ墨を入れさせたとして、強要容疑で健康食品販売会社「マイスキィ」社長水野裕明容疑者(47)=大阪市中央区瓦町=を逮捕した。
 水野容疑者は「自分はやっていない」と容疑を否認している。同署は退職させないように強要したとみて追及している。
 調べでは、水野容疑者は2004年6月から同年11月にかけ、退社しようとした男性(36)を「入れ墨を入れないと、おまえの長男を暴力団事務所に預ける」と脅迫。都内の入れ墨師に依頼して、3回にわたって男性の背中に入れ墨を彫り込ませた疑い。
 東京での居住地としていた六本木ヒルズに呼び出して脅していた。男性は背中一面に不動明王の入れ墨を彫られたが、現在は退職して別の会社に勤めている。
 水野容疑者は「ヤクザと兄弟分だ」とも脅しており、同課は暴力団とつながりがあった可能性もあるとみて調べている。
 信用調査会社などによると、水野容疑者は東京都内や大阪市内で健康食品卸売会社など5社を経営。グループ全体の売上高は約100億円に達するという。(共同)
背中一面「不動明王」…従業員に無理やり入れ墨 社長逮捕
産経新聞 11/30 12:56
 従業員に無理やり、入れ墨を入れさせたとして警視庁高井戸署は強要の疑いで、健康食品販売会社「マイスキィ」(大阪市東淀川区)社長、水野裕明容疑者(47)=大阪市中央区瓦町=を逮捕した。
 調べでは、水野容疑者は別の会社を経営していた平成16年6月〜11月の間、東京都内に住む男性従業員(36)を港区・六本木ヒルズの自宅に呼び出し、「入れ墨を入れないとお前の長男を暴力団事務所に預ける」と脅し、背中一面に「不動明王」の入れ墨を彫り込ませた疑い。
 男性従業員は退職を希望していた。別の希望者も「入れ墨を入れろ」と迫られたことがあり、同署は引き留め目的だったとみて追及している。

入れ墨強要:退職申し出社員に…社長逮捕 警視庁
毎日新聞 2006年11月30日 13時13分
 会社を辞めさせない目的で、退職を申し出た社員に入れ墨を強要したとして警視庁高井戸署は30日、大阪市中央区瓦町、元健康食品会社社長、水野裕明容疑者(47)を強要の疑いで逮捕したと発表した。
 調べでは、水野容疑者は04年6月〜11月、当時経営していた健康食品会社の男性社員(36)に「体に入れ墨をしろ。従わないとお前の長男を暴力団事務所に預ける」などと脅し、背中に入れ墨を入れさせた疑い。容疑を否認している。
 男性は指示に従い背中に入れ墨を施し、費用は水野容疑者が負担した。男性は「私が成績優秀だったので会社を辞めさせたくなかったようだ。入れ墨を彫らされた元社員がほかにもいる」と話しており、同署で確認を急いでいる。【永井大介】

ヒルズ族社長、入れ墨彫らせる
日刊スポーツ 2006年12月1日8時24分
 六本木ヒルズに住む社長が、退職を申し出た社員を脅して無理やり入れ墨を彫らせていたとして、警視庁高井戸署は11月30日までに、強要容疑で会社社長水野裕明容疑者(47)を逮捕した。水野容疑者は年商100億円以上の健康食品販売会社を経営。大阪市の04年高額納税者番付で6位に入るセレブだったが、「入れ墨をしろ。従わないと、お前の長男を暴力団に入れる」とむちゃくちゃな要求をしていた。
 調べでは、水野容疑者は04年6月ごろ、役員を務めていた健康食品販売会社「アッシュエムズコーポレーション」(東京・銀座)の退職を希望した営業職の社員男性(36)を住居としていた六本木ヒルズに呼び出して、入れ墨を彫ることを強要した疑い。その際「オレはヤクザと兄弟盃(さかずき)をかわしている。入れ墨を入れないと、おまえの長男を暴力団事務所に入れるぞ」と脅したという。
 男性は水野容疑者の脅迫に従って指定された都内の彫り師を訪れたが「高熱だった」ことを理由に何もせずに戻ったところ、水野容疑者に「ふざけるな」と激しく責められ、04年6月から同11月にかけて3回、別の社員に監視されて、同じ彫り師を訪ねたという。
 色なしの輪郭だけの「筋彫り」だったが、男性は背中、上腕、腰の部分にまで広がる不動明王像の入れ墨を彫られた。費用の9万円は水野容疑者が全額負担したという。「アッシュ−」は今年6月に倒産。男性は現在違う会社に勤務しているが、背中の入れ墨はそのままの状態という。
 男性は優秀な営業マンで、男性を手放したくないため、入れ墨を彫ってしまえば会社を辞めることもないと考えたと、高井戸署ではみている。水野容疑者は入れ墨の強要について「やってないし、やらせてもいない」と容疑を否認している。
 水野容疑者は94年に創業した健康食品販売「はる」では会長、99年設立の健康食品卸「マイスキィ」では社長を務めている。05年3月期のグループの売上高は111億円だった。水野容疑者は04年の高額納税者公示で、1億6758万円を納付し、大阪市の第6位にランクされている。
 「はる」(大阪市)では「事件については分からない」と話している。高井戸署では水野容疑者が暴力団とつながりがあった可能性もあるとみて調べている。

退社希望した社員に入れ墨を強要…“ヒルズ族”社長を逮捕
サンスポ 2006年12月01日 更新
 社員に無理やり入れ墨を入れさせたとして、警視庁は11月30日までに強要容疑で健康食品販売会社社長、水野裕明容疑者(47)を逮捕した。退社を希望した社員を脅し、背中一面に不動明王を彫らせたとか。容疑を否認している水野容疑者は、都内では六本木ヒルズに住み、健康食品関連の企業グループ総帥にして社会人サッカークラブ「静岡FC」の会長という“大物”だった。
 こちらも“ヒルズ族”!! 部下の男性社員を「入れ墨を入れないとオマエの息子を暴力団事務所に預けるゾ」と脅したというから、究極のパワーハラスメントだ。
 平成16年6月、水野容疑者が当時役員を務めていた都内の健康食品販売会社(今年6月閉鎖)で、男性社員(36)が退社を申し出ると、東京での居住地の六本木ヒルズマンション一室に男性を呼び出した。
 そして入れ墨を入れるようスゴみ、都内の入れ墨師に依頼して11月上旬にかけて3回にわたり、男性の背中に入れ墨を彫り込ませたとされる。
 入れ墨の代金は計9万円で、水野容疑者が負担したという。「背中一面の不動明王の入れ墨ですが、色は入っておらず線だけの『筋彫り』です」(高井戸署)。
 「自分はやっていない」と容疑を否認している水野容疑者だが、脅迫の際は「オレはヤクザと兄弟分だ」とも脅したという。同署は男性社員を退職させないよう入れ墨を強要したもので、暴力団とつながりがあった可能性もあるとみて追及している。
 水野容疑者は平成6年に大阪市で健康食品販売会社「はる」を設立。現在では健康食品関連の5社を経営し、グループ全体の売上高が約100億円に達するなど急成長を遂げた。16年の高額納税者で大阪市内のトップ10に入るほどだ。
 その勢いで昨年、サッカー界に進出。東海社会人サッカーリーグ所属の「静岡FC」(静岡市)のスポンサーとなり、会長に就任したのだ。静岡FCは、横浜FCのFWカズ(三浦知良)の父、納谷宣雄氏がGM、兄の三浦泰年氏が総監督を務めている。三浦ファミリーとのタッグで念願のJFL入りを目指していたのだが…。
 「常勤の取締役ではなく、後援会会長です」と静岡FCの事務局。逮捕の報に「詳しい情報は全く入っていない。会社側からも連絡はありません」と衝撃を隠せない様子だった。
★静岡FC経営に影響も
 静岡FCは「はる」の全面支援で今年2月、静岡県藤枝市に約2億円かけて練習場兼クラブハウスを完成させた。しかし今季は東海リーグで2位、全国地域リーグ決勝大会でも敗退して、悲願のJFL昇格はお預けとなった。サッカー関係者は「静岡FCの経営状態は厳しい。スポンサー社長の逮捕で経営に影響が出る可能性もある」と話す。「はる」本社(大阪市淀川区)は「詳しい情報は把握していない。弁護士にすべて任せている」と言葉少なだった。

goo動画ニュース 会社を辞めようとした社員の背中一面に入れ墨 健康食品会社社長を逮捕

 健康食品販売会社「マイスキィ」はWebサイトもあって、代表取締役会長・水野裕明さんのお姿を見ながら「ごあいさつ」を読むことができるのであった。水野裕明さん自身はどんな彫り物を背中に背負ってるのか大いに気になるところである。経済ヤクザは愛人には彫り物入れさせても自分には彫らないっていう陰険なのが多いけど、産経と毎日の記事だと別の退職希望者にも彫り物を入れるようせまったとのことだし、それほど彫り物を愛しているのなら、自分の背中にもでーんと般若かドラゴンかそれとも目つきの悪いミッキーマウスあたりがのたくっていてほしいのである。(それにしても「代表取締役会長」ってなんだよ。)あつかっている商品は、乾麺のうどん、鰹だし、梅干し、ローヤルゼリーと案外普通の食品類……と思ったらやたらと高価なサプリメント類も。食品類もネット通販しているみたいだけど商品の値段がまったく書いてなくてちょっとどきどきするのであった。
 → 健康食品のマイスキィ 「ごあいさつ」
 この「代表取締役会長」さんは、他にも似たような健康食品の会社を経営していて、様々な就職セミナーでさかんに新卒者のリクルート活動を行ったり、サッカー社会人リーグの静岡FCのスポンサーになったり、六本木ヒルズに自宅があったりとかなりやり手な様子。
 → 株式会社はる(同じく代表取締役)
 → グルコサミン本舗(「マイスキィ」のサプリメント販売店)
 → 日経ナビ2007 はるグループ就職セミナー(「先輩情報」で新入社員の「仕事にかける意欲」が読めます。)
 → ウィキペディア 静岡FC(水野裕明さんは静岡FCの「代表」として記載)

静岡FC納谷GMが総合施設の構想語る
日刊スポーツ 2005/8/31/10:54
 静岡FCの納谷宣雄GM(63)が30日、藤枝市に年内完成を目指すサッカーの総合施設「はるフットボールスタジアム」(仮称)の具体的な構想について話した。多くの人の支援を受け、動き始めた壮大な計画。J参入を視野に入れながら、さらに地域に根付いたチームづくりを目指していく。
 −−壮大な計画ですね
 納谷氏「3、4カ月前から進めていました。今までは、練習場すら確保できていませんでしたから」。
 −−なぜ藤枝に
 納谷氏「ずっと静岡で探していましたが、場所が見つからなかった。親しくさせてもらっている中央防犯の富沢静雄会長が『一緒にやろう』といってくださった。藤枝にはフットサル場がないので、それも設置することにした」。
 −−施設の概要は
 納谷氏「中央防犯の宮原グラウンドを改修し、新たにクラブハウス、フットサル場3面をつくる。クラブハウスは合宿ができるよう食堂や浴場、2チームが宿泊可能な部屋を確保する。藤枝では年間70日ほど雨が降るという統計なので、フットサル場1面には、屋根も付けることにした。700人ほど収容のフットサル場スタンドも建設します」。
 −−総工費は2億円と
 納谷氏「今季から胸スポンサーになっていただいた株式会社『はる』の水野裕明社長の協力を得た。もともと福祉支援なども積極的に行っている会社です。サッカーにも興味があるということで今回、協力してくださいました」。
 −−総合施設の役割は
 納谷氏「静岡FCの本拠とするだけでなく、市民にも貸し出し、サッカー場もフットサル場も使ってもらえれば。あとはサッカー教室などを開き、青少年の育成、うちの選手もそこで教えながらプレーするのが理想です。ユースやジュニアユースをつくるのも夢。将来的にはフットサル場を5、6面に増やし、フットサルの世界大会も誘致したいですね」。
 −−あとはまずチームのJFL昇格
 納谷氏「『はる』さんは本社が大阪なので、すぐにJFLに上がって全国区にならないと」。

→ Webサイト 鬼平犯科帳 彩色 江戸名所図解 より

■ A piece of moment 12/6

 「名探偵ポワロ」の新作「青列車の秘密」を見る。1990年に初回放送の始まったこのテレビシリーズ、16年たった現在もまだ撮影が続いており、忘れた頃に新作が放映される。この10年くらいは、2〜3年に4本くらいのペースで「アクロイド殺人事件」や「ナイルに死す」といった長編のメジャータイトルが制作されていて、いずれはポワロシリーズのエピソードすべてをドラマ化をする計画らしいが、「ヘラクレスの冒険」の連作をはじめとしてまだまだ残っている作品があるので、完結するのはいつになることやら。日本やアメリカのテレビ事情からするとやたらと気の長い話だけど、ヨーロッパのオーケストラが10年以上かけてマーラーやシベリウスの交響曲の全曲録音をコンプリートするような感覚なのかもしれない。十年一日という感じの私にとってはちょうど良い。ただ、出演者の高齢化は気になるところで(「ホームズ」のジェレミー・ブレットはコンプリート目前で死んでしまったし)、初期の短編シリーズでは、主演のデビッド・スーシェはポワロ役には少々若すぎるように見えたけど、16年たった現在ではすっかり皺深くなった。吹き替えの熊倉一雄は入れ歯になったのか、最近の作品ではもごもごした話し方で滑舌の悪さが気になる。(長生きしてください。)

 今回の「青列車の秘密」は、場面の展開が少々唐突で、込み入った話を90分にまとめたという印象。例によってひと癖ふた癖ある金持ちたちが大勢登場するが、彼らの人間関係が断片的なので話の焦点も散漫な感じ。ミステリーの謎解きよりも殺人に至る登場人物たちの濃密な関係性と心理描写をじっくりと見たい私としては、去年放送された「五匹の子豚」のようなねっちりとした人間関係のものが好み。(「五匹の子豚」はベルイマン映画の愛憎劇のような展開で、いままでのポワロものとはひと味ふた味違う印象。青を基調にした冷たく冴えた映像も印象的だった。)
  過去のポワロ作品はこちらのWebサイトで詳しく紹介されている →「名探偵ポワロ」データベース

 気の長い話といえば、「ネムキ」で諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズの連載が2年ぶりに再開された。あいかわらずの内容もそれを読んで嬉々としている私も本当に十年一日という感じ。

2007

■ A piece of moment 1/28

 どうもお元気ですか。月日は百代の過客のごとしで2007年。悪い冗談だろって感じ。
 年末はめずらしくテレビを見てすごす。歌番組を見て驚いたのは、倖田來未が浜崎あゆみのポジションにすっぽりと収まっていたこと。夜中にハッピーニューイヤーと叫びながら浜崎あゆみがダンサーたちをバックにミニライブをやるのはここ何年かの年中行事だったが、まったく同じことを倖田來未がやっていた。浜崎のパワーダウンはちらと見た紅白でも明らかで、ポップスターが不特定多数へ向けて発信できる期間は短いのだなとあらためて思う。5年後にはディナーショーでもやっていそうな感じ。沢田研二はディナーショーのような閉じた小さな場に収まることを拒み、ヒットソングが途絶えた後も若いミュージシャンとアルバムを共同制作したりしていたが、たいていはそうした表現者としての欲求よりも興行を優先させ昔の名前で出ていますのディナーショー歌手として収まっていく。食事付きでひとり3万円のディナーショーはけっこう良い商売になるらしい。(ジュリーこと沢田研二の軌跡についてはこちらのサイトで詳しく解説されている。→まこりんのわがままなご意見 取りあげられている歌手から私と同世代か少し上の人が書いているのかと思ったら、30くらいの若い人が書いている様子。驚きである。長谷川和彦の映画「太陽を盗んだ男」やドラマの「悪魔のようなあいつ」でのジュリーなんて私はリアルタイムで見た記憶はまったくないのだが、この人、当時の時代状況までふまえて考察していて、なんでこんなに詳しいんだろう。その的確な考察を読むと才能と情熱の前では経験など無意味であるという気になります。)

 年末年始のもうひとつの発見。小型のフランス車に乗っている人はたいていとばしたがる。夜中にバイクを走らせていて、プジョーの106とかルノーの似たようなハッチバックに出くわすと、十中八九ものすごい勢いで信号グランプリをはじめる。日本車がミニバンばかりになってしまったので、そういう人たちが乗るクルマはフランス車ということになっているんだろうか。もっともひと昔前の走り屋と違って、とばすだけでマナーは悪くない。バイク乗りとしては彼らよりも携帯電話をいじりながらのろのろ走らせているドライバーがもっとも嫌な存在である。

 正月に友人とここ何年かでもっとも驚いたことは何かという話をする。私は近所の図書館へ行ったときに2階の公民館から薙刀を持ったおばあさんたちがぞろぞろと降りてきたことだ。薙刀は小紋のついた布袋に収められているがその大きさ・先端のしなり具合から薙刀以外に考えられない。おばあさんたちはそれを右手に携え、まっすぐ前を見据え、武術をやっている人特有の腰のすわった足の運びでこちらにせまってくる。その数約20人。ああ俺はここで成敗されてしまうのだなと観念しかけたのだが、薙刀を持ったおばあさんの一団はそんな与太郎の動揺など意に介さず、そのまますたすたと去っていった。これがここ何年かでもっとも衝撃的だった出来事。恐ろしいことに国分寺市にはおばあさんたちの薙刀サークルがあるらしい。

■ A piece of moment 2/2

 文科省の審議会が「敬語」の新しい指針を出したという記事。

敬語、5分類の指針を答申 謙譲語を分割、新たに美化語
朝日新聞 2007年02月02日11時52分
 文化審議会(阿刀田高会長)は2日、「敬語の指針」を伊吹文部科学相に答申した。指針では、これまで一般に尊敬・謙譲・丁寧語に3分類されていた敬語が5分類に改められた。具体的な使い方を36問のQ&A形式で解説し、マニュアル敬語にも言及するなど、実生活に即した内容となっている。
 同審議会は一昨年3月に指針作成を諮問され、国語分科会で審議してきた。指針は、コミュニケーションを円滑に行い、確かな人間関係を築くために敬語は不可欠との立場に立ち、敬語は必要と感じながら使い方がよくわからない人を主な対象としている。学校教育や社会教育など様々な分野で敬語ガイドブックが出ており、この指針はそうした「よりどころのよりどころ」とされる。
 新しい分類は、(1)尊敬語(2)謙譲語1(3)謙譲語2(丁重語)(4)丁寧語(5)美化語。従来の謙譲語は、「伺う」のように行為が向かう先の人物を言葉の上で立てる「謙譲語1」と、「申す」のように自分の行為を相手に対して丁重に述べる「謙譲語2」に分けられた。丁寧語からは「お料理」のように物事を美化して述べる「美化語」を独立させた。
 小中高校の国語科では現在、3分類を基本としながら教育段階に応じて「敬体と常体」といった2分類や美化語を加えた4分類を採用している。敬語の用法は戦後、大きく変わってきており、より深く理解するためには5分類が適切と同審議会は判断した。指針の理念は学習指導要領の改訂に影響を与えそうだ。  Q&A形式による「敬語の具体的な使い方」は、基本的な考え方・適切な選び方・具体的な場面での使い方、の3部構成。例えば「社会人は尊敬していない人にまで敬語を使わなければならないのか」という問いには「仮に尊敬できない人でも、その立場や存在を認めようとすることは敬意表現となり得る。その気持ちを敬語で表すことは可能だ」と答えている。
 敬語に関する国語施策の答申・建議は3度目。文化庁国語課は指針を小冊子にして配布し、ホームページでも公開する予定だ。

■敬語の新しい5分類(「敬語の指針」から作成)

●尊敬語(相手側または第三者の行為・物事・状態などについて、その人物を立てて述べる)
〈行為〉いらっしゃる、おっしゃる、なさる、召し上がる、お使いになる、ご利用になる、読まれる、始められる、お導き、ご出席、(立てるべき人物からの)ご説明
〈物事〉お名前、ご住所、(立てるべき人物からの)お手紙
〈状態〉お忙しい、ご立派

●謙譲語1(自分側から相手側または第三者に向かう行為・物事などについて、その向かう先の人物を立てて述べる)
伺う、申し上げる、お目にかかる、差し上げる、お届けする、ご案内する、(立てるべき人物への)お手紙、ご説明

●謙譲語2(丁重語ともいう。自分側の行為・物事などを、話や文章の相手に対して丁重に述べる) 参る、申す、いたす、おる、拙著、小社

●丁寧語(話や文章の相手に対して丁寧に述べる)
です、ます、ございます

●美化語(物事を美化して述べる)
お酒、お料理
 もともと「尊敬」「謙譲」「丁寧」の3分類だったのを5つに分類するという。
 こうした指針は、あくまで流動的なものを役所が便宜的に分類しているにすぎないので、以前のものもこれからのものもそれを「正解」と解釈するのは愚かしい。例えば農水省では、樹木の実を「果実」、草の実を「野菜」と分類していて、栗やクルミは「果実」となり、イチゴやメロンは「野菜」となる。明らかに社会常識とはズレているわけで、農水省の役人もその違和感を認識しつつ、とりあえず便宜的にそう分類している。同様にこの敬語の分類も「役所の分け方」にすぎないと受けとめるべきだろう。ただ、厄介なのは文科省の指針の場合、学校教育の元締めであるために、ひとつの目安にすぎないものが学校のマルバツ文化の中で「正解」として流通するようになってしまうことだ。試験のときに「参る」を「尊敬語」と答えて赤ペンで「×」をつけられるという体験をすれば、役所の分類にすぎないものがあたかも普遍的真理であるかのように錯覚してしまうだろう。その典型が「文字の書き順」。もともと文字の書き順は流派によって異なっていて、そのために草書体の崩し方も少しずつ異なる。学校で教わる書き順は、明治期にそうした違いを役所が調整して定めたひとつの目安にすぎない。ところが子供時代に学校で文字を教わりマルバツ式で訂正されるため、たったひとつの「正しい書き順」であるかのように思ってしまう。卒業したら「学校ではそう教わったね」程度に相対化して受けとめるのが良いと思うのだが、学校化社会の日本では、マルバツ式の呪縛はその後もついてまわることが多い。敬語について、私は「です・ます」の丁寧表現と身分制度に由来する立場の上下を表す表現とは区別するべきだと考えていて、丁寧表現は「敬語」に入れるべきではないと主張しているのだが、以前、知人とその話をしていたとき、相手に「敬語っていうのは尊敬・謙譲・丁寧の三つからなるんですよ」と文科省式3分類が宇宙の法則であるかのように主張されて手を焼いたことがある。その3分類は役所が便宜的に定めているものにすぎないんだよと説明したが、相手は腑に落ちないようだった。学生時代にさぞや「優等生」だったんだろう。

■ A piece of moment 2/8

 今年度は定時制の授業も受けもっている。定時制の生徒たちは手強い。授業中ずっと携帯電話をいじっているなんていうのはまだ可愛いほうで、なかには毎時間、携帯ゲームを持ち込んで夢中で励んでいるなんていう強者もいたりする。強者同士が2台繋いで通信対戦でもりあがっていることもある。はいはい楽しいのはわかるけど授業中はやめようね。で、注意しているとそれだけで授業時間が終わってしまったりする。こちらがガミガミやってもそういう奴はたいていツラの皮が厚いので平然としているが、むしろとばっちりを受けているはずの授業でそれなりに学びたいと思っている連中(クラスの少数派)のほうがその場の雰囲気に辛そうな顔でうなだれていたりして、ここはバベルの塔の教室だろうかという光景が夜な夜な展開されるのであった。こちらとしては、そんなに授業が嫌なら家で好きなだけ通信対戦してればいいのに思うのだが、不思議なことにそれでも彼らは授業に来るのである。さらに不思議なことに、生徒の多くが授業内容には無関心な一方で、出席日数については生徒も教職員もきわめて強い関心を持っているのである。教務担当者からは毎週末ごとに欠席の時数の提出を求められ、生徒からは授業のたびにいままでに何回欠席したのか聞かれる。出席確認をねちねちやるような授業は最低だと思っているので少々うんざり。それにいくら出席しても授業中ただひたすら携帯をいじっているような者に単位など出すわけがないので、出席日数など気にしても本末転倒としか思えない。むしろ、授業中ずっと携帯をいじっていていくら注意しても改まらない者については、出席すればするほど印象と平常点が悪くなるだけなので、結果的に出席するほど単位は遠ざかっていく逆スライド方式なのである。もしかしたら彼らは自分がどれだけ無意味な時間を過ごしたのかが知りたくて出席日数の確認に来るのかもしれない。学校の本来の役割は、学びたい者が集まってきてその意欲に応えられる授業をすることのはずである。授業担当者としては、学力の高い低いや素行の良い悪いは問わず、学びたいという者は歓迎するし、そうでない者はお引き取り願うというところである。暴力事件を起こそうがAVに出演しようが本人に学びたいという意欲があれば歓迎するべきだし、逆に学習態度の悪い者については偏差値が70だろうとIQが180だろうとマザー・テレサだろうとダライラマだろうと甲子園のエースだろうと退学を勧告してもっとふさわしい場での活躍に期待するのが良心的なやり方だと思うのだが、実情は多くの学校で逆さまになっているように見える。託児所としての役割のほうが重要視されているのかもしれない。もちろん、こちらとしては託児所を開設したおぼえはないので、授業中に携帯をいじっているような連中はすべて2学期の成績を「1」にしたところ、副校長からクレームがつく。「村田サン、クラスの3分の1が「1」っていうのはちょっといくらなんでもサ」「いえ、本来は「マイナス5」くらいのところをぶっ飛びありで「1」なんです」「……」。

 大学時代に教わった先生にこんな人がいたのを思い出した。最初の回の講義で、その先生は教壇に立つなりこう切り出した。「この中に単位だけ欲しくて受講しているという者はいますか?」。何だろうと思っているとこう続けた。「成績が「C」で良いのならあげるので、とにかく単位だけ欲しいという者ははじめにそう申告してください。ただし、そういう者はこちらとしても相手にしたくないので、授業には出席しないでもらいたい。「C」で良ければいくらでもあげるから」。思わず吹き出した。するとその先生はこちらを見てニヤリと笑い、「これはお互いの幸せのためです」と言った。おれ大爆笑。でも、あそこまで言われて、それでもなお「C」で良いから単位だけくれと申告するような卑屈な者はいたんだろうか。来年度はこれでいこう。

■ A piece of moment 2/27

 授業でウィニーによる情報流出事件を取りあげる。テーマは個人情報と電子メディア。この種のコンピュータ関連の知識は生徒によって差が大きいので解説するのは難しい。実際に使っているという生徒がいたら、私よりもずっと詳しいだろうし代わりに解説して欲しいところだけど、残念ながら解説を代わってくれる者がいなかったので、たどたどしい説明でファイル交換ソフトの基本的なしくみを解説する。ウィニーの入っているパソコン同士でデーターを自由に交換できること、例えば自主映画を制作した人がウィニーの入っているパソコンにその映画のファイルを入れておけばウィニーを介して世界中の人に手軽に公開できるといった建設的な使い道もあって使い方によっては大きな可能性や発展性のあるソフトだけど実際にはほとんどが不正コピーの道具として使われていること、ホームページや掲示板にファイルをアップロードするのとは違ってどこの誰がファイルを公開しているのか特定しにくいために不正コピーをしている者を摘発しにくいこと、などなど。すると、ひとりの女の子が眉をしかめて「ウィニーって無線機みたいな装置なの?」とつぶやく。あ、わかりにくい説明でスイマセン、装置じゃなくてパソコンソフトです。で、連日のようにおきているファイル交換ソフトがらみの情報流出事件を紹介する。

山梨県警の情報流出、婦女暴行被害者の氏名・住所も
2007年2月24日14時59分配信 読売新聞
 山梨県警甲府署勤務の男性巡査の私物パソコンから、ファイル交換ソフト「Winny(ウィニー)」を通じて500人以上の犯罪被害者らの個人情報を含む捜査資料がインターネット上に流出していた問題で、流出した資料に婦女暴行事件の女性被害者の名前や住所などが含まれていたことが24日、わかった。
 流出資料には、このほか、証拠品の提供者の住所、氏名や、汚職事件のチャート図なども含まれていたという。
 県警によると、この巡査は20歳代で、報告書などを作成する際の参考にしようと、前任の長坂署勤務時代の先輩警察官から入手し、私物のパソコンに保存していた。県警の事情聴取に対し、「学生時代からウィニーを使っていた」と話している。

Winny開発者に有罪判決
著作権法違反(公衆送信権の侵害)ほう助の罪に問われていた「Winny」開発者に、京都地裁が有罪判決。
ITメディアニュース2006年12月13日 10時13分 更新
 P2Pファイル交換ソフト「Winny」を開発し、著作権法違反(公衆送信権の侵害)ほう助の罪に問われていた金子勇被告の判決公判が12月13日、京都地裁であった。氷室真裁判長は罰金150万円(求刑・懲役1年)の有罪判決を言い渡した。
 金子被告は、Winny開発は純粋な技術的見地から行ったもので、著作権侵害を増長させる意図はなかった、と無罪を主張。検察側は、金子被告が著作権侵害を助長する目的でWinnyを開発したと主張していた。
 判決公判は午前10時開廷。小雨が降りしきる中、約60席の一般傍聴券を求めて200人以上の傍聴希望者が朝早くから列を作った。

 ひとつめの記事は、ウィニーの入っているパソコンに事件の捜査資料を入れてしまったというあまりにお粗末な警察官の話。ファイル交換ソフトの基本的なしくみを知っていたら、どう考えても重要なデータはウィニーの入っているパソコンなんかに恐くて入れられるはずがないんだけど、不思議なことに連日のようにこの手の事件がおきている。もしかしたらウィニー利用者の多くは、「エッチなビデオをタダで見られるソフト」くらいの認識なのかもしれない。それにしても捜査資料を入れてしまうというのは豪快である。そのうち核ミサイルの設計図がファイル交換ソフト経由で流出したりするかもしれない。この手の事件のほとんどが役所がらみというのは、役所の情報管理のずさんさをあらわしている。コンピュータ関連の企業が情報管理に神経質になっているのと対照的。せめて職員に業務専用のノートパソコンを貸与するくらいはするべきである。指紋認証システムつきのを。かく言う私もこうしていま使っている私物のパソコンで試験問題も作成しているわけで人事ではないのである。アベソーリーは、公務員がウィニーを使うこと自体をすべて禁止するべきだなんて無茶苦茶なコメントしていたけど、ファイル交換ソフトのしくみをわかっているんだろうか。

 ふたつめは、昨年末にウィニーの開発者が有罪になったという記事。ファイル交換ソフトの性質上、不正コピーを公開している者を特定しにくいため、警察としてはウィニーを介して不正コピーをしている者の摘発が難しい。そこで開発者を見せしめとして逮捕した。その背景には音楽業界からのウィニーを取り締まってくれという強い圧力があったと言われている。最近CD売れなくなってきてファイル交換ソフトについてはずいぶんかりかりしているみたいだし。裁判所は、開発者自身がある程度不正コピーの道具として使われることを予想した上でウィニーを開発していたという点を重視し、著作権侵害ほう助で有罪と判断したけど、有罪とまでいえるのか微妙なところである。生徒たちの判断は、無罪15人、有罪0人、保留25人。裁判員制度でこの裁判をやりなおしたら金子さんは無罪になりそうである。

 ひさしぶりに駅の立ち食いそば屋に入る。空腹のところにそば屋から鰹と醤油のダシの濃い匂いが漂ってきて、ついさっきまで思っていた今晩は野菜炒めにしようかなどという意識は消し飛ぶ。天ぷらそばを注文する。食券には「そば・うどん」と書いてあって選択式になっているみたいだけど、この手の店でうどんを注文した記憶がない。そもそも外でうどんを食べるという選択肢が自分の意識にないことに気づく。まあ東京の人間はたいていそうだろう。そばをずるずるやっている最中に7人の客が入ってきたが、全員「そば」と注文する。そばとうどんの比率はどのくらいなのか、店のおばさんに尋ねてみる。
 「そばとうどん、どっちのほうが多いの?」
 「そば」
 「もうぜんぜん?」
 「そう、もうぜんぜん」
 「10人中9人くらい?」
 「もっとよ」
 だそうである。簡潔にして明瞭な解答。かくして「立ち食い」とは「そば」なのである。西のほうへ行くと駅の「立ち食い」が「うどん」になったり「たこ焼き」になったり「ちゃんぽん」になったりするんだろうか。「皿うどん」だと発車時刻を気にしながら食べると舌に刺さりそうである。

■ A piece of moment 3/24

 どうにかこうにか今年度の授業も終わってほっと一息。来年度も同じ学校での授業を継続することになる。演習授業もここ数年フォーマットが固まってきてしだいにルーティンワークになりつつある。まずいなこりゃ。今年度の授業でもうひとつ気になったのは、自分の言説が社会に対してなんらかの働きかけをするためのものではなく、自分がどう見られるのかを気にして政治的バランスをとろうとする傾向があったことだ。なんという不様さ。それはちょうど、アメリカの自称「リベラル」の白人男性が、差別構造に抵抗するために何かをしようとするのではなく、たんに自分が差別主義者と思われたくないためにポリティカリーコレクトを気にして、「アメリカインディアン」と呼ぶべきか「ネイティブアメリカン」という言葉を用いるべきかといった表面的なことにばかりとらわれているようなもので、醜悪である。(「垂直方向にチャレンジされた7人の男性たち」は「政治的に正しいおとぎ話」の中でもとくに笑った表現だったが、友人によると「市役所の福祉課にそういう言葉を使う人が本当にいるのよ」とのこと。「彼女が発言する度にこみあげる笑いをこらえるのが辛かった」そうで、ぜひ一度その話しぶりを聞いてみたいところである。)

 完全にポケットラジオに圧倒されて、あいかわらず使用頻度の低い我が家のipod。外に出てまで録音されたものをくり返し聞く気にはならないのである。片耳に押し込んだイヤホンでラジオニュースを聞くのが、散歩やバイクに乗っているときの定番。一方、itunesのほうはポッドキャストの普及でそれなりに活躍している。ラジオ局ではTBSが番組のポッドキャスト化に積極的なようで、ラジオコラムが充実している。気に入っているのは「ストリーム」のラジオコラム。逆にNHKは番組のポッドキャスト化に慎重で、ダウンロード形式のデジタルメディアには対応していない。平日の夕方6時にやっている「ラジオ夕刊」でのニュース解説が気に入っているが、ラジオ放送で聞き逃してしまうとどうにもならない。この「ラジオ夕刊」と土曜の夜中にFMで放送されているラジオドラマがポッドキャスト化されれば、我が家のipodももう少し活躍するのではないかと思う。
 → TBS「ストリーム」コラムの花道

 先月、3年ぶりに交通違反の切符を切られる。信号待ちのすり抜けで右折車線から回り込んで前に出たということで「車線通行違反」。減点1、罰金6千円。ただ、つかまえた白バイ隊員氏が不自然なほど腰が低い。いやあこんなこまかい違反なんてと思うかもしれませんがいやそのそこの信号は東大和警察署のまん前ですしこんな大型バイクに乗っていることですしぜひライダーの手本になっていただきたいっていうことででも危険な運転なのはやっぱり危険なんですよこれはあっゴールド免許ですか世のオートバイ乗りがみなさんムラタサンのような方ばかりだと交通事故はもっと減るんですがねえ……ってなんなんですかこれは、交通違反でつかまえた相手をほめ殺しっていうのは。日々の業務の中で身についた一種の仮面のようなものなんだろうか。一方的にほめ殺されてくやしいので、こちらも白バイ隊員氏をほめ上げることにする。
 「いやあ白バイ隊員さんみたいに運転上手くないですから」
 「いやいや私なんかいくらオートバイに乗っていてもただ交通違反をつかまえているだけの日々ですよ」
 「プライベートではバイクに乗らないんですか、白バイ隊員さんのように上手な方がツーリングを主催すればさぞ手本になるんじゃないかと思うんですが」
 「いやいや家族サービスで精一杯でしてなかなか、それにしてもVF1000Rいいなあ、しっかり整備されているようですし、私も自分で乗るなら少し古いオートバイを自分で手を入れながら大事に乗りたいって思うんですよ」
 「いえいえうちのVFはどうにか走っているっていう程度のしろものでして白バイのように万全っていうわけにはなかなかいかないですよ、それになにより乗ってる人のウデが違いますから」
 「いやいや私のは警察の支給品ですから愛着がやっぱり違いますよね……」
 まるで稲川淳二対稲川淳二のようなじつに嫌な会話。互いに仮面のような笑顔で目は笑っていない。おかげで授業に遅刻する。

 1月の柳沢厚労大臣による「産む機械」発言、ずいぶん波紋が広がったが辞任することなく収束する気配。「産む機械」とはまたやたらとインパクトのある言葉である。ただ、この言葉自体はジョークのネタにしてからかうべきもので、大臣を辞任させるほどのものとは思えない。そういう意味で、ネットの反応の中で面白かったのはこのふたつ。
 → 「産む機械」Tシャツ
 → 柳沢厚労大臣ニセ釈明会見
 この「産む機械」発言の前後の文脈は次のようなもの。「なかなか女性は一生の間にたくさん子どもを生んでくれない。人口統計学では、女性は15〜50歳が出産する年齢で、その数を勘定すると大体わかる。ほかからは生まれようがない。産む機械と言ってはなんだが、装置の数が決まったとなると、機械と言っては申し訳ないが、機械と言ってごめんなさいね、あとは産む役目の人が一人頭でがんばってもらうしかない」(はてなダイヤリーキーワードより)。要するにこのまま少子化が進むと税収が減って政府が困るからじゃんじゃん産んでねと言っているわけである。こどもが減ったら減ったで別にいいじゃん、本人の自由意志で産まない選択をした結果として少子化が進んでいるだけなんだから。こどもが少ない社会を想定して将来どういう社会を築いたらいいのかを考えるのがアンタの役目だろうと思うのだが、役人としては財政規模が縮小して自分たちの権限が小さくなる未来は想定できないらしい。で、「産む役目の人」はもっと「がんばってもらうしかない」となる。人間をマスとしてしかとらえない典型的な国家主義者の発想で、「産む機械」の言葉自体よりもこちらの発想ほうがはるかに問題の根は深い。

 「あるある大事典」のデータねつ造、こちらは現在進行形で日々さらなるねつ造があったと報じられていてまだまだ続く様子。そりゃそうでしょうとも、そもそも「あるある」が「科学的」だと思っている人のほうがどうかしているのである。こうした番組でのねつ造ややらせがあかるみに出た際、テレビメディアはきまって過熱気味に報道するが、その一方で、いっこうにこの種のねつ造・やらせがなくならないところを見ると、ねつ造・やらせ批判の報道自体がメディアによる信頼のねつ造に思えてくる。つまり、「私たちは本当はこんなに正しいんです、番組でのねつ造ややらせはあってはならないことがおきてしまったんです、だから安心して御覧のチャンネルをお楽しみくださいね」と。最後に「なーんちゃって」と言いながら舌を出してくれるとわかりやすいんだけど、わかりやすすぎて面白くもないか。

 15年ほど前、森毅がエッセイの中に書いていたことだ。森毅が朝日新聞の書評で中沢新一と顔を合わせた。中沢の新著にあったフラクタル理論について、概念の基本的部分に誤りがあったので、新聞社のトイレで連れションをしながら「あれ、間違っとったで」と指摘すると、中沢新一は平然とした顔で、「で、面白かったですか?」と返したという。それを聞いて森毅は「こいつあんがい大物やな」と思ったとのこと。文章に芸があるかないかが森毅の基本的な評価基準なのである。

 中沢新一をペテン師と見なすか思想家と見なすかは人によって評価の分かれるところだろうが、科学者ではないので数学概念のつまみ食いによる思想もどきに多少の虫食いがあってもまあ大目にみられる。科学者の場合は社会的地位を失うことになる。ES細胞をでっち上げたファン・ウソクはソウル大をクビになり、高温超伝導をでっち上げたヤン・ヘンドリック・シェーンはベル研をクビになり、マイクロRNAをでっちあげた多比良和誠と川崎広明は東大をクビになったわけである。(東大のケースはまだ係争中。ただしふたりの言い分は180度違っていて、助手の川崎は「データは偽物ではない」なのに対し、教授の多比良は「助手のでっちあげで自分まで一緒にクビにされるのは理不尽」というもの。)

 科学的思考の基本は、事物の世界を第一義とすることにある。個々人の意識や願望とは無関係にものごとの事象が「存在する」ことが科学的思考の前提であり、そこから事象の有り様を読み解いていく。だから、自然科学でも社会科学でも論文には客観性と再現性が求められる。しかし、言うまでもなく意識は事物自体の事象を直知することはできない。我々は意識の世界の住人であり、意識に変換することで初めて事象にふれることになる。色や熱さを感じることで「炎」を認識し、細長い形状を見てつるりとした触感を感じることで「ボールペン」だと認識する。こうした認識の積み重ねによって、目の前に広がっている世界が「たぶんあるんだろうな」と思う。日々の生活の中で体験することはすべて意識の中の出来事である。「炎」も「ボールペン」も「目の前の世界」も意識の中の体験である。認識の順番からいえば、第一義としてとらえられるのは意識の世界であり、事物の世界はすべてそこからの類推にすぎない。自分がいまこうして操作している(つもりの)キーボードは意識の中だけのものではなく事物の世界においても「たぶんある」はずだし、昨日あったバイク屋のおっちゃんは記憶の中だけの存在ではなく事物の世界においても「たぶんいる」はずで、さらにはバイク屋のおっちゃんの言動から自分と同じように意識世界の住人で、自分とは異なる意識世界を体験しているんだろうと。この類推をすべて否定して、この世界に存在するのは自分の意識のみだとする考え方を唯我論という。唯我論では、いま触っているキーボードも昨日会ったバイク屋のおっちゃんも自分の意識世界の中だけに存在するということになる。(自分の意識世界のみが唯一の確実な世界のなので、その唯一の確実な世界に存在する「キーボード」や「バイク屋のおっちゃん」は幻ではない。自分の意識の一部であるというだけである。)逆に科学的思考では、この類推による事物の事象があることを「揺るぎない事実」とし、さらに認識の順番を逆転させて事物の世界から思考を展開していくことになる。両者は、事物の世界の類推について両極の立場にある。もちろん日々の体験の中でこんな極端なしかたで世界をとらえてはいない。人によって程度の差こそあれ、この唯我論と科学的思考との間で揺れながらこの世界をとらえようとしているはずである。そういう意味で、意識と事物の世界とが相互に影響をおよぼすと考え、呪術や魔術によって事物の世界も変容すると考えた近代以前の人々の世界観は、認識の仕方からするとごく自然なものであり、むしろ、意識と事物とが切り離されて存在するとする近代科学の思考のほうがきわめて特異なものといえる。脳の研究にいだく違和感や不気味さは、この科学的思考と自らの認識との相容れない関係を突きつけられることに由来する。

 で、最後は鹿児島と富山でおきたえん罪事件について。鹿児島の「踏み字」事件はずいぶん話題になったが、むしろ深刻なのは3年の刑期を終えた後でえん罪だとわかった富山のケース。
「踏み字」事件、警部補減給など3人処分 鹿児島県警
朝日新聞 2007年02月21日20時42分
 03年の鹿児島県議選をめぐる公職選挙法違反容疑の任意捜査で、同県志布志市のホテル経営、川畑幸夫さん(61)に警部補(44)が自白を迫った際、親族の名前が書かれた紙を無理やり踏ませるなどしていたとして県警は21日、この警部補を減給10分の1(3カ月)の懲戒処分にした。「不適切な行為で県警の信頼を損ねた」のが理由。当時、志布志署長として事件の指揮をとっていた警視(60)を本部長注意、県警本部の警部(56)を所属長訓戒とした。
 「踏み字訴訟」での敗訴を受けて処分を発表した県警の竹之内義次・首席監察官は「民事判決を重く受け止めて厳正に対処した。誠に遺憾で申し訳ない」と謝罪した。しかし、川畑さんは「身内に甘い処分で開いた口がふさがらない。こんな処分だったら警部補はまた違法捜査をしかねない」と批判している。
 「踏み字」などの捜査の違法性を問うため、川畑さんは04年4月、県を相手に慰謝料などを求めて提訴。先月18日の鹿児島地裁判決は、警部補は少なくとも3回、親族の名前や親族からのメッセージに見立てた「早く正直なおじいちゃんになって」などと書いた紙を踏みつけさせた▽弁護士の選任権を侵害した▽高血圧症による吐き気や頭痛の訴えを無視した――などと認定。「公権力をかさに着て原告を侮辱するもの」として県に60万円の支払いを命じた。
 これに対し県は控訴を断念。判決を受けて川畑さんは先月24日、警部補を特別公務員暴行陵虐容疑で鹿児島地検に告訴した。今月20日には、警部補ら3人の懲戒処分を求める要請書と6109人分の署名簿を県警に提出した。
 23日には、同じ捜査態勢のもとで公選法違反(買収・被買収)の罪で起訴された12人全員が「自白を強要された」として無罪を主張している刑事事件の判決が言い渡されることになっており、地裁の判断が注目されている。

えん罪強姦:県警本部長、男性に直接謝罪 就職先紹介も
毎日新聞 2007年1月28日 18時31分
 富山県警が強姦(ごうかん)容疑などで逮捕した男性(39)が服役後に無実と分かった問題で、県警の安村隆司本部長と小林勉刑事部長が今月26日、男性に直接謝罪し、就職先の紹介など生活支援をする意向を伝えていたことが分かった。小林刑事部長は「組織としてのけじめ」としている。県警は捜査幹部が23日にも男性に謝罪している。
 事件は県内で02年1〜3月に発生。男性は任意の事情聴取に容疑を否認したが、その後、認めたため逮捕された。公判でも起訴事実を認め、同年11月に懲役3年の実刑判決を受け、05年1月に仮出所した。ところが、別の強姦未遂容疑で逮捕された男が昨年11月、この件も自らが行ったと供述し、今月19日に再逮捕された。【上野宏人】

冤罪被害者一問一答 「否認しても」と断念
朝日新聞 富山版 2007年03月05日
 「否認しても信じてもらえない。そう思い込むところまで追いこまれた」。強姦と強姦未遂の2事件で逮捕され実刑判決を受けた県内の男性(39)が、約2年1カ月服役した後に冤罪とわかった問題で、男性は4日までに、逮捕後のつらい経験や現在の心境を語った。「誰かが『がんばれ』と言ってくれたら、結果は違ったかもしれない」と悔しさもにじませた。主な一問一答は以下の通り。

 ◇任意聴取3日目で「自白」しました。
 「やっていない」と言い続けたが、取調官に「家族が間違いないと言っている」と繰り返され、身内も周りの人たちもそう思っているのだろうと思い込まされ、「もうだめだ」となった。
 ◇逮捕直後は検察官、裁判官、弁護士に一度は否認しました。
 やっぱりやっていないと思い直したので。でも検察官に否認した後、県警の取調室に戻ると「なんでそんなこと言うんだ」と怒鳴られ、上申書みたいなものを書かされた。「今後言ったことをひっくり返すことは一切いたしません」と書かされ、署名、指印させられた。そのほかにも何枚か書かされた。恐ろしくなり、ここで何か言えば何かされるのではと思った。その後も「死んだおふくろさんに顔向けできるのか」などと迫られ、「『はい』か『うん』しか言うな」とも言われた。
 ◇犯行現場は案内できたのですか。
 (強姦未遂事件では)車に乗せられ、途中で「どっちだ」と言われ、「こっち行ってください」と言うと、「こっちじゃないだろう」と。そういうやりとりが何度もあった。そのうち1軒を適当に指さしたら、現場だったようだった。

 ◇弁護士とは。
 弁護士とは逮捕直後に一度会ったが、次は起訴後。「もう何を言ってもだめだろう」と思っていたから罪は認めた。当時は誰にも相談できなくてつらかった。誰かが「がんばれ、がんばれ」と言ってくれたら、結果は違ったかもしれない。
 ◇なぜ公判でも罪を認めたのですか。
 否認しても信じてもらえない、そう思うところまで追いつめられていた。裁判で何を言っても通用しないだろうと思った。心の中はずっと苦しかった。法廷で「申し訳ございませんでした」と言ったが、「やってもいないのになんでこんなことを」と悔しくなり、その場で泣いた。
 ◇服役して一番つらかったことは何ですか。
 拘置所にいるとき、入院中だった父を亡くしたこと。面会に来た人から「お父さんは悲しんで死んでいった」と言われ、一日中泣き続けた。出所後は、周りから前科者だと白い目で見られるのが嫌だった。自殺しようとしたこともあった。県警から謝罪を受けたときには「失った期間は戻ってこないから」と伝えた。
 ◇県警、地検は現時点では当時の捜査関係者を処分しない方針です。
 ないと知ったときには腹が立った。処分しないということは「間違った取り調べをしていない」と僕に対して言っているようなもの。できれば、当時の捜査関係者に直接謝ってほしい。もっとまじめに捜査をやってくれたらこうならなかった。いまだに警察は信じられない。今後、同じことが一切ないようにしてほしい。
 ◇親族や地元の方たちは心配しています。
 一度は家に帰らなければいけないと思うが、マスコミに囲まれ大騒ぎになり迷惑をかけてしまうと思う。本当は帰って顔を見せたい。
 ◇これからやりたいことは。
 まだ父の墓前に無実になったことを報告していないので、早くしたい。
     *アンダーラインは引用者によるもの。
 ほら中学校で教わったでしょ、刑事裁判において自白だけを証拠にして有罪にしてはならないって。でも、このふたつのケースは、日本の刑事裁判で自白のしめるウェイトがいまだにいかに重たいかをあらわしている。「自白は証拠の女王」ってやつですね。気になったのは下線部分。「はい」か「うん」しか言わなかったら、自白の調書なんてつくれないんじゃないかって思うでしょ。だって自白の調書って、「私、○○○○は突如情欲をもよおし、国分寺駅北口路上にて……」ってぜんぶ容疑者の独白調で書かれてるし、当然、容疑者が取り調べの中でそう語ったものだと思うでしょ。わたしゃつい最近までそう思っていたよ、高校生に政治・経済を解説してるくせにさ。ところが、実際はぜんぜん違うらしい。実際の調書は、取調官が全部作文して、それを容疑者の目の前で読み上げる。で、最後に「これに間違いないな!」と容疑者を怒鳴りとばす。気の弱い容疑者が「はい……」と答えたら、その調書はすべて容疑者自身が語ったこととされて証拠に採用されるという仕掛け。なので、「はい」か「うん」しか言うなという検事の警告が出てくる。この独白調の調書は、日本では平安時代の検非違使(けびいし)以来の長い長い歴史があるそうで、そういえば「藪の中」も事件にかかわった者たちの独白で構成されている。朝日の記事の一問一答を読みながら、江戸時代の御白砂を連想したよ。

 10年ほど前、沖縄で小学生の女の子が米兵に暴行された事件をきっかけに米軍基地の問題が連日報道されていた際、日米地位協定の不公平さが度々指摘された。事件を起こした米兵が検察に起訴されるまでは一切日本の警察の取り調べを受けないことについて、「不公平だ」という声だ。確かに不公平であることは間違いないんだけど、こうした規定が設けられている背景には、日本の警察の取り調べに対するアメリカ側の不信感がある。まず、取り調べに弁護士が同席できない。取り調べの会話は録音もビデオにも記録されない。まるっきりの密室で取調官と容疑者が対峙し、調書は取調官との会話形式ではなく、取調官の作文にもかかわらず容疑者の独白調に仕立て上げられる。こうした手法は、欧米の取り調べの基準からすると完全に外れている。なので、米兵の起訴前取り調べを認めるためには、日本の取り調べの手法を欧米のスタンダードに合わせてくれという要求がアメリカ側から出された。10年前に沖縄の基地問題がクローズアップされたときは、レイプ事件を起こした米兵への反発から、日本のメディアでは日米地位協定の不公平さばかりが指摘されたが、このケースでのアメリカ側の要求はごく当然のものに見える。結局、取り調べの形式があらためられることも日米地位協定が改正されることもなく、10年たっても沖縄の基地はそのままで、刑事事件での取り調べはお代官様の御白砂という状態。問題点は明らかに見えるけど、取り調べの形式をあらためることについては、警察と検察からの強い反発があるようだ。

■ A piece of moment 4/2

 以下、性同一性障害についての記事。

「自分はフミノ それだけ」
朝日新聞 2007年02月15日
 心と体の性が一致しない性同一性障害(GID)。当事者たちは、体への違和感と、誰にも相談できない孤独感に苦しむ。気持ちは「男」である、元女子フェンシング日本代表の杉山文野(ふみ・の)さん(25)もずっとそうだった。自分と正面から向き合ううち、「自分が自分であることを受け止めたい。男、女、どちらが正しいというのはなくて、自分はフミノであるという事実しかない」と考えるようになった。その思いをつづった本は今、静かな反響を呼んでいる。(内山美木)

 杉山さんは、「女」という実感を一度も持ったことがない、という。「ずっと、女体の着ぐるみを身につけている感覚で生きてきた」
 女子大付属の小学校にあがるとき、自分が「男」じゃないと知った。「びっくりした」。
幼稚園でいつも一緒に遊んでいた男の子たちと自分は同じだと思っていた。好きな女の子もいた。
 「でも、女の子がかわいいと思っても、なにか言っちゃいけない雰囲気があるとは感じていた」
 中学、高校と、体は女として成長していく。胸がふくらみ、生理もきた。自分のものとは思えない体への嫌悪感。「好きな女の子のおっぱいはいとしいと感じるのに、なぜ自分の胸の存在は耐えられないのだろう」
 自分は頭がおかしいのか――。「ボーイッシュで明るい女の子」として女子校では友だちも多かった。家族とも仲がよかった。でも「本当の自分」は誰にも出せない。「存在していることがつらかった」。毎晩、泣いた。
 そんな日々から抜け出すきっかけは、高2での失恋だった。相手は中3から付き合ってきた彼女。「ヘンなやつだと思われたくなくて」、その子にさえ気持ちは「男」であることを隠していた。学校では「レズビアン」と噂(うわさ)され、好奇の目を向けられた。耐えられず、大切な恋を失った。
 そのショックで思わず、友だちに「カミングアウト」してしまった。涙があふれた。友だちから返ってきた言葉は「性別がどうであれ、フミノはフミノ」だった。
 少しずつ、まわりの人たちに本当の自分について伝えるようになった。すると相手は、実は自分も、とそれぞれが背負うものを打ち明けてきた。自死未遂、堕胎、親の離婚、在日コリアン……。誰もが、土俵はちがっても、人に言えない悩みや乗り越えられない苦しみを抱えて生きているのだと、気づかされた。

■「ノー・ボーダー社会を」
 杉山さんが本を出したのは昨年5月。以前から、「五体不満足」の著者、乙武(おと・たけ)洋匡(ひろ・ただ)さんの「体」に対する考えを直に聞いてみたかった。街で見かけ、とっさに話しかけたところ、意気投合。面白い、本を書いたらと、乙武さんの編集者を紹介されたのだ。
 出版した本は「ダブルハッピネス」(講談社)。タイトルには、性同一性障害は「男でも女でもない」のではなく、「男でも女でもある」という思いを込めた。
 これまでに部数は2刷1万5千部に達した。反響は大きかった。当事者からは「自分はすでに性別を変えて生きている。性同一性障害が世間に認知されたら困る」「余計なことを語るな」という否定的な反応もあった。早大大学院に在学し、04年にはワールドカップキューバ大会などの女子フェンシング日本代表にもなった杉山さんは「恵まれているから特別」という声もあった。それでも「今日死のうと思っていたが、本を家族に見せてカミングアウトできた」など感謝の言葉や相談ごとが多かった。
 自分自身、本を書いて肩の力が抜けてきた。以前は、男らしく見られたくて「がんばっちゃってた」。「甘党=女の子らしい」と思われるのが嫌で、好物のケーキを食べず、紅茶にも砂糖を入れなかったくらいだ。
 男らしさとか、女らしさとか、意識しすぎなくなってからのほうが、初対面の人から「男」と見られるようになった。
 ただ、心が解放された今も、体に対する「コンプレックス」は強い。特に、セックスのとき。「好きな相手とつながる一番幸せなときのはずなのに」。男ではないという現実を一番突きつけられる瞬間でもある。
 なのに気持ちが高まると、経験したことがないのに勃起(ぼっ・き)したような感覚になるという。「何なんだ、この体はって思う」
 カミングアウトしてから、性別適合(性転換)手術はしないのかと聞かれることが多くなった。
 手術をするかどうかはまだ悩んでいる。男の体に「戻りたい」とは思うが、「男という形」にこだわりすぎるのもどうなんだろうと考えるようになったからだ。戸籍を変えるには手術が必要という「性同一性障害特例法」のありようにも疑問を覚える。「社会のシステムに、自分たちは体を切り刻んで合わせなくてはいけないのか」と。でもこの先、好きな女性から結婚を望まれたらどうするか、わからない。
 もっと寛容さがほしい。性別や国籍などの境界で人を分けない「ノー・ボーダー」の社会。多様性を認めてほしい。
 両親は、変わらずに見守ってくれている。子どもは杉山さんと姉。とんかつ屋を営む父は「このトシになって、跡取りができた」となじみ客に話している。

■性同一性障害(GID)
 心と体の性が一致せず、自分が間違った性別に生まれたと確信しているため、社会的、精神的に困難を抱えている状態。97年、日本精神神経学会は診断と治療の指針を示したガイドラインを公表。性別適合(性転換)手術を含む治療を、正当な医療行為と位置づけた。98年、埼玉医大で国内初の公的な性別適合手術が行われる。04年に性同一性障害特例法が施行され、手術を受けた独身の成人について、子どもがいないなどの条件を満たせば、戸籍上の性別を変更できるようになった。

■「認知は進んだが偏見なお根強く」 日本精神神経学会 中島理事
 性同一性障害者は、何人くらいいるのか。厚生労働省によると、諸外国では、体は女性で心は男性の人が10万人に1人、体は男性で心は女性の人が3万人に1人と言われており、日本では2200人〜7千人程度と推定されるという。
 しかし、日本精神神経学会理事の中島豊爾(とよ・じ)・岡山県立岡山病院長は「学会が把握している日本での受診者の数から推測すると、その10倍はいるのではないか」と話す。
 診断と治療のガイドラインが公表されてから、社会的認知はこの10年間で急速に高まり、臨床活動の普及は進んだ。しかし、偏見はなお根深い。
 中島院長によると、高齢の当事者が今になってカミングアウトし、配偶者や子からの理解をまったく得られない事例も少なくない。地方では近隣に知り合いも多いため、家庭では体の性別で、遠く離れた職場では心の性別の格好をして「使い分ける」人もいるという。
 04年施行の特例法で、戸籍上の性別を変更できるようになったが、性別適合手術を受けた人に限定されるなど「社会にも法にも問題点は多い」と中島院長は指摘する。
 「持って生まれた体をどうしたいのかは千差万別。手術はもちろん、ホルモン療法もやらなくていい、という人もいる。当事者は何より、望んでいる、信じている性別を戸籍に限らず社会に認めてもらいたいのです」
  *下線は引用者によるもの
 性同一性障害をかかえる人々による「女である自分」「男である自分」への違和感の話を聞くたびに、いつもひとつの疑問がわいてくる。「女である自分」「男である自分」という属性は「知識」であって、「実感」ではないのではないかということだ。「自分が自分である」という感覚は、二次的な知識ではなく直知であり実感だ。しかし、「男である自分」や「アジア系である自分」、さらには「人間である自分」というのは、「そういうことになっている」というだけの社会生活に由来する知識にすぎない。少なくとも私の場合はそうだ。なので、男であることにもアジア系であることにも人間であることにも「実感」などおぼえたことがない。違和感という意味では、「人間であること」にも違和感をおぼえるし、自分が「人間の着ぐるみ」を着ているだけの存在のように思える。医学分野の最近の研究では、こうした自己の性認識は妊娠後期の胎児のうちにすでに形成されるという見解が主流のようだ。つまり、胎児の性別ごとに「男脳」「女脳」が形成される際、形成不全が生じた場合に身体の性と心の性との不一致が生じると考えているらしい。そのため、彼ら・彼女らは、医学的見解では「障害者」と見なされる。しかし、この決定論的な解釈は、自分が日々体験している自己認識とは相容れないものである。私は自分を認識するとき、そこに性的な属性など含まない。私は私であり、男でも女でもなく人間でもない。自分が人間であることをたんなる社会的取り決めにすぎないと考えている私は、先の医学的説明では「人間脳の形成不全」とでも解釈するんだろうか。性同一性障害とされる人々が「女である自分」「男である自分」への違和感を語るとき、その「自分」とは、いったいどういう次元の「自分」なんだろう。そもそも人はそれほどにジェンダーをともなったものとして自己を認識しているのだろうか。セックスをする段になって「そういや自分は男だったな」と認識し、「じゃあいっちょがんばろうか」とその役割を演じる程度のものではないのだろうか。しかし、性同一性障害を抱える彼ら・彼女らは、女であること・男であることに「常に」違和感をおぼえてきたという。その違和感は、自らの身体をアイデンティティのほうにあわせるために性転換手術を考えるほど(大手術である)切実であり、思いつめている。私には属性のひとつにすぎないものにどうして彼ら・彼女らはそれほど自己との一体性を抱いているのだろう。性同一性障害についての言説を聞くたびに、このセクシュアル・アイデンティティのもっとも基本的な部分で引っかかってしまう。

■ A piece of moment 4/13

 「ヤッターマン」が実写で映画化されるというスポーツ新聞の記事。アンジェリーナ・ジョリーにドロンジョ様役をオファーしたというのがおかしい。タツノコアニメのリバイバルがおきてるんだろうか。あの独特のアクの強い絵柄は古くならない。そういえば、半年前、小学生3人ぐみが「おしおきだべえ〜」と囃しながらうちの前を通りすぎていったのであった。
「ヤッターマン」日活が実写映画化
ニッカンスポーツ 2007年4月11日(水)09:53
 70年代に人気を集めたアニメ「ヤッターマン」「科学忍者隊ガッチャマン」が実写映画化されることが10日、分かった。日活のラインアップ発表会が都内で行われ、両作品を含む16本の製作、配給が発表された。「ヤッターマン」は三池崇史監督(46)がメガホンを取り、年内に撮影を開始、09年公開予定。「科学忍者隊ガッチャマン」は製作が決まったばかり。
 「ヤッターマン」は77〜79年で全108話を放送。個性的な登場人物やユニークなメカなどが子供たちに人気を集めた。05年にインデックス・ホールディングスの子会社となった日活は再スタートの切り札として同アニメの映画化を企画した。日活社長の佐藤直樹氏は「新生日活の大作第1弾。グループ総力を挙げて製作にあたります」。現段階で製作費は約13億円。三池監督は「突き抜けた作品にしたい。コンピューターグラフィックスとアナログの組み合わせが楽しみ」と語った。出演者は現在選考中だが、同監督は悪役の美女ドロンジョ役を米女優アンジェリーナ・ジョリー(31)に依頼したことを明かしたが「軽く断られましたけど」と笑った。
 インデックス・ホールディングスが、同アニメの著作権を持つタツノコプロと業務提携を結んだこともあって同プロ制作の人気アニメ「科学忍者隊ガッチャマン」の映画化も決定した。

 授業のページの飛び入学を加筆修正。すったもんだの末の飛び入学導入から10年、日本では普及することなく、結局、文科省は飛び入学の拡大を見送る模様。
 → 飛び級と飛び入学

■ A piece of moment 4/15

 岡本太郎デザインの鯉のぼり。悪夢の中で追いかけてきそうな姿をしている。悪い冗談かなにかと思ったら、商品化されていてネットショッピングも可能とのこと。大きな目玉はカラスを追い払うのにも役立ちそうである。
 → 楽天「オカモト200」の検索結果


 おなじみさんの黒い野良猫はこの冬も無事越せた様子。このところ温かくなってきて、あたりの巡回経路を軽やかなフットワークで見回っている。庭先で自転車に油をさしていると、足取り軽く黒いのが現れ、こちらを気にもせず縄張り宣言のおしっこをバイクにひっかけようとする。あいかわらずふてえ奴だ。追い払う。晩方、今年はじめてのオケラの声を聞く。

■ A piece of moment 4/16

 ひと月ほど前の土曜日のお昼、今後のバイクの修理計画をぼんやりと考えながら録りだめておいた「ケロロ軍曹」の再放送4本立てをアタマ半分で見ていると、我が家の玄関を叩く音がする。さらに「ムラタセンセーのお宅でしょうか?」と玄関の向こうから女性の声。嫌な予感がする。センセーなんて呼ばれるときはたいていろくなことがない。玄関を開けると、ハタチ過ぎくらいの若い女性ふたり組みが立っている。片方は小柄で丸顔でメガネ、もう片方は中背で面長、ふたりとも地味で野暮ったい服を着て、にこやかだけどマジメそうな雰囲気。ものみの塔の布教活動だろうか、でも、ものみの塔の信者にセンセーなんて呼ばれるおぼえはない。あ、はい、ムラタですけど……。「おいそがしいところ突然すいません、私、10年ほど前に○○中学校でセンセーにお世話になった○○です、どうもご無沙汰しています、あ、でも、わからないですよね」。はい、ぜんぜんわかりません、すいません、でもお久しぶりです。「じつは今度、小平の市議会選挙があるんですが……」えっ○○さん、出るの?「あっいえ、私ではなくて、そこの歯科医院の○○さんという方が公明党の候補者として出ることになりまして、今日はそのお願いにまいりました」。ああ……なんだよ……ちぇ。

 近年、学校も個人情報の保護には神経質になっていて、職員や生徒の名簿は配布されなくなっている。どうやって彼女が我が家の住所を知ったのかとしばし考える。たぶん創価学会信者の学校関係者から、職員名簿が流れているんだろう。恐るべし創価学会ネットワーク。ちなみに小平市議会で公明党は第2党、市の行政でブリヂストンと創価学会の批判はタブーという状況である。

 それにしてもこういう「選挙のお願い」にはどう対応したらいいのだろう。ニッコリ笑顔で「お願い」されたくらいで公明党に投票する気になどなるわけがない。票を入れる気などさらさらないのに、曖昧な笑顔を返してはいはい御苦労様などとあたりさわりのない言葉で応じるのはきわめて不誠実である。本質的に政治とは合理的なものでなければならない。投票は「お願い」されるものではなく、自ら判断するものだ。かといって、創価学会の組織票が市政を左右する状況を真っ向から批判して、政治は論理的かつ合理的判断によるものでなければならぬと彼女たちの信仰の介在を否定するのも角が立つ。たぶん、市政の問題点を挙げながら、彼女たちに候補者の歯科医師がどういう選挙公約しているのか尋ね、その公約の是非を検証していくのが誠実な対応なんだろう。でも、霞のかかったアタマでケロロ軍曹4本立てをぼんやりと見ている最中に突如現れた訪問者とそれをするのは、あまりに助走が足りない。支持者による戸別訪問が悪いとは思わないが、人脈やしがらみや信仰による「お願い」ではなく、もっと合理的な選挙運動のやり方というのはないんだろうか。

■ A piece of moment 5/9

 「地方自治は民主主義の最良の学校である」、100年前のイギリス人政治家が残した言葉。教科書にも出てくるので授業で紹介してみるが、白々しいほど現実離れしている。「もっとも身近な政治参加のはずなのにもっとも距離感があってただ選挙カーがうるさいだけの市議選」というのが実態。評判の悪い候補者名の連呼は市議選に生き延びている。候補者の中には最終日に涙声で「最後のお願いです」を絶叫していたりして、その醜悪な自己陶酔に身の毛がよだつのであった。ブライスの言葉は生徒の失笑を買うだけなので教科書に載せるべきではないと思う。

 先月末にあった小平の市議選挙は定数28で立候補者32。選挙カーが「きびしい戦いを精一杯がんばります」なんて例の自分の状況に陶酔した調子でまくしたてていたのでどれほど激戦なのかと思ったら、32人のうち落選は4人だけ。都立高校の入試やいなげやのレジのパートよりも倍率は低いのであった。就職先が見つからなくて困っている人は次回の市議選に出馬してみるのも良いかもしれない。年に4ヶ月間のパートタイム労働で年収1千万円・ハイヤーの送迎つき職場なんてなかなか見つかるもんじゃありませんよ。そんな好待遇の4年間が保証される市議選、今回の結果はこちら。
 → ザ・選挙 小平市議会議員選挙
 得票の順位から組織票を集められる候補者と地縁血縁のある地主候補者が強いことが見えてくる。投票率は48%。市議選の投票率は市長選挙よりもなぜか毎回高くなる。不思議な気がするが、これも候補者が多いぶん、しがらみの網の目がこまかく張りめぐらされるためではないかと思う。各候補者がどんな政治主張をかかげているのか、ネットやビラの情報を集めてみたが、そうした選挙活動をしていない候補者が多くて半数以上の候補者がよくわからない。地縁血縁や信者の集票で当選を考えている候補者は政治方針なんかどうでも良いのかもしれない。政治方針をあげていても、口あたりの良いだけの短いフレーズがならんでいるものばかり。「安心して暮らせる町づくり」や「子育てを支援」なんて、そのために具体的に何をするかを示さなければ何も言っていないのと同じである。ゲッベルスや小泉純一郎のように、アタマの悪い大衆には短いフレーズを連呼して感情に訴えかけるのがもっとも効果的だと考えているんだろうか。今回トップ当選の石毛航太郎センセー(26歳・民主党)にしても、ネットの情報からわかるのは、顔写真と住所と大学時代のクラブ活動だけ(→民主党東京都支部明治学院大学ワンダーフォーゲル部)。具体的かつ個別の政治主張こそが自治体選挙の基本のはずなのに、市議会選挙で「憲法9条を守る」だとか「北朝鮮の核武装阻止」なんて言われてもさあ、悪い冗談にしか聞こえないよ。各候補者が市議会議員になって何がやりたいのかわからないまま、大量の選挙カーが町に繰り出してきて名前の連呼を聞かされるだけの自治体選挙。私は花小金井駅前に無料駐輪場をつくるという候補者を支持したかったのだが、とうとう見つからなかった。

 そんな候補者の候補者による候補者のためのはだか祭も終わり、連休も終わり、5月2週目。連休中、同じバイクに乗っている人たちの集会が静岡であったので顔を出す。おっさんばっかり。バイクは若者のあこがれなんて時代はとっくに過ぎて、バイクはおっさんたちの玩具なのであった。

 今年度からデブ防止のため立川まで自転車で通っている。よっちゃん、あのボロ自転車、まだ動いてますぜ。

■ A piece of moment 5/22

 授業のページにふたつのテーマを追加。今回の中間試験の論述問題。
 → 東京都外国籍職員訴訟
 → 臓器移植法の改正

■ A piece of moment 5/28

 授業でトマス・ホッブズの社会契約説を映画の「マッドマックス」にたとえながら解説する。ホッブズは人間の本質を利己的で強欲な存在ととらえていたから、政治権力が失われて自然状態に置かれると暴力が横行し混乱状態に陥ると考えた。この状態を「万人の万人に対する闘争」と彼は呼んだわけだけど、要するにこれは「マッドマックス」や「北斗の拳」の世界と同じ発想で……、我ながらなんてわかりやすい比喩だろう俺って冴えてるとひとり悦に入っていると、なにやら高校生たちはポカンとした顔をしている。訊くと「マッドマックス」も「北斗の拳」も見たことがないとのこと。仕方がないので、「マッドマックス」がどんな映画なのかを説明する。30年くらい前につくられたオーストラリアの映画でね、舞台になるのは核戦争の後の荒廃した世界、政府はなくなってしまってわずかに生き残った人たちはなぜかみんな暴走族になっている、みんな革のバトルスーツみたいなのを着ている荒くれ者たちで派手な改造車に乗っているんだ、力のある奴ほど良い部品を手に入れて馬力のある改造車に乗っていたりしてね、そんな世界のある町にマックスっていう「さすらいのスポーツカー乗り」があらわれて悪党を退治するっていうお話、この主人公がメル・ギブソン、一躍大スターになってね、映画もその後いろんな作品に影響を与えて、そのひとつがマンガの「北斗の拳」、アニメも大ヒットして日本ではむしろ「北斗の拳」のほうがポピュラーな存在なのかな……と「マッドマックス」の話で授業が終わってしまう。生徒は「マッドマックス」がどんな映画なのかはよくわかったみたいだったけど、ホッブズが何を言っていたのかはさっぱり理解できなかったようだ。最低の授業である。林家木久蔵の映画漫談じゃないんだからさ。

 そういえば、去年、ベンサムの「最大多数の最大幸福」について、要するにこれは「シムシティ」の発想だと解説したときも、俺ってなんて冴えてるんだろうと思ったが、やはり生徒は「シムシティ」が何なのかわからないようだった。なんでそんなことも知らないのだろうとあわてたが、16年間しか生きていない彼らが「シムシティ」を知らないのは当然なわけで、変なたとえを持ち出す俺が悪いのである。そんなこんなで、授業でたとえ話をするときは、よくよく素材を選ばないと話が通じなくなってきている。もう高校生とは世代的に共有する文化背景が異なるのね。オウム真理教事件や「エヴァンゲリオン」はまだかろうじてOK。ベッカムは通じるけどスパイスガールズはもうダメ。ゴルバチョフやエリツィンはもうとっくに歴史上の人物。「それはまるでゴルバチョフの手法だね」なんて言っても、教科書の解説を教科書の知識に言い換えているだけなので、たとえ話として成立しない。そのへんを自覚的に対応していかないと、若者相手に通じない話を押しつけようとする鬱陶しいおじさんと化していくので危険である。一般的に30代から40代前半の教師が学生に評判が悪いのは、共有する文化のズレに無自覚なためだからだと柴田元幸も言っていた。帰宅して農水大臣自殺のニュースを聞く。おどろく。

■ A piece of moment 6/3

 風邪で熱を出して4日ほど寝込む。寝てばかりで退屈なのでWebに文章を書く。
 → 寿記念 藤原紀香特集全面改訂版完結編

■ A piece of moment 6/10

 テレビのスポーツ中継で選手のけがを「故障」と言うようになったのは20年くらい前からだと思う。「ひじの故障で」「ひざの故障で」などなど、当初は運動選手はマシーンではないと反発を覚えたが、あたりまえのように使われるようになって違和感を感じることもなくなった。最近、やはりテレビのスポーツ中継で「選手が痛んでいる」という表現を聞く。10年前にNHKのアメフトの中継で解説者の後藤完夫が言っているのを聞いたのが最初だったと思う。選手のけがを即物的に表現するのはアメフトの文化なんだろうかと思ったが、その後、サッカー中継や野球中継でも耳にするようになった。「ゴール前で3人、痛んでますね」「ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました」、まるでカボチャである。いつからニューヨーク・ヤンキースは八百屋になったんだろうか。身体を即物的に表現するのは、スポーツメディアに共通の傾向のようだ。選手たちから「人間らしくあつかえ」っていう苦情は来ないんだろうか。

■ A piece of moment 6/12

 授業で近代市民革命と制限選挙について解説する。市民革命によって議会が政治の中心になるが、すべての人の参政権が保障されたわけではない。その後100年以上にわたって続く制限選挙のもとで中産階級が政治の主導権をにぎり、資産ある市民に有利な政策が行われる。その結果、19世紀のヨーロッパでは、資本家と労働者との貧富の差が拡大し、以前の「身分」にかわって「階級」という新たな階層間の格差が拡大していく。まあそんな話をけだるい昼下がりにくたびれた顔をしている高校生たちにする。19世紀イギリスの中産階級の具体像として、シャーロック・ホームズとワトソンを例にあげる。「現代の日本で中流というと多数派のイメージだけど、ヨーロッパ社会で中産階級というと、だいたい上位10%くらいの人々。ホームズもワトソンも、高等教育を受けていて教養もあって専門職に就いている(ホームズははじめプー太郎だけど)。シルクハットをかぶりフロックコートを着て、馭者からは「旦那さま」と呼ばれる。でも、貴族ではない。ホームズの小説には、サーとかレディと呼ばれる貴族たちがしばしば依頼人として登場するけど、ホームズやワトソンはそういう領地からの上がりで生計を立てている人々とは違う。専門職についていたり、会社を経営していたりして生計を立てている社会階層」。我ながらわかりやすいたとえ話だと思うんだけど、ホームズの読者は年々減っているのか、生徒の反応は鈍い。数年前にしたときは、ああ、あんな感じねと生徒も腑に落ちた様子だったのに。仕方がないので、ホームズの舞台になった19世紀ロンドンの話をしてたら、結局、またもそれで授業が終わってしまう。「マッドマックス」や「シムシティ」と違って、ホームズの小説は世代間のズレがどうこうっていうたぐいのものではないと思うんだけど、そうした共通の知識という概念自体が意味を持たなくなっているのかもしれない。もはやホームズもポワロもミステリーマニアしか読まない時代になっているんだろうか。ロンドンのスラム街の浮浪児たちをホームズが少年探偵団に仕立てる話をすると、なぜかそこだけ生徒は反応する。どうしたのと聞くと、「名探偵コナン」で見たとのこと。うーむ、真実はいつもひとつってやつなのであった。でも、高校生がそれでいいんだろうか。そんなたとえ話に悩む日々がつづく。

■ A piece of moment 6/13

 「ベネトンの広告」のページを更新。大きな画像に差し替え、加筆。なぜかこのページ、リンクが多い。
 → ベネトンの広告 論点
 → ベネトンの広告 オリビエロ・トスカーニによる広告作品

■ A piece of moment 6/15

 3週間ほど前、ベネトンジャパンの広報部から「一度お話しできませんか」とメールが来る。Webにくだらない文章を書くなと本社オフィスで正座させられたりするんだろうかと不安を抱きつつ、ベネトンの広告については聞いてみたいこともあるので、本日、原宿の表参道にあるベネトンジャパンへのりこむ。メールの主は広報宣伝統括部長。「こんにちわ」ではじまるメールの文体はお気楽OLの雰囲気だったが、本人はビジネスの世界で鍛えられているという感じのテキパキした女性。やり手そうである。オフィスで資料を見ながら、ベネトンの各広告の意図、ベネトンの社会貢献活動、彼女がオリビエロ・トスカーニやルチアーノ・ベネトンへ抱いている思いといった話を聞く。「CBS60mins」のレポーターたちのように、意図的に批判的な問いをぶつけて彼女の見解を聞いてみよう思っていたが、彼女のテキパキぶりに圧倒されてひたすら聞き役にまわってしまう。まるで社会科見学にきたデキの悪いコドモになった気分。白人の赤ん坊に授乳する黒人女性を写した有名なポスターが、たんに人種の融和を表現したものではなく、白人による豊かさの「搾取」を表現したものだというのは、説明を聞くまでデキの悪いコドモにはまったく気づかなかった。ただ、なぜ彼女が私に会ってみたいと思ったのかがいまひとつ釈然としない。トスカーニの写真は嫌いではないが、私がWebでベネトンの広告について取りあげたのは、あくまで広告を考えるための資料であって、それ以上でもそれ以下でもない。それはページの文章を読んでもらえればあきらかなはずだ。ベネトンの広報の責任者として、どんな人間があの文章を書いているのか、実際に会って確認してみたかったというところなんだろうか。帰り際、彼女の著作ほか数冊の本を「ぜひどうぞ」と渡される。「ぜひどうぞ」は「Webに文章を書くならもっと勉強しろ」の婉曲表現だと解釈して、デキの悪いこどもは本を受け取る。なかでも、広告批評1999年9月号のベネトン特集は、トスカーニのベネトン広告をほぼ網羅した内容で興味深い。Webの「ベネトンの広告」のページに聞いてきた話を少し補足する。
 → ベネトンの広告 論点

 5年前になくなったスティーブン・グールドの進化論エッセイを再読しはじめる。ひさしぶりに読みかえすと新鮮ですごくおもしろい。自分の記憶力の悪さがうれしいくらいだ。1作目の「ダーウィン以来」から8作目の「ダ・ヴィンチの二枚貝」まで一気に読み進める予定。

■ A piece of moment 6/17

 なんざましょこれ。
 → 「エアギター2007第3回東京地区予選」(エアギタージャパン主催)

■ A piece of moment 6/18

 ベネトンの広報でもらった資料にこんなパンフレットがあった。

 2003年に国連世界食糧計画(WFP)に協力して行った学校給食キャンペーンで、売り上げの一部をWFPに寄付するというもの。写真は報道カメラマンのジェームズ・モリソンによるものとあるが、いまひとつピンとこない。これではまるっきり「かわいそうなアフリカのこどもたち」というくり返し使われてきた文脈そのものではないか。それは、飢えたアフリカ・途上国の貧困という社会現象の映像化であって、マスの視点しか感じられない。もちろん、国連のような機関が貧困や飢餓の状況を数字として把握していることは重要だ。しかし、その状況を表現する写真は断じてマスの視点であるべきではない。それでは写真の中のこどもたちは、「なんとかしなければならない社会問題」でしかなくなってしまう。もしかしたら、右から二人目のぼんやりした表情をしている子は、学校の裏に住みついている野良犬が2週間前に産んだ子犬のことが好きで、授業中にその子犬の絵を机に落書きしたために教師から叱られてしょんぼりしているのかもしれない。左端のご飯をわけている子は、さっきの時間にとなりの子をからかったことがきっけでケンカしてしまって、その仲直りをしようとしているのかもしれない。でも、写真からはそういうこどもたちのパーソナルな部分は伝わってこない。そこにあるのは、ただアフリカの貧しい国の学校給食の風景というだけだ。トスカーニの広告について、偽善的だという批判があったが、アフリカのこどもたちを「貧困」という社会現象の視点からのみ伝えようとするこのパンフレットの写真のほうが、むしろ偽善的な印象を受ける。

 トスカーニによるベネトンのポスターが優れていた点は、たんに刺激的な映像だからではなく、社会的に記号化された文脈を拒絶して、ひとりの人間の存在というパーソナルな視点に徹底してこだわったところにある。ボスニアの内戦で射殺された若い兵士の血染めのシャツのポスターは、彼の遺品であるシャツとズボンのみを大写しにすることで、17歳で死んでしまった彼の生涯や彼の生きた社会を見る者へ訴えかける。どんな音楽が好きだったのか、親子関係はどうだったのか、ガールフレンドはいたのかと見る者はその遺品の主に思いをめぐらせる。当時、さかんに報道されていたボスニア内戦のニュース映像は、どれも爆破によって町が破壊されるシーンで、その映像を背景に死者の数が伝えられるというものだった。テレビのニュース映像では、人の死は数字であり、国際問題というマスの視点でのみ解釈される。血染めのシャツのポスターは、そうした記号化された「死」や「紛争」を拒絶し、ひとりの戦死した若者というパーソナルな文脈へ引きずりこんでいく。へその緒のついたままの血まみれの新生児の写真もそうだ。血まみれで生まれた赤ん坊の生々しさは、「小さな天使」「かわいい赤ちゃん」という慣用句化された文脈を拒絶する。新たにこの世界へやってきたひとりの人間の存在の強烈さに見る者は圧倒され、同時に、彼女がこれから育っていくことになるこの世界を思わされる。このふたつのポスターはまちがいなくトスカーニのマスターピースだ。このふたつの作品をものにすることができたからこそ、彼は著書で書いているようなことが言えたのではないか。あの作品を制作した人間なら、他のすべての広告が香水をつけた死体に見えてしまうだろう。その後の彼の作品でもスタンスは一貫している。アメリカでベネトン製品の不買運動にまで発展した死刑囚広告でも、そこでやろうとしていることは同じだ。まもなく処刑され、この世界から去ることになる人間を彼らの視点から見せようとする。彼らの顔を大写しにしてみせることで、社会的に付与された記号をはぎ取っていく。はぎ取られた後に残るのは、まもなくこの世界から去っていく者がそこに「いる」ことの生々しさだ。そのパーソナルな視点へのこだわりは、ダウン症のこどもの写真でも原宿の若者の写真でもパレスチナの人々の写真でも一貫している。ただ、そうしたひとりの人間がそこに「いる」あるいは「いた」ことへ生々しい表現が、広告としてふさわしいのか、広告として成立するのかという問いについては、いくら考えても答が出せずにいる。

■ A piece of moment 6/23

 のらくろ只今徘徊中。


■ A piece of moment 7/11

 連日、深夜のテニス観戦で生活時間が完全に狂う。男子の決勝は圧巻だった……らしいけど、途中でテレビの前で寝てしまい、気がついたときにはフェデラーが優勝カップをかかえていた。まあ毎年のごとくって感じである。ただ今年はNHKの中継時間が減ったせいで、いつの間にかヒンギスはいなくなっていて、いつの間にかエナンは負けていた。これだけ試合中継が虫食い状態になってしまうと、試合の生中継にこだわるよりも「本日のダイジェスト」で経過をくわしく報告してくれたほうがわかりやすくていいような気がする。そんなわけで、フェデラーの「ガールフレンド」にやたらと貫禄がついてきたことばかりが印象に残った2007年ウィンブルドンの中継だった。

 メジャーリーグのオールスターのテレビ中継を見る。イチローがランニングホームランでMVPだったとかサイトーが3者凡退で抑えたとかはまあいいとして、気になったのは、バックネット下の一番目立つ広告ボードに「プルサーマル」のカタカナ文字がくり返し表示されていたこと。青くペイントされたそのボードには、「energy recycle プルサーマル」と白文字で書かれている。もちろん日本の電力業界による原発推進の広告で、とうとうメジャーリーグにまで進出である。それにしてもあざとい。プルサーマル方式の実験炉が爆発事故をおこして副所長が飛び降り自殺したのが10年ちょっと前、その後、東海村での放射能漏れ事故やらあちらこちらの原発でのインチキ報告書の問題やらあったわけだけど、電力業界はまったく懲りていないらしい。民主社会において、原子力利用の是非は国民が議論して決めるべきもので、政府が国策として推進するようなものではない。ましてや半官半民の電力会社が広告で原発推進キャンペーンをするようなやり方は、ビッグブラザーによるプロパガンダそのものである。日々大量に発信されている「原子力発電は安全でクリーン」という電力会社のコマーシャルには、「バカな大衆は同じキャッチフレーズをくり返しすり込みさえすればどうにでもなる」というごう慢な意図を感じる。安全でクリーンかどうかは、それを見る者が判断すべきことであって、電力会社に言われるような筋合いのものではない。電力会社のやるべきことは、世論が公正に判断できるよう、情報公開につとめることのはずだ。本来、原子力利用の是非は、経済性・安全性・環境への負荷の3点から合理的に判断すべきもので、政治的・倫理的課題ではない。しかし、電力会社のインチキ報告をくり返しながら、大量のコマーシャルで世論誘導をはかろうとする姿勢は、それだけで十分に原発に反対する根拠になるものだ。この10年ちょっとの間に、原発がらみの大きな事件・事故がくり返されてきた。東海村の事故では、職員が放射線障害で死亡し、付近住民数千人が避難する事態になったし、長年にわたってくり返されてきた原発のインチキ報告書をめぐっては、原子力行政の信頼性を根底からゆるがす社会問題になった。こうした事件・事故は、不幸で不愉快な出来事であったが、一方で「お国の決めたことにつべこべいうな」と言わんばかりのやり方をしてきた原子力行政の転換点にもなった。つまり、これらの事件・事故を経てきたことで、1990年代はじめまでの社会状況とは違った、原子力利用の是非を議論できるまともな世論が形成されるようになったと考えていた。でも、そうした認識は楽観的すぎたようだ。あれだけのことがあったのに、電力会社の姿勢はぜんぜん変わってないじゃん。今日のオールスターゲームの中継では、いい場面になると決まってバックネット下に「プルサーマル」の看板が登場して、見ているこちらをイライラさせたのであった。もしかしたら、あの看板は日本社会が巨大官僚機構・ビッグブラザーの支配下にあることをアメリカ人にアピールするためのものだったのかもしれない。

 「マッハGoGoGo」「ヤッターマン」に続いて「ガッチャマン」も実写でのリメイクが計画されているとのこと。どうやらタツノコアニメは本当にアメリカで根強い人気があるらしい。「マッハGoGoGo」はハリウッドでの映画化で、監督はウォシャウスキー兄弟とのこと。ふーん。というわけで、以前書いた「ガッチャマン」の文章を書き足してみました。
 → ガッチャマンはケンだけ?

■ A piece of moment 7/21

 朝、出勤前のあわただしいひととき。とりあえずコーンフレークでも腹におさめて出撃、と思ったら牛乳が切れている。私はなにをいちご味コーンフレークにかけるべきなのか。冷蔵庫の中にある選択肢は次の5つ。
    ア.ウーロン茶
    イ.野菜ジュース
    ウ.ビール
    エ.めんつゆ
    オ.ポン酢
 30秒ほど冷蔵庫の前で悩んだ後、ウーロン茶を選択。いちばん無難そうに見えたのだ。
 結論、いちご味コーンフレークはお茶漬けにはならない。

■ A piece of moment 7/30

 テレビは参院選の速報で深夜の万歳三唱。ばんずわぁーいばんずわぁーいばんずわぁーい。
 「しっかりやっていきたいです」
 「きちんとやりたいです」
 「ちゃんとしなければいけないと思います」
 受かった人たちのコメント。「しっかり」「きちんと」「ちゃんと」がやたらと多い。こうした言葉は、発言の内容が空疎なときほど、とりあえずそれらしいものに見せかけるために多用される。生徒のレポートでも「しっかり」「きちんと」「ちゃんと」を連発しているのは読んでいてがっかりする。よい子の作文みたいなの書いてくんな、きちんとするためには具体的に何をすべきなのかが問題なのだ。もっとも、舞い上がっている当選者については、マイクを向けてもその具体的な何かがかえってくるとは誰も思っていない。
 「選挙はお祭りなのよ。お祭りで楽しいのは神輿を担いでる人たち。選挙もそう」というのは母の言葉。

 バイクの整備に取りかかる。ヤフーのオークションで落札したリアブレーキ到着。ぼろっちくてがっかり。

■ A piece of moment 7/31

 インターネットブラウザーをIE7にする。画面上のインターフェースから「メニューバー」がなくなってしまってすごく使いにくい……と思ったら、「ツール」からメニューバーの表示をチェックすればいいだけだった。メニューバーが表示されれば使い勝手はあまり変わらない。新しい日本語フォントはvistaでないと使えないようで、見た目はインターフェースのレイアウトが変わっただけ。タブ機能が追加されているけど、使いこなすほどは利用しない気がする。
 → Internet Watch「Internet Explorer 7入門講座 」

■ A piece of moment 8/2

 vistaの新しいフォント「メイリオ」はXPでも使える様子。ベータ版のvistaから抽出したものを公開しているサイトがあったので、さっそくフォントファイルをダウンロードしてみる。
 → barlog 360 rev2.1 メイリオ 0.99

 解凍したフォントファイルをWindowsのFontsフォルダにコピーして、IEの「ツール」でフォントの選択欄から「メイリオ」を選べばOK。くっきりした文字でなかなかいい感じ。Webサイトの印象もずいぶん変わる。とくにアルファベットは圧倒的に見やすくなる。斜めのラインもくずれずに表示されるので、英文で多用されるイタリック文字もきれいに表示される。標準のMS-Pゴシックは線が細いうえに文字と文字の間隔がぎっちり詰まっているので、文字が小さいと判読困難になったが、これでそんなイライラも解消されるはず。ただ、日本語文字のデザインは平べったい上に丸いので、まるでスーパーのポップ文字みたいだ。「産地直送 おくら 100円」とか「あしたからやっちゃんと伊豆へ行きます わーい」なんていう文ならちょうど良いけど、シリアスな文章だと違和感がある。このフォントでV・E・フランクルの「夜と霧」を読む気にはならない。標準で指定されるフォントにこれほどキャラクターがついているのはまずいのではないか。また、それまでのMS-Pゴシックとくらべて、同じポイント数でもふたまわりくらいサイズが大きいので、ページのレイアウトが大幅にくずれる。これはWebサイトを製作している者にとっては問題だ。このページもメイリオで表示すると、1行の文字数が少なすぎて間延びした感じがする。やけに大きな平べったい丸文字が緻密感なくならんでいる様子は、夏休みの絵日記でも読んでいるような気にさせられる。まあ実際そうなんだけど。かといってポイント数を小さくするとMS-Pゴシックで読みにくくなるし、どちらにあわせるか難しいところ。(とくに12ポイントや14ポイントなど偶数の指定をするとMS-Pゴシックは文字の間隔が詰まってバランスが悪い。)ちなみにこのページの文字指定は、MS-Pゴシックでの表示を想定して、レギュラーが15ポイント。ときどき使う小さい文字が13ポイント。
  15ポイント MS-Pゴシックだとこれくらいがちょうど良い感じ
  14ポイント MS-Pゴシックの偶数指定は文字間隔が詰まりすぎて気持ち悪い
  13ポイント メイリオだと13か14くらいがちょうど良さそう
  12ポイント いままでほとんど使わなかったけどメイリオだとそれほど見にくくない
 → Wikipedia「メイリオ」

■ A piece of moment 8/3

 深夜にフォントを少しいじる。まだメイリオはひらたい書体に違和感をおぼえる。ネットを検索するとベータ版どころか製品版のvistaから抽出したメイリオのフォントファイルまで公開しているところもあったけど、これはさすがに著作権上まずいでしょ。どう見てもマイクロソフトの営業妨害になりますぜ。ただ一方で、新しいフォントの導入が新ウィンドウズの目玉のひとつというのは情けない話だ。XPまでの日本語表示はあまりにも貧弱なので、本来、こうしたフォントファイルはマイクロソフトがユーザーに無償で提供すべきものではないのか。それを新ウィンドウズと抱き合わせで配布するというのは、いかにも独占企業の商売という感じがする。どうせカネを払うのなら、マックOSで使われている「ヒラギノ」フォントのほうが書体のバランスがいい。丸ゴシックだけでなく、角ゴシック、明朝とそろっているので汎用性もある。というわけで購買意欲をみなぎらせてアマゾンの暖簾をくぐる。くださいな、た、たかい、4万円近くもする。これはちょっと……うちは印刷所じゃありません。わざわざフォントファイルだけを購入するのはWebデザインをやっているような人に限定されるから業販価格というところなんだろうけど、これではマックごと買ったほうが良い気がする。個人ユーザーに限定して1000円くらいでダウンロード販売してくれればいいのに。というわけで、日本語フォントには当分悩まされそうである。

 大文字・小文字それぞれ26文字でこと足りるアルファベットと数万語ある漢字とでは、フォントをつくる手間がぜんぜん違うんだろうが、英文フォントのほうはウィンドウズでも色々選べる。たいていのパソコンに入っている代表的なものはこちら。
 → フォント表示サンプル

 フォントをいじったついでに当サイトの表紙の色味を少し変えてみる。暑いのでスケルトン調。
 色味を変えたついでに真ん中で景気よくカラカラと回してみる。たくさんコインが出そうである。

■ A piece of moment 8/8

 ただいま室温38度。ふれるものすべてがホカホカしている。マウスは炊きたてご飯のおにぎりみたい。蛍光灯はコンデンサーからジーとノイズを発生させ、パソコンはスリープ状態から電源部分の安全装置が働いて立ち上がらなくなっている。海や川に近くて暑い日はすぐにドボンと飛びこめる田舎と東京の住宅密集地域とでは、気温が同じでも暑さの堪えかたが違う。子どもたちが沢に飛び込んでいるニュース映像を見ながら、夏場はああいうところに住みたいと思う。年々、夏がしんどくなる。数冊の本とipodを持って近所のファミレスへ避難することにする。

■ A piece of moment 8/10

 → 「知るを楽しむ」拝見・武士の家計簿
 きのうからはじまったテレビ番組。古文書として見つかった武家の家計簿から、幕末の武家の生活状況を見ていくというもの。家計簿は加賀藩に勤める70石取りの猪山という家のもの。当主60歳とその妻、当主の母、息子、息子の嫁、孫の6人家族+使用人2人の8人世帯。70石取りの中級藩士にもかかわらず、幕末の武家がどこもそうだったように猪山家の家計は火の車。番組は茨城大の先生の解説によって、そんな猪山家の台所事情を読み取っていく。すごく面白い。1回目の再放送は8/16の早朝5:05から。2回目は8/16夜10:25から。

■ A piece of moment 8/20

 「武士の家計簿」は新潮新書から本も出版されていて、こちらはより詳細に猪山家の台所事情が解説されている。猪山家の収入・支出をあらわす際、「匁(もんめ)」という言葉が度々登場する。江戸時代、西日本では銀を計量貨幣としてもちいていたので、重さを表す「匁」がそのまま銀の単位になっている。金沢にあった猪山家でも、もっぱら銀で決済しており、「寺へ支払い27匁」「茶道具一式130匁で売却」といった具合に収入・支出が表現されている。銀一匁を現在の価値になおすとだいたい4000円。読みながら、ふと「花いちもんめ」の歌詞が思い浮かぶ。あああれは花を銀一匁で買うって歌っていたのか。もともとは西のほうの童歌なんだろう。気になるのでネットで検索するとこちらのサイトがヒットする。歌詞の由来は悲しい。
 → 歌詞の意味
 → 地域によって異なる歌詞
 → Wikipedia「はないちもんめ」

 ちなみに私の記憶ではこんな歌詞。(東京・国分寺。)
かってうれしい はないちもんめ
まけてくやしい はないちもんめ
となりのおばさん ちょっときておくれ
おにがこわくてくて いかれない
おふとんかぶって ちょっときてておくれ
おふとんびりびり いかれない
おかまかぶって ちょっときておくれ
おかまそこぬけ いかれない
あのこがほしい
あのこじゃわからん
このこがほしい
このこじゃわからん
そうだんしよう
そうしよう
 ずっと「勝ってうれしい」だと思っていたが、「買ってうれしい」のほうが意味の通りはいい。花いちもんめは売れ残った子がいじけるので、最近はやらなくなってきているようだ。

■ A piece of moment 8/24

 ツール・ド・フランスのテレビ中継を見る。今年もドーピングが発覚して途中棄権する選手多数。自転車レースにドーピングはつきものというのが最近の状況だけど、首位を走っていた選手が次々とドーピング発覚で脱落して、とうとう終いには黄色いジャージを着る選手がいなくなってしまった今年のツールはあまりに異常な光景だった。メジャーリーグもホームランバッターの筋肉増強剤使用が次々と発覚してゆれているが、自転車レースはとくに根が深い。以前見たテレビニュースでは、アメリカの若い自転車選手たちがコーチから「ビタミン剤だから」とステロイドを飲まされていたなんてひどいケースや遺伝子組み換え技術を応用して遺伝子レベルでドーピングしようという動きまで紹介されていた。そのうち遺伝子組み換えで身長3メートルになったバスケットボール選手やハイジャンプの選手を見ることができるようになるかもしれない。ただ一方で、なぜドーピングはいけないのかとも思う。「カラダに悪い」というのが基本的な建て前だが、そもそもプロのスポーツ選手やオリンピックレベルの選手で「健康のために」運動しているなんていう者はいないはずである。彼らのトレーニングはどう見てもカラダに悪い。肘が伸びなくなった野球選手、膝の皿を失ったサッカー選手、椎間板ヘルニアの自転車乗り、プロのアメフトなんて大男たちが満身創痍で激突をくり返していて引退後に車椅子生活にならなければラッキーという感じである。その様子は大衆の欲望の前で拳闘士として一攫千金の夢と自由のため命を張っていた(張らされていた)古代ローマの奴隷たちの姿を連想させる。「運動能力に絶大な効果をあげるがその副作用で寿命が5年縮む薬品が開発されたとする、その薬は抜き打ちのドーピング検査でも絶対に引っかからない、あなたは飲むか?」という質問をアメリカの調査機関がスポーツ選手に行い、匿名で回答してもらったところ、約半数の選手が「飲む」と答えたという。カネと名声と勝利のためなら命をかけるというわけである。そもそも健康や安全や長生きに敏感だったらトップ選手にはなれないだろう。そう考えると、本人が自覚して行っているならドーピングはかまわないのではないかという気もする。オリンピックをはじめとした競技会の主催者がドーピングを神経質に取り締まっているのは、自分たちが命知らずの若者たちを争わせている奴隷主に見られることに堪えられないからではないか。その証拠に、ドーピングの取り締まりは選手の健康を守るためではなく、大会の秩序維持のために行われている。ドーピングの発覚した選手は記録をはく奪されるだけでなく、インチキをした汚い奴として名声をも失う。しかし、勝利のために命を張っている若者たちに観衆とスポーツメディアは熱狂するなら、健康を大きくそこねる薬品を飲んでまで勝とうとする選手もまたその命知らずな精神を賞賛されるべきではないのか。そうなっていないのは、向こう見ずな若者たちが命がけで争う様子を娯楽にすることの後ろめたさに主催者も観衆もスポーツメディアもフタをしようとしているからではないのか。少なくとも「選手の健康のために」ドーピングを禁止しているのなら、違反した選手の名誉まではく奪するべきではない。

■ A piece of moment 8/25

 夜中にテレビをつけると「宇宙大作戦」をやっていた。デジタルリマスター版だそうで、こってりと色味ののった緻密な映像になっている。デジタル処理でフィルムのゴミをとったり映像の彩度や解像度を上げたりするだけでなく、どうも特撮部分をCGで作りなおしているようで、子供のころに見たオリジナル版とはずいぶん印象が異なる。コロンボやコジャックのようなドラマは、古いフィルムの荒れた映像が1970年代の時代状況や雰囲気を感じさせるのであまりいじらないでほしいが、「宇宙大作戦」みたいなのはこういうのもOK。映像の安っぽさが解消されて物語に入りやすくなる。追加のCGは過不足なく収まっていた。それにしても、この手の古いアメリカ製ドラマは、CS放送の専門チャンネルでやるべきプログラムだと思うんだけど、なぜかNHK・BS2での放送。番組表を見ると「奥様は魔女」や「ヒッチコック劇場」の再放送までやっている。多チャンネル化・細分化の動きに逆行して、すべての嗜好をNHKに吸い上げようとしているかのように見える。NHKのチャンネル削減がとなえられているが、NHK側の本音はむしろ20チャンネルくらい欲しいのかもしれない。
 → NHK 懐かしドラマ「スタートレック 宇宙大作戦」

■ A piece of moment 9/10

 この夏、エアコンのない我が家では、パソコンのハードディスクがカタカタと変な音をたててときどき認識しなくなり、人間も半分以上死んだ状態という有様が8月いっぱい続いたのであった。我慢大会のような日々でけっきょく読もうと思っていた本はすべて手をつけないまま夏休みが終わる。アタマを使わねばならないような本や映画は半分以上死んでいる者にはどうせ理解不能なのであきらめ、CSチャンネルでまとめて再放送していた「ケロロ軍曹」と「名探偵モンク」と「独眼竜正宗」を見たことがわずかにやったことといえばやったことのような気がする。あまりに生産性にとぼしいのでしかたなくエアコンの導入を来年夏に向けて検討中。元気のよかったのは生い茂る雑草と徘徊している野良猫で、「地球の長い午後」に出てくる巨大植物のようにニョキニョキと育った草むらの中を黒い毛むくじゃらや茶ぶちの毛むくじゃらがのし歩いたりごろごろ転がったりしてただでさえ暑苦しいのに毛むくじゃらのがわさわさしててああもうどうにかしてくれあんたら毛むくじゃらなのになんでそんなに元気なの。そんなやたらと暑かった夏もひと段落、と思ったら新学期の一週目から授業スタートでまだ半分くらい死んでる者としてはもうちょっと助走がほしいのであった。しかたなく、ぼやきつつ課題をつくる。テーマは「小さな政府の是非」。次のAとBの会話を読んでアンタの考えを800字くらいで聞かせてちょうだいなというもの。AとBの言ってることのここが変だよというのがあったら指摘してもらえると半分くらい死んでる者としては大いにたすかります。さらにこんな文章にしたらと会話文も書いてもらえると大いに感謝します。
A 現在、日本の財政赤字は、国と地方をあわせると債務残高は800兆円近くにのぼっている。バブル崩壊後の長い不況で、財政赤字の額は増え続けて、小泉政権の5年間だけで約400兆円も増えてしまった。おまけに、日本はまもなく超高齢化社会をむかえようとしていて、今後、高齢者のための社会保障費はますます増加する。ひとりあたりの社会保障サービスが縮小されても、高齢者はどんどん増えるわけだから、社会保障費全体の額は増え続けることになってしまう。日本の財政が破たんしないために、小さな政府改革をすすめることは不可欠だよ。また、財政支出の削減だけでは限界があるし、財政赤字解消のためには、社会保障の削減と同時に消費税を10%程度に値上げすることも考えていく必要があると思うよ。

B でも、消費税は誰もが一律に課税されるから、低所得者ほど家計に与えるダメージは大きいよね。小さな政府政策で社会保障を縮小して、さらに消費税を値上げすることになると、低所得者や高齢者の暮らしを大きく圧迫することになる。それに、消費税値上げが検討されている中、その一方で、所得税の最高税率は50%から37%に引き下げられ、高額所得者は減税されている。また、不況対策として、企業にかかる法人税も20年前とくらべて10%以上も減税されている。つまり、財政赤字を理由に、社会保障を縮小して、さらに消費税値上げを行うというのは、しわ寄せをすべて社会的弱者に押しつけることになってしまう。赤字財政の解消イコール社会保障の削減・消費税値上げという発想は間違っているよ。もっと他にやることはあるはずだよ。

A そうは言っても、財政赤字が増え続けているのは事実だし、このまま何もしなければ、将来に大きな負担を残すことになってしまう。世界的に見ても日本の消費税率は低くて、スウェーデンが25%、フランスが約20%、イギリスが約18%、ドイツが16%とずっと高い税率が設定されている。世界的な基準に合わせるなら、消費税はもっと高くてもいいと思うよ。

B そうしたヨーロッパの国々は、日本よりも社会保障が充実していて、公立学校の学費や医療費はほとんど無料になっているよ。それに、消費税(付加価値税)は日本のように一律ではなくて、日用品や食料品は安くてぜいたく品は高いというように品物ごとに違っていて、低所得者の暮らしを圧迫しないように工夫されている。そういう事情を考慮せずに、数字だけを比較するのは無意味だよ。日本の場合、消費税の値上げぶんをすべて社会保障費にあてるというのならまだしも、税の使い道を定めず、ただ赤字財政の埋め合わせのために消費税を増税するというのは反対だよ。まず、ムダな財政支出をもっと削減する必要があるし、消費税値上げよりも、所得税の最高税率や法人税の値上げを先にやるべきだよ。それでもなお、消費税の値上げが必要というのなら、使い道を社会保障費に限定するべきだよ。そもそも、日本では、社会保障の問題を議論する時に必ず「財政赤字800兆円」ということが指摘されるけど、この発想自体が間違っているよ。だって、自衛隊のイラク派遣やインド洋でのアメリカ軍への支援を議論するときには、財政赤字の問題はとりあげられない。つまり日本政府のやり方は、公共サービスの充実よりも軍事問題やアメリカとの外交を優先しているわけで、「財政赤字800兆円」を持ち出すのは、たんに社会保障費を削減するための言い訳にすぎない。これは発想が根本的に間違っているよ。本来、税金は人々が安心して暮らせる社会をつくるために使われるべきもので、社会保障の充実は最優先に考えるべきだよ。政策の優先順位を変えれば、社会保障を充実させつつ赤字財政を解消することも可能なはずだよ。

A でも、2005年の総選挙では、小泉改革が支持されて自民党が大きく議席を伸ばしたよね。このことは、日本もアメリカ型の小さな政府をめざすことを国民が支持したと言えるんじゃないかな。ならば、アメリカのように、貧富の格差は大きくても、人や企業の競争が活発で、経済活力がある社会へ向かっていくべきじゃないかな。また、そうでないと、経済のグローバル化が進んで企業の国際競争が激しくなっている時代に、日本企業は生き残れないよ。それに、日本の政府は官僚の汚職や税金の無駄づかいがすごく多い。こういう状況で「たくさん税金を払ってもいいから大きな政府を目指そう」なんていう人はいないよ。日本の政府は、国民が税金の使い道をチェックできないまま、官僚たちの無駄づかいで税金が消えていくようになっている。そういうしくみが明治の頃からずっと続いてきた。たとえば、いま国民年金が破たんしそうだっていうんで大問題になっているけど、その一方で関係省庁の官僚たちは「研修旅行」の名目でヨーロッパへ行って豪遊したり、天下りして高い給料をもらったりしている。天下り先での退職金が1億円や2億円になるっていう元高級官僚も大勢いる。こういう社会状況で大きな政府を目指そうっていうのは不可能だよ。いまの日本では、好むと好まざると小さな政府づくりをして、民営化をすすめていくしか選択肢はないよ。

B まあたしかにいまの日本の状況で、北欧型の高福祉・高負担の社会にするのは無理があるね。でも、公務員の汚職や税金の無駄づかいが多いことと社会保障の削減とを結びつけて考えるのは乱暴だよ。汚職が多いから小さな政府にして企業の自由競争にまかせるっていう発想では、問題の本質は何も解決しないよ。まず、人々の暮らしを向上させるために政府はあるっていう社会契約説の原点にもどって、公共サービスを税の使い道の最優先課題にするっていう政府の意識改革が必要だよ。もしそれが実現できて、ヨーロッパ諸国みたいに医療費や高齢者介護や学費がすべて無料になるんだったら、たくさん税金払ってもいいと思うよ。それに、日本はもうとっくに小さな政府になっていて、人口比の公務員数は先進国の中で最も少なくなっている。これ以上公務員を削減したら行政サービスに支障がでてしまう。もちろん公務員の汚職や税金の無駄づかいは問題だけど、「だから公務員を減らせ」ではなく、税金が人々の生活の向上のために使われるように改革していかないと、政府が小さくても大きくても国民のほうを向いていないという状況は何も変わらないよ。2005年の総選挙で小泉改革が支持されたのは、あくまで、郵政民営化についての支持だったはずだよ。それは官僚の権限と利権が大きすぎるから、行政による規制を緩和しようという判断であって、社会保障の削減が支持されたわけではないはずだよ。

A 小さな政府への動きは日本やアメリカだけではないよ。2007年のフランス大統領選でも、アメリカのような競争重視の社会を主張するサルコジ氏が当選した。経済のグローバル化が進んでビジネスの国際競争が激しくなる中、小さな政府への動きは国際的な流れだよ。企業に高い税金や従業員の充実した福祉を課していたら、日本企業は国際競争に取り残されてしまうよ。高額所得者の所得税や企業の法人税を値上げするのは、日本経済の活力をそぐことになってしまう。そもそも、努力して社会的に成功した人にどっさり所得税をかけたら働く意欲がなくなってしまうよ。バリバリ働いて成功した人もなまけていた人もみんな同じような生活水準なんていう社会、まちがっているよ。高額所得者への所得税率を引き下げることは、たんに金持ち優遇というのではなくて、資産家の投資を活発にして日本経済を活性化させる効果があるんだ。つまり、お金持ちの資産を所得税で吸い上げるのではなく市場に投資させることで企業活動が活発になり、結果的により多くの人たちが職を得られるようになって失業者が減るというというわけ。こうしたやり方で経済活動を活性化させつつ、税収入を大きくふやすためには、消費税を値上げするのがもっとも合理的だと思うよ。

B たしかに、努力して自分の力で成功した人が高額の収入を得るぶんにはかまわないけど、日本の場合、高額所得者の多くは、親から財産や社会的地位を受け継いだ人たちだよ。安倍首相や小泉元首相をふくめて日本の政治家は二世・三世の議員がやたらと多いし、株式を公開している大手企業だって社長はジュニアたちが多い。生まれた家が金持ちかそうでないかで、その子供の将来が決まってしまうような社会はまずいじゃない。「勝ち組・負け組」っていう言葉が最近よく使われるけど、いまの日本では、社会階層の格差はすでに開いてきている。ドンキホーテにいる「ヤンママ」と伊勢丹にいる「マダム」とでは、住む世界が違うっていう感じだよ。知り合いが慶応大学の学校説明会に行ってきたんだけど、そこに集まってきた親たちは金持ちそうなのばっかりで、学校側の話も「勝ち組を育てる大学教育」だったってうんざりしていたよ。社会保障を削減して、学費も医療費も老後も自己負担っていうやり方は、貧富の格差を拡大して社会階層の固定化をいっそうすすめることになるよ。

A 労働条件の改善を進める政策をとった場合、企業側の負担は重たくなって新入社員の採用に慎重になるから、結果的に失業者が増えることになってしまう。たしかにヨーロッパ諸国では、育児休暇や労働時間や残業手当といった労働条件は日本やアメリカよりも充実しているけど、その一方で失業率は高い。失業するよりは、たとえ低賃金労働であっても仕事があったほうがずっと良いよ。資本主義経済である以上、ある程度の貧富の格差は仕方がないと思うよ。それに、低賃金で働く人々が国内にいるっていうことは、日本企業の国際競争力を高めることになる。工場のラインやファストフード店で働く人まで手厚く保護されるようになったら、日本企業は中国やインドをはじめとしたアジアの企業に競争力で太刀打ちできなくなってしまう。その結果、ますます工場の海外移転がすすんで、産業の空洞化が進行することになるよ。

B それは低賃金で働く人たちを使い捨ての労働資源としか見なしていない発想だよ。まるで「百姓は生かさず殺さず」って言っているみたいだよ。そのやり方だと、たとえ、失業者が減ってもそのぶん使い捨ての低賃金労働者が増えるだけだから、いくら働いても貧困から抜け出せないっていう「ワーキングプア」の状況におちいる人たちが増えてしまうことになる。ファストフードだって、スターバックスみたいに従業員の待遇を充実させながら利益をあげている企業だってあるわけで、使い捨ての低賃金労働がなければ企業の利益が出ないっていう発想自体が間違っているよ。現在、日本や欧米のような先進国では、工場の海外移転と産業の高度化にともなって、中流層が縮小し、専門知識や技能のある人たちとそうでない人たちの低賃金労働とに二極化する傾向にある。20代で年収1億円なんていうビジネスマンがいる一方で、マンガ喫茶やサウナに寝泊まりしているっていう派遣社員の若者もいる。高度経済成長期の日本では、特別な技能がなくても就職さえすれば定年まで勤められて、それなりに安定した生活ができたけど、現在では状況が大きく違ってきている。そういう中で、さらに社会保障を縮小して市場の競争原理にまかせるっていう政策をすすめれば、この二極化を加速させることになってしまう。単純に貧しい人にお金をあげるっていうやり方はまずいと思うけど、失業者や低賃金労働者が専門技能を学んで再就職するための支援はもっと充実させるべきだし、最低賃金ももっと引き上げるべきだよ。そうでないと、不安定な低賃金労働をせざるをえないっていう人たちが親から子へ引き継がれて、いくら働いてもそこから抜け出すことができなくなってしまう。アメリカみたいに、人口で5%の富裕層がアメリカ経済の60%の富を独占していて、その一方で6人にひとりが健康保険にすら入れない貧困状況にあるっていう社会は、どんなに企業の国際競争力が高くてもけっして良い社会だとは思えないよ。

 そういえば、フランス大統領選挙では、新聞報道よりもこちらのブログのほうが状況がつかみやすかった。セゴレーヌ落選で失意の日々の猫屋寅八さん(フランス在住)のブログ。「ルモンド」の翻訳までしてくれていてサービス満点。
 → ね式(世界の読み方)

■ A piece of moment 9/12

 職場で安倍首相辞任のニュースを知る。おどろく。3日前には自衛隊のインド洋派遣を「職を賭して」継続させると勇ましいことを言っていたばかりなのに。辞任の記者会見では、うつろな表情で自分が辞任することで政治状況を打開するとあいまいな理由を述べるだけ。テロ対策特措法は国会で通りそうもないし閣僚のスキャンダルはあいかわらずだし参院選以来野党は勢いづいているし与党内でも支持を失っているし、もう問題続出でやる気がなくなってしまったというところなんだろうか。改造内閣を発足させたばかりでの突然の辞任は前代未聞である。ずいぶんいいかげんな話。

 というわけで、なぜインド洋での自衛隊の補給活動を継続するのかろくに説明しないまま安倍政権は放りだしてしまったので、論点をまとめる。インド洋での補給活動の是非は近々授業で取りあげる予定。

■ A piece of moment 9/13

 CSチャンネルで連日再放送している「独眼竜正宗」をまとめて見る。戦国武将といえば若侍との男色、衆道は茶道とならんで戦国武将のたしなみだったはずなのに、NHK的コードなのか、大河ドラマにはそういうたしなみはいっさい描写されない。若い側室との愛憎劇や正妻と側室との確執がかなりねっちり描かれるのとは対照的で、NHK的コードがどうなっているのか気になるところである。今年の「風林火山」では、山本勘助と諏訪の姫と武田信玄とのSM的三角関係がえんえんとくりひろげられていて原作は団鬼六なんだろうかという状況なのに、こちらがアリであちらがダメというのも解せない話である。戦国武将の男色関係では、織田信長と森蘭丸、武田信玄と高坂昌信あたりが有名だけど、伊達政宗も若侍たちを愛でることには熱心だったらしい。大阪夏の陣を目前にひかえて、お気に入りの若侍が先陣をたまわりたいと正宗に申し出た。正宗は「お前にやらずに誰にやる」とその若者の頬にキスしたなんて記録も残っていたりしてほとんどやおい漫画の世界である。大河ドラマでもやればおもしろいのに。
 → Wikipedia「衆道」

 近所のスーパーで「コカコーラZERO」と「ペプシNEX」を安売りしていたのでまとめて買ってみる。こんなにコーラを飲んだのはヨーヨーほしさにコーラを買っていた子供の頃以来である。おかげでコカコーラとペプシの味の違いが区別つくようになった。ペプシはレモン味なのであった。

■ A piece of moment 9/14

 先日、「テロとの戦い」の正統性を信じている日本人にはじめて出会った。おどろきである。本当にこういう人がいるんだ。そりゃあ小泉も安倍も国会の答弁ではテロとの戦いを支持するって言っていたけど、それはアメリカとのつきあい上の方便であって、本気でその正統性を信じているほどバカではないでしょ。もっとも安倍はちょっとあやしかったけど。あれは、911テロでパニックになっているアメリカ国民をたきつけて怒りの矛先を外部に向けさせるために、戦争屋のチェイニーとラムズフェルドのふたり組みがでっちあげたシナリオであって、パニックになっているアメリカ国民以外はみんなブラックジョークとして受けとめていると思っていた。テロとの戦いねぇーへぇー悪の枢軸ねぇーへっへっへっという調子で。テロリストは捜査官を送り込んで逮捕すべき対象であって、軍隊を送り込んで戦争を仕掛けるべき対象ではないことは、ちょっと考えれば誰でも気がつく。ましてやアフガンで民間人を巻き込んでの空爆を展開したり、アルカイダとぜんぜん関係のないイラクに全面戦争を仕掛けたりするのは狂気の沙汰である。例えば、オウム真理教がまたもや東京で大規模な毒ガステロを起こしたとする。実行犯は国外逃亡し、アメリカのコロラドあたりに逃げ込んだとする。日本政府がとるべき対応はただひとつで、捜査官をアメリカに派遣し、FBIと協力してその一味を逮捕することのはずだ。ところが政府は、捜査官ではなく航空自衛隊をアメリカに派遣して、犯人たちが潜伏していそうなコロラドの農場をしらみつぶしに空爆すると言いだした。正気の沙汰とは思えない発言だが、アメリカは911の後にそれと同じことを実行に移したわけである。いくらアフガニスタンが混乱の中にある途上国であってもイラクが独裁者の支配下にあるからといっても、テロリストをつかまえるために軍事行動を展開する正統性は見いだせない。さらには、グァンタナモ基地に収容したアルカイダのメンバーやイラク兵について「捕虜ではなく犯罪者」という見解をとり、ジュネーブ協定は関係ないとリンチをくり返していることは、あきらかにダブルスタンダードだし、対テロ戦争という発想自体が矛盾していることをあらわしている。ブッシュとチェイニーとラムズフェルドは、本来ならばいまごろ、オランダ・ハーグの国際法廷で戦犯裁判を受けているべき立場のはずである。そうなっていないのは国際秩序が正常に機能していないからにすぎないし、もしこの3人が無罪ならテロリスト殲滅の名目で民族浄化を行ったミロシェビッチだって無罪になってしまう。911のパニックからようやく冷静さを取り戻して、アメリカ世論もイラク戦争の正統性に疑問をいだくようになり、それにともなってブッシュのイラク政策への風当たりも強くなっている。世論調査では、去年あたりから不支持の割合が支持を上回っている。ただ、イラク戦争を支持したアメリカ世論もイラクからの撤退を求めるアメリカ世論も、建て前ではイラクの民主化をとなえながら、実際にはアメリカ人の安全しか考えていない。現在の混乱状況でアメリカ軍が撤退したら、イラクはソ連軍撤退後のアフガニスタンと同じ状態になる可能性がきわめて高い。そこがアメリカ軍のイラク撤退を単純には支持できない点だ。少なくともブッシュとチェイニーとラムズフェルドの3人については、いち兵士としてイラクに派遣して、生涯イラクに駐留させるべきである。それに当時メッツの外野だった新庄は、911直後に「俺もアメリカ人として闘う」なんてしょうもないことを言っていたのに、なぜちっともイラク行きを志願しないのかも気になるところである。
 → Wikipedia「グァンタナモ米軍基地」

■ A piece of moment 9/17

 連休を利用して、先に書いた「小さな政府改革の是非」の会話文を書き足す。うまく書けない。書けば書くほど散漫になり、AとBの会話は問題の核心からそれて迷走していく。あきらかに勉強不足である。とくに私は社民主義者なので、Aの社会保障費の縮小を主張する発言にまったく説得力がない。会話文には、「社会保障を充実させると怠け者になる」だとか「所得税の最高税率を引き上げると金持ちたちが国外へ流出する」なんて次元の低い発言がならんでいて読みかえしながら自己嫌悪におちいっている。これでは課題の資料として使いものにならない。ネットで知識のつまみ食いでもしようかと思ったら、ヒットするのはこんなのばかり。これほどバカだと高校生にだって笑われますぜ。
 → 時代のウェブログ「ハリー・ポッターと炎の累進課税」
 → 藤田徳人.com「仏暴動:サルコジ内相が人気盛り返す 世論調査で判明」

 悲しくなってきたので寝る。

■ A piece of moment 9/19

 今日の「クローズアップ現代」は派遣社員の不安定な労働状況のレポート。派遣業者のピンハネ・健康保険にすら入れない実態といった内容。3年以上派遣社員として働いた労働者を社員として雇用するという条項めぐって争われている裁判について、経団連会長のコメントが紹介される。「3年働いたら正社員として雇うというのでは、日本企業の硬直化がおこる、中国やアジア諸国との競争で勝てなくなってしまい、産業の空洞化が生じる」とのこと。先日「あまりに次元が低くて気が滅入る」と書いたAの主張そのものである。経団連会長が「百姓は生かさず殺さず」の奴隷制資本主義を信奉していたとはおどろきである。健康保険すら入れない派遣労働者の低賃金労働がなければ利益が出ないという企業は、本質的に経営がダメなのである。むしろ経営者をクビにして経営陣の入れ替えを求めるべきケースではないのか。ところが逆に経団連は、派遣社員の正社員としての雇用の撤廃、派遣社員の契約期間延長、派遣社員の分野拡大を政府に要望しているという。あまりの社会意識の低さにめまいがする。経団連はダメ経営者を甘やかすための団体のようである。現在の経団連会長はキヤノンの会長の御手洗冨士夫。キャノン創業者の甥で会長としての役員報酬は2億2200万円。キャノンも派遣社員から労働条件をめぐって訴えられている。おれ、奴隷制資本主義をとなえる人間が会長をやっているかぎり、キャノンのカメラは買わないことにした。新製品のPowerShot G9はちょっとほしかったけどやめた。番組でのあのコメントを聞いた人の多くが同じように考えていることを願う。
 → Wikipedia「御手洗 冨士夫」

■ A piece of moment 9/27

 フランスのアラブ系移民への支援を例にアファーマティブアクションのあり方を論じろというレポートを出したところ、「あまりにも身近でないのでよくわからん」いう生徒多数。まあたしかにね。なので、今度の期末の論述問題は身近なネタをということで、こんなのにしてみる。
毎週水曜日を「レディースデー」にして、女性客のみ1000円で入場できる映画館が増えました。これは男女差別なのでしょうか。次のAとBの主張を参考にしてあなたの考えを述べなさい。(300字以上)

A 「差別」というのは、社会慣習や制度と結びつき、マジョリティ(社会的主流派)がマイノリティ(社会的弱者)に不利益を強いることである。たんに非合理的な理由で差をつけ、特定の人々に不利益を強いるというだけでは差別とは言えない。例えば、あるレストランに「外国人お断り」の張り紙がしてあれば、それは日本の社会構造と深く結びついたマイノリティの排除であり、きわめて差別的ということになるが、阪神タイガースファンの集まる店に「ジャイアンツファンお断り」という張り紙がしてあっても、社会構造とは無関係であり、差別ではない。同じ理由で、メニューに「お子様ランチ」があってもおとなを差別していることにはならない。日本社会において、長年、女性は社会の表舞台から排除されてきた。日本で女性に参政権が保障されたのは、つい60年ちょっと前のことである。制度的に男女平等が保障されている現代においても、大手企業での女性重役は全体の1割以下しかいないなど、女性をこばむ見えない壁が数多く残されており、女性がマイノリティである状況は変わっていない。こうした日本社会で、女性がより娯楽を楽しめるよう映画館に「レディースデー」を設定することは社会的に十分意義があり、差別とはまったく関係ないことである。

B 現代の日本社会では、娯楽や消費活動は女性たちがリードしており、旅行・観劇・ファッションに使うお金は女性のほうが多い。長年、男性の娯楽とされてきたゴルフや居酒屋での一杯でも、女性の姿を見かける機会が増えている。現在の日本で、新しいブームやファッションを発信しているのは主に女性たちであり、映画も女性に支持された作品がヒット作になっている。逆に男性は、日々仕事に追われ、娯楽どころではないという人が多い。このことは、平日に映画館へ入ると観客のほとんどが女性であることからも明らかである。このような社会状況で、女性客のみ入場料金を割り引きする合理的理由はまったくない。職場での昇進や待遇の男女格差とは逆に、娯楽や消費活動においては、むしろ女性のほうがマジョリティなのである。したがって、マジョリティにのみ有利な条件を提供する「レディースデー」は差別的である。また、「男は仕事・女は娯楽」という社会状況を強化するだけで、女性の社会的地位の向上にも役立っていない。水曜日に割引サービスをするなら、男女問わず誰もが1000円で映画を見られるようにするべきである。
 ひさびさに良い設問ができた気がする。ちなみにワタクシとしては、差別とまでは言えないが、男女問わず1000円で映画を見られるようにするのが好ましいという立場。ただし、こういうことにネチネチいう男はモテないので、デートで映画を見るときは気をつけましょう。

■ A piece of moment 9/28

 授業のページに映画館の「レディースデー」の是非をまとめてみる。
 → 映画館の「レディースデー」は男女差別なのか?

■ A piece of moment 9/30

 映画館の「レディースデー」の是非の文章を加筆・修正する。
 → 映画館の「レディースデー」は男女差別なのか?

 CSチャンネルでまとめて再放送していた「バーナビー警部」を見る。すごくおもしろい。最近みたドラマの中でベスト。イギリスのミステリードラマで、2時間弱で1話完結という形式。登場人物たちがみなリアルで、各回とも映画を見ているような見ごたえがある。舞台になるのは、イギリス中部にあるという設定のミッドサマーという一面に緑の広がるのどかな田園地帯。そこに点在する田舎の村々でおこる殺人事件を地元警察のベテラン刑事であるバーナビーが捜査していく。ドラマの核になるのは、のどかな小さな村々で繰りひろげられる濃厚な人間関係で、その人間関係が事件の背景であり、捜査の手がかりでもある。小さな村の中の人間関係の距離の近さがもたらす確執と嫉妬、支配と服従、華やかなゴシップを振りまいて注目を集める者とそれにいらだつ者、富める者への反発と敵意、特権意識と教養のない者への露骨なさげすみ、ほのめかしと遠回しな皮肉の応酬、傲慢な金持ちの老人と若さだけがとりえの後妻、村人の誰もが知っている公然の浮気、妻と愛人の愛憎、夫と愛人のいさかい、発覚しなかった過去の殺人。トリックよりもそうした登場人物たちの心理描写と人間模様の描写にウェイトが置かれており、アガサ・クリスティー後期の作品を連想させる。とくに、田園地帯の小さな村が舞台なので、晩年の「ミス・マープル」シリーズを連想させる。大がかりなトリックでどんでん返しをするような展開はほとんどない。登場人物たちの内面を薄皮をはぐように描写し、彼らの人間関係と過去が明らかにされることで、事件の全体像も浮かびあがってくる。私のようにミステリーのトリックや謎解きにはまったく興味がなく、殺人へと至る濃密な人間関係と心理描写にのみ関心のある者にとってはぞくぞくする展開。ただ、見ごたえがあるぶん、見る側の集中力も要求される。毎回10人くらいの主要人物が登場するので、ぼんやり見ていると後半になるにつれて誰が誰だか混乱してしまう。

 事件の捜査にあたるバーナビー警部の人物像もいい。博識で鋭い洞察力を持っているけど、ポアロやコロンボのような「風変わりな天才」ではない。定年がせまっているベテランの警部で、いつも折り目正しく、おだやかな対応で容疑者たちから話を引き出し、地道な捜査でひとつずつ証拠を積み重ねて事件の核心に迫っていく。イギリス中流階級の人物らしくベタベタした人間関係は好まず、捜査対象にも過度の感情移入はしない。その様子は公僕である現代の警察官という印象で、現実にもこういう警察官がいそうな感じがする。バーナビーを演じるジョン・ネトルズは特別ハンサムでもないし地味といえば地味だけど、その抑えた演技が、村人たちの繰りひろげる濃厚な愛憎劇を際立たせている。捜査にあたる探偵のキャラクターを前面に出すのではなく、あくまで狂言回しとして一歩引いたところから、事件にかかわる人々の人間模様を見せていく手法も、アガサ・クリスティー後期の作品と共通している。唯一の欠点は、毎回事件が連続殺人に発展していくこと。描写がシリアスなだけに小さな村で毎回4人も5人も殺されるのは不自然だ。

 CSチャンネルでは第5〜6シリーズの20話から28話までを連日放送して、ひとまず完結となったが、ぜひ1話から見たいところ。連日見たせいで、イギリス人の階級意識や田舎の村ではいまだに領主がおさめていることや「交通整理にまわすぞ」がイギリスの警察でも部下を叱るときの決まり文句であることなど、現代イギリスの社会事情に多少詳しくなったのであった。Wikiによるとイギリスでは第11シリーズの62話まで放送されているとのこと。
 → ミステリチャンネル「バーナビー警部」
 → Wikipedia「Midsomer Murders」
 → Wikipedia「List of Midsomer Murders episodes」
 → MidsomerMurders.net

■ A piece of moment 10/1

 光陰矢のごとしで前回の車検から2年経過。本日、バイク車検の日。「都民の日」で学校が休みなので立川の車検場へ行ってくる。ふだん整備しているし前回と違って渋滞の新青梅街道だってトラブルなく走っているんだからいまさら車検だからってとりたてて整備することもないだろう、と何もせずパジャマのままバイクに乗って車検場へ向かう。車検も2度目でふてぶてしい。なぜかヘッドライトの光軸が狂っていると不合格にされる。釈然としないので、何も調整せずにそのまま再び検査コースへ戻ると、今度は合格する。いいかげんだなあ。バイクはほんの少し車体の向きが曲がっていたり、シートから腰を浮かしたり、どっかりシートに座ったりするだけでヘッドライトの光軸がズレて「調整不良」の判定になるらしい。ともかくまた2年間合法的に乗り回せることになった。かかった時間は1時間弱。車検場がご近所で便利。帰りは雨が強くなってきてパジャマで失敗。28000円の出費なり。いつの間にか車検の予約はネットからもできるようになっていた。
 → 国土交通省「自動車検査インターネット予約システム」(大げさな名前)

 「バーナビー警部」はネットでのダウンロード視聴もできる。1話目は無料とのことで、只今、見終わったところ。1話目は登場人物たちが類型的でいまひとつな感じ。見た中で気に入っているのは、23話と24話と28話。
 → Yahoo!動画「バーナビー警部」
 → BIGLOBE ViDEO STORE「バーナビー警部」

 古い映像ファイルを整理していたら、ダニエル・デネットのインタビューが出てくる。なかなか面白かったので、以前書いたコンピュータチェスの資料に加えてみる。試験問題を作成していると妙に他のことがやりたくなるものである。毎度のことながら。
 → コンピュータチェス カスパロフ対ディープブルー

■ A piece of moment 10/6

 バイクも車検を通ってひと段落ついたと思ったら、パソコンのハードディスクが壊れる。この夏の異常な暑さで3番目のハードディスクがカタカタと変な音をたてるようになり、とうとうデバイスとしてシステムに認識されなくなったり戻ったりをくり返すようになってしまった。仕事の映像資料がごっそり入っているのであわててデータを移送して、新しいのに買い替える。ツクモのネット通販。ついでにメモリも2GB追加して、ケースも熱対策として風通しのいいものに交換する。注文して翌日に到着。計33000円の出費。現在、ハードディスクは、500GBが2台と160GBと200GBの計4台体制。仕事用の資料映像が入っているから仕方ないといえば仕方ないんだけど、あまりに重装備でバカみたいだ。ケースも大きすぎてじゃまである。

 パソコンの組み立てがひと段落ついたと思ったら、今度は自転車がパンクする。ガラスの欠片が後輪に刺さっていた。タイヤもボロボロなので、今度壊れたら自転車はいいのに買い替えようと思って3つほど候補もしぼっていたんだけど、たてつづけの出費のため断念。修理する。前回、6年前にタイヤを交換したときは、とりあえず近所のホームセンターで規格とサイズの合う物を買ったが、これが長期保管のタイヤだったらしく、1年ちょっとでゴムが劣化してひび割れが出てしまって大失敗。なので今回は設計が新しくて評判のいいタイヤをネットでよく調べてから、安売りしていた岐阜県の自転車屋さんに注文する。木曜日の朝に注文してその日の午後に出荷、翌日の金曜に到着してしまう。ネット販売便利。便利だけど便利すぎていびつさも感じる。いいんだろうかこんなことで。スピードは正義ではない。とはいえ、新品タイヤはグリップも転がり具合も見た目もいい感じ。タイヤ前後とチューブ前後で計7000円の出費。ついでにチェーンと前後ディレイラーに油をさす。そんなDIY週間なのであった。

 候補にしていた自転車はこの3台。
 → Specialized Sirrus
 → GIANT ESCAPE
 → Trek 7.3 FX
 ただ、自転車レースをやるわけでもないのに、ふだん乗る自転車にあまりいいのを買ってしまうと盗まれるのが気になっておちおち本屋で立ち読みもできなくなるんじゃないかという気もする。自転車は身軽な暮らしの相棒なのに、それでは本末転倒になってしまうわけで、自転車選びはもう10年近く悩み続けている。私はモノフェチの傾向があるので、モノの下僕になって身動きできなくなるのはさけたい。生活の基本ルールは、ダウンサイジングであり、銘のある日本刀より使い込まれた包丁を選択することである。いま乗っている20年モノの自転車(10年ちょっと前によっちゃんにもらった)はちゃんと走るけど、見た目がボロボロなうえにへんな色で目立つので、カギをかけずにコンビニ前に停めておいても誰も持っていかない。乗り心地以外は最高である。ともかくこのタイヤを履きつぶすまでは乗りつづけることにする。


タイヤだけ新品。MAXXIS DETONATOR foldable 1.5インチ。

■ A piece of moment 10/11

 プラネタリウムソフトの「Stellarium」をインストールする。
 → Stellarium
 → Stellarium Wiki 日本語メインページ
 → 星の追加データ
 → Stellarium スクリーンショット

 オープンソースのフリーソフトで、各国の有志が知恵を出しあってつくっている。最新版は今年6月にリリースされた0.90。パソコンの小さな画面だから満天の星空とはいかないけど、大気のゆらぎで星が瞬いたり、グーグルアースのように星空がシームレスで拡大縮小できたりと、環境ソフトとしてじつによくできている。高機能の星座早見盤というだけでなく、画面のアートワークが工夫されているので、ぼんやり見ているだけで楽しい。とくに惑星や星雲・銀河がシームレスに拡大表示されていく様子は圧巻。月の満ち欠けはもちろん、金星や水星も満ち欠けするし、太陽も自転していて黒点の位置が変わっていくし、各惑星をまわっている衛星の公転周期までシミュレートして位置が変化していく。ガリレオは正しかったのである。星のデータは標準で10.5等級まで、追加ファイルで18等級まで表示される。紹介サイトではこちらのブログが画像が多くてわかりやすい。
 → Cagylogic「2007年8月 7日 Stellarium」

 ひさしぶりに双眼鏡を持ち出して、本物の星空をながめる。

■ A piece of moment 10/14

 試験の採点が手につかず、「レディースデー」をさらに加筆修正。
 → 映画館の「レディースデー」は男女差別なのか?

 文章を書きながら、自分には映画館への愛着がまったくないことに改めて気づく。学生のころは池袋や三鷹や国立の3本立て映画館へよく通ったけど、それはレンタルビデオもCSチャンネルもなかったからにすぎない。自分にとっては、むしろ寝ころがってCS放送の映画チャンネルを観ることこそが正常なスタイルで、いまにして思うと映画館はその代用だったようにすら思える。ロードショーから4ヶ月もすればレンタル店にDVDがならび、1年もたたずにCSチャンネルで放送されて、古今東西の映画が好きときに何度でも観られるという世の中で、なぜみなさん1800円も払って映画館のきゅうくつな席に座ろうとするんだろうか。個人的には、レディースデーを性差別だと主張する人たちが大勢いることと同じくらい、映画館で上映するという興行形態がいまだに成り立っていること自体が不思議である。いつの時代でも常に生身の人間が演じる芝居小屋とちがって、映画館という形態はテクノロジーがもたらした一時的な存在でしかない。

 現在、日本で公開される映画は毎年800本くらいある。当然、それをすべて観ているという人は存在しないだろう。映画の歴史は約100年あるわけで、自分が観ていない過去の傑作・名作は無数に存在する。それは生涯のすべてを費やして見続けたとしても、ひとりの人間がすべての映画を観るのは不可能である。私はフェリーニもタルコフスキーもエリック・ロメールもアラン・タネールも成瀬巳喜男も木下惠介も半分くらいの作品しか観ていないし、兵隊やくざは3本目で、座頭市は8本目で挫折した(座頭市が「傑作」かどうかは別にして。)しかも、その観ていない傑作・名作は毎年、増え続け、いつか観ようというリストに蓄積される。CS放送をまめにチェックしてハードディスクに録りだめておけば、気が向いたときにいつでも観ることができる。フランソワ・オゾンの「ふたりの5つの分かれ路」にしても、ダルデンヌ兄弟の「ロゼッタ」にしても、ハードディスクの中に寝かせてある作品は増える一方で、観るのが追いつかない状態にある。この上映を見逃したら今度いつめぐり会えるかわからないという時代とはまったく事情が異なる。論理的に考えれば、過去の映画の蓄積量が増加するにともなって、新作封切りの映画館へ足をはこぶ人は減っていくはずである。なのになぜ、1800円も払って新作ロードショーを観ようとする人がいまだにいなくならないんだろう。たしかに、安上がりなデートにはちょうどいいし、デビッド・リンチのエログロサイコものになぜか小学生の子ども連れできてしまって映画館で石のように固まっている家族を観察したりするのも面白いといえば面白いけど、映画を観るという行為自体を主として考えた場合、以前のように映画館で観る必然性はない。1980年代から90年代初めにかけて、「映画館は斜陽産業」という発言を度々耳にした。当時、池袋にあった映画館の主は、日本のすべての映画館の興行収入を合わせても西武デパート池袋店一店舗ぶんの売り上げに届かないんですよなんて話をしていた記憶がある。私はそのまま衰退していって、やがて寄席演芸場やストリップ小屋くらいの数に落ち着くのではないかと思っていた。ところが、90年代半ばのシネコンラッシュとともに状況は変化し、映画館の収益はしだいに好転、現在、映画館全体の興行収益は過去最高である。不思議である。建物が小ぎれいになったくらいで映画館へ行きたくなるもんなんだろうか。映画館の経営が成り立つしくみは、逆にCS放送の映画チャンネルの不自然なくらいの視聴料の安さとともに現代の七不思議である。

■ A piece of moment 10/15

 学生のころよく聴いていたエルビス・コステロの「トウキョウ・ストーム・ワーニング」。ふと、どんな歌詞だったっけと気になって調べる。膨張するインターネットのおかげでたいていの歌詞は検索一発で出てくるようになったので便利。ああ、こんなこと歌っていたのか。狂った世界のハイパーアクティブな悪夢。
Elvis Costello  Tokyo Storm Warning (1986)

The sky fell over cheap Korean monster-movie scenery
And spilled into the reservoir of the crushed capsule hotel
Between the Disney abattoir and the chemical refinery
And I knew I was in trouble but I thought I was in hell
So you look around the tiny room and you wonder where the hell you are
While the K.K.K. convention are all stranded in the bar
They wear hoods and carry shotguns in the main streets of Montgomery
But they're helpless here as babies 'cause they're only here on holiday

[Chorus:]
What do we care if the world is a joke
(Tokyo Storm Warning)
We'll give it a big kiss
We'll give it a poke
(Tokyo Storm Warning)
Death wears a big hat 'cause he's a big bloke
(Tokyo Storm Warning)
We're only living this instant

The black sand stuck beneath her feet in a warm Sorrento sunrise
A barefoot girl from Naples or was it a Barcelona hi-rise
Whistles out the tuneless theme song on a hundred cheap suggestions
And a million false seductions and all those eternal questions

[Chorus]

So they flew the Super-Constellation all the way from Rimini
And feasted them on fish and chips from a newspaper facsimile
Now dead Italian tourists bodies litter up the Broadway
Some people can't be told you know they have to learn the hard way

Holidays are dirt-cheap in the Costa del Malvinas
In the Hotel Argentina they can hardly tell between us
For Teresa is a waitress though she's now known as Juanita
In a tango bar in Stanley or in Puerto Margarita
She's the sweetest and the sauciest
The loveliest and the naughtiest
She's Miss Buenos Aires in a world of lacy lingerie

[Chorus]

Japanese God-Jesus robots telling teenage fortunes
For all we know and all we care they might as well be Martians
They say gold paint on the palace gates comes from the teeth of pensioners
They're so tired of shooting protest singers
That they hardly mention us
While fountains fill with second-hand perfume
And sodden trading stamps
They'll hang the bullies and the louts that dampen down the day

[Chorus]

We braved the cold November air and the undertaker's curses
Saying "Take me to the Folies Bergere and please don't spare the hearses"
For he always had a dream of that revolver in your purse
How you loved him 'til you hated him and made him cry for mercy
He said "Don't ever mention my name there or talk of all the nights you cried
We've always been like worlds apart now you're seeing two nightmares collide"

[Chorus]
■ A piece of moment 10/16

 ラジオを聞きながら昼の部の成績をつける。ラジオは最初から最後までずっと亀田一家と沢尻エリカの批判だった。世の中をなめている、社会人とは言えない、育て方が悪い、ボクシングを穢したなどなど。でも、定時制高校には亀田ブラザースみたいなのも沢尻エリカみたいなのもうじゃうじゃいるぞ。亀田パパやエリカママみたいなのもときどき職員室に乗り込んでくるし。もちろん、あんなにボクシングは強くないし、かわいくもないけど。ラジオを聴きながら、彼らへの批判はふたつの文脈に由来することに気づく。ひとつは、メディアへの露出の多い人間に対して、無条件でセレブリティとしての社会的地位を与えようとする偶像崇拝の心理によるもの。「世界戦を闘うほどのボクサーなのに」「スター女優なのに」と。メディアへの露出度の高いボクサーや女優ならば、人間的にも優れていなければならないという思いを多くの人がいだいているらしい。しかし、彼らはボクシングが強かったり、ルックスが良かったりするというだけの若者で、その言動は「うぜえんだよ、ああン」と教室でよたっている定時制高校の生徒たちとなんらかわらない。批判する人たちは彼らに何を求めているんだろう。むしろその偶像に抱いている幻想のほうが不気味だ。ボクサーはボクシングが強ければ、アイドル女優は見た目がかわいければ、それでべつにいいじゃない。一緒に暮らすわけでもないだろうし、彼らを相手に授業をしなきゃならないってわけでもないだろうしさ。もうひとつは、その偶像をつくる側にいるメディア関係者たちの特権意識だ。こちらはよりタチが悪い。虚像をつくって持ち上げておいて、手のひらを返したように突き落とすやり方は陰険だ。さんざん彼らの話題で儲けてきたくせに、今度はいきなり高みから批判するのか。いったい何様のつもりだろう。悪役に仕立てて賞味期限が切れたらさようなら、批判するのもただのネタ、娯楽として消費するのみだ。ラジオを聴きながら「うぜえんだよ、ああン」と啖呵を切りたい気分になる。というわけで、亀田くんやエリカちゃんのいる夜の部の授業へ行くことにする。本日のお題は「アメリカ公民権運動」。

■ A piece of moment 10/17

 メジャーリーグのプレーオフを見ていたら、またもや「Energy Recycle プルサーマル」の青い看板がスタジアムに出現。電気事業連合会によるプルサーマル方式の原発を推進する広告である。NHKの中継がある試合を狙ってスポットで広告を入れているようだ。こういう政策推進のための広告や電力会社・ガス会社といった独占企業の広告には、視聴者に対抗する手段がない。市場競争のない状況で一方的なメッセージ広告を発信するやり方は、権力による世論誘導そのもので、天安門広場の「世界人民団結万歳」や平壌の街角の「核保有国としての誇りを持とう」といった政治的スローガンをうたう看板となんら変わらない。むしろ、資金力にものをいわせて世界中の人目につく場所へまき散らされているぶん、「プルサーマル」の看板のほうがよりいやらしい感じがする。こうした広告にかかる費用はもちろん電気代や税金でまかなわれており、独占企業なのでいくらでもそのぶんを料金に上乗せできてしまうという悪循環。どうせ広告を出すなら、「世界一高い日本の電気料金にどうかご理解ください」くらいのコピーにすればブラックで良いのに。英語のコピーもつければスタジアムにいるアメリカ人にもブラックな笑いをお裾分けできます。
 → 電気事業連合会



■ A piece of moment 10/19

 Stellariumは、見れば見るほど良くできている。木星のガリレオ衛星は公転周期がシミュレートされて、正確に位置を変化させていくし、自転周期にあわせて木星のテクスチャーも回転するので、日によって赤いめだまが左にあったり右にあったり見えなかったりと刻々と変化していく。ヘラクレス座αのラスアルゲチに照準を合わせてズームしていくと、ひとつの黄色い星に見えていたものが、やがて黄色の主星ラスアルゲチAと白い伴星ラスアルゲチBとに分解されていく。いて座からさそり座にかけての銀河の中心部へズームしていくと、そこは一面の星の海で、細かな無数の星が大気のゆらぎによってまたたいていている。まるでミニチュアの宇宙がそこにあるような緻密さ。その様子は、子供のころに読んだ「ドラえもん」のエピソードに、のび太がドラえもんの出してくれたミニチュアの地球で生命進化のシミュレーションをするという回があったのを連想させる。ドラえもんの道具の中でも、あのミニチュアの地球は、タイムマシンやどこでもドアのような実用的なものをのぞくともっとも魅力的だった。というわけで、Stellariumはドラえもんの道具のように素晴らしいフリーソフトなのである。つくっている人たちは偉いのである。
 → Stellarium

■ A piece of moment 10/28

 野球の試合を観ていると、ときどきボブ・マーリーの「ワン・ラブ」のメロディが頭に浮かんでくる。前時代的なゆったりとした試合のテンポ、スポーツなのにあまりイケイケ調でもやっちまえでもない雰囲気、勝ったり負けたりのレギュラーシーズン、広々としたスタジアムの景色、ピーナッツの袋を背面スローで投げている売り子のおじさん。観ているとスッタカスッタカというのんきなレゲエのメロディが頭の中に流れてきて「ワン・ラブ」という気分がしてくる。野球というのは思い出の中のスポーツだとアメリカ人の作家が書いていたけど、そんな感じ。試合のたびに「ゴッド・ブレス・アメリカ」なんてへんな愛国心高揚ソングを歌っていないで、アメリカでも日本でも7回裏と試合終了時には「ワン・ラブ」を流すべきである。消極的千葉ロッテファンとしては、ぜひマリンスタジアムで流すようリクエストしよう。

 同じ範疇の曲に、ジョン・レノンの「イマジン」とサッチモの「この素晴らしき世界」がある。「イマジン」は卒業式のイメージで、「この素晴らしき世界」は結婚式のイメージが思い浮かぶ。学校を卒業するときくらいは、あの理想主義を甘ったるいと鼻で笑わずに、天国も地獄も国家もなくてただ頭の上に空が広がっているという世界を思い浮かべても良いんじゃないかと思うし、せめて結婚式の時くらいは、たとえ錯覚だとしても空の青さや夜の闇や赤ん坊の泣き声を前にこの世界が素晴らしいと思えてほしいところである。とまれ世界は美しい、なんてね。日の丸に敬礼やふたりのために世界はあるのじゃなくてさ。

 「ワン・ラブ」は単純なフレーズにのせて「ひとつになる愛♪」なんて脳天気なことを歌っているだけで、ややこしいことは歌っていないみたいだけど、ジャマイカン・イングリッシュのせいで「one love」と「all right」以外は全部ワニャワニャワニャとしか聞き取れない。今回ネットで検索して、こんな歌詞だと判明。神の愛につつまれてひとつになろうっていうレゲエ版ゴスペルソングなのでした。ラスタ信者がゴスペル歌ってていいんだろうかという気もするけど、鷹揚なジャマイカンとしてはまあべつにいいじゃないのってところでしょうか。
Bob Marley One Love/people Get Ready (1977)

One love, one heart
Let's get together and feel all right
Hear the children crying (One love)
Hear the children crying (One heart)
Sayin', "Give thanks and praise to the Lord and I will feel allright."
Sayin', "Let's get together and feel all right."
Whoa, whoa, whoa, whoa

Let them all pass all their dirty remarks (One love)
There is one question I'd really love to ask (One heart)
Is there a place for the hopeless sinner
Who has hurt all mankind just to save his own?
Believe me

One love, one heart
Let's get together and feel all right
As it was in the beginning (One love)
So shall it be in the end (One heart)
Alright, "Give thanks and praise to the Lord and I will feel allright."
"Let's get together and feel all right."
One more thing

Let's get together to fight this Holy Armageddon (One love)
So when the Man comes there will be no, no doom (One song)
Have pity on those whose chances grow thinner
There ain't no hiding place from the Father of Creation

Sayin', "One love, one heart
Let's get together and feel all right."
I'm pleading to mankind (One love)
Oh, Lord (One heart) Whoa.

"Give thanks and praise to the Lord and I will feel all right."
Let's get together and feel all right.
(Repeat)
 訳詞はこちらのサイトに、ボブ・マーリーへの愛に満ちた紹介文とともに載っています。
 → 関西発デイリーSKIN「2007年07月13日 夏だ!レゲエだ!キングオブレゲエ Bob Marley」

 関西の人、レゲエとソウルミュージックが好きね。あと、当然ながらYouTubeには「ワン・ラブ」のミュージックビデオがアップロードされていて、在りし日のボブ様の姿もおがめます。なむなむ。そんな曲知らないというめずらしい人も、聴けばああアレねと納得の20世紀の名曲。著作権上は問題ありそうだけど、気に入ったらCD買って罪ほろぼしということでひとつよろしく。千葉マリンスタジアムで7回裏と試合終了時に流すようリクエストのほうもついでによろしく。ライブエイドの「ウィ・アー・ザ・ワールド」は英雄ぶったリリシズムと押しつけがましい正義感が鼻についてしらけたけど、こちらは一緒に歌いたくなります。
 → YouTube「bob marley - one love」

■ A piece of moment 10/29

 YouTubeには当然ながら「イマジン」も「この素晴らしき世界」もアップロードされていて、在りし日のジョン様の姿もサッチモ様の姿もおがめます。なむなむ。「この素晴らしき世界」をサッチモが歌っている姿を見るのは、吾輩、これがはじめてである。ああ本当に歌っているというのが見ての印象。こちらも気に入ったらCD買って罪ほろぼしということでひとつ。
 → YouTube「Imagine」
 → YouTube「What a Wonderful World - Louis Armstrong」

■ A piece of moment 10/30

 定時制のほうはもちろん、昼のほうも制服のない高校なのに、ときどき制服(らしきもの)を着ている女の子を見かける。思わず「それ、コスプレ?」と聞いてしまい、嫌がられる。なぜあんな窮屈そうなものをわざわざ着ようとするのか不思議である。もっとも、30くらいのおねえさんがセーラー服を着ているのはなかなか風情があってチャーミングなので、ぜひ彼女たちもその年頃まで着つづけてもらいたいものである。

 ひと月ほど前に交換した自転車のタイヤは良い感じ。ゴムが柔らかくて弾力があるので、グリップと乗り心地が良くなって快適。ゴムボールの上に乗っているように路面の小さなギャップを吸収していく。タイヤによって自転車もずいぶん乗り心地が変わることを知ったのだった。売れている商品らしいので、製造・出荷のサイクルが早いんだろう。タイヤは鮮度が大事。ただ、こぎ手のほうが運動不足のため、片道十q少々の道のりでも息があがってしまうのはどうにもならない。
 → MAXXIS DETONATOR foldable

 CSチャンネルで放送のはじまったシャーロック・ホームズのドラマを見る。以前、NHKで吹き替え版を放送していたが、こちらはオリジナルの字幕版。放映時間は、吹き替え版が45分なのに対して、55分くらいある。NHKで放送していたのを見たときにやけに展開が唐突でストーリーがわかりにくかったが、10分近くもカットされていれば当然と納得。長尺の字幕版ではホームズの変人ぶりと嫌な奴ぶりがじっくり見られる。こんなもったいぶって気どった言いまわしをしていたのね、知性や教養に欠ける相手だと露骨にバカにした態度をとるのね、などなど。第1話はアイリーン・アドラーの登場する「ボヘミアの醜聞」。いきなりホームズがコカインでうっとりしている場面からはじまる。「コカイン7%溶液は最高だね、ワトソン」。あきれるワトソンにホームズは「僕の精神は常に刺激を求めているんだ、刺激的な事件のない時の僕は死んでるのも同じだよ」とつづける。きわめて原作に忠実だけど、これはちょっとNHKでは放送しにくそうですな。
 → ミステリチャンネル「シャーロック・ホームズの冒険〔完全版〕」

■ A piece of moment 11/3

 CS放送のディスカバリーチャンネルで、古今東西のモーターサイクルの中から10車種を選んで紹介するという番組をやっていた。登場したベスト10はこんなラインナップ。けっこう知らないのもありました。
1.ホンダ・カブ
2.ドゥカティ・916
3.ホンダ・CB750
4.Y2K
5.トライアンフ・ボンネビル
6.ジョン・ブリッテン・V1000
7.ピアジオ・ベスパ
8.ブラフシューペリア・SS100
9.モトグッツィ・V8
10.ハーレーダビッドソン・ナックルヘッド
 番組はアメリカで製作されたもので、それぞれのバイクについて、バイク雑誌の編集者や評論家やレースライダーたちがコメントしながら、どんなバイクなのかを紹介していく。日本のバイク雑誌がこの手の企画をやると、編集者やライターの私的な思い入れが前面に出て、極端に狭い範囲にかたよってしまうが、こちらは古今東西のヒストリカルバイクがまんべんなく登場して、名車図鑑といった感じになっている。そんな中で1位はホンダ・カブ。丈夫で長もちで実用的。50年前の発売以来、世界でもっとも売れているバイク。カブと本田宗一郎は欧米のバイク愛好者たちからも広く愛されているのであった。でも、アメリカやヨーロッパで、現在もカブに乗っている人って本当にいるんだろうか。2位はドゥカティのスーパースポーツ。日本製のインラインフォー全盛のスポーツバイクの中で、Vツインで対抗していることと車体の革新性が評価されて第2位。映画の「MI-2」や「マトリックス」で主人公が乗っていたりして、すっかりフェラーリのようなプレステージモデルとして認知されているようだ。値段も300万円近い。3位のCB750は、その後の日本製インラインフォーのブームをつくったエポックメイキングなモデルとしての評価。「CB750の登場によって、それまでのすべてのバイクが古くさく見えてしまいました、でも、その工業製品としての精密さが逆に退屈に思えてしまうんです、論理によってつくられていて、トライアンフやノートンのような情熱を感じないんです」と評論家。ホンダのスポーツバイクは日本でもあちらでも、優等生だけどエモーショナルではないという評価らしい。4位のY2K、パソコンの調子が悪くなりそうな名前でなんじゃこりゃなバイク。アメリカのビルダーが少数生産でバイクにジェットエンジンを載せたというキワモノ。直線だけだったらジェット機よりも速いのであった。ジェット推進で走っているのかと思ったら、Wikiによるとタービンから回転力を取り出して後輪を駆動しているとのことで、曲がることも可能らしい(→MTT・タービン・スーパーバイク)。飛行場で実際にジェット機と競争するデモンストレーションは大まじめにやっていて爆笑。「なぜジェットエンジンをバイクに乗せたのかって?もちろん、それが可能だからですよ」と評論家も笑いながら紹介する。5位はトライアンフ。1950年代を代表する名車。日本にもトライアンフをレストアするための整備学校があったりして、世界中に愛好家が多い。マーロン・ブランドも映画の中で乗っていました。ヒストリカルな意味では、CB750よりも上にくるべきではないかという気がする。6位のジョン・ブリッテン・V1000ははじめて見るバイク。なんだろうと思ったら、ニュージーランド在住のジョン・ブリッテンさんが、1990年代半ばに自宅のガレージで作り上げたというプラーベートモデル。市販バイクの部品を使って再構成したモデルではなく、すべてのパーツを自分で作り上げたという。カーボンパーツを多用した高性能レーサーで、地元のレースではメーカー製バイクを相手に連戦連勝だったとのこと。痛快である。日本のバイク雑誌はなんでこういう偉大なおじさんを紹介しないんだろう。7位はベスパ。ピアジオ社はベスパを設計するにあたって、モーターサイクル的なものは意図的に排除したという。YAZAWA的センスが嫌いな人は世界中にいるのである。8位は「アラビアのロレンス」や「キノの旅」でおなじみのブラフシューペリア。日本のバイク雑誌でこういう企画をしたらまず取りあげられることはなさそうだけど、1920年代に製造された高性能なクラシックバイクとして世界的には愛好家が多い。「とりわけSS100は、その革新的なフロントフォークの構造のために高速走行の安定性を実現しました、いまスピードは145kmですが手放し運転してみますよ、ほら」……ひ、ひえぇー。9位のモトグッツィはおなじみのクランク縦置き90度V2気筒ではなく、1950年代のV8レーサー。「その革新性は時代を50年も先へ行っていましたが、革新的すぎて故障が多く失敗作でした」。とはいえその熱い意気込みをかわれて入賞。10位はハーレーダビッドソン。ショベルヘッドではなく、その前身のナックルヘッド。第二次大戦後まもなく製造がはじまり、その後のハーレーの各モデルの基礎となった。「イージーライダー」の中で髭のオジサンたちがこれをチョッパーに改造して乗っていました。「ルパン三世カリオストロの城」で、峰不二子が乗っていた古いハーレーもこれだろうか。ただし、順位は10位と控え目。バイク史の中でハーレーはあまりに独自の位置にいるので、評価が難しいところ。

 そんなかなり広い視野での名車10傑。BMWの水平2気筒の初期モデルが抜けたことが気になったくらいで、おおむね納得のラインナップ。ケニー・ロバーツもいちバイク好きとしてコメントしていたりして、楽しめました。というわけで、本日、うちのエモーショナルでないホンダも冷却水を交換する。見た目は良いんだけどちょっとアタマが悪くて猪突猛進な様子はハスキー犬を連想させる。乗りにくいのである。

■ A piece of moment 11/10

 今年も裁判員制度の是非を論述問題に出題予定。以前書いたABの主張はどうにも気に入らなかったので、全面的に書き改める。去年の生徒の作文は「エライ人にまかせておけば大丈夫」という無責任なのが多くて読んでいて頭にきたので、今回はBの裁判官批判に重点をおいて書き改める。ずいぶんマシになったと思う。こんな感じ。
【課題】 2009年から日本でも裁判員制度がはじまることになりました。この裁判員制度の導入にあたって、法律の専門家ではない市民が刑事裁判に参加し、被告を裁くことの是非が議論されてきました。この議論は、導入が決定した現在も新聞や雑誌などでしばしば目にします。次のAとBの主張を読み、裁判員制度の是非について、あなたの考えを述べなさい。

A  裁判員制度を導入するべきではない。「国民の声を裁判に反映する」というと聞こえは良いが、世論はしばしば一時的な感情によって流される傾向がある。そうした感情的な「国民の声」が裁判に反映され、判決を左右することになったら、裁判は公正なものではなくなってしまう。とくにマスメディアで大きく報道され、人々の注目を集める大きな事件では、裁判員制度の導入で法廷が被告を吊し上げる場になってしまう危険性がある。このことは、一般の人々のほうが裁判官よりも被告に重罰をのぞむという傾向が出ていることからも明かである。また、陪審員制度を採用しているアメリカでは、どのような人物が陪審員になったかによって判決が左右されてしまうと指摘されており、陪審員の人種構成や政治思想がしばしば問題になっている。裁判官は法律の専門家であるというだけでなく、人を裁くことの重みを自覚し、一時の感情に流されずに理性的に判断できる「プロ」である。裁判を公正なものにしていくためには、そうした資質を持つ裁判官の判断にゆだねるべきであり、むしろ感情的な「国民の声」は意図的に排除する必要がある。たまたまくじ引きで選ばれたというだけの裁判員に、理性的な判断や人を裁くことの厳粛な姿勢は期待できない。こうした裁判員によって裁かれることは、被告にとっても被害者にとっても不幸なことではないだろうか。

B  裁判員制度を導入するべきである。日本の裁判は、裁判官が神様のような立場から、すべてを取り仕切ってきた。しかし、裁判官といってもひとりの人間にすぎない。判断を間違えることもあるし、偏見にとらわれることもある。人を裁くことに慣れてしまい、十分に検証しないまま有罪判決を出してしまう危険性もある。また、裁判官はエリート街道を歩んできた高級公務員であるため、庶民感覚や社会体験に欠け、行政裁判や労働裁判では、行政や企業の側を支持するケースが多い。裁判員制度の導入によって、こうした部分を補い、国民による司法へのチェック機能が期待できる。アメリカの調査では、陪審員のほうが裁判官よりも人を裁くことに慎重になるため、むしろ検察官に対してより高度な立証を求める傾向があることが指摘されている。「裁判員は思いこみや偏見に左右されやすい」という指摘は根拠のないものである。そもそも「裁判官は専門家なんだからすべてまかせておけば大丈夫」という考え方は、無責任であり、民主主義の危機をまねくものである。民主社会の基本原理は、ひとりひとりの能動的な社会参加による「自治」である。この自治の原理は裁判においても例外ではない。先進各国では、すでに裁判員制度や陪審員制度を採用しており、日本の裁判を民主的なものにしていくために、国民参加による裁判員制度の導入は不可欠である。法律とは、社会常識に基づくもので、専門家でなくても常識的に判断すれば、納得できるものである。もちろん、裁判員制度が導入されればすべてうまくいくなどということはない。しかし、裁判員制度自体を否定するのではなく、裁判員になったときに公正な判断ができるよう国民の意識を高めていくことが必要ではないだろうか。刑事裁判だけでなく、行政裁判や労働裁判にも裁判員制度を導入するべきである。
 Wikiの解説はとても参考になった。裁判官批判の文脈による裁判員制度を擁護する主張が多くみられるが、裁判官に含むところのある弁護士が書いた文章なんだろうか。
 → Wikipedia「裁判員制度」

■ A piece of moment 12/2

 放課後、倫理のセンセーと「いまどきの若者」は村上春樹を読むのかという話をする。読むわけがない、いまどき村上春樹なんか読んでるのはオッサンと教師の趣味につき合わされてゼミで読まされている文学部の学生だけ、そんなところに話は落ち着く。1990年代なかば以降の大衆文化は、村上春樹的ナルシシズムに対して「いいかげんにしろっ」とその後ろアタマをハリセンでひっぱだくことでスタートしたというのが私の見解。じゃあ、いま、時代と作品とがシンクロしている作家は誰かというところで話は行き詰まり、ふたりとも黙ってしまう。島田雅彦以後、そういう作家が思い当たらない。もちろん、優れた作家は何人も登場したが、この10年で小説が売れなくなりすぎて、作家という存在が社会的意義を持たなくなっているように見える。小説というジャンル自体が絶滅寸前なほど衰退したため、読み手の好みに合わせたアラカルトメニューが各種そろっているだけで、時代性をうんぬんするほど社会的な意味を持たなくなっているのではないか。個人的に尊敬している別役実にしても、もはや時代に切り込んでいく力を持っているとは思えない。もっともそれはそれで良いのかな。物好きな者のためのささやかな愉しみとして出版を続けてくれれば、それで良いような気がする。

 テレビで野球のオリンピック予選を見る。日本からつめかけてきたラッパ隊がうぜえ。はるばる台湾まできて、プロ野球のレギュラーシーズンと同じことをやっている。「フジはニッポンイチのヤマ」をバカみたいにずっと吹き続けている。相手チームの攻撃になってもやめず、打者がアウトになる度にパッパカパーノパッパッパッとバカにしたようなラッパの音をあびせる様子は、ケンカを売ってるとしか思えない。フィリピンみたいに弱いチームにあれをやる様子は腐敗した精神の陳列そのものである。応援団以外に客がぜんぜん入っていないので、ラッパの音が余計朗々と得意げに響いてそこがまた腹立たしい。なぜこんなものをテレビ中継しているのかと憤慨しチャンネルを変える。いつからスポーツの国際試合は右翼の祭りになったんだ。

 子供の頃からずっと気になっていたことがある。蟻はいつ巣穴を閉じるのか。こういうのはネットや本で調べればすぐにわかりそうだけど、自分の目で観察して確かめたいのである。放課後、近くの駐車場でタバコを吸いながらアリンコたちの様子をながめる。
 ・11月1週〜2週 巣穴はまだ開いている。11月になって急に冷え込むようになり、蟻の活動は鈍い。
 ・11月3週 クロアリの巣穴閉じる。なぜか1匹だけ巣穴のあったあたりを力なくうろうろしている。
       きっと閉め出されたんだろう。
       イソップ童話と違って、蟻も巣から閉め出されたら冬を越せないのである。
       小さいアカアリはまだ活動中。群れをなしてせっせと巣穴に運び込んでいる。
 ・11月4週 アカアリの巣穴も閉じる。もはや虫の姿はほとんど見かけない。
       スズメバチが冬ごもりの場所を探しているのか、ふらふらと飛んでいるのを見かける。
 というわけで、観察の結果、東京では11月なかばに巣穴を閉じて冬ごもりすることが判明。もうすっかり冬である。

■ A piece of moment 12/5

 OECDによる国際学力調査の結果が発表された。日本は前回以上にかんばしくない結果で、またまた「学力低下」を指摘する声が高まりそう。昼間のラジオを聞いていたら、小西克哉がOECDの調査結果を取りあげて、ゆとり教育への批判と授業数増加の必要性を語っていた。あいかわらずこういう的はずれなことを言う人いるのね。まるで居酒屋で「最近の若い連中は」と与太話をしている酔っぱらいみたいだった。これは授業時間を増やして知識を詰め込めばいいというような単純な問題ではない。OECDの学力調査は、「知っていれば解ける」というような知識の量を問うテストではなく、長文の問題を読解し、資料を活用して論理的に考察し、自分の考えを文章で表現する能力が問われるという性質のものだ。OECDは、「数学的活用力」「読解力」「科学的活用力」「理科学習への関心・意欲」といった指標で、今回の問題とアンケートを作成した。また、3回連続で首位になったフィンランドは、日本の学校よりも授業時間数はずっと少なく、授業内容のほとんどが調べ学習とディスカッションにあてられている。もし、「考える力を問う」というOECDの調査方針を支持し、その結果をもとに「学力低下」を問題視するなら、「授業時間を増やしてもっと分厚い教科書を使え」という主張が出てくるのはこっけいである。これは学習内容について、量ではなく質の転換をせまられる性質の問題だ。以下、調査結果についての毎日の記事と毎日・朝日の社説。

国際学力調査:「理科に関心」最下位 数学的活用力も低下
毎日新聞 2007年12月4日
 経済協力開発機構(OECD)は4日、57カ国・地域で約40万人の15歳男女(日本では高1)が参加した国際学力テスト「学習到達度調査」(PISA)の06年実施結果を発表した。学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から10位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下した。また、理科学習に関するアンケートで関心・意欲を示す指標などが最下位になり、理科学習に極めて消極的な高校生の実態が初めて明らかになった。
 ◇57カ国・地域が参加
 調査には、前回より16多い57カ国・地域が参加。日本では無作為抽出された高校1年の約6000人が参加し、学力テストでは「数学的活用力」「読解力」「科学的活用力」の3分野を、アンケートでは、理科学習への関心・意欲などを調べた。
 日本の数学的活用力は前回534点から523点に低下した。特に女子が男子より20点低く課題が残った。また、読解力は前回と同じ498点だったが、順位を一つ下げ15位となった。8位から14位と落ち込んだ前回と同様、OECD平均レベルではあるが、改善しなかった。科学的活用力はOECDが先行して公表しており既に前回548点から531点に低下したことが分かっている。
 関心などのアンケートでは、理科を学ぶ「動機」や「楽しさ」などについて、それぞれ複数の項目を尋ねた。このうち「自分に役立つ」「将来の仕事の可能性を広げてくれる」など、「動機」について尋ねた5項目では、「そうだと思う」など肯定的に答えた割合がOECD平均より14〜25ポイント低かった。これらを統計処理し、平均値からどれだけ離れているかを「指標」にして順位を出したところ、日本は参加国中最下位だった。
 また、科学に関する雑誌や新聞などの利用度を尋ねた「活動」の指標でも最下位。科学を学ぶ「楽しさ」を聞いた指標も2番目に低かった。こうした関心・意欲の低下が順位の低下につながった可能性もあるとみられる。【高山純二】
 ◇渡海文科相「そんなに落ち込まなくてもいい」
 渡海紀三朗文部科学相は「科学的活用力が前回2位から6位になったことは残念。しかし、上位グループなので、そんなに落ち込まなくてもいい」と話した。理科学習への関心・意欲が他国よりも低いことには、「政策の中でより理科教育の充実が必要だと感じている」と述べ、次期学習指導要領改定で理数教育の授業時間を増やしていく必要性を指摘した。
 【ことば】◇OECDの学習到達度調査(PISA)◇ 生活に必要な知識や技能が15歳の子どもたちに身に着いているかを測定する国際的な学力テスト。00年に第1回調査が行われ、以後3年ごとに実施されている。00年は読解力、03年は数学的活用力、06年は科学的活用力を中心に調査が行われ、次回の09年は読解力を中心に調査される。今回はOECD加盟国30カ国、非加盟国27カ国・地域の約40万人が参加。09年は64カ国・地域が参加する予定。

国際学力調査 順位より「低意欲」こそ問題だ
毎日新聞 社説 2007年12月5日 東京朝刊
 経済協力開発機構(OECD)の国際学力テスト「学習到達度調査」結果が出た。多くの人はまず日本の順位に注目しただろう。日本はこのところ順位があまりパッとしない。しかし、もっと深刻な現実がのぞいた。学習意欲のあまりの低さ、つまり「やる気」の薄さだ。
 2000年に始まった調査は3年に1回、15歳(日本は高校1年生)を対象に「読解力」「数学的活用力」「科学的活用力」の3分野をみる。いたずらに知識の多寡を測るのではなく、理解と応用の力をみようとする。今回は科学的活用力に重点を置いた。
 その日本の順位は参加国(OECD加盟30カ国、非加盟27カ国・地域)中6位で、前回の2位からは後退した。だが全体でみれば上位で、見方によっては「誤差の範囲」ともいわれる。この数字に一喜一憂するより、日本の生徒たちの日ごろの理科学習に対する関心や意欲の調査結果を考えたい。
 例えば、「30歳くらいでどんな職に」という問いに、科学関連の職業を挙げた生徒は8%という。え?と言いたくなる結果である。OECD加盟国平均では4人に1人が挙げた。また理科の勉強の目的も「自分に役立つので」と挙げた日本の生徒は4割余で、7割近いOECD平均の中で際立って低い。動機づけや学習活動面で日本は最低レベルに位置している。
 なぜか。理系の職業や社会的地位は、発展途上国で相対的に恵まれ、子供のあこがれが強いという事情もある。先進国では職業が多様に分化し、選択肢が増えるという側面もある。日本では理系の職種が必ずしも厚遇されていないからという指摘もある。でもそれだけでは日本の子供たちの関心・意欲が「ずば抜けて低い」(文部科学省)調査結果は説明できない。
 実は、こうした傾向は理科教育に限らず、既に多くの学校や子供たちの生活の場で指摘されていることだ。経済的な豊かさ、少子化と受験競争の緩和など、さまざまな要因が挙げられる。「生きる力の育成」を強調した「ゆとり教育」も、本来この状況の打開や改善を目指したものだった。
 前回のOECD調査で読解力の順位が下がったことで、ゆとり教育批判がにわかに強まり、教科学習を再び増やす学習指導要領の改定決定や、全国学力テスト実施に結びついた。ゆとり教育の手法や成果、OECD調査結果との因果関係について十分な検証が行われないまま、「ゆとりが学力低下の元凶」論が高まった面がある。
 今回の結果で、実験を工夫するなど理科教育の改善が進むことは期待したい。しかし、「やる気の薄さ」はこの分野に限ったものではなく、社会全体の問題、これからの日本の幅広い人材育成で避けて通れない問題、ととらえる視点と覚悟が必要ではないだろうか。
 単なる授業量増加が即効薬ではない。意欲、動機づけ、興味、関心などは、なかなかつかみどころがなく、これまで本格的に掘り下げて取り組みにくかった問題だが、もう先送りにはできない。

国際学力調査―考える力を育てるには
朝日新聞 社説 2007年12月05日(水曜日)
 二酸化炭素の排出量と地球の平均気温という二つの折れ線グラフを見せ、ここから読み取れることを書かせる。  そんな問題が並んでいるのが、経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)である。学校で習った知識をどれぐらい覚えているかではなく、知識の応用力や論理的に考える力を問うのだ。対象は15歳で、日本では高校1年生が参加している。
 06年の結果によると、OECD加盟国以外も含めた57カ国・地域の中で、日本は科学的な応用力で6位、数学的な応用力で10位、読解力で15位だった。
 最初の00年、前回の03年と比べると、順位はいずれも下がっている。参加国が増えており、単純には比較できないとはいえ、学力低下に歯止めがかかっていないことはまちがいない。
 PISA調査といえば、03年に数学と読解力が大幅に順位を下げ、学力低下の論議を一気に高めた。文部科学省は導入して間もないゆとり教育を見直し、国語や理科などの授業時間を増やして総合的な学習を減らすことを決めた。
 問題は、このカジの切り方でよかったかどうかである。
 今回の結果からは、日本の子どもの特徴について二つのことがいえる。
 まず、フィンランドなどの上位の国と比べると、学力の低い層の割合がかなり大きいことだ。この層が全体を引き下げている。これまでも様々な調査で、勉強のできる子とできない子の二極化が深刻な問題と指摘されていたが、底上げの大切さが改めて示されたわけだ。
 もうひとつは、科学では、公式をそのままあてはめるような設問には強いが、身の回りのことに疑問を持ち、それを論理的に説明するような力が弱い、ということだ。
 併せて実施したアンケートを読むと、その原因は授業のあり方に問題があることがわかる。理科の授業で、身近な疑問に応えるような教え方をしてもらっているかどうか。そう尋ねると、日本は最低レベルだったのだ。
 自分で問題を設定し、解決方法を考えるという力に弱い。このことは科学の分野に限らないだろう。
 学力の底上げと応用力。二つの課題を克服するには、どうすればいいのか。
 一人一人の学習の進み具合をつかみ、授業についてこられなくなったら、そのつど手助けする。落ちこぼれをつくらないためには、きめ細かな後押しが要る。
 応用力を育てるには、公式の当てはめ方などを機械的に教えるのではなく、その論理を子どもたちに自ら考えさせる。そんな授業が求められる。
 いずれも、十分な教員の数とともに、その質を上げることが必要だろう。
 単に授業時間を増やしただけでは、どうしようもないことは文科省も承知のはずだ。応用力が問われているのは、文科省もまたしかりである。

 大臣の「そんなに落ち込まなくてもいい」というコメントはもうなんのこっちゃという感じ。前回のOECDの学力調査の時には、「もっと塾や予備校にばんばん通わないと国際競争に勝てない」などと当時の文科大臣が発言していたけど、こういう人たちが文科相をやってることこそがいちばんの弊害に見える。オリンピックのメダルあらそいじゃないんだからさ。一方、毎日の社説の「順位より「低意欲」こそ問題」という指摘は問題の本質をとらえている。日本の場合、受験競争をたきつけることが若者を机に向かわせる原動力になってきた。(いま授業を受けもっている学校も「進学重点校」だそうで、受験指導に力を入れていることが最大のセールスポイントらしい。)しかし、このやり方では、子どもの数が減って受験競争がゆるくなれば、当然、学ぶモチベーションも低下する。さらに、終身雇用が崩壊し、高度成長期のような「いい大学」へ入って「いい会社」へ入れば定年まで安泰という単純な人生設計も成り立たなくなっている。それ自体は悪いことではない。問題は、そうなったときに、学ぶ原動力が他にないという点である。奇妙に思ったことを自分なりに調べて考えていくことの面白さやそれがわかったときの爽快感を体験していなければ、学校は「将来にそなえるため」のがまん大会の場でしかない。試験のためにおぼえた知識は試験とともに失われていく。おとなにとっては若者の「学力低下」は無責任に批判できるため、やたらと問題視されているが、日本人の場合、むしろ国際調査では、成人の科学的関心や理解度の低さのほうがきわだっている。以下は成人に対して行った科学的関心・理解度について国際調査の結果。

 ・1996年OECDによる調査で日本は14か国中13位
 ・1997年全米科学財団による調査で日本は14か国中13位
 ・2004年文部科学省科学技術政策研究所による調査で日本は14か国中12位
 ・2004年同上調査の中の「新しい科学的発見」に対する関心について日本は14か国中最低
 → 論考空間「教育は科学を正しく教えているか」より

 ようするに成人の部では多くの国際調査でほとんどビリである。若者の「学力低下」について、「これ以上理科離れがすすんだら日本の技術力が低下する」なんて天下国家を嘆いている人には、当人の科学的関心や理解をたずねてみると面白そうである。案外、そういう人ほどゲルマニウムブレスレットやマイナスイオン機器を愛用していたり、血液型占いの熱心な信奉者だったりするかもしれない。高校生の「学力低下」にやたらと神経質な文科省が、こちらの国際調査については何もコメントしないのは、技術者や専門職以外の者が科学に興味がなくても産業の振興に影響はないと考えているからだろうか。それとも大衆はバカな方が都合が良いと考えているからだろうか。

 ラジオの小西克哉はいいことも言っていた。マイナスイオンや「あるある」のような疑似科学を信じてしまう傾向は、今回のOECDの調査で科学的関心や学ぶ楽しさについての指標がやたらと低いのと根を同じくするもので、日本人の論理的思考力の不足や論理性を重視しない社会状況が背景にあると。若者の考える力や科学への関心は学校だけで養われるものではない。マイナスイオン機器を愛用しつつ、そのいっぽうで若者の「学力低下」については「けしからん」なんて天下国家を論じちゃってる勘違いな人、あなたのまわりにいませんか。

2008

■ A piece of moment 2/1

 どうも。ご無沙汰しています。
 あけましておめでとうございますと言うのも時季はずれな2008年最初の更新です。年末年始になると、せっかくの休みだし時間のかかるゲームでもやろうかとなるのがここ数年の年中行事で、紅白ともテレビ演芸とも餅つきとも縁なく、中世ヨーロッパの封建領主を疑似体験してきました。ローマカトリックの意地悪な外交圧力におろおろし、35歳過ぎても子供を産まない妻を毒殺し、政略結婚で隣国を乗っ取ろうとしたら肝心の長男がストレスのために強迫神経症を悪化させてしまって「バビロンの到来はまだかウハハハハハハハハ」と叫ぶ有様、狂気の長男に家督を継がせるわけにはいかないので長男もまた毒殺、それが宮廷で発覚して今度は家来が叛乱、力ずくで制圧して領地を取りあげたらほかの家来の信頼まで失墜して次々と叛乱、侯爵様もう収拾がつきませんとアタマを抱えているところにイタリア・フィレンツェからむかえた若い後妻が家来のなんとか伯爵と密通の末に駆け落ち、後には誰の子かわからない赤ん坊だけが残されたのであったってこりゃモンティパイソンかよ、そんなかなりブラックな封建領主シミュレーター。スウェーデンの会社が作ったPCソフトで、こちらのWebサイトでダウンロード販売。15ドル。アドオンソフトも購入すると30ドル。閑があってブラックな笑いが好みの方はどうぞ。
 → Gamersgate - Crusader Kings

 日本語のレビューとユーザーのプレイレポートはこちら。難易度は高めで、私はプレイレポートにあるような欧州制覇どころか150年以上領地を維持するのも困難でした。もっとも、これはセーブ・アンド・リロードをくり返しながら勤勉に世界征服にはげむようなゲームではなく、次々と訪れるトラブルにアタマを抱えつつそのブラックなユーモアを笑うゲームではないかという気がする。マジメな人と若者にはおすすめしません。
 → PCゲームレビュー Crusader Kings
 → Yoshino's Game Earldom CKDV_Weimar

 ひさしぶりに自分のWebサイトを開いたついでに、どんな人たちがこのサイトにリンクしているのか検索してみる。なぜか、去年書いた「映画館のレディースデー」のページに2ちゃんねるから大量のリンクが張られていて、笑ったらいいのか悲しんだらいいのか複雑な気分。自分がバカだからこういうリンクばかりなのだと落ち込みつつ、いや2ちゃんねるの利用者には役に立ってるみたいだからこれはこれで良いのだたぶんと無理矢理解釈して、「ビバ人間」と思うことにする。現実もまたモンティパイソン的なのであった。

 不思議なのは2ちゃんねるみたいな掲示板で激論を交わそうとする人々がいることだ。その論調のほとんどが正義は我にありとばかりに自説の正当性をまくしたてている。時間と労力の浪費にしか見えない。互いに殴りあうように自説の正当性をまくしたてるスタイルは、ディベートや裁判や大勢の聴衆を前にした大統領候補討論会のように、それを調停し判定する第三者がいない限り成立しない。収拾のつかないまま独善に陥って頑なになるか、自尊心を傷つけられて落ち込むかのどちらかだ。調停する第三者がいない場合、相手の言葉以上に自分の発する言葉に対して懐疑的に再検証していかなければ、そのやりとりから考察を深めるのは不可能だ。Webサイトを持っているため、私のところにもときどき見知らぬ人から「正義は我にあり」という論調のメールが送られてくることがある。彼らは「みずからの正しさを確信できずに議論などできるか」という。バカだなあ。こうしたメールのやりとりもまた、最低限、自らの考えを再検証できる知性の持ち主とでないと何ももたらさない。なので、それすらできないような、私以上に愚かな人間とは、メールで議論などしたくない。「確信」している相手とメールのやりとりをしても、ただ疲れるだけである。もっとも、2ちゃんねるの利用者たちがそうした時間と労力の浪費をゲームとして楽しんでいるのだとしたら話は別で、もしもそうだとしたら、ずいぶんとまたきわどい遊びをするもんだと感心させられるのである。

■ A piece of moment 2/8

 授業で修養団の「みそぎ研修」の様子を見る。NHKが高度成長期のサラリーマンの姿を記録した記録映像。三重県伊勢市にある道場へ送られた新入社員たちは、奇妙なかけ声や笑い声を上げながら体操を行い、パンツ一丁で身を切るような早春の五十鈴川に浸かって祝詞をとなえる。その滑稽な様子に生徒から笑いがおこる。いったい何のためにやっているのか、カルト宗教なのかと質問が出る。これはまともな神経があったらできない、それを体験させることで、若者のアタマの中を空にし、会社のためならどんなことでもできるという意識を植えつけさせるのが目的だと説明する。会社人間を養成するのにきわめて効果的だったため、多くの日本企業はこのみそぎ研修へさかんに社員を送り込んだ。そういう意味で会社という存在自体がカルトだったといえる。近年ではこうした精神主義の研修はすたれてきているが、松下や日立などではいまだにみそぎ研修の体験を社員に勧めているという。パンツ一丁で祝詞をとなえているる若者たちの姿を見ながら、怒りがこみあげてくる。これは人間の独立性と自由意志の否定だ。

 インターネットで「修養団」を検索したところ、「素晴らしい体験でした」「自分の穢れが洗われたような気がします」といった体験談がヒットした。みずからの独立性や自由を放棄したい人は現在も少なくないようだ。


■ A piece of moment 2/24

 気になったニュースをふたつ。イージス艦衝突事故と東芝のHD-DVD撤退。まず、イージス艦の衝突事故の関連記事はこちら。インターネット版の新聞記事は事件・事故を時系列順にまとめて読む際に便利だ。
 → 朝日新聞ニュース特集「イージス艦衝突」

 事故のあらましは、2月19日午前4時、房総半島沖でマグロはえ縄漁船「清徳丸」と海上自衛隊のイージス艦「あたご」が衝突、清徳丸は大破し沈没、清徳丸の乗組員2人が行方不明となったというもの。事故のあらましを伝える第一報とその追加報道は次の通り。
 → 冬の海、漁船真っ二つ 仲間ら無事祈る イージス艦衝突 2008年02月19日13時19分
 → イージス艦と漁船衝突 漁師の父子不明 南房総沖 2008年02月19日20時32分

 次は、事故当時、清徳丸とともにマグロはえ縄をしていた漁船の乗組員の証言。
 → イージス艦、漁船団を避けず直進 僚船GPSで裏付け 2008年02月21日11時51分
 → 「大型船」避け右へ左へ 衝突の経緯次第に判明 2008年02月22日01時55分

 一方の当事者である防衛省側の事故についての見解。
 → イージス艦、衝突12分前に灯火確認 直前まで自動操舵 2008年02月21日03時01分
 → イージス艦「漁船、後ろ通ると判断」 見張り、12分前 2008年02月22日15時17分

 今回の事故を調査している第3管区海上保安本部の見解。
 → イージス艦の回避義務濃厚 漁船左舷を直撃 海保調査 2008年02月22日00時49分

 3者の証言・見解から事故当時の状況を再現すると次のようになる。19日未明、3隻の漁船が房総半島沖ではえ縄漁業をしていたところ、水平線から船舶の灯りが近づいてくる。衝突回避の通例として漁船は舵を右に切るが、一方のイージス艦は右へ回避せずそのまま直進してくる。あわてた漁船は右往左往。後方の2隻の漁船はどうにか回避するが、清徳丸は避けきれずに衝突。一方、イージス艦では、房総半島沖のような漁船の多い海域にもかかわらず、事故直前まで自動操舵で航行しており、当直のブリッジ士官も漁船側が回避して後ろを通過するだろうと事故の危機感をいだかないまま直進。事故直前になってあわてて手動操舵へ切り替えて停止しようとするが、止まりきれずに衝突。このイージス艦の動きは、じゃまだおらおらという調子で乱暴な運転をしている大型ダンプカーを連想させる。事故現場にいた漁船員も同じ印象をいだいたようで、イージス艦について「そこのけそこのけお馬が通る」という感じがしたと記者会見で語っている。自衛隊のような巨大組織に所属し、イージス艦のような大型艦船に乗っているとそうした傲慢な意識をいだくようになるんだろうか。次は、事故直前まで自動操舵で航行していたイージス艦について、元海上自衛隊幹部・カーフェリーの元船長・貨物船の元船長のコメントを紹介した記事。
 → イージス艦 混雑海域、なぜ自動航行? 2008年02月23日00時57分

 記事からは、混雑海域での回避行動について、海上自衛隊の艦船全般がルーズで傲慢なのか、あたごだけが特別なケースなのかはわからない。ただ海上自衛隊の場合、20年前にも衝突事故をおこしており、その際にも海上自衛隊の潜水艦側に1次的責任があると裁判で判断されているだけに、組織に安全航行の意識が欠けていると批判されても仕方ないところだろう。漁船の乗組員たちの積極的な捜索活動や仲間の生命を気遣うコメントとは対照的に、防衛省・海上自衛隊のコメントは、組織論ばかりが前面に出ており、いかにも役所的だ。また、こうした事故の際、日本の役所は職員のマスメディアへの発言を抑制することが慣習になっており、現役の海上自衛隊職員のコメントが一切マスメディアに出てこない。この点でも、個人の顔が見えてこず、非人間的な印象を受ける。自衛隊は、人々の生命と民主国家を守るための組織じゃないの。
 → なだしお遺族「またか」 事故後20年、怒りあらわ 2008年02月21日14時55分
 → 「取材に応じないように」と自衛隊員が発言 父子親族に 2008年02月21日00時34分


 もうひとつは、東芝のHD-DVD撤退のニュース。
 → 東芝のHD―DVD撤退検討、利用者はどうなる? 朝日新聞 2008年02月18日08時57分

 2月17日の日曜日にNHKが報道し、それをメディア各社が後追いする形で報道された。規格分裂によるユーザーの利便性やアフターサービスへの企業姿勢といった問題については、方々で言われているとおりなのでいまさら言うこともないが、気になったのは専門誌の報道姿勢である。なにも報道されないのである。次世代DVDの一方の規格からリーダー格の東芝が撤退するというのは、社会的影響の大きいニュースで、コンピュータや家電分野の専門誌はさぞや詳しく報道するかと思ったら、さにあらず。特集を組んで社会的影響や今後の見通しについて報道するどころか、なにも報道されない。17日に唯一見つけた記事がこれ。短いのでそのまま引用する。
東芝、HD DVD撤退報道について声明 −「事業方針を検討中だが、決定した事実は無い」
AV Watch 2008年2月17日
 東芝は、NHKなどが報じたHD DVDの撤退報道について、声明を発表した。
 報道では、「東芝がHD DVDについて撤退の方向で最終調整に入り、店頭販売は続けるが、生産や新規開発は終了する」などとしていた。東芝では、「現在市場の反応を見ながら今後の事業方針について検討はしているが、報道のような決定をした事実は無い」としている。
 HD DVDについては、1月のWarnerによるBlu-rayへの一本化を受けて、米国の家電量販Best Buyや、小売最大手のWal-MartがHD DVD展開の縮小を発表している。
 なお、東芝のハイビジョンレコーダ「VARDIA」のHD DVD搭載モデルについて、先週後半より同社ホームページ上で「在庫限り」と告知している。これは、「2月分の生産が完了し、流通在庫のみとなっているため。今後の生産については検討中」としている。
 なんじゃこりゃって感じの東芝の言い分たれ流し記事。「NHKはああいってるけどうちは正式決定したわけじゃないしあんな報道は迷惑だ」という東芝の言い分をそのまま記事にしている。メーカーサイドの顔色しかうかがっていない様子が読み取れる。いかがでげすかいやはやごもっともと手もみしながら記事を書いているんだろう。この2日後の19日に東芝はHD-DVDからの正式撤退を発表することになる。大笑いである。専門誌はWebサイトも紙媒体も基本的にメーカー広報のプレス発表を垂れ流しているだけの「お知らせメディア」にすぎないが、これほど取材力がないとは思っていなかった。こうした専門誌がメーカーからの広告で成り立っているという事情から、批判記事が書きにくいのはわかるが、それにしてもこれはひどすぎるのではないか。広告収入による電子メディアの無料利用というWEB2.0の手法は、こうしたメディアの状況をより押しすすめていくことになる。お知らせメディアの19日の発表時の記事は以下の通り。どちらも広報部のプレス発表をそのまま垂れ流しているだけなので、ほとんど同じ内容である。
 → PC Watch「東芝、HD DVD事業の終息を発表」
 → マイコミジャーナル「速報 東芝、HD DVD事業からの撤退を正式発表 - 次世代DVD戦争に終止符」

■ A piece of moment 2/26

 またまた定期試験の季節である。週フタコマしかない授業なのに、中間・期末・中間・期末……と試験ばかり次々にせまってくるので、なんだか試験のために授業をしているような気分にさせられるのである。昼の部の授業では、小泉政権による構造改革路線の中ですすめられてきた「小さな政府」についての是非が論述問題の課題。資料として、AとBの会話文を半年がかりでぐちゃぐちゃ書いてきたが、書けば書くほど論点が散漫になってますますぐちゃぐちゃになってしまったので、会話文はやめて、ばっさりカットし、ひとつの文章にまとめた。こんな感じ。
【小さな政府】 近年、日本では貧富の差が拡大していると指摘されています。その背景には、バブル崩壊後の長い不況の中で、各企業は正社員の数を減らし、派遣社員・契約社員・アルバイトを増やしたため、給与格差が広がっていることがあげられます。また、政府も、企業活動の活性化と財政赤字解消のために、雇用形態の多様化の促進、法人税と高額所得者の減税、社会保障費を抑制といった政策を行っています。こうした政策は当然、貧富の差をさらに増大させますが、そのことによって社会全体の競争を活性化させ、同時に国内に安価な労働力を確保することで日本企業の国際競争力をつけるというねらいがあります。
 この政策は、「新自由主義」や「小さな政府」と呼ばれるもので、1980年代にアメリカとイギリスではじまりました。日本では、2001年からの小泉政権時代に本格化し、しばしば「構造改革路線」と呼ばれています。この政策では、競争原理による経済活動の活性化とともに、政府の役割を小さくすることで、税金の無駄遣いを減らし、財政赤字を減す効果が期待できます。しかしその一方で、政府による社会保障を最小限にとどめることになるため、失業したり病気になったときは「自己責任」ということになります。そのため、社会的弱者の生活を圧迫するという問題が生じます。また、企業の競争原理では、利益が優先されるため、働く人の権利・待遇・安全性が軽視されるという問題もあります。
 アメリカ・イギリス・日本が小さな政府政策をすすめてきたのに対して、北欧をはじめとしたヨーロッパ諸国では、社会保障の充実に力を入れてきました。このような社会のあり方を「福祉国家」や「大きな政府」といいます。ヨーロッパの多くの国では、公立学校の授業料や医療費は全額無料、失業保障や育児休業制度・高齢者福祉も充実しています。しかしそのぶん、人々の税負担は重くなり、企業の国際競争力も低下するという問題があります。
 小さな政府も大きな政府もそれぞれ一長一短があります。どのような社会を良いと考えるかは、ひとりひとりが、将来、どういう社会で暮らしたいと思っているかによって違ってきます。日本は今後、どういう社会をめざしていくべきなのか、次のAとBを参考にあなたの考えを述べなさい。

A  福祉国家というのは、政府が人々の生活を最優先に考え、その政府を人々が信頼することによって、はじめて成り立つしくみである。しかし、日本では、社会保険庁や国土交通省の不祥事など、ずさんな仕事や税金のむだづかいが多く、国民の政府や政治に対する不信感が根強い。このような状況で、たくさんの税金を政府にあずけ、大きな政府をつくろうという人がはたしているのだろうか。つまり、現在の日本では、好むと好まざると小さな政府にして、政府の役割を最小限にとどめてやっていくしかない状況にある。
 また、中国やインドの急激な経済発展など、経済の国際競争ははげしくなっている。こうした国際情勢の中で、日本企業が生き残っていくためには、正社員の数を減らし、派遣労働者・パート・アルバイトの賃金を低く抑えるのもやむを得ない。もし、最低賃金を引き上げるとともに、派遣労働者・パート・アルバイトの正社員化をすすめて、労働者を手厚く保護する政策をとった場合、企業の負担が重くなり、企業は従業員を雇うことに慎重になる。また大手企業は安価な労働力をアジア諸国に求めて、ますます工場や事業所を海外へ移転させてしまうだろう。産業の空洞化によって失業者が増えるよりは、不安定な低賃金労働であっても仕事があるほうが好ましいのではないだろうか。2007年のフランス大統領選挙でも、減税と企業の規制緩和をとなえるサルコジ候補が支持され、新大統領になった。その背景には、労働者を手厚く保護する政策を続けてきたことによるフランスの失業率の高さがある。経済のグローバル化が進んでビジネスの国際競争が激しくなる中、小さな政府への動きは国際的な流れといえる。
 日本では、所得税の最高税率はこの25年間で75%から40%へ引き下げられ、高額所得者の減税がすすめられた。しかし、資本主義経済である以上、努力して成功した人がむくわれる社会であるべきで、こうした税のあり方はけっして不公平なものではない。格差があるからこそ、努力して成功しようという意欲がわいてくるのである。社会保障がすみずみまで行きとどき、誰もがほどほどの生活を保障された社会では、人々の労働意欲や日本の経済力は低下してしまうだろう。また、高額所得者に対する減税は、競争の活性化と同時に、投資を活発にして日本経済を活性化させる効果も期待できる。つまり、富裕層の資産を税として吸い上げるのではなく、投資や消費によって市場に循環させることで、日本の経済活動を活性化させようとするねらいである。経済活動が活発になれば、当然、企業は業務を拡大し従業員を増やすので、結果的に雇用状況の改善にもつながる。したがって、高額所得者の減税は、たんにひとにぎりの富裕層だけを優遇する政策ではなく、社会全体の利益になるものである。

B  国内に安価な労働力をつくり、その低賃金労働で日本経済の国際競争力をつけようとするやり方は、「百姓は生かさず殺さず」という発想の残酷さとなんら変わらない。これは「強者の論理」でしかなく、認められるものではない。小泉政権の「構造改革」以来、低所得者の生活は大きく圧迫されてきた。最低賃金を時給610円〜719円と先進国中最低のまま据えおき、所得税の課税最低限度額を引き下げることで低所得者の税負担を重くし、医療費の本人負担の引き上げや高齢者介護予算を抑制するなど社会保障費を切りつめるといった政策が行われてきた。それでも国の財政が赤字だというので、今度は消費税を10%に値上げしようという議論が出てきている。こうしたやり方は、国の財政赤字のしわ寄せをすべて低所得層に押しつける政策である。
 その一方で、高額所得者に対しては大きく減税されてきた。長年、富裕層は「日本の所得税は最高税率が高すぎる」と批判してきたが、現在の最高税率40%は先進国の中で低いほうである。また、株式や金融商品の売買で利益を上げた場合にかかる税金は、日本独特の「分離課税」というしくみになっており、給与所得にかかる税金とくらべて税率がずっと低く、一律に10%と設定されている。サラリーマンがこづかいを株に投資して30万円の利益を上げた場合も、ホリエモンや村上ファンドの元代表のように巨額の株式投資をして何十億円もの利益を上げた場合も、税率は一律に10%である。そのため、日本の社会では、株式や金融商品をたくさん所有している資産家が圧倒的に有利なしくみになっている。
 すでに現在の日本社会は、働いているのに生活保護水準以下の暮らしをしている「ワーキングプア」の人々の割合がアメリカに次いで多い状況である。このまま現在の政策が続けられた場合、ひとにぎりの富裕層とそれ以外の貧困層とに社会階層が二極化していくことになる。そうした社会では、ひとにぎりの裕福な家庭の子どもだけが私立の進学校や中高一貫校でエリート教育を受け、「勝ち組」として親の社会的地位を受け継ぐことで、社会階層の固定化がもたらされる。現在、先進国の中で、公立高校の学費が無料でないのは日本だけである。たしかにイチローや松井秀喜のように、努力して自力で成功した人に対して文句を言う人はいないだろう。しかし日本では、政治家にしても大手企業の経営者にしても、その多くが親から社会的地位を引き継いだ二世三世という状況である。最近の3人の首相、小泉元首相・安倍前首相・福田首相にしても、いずれも大物政治家の家庭に生まれた二世議員である。現在の日本の政策は、こうした社会階層の固定化をいっそうすすめることになる。どのような家に生まれたかで子どもの教育や将来が決まってしまうような社会は、人間の可能性をうばう社会である。それは経済発展に有効かどうかという問題ではなく、人間の尊厳という点で、そのような社会は受け入れられない。
 アメリカは、人口で5%の富裕層がアメリカ経済の60%の富を独占しており、その一方で6人にひとりが健康保険にすら入れない貧困状況にあるという社会である。小さな政府は、このアメリカ社会を手本にした政策だが、日本人の多くが本当にそういう社会を望んでいるとは思えない。それはけっして暮らしやすい社会ではないはずである。
 Aは何度書き直してみてもしらじらしい感じがする。「高額所得者の減税は、たんにひとにぎりの富裕層だけを優遇する政策ではなく、社会全体の利益になるものである」なんて、アメリカ共和党の議員が、所得税の固定税率化についていかに公平なしくみかを真顔でとなえている様子を思い出した。よく言うよって感じ。Bの構造改革批判については、森永卓郎の「日本経済50の疑問」講談社現代新書を参考にした。いずれ演習講座のページにまとめる予定です。

■ A piece of moment 7/20

 疑問の泡にふたつ追加。
 → 85.広告入りバイク
 → 86.ニューヨーク・ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました

 この身辺雑記はとくに変化のない生活のためしばらく休んでます。暑いしー。

■ A piece of moment 7/21

 ベネトンの広告について文章を手直しする。こんな感じ。
むしろ、従来の広告手法のほうが問題である。そこでは、美男美女のモデルが登場し、理想化されたライフスタイルを演じる。彼らは貧困や差別や紛争といった現実の問題とは無縁の世界の住人である。失業の不安を抱くこともないし、警官や店員から差別的な扱いをうけて憤ることもない。もちろん砲撃や銃撃におびえて夜を過ごすこともない。白いシャツはどこまでも白く、キッチンはぴかぴかに磨かれ、モデルの指先にはわずかな手荒れもすり傷もなく、血液や尿までも青く透きとおっている。清潔で快適な暮らしの中で、美男美女のモデルたちは新製品の洗剤を持ってにっこり笑い、新型の高級車のかたわらでポーズをとる。こうした広告表現は、人々の意識を現実の問題からそらし、かなわない欲望をかきたてるだけである。そこにあるのうわべだけの美しさであり、表面的な美しさの裏側にあるのは、人間を愚かな消費者としか見なしていないシニカルで冷ややかなまなざしである。私たちは高級ブランドのジーンズをはいてもナオミ・キャンベルになれるわけではないし、BMWのスポーツカーに乗ったからといってセクシーで知的な人間になれるわけでもない。巷にはそうした広告が氾濫しているため、現代人はそれに慣らされ、広告が描く非現実的な世界を受け入れてしまっている。
 → ベネトンの広告
 文章を書きながらわたせせいぞうのマンガを思い浮かべる。あのマンガを見る度に背中のあたりがむずむず痒くなったけど、そのむず痒さを言葉にまとめるとこうなりますという文章。わたせせいぞうは広告代理店勤務だとずっと思っていたが、Wikiによると損保勤務だったとのこと。

 広告の比重がWebに移るにともなって、80年代・90年代にあふれたわたせせいぞう的広告は減ってきたが、一方で、Web広告のなりふりかまわない露骨さに唖然とさせらることが多くなった。私はDHCの「わきつるつる」広告を見る度にナタで頭をぶん殴られた気分になる。DHCはそこらじゅうのサイトに広告をばらまいているようで、WebメールにログインするときもYahooのオークションを覗くときも「わきつるつる」のおねえさんに出くわす。わきをさらけ出しながらどこまでも追いかけてくるストーカーのようだ。

■ A piece of moment 7/30

 「バレエダンサー」「西洋人は狩猟民族?」を加筆。
 → 72.バレエダンサー
 → 73.西洋人は狩猟民族?

2008

■ A piece of moment 7/20

 疑問の泡にふたつ追加。
 → 85.広告入りバイク
 → 86.ニューヨーク・ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました

 この身辺雑記はとくに変化のない生活のためしばらく休んでます。暑いしー。

■ A piece of moment 7/21

 ベネトンの広告について文章を手直しする。変更箇所は次の通り。
 → ベネトンの広告
むしろ、従来の広告手法のほうが問題である。そこでは、美男美女のモデルが登場し、理想化されたライフスタイルを演じる。彼らは貧困や差別や紛争といった現実の問題とは無縁の世界の住人である。失業の不安を抱くこともないし、警官や店員から差別的な扱いをうけて憤ることもない。もちろん砲撃や銃撃におびえて夜を過ごすこともない。白いシャツはどこまでも白く、キッチンはぴかぴかに磨かれ、モデルの指先にはわずかな手荒れもすり傷もなく、血液や尿までも青く透きとおっている。清潔で快適な暮らしの中で、美男美女のモデルたちは新製品の洗剤を持ってにっこり笑い、新型の高級車のかたわらでポーズをとる。こうした広告表現は、人々の意識を現実の問題からそらし、かなわない欲望をかきたてるだけである。そこにあるのうわべだけの美しさであり、表面的な美しさの裏側にあるのは、人間を愚かな消費者としか見なしていないシニカルで冷ややかなまなざしである。私たちは高級ブランドのジーンズをはいてもナオミ・キャンベルになれるわけではないし、BMWのスポーツカーに乗ったからといってセクシーで知的な人間になれるわけでもない。巷にはそうした広告が氾濫しているため、現代人はそれに慣らされ、広告が描く非現実的な世界を受け入れてしまっている。
 文章を書きながらわたせせいぞうのマンガを思い浮かべる。あのマンガを見る度に背中のあたりがむずむず痒くなったけど、そのむず痒さを言葉にまとめるとこうなりますという文章。わたせせいぞうは広告代理店勤務だとずっと思っていたが、Wikiによると損保勤務だったとのこと。

 広告の比重がWebに移るにともなって、80年代・90年代にあふれたわたせせいぞう的広告は減ってきたが、一方で、Web広告のなりふりかまわない露骨さに唖然とさせらることが多くなった。私はDHCの「わきつるつる」広告を見る度にナタで頭をぶん殴られた気分になる。DHCはそこらじゅうのサイトに広告をばらまいているようで、WebメールにログインするときもYahooのオークションを覗くときも「わきつるつる」のおねえさんに出くわす。わきをさらけ出しながらどこまでも追いかけてくるストーカーのようだ。

■ A piece of moment 7/30

 「バレエダンサー」「西洋人は狩猟民族?」を加筆。
 → 72.バレエダンサー
 → 73.西洋人は狩猟民族?

■ A piece of moment 8/3

 「東京キッド」「ニューヨーク・ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました」を加筆修正。
 → 84.東京キッド
 → 86.ニューヨーク・ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました

 「飛び入学と飛び級」の課題文を修正。ようやく「てにおは」がまともになった。
 → 飛び入学と飛び級

 「永住外国人の地方参政権」の会話文であいまいな箇所を修正。修正箇所は以下の通り。
 → 永住外国人の地方参政権
B 「国民主権(主権在民)というのは、第一の政治権力が君主ではなく、人々(people)にあるという原則のことで、国籍の有無は関係ないよ。どんな国の人権宣言・憲法でも、主権があるとされるのはpeopleであってnationではない。日本国憲法制定にあたって、当時の日本政府はpeopleの概念に民族主義的な「国民」という造語を強引にあてはめて、在日外国人の人権を制限しようとしてきたけど、基本的人権の保障が国籍保有者に限定されるなんて考え方、国際的にはまったく通用しないよ。憲法11条に「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない」とあるけど、もし「国民」=「日本国籍保有者」で、外国人には基本的人権が保障されないのなら、外国人を殺しても罪に問われないことになってしまうわけで、こんなバカげたことはない。それに憲法14条の「すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない」という規定、これも「国民」を国籍保有者に限定してしまうと外国人は差別してもかまわないということになってしまう。「基本的人権は人類普遍の原理である」というのが日本国憲法の根幹なわけだから、国籍の有無で基本的人権が制限されるという考え方は、明らかに憲法の理念から外れるものだよ。憲法15条にしても、公務員を決めるのは君主でなく人々(people)だというイギリス名誉革命以来の近代政治の理念をなぞっているだけで、国籍保有の有無を持ち出すのは見当違いだよ。だから1995年の最高裁判決でも、参政権を求める在日の人たちの訴えを棄却しながらも、その一方で「法律で永住外国人に、自治体の長、議員の選挙権を付与することは、憲法上、禁止されていない」と付け加えている。要するにこの最高裁判決は、外国人の参政権は具体的に憲法で保障されてるわけじゃないけど、同時に憲法で禁止されているわけでもないから、将来的には可能だよと指摘しているものなんだ。つまり、憲法15条が指している「国民固有の権利」というのは外国人を排除するものではないと言っている。だから、この裁判の原告だった在日韓国の人たちは、1995年の最高裁判決が自分のたちの主張を後押ししてくれるものだとして歓迎しているよ」

■ A piece of moment 8/4

 恥ずかしい言葉格付け表を作成。
 → 87.セレブ侍

 民族についての文章で、子供のころに見た「ハイジ」の白パンのエピソードを書いて以来、「ハイジ」がどんな話だったのか気になっていて、YouTubeで「ハイジ」のオープンニングとエンディングを見る。オープニングの大きなブランコにハイジが乗っている場面が印象的だ。遙か向こうからアルプスの谷間の村を滑空するようにハイジがやってくる。次のカットでは、頂点にさしかかったところでハイジが足を振り上げる。この動きが絶妙だ。ブランコを思い切り漕いでいて、頂点にさしかかったときの体が投げ出されるような宙に浮くような感覚を味わったことがないと表現できない。あの巨大なブランコのシーンは物理的にはあり得ないが、感覚的にはきわめて正直に描かれている。ブランコを漕いでいるときのスピード感や浮遊感や開放感を表現するには、ブランコは大きくなければならないし、カメラは谷間をなめるようにパンしなければならないし、ハイジは頂点で足を振り上げねばならない。よくみるとハイジは谷間の村にさしかかったあたりで少し身体を反らし、向こう側へ行ったときは足を曲げて反動をつけていることがわかる。ブランコに揺られているのではなく漕いでいるのが伝わってくる。わずか数秒のカットの間にブランコを漕いでいるときの感覚がほぼ完璧に表現されていて、その動きの表現は官能的ですらある。ずいぶん有名な人たちが関わった作品だけど、あのブランコのシーンは誰が描いたんだろうか。
 → YouTube「アルプスの少女ハイジ・オープニング」
 → YouTube「アルプスの少女ハイジ・エンディング」

 オープニングもエンディングもほぼ三十年ぶりに見た。子供の頃のすり込みは後々まで消えないもので、エンディングのヤギがちょこちょこ走ってくる絵と歌に、さて風呂に入って月曜の学校の準備をしなきゃと小学生のときの気分と生活習慣を条件反射的に思い出した。

■ A piece of moment 8/9

 東京小平市にある回田町で暮らすようになってもうずいぶんたつ。ボロアパート自体の住み心地は悪くない。でも、15坪・20坪の敷地いっぱいに建てられた建て売り住宅がひしめくように軒を並べるこの住宅街は、その「我が家」に執着する住人たちの意識を風景が具現化しているかのように見えて、息のつまる思いがする。巨大な台風か地震がこの窮屈で息苦しい町並みを跡形なくなぎ倒してくれないものかとときどき思うことがある。

 例えば、猫を飼っている家がある。するとその両隣の家はたいてい門扉のところに水の入ったペットボトルをずらっと並べている。ペットボトルが猫よけにならないことくらいいまや誰でも知っているはずだ。それを並べている住人もそんなことは承知の上でやっているんだろう。20年だか30年だかのローンを組んでようやく手に入れた15坪の建て売り住宅には、猫であろうと一歩も踏み入れさせないという意思表示としてペットボトルは並べられているように見える。そうして彼らは次にこう言い出す。猫は外に出すなと。だからこの町の猫たちはどいつも人間を見るとそそくさと逃げ出す。アタマを撫でさせてくれる猫はこの町にはいない。

 例えば、ゴミの集積場はすべてアパートのわきに指定されている。回田町には十数軒のアパートがある。うちのように半ば朽ちかけた古いものから、妙にプラスチックな外観の1K+ユニットバスのものまで様々だが、ことごとくゴミ出しの場所に割り当てられている。回田町のような住宅地では、アパートの入居者をはじめとした借家住まいの住人は自治会への参加を求められることはない。持ち家の住人たちで構成される自治会では、それが自分たちの当然の権利であるかのように、ゴミをアパートに押しつける。その行為に後ろめたさを感じている様子はまったくない。

 例えば、建て売り住宅の住人たちは家を花で飾るのに熱心だ。そうすることで自分の資産がすこしでも値上がりするのを期待しているのかもしれない。鉢植えの草花はつねに道路に面した側に飾られる。そこに生じる小さな生態系に目を向ける者は誰もいない。小さなバッタや小さなカマキリや小さなヤモリたちがささやかな生態系をつくっていても、それは彼らにとって汚らしい虫であり、目障りな「害虫」にすぎない。ときどきおせっかいなおばさんが、うちのアパートの雑草まで引き抜いていく。そこに露草が小さな青い花をつけていても、キアゲハの終令幼虫が蛹になろうとして体をよじっていても、おっせっかいおばさんの目には町の美観をそこねるとしか映らないらしい。この町で見かける色とりどりの鉢植えは、プラスチックの造花をならべているのと何ら変わらない。

 そんな町だ。近所を縄張りにしていた真っ黒な野良猫は、夏前から一度も姿を見かけていない。どこかで野垂れ死んだのか、それともこの窮屈な町から逃げ出したのかはわからない。猫好きのおばあさんが、「もうずっと来ないのよ」とさみしそうに話していた。

■ A piece of moment 8/17

 ぼんやりしているとときどきアタマの中に「You are my destiny」のメロディが流れてくる。つづけて、楳図かずおが調子っぱずれなカン高い声で「You are my destiny」を歌っている姿が思い浮かぶ。楳図かずおは異様に高いテンションで顔を紅潮させながら熱唱し、おそらく自分でつくりだしたのであろう不思議な振り付けまで披露する。十数年前にその悪夢をテレビの深夜番組で見て以来、困ったことにアタマから離れない。今回、恐いもの見たさで検索したところ、YouTubeに熱唱する姿がアップされていた。おまけに楳図センセー、あきらかに歌い慣れた調子で歌も上手くなっている。すっかり漫画も描かなくなって、日々カラオケで熱唱しているんだろう。恐ろしい。私は「まことちゃん」よりも「おろち」よりも「漂流教室」よりも楳図かずおが恐い。
 → YouTube「楳図かずお - 君はわが運命 (You are my destiny)」

■ A piece of moment 8/18

 CS放送で「マイノリティ・レポート」を見る。いいかげんな映画。
 P・K・ディックの原作は、予言された未来を変えようとする行為のパラドックスについて思考実験を試みているような作品なので、短い話でも印象に残る。ところが、2時間半近い映画になって、主人公のバックストーリーやら未来世界のテクノロジーのリアルな映像描写やらで肉付けされてしまうと、「予言者の託宣によって社会が維持されている未来」という設定が物語世界の核であるにもかかわらず、やけに収まりの悪いものになっている。トム・クルーズ演じる主人公は、警察の「犯罪予防局」のリーダーとして、3人の予言者たちの託宣にしたがって将来おこるであろう殺人事件を未然に防ぐ業務に就いている。主人公らの日々の勤勉な仕事ぶりによって、その世界では凶悪犯罪の発生率0%を実現している。あ、馬鹿らしいって読むのがもう嫌になってきたでしょ、そう、作り手のほうもはじめからそういう世界を馬鹿らしいと思って作っているのが伝わってくる。だから、それを可能にするための人々の意識や社会のあり方はまったく描写されない。聖なる予言者が厳然と存在し、未来が正確に予言され、その予言によって社会が維持されるという世界では、当然、そこに暮らす人々の考え方や社会のあり方もまた現代とはまったく異なるはずである。その世界の住人たちは、ギリシア悲劇や「LOST」の登場人物たちのように運命論者であり神秘主義者のはずである。そうでなければ、未来が正確に予言される不条理な世界とまだ犯してもいない罪で投獄される理不尽な制度は成立しない。ところが、主人公をはじめとして登場人物たちの言動は現代の我々となんら変わらない。まるっきり現代のアメリカ人と同じようにふるまい、話し、考える。映画の中で現代と異なるのはハイテクグッズの数々と強権的な官僚機構だけである。それは「ロボコップ」をはじめとしたB級SF映画にしばしば登場する想像力の欠如した類型的な未来像で、派手な特撮アクションを繰り広げる舞台にはちょうどいいが、見る者になにかを考えさせる入れ物にはならない。そのためストーリーは大幅に改められている。原作が予言された未来をめぐる思考実験なのに対し、映画では上司の陰謀によってはめられた男の散漫なサスペンス劇になっている。主人公は手の込んだ陰謀によって追われる立場になり、逆境を乗り越えて陰謀の首謀者をつきとめ、最後には首謀者を出し抜いてやっつける。この勧善懲悪のドラマでは、舞台が未来世界である必然性はない。高層ビルの谷間を行き交うハイテク電気自動車も網膜スキャンによるコンピューター管理もそれらしい小道具というだけで必要性はまったくない。物語の舞台が現代の警察署であってもいっこうにかまわないし、むしろそのほうがハイテクガジェットに煩わされず、サスペンスドラマに集中することができる。そのため、原作では物語世界の核であった預言と預言者の存在も、映画では妙に収まりの悪い舞台装置にすぎない。予言者は不可知の聖なる存在ではなく、ハイテク電気自動車と同様にテクノロジーの産物として描かれる。したがって映画のラストでは、この予言による犯罪予防システムも「非人間的」であるとして否定される。そりゃそうだ。まだなにも起こっていない犯罪について、予言だけを根拠に証拠もないまま逮捕されて死ぬまで刑務所暮らしなんて現代人の我々にとっては悪夢である。真っ平御免である。現代人と同様に合理主義者である彼らがこの予言者の託宣を否定するのは、当たり前すぎるほど当たり前の結末であって、むしろ、それまで受け入れきたことのほうがよほど奇妙だ。一方、原作者のディックはドラッグ中毒の末に晩年は神懸かりになった人なので、本気で聖なる者の存在や予言された未来を信じている。彼は予言で維持される社会のあり方についても否定しない。だから恐い。読みながら目の前の世界がいままでと違って見えてくるような不安をおぼえるし、読み終わったあとも合理的な解釈が拒否され、気味の悪い後味が残る。映画にはそれがまったくない。上司の陰謀が謎解きされていくだけで、映画の入口と出口がまったく同じ場所にあるため、見終わってもあとに残るものは何もないし、目の前の世界もなんら変わらない。これはストーリーの大幅な変更というような次元の問題ではない。映画の作り手がディックの原作の核になる部分をはなから否定していて、見る者へ信じさせるつもりもないという基本的な姿勢の問題だ。監督はスピルバーグ。この映画で彼はいったい何をやりたかったんだろう。ディックの小説なんか下敷きにしないで、得意の娯楽映画に徹していっそのこと「ロボコップ」の続編でも作っていればいいのに。

■ A piece of moment 8/26

 「自衛隊と憲法9条」を加筆・修正。
 → 自衛隊と憲法9条

■ A piece of moment 9/1

 祝、スール・スーリールの「ドミニク」、9年がかりで完全解決。フランス人の女の子ふたり組みがアタマをぶんぶん振りながら口パクで歌うYouTubeの映像が気に入ってます。オリジナルのフランス語歌詞を訳したり、アルビジョワ十字軍の記述について間違っていた箇所をなおしたりとそれまでのぶんの文章も加筆修正したので、ひまな人は2番のはじめからどうぞ。
 → 2.ドミニク

■ A piece of moment 9/3

 福田首相、突然の辞任。もうおどろかない。首相のハラキリも2度目になると喜劇である。

 堀田善衛が書いたスペインについてのエッセイを何冊かまとめて読む。赤い荒れ地がひろがる土地と中世の頃と変わらない農家の暮らし、イスラムの800年近い支配がもたらした屈折と自尊心、神との内的対話より有形の奇跡と御利益を求める中世的な信仰のあり方、スペイン内戦とつい30年前まで続いていたフランコの独裁、そんな話が土地土地でのエピソードに交えて紹介される。エッセイはおもに1970年代末から1980年代に書かれているので、とくにフランコの統治がもたらした社会の分断についての話が多い。フランコの右翼政権は東欧の社会主義革命で追い出された貴族たちを片っ端から受け入れたので、マドリードが没落貴族たちのたまり場になっているなんていう話もでてくる。読みながらヨーロッパにおけるスペインの特殊性を考える。何年か前のスペイン映画で、ある日突然、イベリア半島がヨーロッパから切り離されて大西洋へどんぶらこと流れだしていくっていうへんな映画があったけど、あれが暗示しているのもそういうヨーロッパにおけるスペインの居心地の悪さなんだろう。ヨーロッパには片足だけを、もう片足は南米に置いているという意識なのかもしれない。あのへんな映画、タイトルはなんていったっけ。知ってる人はメールください。

■ A piece of moment 9/4

 「右翼」「左翼」という言葉は、政治思想を大ざっぱに把握するのに便利なのでよく使われるけど、あいまいでわかりにくい。あいまいすぎてこの言葉を使うとかえって混乱する場面も多い。教科書的トリビアを書くと、フランス革命時に、王政の存続をとなえる勢力が議会の右側に座り、王政の廃止とルイ16世の処刑をとなえる勢力が左側に座ったことから、保守派を右翼、改革派を左翼と呼ぶようになったことに由来する。ここまでは具体的でわかりやすいんだけど、19世紀、20世紀になると、ナショナリズムが高まったり、貧富の差が広がったり、ロシア革命があったり、ファシズムやナチズムが力をつけたりして、強硬な民族主義者を右翼、社会主義者を左翼と呼ぶようになる。このへんからややこしくなる。だって、社会主義は経済的平等をめざすもので、民族主義は民族幻想による国家と個人との強固な一体性をめざすものだから、そもそも対立軸が異なっている。熱烈な民族主義者でありつつ、同時に資本の国有化と社会保障の充実をとなえてもべつに矛盾していない。五・一五事件の青年将校なんかはこの立場に近い。さらにスターリンのソ連もヒトラーのナチスもフランコのスペインも全体主義的な社会で、どちらも秘密警察と密告によって個人が監視される警察国家だったという点でなんら変わらない。内戦・革命・クーデターの末にできた政府は、対立勢力を制圧しつづけないと国が維持できないので、マルクス主義を唱えようとファシズムを唱えようと、なんだけっきょくはビッグブラザーが個人の自由を踏みにじる警察国家じゃないかということになる。こうなるといくら大ざっぱな把握とはいえ、右や左という概念は意味がなくなってくる。もう少しすっきりと政治思想を整理するには、国家権力と個人の自由、経済的平等と自由競争、このふたつの軸で考える必要があるんじゃないかと思う。それでも大ざっぱだけど、こんな感じ。


 こうして縦軸に政府と個人との関係を入れることで、「右翼」「左翼」とくくられていても、それぞれの中にはまったく異なる考え方が含まれていることが見えてくる。一般的にはどちらも右翼と見なされ、社会主義を敵視しているという点では共通していても、ナショナリズムによる団結と国家権力の強化を唱えるファシストと、「国は放っておいてくれ」という西部劇の登場人物のようなリバタリアンや年の半分を地中海の豪華クルーザーですごす大金持ちのボヘミアンとでは、指向する方向性はまったく異なる。同様に日本やアメリカでは左翼としてまとめてくくられるマルクス主義者と社民主義者も、縦軸の個人の自由という尺度ではまったく違う方向を向いている。フランスでいうと、ルペンがわかりやすいファシスト、ロワイヤルが社民主義者、サルコジがややリバタリアン的なレッセフェールの人ということになる。日本で小泉の人気が高かったのも勇ましいフレーズを唱える彼のリバタリアン的なイメージによるものが大きい。もっともイメージだけで、彼の5年間で日本の国家主義的な傾向はむしろ強化され、変わったのは貧富の差が広がったことと学校がトップダウンの組織になったことだけなのはまあご存知の通り。ただ、軸をふたつにしてもやはり大ざっぱなのは変わらない。例えば私の父親の場合、熱烈な軍国主義者で口癖のように「日本は悪くなかった」「軟弱な若い連中は軍隊で鍛え直すべきだ」と言う一方で、排他的な民族主義と天皇制が大嫌いで、在日の人や外国人を見下すような発言を聞くと激怒し、さらに社会党支持で労働組合の重要性をとなえるという調子だった。もうこうなると分類不能で、父がどういう政治的な軸で社会をとらえていたのかもわからない。政治的な軸などそもそも持っておらず、たんに自分が身を置いた場に適応してきただけなのかもしれない。もっとも父のようなややこしいスタンスの人も少なからずいるはずで、フェミニズムと家父長制は両立しないが、フェミニストでファシストでSMプレイが大好きで日本の核武装を主張しているなんていう人も探せばきっとどこかにいるんじゃないかと思う。むしろ、平和運動に熱心で社会保障の充実をとなえフェアトレードと環境保護の活動もしているなんていう絵に描いたようなリベラルな人のほうが少数派ではないだろうか。いちおう各国の政治状況をこの図にあてはめるとだいたいこんな感じ。



■ A piece of moment 9/5

 町山智浩のブログで、セリフで説明されないと映画が理解できない評論家のことが紹介されている。
 → ベイエリア在住町山智浩アメリカ日記「2008-08-27 映画を観る能力がまったくない映画評論家」

 映像から意味を読み取るのが苦手な人というのはけっこう多い。授業の資料でドキュメンタリーフィルムを見ていても、ナレーションやセリフの少ないものだとすぐに生徒たちは居眠りをはじめる。それにしてもプロの映画評論家で映像から意味が読み取れないというのは致命的というか、本当にそんな評論家がいるんだろうかと、本人の書いた「映画評論」を読むまでは信じられなかった。読んでびっくり誤読と曲解の連発。しかもこういう映画評論家というのは少なくないようだ。もしかしたら、日々職業として大量の映画を見ているうちに、一本の映画を集中して見ることができなくなってしまったのかもしれない。だとしたらずいぶん気の毒な人たちである。

 映画の場合、いい作品ほど説明的なセリフは省かれ、映像によって意味やニュアンスが語られる。そのぶん見る側には集中力を要求されるが、集中して見ていれば、セリフがなくても登場人物の微妙な表情やしぐさが饒舌に語りかけてくる。そこに説明的なセリフやモノローグが入ったらすべてぶちこわしである。逆にテレビは、見る側を信用していないので、やたらめったら言葉で説明される。「打ちました大きい大きい入ったぁホームラン!」ってそんなこと言われなくても見てればわかるよ、「おおっとドリブル突破抜いた抜いた入ったぁゴール!」って知ってるよ見てるんだからさ。さらに最近のテレビニュースでは、「感動的です」「怒りをおぼえますね」と感想の方向性まで見る側を誘導しようとする。視聴者をよっぽど馬鹿だと思っているんだろう。テレビドラマでもセリフですべてが語られる。以前、橋田壽賀子がインタビューで、自分は演出も役者も信用していないからセリフですべて伝えられるように書いているんだと得意げに話していた。あまり得意げにされても困るが、画面を見ていなくても理解できるように書くのが橋田壽賀子ドラマのポリシーということらしい。演出と役者だけでなく、視聴者も信用していないんだろう。さらにテレビアニメに至っては、会話だけでなく、心の中の言葉までぜんぶセリフで語られる。まあわかりやすいという点では、ラーメンをすすりながらでも掃除機をかけながらでも理解できて便利なんだけど、こういうのばかり見ていると集中力と映像に対する感性が麻痺しそうで不安でもある。映画も最近ではそういう感覚の麻痺した人たち向けにセリフでなんでも説明するようになってきて、見終わって余韻もなにも残らないものが多い。先の評論家はテレビアニメの評論でもやるといいんじゃないかと思ったら、「崖の上のポニョ」まで読み違えているという。つわものである。宮崎アニメは心の声まではセリフで説明されないので、少々難しかったんだろうか。こういう想像力豊かな人は、評論ではなく小説でも書いたほうがいい。柴田元幸によると、作家には、どこをどう読み違えてそんな解釈をしているんだというような独善的な人物が多いとのこと。きっと目の前の作品よりも常に自らのデーモンと対話しているんだろう。誤読は創造力の源である。

 ただ、海外のテレビドラマは、韓国ドラマを除いて、これほど説明的ではないように思う。気に入っているいくつかのドラマも映画的で、さあ見るぞと画面に集中していないと話がわからなくなることが多い。5年間つきあってきた「シックスフィート・アンダー」がようやく完結。第3シーズン以降は惰性で見ていたけど、最後の数話でやや盛り返した感じ。

 ベネトンの広告、ABの立論がかみ合っていなかったので、書き改める。
 → ベネトンの広告

■ A piece of moment 9/7

 さらにベネトンの広告についての文章を大幅に書き直す。いままでの書き足してつぎはぎ状態だった文章を全面的にあらためる。これで通して読んでもおかしくないんじゃないかと思うが、やけに重たい調子の文章になってしまって、こんなの誰が読むんだろうかという気もする。ともかく力作です。
 → ベネトンの広告

 ラジオからジョニ・ミッチェルの「Both Sides, Now」が流れてくる。この歌を聴くと干刈あがたの小説を連想する。リアルタイムでジョニ・ミッチェルを聞いていたわけではないので、ウッドストックやベトナムの反戦デモよりも、たぶん学生の頃にこの歌を聴いていたんだろうという感じの干刈あがたの小説に登場する女性たちを思い浮かべる。歌詞を訳してみようかと思ったが、こちらのサイトにあった。
 → Those Were The Days 「Both Sides, Now」

■ A piece of moment 9/21

 半年ほど前、スティーヴ・ライヒの「18人の音楽家のための音楽」のテレビ中継をやっていた。ライヒと彼の楽団が来日して、どこぞのコンサートホールでライブ演奏したのを録画したものらしい。この曲をずっとコンピューターによる打ち込みだと思っていた。本当に題名どおり「18人のミュージシャン」によるライブ演奏で、それぞれがあの複雑で精密なリズムを互いにつないでいく様子は圧巻だった。とくにマリンバのおねえさんは、人間業とは思えない正確さで、1時間弱のあいだリズムを刻み続けていた。ビバ人間という感じである。以来ずっと気になっていて、先日、ライヒのCD10枚組みボックスセットを奮発して購入。アマゾンの輸入CDで1万円ちょっと。アメリカのアマゾンでは$99.98なので、内外価格差がほとんどないのは良心的。一方、国内版だといきなり3万円弱。解説を翻訳しただけのくせに、レコード会社もずいぶんあこぎな商売をする。もちろん買ったのは輸入盤のほう。
 → Amazon.co.jp「Steve Reich Works 1965-1995 [Import from US]」

 YouTubeにも(もちろん)演奏の様子はいくつか投稿されていた。3つめと4つめのファイルが東京での演奏のもので、ピアノを担当している野球帽のおじさんがライヒ。もし興味があったらどうぞ。
 → Music for 18 Musicians by Steve Reich - Beginning
 → Steve Reich - Music for 18 Musicians CD Trailer
 → Steve Reich "Music for 18 Musicians" -Section IIIA
 → Steve Reich "Music for 18 Musicians" -Pulse

■ A piece of moment 9/28

 ヤフー動画で無料配信していたので、まとめてバーナビー警部を見る。イギリスの田舎を舞台にしたサスペンスドラマで、いまのところ日本では28話まで放送されDVDにもなっている。各話ともに非常にていねいにつくられていて、本国イギリスでは人気が高いらしく、すでに11年目に入り、70話くらい放送されている。イギリスの田園の緑あふれる風景、花の咲き乱れる庭園、穏やかな村人たちの暮らし、そこで凄惨な殺人事件が発生する。これがシリーズに共通した設定で、ベテラン捜査官のバーナビーと彼の若い相棒がその捜査にあたる。一見穏やかに見える村人たちは、誰もが秘密をかかえていて、誰も本当のことを言わない。村の閉鎖的な人間関係は閉塞感と軋轢をもたらし、住人の取り澄ました顔の下には互いへの不満と妬みが渦巻いている。バーナビーは手堅い捜査によって証拠と証言を積み上げ、住人の人間関係を読み解いていく。いちおう主人公はバーナビーだが、実際の主人公は住人の関係性であり、バーナビーはその狂言回しにすぎない。バーナビーは有能だが家庭を大事にする常識的な人物として描かれ、ドラマは彼のキャラクターよりも登場人物たちの人間関係の描写にフォーカスし、バーナビーの日常と対比させることでその狂気をはらんだ人間模様を際だたせている。

 事件は常に連続殺人へと発展する。一本のドラマとしてはよくできているが、シリーズとしてみた場合、小さな村々で毎回血まみれの連続殺人がおきるのは少々不自然。八墓村じゃあるまいし。また、毎回20人近い事件の関係者が登場するため、集中して見ていないと誰が誰だかわからなくなる。ジョンとキャッシーがハワード夫妻でマージョリーはジョンと不倫関係だけどキャッシーとはなぜか仲がよくてサンドラのほうといがみあっていてサンドラとキャッシーはレズビアンの関係にあってふたりの母親がいとこ同士でサンドラの母親の隠し子がジェームズで殺されたサリーの夫がジャームズじゃなくてマージョリーの前夫じゃなくていとこじゃなくて腹違いの兄だっけああもうという調子。登場人物の関係性と愛憎が物語の中心でミステリーのカギでもあるので、毎回その様子は入りくんでいる。最初の30分くらいはメモをとりながら登場人物を整理しないとわからなくなる。性的関係とともに登場人物の関係性で重要なのがイギリス人の階級意識で、こちらもなかなか興味深い。いまだにどこの村にも領主館があり、館の住人と彼らを取り巻くスノッブな連中はしばしば村の住民を「庶民」と呼んで見下す。彼らの名門意識や上流気どりが地域社会に確執をもたらしていて、「庶民」の若者はスノッブな連中への反発と社会への怒りでたいていグレている。その様子はサッチャー政権の頃にポール・ウェラーやモリッシーが歌っていた怒れる若者像そのままで、むしろいっそう荒れている感じ。イギリスの階級社会はちっともうまくいってないじゃん。日本から来た大学教師や商社の駐在員はオックスブリッジ卒のインテリや中流以上のイギリス人としかつきあいがないから、階級社会は社会的分業としてうまくいっているなんて勘違いを言い出すんだろう。本気でうまくいってると思っているなら、自分のこどもを労働者地区の公立学校へ入学させるべきである。いままで見た中で気に入っているエピソードは、アマチュア作家仲間の集まりでメンバーのひとりが殺される第2話「Written in Blood」、村の再開発をすすめていた建設業者が殺される第6話「Death's Shadow」、領主のわがままな娘が殺される第19話「Tainted Fruit」、高級住宅街を舞台に主婦の株式投資サークルで連続殺人が起きる第20話「Market for Murder」、エリート意識まるだしのパブリックスクールを舞台に理事長のひとり息子が殺される第23話「Murder on St. Malley’s Day」、ジャガーのオープンカーを乗り回す派手好きの老婦人が殺される第24話「A Talent for Life」。

 残念ながら日本ではレギュラー放送しているチャンネルはない。CSのミステリチャンネルで不定期に放送される程度で、あとはDVDを買うかネットの動画配信くらいしかない。ネットの動画配信は1本210円。すぐに見られるが、ハードディスクにダウンロードできないので、パソコンの小さな画面で見なければならないし、台詞が聞き取れなくて少し場面をもどす際にもいちいちダウンロードを待たねばならないのであんがい不便。また、ヤフーの無料配信では、10分間隔で2分程度のコマーシャルが入る。短いミュージッククリップやアニメなら気にならないかもしれないが、このドラマのように2時間近い長さがある上に集中力を要求する作品の場合、10分ごとのコマーシャルは暴力的にすら感じる。ネット配信はこういうシリアスなドラマや映画を見るには向いていない。

 この「バーナビー警部」シリーズと「華麗なるペテン師たち」「電脳コイル」が最近のヒット。
 → Wikipedia「Midsomer Murders」
 → Wikipedia「List of Midsomer Murders episodes」
 → itv.com「Midsomer Murders」

 相撲の楽日を見ながら、相撲についての会話文を書き直してみる。トラブル続きの大相撲はもはやそれどころではない感じだけど。
 → 女性知事の土俵入り

■ A piece of moment 11/20

 録りだめたドキュメンタリー番組をまとめて見る。その中に上野千鶴子が若い日本画家と対談する番組があった。対談は桜が満開の公園で行われており、今年の春頃に放送されたものらしい。画家はすらっと背の高いはなやかな女性で、彼女の作品はいずれも流れるような描線で傷を負った女性像が描かれている。はなやかな彼女の外見と相反して、描かれている人物には生気がなく、腑分け図の死体を連想させる。見る者にその痛みと冷たさを突きつけるよう。鈍痛ではなくひりひりするような痛み。松井冬子という画家で、彼女の作品は若い女性を中心に支持されているらしい。その作品について、上野千鶴子はこう話す。

 「これはあくまでオンナの痛みであって、「人間の痛み」というように普遍化してほしくないのよね」

 上野千鶴子らしい発言だが、これは「日本人ならわかる」というナショナリズムの発想となにが違うのだろう。対談を聞きながらそのことが引っかかる。上野の言葉に、松井は「男性批評家の言葉には違和感を感じる」と応える。しかし、作品を「オンナの痛み」と解釈する時点ですでに普遍化がなされている。私には「オンナの痛み」はわからないが、それと同様に「オトコの痛み」もわからないし、「日本人の痛み」もわからない。直知できるという意味で、「私」に「わかる」のは「私の痛み」だけである。ただ、他者の感覚を類推することはできる。そこには性別も国籍も関係ない。「オンナの痛み」も「北アイルランド人の痛み」も「パレスチナ人の痛み」も類推できる。それらは「私」にとって等距離であり、物理的な隔たりは関係ない。近所の工場で繰り広げられている「製造業中間管理職の人材管理の悩み」よりも、むしろ地球の反対側の雪原で牧畜をしている「サーミ人のトナカイ管理の悩み」のほうに親近感をおぼえる。

 男女平等は基本的人権だし、人間は個人として尊重されるべきだし、「オトコのくせに」「オンナのくせに」という言葉でその可能性の芽をつみ取るべきではないし、個人の指向や資質の多様性を否定するべきではない。その点でフェミニズムの主張は全面的に支持するが、この「オンナならわかる」という楽観的な連帯感を聞くと煙に巻かれた気分になる。オンナったって、奈良の騒音おばちゃんもいればダルフールの難民キャンプで援助活動しているNGO職員だっているわけでさあ、オンナっていうだけで同じアイデンティティを共有しているかのようにいう根拠はなんなのさ。それは酔っぱらったおっさんたちが居酒屋で「オンナにゃあわかんねえよな」とろれつの回らない声でくだを巻きながら、妙な連帯感を深めているのと同じではないのか。あるいは、ナショナリストが民族的連帯に抱くおめでたい幻想、「やっぱりニッポン人同士」「ニッポン人のDNAに刻まれてる」といったオカルトじみた「わかりあえる幻想」と一緒ではないのか。

 他、ブッシュの石油戦略、アフガンのタリバンの現状、キリスト教原理主義のサマーキャンプの様子、ミツバチの大量失踪事件、ピノチェトのファシズム政権の記録などなど半年分を1週間でまとめて見る。HDDレコーダーは便利である。ラジオ番組も同じようにまとめ録りできる機材はないだろうか。

 上野千鶴子と松井冬子の対談の様子はこちらのブログで詳しく紹介されている。
 → みどりの一期一会

■ A piece of moment 11/22

 ロシアのバレエ学校を取材したドキュメンタリー番組を見る。ダンサーの卵である少年・少女たちは、日々、過酷なほどの鍛錬と徹底した競争によって育成されていく。なんともすさまじい世界。何年か前にパリ・オペラ座のバレエ団とその付属学校の様子を追った「エトワール」というドキュメンタリー映画をやっていたが、ダンサーの育成方法は基本的にどちらも同じ。バレエのダンサーはこのシステムでないとプロのレベルには到達しないらしい。閉じた人間集団内でのきびしい競争と階級社会という点で、相撲部屋の新弟子育成のやり方にもよく似ている。

 パリ・オペラ座の付属学校は1990年代に全寮制を廃止したが、こちらのペルミバレエ学校は現在も全寮制をつづけており、生徒たちは24時間バレエづけの日々をすごす。朝、起床とともにウォーミングアップ、9時にはレッスンがはじまる。レオタード姿のまま数学の授業を受けている場面もあったので、レッスンの合間に学科の授業も行われるらしい。バレエのレッスンは夜9時までつづく。もちろん遊んでいる時間などない。クラスメイトは友達というよりもライバルで、仲が良くても互いに一定の距離を置いている。レッスンはおどろくほどスパルタ式で、指示されたことができない生徒には教師から容赦ない叱責が飛ぶ。「なんど言ったらわかるの、馬鹿はダンサーに向かないわ、いくら才能を秘めていても賢くなければプロでは通用しないの、まるであなたの脚は爆撃機よ、わかる?爆撃機、重い爆弾を運ぶために翼がこう反り返ってるのよ」。叱られて泣く子、できない自分へのもどかしさにべそをかく子。このやり方が成立するのは、教える側も教わる側もバレエに抱く夢を共有しているからなんだろう。ある意味で幸せな関係であり、同時にその絆がより若者を追い込んでいく怖さもはらんでいる。

 なによりも過酷なのは、そこがプロフェッショナルのダンサーを育てるための養成所であるということにある。学校の唯一の目標はプロのダンサーを育成することであり、その生徒がプロのレベルに到達できるかどうかが評価基準のすべてである。「こども時代をのびのびと」という価値観や「できない子もそれなりに」という学校的評価はそこに存在しない。生徒はあくまで「ダンサーの卵」であって、「こども」とは見なされていない。教師たちはいずれも第一線を退いた元スターダンサーたちで、生徒たちは幼いうちからプロの審美眼によって評価され、プロのレベルに到達できるかどうかという基準で選別されていく。それはバレエの技能だけでなく、身長や体つき、手足の長さにまでおよぶ。資質がないと判断された者、やる気がないと判断された者には、その時点で退学が宣告される。さらには太ってしまってダンサーの体型が維持できない者も学校から去るよう宣告される。もちろん、生徒たちも常に自分がプロの目によって評価され、選別されていることを自覚している。そのプレッシャーで拒食症になってしまう子も少なくない。そうまでしても卒業後にプロのバレエ団に入れるのはほんのひとにぎりで、入団後にはさらなる競争と選別が待っている。毎年、このバレエ学校への入学希望者は約500人。その中で入学できるのはわずかに30人。その30人の中で卒業時まで在籍できるのは約半数。卒業後にプロのバレエ団に入れるのはほんの数人。さらにバレエ団の中では、群舞を踊るコール・ド・バレエ、準主役としてソロを踊るソリスト、主役を担当するトップダンサーのプリマといった明確な序列が存在し、ピラミッド型のヒエラルキーを構成している。バレエ学校はそのピラミッドの裾野にあたり、プリマへの長い道のりの一次予選にすぎない。それにしても、小学校低学年くらいの女の子がカメラを前に、「これ以上太ったら学校をやめさせられちゃうから、もっと減量しないといけないの」と訥々と語る場面は痛々しい。その小さな女の子は、ひと目で拒食症気味だとわかるほど鎖骨が浮き出ている。私のような「バレエの夢」を共有しない者は、その映像を見ながら、これほどまでにこども時代のすべてを捧げることを要求することで成立する表現様式というのは、いったい何なんだろうと考える。番組の原題は「A Beautiful Tragedy」である。

 教師のひとりで現役のプリマでもある女性はインタビューの中で苦笑しながら話す。「バレエはマゾ的傾向のある人に向いていると思います。どんなときも自分を痛めつけてばかりです。その痛みさえ克服して自分を追い込みます。血のにじむ足にトゥシューズをつけ、つま先立ちで踊ります。それでも踊ることが心地良いからです。具合が悪くても踊って、最後の最後に満足感を味わいます。バレリーナになるにはバレエ以外の生活はすべてがまんしなければなりません。ですから、この職業は過酷な人間をつくります。自分自身に対する要求が大きいから、周りの人間に対してもきびしくなります」。

 ドキュメンタリーは、遠く親元を離れて寄宿生活をおくる15歳の女の子の目を通して、そんなバレエ学校の様子が紹介されていく。場面の合間に彼女の日記がモノローグとして挿入され、クラスメイトにとけ込めない孤独感やホームシック、生活を切り詰めて学費を捻出している母親のこと、思うように踊れない自分への苛立ち、体形を気にして拒食症気味になっている様子などが語られる。番組の終わりに、それから2年後の卒業を目前にした彼女の様子が紹介される。2年後の彼女は、いつも半べそをかいていた15歳の頃とは別人のように自信に満ち、精悍な表情をしている。プロとしてやっていく心構えはすっかりできている様子で、自分にも周りの人間にもきびしいバレエダンサーとして彼女もこれからステージに立っていくんだろう。

 見ていて意外に感じたのは、バレエ学校の教師たちが自らの世界を特殊だと自覚していることだ。たいていの人は自らの職業体験を通じて社会的な価値観を形成するが、バレエ学校の教師たちは、自分が身を置いてきた世界の価値観と経験を一般化しようとはしない。だから彼女たちは人生訓や教育論を口にしない。その抑制のきいた様子に驚かされる。あくまで客観的に、時に自嘲気味に、ダンサーであることやバレエの世界の特殊性を語る。その様子は「エトワール」に出てきたパリ・オペラ座付属学校の教師やダンサーたちにも共通している。日本のスポーツ選手たちがなにかにつけて説教めいた人生訓を語ろうとするのと対照的だ。自らの世界への引いたまなざしがあることが、同時にバレエ学校での容赦ない選別を可能にしているんだろう。あなたはバレエダンサーには向いていないが、ダンサーという選択肢以外に生き方はいくらでもあるというわけだ。そうしたまなざしが社会的背景によるものなのか、自らの世界と外の世界との乖離を自覚しているためなのか、彼女たちの話を聞きながら考える。パリ・オペラ座付属学校の教師は、バレエ学校の特殊性について、それがプロのバレエダンサーを育成するシステムとしてきわめて有効であることを認めつつ、その一方で、生徒にこども時代のすべてをバレエへ捧げることを要求し、ごく幼いうちから徹底的に競わせ、心理的にも肉体的にも追い込んでいくやり方については、ある種のいびつさも感じていると語る。「バレエ学校のシステムは、ひとりのすぐれたダンサーを育てるために大勢の若者の夢を踏み潰していくしくみね、それはまるで弱者をすり潰し、ふるいにかけて落としていくための巨大な装置のようなものよ」。
 → BS世界のドキュメンタリー「犠牲の先に夢がある 〜ロシア国立ペルミバレエ学校〜」
 → Amazon「エトワール デラックス版」

■ A piece of moment 11/27

 以前書いたレディースデーについての文章を読み返すと、肝心なことが抜けていたので、補足の最後に書き足す。
 → 映画館の「レディースデー」は男女差別なのか?

■ A piece of moment 11/29

 10年以上前に私が書いた文章を1ページまるまるコピペして貼っているWebサイトがあった。いえ、はっきり地の文と分けて出典を明記してくれれば、コピペしようと切り貼りしようとべつにかまわないんですが、自分の書いた文章があまりにも稚拙で、読み返して恥ずかしくなってしまったので、いまさらだけど全面的に書き改めてみた。まだ変だけど、読み返して身もだえすることはなくなったので、良しとします。
 → アメリカ人審判の帰国

 それにしてもイチローは、コメントを聞くたびに嫌な奴だなと思う。彼のプレーは美しいが、コメントを聞くと自意識過剰のサルを連想する。もちろん野球選手は野球がうまければそれで良いわけで、人格的にすぐれている必要はない。むしろ問題は、彼をヒーローとして祭り上げ、彼のコメントをありがたいお言葉として報道するスポーツメディアが数多く存在することにある。

■ A piece of moment 11/30

 ときどき爆発的におかしいテレビアニメ版の「ケロロ軍曹」。しばらく前にCS放送でやっていた140話は、予算消化のためにケロロ小隊が無駄な工事をする話。なぜか4億(宇宙)円ちかくも予算があまってしまって、小隊メンバーははりきってむだな工事やむだな接待やむだな侵略ロボット製造にはげむ。「今年のうちに予算を使い切らないとな、来年度ぶんの侵略予算がカットされるんだ、さあもういっぺんここ掘るぞ」。そんな中、ケロロはひとり冷や汗をかいている。どうも後ろめたいことがあるらしい。博物館つくっちゃいましょう、ってゆ〜か箱物行政?とうれしそうなモアちゃんに、顔面蒼白のケロロは「ハコモノは危険であります」とつぶやく。笑い転げる。

 後半はケロロが予算使い込みで買いだめたプラモ・マンガ・DVDの膨大なコレクションを狭い部屋に押し込められてしまい、なんとか片付けようと悪戦苦闘する1週間の記録。前半から一転してシュールな話。狭い部屋に山と積まれたプラモの箱とマンガ・DVDコレクションのダンボール箱を前に、ケロロが呆然としたり落ち込んだり怒ったりいままでの自分の人生に疑問を感じたりする。物語はその狭い部屋の中のケロロのひとり語りだけで進行し、まるで一幕もののひとり芝居を見ているよう。二日三日とすぎるうちに、やがてケロロの心の中に声が響いてくる。「だから言っただろう、みんないつかは死ぬ、墓の中までガンプラやDVDは持っていけないんだ、あきらめろ、すべての生き物は生きているあいだ一時的にこの世界からものを借りているだけだ」。この場面で壁に投影されるガンプラの影は、どう見てもプラトンのイデア論のメタファーだし、ケロロ軍曹、あなどれないのである。脚本は前半後半とも山口宏。こどもよりもいっしょに見ているお父さんのほうが楽しいエピソードという感じ。アニメのケロロ軍曹は回によって振幅が大きい。似たようなエピソードが起伏なくつづく原作のマンガよりも、玉石混淆でも振れ幅の大きいアニメ版のほうがはじけていて楽しい。

 ネット上にも動画がありました。下のリンクのひとつめは海賊版で、ふたつめはバンダイの有料配信。
 → Veoh Networks「Keroro 140」
 → バンダイチャンネル「ケロロ軍曹 3rd シーズン 第140話〜第143話 1週間315円」

 海賊動画はもちろん著作権違反だけど、気に入った人はDVDや正規の動画配信を購入して高画質のものを入手しようとするだろうし、フリーの動画サイトにアップされている海賊版は一種の作品紹介と解釈して、それほど神経質に取り締まらなくてもいいのではないかと思っている。実際、先日書いたロシアのバレエ学校のドキュメンタリーフィルムは、制作した映像作家自身が作品の動画をYouTubeにアップしていて、見て気に入ったらDVD買ってねというスタンスをとっている。海外の映像作家にはこういう人が多い。個人的にはこの姿勢を全面的に支持する。
 → YouTube「Ballet school」(ロシアペルミバレエ学校のドキュメンタリー 英語字幕)

■ A piece of moment 12/7

 「私は貝になりたい」のリメイク映画が作られたらしい。TBSのラジオ放送を聞いていたらやけにこの映画が取りあげられていたので、TBSが出資しているんだろう。興味深かったのは、午前の番組の大沢悠里と午後の番組の小西克哉とで視点がまったく異なっていたこと。大沢悠里は日本軍の残酷さと命令した側の多くの者が罪を逃れたことの問題を指摘し、一方、小西克哉は連合国軍による東京裁判がいかにインチキだったかを指摘していた。とくに小西克哉は東京裁判のあり方を批判するとともに、獄中の場面で登場する陸軍中将を例にあげ、日本軍人の中には自らの責任と向き合う高潔な人物も多かったと語っていた。へえー小西克哉ってそっち側の人だったのね。

 フランキー堺が主演した映画版のほうは10年くらい前に見たことがある。主人公は四国の田舎町で床屋をしている陽気だが気の弱い男。中年にさしかかっており、妻も子もいる。物語は彼が南方戦線の戦局を伝える新聞記事を見ながら、床屋の客と「まあ、俺みたいな鈍くさい奴には軍からもお呼びはかからないよ」と談笑している場面からはじまる。ところがまもなく、彼のところにも赤紙がやって来る。徴兵され陸軍の訓練所に入るが、気が弱く鈍くさい彼は上官に目をつけられてしまい、徹底的にしごかれることになる。ある日、爆撃機からパラシュートで脱出した米兵が捕獲され、訓練所に連行される。上官は虫の息の米兵を指し、主人公にあいつを殺せと命じる。はじめは躊躇するが、上官の叱責とビンタを受け、彼は狂気の形相で銃剣のついたライフルを握りしめ、捕虜のアメリカ兵に突撃していく。ここでいきなり場面は変わり、戦後の極東軍事裁判の法廷シーンへと移る。主人公は捕虜への虐待と殺害の罪で連合国からB級戦犯として告発されている。裁判は英語ですすめられ、被告の彼には何が話し合われているのかわからない。通訳もいいかげんで、「自分が負わせた傷は浅く、致命傷ではない」という彼の言いぶんは聞き入れられない。十分な検証も行われないまま、彼は残忍で暴力的な人物と見なされ、死刑判決が言い渡される。主人公ははじめは裁判のやり方に憤っていたが、しだいに自分の人生と人間の社会に絶望するようになっていく。最後に彼は、もし生まれ変わっても人間にはなりたくない、どうしても生まれ変わらなければならないのなら、人間とは関わりのない深い海の底で貝になりたいという言葉を残して、絞首台へ導かれていく。

 フィリピン・バターン半島での捕虜虐待事件や泰緬鉄道建設での強制労働など、当時の日本軍による捕虜のあつかいのひどさについては、日本よりもむしろ欧米でよく知られている。第二次大戦でドイツ軍の捕虜になった連合軍兵士の死亡率が4%なのに対し、日本軍の捕虜になった連合軍兵士の死亡率は30%に達する。もちろんその背景には、敵兵への憎しみをあおる精神訓ばかりが軍隊内で強調され、捕虜へのあつかいの教育など行われていなかった日本軍の体質の問題がある。ほとんどの将兵は、捕虜のあつかいを定めたジュネーブ協定の存在すら知らなかっただろう。映画に登場するサディスティックな上官はどこの部隊にもいて、なにかというとビンタが飛んだというのは、兵隊を体験した人々が口をそろえて言うことだ。また、さらにより大きな背景として、個々人の良心・理念より、場の雰囲気と組織の論理が人々の行動を規定する日本社会の問題も指摘することができる。日本人の感覚では、命令絶対の軍隊内で主人公のとった行動を罪には問えないということになる。悪いのは時代や社会であり、主人公はその犠牲者であるという認識である。だからこそ、この物語は多くの共感を集め、くり返しドラマ化されてきた。たしかに主人公の身に起きた出来事は悲劇的だし、死刑判決に合理性は見いだせない。でもはたして主人公はイノセントな存在なんだろうか。映画を見ながら、ちょうどそのころドイツで行われていた旧東ドイツ兵士の裁判を思い浮かべた。被告の兵士は東西分断時代の東ドイツでベルリンの壁の警備を担当し、1962年に東側から西側への逃亡者を射殺した罪で告発された。被告の行為は、人口の流出を防止する東ドイツ政府の政策に基づくもので、また、命令絶対の軍隊内での行為である。もし逃亡者に向けたライフルの引き金を引かなければ、職務怠慢ということで軍事裁判にかけられ、なんらかの処分を受けていただろう。映画の主人公同様に彼の行為を罪に問うのは酷な気もする。だが、その兵士は有罪になった。執行猶予つきの判決で実刑ではなかったが、非人道的な国家体制の「共犯者」として、責任があるとされた。責任は社会や組織ではなく、立場と権限に応じて個人が負うというわけである。この裁判は射殺された青年の名前から「フェヒター裁判」と呼ばれている。当時、日本でもずいぶん報道されたので、記憶にある人もいるかもしれない。フェヒター裁判については、次のブログで事件と裁判の経緯がくわしく紹介されている。
 → 伽羅創記「2007/09/18 ベルリン −追記」

 それにしても解釈は人それぞれとはいえ、この映画から日本軍の非人道性ではなく日本軍人の高潔さを読みとったという小西克哉の発言は驚きである。たしかに東京裁判は不備が多く偽善的だが、問題の本質は日本の植民地支配の直接の被害者であるアジアの人々ぬきで戦勝国が裁判をすすめたことにある。もしかしたら、「私は貝になりたい」のリメイク版はオリジナルとまったく違う内容になっているんだろうか。

2009

■ A piece of moment 3/1

 犬猫考

 とりたてて書くような事件もなく、だらしない日々をおくって2009年になりました。ひさしぶりの更新は犬猫についてのふたつ。ひとつめは、静岡県初島の猫。

 初島は相模湾に浮かぶ周囲約4キロの小さな島。住民は200人あまり。古くから漁業と農業がさかんで、近年ではリゾート開発がすすみ、観光地化している。この島で多くの猫が餓死しているという。原因は野良猫が多いのは観光地としてイメージダウンになるとの理由で、十数年前から、島をあげて猫へのエサやりをやめるよう呼びかけていることによる。島のあちらこちらに「猫へのエサやり禁止」のポスターが貼られ、猫にエサを与えようとする観光客にも住民から注意を呼びかけるという徹底ぶりで、多いときには200匹近くいた野良猫はこの十数年で50匹前後に減っている。じわじわと餓死させ、全滅に追い込むというやり方はあまりにも残酷だとして、動物愛護団体からクレームがつくが、自治体も島民も取り合わず、猫の保護活動をするボランティアと自治体・島民との間で対立している。愛護団体は当初、猫に不妊手術を施すとともに、地域猫として生きられるように自治体や島民に呼びかけていたが、自治体から拒否され、現在は飢えた野良猫にエサをやるとともに、島から「救出」し、熱海市にある愛護団体の「猫シェルター」で保護し、里親をさがしている。一方、この「救出活動」についても、島民・自治体から支持されておらず、島に訪れた愛護団体のボランティアに対して、しばしば島民から罵声が浴びせられており、まるで狂信的なカルト集団であるかのように見なされているという。また、自治体は「猫殺しの残酷な島」というイメージが広まることによる観光業へのダメージについて神経質になっており、愛護団体のWebサイトに対して文書の削除要求をしており、行政と愛護団体との間でも軋轢が生じている。
 → Wikipedia「初島」
 → 初島の猫の救出活動をしている団体「静岡動物愛護 犬猫ホットライン」のWebサイト
 → 保護活動に参加している人のブログ「時歌の日記♪」2009-01-18
 → 猫シェルターの様子「世界はニャーでできている。」2009.01.25
 → 静岡県生活衛生局生活衛生室「初島の猫について」
 → 静岡動物愛護犬猫ホットラインWebサイトによせられた熱海市からの文書削除要求
 → 熱海新聞に25回にわたって連載されたエッセイ「わが輩は初島の猫である」
 → 同エッセイのPDF版(ダウンロード)

 たしかに逃げ場のない小さな島で野良猫をじわじわと餓死に追い込んでいくというやり方は残酷である。保護活動をしている人たちやそれを支持する人たちの言い分をまとめると次の3つに集約される。
1.初島の野良猫はネズミ退治のために本土から連れてこられた猫の子孫である。その後、ネズミが減り、野良猫が増えたからといって、今度は邪魔者あつかいするのはあまりにも勝手である。

2.猫は野生動物ではない。野生の猿や鹿と異なり、野良猫が人間からエサをいっさいもらえなくなったら、飢え死にするしかない。どうしても野良猫の数を減らしたいのなら、去勢手術や不妊手術をほどこしていけば、殺すことなく十数年後には「猫のいない島」になるはずである。その手間と費用すら惜しみ、ただエサを止めることで猫を餓死に追い込み、生命をうばうやり方はあまりにも残酷である。初島のような小さな島では猫たちに逃げ場すらない。

3.野良猫が観光業にマイナスになるという発想がそもそも時代錯誤である。野良猫の多い観光地は日本各地に数多く存在する。「駅長のたま」のように人慣れした野良猫が観光の目玉になっている土地もある。野良猫が観光客や住民からエサをもらってのんびりしている風景は、多くの人をなごませ、観光地ののんびりした雰囲気を演出することにもなる。
 個人的には3つめの言い分を全面的に支持する。野良猫のいないリゾート地というのはいかにも土建業者的な発想という感じがする。島全体を遊園地のような人口空間にしたいのなら別だが、そうでないのなら野良猫と人とが共存している暮らしは観光地としてけっしてマイナスにはならないはずである。世界各地をバイクで旅しながら犬や猫のエッセイを書いているこちらの人↓によると、世界中どこの街にも野良や半野良の犬猫がいて、近所の人からエサをもらったり、可愛がられたり、ときどき追い払われたりしながら、人とつかずはなれずで共存しているという。野良の犬猫が近所をうろうろしてるくらいで目くじらをたてるほどではないという感覚なんだろう。とくに途上国ほどそういう傾向が強いようだ。
 → 「ぽこ&けんいち通信 」世界の犬と猫

 とはいうもののこうした言い分は、いずれも猫が好きな人の中でしか通用しない。猫が好きな人にとって初島で行われていることは、「かけがえのない生命を軽んじる残酷な行為」だが、野良猫をドブネズミ同様の邪魔者としか見ていない人にとっては、たんなる「害獣の駆除」にすぎず、「駆除してなにが悪いのか」となる。このまなざしのズレが野良猫や野良犬とのつきあい方について、社会的コンセンサスがなかなか得られない原因になっている。「好き・嫌い」に立脚点をおかない論理を導きださない限り、愛護団体の言い分は玄関先にペットボトルをずらっと並べているような人の理解は得られないだろう。私の住んでいる東京の住宅地では、以前ほど町をうろうろしている野良猫を見かけることがなくなってきたが、逆に行政によせられる猫の苦情のほうはむしろ増加しているらしい。住宅が密集するほど野良猫に神経質な人がふえるのは仕方ないのかもしれない。

 好き嫌いに立脚点をおかない野良猫とのつきあい方というところで、私の考えも止まってしまう。「駆除してなにが悪いのか」という人に対して、私は「なにもそうまでしなくても」というくらいの言葉しか思いつかない。またその一方で、猫の愛好家たちが主張するように「猫は野生動物ではない」と言いきってしまうことにも違和感をおぼえる。猫は犬ほど品種改良されておらず、原種のヤマネコとほとんど変わらない。ましてや牛や豚のように完全に家畜化された動物とは異なる。餌づけされた野生動物というのが実態に近いのではないかと思う。そのため、オーストラリアなどの本来猫が存在していなかった土地に人の手によって持ち込まれ、やがて野生化し、在来種を生態系から駆逐してしまったケースは数多い。日本でも西表島で人によって持ち込まれた猫が野生化し、在来種のイリオモテヤマネコを駆逐しつつあることがしばしば指摘されている。猫=イエネコはきわめて適応力の大きい種で、エサになる小動物が多い環境下では、野生動物として十分に生きていくことが可能である。初島は西表島とは異なり、ほぼすべての土地が宅地・農地・観光施設として開発されているので、たしかに野良猫が生きていくには厳しい環境である。人からエサをもらえなくなった初島の野良猫たちが大きく数を減らすのは間違いないが、ただ、漁港から出る残飯とわずかに残された林という環境で、たとえ細々とでも生きていけるのなら、それも猫のあり方のひとつなのではないかと思う。完全に人間の管理下に置かれた「ペットのネコちゃん」と人間社会から隔離された自然環境で暮らす野生化したネコに二分してしまうのではなく、その間には、様々なかかわり方が連続的にあるのではないか。そもそも人間から隔離された「自然」と徹底的に管理された「人口空間」とに二分しようとする発想がいびつではないのか。私には、野良猫が一匹もいない町というのは、血統書の肩書きとフリルのドレスで装飾されたペットを溺愛する行為と同じくらい不気味な存在に思える。両者は一見対極にあるようだが、どちらも自然を徹底して自らの管理下におこうとする発想に由来する点でなんら変わらない。もちろん愛護団体が行っている「レスキュー」と「里親捜し」の活動を否定するつもりはない。猫を飼える余裕のある人は、ペットショップで高価な血統書つきを求めるのではなく、ぜひこういう猫たちの里親になってほしいと思う。「猫を飼う」ことが「里親になる」のを意味するくらいに定着すれば、もう少しましな世の中になるはずだ。ただその一方で、「ペットのネコちゃん」として愛玩されることだけが猫の生き方のすべてではないはずだとも思っている。
 → Wikipedia「初島の航空写真」

 熱海新聞のエッセイを読みながら、国分寺に住んでいた頃の野良猫たちのことを思い浮かべた。

 国分寺の家に住んでいた二十年以上前のこと、隣の大家の床下に一匹の野良猫が住みついていた。白地に鼻のまわりと尾に近いところに黒のブチのある小さなメス猫で、我が家では「シロ」と呼んでいた。流線型の痩せた体つきと神経質そうな面長の顔立ちが特徴的で、近所の金物屋で飼われていた年老いたグレーのシャム猫によく似ていた。当時はたいていの猫がそうだったように、金物屋のシャム猫も去勢手術を受けさせないまま放し飼いにされていた。金物屋のおばさんはシロを見るなりうーんと唸ったが、近所とのいざこざを気にしてかそれ以上はなにもいわなかった。大家は自宅と渡り廊下でつながった店舗で薬局を営んでいた。大家の家は戦前に建てられた木造の古い平屋で、古い農家のような長い縁側のある作りをしていた。床下は人間が入れるほど広く、野良猫にとっては格好の住処になっていた。大家の一家は猫が嫌いらしく、床下に住みついたブチの野良猫を苦々しげに見ていたが、年寄り所帯で古い人たちだったので、さすがに保健所を呼んで駆除してもらうまではしなかった。恨まれては後生が悪いと思ったのかもしれない。竹藪に囲まれた広い庭には、梅や柿など様々な木が植えられ、薬局で出す漢方薬の原料にするために薬草園まであった。季節によって様々な鳥が訪れ、夕方になると竹藪から一斉に椋鳥が飛びたつという環境だったので、野良猫にとっては家主から嫌われていても住み心地は悪くなかったようだった。シロはその庭をなわばりにしてバードハンティングにはげみ、毎年、何匹もの仔猫を生んだ。シロはどんな体験をしてきたのか、けっして人に近づこうとはしなかった。小さい体に似合わず気性が荒く、人間が近づいてくると眉間に皺を寄せ牙を剥き、低い濁った唸り声を発し、さらに近づくとシャーするどい声で威嚇した。オス猫たちがケンカするときの威嚇とちがい、攻撃性の解放ではなく、内にこもった敵意を人間に向けているという感じだった。もちろん本当のところはシロにしかわからないが、シロは怨念ものの怪談話が似合いそうな感じの陰気な猫だった。昔から怪談話に登場する化け猫がきまってメスだということもシロを見ていると妙に納得がいった。薬草園を荒らし住処を提供している家主に対しても怨みがましい目つきで威嚇するシロに、大家はますます猫嫌いになったようだった。

 猫嫌いの大家をよそ目に我が家では二匹の出入り猫にエサをやっていた。そのころはたいていの猫が外で飼われていたので、飼い猫と野良猫との区別があいまいで、半野良みたいな猫が多かった。そうした連中はたいてい数軒の家を出入りしていて、うちの「どん兵衛」がよその家で「マクシミリアン」になっていたり、ひさしぶりに家出から帰ってきたと思ったら見たこともない首輪をつけていて「うちの猫がご迷惑かけてすいません」と手紙が添えられていたなんていうのもめずらしくない話だった。管理がいいかげんなぶん、商店街のゴミ箱を荒らしている手くせの悪い野良猫の正体が自分ちの猫だったり、もちろん捨て猫や処分される猫も多かった。我が家に出入りしていた二匹もそんな半野良の猫たちで、大きな黒トラのオスのほうを「クロ」、赤トラのオスのほうを「チビ」とひねりのない名前で呼んでいた。「シロ」の呼び名がそうだったのと同じように、はじめ「黒いの」と呼んでいたのがいつの間にか「クロ」になり、「小さいの」と呼んでいたのが「チビ」になっただけなので、名前というほどのものでもないのかも知れない。クロは数軒の家を渡り歩いている町内の古株で、チビは仔猫の時に捨てられて我が家に迷い込んできた猫だった。

 クロはがっしりとした体型の大きな黒いトラ猫で、ごわごわした短い毛並みと厳つい顔と大きな頭の持ち主だった。5年以上にわたって我が家の軒下を住処にしていたが、私も母もクロが声を発するのを一度も聞いたことがない。いつも悠然としていて、若い猫のようにじゃれてくることもなかった。野良生活の長いオス猫というのはそういうものなんだろう。ただ、うれしいときには頭突きをするように大きな頭をごりごりとすり寄せて目を細めた。それがクロの数少ない感情表現だった。話しかけるとじっとこちらを見つめ、ただじっと話に耳を傾けていた。その寡黙な同居人は、エサをあげていても飼っているという感じがしなかった。むしろ自分よりもずっと上等な生き物で、それがたまたま軒先に間借りしているだけのように思えた。

 駅前の雑踏をうろうろしているクロを何度か見かけたことがある。呼びとめるとクロは少しおどろいた様子でこちらを認め、それから家までの十数分の夜道をならんで黙々と歩いた。ときどきクロが頭突きをするのをふくらはぎに感じた。よう相棒、今日はなんかいいことあったか。母は「クロがあと十年くらい生きたらきっと庭の草むしりくらいやってくれるようになるよ」と笑っていた。

 チビは仔猫の頃に我が家に迷い込んできてそのまま居着いた。迷い込んできた日、その仔猫はよほど腹を空かせていたのか、玄関先でけたたましい声でエサを催促した。人間をまったく警戒していない様子だった。たぶんつい最近までどこかで飼われていたんだろう。あっという間に大きくなってチビではなくなったが、クロとは対照的にいつまでもにゃごにゃごと甘えた。物置のトタン屋根に上っては活躍を見ろとアピールし、そこから下りられなくなっては大騒ぎし、スズメやトカゲをつかまえては自慢げに見せびらかし、腹が減るとサイレンのような声でエサを要求した。かまってもらうのと注目されるのが大好きで、クロの写真を撮っているとチビはいつも間に割り込んで、自分を写せとアピールした。まるで小さなこどもがやって来たみたいだった。チビは常に人間に寄り添っていなければ生きていけない猫という感じがした。丸い顔ともこもこした体つきは小熊のぬいぐるみのようだった。私はなにかにつけてうるさく催促するチビをわずらわしく思うことがあったが、母は自分を頼ってくる無力な存在というのが大好きなようで、いつも悠然としてなにを考えているのかよくわからないクロよりも、人間に寄り添ってくるチビのほうをなにかと気にかけていた。「まあクロならどこでだって生きていけるだろうけどさ」と。クロはオスのくせに仔猫の面倒見が良かった。うちに来る前は大勢の猫たちといっしょにどこかで飼われていたのかもしれない。厳つい顔に似あわず、なにかにつけて新入りのチビを気づかっていた。雨の降る寒い日には、きまって物置の中でチビといっしょにならんで互いに暖をとっていた。

 シロはときどきクロたちの食事に割り込んできた。クロたちがエサをもらっているのを見ると、シロは少し離れたところからその様子をうかがい、人間がいなくなるのを見計らってエサの皿に頭を突っ込んだ。シロはいつ飢えていて、いつも生きるのに必死だった。食事中も耳を動かしながらあたりに注意を払い、いそいで腹に収めようと音をたてて食い散らかした。あまり多くは食べなかった。シロが割り込んでくると、クロもチビも必ずエサをゆずり、痩せた小さいメス猫が食べ終わるのを隣にならんで待っていた。たいていのオス猫がメス猫に寛容であるように、我が家の二匹も常にシロに対しては寛容だった。ただ、チビは仔猫のうちに捨てられ人の手で育てられたせいか、ネコ同士のコミュニケーションがなかなかうまくとれないようだった。考えもなくシロに近づいてはよく殴られていた。神経質なシロは人間だけでなく、他のネコが近づくのも好まなかった。シロは少しもかわいくなかった。私はその見るからに神経質そうな尖った顔も嫌いだったし、残忍そうな目つきも嫌いだったし、人間が近づくと眉間に皺を寄せ牙を剥いて威嚇する様子も嫌いだった。肩の骨が大きく浮き出た痩せた体つきや何匹もの仔猫を出産して少したるんだ腹は、妙に生々しく、陰気でわいせつな感じがした。クロたちがエサをゆずってやるのも気にくわなかった。でも、懸命に生きようとする姿は常に圧倒的で、私も母もその小さな痩せた猫に対して同時にある種の畏敬の念をいだいていた。シロがクロたちの食事に割り込んできても、追い払う気にはなれなかった。我が家の気の良いオス猫たちとともにシロが食べ終わるのをじっと待ち、シロが立ち去るとほっとした気分でため息をついた。クロとチビはそれから何事もなかったように残りのぶんを平らげた。

 母は猫たちとの関係を「ギブ・アンド・テイク」として解釈していた。日々エサをやり、世話をし、猫嫌いの大家からの苦情に頭を下げ、その対価として、猫たちに楽しませてもらっているんだと考えていた。母によると、猫を撫でるという行為は「テイク」のほうで、むしろこちらの方が猫たちに撫でられているのだという。したがって、気が向いたときにかわいがってるだけの私は、猫たちへの責任を果たしておらず、完全に債務超過の状態にあるとのことだった。猫たちとのつきあいを利害関係だけで解釈するのは違和感をおぼえたが、たしかにそう言われると私は猫たちからもらいっぱなしだったような気がする。

 チビが三歳になった年の秋、シロは大家の家の床下で四匹の仔猫を生んだ。一匹がシロに似た白地に小さな黒のブチ、もう一匹が白地に黒トラのまだらブチ、残りの二匹はなぜかクロによく似た黒トラだった。常に本能に忠実なシロは仔猫たちがあたりをうろうろするようになると、さっそくエサの取り方や木登りといった生きのびるすべを仔猫たちに仕込みはじめた。半殺しにしたスズメを仔猫たちに与えて獲物の押さえかたを学ばせ、大家が大事にしている小さな栗の木で仔猫たちを遊ばせながら木登りのコツを教えていた。人間やカラスが近づいてくるとシロは低くするどい声でギッギッギッと警戒音を発し、仔猫たちを呼び寄せた。その様子は野生動物の子育て風景そのものだった。おそらくアフリカのサバンナでもヒョウやチーターの同じような子育て風景がくり広げられているのだろう。野良猫でもヒョウでも動物たちの営みは人の暮らしと地続きにあって、テレビの動物番組が描く「手つかずの大自然」というのはフィクションの中だけではないかと思う。

 秋も深まった日の夕方、後ろに四匹の仔猫を引き連れたシロが薬草園のうねの合間に突っ伏し、ホフクゼンシンをくり返していた。草陰のドバトを狙っているところだった。間合いを計りながらにじり寄り、仔猫たちの目の前でシロは一気に跳躍した。着地と同時に前足で獲物を押さえこみ、一連の動作でドバトののど元に牙を打ち込んだ。その細うで繁盛記ぶりを洗濯物をとりこみながら見ていた母は、「たいしたもんだね、あいつは」とつぶやいた。シロもチビも猫であることにはちがいないが、まるで別の生き物に思えた。

 シロの懸命の子育てにもかかわらず、やはり仔猫たちは冬を越せなかった。野良の仔猫にとって冬は過酷だった。雪の降った一月の朝、軒下でクロによく似た小さな黒トラの一匹が冷たくなって死んでいた。前後の脚を長くのばした姿で横倒しになり、そのまま雪の上で固まっていた。明け方の寒さに耐えられなかったようだった。役所で死んだ動物やペットの火葬を引き受けてくれるというのを聞いたことがあったので、死んだ仔猫を市役所へ持って行くことにした。袋につめたのは母だった。死後硬直で脚を伸ばした姿勢のまま固まっている仔猫を母は泣きながらスーパーの大きな袋へ入れていた。市役所の受付で事情を説明し、いくつかの窓口をたらい回しにされた後、担当部署でかかえていた袋を見せると、窓口の女性は「そ、それがその仔猫ですか」と引きつった顔をした。汚物か生ゴミでも渡されたかのように窓口の女性が顔をしかめて袋を人差し指と親指でつまむ様子を見ながら、庭に埋めてやればよかったなと後悔した。それからまもなく、シロブチとトラブチの仔猫も姿を見かけなくなった。わずか生後五ヶ月でひとりだちしたとは考えにくいので、たぶん生きのびられなかったんだろう。けっきょく、春を迎えることができたのは、もう一匹の黒トラだけだった。

 冬を越した一匹はそのまま我が家に居着いた。仔猫はオスで、濃い黒のトラ模様だけはクロに似ていたが、それ以外はすべて母親のシロにそっくりだった。流線型の体型も、神経質そうな尖った顔も、なにより生きのびることにどん欲なところがシロそっくりだった。クロとチビに割り込んでエサの皿にアタマを突っ込み、たりない時にはもっとよこせと大声で要求した。私はそのシロにそっくりな仔猫に愛情がわかず、なしくずしにエサをやってこれ以上野良を増やすのはよくないと、クロやゴンに去勢手術を受けさせていないのは棚に上げてその仔猫を追い払うよう主張した。母は自分を頼ってくる無力な存在がやはり放っておけないらしく、断固としてうちで飼うと主張し、その痩せた仔猫に「ゴン」という名前を与えた。よくわからないネーミングだけど、興味のわかない私は名前の由来をたずねることもなかった。母は仔猫だった頃のチビ以上にあれこれとゴンの世話をやくようになった。シロの子育てと冬を越せずに死んでいった三匹の仔猫たちを見てきただけに、母は生き残って我が家を頼ってきたその仔猫が愛おしいようだった。雪のつもった朝に軒先で死んでいた仔猫はまるで一卵性の双子のようにゴンによく似ていた。

 このころ我が家の庭に出入りしていたのは、うちでエサをもらっているクロ・チビ・ゴンの三匹と野良のシロ、その他には、向いのアパートで飼われているシッポのまがったトラ猫三兄弟、スガメの赤ブチ、太った白猫、クロ以上に大きな赤トラの計十匹がいた。アパートの三兄弟はおどおどした感じの小さな猫でいつも三匹いっしょにいた。三兄弟はチビのことが気に入らないらしく、向かいの駐車場で出くわすときまってケンカになった。チビは近所のオス猫たちの中で一番ケンカが弱く、追い出されるのはきまってチビのほうだった。母はこの三兄弟のことを「シッポも根性も曲がってる」と嫌っており、庭に入ってくるとサザエさんのごとく箒をもって追い立てていた。クロには歯が立たないらしく、クロが出てくるとそそくさと逃げていく様子はたしかに姑息な感じがした。スガメと太った白猫はやさぐれた雰囲気のオスで、クロのライバルのようだったが、二匹とも真っ向対決は避けているらしく、めったに庭にまで立ち入ってくることはなかった。クロに出くわすと目をあわせないよう顔をそむけ、たいていの場合、そのまま立ち去っていった。発情期でなければオス猫たちも平和主義者のようだった。大きな赤トラは赤い首輪をした飼い猫で、愛嬌があって物怖じしないやつだったが、やたらとケンカが強かった。このころはクロも衰えが目立ってきていて、この大きな赤トラにはまるでかなわなかった。人慣れしていてこちらを見ると「ニャーン」と甘えるような声をあげたが、クロびいきの私としては複雑な心境だった。オオヤマネコのように口吻が長くて鼻の大きい独特の顔をしていた。シロが庭続きの大家の床下をねぐらにしているせいなのか、メスの猫が入ってくることはほとんどなかった。オスの行動範囲が流動的で互いに重なっているのに対し、メスは互いに排他的ななわばりをもっているようだった。

 どこまでも本能に忠実なシロは春になる頃にはとっくに子離れして、スイッチが切り替わったかのように、もうゴンを見かけてもいっさい相手にしなくなった。ゴンを近づけようともしなかった。ときどきクロたちの食事に割り込んでくるだけで、シロは他の猫との交流も好まず、ゴンがどれほど我が家に出入りするようになっても、人間への警戒を解くことはなかった。ゴンもあえてシロに近づくことはなかった。そういう猫同士の距離のとりかたについては互いに暗黙の了解があるみたいだった。猫は基本的に単独生活者で、犬のようなリーダーのいるはっきりとした群れをつくることはないが、互いの暮らしを荒らさないための基本的なルールをもっているようだった。また、エサに不自由せず一定の個体密度があれば、うちの庭に出入りする猫たちのようにゆるやかな関係性をつくるようになる。その中で人間にはわからないサインを出しあいながら、互いの関係性を確かめたり、距離の取り方を計ったりしているようだった。短い子育て期間を勤め終えたシロは、あいかわらず自分に近寄るなというサインを盛大に出しつつ、薬草園でのバードハンティングと大家が大事にしている金魚の漁にはげみ、猫嫌いの家主を悩ませ続けた。まもなく大家は池に網をはった。

 ゴンが居着いてまもなくチビが家出した。体は大きくなってもいつまでも仔猫のようだったチビは、新入りのゴンのことが気に入らなかったようだった。いつでももっとかまってほしいチビは、母にちやほやされる新入りにやきもちをやいたのかもしれない。あるいは、これを機会に独立して自分のなわばりをかまえるときがきたと考えたのかもしれない。とはいってもまあチビのことだから、どうせすぐに帰ってくるだろうと私も母も高をくくっていたが、ひと月たってもふた月たっても戻らなかった。家出から一年以上たった夏のこと、通りの向こうからやけに汚い猫が歩いてくると思ったらチビだった。ほとんどの毛が抜け落ち、赤トラの毛並みがわからないほど全身に広がった皮膚病と膿でただれていた。両目は目やにで埋まって半分も開かないようだった。この一年の間に何があったのか、その姿はぬいぐるみのようだったころを想像できないほど変わりはてていた。母はチビのありさまにただ呆然と立ちつくしていた。あわててエサを用意したが、チビはちらと庭の様子を覗いただけで、エサに口をつけることもなくそのまま立ち去っていった。自分が育った場所を最後に覗きにきたという感じだった。もうチビは以前の人懐っこい猫ではなくなっていた。昼間にもかかわらず、さかりのついたときのような奇妙なうなり声をあげながら、力のない足取りで路地の向こうへ消えていった。それがチビを見た最後だった。

 クロは、チビが仔猫だった頃と同じように新入りのゴンをかわいがった。会うたびにネコチューの挨拶でむかえ、目やにを舐めてやり、エサをゆずってやった。万事鷹揚で悠然としているクロには、町内に何人かの熱心なファンがいて、とくに通りをふたつはさんだところの老夫婦からは、「トコちゃん」と呼ばれてかわいがられていた。トコちゃんねえ、クロどん。そんなクロもやがて老いていった。元気だった頃の姿は見る影もないほどやつれ、ゴンが育っていくのと反比例するように痩せていき、西日の当たる窓辺でうずくまるようになっていった。元気な頃はよくケンカで血まみれになって帰ってきたので、クロもチビも猫エイズを患っていたのかもしれない。その年は冬の間じゅう鼻水を垂らしていて息をするのも苦しそうだった。ゴンが二回目の冬を越した早春、クロはふいと姿を消し、それっきり帰ってくることはなかった。

 私はなかば本気でクロのことを山の神様だったと思っている。飼っていたのではなくお供え物をしていたのだと。クロはとうとう一言も発しないまま去っていったが、俗人に山の神様の言葉がわかるわけもないのだからそれでいい。大食いで魚くさい山の神様は、何をしてくれるわけでもなく、ただいつも軒下にたたずんでじっとあたりを見ているだけだったが、その不思議なやつがそこにいてくれるだけで私は十分うれしかった。十分すぎるほどたくさんのものを私はクロからもらった。

 クロが山へ帰ったのとほぼ同時期に私もアパートを間借りしてそこから大学に通いはじめるようになった。国分寺の古い家には母とゴンだけが残った。去っていった猫たちへの思いと無愛想で冷ややかな息子への失望感とで、母はいっそうゴンを溺愛しているようだった。国分寺の家へ帰るたびにゴンの毛づやは良くなっていき、トラ模様の背中はまるで黒光りしているようだった。いつの間にかゴンは室内への立ち入りも許され、やがてテーブルの上にのぼって母といっしょに食事をするようになっていた。私はそのけじめのなさに怒ったが、「まあいいじゃないか」と母は笑っていた。こういうことに口やかましかった母も五十をすぎて少し老けたようだった。ゴンは母にしか懐かなかった。警戒心の強いところまでシロにそっくりで、ゴンは私を見ると母の後ろへかくれた。

 ゴンは母とともに移った高層住宅の一室で十三歳で死んだ。ゴンは引っ越し先での暮らしのほうが長かった。ペット禁止の集合住宅へ引っ越す際には、ゴンを連れて行くか、新たな飼い主をさがすか、保健所で安楽死させるか、野良に返すかをめぐって一悶着あったが、けっきょく去勢手術を受けさせて連れて行くことになった。愛情はそそぐができるだけカネはかけないというのが母の猫に対する基本方針だったが、ゴンの去勢手術に関しては妥協した。ゴンは引っ越し先で数匹の仲良しができた。他の猫に友好的なのが唯一シロと違うところだった。母に溺愛されたゴンは、歳をとるほど仔猫のようになり、いっそう母に甘えるようになった。ゴンといっしょの母はまるっきり猫おばさんそのもので、近所のこどもたちからは「ゴンのおばちゃん」と呼ばれているらしかった。そんなゴンも死んでからこの春でもう十年になる。

 シロは母が国分寺の家を越す頃にはまだ大家の床下に出入りするのを見かけたらしい。「毎年毎年、子供ばかり産んで困る」と大家は腹立たしげに嘆いていたが、シロが生んだたくさんの仔猫の中で、ゴンの他にも育ったのはいたんだろうか。シロがその後どうなったかはわからない。野良の暮らしはきびしいので、逞しいシロでもそう長くは生きられなかったろう。先日、ひさしぶりに母に会った際、どうして「ゴン」という名前にしたのかたずねてみた。「タンスにゴンが流行ってたからだよ、それになんだかゴーンって顔してたしさ」とわかるようなわからないような答えだった。「ゴンは役所の共同火葬だったからお骨も残ってないし、お線香あげても張りあいがないけど、もうすぐ十回忌だからなにかしてやろうかね、煮干しのアタマを残すのだけは気にくわなかったけど、十回忌だから上等な煮干しでもそなえてやるかね」母はそう言うと続けて「ゴンは野良だったあいつの母親よりも幸せだったんだろうか」とつぶやいた。猫の幸せなんてわかんないよ。

 記憶の中の野良猫たちについて書くとどうにも感傷的な調子になってしまう。好き嫌いに立脚点をおかない猫とのつきあい方というのはやはり思いつかない。ときどき思い浮かべる国分寺の古い家の風景は、自分もまたそこで育ったはずなのに、その中にたたずんでいる山の神様とその仲間たちのせいか、妙に現実感がともなわない。古い家の小豆色の板壁も土の庭も大きなケヤキの木も夢の中の風景のように思える。まあ古い記憶なんてそんなもんだろう。



 話をもどして犬猫考のふたつめは、散歩中の犬の糞尿の始末について。ネットの掲示板でもテレビでもしばしば問題になっているが、こちらもいっこうに社会的コンセンサスが得られない。こちらはあくまで飼い主の感覚の問題なので、散歩中に排泄をさせるのは当たり前なんだから糞尿の後始末なんか必要ないというアンタどんな山ん中に住んでるのって人もいれば、そもそも散歩中に排泄させるなんて飼い主として失格っていうやたらと厳格な人までいたりして、目安になるような合意が形成しにくい。また、都市部と山林がすぐ近くにひろがっている地域とではずいぶん事情が違うだろうし、地域の事情のふくめて考えると一定のコンセンサスを得るなんて不可能で、奈良の騒音おばちゃんのごとくデカイ声で文句を言ったもん勝ちという気がしてくる。野蛮である。さらに糞尿の後始末なんか必要ないなんて言ってる人については、地域の話し合いにも興味ないだろうから、自分ちの玄関先に大量のウンコが毎日こんもりとなっていない限り行動を変えないだろうし、目には目をとなってしまってやはりどうにも野蛮である。

 うちのボロアパートは道路に面した部分がコンクリートで固められていないせいか、よく犬の糞やおしっこのあとが残っている。土の地面だと飼い主にとっても後始末がしやすいんだろう。上に書いたように、私はあまり目くじらをたてるのもという立場なので、糞をさせるのもおしっこをさせるのもかまわないけど、玄関あけていきなりウンコを踏んづけるのは気分が悪いから、糞は拾っていってねくらいに思っている。おしっこはそのままでもかまわないけど、夏場は臭いし、水で流すくらいしてくれるとモアベターよというところ。いちおうここは東京の住宅密集地なんだしさ。ところが、先日、いつも我が家の前でじゃぼじゃぼと大量のおしっこをしていくゴールデンレトリーバーが飼い主のおっさんに連れられてすぐ4件隣の家に帰って行くのを見てしまった。アタマにきた。自分ちは目の前なのにわざわざうちの前でやらせていたなんて、いくらうちがボロアパートで雑草も生やしっぱなしにしてるからってそりゃあねえだろ。これはもう社会的コンセンサスがどうこうという次元の問題ではない。人間性の問題である。こういういけ好かない奴に限って自分ちの前ばかりぴかぴかに掃除してあったりして、もう小市民的エゴ丸出し。おまけにペットボトルまでならべてやがる。なんて下劣な奴。こうなったら鷹揚にかまえていないで、ケンカ上等の挑戦状的な張り紙をでかでかと貼りだしておくべきなのか、只今検討中。「恥ずかしくないのか!」とか「次は名前を張り出すぞ!」とか。ああ奈良の騒音おばちゃん的。こうして世の中はますます住みにくくなるのである。

■ A piece of moment 3/8

 ふと思いたって猫たちを撮した古い写真をデジタル化してみる。先日書いた猫の思い出話とともに写真をこちらのページにまとめてみたので、よかったらどうぞ。野良猫版「ルーツ」といった感じ。
 → about kuro

■ A piece of moment 3/14

 国分寺の猫たちについて書いた文章をゴンの十回忌にあげようと印刷して母に送る。ゴンが喜んでくれたかどうかはわからないが母のほうは喜んでくれた。もうクロたちのことをおぼえている者も私と母しかいないので少しうれしかった。

 ごろごろしながらたまたま見つけたアンジェラ・アキのライブ映像を見る。音楽については以前のようにアンテナを張って能動的に聴くことがなくなってしまったので、すっかり受け身の姿勢になっている。ときどきラジオから流れてくる彼女のバラードの歌謡曲的な印象とはちがってライブは熱唱だった。いままでまともに歌詞を聞いたことがなかったが、多くの歌に信仰や祝福といった宗教的なニュアンスが濃いのも意外な感じだった。「ジーザス」や「ロード」の登場しないクリスチャン・ソングといった印象。彼女の名前もエンジェルだし。とくに最後に歌った「This love」は彼女の信仰の告白をストレートに歌にしているようだった。さびの歌詞の「重ねたこの手を今度は離さない」というのも神への愛のことをいっているんだろう。でないとそれにつづく「信じる力が愛を自由にする」という歌詞の意味が通じなくなる。その歌を聴きながら客席でぼろぼろ涙を流していた女の子たちがみなクリスチャンだとは思えないが、人が全身全霊で神に祈りを捧げる姿というのはたいてい他の者に感銘をあたるのと同様に、こういう場合には宗派のちがいはあまり関係ないんだろう。それに愛と平和の歌にお稲荷さんやお地蔵さんが出てきても場違いな感じなので、ふろしきを大きく広げたら唯一絶対の神様に登場してもらわないと収まりがつかない気もする。ただなぜか私は福音派の信者であるブッシュのことを連想してしまって複雑な気分だった。ホワイトハウスを去る時の記者会見で、彼は「イラク戦争についてはまったく後悔していない」と笑顔でコメントしていた。またテキサス州知事時代に、毎年50人以上もの処刑にサインしたことについて聞かれたときは、「私はいままで後悔というのをしたことがない」とも語っていた。神への信仰があっても戦争も殺人もなくならないが、信仰心さえあればどれだけ大勢のアラブ人や死刑囚を殺しても安らかな気持ちでいられるということなんだろうか。信仰する神をもたない私は、後悔しない人というのが恐ろしい。彼女の歌う「信じる力」というのが「後悔しない力」を意味しているわけではないと思いたいところである。
 → Youtube「This Love : Angela Aki」

■ A piece of moment 3/15

 以前、なぜおまえは「心の教育」に反対なんだというメールをもらったことがあったので、FAQに追加しておきました。4番目にあります。
 → FAQ

■ A piece of moment 3/20

 何冊かまとめて大島弓子の漫画を読む。十数年ぶりのことだ。

 大島弓子のマンガは、主人公が女の子か男の子かによって、物語の構成が大きく異なっている。 女の子の主人公たちが「攻め」で自ら事件を巻きおこしていくのに対して、男の子の主人公は「受け」で他者の事件に巻き込まれることでストーリーが展開していく。作品数からいうと圧倒的に女の子を主人公にしたものが多い。「少女マンガ」という媒体では、主人公が女の子であるほうが読者の共感を得やすいんだろう。主人公の女の子たちは、みな純情で夢見がちでエキセントリックな不思議ちゃんたちだ。それはたぶん作者自身の分身でもあるんだろう。彼女たちは散文詩のようなモノローグによってその世界の姿を規定し、周囲の者たちの言動に違和感をいだき、やがて自らの体当たりの行動によって周囲を事件に巻き込んでいく。夢見がちな少女がそのエキセントリックな言動によって次々と事件を起こしていくという展開は、「赤毛のアン」から綿々と続いている少女向け作品の王道路線であり、いかにも少女マンガ的な感じがする。初期の多くの作品をはじめとして、代表作の「綿の国星」や「いちご物語」もすべてこのパターンのバリエーションである。この突撃型のストーリーでは、主人公のまなざしに寄りそいながら物語が進んでいくので、主人公に感情移入できるかどうかにすべてがかかっている。彼女たちの語るモノローグに感情移入ができないと、途端にストーリーの単調さと主人公の独善が目につき、物語の世界も色あせて見えてくる。昔も今も少女ではない私にとってこの構成はかなりつらいものがある。一方、男の子の主人公たちは、周囲の者たちの奇妙な行動や事件に振りまわされる受け身の存在として描かれる。少年マンガの典型的なキャラクター造形の短気でけんかっ早い主人公の男の子とそれを見守るお姉さん的女の子という関係は、そこでは完全に逆転する。たいていの場合、彼らはその年齢にそぐわず、穏やかで思慮深く角が取れており、冷静に状況を見ている観察者であり、ときに手を差しのべる保護者である。周囲の者たちの奇妙な言動に振りまわされてやれやれとため息をつき、戸惑いながらも他者の物語に寄りそい、その物語を支えようとする。彼らは主人公ではあっても、その物語世界の中心にいるわけではない。その世界では他者のまなざしがより強く投影され、場合によってはその世界そのものが他者の世界になる。もちろん主人公は作者の分身ではないし、読者にも主人公への過度の感情移入を求めない。モノローグによって語られる点では変わらないが、主人公のまなざしはひとつの覗き口にすぎない。複数の視線が交錯することによって物語世界に厚みが生まれ、物語の語り手が変化することでストーリーの切り返しが生じる。男の子が主人公の作品はあまり多くないが、「いたい棘いたくない棘」「草冠の姫」「ジギタリス」「ロングロングケーキ」「夏の夜の獏」など、むしろこちらのほうにすぐれた作品が多い。とくに「夏の夜の獏」は構成が演劇的で面白い。代表作である「綿の国星」にしても、主人公のチビ猫がもちまえの行動力によって周囲を巻き込みながら事件をおこしていく突撃型のストーリーよりも、時夫・おとうさん・おかあさんといった周囲の者たちのまなざしが前面に出ている作品のほうが面白い。後期の作品ほど須和野一家の登場する機会が少なくなるが、むしろ、チビ猫を一歩引いた狂言回しの位置において、須和野一家の事件や時夫とひっつめの恋愛模様を描いたほうが物語に広がりが出たのではないかと思う。

 なんてことを思ったんだけど、まわりに大島弓子の読者がいないし、誰もこういう話につきあってくれないので、ひとまずこうしてWebページに覚え書きとしてまとめておくのであった。Webのファンサイトをいくつか覗いてみたが、感情移入型の読者が多いようで、男の子が主人公の作品はあまり人気がないようだった。

■ A piece of moment 3/21

 ソマリア沖の海賊対策に二隻の自衛隊の駆逐艦が派遣された。広島の呉基地から出港するセレモニーでは、恒例の「軍艦マーチ」が演奏された。なぜ軍艦マーチなのか。1991年、国会で大もめにもめた末に自衛隊をペルシャ湾に派遣することが決まった。自衛隊にとってはじめての海外派遣で、その後のPKO活動の先鞭となる「国際貢献」だった。その内情は、湾岸戦争で日本が自衛隊を派遣しなかったことをアメリカからさんざんバカにされたので、湾岸戦争の後始末に自衛隊を送り込んで、今度はアメリカからほめてもらおうというものだった。やはりこの時も自衛隊の艦船が出港する際に軍艦マーチが演奏された。海上自衛隊では、戦前の海軍の慣習に則り、軍艦マーチを「儀礼曲」としているということだったが、当然ながら批判の声があちらこちらから上がった。いくら建前とはいえ国際貢献にいくのに軍艦マーチはないだろうというわけだ。そのあまりにマンガ的な光景にテレビニュースを見ながら大笑いした。政府は自衛隊の派遣が国際貢献であり軍事行為ではないことをしきりにアピールしていたので、軍艦マーチの演奏はやけに皮肉のきいた冗談に見えた。当時の首相官邸は、軍国主義的傾向を不安視する世論に配慮して、海上自衛隊に今後の演奏中止を求めたが、ペルシャ湾から帰港する際には再び軍艦マーチの演奏によって歓迎セレモニーがおこなわれた。腰抜け総理になど耳を貸す必要がないと判断したようだ。悪い冗談などではなく確信犯だったらしい。その後、軍艦マーチで海外派遣を見送るセレモニーはすっかり恒例となり、インド洋での補給活動や今回のソマリア沖派遣まで続いている。自衛隊の船が「軍艦」であることは、自衛隊と防衛省の総意ということらしい。防衛省には田母上が大勢いるんだろう。軍艦マーチ、こんな歌詞である。

軍艦行進曲

守るも攻むるも黒鐵(くろがね)の
浮べる城ぞ頼みなる
浮べるその城 日の本の
皇國(みくに)の四方(よも)を守るべし
眞鐵(まがね)のその船 日の本に
仇なす國を攻めよかし

石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の
龍(たつ)かとばかり靡(なび)くなり
弾丸撃つひびきは雷の
聲(こえ)かとばかり どよむなり
萬里(ばんり)の波濤を乗り越へて
皇國の光 輝かせ
 戦後はすっかりパチンコ行進曲としておなじみになった。やたらと景気の良い曲なので、客からのリクエストも多く、この曲を流すことでパチンコ屋への客足も増えるらしかった。たしかに軍艦マーチが大音量で店内に流れるとなんだか出玉が良くなるような気がした。子供のころ、パチンコ好きで軍国主義者の父がよく出だしの歌詞を口ずさんでいた。父と将棋をやると、きまって父は軍艦マーチを歌いながら棒銀で突っ込んできた。絵に描いたようなヘボ将棋だった。ただ、こうしてあらためて歌詞を見るとすごいね、これ。「皇国日本に仇なす国を攻撃せよ、銃撃の音を雷のごとく響かせよ」とどこまでも勇ましく天皇制ファシズムを歌う。パチンコ屋ならいざ知らず、これを役所が演奏しちゃまずいでしょ。もっとも最近ではパチンコ屋で軍艦マーチが流れることもすっかりなくなったので、むしろ右翼の街宣車と海上自衛隊のテーマ曲という印象をいだいている人のほうが多いのかもしれない。
 → Wikipedia「軍艦行進曲」
 → YouTube「軍艦行進曲(軍艦マーチ)」
 → 東京新聞 【検証 ソマリア沖派遣】2009年3月15日

■ A piece of moment 3/22

 クロについての話の中で、「台湾で光るメダカが開発販売されているんだから、そのうち遺伝子を組み換えられた犬や猫が開発されるかもしれない」という趣旨の文章書いたが、2006年にすでに開発されているらしい。こういうのは少し目を離すとどんどん新しいことが起きる。開発されたのは、猫アレルギーが起きないよう遺伝子組み換えによってアレルゲン物質の発生を抑制した猫。アメリカのベンチャー企業によって開発され、1匹3950ドルで販売予定とのこと。数年前にはクローンペットの販売をはじめたベンチャー企業もあったし、アメリカはバイオ産業に関しては無法地帯なんだろうか。妊娠中絶の是非については、産科医が反対派に殺されるほどの大騒ぎになっているのに、一方でこうしたバイオビジネスや生殖医療ビジネスについては、ほとんど野放し状態ってどういうことよ。そりゃまあ遺伝子組み換えペットも需要はあるんだろうけどさ、それにしてもこうした遺伝子操作へのアメリカ世論の抵抗感のなさには驚かされる。

アメリカのアレルカ社、猫アレルギーの人でも安心して飼える猫
「hypoallergenic猫」を遺伝子組み換えで「開発」
Garbagenews 2006年09月19日 07:00
アメリカの【アレルカ】社は9月18日までに、世界初となる低刺激性の猫「hypoallergenic猫」を発売すると発表した。バイオ技術を用いて遺伝子組み換えを行い、アレルギーの原因となるアレルゲン物質の発生を抑えるため、ペットアレルギーを持つ人でも影響を与えないという。同社ではまずブリティッシュ・ショートヘア種に対して繁殖を進め、2007年から発売を開始する予定(【参照:テクノバーン】【アレルカ社発表リリース】)。

世界中には何百万人もの猫アレルギーを持つ人がいる。猫アレルギーは目や鼻、耳、のど、肺、皮膚に影響を与え、かゆみやクシャミなどさまざまな症状を発生しうる。喘息の原因にもなる。それでも猫を飼っている猫アレルギーの人は、猫アレルギー全体のうち1/3にも及ぶという(つまりアレルギーの発生を我慢してでも猫を愛しているということ)。薬や治療で猫アレルギーを抑える方法もあるが、時間がかかり、コストも高くつく。

アレルカ社のリリースによると、今回「開発」された「hypoallergenic猫」は猫アレルギーに反応する物質を対外に出さないよう遺伝子操作を行い、「猫アレルギーの心配が不要な猫」を産み出したとのこと。

価格は基本料金が3950ドル(約45万円)。各種アレルギーテストや猫の飼育のための各種アイテム、1年間の保証契約、健康診断書などが付随する。ただし料金支払いから実際に猫を受け取るまでにはしばらく(最長で2年前後)かかるという。プレミアオプションとして、この待ち時間を短縮するためのコースも用意されているが、こちらは料金が付加されて5900ドル(約68万円)となる。アメリカと一部諸国以外への輸出の場合にはさらに1000ドル(約11万5000円)が追加される。

今件については「猫アレルギーがひどいけど猫をどうしても飼いたい」という人のニーズに答えるという意味では画期的だが、「遺伝子操作をしてまで飼う必要があるのか」とする意見も多い。また、これら遺伝子操作された動物が野生化した場合、自然界に与える影響は無視できず、これまでこれらの動物が一般向けに販売されることは少なかった。テクノバーンも指摘しているように、【環境省】でも台湾で開発された、くらげの遺伝子を組み込んだ「光るメダカ」について、自然界に与える影響を考慮するなどの理由から2006年2月には自主回収命令が出ている(【発表リリース】)。

当方(不破)も無類の猫好きなだけに、「猫アレルギーでも猫を飼いたい」という愛猫家の気持ちは分からないでもない。しかし「神の手による生物の設計図」たる遺伝子を書き換えてまで、人間の欲望を満たすための愛玩動物を「開発」して繁殖させても良いものかという問いには、正直首を傾げざるを得ない。今後さまざまな方面で論議が交わされることとなるだろう。
→ http://www.gamenews.ne.jp/archives/2006/09/hypoallergenic.html
 日本では2004年からカルタヘナ法が施行されているので、蛍光緑色に光る遺伝子組み換えメダカもこの低アレルゲン猫も輸入や流通は規制されている。遺伝子組み換え大豆やトウモロコシのように国の認可を受ければ、輸入・生産が可能になるが、農産物とちがってペットの遺伝子組み換えが認可される可能性は限りなく低いだろう。ほっとひと安心という感じだが、このカルタヘナ法はあくまで生物多様性を守るために、遺伝子組み換え生物による生態系へのダメージや遺伝子汚染をふせぐという趣旨の法律で、生命の遺伝子操作自体の倫理的基準を定めたものではない。なので、不妊処理をほどこして安全性や環境対策の問題をクリアーすれば、遺伝子組み換えペットについても認めろという声が出てくるだろう。とくにバイオベンチャーを擁護するアメリカ政府から、遺伝子組み換え大豆やトウモロコシ同様に安全なんだから認可しないのは不当な保護貿易だと批判されたらどうするんだろう。来年度の授業では、この遺伝子組み換えペットの問題を取りあげてみようと思う。

■ A piece of moment 3/23

 ジェネティック・ペットについて演習授業のページでまとめる。個人的には「B」を全面的に支持する。私は猫たちを「山の神様」だと思っているので、ペットの遺伝子組み換えだけでなく、ペットの品種改良も血統書つき犬猫をありがたがる風潮にも反対である。
 → 遺伝子組み換えペット

■ A piece of moment 4/11

 ひさしぶりに野球中継を見た。真弓が阪神の監督をしていた。驚いたことにすっかり太っていた。真弓といえば、痩せていて目ばかりぎょろぎょろしていた一番バッターのイメージが強かったので、いきなり老眼鏡をかけた小太りのおじさんの姿で登場したことに、なんだか二十年間のタイムスリップを味わった気分。野球中継を見ながら、ゆく河の流れは絶えずしてしかももとの水にあらずのしみじみした思いを味わう。

■ A piece of moment 4/20

 臓器移植法の改正を加筆修正。
 → 臓器移植法の改正

■ A piece of moment 4/27

 エホバの証人輸血拒否事件を追加。資料映像にでてくるフェイス・タバナクル教会信者のお父さんが、「ザ・シンプソンズ」のお隣さんにそっくり。原理主義クリスチャンのひとつの類型なんだろう。避妊しないから子沢山というのはわかるけど、口髭をはやしていたりシャツのボタンを一番上までとめていたりするのもなにか宗教的な意味があるんだろうか。ホーマーにいつもからまれているあのお隣さん、なんていったっけ。
 → エホバの証人輸血拒否事件

■ A piece of moment 6/23

 ベネトンの広告についての文章を加筆修正する。
 → ベネトンの広告
 → オリビエロ・トスカーニによるベネトンの広告

 当方の生活はあいかわらずで、授業やって試験問題つくってレポートの採点して録画した映像資料を休日にまとめて見るという感じ。でぶ解消と腰痛対策のため国分寺駅まで5kmを歩いて通勤してます。

■ A piece of moment 8/6

 お暑うござんす。

 3年ほど前のこと、奇妙な電話がかかってきた。電話は知らない女性からのもので、先日、我が家の電話番号から自分の携帯あてに電話が入っていたので、その確認の連絡だという。もちろんこちらから電話を入れたおぼえはないので、NTTに問い合わせてみたらどうかとすすめる。電話の向こうの女性は、問い合わせるときのために、こちらの名前を教えてくれという。べつに秘密にする理由もないので告げる。ただ、女性は妙に話なれた調子で、本屋の店先で「キャンペーンやってます」とアタマの悪い人たちに高い英語教材を売りつけるおねえさんたちと同種の抑揚で話していたのが気になる。念のためにこちらからもNTTに問い合わせてみるが、我が家の番号からその女性のいう番号あてに発信した履歴はないとのこと。あれはいったい何だったんだろうという疑問が解消されないまま一週間がすぎたころ、今度は知らない男性から電話がかかってくる。「ムラタさんは現在の家賃よりも安い支払いで持ち家が手に入るとしたら興味ありませんか」と話しはじめる。ああこのための下準備だったのか。いきなりこちらの名前をあげて切り込んでくるセールストークはそれなりにインパクトはあるけどさ、それにしても名前を聞き出すくらいでずいぶん手の込んだことをするもんだ。

 疑問が解けて気分がいいので、家賃よりも安く家を売ってくれるという男性のありがたい話につきあうことにする。もっとも、こう露骨に怪しいセールストークで家買いますって人が存在するとは思えないので、相手の意図は依然としてさっぱりわからない。男性が言うには、この電話は不動産のセールスではなく、持ち家を無理なく手に入れるための情報提供の場の「お知らせ」なのだという。ふつうそういうのをセールスというのであり、持って回った言い方をするのは余計にいかがわしい。そう指摘すると、男性はやや憤慨した調子で「これはセールスではないといっているではありませんか、アナタ、人の話を聞かない人ですね、よく人からそう言われるんじゃありませんか」と言う。これは驚いた。見ず知らずの相手からの怪しい電話で自分のコミュニケーションのあり方について説教されるとは思いもよらなかった。思わず吹き出してしまう。「いえ、これは私のコミュニケーション能力の問題ではなく、自らのコンテクストによる解釈を相手にも強要しようとするあなたの強引な姿勢に原因がある、住宅販売のために情報提供をする行為もふくめて「営業」であり、「セールス」である」、込み上げてくる笑いを抑えつつそう指摘すると、なぜか相手は激怒。よほどセールスマンと思われるのが嫌らしい。
 「だぁーかぁーらぁー、セールスじゃないって言ってるじゃありませんか」
 「ではなんなんの?販売のために情報を提供する行為もふつうセールスの一貫っていうよ、セールスならセールスで良いじゃないか、アンタ、セールマンへの差別意識の持ち主?それとも私に不動産を販売するつもりはないの?なにがしたくてこんな電話かけてるの?」
 「ムラタさん、アナタみたいに人の話が聞けない人間になにを話してもムダだからもう結構」
 「アンタ、なにがしたくて夜中にこんな電話かけてるの?」
 「アンタ呼ばわりとは、ずいぶん無礼な口の利き方するね、ムラタさん、私にケンカ売ってんの?」
 「それはこっちのセリフ、アンタ、なにがしたいの?正しい日本語について俺に説教したいの?」

 最後はたがいに電話に向かって怒鳴りあう。
 「オイコラ、こっちが下手に出てりゃあつけあがりやがって、電話だと思って調子にのんじゃねえぞ、コラ、こっちには名前も住所も電話番号もわれてんだよ」
 「名前と電話番号知ってるくらいでだからなんだって言うんだよ、笑わせんじゃねえよ」
 「オイ、いまからうちの若いの押しかけるから首洗って待ってろよ」
 「おう、すぐ来い、「若いの」なんてもったいつけてないでオマエが来い」

 というわけで大声でタンカを切りあって大いにストレス解消したのであった。もちろんヤクザ不動産屋氏の訪問はなかった。ただ、このチンピラまるだしのヤクザ不動産屋氏がけっきょくなにをしたかったのか、最後までさっぱりわからなかった。3時間近くも電話をしていてこれでは、労働生産性が悪すぎるのではないか。言葉づかいと礼儀にうるさいヤクザ不動産屋氏は「アナタ様」とでも呼びかけないと、家賃よりも安く家が買えるというありがたい話は聞かせてくれないのかもしれない。

 そんなことがあって3年、先月末再び、我が家の電話番号から通話記録があったという女性からの電話がかかってくる。前回はハスキーな声だったが今回はやや舌っ足らずな話し方をする女性で別人のようだが、話の内容のほうはまるっきり同じ。今回も確認のために名前を教えてくれと言うので、もちろん教える。で、待つこと一週間、「ムラタさんは現在の家賃よりも安い支払いで持ち家が手に入るとしたら興味ありませんか、あっ、これはムラタさんに不動産販売のセールスをしようというのではなく、情報提供の場を用意してお待ちしようというものでして……」。来ました来ましたお待ちしてましたよ。あいかわらずもってまわった言い回しで話の趣旨がさっぱりつかめないし、持ち家にもまったく興味はないけど、アナタについては大いに興味があります。2回目だと新鮮味はないけど歓迎しますよ。今回は大作のPCゲームをコンプリートしたばかりで気分も良いしさ。

 今度の電話の主は若い声の男性。やけに軽い調子で、お笑いは好きかだとか好きなテレビ番組はなにかといったどうでもいい話からはじめて、歳はいくつなのか、結婚しているのか、家賃はいくらくらいなのか、どういった仕事をしているのかという私的なことを尋ねてくる。今回も不動産に関する話は最初だけで、それ以後まったくしてこない。先方の話し方はあくまでていねいだが、土足でこちらの懐にずかずか踏み込んでくる感じで、こういうのを慇懃無礼っていうんだろう。てきとうに調子を合わせて、喜劇も落語もコントも漫才も好きだが、「お笑い」という表現は「吉本的笑い」を表しているようで気に入らない、「お笑い芸人」や「お笑いタレント」はもっと気に入らない、より正確に表現すると不愉快である、お気に入りはイッセー尾形と柳家紫文だけど、イッセー尾形が「お笑い芸人」なんて呼ばれているのは聞いたことがない、よって「お笑い」も「お笑い芸人」も大嫌いである、とまあそんな調子で応じるが、あきてきたのでなぜうちの電話番号を知っているのかを尋ねてみる。
 「それはですね、先日我が社のものがムラタさんのご町内を訪問しまして、直接お会いできなかったかたにこうしてお電話を差し上げているというしだいでして……」
 「それはうちの電話番号を知っている理由の説明になっていませんよ」
 「住宅地図を見れば、みなさんのお住まいの住所やお名前はわかりますよね、それをコンピューターに登録しましてランダムアクセスで解析した結果、こうしてお電話番号を特定しているわけでして……」
 「あははははは、そのランダムアクセス解析ってなんですか?意味わかって言ってる?ビールの「プリン体」じゃあるまいし、聞き慣れないカタカナ言葉で煙に巻こうっていうのはいまひとつ芸がないね」
 「でも、仕方ないじゃないですか、事実なんですから」
 「事実というのは、住所から割り出せる電話番号は市外局番だけである、市外局番が同じでも以下の番号は無数に存在する、よっていくらデータベースに住所を登録しようと電話番号は特定できない、これが事実、そんなことは小学生だって知ってるよ、したがってアナタの言っていることは事実ではない」
 「いいですかムラタさん、企業というのは組織で動くものでして、分業体制になっているわけです、電話を担当している私はムラタさんのお名前が含まれているリストを渡されて、こうしてお電話を差し上げているだけでして、地域訪問の担当者がどういう経緯でムラタさんの連絡先を入手したかまでは存じ上げないわけです、ただ、ご近所のかたから世間話の中でお聞きしたのかもしれませんし、お電話番号を知る機会なんていくらでもあると思いますよ」
 「それは考えられないよ、近所の人がうちの電話番号を業者に教える機会がいくらでもあるなんて主張するのは非常識」
 「ご近所の方々と疎遠なんですか?」
 「大きなお世話です」
 「ずいぶんけんか腰ですね、もしかしてムラタさんは当社が名簿会社から買ってるんじゃないかとお疑いなんでしょうか、だとしたらそうした心配は的外れです、当社はそういう業者とのつきあいは一切ありませんから」
 「アナタはさっき自分はリストを渡されただけでそれ以上の事情は知らないって言ったよね、ならどうしてリストの出所まで保証できるわけ?」
 「それは言葉のあやでして、人の言葉尻をとらえますね」
 「こういうのは言葉尻をとらえるとは言わない、アナタのいっていることはつじつまが合っていないと指摘しているんだ」
 「ともかくないものはないんですから、これはもう信用していただくしかないわけでして……」
 「ないものはないなんてまるでこどもの言い逃れだね、本気でこちらの信頼を得たいと考えているなら、明快な論理的根拠を示すべきだよ」
 「ムラタさん、酔っぱらっているんですか?」
 「は?」
 「だねとかだよとかだってとかさっきとか、とても社会人としての発言とは思えないもので、職場でもそういう口の利き方をなさっているんですか?」
 「アナタはさっき人の言葉尻をとらえるといったけど、言葉尻をとらえるというのは、いまのアナタの発言にこそあてはまる表現だよ」
 「ほらまた、だよって、こんな事申し上げて失礼かもしれませんが、ムラタさんの言葉づかいは社会人としていかがなものかと思いますよ、職場でどういった業務をなさっているんでしょうか」

 とまあいう調子で今回も3時間のフルコース。同道めぐりのかみ合わない会話で先方がなにをしたいのかさっぱり見えてこない。おまけに「自称26歳・自称仏教大教育学部卒・自称新卒入社2年目」の若僧に社会人としての心構えについて説教される。大笑い。しまいには向こうもあきてきたらしく、最後はこんな調子で終わる。
 「ねえ、ムラタさん、こういう電話をしていて楽しいんですか?」
 「ええ、大いに楽しいですよ」
 「自分が信用できないと思っている相手とこうして3時間もえんえんと電話をしていて、同じはなしを同道めぐりしていて、もう電話を切りたいって思わないんですか?」
 「それは自分が信用に値しない人間であると表明しているという意味かな?」
 「いえちがいます」
 「なら大いに話を聞きたいね、こういう状況でも明晰判明な根拠を示してこちらを納得させてくれるだろうからさ」
 「それはもう十分しています」
 「まったく不十分だよ、アナタがいままでに挙げたことは、居住地域がわかれば電話番号は特定できる、自分はリストを渡されただけで事情は知らない、でもそのリストの出所は怪しいものではない、以上3点だけだ、こんな子供だましの言い分で納得しろとはずいぶんツラの皮が厚いね」
 「で、そう思っている相手とえんえんと電話で話していてうんざりしないんですか、こんな電話もう切りたいって」
 「思わないよ、アナタは誠意ある人間とのことだから、こちらが膝を打つような素晴らしい返答をしてくれると大いに期待していますよ、それともアナタのほうがもう切りたいって思っているのかな、だとしたらそんなもってまわった言い方はすべきではない、「最後まで要領を得ない話しかできずにすいません」と謝って自分から電話を切るべきだ」
 「私からはもう十分示したし、こちらからお話しできるのは以上です」

 というわけで、今回も相手の意図がさっぱり理解できなかった。ただ、私の話し方やコミュニケーションの取り方について「社会人としてなってない」と説教するというのは3年前とまったくいっしょで、社員教育がずいぶんと行き届いているようだ。自称26歳新卒入社2年目氏によると、「やりがいのある職場です」とのことでなによりである。どういうところにやりがいを感じるのかと尋ねると、彼は実績を上げたぶんだけ評価されて二年三年で昇進も可能であることと上司の発言にブレがなくて信頼できることを挙げた。言動にブレがないというのは自己批判能力が欠落していることを意味しているのではないか、だからこそヒトラーはユダヤ人撲滅に邁進し、ブッシュはイラク戦争に邁進した、私はブレのない人間こそもっとも信頼に値しないと考えている、そう彼に言うと、「そんなものですかねえ」と電話の向こうで鼻で笑っていた。

 いまのところこちらに実害はまったくないが、相手が何をしたいのかさっぱりわからないというのはかえって気色が悪い。いくら考えてもわからなかったので、警視庁生活安全総務課の振り込め詐欺対策係に問い合わせてみる。
 → 警視庁 生活安全総務課 生活安全対策第三係 振り込め詐欺

 電話に出たのはベテランらしき警察官。いままでの経緯を説明し、同じようなケースでの相談がそちらによせられていないか、どういう意図で向こうが電話をかけてきているのかを尋ねる。社会人としての心構えについて説教されたというと電話の警察官も吹き出していた。
 「いまのところ、金品を要求されたり、脅迫されたりということはないんですね」
 「ええ、2回とも最後は互いにけんか腰で罵倒しあうという調子でして、とくに実害はないんですが、相手の意図がわからないのでかえって気持ちが悪くて」
 「それはプライバシーを聞き出すための電話です、住宅販売というのは相手から話を引き出すためのたんなる名目で、おそらくそれ自体が目的ではないでしょう、実際に不動産業務に関わっているかどうかも疑わしいです、そうして相手の生活状況を把握して、恐喝や詐欺の材料にしようというねらいだと思います、もし勤め先を聞き出したら今度は職場に脅迫まがいのいやがらせ電話をかけてくるはずです、あるいは家族構成やご実家を聞き出したらあなたの名前で電話して振り込め詐欺を行う可能性もあります、なので一切教えないようにしてください」
 「なるほど、それにしてもずいぶん手の込んだことをしますね」
 「振り込め詐欺にしても一件あたりの被害総額は数百万円から数千万円になりますから、組織的に何度もくり返し電話をかけるという手間は、一種の先行投資として十分元が取れるとふんでいるんでしょう」
 「こちらの言葉づかいや電話の応対について説教するというのはどういう意図なんでしょうか?」
 「そうした連中はけっして自分の非を認めて謝るということはしませんから、相手が自分の思うようにならなかったり、思うように話が聞き出せなかったりすると、言葉尻をとらえてさも非が相手にあるかのように難癖をつけようとします、自分が悪質な電話をかけているのを棚に上げて相手の言葉づかいを咎めるなんてどう見ても理不尽ですが、道理の通じる連中ではありません、「若い者押しかけるぞ」なんて典型的なチンピラの捨てゼリフですね、いずれにしてもまともに取り合う必要はありません、もし今後エスカレートするようでしたら地元の警察署に相談することをおすすめします」

 とのことであった。こちらはいたって理路整然とした話しぶりで大いに納得する。目的がゆすりのための情報収集だという指摘も単純明快で、そう種明かしをされると他の意図など考えられない。意図がわかって一気に興ざめである。次回からは応対は留守番電話にまかせることにする。

■ A piece of moment 8/24

 以前つとめていた高田馬場の職場の近くに、インドの人がやっている小さなカレー屋さんがあった。カレー粉というのはイギリス人の発明で、インドの料理に「カレーライス」というのは存在しない。あるのはスパイスを複雑に組み合わせた無数のバリエーションと地域やカーストによって異なる調理方法だ。もしそこのコックさんがインド北部出身なら、タンドリーチキンとヨーグルトを使った酸っぱいスープとナンを注文しよう。ぱりぱりしたチャパティよりももちもちしたナンのほうが好みだ。もし南部出身なら、うんと辛い魚料理とココナッツミルクを使ったスープを注文しよう。そう意気込んで店に入ってメニューを見ると、「チキンカレー」「野菜カレー」といった文字が並んでいて、愕然としたことがある。出てきたのは味も見た目も本当にごくふつうの「カレーライス」だった。まずくはなかったが、なんだかラーメン屋でカップ麺を出されたような気分だった。

 ここ数年、インドの人がやっているカレー屋さんというのがやたらと増えた。いまの勤め先は田舎の小さな駅の近くにあるが、そんな場末の商店街にもインドの人が家族経営しているお店がある。でも、メインはやはり「カレーライス」で、ラサムのスープもないし、ナンを焼くこうばしい香りも、ごりごりと石臼でスパイスをひくつんとする香りも漂ってこない。それが日本人の味覚に合わせたためなのか、本国ではもともと料理になど縁のない人たちがとりあえず移住先の日本で店をはじめただけなのかはわからないが、こちらとしては「本場インド」の看板に多少の期待があるだけに、ごくふつうの「カレーライス」が登場すると妙に裏切られた気分になるのだった。いままでに入ったインドの人がやっているお店で、まともなインド料理が出てきたのは、15年前に入った立川の店一件だけである。そんなことから、うちの近所に数年前にできたインド料理店は、「インド人シェフの」という看板が前を通るたびに気になるんだけど、なかなか入る気にならない。

 先日読んだ「インド・カレー紀行」によると、最近ではインド本国でも「近代化」によって石臼でスパイスをひいている家庭などほとんどなくなって、できあいのミックススパイスを使うようになっているらしい。レトルトカレーがインドで売り出されるのも時間の問題ではないかという気がする。それはそれで別にいいんだけど、ただ、店でまでそういうのを出すようになったらレストランの存在意義がないように思う。私は料理が大嫌いな親に育てられたうえに本人も無精なので、「家ではファストフード、まともなものが食べたければ外で」という発想である。もっとも、ファミレスやCoCo壱やC&Cはどこもみんなレトルトの食材を使ってるらしいから、現代日本で800円のランチに生のスパイスをひいてつくるのを期待すること自体が理不尽なのかもしれない。というわけで、今日もスーパーのカレー弁当でいいや。

■ A piece of moment 8/26

 町山智浩が「Newsweek日本版」に書いている「ビッグ・リボウスキ」の記事(→こちら)を読みながら、アメリカのボウリング事情のことを思い浮かべる。せっかくなので以前書いた文章を直してみる。あいかわらず情報募集中です。ちなみに私の空想の中の1970年代アメリカというと、ボウリング場とセブンアップのジュースとピーナッツの漫画のイメージです。
 → 75. ボウリング・イン・ザ・USA

 関係ないが、メイド喫茶で「お帰りなさい、ご主人様」と言われて、「この娘は僕のM奴隷になりたいにちがいない」と勘違いする客というのはいないんだろうか。あの格好で「ご主人サマ」と言われたら、メイドよりもM奴隷を連想する人のほうが多いんじゃないかと思うんだけどどうでしょう。

■ A piece of moment 9/11

 先日書いたインドの人がやっているお店について、気になったので何人かの友人知人に聞いてみた。

「前に職場の打ち上げで入ったインド料理のお店、ディナータイムなのにお客さんが私たち以外に誰もいないのよ。料理はちゃんとしたインド料理だったし、厨房にはインドの人らしきコックさんが3人と経営者らしきインドの人の計4人もいたけど、逆にどうしてあれでやっていけるのか不思議だったわ。もしかしたら、あのインドのコックさん、ものすごい低賃金で働いてるんじゃないかしら。ほら、中小の工場が、「研修生」の名目で最低賃金以下で外国人を雇ってるでしょ。あれと同じような出かせぎ労働の実態が飲食店にもあるんじゃないかって思うんだけど……」

「ああ、そういえば家族経営でやってるような小さなインド料理の店、増えましたね。たしかに、あれ見るとこんなに多くのインドの人が日本に暮らしているのかって、あらためて驚かされます。日本は外国人が労働ビザを取るのが難しいってよく言われますが、どうやってビザ取ってるんでしょうね。あ、僕の入った店はちゃんとしたインド料理でしたよ。あのやたらと甘いデザートにはまいりましたが……」

「インドから来たコックさん、たいていは経営者の親類だったりそのツテだったりして、来日するみたいですね。以前、新聞で読んだんだけど、あの人たちはそういうつながりで働いているから、正規の賃金が支払われていないケースが多いようですよ。「研修生」の名目とかそういうのでなく、親類の家業を「手伝ってる」というところでじゃないでしょうか」

 私はうまいラサムのスープが飲みたいだけだったが、みなさんまじめなので、すっかり話が労働問題になってしまったのだった。

 おくればせながらマイケル・ムーアの「Sicko」を見た。最近の「ボウリング・フォー・コロンバイン」や「華氏911」は、ブッシュ政権への怒りを前面に出して、「毒をもって毒を制する」という作りだったけど、こちらはていねいにエピソードを積みあげているという印象。すごく良かった。映画を見ながらスタッズ・ターケルの本のことを思い浮かべた。

■ A piece of moment 9/15

 「シアター・テレビジョン」というスカパーのチャンネルがある。名前のとおり劇場中継専門のチャンネルで、小劇団から大手まで、またオペラやバレエの公演も放送してきた。私はもっぱら小劇団の舞台中継を見るために契約している。先日、ひさしぶりにチャンネルを合わせると、なぜか舞台中継ではなく、西尾幹二が登場して「日本は神の国」だと話しはじめた。イスからころげおちそうになった。チャンネルを確認するとやはり「シアター・テレビジョン」で、番組表には、志方俊之が日本の核武装をとなえる講座や笹川陽平による日本人のナショナリズムを鼓舞する講座といった内容がずらっとならんでいて、一日の半分近くを国粋主義の言論番組が占めている。肝心の劇場中継のほうはほとんど消えてしまっている。いったい何事かとネットで確認したところ、今年4月にチャンネルの経営が変わり、新しく社長になった浜田マキ子の趣味で右翼の広報メディアと化したとのこと。近頃もっともおどろいた出来事である。
 → 北野誠の番組降板以上の衝撃 シアターテレビジョンが右翼に電波ジャック
 → シアター・テレビジョン改悪
 → Wikipedia「浜田マキ子」

 みなさん怒っているようです。ただまあ、あくまでCSチャンネルだから、「特定少数のための」ピンポイント放送として、視聴者の需要があるなら一日中「神の国講座」をやっていてもかまわないし、「インターナショナル」と労働歌を24時間流しつづけるチャンネルがあってもかまわないし、UFO党による「開星論」をひたすら放送するチャンネルがあってもかまわない。それほど熱心な演劇ファンでない私は、チャンネルを解約するだけのことである。

 もっともシアター・テレビジョンの右翼メディア化には、ふたつの問題がある。言うまでもなくひとつめはこれが「シアター・テレビジョン」であるということ。肝心の劇場中継をわきにおいやった放送内容は、看板に偽りありということになる。放送内容の半分近くを国粋主義の広報にあてるというのならば、既存のチャンネルを改変するのでなく、新規にチャンネルを立ち上げて、「神の国チャンネル」とでも名づけるべきである。劇場中継を期待している演劇ファンが現在の看板に偽りありの「シアター・テレビジョン」に怒るのは当然である。かつてあったチャンネル桜の場合、日本文化の紹介というのはあくまで名目だけで、放送内容はすべて国粋主義者による言論番組だったが、こちらはもっぱら「右翼チャンネル」として認知されてきたので、十年以上にわたって舞台中継を続けてきたシアター・テレビジョンと同列には論じられない。ネットの声の中には、「私は日本を神の国だと思っているし、西尾幹二の発言にも概ね賛同しているが、この番組改編は演劇に関わる者として許せない」というのもあった。

 もうひとつの問題は、CSチャンネルといっても公の電波を使う以上、国の認可が必要という制度になっており、ある程度の「公共性」が求められるという点である。この点で右翼のアジビラとは性質が異なる。「公共性」というあいまいな概念がいったい何なのか、私にはその正体がよくわからないが、ひたすらノラ猫の首を切断する変質者による変質者のための実録チャンネルや手足のないダルマM奴隷出演のウルトラハードSM専門チャンネルについては、おそらく認可が出ないだろう。そういう意味で、「神の国チャンネル」も「労働者インターナショナル」も「UFO党オリオン座通信」も新規申請の場合、認可されない可能性が高い。じゃあなんでシアター・テレビジョンはあの内容で放送してんのよということになる。

 というわけで、さっさとチャンネル契約を解除しよう。
 → シアター・テレビジョン
 → 日本文化チャンネル桜(現在はCSから撤退し、インターネット放送へ移行)

■ A piece of moment 9/18

 ひさしぶりに男の子のバレエダンサーについての疑問を加筆修正する。
 → 72.バレエダンサー

■ A piece of moment 10/6

 奨学金の返済をする。たまっていた税金の支払いもすませる。家賃もまとめて支払う。さらにバイクの車検もすませる。そんな支払ってばかりの9月10月なのであった。奨学金はようやく学部ぶんの返済が完了。大学院ぶんはあと50万円。

 ネットで「奨学金」「返済」をキーワードに検索すると、「借りたカネは返さねえとダメだろ」式の発言ばかりがずらっとヒットする。この「借りたものは返せ」という発想は、一見まちがいではないように見える。しかし、奨学金というのは基本的に社会保障のひとつであって、学資ローンとは性質が異なる。奨学金は「教育を受ける権利」への公的支援なので、どこの国でもふつう「貸与」ではなく「給付」である。日本で一般的におこなわれている貸し付け方式の奨学金というのは、世界的にはかなり特殊な状況である。調べてみたところ、日本以外に貸し付け方式の奨学金が存在するのは、アメリカのごく一部の奨学金だけのようだ。日本は「経済大国」ということになっているが、アジアやアフリカの貧しい国でも奨学金は給付である。なので、百歩ゆずって「日本の奨学金は貸与だけど、サラ金業者とちがって教育権の保障のため公的支援だから、返せるときに後輩への寄付のつもりで振り込んでね」というのなら、まだ納得できる。しかし、日本のようにやたらと取り立てが厳しくて、いくら事情を説明しても延滞金をがんがん加算させるというのでは、利潤を目的に民間業者が貸し付けをおこなう学資ローンとなんら変わらない。こうした状況は、育英会が学生支援機構に改変されてから、いっそうエスカレートしている。それはもはや「奨学金」と呼べるものではない。日本の常識は、けっして世界の常識ではない。

 さらに言うと、公立高校が無料ではないのは先進国で日本だけ。国際人権規約批准国の中では、日本以外には、最貧国のひとつであるルワンダとソロモン諸島だけ。ルワンダやソロモンは、某経済大国とは事情が異なり、「教育権は大事だけど国際支援を受けて国づくりをしているところだから無償化はもうしばらく待ってね」というところである。さらに、国立大学が無料でないのも先進国では日本とアメリカだけ。高校も大学も大学院も公立学校はすべて無料なのが基本である。なぜか。「教育を受ける権利」は基本的人権のひとつだからである。その国に家庭の経済事情で進学をあきらめねばならない若者が存在するというのは、政府の人権保障の不作為を意味する。その状況を「いったい何のための経済大国なんだ」と批判するならわかる。しかし、それを批判せず、「借りたカネは返せ」式の発言ばかりがあふれるというのを見ると、ここが論理の通じない猿たちの国であるかのような不気味さをおぼえるのであった。

■ A piece of moment 10/8

 台風で電車が止まり授業も休講になる。

 ウィニー開発者が控訴審で無罪判決。
 → 朝日新聞 「ウィニー」開発者に逆転無罪 大阪高裁
「ウィニー」開発者に逆転無罪 大阪高裁
朝日新聞 2009年10月8日
 インターネットを通じて映像や音楽を交換するソフト「ウィニー」を開発し、著作権法違反幇助(ほうじょ)の罪に問われた元東京大大学院助手、金子勇被告(39)の控訴審で、大阪高裁は8日、罰金150万円とした一審・京都地裁判決(06年12月)を破棄し、逆転無罪判決を言い渡した。
 小倉正三裁判長は「著作権侵害が起こると認識していたことは認められるが、ソフトを提供する際、違法行為を勧めたわけではない」と指摘。技術を提供しただけでは、幇助罪は成立しないと判断した。
 懲役1年を求刑した検察側は「刑が軽すぎる」として、被告・弁護側は無罪を主張してそれぞれ控訴していた。
 金子元助手は02年5月、自ら開発したウィニーをインターネットで公開。03年9月、松山市の無職少年(当時19)ら2人=著作権法違反の罪で有罪確定=がウィニーでゲームソフトや映画をダウンロードし、不特定多数へ送信できるようにした行為を手助けしたとして起訴された。
 高裁判決はまず、ウィニーの技術自体への評価を検討。「様々な用途があり、技術は価値中立的だ」と述べ、検察側の「およそ著作物ファイルの送受信以外の用途はない」との主張を退けた。
 また判決は、金子元助手はウィニーが著作権侵害に使われることを容認していたと認定したが、それだけでは著作権法違反の幇助罪は成立せず、「おもに違法行為に使うことをネット上で勧めた場合に成立する」との新たな基準を明示。そのうえで、元助手は違法ファイルを流通させた少年ら2人と面識はなく、違法ファイルのやりとりをしないようネット上で呼びかけていたことを挙げ、刑事責任は問えないと結論づけた。
 さらに判決は、ソフトが存在する限り、それを悪用する者が現れる可能性はあると指摘。悪用されることへの認識の有無だけで開発者を処罰すれば、無限に刑事責任を問われ続けることになるとして、「刑事責任を問うことには慎重でなければならない」と述べた。
 ウィニーで流通する違法ファイルの割合については、調査によって全体の9割から4割まで幅があり、9割前後とする検察側主張を否定した。
 一審判決は、「著作権侵害を認識していた」として罪の成立を認めたうえで、「その状態をことさら生じさせることは企図していない」として罰金刑を選択していた。
 かんたんにまとめると、検察側の言い分としては、
 ・ウィニーは実質的に著作権侵害以外に利用目的がない。
 ・被告はウィニーを開発している時点で、このソフトが著作権侵害の道具として利用されることを予測していた。 = 被告はネットの掲示板に「悪用しちゃだめだよ(笑)」と書き込んでいる。
       ↓
  なので、ウィニーをつくった行為自体が著作権侵害幇助にあたるというもの。ちょうどその改造モデルガンが殺人目的で使われるのを知りつつ、改造をほどこし貸し与える行為が殺人幇助にあたるのと同じだというわけである。

 一方、被告側の言い分としては、
 ・ウィニーをはじめとしたファイル交換ソフトは、サーバーを経由させず、自作のプログラムや音楽・映画等をファイル交換ソフトの入ったパソコン同士で直接やりとりできるようになるもので、使い方によっては様々な可能性をもつソフトである。
 ・被告は、ウィニーを著作権侵害の道具として悪用しないよう、ネットで呼びかけている。
       ↓
  なので、ウィニー自体に違法性はなく、開発行為も違法性はないというもの。

 3年前に地裁判決が出た際に、授業で高校生たちにこの判決をどう評価するのか尋ねてみたところ、ほぼ全員が「無罪」。著作権侵害は、あくまでウィニーを使う側の問題であって、ソフト開発者にその責任を負わせるのは無理があるというものだった。たしかに一審の有罪判決はかなり強引な印象を受けた。微妙なところとしては、「悪用しちゃだめだよ(笑)」という開発者の発言の(笑)の部分で含みがある。検察側はそれを「悪用しないよう真正面から呼びかけている発言」ではなく、「どうせそういうふうに使うんだろという認識」として受けとめた。

 ウィニー経由での公文書の情報流失事件はきわめて多い。一審の有罪判決もそうした事態の深刻さを受けてのものだろう。役所では、職員に対して自宅のパソコンにもウィニーを入れないよう指導している。学校でもしばしばそうした注意を呼びかける文書が配られている。ただ、自宅のパソコンはあくまで私物であり、そこにどんなソフトを入れようがはっきり言って大きなお世話である。ネット経由で公文書の流失が多発する問題の本質は、仕事を家に持ち帰り、私物のパソコンをつかって仕事をしなければならないという労働環境自体にある。試験問題も授業の資料も自宅のパソコンで作成せざるを得ない立場にあるものとしては、「ウィニーを使うな」なんて注意文書を学校で配るくらいなら、俺に仕事専用のパソコンを貸与し、自宅で試験問題や資料を作成している時間ぶんの賃金も支払うべきである。それくらい厳格に業務と私生活とをわけない限り、こうした事件はくり返されるはずである。一審の有罪判決は、そうした労働環境事態の改善にはいっさい手をつけないまま、まずウィニーの開発者を有罪にすることで、プライベートでもウィニーを使う職員をすべて懲罰対象にして事態の解決をはかりたいという国側の意図を感じるのであった。

■ A piece of moment 11/14

 演習授業のページの「飛び入学」について、加筆修正。
 → 飛び入学と飛び級

2010

■ A piece of moment 3/12

 夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、ロッド・スチュワートがヒョウ柄のタイツ姿で現れ、「アイム・セクシー」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「俺にはロックが必要だ!」。

 またもや夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、今度はバリー・マニロウが現れ、「哀しみのマンディ」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「勘弁してくれ、俺にはロックが必要なんだ!」。

 またまた夢を見た。ハカイダーが破壊のかぎりをつくしていると、今度はシャツのボタンを四つ開けたフリオ・イグレシアスが現れ、「黒い瞳のナタリー」を歌いだす。するとハカイダーの電子回路がぶすぶすとショートしはじめる。ハカイダーは、煙を上げている電子頭脳をかかえ、のたうちまわりながら叫ぶ。「たのむからやめてくれ、俺にはロックが必要なんだ!」。

 そんなロックが必要な2010年なのであった。みなさんお元気ですか。
 いくつかの文章を修正しました。
 → FAQの6番目 今度のはわりと気に入ってます
 → 永住外国人の地方参政権

 「永住外国人の地方参政権」のほうは、授業の資料に使うので、入管の統計データーを新しいものにして、会話文のくどいところやわかりにくい言い回しを修正。この文章は、なぜかリンクが多いようで、お役に立ててなによりです。ネトウヨな人との一年にわたるメールのやりとりがこうして形あるものにまとまって、俺いったい何やってんだろって厭世観も払拭されます。リンクを見ると、ナショナリズムな人からも人権派の人からもわりと好評の様子。ただ、一部ナショナリズムな人は、「同道めぐりじぇねえか」とAがBを言い負かしていないのが不満な様子。バカだなあ、どっちかが言い負かしちゃったら教材になんねえじゃんか。なにいってんだろ、この人。会話文で基本的なことをおさえておくから、みんなはこの先を自分で考えてね、あまり次元の低い議論をしても勉強にならないからねっていう目的でつくった教材なんだよ。あと、「基本的なことばかりで目新しいものがなにもない」という批判もあった。すべての情報をネットから仕入れようっていう教えて欲しがり屋の人なんだろうか。会話文はあくまでたたき台なんだから、そこから先は自分で考えろよ。言葉がたりないことやAの言い分にもBの言い分にも論理の穴があることは、書いてる本人が一番わかってるよ。その先を考えるのは面倒だからとにかく教えてっていう人は、本読め。あ、なんだかやけに上から目線の文章で我ながら感じ悪いね。ともかく、こうした問題については、いくらでもつっこんだ内容の本が出てるんだから、ネットのつまみ食いだけでなにもかも済まそうとするとバカになりますぜ。

 ただ、出版されているものもふくめて、外国人参政権に反対する声のほとんどは、ナショナリズムに由来する心情的なものだ。政治論として整合性のある主張は、「日本国籍のない者の政治参加を認め、政治的舵取りをまかせることは、国家の独立性をそこねる」という日本政府がしばしば持ち出す「当然の法理」の概念くらいしか見あたらない。私の書いたAとBの会話文でも、やはりAの言い分は弱い。日の丸ニッポンなナショナリズムでもなく、嫌韓・嫌中ナチスのゼノフォビアでもない立場から、外国人参政権に反対している人の考えを聞きたいところだ。

 永住外国人の地方参政権へリンクしているサイトはこちら。ヤフーの逆リンクサーチ、便利です。
 → Yahoo! Site Explorer 「永住外国人の地方参政権」

■ A piece of moment 3/13

 テレビでやっていた「ヒカルの碁」を見る。ライバルの少年は主人公にこう言う。「進藤、美しい一局だったよ、君の前に座っているのが僕でないってことが悔しかったよ」。ほとんど愛の告白である。バックに薔薇の花びらを散らせたいところである。そのライバルの少年は、おかっぱの髪型に半ズボンのスーツ姿で、なんだか萩尾望都のギムナジウムものの中性的な美少年によく似ている。彼は主人公のことを思い浮かべながらさらに心の中でつぶやく。「進藤、ああ、彼のことが頭から離れない」。一方、主人公は、ライバルの美少年を思い浮かべながら、こうつぶやく。「塔矢、いつかきっとお前を振り向かせてみせる」。そんなふたりの美少年が互いに惹かれあい、求めあい、時にはげしくぶつかりあう少年愛の物語なのであった。うひゃあである。

 学校で女子生徒たちに、「ヒカルの碁」はやおい漫画だと言うと、「心がけがれている」「腐女子入ってる」と物語の本質を理解していない反応。でも、彼女たちはきゃあきゃあとなんだかやけにうれしそうなのであった。

■ A piece of moment 3/19

 TBSで放送していた「CBSドキュメント」が終わってしまった。ゴールデンタイムにやらないのが不思議なくらい面白いニュース番組だったのに残念である。20年近くほぼ毎回録画して、授業の資料にもたびたび使用してきたので、私はこの番組のもっとも熱心な視聴者のひとりではないかと思う。時には15分間のニュースレポートの中に、一本の映画を見たとき以上の充実感がつまっているものさえあった。グラミン銀行のこともベネトンの広告のこともマイケル・ムーアのことも、最初に知ったのはこの番組がきっかけだった。現在、インターネットで番組再開の署名活動が行われている。署名するにはユーザー登録をしなければならないのが面倒だけど、日本語で再び「60 minutes」が見たいという人はぜひどうぞ。私は伊藤惣一の吹き替えで番組が再開されることを希望します。
 → 「署名TV」TBS CBSドキュメント番組存続要請

 すっかりネット時代なので、日本語放送にこだわらなければ、「60 minutes」の番組Webサイトから直接視聴することもできる。もちろん無料で全編視聴可能。日本のテレビ局のように、デジタル化で地上波の放送にまでコピープロテクトをかけたり、ネットでの視聴を有料化するような、けちくさいことはしていない。日本の放送局のやり方は、視聴者の利便性を無視して、著作権で囲い込むことしか頭にないように見える。
 → 60minutes

■ A piece of moment 5/16

 「ムラタセンセーのお宅でしょうか?」
 「センセーなんて上等なのはうちにはいませんが、ムラタです」

 たいていこういう電話はインチキセールスだ。最近では、「ムラタセンセーに節税と確定申告のアドバイスを差し上げようとお電話した次第です」という妙に慇懃無礼な電話ががかかってきた。年収やら勤め先やら家族構成やらといったこちらの尻尾をおさえて詐欺のネタにでもしようという魂胆らしい。税金の申告ならそういった情報を一網打尽にできるので、確定申告のアドバイスとはよく考えたもんだ。でも、見ず知らずの人間に確定申告の相談なんかするわけねえだろ。おとといきやがれってんだ。Bマイナス。

 厄介なのは学校関係者もこの手の電話をかけてくることだ。校長や教頭といった人種はたいてい権威主義者なので、ムラタセンセーですかと聞かれて、センセーなんて上等なのはうちにはいねえよと応じてしまうと、後々職場での人間関係に支障をきたすことになる。手下の教務主任を使って授業の監視でもされたらたまらないので、仕方ないから職場ではタイコに徹することにする。めんどくせえなあ。教え子からなかばあざけりの意味で「センセー」と呼ばれるぶんにはまだがまんできるが、教師同士が互いにセンセーと呼びあうのは、こっけいな権威主義まるだしで醜悪である。あなたは私の教え子ではないし、私もあなたの教え子ではない。多少の羞恥心があれば「恥ずかしいのでやめましょう」となるはずなのだが、この手の人は「互いにセンセーと呼びあうことで教員としての自覚が高まる」なんて言い出すので、もはや手に負えない。「大センセー」と呼びあったらよりいっそう自覚が高まって、偉大な教師になれるとでも思ってるんだろうか。

 先生と 呼ばれるほどの 馬鹿でなし(江戸の川柳)

 テレビの中の芸人同士がやたらと「師匠」と呼びあうようになった。相手を尊敬しているのか馬鹿にしているのかはわからない。ただ、客や視聴者にも「こちらの師匠は」と語りかける。客も視聴者もあなたたちの弟子ではない。その一方で、客や視聴者のことは「シロウトさん」「一般人」と見下ろした調子で話す。なんだろうこの肥大化した自意識は。客の前で「師匠」「にいさん」「ねえさん」を連発して同業者を持ち上げる習慣は関西の芸人だけかと思っていたら、寄席の芸人たちまで言うようになった。ふつう高座で「うちの師匠の何々は」と切り出したら、その失敗談や愚かしさを披露して客と笑いを共有するものだが、三平の息子たちや木久蔵の息子は師匠がいかに素晴らしいかを切々と語り出すありさま。アタマが痛くなってくる。田舎のじじいばばあに媚びるような芸風でNHKのレギュラーでもねらってるんだろうか。さらに談志に至っては、「立川談志さん」と紹介されたことに、礼儀がなっていない、師匠と呼ぶもんだと憤慨する始末。社員たちに自分のことを「会長様」と呼ばせていた武富士創業者を連想する。共演者も客もあなたの弟子ではありません。

 「JAROのCMと掛けてなんと解く」
 「木久扇、木久蔵親子と解きます」
 「そのこころは?」
 「どちらもきくからはじまります」
 「うまいっ!」

 親子でうまいはねえだろ。そのこころは「どちらもうんざりさせられます」が絶対正しい。

■ A piece of moment 6/2

 ここ十年くらい、生徒たちが自分を指して「うち」というのをよく耳にするようになった。とくに女の子たちは半数くらいが「うち」と言う。自分たちを表す「うちら」の使用頻度はさらに高い。たしかに舌を噛みそうな「あたしたち」よりも語呂がすっきりするし、言葉の乱れがどうこうと言うつもりもない。そもそも方言が文化の豊かさで、若者言葉がことばの乱れっていうのは、すじが通らない。ただ、東京の若者たちが「うち」「うちら」を使うようになった経緯については興味がある。しらべるのも面倒なので、ひとまず仮説を立ててみる。

 1.多摩地区の方言
 2.ギャル語
 3.関西方言由来の若者言葉
 4.ラムちゃん再ブーム

 個人的には4番を押したいところだが、彼らが「ダーリン電撃だっちゃ!」と言いあってるのは聞いたことがないので、単勝100倍の大穴。3番が本命だけど、あたりまえすぎてあまり面白くない。

■ A piece of moment 6/10

 つじあやのの歌をまとめて聴く。ポップソングの音づくりがどんどん分厚くなる中で、ウクレレ一本で弾き語りをする様子は新鮮だった。ノンビブラートのよく通る高い声もはかなげでかわいかったし、ウクレレの暖かみのあるゆるい音色も良かった。歌詞が特徴的で、デビューしてから5年間くらい、ほとんどの歌が「ぼく」の一人称で歌われている。自分が何者かわからない心細さ、未来への期待と不安、目の前の風景のあてどなさ、そんな思いをかかえた「ぼく」の「きみ」への淡い恋心が彼女のはかなげな声で歌われるので、なんだか男の子を主人公にした少女マンガを読んでいるような気分になる。ただ、まとめて聴いているとだんだん飽きてくる。どの歌も「ぼくは自転車で春風に乗ってきみに会いに行く」という調子で、「ちょっとせつなくてはかない味わい」というキャッチフレーズの炭酸飲料のCMをくり返し見ているような気がしてくる。そこで歌われているせつなさやはかなさがすべてウソだとは思わないが、それ以上に「という味わい」の作為性のほうが気になってくる。実際、彼女の歌はその収まりの良さからいくつものコマーシャルソングや映画の主題歌に使用されていて、歌の中の「ぼくときみ」の世界には妙に安定感がある。歌っている本人は飽きないんだろうか。きみへの淡い恋心をタンポポの花に託して歌った後で、ひたすら濃厚なフェラチオをくり広げる男女の煮つまった関係を歌ってみたいと思ったりしないんだろうか。よだれでべちゃべちゃになった肛門にきみが中指を突っ込んで乱暴にかき回すとぼくは立て続けに射精し、それでも萎えないぼくはきみの髪をつかんで壁に押しつけると喉の奥に挿入したまま腰をつかい、むせたきみは精液とよだれと涙と血の混じったゲロを鼻から吹き出した……なんて「ぼくときみ」の関係をこの人は歌ってみたいと思ったりしないんだろうか。不思議である。もしも自分に求められる役割だけを聴衆に提供しているのだとしたら、それは表現者ではない。

 人間は多面的なものだ。朝、見知らぬ年寄りに道を訊かれてそのまま手を引いて道案内した人物が、午後、なんだか無性に腹がたって、前から歩いてくる人間の胸ぐらを片っ端からつかんで頭突きをかましてやりたい衝動にかられたりもする。徹夜で暴力的なセックスにふけった朝に、道端の露草が小さな青い花をつけているのを見て、ふいに涙がこみあげてきたりもする。ボランティア活動に熱心で「共に支えあう社会」が口癖の女性がその一方で自分のこどもをちっともかわいいと思えず、顔を合わせる度につい辛辣な皮肉をこどもにあびせてしまうことだってある。私たちはそうした側面をいくつもかかえて生きているのではないのか。なので、創作作品の中で登場人物たちの内面の振幅を上手に描いているものは、それだけで小説でも映画でも舞台でも優れた作品だと思っている。私にとってストーリーやテーマはつけ足しにすぎない。逆にそうした振幅がなく、登場人物たちが始めから終わりまで同じ顔をしている作品は、その中でどんなに立派なことを訴えていようと、書き割りの舞台装置が喋っているようにしか見えない。コントやってんじゃねえんだよ。

 お笑いブームのせいか、高校生たちはなにかとなんとかキャラと言う。彼らにとって、生身の人間もバラエティー番組で芸人たちが演じるキャラクターのように、切れキャラだったり不思議ちゃんキャラだったりツンデレキャラだったりボケだったりツッコミだったりするんだろうか。それは実生活でロールプレイングゲームをやっているようなもので、人間を小さく規定し、過剰適応と心理的抑圧をもたらす。生きていくのは大変そうだ。私たちはいつも同じ顔をしてるわけではないし、コントのパロディとして生きているわけでもない。ネットでよく見かける「なんとかキャラ萌えー」という表現も、個々の実像よりもステレオタイプなイメージのほうに欲情するという点で、自分の変態性癖を吐露しているとしか思えない。生身の相手よりも客室乗務員姿やセーラー服やメガネといったアイコンのほうに欲情するなんて、チンポの立たなくなったじじいが抱く屈折した妄想といっしょじゃねえか……なんてことを彼女がはかなげな声でラブコメソングを歌っているのを聞きながらつらつらと思った。
 → Youtube つじあやの「風になる」ウクレレ弾き語り
 → Youtube つじあやの「お天気娘」鴨川ライブ
 → Youtube つじあやの「プカプカ」ウクレレ弾き語り

■ A piece of moment 6/16

 NHKラジオのニュース解説で、YouTubeにマンガの新刊をアップロードしていた中学生が逮捕されたことを取りあげていた。番組には著作権で儲けている人間ばかりが出演し、著作権保護がいかに重要か熱弁をふるい、もっと取り締まりを強化しろ、YouTubeは無法地帯で利用者も運営者もモラルがなってないという論調で番組はすすむ。番組のネット配信まで有料にしているNHKらしいといえばNHKらしい。それにつられてか、リスナーからのメールまで、もっと規制を強めろ、利用者の年齢制限をしろというものばかり。たしかに著作権のある作品を権利者に無断でアップロードするのは著作権法違反だけど、私はそう目くじらをたてるほどのことではないと思っている。まず、Youtubeをはじめとした動画サイトは、ダウンロードがいらいらするほど遅い。とても高解像度の動画をダウンロードする気にはなれない。さらに、動画はせいぜい十数分くらいしかないので、長めの作品は必ず細切れになってしまう。なので、YouTubeの動画を見てもつまみ食いをした程度の満足感しか得られない。だから、YouTubeを見て気に入った作品は、CDやDVDを買うなり、専門チャンネルで見なおすなりする。そういう気にならず、YouTubeでもういいやとなるのは、その程度の作品にすぎないということだ。だから、海外のドキュメンタリー作家やテレビ局は、しばしば自ら作品をYouTubeにアップロードしている。それを見て気に入ったらDVD買ってねということなんだろう。もしくは、放送の終わった番組は、バックナンバーとしてYouTubeに掲載するから、資料用に使ってねというところかもしれない。いたって良心的である。視聴者の利便性という点では、こちらの姿勢のほうが圧倒的に正しい。何十年も前のドラマのDVD化で儲けたり、ネット配信を有料にして儲けているNHKの囲い込み商法とはえらい違いである。

 以前、「立ち読みは犯罪です」という張り紙を本屋で見かけたことがある。笑わせんじゃねえよ。表紙だけを見て買うか買わないか判断させるというのでは、エロ本自販機といっしょじゃねえか。ある程度本屋で読んで、気に入ったら買うというのが本を買うときの基本的な行動のはずである。本屋へ行く楽しみの半分以上は立ち読みの楽しさであって、そのついでに本を買うのである。だから、ヨーロッパの本屋には、たいていイスが置いてあって、ゆっくり店内で読めるようになっている。日本でも、都心の気の利いた本屋にはイスが置いてあって、そんな居心地の良い本屋を見つけるとやはりうれしい。それこそが本屋のあるべき姿ではないのか。気難しい顔をしたおやじがはたきを振りまわしながら立ち読み客を追い払うようなけちくさい本屋は、今後十年以内にすべてアマゾンに駆逐されるだろうし、また、駆逐されるべきだと思っている。出版不況のせいで、出版社まで立ち読みに神経質になっているが、数十分立ち読みをしたくらいで中身がわかってしまうような薄っぺらい本ばかり作っているほうが悪い。なにかと著作権を盾にして、ユーザーや消費者のモラルを攻撃するのはお門違いである。

 グレイトフル・デッドは、もう20年以上前からコンサート会場へのカメラや録音機器の持ち込みを自由にしてきた。コンサートでの演奏を勝手に録音しても良いし、撮影しても良いし、それを勝手にネット配信してもいいよという姿勢である。だってそんなの取り締まるのめんどくさいし、取り締まったところでなにか得するわけでもないしさというところなんだろう。だから、ネットにはファンの録音したデッドのライブ演奏や映像が大量に出まわっている。で、デッドはその大量の海賊版によって大きな損失をこうむったのか。そんなことはまったくない。むしろ、ファン同士の交流をうながし、デッドのライブはどこでも常に満員だった。再結成されたザ・デッドも同じで、ライブのチケットがなかなかとれない状況が続いている。最近では、ネットで海賊動画を見たのをきっかけにファンになって、今度は生でという者も多いはずである。デジタルデーターがネットでやりとりされる社会では、パッケージ商品よりも、一回限りの生演奏のほうがはるかに重要な意味を持つようになる。デッドのやり方は、ネット時代のひとつのモデルケースではないかと思う。

 自分について書いた文章を多少手直ししました。
 → slices of time

■ A piece of moment 6/18

 生命倫理の授業を担当するとき、毎年、必ず出題している問題がある。こんな問題である。
 クローンをテーマにクラスで話し合っているとき、生徒のひとりが次のように言い出しました。

 人間のクローンづくりは倫理的に問題があるけど、羊や牛のクローンづくりはかまわないという考え方は変だよ。人間のクローンづくりが倫理的に問題だって言うのなら、羊や牛のクローンづくりだって倫理的に問題があるはずだよ。羊も牛も人間も同じ命であることには変わりないし、動物たちにも意志や感情だってある。動物たちの命を「食料資源」や「実験材料」としか見なさない考え方は、人間の思い上がりじゃないかな?

 この問いかけについて、あなたの考えを述べなさい。(300字以上)
 出題は毎年同じだが、この問いかけから考えることは毎年違う。今年は、試験後の解説文にこんなことを書いた。
 この文章の「羊も牛も人間も同じ命」という主張、言っているのはたぶん優しい人なんだろうと思います。ただ、「すべての生命は平等」ということになると、お肉も食べるのも、庭の草むしりも、ゴキちゃんに殺虫剤を吹きかけるのも、「虐殺」ということになってしまって、人間の生活が成り立たなくなってしまいます。なので、すべての生命は平等という考え方は、少々極端ではないでしょうか。
 しかしその一方で、「人間は地球の支配者なんだから何をやってもいいのだ」という主張も、やはり極端すぎて、賛成する気にはなれません。おそらく、この両極端の間に現実的な選択肢があるのではないでしょうか。
 個人的には、すべての動物実験やクローン動物づくりを禁止しろとは思いませんが、たとえばサルの脳に直接電極を刺してその反応を観察するような残酷な実験については、いくら科学研究のためであっても禁止するべきだと考えています。また、授業で見たスーパーサーモンのような、食糧増産のための遺伝子組み換え生物の製造についても基本的に反対です。現代の社会において、飢える人々がでるのは、食料の絶対量の不足のためではなく、先進国と途上国との富のかたよりのためです。この南北問題の解決こそ優先課題であって、それが解決しないかぎり、いくら遺伝子操作でスーパーサーモンやスーパーチキンを開発したところで、農作物の遺伝子組みかえと同様にバイオ産業がもうかるだけで、飢える人々はいなくならないはずです。
 いまはこんな事を考えている。よくスーパーや八百屋に、その野菜の生産者である農家のおじさんやおばさんの名前と顔写真がついていて、「私がつくりました」と書いてある。もしも、精肉コーナーのところに、牛や豚の顔写真が貼ってあって、「私のお肉です」と書いてあったら、精肉コーナーに立ち止まった消費者はそれをどう受けとめるのだろうか。「悪趣味だ」と怒るのだろうか。食欲がなくなったとげんなりするのだろうか。それを見て泣きだすこどもがいたりするんだろうか。それとも出所がはっきりしていることから「食の安心」と受けとめて、喜んで買うんだろうか。では、なぜそれを悪趣味だと思うんだろうか。その人は、野草を摘んだことも山菜を採ったこともなく、ましてや自分で鶏をしめたことも魚をさばいたこともなく、パッケージされた食品のみを「食べ物」という概念でとらえているんだろうか。それとも、牛に「私」という自己認識があるということに戸惑っているんだろうか。しかし、言うまでもなく動物にも自己認識はあり、判断能力もある。あるいは、肉を食べるときには、それが生きていたときの姿を思い浮かべてはいけないという暗黙のルールがあり、写真の掲示がその社会常識を破っていると腹をたてているんだろうか。しかし、そんな偽善的なルールがあることを私は聞いたことがない。アフリカや西アジアの遊牧民たちは、生きている羊の背中をさすりながら、「こいつはうまそうだ」とその日の「ごちそう」をつくりはじめる。大したもんだと思う。そもそも、牛の写真を見たくらいで食欲が失せるような精神の持ち主は、はじめから肉なんか食べるべきではない。にもかかわらず、日本にベジタリアンはほとんど存在していない。代わりにあるのが食肉業者に対する蔑視である。ずいぶんといびつである。そう考えていくと「私のお肉です」という写真がもたらす動揺の理由がわからなくなる。わからないので、また機会があったら、この問いかけを再び出題する予定である。

■ A piece of moment 6/22

 いつも黒い服を着ていると生徒たちから不評なので、薄いグレーのシャツに薄いピンクのワイシャツを合わせて着てみる。なんだかコスプレをしている気分。テーマはふつうの人。似合う似合わない以前に居心地が悪い。

■ A piece of moment 6/23

 録りだめておいた番組をまとめて見る。継続して見ているのは、「ジュリー・レスコー」「生存者たち」「バーナビー」「木枯し紋次郎」「黒執事」。「バーナビー」はこのところいまひとつだったけど、51話はめずらしく法廷を中心に話が展開し、緊張感が最後まで持続する。バーナビーは起訴された被告人の犯行に確信が持てず、公判がすすんでいく中で、独自に事件の再捜査をすすめていく。一方、被告人の中年女性は、裁判の中で検事から批判され、証人から罵倒されてもその言葉に耐えるように押しだまっている。被告人が何も語らない中、状況証拠は次々に積み重ねられ、彼女の有罪が濃厚になっていく。被告人は時にあきらめた表情を見せ、時におびえた表情を見せるが、やはり押しだまっている。なぜ彼女は何も語らないのか、なぜ彼女は取り調べで何度も証言を変えたのか、彼女は何を隠しているのか、バーナビーは事件の再捜査の中で、彼女を取り巻く人間関係の薄皮を一枚一枚はいでいく。ドラマを見ながら急所をぐりぐりえぐられるような感触。ひさしぶりにしびれました。ラストのエピソードも良かった。「ジュリー・レスコー」は基本的にどれもいい加減な話で一時間半の暇つぶしドラマといった感じ。名取裕子の法医学者や沢口靖子の科学捜査員が頭脳明晰口八丁手八丁のスーパーウーマンぶりを発揮して謎解きをするサスペンス劇場に雰囲気が似ている(ような気がする、たぶん)。ただ、英語圏以外のテレビドラマはめったに目にふれる機会がないので、アートムービーで描かれるおフランスなハイカルチャーとはぜんぜんちがう社会風俗を下世話にかつわかりやすく見せてくれるという意味では貴重な媒体。フランスみたいに社会保障の充実している社会でも貧富の差は歴然とあるんだなあとか、前科者へのまなざしはどこの社会でもきびしいんだなあとか、不良少年の様子は日本もフランスもいっしょだなあとか、公立学校の学費がすべてタダの社会でも親の社会階層に応じてこどもの学歴が決まっていくんだなあとか、アラブ移民がらみの組織犯罪を取りあげないのはやっぱりタブーだからかなあとか、このところ町中にプジョーがやけにふえたなああれもしかしてこれプジョーが番組スポンサーなの?といった調子で、パリ観光にやって来たおのぼりさんの気分を味わえるのであった。「生存者たち」は、新種のウィルスの蔓延によって多くの人が死に絶えた世界を舞台に、生きのびた人々の群像劇。「マッド・マックス」のようなヒーローは登場せず、「猿の惑星」や「LOST」のような観念的世界へ物語が展開することもない。ひたすら具体的に、それまでの社会システムを失った世界がどのようになっていくのか、等身大の人間たちが聖なる予言者もスーパーヒーローもいない世界でどのようにコミュニケーションをしていくのか、ひとつひとつエピソードを積み重ねて描かれていく。その様子は、まるで自然状態における人間性とコミュニケーションについての思考実験を見ているような感覚。登場人物たちは、みな複雑な内面を持った多面的な存在である。仲間への情の強さが暴力をもたらすこともあるし、正義感の強さが冷酷さと偏狭さをもたらすこともある。ホッブズのいう万人の万人に対する闘争でもなく、ロックのいう理性的存在でもなく、登場人物たちが両者の間を揺れながら互いの関係性と絆を模索していく様子が描かれる。すごく面白い。このドラマ、いま一番続きが気になっている。
 → AXNミステリー「生存者たち」

 犯罪劇の面白さは、ある特殊な状況におかれた人間がなにを考えどう行動するかにあると思っている。トリックや謎解きにはまったく興味がない。登場人物たちの心理描写と関係性がすべてだし、それが上手に描けていればすぐれたドラマだ。だから、人物描写の薄い「名探偵コナン」のようなシリーズには、まったく魅力を感じない。自分の能力を試したいだけで犯罪捜査に首を突っ込んでいく主人公の天才少年ぶりは嫌味だし、事件の背景にある社会構造の問題にはふれず、常に個人の責任だけを断罪しようとする姿勢には、作り手の人間へのまなざしの冷酷さを感じる。だから、主人公は謎解きがしたいだけで事件に関わっているにもかかわらず、彼が事件の関係者へ語りかける言葉はやけに説教くさい。「名探偵コナン」は、面白くないだけでなく、見ると嫌な気分にさせられる。

 どう受けとめたらいいのかわからなかったのが「鉄腕バーディー」。ムチムチの宇宙人美女が飛んだり跳ねたりユサユサしたりしながら大活躍するアニメ。どう見てもメインの視聴者はオタク青年で、フィギュア人形みたいな主人公のバーディーは彼らのセックスシンボルなんだろう。彼女の正体は遠い星からやって来た宇宙連邦の捜査官。ふだんはアキバ系のグラビアアイドルとして地球での生活費を稼ぎつつ、ひとたび事件が発生するとやたらと布地の面積の小さいピタピタのレオタード姿に変身し、ムチムチのユサユサで悪い宇宙人と戦ったり逮捕したりする。もうターゲット視聴者は完全にピンポイントで、小さなこどももおとなの女性も端からお呼びじゃないよハイハイあっちいってあっちじゃまじゃま。そんなオタクによるオタクのためのオタクアニメ。主人公が常に国家権力の側にいるっていうのもこの手の正義の味方ものの基本原理で、エイトマンも科特隊も光子力研究所もゴレンジャーも公安九科もみんな親方日の丸の官僚機構の一部だった。アメリカン・コミックのヒーローたちはたいていプライベーターだけど、国家主導の近代化という日本の歴史はこんな所にまで浸透しているわけだ。彼らはナショナリズムを体現する国家エリートとして、事業仕分けとも民営化とも労基法とも無関係に24時間シフトで悪の帝国との戦いつづけるのである。もちろん血税をちょろまかしてコンパニオンの女体盛りなんてこともしないんだろう、たぶん。おとぎの国のSFワールドでは、メカ描写ともっともらしい科学理論の構築についてはやたらと力が入っているけど、社会制度と人々の暮らしのほうは常に書き割りみたいにぺらぺらだ。犬の顔をした宇宙人やトカゲの顔をした宇宙人たちが現代の我々とまったく同じようにスーパーで買い物をしたり、バーで水割りのウィスキーを飲んだりしている。そんなバーディーは、一方でやたらと純情で色恋沙汰にはうとい。オタク青年のセックスシンボルが常に受け身の性というのも基本パターンのひとつ。能動的にセックスアピールするオトナのおねえさんなんてボクちゃんコワイもん、なんてね。とまあ一事が万事それを見ている自分が恥ずかしくなるような調子なので、お話も永井豪みたいに「おっぱいミサイルいくわよ〜ボヨヨーン」と脳味噌が溶け出しそうな展開をするのかと思いきや、ストーリーはやたらとシリアスで重たい。東京湾で古代の超兵器が発動し、湾岸地域にいた人々は一瞬で砂のように崩れ落ち、六本木周辺は壊滅状態になる。瓦礫になったビル群を前に、もうひとりの主人公である高校生の男の子は、初恋の少女が消えてしまった喪失感に呆然と立ちつくす。一方、主人公の幼なじみは、遺伝子操作によって生みだされた自らの生い立ちを呪いつつ、東京湾での事件で親友を失ったことをきっかけに血まみれの復讐劇へとのめり込んでいく。そんな中、主人公のバーディーは、今日もアキバ系アイドルとして生活費を稼ぎつつ、地球と宇宙の平和を守るためにピタピタのレオタード姿で昆虫型宇宙人や狼男型宇宙人と戦うのであった……ってなにこれ。バランスが悪すぎて物語として破綻していないか。動きの表現には勢いがあるし絵柄もかわいいんだけど、ストーリーがシリアスであればあるほど、古くさいスペースオペラの世界とフィギュア人形みたいな主人公が異様に見えてくる。そもそもピタピタのレオタード姿で活躍する宇宙人美女を描きたいだけなら、なんでこんな残酷な話にするんだろう。描写もまたエグくて、バーディーの養育ロボットが破壊される場面なんか、手足をもぎ取られ頭部を引きちぎられる様子がめりめりという効果音とともに克明に描かれたりする。その倒錯感は、Tバックのガードル姿をしたサイボーグ美女(やはり警察官)が遠い目をしてクラウゼヴィッツの戦争論やデカルトの認識論を語る「攻殻機動隊」といい勝負。もしかしたら、この辛気くさい舞台装置も彼女の露出過剰なコスチュームも、変身ヒーローものの文法構造へ批評性が込められているんだろうか。でも、そんなひねりがあるようには見えないんだけどなあ。いや私にはたんに悪趣味なだけにしか見えないんだけど、もしかしたらこの落差を最大限効果的に使ってなにかすごく前衛的な表現を試みているのかもしれない。わからない、さっぱりわからない。誰か見たことある人、意見聞かせてちょうだい。
 → TOKYO MX「鉄腕バーディー DECODE」
 → TOKYO MX「鉄腕バーディー DECODE:02」

■ A piece of moment 6/26

 日本で長くつづいているドラマやアニメには、永劫回帰のパターンが多い。典型的なのが「水戸黄門」であり、「ドラえもん」であり、「ケロロ軍曹」である。「水戸黄門」では、卑劣な悪代官がどんなに悪知恵をはたらかせても、最後は印籠の前にひれ伏し、懲らしめられ、次のエピソードでは、ご隠居一行は何事もなかったかのように他の土地を旅している。「ドラえもん」や「ケロロ軍曹」では、のび太やケロロの失敗によって、日本が沈没したり地球が爆発したりしても、必ず最後は丸く収まり、やはり次回のエピソードでは何事もなかったかのように、のび太は近所の空き地でジャイアンにいじめられ、ケロロはぶつぶつ文句をいいながら日向家の廊下を掃除している。こうした永劫回帰のパターンでは、設定が常に変わらないので、物語が作りやすく、見る側も話がわかりやすい。部屋の片付けをしながらちらちらテレビを見ていてもだいたいの内容は把握できるし、半年くらい見ていなくても物語世界が変化することはないからまったく問題ない。とくに長くつづいている時代劇シリーズは、すべてこのパターンである。夕方の再放送で、「水戸黄門」や「暴れん坊将軍」や「遠山の金さん」や「銭形平次」をやっていても、物語の世界では完全に時間が止まっているので、それが30年前のものか20年前のものなのか、私にはさっぱり区別がつかない。当然、そうした安定感は物語の緊張感をそこねる。松平健や里見浩太朗がどんなに大勢の悪党に取り囲まれようと負けるはずがないことも、どんな大事件がおきようと必ずラストでは丸く収まって、次の回ではすっかり元に戻っていることも、視聴者なら誰もが知っている。むしろ、松平健や里見浩太朗のチャンバラを毎回わくわくしながら見ていられる人のほうが特殊な才能の持ち主に思える。だから、海外のドラマで永劫回帰のパターンを採用しているのは、シチュエーション・コメディくらいしかない。スーパーヒーローものですら、おとな向けの作品では世界が変化する。「ER」のような、20年もつづいているドラマにしても、登場人物たちは結婚したり、子供が生まれたり、離婚したり、病気になったり、事件に巻き込まれたりして人間関係は変化し、登場人物も死んだり去っていったりして入れ替わっていく。「ER」では、もうスタート時のメインキャストはひとりも残っていない。

 基本的に永劫回帰のパターンには、シリアスなドラマや大がかりなスペクタクルは向かない。鈴木瑞穂が迫真の演技で悪代官の心情を訴えようと世界はなにも変わらないし、CGを駆使した迫力の映像で日本を沈没させようと地球を爆発させようと世界は必ず元に戻るからだ。むしろ、濃密なドラマが展開されればされるほど、大スペクタクルの映像に迫力があればあるほど、丸く収まる結末に向けて話は尻すぼみになり、見る側は肩すかしを食うことになる。そうした典型的な失敗例を手塚治虫の「三つ目がとおる」に見ることができる。「三つ目がとおる」は超能力を持った主人公の少年が太古の文明の力を呼び起こし、現代文明にカタストロフィーをもたらすという物語である。手塚治虫はストーリー展開がたくみなので、序盤では次々と仕掛けをくりだし、中盤ではその仕掛けをからめて物語を一気に展開させていく。読む側はその勢いに圧倒され、主人公が語る「世界の新秩序」なるものによってどんな世界を見せてくれるのか、現代文明が崩壊した後にはどんな物語が待っているのか、期待をふくらませる。ところが、読み手の期待が最高潮をむかえた終盤、物語は急速にしぼみはじめる。向こう側へ突き抜けていかないまま物語は失速し、ふくらんだ期待はそのまま棚上げされ、広げた風呂敷をたたんでいくようにそれまでの出来事は丸くおさめられる。結局、世界は破滅をまぬがれ、主人公はただの中学生にもどり、ラストでは何事もなかったかのように学園生活が描かれ、物語は終わる。読後に残るのは「なあーんだ」という失望感だけである。「三つ目がとおる」の長編は四作くらい書かれているが、すべてこれと同じパターンがくり返され、読み手はその度に肩すかしを味わうことになる。きっと手塚治虫は向こう側の世界などはじめから考えていなかったはずだ。私はそれを読んだ当時、なにも変わらない日常に閉じこめられたような息苦しさを感じている中学生だったので、「三つ目がとおる」の物語に抱いた期待と失望については、いまだに恨んでいる。手塚治虫、カネ返せ。物語は遊園地のアトラクションとはちがって、その時間ぶんだけ楽しめればそれでいいというものではない。物語の始まりと終わりとで、目の前の世界が違って見える体験ができないのなら、麻雀でもやってるほうがずっとましだ。物語の入り口と出口は違うところにあるべきなのだ。

 というわけで、なんだか文学部の学生のレポートみたいな文章を書いてみたけど、で何がいいたいのかというと「ケロロ軍曹」の映画シリーズは退屈だってこと。映画になるときまってスペクタクルをやろうとするのは、芸がないし、かえって貧乏ったらしいよ。太古の超兵器が登場しようが、巨大なドラゴンが出現しようが、巨大宇宙船が飛来しようが、すべて丸く収まって何事もなかったように元へ戻る世界なんだから、そこにどんなに大仕掛けが出てきてもハラハラもしないしワクワクもしない。それは「三つ目がとおる」の失敗と同じことをくり返しているように見える。映画だ、スペクタクルだ、CGで大爆発だっていう発想は、永劫回帰の物語の性質を理解していないのではないか。本当にスペクタクルをやりたいのならば、基本設定を壊していく覚悟が不可欠だけど、大爆発とともに地球が吹き飛ばされ、ケロロも冬樹もいなくなった「その後のケロロ軍曹」なんて展開をこどもたちが受け入れるとは思えない。はじめにキャラクターありきの世界なんだから。だったら、こけおどしのスペクタクルで客を呼ぼうとせず、テレビシリーズと同様の日常の中の少しずれた登場人物たちによる少し不思議なシチュエーション・コメディに徹するべきではないのか。こうした映画で予算をまわすべきなのは、CGではなく、シナリオじゃないの。

 「ケロロ軍曹」のはじめのテレビシリーズでは、なぜか頻繁に70年代少女マンガのパロディが登場した。「よろしくってヨ、岡さん、お手並み拝見ですワ」と金髪巻き毛のお蝶夫人に扮したケロロがテニスコートに現れ、「マヤ、木よ、いま貴女は木そのものになったのヨ」と月影先生に扮したケロロが涙を流しながら学芸会の指導をするといった調子で、あれがやたらと可笑しかった。70年代の少女マンガは奇妙な様式美の世界なので、あの大げさなセリフまわしやゴテゴテした髪型はそれだけで可笑しい。ケロロがそのパロディをするたびに笑いのツボをぐりぐり押されているような感触で笑いころげた。それまで自分が少女マンガのデフォルメされたロココ調の美意識にこんなにも愛着があるとはまったく自覚していなかった。たぶんその元ネタを知らなかったとしても笑ったと思う。金髪巻き毛のキャラクターが住宅地のど真ん中で「それでは皆様、幾千にも幾万にもごきげんよう」なんて言っている姿はやっぱりすごく変だもん。少女マンガのロココ調の世界には笑いの鉱脈があると思う。ケロロのテレビシリーズはその後しばらくしてメインライターが変わってしまったらしく、少女マンガのパロディはすっかり見なくなり、かわりにガンダムと特撮戦隊もののパロディがふえていった。しかしパロディというのは、オリジナルへの批評と文法の解体があってはじめて成立するものではないのか。二頭身の宇宙人が金髪巻き毛に扮して「幾重にも膝を折って感謝しますワ」と言えば、少女マンガの文法は完全に解体され、ロココ調の世界のこっけいさが際だつが、彼らがガンダムや戦隊ものに扮しても、もともと宇宙人なんだし、地球侵略のための特殊小隊としてSF兵器満載の秘密基地で暮らしているんだから、まったく文法は変わらない。おまけにバックについているおもちゃ屋さんまでいっしょである。ケロロたちが繰りひろげるガンダムごっこやヒーロー戦隊ごっこは、パロディではなく、オリジナルをトレースしているだけの「ごっこ遊び」にしか見えない。こういう毒も批評性もない模倣を「オマージュ」って言うんだっけ。便利な言葉ね。私はなんだか山田邦子のモノマネを思い出してしまって、ぜんぜん笑えない。あれ、なに大まじめに書いてんだろ。まあどうでもいいですね。パロディと永劫回帰の物語性について考えを整理するためにとりあえずまとめてみただけです、はいはい。

■ A piece of moment 7/5

 土砂降りの雨の中、国分寺まで往復10kmの道を歩く。夏の雨は気持ちがいい。30分もてくてく歩けばどうせ汗でべったりなんだし、ずぶ濡れになってもTシャツに短パンなんだからへっちゃら。土砂降りの雨はシャワーのようで、かえって気持ちがいい。愉快だ。道路のアスファルトだって洗われてぴかぴかだ。だから夏は傘なんかいらない。駅前で、あわててビニール傘を買い求める人たちやバス停に長蛇の列ができているのを見ながら不思議に思う。みんな、よっぽどいい服でも着てるんだろうか。

 雨の中を歩きながら、十年くらい前、近所に白と黒のぶちの仔猫が生まれたのを思い出した。野良なのか誰かに飼われていたのかはわからない。生まれてまだ半年くらいだろう。そいつは動くものがなんでも面白いらしく、草むらで跳ねているバッタに飛びつき、石の下からは出でてきたトカゲに飛びかかり、ちょこちょこと何かをついばんでいる雀に向かって突進する。通りを走り去っていく自転車やクルマまで追いかけていこうとする。なにがそんなに楽しいんだろう。クルマを追いかけちゃ危ないよ。駐車場へ連れ戻すと、そいつはとにかくじっとしていられない様子で、今度は自分の尻尾を追いかけて、ぐるぐると回りはじめた。もしかしたらこの世界は自分が思っているよりもずっとマシな所なのかもしれない、ふとそう思った。いままで気がつかなかったけどこの世界には愉快なもので満ちていて、自分には見えていないだけでこの世界は美しい姿をしているのかもしれない。仔猫はあいかわらず尻尾を追いかけてぐるぐると走り回っている。やたらと生きる力にあふれている。キミの目でこの世界を見ることができれば、毎日がさぞや愉快だろう。まもなく、ぱらぱらと雨が降ってきた。アスファルトに丸いしみをつくり、仔猫のちっぽけな頭にも雨粒が落ちてきた。その小さな山の神様は、不思議そうな顔で雨粒が落ちてきた空を見上げ、おもむろに真上に向かって跳躍した。爪の先で捕らえた雨粒はさらに細かい粒になって飛び散っていった。

■ A piece of moment 7/9

 安室奈美恵が「Fast car」を歌っているらしい。トレイシー・チャップマンのヒット曲をカバーしたのかと思ったら、ぜんぜん違った。安室奈美恵はあいかわらず安室奈美恵だった。まぎらわしいタイトルつけんじゃねえよ。

 トレイシー・チャップマンの「Fast car」はこんな歌だ。主人公はアメリカの田舎町に暮らしている若い女。彼女は高校を中退し、コンビニでバイトをしながら、飲んだくれの父親の世話をしている。父親は酔っぱらって暴れるばかりで、少しも働こうとしない。母親はそんな父親に愛想をつかし、家を出て行ってしまった。彼女の日々は、小さな停滞した街の中で、家とコンビとの往復だけですぎていく。彼女にはボーイフレンドがいる。ボーイフレンドはクルマを持っている。たぶん中古で手に入れた安いスポーツカーなんだろう。ボーイフレンドも無職だ。でも、彼女にとって、そのクルマはたったひとつの希望だ。彼女は家とコンビニを往復する日々の中で、そのクルマに乗って、ボーイフレンドといっしょにこの街から出ていくことだけを夢見ている。そのクルマに乗って走っていけば、穴ぐらみたいな希望のない街から出ていける、たどり着いた街で新しい生活をはじめよう、ふたりで仕事を見つけたら彼だってもう深酒をしなくなるだろう、きっとそこで自分は生まれ変われるはずだ、と。だから、ボーイフレンドのくたびれた中古車は、自分をここから救い出してくれる魔法の翼のように見える。彼女は歌う。

 あなたはすごく速いクルマを持っている
 それは私たちが空を飛べるくらい速いんだろうか?
 決めよう、今夜ここを発つのか、それともこのままここで朽ちていくのか
 コンビニで働いていたから、少しくらいならお金はある
 そんなに遠くまで行かなくてもいい
 州境を越えて、街へ入る
 そこでふたりで仕事を見つけて、ふたりで生きる意味を見つけよう

 あなたのクルマでいっしょにドライブしたのを思い出した
 すごいスピードで、私は酔いそうだった
 街の光が私たちの前に広がった
 肩にまわしたあなたの腕にぬくもりを感じた
 あなたのもとで、私は生まれ変われる気がした きっと誰かに

 まるでアメリカン・ニューシネマのワンシーンみたいだけど、たぶんこういう人はどこの街にもいるだろう。夜中にラジオからこの歌が流れてくると泣きそうになる。
 → YouTube「Tracy Chapman - Fast Car」

■ A piece of moment 7/15

 夜中に目が覚めたのでバイクを走らせる。4時すぎ、一面の朝焼けに染まった空を多摩丘陵の丘の上から見上げる。バイクはキャブレターを分解修理したばかりなので好調。買った当時は、こんなにボロくて無駄に大きくて複雑なバイク、持てあますに決まってると思ったが、6年も付き合っているとたいていの修理は自分でできるようになるものである。ブレーキ、電気系統、冷却の水まわり、サスペンション、キャブレターとひと通り手を入れて、この6年間でいまが一番調子がいい。とくに今年の春にフロントフォークをオーバーホールしたのが効果大で、少しくらい路面が荒れていてももうハンドルを取られなくなった。はやく高速道路が全線無料にならないものだろうか。それができないのなら上限1000円でもかまわない。現在のETCのみの割引は不公平だし、土日のみの割引は非合理的だ。私は高速道路の全面無料化に賛成である。

■ A piece of moment 7/23

 そんな話し方する奴、どこにもいねえよ

その1 年寄り「わしはゴルフの打ちっぱなしへ行くのじゃ、ヤマト発進じゃ」
その2 田吾作「おら、右も左もわかんねえだ、上も下もわかんねえだ、明日も昨日もわかんねえだ」
その3 上司または重役「キミ、これをコピーしてくれたまえ、ん、私の名前はたまえじゃなくてかなえだって」
その4 少女マンガのお姉さま「アタクシよろしくってよ、お手並み拝見ですわ、今日はつるかめ算で勝負よ」
その5 村上春樹の僕ちゃん「興味深いな、君はそれをハリセンと呼ぶのだろう、そして君はそれで僕の後頭部をたたくのさ……やれやれ」

 こういう類型化をキャラ立ちって言うのかい?こうは思わないか。いったい彼らはどこにいるんだろうって。君は実際にそういう話し方をする人間に出会ったことがあるかい?「わしは」という老人、「おら」という地方出身者、「やってくれたまえ」という上司……僕は彼らをアニメの国とコントの国でしか見たことがない。逆にアニメの国とコントの国には大勢いすぎるために類型の中へ埋没してしまうんだ。君だってさ、そこで彼らに出会うとまたかと思うだろう……やれやれって痛えーな、ハリセンでたたくんじゃねえよ。

■ A piece of moment 8/8

 おくればせながら「千と千尋の神隠し」を見る。面白かったが、それよりもラストで流れる主題歌があんまり強烈なんで本編の印象がすっかり消し飛んでしまった。ずいぶん流行った歌なのでメロディくらいは知っていたけど、こんなに壮絶なことを歌っているとは思ってもいなかった。まるで深い井戸の底をじっと覗き込んでるようだ。歌を聞きながら、死の間際にじっと自分の手のひらを見つめていた祖母のことを思い出した。祖母はぼけていて、もう自分がどこの誰で、ここがどこなのかもわからなくなっていた。でも、じっと自分の手のひらを見つめる祖母のまなざしは真剣だった。その様子は、「自分」とはなにか、「自分がここにいる」というのはどういうことなのか、「ここ」とはどういうことなのか、そうした根源的な問いを突き付けているようだった。歌はそんなこの世界から去っていく者の身体感覚と認識について、彼方からのまなざしで歌う。そのまなざしの壮絶さはあの時の祖母のまなざしを思い出させる。歌ってる人はホスピスで長いこと働いた経験でもあるんだろうか。映画が流行っていたころ、近所のこどもたちがよくあの歌を口ずさみながら通りを歩いていたけど、私にはあの歌詞を気軽に口ずさむ気にはちょっとなれない。以前、友人があの歌はテレビで放送しちゃまずいでしょと言っていた意味が今回ようやくわかったよ。葬式にでもかけるとちょうど良さそうだけど、祖母も母もどこまでも世俗的な人間だから、こんな辛気くさい歌かけないでサイサイ節でも歌えなんて棺桶の中から文句を言いそうだ。

 映画のほうは、映像的な仕掛けが盛りだくさんだったが、話自体は至ってこぢんまりとまとまっていて、バブルの上澄みで暮らしているような若い親にはこどもたちをまかせちゃおけないからワシが代わって鍛えてやるという内容。生きぬくためには腹をくくって働け、客に身体を売ることだって厭うな、ただし自分の顔ももっていないような若い男はなにをしでかすかわからんから用心しろ、そうして腰をすえて暮らしてればいつかきっと凛々しい相手にめぐり会えるぞ、と。こうして要点を書き出すとなんだかやけにおせっかいな映画である。なので、見終わった後には、ラストのテーマソングが映画からはみ出して、逆に2時間ぶんの本編を飲み込んでしまっているような印象が残る。あの歌の中には、命をめぐるいくつもの物語をはらんでいて、そのひとつとして彼岸にあるやたらと命のたぎった温泉宿のエピソードが語られているというふうに。その奇妙な構造は、映画の物語性を破綻させているととらえるべきなのか、それともひとつの物語をただ丸く収めないための仕掛けとしてうまく機能しているととらえるべきなんだろうか。

■ A piece of moment 8/13

 → YouTube「BJORK live HYPERBALLAD 」
 十年くらい前にテレビ出演したときのスタジオライブのものらしい。Hyperballadのリズムセクションは全部打ち込みなのかと思っていたら、ライブではドラムのおじさんが名人芸を披露していたりしてなかなか楽しい。「ラジオの時間」で効果音さんがザルに小豆を盛ってザザーって波の音をやる場面を思い出した。ビョークもまだ若くて、シュガーキューブスの頃のパンクねえちゃんな面影が残っている。あれほどエモーショナルな表現ができれば、レパートリーの幅を広げて歌手としての可能性を追いかけそうなものだけど、彼女はそうはせずにこの十年、新しい表現を求めて実験的な試みをくり返してきた。技術的な精度を上げることや既存の音楽を上手に模倣することよりも、なにかもっと新しいことをやりたくて仕方ないんだろう。表現者の姿勢としては買うけど、最近の彼女のステージなんかほとんど田中泯の前衛舞踏みたいだ。それでも熱心なファンたちは彼女のやることを依然として支持しつづけている。ファンえらいなあ。もっとも、彼女がラスベガスのディナーショーでバート・バカラックのスタンダードナンバーを歌ってる姿なんて誰も見たくないか。

 Hyperballadでは、現代人の生活が比喩的に歌われている(んだと思う)。私たちは山のてっぺんで暮らしている。いらなくなったものは毎朝そこから投げ捨ててみんなハッピー。クルマの部品もビンもフォークもスプーンもなんでも崖から投げ捨てる。下界のことなんか誰も気にしない。だから幸せな暮らしと美しい景色を満喫している。でも、朝早く誰もいないとき、「私」は崖の下を覗き込み、落ちていく物音に耳をすませ、落ちていく様子を目で追いながら、自分が岩にたたきつけられるところを想像する。ぐしゃぐしゃになった自分の身体が下界に落ちたとき、「私」の目は開いているんだろうか、それとも閉じているんだろうか、と。後半の落ちていく様子をねっちりと描写する箇所は面白いけど、それ以外の歌詞はいまひとつ。崖の下にある世界が「未来」や「途上国」だとすると、まるで環境問題や南北問題のキャンペーンソングみたいだ。ゴミはきちんと分別しましょうってか。あるいは逆に、現代人の生活を成り立たせるものがなにもない世界を歌っているんだろうか。山上での生活では、クルマもビンも食器もいらないから投げ捨てる。そこにあるのは、美しい景色とシンプルな暮らしとすぐ身近な死。その中で、「私」は崖の下を覗き込み、ぐしゃぐしゃになった自分の身体を思い浮かべながら「あなた」とここにいる幸せを感じる、と。こっちのほうが「ポイ捨て禁止」の前者よりずっと良いけど、歌はどちらにも解釈できる。ただ、以前テレビドキュメンタリーで見たヒマラヤ山岳民の暮らしはものすごくハードだった。インド洋からの湿ったモンスーンが吹きつけるため年間降水量は7000mmを越え、いつも霧がかかっている。町にでるには徒歩で三日がかり。細く傾斜のきびしい道しかないからクルマは入れない。平らな土地がないので食料に乏しく、男たちはシェルパの出稼ぎに出て登山隊にこき使われる。そんな転落死と隣り合わせの村の暮らしはけっして毎日ハッピーには見えなかった。もちろん、きびしい生活イコール不幸せというわけじゃないけど、その暮らしを天上の楽園に見立てるのは、おめでたいオリエンタリズムじゃないの。

 私のまわりでは、彼女の歌う身体感覚の描写と緊迫した音づくりが苦手という人が多い。おえっとくるらしい。ピーター・グリーナウェイの映画は好きだけどビョークはダメっていう人もいた。たしかに聞いてると疲れる。ただ、その身体感覚と欲求を全肯定してパーソナルなまなざしを押し通すところが彼女の魅力なわけで、私には、妙に収まりのいいグリーナウェイの映像のほうが計算高く見えて退屈だ。喩えに出すならならグリーナウェイじゃなくて、デヴィッド・リンチかメイプルソープでしょ。というわけで、ビョーク、シュガーキューブス以来けっこう長く聞き続けていて、熱烈なファンってわけじゃないけど、アルバムが出るたびに気になる存在である。
Bjork - Hyper-ballad

We live on a mountain
Right at the top
There's a beautiful view
From the top of the mountain
Every morning I walk towards the edge
And throw little things off
Like car-parts, bottles and cutlery
Or whatever I find lying around
It's become a habit
A way to start the day

I go through all this
Before you wake up
So I can feel happier
To be safe up here with you

It's real early morning
No-one is awake
I'm back at my cliff
Still throwing things off

I listen to the sounds they make
On their way down
I follow with my eyes 'til they crash
Imagine what my body would sound like
Slamming against those rocks
When it lands
Will my eyes
Be closed or open?

I go through all this
Before you wake up
So I can feel happier
To be safe up here with you

Safe up ( here with you ) ...

■ A piece of moment 8/15

 毎年、八月になるとテレビでは戦争関連の番組が放送される。ヒロシマ・ナガサキの被爆体験、東京大空襲の体験、元学徒兵の話、サイパン島やアッツ島での玉砕、特攻隊員の証言、シベリア抑留のつらい体験などなど、今年はとくに多かった気がする。そうしたドキュメンタリー番組では、きまってそれを体験した人たちがカメラの前で当時の状況を語り、そのひとりひとりのつらい体験を通して、人道主義的な立場から、戦争の愚かさと平和の大切さが呼びかけられる。その番組構成を悪いとは思わないし、それ自体を批判するつもりはない。ただ、「戦争の体験」として取りあげられるのがきまって日本人の被害体験であるという点は気になる。日中戦争と太平洋戦争によって、数百万人の日本人が死んでいったが、その一方で数千万人のアジアの人たちを殺している。「戦争の体験を語り継ぐ」というのならば、日本軍の侵略を体験したアジアの人々の声にも耳を傾けなけないと戦争の全体像はとらえられないはずである。しかし、連日のように放送された戦争関連のドキュメンタリーの中に、中国や東南アジアでの虐殺事件を取り上げたものはひとつもなかった。同様に、朝鮮半島での過酷な統治も強制連行による奴隷労働も731部隊による人体実験の様子も泰緬鉄道での奴隷労働もなかった。日本人にとって八月の戦争報道は、自分たちがひどい目にあったこと「だけ」を思い返す年中行事なのかもしれない。

 日本人の戦争体験で問題なのは、被害については、ひとりひとりのつらい体験が人道主義的な立場から語られるのに対して、加害の問題になるととたんに視点は180度変わり、国際政治や軍事戦略といったマスの視点のみによって解釈しようとすることである。そうしたマスの視点から加害が語られることで、日本軍による虐殺も過酷な植民地支配も奴隷労働も「戦争だから仕方なかった」で片付けられていく。そこには、日本の侵略によって、アジアの人たちひとりひとりがどういう目にあい、いまどう思っているのかというパーソナルな視点はない。そうして「やられたこと」と「やったこと」とを分け、別の文脈で語っているかぎり、戦争の体験からなにかを学ぶことなどできるはずがない。もしもそこから得られる教訓があるとしたら、「次は負けない」ではないのか。

 たしかに戦争体験をめぐる被害と加害とのあいだの意識のズレは多くの国で見られる。アメリカでは、パールハーバーの奇襲やノルマンディー上陸作戦やバターン半島での日本軍による捕虜虐待といった出来事については、それらを体験したひとりひとりのパーソナルな視点からそのつらい思い出が語られる。その一方で、原爆投下や東京やドレスデンの無差別爆撃については、軍事戦略の問題で片付けられ、その犠牲になった人たちがどういう目にあったかに目を向けることはない。だから、ほとんどのアメリカ人はキノコ雲の下で被爆者たちがどういう目にあったのかすら知らない。1995年のスミソニアン原爆展をめぐってアメリカで大きな論争になったのは、それまで軍事戦略上の問題としてのみ語られてきた原爆投下について、被爆者たちの体験を紹介し、人道上の問題として原爆投下の是非を考える文脈を示したためである。すなわち、原爆投下が日本の無条件降伏をうながし、日本本土での地上戦を回避させ、結果としてそれ以上の戦死者を出さずにすんだという主張は、軍事戦略的な解釈では正しいかもしれないけど、だからといって小さなこどもたちもふくめて十万人も無差別に焼き殺したことは、人道的には大きな問題をはらんでいるんじゃないの、それにもし同じような状況になったらアメリカはまた同じように核兵器を使うの、という問いかけである。それは核兵器の問題の本質を突く問いかけだが、第二次大戦に参加した退役軍人たちとっては、自らの正当性を否定されることにもなりかねない。彼らは展示会に対して「アメリカを侮辱する内容」として猛反発し、その結果、スミソニアン原爆展は中止に追い込まれた。こうした世論の傾向はイギリスでもフランスでも同様で、ナチス占領下のつらい体験や東南アジアでの日本軍による強制労働の体験が語られることはあっても、彼らの植民地支配の弾圧によって、地元の人たちが体験したことへパーソナルなまなざしが向けられることはない。

 加害に目を向けるのは後ろめたさをともなう。「やられたこと」には共感し涙を流せても、「やったこと」によってひどい目にあわされた人たちには感情移入するのがむずかしくなる。とくにナショナリズムを強く抱き、国家に自己投影している人たちには、まるで自分が批判されているような印象をもたらす。そのため、戦争の加害を取りあげるテレビ番組では、彼らからの強い反発に配慮し、ただひたすら「客観的」に、つなぎ合わされた記録フィルムによって出来事だけを羅列する内容になる。被害者たちの個人的な体験が失われた番組構成は、たとえ番組制作者にその意図がなかったとしても、結果としてよりいっそう「戦争だから仕方なかった」というマスの視点からの解釈を強化することになる。東京の大空襲はおじいさんやおばあさんの「つらい体験」であっても、中国・重慶での無差別爆撃は「客観的」に解釈されるべき歴史のヒトコマとされる。そもそも、東京は「空襲」で、重慶は「爆撃」と表記されること自体、視点の使い分けが現れている。しかし、そのズレがあるかぎり、いくら戦争の体験が語られても空虚なものでしかない。また、ズレがある以前に、加害について報道されること自体がほとんどない。加害の歴史を取りあげると保守派は自虐的な歴史認識だとして批判するが、知らないのでは歴史認識をどうこういう以前の問題である。被害と加害とでメディアのあつかいにこれほど差があると、広島や長崎で被爆者がどういう体験をしたのかをやたらと詳しく知っていても、その一方で、日本が無差別爆撃をしたことも虐殺をしたことも捕虜や地元の人たちに強制労働させたこともまったく知らないという人は多いのではないかという気がしてくる。

■ A piece of moment 8/16

 甲子園の高校野球中継をテレビでやっている。ときどきスタンドの応援団が写る。テレビカメラがズームし、アップで抜かれるのはきまってかわいい女の子である。カメラマンの趣味全開。かわいい女子生徒が熱心に声援を送っている姿は絵になるし、熱戦を演出する格好の素材というところなんだろう。こうした傾向は高校野球のテレビ中継だけでなく、アメリカのプロスポーツやサッカーのワールドカップでもいっしょで、アップで抜かれるのはきまってブロンド美女である。スタンドに大勢いるはずのヒゲもじゃのおっさんや太ったおばさんがビールをがぶがぶ飲んでる姿がアップになることなんてまず見かけない。ビールを飲みながら試合を楽しんでいるおじさんやおばさんたちの様子だって、日常生活の中にスポーツ観戦がとけ込んでいるのが感じられて悪くないと思うんだけど。

 興味深いのはテニスのテレビ中継で、緊迫した場面になるときまってスタンドのファミリーボックスが映しだされる。そこには選手の家族やコーチとともに、たいていシャネルで着飾った「ガールフレンド」が座っていて、でっかいサングラス越しに冷ややかなまなざしをコートに注いでいる。彼女たちはときにはアップで抜かれていることにも気づかず、大あくびをしていたり、携帯メールに夢中になっていたりすることもある。見る者に選手たちのその後の人生のきびしさについて思いをめぐらせてくれるいい場面である。スポーツシーンのクライマックスはかくあるべきだと思う。そうして祗園精舎の鐘の声を聞きながら試合は幕を閉じ、人生は回る。すべてのスポーツ中継はあのテニス中継を見習ってほしいものである。スタンドにならんで座っている選手の元妻と現妻と愛人とが互いに無言のプレッシャーをかけあっていたり、時にシャネルバッグで殴りあっていたりするのも沙羅双樹の花の色。ぜひスポーツ中継ではアップで抜いてほしいスタンド風景である。

■ A piece of moment 10/28

 今年はやたらと夏が暑かったので、永遠に夏が終わらないような気がしていたが、10月も終わりになってそれなりに寒くなった。本日、ファンヒーターを押し入れから引っ張り出して点火。

 ポルシェのスポーツカーにケイマン(Cayman)というのがある。Wikiの解説によるとワニのカイマンにちなんでのネーミングだという。でも、ワニはカイマン(Caiman)だよ。ケイマンといったら、タックスヘブンで有名なカリブ海の島でしょ。なので、「ポルシェ・ケイマン」と聞くたびに、マネーゲームとマネーロンダリングでひと財産築いた連中のためのうさんくさい高級車というイメージがわいてくる。それは同時に、このクルマのオーナーたちが「なんで俺の払った税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃならないんだ」と社会保障と累進課税の悪口を声高にとなえている姿を連想させる。もしかしてクルマ自体も税金対策?実際に乗ってる人、どうよ。

 母が網膜剥離で入院した。ボクサーがよくなるアレである。一階の住人と殴りあいでもしたのかと聞くと、歳をとると硝子体との癒着で網膜がはがれることがあるんだおまえバカじゃないのと母。昔から母は自分を笑えない。いやあクロスカウンターの打ち合いになってさあくらい言ってくれればいいのに。病院で母は看護士さんたちから「おばあちゃん」と呼ばれていた。母も歳をとった。

 ここ数年、夏になるたびに小説の朗読が聞きたくなる。音として聞いていて心地良いのは中島敦や森鴎外のような漢語調のごつごつした文体のもの。江守徹が例の大げさな調子で朗読している「牛人」と「名人伝」はとくにお気に入り。そういえば江守徹はNHK教育で漢詩の朗読もやっていたが、彼の大げさな話し方は漢詩や漢語調の文体と相性が良いのかもしれない。そうしてイヤフォンを片耳に押し込み、散歩したりバイクに乗ったりしながらごつごつ文体による浮世離れした物語を聞いていると、目の前の風景が遠ざかっていくような感覚を覚える。いま、itunesの半分くらいは、朗読とラジオドラマと落語で占められていて、40GBのipodには入りきらなくなってしまった。160GBの新型に買い換えるかどうか悩んでいる。逆に冬になると、休日、家にこもってゲームがやりたくなる。「Civ」シリーズや「Anno」シリーズのようなじっくり腰をすえてやるゲームが好み。どちらも活劇調のヒロイックな演出ではなく、皮肉の効いた演出とブラックなユーモアに満ちていて、やるたびにオトナのゲームだなあと思う。そういう人たちの購買層が海外では確立しているんだろう。ただ、「Civ」シリーズは、ゲームとしてはよくできているんだけど、根底にある社会ダーウィニズム的な文明観には違和感を覚える。「すすんだ文明」「おくれた文明」で社会を序列化する文明観は19世紀帝国主義の発想そのもので、「すべての社会は独自の価値と発展性を持つ」と言ったレヴィ=ストロースの言葉はゲームの世界にはとどいていない。たしかに「競争とかけひき」はすべてのゲームの基本要素であり、「すべての社会は独自の価値を持つ」としてそれぞれが別々の方向を向いていたら勝敗は永遠につかず、ゲームとして成立しない。はたして、ゲームとして成立させるために便宜的に社会ダーウィニズム的な文明観を用いているのか、それともゲームの作り手自身も19世紀的な弱肉強食思想の持ち主なのか。

■ A piece of moment 11/11

 毎年、レポートの課題がうまく設定できずに悩んでるテーマがある。所得の再分配についてである。数年前、消費税の値上げをテーマにその是非を論じたが、うまくいかなかった。まず、税のしくみは複雑で、直間比率を解説し、それぞれの税の問題点を指摘するだけでもう手一杯。生徒も税のしくみを理解するので精一杯で、肝心の「ではどうすればいいのか」というところまで考えが行かないという様子だった。また、同じ消費税の値上げを支持する立場でも、小さな政府を支持する立場から直間比率を消費税へシフトするのを主張する者もいれば、逆に社会保障の充実のために消費税値上げを支持する者もいて、ディスカッションしてもなかなか話がかみ合わない。で、去年は小さな政府と大きな政府の是非をテーマにしたが、こちらはテーマが大きすぎて、具体的な議論にはなりにくい。きまって「社会保障もやり方しだいだねえ」で終わってしまう。具体的で、かつ、ピンポイントに所得の再分配の是非を考えるテーマはないものか。入り口の敷居は低く、具体的に考えることができ、行き先は深い所までたどりつけることが好ましい。

 考えた末に、今年は所得税の累進課税制度をテーマにした。累進課税と一律課税とでは、どちらがより公平なしくみなのかという問いである。今回のアメリカの中間選挙でも、一律課税はティーパーティをはじめとしたリバタリアンたちがさかんに主張していたし、古くて新しいテーマである。出題はこんな感じ。

所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?

 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。
 日本では、国に収める所得税の最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。

・195万円以下の所得 → 5%
・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%
・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%
・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%
・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%
・1800万円超える所得 → 40%

 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのはあくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)
 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。

A 不公平である。
 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。
 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。
 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。
 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。

B 公平である。
 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。
 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。
 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化はどこの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのである。彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在を基準にして社会政策のあり方を考えるべきではない。
 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」という価値観を抱けただろうか。
 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローの年俸は約1800万ドル(約15億円)である。彼がすぐれた野球選手であることに疑いの余地はないし、彼が野球選手として恵まれた才能を持ち、日々努力していることもまちがいないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、プロ野球選手に高額の年俸が支払われている時代にイチローが現役選手としてプレーしていることは、たんなる偶然にすぎない。現在、メジャーリーガーの平均年俸は240万ドル(約2億円)にのぼり、アメリカ人の平均年収の50倍にも達するが、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均年棒は4万5千ドルにすぎず、アメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。スポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の年棒も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会一位の選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることも多い。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの差はないだろう。
 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。
 う〜ん、Aが弱い。納税と参政権とを同列に論じるのも乱暴だ。参政権は基本的人権で平等原理に由来する事柄だが、納税はそうではない。一律課税を擁護する説得力のある主張はないものでしょうか。で、生徒の反応は、一割ちょっとくらいが一律課税を支持、九割弱が累進課税を支持という感じだった。Aのお粗末な立論にもかかわらず、一律課税の支持者が一割以上もいることに少々おどろいている。十年後には、日本にもティーパーティーのような団体が登場するかも知れない。

■ A piece of moment 11/22

 日本シリーズを見た。千葉マリンスタジアムでは、女性の場内アナウンスで、「四番ライト、サ〜ブゥ〜ロォォォ〜〜〜〜」ってお祭りの「あたぁ〜りぃ〜」みたいな調子で選手がコールされる。猛烈に独特である。テレビを見ながらイスから転げ落ちそうになった。以来、「四番ライト、サ〜ブ〜ロォォォ〜〜」と「五番サード、イ〜マ〜エェェ〜〜」のフレーズがアタマから離れない。彼女の場内アナウンスはマリンスタジアムの名物らしいが、まあそうだろう。あれは「名物」でなければなかなか受け入れられるものではない。あの場内アナウンスは今年もっとも衝撃的な体験だった。ちょっと生で聞いてみたい気もする。

 ロッテは川崎球場時代の殺伐とした雰囲気が好きだった。スタンドからのヤジに選手が本気で怒って怒鳴り合っていたり、サインちょうだいという子供をチンピラまるだしの選手が「じゃまだよオイ」と怒鳴り飛ばして泣かせちゃったり、アメリカから呼んだ助っ人選手が「便所が臭い」と文句を言って帰国してしまったり、秋風が吹いてペナントレースから完全に脱落するとがらがらのスタンドでは試合そっちのけでおっちゃんたちが一升瓶を片手にモツ鍋をつついていたり麻雀で盛りあがっていたりして(おっちゃんたちはスタンドにコタツまで持ち込んでいた)、もうなんでもありのアナーキーな空間だった。その光景を見るたびに俺もはやくオトナになってアナーキーな世界の住人になりたいものだと思っていた。あの雑然とした川崎時代の風景を思うと、みんなで仲良く声援を送っているファンたちも、なにかと「応援よろしくお願いします」と言う選手たちも隔世の感がある。プロ野球ってもっと不健全な娯楽じゃなかったの。いつからボーイスカウト大会になったんだ。

 CSで放送されている「無口なウサギ(Untalkative Bunny)」というカナダ製のアニメーションが気に入っている。主人公のウサギは人間社会に完全にとけ込んでいて、ひとりでタクシーに乗って運転手の愚痴に付き合ったり、自動車運転免許の更新をしたり、おいしいコーヒーを求めて友だちのリスと喫茶店めぐりをしたり、やはり友だちのビーバーとアイスホッケーの観戦をしたりしながら日々を過ごしている。タイトルどおりウサギはひと言も話さないが、表情とボディランゲージが豊かでけっこう愛嬌がある。ウサギの絵柄があまり可愛くないのも良い。性格は好奇心旺盛で照れ屋でシャイ。そんな無口なウサギの目から見たカナダ社会の生活マニュアルというかカナダ人の観察日記といった感じ。昔うちにいたひと言も鳴かない猫もあと十年くらい生きていたらあんなふうに社会生活をしていたんじゃないかと思ったりしながら見ている。
 → Wikipedia「Untalkative Bunny」

■ A piece of moment 12/1

 「惑星ソラリス」で有名なポーランドの作家スタニスワフ・レムの作品に「泰平ヨン」シリーズというのがある。はるか未来を舞台に宇宙飛行士ヨンが体験する奇妙で不条理なエピーソードが短編連作の形式でつづられていく。SF小説ということになっているが、テクノロジーを主題にした未来小説ではなく、人間の認識と物理現象との関係をめぐる思考実験であり、その主題は「惑星ソラリス」と共通している。ただし、シリアスな「惑星ソラリス」に対して、「泰平ヨン」の世界はまんが的にぶっ飛んでいる。その点で、未来世界を舞台にした「ガリバー旅行記」か「ほら吹き男爵」という感じ。

 「ガリバー旅行記」の系譜にある寓話は、日本でも、芥川龍之介の「河童」から「銀河鉄道999」や「キノの旅」まで数多い。私はどれも好きだが、共通して「ガリバー旅行記」よりも叙情的でおとぎ話的だ。本家の「ガリバー旅行記」には、明確な社会批評の意図があり、登場人物やエピソードが何をカリカチュアしたものかわかるように描写されている。小人の国はトーリー党とホイッグ党による当時のイギリスの政治状況を、巨人の国はイギリスの宮廷社会を、空飛ぶ島はイギリス王立アカデミーの学者たちを、言葉を話す馬の国はイギリスの貴族社会をそれぞれ下敷きにしたものであり、それらをほのめかすことで現実の社会へ乾いた笑いをあびせる。一方、「河童」も「999」も「キノ」も、そこに風刺としての乾いた笑いは存在しない。物語としては面白いが、それはあくまで奇妙な体験を通して語られる主人公のまなざしの物語である。

 で、「泰平ヨン」はなにかの風刺なのかというと、これがさっぱりわからない。おまけに主人公自身もエピソード以上にぶっ飛んだキャラクターで、そのまなざしに感情移入することも拒否する。カフカ的な不条理な話が奇妙な未来世界を舞台に奇妙な登場人物たちによって繰りひろげられるので、もうなにがなにやらという感じ。ただ、人間の認識をめぐる思考実験としては面白い。翻訳は次の4冊が早川から出版されていたが、現在はすべて絶版。古本屋にはまだけっこう残っていると思う。
 「泰平ヨンの航星日記」
 「泰平ヨンの回想記」
 「泰平ヨンの現場検証」
 「泰平ヨンの未来学会議」

 と思っていたら、去年、「泰平ヨンの航星日記」が新訳版でやはり早川から出版されたらしい。根強いファンがいるんだろう。よっ御同輩って感じでちょっと嬉しい。一人称は新訳版でも「吾輩」なんだろうか。
 「泰平ヨンの航星日記〔改訳版〕」スタニスワフ・レム 深見弾・大野典宏訳 ハヤカワSF文庫

 ところで「ヨン」という奇妙な名前、ポーランド語では「Ijona」と表記される。旧約聖書に出てくる予言者「ヨナ」に由来する名前とのこと。あの巨大な魚に飲まれて、魚の腹の中で一週間暮らした人物である。正教では「イオナ」とも表記されるという。(「イオナ」って化粧品の印象が強いので、女の人の名前かと思っていたら、魚に飲まれた「ヨナ」のことだったのね。)レム自身もユダヤ系なので、主人公の名前に聖書的な寓意が込められているのかも知れないけど、こちらもさっぱりわからない。どなたか詳しい方、教えてちょうだい。

■ A piece of moment 12/8

 自分の頭の中にある地図では、阿久悠の歌と中島みゆきの歌に登場する人たちは同じ町に暮らしている。東京や大阪のような大都市の住人ではないが、伝統的村落共同体の住人でもない。ローカル線にガタゴトと長時間揺られていくとたどりつく地方都市で、二時間も歩けば町の端から端までたどりつくくらいの小さな町の住人たちだ。町の中心部には少しうらぶれた繁華街があって、そこでは若い沢田研二がやけにギラギラした目つきで壊れたピアノとナイフをもてあそんでいたり、一見純朴そうな顔をした新人歌手が「嫁に来ないか」とキャバレーで客に歌いかけていたり、わかれ歌を歌う女が道端で酔いつぶれていたり、その女を振った伊達男が売れっ子ホストとして名をあげていたり、仕事の上がったボーイとホステスが夜明け前の吉野家で牛丼をビールで流し込んでいたりする。学生街の安アパートでは、同棲生活を解消した若い男女が部屋の表札をはずし、ふたりでドアを閉めていて、そのアパートの並びにある喫茶店では、学生たちが夜遅くまで恋愛話や政治談義に花を咲かせていて、すっかり貧乏学生たちのたまり場になっている。小さな商店街の突き当たりにはローカル線の駅があり、深夜のホームでは、仕事に疲れた若い男が次の最終列車に乗ってこのままふるさとへ帰ってしまおうかと思いつめた顔で線路の向こうを見つめていて、駅の向こう側にある町外れの古い一軒家には、ヒッピー暮らしのアザミ嬢が少し前から住みついていて、訪問者たちを自家製ハーブでつくった不思議な味のお茶でもてなしている。さらにその向こうの二駅三駅先にある港町には、マリーという名の女がいまも五番街のアパートに暮らしているといった具合。

 両者ともある人たちのある瞬間の情景を切り取った歌が多いからなのか、あの時代の記憶のせいなのか、そんな少しうらぶれていて少しいじけていて少し感傷的なイメージを思い浮かべる。夜、行き先も確認せずにローカル線に飛び乗り、てきとうな駅でその四両編成のやけに揺れる汽車を降りると、そんな町にめぐり会えるんじゃないかと思う。本当に行きたかどうかは別にして、いまもどこかにそんな町はあるような気がしている。

 最近の中島みゆきの大げさな歌い方が苦手だ。「ロックっていうのは、悲しいできごとを楽しく歌う音楽なんだよ」、ボビー・アン・メイソンの小説「インカントリー」で登場人物のひとりがそう話す。私もそう思う。悲しい出来事ほど軽やかに、思いを込めた言葉ほど彼方からのまなざしで歌にのせてほしいと思う。最近の彼女の自己演出過剰でわざとらしいしゃべり方も竹中直人やゆうこりんといい勝負。いや三人の中でも中島みゆきが一番重傷に見える。30年前、深夜のラジオ放送で喋っていた彼女はただの陽気なお姉さんだったんだけど、なんでああなってしまうんでしょうねえ。あんな時代もあったのさときっと笑って話せる日はいつかくるんでしょうか。

■ A piece of moment 12/10

 先日書いた文章を読み返して、昔、中年太りでぶよぶよになったプレスリーをテレビで見ながら母が「なんでああなっちゃうんだろうねえ」と嘆いていたのを思い出した。うーむ、危険な傾向である。なので、中島みゆきの1970年代の曲をまとめてアマゾンで買って、30年ぶりに聞きなおしてみようかと思ったけどやっぱりやめた。感傷に浸る懐メロおじさんはちょっとねえ。流行歌は流れ去っていけばいいのだ。

 期末試験を採点しながら録りだめたニュース映像を見る。「クローズアップ現代」で遺伝子組み換え生物を取りあげていて、アメリカで開発された遺伝子操作による低アレルギー猫や成長の早いスーパーサーモンが紹介されていた。どちらも授業であつかった素材で、改めて映像を見ながら考え込む。これありなんでしょうか。以前書いた遺伝子組み換えペットについての文章をついでに書き改めてみた。
 → 遺伝子組み換えペット

■ A piece of moment 12/19

 今年の夏、我が家ではセンチニクバエが大量発生した。黒い縦縞の目立つ大型の蠅である。イエバエよりもひとまわり大きく、平べったい体型をしている。8月末から9月はじめにかけて、毎日数匹、多い日には十匹近く、このシマシマの蠅を古新聞やぞうきんを振りまわして駆除した。床下に猫か鼠の死骸でもあるのかと思い、床下を懐中電灯で照らしながら覗いてみたが、それらしいものは見あたらない。どうやら洗濯機の排水のために下水のふたを開けっぱなしにしていたことが原因で、下水の汚物に蠅が卵を産み付け、発生源になっていたらしい。ニクバエの大量発生なんて水洗化の進んだ現代ではめずらしいことだが、ボロアパートの我が家では今も六本脚の生き物たちは身近な存在なのである。興味深いのは、9月の2週目に入るとセンチニクバエの発生がぴたりと止まり、それに代わって大型の蟻に似た黒い蜂が部屋の中を飛びまわるようになったことである。体長は10mm弱、胴体は黒く脚は茶褐色をしており、後ろ脚の股部分が太くなっていて下向きに湾曲しているのが特徴。ネットの検索によると「アカアシブトコバチ」という蠅の蛹につく寄生蜂の一種らしい。この寄生蜂の9月2週目からの発生数はそれまでの蠅の発生数とほぼ同数。つまり、蠅の半数は寄生蜂にやられたわけである。寄生蜂が下水溝の蛆をどうやって探し当てるのかはわからないが、自然はすごいなあとファーブル先生の気分で感心する。
 → 田中川の生き物調査隊「アカアシブトコバチ」

 ちくま新書の「害虫の誕生」を寝ころがって読む。ナチュラリストの生物学者による昆虫エッセイかと思って読みはじめたらぜんぜん違った。フーコーの「監獄の誕生」や「狂気の歴史」のように、近代の知識体系が「虫」という身近にいる小さな生き物へのまなざしをどう変容させ、虫と人間社会とのかかわりをどう変えていったのかを追っていくという内容。著者は生物学者ではなく社会学者。大量の文献から科学史にまつわる資料を掘り出し、江戸から明治、大正、昭和に至る自然を見るまなざしと知識体系の変遷を読み解いていく。江戸時代以前、「虫」のような小さな生き物たちは、卵から生まれるのではなく、ある状態から自然発生的に生じるものだと思われていた。イナゴやニカメイチュウは稲のある状態から、ミミズは土のある状態から、ナメクジは湿ったある状態から、シラミやノミは人間や動物の身体のある状態から、「涌いてくる」と思われていた。それは民間伝承としてだけでなく、李時珍や貝原益軒の「本草学」にも同じように記されている。だからこそ、稲につく虫たちは日照りや長雨と同様に人知を超えた災害であり、虫送りの祈祷によってのみ「鎮める」ことができると思われていた。まるで、マンガの「蟲師」の世界のようだが、小さな生き物たちがさらに小さな卵から孵化することを知らない人々にとって、ある特定の状態からなんらかの自然の力によって小さな生命が宿るという考え方は広く受け入れられてきた。この本では、そうした前近代の知のあり方から、いわゆる「科学的な知のあり方」へ、知識体系が組み換えられていく様子を大量の文献から読みとっていく。新書本にしてはずいぶんと手間のかかっているカタイ内容である。後書きによると著者の博士論文が元になっているとのこと。そうか構造主義の手法は虫へのまなざしにまで用いられるようになったのか。なかなか読みごたえがある。
 → Amazon 瀬戸口明久「害虫の誕生」ちくま新書 756円

2011

■ A piece of moment 1/3

 最近のアメリカのテレビドラマを見ていると、多チャンネル化の影響なのか、視聴者をピンポイントでしぼっているという印象を強く受ける。たとえば「デスパレートな妻たち」では、ネクラでオタクのキモワル男が登場すると必ず犯罪者である。十中八九、彼らは死体を地下室に隠しているか、盗撮マニアの変態である。女の視聴者だけをターゲットにしてつくっているんだろう。子育ての苦労や職場での軋轢といった描写はやけにリアルだが、登場する男たちはみな類型的で薄っぺらくてオタク野郎とぶ男は全員死んじゃえの世界。「セックス・アンド・ザ・シティ」もターゲット視聴者は女限定。こちらはもう少しターゲット年齢層低めで、オンナはいつもお洒落で輝いてなきゃいけないのよのブサイク全員死んじゃえワールドが繰り広げられる。男であのドラマが大好きっていうのは全員ゲイにちがいない。えっ、アナタの彼氏はキャリーの大ファン?あらまあお気の毒に。逆に「名探偵モンク」はオタク男限定ドラマ。自信満々でイケメンでプレイボーイのやり手実業家が登場して主人公の奇妙な言動をからかったりバカにしたりすれば、十中八九そいつは殺人犯である。オタク男のルサンチマンまる出しといった感じで、自信過剰のイケメンと口うるさいリベラル派はみんなブタ野郎の世界。主人公のモンクは偏狭な性格の中年男で、重度の潔癖性と強迫神経症を患っているため常に挙動不審。「デスパレートな妻たち」だったらまちがいなく死体をホルマリン漬けにして地下室に隠しているタイプである。ところが彼は一度見たことはすべて憶えているというカメラみたいな記憶力と抜群の洞察力の持ち主で、事件捜査を通じて自信家のイケメンやキャリアウーマンをやりこめていく。アメリカ社会って、高校時代にフットボール選手やチアリーダーだったかそうでなかったかで両者の間には巨大な溝が横たわっていて、卒業後もずっとそのルサンチマンを引きずっている社会なんだろうか。モンクは精神疾患のために社会生活に支障をきたしているので、日々のあれこれをやたらと美人のアシスタントに世話してもらっている。安い給料にもかかわらず、美人で気立ての良い彼女は「はいはいモンクさんダメですよ、はいティッシュ、手をふいてね、あ、ミネラルウォーター買っておきましたよ」とまるで赤ん坊の世話をするように甲斐甲斐しく中年男の世話を焼き、主人公は「駄目だよ、このミネラルウォーター銘柄が違う、私はこれでないと駄目なんだ、ほらこれ、取り替えてもらってきてよ」と節操なく甘える。そりゃさ、実際に美人で気立ての良いおねえさんがあれこれ世話を焼いてくれてさ、彼女に節操なく甘えられれば毎日が楽しいだろうけどさ、でも、そういうムシのいい願望をそのままドラマにして映像として見せられると醜悪さにめまいがするのである。うちの母は「名探偵モンク」を見ると主人公を殴り飛ばしてやりたくなると言っていたが、もしあのドラマを受け入れられる女性視聴者が存在するとしたらメンタリティーは完全にオヤジである。えっアナタの彼女がモンクの大ファン?あらまあお気の毒に。

 商業作品は需要と供給の関係でできていると言えばそれまでだけれど、こうしたドラマは作品としてその質をどうこういうような次元のものではないのではないか。お好み味のキャンディーのようにピンポイントの視聴者層に心地良いファンタジーを45分間供給する。それだけ。だから視聴者が求めるファンタジーを裏切らない。オタク野郎はみんな死んじゃえの世界ではネクラのキモワル男は必ず地下室で死体を切り刻んでいるし、ブサイクはみんな死んじゃえの世界ではださいスーツのおはさんたちはきまって陰湿な嫌がらせをするし、自信過剰のイケメンはみんな死んじゃえの世界では元クォーターバックのやり手実業家は必ず連続殺人犯である。登場人物たちが最後まで見る側の思い描く人物像から一歩もはみ出さないというのは、はっきり言って物語としては最低である。視聴者層を限定する手法は、一見、創作の自由度を上げそうに思えるが、その視聴者層の好みに寄り添って創作されるためドラマはパターン化していく。もしも視聴者の多数決で展開が決まるとしたら、みんな同じようなストーリーになるはずである。ドラマをただ消費されるだけの娯楽と割り切ればそれはそれで良いのかもしれないが、囲い込んだ視聴者層の外側にはまったく訴求力を持たないので長期的には袋小路に陥る危険性が高い。

■ A piece of moment 1/5

 年末に「刀語(かたながたり)」というアニメをCSでまとめて放送していた。部屋の片付けをしながら見る。舞台になるのは江戸時代ふうのファンタジー世界で、登場人物たちはマンガ的にデフォルメされていて、みなテンション高め。忍者に至っては全員着ぐるみを着ている。「忍者ミツバチ」はハチの着ぐるみを着た青年で、「忍者ペンギン」はペンギンの着ぐるみを着た小さな男の子。そんなアニメ的記号に満ちた世界にもかかわらず、ストーリーはかなり込み入っていてシリアスで悲劇的。血まみれの殺戮シーンも多い。おまけにどうも因果ものの話のようで、親の因果が子に報いぃ〜べんべんべんと要所要所に因果話が差し込まれる。なにやら途中から飛び飛びで見ていてもさっぱり理解できない。このお店は一見さんお断りですか。気になるので動画サイトでダウンロードして改めて見てみる。全12話10時間、今度はかなり集中して一気に見た。ストーリーはほぼ理解できたけど、でも、やたらともやもやしたものが残る。作り手はいったい何がやりたかったんだろう。

 物語の舞台は「尾張時代」という江戸時代ふうの架空の世界。その世界では戦国の動乱をへて幕府が成立するが、失政によってまもなく崩壊し、旧幕府に代わってあらたに「尾張幕府」というのが成立する。それから約百五十年が過ぎ、尾張幕府を率いる家鳴将軍も八代目と代を重ね、すっかり天下泰平の世をむかえている。ところが、将軍の信頼の厚かった出羽の大名、飛弾鷹比等(ひだたかひと)が突如尾張幕府に反旗をひるがえす。飛弾鷹比等は「歴史を本来あるべき姿にもどす」として挙兵し、その反乱はやがて日本全土を巻き込み、幕府もあわやというところまで追い詰められる。追い詰められた幕府は、反乱鎮圧の切り札として「虚刀流(きょとうりゅう)」という刀を使わない暗殺剣の達人、鑢六枝(やすりむつえ)を送り込む。彼の超人的な活躍によって戦況は逆転し、飛弾鷹比等も鑢六枝によって討ち取られる。反乱鎮圧後、今度は虚刀流の力を恐れた幕府は、大乱の英雄である鑢六枝を彼のふたりの幼いこどもとともに無人島へ流刑する。それからさらに二十年が過ぎ、再び天下泰平の世を取り戻していた……と、ここまでが物語のバックストーリー。独自の歴史を持った架空のファンタジーワールドなので、かなり細部まで設定されていてややこしい。こういう入れ物先にありきのRPGみたいな物語ってまだ流行ってるの?

 物語はひとりの若い女が鑢六枝の流された離れ小島へ訪れるところからはじまる。鑢六枝はすでにこの世になく、島には成人した彼の遺児たち、病弱な姉、鑢七実(やすりななみ)とたくましい弟、鑢七花(やすりしちか)のふたりが自給自足の暮らしをしている。「とがめ」と名乗る若い女は、ふたりに自分が幕府の命によって十二ふりの刀を集めていると話す。十二ふりの刀はいずれも四季崎記紀(しきざききき)という戦国時代の刀鍛冶によって作られた業物「変体刀」で、それはくり返し動乱の火種となってきたいわくつきの刀であり、現在の所有者たちも一筋縄でいかない連中だという。当初彼女を手伝っていた忍者集団は刀の価値に目がくらんで幕府を裏切り、やはり彼女を手伝っていた東西随一といわれる剣士はあまりの業物である刀に魅入られ、そのひとふりを手にした途端、姿を消した。そこで刀を使わない虚刀流に自分の役目を手伝ってもらいたいのだと言う。手伝ってもらえれば島送りの罪も不問に付すと。「南総里見八犬伝」かはたまた「雨月物語」かって調子で、伝奇ものの出だしとしてはなかなか良い感じ。十二ふりの刀のいわくとやがてむかえる対決に胸が躍るでしょ。でもね、とがめちゃんは幕府の重役にもかかわらずロリロリでツンデレのステレオタイプなアニメヒロイン。上記の話を早口のアニメ声でまくしたてるのである。敷居が高いなあ。彼女の様子にあっけにとられている弟へとがめは言う。「金で動く忍者は信用できない、名誉で動く剣士も駄目だ、愛で動く者だけが信用できる、虚刀流七代目当主、鑢七花、私に惚れて良いぞぉ〜」。うーん、どうしよう……。

 近代の作劇は紋切り型を避ける。例えば、悲しい場面で登場人物たちが同じように一斉に泣くのではなく、ある者はただ呆然と立ちつくし、ある者はどうにもならない状況に憤り、またある者はあまりにも悲しくて笑いだす。そうして紋切り型を避け、登場人物たちの差異を提示することで、作りものにすぎない世界があたかもそこに実在するかのように見せる。もしも悲しい場面で登場人物たちが一斉にハンカチを取り出してよよよと大げさに泣きだしたら、それは喜劇か大衆演芸だ。ところがここではそうした作劇の基本的な仕掛けが放棄され、おそらく意図的に類型化された登場人物によってアニメ的記号のパロディが演じられる。アニメ的コスチュームを着た彼らは、常にオーバーアクションで大げさに語る。彼らはたびたび「ここでの私の役割は」と口にする。自分は物語の都合上ここに登場したにすぎないと。彼らの会話は漫才のようにボケとツッコミの役割をなぞる。(個人的には駄洒落よりも漫才もどきの予定調和の会話のほうが苦手。)それは明らかに喜劇の文脈なんだけど、その中で彼らは次々と血まみれの姿で殺され、非情で残酷な運命論めいた物語が展開される。そうやってありえない世界をいっそうありえないものとして描くことで、作り手はいったい何がしたいんだろう。それは現実よりもアニメ的世界に親近感をおぼえる人たちのために、居心地の良い舞台をつくって遊んでいるだけなんだろうか。それとももっと何か別の意図があるんだろうか。

 主人公のつかう虚刀流は、刀剣を用いず、自らの心身そのものを「刀」とする殺人剣である。それは素手で人体を破壊し、刀も粉砕する。ただし、鑢一族のみに伝えられる血族の技であるため、戦国の世や大乱での活躍は知られていても、その実態はほとんど知られていない。弟の鑢七花は、父・六枝によって七代目の伝承者になるべく鍛えられ、幼いうちからひとふりの刀として生きることを説かれてきた。ただ鋭い刀になることだけを教えられてきた彼は、自らの意志や他者への情、善悪の観念といった基本的な人間性が欠落している。隔離された島の環境の中、やはり鋭い刀である父と姉との三人だけで暮らしてきたことがその傾向に拍車をかけている。性格は温和で一見ごくふつうの木訥とした若者だが、人を殺すことになんのためらいも葛藤もない。彼はとがめを探って島に来た忍者蝙蝠(もちろんコスチュームはコウモリふうの着ぐるみ)を一撃で仕留める。対決の最中、彼はとがめの正体と彼女の真の目的を蝙蝠から聞かされる。とがめは大乱の首謀者、飛弾鷹比等のひとり娘であり、十二ふりの刀あつめは、表向き幕府にとっての動乱の火種を事前につむためとされているが、それは彼女にとって口実に過ぎない。とがめは刀あつめを成功させることで将軍つきの側用人へ取り立てられ、将軍の暗殺と幕府の転覆の機会をねらっているのだという。そうして父親の無念を果たすことこそが飛弾鷹比等のひとり娘である彼女の真の目的なのだと。それを聞いて主人公の表情が変わる。彼の父親、鑢六枝もまたとがめの仇である。忍者蝙蝠を仕留めた後、蝙蝠が所有していた変体刀を手に彼はとがめへ言う。「とりあえず一本、金のためでも名誉のためでもなくアンタのためにしたくなった、俺はアンタに惚れることにしたよ」。こうして殺人剣の使い手である心を欠落した若者と目的のためなら手段を選ばないお姫様との刀集めの旅がはじまる。ややこしい架空世界が舞台になっているけど物語の骨格はきわめて古典的。剣士とお姫様の妖刀狩りの道中なんてまるで古い時代劇のようだ。

 コミカルな表現が多いにもかかわらず、マンガやアニメで多用されるモノローグや心の声による心理描写はほとんど用いられない。だから、主人公の若者がなぜヒロインの復讐に手をかすことにしたのかも説明されない。彼女に同情したのか、罪悪感を抱いたからなのか、それとも目的を果たすために手段を選ばない強い決意に心うたれたからなのか、場面をよく見て、ストーリーを理解して、あとは見る側が想像してくれというわけだ。ともかく主人公はヒロインの「刀」になることを決意する。心理描写については、登場人物たちの表情やしぐさやなにげないひと言が伏線になっていることが多い。いくつもの伏線がパズルのピースのようにはめ込まれていて、アニメにしてはずいぶんと映画的。登場人物の奇妙な名前が伏線や暗喩になっていることも多い。見る側に集中力を要求するが、なんでもセリフとモノローグで説明されるよりはずっと良い。説明的なモノローグを多用されるほどしらけるものはない。また、カットバックを多用し、肩透かしや人を食った仕掛けも盛りだくさん。ぼんやり見ていると出し抜かれる。とくに四話目の展開には、まんまと一杯食わされ、腹をかかえて笑った。演出のテンポも良いし絵も良く動く。作画やアートワークも凝っていて七話目ではその内容にあわせて絵のタッチまで変えている。残酷で猟奇的な描写が多いのは「八犬伝」や「雨月物語」みたいな伝奇ものだと思うことにして受け入れよう。これはこどもが見るアニメではない。ヒロインのお姫様がニーソックスをはいてツンデレロリロリなのもまあ見てるうちに慣れる。あれはあれで三時間も見ていれば、わがままで自分勝手で焼きもちやきのヒロインがなんだか可愛いような気がしてくる。忍者が着ぐるみを着てるのも一種の様式だと解釈して受け入れよう。「ヤッターマン」の三悪にしても「ポケモン」のロケット団にしてもアニメの敵役はみんな妙なコスチュームを着ていたし、それは本質的な問題ではない。ただそうして好意的に見たとしても、釈然としないものが残る。主人公とヒロインを縛っている歴史の因果の正体が最後まで明らかにされないのだ。だから、十二話見終わった後でも、物語の完結を見とどけたという充足感が得られない。どうしてそうなるのというもやもや感だけが残されることになる。

 全十二話の物語は、刀をめぐる歴史の因果を全体を通じての縦糸に、主人公の成長とヒロインとのラブコメを横糸に、各一話ごとにそれぞれの刀の所有者との対決がつづられていく。因果話は猟奇的で残酷に、ラブコメはコミカルに、両者の間を大きく振幅しながらふたりの旅は描かれる。旅がすすむにつれて、主人公はヒロインとの交流や刀の所有者との出会いと別れによって少しずつ人間性を身につけていく。怒り、喜び、悲しみ、後悔といった感情を体験し、自らの意志を自覚するようになる。それは同時に一本の刀として主人公の虚刀流が研がれ、完成していく過程でもある。また、旅がすすむにつれて、十二ふりの刀の正体も明らかになっていく。刀の制作者である四季崎記紀は古くからの占術師の家柄で、彼の一族は代々予知能力をもっている。それはたんに未来を見通せるというのではなく、「風吹けば桶屋儲かる」式の因果の連鎖を俯瞰的に知覚できるものなんだろう。四季崎の一族はその力を生かし、たんなる未来の託宣ではなく、歴史を積極的に改ざんし、本来あるべき歴史の姿に修正することを役割としてきた。彼らは因果の種をまくことで歴史の向かう方向を修正する。戦国の世に生まれた四季崎記紀は、刀を因果の種として歴史の修正を図った。まもなく戦国の世を統一することになる将軍家と幕府は本来の歴史には存在しない。本来あるべき歴史の中では、戦国の世は統一されず、将軍も幕府も存在せず、数百年もの泰平の世がつづくこともない。幕府の存在する歪んだ歴史の先には遠い未来においてこの国が異国の軍隊に滅ぼされる世界へたどり着くという。その歪んだ歴史を修正し、幕府の成立を阻止するための因果の種が彼の制作した異形の刀である。

 四季崎記紀は戦国の世に千におよぶ刀をばらまく。未来の技術や異なる世界の技術によってつくられた彼の刀は戦場で絶大な威力を発揮し、戦乱の中でさらなる殺戮をもたらした。四季崎の刀の存在が戦の勝敗を大きく左右したことから、やがて彼の刀を多く手にした大名こそが戦国の世を支配するという噂が広まる。大名たちはこぞって四季崎の刀を求め、刀の存在がさらなる戦乱をまねいていった。その後、戦国の世を統一した旧将軍は、四季崎の刀を恐れ、総力を挙げて刀狩りをはじめる。収集された刀は十万にのぼり、四季崎の刀もそのほとんどが回収されたが、どうしても十二ふりの刀だけは回収できなかった。その十二ふりの刀こそが特別に強い力を持った「完成形変体刀」と呼ばれる異形の刀だという。なんだか使い古されたSFな仕掛けで少々安っぽいけど、これが十二ふりの刀のいわく。強引な刀狩りを実施した旧将軍は国力を疲弊させ、その天下はごく短期間で崩壊する。幕府の成立を阻止するという四季崎のもくろみは成功したかに見えたが、旧将軍の家臣だった家鳴家がその跡を継ぐ形であらたに尾張幕府を開き、その後、泰平の世を築くことになる。歴史の修正は四季崎の子孫の引きつがれ、残された十二ふりの刀による幕府の転覆を画策している。ヒロインの父親である飛弾鷹比等が二十年前におこした大乱もそのひとつ。劇中でくわしく描かれていないためはっきりしないが、飛弾鷹比等の大乱も四季崎による歴史改ざんのシナリオの影響下にあることを匂わせている。また、主人公とヒロインは気づいていないが、ふたりの刀集めの旅も四季崎の子孫である若い女の描いたシナリオの中にある。問題なのは、劇中で語られる「あるべき歴史」や「歪められた歴史」というのが何かはっきりしない点である。それらは思わせぶりなセリフでほのめかされるだけで、「あるべき歴史」って具体的にどういうことなのかが最初から最後まではっきり示されない。尾張幕府は本来の歴史では存在しないという。では、「本来の歴史」とは一体どのようなものなのか。ここは物語全体の核になっている箇所できわめて重要なはずである。これを明らかにしないと、さんざん張りめぐらした伏線は回収されないまま終わってしまうし、この物語全体があいまいなものになってしまう。

 ヒロインの回想の中で、父親の飛弾鷹比等はまだ幼い彼女に語りかける。反乱は失敗し、幕府の軍勢に追い詰められた彼は、火の海となった城内で最後の時を迎えようとしている。「君は歴史とはなんだと思う?僕は歴史とは人間の生きた証だと思う。精一杯生きた人間の証だと。だからあるべき姿であるべきなんだと。それなのにこの歴史は本来あるべき歴史とはまるで違う。僕はその間違いを十分に示せただろう。ここでひとまず僕の役割は終わりだ。こうやって最後に君に伝えるべきことを伝えられたんだからそれで良しとしよう。もしもこの歴史が僕の思っているとおりなら君だけは死なないはずだ。君はこの過酷な歴史に生き残ることになる。武士道にしたがうなら僕はここで君を殺してあげなきゃならないんだろうけど、いくらそれが歴史の間違いを正すことだとしても、それだけはできない。自分の娘は殺せない……」。謎かけ問答のようだけど、彼が何を言ってるのかわかりますか?ヒロインが本来あるべき歴史には存在しないってことだけはわかる。歪められた歴史の因果の中にのみ存在するのだと。では、彼が語る歴史の「あるべき姿」とは、「精一杯生きた者がむくわれる世界」のことなのか、それとも「行為の結果としてただあるがままに生じる世界」のことなのか。前者ならばある価値観にもとづく歴史の修正を肯定し、後者ならばすべての修正を否定することになる。また後者ならば尾張幕府の存在自体、四季崎とは別の歴史の外部からの干渉によってもたらされたことを示唆する。だとしたらそれは誰?なんのために?あるいは、戦乱の世の中で、ひたすら殺戮の連鎖がつづく万人の万人による闘争の歴史こそが「あるべき歴史」だというのか。でもそれはたんにひとつの価値観にすぎない。それを歴史のあるべき姿という根拠は何なのか。はたまた彼は「この世界は架空の世界だ」とメタフィクションについて語っているんだろうか。ニーソックスをはいたロリロリヒロインも着ぐるみの忍者たちも存在するはずのない本来ありえない登場人物たちなんだと。だとするとまったく違う意味になるけど、でも、そんなもん原作者がぜんぶ創作してるに決まってるわけで、物語も終盤になっていまさら劇中の人物にメタフィクションを指摘されてもさあって感じ。

 飛弾鷹比等が娘にそう話した直後、筋骨たくましい大男が彼の元へせまってくる。大乱の首謀者を討ち取りに来た虚刀流六代目、鑢六枝である。燃えさかる城の広間でその大男は、小柄な飛弾鷹比等を見下ろし、手刀を一閃させる。ふすまの影に隠れていた幼い娘は、噴き出す血しぶきとともにゆっくりと落下していく父親の首を凝視する。込み上げてくる怒りと恐怖で、彼女の長い髪はまっ白に変わっていく。以後、彼女は自らの名前と素性を隠し、人生のすべてを費やして父親の復讐への長い道のりを「奇策士とがめ」として歩きつづけることになる。

 たしかに物語の何から何までを見る側にわからせる必要はないし、これはどうしてと想像の余地が大きいほど物語の余韻は残る。しかし、劇中で語られる「あるべき歴史」が何かというのはそういうたぐいのものではない。ここがはっきりしないことには、すべての登場人物たちの行動原理が意味不明のものになってしまう。「あるべき歴史」とその因果こそが物語全体のカギになっていて、主人公とヒロインの刀集めの旅もその中にあるんだから、これについては見る者の想像にゆだねますってわけにはいかないはずだ。四季崎記紀は大勢の人間が死んでいくのを楽しんでいるようなニヒリズムを抱いた人物として描写される。彼にとっては自分の作った刀をめぐってどれだけ大勢の人が死のうがいっこうにかまわない。ならば、幕府ができようが、遠い未来でこの国が滅ぼされようがそんなこと彼にはどうでもいいのではないか。むしろ、そんな彼が「あるべき歴史」にこだわり、幕府の成立を阻止しようとするほうが不自然に見える。彼は、虚刀流開祖、鑢一根との出会いでこう話しかける。「俺も世の中なんてものには興味はねえ、俺が相手取ってるのはなんたって歴史って奴だからな、世の中やら世界なんてものは、歴史全体から見たら表面のほんの上澄みみてえなものにすぎねえ」。では、彼は何がしたくて歴史を相手取っているのか。また、飛弾鷹比等もなぜ自らの命と大勢の人々を犠牲にしてまで「あるべき歴史」の実現に執着したのか。我々に見える「歴史の上澄み」ではなく、その深淵をのぞき込んだ者たちの意識の世界がきっちりと描写できていなければ、よくわからない架空の世界のよくわからない歴史の因果によって登場人物たちが振りまわされ死んでいくだけのよくわからない物語になってしまう。主人公がいくら必殺技をくりだそうが、ヒロインとのラブコメでいくらいちゃいちゃしようが、世界はすべて茫洋として霧の中。だから十二本全部見終わっても充足感は得られない。ただもやもやが残されるだけだ。ここでひとまずそのもやもやを整理してみよう。

 ・劇中で語られる「本来あるべき歴史」っていったい何なのさ?
 ・四季崎記紀の言う「本来あるべき歴史」と飛弾鷹比等の言う「本来あるべき歴史」って同じものなの?
 ・予言者の存在する劇中の世界では、歴史は行為の結果として生じるのでなく、あらかじめ定められているの?
 ・尾張幕府の存在は、何者かによる歴史への干渉によってもたらされたの?なら誰が何のために?
 ・尾張幕府の転覆さえ実現すれば「本来あるべき歴史」に修正できるの?

 劇中の様々な箇所で「歴史のあるべき姿」は思わせぶりに語られ、十二話全体をつらぬく縦糸として、主人公とヒロインの刀集めの旅もその因果の中にあることが示唆される。ところがこのさんざん思わせぶりに語られてきた歴史の因果は、結局、最後までその正体が明かされない。本来あるべき歴史とは何なのか、主人公たちがいる世界とは何か、歴史とは結果の積みかさねによって生じるのか、それともあらかじめ定められた流れの中にあるのか、何も明らかにされないまま主人公とヒロインの旅は終わり、物語は幕を閉じる。登場人物たちを動かしてきた運命論めいた歴史の因果は最後まで霧の中にあり、見る者は物語が終わってもその霧の中に取り残される。年末にまるまる一日費やして付きあってきたふたりの旅の行き先がこれかい。

 そして結末。以下ネタバレって奴です。旅の終わりで主人公とヒロインは、虚刀流もまた四季崎記紀によって作られた「刀」であることを知る。二百年前の戦国の世に四季崎記紀によって鑢一根に植えられ、血族の技として受けつがれていく過程で根をはり枝をのばし、七代目の主人公によって花を咲かせ、完成に至る「刀」だと。そして、虚刀流もまた歴史を「あるべき姿」に修正するための因果の中にあると。主人公は言う。「俺が四季崎の作りし変体刀の一本ねえ、ぜんぜんピンと来ないなあ、まあいい、俺はとがめのために戦う、それが俺の出した答えだ」。それはそれでいい。主人公の七花くんはこの旅を通してなかなかいい男になった。ヒロインは彼のまっすぐな言葉に顔を赤くする。ならばふたりのラブコメがこの悲劇的な因果話に終止符を打つのか。そうはならない。ヒロインは最後まで父親の復讐にこだわりつづけ、最終回で四季崎の縁者によって殺される。四季崎の縁者がなぜ彼女を殺害したのか、やはりここでも説明されない。彼女もまた主人公との一年におよぶ旅によって変わった。もう以前のような、目的を果たすためなら手段を選ばず、誰も信用せず、一切の隙を見せず、容赦のない人間ではなくなっていた(ヒロインの実の名は「容赦姫」という)。だからもう幕府の転覆に役にたたないと暗殺者に判断されたからなのか。それとも、彼女が飛弾鷹比等のひとり娘ならば本来あるべき歴史には不要の存在だと見なされたからなのか。暗殺者は「すべてお前のせいだ、虚刀流」とだけ言い残し、去っていく。死に際、ヒロインは主人公にこの旅が終わったらそなたを殺すつもりだったと告白する。主人公は血まみれの彼女を抱きしめて叫ぶ。「いちばん傷ついてるのはアンタじゃないか!傷ついて傷ついてこんな道半ばで撃たれて、アンタ、いったい何やってんだよ!」。ヒロインは言う。「でも、いま幸せだよ、道半ばで撃たれたおかげで、もうそなたを殺さずにすむのだから、やっとこれで全部やめることができるのだから……」。こうしてヒロインは彼女を縛ってきた因果の鎖から解放され、彼女の復讐劇は道半ばで幕を閉じる。一方、主人公は彼のすべてを失う。事ここに至って四季崎記紀による虚刀流の因果は完成する。主人公は死に場所を求めて尾張城へ乗り込み、刀として完全無欠の存在となった彼は殺戮の限りを尽くす。復讐ではなく、ただ死ぬために。押しとどめようとする幕府の家来衆たちを皆殺しにし、四季崎の刀を手にした暗殺剣の使い手たちもすべてなぎ倒し、いままで集めてきた十二ふりの変体刀もことごとく破壊する。天守閣にたどり着いた彼は、御簾の向こうにいる八代将軍に言う。「とがめはアンタみたいな奴のせいで人生を棒にふっちまった」。そして、命乞いをする年老いた八代将軍を絶叫とともに葬り去る。でもそれは逆恨みじゃないの、七花くん。完璧な刀となった主人公の戦いぶりは圧巻だけど、カタルシスはまったくない。だって将軍も幕府の家来衆もべつに何も悪くないんだもん。彼らがいったい何をしたっていうのさ。「歴史の深淵」も「あるべき歴史の姿」も見えない我々には、幕府や将軍がなぜそれほど否定されるのか最後までさっぱりわからないよ。結局、主人公は死に場所を求めたにもかかわらず、死にきれず、瓦礫と化した尾張城を去っていく。

 八代将軍と大勢の家来衆を失った尾張幕府だが、最後の最後で四季崎記紀による歴史の改ざんは実現しなかった。まもなく九代将軍が就任し、何事もなかったかのように再び尾張幕府による泰平の世を取り戻した。破壊された尾張城と殺された大勢の命以外、歴史は何も変わらなかったのである。四季崎記紀の末裔である若い女が主人公に言う。「四季崎記紀は結局負けちゃったのよぉ、計算違いは旧将軍からはじまった、そして飛弾鷹比等、そしてその娘……容赦姫が決定的だったわねぇ」。彼女はしたり顔でそう語るが、それらがどういう因果で結ばれているか、歴史の外から何らかの介入があったのかは語られない。歴史の改ざんとは結局何だったのか、あるべき歴史の姿とはいったいどういうものか、幕府さえ転覆すればあるべき歴史になったのか、肝心の部分は最後までわからない。この期におよんで謎かけはもういいよ。もはや、架空の世界の架空の歴史の「尾張幕府」が残ろうが消えようがどうでもいい。それがどうしたって感じ。尾張城から姿を消した主人公はそのまま旅路を歩き始める。ヒロインとふたりで行くつもりだった旅へ、彼女の追憶とともに。どよよよーん、おしまい。おしまいったらおしまい。終わっちゃうのである。肝心なことは何も明らかにされず、全十二話を通してふたりがやってきたことは何も報われず、カタルシスもなく、我らの愛すべきツンデレヒロインはすでに舞台から去り、主人公は彼女の追憶を抱いて道の彼方へ消えていく。ああもう原作者が執筆中に大失恋でもしたのかってくらい何がやりたかったのかさっぱりわからないのである。あーもやもやする。もやもやするでしょ。十話目あたりまで話はうまく展開して感心していたのに、それまでに張りめぐらした伏線がまったく回収されないっていうのはちょっとあんまりじゃないの。だから物語はこんなナレーションで幕を閉じる。「復讐を果たせなかった者、目的を果たせなかった者、志なかばで倒れた者、思いを遂げられなかった者、負けた者、挫けた者、朽ちた者、一生懸命がんばって、他のあらゆるものを犠牲にして踏ん張って、それでも行為がまったく結果につながらず、努力はまったく実を結ばず、理不尽に、あるいは不合理に、ただただ無惨に、ただただ不様に、どうしようもなく後悔しながら死んでいった者たちの夢と希望に満ちあふれた前向きな物語、「刀語」は、ここで静かに幕を下ろすのでございます」。私には、さんざん思わせぶりに引っぱってきた伏線を最後まで回収できなかったことへの作者の言い訳のように聞こえる。

 というわけで見た人の感想も気になったのでネットで検索してみたところ、ヒロインの髪型がどうこうとか紫のニーソックスが萌え萌えだとかおねえさんはどうやって島を出たのかとか四つ目の刀を使いこなすための技はどうなってるのかとかって枝葉の話題ばっかり。そんなのどうでもいいじゃねえかこのおたくども。そうじゃなくてアンタはこの物語のドラマツルギーをどう思うかってんだよ。ああもやもやする。えっこれはおたくによるおたくのためのおたくアニメだからそんなこと気にすんなって?だったら私が悪うございました。というわけで私はあなたの感想もぜひ聞きたい。自分だけもやもやさせられてるのも癪なので、ぜひあなたにもこのもやもやを味あわせたい。私はここにこうして長々と吐きだしたおかげで少しすっきりしました。ご静聴どうも。

 → 公式サイトによるプロモーションビデオ1 約3分
 → Anitube スペイン語だかポルトガル語だかの字幕つき海賊版(各50分、全12話そろってます)
 → Amazon ムカツク奴にこのDVDを送りつけてやりたいっていう人はどうぞ、べつに止めません
 → Wikipedia「風が吹けば桶屋が儲かる」

■ A piece of moment 1/10

 年末に友人宅の猫が死んだ。家族で犬や猫を飼ってるなら、あいつも長生きしたねと皆でその死を受けとめられるものだが、ひとり暮らしの友人は、もう十五年もマンションの一室で猫との一対一の関係をつづけてきた。全部ひとりで背負い込んでいるためにその不在を受けとめられないといった様子だった。彼女の猫は、この十五年間、一歩も室内から外へ出ることはなかった。2Kのフローリングの空間が世界のすべてで、夜遅く飼い主が帰ってくるまで、動くものが何もない中で毎日のほとんどの時間を過ごしてきた。そのせいか、動くものを見れば飛びつき、新聞紙やコンビニ袋ががさがさ音をたてれば前肢で押さえ込み、ときには自分の尻尾を追いかけてぐるぐる走り回るといった有様で、いくつになってもまるで生きるすべを知らない仔猫のようだった。その様子は姿形は猫でも、むしろ水槽の中を回遊している小さな魚や回し車の中でからから走っているハムスターを連想させた。昔うちにいた大きなとら猫や隣家の床下に住みついていたやせた野良猫は、いつも生きる力にあふれていた。藪に入ってはドバトやアオダイショウを狩り、定期的になわばりをめぐってはどこに何があるかを確認し、床下で仔猫たちを育て、人間や他の猫と出くわしたとき、どう距離をとり、どう対処すればいいのかよく理解していた。彼らが自信に満ちた様子で悠然と裏庭を歩いていく姿は、まるで山から下りてきた神様のようだった。高校生だった私は、彼らの暮らしぶりを見ていると自分の無力さやふがいなさを思わずにはいられなかった。山の神様は丸い頭をなでられると嬉しそうに目を細めたが、仔猫みたいにじゃれたりはしなかった。逆になでているこっちの方がおいしっかりしろよと背中をたたかれているような気がした。私は長年、猫というのはそういう生きものだと思っていたので、いつまでもやや様のような友人宅の猫がおよそ猫とは別の生きもののように思えた。猫のほうも私には最後までなつかなかった。

 ペット斎場で焼いてもらった後もべそべそ泣いている友人に、死んだ猫のことを時々思い出しながら酒を飲むのも良いもんだよと話す。きっとあいつも死んで山の神様になったはずだ。

■ A piece of moment 1/19

 バイクで長い距離を走るとき、片耳にイヤフォンを入れてラジオドラマを聞いている。案外ラジオドラマは集中力を要求する。家で聞いていると集中力が持続できなくて、ついついお湯をわかしたり冷蔵庫の中を漁ったり部屋を片付けたりと結局途中で聞くのをやめてしまったりすることがある。逆に運転中に聞くラジオは妙に集中力が高まる。深夜の閑散とした国道を走りながら聞いていると物語に吸い込まれるような感覚になる。最近聞いた中では、NHKでやっていた「薔薇のある家」という作品が良かった。(検索すれば動画サイトにアップされている海賊版が見つかると思います。)
 → NHK FMシアター「薔薇のある家」

 登場人物はふたり。一幕物の芝居のように場面転換は一切なく、マンションの一室でのふたりの会話だけでドラマは展開していく。登場人物のひとりは往年の大女優という高齢の女性。もうひとりはその付き人の中年女性。往年の大女優を奈良岡朋子が、その付き人を大竹しのぶが演じている。女優は銀幕のスターとして華やかな過去を持っているが、年齢による衰えと怪我のため、役者としての出番はもうなく、実質的に引退生活を送っている。そのせいで、少々愚痴っぽく付き人にあたり、華やかだった頃の思い出を語るときは夢見る乙女のような口ぶりになる。その様子は切なくて少し怖い。付き人の中年女性は、そんな彼女のことを「先生」と敬意を込めて呼び、長年にわたって献身的に支えている。女優の愚痴や思い出話にも一定の距離をとりながらつきあい、相手のわがままをいさめるように対応する。ところがふたりの会話がすすむにつれて、付き人の女性には「先生」に対してふくむところがあること、さらにふたりの関係はたんに女優とその付き人ではないことがわかってくる。このあたりの会話の転がり方がうまい。やがてふたりのやりとりは、互いの心の急所をぐりぐりえぐるような調子を帯びてくる。あの時あなたはこう言った、いやあの時私はこう言ったつもりだった、でもそれならどうして……と。怖い、とくに大竹しのぶが怖い。ふたりの関係や相手に抱いているコンプレックスや後ろめたさは、イングマール・ベルイマンの「秋のソナタ」によく似ている。表面的には穏やかに接していているふたりがふとした一言で、それまでため込んできたわだかまりや嫉妬心が吹き出す。「秋のソナタ」のイングリッド・バーグマンとリヴ・ウルマンのやりとりも、互いの心のもろい部分をえぐるような会話がえんえんと続いて、見ながらのたうち回った記憶がある。

 ドラマは終始マンションの一室でのふたりの会話によって進行し、ナレーションもモノローグも一切入らない。会話だけで心の中をひたすら縦に掘り下げていく感覚。最後まで聞いて打ちのめされてもうぐったり。ラジオドラマは会話が際立つぶん、一幕物の心理劇に向いていると思う。脚本はオカモト國ヒコという関西の小劇場で活動している人。憶えておこう。こういうシナリオは舞台中心に活動している作家でないと書けないんじゃないだろうか。
 → Blog オカモトの「それでも宇宙は広がっている」

■ A piece of moment 1/26

 以前書いた所得の再分配についての課題文を書き直してみる。こんな感じ。
所得の再分配 所得税の累進制は公平なのか?

 現在、所得税は、ほとんどの国で累進制というしくみが取り入れられています。この累進課税制度は、たくさん所得のある人には高い税率を、所得の少ない人には低い税率を適用するというものです。
 日本では、国に収める所得税の最高税率は1986年まで70%でしたが、その後しだいに引き下げられて、現在は40%になっています。現在の日本の所得税は6段階の累進制で、次のような税率です。

・195万円以下の所得 → 5%
・195万円を超え330万円以下の所得 → 10%
・330万円を超え695万円以下の所得 → 20%
・695万円を超え900万円以下の所得 → 23%
・900万円を超え1800万円以下の所得 → 33%
・1800万円超える所得 → 40%

 年間の所得が150万円の人の場合、150万円×5%で、だいたい7万円が国に納める所得税ということになります。もしこの人にこどもがいたり、高齢の親を介護していたり、健康保険を支払ったりしていれば、そのぶん税は控除されます。一方、年間所得2000万円の人だと、300万円〜400万円くらいの所得税になります。「あれっ、2000万円×40%だから800万円じゃないの?」と思うかもしれませんが、40%というのは、あくまで1800万円を超える部分にかかる税率で、2000万円全体に40%が課税されるわけではありません。1800万円以下の部分については、それぞれもっと低い税率で計算されます。また、扶養控除、住宅控除、医療費控除などによって税額が控除されるので、300万円〜400万円くらいが国に納める所得税ということになります。(なので、テレビでタレントやスポーツ選手が「日本ではいくら稼いでもほとんど税金にとられちゃう」とぼやいているのをときどき見かけますが、あれは大げさな表現です。現在の税の仕組みでは、年収1億円の人でも国に納める所得税は多くて3000万円程度で、地方税とあわせても半分以上を所得税に取られるようなことはありません。)
 こうした累進課税のしくみは、高額所得者に多く課税することで所得の再分配をうながすために採用されていますが、はたして、富裕層がより多くの税を負担するというこのしくみは、公平なのでしょうか。次のAとBの文章を参考にして、あなたの考えを述べなさい。

A 不公平である。
 たしかに年間所得が5000万円も1億円もある人たちにとって、2000万円や3000万円を税にとられたからといって、生活には困らないだろう。しかし、生活に困るかどうかと、社会的に公平かどうかとは別の問題である。
 累進課税制度は、次のふたつの点で問題をかかえている。まず、社会を支える責任はすべての人に等しくあるということをあげられる。だからこそ、基本的人権はすべての人に等しいのであり、所得に関係なくすべての人の参政権は一票なのである。高額所得者に高い税率を課すのならば、税率に応じて、二票三票ぶんの参政権が保障されなければ、公平な社会とは言えない。逆にすべての人の参政権が等しく一票ならば、所得に関わりなく、税率は一定にすべきである。
 もうひとつの問題として、高い税率を課すことで勤労意欲を低下させてしまう点をあげられる。所得というのは、その人が仕事につぎ込んだ努力と才能と時間の成果である。もしも、何億円稼いでもそのほとんどが税に持っていかれてしまう社会だったら、がんばって仕事に打ち込もうという気力が失われてしまうだろう。それのようなやり方は、仕事につぎ込んだ努力と才能と時間が本人自身のものでなく、国のものだというのと同じであり、きわめて全体主義的なやり方である。人々の仕事に対する努力や情熱を失わせないために、仕事で成功した人たちがむくわれる社会でなければならない。一律課税を「金持ち優遇」と批判する人は多いが、このしくみはたんにひとにぎりの高額所得者を優遇するものではない。誰もが努力し幸運に恵まれれば経済的に成功する可能性をもっている。そうなったときに所得の多くを税にとられてしまうのでは、仕事で成功しようという意欲や夢が失われてしまうはずである。オバマ大統領による保険制度改革や税制改革で増税されるのは上位20%くらいの高額所得者にすぎなかったが、それにもかかわらず、多くのアメリカ人がオバマ大統領の改革に反対の声をあげた。その中には年収2万ドル(約160万円)以下の低所得者たちも大勢ふくまれていた。彼らは仕事で成功したいという意欲とアメリカンドリームを失わないために反対したのである。
 豊かな者が貧しい者を支えるというしくみは、本人の自発的な善意で行われるならば、大いに賛成である。しかし、高額所得者に対して、政府が強制的に高い税率を課すというのは、臓器提供を強制させるのと同じである。たしかに、臓器提供は人助けであり、腎臓ならばひとつ失っても生きていくことはできる。しかし、その人の身体が本人自身のものである以上、臓器提供を政府が強制することは社会正義として認められない。それと同様に、所得もまた本人自身の努力と才能と時間の成果であり、その人のものである。したがって、政府が高額所得者に高い税率を課し、強制的に所得の再分配をうながすやり方はまちがっている。所得税はすべての人に等しい税率を課すべきである。

B 公平である。
 所得の格差は、本人の努力や才能よりも、おもに社会的格差によって生じるものだからである。
 まず、人生のスタートラインは人によって異なり、ふぞろいである。前の総理大臣である鳩山由紀夫氏のように、祖父は総理大臣、父は外務大臣、母はブリヂストン会長の娘で、母親から毎月1000万円も「おこづかい」としてもらっている人もいれば、ホームレスとして道端で暮らしている親から生まれた人もいる。人生のスタートラインがそろっていないのに、その結果である所得についてだけ一律に課税すべきというのは矛盾している。
 また、社会的地位や所得の格差は、多くの場合、親から子へ引きつがれる。社会階層の固定化は多くの国でも見られるが、日本やアメリカのような貧富の差の大きい社会では、とくにこの傾向がはっきりあらわれている。日本の場合、高額所得者のほとんどは、働いて稼いだ「勤労所得」ではなく、不動産や株式から得られる「財産所得」を主な収入源にしている。例えば、鳩山家の場合、一切働かなくてもブリヂストン株の配当金だけで年間3億円近い所得がある。鳩山家はそれ以外にも莫大な不動産や株式を所有しているので、財産が生みだす所得は毎年十数億円にものぼる。勤労意欲を下げるという点では、このようなお金がお金を生みだす社会の仕組みのほうがよほど悪影響をおよぼしているのではないだろうか。たしかに、貧しい家庭に生まれ、苦学して学び、努力の末に社会的に成功したという人物もごくわずか存在する。しかし、こうした人たちは例外中の例外だからこそ、美談としてもてはやされるのであり、彼らを指して「ほら見ろ」という発想はまちがっている。こうした人たちは生き方の手本にはなるが、例外的な存在である彼らを基準にして社会政策のあり方を決めるべきではない。
 「そうは言っても、成功した人は努力も勉強もしているし、現代社会は封建社会みたいに、なにもせずに親の社会的地位を引き継げるわけではない」という人もいるかもしれない。しかし、そもそも、努力しようという意欲や「やればできる」という価値観は、家庭環境をはじめ、まわりから与えられたものである。東大生の親の平均年収が1000万円を超えており、他の大学よりも際だって高いのもそのためである。もしも、父親は強盗で刑務所に服役中、母親は麻薬常用者という家庭に生まれ、幼い頃から親に虐待され、「どうせお前なんか」となじられて育ったとしたら、「自分だって努力すればできるんだ」とはなかなか思えないだろう。
 さらに、才能や努力は本人のものだとしても、それを生かせる社会環境にめぐりあったことはたんなる偶然にすぎない。たとえば、イチローが野球選手として恵まれた才能を持っていることも、日々努力していることも疑う余地はないだろう。しかし、野球が人気スポーツで、スター選手に高額の契約金が支払われるという社会状況は、イチロー自身の才能や努力とは関係のないところで決まる事柄である。現在、イチローの年間契約金は1800万ドル(約15億円)であり、メジャーリーガー全体の平均は240万ドル(約2億円)である。240万ドルという額は、アメリカ人の平均年収の50倍にも達する。しかし、メジャーリーガーが昔から高額所得者だったわけではない。1975年の平均は4万5千ドルにすぎず、当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度にとどまっていた。アメリカのスポーツビジネスはこの40年間で大きく変化し、野球選手の契約金も近年になって急激に高騰したのである。イチローが1975年ではなく、2010年の現在に現役選手であることは、本人の才能や努力とはまったく関係のないことであり、たまたまそういう社会状況に巡りあっただけのことである。さらに野球以外のスポーツ、例えばカーリングやアーチェリーのようなマイナースポーツの場合、選手たちは競技だけでは生活できないので、たとえ世界大会で一位になった選手でも、コンビニやスポーツクラブでアルバイトをしていることもある。彼らとイチローとでは、千倍近くの所得格差があるが、その才能や努力や情熱に千倍もの格差はないはずである。
 つまり、高額所得者というのは、恵まれた家庭環境に生まれ、「やればできる」と親や教師からはげまされて育ち、その才能や努力が社会的に評価される時代にたまたまめぐりあった幸運な人たちである。こういう人たちがそうでない人たちを支援するために、税をより多く負担するというのは、けっして不公平な社会のあり方ではないはずである。
 メジャーリーガーの1975年の平均年棒が4万5千ドルで当時のアメリカ人の平均年収の3倍程度というのは、先日NHKで放送していた「メジャーリーグ アメリカを映す鏡」というドキュメンタリー番組から。ベーブ・ルースもジョー・ディマジオも大スターであったわりには、野球選手としての収入は大したことなかったという話はあちらこちらでよく見かける。

 文章を書きながら、年末にたまたまテレビで見た「ドラえもん」のことを思い出した。勉強も野球もサッカーも駄目なのび太にとって、唯一の取り柄はあやとりが上手なこと。でも、のび太が得意のあやとりを学校で披露してもクラスのみんなは冷ややかな反応しかしてくれない。そこでのび太は「もしもボックス」をドラえもんに出してもらって、「もしもみんながあやとりに夢中の世界だったら!」と叫ぶ。するとその瞬間から世界は一変する。学校へ行くとあやとりのテストがあり、休み時間にはスネ夫が得意げな顔で「ぼくの開発した新技なんだ」とあやとりを披露してクラスの人気者になっている。テレビでは「あやとり世界選手権」が中継されており、お父さんもお母さんも夕食を食べながら、プロ選手がくりだす華麗なあやとりの技に夢中になっている。お母さんはため息をついて言う。「はあー、のび太も少しはあやとりの才能があったらねえ、学校の宿題なんていいからもっとあやとりの勉強をしなさい、こんなことじゃ大学へも行けないわよ」。その世界では、大学入試にもあやとりの実技試験があり、あやとりのプロ選手になれば何億円も稼げるという。お父さんは苦笑いしながら言う。「おいおいお前、あんまりのび太に無理言うなよ、あやとりのプロ選手なんて雲の上のほんのひとにぎりの特別な才能の持ち主だけがなれるんだからさ、ははは」。のび太は、プロ選手の技をその場でやって見せ、「あんなの大したことないよ」とさらにアレンジを加えたあやとりをふたりに披露する。目を丸くするお父さんとお母さん。のび太の天才少年ぶりはまたたく間に町中の噂になる。のび太が町を歩けば知らない人たちから次々とサインを求められ、「ぜひうちとプロ契約を」とスカウトだかエージェントだかが野比家を訪問して一億円の契約金を提示する。しずかちゃんをはじめ女の子たちはみなあこがれのまなざしでのび太を見つめ、いじめっ子のジャイアンまで「今度オレにもあやとりを教えてくれよ」と羨望と尊敬のまなざしをのび太に向ける。のび太は上機嫌で言う。「いやあ、なんて素晴らしい世界だろう、世界は本来こうあるべきだったんだよ」……。

 30年ぶりに見たテレビシリーズの「ドラえもん」は、予想外に風刺のきいたセンス・オブ・ワンダーの世界だった。原作よりもシナリオが緻密に作られていて、主人公ののび太は小学5年生の少年としてそれなりに複雑な内面をもった存在として描かれていた。以前のテレビシリーズののび太は、ジャイアンやスネ夫にからかわれるとすぐにべそをかいてドラえもんに泣きつくだけだったが、新しいシリーズではちゃんと言い返すのだ。さらにむくれたりおろおろしたりと表情も豊かで精神年齢が以前よりもぐっと上がった感じ。驚いたことにのび太が生身の男の子に見えるのだ。一方、ドラえもんは以前よりもちょっと駄目な相棒として描かれている。めんどくさがりでだらしなくて気に入らないことがあるとすぐ押入にこもってふて寝してしまう。そこでのドラえもんは、あくまで不思議な世界を開いてくれるのび太の友だちであって、けっして何でも夢をかなえてくれる保護者ではない。その解釈は物語の方向性として正しい。だって、ドラえもんが道具を出してすべて事件を解決してくれるのなら、それで話が終わっちゃうじゃない。道具は入り口にすぎず、その先に広がっている不思議な世界を主人公ののび太の視点を通して体験し、そこで彼が何を考え、どう行動するのかにこそ、この物語の魅力がある。のび太が近所の公園の池で恐竜の赤ちゃんを育てる話や死んだおばあちゃんにタイムマシンで会いに行く話は、読んでからもう30年以上たっているににもかかわらず、いまだに印象に残っている。ところが、はじまった当初のテレビシリーズでは、10分くらいの短編3本構成で、エピソードはきまってのび太が例の土管のある空き地でジャイアンたちにいじめられてドラえもんに泣きつくというものだった。「のび太のくせに生意気だぞー」「ドラえもーん!」というお馴染みのやりとりではじまる一連のエピソードを起承転結で示すと次のようになる。

 起 → のび太がジャイアンとスネ夫にいじめられる
 承 → のび太がドラえもんに泣きつく
 転 → ドラえもんの道具によって、のび太の望みは一時的にかなえられる
 結 → のび太は道具の使い方をまちがえてしまい、最後にしっぺ返しを食う

 ほとんどのエピソードでこのプロットがくり返される。その記号化された世界では、のび太もドラえもんもジャイアンもスネ夫も書き割りか舞台装置にしか見えない。君たちは虫かよって感じ。10分程度の短い時間では、ドラえもんがポケットから取り出す道具は、話の山場であり、同時に話のオチでもある。そこから先に物語が展開していくことはない。もう30年以上もつづいているテレビシリーズなので、テレビアニメから「ドラえもん」に入ったこどもたちのほうが多いのかもしれないが、原作の愛読者だった小学生の私は、すぐにを見るのをやめてしまった。道具の向こう側に物語のない「ドラえもん」なんて、鼻でもほじって寝てるほうがずっとマシだった。ところが、先日見た新しいテレビシリーズでは、その後の30年間の変化なのか、リニューアルされた影響なのか、登場人物たちは生身の人間として動いていて、「その先にある不思議な世界」がていねいに描かれていた。驚きである。新しくなった主題歌も良かった。テレビの「ドラえもん」、少し見なおしました。

■ A piece of moment 2/19

 1989年、リトアニアの首都ヴィリニュスに64体の遺体が空輸された。50年前、スターリンの強制移住によってシベリアへ送られた男たちが、今度はゴルバチョフのペレストロイカによって祖国への帰還が認められたのだった。棺の中の男たちはみな若いときの面影をそのままとどめていた。彼らはシベリアでの過酷な強制労働でまもなく死亡し、永久凍土の中で半世紀の間眠っていた。しかし、棺の前で泣き崩れる妻たちには、50年の歳月が刻まれている。深いしわと曲がった腰と白くなった髪。棺の中の男たちは、戦後のリトアニアで妻がどのように生きてきたかを知らないまま、無邪気な若者の姿で眠っている。母親に付き添っていた息子は、自分よりも若い父親の姿を不思議そうに見つめていた。

 「百万本のバラ」という歌がある。女優に恋をした貧しい絵描きがかなわぬ思いをバラの花に託し、家財を売り払って集めた赤いバラの花で町中を埋め尽くそうとする歌である。日本では加藤登紀子が歌ってヒットした。私は古いシャンソンかロシア民謡が元になっているんだろうと思っていたが、実際は1982年にソ連で流行ったポップスだそうで、そう古い歌ではない。ただ、このロシア語の歌にはさらにオリジナルがあって、前年にラトビアで作られた歌が元になっている。この「マーラ(マリア)が与えた人生」というタイトルのラトビア語盤には、まったく違う歌詞がつけられている。「こどもの頃、泣かされると、母に寄り添ってなぐさめてもらった、そんなとき母は微笑みを浮かべてささやいた、神は娘に命を与えてくれたけど幸せはあげ忘れた……」。そんな娘の幸せへの願いが歌われている。以前、「世界ふれあい街歩き」というテレビ番組を見ていたら、この歌を作詞したというおじさんが出てきて、この歌はラトビアの歴史をひとりの娘の人生にたとえて歌っているんだよと話していた。周りの国々の思惑に振り回され、大国に支配されてきた小さな国の悲しい歴史の歌なんだと。
 →「マーラが与えた人生」 ラトビア語の歌詞と解説、原曲のMP3ファイル

 1989年、バルト三国では、「人間の鎖」というデモが行われた。ソ連からの独立と言論の自由を求めるこのデモは、エストニア、ラトビア、リトアニアで同時に行われ、あわせて約200万人が参加したといわれる。通りに出た人々は互いに手をつなぎ、バルト三国を横断する600kmにおよぶ鎖をつくった。バルトの人々の連帯を示すその行為は、ソ連の戦車隊の侵入を拒否する意思表示でもあったのかもしれない。ハンガリー動乱やプラハの春の時と同じように再び戦車隊が投入され、軍によるデモの制圧が行われるのか、連日テレビニュースはバルト海の小国の緊迫した状況をトップニュースとして報道しつづけた。結局、クレムリンは軍事制圧を断念し、バルト三国は東欧革命と呼応して独立の道を歩んでいった。圧政に抵抗して立ち上がる人々の姿は常に胸をうつ。ただ、難しいのは、安心して暮らせる自分たちの国がほしいという願いは、しばしば自分たち「だけ」の国がほしいというナショナリズムに飲み込まれてしまうことだ。実際に第二次大戦下のリトアニアでは、親ナチスの民族主義政権によって、20万人のユダヤ人が虐殺されている。その数は当時リトアニアに暮らしていたユダヤ人の9割にものぼる。ナチスの圧力に屈して嫌々やったわけではない。リトアニア人「だけ」のリトアニアを建設するためには、ユダヤ人は排除すべき異分子だったのである。このころのバルト三国では、親ナチスの民族派と親ソ連の共産党員との間で権力の綱引きが繰り返されていて、民族派が権力を握れば、ユダヤ人の虐殺と共産党員の弾圧が行われ、共産党が権力を握れば、共産主義に批判的な人々は「人民の敵」と見なされ、刑務所かシベリアでの強制労働が待っていた。それを思うと「圧政に抵抗する民衆」というナイーブなイメージは、おとぎ話の中のものに見えてくる。ソ連からの独立をはたしたバルト三国では、再び民族主義的な政策がとられており、ソ連時代に移住してきたロシア人たちを追い出すため、独立から20年がすぎたいまも彼らに国籍を与えていない。
 → Wikipedia「人間の鎖」
 → Wikipedia「リトアニアにおけるホロコースト」

■ A piece of moment 2/25

 夜中に古いCDを引っ張り出してトム・ウェイツを聴く。
 トム・ウェイツ1985年のヒット曲「Downtown Train」はこんな歌詞。

Downtown Train  Tom Waits 1985

Outside another yellow moon
Punched a hole in the nighttime, yes
I climb through the window and down the street
Shining like a new dime
The downtown trains are full
With all those Brooklyn girls
They try so hard to break out of their little worlds

You wave your hand and they scatter like crows
They have nothing that will ever capture your heart
They're just thorns without the rose
Be careful of them in the dark
Oh if I was the one
You chose to be your only one
Oh baby can't you hear me now

Will I see you tonight
On a downtown train
Every night its just the same
You leave me lonely, now

I know your window and I know its late
I know your stairs and your doorway
I walk down your street and past your gate
I stand by the light at the four way
You watch them as they fall
They all have heart attacks
They stay at the carnival
But they'll never win you back

Will I see you tonight
On a downtown train
Where every night its just the same
You leave me lonely
Will I see you tonight
On a downtown train
All of my dreams just fall like rain
All upon a downtown train


外には黄色い月
夜空に丸い穴を開けている そうさ
俺は窓から通りへ出る
通りは真新しい10セント硬貨みたいに輝いている
ダウンタウン・トレインは満員
ブルックリンの女たちで
彼女たちは自分の小さな世界から抜け出そうと必死だ

君が手を振ると連中はカラスのように散っていく
連中は君の心をとらえるものを何ももっていない
連中は棘だけの茨みたいなものだ
暗闇の中で連中に出くわしたときは気をつけたほうがいい
ああ もし俺がその中のひとりなら
君の特別な男になれるのに
ああ愛しい女よ もう俺の声が聞こえないのか

今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
毎晩ずっと同じだった
君が去ってから俺はずっと孤独だった

どれが君の窓か知っている もう遅いことも知っている
どれが君の階段かどれが君のドアかも知っている
君の通りを歩いて門を通り過ぎる
俺は四つ角の街灯のところに立ってる
君は連中が倒れるのを見ている
連中はみんな心臓発作だ
大騒ぎの中で
でも 誰も君を取り戻せない

今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
毎晩ずっと同じだった
君が去ってから俺はずっと孤独だった
今夜 君に会えるだろうか
ダウンタウン・トレインで
俺のすべての夢が雨のように降っている
すべてのダウンタウン・トレインの上に

 歌の中の「ダウンタウン・トレイン」は通りで客引きをしている娼婦たちのことなんだろう。ブルックリンの夜の女たちは、まるで列車のように通りにずらっと並んで派手な化粧と安っぽい色気で客を誘っている。通りを行く男たちはひやすばかりで客はなかなかつかまらない。ああ、俺がそこにいたら、きっとおまえの特別な男になれるのに。なんでこんなことになっちまったんだろう、あの時、なんであんなくだらないことでおまえを罵って殴っちまったんだろう。でも、男は自分の思いがもう届かないことも、やりなおすにはもう遅すぎることもわかっている。そんな愛すべきアバズレ女とろくでなし男の場末の恋の物語。トム・ウェイツの代表曲で、その後、何度もカバーされた。訳は「君」より「おまえ」のほうがいいかな。あと、最初の「they」を「ブルックリンの娼婦たち」、二つ目以降を「その客たち」と解釈して訳したけど、微妙に意味がとれない。「棘だらけのイバラ」はブルックリンの女たちにこそふさわしいと思うんだけどどうでしょう。歌詞を訳しながら、以前アパートの隣の部屋にすんでいた土建屋のにいちゃんと彼の恋人のことを思い出した。彼らもしょっちゅう通りに響くような大声でけんかしていたけど、その後、うまくやってるんだろうか。

 夜中にトム・ウェイツのしわがれ声を聴いていたら妙に人恋しい気分になった。ジョンがこの歌を好きだと言っていたけど彼は元気だろうか。


 もう一曲、トム・ウェイツ。やはり1985年の歌。「Hang Down Your Head」。

Hang Down Your Head  Tom Waits 1985

Hush a wild violet
Hush a band of gold
Hush you're in a story I heard somebody told
Tear the promise from my heart
Tear my heart today
You have found another
Oh baby I must go away

So hang down your head for sorrow
Hang down your head for me
Hang down your head tomorrow
Hang down your head Marie

Hush my love the rain now
Hush my love was so true
Hush my love a train now
Well it takes me away from you

So hang down your head for sorrow
Hang down your head for me
Hang down your head
Hang down your head
Hang down your head Marie


静かに 野のスミレ
静かに 黄金の絆
静かに 誰かがおまえの噂をしてるのを聞いたんだ
俺との誓いを踏みにじったって
俺の心を引き裂いたって
おまえは他の男を見つけたんだな
愛しい女よ 俺は出て行かなきゃならない

悲しみでうなだれてくれ
俺を想ってうなだれてくれ
うなだれてくれ 明日
うなだれてくれ 愛しいマリー

静かに 俺の愛 雨とともに
静かに 真実だった愛よ
静かに 俺の愛 列車とともに
さあ おまえの元から遠くへ連れて行ってくれ

悲しみでうなだれてくれ
俺を想ってうなだれてくれ
うなだれてくれ
うなだれてくれ
うなだれてくれ 愛しいマリー

 これもやはり愛すべきアバズレ女とろくでなし男との場末の恋の物語。男は女の裏切りを知って去って行く。飛び乗った列車は中西部の荒れ地の風景の中を走る。女と暮らした町が地平線の彼方へ遠ざかっていく。男は心の中で語りかける。愛しい女よ、俺たちの愛が真実だったのなら、去って行った男のことを想ってうなだれてくれと。そんな寝取られ男のみじめな思いが陽気なメロディーに乗せて歌われる。さて、愛しのマリーさんはどうするんでしょうねえ。出て行ったろくでなしを想って酒場で酔いつぶれるんでしょうか、それとも清々したよと高笑いするんでしょうか。どちらにしても、トム・ウェイツの歌に登場する女には、そこでめそめそ泣くような恋愛小説のヒロインみたいなのは想像しにくい。トム・ウェイツの歌は、粗野で飲んだくれだけど妙に純情な男たちと、だらしなくて明日の見えない暮らしをしてるけど情に厚い女たちの物語だと思う。これも好きな歌で、ときどきサビのフレーズがアタマの中で無限ループすることがある。ただ、シングルカットされていないはずなので、それほど知られていないのかと思っていたら、Youtubeのコメント欄には大量の書き込みがあってちょっとびっくり。この情けなくてみじめで切ない歌を愛している人がそんなにいるなんてね。きっと全員おっさんだろう。トム・ウェイツの歌が好きだという女には出会ったことがない。ところで、ふたつめのフレーズの「a band of gold」がなにかの比喩かと思って調べてみたけどわからなかった。ここではとりあえず「ふたりの絆」と解釈して訳してみた。


 さらにトム・ウェイツ。1983年の歌で「In the Neighborhood」。これもone of the best。

In the Neighborhood  Tom Waits 1983

Well the eggs chase the bacon
round the fryin' pan
and the whinin' dog pidgeons
by the steeple bell rope
and the dogs tipped the garbage pails
over last night
and there's always construction work
bothering you
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Friday's a funeral
and Saturday's a bride
Sey's got a pistol on the register side
and the goddamn delivery trucks
they make too much noise
and we don't get our butter
delivered no more
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Well Big Mambo's kicking
his old grey hound
and the kids can't get ice cream
'cause the market burned down
and the newspaper sleeping bags
blow down the lane
and that goddamn flatbed's
got me pinned in again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

There's a couple Filipino girls
gigglin' by the church
and the windoe is busted
and the landlord ain't home
and Butch joined the army
yea that's where he's been
and the jackhammer's diggin'
up the sidewalks again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood


そう 卵がベーコンをフライパンの周りで追いかけてる
それにくんくん鳴いてる犬
教会の尖塔のベルとロープの脇の鳩たち
犬たちは一晩中ゴミ箱をひっくり返していた
それにいつも工事中で悩ませられる
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

金曜は葬式
土曜は花嫁
セイはレジスターの脇でピストルを持っていた
それに配送のくそったれトラックがやたらと騒音をたてる
俺たちのバターはもう届かない
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

そう ビッグ・マンボが年寄りのグレイハウンドを蹴っとばしてる
こどもたちはもうアイスクリームをもらえない
だって市場は火事で焼けちまったから
吹きっさらしの通りで新聞紙が寝袋
それにあのくそったれトラックがまた俺を縛り付ける
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

フィリピン人の女の子たちが教会で笑ってる
窓は割れちまって店の主人はいない
ブッチは軍隊に入っちまった
ああ どこにあいつはいるのやら
削岩機がまた歩道を掘り始めやがった
それがうちの横町
それがうちの横町
それがうちの横町

 この南部なまりで歌われる「荒れ放題のうちの横町」で何を連想するか。もちろんトム・ソーヤーとハックルベリー・フィンの物語、それとトムやハックの目から見た南部の人々の暮らしぶり。そんなマーク・トウェインの頃と大差のない暮らしをしている南部のレッドネックたちの浮き草ぐらしがブラスバンドふうの演奏に乗せてノスタルジックに歌われる。ただ、トム・ウェイツが南部や中西部の貧乏人たちに人気があるという話は聞いたことがない。彼らにとってその荒廃はもっとリアルなものなんだろう。だから、トム・ウェイツは東部の都市部やヨーロッパで人気があって、知り合いのイギリス人はなぜかみんなトム・ウェイツの歌が好きだ。知り合いじゃないけど、ピーター・ガブリエルもエルビス・コステロもトム・ウェイツの歌を「美しい」と言う。アニマルズの「朝日のあたる家」もそうだったけど、アメリカ南部の貧乏暮らしは、ロックファンのイギリス人を惹きつけるものがあるようだ。

 ハックルベリー・フィンの物語は、この歌に限らず、すべてのトム・ウェイツの歌の根底に通じている。ハックの目から見た人々の暮らし、ハックの目に映るおとなたちの偽善と偏見、ハックの思う地平線の向こうにある自由と希望。トム・ウェイツの歌に登場する男たちは、みんなその後のハックルベリー・フィンなんだと思う。トム・ソーヤーの場合、その後ちゃっかり地元の名士に収まって「いやあ俺も昔はずいぶん悪さをしたもんだよ」なんてチョイワルを気どる嫌みなおっさんになってそうだけど、ハックがカントリークラブの会員になってゴルフをしている姿は想像できない。トムと違って帰る家のないハックルベリー・フィンは、ジムと別れた後も地平線の彼方にある自由を求め続けているはずだ。


 最後にもう一曲。1985年の「Time」。ある町での出来事を子守歌のように歌う。「子供たちをよろしく」という路上で暮らすこどもたちを描いたドキュメンタリー映画の主題歌にもなった。これもトム・ウェイツのone of the bestだと思う。他の歌より歌詞が抽象的なんで少し堅めに訳してみたけど、後半、なんの比喩を表してるのかよくわからなくなってしまった。

Time  Tom Waits 1985

Well, the smart money's on Harlow
And the moon is in the street
The shadow boys are breaking all the laws
And you're east of East St. Louis
And the wind is making speeches
And the rain sounds like a round of applause

Napoleon is weeping in the Carnival saloon
His invisible fiance is in the mirror
The band is going home
It's raining hammers, it's raining nails
Yes, it's true, there's nothing left for him down here

And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time

And they all pretend they're Orphans
And their memory's like a train
You can see it getting smaller as it pulls away
And the things you can't remember
Tell the things you can't forget that
History puts a saint in every dream

Well she said she'd stick around
Until the bandages came off
But these mamas boys just don't know when to quit
And Matilda asks the sailors are those dreams
Or are those prayers
So just close your eyes, son
And this won't hurt a bit

Oh it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time

Well, things are pretty lousy for a calendar girl
The boys just dive right off the cars
And splash into the streets
And when she's on a roll she pulls a razor
From her boot and a thousand
Pigeons fall around her feet

So put a candle in the window
And a kiss upon his lips
Till the dish outside the window fills with rain
Just like a stranger with the weeds in your heart
And pay the fiddler off till I come back again

And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
And it's Time Time Time
That you love
And it's Time Time Time


そう ハーロウには罰金が科せられてる
通りには月がかかってる
不良少年たちはことごとく法律を破ってる
ここはイースト・セントルイスの東
風が話をしている
雨音が喝采のように響いている

ナポレオンが大騒ぎの酒場で泣いている
彼の見えない婚約者は鏡の中
バンドの連中はもう帰ろうとしている
雨は降り続いている 打ちつけるように 突き刺さるように
そうさ ここにはもう何も残っていないんだ

時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ

誰もが孤児のふりをしている
思い出は列車のよう
遠ざかるにつれて小さくなっていく
思い出せないこと
忘れられないこと
そんな過去が夢の中に聖人を送り込む

そう そばにいてあげると彼女は言った
包帯がとれるまで
でも そんなママっこの少年は際限を知らない
マチルダが船乗りに尋ねる
それは夢 それとも祈り?
目を閉じろ 息子よ
少しも痛くないから

ああ 時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ

そう カレンダーガールにはひどい出来事だ
少年たちは車から飛び降り
道ばたで泥をはねる
彼女は調子に乗って
ブーツからカミソリを取り出した
そして千羽のカモは彼女の足下に落ちた

キャンドルを窓辺において
彼の唇にキスしてやりな
窓の外ではいい女が雨に濡れている
君の取り巻きとは見知らぬ仲のように
俺が帰ってくるまで褒美はやらないように

時よ 時よ
時よ 時よ
時よ 時よ
愛する時がきたんだ
時よ 時よ


【おまけ】
 → Youtube : すっかり禿頭のおじいさんになったピーター・ガブリエルが歌う「In the Neighborhood」
 → Amazon : Tom Waits "Rain Dogs" べつに当方へアフィリエイトは発生しません

■ A piece of moment 2/27

 ここ数年、知らない人からの感想や文句のメールがほとんど来なくなった。ブログとSNSが普及したせいで、知らない人にメールを送ることの敷居が高くなってる感じ。さらにツイッターの普及で、ネットのコミュニケーションとしてメールの使用頻度自体も減ってるんじゃないかと思う。このWebサイトはそれほど頻繁に更新しているわけではないので、文章を書くだけなら原始的なHTMLの「ホームページ」で十分なんだけど、あんまり反応がないのもモチベーションが低下するし、いまさらだけどこの更新記録と近況報告のブログへの移行を検討中。ただ、ブログを少しいじってみた感じでは、多機能すぎて使いこなせそうにありません。それにトラックバックやら自動で生成されるリンクやらお仕着せのつながりと囲い込まれる感じがちょっと苦手。ブログ使ってるみなさん、どんなもんでしょうか。


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