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  飛び入学と飛び級


 この回は1998年4月から千葉大学ではじまった飛び入学について考えました。
 日本での飛び入学は、数学・物理分野に限ってたぐいまれな才能があると認められた学生について、高校3年を飛ばして大学に入学できるというものです。また、いくつかの大学で飛び級もはじまっており、学部と修士課程を5年間で一貫教育するコースも設けられるようになりました。ただし、まだはじまったばかりなので、アメリカやイギリスの飛び入学制度とくらべるときわめて限定的なもので、千葉大では「たぐいまれな才能」があるとされる若者を毎年3〜4人飛び入学させているという状況です。
 こうした英才教育は、塾や予備校で行うぶんには人好きずきなので他人がとやかく言う問題ではありませんが、学校で行うとなると事情が違ってきます。学校教育は誰もが公平に自分にあった教育を受けることのできる場であるはずなので、特別に優秀な生徒や学生に特別コースを設けることはこの原則からはずれることになります。そこで、この回は学校という場で飛び入学や飛び級が行われることの意味に焦点を当てて考えることにしました。



1.講義ノート

■ 日本の飛び入学の現状

・1998年に高校2年生から大学に入学できる制度がはじまった。
・飛び入学を実施しているのは、千葉大学の物理学科。毎年3名程度の飛び入学生。
 (2001年からは名古屋の名城大学数学科でも飛び入学がはじまった。)
・大学での飛び級もいくつかの大学ではじまった。大学・大学院を5年間で一貫教育するところもある。
・今後、文部科学省は大学の入学年齢の制限をなくす方針。飛び入学・飛び級は拡大される方向。
・飛び入学で才能のある者の育成に力を入れる一方で、全体としては「ゆとりの教育」をすすめていく方針。
・小学校でおぼえる円周率が「3」になるなど、学習内容は少なくなっている。
・全体的な学力は低下傾向にあると言われている。(学力低下を示すはっきりとした資料はない。)
                     ↓
 *2007年に政府は方針を転換し、飛び入学の拡大とゆとり教育を見なおすことになった。
  詳しくは下記の新聞記事(読売新聞 2007年4月11日)を参照のこと。

■ なぜ、飛び入学なのか?

1.産業構造の変化  労働集約型から知識集約型へ
 ・高度経済成長期 → 安価な製品を大量生産
            ・安価な労働力による人海戦術で安く大量生産 =「労働集約型産業」
            ・長時間労働、チームワーク、企業への忠誠心を重視
                     ↓ 求められる人間像
            ・命令に従順で忍耐強い人物、強い帰属意識を持った人物 =「会社村」
        (個性や独創的な才能・アイデアは求められない。むしろ独創性やユニークな個性はじゃまになる。)
                     ↓ 学校教育
     ・思考力や独創的発想よりも知識重視 =「詰め込み教育」と批判される
     ・集団生活や規律の重視 → 特別な才能をのばすことよりも集団のなかでうまくやっていけることを重視
 ・現在 → ・安く大量に生産しても安価なアジア製品には太刀打ちできない
       ・1980年代から欧米で特許権を重視する傾向が強まる、基礎技術やアイデアのモノマネはダメ
                     ↓ 高度経済成長期のやり方では通用しなくなっている
     ・日本社会の発展には新しい技術や独創的なアイデアを =「知識集約型産業」
                     ↓ 学校教育
     ・新しい技術や独創的なアイデアを生み出せる人材の育成を

2.頭脳流出の問題
 ・若く優秀な研究者の多くはアメリカの大学や研究機関へ行ってしまう
 ・日本の大学や研究所でもノーベル賞級の研究ができるように研究水準をレベルアップさせたい

3.日本の中学・高校・大学教育の問題点
 ・日本の学校教育は平均レベルは高いが、ずばぬけた才能が育ちにくい
 ・学校で何を学ぶかよりも卒業資格を重視する社会 = 学歴社会
 ・出席さえしていれば進級し卒業できてしまう  → 平等主義の問題点
 ・日本の大学生は勉強しないことで有名
         もともと大学へは「自ら学びたい人・自ら考えたい人」しか進学しなかった
         そのため、授業は少なく、ほとんどの授業で出席もとらなかった
                    ↓
          高度成長期 「就職に有利だからとりあえず大学へ進学する」という学生が多数派になる
                    ↓ 自ら能動的に学ぼうとする学生は少数派へ
          1970年代 「レジャーランド化」する大学
           ・難しいのは入学試験だけ → 大学でなにも学ばずに卒業
           ・勉強せず、アルバイトとサークル活動とコンパに明け暮れる学生
                        → 受験競争の反動
            ・就職の決まった学生は無試験で卒業
                    ↓
          近年の傾向  大学の就職予備校化
                 一部の大学では、学生の私語や携帯電話で授業ができないことも
                 学ぶ意欲はないが出席率だけは良い学生

■ 飛び入学の利点

1.技能を身につけるためには能力別のクラス分けが合理的
     ・テニス教室やスイミングスクール、英会話教室などは必ず能力別のクラス分けになっている
     ・それぞれの能力や進度にあった授業を受けることで効率良く技能を身につけられる。
     ・特別な才能のある人は飛び入学をすることで自分にあった教育を受けられる
    *ただし、テニス教室やスイミングスクールなら、自分に向かないと思ったらいつでもやめられるが、
     学校はそういうわけにいかない。
        → 能力別学級の場合、下のクラスの生徒がやる気をなくしてしまう問題がある

2.数学や物理の分野では若いうちから才能を発揮する人が多い
     ・ニュートンやアインシュタインなどの大学者たちは20歳前後で大発見をしている
        → 数学・物理分野は早くから英才教育をすることで優秀な人材を育成できる

3.あくまで選択するのは本人
     ・現在の日本の学校教育は完璧ではない。選択肢が増えることは良いこと

■ 飛び入学の問題点

1.学校は勉強だけをする場ではないはず
     ・できる者もできない者も一緒に学び、その中で人間関係をつくっていくことが大事
     ・学力ばかりを重視して先へ進ませるやり方では人間的にゆがんだ育ち方をする危険がある

2.自分の専門分野だけしか興味を示さず、社会性のない若者が増える危険性 = 「おたく」「専門バカ」
     ・サリンガスをまいたオウム真理教の信者のように学歴や専門知識はあるが社会性の欠けた若者
     ・大学教育の専門化が進んでいるアメリカでは、学生の社会常識の欠如がしばしば問題になっている
         ・大学卒業者の約半数が第2次世界大戦でアメリカが戦った国を「ソ連」と解答
         ・優等生の集まる経営学部・工学部の学生ほどその傾向が強い
                           *スタッズ・ターケル「アメリカの分裂」より

3.個性や独創性は教師の指導で伸びるものではない
     ・放っておくのが一番
     ・手厚い個別指導が必要なのは、むしろ授業についていけない人たち

4.独創的でユニークな人は優等生ではない
     ・日本で「優等生」というのは、教師の考え方に合わせられる若者のこと
          → 優等生ほど良くも悪くも型にはまった考え方をする
     ・エジソンもアインシュタインも劣等生で問題児
          → エジソンは小学校中退
     ・独創的でユニークな人というのは、むしろ、偏差値エリートのワクからはみでた人
          → 「育成」できるものではなく、放っておいても自力で考え育っていく

5.大幅な飛び入学・飛び級をおこなうと年齢差のためにクラスで人間関係がつくりにくい
     ・飛び級の生徒が孤立したり、精神的プレッシャーからノイローゼになるケースも多い
     (イギリスでの調査では、飛び級経験者の60%が「飛び級しなければ良かった」と答えている)

6.ひとりひとりの能力や個性にあった教育というのならすべての子供たちや若者たちにするべき
     ・「産業の発展」のために優秀な者への特別コースをつくるのは、学校教育のやるべきことではない
     ・特別コースにお金をかけるよりも、30人学級や20人学級を実現して生徒全員にきめ細かい指導を
              ↓
     学校教育はすべての子供や若者に平等にあるべき。英才教育がやりたいなら塾や予備校でやればいい

7.若者をこれ以上、学力別に振り分けるべきではない
     ・「学歴社会」の日本では、受験競争だけが「学ぶ原動力」になりがち
              ↓
      偏差値の低い学校では、生徒の多くが自信ややる気を失っている
              ↓
      学力による振り分けや受験競争よりも、「学ぶ楽しさ」や「考える楽しさ」をつたえることが重要



【課題】 日本で飛び入学や飛び級を積極的に導入することの問題点を指摘した次の文章を読み、あなたの考えを述べなさい。(800字)
 2000年からはじまったOECDの国際学力調査では、北欧のフィンランドが毎回1位になっているため、フィンランドには、日本をふくめた世界各国から大勢の査察団が訪れている。フィンランドの学校に受験競争はほとんどなく、クラスの中でも、生徒同士の競い合いよりも、コミュニケーションと助け合いのほうが重視されている。そのため、授業では、その科目の得意な生徒が他の生徒に教える場面をしばしば見かけるという。授業内容は調べ学習とその発表、生徒同士のディスカッションが中心になっており、そのぶん、生徒たちは、放課後や休日に図書館や博物館へ行って自ら調べ、レポートを作成することになる。
 こうしたやり方の背景には、学ぶことは自らの視野を広げ、生き方や心を豊かにするという価値観がある。人とくらべてどうこうではなく、あくまで自分自身のために学んでいるという意識が強いので、学力に問題があると教師から指摘された場合には、生徒みずから留年を希望するケースも多い。留年することは、恥ずかしいことでもペナルティでもなく、自分にあった教育を受けるためのひとつの手段と認識されており、自ら留年を選択した若者は、周囲からも「落ちこぼれ」とは見なされず、むしろ「意欲がある」として教師やクラスメイトから評価されるという。
 自らの意識や能力を高めるために学んでいるという認識は、北ヨーロッパ社会に共通している。親の仕事の都合でオランダで暮らすことになり、地元の学校に入学した日本人の女の子の体験談にこんな話がある。その子は日本の中学では優等生だったが、オランダでは言葉の壁からいくつかの科目で成績がふるわず、担任から留年をすすめられた。お母さんは「うちの娘が留年させられるなんて」とショックを受け、担任に猛抗議。ところが、こどもが同じ学校へ通っているお母さん仲間のオランダ人女性から、こう言われたという。「あなた、それはラッキーよ、せっかくの機会なんだから、学校をもっと活用しなきゃ損するわよ、娘さんが十分に理解していないのに進級させたらかわいそうよ」。つまり、学校は教育を受ける権利を保障するための公共サービスであり、図書館や博物館と同様に積極的に活用しなければ損だというわけである。日本とのあまりの価値観の違いに、日本人のお母さんはカルチャーショックを受けたという。こういう社会ならば、飛び入学や飛び級も「自分を高めるひとつの選択肢」として受けとめることができるだろう。
 しかし日本では、他のアジア諸国やアメリカと同様に、学校教育を学歴を得るための手段、競争に勝ち抜いて高い社会的地位や収入を得るための手段とみなす傾向が強い。OECDの国際調査でも、日本の若者は「科学的発見への興味関心」をたずねるアンケートで際だって低い数字が出ている。この調査結果は、日本の若者に学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さを体験している者が少なく、「受験のための手段」として勉強しているという状況をあらわしている。学力の国際的な順位よりも、こちらの興味関心の低さのほうがはるかに深刻な問題である。日本の学校の最大の問題は、受験競争を若者にたきつけることだけが唯一の学ぶ原動力になってしまっているという点である。中学や高校では、受験を目的にカリキュラムが組まれ、学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さは後回しにされている。それは日本の学校から学歴の効果を取りのぞいたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものである。
 科学実験で有名な米村でんじろうさんは、以前、都立高校の物理教師をしていたが、授業でも、段ボールの空気砲やプラコップの蓄電器を使った実験をやっていたところ、学校側や保護者から「そんなくだらない実験はやめて、もっと受験に役立つ授業をやってほしい」と苦情が殺到し、教師を辞めてしまったという経歴の持ち主である。しかし、そうした実験は直接受験に役立つことはなくても、世界を見るまなざしそのものを変える力を持っている。なぜ電気は発生するのか、なぜブーメランは手元に戻ってくるのか、不思議に思ったことを自ら推論し、検証していく体験は、長い目で見れば、ただ暗記しただけの受験知識よりもはるかに大きな影響をもたらすはずである。たとえば、ニュートンが「万有引力の法則」を思いついたとき、デカルトが「我思う、ゆえに我あり」という第一原理に思い至ったとき、彼らは目の前の世界が昨日までとは違って見えただろう。この「ああそうか!」と膝を打つような体験、目の前の世界がいままでとちがって見えてくる体験こそが学問を学ぶ最大の醍醐味のはずである。そういう意味で、米村でんじろうさんのような人が学校の先生として評価されない社会というのは、根本的にまちがっているのではないだろうか。
 逆に受験から開放された大学では、学生たちはいままでの反動で、学問研究よりもサークル活動や合コンに多くの時間を費やすようになる。日本の大学生の勉強時間は国際比較でも極端に短く、日本の大学生が勉強しないことは世界的にも知られている。近年では、学生の私語と学習意欲のなさのために、授業が成立しない大学まであるという。また、大学3年生になると、学生の多くは就職活動のためにほとんど授業に出席しなくなり、大学側も就職実績を上げるために就職の決まった学生を無試験で卒業させている。現在の日本の大学は実質的に「就職予備校」でしかなく、景気が悪くなると、きまって学生の就職率ばかりが話題になるのもそのためである。
 自ら調べ、考えることの楽しさを体験せず、受験のために詰め込んだ知識は、受験が終わるとともに失われていく。論理的な考え方や科学への関心が日常生活の中に根づくこともない。マスコミでは、「若者の学力低下」や「理科ばなれ」ばかりが話題になっているが、実際には、成人向けの国際学力調査では、日本はほぼすべてにおいて最下位であり、こちらの数字のほうが際だっている。おとなたちにとって、若者批判は自分とは関係のないことのように無責任に発言できるため、その批判はしばしば大きな社会現象となるが、おとなは若者のなれの果てであり、両者の姿は密接に結びついている。自らが血液型占いを信じているにもかかわらず、その一方で「若者の学力低下はけしからん」「技術立国日本の将来が危うい」などと声高に批判しているこっけいなおとなたちが日本には大勢いるはずである。
 「学校でなにを学んだのか」よりも、「どこの学校を出たのか」のほうが重視される社会では、学ぶことの目的と手段が逆転する。進学や成績は学んだ結果ではなく、それ自体が目的であり、学ぶことのほうがその手段となる。さらに、学ぶことの楽しさや自らの視野を広げることの重要性といった、本来、学校で最優先にされるべき事柄は後回しにされている。このような日本社会で、飛び入学や飛び級を大規模に導入し、東大をはじめとしたエリート大学で飛び入学生を積極的に募集するようになれば、それは「自分を高めるひとつの選択肢」とは認識されず、むしろ「人よりも先に進む手段」としていっそうの進学競争をあおることになるはずである。実際に国をあげて英才教育をおこない、エリート育成のための国立高校まで設置した韓国では、受験競争の過熱が社会問題になっている。
 すでに現在、日本の高校生は学力別に序列化された高校へ振り分けられており、学力の低い高校では、多くの生徒が「どうせ自分は」という挫折感を抱いている。さらにアメリカや韓国で行われているような大規模な飛び級・飛び入学が導入され、進学競争の過熱とよりいっそうの学力による振り分けが行われた場合、競争の敗者にはよりいっそうの挫折感と社会への不満を、勝者には次は負けるかもしれないという不安からさらなる競争をもたらすだろう。その競争は生涯にわたってつづき、「受験のため」「就職のため」「リストラされないため」「こどもの受験のため」「老後のため」とひたすら将来の不安にそなえることになる。こうした社会では、競争に勝った者も負けた者も自分のことだけで精一杯になり、お互いに助け合って共に社会を支えていこうという意識は失われていくはずである。このような日本の状況では、大規模な飛び級・飛び入学を導入することは、むしろ問題のほうが大きいのではないだろうか。

*  → Wikipedia「米村でんじろう」
   → 米村でんじろう サイエンスプロダクション
** → 論考空間「教育は科学を正しく教えているか」


2.資料

● VTR NHK・クローズアップ現代 1997.7「数学教育と飛び入学」
● 朝日新聞 1998.1.20「千葉大学飛び入学 高2の3人合格」「選んだ17歳 夢は科学者に」
● VTR NHK・特報首都圏 1998.10.11「千葉大学、3人の飛び入学生の半年間」


飛び入学:数学と物理に限定をその他の教科にも拡大へ 文部省
毎日新聞 2000.11.22
 文部省は、現在は数学と物理に限定している高校2年生対象の「飛び入学」制度を、スポーツや芸術をはじめその他の教科にも広げる方針を固めた。首相の私的諮問機関「教育改革国民会議」が提言している「大学入学年齢制限の撤廃」を受けたもので、「特異な才能」を幅広く見いだすのが目的。学校教育法施行規則などの改正も含めて検討し、早ければ2002年度からの入学生を対象に大学の判断で実施できるようにする。年内にも中央教育審議会(中教審)に諮る考えだ。……中略……このため、文部省は「千葉大での実績を見ても、特に問題はない」(同省幹部)として、分野を広げることにした。具体的には、美術などの芸術分野やスポーツ分野。さらに生物や化学など理科系科目や将来的には国語や歴史など全分野の幅広い科目を想定している。対象年齢は、当面、高校2年を維持するが、段階的に引き下げていく方針だ。教育改革国民会議は、9月22日に公表した中間報告の中で、一人一人の資質や才能を生かすために、これまでの一律的な教育を改める必要があるとし、現在、原則として18歳以上とされている大学入学年齢制限の撤廃を提言。義務教育終了後に、優れた才能がある生徒を大学に入学させることができるよう求めている。

大学受験:「高卒・大検」要件を撤廃 各大学の判断に 文科省
毎日新聞 2002.07.02
 文部科学省は、高卒者や大学入学資格検定(大検)の合格者らに限って認めてきた大学入学資格の要件を撤廃する方針を固めた。外国人学校の卒業者の進学機会拡大を求めた総合規制改革会議の答申を受けた措置で、早ければ来年度入試から、各大学が個別に入学出願書類などから資格の有無を判断する形に改める。これにより高校中退者や外国人学校の卒業者が、大検を受けなくても大学を受験できるようになり、進学の道が大きく広がることになる。  大学入学資格は現在、文部省令によって、高校卒業者のほか、海外で12年の学校教育を受けた者や大検合格者などに認められている。しかし、インターナショナルスクールや朝鮮人学校など国内の外国人学校は日本の「学校」として認められていないため、卒業しても大検に合格しないと大学入学資格を得られなかった。
 総合規制改革会議は昨年12月、国内に長期滞在する外国人の子供らの進学機会を拡大する必要があるとして、インターナショナルスクールで一定水準の教育を受けた者に大学入学資格を認めるよう答申した。答申を受け文科省は、大学入学資格の緩和を検討。「大学が独自の入学資格審査で高卒と同等以上の学力があると認めた18歳以上の者」に対し入学資格を与えることになり、省令を改正する。これによって年間数百人のインターナショナルスクールの卒業者、約1000人の朝鮮人学校高等部卒業者のほか、年間11万人に上る高校中退者や、不登校などで高校に入学できなかった中卒者らも、大検を受けずに大学を受験できる道が開かれる。特に高校中退者は大検出願者の6割(約2万人)を占めており、9〜10科目に合格する必要がある大検の免除は、大幅な負担軽減となる。
 外国人学校卒業生については、これまでも公私立大の多くが独自の判断で受験を認めていたが、今後はこれが正式に認められ、国立大でも受験を認めるところが増えるとみられる。大学院についてはすでに99年から、大学を卒業していなくても入学できることになっている。 【澤圭一郎】

飛び入学導入広がらず 大学に負担重く、学生は支持するが
日本経済新聞 2004年5月21日夕刊
英語・数学…欠かせぬケア
 高校三年を飛ばして大学に入学する「飛び入学」を千葉大が導入して七年。当初は「導入例が相次ぐ」との観測も流れたが、現時点で追随したのは名古屋にある名城大だけだ。学生からは「専門研究が早く始められる」など支持する声もあるが、そのための特別な教育プログラムを組む大学の負担は大きく、今後も急速には広がりそうもない。
 名城大では名古屋市天白区のキャンパスにある「総合数理教育センター」が飛び入学で入った学生を担当する。百円ショップの品ぞろえの変化を中国の経済発展と関連づける、言葉を略す若者の四文字言葉を関数に置き換える……。毎週土曜の午後には飛び入学生向けの特別ゼミがある。
 時には民間企業の役員やアフリカの駐日大使を招き、流通業界の現状、国際協力などをテーマに講義してもらう。分子の解析などに威力を発揮する世界最大の放射光施設SPring―8(兵庫県)なども見学に行った。
 センター長の四方義啓教授は「数式が解けるだけの学生にはなってほしくない。受験偏重で過ごす三年生の一年間を有効に使い、なぜ数学を学ぶか考え、様々な分野の人と交流して新たな考えに触れる機会にしたい」が持論。数学から物理学、言語学、心理学などまで、互いに関連づける特別な教育プログラムを採用している。
 千葉大も受け入れ窓口の「先進科学教育センター」を設置、飛び入学生のためのゼミなどを開いている。各学年に担任を二人置き、授業の選択方法から私生活まで学生の相談に乗る。
 両大学とも「常に教員が身近にいて疑問を解消してくれる」特別態勢を組むが、その分、大学への負担は大きい。高三の一年分が抜け落ちたために英単語や数学などの一部が不足、ギャップに苦しみ体調を崩す学生が出たこともある。
 第一号の千葉大には、多くの大学関係者が見学に来た。だが「高校との連携や大学全体での支援など様々なケアが必要なことを説明すると急速に興味を失う」と担当の大高一雄教授は打ち明ける。大学教員は研究成果を求められるため「教育に時間を取られ過ぎることが二の足を踏ませる」というのだ。
 欧米では単純に早く入学させるだけで特別な教育は施さないが、日本ではどうしても「エリート養成」と受け取られ、大学にも学生にも無言のプレッシャーがのしかかる。
 米国留学中のあるOBは「自分をできるだけ伸ばそうと周囲が手助けしてくれた」と受け入れ態勢を評価するが、大学院に進学した男子学生は「常に監視され居心地が悪かった」と振り返る。社会人となった卒業生は「ぶざまな成績は残せないと思った。今も『飛び入学のくせに』と言われない努力はしている」といい、「期待し過ぎない環境づくりも大切」と指摘した。
 様々な課題を抱えながら、飛び入学経験者は年々増えていく。スタートして四年の名城大は十五人が在学。現在四年の一期生には東大大学院からもお呼びが掛かる。千葉大には今まで計二十六人が入学。OBは米マサチューセッツ工科大、東大、京大など国内外の大学院に進学したほか、一部は社会に出始めている。
 二〇〇五年度には成城大(東京)が英文学科に飛び入学を導入。広島大(広島県)と長岡技術科学大(新潟県)は中期計画に導入の検討を盛り込んでいる。
 しかし「あくまで選択肢の一つというコンセンサスが本人や周囲にあればいいが、広がればまた序列化が始まり混乱を生む」と、飛び入学生を送り出したことがある麻布高校(東京)の増子寛教諭。一挙に広がる土壌はできていない。

お茶の水女子大教授 藤原正彦氏に聞く  高3の教育改善を 大学の入試改革必要
 飛び入学に当初から反対の立場だった数学者の一人、藤原正彦・お茶の水女子大教授に大学入試の課題などを聞いた。  自然科学で最も重要なのは美しいものに感動する「情緒力」で、数学的なテクニックじゃない。幼いころの砂場遊び、野山を走り回る、小説に涙する、失恋するなど、あらゆる経験がそれを培う。国は効率的に育てようというが、スキップして数学だけ学んでもうまくいかない。
 もし東京大、京都大など主要大学が飛び入学を導入すると、逆に新たな競争を生み、情緒力を養成する初等中等教育がズタズタになる。
 高校三年の受験勉強は確かに情緒力養成には役に立たないが、だから摩耗しないよう飛び入学で救うというのは論理のすり替えだ。重要なのは高校三年の教育の改善。くだらない受験勉強を強いる大学入試改革が必要で、責任は大学にある。才能ある一部を救って、多くが犠牲では済まない。

「飛び入学」人気なし、10年で72人だけ…拡大見送り
読売新聞 2007年4月11日16時6分
 優秀な高校2年生に大学の入学資格を認める「飛び入学制度」による入学者数が伸び悩んでいる。
 今春の入学者は10人で、制度開始から10年たった現在までの累計でも72人。当初は「大学改革の起爆剤」と期待されたが、制度を導入した大学も6校にとどまる。高校2年生に限定している対象を拡大するかどうか検討していた文部科学省は、こうした状況を受け、拡大を見送る方針を決めた。
 「楽しい高校生活を切り上げてまで、あえて大学入学を急ぐ必要はないと思うのかも……」
 今春、飛び入学での入学者がゼロだった昭和女子大(東京都世田谷区)。2005年度に飛び入学を導入して以降、志願者はいない。「門戸を開けておけば、いつか入ってきてくれると思うのですが」と担当者は話す。
 エリザベト音楽大(広島市)は、導入から3年目の今春、初めて1人が入学した。「優秀な人は東京に行ってしまう。飛び入学は、才能のある人を早く確保できる制度で、地方の大学にとって生き残り策の側面もある」と説明する。
 飛び入学は1997年、「横並び教育を脱却し、子供の個性、能力に応じた教育を行う」という理念の下で始まった。導入当時は、「優秀な生徒の青田買いにつながる」などの懸念もあったが、大学間の競争が激化するにつれて、「大学のアピールポイントになる」として注目された。
 しかし、飛び入学での入学者はここ数年、10人前後で横ばいが続く。累計の入学者数も、98年度に制度を導入した千葉大(千葉市)は47人、01年度に導入した名城大(名古屋市)は21人だが、05〜06年度に導入した会津大(福島県会津若松市)では2人、成城大(世田谷区)、エリザベト音楽大は各1人にとどまっている。今春の入学者も、千葉大が6人だった以外は1〜0人だった。
 文科省の調査によると、飛び入学の導入を検討している大学は04年度には29校あったが、06年度は5校に減ってしまった。
 同省は飛び入学制度が普及しない要因として、〈1〉個人や大学へのメリットが明確でない〈2〉条件の「特に優れた資質」の判定が困難〈3〉飛び入学で大学に進むと高卒の資格が得られず、大学を中退した場合、中卒資格になってしまう――などを挙げる。そして、「飛び入学制度はまだ評価できる段階にない」として、当面、対象を拡大しないことにした。
 千葉大で制度の導入にかかわった上野信雄・同大教授は「飛び入学は、国を担う人材を育てるために必要な制度。早く専門分野を学ばせることで、才能が開花する生徒がいることを知ってほしい」と話している。

日本は数学6位、読解力14位に転落 OECD学力調査
朝日新聞 2004年12月7日
 経済協力開発機構(OECD)が昨年実施した国際的な学習到達度調査の結果が7日、世界同時に公表された。41カ国・地域の計約27万6000人の15歳を対象に、知識や技能の実生活への応用力をみるテストが行われた。日本は、前回(00年)8位だった「読解力」がOECD平均レベルの14位まで低下。「数学的リテラシー(応用力)」は前回の1位から6位になった。文部科学省は日本の学力について初めて「世界のトップレベルとはいえない」との表現を使い、厳しい現状認識を示した。
 「科学的リテラシー」は前回同様2位で、今回から実施した「問題解決能力」は4位だった。文科省は今回の結果について「日本の学力は上位にある」としつつも、特に落ち込みの目立った「読解力」に対応するため「読解力向上プログラム」を来夏までに策定すると表明した。
 読解力は、文章や図表を理解して利用し、熟考する能力と位置づけられ、設問は計28題。1位のフィンランドの平均点が543点で、日本は498点。前回に続いて参加した国の中では、前回に比べ最悪となる24点の減になった。習熟度レベルの高い(得点の高い)グループは前回並みだったものの、習熟度レベルの低いグループで落ち込みが大きく、学力格差が広がった形だ。
 今回、数学は重点的に調べた分野で、85問を出題した。1位香港の550点に対して日本は534点(前回比23点減)だったが、同省は「誤差を考慮すると統計的には香港と差がない」と説明している。
 テストにあわせて行ったアンケートの結果、数学について「授業が楽しみか」「内容に興味があるか」など関心を聞いた質問項目すべてで、日本の生徒は肯定的な答えがOECDの平均以下だった。「数学を日常生活にどう応用できるか考えている」と答えた生徒はわずか12.5%で、平均の53%にはるか及ばなかった。
 また、授業以外の勉強時間は週平均6.5時間で、OECD平均の8.9時間を下回った。

 〈経済協力開発機構(OECD)の国際学習到達度調査〉 アジア・欧州・北米・中南米・オセアニアにまたがる加盟国を中心に、四つの非加盟国を含む32カ国が参加し、00年から始めた。2回目となる今回は、トルコなどが新たに加わった。知識量ではなく、将来、社会生活で直面する課題にその知識を活用する力があるかどうかをはかる。各分野の得点は、OECD加盟国の生徒の平均得点が500点になるよう換算してはじき出す。日本では、無作為に選ばれた約4700人が約2時間のペーパーテストを昨年7月に受けた。 (12/07)

「国際学力調査」上位のフィンランド、学校に権限移譲
朝日新聞 2005年10月24日11時12分
 昨年12月に公表された国際学力調査(PISA2003)でクローズアップされた日本の学力低下問題。その調査で上位になったフィンランドの教育庁が今月10、11の両日、「フィンランドが好成績を修めた要因」と題する国際セミナーをヘルシンキで開催した。セミナーで成功の要因として強調された「現場への思い切った権限移譲」は、日本も教育改革のゴールに据える。一方で、学力テストの方法などは日本と正反対の路線だ。セミナーを紹介しつつ、フィンランドと日本の教育システムを比較してみた。

 「フィンランドでは、教科書も授業メソッドも学校が選ぶ」
 30カ国以上から集まった約130人の参加者に、フィンランド教育庁のリッタ・ランポーラ氏は同国の教育システムが「地方自治体と学校への信頼」で成り立っていることを強調した。
 フィンランドで教育の分権化が始まったのは85年ごろから。日本の学習指導要領にあたる国のカリキュラムは、70年には義務教育段階で約650ページの厚さがあったが、94年には100ページほどまで削られてガイドライン的なものになった。自治体と学校は、このカリキュラムに基づいて、自前の「指導要領」をそれぞれ作っている。
 セミナーの一環として行われた学校訪問で、「学校の自治」の象徴的な事例に出会った。
 ヘルシンキ市内にある「アラビア基礎学校」は新興住宅街にある小中一貫校。約300人の子どもが学ぶ。
 4年生を受け持つミッコ・アウティオ先生が見せてくれた1週間の時間割りには、教科が書き込まれていない「×」印が11カ所もある。週間授業時数の約4割を占める。「この×印のコマは、児童の理解状況に応じてやりたい教科を弾力的にはめ込む。明日は、英語を3時間連続でやることになると思う」とアウティオ先生は話した。最近は、こうした柔軟な時間割りを導入する教師が急速に増えているという。
 また、80年代後半には今も英国で行われているような学校査察制度を廃止した。その代わりに、学校の状況を把握するために全国学力テストを導入している。ただ、日本が来年度以降に導入するような学年全員を対象とするものではなく、一定数を抽出して実施し、その結果も全国平均を公表するだけだ。全数調査をしない理由について、ランポーラ氏は「地区によっては教育困難校もある。条件が違うのに学校をランク付けしたくない」と、過度な学校間競争を避けていると説明した。

 悩める日本、読解力向上の手本に
 PISA2003で特に日本が振るわなかったのが「読解力」。日本は経済協力開発機構(OECD)加盟国の平均並みの14位で、フィンランドは1位だった。国語だけでなく、他の教科の記述式問題の弱さも課題となっており、文部科学省は、フィンランドが進めた国家プロジェクトを手本に「読解力向上プログラム」を策定中だ。
 フィンランド政府が01〜04年に実施したプロジェクトは、「ルク・スオミ(読み書きするフィンランド)」。この中では、すべての教科を通じた読解力の改善や、学校と公共図書館の連携などが掲げられた。  フィンランドで読解力が重視される背景には、大学入試の内容も影響しているようだ。大学に進学するための「資格試験」で必修の国語の試験で課されるのは2本の小論文。数学や一般教養の問題でも知識だけを問うのではなく、自分の考えをまとめて表現することが重視される。
 「アラビア基礎学校」でアウティオ先生が作った生物のテストを見せてもらうと、穴埋め問題はほとんどなく、記述式の問題が大半だ。「児童は書くのをおっくうがるが、どれだけ理解したかを知るには書くことが一番だ」と話す。
 中学1年生に国語を教えるマルケッタ・マケラ先生も月に一度は近くの図書館に生徒を連れて行く。「読むこと、書くことがすべての教科の基礎。創造的な内容や論理的な文章を繰り返し書かせている」という。
 文科省もフィンランドの成功を踏まえ、教科を超えて読解力の向上を目指そうとしている。そこで、策定中のプログラムの原案では、対象は国語だけでなく、理科や社会、美術、音楽まで及ぶ。
 例えば、中3の社会。テキストは、「社員募集」「男性社員募集」と書かれた二つの社員募集広告を並べて、どちらが新しい広告かを生徒に考えさせる内容だ。男女雇用機会均等法という言葉を教えるのではなく、資料からその意義を探る狙いになっている。

比較・競争とは無縁 学習到達度「世界一」のフィンランド
朝日新聞 2005年02月20日
 昨年末に発表された経済協力開発機構(OECD)の国際的な学習到達度調査(PISA)でトップの成績をあげたフィンランドに、日本から注目が集まっている。しかし、その反響に戸惑っているという内容の電子メールが現地の日本人女性教師から朝日新聞へ寄せられた。「フィンランドは日本で言うような意味での教育熱心な国ではない」。調査結果の見方についても、専門家から「正しい分析を」という指摘がある。【忠鉢信一】

 フィンランド在住の菊川由紀さん(46)は96年からヘルシンキ市内の高校で日本語を教えている。
 最近、男子生徒に「フィンランドはPISAで世界一だったのよね」と聞いた。どの生徒も一様に「特別なことは何もしてない。どうしてだろう」と、不思議な顔をした。子どもたちの学習態度はどうか。たとえば、学校が出す宿題について、子どもの受け止め方は日本とは違う。
 一方的に、これをやってきなさいと言っても、なかなかやってこない。しかし、「もっと勉強したい人は、この問題を解いてみたら」などと投げかけると、ほとんどの生徒が取り組むという。
 菊川さんの話では、日本のような塾や予備校はない。高校進学は中学卒業時の成績で決まり、自分で卒業成績が低いと思えば、もう一年余計に中学へ通うことも可能だ。その場合、「落ちこぼれ」と言われるどころか、むしろ「長い期間、勉強した」というとらえ方をされる。日本のような受験競争とは無縁だ。
 「他人と比較して上か下か、という考え方をしない。私自身、初めてこの国に住んだ中学生のころは、意識の違いの大きさに戸惑った。個人主義が徹底された社会が背景にあるのだと思う」
 PISAの発表があった昨年末、菊川さんは日本へ一時帰国していた。外国語として日本語を教える教師のための研修に参加し、日本の教育事情を調べるためにある教育系大学を訪れた。
 ある研究者は、フィンランドの学校について「各学校が互いに競い合って特色を打ち出している。現場に裁量を与える手法」という見方をしていた。
 00年のPISAでフィンランドが総合的にトップとされて以来、日本から数え切れないほどの視察があった。菊川さんは何度も通訳を務めた。そこでも、特色を出すことが競争につながっていると誤解している人が少なからずいた。
 菊川さんは「国はカリキュラムの大枠で目標を定めるだけで、達成方法は各学校の校長に委ねられている」という基本概念を教育省や国家教育委員会で何度も説明され、通訳した。現場への裁量は与えられているが、他の学校と比べて意識的に競い合ってはいない。

○「楽しんで学ぶ」貫く
 フィンランドのヘルシンキ大で講師を務めたこともあり、現地の教育事情に詳しい中嶋博早大名誉教授(81)はOECDが主催した1月の講演で「義務教育世界一と言われるフィンランドは授業時間が日本より少ない。今年の総合カリキュラム見直しでは日本で言う『ゆとりの時間』が増やされる」と指摘し、PISAの結果を受けた「総合的学習」の見直し議論に疑問を投げかけた。
 中嶋名誉教授は、PISAが00年に始まった経緯にも触れ、「PISAの調査結果には、これからの教育をどうしていくべきかという処方箋(せん)が書かれている。だからこそ正しく分析しなければ」。これまでの反応を見た限り、誤解があると感じるという。
 「日本や韓国が高得点をあげていた従来の国際調査は、詰め込まれた知識量をみるものだった。それを見直して、生涯にわたって学習する能力を身につけているかどうかをみるための指標として始まったのがPISA。だから、暗記や暗唱が中心の教育に戻したり、授業時間を増やしたりする方法では、日本の教育が抱えている課題は解決できない」
 授業の組み立て方や教科書の選定など教育内容の大部分を現場の裁量に任せたのがフィンランドの教育制度。中嶋名誉教授は「落ちこぼれをつくらない、というだけでなく、楽しんで学ぶことがフィンランドの教育の特徴」と強調した。

 ◆年間平均標準授業時間の比較
         日本   フィンランド
 7〜8歳   709時間  530時間
 9〜11   761時間  673時間
 12〜14  875時間  815時間
  (注)「図表でみる教育 OECDインディケータ(2004年版)」から。このデータは02年現在。

記者の目:フィンランドとロシアの教育=木村葉子
毎日新聞 2005年10月20日 0時48分
 この秋、フィンランドとその隣国ロシアの学校を訪ねた。経済協力開発機構(OECD)の学習到達度調査(PISA)で世界トップクラスを誇るフィンランドでは、子どもたちが自らカリキュラムを作っていた。ロシアでは、ソ連崩壊後、再評価されている文豪トルストイの教育理念が息づいていた。風土や制度は違う両国だが、くしくも同じ一つのことを日本の教育に問いかけているように、私は思う。
 現地でまず驚かされたのは、授業が多彩で、教師の指導がきめ細かいことだ。フィンランドの首都ヘルシンキ郊外のイエベンペーン高校には、16〜20歳の約900人が学ぶ。語学はスウェーデン語、フランス語といった欧州言語だけでなく、中国語、日本語にいたるまで12カ国語から選べる。他の選択科目も哲学、心理学など豊富だ。単位制で、習熟レベルに合わせて自分でカリキュラムを作る。年齢による学年分けはない。こうしたシステムを55%の高校が取り入れているという。ある生徒は「自分のやりたい勉強ができるし、宿題に3時間かかっても何とも思わない」と話した。
 小学校低学年には、担任のほか、アシスタント教師がつき、語学や算数では習熟度別の少人数授業をしている。「落第」や補習もあるが、マイナスイメージはない。むしろ「勉強熱心な頑張る子」と評価されるのだという。
 手厚い教育の背景は何なのか。イエベンペーン高校のアットサー・タイパル校長は「数百年間、他国(スウェーデンなど)の支配下にあった苦しみから、自分たちの文化や言葉を守り続けるには、教育しかないことを国民全体が理解している」と熱っぽく語った。
 一方、ロシアでは91年のソ連崩壊後、「教育は教師と子どもの共同作業であり、生きる道を子ども自身に考えさせるものだ」というトルストイの教育理念が再評価されている。その本家本元の学校がモスクワから200キロのヤースナヤ・ポリャーナにあるヤースナポリャンスカヤ学校だ。6〜17歳の187人が通う。
 小3の文学の授業。「なぜなのか」「自分の意見はどうか」と教師が子どもたちに矢継ぎ早に問いかけていた。「悲しい気持ちの主人公を幸せにするために、物語の続きを考えよう」という課題では、「人を愛することで自分も愛されるようになった」「大好きな人と結婚して、幸せな気持ちになった」と、子どもたちから豊かな表現が飛び出す。「好きな色と、その理由は」と尋ねられると「バラ色。柔らかくて優しいから」「空色。静かで落ち着いているから」。言葉の豊かさに圧倒された。
 その一方で、日本で4年生の私の息子がもらった誕生祝いの寄せ書きを思い出した。クラス全員が書いてくれたが、多くは息子を「おもしろい」「元気」と評していた。息子の読書記録はさらに象徴的で「この本を友だちにすすめる理由」は「おもしろい」の一言。トルストイ学校の子どもとの表現力の差が気になる。
 両国の教育から感じたのは「自分で考える力をつける」ということだ。人口が日本の20分の1の520万人しかいない小国フィンランド。ソ連崩壊から14年を経たロシアでは、モスクワの目抜き通りに高級ブティックなどが並ぶ一方で、駅やレストランの公共トイレは便座がなく、物ごいをするお年寄りの姿も目につく。こうしたハンディや混乱からの脱却には「教育あるのみ」という強い意志が伝わってくる。
 フィンランドの多彩な選択科目、トルストイ学校の教師たちの問いかけ。子どもたちはこれらのトレーニングを積み重ねることで、自分を理解し、表現する力を養える。「フィンランドでは教師のレベルは非常に高く熱心。社会的にもとても尊敬されている」とはタイパル校長の言葉だ。生徒と教師の真剣なコミュニケーションを通じて、教師は生徒から尊敬の念も勝ち得ているように思う。
 日本の出生率は過去最低を更新し続け、人口減が既に始まったと言われる。「子は未来への財産」という言葉はこれまで以上に重く、切実だ。宿題が終わると「次は何をしたらいいかな?」と聞いてくる子どもがいる。親や教師から勧められればするが、自分で見つけることができないのだとすれば、教育がすべきことは何なのか。
 「学力低下」への懸念に押され、「ゆとり教育」から再び基礎学力重視へとかじが切られようとしている今、私たちはほんのちょっと立ち止まって、自問してみても損はない。「考える努力」を子どもたちに日々させているかと。まず大人が自ら考える姿を、子どもたちに示したい。(月刊Newsがわかる編集室)

国際学力調査:「理科に関心」最下位 数学的活用力も低下
毎日新聞 2007年12月4日
 経済協力開発機構(OECD)は4日、57カ国・地域で約40万人の15歳男女(日本では高1)が参加した国際学力テスト「学習到達度調査」(PISA)の06年実施結果を発表した。学力テストで、日本は数学的活用力が前回(03年)の6位から10位となり、2位から6位に下げた科学的活用力と併せ大幅に低下した。また、理科学習に関するアンケートで関心・意欲を示す指標などが最下位になり、理科学習に極めて消極的な高校生の実態が初めて明らかになった。
 ◇57カ国・地域が参加
 調査には、前回より16多い57カ国・地域が参加。日本では無作為抽出された高校1年の約6000人が参加し、学力テストでは「数学的活用力」「読解力」「科学的活用力」の3分野を、アンケートでは、理科学習への関心・意欲などを調べた。
 日本の数学的活用力は前回534点から523点に低下した。特に女子が男子より20点低く課題が残った。また、読解力は前回と同じ498点だったが、順位を一つ下げ15位となった。8位から14位と落ち込んだ前回と同様、OECD平均レベルではあるが、改善しなかった。科学的活用力はOECDが先行して公表しており既に前回548点から531点に低下したことが分かっている。
 関心などのアンケートでは、理科を学ぶ「動機」や「楽しさ」などについて、それぞれ複数の項目を尋ねた。このうち「自分に役立つ」「将来の仕事の可能性を広げてくれる」など、「動機」について尋ねた5項目では、「そうだと思う」など肯定的に答えた割合がOECD平均より14〜25ポイント低かった。これらを統計処理し、平均値からどれだけ離れているかを「指標」にして順位を出したところ、日本は参加国中最下位だった。
 また、科学に関する雑誌や新聞などの利用度を尋ねた「活動」の指標でも最下位。科学を学ぶ「楽しさ」を聞いた指標も2番目に低かった。こうした関心・意欲の低下が順位の低下につながった可能性もあるとみられる。【高山純二】

 ◇渡海文科相「そんなに落ち込まなくてもいい」
 渡海紀三朗文部科学相は「科学的活用力が前回2位から6位になったことは残念。しかし、上位グループなので、そんなに落ち込まなくてもいい」と話した。理科学習への関心・意欲が他国よりも低いことには、「政策の中でより理科教育の充実が必要だと感じている」と述べ、次期学習指導要領改定で理数教育の授業時間を増やしていく必要性を指摘した。
 【ことば】◇OECDの学習到達度調査(PISA)◇ 生活に必要な知識や技能が15歳の子どもたちに身に着いているかを測定する国際的な学力テスト。00年に第1回調査が行われ、以後3年ごとに実施されている。00年は読解力、03年は数学的活用力、06年は科学的活用力を中心に調査が行われ、次回の09年は読解力を中心に調査される。今回はOECD加盟国30カ国、非加盟国27カ国・地域の約40万人が参加。09年は64カ国・地域が参加する予定。

国際学力調査 順位より「低意欲」こそ問題だ
毎日新聞 社説 2007年12月5日 東京朝刊
 経済協力開発機構(OECD)の国際学力テスト「学習到達度調査」結果が出た。多くの人はまず日本の順位に注目しただろう。日本はこのところ順位があまりパッとしない。しかし、もっと深刻な現実がのぞいた。学習意欲のあまりの低さ、つまり「やる気」の薄さだ。
 2000年に始まった調査は3年に1回、15歳(日本は高校1年生)を対象に「読解力」「数学的活用力」「科学的活用力」の3分野をみる。いたずらに知識の多寡を測るのではなく、理解と応用の力をみようとする。今回は科学的活用力に重点を置いた。
 その日本の順位は参加国(OECD加盟30カ国、非加盟27カ国・地域)中6位で、前回の2位からは後退した。だが全体でみれば上位で、見方によっては「誤差の範囲」ともいわれる。この数字に一喜一憂するより、日本の生徒たちの日ごろの理科学習に対する関心や意欲の調査結果を考えたい。
 例えば、「30歳くらいでどんな職に」という問いに、科学関連の職業を挙げた生徒は8%という。え?と言いたくなる結果である。OECD加盟国平均では4人に1人が挙げた。また理科の勉強の目的も「自分に役立つので」と挙げた日本の生徒は4割余で、7割近いOECD平均の中で際立って低い。動機づけや学習活動面で日本は最低レベルに位置している。
 なぜか。理系の職業や社会的地位は、発展途上国で相対的に恵まれ、子供のあこがれが強いという事情もある。先進国では職業が多様に分化し、選択肢が増えるという側面もある。日本では理系の職種が必ずしも厚遇されていないからという指摘もある。でもそれだけでは日本の子供たちの関心・意欲が「ずば抜けて低い」(文部科学省)調査結果は説明できない。
 実は、こうした傾向は理科教育に限らず、既に多くの学校や子供たちの生活の場で指摘されていることだ。経済的な豊かさ、少子化と受験競争の緩和など、さまざまな要因が挙げられる。「生きる力の育成」を強調した「ゆとり教育」も、本来この状況の打開や改善を目指したものだった。
 前回のOECD調査で読解力の順位が下がったことで、ゆとり教育批判がにわかに強まり、教科学習を再び増やす学習指導要領の改定決定や、全国学力テスト実施に結びついた。ゆとり教育の手法や成果、OECD調査結果との因果関係について十分な検証が行われないまま、「ゆとりが学力低下の元凶」論が高まった面がある。
 今回の結果で、実験を工夫するなど理科教育の改善が進むことは期待したい。しかし、「やる気の薄さ」はこの分野に限ったものではなく、社会全体の問題、これからの日本の幅広い人材育成で避けて通れない問題、ととらえる視点と覚悟が必要ではないだろうか。
 単なる授業量増加が即効薬ではない。意欲、動機づけ、興味、関心などは、なかなかつかみどころがなく、これまで本格的に掘り下げて取り組みにくかった問題だが、もう先送りにはできない。


3.生徒のレポート (1998.10)

□ 飛び入学・飛び級に賛成

●私は飛び入学や飛び級に賛成です。
 勉強ができてもできなくてもとにかく3年間学校へ来るという考え方は、意味がないと思うからです。勉強ができる人は飛び入学や飛び級をして自分の持っている才能を伸ばしていった方がいいし、逆に、勉強が苦手な人はわからないまま卒業してしまうのではなく、わかるようになるまで留年した方がいいと思います。

●ぼくは飛び入学は必要だと思います。
 せっかくの才能をつぶしてしまうのはもったいないし、本人もかわいそうだと思うからです。
 アメリカでは132人もノーベル物理学賞を受賞しているのを知って、びっくりしました。
 飛び入学や飛び級が一般的になったら、勉強はできるけど社会常識がない人が増えるという問題が授業で紹介されていたけど、それは飛び入学の試験を工夫して、「社会のことを考えさせる問題」なんかを出題すれば解決することだ。友達も同じ歳の友達ばかりでなく、飛び級をして違う歳の友達ができるのは良いと思う。日本もアメリカのやり方に学べばいいと思います。

●はじめ、飛び級・飛び入学はやめた方がいいと思っていました。同じクラスに年下の同級生がいるなんて、むしゃくしゃした気分になりそうだからです。
 でも、才能のある者がその才能を発揮できるようにすることはすばらしいことです。人間には得意・不得意があります。すべてのことを得意にすることはできません。1つの分野に優れた才能があるなら、それを伸ばすのは良いことだと思います。たとえ「専門バカ」でも、ひとつのことでも誰にも負けないものを持っているというのはすごいことだと思います。

●私は日本でやっても別にいいと思います。
 「みんないっしょ」も大事だけど、一人一人の個性を伸ばすのも大事だと思います。
 特に数学や物理は若いときに才能を発揮するというのなら、そういう若いときに才能を伸ばした方がいいと思います。飛び級や飛び入学がそのために役立つのならいいんじゃないかと思います。
 自分の専門しか知らない専門バカがふえたり、受験競争が激しくなったりするのは嫌だけど、才能のある人がふつうの授業は退屈だというのなら、楽しく勉強できるようにしてあげたいなと思います。
 ただ、そういう人たちの学校は別にした方がいいです。飛び入学のできる学校とそうでない学校とをわけて、えらべるようにすればいいと思います。飛び級専門の学校だと、みんな年齢も違うから、飛び級の人たちも孤立することもなくて、やりやすいんじゃないかと思います。

●私は賛成です。
 夢があって努力している人に道を開いてあげることはいいことだと思う。
 飛び級を目指してがんばることははげみになるし、たとえ失敗してもいい経験になる。そうしたら、みんなもっと勉強するようになると思う。
 ただ、飛び級をやるなら、体育系とか文化系とか色々な分野にも広げた方がいい。
 飛び級には問題もいっぱいあるけど、そんなこと言っていたら何もできなくなってしまう。
 人には良いところも悪いところもある。勉強が得意な人はそれを伸ばせばいいし、そうでない人は別なところを伸ばせばいい。自分の良いところを伸ばせれば、それが成功なのだと思う。
 千葉大学での飛び入学の入試問題に小論文があった。これはいいと思う。暗記ばかりでなく、いろいろ考え、その考えが正しいのか、どうしてそう考えるのかを示すことは大切なことだ。
 ただ、飛び入学をはじめる理由が、日本の数学や物理が世界におくれるからというのだとしたらやめてほしい。そういうことよりも、飛び入学・飛び級をはじめることで、どのように私たちに役立つかを考えてほしい。

●優れた才能を持っているのに、年齢にとらわれて退屈な勉強をするのだとしたらかわいそうだと思います。信じられないことに、勉強がすごくできて、勉強するのが楽しい、好き、もっとやりたい、なんて人が世の中にはひとにぎりでもいるのです。私には考えられないことですが、そういう人は飛び級でも飛び入学でもすればいいと思います。
 多くの学生は「勉強は嫌いだけど、将来のためにしないわけに行かない」くらいにしか考えていないと思います。普通、そうです。だから、嫌いでもせめてテスト勉強だけはしなきゃやばいという状況で、それはしかたのないことだと思います。
 そんな中で自分から学びたいという意欲のある人は貴重な存在です。ひとにぎりでもそういう人がいるのなら、その意欲や才能を伸ばしてあげた方がいいと思います。

●とても良いことだと思います。
 人はそれぞれ能力の違いがあります。できる人は速く、できない人はゆっくりと、自分のペースに合わせて進んでいけばいいと思います。
 わかってもわからなくても同じペースで先へ進んでいってしまうような学校の授業は間違っています。みんながそれぞれ自分のペースや能力に合わせてしっかり教育を受けられるのが、本当の教育だと思います。

●自分のクラスに年下の子が飛び級でいることを想像すると、ちょっと抵抗を感じる。
 でも、時間がたてば慣れるだろうし、仲良くなれると思う。
 だから、どうせ飛び級をするなら数学と物理だけでなく、もっと広い範囲でやったらいいのにと思います。

●日本の学校では、「みんな同じ」を考え方の基本にしているけど、これでは一人一人違った才能は伸ばせません。一人一人違う才能や個性を認めずに、無理にみんな同じにしようとするから、いじめもおきるのだと思うんです。みんな人それぞれでいいと思います。
 日本はまだまだ考え方がかたい。そういう日本のやり方を変えるために、飛び級は必要だと思います。数学・物理だけでなく、もっと様々な分野へも広げていった方がいいと思います。その方が自分の好きな仕事にはやくつけるし、生きがいも見つけやすくなると思うんです。
 もし、飛び級をはじめて社会常識のない専門バカが増えたとしたら、そのときに対応を考えればいい。それに社会常識がないとしても、そういう専門知識のある人たちによって、新発見や進歩がもたらされるとしたら利益の方が大きいと思います。
 ひとにぎりのエリートを伸ばすのは学校ではなく、塾や専門学校がやれば良いという批判がありましたが、優れた才能を伸ばすのにわざわざお金を払って塾へ行かなければならないというのは間違っています。そういうことこそ学校の役割だと思います。
 同時に、勉強がわからないまま進級していくというやり方も良くないと思います。大人になってから大変だし、先へ進んでますます授業もわからなくなって本人もつらいだろうし。だから、留年も取り入れていいと思う。ひとクラスに色々な年齢の子がいたら、それだけ色々な見方や考え方ができるだろうから、かえって学校も良くなると思う。同じクラスにおじいちゃんがいたら、授業中に戦争の体験談とかも聞けるだろうし、結構おもしろいと思います。
 慎重になるのはいいけど、なりすぎると何も新しいことはできません。とりあえず、飛び級・飛び入学をやってみて、そこからまた考えていけばいいと思います。そのとき、また違った日本が見えてくるかも知れません。

●飛び級・飛び入学はもっと色々な分野に広げていった方が良いと思います。
 才能があっても眠ったままにして、伸ばすことができなければ意味がないからです。
 才能は一人一人違うし、誰もが持っているものではありません。そういう貴重のものなのだから、どんどん伸ばしていくべきだと思います。
 現在、日本の小中学生の学習能力は、昔とくらべて明らかに下がっていると聞きました。昔より塾へ通っている子が多いにもかかわらず、学習能力が下がってきているのはやっぱり学校に原因があるのかなと思います。このまま今までのようなやり方をつづけていれば、ますます下がっていくはずです。そのためにも、飛び級や飛び入学のような学習方法を取り入れるのは良いことだと思います。

●飛び入学・飛び級はあった方がいい。
 ただ、専門知識だけあって常識のない人が増えるのはこまる。だから、専門分野だけでなく、バランス良く幅広い能力があれば飛び級ができるというしくみにするといいと思う。それに、飛び入学した人はまだ子供の部分があるだろうから、予備校や予備学年で慣らしておいてから入学すればいい。
 また、飛び入学のものをまわりが特別扱いしたり、仲間外れにしたりするとノイローゼになってしまうかも知れない。この問題は難しい。まわりと自然に仲良くしていくしかないと思う。そのためにもカウンセリングルームはあった方がいい。悩みを相談できるところがなくなってしまうと、どんなに能力のあるものでもつぶれてしまう。
 だから、飛び入学や飛び級は進める確率をあまり高くしないで、慎重にやっていくのがいいと思う。

●日本でもどんどん広げていった方が良いと思います。
 ただ、小中学校は必ずきちんと卒業して、それからなら、高校をとばして大学へ行ってもいいと思います。そうやって自分の得意な分野を伸ばしていって専門家になる……そういうしくみがあっても悪くないと思います。
 これからの社会は「サラリーマン」とか「銀行員」ではなくて、専門知識があって資格を持っている人が必要とされるはずです。
 それに、未来の社会では公害や汚染物質の問題もひどくなっているだろうし、そういうことを解決して豊かな未来をつくっていくためにも、若くて優秀な科学者が大勢必要になるはずです。
 だから、今のうちからどんどん飛び入学で若い才能を伸ばしていけばいいと思います。

●日本の学校は画一的な教育で、みんなを同じにしようとするから、どんなにその人が優れていたとしてもその才能を伸ばすことができない。その人その人にあったことを教えていけば、勉強ができる人もできない人も授業に退屈しなくなると思う。
 あと、勉強ができなくてもとにかく3年間学校に通えば卒業させてしまうという日本のやり方はあまりいいことではないと思う。わからないまま卒業してしまえば、後々、社会に出て働くときや自分の子供に教えるときなど困ることになる。そういうことにならないよう、ゆっくりとでもいいから自分のペースでマスターしていってほしい。そうやってやりとげれば、とてもいい気持ちになるだろうし、心も成長すると思う。そういう中で友達や教師との交流も深まっていくはずだ。

●アメリカの学校とくらべると、ぜんぜん向こうの方が進んでいて、けっこういいなーとか思ったりした。向こうの学校みたいに、悩みを聞いてくれる人がいたらいいと思う。ただ、自分のまわりに飛び級の人がいっぱいいたとしたら、自分だけ取り残されていく感じがして、嫌だなとも思う。

□ 飛び入学・飛び級に反対

●授業の時、先生に「もし同じクラスに年下の子が飛び級で入ってきたらどうする?」ときかれたとき、私は嫌だなと思う方に手をあげました。理由は、そういう子に「むかつく」「生意気」と感じたからです。私も含めて、勉強が得意でない多くの子はそう思うはずです。それに、そういう多くの子は飛び級の子が入ってくれば、勉強に対する意欲をなくしてしまうと思います。
 飛び級が一般化すれば、できる子とできない子の差が広がり、いじめをはじめとしたいろいろな問題が起きると思います。ひとにぎりの頭のいい子だけ特別扱いっていうのも良くないと思います。日本の学校は「みんな同じ」で、個性が育たないかも知れないけど、それで今までやってきたのだから、アメリカのまねをすることはないと思います。

●どちらかというとやらない方がいいと思います。
 今のように高二から大学へ行けるというところまではまだいいと思いますが、これが小学校や中学校に広がってしまったら、小さい子への受験競争も激しくなるだろうし、友達関係もうまく行かないと思います。
 それに学校は勉強だけをする場ではなく、友達や先生と人間的な交流をする場でもあります。
 だから、ひとにぎりのエリートを育てるのであれば、塾や専門学校にまかせればいいことで、学校でやる必要はないと思います。

●勉強ができて授業が退屈だからといって、飛び入学をするなんておかしいと思います。
 そんなにあせらずにみんなと一緒に勉強すればいいと思います。自分の夢に一直線というのはいいと思いますが、飛び級はやりすぎです。自己中心的な人になってしまうと思います。それに、年下の子がクラスに入ってくればまわりも面白くないだろうから、いじめなどの問題もでてくると思います。
 飛び入学をすると自分の人生が短くなってしまいます。
 高校時代も中学時代も人生に一度しかないことです。私は飛び入学をするより、今を大事にすごしたいです。飛び入学なんてする必要ないと思います。

●やらない方がいいと思う。
 学校は学ぶためにあるとか、大学に入るためにあるとかいうのは間違いだと思う。
 色々な人と知り合ったり、色々なことをやったり、クラスで協力したりすることも、大切な学校の役割だし、個性を育てることにもなる。
 「画一的な授業では個性が育たない」というが、そういう中でも色々な性格がでてくる。これも個性だと思う。(それに個性はいいことばかりではない。悪いことも個性だ。)
 数学や物理だけ天才でもしょうがない。それ以外何も知らなければ、所詮、ばかだ。
 それに、飛び級が一般化されると、親の勝手な英才教育がエスカレートして、幅広いことを学ばなければならない大事な時期が失われてしまい、ゆがんだ子供になってしまう。理数系ばかり勉強して、コミュニケーションができない人間になる可能性もある。
 今の日本の学校では、勉強のできない者はやる気をなくし、できる者は退屈というのはおかしいと思う。
 誰にだって得意不得意はある。それが役に立つかどうかは別にして、誰にでも取り柄はある。ひとつの分野が得意なひとにぎりの人たちを特別扱いするというのは差別だと思う。飛び級が一般化すれば、「ばか」と「秀才」とをはっきり分けることになる。今でも受験競争は激しいのに、ますます激しくなって、ストレスが大きくなる。
 それに有名な物理学者は、飛び級で才能を育てられて天才になったわけではない。ニュートンはリンゴが落ちるのを見て重力を発見したように、ふだんの生活の中で不思議だと思う心を育ててきたのだ。そういう心は、色々な分野を学んだり、興味を持ったりして育つものだ。
 アメリカ人にノーベル物理学賞受賞者が多いのは、単純に飛び級のせいではなく、アメリカならではの自由があるからだと思う。
 日本は日本ならではの平等な社会を大事にするべきだ。アメリカのまねばかりしないで、日本らしい文化を大切にした方がいい。
 ただ、高2くらいからの飛び級はかまわないと思うけど。
 長くてすまん。

●勉強のできる人を先に大学へ行かせるというのははっきり言って差別だと思う。
 みんな同じにしっかり高校3年までやってから、大学へ行った方がいい。いそいで大学へはいる必要はない。ひとつの科目だけできても、他はだめで社会常識もなかったら何にもならないと思う。
 それに、違う年齢の人たちと一緒に授業を受けるのはプレッシャーもあるだろうから、才能を伸ばして新発見をする前にプレッシャーに負けてつぶされてしまう可能性もある。そうなったら何にもならない。
 外国で飛び入学をやっているからといって、日本がまねをする必要はない。

●日本の画一的な教育は変えた方がいい。でも、飛び入学や飛び級をすれば本当に変えられるのかといえば、そうではないと思う。
 確かに、飛び級や飛び入学によって優れた才能を持った人は育つかも知れない。ノーベル賞を取るほどの学者も育つかも知れない。しかし、だからといってみんなが生き生きとして、学校や授業を楽しめるようになるとは思えない。それは別の問題だ。学校は勉強だけをするところではないという基本的なことを大人は忘れているのではないか。
 千葉大学の飛び入学の学生一人につき、二人の個人指導の教官をつけるというのはいいことだ。しかし、そういう指導は飛び入学の学生だけでなく、すべての学生にするべきだ。

●もし自分のクラスに小学生いたら嫌だし、年下の子がいっしょの勉強をしていたら僕はやる気をなくしてしまいます。
 逆に、もし自分が飛び入学することになったとしても、友達関係もくずれるし、いじめられたりしそうだから、飛び入学しないで自分にあった歳の学年にいたいです。

●そんなにすぐ大学へ行っちゃうなんてつまんないと思う。
 だって、高校時代って一番楽しい時期なんだから、勉強ばっかやってないでもっと遊びたいって思う。遊んでばっかりっていうのも良くないけど、勉強しすぎっていうのも良くない。いろんなことをして学ぶことだってあるんだから。

●これは頭のいい人にしか得はないじゃないですか。
 勉強のできない子に嫌な思いをさせるだけのものだと思います。
 それに親もますます「勉強勉強」とうるさくなってしまう。
 学校は勉強ができるようになるよりも、他人を思いやる心を育てることの方が大切だと思う。
 勉強ができるというだけで上の学年へ進んでしまったら、その人は自分よりできない人たちを見下してしまうのではないでしょうか。

●僕はやらない方がいいと思います。
 たとえ勉強ができても、オウム真理教に信者みたいに社会常識がなくて、変な人が増えたら困るからです。学校は勉強もやるけど、人と人との接し方とか、社会常識とかも大切なことだから、そういうことができないのに勉強ができるというだけで飛び級させるのはだめだと思う。

□ その他

●飛び入学には良いところも悪いところもあると思います。だから、やっても良いという気もするし、やめた方がいいとも思います。こういう問題は、政府の人だけで決めるのではなくて、日本は国民主権の国なのだから、国民全体で賛成・反対の投票をするのが良いと思います。政府が飛び入学の良い点や問題点、それに外国での状況といった資料を国民に見せて、話し合ったりして、そのうえで投票で決めればいいと思います。

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