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2000

■ A piece of moment 1/10 

 気がついたら正月も終わっていたけど、まあどうでもいいや。地球が一周したからといって何だってんだ。


■ A piece of moment 1/11 

 ひさしぶりに友人と映画へ行く。「ファイトクラブ」。ブラッド・ピットのマッスルボディに「奥様、まあ、ステキ」の世界かと思って期待していなかったら、案外まとも。毒の多いパンクなおとぎ話という感じ。映像のテンポも良い。慎重に計算されたラフな作りがあざといといえばあざといけど、引き込まれた。

 心を病んでいる人、多いし、あの神経症の主人公を見て、自分に重ねてしまう人もけっこういるんだろう。妄想が暴走するかどうかは別にして、あの程度の病み具合をかかえている方が現代人らしい感じがする。でも、病んでいる自分にシリアスになるのはみっともないから、病んでる自分を笑ってしまおう。昨日読んだ芥川の「歯車」に違和感を感じたのはそういうシリアスさで、その点、映画のほうは主人公の病み具合がそのままブラックジョークでナイスでした。友人とげらげら笑いながらみる。


■ A piece of moment 1/14 

 山崎努が卓球をやっているサッポロビールのCMが最近のお気に入り。豊川悦司のうしろでひっくり返っている姿がいしいひさいちのマンガみたいだ。


■ A piece of moment 1/15 

 4日前にPCが壊れる。映像がまったくでなくなった。ビデオカードを交換したのに直らない。試行錯誤の末、PCではなくモニターが壊れていることが判明。修理の間、メーカーから代わりのモニターが送られてくることになり、ようやく昨日、再起動する。コンピューターが使えないことがこんなに不便だとは思わなかった。これではハイテク依存症そのものですな。で、こうしてまとめてメールやらwebサイトやらを書いているしだい。PCは部品が多いだけに、壊れたときに何が原因か突きとめるのに一苦労する。今回は無駄に新しいビデオカードを買ってしまったことが悔やまれる。おまけにビデオカードを新しくして、システムの設定が変わってしまったため、音声が出なくなる。ハードで苦労するのはもううんざりだ。

 再び風邪をひいてダウン。この冬、3度目の風邪ひき。こうなると風邪をひいてげほげほやっている状態こそ正常という気がしてくる。見舞いのメロン、歓迎。


■ A piece of moment 1/17 

 スーパーでネギトロを買ってきて食べるが、風邪で舌がしびれて味がわからない。すごく損した気分。


■ A piece of moment 1/21 

 ウッディ・アレンの映画の露悪趣味にが好きだ。登場人物たちに投影された自分の情けなさやだらしなさをあばきたてて、自虐的な気分に陥る一方で、「そんな駄目な人たちが愛おしい」という視線をもっていることに。


■ A piece of moment 1/23 

 友人と「海の上のピアニスト」を見る。前半好調、後半退屈。帰りのクルマの中で、友人と映画の解釈が大きく食い違うことが判明。友人はあれはピアノの才能がある人間がたんに船の中で生まれ育っただけの物語だという。えええ、どうしてそうなるの。解釈をめぐって、あれこれ言い合いながら帰る。主人公は海の上で生まれ育ち、陸での生活を経験したことがない故に、実人生をもたず、一種の幽霊のような存在として人々の心を見通すことができ、それをピアノで自在に表現できる。だからこそすべての人を一人一人魅了することのできる神のような音楽を奏でる。そういう特殊能力を持ってしまった人間のおとぎ話。だからこそ、主人公は「海の声」を聞くことができないし、船から下りることができない。違いますか?映画観た方、あなたの解釈、聞かせてください。

 退屈だった理由は音楽が「聞こえてしまう」こと。すべての人を魅了する特別な感覚をもった主人公が奏でる音楽なのだから、いままでに聞いたことのない神の音楽でなければならない。にもかかわらず、映画から聞こえてくる音楽はたんなるよくできた音楽にすぎない。これは実際に音がきこえてくる以上そうならざるを得ない。主人公のピアノからは音楽が聞こえてくるべきではないのだ。中途半端な音楽が聞こえてきた途端、「なんだ、こんなもんか」と白けてしまう。映画自体は退屈だったが、帰りの車での会話は充実する、そんな映画でした。


■ A piece of moment 1/24 

 演習授業でアフリカの地雷地帯のビデオを見る。ビデオの冒頭で、若い母親が地雷を踏んでしまい、設備の整っていない粗末な病院にかつぎ込まれてくる場面がある。骨と筋肉を破壊され、彼女の左足は膝から下を切断することになる。骨鋸が骨を削る音、病院の廊下で泣いている5人の幼い子供たちの声。手術は1時間で終わり、全身麻酔から覚めた若い母親は5人の子供たちに対面して最初の第一声でこう言う。「ちゃんとご飯は食べた?」。その言葉を頭の中で反芻する。

 本当に美しいものは日常の中のささいな言葉や何げない仕草にこそあるのではないか。日々の暮らしの中で、そうした美しい言葉や仕草にふれることができれば、他には何もいらない。小説も映画も不必要だ。私たちは日常の中でそれらにふれることができず、感じとることができないからこそ、創作された美しさを求める。芸術至上主義など笑わせる。私たちが何かを表現したいと思い、表現されたものを味わいたいと思うとき、それは心のゆがみに由来している。芸術作品に価値を見出す社会ほど病んだ社会だ。表現者よ、傲るな。


■ A piece of moment 1/25 

 心のゆがんだ僕は今日も映画を観る。なぜか観そこねていたウディ・アレンのシリアスもの。「私の中のもうひとりの私(Another Woman)」。なんて面白いんだろうという気持ちが半分、痛いところをぐりぐりとえぐられる感覚が半分。見終わって、しばらく呆然とする。今夜はレイトショーで「セレブリティ」の予定。こうもまとめてひとりの作家のものを観るなんて学生の頃以来だ。

■ A piece of moment 1/26 

 新宿のレイトショウで「セレブリティ」を観る。相変わらずの過剰な会話と主人公の救いのなさに、私は大笑いし、友人は毒気にあてられて帰ってきました。友人曰く、「ああ、またもや歪んだ人たち総出演の救われない物語」。主人公が高校の同窓会で人生に疑問を感じてしまうこと自体、すでに行き詰まっている。そんな救われない人の救いようのない物語。ラストの「ヘルプ」に主人公の呆然とした顔がたまらん。<何にも考えていないバカな若い役者の役でレオナルド・ディカプリオが出演していた。まるで地でやってるのではないかというはまり役。キャスティングの勝利。友人によると、「タイタニック」のレオ様より100倍生き生きとして、カッコ良かったとのこと。ファンの人から見るとアレ、どうなんだろう。(カッコ良い悪いは別にして、私は彼の顔を見ると「福助」を連想する。)ところで、レイトショウだったせいか、客は計7人。私が映画館でウディ・アレン作品を見るときはたいてい客は10人以下。日本には彼の作品の固定ファンがいるって言われいるけど、本当なんだろうか。

 再び、戸嶋くんからのメール。

新 世の中の法則
1 今の流行歌が好きなやつって頭悪いのが多い。
2 歯医者の『痛かったら手を上げて』は意味なし。
  (だって手を上げても続けるもん。我慢してねとか言ってさ。)
3 自分で友達多いって言ってるやつって実は友達少なそう。
4 マクドナルドの今だけはうそ。
5 進研ゼミに入っていて頭が良いやつを見たことがない。
  (と言うか入っているやつ知らない。)
6 実はケータイ持っていても電話なんかあんまりかけない。(らしい)
7 ルパン三世の物まねはみんなふ〜じこちゃ〜んである。
8 みんなメロンパンの端っこのカリカリがうまいと言う。
9 日本のロックって貧弱。
10 さんまもキンキも大阪弁ではないのである。
ところで1月24日は僕の誕生日でした。おめでとう。
 へいへい、おめでとうな。君も救われないひとりだな。


■ A piece of moment 1/29 

 高田馬場で「アイズ・ワイド・シャット」と「季節のはざまで」の2本立て。「季節のはざまで」はたんたんと回想シーンが続く地味なフランス映画。何でこれが「アイズ・ワイド・シャット」と併映なんだろう。変な取り合わせ。「アイズ・ワイド・シャット」は中途半端で釈然としない話。夫婦だって、相手以外に性欲を感じることくらいあるに決まってる。それにことさらショックを受けるトム・クルーズも神経症的だし、見せつけようとするニコール・キッドマンも悪趣味。何より、それをことさらショッキングに描こうとする演出もいやらしい。話も中途半端。奇妙な乱痴気パーティをえんえんと描くよりも、トム夫妻のサディスティックな会話を掘り下げていった方がよほど恐いのに。

 家でビデオを見ながら寝てしまうことが多い。20分観て1時間眠り、また20分観て1時間眠り、さらに20分観て3時間眠り、ようやく残りを観て見終わる。映画の内容が面白いかどうかはあまり関係ない。その習慣ができてしまったせいか、昨日は映画館でも眠りそうになった。せっせと映画館に通っていた10代の頃は、映画館で眠るなんて考えられなかったのに。


■ A piece of moment 1/31 

 ビデオでイングマール・ベルイマンをまとめて観ている。幸せな気分。ベルイマンとフェリーニとウディ・アレンのいくつかの作品があれば、もはやこれ以上、「新作映画」など作られる必要はないのではないかという気さえしてくる。こんなにいい映画があるのに、何でみんなゴミみたいな新作映画をわざわざ観ようとするんだろう。これはたんなる好みの問題とは思えない。映画に求めているものが根本的に違っているんだろうか?それとも自らの選択権を放棄してメディアの「おすすめ」に身を任せてる人ばかりなの?

 本日、入試のため授業は休講。家でゴロゴロしながらテレビを見ている。「ゆず」の2人組をはじめてテレビで見る。髪の毛の長い方の子がかわいかった。下手だけどやけにまっすぐで人前で何かしたいっていう様子を感じた。


■ A piece of moment 2/1 

 ベルイマンの「沈黙」をビデオで観る。セリフのない長いシーン、強いコントラストのモノクロの映像、観るのに集中力が求められる作品。こちらから一歩踏み込んで画面に入っていかなければならない。するとそこに濃厚で刺激的な世界がある。緊張感を強いられるセリフのないシーンも重たい映像もすべて必然性がある。それは登場人物たちが住む世界だ。その世界を共有しない限り、あの世界は味わえない。

 独身の姉と若い妹と妹の子供で10歳くらいの男の子が汽車で旅をしている。神経質で体の弱い姉は長旅に気分が悪くなり、3人はホテルに宿をとる。若く美人で奔放な妹は姉と一緒の部屋にいることが気詰まりで、町へでていく。聡明で神経質でモラルの強い姉は奔放な妹がねたましい。自分にないものをもった妹を愛しているのと同時に憎んでいる。姉が妹の首筋に唇をはわせる場面は非常にエロティックだ。妹はそんな姉の強い思いと支配力を疎ましく思っている。妹は町で誘った男を隣の部屋につれこむ。それを知った姉はドアの外で、どうしてそんなことをするのかと泣く。姉を部屋に入れた妹は半裸で男と抱き合ったまま姉を罵倒する。姉さんはいつもみんなの中心にいて人を支配しようとする、わがままで自分勝手で傲慢だと。姉を追い出した後、妹は部屋で大声で泣きじゃくる。男はそんな妹の体をただ求めようとする。姉はドアの外に座り込んで、その様子を苦痛に満ちた顔で聞いている。姉の姿にはベルイマン自身が投影されているのだろうか。彼の映画はいつも人を追いつめていく。

 なんてことを書いていたら、鼻毛に白髪を発見。

 Webの自己紹介の写真、どうも不評だ。Webで知り合った人には「なんか写真と感じが違いますね」と言われ、10年以上会っていない学生時代の友人には「あれ、古くない?私のおぼえている顔と同じだよ」と言われる。そう、あれは学生の頃のものです。「表示に偽りあり」と言われているみたいで申し訳ない気分である。現在の私はあの頃よりも50kg体重が増え、2重あごで、額は大きく後退し、鼻に巨大なイボがあります。そんな姿を披露する日が待ち遠しいです。お楽しみに。


■ A piece of moment 2/2 

 私たちの日常は悲劇も喜劇も紙一重のなかにある。同じ行為もどういう文脈で解釈するかによって、悲劇にもなりうるし喜劇にもなりうる。ベルイマンもマルクス・ブラザースもそこで繰り広げられている行為そのものにはたいした違いはない。ベルイマンが描く緊迫した場面もやっていること自体は「あーら、グルーチョ」「まかせたまえ、お嬢さん」と何ら変わらないし、置き換えが可能だ。両者の違いは文脈の違いでしかない。そして、文脈の違いこそがその世界を決定づけ私たちを支配する。本当に悲しいことも、本当に恐ろしいことも、本当におかしいことも文脈のなかにある。最愛の者の死ですら、描きようによっては喜劇になりうる。だからこそ、物語の作り手はどういう文脈で出来事を読ませるかを考える。その文脈を紡ぐことができれば後は自ずと物語は転がっていく。現実の世界には文脈は存在しない。ニュートラルな状態で物事はただそこに在るだけだ。文脈は私たち一人一人の心の中にのみある。だからこそ私たちは同じ出来事を体験しているにもかかわらず、ある者は笑い、ある者は怒り、ある者は泣く。

 再び、自分が見る夢のことを思い出す。夢の中ではいつも音楽が鳴っている。そして音楽が夢を支配している。夢のなかで、何が起きたかよりもどういう音楽が鳴っていたかで夢の印象は決まる。単純だけど絶対的な支配力のある曲が繰り返し聞こえていて、夢の中の世界はその曲に合わせて動いている。人々は曲のリズムにあわせて歩き、車や電車も走る。曲にあわせて喜んだり、悲しんだり、楽しくなったり、恐くなったり、おこったり、さみしくなったりする。それは私たちが「現実」と呼ぶこの世界でも同じことだ。

 良いポップソングには、気分を解放するのとシリアスに気持ちを追いつめていくのと2通りがある。今日は急所をぐりぐりつかれて気持ちを追いつめられたい気分なので、ビョークを買おうとレコード屋へ行く。国分寺・新星堂レコードに入ると入り口一面に椎名林檎。いつの間にこんなに売れたの?平積みのシングルがケース3面をずらっと占めていて、プロモーションビデオまでかかっている。確かに最近の曲いいもんね。中学生ちゃんから宇多田ヒカルについていけないロックおじさんたちまで好評だし。きっとレコード会社も全面的にプッシュしてるんでしょう。ただレコード会社の「仕掛け」の匂いがしてしまって複雑な気分。ラジオでいっときよくかかった「本能」はインパクトがあって、あれがかかるとはっとさせられたけど。

 ついふらっと彼女の1stアルバム「無罪モラトリアム」を買ってしまう。家に帰って聞く。うむむ。いまひとつ。音が薄い。ポップだけど最近の曲とくらべると間延びした感じ。もっと刺激的にきりきりと追いつめられたい気分なのに。抜き身の刀みたいなむき出しの感情と衝動を期待していたんだけど意外と叙情的でほんわかムード。デビュー当時はこういう感じだったのか。例の巻き舌と張り裂けそうな歌い方もまだ抑えめ。最近立てつづけにでた曲の「過去も未来もいらない、確かなのはいまだけ」というレオス・カラックス的な刹那的な生の暴走はまだ奥に隠れている感じがする。ただ、逆にこういう曲を聴くと中学生にも人気があるのがわかる気がする。彼女、まだ21かそこらだし、こういう側面があったほうが当然だ。そのことを考えると最近の曲はきっと自分を追い込んでつくっているんだと思う。たいしたもんだ。70年代ロックを経験してきたロックオジサンたちが彼女を偶像化したがるのもわかる気がするけど、こういうテンションで音楽をやり続けるのはすごくしんどいだろうと思う。なんてことを考えていたらどんな人なのかちょっと気になってきた。もうすぐでるらしい2ndに期待することにする。ビョークは品切れで手に入らず。フランク・シナトラの「ニューヨーク・ニューヨーク」を買う。ああ、これこれ、この音。なごむなあ。あれれ、なんだか結局、なごんでしまった1日だった。


■ A piece of moment 2/3 

 高校での授業は相変わらずジャングル状態。半分くらいの連中がケータイいじってやがる。ああ悪夢。自分の授業がものすごくつまらないように思えてきて悲しくなる。でも、おもしろいも何もハナシ聞いてくれないことにはどうしようもないしなあ。義務教育でもないのに退場を申し渡せないのがもどかしい。美空ひばりがリサイタルのとき、せんべえかじってる客をつまみ出したのを思い出す。教頭から来年度の講師も依頼されるが丁重にお断りする。これ以上やると芸が荒れるぜ。

 ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」を10年ぶりに観る。以前観たときよりずっと良かった。まだ若かったナスターシャ・キンスキーが美しかった。


■ A piece of moment 2/5 

 ネコは子供の集団が嫌いだ。子供たちが乱暴に自転車を走らせてくると体を緊張させる。

 ネコは若い男の子の集団が嫌いだ。彼らが大声で話しながら大股で歩いてくるののを見るとそおっと後ずさりする。

 ネコは若い女の子の集団が嫌いだ。彼女らがかん高い声で「きゃーかわいい」と言いながら近づいてくると視線を合わせないようにして逃げ去る。

 今日はゆっくりと国分寺を散歩して、数冊の本と2枚のCDを買う。CDはプリテンダーズのデビューアルバムとビョークのリミックスアルバム。途中、喫茶店に入り、うつらうつらしながら古本屋で買った本を広げる。古ぼけてどっしりとしたつくりの喫茶店で、店内は古いソウルがかかっていて、常連らしいカメラマンのおばさんや劇団員らしい金髪のおねえさんが店員のおねえさんと「今度のライブ」の話をしている。そんな中央線沿線によくある喫茶店。

 久しぶりにネコのポン太に会う。彼女は大きくて物静かで器量良しだ。白と茶色のブチの毛並みはいつもきれいに手入れされている。ポン太は塀のかげに丸くなって、いつもひっそりと道行く人を眺めている。丸くて大きくてなめらかな顔は優しげで優雅だ。ゆっくりと静かになでてやるとうれしそうに目を細める。おだやかなポン太の顔を見ていたら、自分が彼女になでられているような気分になった。

 家に帰ってプリテンダーズのなつかしい「Kid」をくり返し聴く。いい曲だなぁ。僕は高校生のとき、この曲をエヴリシング・バット・ザ・ガールのカバーで知った。優しくて印象的なメロディ。
Kid what changed your mood / You've gone all sad so I feel sad too / I think I know, some things you never outgrow / You think it's wrong / I can tell you do, how can I explain / You don't want me to / Kid, my only kid / You look so small, you've gone so quiet / I know you know what I'm about / I won't deny it / But you forgive, though you don't understand / You've turned your head / You've dropped my head / All my sorrow all my blue / All my sorrow / Shut the light, go away / Full of grace, you cover your face / Kid, gracious kid / Your eyes are blue but you won't cry / I know angry tears are too dear / You won't let them go / Oh oh oh oh, oh oh oh, oh oh oh

機嫌をかえた愛しい我が子/君が悲しそうだといつも私も悲しくなる/君が決して大きくならないように考えてしまう/でもそれは間違いだって君は思っている/私は君がすることを言うことができるよ/君は私に求めてないかもしれないけどね/愛しい子よ、私の愛しい子/君はとても小さくて、いつもすごく物静か/君が私について知っていることだってわかっているよ/それを否定しようとはしない/でも君は許してくれる、たとえそれを理解できないとしても/君は頭を振り向け/君は私の頭をぶった/私の悲しみのすべて、私の憂鬱のすべて/私のすべての悲しみ/灯りを消して立ち去る/気品に満ちた君の顔/愛しい子よ、気品に満ちた私の子/君のブルーの瞳、でも君は泣かない/私は怒りの涙が貴重すぎることを知っている/君は放り出したりしないだろう/ああ、愛しい我が子よ、ああ
 今回、歌詞を訳しながら聴いてみて、この曲、プリテンダーズのクリッシー・ハインドが彼女の子供にあてて歌っている歌だってことをはじめて知りました。パンクママが幼い子へ送る愛の歌という感じです。現実の子供を見てもちっともかわいいとは思いませんが、歌からは子供への愛しさがつたわってきます。ふと、干刈あがたが自分の息子たちをモデルに書いた小説やエッセイを思い出しました。

 ふたたび戸嶋くんから。

 最近気づいた法則、もしくは日記。
1 頭が悪いやつで家では真面目な本を読んでいるよな〜んて言っているヤロウは実は本を読んでいない。
2 カレーやシチューのCMでおたまにルーを入れている場合がありますがなぜかおたまの下側がルーで汚れていない。
3 スポーツなどはできないやつほど詳しいことが多い。マニアックですな。すごく嫌われるけど見てると笑えるタイプの人間です。
4 ポケットに手を突っ込んでいることが多いやつはナルシストの気がある。(そこの君のことだよ!そう、君!直したほうが良いぞ!)つまりカッコ付けってヤツですよ。
5 まえ学校で小説をもってきて読んで良いよって取り組みをしているときになんと刑法の本を持ってきたやつがいた。
6 高校志望の動機で本当にこの高校でないといけないなんて理由があるやつなんかいるはずないだろ!

■ A piece of moment 2/6 

 町をぶらぶら散歩しながら、本屋で立ち読みをする。倉多江美の「お父さんはいそがない」の連載が「ビックコミック」から「プチフラワー」に移って再開しているのを発見する。それにしても彼女の乾いた絵柄はどの雑誌に載っても違和感がある。そのページだけ別世界という雰囲気になる。倉多江美がフランス革命を描いた「静粛に、天才只今勉強中!」はお気に入りのシリーズ。ジョゼフ・フーシェをモデルにした主人公のコティは、後半、冷酷で計算高い政治家の側面が全面に出て読むのがつらくなってくるが、前半の修道院で教師をしていた頃の彼は飄々として実にいいキャラクターだ。ガリガリにやせた彼がだぶだぶの僧服を着て、スタスタと歩いていく様子は大学時代に教わった柴田元幸を連想する。当時の彼は、まだ若く無名で今みたいにたくさんの翻訳を出してはいなかったけど、本当に知性で輝いて見えた。あの時、僕ははじめて世の中には本当に頭のいい人というのが存在するんだということを知った。教師なんてバカばっかりだと思っていた当時の僕には、それくらい彼の講義は衝撃的だった。彼の乾いたユーモアも、的確でテンポのいい語り口も、次々とアメリカのポップカルチャーを紹介していく手際の良さも完璧だった。その後の十数年で次々と翻訳を出し、アメリカ現代文学の紹介者としてリーダー的存在になっていく要素はあの時にすでにそろっていた。ときどき、また、柴田先生の講義をききたいなと思う。

 ビョークの4枚のアルバム(Bjork "Debut" "Post" "Telegram(Remix)" "Homogenic")をまとめて聴いている。電子音を使った重たいビートとテンションの高い彼女の歌に意識の深いところへずぶずぶと引きずり込まれていく感じがする。そこには鮮やかで生々しく残酷で爛熟してむせかえるような世界が広がっている。自分の抱いている現実認識が拡大させられていくような感覚をおぼえる。ただ、刺激が強くて緊張を強いられるため、まとめて聴くとぐったりする。その感触はピーター・グリーナウェイの映画を観たときに似ている。彼の映画が好きな人にはお勧め。歌は抜群にうまい。あれだけ自在にシャウトできて自在にテンションを上げることができてあの声の持ち主ならばどんな音楽でもやってみたくなるだろう。実際、2枚目、3枚目と新しくなるにつれてやりたいようにやっていく様子がつたわってくる。自分の望むことをやってそれが熱狂的に受け入れられるという表現者としてもっとも幸福なパターン。お気に入りは2ndの「ハイパーバラッド」。すごい。ところで、ジャケットのアートワークって、ミュージシャンが売れるにつれてカネのかかった凝ったものになっていきますね。CGがいい感じです。

 晩方から友人と映画。「シックスセンス」。ひどかった。どこが第六感なんだ。お化けが「見える」だけじゃないか。いきなりゲロ吐いてる少女が出てきたり、血まみれのおばさんが出てきたりして驚かされるだけ。ドリフのお化け屋敷じゃないんだからさ。全体的に田舎の遊園地のお化け屋敷を連想する安っぽいつくり。くり返し大きな効果音で観客を驚かせる常套手段にもうんざり。なにより映像と演出が一本調子で微妙なニュアンスがないため、現実感覚がゆさぶられることがない。この手の超常ものの映画は見終わったあとで自分の現実感覚がゆさぶられるような不安感を感じるようでなければダメ。そんなただの血まみれお化けが出てくるだけの映画。帰りの車で、僕は映像がひどいと言い、友人は脚本がダメと言いあう。「やっぱりブルース・ウィリスはハダカになってムンムンいわせて欲しいわ」。確かにストーリーにも無理がある。映画の冒頭で「結末は誰にも言わないでください」なんて思わせぶりなテロップが出るから、どんな仕掛けがあるのかと思いきやなんてこともなく終わる。ブルース君は生きてても死んでてもいい人だったし。あんまりあっさり終わってしまったので、僕はラストのクレジットのあとに本当の結末があるのかと思ってじっと待ってしまいました。なめるな。


■ A piece of moment 2/8 

 今日は授業のない日で、相変わらずビョークを聴いている。音楽でトリップするなんて久々の体験。彼女の歌は大きい音で集中して聴かないとおもしろくないので、聴き終わるとひどくくたびれる。小さい音でBGM代わりに聴いていると、別になんてこともない曲に聞こえてしまうところが不思議。


■ A piece of moment 2/9 

 「パリ、テキサス」とベルイマン3本を観る。ベルイマンの「野いちご」が印象的。ウディ・アレンが「私のなかのもうひとりの私」で下敷きにした作品だけど、こっちも良かった。どうもこういうモチーフに弱いな。「パリ、テキサス」は学生のころに観たときより、印象的に残った。むしろわかりすぎて観てて辛いものがありました。ナスターシャ・キンスキーはやっぱりきれいで、8ミリフィルムに映し出された映像はまるで夢の中の女のよう。若く無知で美しい妻、妻を愛しすぎてしまったために狂ってしまった中年の男、男が妻に狂ってしまうのあの映像を見ると納得する。マジックミラー越しの会話は何度観てもせつなくなるいい場面だ。ただ、あの映画は男のナルシスティックな身勝手さを感じる。そう思うとあれが心地よい自分がはずかしくなる。

 ビョークのリミックスアルバムを買う。これはちょっといまひとつ。もう少しメロディがあるほうが好みだな。ビートが利きすぎていて、2回通して聴いたらぐったり。クラブ向けってところだろうか。

 近所のレンタルビデオ屋が割り引き月間なので、まとめて6本借りる。「インテリア」「ピーター・グリーナウェイの枕草子」「キングダム1〜4」。1週間でこんなに観れるのかややスリリング。今週はCS放送で「刑事コロンボ22時間」もあるし、限界に挑戦的状況。22時間もまとめてやるなよ。仕事に影響がでそうな気配。あ、今日で私も18歳になりました。晴れてパチンコ屋も雀荘もポルノ映画館も入れます。おめでとう。


■ A piece of moment 2/11 

 このサイトがYahoo!に登録されたようで通知がくる。何だか服装チェックのあるレストランに「入れていただいた」みたいで居心地が悪い。頭の高い私としてはあまりおもしろくない。ケッ。それより、Yahoo!の検索って、キーワードは拾えないらしく、このサイトみたいなのにとっては役立たずだ。勝手に「教育−授業計画」とかいうマイナーなジャンルに分類され、ぽつんと掲載されている。教師以外に誰がこんなジャンル見にくるっていうんだろ。

 CS放送の「刑事コロンボ22時間」はどれもつい最近観たやつばかりとわかり、ちょっとがっかり。

 「ピーター・グリーナウェイの枕草子」を観る。グリーナウェイのなかではいちばん軽く乾いた感触がした。フェチは相変わらずだけど、もっと濃厚で生々しい映像を期待していたのに。彼も歳とともに枯れてきたんだろうか。「プロスペローの本」以来使われているスクリーンの中のスクリーンの手法は様式的すぎてどうもピンとこない。中の映像よりも画面のデザインやレイアウトのほうが気になってしまう。マルチウインドウがパカパカ開くのを観ていると、ちょうどこじゃれたマッキントッシュ用CD-ROMソフトを連想する。画面の中に入りにくく遠くから「鑑賞」することを強要させらてれる感じ。


■ A piece of moment 2/13 

 「キングダム」4本をまとめて観る。約10時間。話の展開のあまりの遅さに臨死体験状態。ブラックなジョークは笑えるけど、オカルト趣味とフリークスたちのだらだら続くエピソードにうんざりする。どうもこの手の苦手みたい。オカルトもので気に入っているのは「エンゼルハート」くらいだし。「エクソシスト」も恐かったけど、あれはもう恐いばっかりで。で、ようやく4本目で終わるのかと思えば、「To be continue...」。ひええー、助けてくれー。夜、友人宅でカレーをごちそうになる。食い過ぎて再び臨死体験状態。吐きそう。


■ A piece of moment 2/15 

 "Kid"の入っているEverything But The Girl のCDを探しているが、どこの店にも置いていない。友人から借りてきた10枚のCDにもなかった。"Love Not Money"の後ろのほうに入っていたはずなんだけど。それにしても、トレーシー・ソーンはいい声だ。特別うまいわけじゃないけど、温かくて落ち着いていて何ともいえないいい声。彼女が歌うとどんな歌でも生々しい出来事が遠のいて「昔々こんなことがあったのよ」という調子で話しかけられているような気分になる。とくにカバーナンバーがよくて、"Time After Time"とか"Alison"はオリジナルよりいいくらい。やっぱり、オリジナルの印象とは違って、おばあさんの昔語りを聞いているみたいな感じ。「むかし、私が若かったころにね」って。思い出は遠ざかるほど甘く優しい。

 ところで、ときどき見知らぬ人からメールをもらうことがあるが、同業者からは皆無で、たいてい学生のころは教師が嫌いでしたという人ばっかりだ。で、最近思うんですが、なまじ教師はいい人がやるべきではないのではないかと。どんな授業をやったところで誰もが楽しくて満足するなんてことはありえないわけだし、どうせ嫌われるんだから、若い人たちの嫌悪のまなざしに耐えられる鉄仮面のようなパーソナリティの持ち主の方がいいような気がします。感受性が強くて心のゆれがみえる人が教師をやっていると、教師をやっていることが気の毒に思えてきます。生徒からまで「センセーも大変だね」なんて同情されてしまったりして。よくテレビでタレントや学者が二度と引き受けたくない仕事として成人式のスピーチをあげている。ハタチの人々のあまりの態度の悪さに、江本孟紀が「この田舎っぺ!」と罵ったとか、吉村作治が怒って途中で帰ってしまったとか、筑紫哲也が「二度とやりたくない」とニュース番組でぼやいていたとか、例をあげればきりがない。そもそも「成人式」自体が滑稽で形式的なイベントだ。だから、そこでのスピーチが形式的なものでなく、自分の内面からでた思いを自分の言葉で伝えようとすればするほど、話し手は屈辱的な思いをするだろう。教師は学校やクラスによっては、1年365日それと同じ体験をくり返している。そういう場でむき出しの傷つきやすい自我をさらしながら授業をしていたら精神的にまいってしまうのは事実だ。ベテランの教師に仮面をかぶったように心のゆれがみえず独善的で言葉が通じない人が多いのも、自己防衛本能がつくり出したパーソナリティではないかと思う。やはりそれは職業病の一種にみえる。


■ A piece of moment 2/16 

 国分寺の喫茶店で、半年ぶりに母親に会う。一緒に暮らしていたときは日々いがみあっていたのに、久しぶりに会った母親はやけに上機嫌で会えたことを喜んでいた。思い出は遠ざかるほど甘く優しい?。ふ〜ん。

 国分寺のレンタルビデオ屋が引き続きサービス月間なので、今週もまとめて6本借りる。以前観たものが3本、新作が3本。レコード屋でエブリシング・バット・ザ・ガールの"Acoustic"を買う。これこれ、この音。エブリシング・バット・ザ・ガールは最近のナンバーみたいにアレンジに凝ったものより、ベン・ワットのギター一本で、トレーシー・ソーンの歌を前面に出した方がずっといい。それにしてもいい声だなぁ。ついでに駅ビルによって服をみたかったが本日休業。なぜかいつも立ち読みしているとなごんでしまう南口の本屋によって帰る。今日はとくに発見はなし。

 最近欲しいもの  エナメル加工したブラックジーンズ。オリビア・パーカーの写真集。


■ A piece of moment 2/17 

 CS放送でトリュフォーをまとめて5本やっているので観る。どれも男と女の微妙なかけひきや機微、恋愛への情熱が描き出される。本当にえんえんとそういう微妙な感情のあやが続いて、まとめて観るとくたびれる。「日曜日が待ち遠しい」。軽くてかわいい作品。主人公が深刻にならないのがいい感じ。ラストで犯人が「私は男の世界には生きられない。女たちの感情のなかに私はいたいんだ」と叫んで自殺する。あのセリフは恋愛映画を撮り続けたトリュフォーそのものに見えました。それが彼の遺作になったというのも象徴的。「終電車」。彼にしてはめずらしく力作。ラストで肩すかしを食うのが心地よかった。あれがないと救われないよ。ジェラール・ドパリュデュー(だっけ)が若くて、カトリーヌ・ドヌーブがきれいでした。でも、なぜタイトルが終電車なの。「私のように美しい娘」。ちょっと笑えませんでした。「トリュフォーの思春期」。子供たちがあまりかわいくない。

 戸嶋くんからのメール(今回は彼の自己紹介つき)

おっす。都立の推薦は落っこちたけど、私立の併願は受かりました。ワハハハハ。俺が力を出せばこんなもんよ。

こんにちは。ぼくはとてもシャイで恥ずかしがり屋の中学三年生です。年収一千万。顔は昔せきねつとむ似ているといわれたことがあり、(小四の時)成績優秀、運動万能、品行方正のスーパーマンです。趣味はスノボーとゴルフ。いつも血統書付の雑種のベスといっしょに散歩に出かけたりします。休日は鳥の鳴き声で起き朝食はクロワッサン。どうぞよろしく。
 というわけで、自分が人間だと思いこんでいる雑種のベスからのメールでした。


■ A piece of moment 2/18 

 教室にはいると何人かの女の子たちが私の顔を見て笑っている。こっちの顔をちらちら見ながら、ずっと笑っている。訊くと、腹話術のいっこく堂に似ているという。似てるって言われてもなぁ。返事に困る。どうせ似てると言われるなら、サバのみそ煮缶とか5ミリ径圧着端子とか目玉クリップとかに似てるって言われたほうがうれしいのに。ところで、いっこく堂氏は2年前にニュースステーションに出演しているのを見ました。大汗をかきながら懸命に「芸」をしている様子が痛ましくて見ててつらかったです。芸が上手いとか下手とかいう以前の問題で正視できませんでした。その後名前を聞かないけど、最近売れているんだろうか?

 先週、"スクリーミン"ジェイ・ホーキンスがパリで亡くなった。一時期、彼は私のヒーローだった。合掌。


■ A piece of moment 2/19 

 アラン・タネールの「白い町で」。10年ぶりに観る。すごくいい。ブルーノ・ガンツが演じる中年の男がリアルだ。
 男はまだ精悍で動きも機敏だがもはや若くはない。若者のように大声ではしゃいだりはしない。男は時おり人なつっこい笑顔をみせる。愛嬌のあるいい笑顔だ。ときどきカセットテープで古いポップスをかけてひとりで踊る。下手な踊りだ。ときどき部屋でハーモニカを吹く。なかなか上手い。酒場で飲み、女を買い、町をさまよう。

 男は船乗りだ。貨物船で機械工をしている。リスボンの港に下りたとき、ふと船での暮らしが嫌になりそのまま船に帰らないことにする。とくに神経質に思いつめているふうではない。何かをやろうという意志があるわけでもない。ただ、あてもなくリスボンの町をさまよい、気まぐれのように8ミリフィルムをまわし、写したフィルムを小包にして国もとにいる妻に送る。なにか意図があるわけではない。ただ送る。スクリーンに投影された映像は男の心象風景のように現実感のない白い町並みがたんたんと写されている。妻はそれを不安な思いで見つめる。やがて男は酒場で女と知り合う。若く平凡な女だ。若い女と男はあてもなく性に溺れる。男はそのことを妻に手紙に書く。謝るわけでもなく、自分がどうしたいというわけでなく、ただありのままを書く。「マリアのことを愛している。君のことも愛している」と。ただ手紙からは男のあてどない様子は確実に伝わってきて、妻はそれを痛ましい表情で読む。若い女はある日突然、そんな未来のない男を捨てて、パリへと旅立っていく。パリに何があるというわけではないが、男とのあてどない暮らしよりもパリでの未来を選ぶ。取り残された男は、えんえんとリスボンの石畳と流れていく水面を8ミリにおさめる。

 荒れた映像もかすれたサックスホンの音楽もいい。ブルーノ・ガンツの演技も絶妙だった。10年前に観たときはこんなにいいと思わなかったのに。ウディ・アレンの「私の中のもうひとりの私」とならんで、ここ何ヶ月かでみた中のベスト。


■ A piece of moment 2/20 

 「恋におちたシェークスピア」を観る。主役の男の気取ったオーバーアクションが鼻についちゃってダメでした。今にもカメラに向かって、「どう?俺の演技は」なんて言い出しそうで、映画に集中できませんでした。相手役のグェネス・パルトロウ(だっけ?)はよかったです。話題になったわりにはどうということもない、セットと衣装が一番の見どころの映画でした。

 町でやけに顔の小さい女の子を見かける。何だか不自然なくらい小さくて、ちょっと恐かった。


■ A piece of moment 2/21 

 風の強い一日。
 オートバイが風でふられて恐いおもいをする。でも、めずらしくエンジンは好調。往復3時間半の電車通勤がすっかり嫌になってしまい、このところ借り物バイクが活躍。バイクだと1時間半。東京って、山手線の内側に住まない限り、案外交通は不便だ。あんまり風が強いので晩からのお出かけは中止してビデオを観る。「ユー・ガット・メール」。
 「現実はもっとどろどろしたもんだぜ」なんて悪態をつくこともなく、よくできた脚本とアクの強くない演出で素直に楽しめました。メグ・ライアンはああいう受け身の役をやると本当にぴったりはまるんだなと感心する。かわいくてよかったです。ただ、トム・ハンクスがやけに太ってきたのは気になるところ。体型崩れてきたな。

 最近欲しいもの。
 ナイロンのコート。相撲甚句のCD(誰か持ってる人いない?)。あと、きんつばが食いたい。俺はこしあんが好みだ。


■ A piece of moment 2/22 

 「ブラス!」を観る。イギリスの炭坑町のブラスバンドの物語。よかった。大勢の骨太な人たちが出てきて、何だかやけに自分が薄っぺらに思えてくる、そんな映画でだった。この「ブラス!」、尾を引いている。こういう木訥として無骨な人たちをみると自分に引け目を感じてしまう。自分がひどく薄っぺらく見えてきて、落ち込む。現実と自分とのズレのないリアルな人間になりたいと思う。きっと母親もそういう生き方ができない私に苛立っていたんだろう。私はあなたの期待を裏切った。

John Lenon "Mother"

Mother, you had me
But I never had you
I wanted you
You didn't want me
So I, I just gotta tell you
Goodbye, goodbye

Father, you left me
But I never left you
I needed you
You didn't need me
So I, I just gotta tell you
Goodbye, goodbye

Children, don't do
What I have done
I couldn't walk
And I tried to run
So I, I just gotta tell you
Goodbye, goodbye

Mama don't go, daddy come home

母さん、僕はあなたのものだったけど、あなたは一度も僕のものじゃなかった。僕はあなたを求めていたのに、あなたは僕を求めていなかった。だから僕はあなたに言わなきゃならない。さようなら、さようなら。■父さん、あなたは僕を捨てたけど、僕は一度もあなたを捨てたことはなかった。僕はあなたを必要としていたのに、あなたは僕が必要じゃなかった。だから僕はあなたに言わなきゃならない。さようなら、さようなら。■子供たち、僕がしてきたことをやってはダメだよ。僕は歩くこともできなかったのに走ろうとしたんだ。だから君たちに言わなきゃならない。さようなら、さようなら。■母さん、行かないで。父さん、帰ってきて。


■ A piece of moment 2/23 

 ミートソースを食べようと思い、ニンニクとトマトを炒める。お湯を沸かしてさあ麺を茹でるぞという段になって、スパゲティがきれていることが発覚。なんてこった。結局、ミートソースそばを食う。まずい。ミートソースを捨てた気分だ。ジョンから電話。元教え子たちでいいから合コンしようと言い出す。「文化交流ダヨ、ムラタサン」。ばかめ。

 昨日のことが頭に残っていて、「マンハッタン」と「アニー・ホール」のウディ・アレンのキャラクターが鼻についてしまう。両方とも大好きな映画なのにタイミングが悪い。

 国分寺のレンタルビデオ屋が引き続き半額なので、フェリーニをまとめて6本借りる。「道」「カリビアの夜」「81/2」「道化師」「インテルビスタ」「そして船は行く」。最近、以前みた映画を見なおしてみて、ぜんぜん違った印象を受けることが多いので、すでに見たものも取り混ぜて借りてくる。ただ、今週は時間的にきびしいので、再び限界に挑戦的状況。ビデオ屋ですごい美女を見かける。思わず見とれてしまう。ニューハーフかもしれない。

 中学の試験問題ができる。今回は3年生の学年末試験なので、あらかじめ問題を告知しての論述形式1問。課題は核抑止論への反論。

 2年前、インドとパキスタンが続けて核実験を行い、核兵器を保有するようになりました。

 そのとき、日本のNGOの人たちがパキスタンに訪れ、地元の人たちと核兵器について話し合いをしている様子をテレビで放映していました。日本のNGOの人たちは核兵器廃絶を主張して、パキスタンの人たちに「世界中の国々が核兵器を欲しがり、保有するようになれば、いつか核戦争が起こり、人類が絶滅することになりますよ」と話しました。

 それに対して、パキスタンの人たちは口をそろえてこう言いました。
 「パキスタンは長年、インドと戦争をしています。戦争相手のインドが核兵器を保有するようになった以上、私たちにも核兵器は必要です。そうでなければ、いつインドから核兵器で攻撃されるかわかりません。核ミサイルを何発も打ち込まれれば私たちは全滅です。でも、私たちも核兵器を持っていれば、インドもむやみに攻撃はできなくなります。だから、私たちには核兵器が必要なんです。
 日本だって、第2次世界大戦の時に核兵器を持っていれば、アメリカも広島・長崎に原爆を投下できなかったはずです。それと同じことなんです。対立する国同士が核兵器を持ってバランスを保っていれば、結果的に核戦争をさけることができるんです」

 このパキスタンの人たちの主張に核兵器廃絶を支持する立場から論理的に反論しなさい。
 うーん、大学入試でも難しいかな。500字で答えよ。時間約30分。


■ A piece of moment 2/25 

 フェリーニの「道」と「カビリアの夜」を観る。イタリア人、声が大きい。まるで、でかい声で話さないとイタリア語ではないかのよう。どちらも救いのない悲しい話なのに、とことん陰気にならないのはあのイタリア語の響きではないかと思う。ジュリエッタ・マシーナが誰かに似てるような気がしてきて、しばらく考える。音羽信子だった。


■ A piece of moment 2/26 

 「81/2」を観る。14年前に一度、10年前にもう一度観ているが、どちらもあまり面白いとは思わなかった。今回もいまひとつ。映画作家の自意識垂れ流しに見えてしまう。フェリーニ自身をモデルにした主人公はすでに名声を獲得した映画監督で、まわりの映画人たちは彼の顔色をうかがい、美女たちは彼に色目を使う。主人公を演じる若いマストロヤンニはハンサムで身のこなしがスマートで、まわりの騒動にうんざりしつつ、自分の幻想に浸るという調子で、見ていて、なにいい気になってるんだという気分になる。主人公に感情移入できないと、ただの鼻持ちならないやつにしか見えない。ただ、この作品が映画関係者に人気があるのはわかる気がする。

 夜から久しぶりのバスケ。腰をひねってしまい、這々の体で帰宅。


■ A piece of moment 2/27 

 腰痛で身動きとれず。重傷。1日寝てすごす。「そして船は行く」と「インテルビスタ」を寝床から観る。役者たちの濃い顔が印象的。「インテルビスタ」は記憶にあったよりも変な映画でした。それにしてもフェリーニは内幕ものが好きだなあ。マストロヤンニの胡散臭い演技が気に入る。素のときの彼は好色でだらしない中年そのもので、酔っぱらった岡田真澄みたいだ。


■ A piece of moment 2/29 

 「慶応進学会」の女の子はAVのコだろうか。どうみても大学受験予備校のCMには見えませんぜ。

 フェリーニの「道化師」を観る。失われた道化師たちを求めるセミドキュメンタリー。ドキュメンタリーとフィクションが境目なく混ぜ合わされて進んでいく。わざと撮影スタッフの映像を入れたりフェリーニ本人が顔を出したり、いつもながらのフェリーニ節。こういうの好きねえ。そういえば、オーソン・ウェルズもこういうの好きだったけど。ともかく、ようやく6本見終わる。


■ A piece of moment 3/1 

 久々の麻雀。職場のオジサンたちとは1年ぶり。めずらしく勝つ。雀荘代払って、なお6000円の儲け。
 点5だけど、赤とチップ入りのインフレルールなので、けっこうお金が動く。あと20回くらい勝てばパソコンだって買い換えられるぞ。腰痛の日々は続く。


■ A piece of moment 3/2 

 最近、自分が劇場やライブハウスという空間が嫌いなことに気づいた。たんに出不精だから行くのが億劫なだけだと思っていたが、どうもあの場の持っている一体感やライブ感が苦手のようだ。とくに「もりあがっていこう!」という暗黙の了解事項が嫌い。別にもりあがらなくてもいいじゃない。終わったあとの「同じ体験を共有している」という仲間意識的な雰囲気も嫌い。ミニシアターや小劇場の壁にメッセージがべたべたと貼ってあるのを見ると気が滅入ってしまう。あんたたちなんかと一緒にしないで欲しい。こういう雰囲気は劇場の規模が小さくマニアックになるほど強くなっていく。不幸なことに映画も芝居も音楽も好きだから劇場に足を運ぶこともあるが、たんに作品を味わいたいだけなのだ。

 期末試験での小論文を採点している。で、生徒の文章を読んでいて思ったことは、多くの日本人にとって核兵器の問題は、合理性の問題ではなく、感情の問題というか道徳の問題のように考えているのではないかということだ。学校での平和教育の成果なんでしょうか。でも、こういう政治的問題を感情や共感の問題としてとらえると、同じ感覚を共有していいない者に対してはまったく波及力がない。典型的な例が60年代、70年代の反戦運動の「ラブ&ピース」とか「さあ、みんなで平和の歌を歌いましょう」みたいやつで、あれは同じ感覚を共有してない者には滑稽なだけだ。折り鶴を何千羽折ったところで、核抑止論の正当性を主張する者には効果はない。異なる考えを持つ者に対しては、あくまで論理の問題として語る必要がある。1+1が2であることのように、誰にとってもあてはまり、「人それぞれ」とか「好き嫌い」などの入り込む余地のない論理を示さないかぎり、合意はあり得ない。以下、生徒に配る予定のプリントより。

 ポイントは「反論」なので論理的に書くことです。
 だから、採点をするときは自分が核抑止論を信じているパキスタンの人になったつもりになって、読みました。で、この主張なら納得するというものに高い点をつけました。では、どういう主張ならば納得するかというと、どれだけ論理的で筋の通った反論をしているかということになります。

 多くの日本人にとって、核兵器は道徳や人道上の問題のようで、みんなの小論文も論理ではなく、倫理や道徳の点から核兵器を「悪」として書いているものが目立ちました。でも、こういう主張では核兵器が必要だと考えている人には通用しません。折り鶴をたくさん折ったり、平和の歌を歌ったところで、違う考えを持っている人の心には届きません。そのやり方は同じ感覚を共有している人の間でだけ通じるやり方です。

 異なる考え方を持つ人に対しては、「1+1が2になる」ように、誰にとってもあてはまる論理性を示す必要があります。「1+1=2」という論理は、「考え方は人それぞれでいい」とか「人の好きずき」というような好みの入り込む余地のないところで成り立っています。(「1+1は5が好き」なんて言えないでしょう。)それと同じように、核兵器の保有がまちがっていることを証明する必要があるわけです。

 では、具体的に核保有についての論理的な反論をいくつかあげてみると……。

● 核兵器保有によって、パキスタンは国際社会から反感を買い、貿易制裁やODA援助の停止がおこなわれる。もちろん、それを使用したら、いちだんと反感を買うことになるのはいうまでもない。それはインドに対しても同じで、もし核を使用したら全世界を敵に回すことになるので使えない状況にある。したがって、パキスタンが対抗手段に核兵器を持つまでもない。

● 核を保有して政治的なかけひきで強気に出られることよりも、国際社会での孤立というデメリットのほうが大きい。

● 互いに核ミサイルを向けあっての戦争の抑止という状況は、実際に戦争が起きなくても戦争をしているのと同じように両国民は精神的にいつも不安と緊張にさらされることになる。そのことは冷戦下の米ソの様子からも証明済みで、核攻撃を受けることの不安を抱えていた。(アメリカでは、1960年代には個人用の核シェルターが売れたほどだった。)それでは本当の平和とは言えない。

● 核兵器は非常に強力な破壊力があるので、使用すればインドとパキスタンだけの問題ではすまなくなる。だから、核兵器の問題は世界全体や地球環境のことも考える必要があるし、まわりの国の主張にも耳を傾けるべきだ。

● いったん、核兵器を保有して歯止めが利かなくなると、核武装はさらにエスカレートしていくことになる。敵の持つ核兵器は脅威で自分たちの持つ核兵器は心強いわけだから、相手への恐怖心の中で、敵よりも強い兵器が欲しくなって際限なくエスカレートしていく。そういう強力な兵器の開発には莫大なお金がかかるし、兵器の管理にもお金と手間がかかることになる。そのことは、現在のロシアの状況を見ればあきらかだ。いま、ロシアは資金難で、ソ連時代に大量に配備した核兵器をどう処分し管理するかで苦労している。

● 55年前にもし日本が核爆弾を開発していたら、真っ先に使っていたはずだから、戦争による被害が拡大するばかりで、より悲惨な歴史をもたらしたはず。

 と、主な主張はこういうところでしょう。
 こうした主張をふくらまして、筋の通った文章にしていけば、良い小論文になったはずです。

 最後にひとつ気になったことがあります。

 みんなの文章はだいたいの人が良く書けていましたが、文中に同じような言い回しが目立ったのです。さては、あらかじめ問題を告知したから、多くの人が塾か何かで添削を受けてきたのかな。だとしたら、これは自分で調べて自分のアタマで考えて書いてほしい問題だったので、少々残念。出題方法には改善の余地ありって感じです。

■ A piece of moment 3/3 

 雛祭り。だからなんだというわけではないですが、たしか今日でこのWebサイト、1周年です。けっこう続くもんだな。


■ A piece of moment 3/4 

 5年以上も前からタイトルがわからなくてずっと気になっていた曲が判明する。マイケル・ナイマンの映画音楽だと思っていたが、ポルトガルだかスペインだかのファドという音楽をやっているマドレデウスというグループのものらしい。ずっと気にしているといつかわかるもんだな。CDを買う。散歩の途中で雨が降ってくる。あたたかい春の雨だ。気分がいいので、土埃のにおいを嗅ぎながら濡れて歩く。どうして、雨の降りはじめには土埃のにおいがするんだろう。

 今頃になってウールのロングコートが欲しくなり、近所の丸井をのぞいてみる。もう冬物はほとんど残っていなくて、コートはどれも帯に短し襷に長しといった感じ。黒のテーラードのものが欲しかったが、気に入ったものは紺色しか残っていないという。もう一つ気に入ったものは7万円もする。ひとまず撤退。


■ A piece of moment 3/6 

 高校のほうの成績をつけ終わる。3学期は通年で出さなければならないのだが、2学期の途中から引き継いだために手こずる。結局、110人中16人に「1」をつける。授業をやっているときは毎回30人くらいに1をつけてやろうと思っていただけに、少し日和った気分。16人のみなさん、留年してもうらまないでくれ。あれで単位が取れて卒業できると思うほうがどうかしてるんだよ。


■ A piece of moment 3/9 

 日に日に日射しが明るくなっていく。梅は満開で、散歩をすると庭木の木蓮のつぼみがふくらんでいるのが見える。心はずむ一年で一番いい季節だ。ただし、花粉症がでなければの話。花粉症の憂鬱な日々が続く。ふと、好みと論理の違いについて考える。以下その覚え書き。

 私たちが物事を判断するとき、2通りの種類があります。ひとつは正しいか間違っているか、あるいは良いか悪いかという論理的判断で、もうひとつは好きか嫌いかという好みによる判断です。前者の代表的な例として、「1+1が2になる」という論証があげられます。「1+1=2」という論理には、個人的好みは入り込む余地はなく、誰にとっても等しくあてはまる性質のものです。この論理的判断に対して、「1+1は5が好き」とか「答えは人それぞれ」などということは無意味です。1+1の答えは2しかありえないし、論理的にそうなってしまうとしか言いようがない性質のものです。ときどき、こういう論理的な話をしているにもかかわらず、「それはあなたの解釈にすぎないでしょ」とか「そうあなたが思っているだけにすぎないでしょ」と言う人がいます。(僕の友人にはすべての物事を「人それぞれ」的な論調で考える投げやりなタイプが多くて、ときどきイライラさせられます。)そんなとき、そうじゃないんだってば、「僕が思う」とか「あなたが思う」とかいうそういうことを言っているのではなくて、誰にとってもあてはまる論理の話をしてるんだってば、と言ってもなかなか相手は納得してくれなくて苦労することがあります。でも、1+1は誰が言おうと2になるように、論理的判断は「僕が思う」とか「あなたは思う」とかとは関係ないところで成立する性質のものです。

 後者の例としては、「赤が好きか青が好きか」というケースをあげてみます。赤が好きな人もいるでしょうし、青が好きな人もいるでしょう。こうした好みの問題を「赤や青がいかに優れているか」を「論じる」ことはできません。これは「好きだから好き」としか言いようのない性質のものです。だからこそ好みは「人それぞれの判断」だし、結論などでないわけです。それを無理矢理に論じようとするのは、押しつけがましく、愚かな行為です。人の好みにははじめから論理性は介在していないわけですから、それを論じようとすることは水のないプールで泳ぐことと同じで、論証が前に進むことはありえません。

 「価値観の多様化」という言い方をしますが、これはあいまいな表現で、正確に言うと「好みの多様化」ということになります。正しいか間違っているかというような論理的判断に属する価値は結論はひとつですから、そういう価値が多様化することなどありえないわけです。一方、好みに属する価値は選択肢がふえたぶんだけ多様化していくことになります。意外と大勢の人がこの論理の問題と好みの問題とをあいまいに考えているみたいです。線引きをあいまいにしたまま両者を混同してしまうと、論じるべき事柄を「人それぞれ」で終わらせてしまったり、逆に好みの問題を論じてしまって自分がでっち上げた「結論」を押しつけてしまったりします。(実際、線引きをあいまいにしたまま話をしていると、相手がどちらの文脈で話をしているのか見失ってしまうことがよくあります。)私たちが日々「判断」している無数の事柄がどちらに属する性質のものかを見きわめるのは意外と難しいようです。


■ A piece of moment 3/10 

 今日も天気が良く、明るい春の日射しがあふれている。気分がいいので久しぶりに国立まで足を伸ばして本屋をのぞいたり喫茶店によったりして、ぶらぶらとすごす。

 ひさびさに入った増田書店はあいかわらず学術書がたくさんあって、あれこれと立ち読みをする。いつ来ても居心地のいい本屋だ。久しぶりに読む学術書は新鮮で楽しい。ぺらぺらとページをめくっているだけで、なにやら自分がかしこくなった気分。隣で立ち読みしている50過ぎのおばさんもニコニコしながらハイデガーの研究書をめくっている。ああ、たぶん一橋の先生じゃないかな、それにしてもうちの母親とえらい違いだなぁ、ああいうインテリかあちゃんのいる家庭ってどんなだろう、食事をしながらキルケゴールとイングマール・ベルイマンの相似性を家族で論じたりするんだろうかそれも鬱陶しいな、などと考えつつ、ふと気がついたら2000円もする本を2冊かかえて店の外にいた。お金はちゃんと払っていた(らしい)、よかった。ここに来ると雰囲気にのせられてしまって、つい学術書を買ってしまう。まだ読んでいない本がいっぱいあるのに。身近にあるブラックホールのひとつです。

 喫茶店でさっそく、ジャン・ボードリヤールの「消費社会の神話と構造」を読み始める。10年以上も前から読もう読もうと思ってすっかり忘れていた本だ。現代の消費社会がもたらす商品の物神性と記号化についての話。買い物と形あるものが大好きな僕にとっては大好きなテーマで、やっぱり面白い。わくわくしながらページをめくる。社会学の本全般に言えることだけど、誰もが日常的に体験していて何となく感じていることをすっきりとした言葉で表してくれることが心地よい。とくにこの本は色々なところで引用されていて、現代の消費社会について記したものとしてはすっかり「古典」になりつつあるので、目の覚めるような鮮やかな切り口はないかも知れないけど、買い物の快感の背後に広がっている構造を的確に示してくれることを期待している。現代フランス思想特有の大げさで気取った言い回しも久しぶりなせいか特に気にならなず、むしろ心地良く響く。第1章の冒頭はこんなふうにはじまる。

 今日、われわれのまわりにはモノやサーヴィスや物的財の増加によってもたらされた消費と豊かさというあまりにも自明な事実が存在しており、人類の生態系に根本的な変化が生じている。すなわち、豊かになった人間たちは、これまでのどの時代もそうであったように多の人間に取り囲まれているのではもはやなく、モノによって取り巻かれている。人間たちの日常的な交渉は、いまではこれまでと違って、むしろ統計的に増加曲線を描く財とメッセージの受け取りと操作となっている。きわめて複雑な集合住宅の内部組織とその十余の技術奴隷から電話ボックスなどの「都市付属施設」やコミュニケーションと職業活動の物的装置全体まで、いたるところにうかがわれるのもこれである。さらに、広告とマス・メディアから送られてくる日常的な数百のメッセージにおけるモノ礼賛の恒常的な光景もそうだし、いくぶん妄想を与えるようなガジェットの群がりから夢にまでつきまとう夜を彩るモノが演ずる象徴的な心理ドラマにいたるまでがそうだ。「環境」とか「雰囲気」とかいう概念がこれほど流行するようになったのは、実をいえばわれわれが他人の近くに生きるよりもむしろ従順で幻惑的なモノの無言の視線のもとで生きるようになってからである。この視線は、いつも同じ言説−−魔法をかけられたわれわれの力、潜在的な豊かさ、互いの不在などの言説−−をわれわれにくりかえしている。狼少年が狼たちと一緒に暮らすことによって次第に狼になっていくように、われわれもまたこうしてゆっくりと機能的人間になってゆく。われわれはモノの時代に生きている。つまり、モノのリズムに合わせて、モノの絶えざる連続に従って生きているのだ。
 ようするに、「私たちはたくさんの商品に囲まれて暮らしているために、人とのコミュニケーションよりもモノとのコミュニケーションの中を生きている。そのために私たち自身もまたモノに近づいている」と言っているんだけど、大げさで気取った言いまわしをしているなあ。この言いまわしが鼻につかなければ、買い物大好きな人にはこの本は楽しめるはず。

 別の本屋によったとき、店内BGMでユーリズミックスの新曲とチャラの3年くらい前のヒット曲が聞こえてきた。不思議なことにポップソングは家で聴くより街中から流れてきたほうがずっといい曲に聞こえる。


■ A piece of moment 3/16 

 卒業式を明日にひかえて、メールをくれたK君に卒業祝いの言葉を書く

卒業おめでとう。

僕は子供の頃からだらだら生きてきたので「式」というのにあまり縁がないのです。小学校の卒業文集に「生まれたときと死ぬときだけが区切りだ、それ以外に自分が生きていくことに区切りなんてない、新年が来ようが誕生日が来ようが卒業しようがどこで何していようが自分は自分だ」と書いた記憶があります。それがいい生き方なのかどうかはわからないけど、小学生の時の考え方のまま、いまだに続いている感じです。変な奴だろ。

一方で、まわりの環境がかわることを生きていくことの大きな区切りとして、節目節目を大事にする人もいます。それはどちらが正しいかという問題ではなくて、生き方の姿勢の違いというところかな。前者が長距離走なら、後者はリレーでそれぞれの自分にバトンタッチしていくということになるよね。

どちらにしても、中学校の仲間みんなとこうして会えるのは明日が最後だから、みんなの顔をよく見ておくといいよ。「式」そのものよりもそっちのほうがずっと大事だ。みんなの顔をよく見て、一緒にすごした3年間を思い出したり噛みしめてたりしてみよう。友達や好きな女の子(いるのかな?)の顔をよくおぼえておこう。それはちょっと悲しい気持ちになるかも知れないけど、きっと暗い気分にはならないはずだよ。この3年間の出来事を実感できて、これから先のことに前向きになれると思うよ。

良き船出を。
■ A piece of moment 3/20 

 日曜の夜中の「CBSドキュメント(60minutes)」はいつ見ても面白い。各レポートはどれも「ひとりの人間がこういう出来事や人物にでくわしたら」という視点からつくられていて、「社会常識」や「教養」といった高みからの物言いをしないところが良い。事実の羅列ではなく、疑問から出発して事実を追いつめていく過程がみえるところが気持ちいい。インタビューの切り込み方もいい。相手に言わせっぱなしにせずに絶妙の間合いで疑問を投げかける。ただ、テーマがこと国際問題になると、とたんに「アメリカの正義」が顔を見せはじめる。アメリカ人にとって、国際問題と国内問題とは別の次元で認識されているような印象を受ける。


■ A piece of moment 3/21 

 近所の短大にはガングロちゃんがかなりの割合で生息している。8人に1人、いや、もっといるようにも見える。お揃いのように袖口と襟にフェイクファーのついた白いコートと蛍光水色のセーターを着込み白の山姥メイクをしている。面白い風俗だ。すっかりスタイルが定着・安定化したようで制服のように見える。ここまでスタイルが定着したのはここ2年くらいだけど、考えてみれば「黒い」ことを格好いいとする感覚はけっこう古くから続いている。たぶん、80年代末に六本木のディスコで黒人ダンサーや米兵たちにぶら下がっていた女の子たちあたりがルーツではないか。とすると、山田詠美はガングロ開祖ってことになる。90年代のヒップホップの流行で全盛を極めたけどこの先いつまで続くんだろう。

 彼女たちは目立つぶん顔をしかめる人もいるけど、顔をしかめている人たちもステレオタイプの格好をしている点では変わりない。その様子は接点のない平行宇宙がたくさんあって、それぞれがその閉じた小宇宙の規範に従って行動しているだけに見える。とすればガングロちゃんも買い物袋を下げてハーフコートを着たおばさんもだぶだぶの民族衣装を着たアラブ人も接点を持たない小宇宙の住人という点では同じだ。民族的ルーツにこだわらずに、ガングロちゃんをだぶだぶの服を着ているイスラム教徒だと思えば目くじらをたてる気もしなくなる。これも一種の多文化主義ということになるんだろうか。ともかく2000年の日本では、小宇宙は細分化し続けている。


■ A piece of moment 3/22 

 知りあいが精神科に入院することになりお見舞いに行く。寝て起きての毎日でテレビも本もみる気がしないというのでヒーリング用のCDをあげる。会ったときの印象は以前と特に変わったところはないが、何もする気がしなくて寝るといつも悪夢に悩まされるという。でも、考えてみたら健全で病んでいない心なんてありえない。傷ひとつなく気力がみなぎっているような気がしている人はそんな気がしているだけだ。誰もが心につぎはぎしながら傷を修復して毎日を生きている。病とそうでないものの違いは程度の差にすぎない。人の心なんて脆いもんだなと思う。「治そうなんて思わないでのんびりしてくれば」と言って別れる。


■ A piece of moment 3/23 

 散歩をしながら本屋を何軒かまわる。雑誌はどれも椎名林檎で一色。違和感を感じる。たしかにこのところ立て続けにでたシングルはどれもいいけど大流行するタイプのポップソングとは思えない。自分を追いつめていく歌詞や音の作りは、70年代の破滅型のロックミュージシャンを連想させ、痛ましい感じすらする。まとめて聴くとひどくくたびれる。新しい曲ほど歌い方はふりしぼるような声になりギターは攻撃的な音になっている。雑誌はどれも特集扱いで、インタビュアーの思い入れの強さが目につく。きっと70年代ロックを聴いて育ったオジサンたちなんだろう。彼女の曲を聴くとそういうディープなインタビューをぶつけてみたくなる気持ちもわかるけど、21歳の女の子をそこまで追いつめ偶像化していいものかという気もしてくる。どの雑誌のインタビューにも彼女はきっちり答えていて「濃い」内容だったけど、そのことがよけいに痛ましい感じがした。自分を深読みしてくれてシリアスに理解してくれるのはうれしいことかも知れないけど、そういう周囲の思い入れに引っ張られて彼女自身がよけいに自分を追い込んでしまうのではないかという気がする。周囲の思い入れと自己演出の相乗効果、その辺も70年代的。立ち読みしながらまわりをみていると、そういう雑誌を中高生くらいの女の子たちが「ああ、椎名林檎いいよね」といいながら買っていく。すごく奇妙な光景。いったい世の中何がおきているの?


■ A piece of moment 3/24 

 花粉症の薬のせいでやけに眠い。あたりまえのように飲んでいるけどきっとすごく強い薬なんだろう。眠ってばかりでひどく生産性が悪い。食事をして薬を飲みしばらくすると耐えられないほどの眠気がおそってくる。気がつくと6時15分前、ん?午前?午後?外は明るいみたいだけど、このところ日がのびたからなあ、あ、午後か、2時間しか眠っていないのかそのわりにずいぶん眠ったかんじ、どれテレビはってどのチャンネルもみたことない番組ばかり、「ニュースセンター月面中継」「火星からの街角情報・サワラの塩焼きひと工夫」「ロボット君の時事放談・ゲスト大橋巨泉7号」「猿岩石アルファケンタウリを目指して」「シャトル発着情報2039年3月24日17:50」ってなんじゃこりゃ。


■ A piece of moment 3/25 

 アタマの前のほうに白髪が固まって生えているところがあって、そこを起点にわけてみると小松政夫か関口宏みたいなメッシュのアタマになる。面白いので白髪メッシュで出歩いていると、どうも前髪に変な癖があるみたいでいつの間にか白髪だけがナナメ前方45度にはねてしまう。関係ないけどラルク・アン・シエルのボーカルって不自然なくらい小さいことを発見。あんまり小さいんで遠近感が狂う。もしかしたらあれははめ込み合成かも知れない。きっとそうだ。

 最近知った言葉 「ネットアイドル」

 知り合いから「あんた自分のサイトに顔写真なんか張り付けてネットアイドルにでもなるつもり?」と訊かれる。あれは自分が他人の個人サイトを見ていてどんな人間が書いているかわからないとすごく気持ち悪いからきっと見知らぬ人がこのサイトを見て同じ思いをするだろうと思って顔だしてみただけです。ね、ちょっとは生身の人間を感じるでしょう。あ、はじめまして。で、あなた気持ちいいですか?だとしたら、あなたが僕にメールをくれるときは顔写真つきでメールをくれるのが礼儀です。そこんとこひとつよろしくです、ってそれより、ネットアイドルって何ですか?本当にそんな人いるんですか?


■ A piece of moment 3/30 

 国分寺駅ビル地下のケーキ売場で、全身ピンクハウスのデコレーションケーキみたいなお姉さんをみかける。すごかった。イチゴと生クリームたっぷり盛りつけた感じの紅白のデコデコしたドレスで、胸元にはクマさんのぬいぐるみがたくさんぶら下がっていた。道行く人々はお姉さんをみると一瞬ぎょっとした表情をして、なんでこんなところに仮装大賞がいるんだって感じの目つき。お姉さんはそうやって日々周囲の無理解や偏見に直面しているんだろう。自分の趣味を貫くには強い意志が必要だ。マイノリティの人生ってたいへんだ。


■ A piece of moment 4/2 >

 椎名林檎の2ndアルバム「勝訴ストリップ」を買う。レコード会社が初回分のプレスを出荷制限しているとかでなかなか手に入らず苦労する。そうやってブームをあおろうって腹づもりみたいだけど何か嫌らしいなぁ。それはともかく、アルバムのほうは濃厚な内容で期待通りの力作。1作目に感じたような不満はない。くり返し聞いている。1作目のときの叙情性や音が薄くて間延びしたところがなくなって、自分を追い込んでつくっているのが伝わってくる。ひりひりするような感触。「確かなのは今だけ、過去も未来もいらない」とくり返す彼女をみているとレオス・カラックスの映画にでてくるヒロインを連想する。むき出しの感情と衝動で自分を傷つけながら暴走する様子が痛々しい。でも、それを多くの人は彼女に求めていたんだろう。あのテンションで音楽を続けていくのはしんどいだろうけど。聴いていて彼女が椎名林檎名義で音楽をやるのは3枚目のアルバムでやめると言っているのは正しいように思えてくる。自分を追い込んで衝動を爆発させるスタイルは精神的にそろそろ限界だろうし、逆にそのスタイルがルーティーンワークになってしまって自分を模倣するようになったら嫌らしい。そういえばレオス・カラックスもすっかり行き詰まっているし、こういうパンキッシュな創作スタイルは持続させるのがむずかしそうだ。それにしても、彼女がこんなに売れているのはやはり不思議な気がする。どうみても万人受けするタイプのポップソングとは思えない。中学生から宇多田ヒカルについていけないロックオジサンにまで大人気なのはどうして?この2作目を聴いたら中高生のファンは離れるような気もするけど。ところで、アルバム通して聞くと12曲目の「本能」だけが浮いているような気がする。


■ A piece of moment 4/5 

 近所のスーパーで美味しいイチゴジャムを買った。イチゴたっぷりで幸せ。ほら、安いジャムを買うとペクチンばっかりで煮こごりみたいなジャムでしょう。あれは許せない。ジャムなんだから果実と砂糖でつくってほしい。で、コップの1/3くらいまでジャムを入れてその上に牛乳かけて、即席のイチゴミルクをつくる。ちゃんとしたジャムだとすごく美味しい。生クリームをのせれば立派な売り物になる。

 人の集まるところで「場を読む」ことが苦手だ。自分では人にあわせているつもりでも大勢がいる場では浮いていたりする。1対1の関係ではひと対ひとだけど、集団の中に身を置くときは向こう側に行けるか行けないかという問題になってくる。だから、素速く場の雰囲気を察知して的確に振る舞い座を盛り上げることのできる人を見ると感心すると同時にある種の気持ち悪さを感じる。そんなわけですっかりとパーティも宴会も足が遠のいているけど、温かくなってきたことだし花見でもしながらはしゃぎたい気分。花なんてなくてもいいから酒飲んでバカ騒ぎがしたいのである。酒は毎日飲んでいるが。


■ A piece of moment 4/6 

 知り合いから国分寺で見かけたデコレーションケーキみたいなピンクハウスお姉さんは大助花子ではないかというメールをもらう。そういや花子さんもいつもデコデコのピンクハウスだけどさぁ、確かにピンクハウスだけど、なんか彼女が着るとさぁ、完全にあの服の文脈を逸脱しているように見えるんだけど。派手なきぐるみというか目立つための記号というか根本的に服をデコンストラクトしているように見えるんですが。少なくともフリルや花柄からメルヘンはまったく感じないぜ。それにしてもピンクハウスで大助花子を連想するっていうのは関西人の感覚はどこかおかしいんじゃないか。あ、森尾由美もたいていピンクハウスだけど、こっちは文脈通りな感じ。

 Webでピンクハウスお姉さんのサイトを見つけました。彼女の好きなものは好きという単純な心の有り様に少しじーんときました。はい、服なんて好きなもの着ていればいいんですね。俺が悪かったよ。自分がどう見られるかを計算するなんて俗物のすることでございます。Webをみていたら自分がひどく偏見と悪意に満ちた小ずるい人間のような気がしてきました。彼女のサイト、リンクフリーらしいので勝手にリンクします。感想のメールを書いてあげて下さい。写真もあります。僕はなんて書いていいのかわからなくてメール出せずにおります。彼女に大助花子をどう思うか訊いてみたいんだけどちょっと恐くて。

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■ A piece of moment 4/7 

 巷でいわれている「ミッチー」が渡辺美智雄でも三橋美智也でも浅香光代でもないことが判明。え、だれだって?こんな人だそうです。→ ミッチー

 ミッチーの職業は王子様だそうである。こういうのは言ったもん勝ちだな。夜中に再び、レンタル屋で1週間200円のセールだったのでまとめて8本借りてくる。また限界にチャレンジ的状況。一緒に行った人になんか面白そうなのかしてといわれ、ブルース・リーの「燃えよドラゴン」を又貸ししようとするがなぜか強く拒まれる。どうして女の人はブルースを嫌うんだ。ほか、「エイリアン4本立て」も強い拒絶にあう。こうして友達を失っていくんだな。なかなか趣味が理解されにくくてたいへんである。ほか、レオス・カラックスの3本立て。


■ A piece of moment 4/8 

 ところでミッチーのWebサイトは薔薇が飛び散っていてなかなかインパクトがあります。これからは僕もあの路線でいこう。歳も背格好もたいしてかわんないし。とりあえず、Webの顔写真は薔薇をくわえてフラメンコでも踊っている姿を。デジタルカメラ買ってくるので、誰か写真とって。

 「燃えよドラゴン」を観る。大人になってからブルース・リー映画を観るのははじめてなので実はけっこう期待していたのだけどがっかり。こういう映画だからストーリーがいいかげんなのも映画としてちゃちいのも許せる。でも、格闘シーンがつまらないのは致命的だ。ブルースはその他大勢のエキストラたちをなぎ倒していくばかりでちっともスカッとしない。やっぱり格闘ものは強い相手との一騎打ちこそが醍醐味なのに、肝心の敵役がまるで役不足。ラオウあっての拳四郎だし、刺客あっての拝一刀だし、怪人あっての仮面ライダー、いくら仮面ライダーがその他大勢のショッカーを100人なぎ倒しても怪人がでてこなかったら拍子抜けでしょう。そんな映画だった。たしかに、ブルースの動きは鮮やかだったし型も立派なものだったけど、映画でそればっかり見せられてもなぁ。そういう次元の楽しみ方なら昨日見た教育テレビのブルース・リーのドキュメンタリーのほうがずっとリアルで見応えがあった。ラストで戦うボスもやけに弱くて盛り上がらない。すぐに逃げ出して武器を振り回し、それでもかなわないとみると仕掛け部屋に逃げ込む始末。くぅ〜情けない。あまりのスカッとしなさにイライラする。何でこんなのが評価されているんだろう。

 そういえば昨日の小川対橋本、テレビ朝日がゴールデンで生中継するとかでやたらと宣伝していたけど結果はどうなったんだろう。

 「エイリアン」4本をまとめて観る。やはり良くできているのはオリジナルだけで、あとはつけ足しみたいな映画だった。あれは宇宙船という密室でおこる怪事件という設定が面白いので、それは1作目で全部やり尽くしている。エイリアンというキャラクターのインパクトの強さで2作目以降がつくられたけど、キャラクターの押し出しの強さだけで4作もつくるのは無理がある。まあとにかく一気に4本観た。物語のつながりの把握もばっちりだ。自分をほめてあげたい気分。

 主人公のエレン・リプリーの性格づけも1作目が自然でよかった。2作目以降は母性愛やら自己犠牲やらテーマ主義がちらついてくさくなってくる。しだいにリプリーが女ランボーみたいなヒロイックな存在になっていくのも嫌らしい。きっと主演のシガニー・ウィーバーが主人公の性格づけにあれこれ口を出して脚本を書き直させたりしたんじゃないだろうか。こんなんじゃ出演しないとかなんとかごねて。そんなの全部無視してグロテスクでオカルトチックなSFに徹すればいいのに。そんな2作目以降で面白かったのは4作目。ただ、ジャン=ピエール・ジュネの他の映画にくらべると彼の色がでていなくて今ひとつだけど。きっとシリーズもので色々制約があるんだろう。もっとも、映画は作品がすべてだから内幕の内情をどうこういってもできの悪さのいいわけにはならないけど。で、2作目はひたすらちゃちで安っぽい。3作目は映像はきれいだけどテンポが遅くて中盤退屈。このぶんだと5作目もやりそうな気配だけど、ほとんど朝の連ドラにつきあっている感覚で観てしまうような気がするのでたのむからつくらないで。ところで、デザインのH・R・ギーガーはふだんから黒いマントを愛用していて趣味は黒魔術っていうのは本当だろうか。だとしたら、ギーガー自身のほうがエイリアンよりずっと恐いです。


■ A piece of moment 4/9 

 おとついの小川対橋本は小川が勝ったらしい。互いに試合前、選手生命をかけるだとか負けたら引退するだとか息巻いていたから、試合後即、橋本の引退記者会見があったのだろうと思っていたら、引退しないのだそうだ。ふーん、所詮プロレスなんて興行なのね。はいはい、客入って良かったね。えらそうな口上も格闘家としての誇りだとかも全部演出なのね。ああ、むかつく。せいぜい何度でも選手生命をかけて「大勝負」を演じればいい。バカが大勢見に来るんだろうから。


■ A piece of moment 4/11

 歴史学者のジョン・ダワーが今年のピューリッツァー賞を受賞した。戦中戦後の日米関係が専門の人でスミソニアン原爆展論争についての演習授業の資料にも彼のテレビインタビューを何度か使ったことがある。明晰で穏やかな語り口が印象的だった。愛国者であることよりも事実を事実として認識することこそ民主社会の大前提という当たり前のことを言っているのだが、歴史的事実よりも政治的思惑が優先される社会のなかで彼の発言は印象的だった。彼のような人物はもっと評価されてほしい。それにしても日本で彼の著作が1冊も翻訳されていないのはどういうことだ。

 ところでぜんぜん関係ないが、最近「ドラッグクィーン」の語源を知った。けばけばしい衣装をぞろぞろ引きずる様子を指して、「ドラッグ=引きずる」・女王らしい。クスリは関係ないのだそうだ。日々賢くなるなあ。え、ドラッグクィーンって何だって?こんな人たちです。→ ドラッグクィーン

 友人にユーリズミックスのアニー・レノックスは女なのにドラッグクィーンみたいに見えるという話をしたら、「えええっー、あれ女なの?」という返事が返ってくる。そう言われると自信なくなってきた。オンナだよね。


■ A piece of moment 4/12 

 レオス・カラックス3本立てをまとめてみる。観ながら3本ともに学生のころに観たことを思い出す。最近、こういうこと多いなあ。「ボーイ・ミーツ・ガール」はナルシスティックな自意識がそのまま出ている感じで嫌らしかったけど、他の2つは良かった。思いが暴走し自分も相手も傷つけてしまう様子がせつなかった。どちらかというと色々詰め込んでやや散漫な印象を受けた「汚れた血」よりも「ポンヌフの恋人」のほうがよりストレートで好み。こうして新作の「ポーラX」も観ることになるのであった。すっかり映画会社の思惑にのせられている気もするけどまあいいのだ。

 録画しておいたコロンボの「別れのワイン」を観る。これ、コロンボシリーズのなかでのベストではないだろうか。犯人の人物描写が繊細で複雑で実にいい。コロンボとのやりとりも味があった。コロンボシリーズは推理ものというよりも、犯人とコロンボとの心理劇だと思っている。だから、トリックや推理よりも犯人とコロンボとの会話やかけひきにこそ醍醐味がある。これ以外にコロンボシリーズでのお気に入りをあげると、「パイルD3の壁」「殺人処方箋」とあと、タイトルは忘れたけど野心家の若い女弁護士が後妻に入った後に大物弁護士でもある夫を殺すやつ。

 ところで、以前、知り合いが70年代ドラマで「傷だらけの天使」の話をしていたが、僕にとっての70年代ドラマは何といってもコロンボ。あの荒れた映像といつも晴れているカリフォルニアの風景と犯人役の野心家で気どった金持ちたちをみると70年代アメリカという感じがする。僕は10代後半から20代の若い男たちがもつギラギラした雰囲気が昔から嫌いというか恥ずかしくて、「傷だらけの天使」や松田優作ものは意図的にさけてきた気がする。あと、すぐラグビーやったり剣道やったりする学園ものも。コロンボ以外で70年代のドラマというと時代劇。当時はニューシネマ調のいい時代劇がたくさんあった。「仕掛人梅安」のまだ若くて生気のみなぎっていた緒方拳はすごみがあったし、「必殺仕置人」の山崎努(骨接ぎの鉄だっけ?)はだらしなくてぶっ飛んでいてものすごく格好良かった。「子連れ狼」も「木枯らし紋次郎」も良かった。主人公たちはみなどこか影があって物語はせつなかった。当時の挫折感の漂っていた時代の空気も反映していたのかもしれない。もはやじじいとばばあしか時代劇を見なくなってしまった今では、もうああいう時代劇はつくられないんだろうな。


■ A piece of moment 4/13 

 新しい学校での授業の打ち合わせにいく。今度の学校は新宿の駅前。10分も歩けば歌舞伎町だし、15分も歩けば西口のカメラ街。本当に都会の学校で、校庭は高いビルに四方を取り囲まれていて箱庭のようだった。校庭でくしゃみをしたら音がビルの壁に反響してこだまが聞こえた。繁華街にある学校なので生徒はけっこう荒れているらしい。でも、給食は抜群にうまいらしい。アメとムチである。それはともかく、ごちゃごちゃした街並みはぶらぶら歩いていて楽しいし、遊ぶ場所はたくさんあるしで、学校に行くたびに夜遊びしてしまいそうである。

 アラニス・モリセットの「アンプラグド・ライブ」のCDを買う。え、なんでそんなの買うんだという何人かのバカにしたような顔が目に浮かぶが、これに入っているポリスの「キング・オブ・ペイン」のカバーがラジオでかかっているのを聞いて以来ずっと頭から離れないからである。あらためて聞いてみてもやはり奇妙な歌だ。歌詞にダブルミーニングが多くてとらえどころのないポリスの曲のなかでも、とりわけ奇妙でひんやりする肌触りがする。不安をかりたてるような不気味なイメージの羅列はユングの精神分析の影響でも受けているんだろうか。カバーにわざわざこの曲を選んだというだけで僕はアラニス・モリセットをかう。で、カバーのほうは後半歌い上げ調になるのが気に入らないけど、アコースティックギターであの印象的なイントロがはじまり、やがてベースがかぶさっていくあたりはなかなか良い感じだった。


■ A piece of moment 4/14 

 とくに暇というわけではないが、「キング・オブ・ペイン」を訳す。スティングはこういう視覚的なイメージで心理状態や気分をあらわすのがうまい。とくに3パラグラフの「高い崖に埋まっている化石」から「うちあげられた青い鯨」「蜘蛛の巣にかかった蝶」にかけての心象風景の描写はひんやりしたメロディと重なってぞくぞくしてくる。それらは冷たく固まったまま痛みを感じている心の象徴だが、「苦しい」とか「悲しい」というよりもずっと切実に表現されている。言葉は論理形式のひとつだから、感情のような論理とは異なるものを表現するためには翻訳作業が必要になるというひとつの例になるではないだろうか。個人的には「メッセージ・イン・ザ・ボトル」とこの曲がポリスのなかでベストだと思っている。なお、昨日のアラニス・モリセットは最後の箇所のキングをクイーンに言い換えて歌っている。

 King of pain

There's a little black spot on the sun today
It's the same old thing as yesterday
There's a black hat caught in a high tree top
There's a flag pale rag and the wind wan't stop

I have stood here before inside the pouring rain
With the warld turning circles running 'round my brain
I guess I'm always hoping that you'll end this reign
But it's my destiny to be the king of pain

There's a fossil that's trapped in a high cliff wall
(That's my soul up there)
There's a dead salmon frozen in a waterfall
(That's my soul up there)
There's a blue whale beached by a springtide's ebb
(That's my soul up there)
There's a butterfly tropped in spider's web

I have stood here before inside the pouring rain
With the world turning circles running 'round my brain
I guess I'm always hoping that you'll end this reign
But it's my destiny to be the king of pain

There's a king on a throne with his eyes tarn out
There's a blind man looking for a shadow of doubt
There's a rich man sleeping on a golden bed
There's a skeleton choking on a crust of bread

There's a red fox torn by a hunts man's pack
There's a black winged gull with a broken back
There's a little black spot on the sun today
It's the same old thing as yesterday

I have stood here before inside the pouring rain
With the world turning circles running 'round my brain
I guess I'm always hoping that you'll end this reign
But it's my destiny to be the king of pain
King of pain, I'll always be the king of pain
今日も太陽には小さな黒い点がある。きのうと同じものだ。高い木の上に黒い帽子がひっかかっている。ぼろ切れが旗竿に掲げられ、風はやまない。■以前にも土砂降りの雨のなかをここに立っていたことがある。自分の脳のまわりを世界が円を描きながらまわる。君がこの統治を終わらせてくれることを私はいつも望んでいるようだ。しかし、苦痛の王になることが私の運命だ。■高い崖の壁に化石が閉じこめられている。(それが私の魂。)滝のなかで死んだ鮭が凍っている。(それが私の魂。)洪水の後、青い鯨が浜にうちあげられている。(それが私の魂。)蜘蛛の巣に蝶がかかっている。■以前にも土砂降りの雨のなかをここに立っていたことがある。自分の脳のまわりを世界が円を描きながらまわる。君がこの統治を終わらせてくれることを私はいつも望んでいるようだ。しかし、苦痛の王になることが私の運命だ。■目をくりぬかれて、王は玉座にすわっている。目のみえない男は疑念の影をさがしている。裕福な男が黄金のベッドで眠っている。ひと切れのパンをのどに詰めた骸骨がいる。■猟犬の群に引き裂かれた狐がいる。背骨を折った黒い翼のカモメがいる。今日も太陽にはきのうと同じ小さな黒い点がある。■以前にも土砂降りの雨のなかをここに立っていたことがある。自分の脳のまわりを世界が円を描きながらまわる。君がこの統治を終わらせてくれることを私はいつも望んでいるようだ。しかし、苦痛の王になることが私の運命だ。苦痛の王、私はいつまでも苦痛の王であり続ける。

 「キング・オブ・ペイン」に引きずられたわけではないが、なんとなく憂鬱な1日だった。


■ A piece of moment 4/15 

 このあいだめずらしく昼間のテレビを見たら、ワイドショウはどこも南果歩が泣いていた。離婚か浮気か熱狂的なフリークに襲われたかでもしたんだろうか。僕は南果歩の平べったい顔を見るとなぜか「鍋のふた」を連想してしまう。他に水野真紀と松島奈々子をあわせて「鍋のふたシスターズ」としている。ほら、あなたも鍋のふたに目と口を書き込んでみたくなったでしょ。もちろん真ん中のつまみが鼻です。

 いつの間にか、サッポロビールのコマーシャルが変わっていた。山崎努と豊川悦志のコンビはあいかわらずで、今度は川辺で焼き肉をしていた。でも、何で勝のはいつもトヨエツなんだ。あと、最近のお気に入りは伊達公子がテニスをやっているスポーツドリンクのCM。俺もしかしたら「エースをねらえ」が好きなのかも。

 以前、どこかで聞いたハナシだが、外来語の長いカタカナ言葉は4文字に省略されることで日本語として定着するそうである。「コンビニエンスストア」は「コンビニ」に、「パーソナルコンピューター」は「パソコン」に、「セクシャルハラスメント」は「セクハラ」に、「リストラクチャリング」は「リストラ」に、「インフラストラクチャー」は「インフラ」に。なぜ縮めるかのといえば、もちろん日本人はアタマが悪いから長い単語が覚えられないからである。こうした短縮言葉を連発するのはいかにもバカそうで軽薄そうでだらしなくて僕は大嫌いなのだけど、たしかに4文字になると日本語としての安定感を感じる。だから、短縮言葉が嫌いな僕が「まあ許せるかな」と感じたあたりが、日本語として定着した目安になる。新しいところでは「デジカメ」や「メルアド」や「モー娘」なんていうのもあるけど、これはもう聞くだけでムズムズイライラしてくるので日本語としてまだまだこなれていない感じだ。日本語は俺を中心にまわっているのである。それはともかく、こういう言葉を率先して使う人って、喋っていて恥ずかしくないんだろうか。必死で流行に乗ろうとして頑張っちゃってる感じというか、そういう言葉が通じる狭い仲間内の世界に住んでいるというか、痛ましい感じがする。俺、口が裂けても「モー娘」なんて発音したくないんだけど。


■ A piece of moment 4/16 

 以前、このページに慶応進学会の女の子はAV嬢にみえると書いたことがあるが、どうやら本当に元AV嬢らしい。俺もなかなか見る目がある。しかも会長の愛人であるとかで週刊誌をにぎわせたり、予備校連盟やら教育界やらからいっせいに非難を浴びたりしているらしい。週刊誌を読まないのでそんなことはぜんぜん知らなかった。倫理的にどうこういうつもりはないが、自分の愛人を全国放送のCMに起用するというのはたいした面の皮である。むしろ世間の非難にもめげずに、4月になって予備校はかきいれ時なのか、あのCMをやたらと見かける気がする。ゴールデンタイムの野球中継にもけっこう入ってくる。真っ向勝負の構えのようだ。それにしてもあのAV嬢のコスチュームも舌っ足らずなしゃべり方も思考力を停止させる破壊力がある。もしかしたら、いま一番インパクトのあるCMかもしれない。僕はあの「けっこうマジだぞォー」というセリフを聞くたびに、思考力をぬきとられてへなへなと腰砕けになってしまうのだが。

 あれが大学受験予備校のCMであることに衝撃を受けている人はけっこういるみたいで、検索サイトで「慶応進学会」と打ち込むとずらずらでてくる。あのCMを見て「知性のかけらも感じない」とか「見ているだけで恥ずかしくなる」と非難するのは簡単だが、それは表面的すぎる見方のような気がする。僕はむしろ、大学も予備校もバカのいくところだと母親が昔よく言っていた言葉を連想して、制作側の意図しないところでそんな皮肉な現状を露呈しているようにみえる。な〜んて考察もあのCMを見た途端に馬鹿らしくなってしまうところが二重の意味でアイロニカルである。けっこうマジだぞォー……。

 ひまな人はこちらで「慶応進学会」と打ち込んでみてください。おすすめは「Ringring」のサーチエンジン。→ 検索デスク


■ A piece of moment 4/18 

 めずらしく、3ヶ月ぶりに母親からの電話が留守番電話に入っていた。何事かと思って聞いてみると、「ひろしぃー元気ぃー?どうしてるぅー?もう学校ははじまったかぁ?ガチャ」。なんだ?母の日の催促だろうか。不気味である。


■ A piece of moment 4/23 

 うちの近所に「わかば幼稚園」という看板がある。その隣にはクロレラだか何かの「私たちはバイオで育てています」という看板がならんでいる。ちょっと見ただけだとふたつはつながってみえて一瞬ぎょっとする。車で通りすぎながらちらっと見た人はしばらく悩まされることになるにちがいない。「わかば幼稚園……私たちはバイオで育てています」。……?!。

 「あらー、田中さんのところは2年保育にしたの?」「ええ、育ちすぎちゃうとこまるから」「山本さんは3年保育?」「うちはお兄ちゃんのときもバイオにしたからだいたい様子も分かっているし」「健太は丈夫で健康な子コースにしてみたんだけど評判はどうなのかしら?」「あ、うちはお兄ちゃんがそれだったから下の子はかしこい子コースにしてみたの」「お兄ちゃんはその後どう?」「ヒンズースクワット2000回しながら300kgもちあげるから年長組のなかではまあまあじゃないかしら」「うちの子も楽しみだわ」「こんど、あそこ0歳児保育もはじめたって知ってた?」「あらー、今度お願いしてみようかしら」「井上さん、おめでた?」「いま仕込んでいるところ」「まあ、おさかんだこと」「うふふ、0歳児保育があると思うと安心だから」「そうね、小さく生んで大きく育ててくれるし」「ホント、いまどきバイオじゃないとねぇ」「やっぱバイオだと安心よね」「ええ、よそは考えられないわ」「あそこは培養槽のガラスも質のいいものを使っているって聞いたわ」「うん、ドイツ製らしいわよ」「まあ、そうなのぉ」「それに園長先生の人柄もいいしねぇ」。あの看板は妄想が広がって運転中は危険だと思う。


■ A piece of moment 4/24 

 松屋のカレーはうまい。こじゃれたカレー屋の1500円も2000円もするカレーよりもずっとうまいと思う。というかこじゃれたカレー屋でうまい店に出会ったことがない。近所のファミリーマートはなぜかいつも弁当100円引きで売っている。デフレ価格。カルビ弁当380円也。すごく得した気分になるけど、問題は買いだめできないことだ。


■ A piece of moment 4/26 

 話の上手な人に共通しているのは、理不尽で非論理的なことをいっているのに、ああそうかなという気分にさせることだ。話術の面白さや説得力にばかりが際だっていて、論理のごつごつした部分やとっかかりがなく、基本的な問題点を見逃してしまう。詐欺師や宗教家や営業や政治家や作家として成功する人はきっとそういう人物なんだろう。でも、それは言葉を商売にする人たちのほとんではないか。それは話されている言葉のほとんどがそんなムードをあおる言葉であることを意味している。多くの人は考える材料を与えてもらうよりも説得されたがっているんだろうか。問題を際だたせるよりも、気分をあおりたてられていることを望んでいるんだろうか。勢いや雰囲気で話す人が苦手だ。会話の最中に論理的欠陥を素速く察知しできるほど頭の回転が速くないので、そういう人と話をしているといつの間にかムードにのまれてしまっている。しばらくしてから問題点に気づき、それが不可能なことや基本条件すらきいていなかったことを思い出しすが、もうそのときには遅い。いまさら問題点を指摘してもこちらが悪者になるだけで、結局、ひいひい言いながらしわ寄せを全部引き受けることになる。後悔先に立たず。そういう人物はパーティで一緒になるぶんには楽しくていいかもしれないが、仕事相手や友人にはしたくないものだ。言いまわしや演出効果ばかりを気にする人よりも、訥々と内容のある話をする人たちの魅力に気づけるようになりたいと思う。

【不定期連載 戸嶋くんの発見】 「高校生になって感じたこと」

1 必ず名物先生がいる。
2 宿題が多い。
3 うちの高校は私服校なのに前の学校の制服着てくる奴がいる。
4 部活にマネージャーなるものが存在する。
5 高校の部活で軽音楽やってる奴らにとってロックとは最近のビジュアル系ロックらしい。(かなり自分に陶酔している感じ。)
6 よくこの高校に入れたなあと言うやつがクラスに一人はいる。
■ A piece of moment 4/27 

 今度の学校は新宿の駅前にある都会の中学校。2年生の地理を担当。なんだかやけに幼くみえて、授業はまるでお遊戯のようだ。「さあ、みんな、水田に色を塗ろう」なんて調子で進んでいく。教頭の話では学力は低いとのことだったが、できる子もできない子もみんな従順でかわいい。私語を注意すると「すいません」とくる。こんなのはじめてだ。最近は都会の子のほうが純朴なんだろうか。まるでぬるま湯のよう。去年、工業高校で4分の3が携帯をいじっている連中(うち3人くらいは授業中でも携帯で話していた)を前に目を三角にしてガミガミやっていたのが嘘のようだ。給食も美味しいし。授業は午前中だけだったので、さくっと切り上げて午後は新宿をぶらぶらする。西口のカメラ屋をのぞき、本屋で立ち読みし、チケット屋で安売りの前売りを買って歌舞伎町で「ストレイト・ストーリー」を観る。のんびりしたテンポと会話が良かった。実話みたいな映画だなと思って観ていたら、本当に実話らしい。もう、フリークスがぞろぞろでてくるようなサイコものは飽き飽きしていたところだったのでちょうど良かった。帰りに安ワインと納豆と卵を買って帰宅。で、いま、そのワインをちびちびやりながらこれを書いているというわけだ。こんな優雅な毎日がこれから1年間つづいてしまって良いのだろうか。こんな生活が本当に許されるものなのだろうか。優雅すぎて不安である。


■ A piece of moment 4/28 

 前にも書いたが、10代後半から20代にかけての若い人がもつギラギラした雰囲気が苦手だ。自意識なんていうくだらないものが表面に出てくるので、その様子をみているとすごくつかれる。そこから何か新しいものが生まれることは否定しないが、70年代文化のように若者の自意識過剰や気取りを全肯定する雰囲気は非常に見苦しい。

 以前知り合った女性にやたらと年をとることを恐れている人がいた。彼女は若く、十分美しかったが、同時に年をとってそれを失うことを過剰に気にしていた。ふだん外見を飾ることに興味がないことを誇りにしている口振りで、服や髪型の話題に花を咲かせる同僚のOLたちにいらだちを表していただけに、その若さと外見への執着は意外だった。そして、「男はいくつになっても性的魅力が損なわれないから不公平よ」と話していた。彼女は15歳年上の男と不倫の関係にあった。相手の男は10数年前、熱愛の末に結婚したにもかかわらず、その後、40になる妻には性的関心を抱かず、ここ数年は若い彼女にのみ性的関係を求めているという。彼女は、私たちの関係は夫婦とは違って恋愛感情で結ばれていて、この関係はこの先もずっと続くはずだと自分に言い聞かせるように話していた。ただ、その男の愛人をしているかぎり、彼女は若さを損なうことへの不安に常にさらされつづけるのではないかと思った。男の恋愛感情と性衝動が彼女にのみ向けられるほど、彼女は満足感と同時に不安を感じるというパラドックスに陥るようにみえた。彼女の精神的マスターベーションのような言動にはずいぶん痛い目にあわされたので、彼女に同情する気持ちはまったくないが、あの時の思いつめたような表情と頑なな話しぶりは少し哀れだった。歳をとった自分を肯定できないというのはみじめだ。日々賢くなって、昨日できなかったことが今日はできるようになると思いたいもんだ。

 今日も午後から新宿で映画。優雅である。「本当のジャクリーヌ・デュプレ」。新宿南口の小さな劇場はめずらしく40人ちかく入っていた。客はほとんどおばさんだった。若くして亡くなったチェリストのデュプレの生涯を描いた作品という予備知識はあったが、いざ観てみると歳の近い姉妹の近親憎悪の物語だった。妹のジャクリーヌにとって姉はあこがれの存在。なんでも姉のまねをし、姉のものはなんでも欲しがり、同時になんでも自分よりできて注目を浴びている姉をねたんでいた。やがて妹は音楽で姉を追い越す。姉は妹の成功を祝福するが同時にねたみはじめる。姉にあこがれ家族にほめてもらいたいだけではじめたチェロだが、妹は瞬く間にプロのチェリストとして脚光を浴びる存在になっていく。しかし、妹はそんなチェリストとしての自分に居心地の悪さを感じている。姉に恋人ができたことをねたみ、姉を失うことを恐れ、男をふたりで共有しようとまで持ちかける。姉は妹にコンプレックスを感じつつも、妹を遠ざけることができない。憎みながらも愛している。やがて、妹は体調の不安も重なって精神のバランスを崩していく。そんなからみつくような女同士の関係を描いた物語。演奏シーンとBGMでくり返し流されるエルガーのチェロ協奏曲の濃厚なメロディが一段と扇情な気分をあおっていた。ああ、しんど。


■ A piece of moment 4/30 

 ごろごろしながら「噂の真相」を読む。あのよく訴えられる雑誌だ。週刊誌が奥歯にものの挟まったような言い方をしている部分が掘り下げられていてすっきりするが、あの取材力はどこからきているんだろうか。特集記事の署名はどれも「本誌特別取材班」とあるが、週刊誌のライターたちが他に書けない記事をあの雑誌に書いているんだろうか。ただ、ずけずけ書かれているのは気持ちいいのだが、この雑誌を読んでいるといつも妙な居心地の悪さを感じる。人と人の関係の息苦しさというか、見知らぬ誰かによる見知らぬ誰かへの悪意がもたらす圧迫感というか、延々と続くゴシップと裏事情にだからなんだよという気分になる。僕は熟読型なので1冊まるまる読むと毒気にあてられた感じになる。こういう雑誌は電車の中や喫茶店でちらちらと飛ばし読みするのがちょうど良いのかもしれない。かさばらない体裁だし。

 友人から江戸の滑稽本を何冊かもらう。あの手の話の馬鹿らしさと開けっぴろげな調子が不思議なほどしっくりくる。読んでいると自分は本当は江戸の住人で150年後の奇妙な夢を見ているだけではないかという気がしてくる。そんな馬鹿ばなしをひとつ。アオヤギ、通称バカ貝を売り歩いている男の話で、「ばか売り」。

 年の頃二十二三な野郎が、丸額で顔は面長、鼻の下が長くってゆきの短い着物を着て、水っぱなを垂らし、「大ばかエエ大ばか」と売ってくる。「アレ、見やれ。ほんに『大ばか大ばか』といふが、あいつがつらが、ばかの看板だ」と笑いながら、「ばかを買ってくをふ。コレ、ばかヤイばか」と呼べど、行き過ぎる。大声上げ、「ヤイ、大ばか。ヤイ、大ばかやろう。コレ、買ってやろう。ばかヤイばか」といへば、やうやうと聞き付けて、のらのら戻り、「ばかはおめへかへ」「ムムおれだ」。


■ A piece of moment 5/1 

 テレビニュースでホワイトハウスがつくった「クリントンまもなく引退」ビデオを見て大笑いする。冒頭、クリントンが記者会見を始める。「やあ記者諸君」。ところが、ホワイトハウスの広い記者会見場にはおばさんがひとり座っているだけで閑散としている。記者歴うん十年のそのおばさんは眠そうな目でクリントンを見ながら、「なによあんた、まだそこにいたの?」。クリントンはとぼとぼと引き下がり、ホワイトハウスのスタッフたちに声をかけるがスタッフたちは誰もいない。まわりの連中はすっかりクリントンを過去の人扱いして、誰も政治の話しなんかしない。仕方なく、クリントンはコインランドリーで洗濯をし、庭で芝生を刈る。副大統領のゴアはニヤニヤしながら「大統領は引退後は環境問題に力を注ぐらしい」とコメントをだす。ぼんやりとペンタゴンの幕僚長と魚雷戦ゲームをし、しょんぼりと部屋に掃除機をかけ、そうだ自分は良き家庭人になろう思い立つが、上院選で忙しいヒラリーは「あなたはひとりで大丈夫よね」とクリントンを残し車で去ってしまう。

 アメリカ人はこういう自虐的なユーモアが好きだよなあ。俺も大好きである。ビデオはプレス向けにホワイトハウスがつくったものらしいが、まるでバックウォルドのコラムを読んでいるみたいだった。人を嘲笑うだけで自分を笑えない奴なんて信用できないぜ。

 ところで、舞の海が踊っているビールのコマーシャルは良いね。


■ A piece of moment 5/2 

 友人から「アストロ球団」の分厚い本を2冊もらう。計1500ページ読了。降参。ちょっとした拷問だった。大げさででたらめな調子はいま読むとギャグにしかみえない。あははははベースボールアニマルだってよ今度はスペースラブ投法かいこりゃ馬鹿だねよくやるね参ったねまったく、てな調子で笑い飛ばして読めばいいんだろうけど根がまじめなものでつい書き手の文脈にそって読んでしまう。どうみても書き手はマジで書いている。しんどい。同様に「スチュワーデス物語」も「巨人の星」も笑えない。「遠山の金さん」はなぜか笑えるんだけど、たぶん1話完結だからタメが少ないぶん余裕をもって見られるからではないかと思う。「アストロ球団」は太田出版から分厚い本があと3冊もでているらしいが、続きを読むのは断念。誰かロッテと対戦した後のストーリーを知っていたら教えて。

 きのうのクリントンまもなく引退ビデオは本物がでているのかというメールをもらう。もちろん本物。参謀総長も副大統領もヒラリーも記者たちも本物。傑作だった。ビデオに録っていたんだけど、後半2分でテープが切れた。残念。

 近所の図書館で都築道夫の「なめくじ長屋捕物さわぎ」をまとめて借りてくる。このシリーズはお気に入り。長屋の連中のあけっぴろげなやりとりが妙にしっくりきて、これも読んでいると、本当は自分は江戸の住人で150年後の夢を見ているだけではないかという気がしてくる。

 晩方から中華料理屋で友人と飲む。近所にいい店を教えてもらった。クリントンビデオの話題で盛り上がる。なんでモニカ・ルインスキーも出さないんだ、どうせならスター特別検察官に「葉巻の味はどうでした?」ってインタビューくらいさせればいいのになどなど。食い過ぎと飲み過ぎでダウン。寝ます。


■ A piece of moment 5/3 

 今月は13日と27日にバスケがある。しばらくサボっていたが気力も充実してきたので参加する予定。すっかり体がなまっているので、ウェイトトレーニングとランニングを始める。人間、腕力と暴力とパワープレイが大事だ。ゴール下でのパワープレイにこだわったプレイをしようと思う。あ、暇な人はバスケどうぞ。両方とも18:00から練馬の出版健保体育館。

 ラジオで聴いて気に入ったLTJ・ブケムの新作2枚組をレコード屋で買う。生意気に国分寺新星堂にもドラムンベースのコーナーがあった。LTJ・ブケムはドラムンベースの大御所らしいが、音のつくりはハウス調というよりもフリージャズに近い。電子音を基調にしたマイルス・デイビスみたいな感じ。非常によいがダウン系で2枚通して聴くと眠くなる。こんなのクラブでかけても盛り上がるんだろうか。踊りにくそうだ。

 腹筋とスクワットのやりすぎでやや筋肉痛である。


■ A piece of moment 5/7 

 CS放送でやっていた劇場版パトレイバーを2作まとめてビデオで観る。
 どちらも東京を破壊しようとする愉快犯の話だった。1作目はプログラマーの帆場という男が仕掛けたコンピューターウィルスによって、2作目は自衛隊から失踪した柘植という男が率いる一団の武力行使によって、東京の都市機能は麻痺する。両者に共通しているのは、東京という都市の現実感のなさ、生の実感がともなわない繁栄、生々しい体験のないままそこで日常を送ることの閉塞感、それが犯人たちの動機であり、映画の主題にもなっている。

 2つの映画の中では、バビロンプロジェクトと呼ばれる東京湾の埋め立て工事が進行している。それは実際にバブル期に計画され、東京湾を埋め立て新たな都市機能と巨大な商業地区をつくるという巨大なものだった。映画の中のバビロンプロジェクトも永遠に発展拡大し続ける東京の象徴として描かれており、2つの物語はそんなバブル華やかなりしころに盛んだった都市論へのアンチテーゼのようにみえる。そこではロボットの格闘はあくまで調味料にすぎない。

 1作目をはじめに観たのは9年前、大学院の学生のときだった。いまさらロボットアニメでもなかろうとも思ったが、雑誌の映画評と監督の押井守という名前に惹かれて、レンタル屋でビデオを借りて観た。面白かったし非常によくできていると感心した。2作目は7年前、サラリーマンをしているときだった。1作目が面白かったので今度は劇場で観ようと、外回りをサボって新宿の映画館で紙袋を下げたオタク青年たちに混じって観た。2作目は釈然としない話だった。1作目と違い2作目は単独犯ではない。しかも今度はミサイルや武装ヘリ等の武力行使によって東京を制圧する。その大がかりなテロ活動の動機が東京の繁栄が現実感がともなわず空虚だからというのでは、あまりに強引で納得できなかった。これではまるで幻想の都市を破壊する夢想家集団のテロ映画ではないかと。7年前、劇場の座席にすわりながらそんな不満を感じていた記憶がある。しかし、それから2年後、そんな夢想家集団のテロは地下鉄にまかれた毒ガスによって現実のものとなった。

 この7年間で、都市の見方を変える大きな事件がいくつも起きたし、人々の都市に対する認識もかわった。もはや都市は入れ物にすぎないことを誰もが知っている。都市そのものに実体など求めても有りはしないことも明らかになった。「都市の繁栄」という引いた視線で人間の営みをマスでとらえても空虚に見えるのは当然のことだ。都市は自然のもつリアリティを排除する装置なのだから、人間の暮らしを都市の一部と見なしている限り、そこにリアリティなどありえない。7年たち、都市が入れ物にすぎないことが明らかになった現在では、都市はもはや主体とはなりえない。ひさしぶりに2つのアニメーションを観ながら、都市をひとつの実体であるかのように描くことへの違和感と90年代はじめの時代状況を遠くに感じた。

 ところで、押井守の映画でしばしば使われる風景の長回しとそれにかぶるモノローグの手法はタルコフスキーの映画を連想させる。確か、本人もタルコフスキーが好きといっていたような気がしたが、以前に観たときよりもタルコフスキーの影響を強く感じた。


■ A piece of moment 5/8 

 友人と飯を食いながら、このところの「I love you」ウィルス騒ぎで、仲間内に「I love you」と題したメールを送りつけるいたずらがあちこちでおきているんじゃないだろうかという話になる。きっとネットワーク上を「I love you」というタイトルのパロディメールや便乗ラブレターが飛び交っているにちがいない。僕も数少ない友人たちに宛てて「I love you」と題したメールを送ってみようかと思ったが、村田から送られてきた「I love you」なんて見もせずに削除されるにちがいないと思ったらすっかりアホらしくなってしまいやめた。いいよ、どうせ俺も君を愛していないし。


■ A piece of moment 5/9 <

 以前、何人かの知人たちに80年代を代表するロックアルバムは何だろうと聞いてみたことがある。好き嫌いは別にして、U2の「ヨシュア・トゥリー」とプリンスの「パープル・レイン」はほぼ一致していた。この2枚、影響力でも話題性でもずば抜けて大きかったので、納得のいくところだ。僕も2枚とも発売当初に輸入盤のレコードを買った記憶がある。

 ラジオでかかったU2の"I still haven't found what I'm looking for"が懐かしかったので、あらためて「ヨシュア・トゥリー」のCDを買ってくる。えんえんと濃厚なラブソングが続く。英語だとこういう大げさでストレートな愛の表現も受け入れられるんだろうかなどと思いつつ聴いていると、「ヨシュア・トゥリー」の過剰なロマンチシズムやシチュエーションが何かに似ているような気がしてくる。3時間考えた後に、ヴィム・ヴェンダースの「パリ、テキサス」のイメージにそっくりだと気づく。よく見るとアルバムジャケットのU2のメンバーが砂漠に立っている写真は「パリ、テキサス」の冒頭のシーンそのままだ。とくに"I still haven't found what I'm looking for"の歌詞は「パリ、テキサス」のストーリーをそのまま歌にしたような内容だ。

"I still haven't found what I'm looking for"

「いくつもの高くそびえる山も登ってきた。いくつもの荒野も走り抜けてきた。ただ、あなたとともにあるために。ただ、あなたとともにあるために。■私は走り、はいずりまわり、街の壁をよじ登ってきた。ただ、あなたとともにあるために。でも、探し求めているものはいまだに見つからない。探し求めているものはいまだに見つからない。■愛しい唇にキスをし、彼女の指先に癒されるのを感じていた。それは炎のように燃えていた。この燃えさかる欲望。私は天使の言葉で話し、悪魔の手で握りしめていた。夜はあたたかく、私は石のように冷たかった。でも、探し求めているものはいまだに見つからない。■私は神の国を信じている。いつか、すべての色は溶け合いひとつになるはずだ。でも、そうだ、いまも私は走り続けている。あなたは束縛をうち破り、鎖を解き放ち、十字架を背負った。私の恥辱までも。私の恥辱をも。わかるはずだ、私がそのことを信じていると。でも、探し求めているものはいまだに見つからない。それでも、探し求めているものはいまだに見つからない。」
 あまり大きな声では言いたくないが、僕はこの大げさなロマンチシズムが好きで、この歌も「パリ、テキサス」も感情移入できるし、荒野にたたずむ男の姿に自分を投影してうっとりしてしまったりするのだが、ただ、同時に男が自分の感情に酔っていることの嫌らしさとある種の傲慢さも感じて複雑な気分になる。西部劇ファンみたいにアホみたいにヒーローに感情移入して酔えればいいのに。女の人がこの歌や「パリ、テキサス」を観てどう思うか気になるところだ。男の大げさな思い入れを気持ち悪く思ったりしないものだろうか。あなたは「ただ君に会うために、いくつもの山を越え、荒野を走り抜けてきた」なんて男から言われたらどうするよ。どうせ言われないだろうけど。

 この歌、ゴスペルがベースになっているのがポイントで、「あなた」を恋人と解釈すれば大げさなラブソングだし、「あなた」をキリストと解釈すれば信仰の歌ということになる。そうか、聖書のシチュエーションの引用と信仰があればこんな大げさなことも歌えてしまうわけだ。アメリカンスクールでは、この歌をよりゴスペル調にアレンジして音楽の時間に合唱したりしているらしい。この歌詞を音楽の時間に合唱するのか。ふーむ。

 ところで、ヴィム・ヴェンダースとU2のボノが親しいのは有名だけど、「ヨシュア・トゥリー」が「パリ、テキサス」にインスパイアされていることは明らかにしているんだろうか。誰か知らない?つづけて"With or without you"も訳す。

"With or without you"

「あなたの瞳の中の固く冷たい石を見よ。あなたにからみつくイバラを見よ。私はあなたを待っている。指先の早業と運命のねじれ。針のむしろの上で、彼女は私を待たせ、そして、私は待っている。……あなたなしで。■あなたがそばにいてもいなくても。あなたがそばにいてもいなくても。■嵐を切り抜けて私たちは岸辺にたどり着く。あなたはすべてを与えてくれるが、私はそれ以上を望んでいる。そして、私はあなたを待っている。■あなたがそばにいてもいなくても、あなたがそばにいてもいなくても、私は生きられない。あなたがそばにいてもいなくても。■そして、あなたはあなた自身をさらけ出す。そして、あなた自身をさらけ出す。■私の両手は縛られ、私の体は打ちつけられ、彼女は私を苦しめる。勝ち目は何ものこされていない。そして、失うものも何もない。■あなたがともにいてくれても、いなくても。あなたがともにいてくれても、いなくても。私は生きられない。」
 一段と濃厚である。愛しすぎてしまったために相手を憎んでいるという近親憎悪の状態である。「あなたがいても、いなくても、私は生きられない」というフレーズはフランソワ・トリュフォーの映画「隣の女」のラストシーンでも使われていて、おそらくそこからの引用ではないかと思う。「隣の女」はパリのアパートを舞台に、主人公の夫婦が隣に引っ越してきた若い夫婦と知りあい、しだいに泥沼の愛人関係を繰り広げていく。ラストシーンで、主人公の女は愛人と抱き合いながら、「あなたがそばにいても、そばにいなくても、もう生きることはできない」といい、男を射殺し、銃口を自分の頭に向ける。

 「パリ、テキサス」も「隣の女」も愛しすぎてしまったために狂っていく話だ。愛が深いほど憎しみは深まり、憎しみが深いほど愛は強くなる。深すぎる愛情は憎しみを生み、憎悪が愛を暴走させていく。おそろしい。そんな気持ちになったことないでしょ。ないほうがいいのです。ああくたびれた。


■ A piece of moment 5/10 

 モーニング娘が4人増えたらしいって、7人だろうが8人だろうが108人だろうがどうでもいい感じである。はじめ8人で1人減って1人増えてまた1人減ってさらに1人減って4人増えました、現在何人でしょう、は〜いタナカさ〜ん、「18人で〜す」はいはい何人でもいいですね。というわけで今後どんどん増えていくに違いない、まるでJリーグである。「会員ナンバー137番ヤマダヨイコで〜す」「会員ナンバー200348番のぉー」。きっと日本人の3人に1人がモーニング娘になり、ひとクラスの人数が多すぎると市民団体からクレームが来たり文部大臣の通知が来たり川渕チェアマンが怒ったりして、A組とB組に別れて入れかえ戦をやったりするに違いない。きっとそうだ。そんな21世紀はもうすぐである。サイコーですか?


■ A piece of moment 5/11 

 新宿で「アメリカン・ビューティー」を見る。見事な映画だった。間違いなく今年のベストだ。そして思っていたよりもはるかにデリケートな作品だった。誰もが陽気に笑い誰もが理屈ぬきで楽しめるという映画ではない。まったくその逆で、観る側にデリケートなセンスと多少の病んだ知性と自分の生き方を笑える自虐的な感性と視線を要求する。日本人の場合は、それに加えてアメリカ映画やドラマを見慣れていることも必要になるかもしれない。ただ、グロテスクなユーモア、絶妙の間合い、会話のすれ違いのおかしさ、その向こう側から投げかけてくるセンシティブなまなざし、どれをとっても非の打ち所のない映画だった。主演のケビン・スペイシーの演技も絶妙だった。彼が出てくるたびに笑い通しだった。でも、なぜかげらげら笑っているのは僕だけで、劇場はけっこう入っていたのに静まり返っている。ときどき露骨に滑稽な場面で笑いはおこる。でも、そうじゃないんだよ。おかしいのは出来事じゃなくて、その後でケビン・スペイシーがするうんざりしたような投げたようなでもあきらめきれないような何ともいえない複雑な表情がおかしいんだよ。どうしてみんなあれが可笑しくないんだろうとまわりを見回してみると、客の半分くらいは朝の連ドラしか観ないようなおばさんで、残りの半分が新宿の兄ちゃん姉ちゃんだった。こりゃ駄目だ。きっとオスカーも取って話題になった作品だからって来ちゃったんだろう。可哀相に。とくに悲惨だったのは僕の前に座った親子3人連れで、えげつないセックスジョークの連続と毒をまき散らしながら暴走していく登場人物たちにすっかり死んだように固まっていた。あの親子は家に帰ってどんな会話をするんだろう。あんな寒々しい光景は、「ワイルド・アット・ハート」を10年前に観たときに何を勘違いしたのか小学生の息子と一緒に入ってしまった若い母親の呆然とした姿以来のことである。というわけで、スクリーンの向こうは極楽だったけどスクリーンのこちら側は死屍累々の地獄絵図で、幕が下りた後に満ち足りた表情をしていたのはほとんどいなかった。なんて書くと、さも自分はあの映画を楽しめるだけの知性とセンスの持ち主だと自慢しているようにとられるかも知れないけどそうではない。たんに笑いと生き方に求めているものが違っているというだけのことだ。どちらが上でどちらが下ということはない。あの人たちよりも少し複雑なものの見方をしながら毎日をくよくよと生きているというだけのことで、人間的には僕のほうが下卑ているかもしれない。でも、あの映画はそんな人間のために作られた映画だ。僕はもうこれから先、あの映画を楽しめないような人間とは一緒に映画は観たくない。

 映画があんまり良かったのでこの満ち足りた気分のまま帰ろうと夜遊びもせず帰宅する。
 途中の西武新宿線の中で、知的障害の少年が乗ってくる。彼は上機嫌で独り言をぶつぶついいながら体をゆさゆさ揺らしている。きっと彼も何かいいことでもあったんだろうかと思ったら可笑しくなるが、まわりの乗客たちは彼が入ってきた途端、彼を見ないように目を伏せたり目を閉じて寝たふりをはじめた。いやらしいなあ。どう見ても彼は目立つし上機嫌なんだし動きもユーモラスなんだから笑えばいいのに。人を笑うことは見下すばかりじゃないでしょう。まるで見てはいけないものを見てしまったかのように一斉に目を伏せるなんて、そんなに自閉症がめずらしいかよ。


■ A piece of moment 5/12 

 今年もオケラが鳴いている。晩方、庭木の植えてある家や団地の藪からジーッという金属室の音が聞こえる。音源がどこなのかはわからないほどあたりに響き渡っている。あの声からオケラを探り当てるのはあきらめたほうがいい。今年最初にオケラの声を聞いたのが先月の17日だから、もうひと月近く鳴いていることになる。たしかにオケラの踏ん張っているような姿は忍耐強そうだ。オケラの春である。


■ A piece of moment 5/13 

 学生時代の友人と電話で10年ぶりに話す。2児の母親になっている。「近所の人から、お母さんに似て丈夫そうなお子さんねって言われるでしょう」「村田くんは相変わらずっちゃね」。おお、すっかりお国言葉になっている。おいどん原人だのキーボード触ると感電すると思っているでしょうだのとからかうが相手にしてくれない。母親の落ち着きってやつかね。東京は住みにくいだの子育てには向かないだのという話を聞かされる。まあね。でも、俺はここしか知らないからわからないよ。


■ A piece of moment 5/15 

 近所の玉川上水を散歩する。陽気がいいので何人もの散歩する人とすれ違う。ケヤキの緑が気持ちいい。あたりを無数の小さい緑色の羽虫が飛び交っている。アブラムシである。アブラムシは面白い繁殖の仕方をする。有性生殖で卵から生まれたものは春に孵化し羽がある。この羽のあるアブラムシはすべてメスで、その後、植物にとりつくと羽を落とし単性生殖で幼虫を生む。この時は卵からではなく卵胎生で直接幼虫が生まれ、羽をもたないアブラムシになる。飛ぶ必要もないわけだ。この羽のないアブラムシはすべてメスで、さらに単性生殖でどんどん生む。生めよ増やせよ地に満ちよ。アブラムシは数で勝負である。ねずみ算どころではない。こうして庭のバラはあっという間にアブラムシで埋め尽くされる。天敵のテントウムシがいなければ地球全体がアブラムシだらけになってしまう。やがて、秋になり涼しくなってくると、羽のあるものが生まれてくる。この中にはオスも混じっていて、交尾したメスは晩秋に卵を生む。この卵は冬を越して、翌年の春に孵化し、羽のあるメスなる。

 というわけで、この時期、木立の中をぶらぶら散歩をしているとやたらとアブラムシが目の中に飛び込んでくることになる。しまった、メガネかサングラスでもかけてくるんだった。玉川上水の木立をうつむき加減で足早に立ち去る。


■ A piece of moment 5/17 

 トレーニングの日。すっかり体がなまっているので近所の体育館へ行き、バスケとウェートトレーニングをする。体が思ったように動かない。シュートも入らないし、すぐに息があがる。パソコンに向かっている時間を減らそうと決意する。2時間半のバスケと1時間のウェイトトレーニングの後、半年ぶりに体重を量る。74キロある。服を着て靴を履いている分を引いてもウェイトオーバーである。明らかに筋肉が減って脂肪がふえていることになる。体が重たいわけだ。73キロとして、8年前から5キロ増、15年前から8キロ増になる。これから週3回、体育館に行こうと決意する。5キロ落とそう。といっても「アメリカン・ビューティー」のお父さんみたいに娘の友達に狂ったわけではない。


■ A piece of moment 5/18 

 最近、やたらとゴシップがらみで登場する叶姉妹。突如さわがれ出したけど、ありゃ一体何者?
 あんな連中、今まで見たことも聞いたこともなかったぞ。


■ A piece of moment 5/26 

 This week
 先週木曜、授業をしていていきなり生徒に試験範囲を聞かれる。ぜんぜん知らなかったが試験前一週間らしい。あわてて問題をつくる。今回はめずらしく快調に完成。月曜、以前より不調だったパソコンのCPUとメモリーを交換する。これで我が家もカッパーマイン650MHになる。速い。火曜、しばらくやめていたネットワークゲームを再開。楽しい。もうすぐ発売になるDiablo2も楽しみ。問題はこれをやっていると人と口をきくのが億劫になるのと社会生活が遠のいて行くこと。パソコンオタクに人とのコミュニケーションが下手なのが多いのはそんなもの必要ないからである。それは職人に無愛想なのが多いのと同じことで、モノや記号を相手にしている人間にとって、人づきあいはおまけみたいなものだ。金曜、めずらしくさくっと試験の採点を終わらせる。教頭の言っていたとおり本当にデキが悪いが、ガッコの勉強がすべてじゃないし、まあいいでしょう。ともかく試験週間終了。明日は久々のバスケである。

 最近欲しいもの ヘビ皮のパンツとデジタルカメラ。


■ A piece of moment 6/3 

 This week

 先週のバスケは雨で行けず。このところ週末になると降る。めずらしく気合いが入っていただけに残念。今週から「Railroad Tycoon 2」というアメリカ製のコンピューターゲームを始める。名前の通りアメリカに蒸気機関車を走らせるゲーム。J・P・モルガンやジェイムズ・ヒルといった実在の鉄道王や銀行家たちと駆け引きをする。ときどきブッチ・サンダースやビリー・ザ・キッドといった西部劇でお馴染みの連中がでてきて列車強盗を働いていく。たんに線路を引いて駅を建てればいいというわけではない。鉄道経営で会社に利益をもたらし、その会長である自分は自社株の配当金を元手に株式市場の買い占めをする。自社株だけでなく競争相手の株も買い占めることができる。自前の資本金による売買だけでなく、金融ブローカーを通じて信用買いや空売りもできる。株の仕手戦という奴である。もちろんコンピュータープレイヤーも同じように仕掛けてくる。鉄道会社も同様に企業債権を発行して市場から資金を調達できる。というよりもぎりぎりの戦いをしているときは借金をくり返さなければ生き残れない。深い、深すぎる。これは大人のゲームだ。バブルで破産したウィークリーマンションの社長のお言葉「返すな借りつづけろ」を連想する。やることが多くて理解するまで時間がかかるがこんなに面白いのは久しぶりだ。ネットワークで人とも対戦できるらしい。お気に入りは赤と銀色のアメリカンなんとかという機関車。詳しくはこちら。日本語版も発売されている。

http://www.poptop.com/railroadtycoon.htm
http://www.mediaquest.co.jp/hot/rrt_c.html

 金曜日、授業で過疎の山村のドキュメンタリービデオを見る。非常に丁寧につくられた作品で気に入っているのだが生徒はやや退屈気味。よいドキュメンタリーほど映像に語らせるので集中して見ないと良さがわからない。例えばこんな場面がある。村の老夫婦が町に住む息子夫婦に引き取られることになる。その村はほとんど老人ばかりの山村だ。40年にわたって近所づきあいをしてきた隣のお祖母さんは取り残されたかたちになり、去っていく車を見ながら道ばたにへたりこんでしまう。お祖母さんは涙ぐんでいる。ところがお祖母さんは呆然とした表情のまま道ばたの雑草をブチブチとむしりはじめる。それは農家の嫁としての40年間の習性なのか、無意識にむしる手つきの良さがあまりにも雄弁にその状況を語っていて悲しくて可笑しい。カメラはずっとその様子をとらえつづける。

 土曜、取りだめておいたビデオをまとめてみる。鉄道王はいそがしいのだ。NHKでやっている「一弦の琴」、だんだんよくなってくる。妹役の子がかわいいと思っていたのに死んでしまった。残念。TBSの「CBSドキュメント・60ミニッツ」、毎度のことながら面白い。毎週こんなに面白いレポートを3本もよくつくれるものだ。ブータン社会の紹介がとくによかった。CS放送の「スタートレックDS9」、ときどき大筋と関係ない話で抜群に面白いときがある。今回はこんな話。宇宙ステーションのスタッフが惑星間の外交交渉の準備で出張し、1週間ぶりにステーションに帰ってくる。すると妻は何かよそよそしい。ふだん親しい上司や部下も様子がおかしい。自分は技術部門の責任者なのに、ステーションの司令官はセキュリティや機密事項を自分に隠そうとしている様子だ。やたらとしつこく健康診断を受けさせられる。妻も慣れ親しんだ仕事仲間もまるで人が変わってしまったようによそよそしく冷たい。不信感をいだいた男はひとりで調査を開始する。どうやら惑星間同盟をめぐって陰謀がおきているらしい。ステーションの司令官が惑星の過激派と秘密通信をしていること、自分の個人ファイルが勝手に読み出されていることがわかってくる。男はしかるべき筋に訴えでようとするが惑星連邦の上官までも取り込まれているようで自分の話に耳をかそうとしはしない。逆に感づかれたことに気づいたステーションのスタッフたちに追われる身になる。男はシャトルでステーションを脱出し、外交交渉をおこなうことになっている惑星に出向くが、とうとうそこでとらえられ過激派に撃たれてしまう。瀕死の男の目の前にもうひとりの自分が現れる。同席していたステーションの司令官によって、自分が惑星間同盟に反対するものによってつくられた複製であること、非常によくできた複製でどちらが本物かわからなかったこと、複製には同盟の式典で破壊工作をするようプログラムを仕込まれていたことが語られる。男は妻の名前を呼びながらスタッフたちにみとられて息をひきとる。

 明日は再びバスケだが、忙しい鉄道王としてはどうしようか迷うところである。


■ A piece of moment 6/20 

 久しぶりのバスケは体が動かなかった。トレーニングの必要有り。
 眼鏡をかけて電車に乗った。クリアーに見えて車内の女の人がやけに不細工に見える。逆だといいのに、こまったもんである。
 ハリー・ポッターを読んだ。ぎらぎらした感じがないところがアメリカ製ファンタジーと違って良い。ハグリッドのキャラクターが気に入る。はやく続きが読みたいが翻訳がでるのは当分先だろう。長いこと待たされそうだ。こういう物語はシリーズを一気に読みたい。
 今月も「噂の真相」を買ったがまだ読んでいない。

 そんな1週間だった。


■ A piece of moment 6/21 

 バイクである。このくそ暑いのにバイクである。夏は乗りたくないのだが、ひと夏じゅう乗らないとエンジンがおかしくなるので乗らねば。しかしヘルメット。そうヘルメット。ただでさえ暑いのにあのヘルメットをかぶるんだよ。もう想像しただけでうんざりだ。しかも現在使用中のは借り物のフルフェイス。フルフェイスなんだよ。頭は蒸れ、息はこもり、汗が額からじんわりとつたわってくるあの感触、もう思い浮かべるだけでバイクに乗りたくなくなる。新しいヘルメットを買おう。

 BS放送のトライアスロン中継をぼんやり見ていて、あの自転車用のヘルメットは涼しげでいいような気がしてくる。カメの甲羅みたいなアレはよく見るとやけにサイバーなデザインで格好いい。空気の流れを考えて溝がいっぱいあるし、夏はあれにしよう。と思い立って、自転車用のヘルメットを探しはじめるが、あれはどこで売っているんだろうか。近所のディスカウントストアにも国分寺丸井のスポーツ売場にもなかった。バイク用のヘルメットならあちらこちらに用品店があるけど自転車用はいったいどこに置いてるの。本屋で自転車雑誌を見たらやたらと種類はあるみたいだけど、あの膨大な種類の自転車ヘルメットはどこへ行けばかぶれるんだろう。誰か知ってる人いたらご一報を。当方真剣です。

 夜、野球中継を見る。巨人の本木のユニフォームがいつも気になる。彼、袖丈をわざと長くしているよね。7分袖くらいに。あれ、ステテコに見えてしまってどうにもこうにも格好悪い。本人は意図して長くしているみたいだから、あれが格好いいと思っているみたいだけど、どういうセンスしてるんだろう。あのステテコユニフォームはどう見てもヤンキー兄ちゃんのセンスだ。本木自身、ガラが悪そうだからああいうのにグッときちゃうんだろうな。お似合いデスヨ。


■ A piece of moment 6/22 

 学校の教師はアルバイターが嫌いである。ワルたちが卒業後、高校を中退してプーやアルバイターになっているのを聞くと、それ見たことかという調子で連中を揶揄しはじめる。でも、プーだろうがアルバイターだろうが自分の力で生きているなら立派なものだ。むしろ働くようになっても親がかりで暮らしているものや学校を卒業してそのまま学校に就職したような世間知らずの教師などよりもよほどいさぎよい生き方だ。彼らがそうやって組織に頼らず自分の力で生きていこうとするなら、それがどこまで通用するものか見届けたいし、応援したいと思う。胸を張ってアルバイターをやってほしい。収入や乗っている車の銘柄で人間が立派かどうかなんて評価されるわけじゃないんだし。

 問題はそうした連中の多くが親がかりで暮らしていることだ。はした金のバイト代は全部こづかいで、ねぐらも食事も洗濯も親に提供してもらって寄生虫のように暮らしながら「うるせえな」なんて言っているところを想像すると、その甘ったれた姿に虫酸がはしる。自分のケツも自分で拭けないような半人前の奴はでかい口たたかないで親のペットらしく小さく卑屈に暮らしてもらいたいものである。ペットや寄生虫に人権などない。それが嫌なら自立すればいいだけのことだ。

 プーになったワルたちが卒業した中学校の正門にたむろしている姿は本当に情けない。もっと毅然として生きてくれ。自立して生きているのなら、高校なんか行かなかろうが定職がなかろうが立派なもんだ。コンビニのバイトや水商売のどこが悪い。なめんな。

■ A piece of moment 6/23 

 少し前、テレビの深夜番組でテリー伊藤が千葉すずをわがままな奴は記録がよかろうがオリンピックなんか出すべきじゃないと顔を赤らめて熱弁をふるっていたのがずっとひっかかっている。あの馬鹿オヤジはこのところ露骨にタカ派的な発言が目立つ。ヨミウリ巨人、渡辺恒雄、小沢一郎、テリー伊藤、サピオ、文春、M1戦車という感じである。もともと大して面白い人物ではなかったが、このところ面白がらせようという素振りすら見せず、顔を赤らめてコギャルの悪口を言う姿と長島巨人をたたえる姿ばかりが際だっている。あれでは居酒屋で酔っぱらって若い子の悪口を熱弁しているおっさんと変わらないじゃないか。テレビに出さないでもらいたいものだ。

 スポーツ選手は記録がすべてだ。オリンピックの選考基準に「性格のよさ」なんてあいまいなものさしを持ち出したら、ますます選考官の腹づもりが横行して不透明なものになる。千葉すずが性格が良いのか悪いのかは知らない。でも、選考官のおっさんが気に入るような従順な選手ばかりが選ばれるような大会なんて少しも面白いと思わない。性格も素行も無茶苦茶な選手がなぜか新記録を出したりするところがスポーツの醍醐味ではないのか。そもそも、水泳連盟みたいなスポーツ関係の財団法人なんて、給料ばかり高くてろくに仕事なんてしていないはずだ。たいてい元運動選手が名誉職のように役員の座について、補助金を使っての接待とうちわの政治くらいしかしていない。せめてオリンピックの時くらい、あつかいにくい選手たちをきっちり管理して本番で実力が発揮できるようにマネージメントするくらいの仕事はするべきである。それを自分たちの言うことを聞かない選手は代表に選ばないなんて、管理職の怠慢も甚だしい。

 日本の社会は管理職のマネージメント能力に甘すぎる社会だ。有名な話だが、第二次世界大戦中、日本の下士官は「行けぇ」と言って若い連中を突撃させ、アメリカの下士官は「ついて来い」といって若い連中を引っぱっていった。アメリカ人の若者は日本の従順な若者と違って、そうしないと突撃なんかしないからだ。そう考えながら「コンバット」を思い出すと、確かにサンダース軍曹はいつも「援護しろ」と言いながら自分が突撃していた気がする。だから全体的な戦死者は圧倒的に日本軍のほうが多いにもかかわらず、小隊長クラスの死亡率だけを見るとアメリカ軍のほうが高い。カミカゼにしても体当たりしたのは若いパイロットたちで、それを指導した小隊長クラスは戦後も生き延びている。私たちの社会はそういう社会である。後ろのほうから「行けぇ」なんて言っているおっさんの怠慢が許される社会がこの先も続くかと思うとうんざりである。

 テリー伊藤はADたちをぶん殴るのが日課だったらしいが、若い連中を突撃させるのが自分の既得権益だと思っているおっさんは大勢いるようだ。だから突撃しない若い奴を見ると怒りを露わに熱弁を振るう。自分に愛人がいるのは棚に上げてコギャルに説教する。やはり醜悪である。テレビで見たくない顔だ。


■ A piece of moment 6/24 

 ビッグニュースである。
 田宮から1/16タイガーT戦車が発売されるのである。何といっても1/16である。でかいぞ、すごいぞ、金属キャタピラをガリガリいわせて動くぞ。値段は91800円!う、模型どころか1/1中古車が買える金額である。どうよどうよ。8月発売である。うぬぬぬ。

田宮模型のリリースノート

 油断しているとつい見てしまう朝の連ドラ。主人公の子役がかわいくない。まわりの大人の表情をのぞき込むように「どうしてえ」なんて舌っ足らずの話し方をする。みてみて僕ちゃんかわいいでしょと言わんばかりの様子だ。演出によるものなのか子役自身の資質によるものなのかわからないが、いつも周囲の大人の顔色をうかがっているように見える。人の感情に聡くてどう振る舞えばかわいく見えるのかがわかっているかのようだ。いやらしい。ガキはもっと木訥としているほうがいい。周囲の大人たちも子供を腫れ物でも扱うようにちやほやする。「子供はかわいいものである」というゆるぎない前提をもとに話が進んでいく。連ドラならではの強引な家族ファシズム。油断してみてしまうと半日くらい不愉快な気分になる。


■ A piece of moment 7/2 

 ようやく試験問題が完成。今回は難産。
 このところ毎日暑い日が続く。部屋のものを触るとホカホカとしていて体温よりも高い。たまらん。部屋にものがふえすぎて風が抜けないため、熱気がこもってしまう。本格的な夏がくる前に大幅に処分する計画をたてる。関係ないけど、モノポリーがやりたい。


■ A piece of moment 7/7 

 新宿のハンズに自転車用ヘルメットを見に行く。自分の不様な姿に打ちのめされてすごすごと撤退する。かぶっているというよりもアタマに変なものをのっけているようで、ワタクシの美意識が許さないざます。ワタクシ、どうしてこんなにかぶりものが似合わないざますか。鏡に映った自分の姿が目に焼き付いてしまったざます。夏は涼しげで良いと思ったのに。

 巷で話題のDiablo2が1年以上遅れてようやく発売。ええ、うちも買ったざます。やるざます、いくざます、地獄の果てまで怪物くんたちを追いつめるざます。このゲーム、戦略もチームワークもへったくれもないざます。ただ武器を振り回してどつきまくるばかりざます。アホみたいに単純だけど、ストレス解消にちょうど良いざます。突撃ざます。試験の採点も終わって、気分はもう夏休みざます。


■ A piece of moment 7/10 

 ウィンブルドンの決勝を夜通し見る。雨の中断もあって、結局朝までつき合わされる。好ゲームだったが、それよりも「ファミリーボックス」の「ガールフレンド」が気になった試合だった。どうしてテニス選手の男ってどいつもモデル女が好きなんだろう。モデル嬢の取り澄ました顔がテレビカメラにアップになる度に、「おらぁ、テニスのことしか知らねえバカだから、ああいうハデな女が好きなんだ」と選手たちがつぶやいているような気になる。それにしても大事な場面になるとNHKのカメラが交互に両選手の「ガールフレンド」を写しだすのには番組制作者の意地の悪さを感じた。

 スタジアムでの熱戦を見ながら、すっかり売れなくなったブルック・シールズがアガシから巨額の慰謝料を巻き上げたみたいに、世間知らずのテニス選手たちが海千山千の売れないモデルや女優の野心に利用されてるんじゃないだろうかなどと妄想がふくらんでいく。ファイナリストのふたりは古代ローマの戦士を思わせる立派な体格で、そのことが余計にそんな想像をかきたてた。


■ A piece of moment 7/11 

 テニスの全英オープンが終わったと思ったら、今度は名古屋場所がはじまった。
 体の大きい相撲取りが好きだ。なぜか昔から人気力士は小兵力士と決まっているが、おすもうさんは体が大きい方がいい。大柄な力士がゆったりと構える姿は何ともいえない雰囲気がある。街で見かけるおすもうさんが自分より背が低かったりするとちょっとがっかりする。

 大柄な力士には意外と気が弱かったりおっとりしたタイプが多いという。たぶん、体格に恵まれていることから周囲が放っておかずにその道を進んでしまったのだろう。そういう力士の中には、勝負の世界にまるで向かないような、緊張や動揺や安堵といった心の揺れが露骨に見えるものもいる。小錦がそうだったし、大ノ国や水戸泉もそうだった。ここ一番の大勝負になると、仕切の途中、きまって表情をこわばらせてまばたきをくり返していた。そしてたいていころりと負けた。場内は彼らが負けたことに涌き、彼らはその中を肩を落としてとぼとぼとさがっていく。でも、そんな繊細な心をかかえた大男たちが好きだ。まなじりを決して突撃していく小兵力士よりも、大一番でころりと敗れる大男たちのほうにずっと物語を感じる。

 ところで相撲の桟敷席に若い男がひとりもいないのはどうしてだ。テレビにうつる桟敷席はじいちゃんばあちゃんとうちゃんかあちゃんに女将にママにオネエチャンばかり。


■ A piece of moment 7/12 

 去年教えていたところの卒業生からメールが来る。「うちの学校は試験の結果が全員張りだされるんです。参りました」と書いてある。今どきそんなことをやっているのはマンガだけかと思っていたら、現実にあるらしい。カルチャーショックを受ける。最近の学校は運動会のかけっこまで1番だ2番だってやらなくなりつつあるくらい順番をつけることに神経質になっているのに、色んな学校があるもんだ。

 マンガだと、ずらっと廊下に張り出された試験の結果を見ながらモテモテ生徒会長が連続トップだったり主人公がビリから3番だったりあこがれの君が8番だったりするけど、ああいう光景も現実にあるのかね。興味がわいてきたので何人かに聞いてみたところ、私立高校だと試験結果を張り出すところはけっこうあるらしい。なかには教室の座席まで成績順にならばされるところもあるとか。ここまで徹底しているとギャグに見えてきて、渦中にいる高校生には悪いけど笑っちゃうな。まるでトランプの大貧民だ。かけっこの順番にまで神経質になっているのは一体どこの世界だって気がする。どうやらぜんぜん違う価値観で動いている異世界がいくつも存在しているらしい。


■ A piece of moment 7/13 

 NHKの人間講座ではじまった「謎とき昆虫記」、テキストまで買ってきて期待していたのにいまひとつ。講師のオジサンが自分の一生懸命さに酔ってしまっているようで見るのがつらい。結論や自分の思い入れを力説するのではなく、調査の手法や研究過程の楽しさを伝えてほしいのに。扱っている内容もホタルの光信号やトノサマバッタの群生相といったよく知られているエピソードなだけに、もう少し心地よい語り口で聞きたい。

 朝、新宿ですごいガニ股のおにいさんを見かける。今どきめずらしいくらいのガニ股で体を左右に揺らしながら歩いていく。タッグのやたらと入った紫色のズボンをはいていてホストふうだったけど、あんなんで客がつくのかね。不思議なものを見た気分。

 今月も「噂の真相」を買う。


■ A piece of moment 7/14 

 久しぶりにテレビで松本零士を見かける。YS11だかの制作秘話を紹介する番組のゲストだったが、時折カメラに写る彼は、番組の間中、終始行っちゃった人の目をしていて、たまらなく不気味だった。まるで宗教の人みたい。同じものを里中満智子や大林宣彦にも感じる。彼らに共通しているのは自分の思い入れを全肯定していること。この手の人物、少しも自分の思いに疑問を感じていない様子でおめでたい人といえばおめでたいのだが、同時に自分の思いの中で自己完結し他者の声を聞こうとしない傲慢さを感じる。はいはい国産飛行機でも国産ロケットでも作って大空でも火星でも土星でもイスカンダルでも行けると良いねえ夢はスバラシイねえでも俺の税金を使ってやろうとしないでね。

 今日で1学期の授業は終了。明日はバスケだ。


■ A piece of moment 7/15 

 暑い日が続き、脱水状態。アセかいて水飲んでアセかいて水飲んでまたアセかいて水飲んでをえんえん1日くり返して眠る。暑いせいか眠りが浅い。夜中に何度もおき、昼間うとうとする。暑い地域の人たちが昼寝をするのも、きっと夜の眠りが浅いせいなんだろう。日本もサマータイムで夜遅くまで働かせようなんて考えないで、夏場の昼寝を慣習化すればいいのに。そのほうがずっと気候にあっている。

 何か冷たいものはないかと冷蔵庫をあさり、飲みかけの野菜ジュースを発見。そうだ、2週間前に半分飲んだまま忘れてたとのどを鳴らしてペットボトルをほおばると、なぜかぬるぬるしたやわらかい物体がのどを通過していく。!?一瞬不安がよぎり、ペットボトルの液体を流しにあけると、赤い液体に混じって黒や白の半固形状の物体が次々と流れ出てくる。ぬおおおおおおおおお。

 興奮さめやらぬまま、流しにあけられた物体を観察してみる。黒いのはいびつなかたちをしていてどうやら青カビのようである。数は少なく、野菜ジュースの表面に繁殖していたものとみられる。圧倒的に多いのが半透明の白い物体で、直径2〜3センチくらいのキノコ型をしている。ナメコかマッシュルームを連想する。勇気を出して指で押してみるとプヨプヨとやわらかい感触。白カビのようである。それにしても見事な円盤形をしている。白カビは胞子が付着すると菌糸を放射状にのばして丸く育つようだ。何やら大発見をした気分。そんなことを考えつつ呆然と流しの中のマッシュルームたちを眺めていたら、明日の腹痛がアタマをよぎりはじめる。のどに指をつっこんでみるがうまく吐けない。結局めんどくさくなって寝てしまう。


■ A piece of moment 7/16 

 幸い食中毒にはならなかったらしい。丈夫な腹で良かった。お母さん、雑に育ててくれてありがとう。でも、昨日のバスケで再び腰痛。このところバスケをやる度に腰をやられる。半透明のマッシュルームはいまだ流しの底に残っている。水栽培でもできないだろうか。


■ A piece of moment 7/17 

 図書館の帰り、目の前をスケボーに乗った少年がダックスフントに引っぱられて猛スピードで走り去っていく。ダックスフントは何やらアウアウアウと奇妙な雄叫びを上げながらスケボー少年とともに猛然と遠ざかっていった。なんなんだあれは。もしかして散歩なのか。変なものを見てしまった気分。


■ A piece of moment 7/22 

 Diablo2、はやくも飽きる。殺して殺して奪って奪ってのくり返しで単調。この先つづけてもずっとこのくり返しかと思うとちょっとね。先が見えてしまった感じ。一応、レベル33のオープンキャラクターは残しておくので、バトルネットで人手が足りないときはつき合います。

 ずいぶん前、ぴあの投書に「大相撲中継で力士がタオルを腹→わき→顔の順番で使っているのを見ると勘弁してくれって気分になる」とあって、それを読んで以来、相撲の中継を見るたびにタオルの使い方が気になってしょうがない。今日はわき→顔の人はいませんでした。

 腰痛のリハビリをかねて10キロほど歩く。ゴロゴロ暮らしていたので足もとがふらつく。足がきちんと地面をとらえていないというか、脇腹と腰でバランスをとれていないというか、スタビリティが悪いというか、体がふわふわした感じ。次回のバスケは2週間後の8/5。少しは動ける体を作りたいところである。あ、暇な人、どうぞ。8/5の18:00に練馬の出版健保体育館です。俺はそれまでに近所の体育館に通って自転車をこぐよ。


■ A piece of moment 7/23 

 少し前、2人の知らない人から、Webのホームレスについてのレポート(→こちら)を読んだというメールが来た。1通は技術系の職場に入社したばかりという若い男性からで、まじめそうな文面だった。そこには、競争原理だけで社会がまわっているわけではない、弱者への救済がなければ弱肉強食のすさんだ社会になってしまうと書いてあった。文末にはもしよろしければ色々教えてくださいとあったが、教えられるような知識もないし何と返事を書けばいいのかわからなかったので、自分の考えを書くことにした。内容はWebの社会科の授業に書いたものとほぼ同じで、競争と社会保障の両方が必要なことは近代社会の原則で自分もそう考えていること、社会保障は「弱者への救済」や「やさしさ」などではなく誰でも働けなくなる可能性があるのだから当然の権利であること、ただし、ホームレスの問題をたんに社会問題としてとらえて「助けてあげなければならない可哀相な人たち」という目で見ることは逆に彼らを見下す姿勢を強めることにもつながる、したがって彼らの救済は「優しい手をさしのべる」などというものではなく基本的人権の保障の一環で「当然」の政策として行われるべきことだと考えていること、また、みずから望んで路上生活をしている者についてはリスクを承知でそういう生き方をしているのだろうから、保護する必要もないかわりにそういう生き方を選択する自由も認められるべきで、その暮らしは決して蔑まれるようなものではない、と書いて送った。

 ホームレス問題の根底には、人間の評価を社会的地位でのみ判断するという価値観の浸透がある。この価値観は人間の暮らしを社会構造というマスでしかとらえていない発想で、人間の多様性への冒涜でもある。ホームレスはみな同じ人格の持ち主とでもいうのだろうか。同様に一部上場企業の課長はみな同じように考え話すのか、タクシー運転手はみな同じ人柄なのか、教師はそろって社会常識がないのか。もしそうだと考えているのなら、そのイメージは社会経験のない小学生の思い描く「はたらくおじさん」像か、筒井康隆の小説にでてくるカリカチュアライズされた登場人物なみだ。たしかに私たちは社会的役割を演じている。でも、社会的役割のロールプレイよりも個人差のほうが圧倒的に大きい。たとえ社会的地位が同じだとしても、あなたと私は好みも考え方も違うし今日一日の出来事も違っている。この違いに目を向けずに社会的地位による類型にのみ注目し、そこから人を判断しようとする行為はあまりにもこの世界を単純に見ようとしすぎている。おそらく、高度経済成長期以降の安定した社会の持続によって、暮らしの中のロールプレイの部分が大きくなり、同時に単純化された社会イメージから人間を評価しようとする発想が浸透したのではないかと思う。人間集団をマスとしてとらえ、分類し類型化し、わかったような気になっていても、個人の実状は見えてこない。

 その青年からはその後メールは来なかった。私の文章に失望したのか、それとももともとそれほど興味がなかったのか、どちらにしろ見知らぬ人からの十数行のメールだけではその真意はわからない。もう1通のほうは名前も名乗らず乱暴な文体で、彼らにはかわいそうだが迷惑しなので何とかしてほしいと書いてあった。こちらの考えを求めているようには見えなかったので、返事は書かなかった。


■ A piece of moment 7/24 

 暑くて何もやる気がしない。いや、たんに何もやる気がしない理由を暑いせいにしているだけかもしれなんだけど、ともかく何もやる気がおきないのと非常に暑いのはどちらも事実だ。

 CS放送のチラシがポストに入っていて、そのなかにAVチャンネルのカタログがあった。暑さでぼんやりしながらながめているとAV嬢たちのスタイルがみんな同じであることに気づく。髪型はそろってかるく茶色に脱色したさらさらヘアーのセミロング。目元はパールピンクのアイシャドーで口紅もピンク。全員そうなのでどうもそういうお約束になっているらしい。でも、AV嬢たちが実生活でピンクの口紅やアイシャドーを愛用しているとはとても思えない。どぎつい赤や紫だったりヤマンバだったりアフロだったりグランジだったり迷彩塗装だったりするにちがいない。それはそれで面白いけど、商品の顔ではない。商品の顔はAVプロダクションが長年つちかってきたノウハウの成果であり、男の欲望喚起システムが集約されている。ピンクのつやつやリップと栗色のさらさらヘアーを見ると、男はスウィッチが入るようにできているのだ。モテたい婦女子はマネすると良い。アタクシも今日から見習うざます。あ、でもそういう格好をすると、よっぽど男が欲しいんだなって思われるかもしれないざます。見透かされちゃうざます。


■ A piece of moment 7/25 

 またテリー伊藤ががなっている番組を見てしまって、胸の中に澱がたまったような気分。日曜の深夜にやっているあの番組、「CBSドキュメント」の前だからつい見ちゃうんだよ。今度は、巨人がオカネで良い選手をかき集めることについて、どこが悪いんだ、巨人が強ければ客は入るしスポーツ新聞は売れるし視聴率は上がるしデパートの商品の売り上げも上がるしいいことずくめじゃないか、プロスポーツは興行なんだから主役のチームが中心になってまわっていった方がお客さんは喜ぶんだ、文句あるなら他のチームも良い選手を引っぱってくればいいと熱弁を振るっていた。ひええ〜。本当にこういう人がいるんだ。例によって顔を赤らめての熱弁で、冗談をいっているようには見えなかった。3年前にまさかこういう人はいるまいとからかったことがあるが(→これです)、現実はすぐそこまで来ているらしい。洒落にならん。

 たしかにプロ野球は興行だ。客は入ったほうがいいだろう。でも、客を呼ぶために人気チームを主役にすえて、そこを中心にゲームがまわるような演出を認めてしまうのはスポーツの持つフェアネスを根底からぶちこわすことになる。な〜にがフェアネスだ、お客さんが喜ぶんだから強い巨人を演出して何が悪いと言われればその通りだ。勧善懲悪ものまがいの単純で白黒はっきりつけた演出を好む人が多いのもその通りだ。でも、それは興行としては良い「出し物」かもしれないが、もはやスポーツではない。プロレスと何らかわらない。欧米の文化ではこうした出し物は三流の娯楽として位置づけられるが、フェアネスよりも腹芸と予定調和が好まれるこの社会ではメインストリートに存在する。それのどこが悪いんだと問われれば、悪い理由など見あたらない。たんにスポーツに求めているものが違うというだけのことだ。そういう演出が好きな人にケチをつける気はない。娯楽の好みに「正解」はないのだから。

 どうせならプロレスのようにスジガキも決めておいた方がよい。いくら良い選手を集めても負けてしまっては意味がない。ファンはよけいに屈辱を味わうことになる。優勝してこそのスター集団だ。八百長のどこが悪い、巨人が勝てば野球人気は盛り上がるし、日本の景気だって上向くし、なんたってお父さんのビールもおいしい。それに予定調和と腹芸は日本の文化でもある。チームごとにストライクゾーンを変えるのも良いが、どうせなら巨人選手だけ4ストライクでストライクアウトにするとなお良い。人生とは不公平なものであり、野球は人生の縮図である。ルールの手直しのどこが悪い。興行とはお客さんのニーズに合わせることを第一に考えるものだ。フェアネスなんて堅苦しいことを言い出すものより、もっと気楽に楽しめる娯楽のほうが日本人には向いている。やはり相手チームの選手には覆面をかぶせて、ときどき凶器攻撃をしてもらおう。打席に入ったらキャッチャーに毒霧を吹くのはお約束。お客さん喜ぶぞ。そして不滅の巨人軍は相手チームの卑劣な反則攻撃にも屈せず、21世紀、前人未踏の100連覇を目指すのであった。でも、その連勝記録をメジャーリーグと比較したりするのは恥ずかしいな。


■ A piece of moment 7/26 

 CS放送でシドニー・ルメットの地味めの作品をまとめてみる。「ガルボトーク」。甘い話だけどすごく良い。母親役のアン・バンクロフトがまた良い。うまいなあこの人。「トーチソング・トリロジー」の母親役も良かったけど下町のおばさん役をやらせると抜群。「ネットワーク」。コロンボにこういう野心家の女ディレクターが出てくる回があったのを思い出した。荒れた感じの映像も何となく似ていたし。「エクウス」。これは今ひとつ。わからなくはないけどこの手の情念ものはちょっとね。「ニューヨーク検事局」。映画全体を通してつたわってくる正義感や純粋さが嫌味でないところが良い。一歩間違えるとすごく押しつけがましくなりそうな話だけど、人物描写のうまさがそうなるのを押しとどめている。その点はルメットの代表作「12人の怒れる男」にも通じる。主人公のハンサムくんよりも父親役の男が魅力的だった。


■ A piece of moment 7/29 

 CS放送で古い映画を観て過ごす。うちは安い映画チャンネルしか契約していないから古い映画しかやっていないのだ。映画が終わってCSのチャンネルを変えるとこんどは古いサタデーナイトライブをやっている。チェビー・チェイスがでてきてウォーターゲイトのパロディとフォード政権を皮肉ったジョークをまくしたてている。やけにおもしろい。音楽のコーナーではパティ・スミス・グループが出演して例の叫び声をあげている。やけに若い。こういうのを1日じゅう見ていると一体いまいつなんだと不安になって、地上波にチャンネルを変える。お馴染みの顔がうつっている。番組は大して面白くもないけどちょっとほっとする。本当はどちらもテレビの向こう側の世界なのにこちらの世界に帰ってきたというかメタ世界の中のメタ世界というか、なんだか、トーキングヘッズの歌にあった「テレビジョンマン」みたい。まこと君は今週もボッシュートだった。


■ A piece of moment 8/1 

 ディレクTVから送られてきたパラボラを取り付け、スカイパーフェクTVが映るようになった。サービス期間なのでけっこう料金の高いチャンネルも映る。

 「タイタニック」を観た。周囲からは悪い評判しか聞かされていなかったので少々構えて観たが、思っていたほど悪くはなかった。ツボをおさえた単純なストーリーと大味だけど破綻のない演出で、脂身の多いステーキをたらふく食べたような感覚。2度観ようとは思わないけど映画のデキとしては中の上といった感じ。すくなくともジェームズ・キャメロンの映画としては「エイリアン2」よりもずっと良かった。まあ、予算のかけ方がヒトケタもフタケタも違うんだろうけど。

 こういう映画は見もしないでそのパブリックイメージをバカにしたり毛嫌いしたりする人も多いけど、そんな低次元なところで斜に構えてカッコつけているほうがみっともない。見下したところで自分がそれより上等な人間だという証明にはならない。それは桜田淳子が悪質なカルト教団の広告塔をしているからといって彼女の出演作を見てもいないのに嘲笑ったり、三島由紀夫の滑稽な政治思想を嫌うあまり読みもせずに彼の小説を敬遠するのと同様で愚かな行為だ。興味もない映画や小説に時間をさく気がしないという言い分はもっともだが、その場合は作品の評価めいたことをあれこれ口にするべきではない。見ずにして口をひらくなだ。作品は作品として正当に評価してあげなきゃ。


■ A piece of moment 8/2 

 「プライベート・ライアン」を観る。あれほどリアルな戦場の映像を見たのははじめてだった。怖かった。はじめのノルマンディー上陸戦のシーンはあまりに怖くて泣いてしまった。うなりをあげて飛び交う銃弾、瞬く間に肉塊と化す兵士たち、砲弾の破壊力、飛び散る手足と内臓、血まみれの死体、無防備な体をさらして突撃していく兵士たち。正視できなかった。腕を吹き飛ばされてうめいている自分の姿がくりかえし頭の中によぎる。死が目の前にある。突撃は限りなく死に近づくことになるが突撃しないかぎり状況は打開できない。もし自分があの戦場に置かれたら恐怖に蓋をして突撃することができるだろうか。そんなことを思いながら、恐怖で足がすくんでしまった新兵のように呆然と戦場の風景を見ていた。

 トム・ハンクス演じる古参の中隊長はそういう状況下でやはり「援護しろ」と言って自分が突撃していく。決して後方から部下たちに「行け」とは言わない。そういう奴は軽蔑され、たとえ軍章の星の数が多くても誰も従わない。それがアメリカ軍の伝統のようだ。

 他、カサヴェテスの「こわれゆく女」など5本。映画づけの1日。


■ A piece of moment 8/4 

 新宿で「グラディエーター」を観る。夏になるとなぜかこの手の大がかりな映画が観たくなる。「スパルタカス」とか「ベン・ハー」とか、最近こういう大がかりな歴史物がないなあと思っていたところだったのでうれしかった。見事な映像。良かった。映画館の大きなスクリーンで観られて幸せ。ストーリーが単純だとか主人公が純朴すぎるとかそういうのはどうでもいいことで、こういう映画はひねらずにストレートに見せてくれて正解。映画のメインストリームはこういうのであるべきだと思う。でも、なぜか客はほとんどはいっていなかった。なぜだ。

 他、ビデオとCS放送で3本。


■ A piece of moment 8/6 

 バイクのエンジンが不調。きちんと燃焼していないようで回転がなめらかに上がっていかない。時々破裂音とともにマフラーから黒っぽい煙がでてくる。手に負えそうもないのでバイク屋に持っていく。自転車やバイクの修理は店によって料金がぜんぜん違うので要注意。店のディスプレイに凝っていたり店舗を改装したり派手にチラシをまいていたりするような商売っ気の強い店はたいてい料金が高い。近づくべからずだ。

 7年ほど前に、パソコンのキーボードが壊れたことがある。コーヒーカップを落としてキーがひとつ折れてしまったのだ。今のようにパーツでキーボードを安く売っているような状況ではなかったので、仕方なくメーカーのサービスセンターへ持っていくことにした。サービスセンターはやけに小ぎれいなビルに入っていて嫌な予感がする。ドアを開けて中に入るとショールームのような小ぎれいなオフィスでネジひとつ落ちていない。銀行みたいな制服を着たお姉さんがいらっしゃいませとニッコリ出迎えてくれる。絶望的な気分になる。ひと言ふた言話を交わしてみると案の定、機械の話がぜんぜん通じない。ハンダごてすら握ったことがなさそうな感じ。こうなってくると修理代金は予定していた額よりもヒトケタ大きくなることを覚悟する必要がある。キートップひとつ取り替えるだけの簡単な作業なので、予定ではキーのパーツを100円くらいでわけてもらって自分で交換するつもりだったが、30分以上待たされてでてきた技術担当者はパーツ売りはしないと言う。ああ、やっぱり。仕方なくキーボードを預けることにする。結局、なおるまでに2週間も待たされ、9000円もふんだくられた。明細を見ると部品代10円、工賃6000円、基本料金3000円。キートップひとつ変えるだけで工賃6000円とは。おまけに基本料金ってなんだよ基本料金って。この異様に高い修理費がなんにも機械のことがわからない受付のおねえちゃんの給料になるわけね。日本式資本主義の一端を垣間見た気分。こういうぼったくり商売で日本企業は成長してきたというわけだ。なめんな、エプソン。同じ日、バイクのリアブレーキを交換した。バイク屋のおっさんは油だらけになって錆び付いたリアホイールをはずし、ブレーキを交換してくれた。料金はパーツ代1600円込みで7000円だった。このバイク屋は7年後の今もちっぽけな店舗のまま細々と営業を続けている。これもまた日本式経営である。この出来事があって以来、メーカー製のパソコンは2度と買わないことを決意した。

 結局、バイクはエアクリーナー交換とキャブ調整をして、しばらく様子を見ることになる。「ガソリンの匂いが変だよ、これ、しばらくハイオク入れて様子みてみた方がいいよ」とのこと。まぜもののガソリンを入れるスタンドがけっこうあるらしい。気をつけねば、って気をつけようがないけど。なんにせよ、近所にああいうバイク屋があって良かった。店先でバイク屋のおっさんと1時間近く話しこむ。機械を相手にしている人たちと話をするのは楽しい。


■ A piece of moment 8/7 

 再び機械いじりの話。
 ワタクシ、機械がいじれない人間を軽蔑している。自動車の名前やターボだ200馬力だといったカタログスッペックにばかり詳しくて、自分でエアフィルターやオイル交換すらできないような者は非常にみっともない奴だと思う。また、たとえ機械に興味がなくても自動車の免許を持っている者がボンネットすら開けたことがないとかエンジンのしくみも理解していないというのは、これはもうダメ人間である。道具や機械は手の延長だ。私たちは日々機械の便利さの恩恵を享受しているにもかかわらず、しくみを理解しようとしない人のメンタリティに苛立ちをおぼえる。なぜそれほどブラックボックスを信用するのだろうか。冷蔵庫が冷えるしくみもわからない者が冷蔵庫をただ「冷えるものだ」と思いこんでいる様子は、その教義を理解しないまま詐欺師まがいの教祖を信頼する信者と大した違いはない。完全に知的怠慢である。

 古代ギリシア人が到達した哲学や演劇の水準の高さは驚嘆に値する。そのことは評価する。ただ、彼らの社会が大勢の奴隷を所有する社会で、かつ、手や体を動かしておこなう仕事はすべて奴隷にやらせていた。この一点において、私は彼らを軽蔑する。彼らが価値を見出したのは文学や音楽や政治思想といった理念の世界であり、自らの手で形あるものをつくり出す行為は奴隷の仕事と見なしていた。その傲慢なメンタリティに不快感を通りこして怒りをおぼえる。私たちは思考として存在しているが、同時に形ある世界の住人でもある。


■ A piece of moment 8/9 

 録画しておいた「マリリンとノーマ・ジーン」を観る。ノーマ・ジーンというのはマリリン・モンローの本名で、デビュー前の「ノーマ・ジーン」とハリウッドスターになってからの「マリリン・モンロー」を別々の女優が演じる。たんにダブルキャストというだけではなく、野心家で自分の成功のためには平気で人を利用するパーソナリティをノーマ・ジーンが受け持ち、大衆のセックスシンボルとなりながら傷つきやすく子供っぽいほどの純真さをかかえたパーソナリティをマリリンが受け持つ。ふたつのパーソナリティは分裂症のように顔をのぞかせときに口論しときに慰め合い、その不安定な自意識の中でしだいに彼女は薬物への依存を深めていく。面白い演出だったが、マリリン・モンローの二面性をもう少し自然な形で表現できなかったものだろうか。あんなにきっちりとふたつの性格に分けてしまうと、まるっきり別人のようでひとりの人間の中に多面性があるというふうに見えてこない。まるで耳元で小悪魔がささやきかけるマンガみたいだった。それと、ノーマ・ジーンの性格づけがあまりにも計算高い野心家で、マリリン・モンローの伝記映画というよりもシャロン・ストーンみたいに見えた。

 マリリン役をミラ・ソルビーノが演じているが、この人、いつ見てもぬいぐるみのクマさんを連想する。ほにょほにょしたしゃべり方もぬいぐるみチック。ウディ・アレンの「誘惑のアフロディーテ」に出演していたときはウディ・アレンよりも完全にアタマひとつ大きくて、やけにでかい女だなあと思ったが、今回は普通サイズに見えた。ウディ・アレンが小さすぎるのか。彼、168cmあるってホントかいな。


■ A piece of moment 8/10 

 マイク・フィッギスのハードボイルドものを4本まとめて観る。「リービング・ラスベガス」が気に入る。ニコラス・ケイジ演じる主人公は仕事も生活もうまくいかず酒びたりの生活を送っている。もはや本人にも生活を立て直そうという意志はない。ハリウッドでの脚本家の仕事をクビになったのを機にこのまま酒で死のうとラスベガスへやってくる。ラスベガスで男はひとりの娼婦に出会う。行きずりのふたりは互いのかかえている寂しさに惹かれあう。何もかもあきらめ憑き物が落ちたように素直にふるまう男を女はかわいいと思う。男は女の美しさと優しさを愛おしく感じる。ただ、男は日に日に衰え、ふたりの結末が女には見えている。男はただゆっくりと死んでいくだけで、先のことなど考えようとしない。女と人生をやり直そうとは思わない。だからこそ男は計算も打算もなく残酷なほど優しい。女はそんな男の姿により惹かれていく。な〜んて、ずいぶん男にとってムシのいい話で、こんな女いるわけないじゃん。身勝手な男のマスターベーションみたいな映画。ただ、そうあって欲しいという願望はわかる。だから、この手のハードボイルドものが綿々とつくられつづけているんだろう。主演のニコラス・ケイジはやはりうまいのかもしれない。もしこういう役をミッキー・ロークがやったらクサくて正視できないのではないかと思う。


■ A piece of moment 8/11 

 「LAコンフィデンシャル」を観る。よいよい。こうこなくっちゃ。脚本も演出もよい。何より登場人物たちが魅力的だった。複雑な内面をかかえていて、単純な悪役やバカがでてこないのが良い。1950年代のロサンゼルスを舞台に3人の警官が登場する。ひとりは若くマッチョで粗暴で子供っぽい純情さの持ち主だがアタマは切れる。周囲に踊らされているようでしだいに事件の本質にせまっていく。もうひとりは処世術に長けた汚職警官。もはや正義を振りかざすほど若くはなく、組織の中の人間関係をかけひきとバランス感覚で乗りこなしている。冷笑的なマキャベリストだがまるっきりの悪党というわけではない。その辺のバランスが非常にリアルだった。ケビン・スペイシーはうまいなあ。3人目は強い上昇志向と潔癖すぎる正義感をあわせもつ若い警官。一見ひよわで理の勝ちすぎるインテリに見えるが人の心理を見抜くのがうまくタフなかけひきをする。事件の捜査は彼を中心に展開していく。脚本も複雑に伏線が張られていて面白かった。ただ、なにやら下敷きにしている事件かドラマがあるみたいで、そのバックストーリーを知らないのがもどかしかった。これ、実話をもとにしているんだろうか。

 他、ジョン・カサベテスの「グロリア」「オープニングナイト」。あと「ラスト・ボーイスカウト」も。


■ A piece of moment 8/12

 バスケをする。なんだこりゃ。ぜんぜん体が動かない。ひざを痛めた曙みたいに気持ちだけ前のめりになってつんのめりそうになる。走れるのは3分間だけ。ウルトラマンみたいである。帰りは雨に降られてずぶぬれになってバイクで帰宅。スカイパーフェクTVに本登録する。


■ A piece of moment 8/19

 夜中、部屋の電気を消すと耳元でウウウ〜ンと羽音がする。昨日も一昨日も喰われたあいつだ。そおっと枕元の電気をつけ羽音のする方を目で追うが、そいつは明るくした途端に逃げ去っていく。

 わが家はときどき茶色の蚊がでる。あれに喰われると痺れるような痛みをおぼえる。痒くはない。藪蚊に喰われたときとは明らかに違う感覚だ。すぐは腫れてこない。喰われてから半日くらい経って何事かと思うほど腫れてくる。患部は炎症を起こしているようで熱を帯びている。指の関節などを喰われると曲がらなくなるほど腫れる。その後、痛みは数日つづき、喰われた箇所はしだいに赤紫になって約ひと月残る。最後は針を差し込まれた部分が小さなイボ状となって、これは数ヶ月残ることになる。どうやらアカイエカの唾液にアレルギーがあるらしい。この茶色い蚊、どこから涌いてくるのか冬でも出現する。おまけに薬品への抵抗性が強いようで、蚊取りマットや線香では死なない。藪蚊と違って下水で鍛えられてるんだろう。強敵である。くそっ。


■ A piece of moment 8/22

 最近のできごと

その1  ぜんぜん知らない人から「メールアドレスが変わりました」というメールが届く。なんのこっちゃ。Webのアドレスも書いてあったので覗いてみると、ファンシーでメルヘンで乙女チックで顔文字炸裂だった。圧倒される。「どんぐり」さんだそうだ。なんかすごいな。メールの末尾には「♪(*^。^*)」とあった。これは挑戦状だろうか。きっとそうにちがいない。怖いので返事は書いていない。勇気のある人、どうぞ。ラブリーなMIDIが悔い改めよと言ってるみたいで懺悔しなきゃいけないような気になる。 →ここ。

その2  ぜんぜん知らない人がうちのサイトにリンクを張っているのを発見する。もちろんこのサイトはリンクフリーだし、見知らぬ誰かが気に入ってリンクしてくれたことは喜ばしいことだし、社会学の渡辺潤教授のサイトやあのアリアドネとならんでリンクされているのも恐縮である。でも、この人かなりユニークな人みたいで、暴走していく文章に圧倒される。メールを送ってみようかとも思ったがやはり怖いのでやめた。勇気ある人はどうぞ。女子大生のお姉さんらしい。彼女にファンシーでラブリーな顔文字メールを送ってみるのも面白いかもしれないが、挑戦状と受けとられても私は一切関知しない。 →ここ。


■ A piece of moment 8/23

 ドラッグクイーンになった夢を見た。新宿のショーパブでバングルスの「エターナル・フレーム」(→歌詞)を熱唱していた。なんちゃってのパロディステージではない。くすぐりはいっさいなしであの甘ったるい歌を真剣に歌いあげていた。曲がもりあがっていくにつれてとうとう感きわまって泣き出してしまい、ラストのコーラスのところではしゃくり上げながら歌っていた。泣きながらスポットライトを浴びる自分のいじらしさを思うとそれがまた気持ちよくて、まるで「ガラスの仮面」である。考えようによってはオゲレツなショーよりもこっちのほうがよっぽど下品だ。あまりの下品さに目がさめ、その後しばらく呆然とした。でも一方で、どうせならお客さんたちからの花束に囲まれながら「私がここまで来れたのは応援してくださった皆さんのおかげです」って泣き崩れてみたかった気もする。夢なんだし。

 新宿2丁目のお姉さんたちに松田聖子のファンが多いのが少しわかった気がする。


■ A piece of moment 8/26

 映画づけの日々が続く。CS放送の映画チャンネルと契約したため、1日2本ペースで観ているのにぜんぜん観きれない。いくらでも観たい映画があってめでたいといえばめでたいのだが、生活がCS放送に振り回されつつある。トーキングヘッズの歌にあったテレビジョンマンみたい。契約チャンネルは10チャンネル以下にしぼった方が懸命と結論を出す。

 にもかかわらずレンタル店からビデオまで借りてきて、小津安二郎ものを集中的に観る。今日はバスケがあるけど、ちっとも体を動かす気になれない。暑いし。


■ A piece of moment 8/28

□ 小津映画についての個人的覚え書き。

・ 劇的な瞬間は意図して描かない。多くの映像作家が見せ場と意気込んで描こうとするような物語の山場は省略され、それが済んだシーンへと移行する。そのことが非常に心地よい。劇的な非日常の瞬間よりも、それを経験してきた人たちが織りなす淡々とした日常を描きたいのだろう。逆にそのことが何げない日常の中に常に劇的な要素をはらんでいることを示唆する。そして人生は回るだ。
・ 床上すれすれからの構図は、私自身ごろごろと寝そべっている時間が長いせいかほとんど違和感を感じない。むしろその低い視点こそ畳での生活感覚そのものではないかと思う。
・ 逆に、バストショットの連続とカメラの上10cmへを見ながらセリフを話しはじめる演出には強い違和感をおぼえる。まるで教育テレビでやっている英会話番組みたいだ。
・ 不自然でぎこちないセリフの棒読みもすごく気になる。一方で、そうした言いまわしや画面構成がリアリズムを遠ざけ、様式化された世界をつくりだす。オブラートでくるまれたように生々しい刺激がなく、丸く収まった世界。そこを舞台に展開されるからこそ、日常の些細な事件や登場人物たちの思いがひきたってくる。あの様式が許容できれば、登場人物たちに共感できるし彼らが繰り広げる交友や会話を心地よく感じられるようになる。敷居は高い。私にはあの様式化された世界をすんなりとは受け入れることができず、時として拒絶反応を起こす。その場合は気どった金持ちたちが他愛もないことでうだうだしているだけにしか見えない。非常に特殊な映画だと思う。だから小津映画が多くの人から支持されているのは不思議な気がする。「小津は良いね」くらいのことを言っていれば映画通にみられると思って、カッコつけているだけの人が多いのかもしれない。
・ くり返しのセリフが持つリズム感と論理性のない会話が許される人間関係が心地よい。「そうだよ」「そうかしら」「そうさ、そうにきまってる」「そうかしらねえ」なんて。
・ 一貫して描きつづけている家族の絆と家族という形態へのこだわりは時として押しつけがましく感じる。家意識の強かった当時の時代背景を考慮に入れても、家族ファシズムのように見えることがある。小津自身は生涯独身だったというのに不思議だ。
・ 山の手の上流家庭を舞台にした一連の作品はエリート臭が鼻につく。登場人物たちは裕福な知識階級で交友範囲も親戚や旧制中学や女学校時代の同級生に限られている。映画には粗野な貧乏人はほとんど出てこない。出てきたとしても舞台装置みたいなもので主人公との交流はない。そういう限定された刺激のない世界の中で登場人物たちは小さな日常のドラマを展開する。貧乏長屋の住人である私はイライラする。「お茶漬けの味」の木暮実千代なんてまるでイメルダ・マルコスみたいだ。小津の映画を公開当時に観ていた観客も映画の登場人物のような気どったインテリばかりだったのだろうか。当時の日本にそういう観客が大勢いたとは思えない。興行として成立していたのが不思議だ。
・ 女性の登場人物の多くはわがままだったり小狡かったりする。唯一、原節子だけが毎回、純情で思いやりのある役で登場する。小津映画のマリア様である。華やかだし。
・ 笠智衆は「麦秋」のような実年齢に近い役でばきばき話すよりも老け役でのんびり話すほうがずっと良い。
・ 杉村春子は老け役もそうでない役もたいした違いを感じない。
・ 佐分利信の父親役が好き。木訥として鷹揚な様子に人間的な暖かみを感じる。
・ 佐野周二は苦手。神経質そうな顔と甲高い話し声がやけにかんに障る。演技もわざとらしい。


■ A piece of moment 8/29

 夜中に「視線のエロス」を観る。どこかで見たような聞いたような話である。気が滅入る。


■ A piece of moment 9/7

 ひさしぶりの授業である。ひさしぶりなのでどうせ生徒は一学期にやったことは忘れているはずだろうから復習のプリントをやらせる。で、プリントをやらせて暇なのでサボっている連中と一緒に叶姉妹はニューハーフなんじゃないかとかだべる。なぜかそんな話題で盛り上がる。勉強する奴は課題さえだしておけば放っておいてもやるんだし、まあいいかという感じ。そんな授業を3コマもやる。くたびれる。勤労の美しい汗ってやつだな。生徒は相変わらずフレンドリーだったが、どうやら言葉を話すパンダのようにみられているような気がする。別にいいけど。

 昼、会議室で給食を食べながら、おじさん先生から東南アジアの独裁政権についての話を聞かされる。どうも聞いていると、スカルノがフィリピンの独裁者でマルコスの前任者だと勘違いしている様子で話がかみ合わない。かみ合わないまま、ずれた話をはぁはぁと合図地をうちながら聞かされる。あんなむちゃくちゃな国に日本が多額の援助をしてやっているなんてカネをどぶに捨てるようなものですよそれにイメルダ・マルコスもチャウシェスク夫人も女が政治に口を出すとろくなことがおきないですね、などなど。つかれた。スカルノはインドネシアの独裁者で彼が親日派だったのはインドネシア国軍の基礎づくりに日本軍が関わって以来のつながりだし、政治に女が口を出すのが悪いのではなく同族支配と特権をもたらす独裁政権自体のしくみに問題があるわけで、でもそれをいえば日本の政治家もほとんどが世襲だし有名政治家の「ご子息」は高校生の時から夜な夜な札びら切って六本木で豪遊だそうでそれは特権階級以外の何ものでもないし官僚の汚職体質も似たようなものだし日本の政治状況もアジアの独裁政権と大差ないと指摘しようかと思ったがやめた。蒸し暑いし。労働はたいへんだ。勤労感謝の日にはぜひ感謝されたいものである。なんちゃって。


■ A piece of moment 9/9

 ビョークのインタビューが乗っていたので「CUT」を8年ぶりに買ってみる。彼女の話はつまらなくはなかったが取り立てて面白いものでもない。カネはらってまで読むほどの価値はない。読みながら自分は彼女の音楽は好きだが彼女自身にはぜんぜん興味がないことに気づく。それに気づいて改めて誌面を見直して、これが有名人のインタービュー雑誌であることをようやく理解する。より正確にいうと有名人の偶像崇拝雑誌だ。インタビュアーたちの思い入れの強さがたまらなく気持ち悪い。どのインタビューや紹介も書き手の思い入れたっぷりで、読み進むにつれて気が滅入ってくる。そういえばこの手法はロッキンオンの雑誌すべてに共通している。しかし、表現者は作品がすべてではないのか。役者はフィルムや舞台で音楽家は演奏とその記録物で物書きは文章で、それぞれ表現しきることが求められるのではないのか。それをインタビューで作品解説する行為は作品の表現力に欠陥があることを自ら認めているようなものだ。にもかかわらず彼らは大いに語り、偶像に魅せられたインタビュアーたちは偶像と一体化すべくにじり寄る。なんという不気味さ。この種の二次創作物がメディアに氾濫しているところを見ると、多くの人はきっと作品よりも有名人の偶像のほうが好きなのだろう。作品の何倍もの二次情報があふれ、作品に触れる前からそれを取りまくムードに流されかねない。催眠術にかかりやすい人の中には観もしない映画のマニアになったりその映画監督の信者になったりする者も大勢いるのだろう。出版社はもうかって良いだろうが、そんな二次情報をありがたがっている読者はまるっきり馬鹿みたいだ。

 ビョーク以外では、クリス・カニンガム、スパイク・ジョーンズ、チャーリー・カウフマン、ギャスパー・ノエ、ティム・ロス、テレンス・スタンプ、スティーブン・ソダーバーグといったいかにもな面々がならぶ。このセレクションも鼻についてしまって、全部読み通すのはちょっとした拷問だ。有名人の偶像に自分がまったく興味ないことをひたすら確認するだけの作業になりつつある。ティム・ロスの子供時代がどうしたこうしたなんて、だからなんなんだよ。


■ A piece of moment 9/16

 ディレクTVがつぶれた途端に、スカイパーフェクTVが基本料金を100円値上げすると言ってきた。そりゃないんじゃないか。あまりにも露骨でわかりやすすぎる。市場独占のモデルケースとして「政治・経済」の教科書に載せるべきである。


■ A piece of moment 9/22

 ナンシー関のWebサイトを見つけた。(→ここ)文章は適当に書き散らかしたのをちょこっと載せているだけなので雑誌に書いているものほど面白くないが、なぜか「消しゴム版画」はたくさん掲載してある。ところが、あの「版画」はどう贔屓目に見ても彼女の文章ほどは面白くない。似てる似てないという似顔絵レベルの評価はどうでもいいとして、コロッケのモノマネやヒトコマ漫画みたいにツボをおさえているかどうかがポイントなんだけど、これがねらいはわかるが絵として表現しきれていない感じ。そのとどいていない感じが見ていて非常にもどかしい。にも関わらず不思議なことに本人はかなり「版画」にこだわりを持っているみたいで、イラスト指南のページまである。なんだけれど、これが「ニワトリの描き方」やら「ウシの描き方」やらベタベタなページで、彼女にそんなものを期待している人なんてこの世にいるんだろうか。絵に関しては何か大きな勘違いがあるような気がする。ニワトリの足が4本だ2本だなんて、とてもあの文章を書いているのと同じ人間のセンスとは思えない。好きなものと得意なものとは必ずしも一致しない例のひとつなんだろう。「好き」がまともな判断力を曇らせてしまっているのかもしれない。「日々精進」なんて書いてあるのが痛ましい。で、消しゴム版画の「作品」のほうなんだけど、雑誌に掲載したものがそのままWebにアップしてある。出版社も版画のほうは文章のおまけと見なしていてはじめから版権を放棄しているのかもしれない。ともかく消しゴム版画だけは盛大に見ることができる。あ、もしかしたら本人もその辺をわかっていて、だからこそネット上で個人的に消しゴム版画サイトを開設したのかもしれない。ところであの「版画」、線の感じがサインペンのイラストとほとんど変わらないしわざわざ版画でやる必然性があるとは思えないんだけど、これも何かこだわりがあるんだろうか。(アレ、本当に版画なの?)もっとも趣味でやっていることに表現手法がどうこう言っても意味ないのか。


■ A piece of moment 9/24

 夜中にテレビをつけたらいきなり「シンクロ」をやっていた。びっくりした。見てはいけないものを見てしまったような気分。深夜4時、ブラウン管には強烈に頭をひっつめて目のつり上がったお姉さんが映し出されニカ〜ッと笑っている。彼女はおもむろにツンと上方70度を見上げロボットのような不思議な動作で手足をくねらせた後、バネ仕掛けのようにプールに飛び込んでいった。一瞬判断力が停止し、自分が見ているものが何なのか理解できなかった。いままで見慣れてしまったためについうっかり「シンクロ」とはああいうものだと認知してしまっていたが、あれは慣れてはいけないものだったのだ。安易にあの様式を受け入れるべきではない。土星から来た人たちが地球人の生態を調査するように、もっと注意深く観察しそこで何がおきているのかを冷静に見届けなくていけない。「シンクロ」は演技を審判が採点することによって順位が決まる。表現力や技術力が評価されるらしい。ということは、あれを「美しい」と思っている人がどこかにいることになる。その美しさに少しでも近づくために選手たちはニカ〜ッと笑い奇妙なポーズをつけ、審判たちはその演技をシンクロ的「美」と比較することで点数を割り出す。選手や審判が本気であの動きを美しいと思っているのかそれともたんにあの様式に従っているだけなのかはわからないが、少なくとも建前としては「美しい」と思って演技し採点していることになっているはずだ。そうでないとあの競技は成立しない。ネス湖のネッシーみたいにプールからにゅうっとあがってきた脚を美しいと思っている人がどこかに必ずいるはずだ。そう思っている人たちがあの様式をつくり出し、こっちのネッシーは9.5点でこっちのネッシーは9.7点と採点基準を定めてきた。それはいったいどこの誰なんだ。一杯おごるから、ぜひその人の話が聞きたいものである。ワタクシは韓国チームのネッシーがなめらかそうで気に入ったんだけど、審判たちはお気に召さなかったみたいで高い点数はつかなかった。


■ A piece of moment 9/25

 そごうが裏金を調達するために作った子会社が「超音波」というらしい。またなんで超音波なんだ。見過ごしてはいけない。近頃、自分の知らないところで何かが進行している気配がする。21世紀を目前にしてバベルの塔の扉が開きつつあるのかもしれない。用心しなければ。


■ A piece of moment 9/26

 何の種目かわからないがテレビにオリンピックの表彰式が映っている。女子選手の表彰だと必ずメダルを持ったおじさんがちゅっちゅとほっぺたをくっつける。あれはロシアの体操選手あたりがやると非常に絵になるんだけど、ソフトボールや柔道の女子選手がやるとなにやら倒錯の世界に見えてしまう。日本のソフトボールチームなど誰ひとりにこりともせず、まるで自分があの「図」の中にいることをひたすら耐えているみたいだった。きっと1000本ノックより辛かったにちがいない。おじさんとしてもあの迫力ある顔にちゅっちゅとやるのはさぞや怖かったのではないかと思う。おじさんの勇気をたたえたい。


■ A piece of moment 9/28

 近頃しだいに減りつつあるキャッチセールスだが、唯一幅を利かせているのが本屋の店先でやっている英会話学校。「キャンペーンやってます、ぜひどうぞ」っていうあれ。ティッシュを受け取る調子でうっかりあのハガキを受け取ってしまうと長い苦痛な時間が待ちかまえている。さすがに入会してしまうようなことはないが、勧誘のお姉さんに一方的に押しまくられ会話にもならず強い敗北感を味わう。「負けたあ〜」って感じだ。見知らぬ誰かがひっかかって口達者なお姉さんにおされている姿も非常に不様に見える。屈辱的である。道行く人たちもああバカがひっかかっているという目で見る。本当はそんなの気にもしていないのかもしれないが、ひっかかった者は人目が気になり、自分の不様さを思うとますますうつむき加減で小声になる。お姉さんはその様子を見て一段とテンションを上げてまくしたてはじめる。ここが落とし時というわけだ。良くできた仕組みだ。手強い。なんともくやしいので、ワタクシ、アレを見つけたら必ず受けるようにしている。国分寺の本屋ではなぜかあちこちでアレをやっているので、暇な日は2度も3度も受けてみる。お姉さんが配っているハガキを受け取るだけでいい。受け取った途端、待ちかまえていたお姉さんは一気に自分のペースに引き込むようにまくしたてはじめる。それにしてもあれを「キャンペーンやってます」はないよなあ。

 ポイントは堂々としていること。お姉さんよりも大声で話し、できれば酔っぱらいのおっさんなみのでかい声でガハハハと店内に響きわたるようにやるといい。絶対にうつむき加減になってはいけない。相手の顔をまっすぐ見据えるか、ふんぞり返って天井を見上げるようにする。怒りをあらわにしたりお姉さんに乱暴な口をきいたりしてはいけない。そんなことをしてもお姉さんに勝ったことにはならない。あくまで鷹揚に世間話でもするように余裕をもって構えること。で、大声で自分の言い分をはっきり言う。この時点でお姉さんはこいつはダメだと見切りをつけはじめる。声が小さくなり勢いがトーンダウンする。そこですかさず、これが何のキャンペーンなのか、英会話学校の勧誘をキャンペーンというのは不正確なのではないか、そもそも一方的に引き止めて長話を聞かされたうえに住所や電話番号までかけというのはあまりにも無礼ではないのか、と問いつめる。あくまでおだやかにかつまっすぐに。セールストークで武装したお姉さんがたじろぐ姿を見るのはサディスティックな感触をくすぐられてけっこう楽しい。それにしても、なぜ本屋はあんなキャッチセールスを店頭にのさばらせておくんだろう。俺、あんなにキャンペーンにつき合っているのに一度も図書券なんて当たったことないぞ。キャンペーンなんだろ、こら。

 日本の社会では見知らぬ人間と会話をする習慣が仕事以外の場でほとんどない。習慣がないから私たちは見知らぬ人と何げない会話をするためのノウハウもほとんどもっていない。だからセールストークで武装しキャッチセールスという明確な「業務」で近づいてくるお姉さんに対処することができない。「ひっかかった」人たちをみていると、ただ圧倒されてもじもじしながら、「はぁ」とか「あぁ」とかうつむきかげんで合図地をするのが精一杯の様子だ。きっとお姉さんたちもサディスティックな快感をおぼえているに違いない。

2001

■ A piece of moment 1/26

 とくに何があったというわけでもなく久しぶりの更新です。この4ヶ月間で何があったかといえば、「スタートレック32時間」を観て、せっせと映画を観て、借りていたバイクを盗まれ、定期試験の問題を2回つくり、髪の毛を2回切り、腰を2回痛め、現在も腰痛である。バイクはナンバープレートだけが東村山で発見されたらしい。本体はいまごろ東南アジアの街角を走っているのかもしれない。土取、もうあきらめたほうがいいかも知らないぞ。あと、今年は年賀状は書かなかった。かわりにもう少し温かくなったら年賀状みたいに形式的でないカードを送ってみようと思う。そんなところだ。

 テレビでは今年から21世紀ということになっているらしい。やたらと「新世紀」という言葉を聞かされる。なんだかとってつけたような言葉で気に入らない。2000年も2001年も大差ないじゃないか。1999年から2000年になったときは3ケタ繰り上がっておおぉと感じたが、今回は「2001年だからなんだよ」って感じだ。スティーブン・グールドによると、21世紀は2000年からと2001年からの2説あるということだし、メディアがやたらと「今年から」新世紀とくり返すのはきっと何でもいいから話題にしたいからなんだろう。それにしても紋切り型な感じがする。

 電車の中で何人かの興味深い人物を見かけた。ひとりは小柄でしょぼしょぼした感じの40くらいの男性。少し頭も薄くなっていて区役所か中小企業の課長ふう。吊革につかまってじつにつまらなそうに本を読んでいる。どうせダイアモンド社あたりから出ている「管理職のための人心把握術」とかやたらと教訓的な時代小説でも読んでいるんだろうと思ってちらっと見たら、「うけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」とスパミング気味の文字が並んでいた。びっくりした。初期の筒井康隆あたりかもしれない。さえないおじさんはそれをにこりともせず無表情で読み続けページをめくった。油断できない人物である。こういう人が職場では頭の悪いOLたちからさえない上司としてバカにされてながら自らもさえないおじさんを演じているのかもしれない。人生の神秘を思う。

 もうひとりは20代後半くらいのOLふうの女性。いちおうプラダのバッグをさげているがコートの縫い目から少々綿がはみ出ていたりして野暮ったい感じの身なりをしている。身なりなどかまわない人なんだろう。そんなことよりも、彼女、電車に入ってくるなりおもむろに本を広げ食い入るように読みふけっている。それはもう何事かというような気合いの入った表情でむさぼるようにページをめくっている。あまりの迫力に近寄りがたいオーラを放っている。やっぱりどんな本か気になるのでそれとなくのぞいてみると、「釣りキチ三平」だった。ちょうど場面は三平が魚信さんのアドバイスを得て伝説のイトウを釣り上げるところだった。むむむ。

 ある朝、電車の車内に「着メロ」が響きわたる。ハズカシー着メロだぜ。ピコピコという間抜けな電子音がどこかで聞いたような景気の良いメロディを奏でている。「ルパン三世」のテーマ曲である。うひゃあ。1小節が終わり2小節目に入る。誰も出ない。2小節目が終わり3小節目にはいる。さすがに周囲のものたちは「持ち主はどんなヤローだ?」と持ち主探しに視線をおよがせはじめる。4小節目に入ったところで、くたびれた感じの40代のおじさんがそおっと胸ポケットから携帯をとりだし電源をオフにした。周囲もあえて彼に視線を向けないようにしながら彼の動作をうかがっているみたいで、なんだか悪いところ見ちゃったなぁという感じ。おじさんは真っ赤な顔をしながら携帯を胸ポケットにしまっていた。ちょっとチャーミングだった。それにしても何で朝からこんな緊迫感を味わわねばならないのだ。着メロははずかしいのでやめてくれ。

 そんな年末年始であった。


■ A piece of moment 2/5

 すこし前、NHKの「クローズアップ現代」でヒットチャートを飾る女性シンガーの特集をやっていた。女性というよりも少女といったほうがいいような感じの思春期特有の「痛い」歌を歌う人たちで、椎名林檎と浜崎あゆみと何人かの新人歌手が取り上げられていた。どうやら番組はこういう「痛い」歌詞に共感する心の闇をかかえた現代の若者像というスジガキでまとめられているみたいだったが、こういう歌って何もいまにはじまったことじゃないじゃん。橘いずみやら中島みゆきやら綿々と続いている系譜に見えるし、そもそも、ここは自分のいる場所じゃないのではないかという思いや集団の中にいることの息苦しさ、日々くり返される日常への閉塞感、自分がいま・ここにいることのあてどなさといった思いは、「トムソーヤ」や「ライ麦畑」といったはるか以前の頃から青春小説のメインテーマだ。様々な人々によってくり返し物語られ歌われ描かれ、またそれらの作品は多くの人々の共感を得てきた。そういういたたまれない思いがあったからこそジョニー・ロットンはステージで暴れ回り、パティ・スミスは聴衆に向かって叫んだのではないのか。番組では司会のお姉さんが「中学生・高校生の頃って人生で一番楽しくて悩みのない時期なのに、いまの若者たちはこんなに多くの人が心の奥に闇をかかえているんですねえ」と驚いた顔でコメントをしていたが、私には彼女の薄っぺらい健全さのほうがよほど不気味だった。もしやこの人はネバーランドからやってきた人なんだろうか。彼女が保守系の政治家や財界人に人気があるというのもその辺の安心感によるものなのかもしれない。

 テレビというメディアはお茶の間のメディアとして、心の闇の部分をできるかぎり排除してきた。おそらく多くの人が心の中にかかえているであろうはずにも関わらず、テレビが想定した空想上のお茶の間からは生々しい感情や心の闇は取り除かれてきた。だからそれらを取りあげ報道するときは、「社会現象」というパッケージをかぶせることで異物として対象化される。自分の中にある生々しさや闇ではなく、どこかの誰かのかかえている激しい思いや闇というわけだ。人ごとなのでそれらの闇は茶の間を浸食することはない。安心だ。番組は丸く収まり、結果として視聴者は架空の闇のないお茶の間からちょっとだけスリルを味わい、「いまの世の中何がおきるかわからないねえ」と何事もなくもとの場所へ回帰していく。逆に音楽系のメディアをはじめとして一部の専門化されたメディアは、そうしたテレビメディアの白々しさへの反発からか、ひたすら内部からの視線を投げかけてくる。その結果閉じたオタク的世界ができあがる。生々しい思いを伝えようとするばかりで、自らを対象化してかえりみようとしないので、同じ思いを共有しないものにはまったく届かず、外部への波及力を持たない。まるで宗教団体の会報誌みたいだ。どちらもメディアの手法としては下だ。生々しい思い伝えつつそんな思いをいだいている自分を突き放してみせること、この両者が必要じゃないのか。ところで、ワタクシ、椎名林檎は言葉の感覚や自己演出に感心するんですが、浜崎あゆみはただ自意識を垂れ流しているだけに思えて聞くと恥ずかしくてたまらないんですけど。


■ A piece of moment 2/7

 どうもサラ金のテレビCMが気になる。ひとつはアコムの「むじん君」。私はこれをずっと「無尽君」だと思っていた。サラ金が無尽をはじめたとはおだやかではない。よく役所がそんなの認めたもんだとあきれつつ無尽君のネーミングに感心したりしていたのだが、何のことはない「無人君」で機械がサラ金の入会手続きをしてくれるというだけのものだった。でも、そうわかった後でもテレビで「アコムのむじん君」をみるとやっぱり無尽君を連想してしまってぎょっとする。サラ金が講をはじめるとしたらいったいどんなものになるんだろう、きっと越前屋や悪代官や豊田商事やアムウェイも一枚咬んでいるにちがいない。入会すると部屋に入りきらないくらいの洗剤が送られてくるんはずだ。きっとそうだ。ああ幸せな老後をおくるためにボクも無尽君に一口入会しなきゃ。友達にも勧めてあげなきゃね。もうひとつは「レイク・エンジェルズ」。チャーリーズ・エンジェルズのほうはぜんぜんみたいと思わないけど、あの3人組のおねえさんがあんまり下品なんでこれもつい見てしまう。とどめを刺すようにジーコがなんにも考えていない顔で「カンペキダァ〜」というのを聞くともう生きているのが嫌になるくらい脱力感をおぼえる。こんな破廉恥なコマーシャルがどうして放送禁止にならないんだろう。俺、どんなことがあってもレイク・エンジェルズの世話にだけはなりたくないな。


■ A piece of moment 2/8

 朝、学校でタバコを吸っていたら、キョートウセンセーが神妙な顔で近づいてきて「ん〜センセイ」と切り出す。何事かと身構えたら、どうも休み時間に生徒とウノをやっていたことが問題らしい。そうか中学校はトランプの持ち込みは禁止だったのね。生徒が朗らかな声で「センセーもいっしょにウノやらない?」と誘ってきたのでトランプが禁止だなんて思いもよらなかったよ。ま、どっちにしろトランプくらいかわいいもんだ。はいはいやりましたやりました楽しませてもらいましたと笑って答えると、キョートウセンセー、まだ神妙な顔で「あ、やったんですか、え、ええちょっと生徒からウノのことを小耳にはさんだもので」と言いにくそうに続ける。もしや学年会で問題にでもなったんだろうか。私は社会科を教えているといっても学校の内部事情に関しては部外者みたいなものなので、こういう時、自分の感覚とそれぞれの学校の感覚とのずれに戸惑う。結局、その話題はそのままなごやかな世間話になって終わってしまったが、ちょっと気になる出来事だった。あれはいったい何だったんだろう。

 トランプなどのゲームに関しては、小学校では子供がもってくることを認めているところが多い。雨の日は休み時間にみんなで楽しく遊ぼうというわけで、担任もいっしょになって水道管ゲームをやっていたりする。ところが中学になるとほとんどの学校でこの種のゲームは持ち込み禁止になる。持ってきた奴は見つかると没収され、職員室できびしく説教されることになる。小学校も中学校も休み時間はみんなで楽しく遊ぼうという基本方針は変わらないはずなのにこの落差はなぜか?中学だと授業中もゲームをやって注意されてもやめない奴がでてくるからだそうだ。休み時間のトランプくらいべつにいいような気もするが、トランプを認めるとじゃあなんで麻雀はダメなんだ花札もやらせろオレはサバイバルゲームがやりたいときりがなくなるので全部ダメとなる。基本的に中学校の規則は「生徒は悪いことをするものである」という前提から出発しているのでこうなる。同じ義務教育でも小学校と中学校とでは学校生活についての発想が180度異なっている感じだ。自分が小学校から中学校へ上がったときもその落差に戸惑った記憶がある。小学校ののんきな気分のまま中学でも同じようにふるまいずいぶん担任と衝突した。「キミは自由人だからなあ」と担任氏は困った顔でよく言っていたがきっとさぞ手を焼いたことだろう。

 じゃあ、高校はどうかというとこれはもう学校によって千差万別で、去年教えた工業高校では授業中に8割くらいがケータイをいじっていたぞ。あれはどうなってんだ。なかには授業中もケータイで話し込んでいたりして、「あ〜もしもし〜オレェ、ああ、そう、いま授業やってるぅ〜ああぁ〜つ〜まんねえ授業なんだぁ〜で、そっちどうよ?」ってどうよじゃねえぞどうよじゃオレの目の前でてめえどういう神経してんだというのまでいたりした。片っ端から没収してその場で床にたたきつけて「授業中にケータイいじっているお前が悪い」と言い放ってみたかったが、学校としては何の対処もしていないみたいでどの授業でも野放し状態だった。橋本県知事も成人式で激怒ってやつだな。あれでよく学校が成り立っているもんだと妙なところで感心したおぼえがある。あ、成り立っていないのか。ともかくあれを経験してしまうと休み時間のトランプを問題にするほうがどうかしている気になる。もちろん授業中にやっていたら話が違ってくるけど。


■ A piece of moment 3/16

 オウム真理教の「サティアン」跡に建てられたテーマパーク「ガリバーパーク」が資金繰りの悪化で閉鎖されるらしい。毎日新聞の1面に写真入りで載っていた。そんなテーマパークが山梨県にあったこと自体知らなかったが、新聞に載っていたテーマパークの写真を見ていて気になることがあった。ガリバーがやたらと巨大なのだ。これはおかしい。どうもその場面は小人国にガリバーが漂流してとらえられた場面を描写しているようだが、ガリバーが巨人なのではない。そこの住人が小人なのである。ガリバーを大きくつくるのでなくガリバーに縄を掛けている住人たちを小さくつくるべきである。確かに大きさなど相対的なものだ。どちらの視点で見るかで大きさの基準も変わる。そうそうなのだ。なぜかこのガリバーの物語、私たちはガリバーの視点から読むことがない。物語は明らかにガリバーの一人称で語られ、彼の視点にそってすすんでいくにもかかわらず、多くの日本人は小人の視点から自分たちの国に「巨人」ガリバーがやってきた物語だと解釈しているような気がする。これは日本人の多くが驕り高ぶった18世紀の西洋人であるガリバーになど感情移入する気になれないためか、黒船以来の西洋人コンプレックスなのか、それとも子供のころにガリバーの物語に出会うために巨大なガリバーよりも小さな小人国の住人の視点にたってしまうのか、はたまた古館伊知朗がプロレス中継でアンドレ・ザ・ジャイアントが出てくるたびに「現代のガリバー!!」と連呼していたためか、ともかく「ガリバー=巨人」というイメージがある。学生のころ、小学3年生相手に教育実習をしていたとき、彼らのあまりの小ささに「まるでガリバーになった気分だよ」と言った途端、小さい人たちは「ガリバーだあ〜」と足もとにじゃれついてきた。ああやっぱり勘違いしてる。ガリバーをめぐるこの状況というのは日本特有のものなんだろうか。イギリス人のジョンに聞いてみようと思う。

 読みたいマンガが何冊かあるのだが、ぜんぜんどこの本屋にもおいていない。ひとつは倉多江美の「お父さんはいそがない」。連載が「ビックコミック」から「プチフラワー」に移ってやっと単行本化されたらしいがまったく見かけない。もうひとつは「ネムキ」に連載されている諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズの3巻。たしかだいぶ前にでたはずなんだけど、こちらは連載誌の「ネムキ」自体見かけなくなってしまった。もしや雑誌が廃刊になって単行本も流れてしまったんだろうか。こうして探してみてあらためて思ったんだけど、どこの本屋もマンガのコーナーが少なくなっているような気がする。マンガって最近売れていないの?ともかく、これらのマンガを本屋で見かけたら御一報ください。関係ないけど、勤め先の栄養士さん(40代半ばくらいの女性)が萩尾望都を愛読していると話していた。今、マンガの読者の中心層というのは案外これくらいの世代なのかもしれない。


■ A piece of moment 4/2

 「Ever Quest」というネットワークゲームがある。アメリカ製の多人数同時参加型のネットワークロールプレイングゲームで、日本でふつうにくらしているとまったく縁のない世界だが、知る人ぞ知るという感じで、それはもう濃い世界が展開されている。サーバーが立ち上げられたのが2年前で、世界中から約2000人がサーバーごとに集い、怪物を倒したり品物を売り買いしたり言い争ったり助け合ったり決闘したり派閥をつくったり友達になったり絶交したりなんてことをくり返している。ときにはゲームと関係のないバカ話でもりあがったりもする。片言の英語で大勢のアメリカ人の中に乗り込んでいく様子はバックパッカーの貧乏旅行を連想させる。もちろんかなりの数の日本人もいて、日本語の通じるコミュニティをつくり、共にゲームをプレイする仲間を募っている。怪物退治のゲームといってもコミュニケーション第一なので、当然、自分勝手なプレイヤーやだらしないプレイヤーはしだいにまわりから相手にされなくなっていく。それは現実といっしょだ。そのためこの種のゲームとしては比較的プレイヤーの年齢層は高い。家庭持ちのパパやママも仕事から帰ってログインしていたりするようだ。この2年間でゲームサーバーはしだいに増え、現在はそんな小宇宙が数十もつくられている。有料のネットワークゲームとしては成功しているといっていいだろう。

 このゲーム、「ドラクエ」の延長線上にあることは確かなのだが、ドラクエと決定的に異なる点がいくつかある。まず、多人数同時参加型のゲームなので、ゲーム内で知り合った者といっしょに戦うことが前提になっている。そのため怪物は非常に強く、ゲームの難易度は高い。うかうかしているとすぐ自分のキャラクターは死んでしまう。個人個人の技量もさることながら、コミュニケーションと指導力、人望、戦略の徹底が要求される。巨大なドラゴンを倒すためには100人以上の仲間を集めなければ歯が立たないなんてこともある。当然、非常に時間がかかる。人集めに数十分から数時間、打ち合わせと戦いの準備にまた数十分から数時間という感じで、そうやってようやく戦いが始まる。戦って何が得られるかというと、経験値と武器や防具、魔法、あとゲーム内で通用するお金である。経験値がある程度たまるとレベルが上がって、自分のキャラクターはしだいに強くなっていく。武器や防具も同様にそれを得ることで自分のキャラクターは強化され、より強い怪物と戦えるようになっていく。それらはプログラム上の電子データにすぎないのだが、向こう側の世界にいるとそれはきわめてリアルに感じられる。なんといっても、自分のキャラクターと手に入れた装備は半永久的にサーバーに残される。長い時間をかけて強化されたキャラクターはひと財産だ。そうしてプレイヤーは向こう側の世界へのめり込んでいく。そう、このゲーム、徹底してのめり込み型のゲームだ。つくっている側もその点はよくわかっていて、強力な武器や防具は非常に手に入れにくくなっている。数時間、数十時間と怪物を倒し続けても、しばしばそれらは得られない。手に入らないとますますほしくなる。そうして、ちょうど馬車馬の目の前にぶら下げられた人参のように、お宝にうえたプレイヤーを次の冒険へかりたたせる。

 これだけお宝が手に入りにくいとプレイヤー間の取り引きもさかんになる。他のお宝と物々交換したり、ゲーム内のお金で売り買いされたりとゲーム世界では常時お宝の取り引きが行われている。ちょうど蚤の市やバザーのように売り買いしたいプレイヤーばかり集まる場所も形成されている。それは制作者が意図して用意したものではない。必要にせまられたプレイヤーたちがそれぞれのお宝を持ち寄り、しだいに取り引きが慣習化されていった。その様子はまるでひとつの社会に経済が生まれ育っていく様子を見るようだ。それは完全な自由取り引きで、制作者側による一切の制度も価格統制もないため、同じ品物でも高い値をつける者もいれば安く売る者もいる。目新しく貴重な品ほどその差は大きいが、流通量が増加するに従ってしだいに「相場」が形成されていく。コミュニティの形成についての実験モデルとしても興味深い。こうしたオープンな市場での取り引きだけでなく、仲間内でのやりとりもさかんだ。親しい者に安く売ったり上げたり、もらったりという感じで、こちらは互助会や生活協同組合を連想させる。なかには現実のお金で取り引きしようという者もいるようだ。Webの掲示板を見ると、ゲーム内のお金やお宝を「〜を4万円で買います」「〜を200ドルで売ります」と告知しているを見かける。多くのプレイヤーはこうした現実経済への浸食を不快に感じているようで、私もこれには抵抗をおぼえるひとりだが、いっぽうであれだけリアルに機能している世界の財産を現実のお金に換算したいという気持ちもわからなくはない。その様子を見ていると、貨幣とはいったいなんだろうと形而上的な問いかけがアタマをよぎってくる。現実世界の貨幣価値もまた幻想にすぎないではないか、と。

 では、そうしてレベルが上がり強力な装備を手に入れたプレイヤーは何をするのか?答えは単純で、よりレベルを上げより良い装備を手に入れるために、さらに強い怪物と戦うことになる。ゲームの世界にはレベルが上がらないと歯が立たない怪物たちがいくらでも用意されている。プレイヤーキャラクターの平均レベルが上がって強い怪物たちが不足してくると、制作者たちはすかさずもっと倒しにくく、かつもっと性能の良いお宝をだす怪物たちを用意してくれる。もちろんドラクエのようなラストシーンは存在しない。悪の親玉も破壊の王も存在しない。ゲームが終わってしまうからだ。こうして、プレイヤーたちは終わりのないゲーム世界で際限のない冒険をくり返すことになる。単純だからこそひたすら前のめりに楽しめるというわけで、そのくり返しは中毒性をもっている。そんな世界にどっぷりと浸かった人を仲間内では「廃人」と呼び、互いに自虐的に笑い合っている。長時間のゲームプレイを要求されるこのゲーム、明らかに生活に影響をもたらす。

 どうです、あなたもやってみたくなりましたか?え?まっぴら?楽しいのに。興味を持った人は検索サイトで「everquest」と入力して検索してみてください。あなたの知らないひたすら濃い世界が広がっています。
 → 検索デスク

 個人的にはこちらの「Diary」が気に入っています。
 → EverQuest BBS


■ A piece of moment 4/9

 ちびちび読んでいたロバート・ホワイティングの「東京アンダーワールド」がようやく読み終わる。戦後の焼け跡から現在に至るまでの日米関係を不良ガイジン・ヤクザ・財界人・政治家に焦点をあてて浮かび上がらせているという内容。ホワイティングのいつもながらの大げさな語り口と日本社会について毎回くり返される紋切り型の考察にはややくどい印象も受けたが、今回は扱っている内容自体が魅力的だった。通俗文化と裏社会にはその社会の傾向が際だって現れる。特に日本社会の場合は裏社会が実質的に政治と経済を動かしているのでその傾向は顕著だ。そこをすくい取ってみせる。日本社会の外部に対する閉鎖性と内部に強要する同質性、無数の制度と法律でがんじがらめの表の顔の裏に広がっているコネとワイロとセッタイがものをいうグレーゾーン、アメリカ社会に対するあこがれと敵意をはらんだコンプレックス、一方で、戦後に支配者として日本に入ってきて、世界経済を牛耳り自分たちの価値観と習慣こそが普遍的だと思いこんでいる傲慢なアメリカ人たち。その両者がぶつかりすれ違うところで様々な事件が生じていく。ただ、この社会にくらす者のひとりとしては読み終えても依然として残る初歩的な疑問がある。ヤクザ・右翼・フィクサーといった裏の人間と政治家・大企業の経営者といった表社会の決定権をにぎっている人間とが互いを利用しながら密接につながっているというのは言わずもがなの日本社会の特徴なのだが、この構造で利益を得られのはきわめて特殊な社会階層に属する者に限られる。利益を得られないその他大勢の者たちはなぜ誰もが知っているこの構造を放置したままにしているのだろう。くり返し同じような事件が生じ、その度に騒がれるが、一時騒がれるだけで何も変わらない。そしてまた同じような事件がおきる。多くの者は明らかに不利益を被っているというのになぜ腹をたてないのだろう。読んでも疑問は解けないばかりかますますわからなくなる。それにしてもあの田中角栄がいまだに「好きな総理大臣」の筆頭にあげられるのをみるとやはりどうかしてるんじゃないかと思う。


■ A piece of moment 4/10

 テレビに田中麗奈が映っている。この人も不思議なポジションにいるタレントだ。いつまでたっても「ワタシ、テレビにでちゃいました」という感じのシロウトふうの印象を受ける。とくにかわいいわけでもないし、キャラクターがユニークなわけでもないし、話し上手なわけでも芝居が上手いわけでもない。テレビタレント特有の笑顔いっぱいで愛嬌を振りまく様子もない。そんなワタシがコマーシャルにでちゃいました、舞台にでちゃいました、ドラマにもでちゃいましたって感じで、なぜかいつの間にかポジションを確立しつつある。「なっちゃん」のコマーシャルがヒットしたのは、テレビというコテコテに演出された場に場違いな彼女が出演してしまったことの新鮮さだと思うのだけど、同じ調子で2本目3本目のコマーシャルもつくられるともうちっとも新鮮ではない。すぐに飽きられて消えていくか極端なイメージチェンジをはかるしかないのだろうと思っていたのだけど、いつの間にか彼女のキャラクターは定着し、すっかり知名度を得ているようで、明らかにもはやシロウトではない。じゃあいったい彼女のパブリックイメージはなんなのだろう。彼女がドラマに出演しているのを見ると、テレビ業界全体で「なっちゃん」のパロディをやっているような気がしてくる。彼女のファン層というのも気になる。おじさんなのかおばさんなのか若い女なのか若い男なのかあるいはおこちゃまなのかはたまたもともとそんなものどこにもいないのか?


■ A piece of moment 4/11

 面接試験では能力だけでなく人柄も判断するらしい。ペーパーテストだけではわからない部分を直接会って話をすることで見きわめるようだ。たいていまじめで明るくて人の話をすばやく理解し気が利く人間が評価される。こざっぱりとした身なりをしているかも判断材料になるらしい。入社試験なら「使える人材」を求めるためにそれでも良いのだが、入学試験での基準もそれと同じでよいのだろうかと思う。学校の役割は有能な人材を集めることではなく、もっと単純で、明るかろうが暗かろうがとんがった格好をしていようが性格が悪かろうが、学ぶ意欲がある者は受け入れ、その意欲に応えられる授業をすることではないのか。そりゃ授業をやる側から言えば、性格が悪くて嫌味な質問や意地の悪い発言をする奴はやりにくいんだけど、それでも本人が学びたいと思っているなら、カネとって授業をしているプロとしてはそれくらい我慢するべきだ。逆にぜんぜん学ぶ気もなく注意しても一向に改まらない者にお願いしてまで授業に出席してもらうことはないので、義務教育でないならとっととお引き取り願えばいいのではないかと思う。なのになぜ入学試験の面接で受験者の人柄までみようとするんだろう。すごく余計なことをしているように思える。なんてことを考えつつ、もうすぐ新学期の授業が始まる。


■ A piece of moment 4/18

 新年度の授業の打ち合わせにいってくる。単位制の高校ということで面白そうなので授業を引き受けたが、あんまり遠いんで授業をやる前からめげてきた。片道2時間、往復4時間。まるで地の果てである。往復4時間かけて50分の授業ヒトコマ。別の日にフタコマ。あまりに条件が悪すぎることに引き受けた今になって気づく。はたしてこんなの1年間続けられるのだろうか。せめて授業ぐらい楽しくできればと思うが、生徒たちが授業中ずっとケータイいじっていたらどうしよう。


■ A piece of moment 4/21

 単位制の高校で授業をする。まず職員室で生徒の名表をもらう。7人しかいない。やけに広い学校中を迷いに迷ってようやく教室にたどりつくと、教室には6人しかいない。夜の部の授業なのでとくに人数が少ないらしい。生徒は昼間にバイトしているのもいるみたいで、おれ倉庫で仕分けやってます、おれはカラオケ屋で店員、あ、もしかしてタンバリンならしながら店の中を走り回ったりしてるのあれカワイイよねなんて感じでなごやかに授業はすすむ。授業は現代社会の演習授業だったのでまるでゼミみたいだった。お茶でも飲みながらやるとちょうど良いかも知れない。1回目のテーマは出稼ぎ外国人労働者。雰囲気が雰囲気なので生徒からはそれなりに意見や体験談なんかもでて、こういう授業には向いている感じだった。この手の演習授業は30人も40人もいる中で教師が大声をだして講義調の話し方ですすめてしまうとうまくいかないし。ただ、英語や数学みたいに、ある程度スパルタンかつ積み上げ式に展開していく授業はあの雰囲気でやるのは難しそうだ。

 中学での授業もはじまる。こちらは1年生の地理。中学1年生はやけに小さくて、もうほとんど幼児番組のお兄さんになった気分。地球がまるいって知ってるかい?なんて大声で聞いたりして、我ながらやっていて少しテレた。ただ新宿の少年少女たちはあいかわらず屈託がなくてノリがよいのでたすかる。新宿の繁華街の真ん中にあるのに生徒たちはなぜか青春のけだるさみたいなのとは無縁で不思議な気がする。


■ A piece of moment 4/25

 夜の部のヒトコマ授業のために北赤羽まで行く。教室にはいると生徒は3人しかいない。う。本当に出席率の悪いゼミみたい。資料づくりに3時間もかけたのに。授業は世間話を交えて外国人労働者について生徒たちと議論する。あっという間に50分終わる。こういう授業は2時間、または3時間続きのほうがやりやすい。授業が終わって学食で夕飯。なんだか赤羽まで学食を食いにきた気分になる。かえりに霧雨が降ってきてぬれて帰宅。


■ A piece of moment 6/3

 テレビでイチローの試合を中継している。今日も打ったらしい。でも、彼のバッティングは見ていてあまり面白くない。ぺちぺちと三遊間に転がす様子は力感にかけていて、いくらヒットを増産してもはいはいよく打つねという冷めて気分になる。攻走守三拍子そろっているところも、これまた良い選手の典型みたいでしらける。ひとつふたつあらがある選手のほうが見ている方としてはずっと楽しい。マイケル・ジョーダンよりパトリック・ユーイングだし、千代の富士より小錦だ。

 イチローの唯一のすくいは人格的に問題があることだけど、なぜかこちらはぜんぜん話題にならなくなった。不倫スキャンダルを2000万でもみ消そうとしたとか、相手の人妻をソープ嬢なみに扱っていたとか、親しくつきあっていたスポーツライターを利用価値がないと判断した途端に手のひらを返して切り捨て訴訟にまでなったとか、インタビューは女のレポーターしか受けつけないとか色々言われていたことがあったが、メジャーで活躍するようになるとそんなことは何もなかったかのように試合での活躍ばかりが報道されるようになった。スポーツメディアにとって現在のイチローは、メジャーリーグで活躍するスーパースターという文脈でのみ語られる商品なのだろう。彼のスキャンダルや人格的欠陥はスター選手としての偶像をそこねるので、商売の都合でとりあえず今のところはみな口をつぐんでいるという雰囲気を感じる。きっとイチローが打てなくなって商品価値が下がったころに再びこうしたスキャンダルが吹き出してくるはずだ。勝てなくなった貴ノ花や打てなくなった清原がそうだったように。

 しかし、このあまりに一面的で薄っぺらい偶像に白々しさを感じる者は本当にいないのだろうか。スポーツの試合を見るとき、本当に人々はディズニーのおとぎ話のような文脈を望んでいるのだろうか。私にはとても信じられない。人格や社会生活に問題を抱えた人間が試合で活躍するからこそ面白いのではないのか。金に汚くあくどい投資をしてトラブルを抱えている選手がなぜか20勝したり、暴力犯罪と麻薬所持でしょっちゅう起訴されている選手が3割5分を打ったりするところが可笑しくて悲しくてビバ人間という気分を味わわせてくれるのではないのか。そもそも彼らは人格的に優れているからプロ選手になったのではないのだ。子供たちの手本などくそくらえだ。もちろん尊敬には値しないし、個人的につきあいたいとも思わないが、人間的な興味はわく。選手にたいして人間的興味を感じないスポーツの試合など、身体と丸い物体が動き回るだけの物理現象にすぎない。


■ A piece of moment 6/20

 1年に1度くらい、無性に清涼飲料水が飲みたくなることがある。ふだん飲まないので、こういうときは濃厚で甘くて毒々しい色をしたアメリカンなものが飲みたくなる。マウンテンデューとかドクターペッパーとかペプシとかコークとか。今回は猛烈にドクターペッパーが飲みたくなった。チェリー味でやたらと炭酸がきつくて薬品の風味がする何ともいえない濃い味が、ああ思い出すだけでたまらなく飲みたい、というわけでコンビニに直行。なぜか置いていない。そういえば最近見かけなくなったなぁと2、3軒のコンビニと西友をまわってみたが、どこにも置いていない。棚には、お茶とCCレモンやなっちゃんやポカリスウェットみたいな水っぽくて味の薄いものばかりが並んでいる。でも、私はこの手のものはめったに飲まないんだから、そんなカロリー表示がボトルに書いてあるようなうすいやつじゃなくて、もっとべったりと甘くてアメリカンなやつが飲みたいんだよ。

 アメリカンな甘い飲み物はどこの店からもすっかり姿を消していた。ドクターペッパーやマウンテンデューみたいな比較的マイナーなものだけでなく、スプライトまでもなくなっていた。この手のものはアメリカから直接輸入しているのではなくて、サントリーやキリンといった日本の飲料メーカーがライセンス生産をしている。商品が売れなくなったら契約をうち切ってしまって、少数の愛好家のために細々と製造を続けるようなことはしないのかもしれない。ドクターペッパーが飲みたい私はアメリカに行くか輸入食品を扱っている店に行くしかないらしい。飲めないとわかったらよけいに飲みたくなった。ああ……。

 コークとペプシとファンタはいちおう置いてあったが、棚のすみのほうに追いやられていて、以前ほどは売れていないみたいだった。でも、水みたいな飲み物なら水を飲んだほうがいいし、お茶だったら自分で入れたほうがいい。120円もはらって飲む気はしない。仕方がないので安売りをしていたCCグレープを買ってきたが、あまりおいしくなかった。


■ A piece of moment 6/27

 ドクターペッパー見つかりました。コカコーラからまだ生産されてるんですね。近所の自販機を片っ端からチェックしたところ、コカコーラの自販機の中に、ドクターペッパーが入っているものがいくつかありました。

 で、飲んでみました。記憶の中にある味よりもふつうの飲み物でした。もっと複雑で舌にクスリっぽい強烈な後味が残るものを思い浮かべていたんですが、わりとマイルドでおいしかったです。ただ、まあこんなもんかという感じで、ひと缶飲んで満足しました。もう当分いいです。まだ売ってるよと教えてくれたみなさん、ありがとう。

 先日の「60ミニッツ」では、アンディ・ルーニーがアメリカのソフトドリンクを紹介しながら文句をつけていました。アンディ・ルーニーのコメントは添加物がどうこうという話で、まあいまさらという感じでしたが、それよりも映像で紹介されているボトルのデザインがどれも強烈で見入ってしまいました。どれもこれも清涼飲料のボトルに見えません。エンジンオイルか液体洗剤のボトルに見えます。アメリカンズはあれをぐびぐびやるのかと圧倒されました。あ、今回はていねい語だ。関係ないですが、ワタクシ、マルシア語を聞くと、胃の下のあたりがむずむずする感触をおぼえるのでございますですよ。


■ A piece of moment 7/15

 管理人なるおばさんがやってきて、庭の雑草を片っ端から抜いていった。雑草の生い茂るなかに、露草がかわいい花をつけていたり、小さい緑色のバッタが集まって、ささやかな生態系ができあがっていたのに、そんなことはまったくおかまいなしに引っこ抜いていった。どうして田舎のばばあは雑草というと親のかたきのようにむしり取ろうとするんだろう。おかげで庭は赤土むき出しのはげ坊主になってしまった。この暑さでは土埃がたってかなわん。おばさんはさらに、「ああ、さっぱりしたろ、おにいちゃん、たまには自分で草取りしなきゃだめだよ〜」とのたまうので、地面むきだしでは暑くてまいります、今度からは少し緑を残してくださいと応える。管理人のおばさんは宇宙人でも見るような目でこちらを見ていた。砂漠化反対、森林伐採反対である。


■ A piece of moment 7/17

 中学の選択社会で生徒に書いてもらった感想文をどうにか文集のかたちにして生徒たちに配る。ぎりぎり1学期に間にあわせることができた。テーマは死刑制度だったが、生徒の感想はカタイのやら変なのやらアホなのもあって、それなりに楽しんで読めた。ただ、手書きの作文を全員ぶん入力していく作業はあいかわらず骨が折れる。もし生徒が全員コンピューターをあつかえるのなら、レポートはメールで送ってきてもらいたいところだ。それなら文集もあっという間にできあがります。


■ A piece of moment 7/20

 暑くて何もする気がおきない。部屋中のものが自分の体温よりも高くて、さわるとホカホカする。たまらん。内田百聞が季節というのは本来暑いか寒いかしかないのだといっていたのを思いだす。春も秋もたんに季節の境目に過ぎない。ジョンは毎年、夏になるたびに東京を脱出してスコットランドに帰りたがっていたが、元気だろうか。

 あまりの暑さに午後から近所のデニーズへ逃げ込んで、アイスクリーム一杯で3時間ねばる。おかげでハリーポッターの3巻が読み終わる。3冊の中では1番面白かった。


■ A piece of moment 7/21

 暑さから逃げるために近所の図書館へ行くが、やけに冷房がなまぬるい。冷やしすぎは体に良くないとか、省エネだとかという正論は良いから、ぎんぎんに冷房をきかせて欲しいものである。夏の図書館なんて、どうせみんな涼みにきてるんだしさあ。で、結局、冷気の吹き出し口のところへ椅子を運んで、陣取ることにする。冷たい風が気持ちよくて、暑さによる睡眠不足から、眠ってしまった。

 ハリーポッターだけど、主人公のハリーがカッコ良くて何でもできすぎるのところが引っかかる。主人公の描写に作者の願望を感じてしまって、いかにも女の人が書いた男の子が主人公の物語という気がしてしまう。少女マンガの学園ものに通じるものを感じる。この手の物語はもう少し内省的なほうが好みだ。「指輪物語」を読みはじめるが、こちらは延々と続く情景描写にはやくも音を上げている。話はいたって単純で、ふとしたことから世界に破滅をもたらす指輪を手に入れてしまった主人公が、指輪を悪者の手に渡さないために、仲間たちと長い旅の末、指輪を破壊する、以上、終わり。なのだが、それはもう延々と風景やら着てる服やら空の色やら生えてる木やら川の流れについての情景描写が続く。なんせ全6巻だ。読みすすめるのはかなりの苦行で、度々、斜め読みで読み飛ばしたくなる欲求にかられる。はたして読み飛ばさずにラストまでたどりつけるのだろうか。


■ A piece of moment 7/24

 ジョン・ダワーのピュリッツァー賞受賞作"Embracing Defeat"の翻訳が「敗北を抱きしめて」というタイトルで岩波から出版された。ジョン・ダワーは戦中戦後の日米関係が専門の歴史学者で、この本はその集大成といえる力作だ。以前から気になっていた本で、ぜひ読みたいのだが、近所の本屋をまわってみたところ、どこにも置いていなかった。

 1995年に、スミソニアン博物館の「原爆展」をめぐってアメリカで一大論争になったことがあったが、その時にジョン・ダワーがNHKのインタビューで語っていた言葉が印象的だった。アメリカでは、第2次世界大戦はドイツや日本の軍事独裁政権から正義と民主主義を守った「よい戦争」だったというコンセンサスができあがっている。とくに保守派はその勧善懲悪の文脈の中でのみ解釈しようする。その文脈に疑問を差しはさむ行為は、正義のために戦った兵士たちへの冒涜だとみなされる。そのため、アメリカで原爆といえば勝利のシンボルで、キノコ雲の下で数十万人もの民間人が犠牲になったことはほとんど知られていない。スミソニアンの原爆展はそうした負の面にも光をあて戦争の全体像をとらえようとする試みだったが、この企画は保守派の逆鱗にふれ、社会問題へと発展した。その論争の中で保守派は「愛国者たれ、批判するのではなくアメリカをたたえよう」と合唱する。「2発の原爆は第2次大戦の終結に役立ち、大勢のアメリカ兵の命を救った、以上だ、それ以外のことはとるにたらないことだ」と。そうした行為、つまり、英雄ぶったシナリオに基づく解釈を国民に押しつけ、歴史の中の事実を国民の目から遠ざけようとする動きについて、ジョン・ダワーは民主社会への冒涜だと語る。おだやかだが強い語り口だった。民主社会において、判断はひとりひとりが事実に基づいて行うべきものである、事実から目をそらし、愛国的物語を国民に押しつけようとする行為はあってはならないと。社会科の授業の中でも、しばしばこのスミソニアン原爆展論争のジョン・ダワーのインタビューを教材としてつかう。生徒たちは退屈そうだが、私は彼の話を聞く度に教室の後ろのほうで感動している。

 本屋にジョン・ダワーの本はなかったが、例の扶桑社の歴史教科書のほうは平づみになっていた。どうやら売れているらしい。バカは大勢いるもんだな。皮肉なことに、アメリカでの原爆展論争と同じ対立が日本でもくり返されているわけだ。民族は根拠のない幻想なので、その幻想を帰属意識のより所にするためには、物語としての歴史を必要とする。そこでは過去の出来事は事実である必要はなくなる。はた迷惑なロマンチストたちは、強引な文脈の中で過去をつくりかえようとする。この数百年にわたって、くり返しナショナリズムが原因の大量殺戮がおきてきたにもかかわらず、いまだに私たちはその大げさなロマンチシズムを克服できずにいる。幻想に酔うのは勝手だが、酔っぱらいほど態度と声がでかくなるのは困ったものである。


■ A piece of moment 7/29

 このところ、冷たくひやしたパスタをよくつくる。茹であがった麺をざるにあけ、そうめんのように水で冷やし、そこにたらこやドレッシングやトマトジュースをかけて食べる。ポイントはドレッシングで、色々ためした結果、キューピーのイタリアンドレッシングにおちついた。あと、パスタは1.3ミリくらいの細めのもののほうが食感が良い。自分でつくる食い物としてはめずらしくうまい気がする。


■ A piece of moment 8/3

 夏休みの長い時間をひたすらEverQuestに費やしている。単純な活劇の世界で、前のめりで単調な行為をくり返している。怪物を倒し、経験値をかせぎ、向こうの世界のお金と装備を手に入れる。ひたすらそれのくり返し。サルのマスターベーションみたいだ。傍でみている者がいたら、ゲームをやっている自分の姿はさぞ間抜けに見えるだろうな。ゲームを終えたとき、自分でもときどきバカらしく思えることがある。でも、やってるときはそんなことは感じない。向こう側の世界が単純なほど、前に進んでいく感覚にのめり込む。単調な行為に長い時間を費やすほど、向こう側にいる自分の分身が愛しく思える。そして、のめり込めばのめり込むほど、向こう側の世界はリアルに感じられる。困ったもんである。まあ、何の役にも立たないかわりに、まわりに迷惑をかけることもないのが救いではある。そんな人畜無害なゲームだ。

*あちらの世界の私*

■ A piece of moment 8/4

 あいかわらず、向こう側の暮らしが続く。このゲーム、目的と世界の構造は単純なのだけど、いかにやるかという部分に関してはきわめて複雑だ。メンバーを集め、作戦を立て、話し合い、乗り込む。失敗したら、作戦を立て直し、再度打ち合わせをして、乗り込む。ゲームとして最も重要な戦術部分に関しては非常に良くできている。そうしていっしょに怪物を倒していると、見ず知らずの彼らが本当に仲間のような気がしてくる。もう少し英語でのコミュニケーションがとれれば、もっと楽しめるんだろう。ただ、一方で、向こうの世界での「仲間」が、こちら側では原理主義教団の信者だったりするかもしれない。そう思うと不安がふくらんでいく。もしかしたら、アムウェイの訪問販売員かもしれないし、ナチのシンパかもしれない。そんなこともあってゲーム以外の話題については他愛もないことしか話さない。今週見た「60ミニッツ」の話もしないし、ウディ・アレンの新作の話もしない。もちろんジョン・ダワーの"Embracing Defeat"を読んだかなんて聞いたりもしない。ゲーム以外に接点がないような気がして、いまだにコミュニケーションの距離感をつかみかねている。

 よく出くわすプレイヤーにひとりやたらと口の悪いのがいて、彼を見かけるたびに「ER」のドクター・マルッチを連想する。「よう、Dr・マルッチ〜」と呼びかけたくてたまらない。本当に言動がそっくりなんだ。


■ A piece of moment 8/10

 国分寺の本多図書館へ行く途中で出会うネコがいる。いつも塀の一段低くなったところにすわって、道行く人をながめている。白地に茶色のブチで、よく毛並みが手入れされている。器量良しだ。いつも頭をなでる。うれしそうに目を細めてすり寄ってくる。すごくかわいい。物静かでゆったりと動く。雰囲気が芸子さんみたいなので、かってにポン太と命名して呼んでいる。


■ A piece of moment 8/13

 突然、高校の時に国語の教師が「文学とはタテ書きである」と力説していたのを思い出す。なぜ、文学がタテ書きなのかはぜんぜんわからないが、妙にインパクトのある言葉である。今まで私はまったく気がつかなかったが、もしかしたら文学とはタテ書きだったのかも知れない。友人にそのことを話したら、「間違いないね」と笑い転げていた。やはりそうだったのか。


■ A piece of moment 8/18

 台風がきている。子供のころから台風がくるとわくわくする。雨漏りしたり、停電したり、友達の家が床下浸水したり、中央線が止まったりすると、もう期待はどんどんふくらんでいく。巨大な台風は地上の何もかもをゆっくりと空に巻き上げ、過ぎ去った後の廃墟には、見たこともないほど色鮮やかな世界が広がっていることを思い描いていた。で、隣のクラスのかわいい子から愛を告白されたりするにちがいない。きっとそうだ。間違いない。そんなわけで「関東地方に接近」とか「950ミリヘクトパスカルで大型」なんて聞くと、ああもうどうしようって感じで、ともかく愛を受けとめる心がまえだけでもしておこう。


■ A piece of moment 8/19

 台風の被害は軽い雨漏りだけですみそうだ。ほっとしたような肩すかしをくったような気分だ。道ゆく美女から突然愛を告げられることもキム・ベイシンガーから国際電話がかかってくることも当分なさそうである。

 終わってしまった世界の空想は妙に甘くけだるい気分を誘う。UAの歌に「プライベートサーファー」というのがあったけど、あそこで歌われていた廃墟の風景と蜃気楼のような日常とが交錯する世界も、甘くけだるい虚無感が印象的だった。子供のころに見た台風一過の風景はぞっとするほど鮮やかで、自分が吸い込まれそうなほど生々しかったのを思い出した。


■ A piece of moment 8/22

 ずっとEverQuestをやっているせいで、どうしようもなく運動不足である。視力と筋力が明らかに低下し、タバコの量ばかりが猛然とふえている。このままではどうしようもないので、生活改善を決意する。どうせ2学期ももうすぐはじまってしまうことだし。ただ、このゲーム、やたらと時間を食うので、1時間や2時間のプレイでは、まともに遊ぶことができない。あちらの世界で充実した時間を過ごすには、仕事も妻も愛人もキム・ベイシンガーも老いた母もなにもかも捨てて没頭するしかないような気がする。アメリカでは、EverQuestのやりすぎのために衰弱して病院に運ばれた者もでてるという話だし、とにかくこのままでは危険である。週2日・4時間くらいのペースでうまく遊べる方法はないものだろうか。

*ゲームの中のカエル*
古くて長いつきあい。強敵。1匹逃がすとうじゃうじゃ仲間を連れてくる。Dammit カエル。ときどき夢にまででてくる。夢の中のカエルたちはぴょこぴょこはねながら、入り組んだ地下の迷宮をどこまでも追ってくる。カエルはどんどん仲間を呼び、ものすごい数になっている。目の前のカエルは大きな口を開け、にやっと笑った。だめだ、逃げ切れない。




■ A piece of moment 8/27

 しばらくEverQuestを止めてみたせいか人間の顔を見たい気分になる。カエルじゃなくてさ。喫茶店でぼんやりしていたら、レジのお姉さんがやけに色っぽく見える。もしかしたらカエルよりも美しいかもしれない。

 国分寺の本屋でようやくジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を手に入れる。上下巻で合計800ページの大著だった。買いそびれていた今月号の「噂の真相」もついでに買う。読みかけの「指輪物語」は、読むたびに情景描写の長さにいらいらしてしまって、3巻目の途中からちっとも進まないし、ともかく読むものだけはたくさんあって満足である。


■ A piece of moment 8/29

 図書館の雑誌コーナーでぱらぱらとページをめくっていたら、年輩の女性が入ってくるのが見えた。何やら思いつめた表情をしている。彼女はつかつかとカウンターのほうへ向かい、「離婚手続きについて解説している本はどこにあるんですか」と図書館員へ切り出した。尋ねられた図書館員は一瞬言葉に詰まり、少しどもりながら本のありそうな場所を説明していた。世の中いろんなことがおきるもんだと妙に感心する。それにしても夏休みの図書館はガキがうるさくてかなわん。


■ A piece of moment 8/31

 ひさしぶりにテレビでモーニング娘を見た。やはり人数がふえている気がする。週刊誌によるとさらにまたふやすそうで、このままだと会員ナンバー38番とか132番とかシモ3ケタ167が4等とかでそのうち日本人の3人にひとりがモーニング娘になって、ひとクラスの人数が多すぎると市民団体からクレームが来たり文部大臣の通知があったりもうこれ以上ふやせないと川渕チェアマンが怒ったりして、A組とB組に別れて入れかえ戦をやりはじめるにちがいない。きっとそうだ。え、これ前にも書いた気がするって?よくおぼえてますなぁえらいえらい。で、彼女たち、「ラブ・マシーン」を歌いはじめたんだけど、久しぶりに聞いたら歌詞と振り付けがあんまりゲヒンでキワモノなんで思わずのけぞる。あの歌、当時はOLの宴会芸とキャバクラお姉さんのカラオケソングだった印象がある。モーニング娘もずいぶん路線が変わったみたいで、いまのお子さまメンバーがアレをやっている図はチャイルドプレイを連想して倒錯の匂いがした。あの歌は深夜番組でわんだふるぅ〜って言ってるお姉さんたちのほうが似合いそうだ。モーニング娘の顧客層って、ここ3年くらいでOLとキャバクラお姉さんから小学生に変わったの?ところで、あなた、カラオケで「ラブ・マシーン」を振りつきで歌ったりしますか?あ、やらんでええちゅうねん。


■ A piece of moment 9/1

 1年ほど前から、ひと月に4通くらいのペースでウィルスメールが届くようになりました。差出人も送り先もなく、ウィルスと思われるEXEファイルが添付されています。意図して送信しているのか、感染してしまったために本人も気づかないところで送られてしまっているのかわかりませんが、定期的にクロ箱のメールアドレスに送られてきています。もちろん、添付ファイルを開かずに削除しているので被害はないのですが、気持ちの良いものではありません。

 いま、このページを読んでいる方の中で私のメールアドレスをアドレス帳に登録している方は、ぜひウィルス診断ソフトで感染の有無を確認してください。もし感染していたら、私だけでなくアドレス帳に登録されているすべての人にウィルスメールが送信されているはずです。早めにウィルス感染のチェックをお願いします。

→ トレンドマイクロ・体験版ダウンロード


■ A piece of moment 9/2

 などと書いたら、今日もウィルスメールが送られてきた。やけにタイムリーなのでわざと送ってきてるんだろうか。かまって欲しいのかもしれない。


■ A piece of moment 9/3

 CS放送で「燃えつきた地図」をやっていたので観る。安部公房の原作は高校生のころに読んで強烈な印象を受けたので、以前から観たかった作品だ。期待しながら観ていたのだが、なんともひどい出来だった。あの物語の核になる迷宮感がまったく表現されていない。映像が悪いし、演出もだめだ、ぜんぜんだめ。主人公が勝新なのもだめ。あの主人公はもっと無機的で風景の中にとけ込んでしまうような影の薄い人物でないといけない。勝新では生臭すぎる。登場人物は勝新や市原悦子をはじめとしてことごとく生臭い面々で、制作者たちの読解力を疑う。原作、読んでないんじゃないのか。そうでないとあんなに面白い小説がこんなひどい映画になってしまうとは思えない。道理でちっとも上映されないわけだ。「砂の女」が映画のほうも立派なのとは対称的だった。関係ないが、市原悦子は若いときからおばさん体型だった。

 NHKでやっていた陣内孝典の探偵ドラマが1回目だったので見てみる。こちらは予想外に面白くなりそうな雰囲気。それにしても探偵が主人公のハードボイルドものって、どうしていつもヨコハマが舞台なんだろうか。あ、宍戸錠のほっぺたがすっきりしていた。手術は成功したようだ。

 さらにぼんやりCS放送を見ていたら、大川橋蔵の「銭形平次」20年分を全部放映すると告知している。CS放送って、どうしてこうマニアックなんだろう。深すぎる。深みにはまると出口がない気がする。油断すると888本全部見てしまいそうでちょっと怖い。白黒映像の中の初代おかみさん・八千草薫はやけに若かくてきれいだった。告知によると「必殺仕事人まつり」もあるそうで、必殺27時間一挙放送って、いったいどこの誰が27時間も見るんだ。でも、もうすぐスタートレック25時間一挙放送もあるみたいだし、仕事も妻も愛人もぬいぐるみのクマちゃんもミシェル・ファイファーも老いた母親も何もかも捨てて人生をかける時がきたのかもしれない。EQをひかえてもちっとも生活が改まらない。見なきゃ。


■ A piece of moment 9/4

 本屋に行くと柳美里の「生」がめだつところに平積みになっていた。本の表紙には、自分に酔った表情の柳美里が聖母子像のようなポーズをつけてかわいくないガキとともに写っている。ひええええ。自意識たれ流しみたいな本を書き続けているとしだいに感覚が麻痺して、自己愛が肥大化していくのかもしれない。おそろしい。ところでこのタイトルは「ナマ」だろうか。だとしたら、柳美里とナマでやってしまうと泥沼の三角関係をくりひろげたあげくに可愛くないガキまで生まれてしまい、ついには手記まで出版されて彼女の肥大化した自己愛につきあわされるぞという意味が込められているのかもしれない。なかなか示唆に富んだタイトルである。などと考えながら、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を買って帰る。

 歌舞伎町の火事だけど、2階に入っていた風俗店というのが気になる。どんな店が入っていたんだろう。看板の「セクハラ・クリニック」という語感のまぬけさが44人も死んだ事件にそぐわなくて、テレビのニュース映像にビルがでてくるたびに妙な気分になる。


■ A piece of moment 9/5

 高校の授業で「つくる会」の歴史教科書問題を取りあげる。生徒は口をそろえて、日本に都合のいいことしか教えようとしないのはおかしいという。今週いっぱいこのテーマでやる予定なのに、全員一致では以上おしまいになってしまうので、不本意ながら私はつくる会の主張にそって生徒に反論する側にまわる。自分と異なる考えにこそより注意深く耳を傾けるべきだというのが演習授業の基本方針なので、生徒たちの言い分にひとつひとつ反論していく。おかげで自分がつくる会のスポークスマンになった気分だ。次回は生徒たちがきっちりと反論を返してくれることを期待する。

 ビョークの新しいアルバムがでているはずなのでレコード屋を覗いてみるが売り切れていた。買いそびれていた「セルマソングス」のほうを買って帰る。でも、7曲、32分しか入っていないのに、フルアルバムなみの2500円は高いんじゃないか。

 すっかりプッツン女優として奇行とゴシップばかりがとりあげられる広末涼子だけど、「噂の真相」には薬物を常用しているのではないかと書かれていた。表現者たちは日々自分のゆがんだ自意識とつきあいながら生きていかねばならないからたいへんだ。彼女もこのままメディアから消えていくかもしれない。


■ A piece of moment 9/6

 以前、中学校の授業で社会保障制度についての授業をしたことがある。社会保障制度についての概略を講義した後、モデルケースとしてスウェーデンと香港の様子を紹介したニュース番組を見せる。そして、高負担高福祉のヨーロッパ型社会がいいのか、社会保障もないかわりに税金が安く規制も少ない自由競争社会が良いのかと生徒に問いかける。生徒の反応はまちまちだ。将来、親のすねをかじってプータローになりそうなワルにかぎって、俺は香港みたいな社会で勝負するほうがいいねなんて答えが返ってきたりして、苦笑する。そうして生徒の考えを聞いていくとひとつの問題に行きつく。相続の問題だ。自由競争社会での貧富の差といっても、ひとりの人間が1代で築ける財産などたかがしれている。だが、それが親から子へ、子から孫へと引き継がれていくにしたがって、富のかたよりは天文学的な差になっていく。その差はたんに財産にとどまらず、教育、人脈、社会的地位すべてに及ぶ。そのような生まれながらにスタートラインに大きな差がついている中での「自由競争」など、どう考えてもフェアーな自由競争ではない。もはや勝負はついているのであり、それは自由競争を偽った搾取にすぎない。もし、完全な自由競争を主張するなら、相続は一切否定されるべきだ。社会保障と自由競争の問題は、とどのつまり親から子への相続の問題ではないかと思う。ところが現実は逆で、親から子への世襲が強い社会ほど社会保障制度は発達していない。日本もそういう社会のひとつだ。なぜ、もたざる者たちは自由競争の幻想にいつまでも騙されているんだろう。きみがその会社に入ってどんなにがんばったところで、社長になるのはジュニアなんだよ。


■ A piece of moment 9/8

 CS放送で映画を6本観る。成瀬巳喜男の戦前のもの2本、単純で説教臭いストーリーと間延びした演出。いまいち。成瀬巳喜男は当たり外れが大きい気がする。「ストーリー・オブ・ラブ」、ロブ・ライナーの甘いラブコメ。倦怠期の夫婦をミシェル・ファイファーとブルース・ウィルスが演じる。倦怠期なんだけど、ミシェル・ファイファーがにっこり微笑んだときにブルース・ウィルスが向けるうっとりしたまなざしを見れば、もう結末がどうなるか想像がついてしまう。ミシェル・ファイファー演じる美人でいじらしい奥さんに倦怠感を感じるほうがそもそもどうかしてるのである。ストーリーは別にして、気の利いた会話とこなれた演出で最後まで引っぱられる。「GUN」、1丁の銃が引き起こす物語のオムニバス。つまらなくはなかったけど何も印象に残っていない映画。タモリの「世にも奇妙な物語」みたい。後半のロトくじを当てるからくりがいくら考えてもわからない。「プラクティカル・マジック」、サンドラ・ブロックは気が強そうでいていざという段になるとオロオロしてしまう役柄がはまる。サンドラ・ブロックしか見ていなかったのでストーリーはよくおぼえてません。まあどうでもいい映画だった気がします。ただ、彼女、体を鍛えすぎているのか、首の太さがアゴと同じなのはどうも。「ザ・ハリケーン」、今週のベスト。良いストーリー、魅力的な登場人物たち、小細工のないストレートでテンポのいい演出、2時間半があっという間にすぎた。主役のデンゼル・ワシントンがまた良かった。しなやかな身のこなし、怒りをたたえた強いまなざし、知的で深みのある語り口、いまのハリウッドスターで1番いい男じゃないかと思う。ただ、以前「60mins」のインタビューに出演したときは、まるっきりふつうのおっさんで、映画との落差に別人かと思ったほどだった。これはハリウッドのSFXなんだろうか。


■ A piece of moment 9/10

 いままで飛び飛びでしか見ていなかった「ER」だけど、第6シーズンに入ってからはわりと続けて見ている。こうなると今までのぶんもまとめて全部見たくなってくる。やはり100話以上あるのでうかつに手を出しにくい。誰か各シーズンのDVDを貸してくれないだろうか。あ、うちはDVDのプレイヤーがないんだった。マンガの「うしおととら」もまとめて読みたいんだけど、これも古本屋で全巻まとめて買うのはためらっている。あれ、何十巻あるの?

 台風で身動きがとれない。土曜日からずっと降り続いているせいで、部屋中が猛烈にじめじめしている。洗濯物は乾かないし、身体はベタベタと湿ってきてたまらん。雨漏りがするところからは、カビだかキノコだか粘菌みたいなのが生えてきた。夜中に動き出したらどうしよう。


■ A piece of moment 9/11

 社会科教師の性犯罪が続いているせいで、友人から「よっ、社会科教師〜」などとバカにされる。そうか、俺の社会的立場は社会科教師だったのかそんなこといままで考えたこともなかったよ。で、田舎で教師なんかしていると家と学校の往復で出会いも娯楽もないだろうからテレクラに走ったり手近なところで不倫騒動おこしたりするんじゃないのと言うと、「お前もいっしょじゃ」とあざ笑われる。くそ。それにしてもたしかに病んでる人はけっこう多い気がする。学期の途中の変な時期に講師の依頼が来て事情を聞いてみると、前任者がノイローゼで療養中なんてことが多い。「職業、教師」という社会的立場を意識しながら仕事を中心に生活がまわっている人は、仕事に使命感でも持っていないと精神的にしんどいのかもしれない。ただ一方で、教育に使命感をもっている教師というもの鬱陶しい気がする。あ、ワタクシは生徒の前で50分間のしょうもない話をするだけの芸人でございます。なので、私の授業を気に入ってくれた方は授業料のほかに帽子に小銭を投げ入れてくれると、仕事にはりあいがでます。

 ビョークのニューアルバム「ヴェスパタイン」とグレイトフル・デッドのベスト盤を買う。


■ A piece of moment 9/12

 突然、「ダイハード」か「マーシャルロー」みたいな無差別テロ事件がおきた。事件の規模が大きすぎて、なかなか現実の出来事としてとらえにくい。ジャンボ旅客機をハイジャックして貿易センタービルに激突させる、つづけてもう1機の激突、崩れ落ちる貿易センタービル、煙につつまれるマンハッタン、さらにペンタゴンでの爆発、どれも道具立てがそろいすぎてハリウッド映画を連想してしまう。映画だと戒厳令が発動されて、アラブ系の住民への取り締まりと監視が強化され、差別や人種対立へと発展していくことになる。まさかとは思うが事件の規模の大きさを思うとありえないことではない。あとランボーが単身アフガニスタンへ乗り込んでいったり。

 ただ、崩れ落ちる貿易センタービル以上に衝撃的だったのは、アメリカのパニックに歓声をあげるパレスチナ住民の映像だった。ここ数年、パレスチナで続いている自爆テロの状況を考えると、同じ手法の大規模テロがアメリカで起きることは時間の問題だったとも考えられる。人間の命は地域によってやたらと軽かったり重かったりする。今夜の授業はこのテロ事件を考えることにする予定。

 昼に入ってから、急にオサマ・ビン・ラディンがテロの黒幕としてあがってくる。あれだけ組織化され大規模なテロ活動なら、PLOの一分派の犯行よりもラディンみたいな人物がかかわっていると考えるほうがしっくりくる。ただネタ元がアメリカ上院議員からのリークっていうところがなんか臭いな。夜の授業にそなえて、朝のテレビニュースの編集をして、Webでオサマ・ビン・ラディンとイスラム原理主義について資料を集める。で、Webを検索していたんだけど、イスラム原理主義について妙な記事を発見。今年3月にハマスのWebサイトにハッカーが進入して、ハマスのWebサイトを書き換えて勝手に有料のエロサイトに飛ぶようにしてしまったというアホな記事。さらに、ハマスはそれをイスラエル諜報機関の陰謀だと声明を出したというオチまでついている。まるでいしいひさいちのマンガみたいだ。 →こちら

 アメリカンズは今回の事件をさぞや深刻に受けとめているだろうと、向こうのプレイヤーとチャットでもしてみようかと思ってひさしぶりにEverQuestにログインしてみるが、あちらの世界は何事もないかのように「なんとかの剣600PP安いよ〜」なんてやっていた。ちょっとこれはあんまりじゃないか。ゲームオタクは国籍問わず社会意識がないんだろうか。キミたちハマスに怒られるぞ、こら。


■ A piece of moment 9/13

 予想通りアメリカは徹底報復のかまえだそうで、ランボーはすでにアフガニスタンに潜入していることだろう。国連関係者はアフガニスタンからの退去をはじめたらしい。ただ、アメリカはイスラム諸国に対してはいままでもずっと武力を背景にした力の外交をつづけてきたわけで、イスラエルの後見役であると同時に反政府ゲリラ組織に武器供与をし、湾岸戦争では他の選択肢を全部蹴って武力介入を強行した。そのように戦争を国際政治の一手段として認めるなら、テロもまた認められるということになる。もちろんビルを吹き飛ばして民間人を何千人も殺していいわけがない。でも、原爆で民間人を何万人も殺しても「あれは戦争だったから仕方なかった」という理屈がとおるなら、今回の事件も「あれはテロだったから仕方なかった」と受け入れねばならないはずだ。両者の論理に違いはない。アメリカはテロは国際社会への挑戦だとくり返しているが、アメリカのいう国際社会はアメリカと西欧にすぎない。ブッシュは報復攻撃を「善と悪の戦い」といっているが、その様子は狂信的原理主義者たちが口にする「聖戦」とだぶって見えた。

 それにしても新庄の「オレもアメリカ人やから戦う」ってコメントは限りなくアホで素敵だ。あの新聞の見出しを思い出すたびに吹き出してしまう。ツボをつかれたよ。新庄すごいわ。関係ないけど、NHKのワシントン支局長はいつになく生き生きしてるように見える。


■ A piece of moment 9/14

 夕方、ちらと国会中継を見たら、若い国会議員が今回のテロ事件にからめて、自衛隊の有事立法が必要だといきまいていた。新庄なみのアホさ加減。よっぽど自衛隊に戦争をやらせたいらしい。

 いまさらながら「おじゃる丸」を見る。電ボがお気に入り。早口でひとりごとをまくしたてながら妄想が暴走していく様子がおかしくて、油断しているとあのほにょほにょしたささやき声に足もとをすくわれる。よくあんなキャラクターを考えたもんだとシナリオライターのセンスに感心する。大人のファンも多いらしい。ところで、このところ巷でよく聞く「まったり」の発信源がこのマンガだっていうのはホント?


■ A piece of moment 9/20

 例年どおり大学院時代の奨学金を返せという通知が来た。例年どおりカネがないので、返済をのばしてくれと手紙を書いた。いつもは受理されるはずなんだけど、今年はアナタは返済をのばしすぎたのでもう待てないカエセと言ってきた。ひええええぇぇ。この時期に12万円の出費は痛い。痛すぎる。しばし呆然としてあたふたと部屋の中を歩く。確かに返さなきゃならないものではある。返す以外に手の打ちようがない。返すことを決意する。決意して12万円も借金返済にあてることを考えていたら、いままで欲しいものも我慢してケチケチとやりくりしていたことが急にアホらしくなった。物欲がめらめらとわいてくる。というわけで、本日、2万円の腕時計を買う。明日は欲しかったデジタルカメラを買う予定。散財散財。新宿のカメラ店でどっさりとカタログをもらって帰る。

 昼休みにバスケ部少年団と4on4をやったせいで腰痛気味。


■ A piece of moment 9/25

 休みでぼんやり昼間のテレビを見ていたら、NHKでひるどきなんとかかんとかという中継番組をやっていた。田舎芝居みたいなどろくさい主題歌の後にどっかの田舎から中継がはじまり、ほうきづくりを家業にしているという純朴そうなじいさんとばあさんがでてきた。それはいいんだけど、じいいさんがほうきづくりを紹介するたびにレポーターの森脇健二が何事かというような調子で盛大に感心するのである。じいさんがええこのほうき草からほうきをつくるんですよというと「ひぇええええこれがほうきになるんですねえ家族で刈り取りもやってるんですねえうわああああおばあさんはやいすごいなはやいな年期がちがうんですよねえさすがですねえやっぱ手作りならではですよねえうわああああ」とかなんとかという調子で、ぜんぜん心のこもっていないヨイショがえんえんと続く。どうみても地味な家内制手工業をやっているじいさんとばあさんをバカにしているとしか思えなかったが、じいさんもばあさんも人間ができているのか森脇健二の胸ぐらをつかむことはなかった。2、3発ぶん殴ってくれればすっきりしたのに。おかげでそれほど人間のできていない私は猛烈な不快感だけが残り、昼飯に食った松屋の牛丼で胸やけしてしまった。じいさんとばあさんに代わってNHKあてにカミソリでも送りつけてやるべきだろうか。

 夜、陣内孝則の探偵ドラマを見る。1回目が面白かったので、つづけて見ているがぜんぜんだめだ。ハードボイルド調の展開だったのは1回目だけで、あとはずっと安っぽいホームドラマだ。柴田恭平がはみだしたり藤田まことがさすらったりする刑事ドラマとほとんど変わらない展開をしている。おまけにNHKの大好きな家族ファシズムの説教節が入っていて、副主人公のガキは何かにつけて「お母さんがぁぁ〜」と学芸会的演技をする。「ガラスの仮面」の読みすぎかもしれない。たまらん。ダイコン大量出演。それにしてもあの設定でどうしてホームドラマになってしまうんだろう。横浜の港地区、主人公は社会からドロップアウトした一匹狼の私立探偵、倉庫を改造した部屋に一人暮らし、密輸の横流しでもやってそうなカタコトの日本語を話す外国人の友達、度々主人公にからんでくる地元のヤクザ、宍戸錠やミッキー・カーチスをはじめとした一癖ある強面の脇役、青みがかったコントラストの強い映像……とくればどうしたってハードな展開を期待する。でも、なぜかやってることはホームドラマなんだよ。家族愛なんだよ。親子の絆なんだよ。子役の自己陶酔した絶叫芝居なんだよ。どうしてよ。親が失踪したらガキは必ずグレるとでもいいたいのか。なめんな。

 むしゃくしゃしながらネットに繋いでメールをチェックしたら、どこかのバカが名前も名のらずにくだらないメールを送ってよこしやがった。お前に浩さんなんてなれなれしく呼ばれるおぼえはない。腹が立つので、ここで文面とアドレスをさらしものにすることにした。大量の顔文字メールでも死んだトカゲでもなんでも送りつけてさしあげましょう。

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件名:気ボーン   発信者:leotokyo2000@hotmail.com

久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
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■ A piece of moment 9/26

 ロマン・ポランスキーがらみの作品を何本か観る。「記憶の扉」、これは出演作。監督はイタリアの才人、ジョゼッペ・トルナトーレ。中盤までの神経戦のようないらいらする展開にうんざりしていたら、後半に入って一気に深いところに引きずり込まれ急所をぐりぐりとつかれる。鮮やかな手際。圧倒される。終盤のどんでん返しも「シックス・センス」なんかよりもずっと衝撃的。見終わってしばらく呆然とした。それにしてもジェラール・ドパルデューの体型は見るたびに崩れていく。あんまり醜くなってるんでびっくりした。「ナインス・ゲート」、これは監督作品。オカルト、ただしスプラッターではない。ポランスキーのオカルト趣味はあいかわらずの模様。主人公は古書・奇書のたぐいを扱っているバイヤーで、オカルト趣味の金持ちからルネサンス期に出版された悪魔がらみの本の調査を依頼される。この、調査し道を失い深みにはまっていくという展開は、私にとってひとつのツボのようで最後まで一気に引っぱられた。「エンゼル・ハート」に似た感触。「死と乙女」、これも監督作品。こういう舞台ものの映画化もうまい。最初から最後まで登場人物は3人しかでてこない密室を舞台にした心理劇。3人とも見事な演技で、とりわけベン・キングズレーは見事だった。「ナインス・ゲート」みたいなオカルトものよりも私にはこっちのほうがずっと恐かった。大人のサスペンス。俺、大人で良かったぁ。

 このところ良い映画が続いたが、ベストは「ビフォア・ザ・レイン」というアルバニア映画。南欧の荒れて乾いた丘陵地の風景、オリーブの灌木と羊の群、そこで中世からほとんど変わらない生活をしている素朴な村人たち。でも、どの村人の手にもAK47がにぎられ、宗教や民族の異なる隣村とは憎みあっている。隣村といってもみな顔見知りで、そこには幼なじみもたくさんいる。にもかかわらず彼らは憎みあっている。幼い子供までAK47を手にし、小さないざこざは即、民族間の紛争へとふくらむ。懐かしい顔、愛しい顔、みなどんどん死んでいく。たまらなかった。

 他、成瀬巳喜男の古めのもの何本かとリメイク版「グロリア」。「グロリア」は監督がシドニー・ルメットだから観てみたが、やはりオリジナルよりずっとできが悪かった。主演のシャロン・ストーンは不自然にもりあがったシリコンおっぱいが気になってどうも。「必殺26時間まつり」は結局3時間で挫折。誰が中村主水の顔を26時間もみるんだ。ただ、必殺はシリーズを通して演出手法がマカロニウェスタンだということに気づいた。私、平尾昌章の音楽が好きです。


■ A piece of moment 9/27

 電車の中で気になった人たち。その1。乳母車に乗った赤ん坊がサイレンのようにけたたましく泣いている。若い母親があやすがぜんぜん泣きやまない。まわりの乗客はあまりの泣き声にぞろぞろと移動を開始する。母親はもうあきらめたようでもう泣かせっぱなしにしている。そこへ高齢の女性が下り際に母親ににっこり微笑みながら、近頃きいたことのないようなきれいな山の手言葉で話しかける。「丈夫そうな赤ちゃんですねえ」。若い母親は圧倒されたのかひたすら恐縮していた。俺も怖かったよ。

 その2。松尾スズキに似た坊主頭でひげ面の中年男がコム・デ・ギャルソンのジャケットをひるがえし乗ってくる。彼は電車に乗るなりおもむろにカバンから本を取りだし、やけに荒い鼻息で読みはじめる。何事かと思ってちらと見たら、本は「チーズはどこへ消えた?」だった。ありゃ何者だ。本人だったりして。

 高校のほうの成績がつけ終わる。


■ A piece of moment 9/29

 夜中にテレビをつけたらゲイバーのお姉さんたちがしゃべっていた。「アナタ、一週間ヒマができたら何する?」「アタシ?う〜んセイケー」。ああ、ふっきれた人たちは楽しい。あと、久しぶりに浜崎あゆみの顔を見た。目が変わっていて、やたらとしわがれ声になっていた。ライブで声帯をつぶしたのか、薬物でもやっているような声だった。ただ、タテ巻カールはステキだった。時代はタテ巻カールだと思った。俺もタテ巻カールにしたい。

 人のPCでクロ箱を見てみたら、フォントのサイズが違ってレイアウトが崩れていた。やけに不細工で気になったので、表紙といくつかのページに固定サイズのフォントを使うことにした。表紙を見てレイアウトが変わってると思った人はいままでが崩れていただけです。


■ A piece of moment 10/3

 CS放送で「帝銀事件・死刑囚」を観る。戦後間もない頃におきた帝銀事件をとりあげたセミドキュメンタリー映画。事実をあつかった作品にしては通俗的で紋切り型の演出で、映画としての出来はいまひとつ。ただし、そのぶん手堅く事件を見せてくれるので、事件について大した予備知識もなくあの時代を体験していない私にも、事件の展開とその問題点は非常にわかりやすい。捜査と裁判には明らかに問題を孕んでいる。見終わってあまりにも釈然としない気分なので、少し調べてみようとWebの検索サイトで「帝銀事件 平沢貞通」と打ち込み、「平沢貞通氏を救う会」による帝銀事件のWebサイトを見つける。Webの資料を見ながら唖然とする。映画が作られた1964年から現在に至るまで、ほとんどそのまま問題が残されている。再審請求はすべて棄却されその後の調査も進展がないために、映画を観て釈然としなかった灰色の部分は何ら解明されていない。事件当初から指摘されていたGHQや日本軍化学部隊の関係者の関与も、依然として闇の中にある。また、警察発表とマスコミ報道のあり方や容疑者の家族が受ける迫害といった問題も、度々その問題が指摘されているにもかかわらず、現在に至るまで何ら変わっていない。松本サリン事件のえん罪は記憶に新しいが、仙台の病院でおきた筋肉弛緩剤による殺人事件だってかなりあやしい。ムードにのせられ情報を鵜呑みにし自分のアタマで考えない者が多ければ、いくら時代が変わっても同じことがくり返されるだろう。平沢定通は1987年に死刑囚のまま肺炎で獄死したが、彼の家族や支援者は現在も再審請求をつづけている。

→ 平沢貞通氏を救う会による「帝銀事件ホームページ」


■ A piece of moment 10/4

 中学1年生を教えるのがはじめてのせいか、彼らがやけにちっちゃくて、1年の授業をしているときはほとんどあっぱれさんま先生の気分である。授業中にちっちゃいのがちょろちょろしててもつい笑ってしまってしかる気にもなれない。だまって問題やれよなんて言いながら自分のほうがきのうの志村けんのバカ殿の話をしていたりする。本日は東南アジアの地理の1回目。ちっちゃいのの1人がバリに行ったことがあると言いはじめる。「バリの海はすげぇ青いんだよ」「どこのバリだよ」「ほんとだよほんと、バリは蒸し暑いんだよ〜ハワイと違ってさぁ」「どこのハワイだよ」「ほんとほんとハワイは毎年行ってるんだ」「いま、クラスの全員を敵にまわしたね」「ほんとほんと」「じゃあ今度ハワイに行くときはうちの別荘によってくれ」「えっ、センセー、ハワイに別荘あるの?」「あるぞ、プールとゴルフ場とフラダンス・レストランもあるぞ」「うっそだぁ」「ほんとほんとレストランではリンボーダンスもできるぞ、リンボーダンスはコツがあってな太鼓の音をよく聞いてリズムを合わせないとうまくいかないんだよ」とまるで近所のガキをからかっている酔っぱらいのおっさんである。そんなマニックな木曜日だった。


■ A piece of moment 10/9

 演習授業で生徒たちにレポートや感想文に書かせると、たいていの場合、試験で95点や100点をとる者よりも80点くらいの者のほうが面白い文章を書いてくる。試験では7割8割くらいの出来の者が、ときにこちらが舌を巻くような幅広い知識とするどい考察を示してくることもある。社会科の場合、ふだんテレビニュースや新聞を読んでいれば、とくに試験勉強などやらなくても7割8割くらいはできる。むしろ日常で体験する社会現象のほうが授業で教わる「社会」よりもはるかに情報量が多く、そこから得られる経験のほうが、教科書丸暗記式の薄っぺらい知識よりも、社会現象を考える上で有用なことが多い。しかし一方で、7割8割を9割10割にするためには、試験に出そうな用語を暗記したり、正確に漢字で書けるようにしたりという詰め将棋的作業が必要になる。個人的にはそれは時間と労力の無駄だと思う。たかだか試験の点数を20点上げるためにそんな単調な作業に長い時間を費やすなら、そのぶんいい映画を観たりいい本を読んだほうがよほど有意義だ。本人が楽しいだけでなく、知識の幅を広げ思考力も高めてくれる。このことは逆にいえば、ふだん社会的現象にまったく感心がなく、ニュースも見ず本も読まなくても、徹底的に詰め将棋的作業をやりさえすれば試験で9割10割の点がとれることを意味している。ときどき、「社会科って暗記科目だから退屈でした」という人に出会うが、そういう人はきっと詰め将棋的作業ばかりしていた優等生だったんだろうと想像する。

 社会現象はジグソーパズルや論理パズルではないので、なにも知らなくても解けるという性質のものではない。たとえば、今回のアメリカ軍のアフガニスタン攻撃に自衛隊はどうかかわるべきかを考えるとき、アラブ社会とアメリカの関係や国連のPKO活動の限界性といったことを知らなければ話にならない。そのために授業では考える材料としての知識を教え、その確認のために試験をする。定期試験や受験問題では、「知っているかどうか」までしか問われない。しかし、知識があるかどうかは考えるための手段にすぎず、目的ではない。その知識を使って社会現象をどう考察していくかにこの科目の本質はある。だから、試験で満点をとってもつまんねぇレポートしか書いてこないやつは「3」でもつけてやりたい気分になる。美術でいくら色の三原色についての試験がよくできても肝心の作品のほうがつまんなかったら知識が作品に反映されたいないわけで、作品に反映されない知識が無意味なのと同じだ。社会科の本質は社会現象への考察を深めることにあるので、そちらの評価が成績に反映されず小手先の知識だけで成績をつけることにはいつも疑問を感じる。

 暗記科目という点では、外国語や古文・漢文、高校までの受験数学のほうがはるかに能動的に暗記することがもとめられる。英単語のスペルや公式は、ふだんの日常体験の中でいくらニュースを見たり本を読んだり映画を観たりしてもアタマに入ってくるものではないので、能動的におぼえようとしなければ7割8割どころか3割もあやしい。7割8割をとるためにはこつこつと地道な詰め将棋的作業が必要になる。とくに言語は学問ではないので、おぼえて使えるようになること自体が目的だ。社会科では8割を10割にする詰め将棋的作業は時間の無駄だと思うが、外国語をものにするにはそういう地道な努力をスパルタンにつづけていくことが重要になる。なまけ者にはつらい科目だと思う。

 夜中に中学の試験問題をつくり、2時間寝て朝に試験を実施、午後に採点する。1日で全部終わった。なんだか豆テストみたい。内容はどれも「知っていればできる問題」。これだから暗記科目なんていわれるんだ。

 このところ、行き帰りの電車の中で「ツァラトゥストラはこう言った」をちびちび読んでいる。読むとやたらと勇ましい気分になる。


■ A piece of moment 10/11

 夜中にラジオをつけたら、池真理子が「センチメンタル・ジャーニー」と「百万本のバラ」を歌っていた。真夜中の静まった中、おもわず歌詞に聴き入ってしまう。「百万本のバラ」の大げさなメロドラマを真剣に聴いていたらぞっとしてきた。なにもそこまで貧しい絵かきをいじめなくてもいいじゃないか。この歌はみじめで不幸であることに酔っているようなマゾヒズムの匂いがする。加藤登紀子が歌ったものより歌詞も歌い方もどぎつい。2番目はロシア語での「百万本」の連呼になり、最後には「それが人生♪」と運命論へと突入していく。おそろしい。おそろしすぎてうなされそうだ。ところで、この歌、ずっとフランスの歌だと思っていて、ロシアの歌だとは知らなかった。どうも絵かきは世界的に貧しいことになっているらしい。


■ A piece of moment 10/16

 夜中にふとルパン三世のマンガが見たくなって、押入から「カリオストロの城」のビデオを引っぱり出す。すごく面白い。宮崎駿のテンポのいい演出も大野雄二の主題歌もすごくいい。ただ、映画としては非常によくできているんだけど、あの世界はルパン三世ではないような気がする。お馴染みの登場人物たちはみなアクのぬけた気のいいおじさんたちになってしまっていて宮崎駿的だ。ルパン一味は基本的に非情でエゴイスティックな悪党たちなので、彼らが情にほだされたり人助けに命をかける様子には違和感をおぼえる。あと、ヒロインのお姫様がひたすらお姫様でうすっぺらいのも気になる。作者の好みなのだろうが、「おじさま」は勘弁してくれ。はずかしくてかなわん。そう思ってこの映画を見ると、これは40男たちが17、8の小娘を奪いあう物語ということになるわけで、倒錯の匂いがしてくる。私にはヒロインのただ健気なだけのお姫様より、自分が何を求めているかはっきりわかっていて自力で何もかも切り開いていく峰不二子のほうがずっといい女に見える。峰不二子だけは、テレビシリーズのお決まりの色仕掛けで人を利用することばかりを考えているキャラクターやコミックのバカ丸出しのキャラクターよりも、この映画のたくましくてさばさばした峰不二子ほうがリアルな存在感があって魅力的だと思う。


■ A piece of moment 10/18

 朝、電車に乗り込むとデスメタルみたいな音楽がヘッドフォンから盛大にもれて聞こえてくる。朝から元気な奴がいるなあと思ってみると、ロシアから来たバレエダンサーみたいなきれいな女の人だった。金髪をひっつめて後ろで団子状に束ねて、グレーのハーフコートを着てすっと立っている姿ははっとするほどきれいだった。朝から得した気分。あんまりきれいだったので、学校についてから生徒たちをつかまえてその様子を報告する。すると何人かの生徒からそれはニューハーフにちがいないまちがいないと言われる。どうも新宿ではきれいな人はニューハーフということになっているらしい。


■ A piece of moment 10/19

 ふと顔文字Tシャツをつくってクリスマスにでも無理矢理プレゼントしてみようかと思いつく。趣味の良い贈り物をもらって感謝される場面が頭に浮かぶ。「えーっこんなステキなTシャツもらっちゃっていいの?!」「もちろんだよきみへのプレゼントなんだから俺もそんなに喜んでもらえるなんてうれしいようんすごく似合ってるよきみにぴったりだこのTシャツを着るためにきみは生まれてきたにちがいない」。他にもマージャンで負けた奴に着せて渋谷のスクランブル交差点に放置してくるのも楽しい気がする。夢が広がる。


 こうして並べてみるとコンテンポラリーアートに思えてくるから不思議。ほらほら欲しくなってきたでしょう。


■ A piece of moment 10/20

 7年間さがしつづけていたCDがついに見つかる。Брати Гадюкiни(Braty Gadiukiny)というウクライナのパンクバンドで、インターネットが普及していなかったらこんなの一生見つからなかったろう。探し当てた自分自身がおどろいているくらいだ。ウクライナでは有名なバンドらしいが、なんせウクライナなので、それ以外の人間にはチェルノブイリとスターリンのコルホーズの国にコサックダンス以外の音楽があるなんてことはまったく知られていない。世界はアメリカを中心にまわっているので、英語圏以外の文化は内容の良し悪しに関係なく隅に追いやられてしまうのが現状だ。だからアメリカ人は有頂天になってトマホークを発射するんだ。そんなわけで、このCDはもちろんアマゾンでも取り扱っていない。ウクライナのCDショップが開設しているWebサイトで在庫を確認できたので注文してみた。うまくいけば来月あたりに地の果てウクライナからはるばるCDが我が家に届くはずだ。

→ Брати Гадюкiниのサイト(表示させるためにはスラブ文字のダウンロードが必要)

 関係ないが、テレビで小池栄子を見た。あんまりゲヒンなんでおどろいたよ。あれはゴールデンタイムに出演させちゃまずいんじゃないか。さらに関係ないが、深夜番組でレポーターをやっているYOUは楽しい。出てくるだけで可笑しい。でも、あれは深夜放送だからこそあのキワモノで思いつきなアドリブが効いてくるんで、もし売れても「笑っていいとも」なんかに出演したりしないでほしいところだ。

 日本シリーズってまだ始まっていなかったんだな。


■ A piece of moment 10/21

 10年近く前から探していて、でもどうしても名前を思い出せなかった漫画家を突然思い出す。朝倉世界一。最近さえてるな。こういうマイナーで、でもガロに書くほどカルトなポジションにいない作家はまわりにきいても誰も知らないので、いったん名前を忘れてしまうとなかなか出てこない。「ほら、双葉の「アクション」か「マンサン」あたりに描いてるひとで3等身の絵本チックなキャラクターがブラックででたらめな世界をくりひろげるマンガ、え〜と代表作は「アポロ」と「山田タコ丸くん」、あの人、何ていったっけ?」なんて聞かれても誰もわからない。当然といえば当然で、そこですらすら名前が出てくるほうがどうかしている。かくいう私も10年くらい前に雑誌でぱらぱらと見て、やけに絵がうまいんでおっと思ったきりすぐに名前を忘れてしまって、本屋のマンガコーナーでときどき単行本を探しても作者の名前を忘れてしまってはどうにもならないし、マンガ雑誌をまめにチェックする方でもないので思い出すきっかけがつかめないまま時間が過ぎていった。しかし、昨日ともかく思い出したのである。で、再び忘れないように朝倉世界一朝倉世界一とアホのようにつぶやきながら本屋に寄ってみたが、どこにも置いていない。10年たってもあいかわらず売れていないようだ。Webで検索したところいちおうサイトは見つかったが、その後ほとんど新しい単行本はでていなくて、最近は携帯コンテンツなんてあやしげな商売をやっている。きびしいなあ。絵はいま見るとあんがい流行りの絵柄というかクラブ路線な感じというか326(だっけ?)に似た絵柄で、もう少し売れても良さそうなんだけど。青春応援節みたいな326と違ってハートウォーミングじゃないからウケないんだろうか。

→ 朝倉世界一の朝倉的世界 (双葉社)

 ところで中学のほうで一緒に社会科を教えている40代後半くらいの女性がやたらとマンガに詳しいことを知る。「ガロ」から「スピリッツ」までほぼ網羅していて、いまだに雑誌で買って読んでるという。きっとあの学校で一番マンガを読んでいる人ではないかと思う。外見からカタイ一方かと思ったけど、人は見かけによらない。給食をくいながら、なぜかつげ義春と滝田ゆうの話になって、そうかちょうど全共闘世代なのかと気づく。きっと生徒たちは小テストばかりするきまじめで小うるさいおばさんくらいにしか思っていないんだろう。そう思うと少し可笑しい。そうして人生はめぐりすれ違っていくってわけだ。こういう時、私は頭の中でルイ・アームストロングの古い歌"What a wonderful world"が鳴っている気がする。

 録りだめておいた「スタートレックDS9」の26時間放送分をようやく見終わる。ドクター・ベシアが誰かに似ていると思っていつも気になっていたが、今回、「ナインティナイン」の岡村だと判明。やはり近頃さえてる。


■ A piece of moment 10/22

 9月の長雨で部屋の壁に生えたキノコの菌糸は、2つの丸いコロニーを形成しながらその後もすくすくと成長し、ついに人間の頭大にまでふくらんだ。夜中にそれをじっと見ていると、灰色の菌糸のかたまりの中からかさこそと小さな声が聞こえてくる。ああちがうそこじゃそこじゃそれでよいいやはや不便なところじゃ東下りの我が身の空しさよこの野蛮な土地を呪うぞよ……。「あんた誰だよ?」と話しかけるとささやき声はぴたりと止み、まもなく2つの球形の殻がやぶれ、中から大量の胞子をまき散らしながら2つの巨大なキノコが頭をのぞかせた。キノコは傘が濃い灰色で直径約60センチ、柄の部分はクリーム色で付け根の殻に近くなるにつれて太くなり細かい毛をたくさん生やしている。その後もキノコは猛烈な勢いで成長をつづけ、たちまち私と同じ背丈になって目の前で大きな傘を開いた。呆然とその様子をみていると、再び先ほどのかさこそとした声が聞こえてきた。なんともわびしいたたずまいじゃな、ああそち、楽にしてよいぞよ、これから長いつきあいになるのじゃからな。こうして私と2人のキノコ人間との共同生活が始まったのである。キノコはときどき私になりすまして電話に出たり、勝手にメールの返事を書いたりしているようで、近頃、友人・知人からの苦情がふえてきている。事情を説明しても信じてもらえそうにないし、ほとほと困りはてている。

 古本屋を2軒まわって、朝倉世界一を1冊見つける。あと、1年前からずっと探していた諸星大二郎の「栞と紙魚子」の3巻目・殺戮詩集も見つかる。最近の諸星大二郎ではこのシリーズがとぼけた味と軽やかさがあって気に入っている。ただ、雑誌の連載のほうは半年前に終わってしまったようだけど、4巻目の単行本はもう出ているんだろうか。

 ついでに95円でたたき売っていた「中島らもの明るい悩み相談室」を6冊まとめて買ったので、ごろごろしながら読んでいる。こういうのは1、2冊ぱらぱら読むぶんには楽しいんだけど、何冊もまとめて読んでいるとものすごく時間を無駄にしている気分になってくる。そういう意味ではこのサイトも同じで、疑問の泡のページなんかを1番から66番までまとめて読んだりするとむなしくなったりしませんか。

 ところで、古本屋の95円コーナーには、シドニー・シェルダンと渡辺淳一が大量に積み上げられていた。いったいどこの誰がこういう本を読むんだろう。幸い私のまわりにはひとりも愛読者はいない。渡辺淳一が愛読書なんて言われたら、どんなにいい女でもさめるぞ。


■ A piece of moment 10/23

 きのうウクライナからガドキン・ブラザースの2枚のCDが届いた。すごいすごい。注文から2週間もかからなかった。インターネットでウクライナの業者に注文し2週間足らずで航空便で届くなんて、10年前には考えられないことで、まるでアーサー・C・クラークの小説みたいだ。そう思うと夢でもみているような気がしてくる。本当はこの世界は1999年に消滅していて、俺は消えてしまった世界の夢を見ているだけなのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。2枚のアルバムは7年間探し続けただ甲斐あって期待通りだった。くわしくはここの61番を。

 友人宅に姿見があって、うしろ頭をみてみたら自分があまりに不様で唖然とする。後頭部がやけに平べったくなっていて、襟足ばかりがボサボサとはねている。まるで杓文字だ。こんな格好で町を歩いていたとは我ながら情けない。もっとのばしてパーマをかけて、ラモスかダンスマンみたいにしようと思っていたんだけど、もうやめた。少し切って金髪にしてくるくるのタテ巻カールにすることにしよう。

 「栞と紙魚子」の4巻目、「夜の魚」が出ていることがわかったので本屋で買ってくる。近頃、次々とさがし物が見つかる。


■ A piece of moment 10/24

 食欲の秋である。食欲といえば牛肉。このところ我が家の胃袋は、投げ売り状態の牛肉とまぜもの加工乳事件以来98円で売られている雪印牛乳で満たされている。狂牛病騒動で当分この安値が続いて欲しいが、食肉業者がつぶれてしまっては元も子もないのでまあほどほどに。それにしても、狂牛病なんて何年も前から指摘されていたのに、国内で1頭発生しただけで急にヒステリックになるのはどうしてだろう。牛肉を食べないのが流行っているだけにしか思えない。突然ヒステリックに騒ぎ出した人たちは自分で判断する力がないんだろうか。そういう人はもともと脳味噌なんて入っていないだろうから、いまさら狂牛病を心配する必要なんてないのに。一方、ヒステリックに牛肉を怖がっている人もバカみたいだが、牛肉を食わせようとテレビカメラの前で「ん〜おいしい」なんてパフォーマンスをしている大臣たちはさらに間抜けだ。あんなもんを見せられて牛肉をくいたくなる人が存在するとは思えない。俺はかえって食欲がなくなったよ。俺の食欲を返してくれ。あそこには科学的根拠は何もない。プリオン感染のしくみはまだ完全には解明されていないし、発病するのは2年から10年後だというから食べてすぐ大臣がひっくり返らなかったとしても安全が証明されたわけではない。そもそも大臣たちは科学的なことを尋ねられても何も答えられない有様だ。あのパフォーマンスには、大臣のような「エライ人」が安全と言っているんだから安全なんだという思い上がった権威主義だけしかない。いまどき大臣や役所にそんな権威があるとは思えないが、あのパフォーマンスをやらせている官僚たちはいまだに自分たちを「お上」だと思っているらしい。こういう状況になったときに、情報や科学的根拠を公開して国民の判断にまかせようとせず、役所の権威によりどころを求めようとする姿勢はこの社会の知的レベルの低さと民主制の未成熟を物語っている。古くは水俣病のときの寿司ネタからO157のカイワレまで、大臣たちの不様なパフォーマンスはすっかりイベントとして定着してしまっているわけで、そこには何ら進歩が見られない。それとも、役所もテレビも間抜け面の大臣をさらしものにして楽しんでいるだけなんだろうか。どちらにしろメシがまずくなるので放送禁止を強く求める。


■ A piece of moment 10/25

 「栞と紙魚子」の4巻目は、古本屋をめぐる話が続いていた。その中に巨大な古本の迷宮の話がでてくる。建て増し建て増しのくり返して、いびつにゆがんだ古いアパートのような家は古本で埋め尽くされていて、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」かボルヘスの「バベルの図書館」のような迷宮ができている。いったん中に入った者は古本の山に道を失い出口を見失う。うむああいうイメージはときどき夢に見るよなあという感じで、古ぼけたアパートのゆがんだ外観も、内部の古本の迷路も、出口のない迷宮をうまくあらわしていた。2話連続の話にしてもっとじっくりその描写を見たかった気がする。ただ、後半の数話はネタ切れの感じで、こまぎれのアイディアをそのままマンガにしていて少々物足りない。こういう軽いけど毎回ひねりの利いた展開が求められる話は、案外大仕掛けの長編よりも連載を続けるのは難しいのかもしれない。何にせよ連載が終わってしまったのは残念と思っていたら、仕事の帰りにちらっと立ち読みした雑誌に再び短編が掲載されていて、近々連載も再会すると告知がでていた。めでたいめでたい。ところで、主人公のひとり、紙魚子はどこかで見たことのあるキャラクターだと思っていたら、教え子の中に雰囲気がよく似ている子がいることに気づいた。


■ A piece of moment 10/26

 現在利用しているAsahi-netが8メガbit/secのADSLに対応しているらしいので申し込んでみた。フレッツISDNとくらべて、料金は2割安くなって、速度が100倍くらいになるらしい。これだけ速くなると、Web上のデーターもハードディスクの転送なみにダウンロードできることになる。それはたんに大きいファイルを落とすときに便利だとか動画を扱えるとかいう次元ではなくて、インターネット上のプログラムをハードディスク内のプログラムと同等に扱えることを意味しているわけで、コンピューターの使い方自体が変わってくるような気がする。もっとも、そうした利点をうまく使いこなせればの話だけど。

 久しぶりに自分のサイトを検索していて見知らぬ人がリンクを張っているのを見つけた。それがなぜか「さとう珠緒」のファンサイトで、アイドルタレントとアニメ絵ゲームと小劇団のサイトに混じってこのサイトがリンクされていた。何か大きな勘違いがあるような気がする。


■ A piece of moment 10/28

 中学校の学芸会をのぞく。保護者にまじって後のほうで見ていたら、裏原宿あたりのスケボー小僧みたいなおにいさんとおねいさんがうろうろしている。なんだろうと思っていたら、1年生のとうちゃんとかあちゃんだった。ショックである。俺より若そうだ。で、あらためてまわりを見回してみると、見るからにおじさん・おばさんという感じの人は少ない。カラオケで都はるみや石川さゆりを歌いだしそうな感じの人なんてひとりもいない。中学生の親の世代はもはやロックとヒップホップとユーミンの世代らしい。それにしてもビデオカメラの大軍には圧倒された。噂には聞いていたが、本当にあんなことやってるんだな。べつに録るのはいいんだけどさ、録ったビデオは誰に見せるんだろうか。遊びにきた客に有無をいわさず我が子の晴れ姿を見せるんだろうか。おそろしい。ここ数年、正月になると子供がにっこり笑った写真付き年賀状が我が家にも送られてくるようになったが、あれをもらうと「俺はなにか悪いことでもしたんだろうか」という気分になる。電子機器のほうはやたらと発達したけど、それを使ってやっていることは十年一日何も変わっていない。もっと有効な使い道はないんでしょうか。うちの母親は猫を撫でながらよく、「かわいいのはうちの猫だけ〜♪」と言っていたのを思いだした。ビデオの晴れ姿を見て楽しいのは親と飼い主だけである。

 生徒のほうは熱心に練習していたようで、案外もりあがっていた。ニャン吉くんがあんなに芸達者だったとは知らなかったよ。


■ A piece of moment 10/29

 以前、近所で次のような看板を見かけた。


 ちらっと見ただけだと、わかば幼稚園が園児をバイオで育てているように思える。幼稚園の中にでっかい培養槽がずらっとならんでいて、そこでぶくぶくと園児たちが培養されている場面が頭に浮かんでぎょっとする。お母さんたちが「あ〜ら、うちもバイオにしたのよ〜うちは上の子が3年保育だったから下の子は5年保育にしたのよ」「やっぱりバイオよね〜」「わかばの培養槽はドイツ製だって聞いたわ」「うん、あそこはけっこういい設備つかってるわよね」「でも、育ちすぎちゃったら心配だわ」「タナカさんのところのおにいちゃん、いまどのくらい?」「この間うちに帰ってきたとき、4トントラックで十分間にあったわよ」「あら、それなら安心ね」「そうよ、小さく生んで大きく育てるっていうじゃない」「う〜ん、やっぱりバイオが一番ねぇ、いまどきバイオじゃないうちなんてあるのかしら」「手間もかからないしねえ」……なんて会話をしている姿が思い浮かんだりして夢が広がっていく。21世紀は大豆もとうもろこしも園児もバイオである。アーサー・C・クラークはきっと喜んでいるにちがいない。

 ただ、街道ぞいにある看板なので、自動車を運転中の人があの看板をちらっと見て、「ええっ、バイオで育ててるんだってぇ!?」と動揺して事故をおこす心配がある。現にそこには「事故多発地点 運転注意」の看板もならんでいた。


■ A piece of moment 10/30

 すっかり寒くなってきたので、扇風機を押入にしまい、床暖房とファンヒーターを出した。もうすぐ冬がやってくる。秋の虫ももう声が聞こえなくなり、夜中に南の空を見るとオリオンが高く登るようになってきた。なんて書くとまるで串田孫一のエッセイみたいですな。

 今月も新旧とり混ぜて10数本の映画を観た。今月はいまひとつ不作。話題の作品もいくつかあったが、どれもぴんとこなかった。「マグノリア」は散漫で作為的、断片的なエピソードの積み重ねからイマジネーションを広げていくのに成功できていない。「バッファロー66」、評判がよかったので期待していたが、主人公の男女がバカすぎて最後までいらいらさせられたままだった。主人公の神経症的キャラクターや会話の間も自虐的なユーモアよりも、むしろ自作自演のヴィンセント・ギャロの俺ってセンスいいだろ的挑発のほうが感じられて鼻につく。ただ、父親役でベン・ギャザラーが出演していたのは懐かしかった。ところで、アメリカ映画でダメ人間のスポーツといえば必ずボウリングということになっているけど、そんなにボウリングの社会的地位は低いの?「モハメド・アリ かけがえのない日々」、今月一番期待していたのがこれ。偉大なアリ、ボマイエ!といったら猪木なんかじゃなくてだんぜんキンシャサのアリだ。ただ、子供のころに見たアリはもはや盛りを過ぎていて、身体には贅肉がつきステップをする度にわき腹がたぷたぷとゆれ、体力とパンチ力のなさをクリンチで逃げる試合をしていた。それだけに全盛期のアリがどんなボクシングをしていたのかずっと気になっていた。ところが、映画がはじまって1時間近くたってもぜんぜん試合が始まらない。えんえんと関係者の証言と試合のアトラクションであるジェームズ・ブラウンのステージがつづく。そこでようやく、この映画がボクサーとしてのアリの軌跡を記録したものではなく、公民権運動とベトナム戦争の時代のスーパースターとしてアリをたたえる映画だと気づく。肩すかしをくった気分だった。映画の終盤に入ってようやく世紀の一戦とうたわれたキンシャサでのフォアマンとの試合が始まり、アリは終始押しまくるフォアマンに逆転KO勝ちする。たしかにKOシーンは見事だったし、アリはハンサムで陽気ないい男だったが、ボクサーとしてのアリはタイソンやフォアマンのようなずば抜けて強いチャンピオンではないようだった。アリがカシアス・クレイと名乗っていたころの全盛期の試合を見てみたいところだ。名勝負集のような記録フィルムは手に入らないものだろうか。


■ A piece of moment 10/31

 高校の授業が休みだったので、税金を払ったり家賃を払ったりマイラインを登録したりおくれていた確定申告をしたりとちまちました雑務を片づけていたら1日が終わってしまった。1日を無駄にした気分だ。8MbpsのADSLが正式に11/9に開通することになった。電話局に近くて良かった。

 何本かの映画を観た。「エニィ・ギブン・サンデー」、オリバー・ストーンのプロフットボールを舞台にしたスポコンもの。スポーツドリンクのコマーシャルフィルムみたいな映像がえんえんと続く。登場人物たちはどれも類型的で、映像も物語も薄っぺらい。本当にスポーツドリンクのコマーシャルみたいな映画だった。「黒い家」、森田芳光のサイコもの。ひたすら怖いばかりで物語としてはやはり薄っぺらい。狂ってる人は狂ってる、凶暴な人は凶暴というだけで、その狂いや凶暴をはらんだ心の中へと下りていかないために、ただ大竹しのぶが目をむいて包丁を振り回しながらせまってくるだけのホラー映画になってしまっている。この数年でサイコのもののホラー映画は山盛りつくられたけど、現実のほうで猟奇的な事件が多発しているために、怖いだけのサイコものはもはやワイドショーで語られる事件レポートと何ら変わらなくなっている。むしろ現実の事件のほうがはるかにショッキングだし、もうサイコもののホラーはうんざりという心境だ。もしつくるのなら、狂いをはらんだ心の中に観るものを引きずり込んでいくようなディープな内容でないかぎり存在意義はないしワイドショーを越えることすらできない。

 最近欲しいもの パイソン柄のレザーパンツ。シェリル・クロウがステージ衣装で着ていたニシキヘビみたいなのが欲しい。あんなのどこに行けば買えるんだろうか。あと「政治的に正しいおとぎ話」を探している。古本屋の100円コーナーにありそうでなかなか見つからない。


■ A piece of moment 11/1

 夜中にWebをちらほら覗いていて、なぜか「ウルトラQ」のサイトにたどり着く。ぼんやり見ていたら、猛然と「ウルトラQ」が見たくなってきた。DVD全7巻まで欲しくなってきた。「ウルトラQ」は学生の頃に再放送で1度見ただけだけど、けっこうあたりはずれが大きかった気がする。1巻3700円のDVDを買ったりしたらきっと後悔しそうだけど、でももう1度見てみたいしあの昭和40年代初期の風景はそれだけでそそるものがあるしああどうしようなんて考えていたら、朝方近くなっていた。おかげで今日はやけに気の抜けた授業になってしまった。生徒諸君にはもうしわけないことをした。

→ ウルトラQ
→ 怪獣アワ〜

 「怪獣アワー」のほうは、ウルトラシリーズの怪獣たちのソフビ人形が網羅されています。愛を感じます。掲示板の注意書きには、「人の悪口、中傷は勿論のこと、怪獣、宇宙人、ロボットに対する悪口、中傷は御遠慮下さい」と愛に満ちあふれたフレーズがあったりします。愛のない私は子供の頃たくさんあった怪獣たちのソフビ人形はみんなどこかへ行ってしまいました。いまもっていたらけっこうな値段で売り飛ばせたろうと少々おしい気分。

 ところで、狂牛病のあおりを受けて「松屋」のカレーがビーフカレーからチキンカレーに変わってしまった。チキンカレー、いまいちこくがなくておいしくない。べつに牛肉食いたくない奴は食わなくてもいいし、チキンカレーをメニューに入れるのもかまわないんだけど、ビーフカレーをやめちゃうことねえだろ。ここ数年来でもっとも不愉快な事件である。私は本気で腹をたてている。


■ A piece of moment 11/2

 めずらしく授業前30分に学校につき、さあ今日はちゃんと授業をやろうと気合いを入れていたら、「あれ?今日は時間割入れ替えで社会科はありませんよ」と生徒。職員室でウソだウソだとさわいでいるとキョートーさんが現れ、どうやら本当らしいと判明する。なんだいそれならそうとひとこと連絡くれてもいいじゃないかあまりにも不親切じゃねえかとむくれていたら、よほど凶悪な顔になっていたようで、キョートーさんにしきりに謝られる。きっと次回は連絡してくれるだろう。っていうかしろよな、こちとらボランティアのお手伝いさんじゃねえんだよ……とは言えなかった。

 というわけで授業は流れたし、せっかく早起きして新宿まできたので、映画のはしごでもしようと思いたつ。駅前のチケット屋で前売りを2枚買って、いざ映画館へと思ったら、両方とも新宿ではやっていないことに気づく。ウディ・アレンの「おいしい生活」は恵比寿の単館ロードショーで「リリィ・シュシュのすべて」は渋谷と銀座の2館。ガッデム。500年ぶりくらいに訪れた恵比寿はやたらと風景が変わっていて、ガーデンプレイスという煉瓦づくりの小じゃれた区画ができあがっていた。こういう小じゃれた場所には必ずカネ持ちそうな白人が植民地気どりでうろうろしている。いったいどこからわいてくるのか、まるで甘いものに集まってくるアリンコみたいだ。イラン人やパキスタン人はひとりもいなかった。世界は不公平だ。映画館は平日の昼間なのに、カネ持ちそうなオバハンと学生ふうの若い女で8割方座席はうまっていた。ウディ・アレンの映画にこんなに女の観客がついているとは知らなかったよ。それともたんに土地柄によるものなんだろうか。「おいしい生活」のほうは、ウディ・アレン久しぶりのドタバタコメディで、腹をかかえて笑う。会話のテンポも話の展開もすごく良い。会話のうまさとテンポの良さはもはや名人芸の域だ。最近のベスト。

 渋谷はあいかわらず人が多くて汚くて安っぽかった。せまっくるしい映画館に入り、ロビーでタバコをふかしながら上映を待っていると、係員が「2列にならんで入場をお待ちください」と怒鳴りはじめる。おいおい、入場ごときでならばせるなよ。俺はならばされるのと待たされるのが一番嫌いだ。係員の言いなりになって通路に2列縦隊をつくっている従順な連中の顔を見ていたら、よけいに怒りがこみ上げてくる。いくら渋谷はガキばかりだからっていっても、係員、客をなめてるんじゃねえか。映画館に放火してやりたい気分だった。設備もスクリーンがやけに湾曲して見にくい上に、デジタルビデオをつかった上映でプロジェクターのフォーカスが甘いのが気になる。ハイビジョン程度の解像度ではやはり映像のドットが目についてしまう。で、「リリィ・シュシュ」、悪いことをくりかえす中学生たちの話なんだけど、物語の根底には「スワロウテイル」と同様に自分がここにいることのあてどなさがある。自分がいま・ここにいるということのあいまいさとつかみどころのない不安、自分の無力さへの苛立ち、身動きのとれない毎日へのいたたまれない思い、それはいつどこにいてもつきまとってくる。だから彼らは叫び、自分をそこから救いだしてくれるかもしれないリリィ・シュシュという歌手に思いを寄せ、吸い込まれそうな濃い空の色を見上げる。たぶん「スワロウテイル」も「リリィ・シュシュ」も自分が中学生か高校生の頃に観たらもっと夢中になったのではないかと思う。ただ、いまの自分にはあの思いを全面に出されるのはしんどい。それにそういう思いをひとつの「作品」のかたちにするための仕掛けのあざとさに目がいってしまう。MTV調の小賢しいつくりにせずにもっとストレートなドラマにすればいいのに。もっともそういうあざとさが岩井俊二の持ち味だと言ってしまえばそれまでだけど。あと、今回の作品は「スワロウテイル」とくらべて脚本の詰めが甘く、不必要なエピソードが多い。担任の教師がビデオ屋の店員と知りあいだったり、友達の母親が意味なく若くて美人だったり、沖縄でモデルみたいなお姉さんたちがでてきたり魚の解説があったりと本筋のストーリーの複線にならないまま流れていく描写が多いために、散漫でやたらと上映時間が長く感じる。とくに現実のバスジャック事件を模したテレビニュースを見ながら親たちが「いまの子たちは何を考えているかわからないわねえ」と会話をする場面はあきらかに不要であるだけでなく、あのテレビ映像と会話があるために、「社会問題」という引いた視点が入ってしまい、物語性をそこなわせている。わかるとかわからないという外側の視線は無意味だ。あの映画はある少年と少女たちが体験している世界の物語であり、彼らの視点から一気に描いていかねばならないはずだ。そこには何処かの誰かがおこした「社会問題」としてのいじめや自殺や暴力事件など入り込む余地はない。映画全体を通しての印象は、後味の悪さもふくめて、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」によく似ている。岡崎京子がモノローグを多用するのに対して、この映画ではインターネットの掲示板への書き込みがモノローグ代わりになっていて、モノローグのような生々しさを排除しドラマのテンポをつくる仕掛けになっている。ただ、作品としての出来は「リバーズ・エッジ」のほうがずっと良い。


■ A piece of moment 11/4

 「ウルトラQ」のDVDを買う決心がつかなくて、図書館で実相寺昭雄のウルトラシリーズの舞台裏を書いたエッセイを借りてくる。こういうのを心理学用語で代償行為といいますね。レンタル店に「ウルトラQ」、出まわっていないものだろうか。円谷プロは版権管理に神経質なようで、CS放送の古いテレビシリーズをやっているチャンネルにはちっともまわってこない。

 このところ映画づいていて、夜中になると観たくなる。「ボーン・コレクター」、脚本も演出も良くて中盤まで好調。ただ、猟奇殺人をくり返す知能犯にしてはラストで登場する犯人がいまいちなので見終わったときなあんだという気分。デンゼル・ワシントンはやはり格好いい。アンジェリーナ・ジョリーは顔アップよりもすっと立っている姿がきれいで、なるほどアクション向きのキャラクターだと納得した。きっと「トゥーム・レイダー」のララ・クロフトははまり役なんだろう。「ケロッグ博士」、これ、ずっと観たかったんです。ようやく観れた。ケロッグ博士というのはあのコーンフレークのケロッグで、コーンフレークを発明した人物。なんだけど、これがまた健康教のカルト教団の教祖サマのような人物で、コメディなのに演じるアンソニー・ホプキンスはレクター博士よりもずっと恐い。人は押しの強い人物にだまされるものなんだなあと改めて思う。カリスマというのは自分の信念に対する盲信とそれを人に伝染させる押しの強さから生まれるものではないかと思う。信じるもののない押しの弱い私は教祖にはなれそうもない。で、映画はその健康信仰を皮肉って笑ってやろうという演出なんだけど、怖すぎてちょっと笑えなかった。アラン・パーカーの叙情的な演出はコメディは向いていない気がする。あと、物語の展開が煩雑で中盤だれる。脚本に難あり。映画を観ていて、「健康のためなら死んでもいい」なんてほざいていたうちの母親を思い出した。ああ怖い。

 ところで、明日、我が家の回線をISDNからアナログにもどす工事があります。9日にADSLが開通するまでの5日間はネットに繋ぐことができませんので、メールの返事も遅れます。悪しからず。


■ A piece of moment 11/6

 ADSLの開通待ちでインターネットに繋ぐことができない。このところ、インターネットの利用時間が長くなっていたので、5日も接続できないのはかなり堪える。ただ、インターネットに繋いだからといって、とくに何かをやっているというわけでもないし、なければないでどうということもないはずなんだけど、なにやらあいまいな不便さと欠落感がある。ネット中毒みたいで怖いなあ。

 CS放送でデビッド・スーシェの「ポワロ」を観ていたら、ポワロが着ているようなウールの黒いチェスターコートが猛然とほしくなる。町を歩くとヴィンセント・ギャロもどきの汚いナイロンジャンパーばかり見かけるから、少しはずした服がほしい。丸井の紳士服売場をのぞくと、アンゴラのが8万円、カシミアのが13万円だそうで、それはちょっと。このところユニクロとGAPの安い服ばかり着ていたから、ヒトケタ、フタケタ物価が違う気がする。ジーパンとあわせるとパンクロッカー風で格好良かったけど。


■ A piece of moment 11/9

 目星をつけていたデジタルカメラが値下がりしていたので、仕事の帰りに新宿のカメラ店に寄って購入する。マウスのホイールがへたっていたのを思い出したので、光学式のマウスをついでに買ってくる。冷たい雨の中、家に帰るとADSLが開通していた。で、こうしてインターネットに接続しているわけだけど、たしかにADSL、速い。おっおおおという感じで重いWebサイトもパカパカ開いていく。パソコン雑誌がバカみたいに「ブロードバンド」とはしゃいでいるのもなんとなく納得した。8Mbpsのフルスピードはもちろんでていないが、2Mbpsくらいでつながるので、ISDNの30倍くらいの速度ということになる。ダウンロードもアップロードもあっという間に終わった。

 こうして通信設備も良くなって、我家は次第にデジタル要塞と化していく。ADSLでつながったコンピューター、ふたつのパラボラとCSチューナ、インターネットで検索すればそれまで考えられなかったほどの情報を得られるし、地球の反対側にある業者に商品の発注だってできる。CSチューナーのリモコンを押せば、テレビには古今東西の映画が映し出される。たしかにすごく便利だけど、でもなんだかなぁとひっかかるものはある。テクノロジー系の雑誌やWebに文章を書いているあの人あの人のようにはビバ・テクノロジーというおめでたい気分にはなれない。電子要塞の装備が良くなっていくたびに、本当に俺ってそんな暮らしがしたいのっていう疑問がいつも頭をかすめる。生活に必要なものがどんどんとふえていって自分自身がデジタル要塞の虜になったようなひよわさを感じる。それは便利であるようでいて、むしろ心理的にはそれにしばられて身動きがとれなくなりつつあるんじゃないかっていう不安だ。もっと身軽にせいせいとした気分でくらすことができないものだろうか。かといって、じゃあ何もかも捨てて路上での暮らしができるかっていうとそういう決心もつかないわけで、ホームレスへの道は険しい。ともかく、今日ADSLが開通して、再びインターネットに接続することができるようになった。


■ A piece of moment 11/10

 我が家は小平の中でも陸の孤島のような不便な場所にあるので、以前からよく移動販売のクルマがやってきた。たけやさおだけはもちろん、ヤマギシの自然食品から屋台のラーメン、豆腐、ぎょうざ、タマゴ、魚、アイスクリーム、灯油などなどで、ちょうどうちの前に止めてスピーカーから口上をくり返す。とくにうるさかったのがヤマギシズムとアイスクリームで、テレビの音も聞こえないくらいの大音量で、ピンク色のアイスクリームカーがやってまいりましたぁ他では味わえない美味しさぁとろけるような舌ざわりぃお父さんには抹茶アイスお母さんにはバニラお子さまにはストロベリーはいかがですかぁ寒い冬に暖かい部屋でアイスクリームというのはヨーロッパではあたりまえなんですぅ〜とべったり絡みついてくるような媚びた口上で俺様激怒、近所のガキはサイレンのように泣き出すといった具合だった。このところ近所に立てつづけに大きなスーパーやディスカウントストアができたせいか、巡回販売も減ってあのアイスクリーム屋やヤマギシズムに眉間にしわを寄せて耐えていた日々からもようやく解放された。そんな平和な暮らしを満喫していたところ、意外なところから新たな強敵が出現した。灯油屋である。灯油の巡回販売は以前からたくさんあったんだけど、そこにやたらとしつこくて押しつけがましい口上の灯油屋が割り込んできた。他の灯油屋の5倍くらいの大音量でなぜかベートーベンの第9交響曲の出だしをひびかせ、悪質な押し売りみたいな口上をえんえんとまくしたてる。おまけにそれがあまりに大音量なために、近所を移動しているはずなのにずうっと家の前にいるように感じる。パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜買ってくれないとワタクシ家に帰れませんうちの奥さんこわいんですぅ〜灯油灯油とうゆぅ〜安いよ〜850円〜灯油灯油とうゆぅ〜なんでこんなに安いのかっていいますと〜ワタクシみなさまの味方だからでございまぁ〜っす〜もしもっと安い灯油があったら遠慮なくいってくださいねえ〜でもこれ以上安くしたらワタクシうちの奥さんに怒られちゃいますぅ〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜このクルマはゆっくりとゆうぅ〜っくりとうごいていますからねえ〜あわてなくても平気ですよぉ〜奥さん〜ワタクシとりわけ女性には優しいんですよぉ〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜うちの奥さんがどんなにこわいかっていいますとねえ〜全部売るまで帰ってくるなっていうんですよぉ〜たまりませんよぉ〜だからみなさん買ってください〜灯油灯油とうゆぅ850円〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜この間なんてうちの奥さん何て言ったと思いますぅ?……ってそんなもん知るかいな。もう最悪である。あの勝手に土足でずかずか踏み込んでくるなれなれしい感触はピンク色のアイスクリームカーもヤマギシズムもかわいく思えてくるほどだ。もしかしたらこの冬いっぱいあの灯油屋につきあわされるんだろうか。俺の安らかな日々を返してくれ。灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜って、ああ耳についてはなれない。買いません〜灯油ぅ〜ぜえぇ〜ったい買いません!


■ A piece of moment 11/11

 このWebサイトを作りはじめたときからずっと使ってきたHTMLエディタは、ファイルサイズの大きい文章を編集するとフリーズしたり文字化けしたりと動作が不安定だ。3年間、ずっといらいらしながら使ってきたが、ダウンロードも楽になったことだしと新しいHTMLエディタに換えてみた。良い良いすごく良い。動作は安定しているし、あれこれカスタマイズできるので使い勝手も良い。こういう良い道具をフリーソフトとして公開しているプログラマーの心意気にも感心する。なので敬意を表して勝手にリンクを張ることにする。

→ TTT Editor

 私のような自己流でコンピューターをいじっている者にとっては、最初に出会うソフトが変なソフトだとそのダメさに慣れてしまって、作業効率の悪いままずっと使い続けてしまうことになる。なんかこのソフト使いにくいんだけどでも設定をいじるのも面倒だし新しいソフトに換えても慣れないと使いにくいだろうしでももしかして自分の使い方が悪いのかもしれないしという調子で、やっぱりこれダメじゃんと結論が出るまでに3年近くかかってしまった。まるで不毛な同棲生活をだらだら続けてしまったみたいな気分だ。


■ A piece of moment 11/14

 いまさらながら「私立探偵・濱マイク」シリーズを見はじめる。凝った映像と道具立て……なんだけど肝心の永瀬正敏演じる濱マイクが何をやっているのかさっぱりわからない。1作目の「我が人生最悪のとき」はこんな話だ。雀荘のバイトをしている台湾人の楊はチンピラに因縁をつけられる。仲裁に入ったマイクはとばっちりを受けて怪我を負い、それがきっかけで楊と友達になる。楊の貧しい子供時代の話を聞かされたマイクは、自分の子供時代と重なって人ごととは思えず、仕事を紹介したりなにかと世話を焼く。そんなマイクに楊は行方不明の兄を捜してほしいと頼む。まかしとけと友情にかたいマイクは大見得を切り、さんざん苦労してつきとめるが、楊の兄がアジアン・マフィアの一員であることを楊に告げることができずにいる。ところが、楊自身も台湾マフィアの一員で、自分の兄がマフィアの殺し屋であることははじめから知っていた。楊は裏切り者の兄を殺すために送り込まれた殺し屋だった。そのことにようやく感づいたマイクは楊を止めようとするが、楊はマイクの制止を振り払い兄を殺しに向かう。ところが、組織ははじめからふたりを相打ちにして片づけるつもりだった。ふたりがそろったところをねらって兄弟とも殺してしまう。事がすべて済んだところに、マイクがようやくたどり着き、楊の遺品を拾う。センチメンタルモードに入ったマイクは楊の遺品を持って台湾まで訪れ、楊の恋人だった女に無言でその遺品を渡す。台湾と横浜の雑踏にたたずむマイク……ジエンド。なんじゃこりゃ。なんてひどい脚本。主人公のマイクは状況をかき回すだけで、最初から最後まで事件の流れを変える活躍をしないので、活劇なのにぜんぜんスカッとしない。ちょろちょろして殴られるばかりのマイクは、主人公なのにいてもいなくてもいい登場人物に見えてしまう。そもそもこの話では、楊と楊の兄さえいれば成立してしまうストーリーだ。しかもストーリーの鍵になるエピソードがきわめていい加減につくられている。なんで楊はプロの殺し屋なのに、友人であるマイクに兄を捜してほしいなんて危険な依頼を軽々しく口にするのか。なんで兄の事情を知った後も楊は兄を殺そうとするのか。ふたりの殺し屋が死んだところで、組織にはなんのメリットがあるのか。なんでマイクは、楊が自分を欺いていたとわかった後もあれほど肩入れするのか。子供時代の境遇が自分と似ているというだけで、なんでマイクはセンチメンタルジャーニーで台湾まで行っちゃうんだよ。友情大安売り。おまけに楊兄弟はいくらでも状況を変える選択肢があるはずなのに、死ぬことが決まっているかのようにふるまい、死ぬ場面に向かって一本道のように展開していく。見終わって、あまりに釈然としない気分でいらいらがつのった。脚本書いた奴、東映のヤクザ映画の見過ぎで脳味噌いかれてるんじゃないのか。テレビのサスペンス劇場だってもう少し気の利いたシナリオだ。主人公は楊兄弟を手引きして、カナダかアメリカあたりに出国させるためにマフィアも警察も敵にまわして活躍するくらいの展開があっても良いはずだ。にもかかわらず、物語は日本映画にありがちな組織は強く個人は弱いという論法に忠実にそって、組織に負ける結末へ向かって一本調子の展開を見せる。おかげで登場人物たちは最後まで生き生きと動き出すことはない。演出も凝った映像を見せようとするばかりで、テンポが悪くもたつく。たぶん、これは凝った映像と洒落た道具立ての中でセンチメンタルな気分にひたる永瀬正敏の姿を見せるためだけの映画だ。だから、終始、負け犬の美学のようなムードが押しつけがましいほどつらぬかれている。それにしても、けっこう話題になった映画のはずなのに、どうしてこんな映画がという疑問が残る。永瀬正敏が洒落た格好をしてスクリーンでポーズをつけていればなんでも良いという人が大勢いるんだろうか。そんな日本映画の安っぽい部分が凝縮したような映画で、3作まとめてみようと思っていたのにはやくも挫折気味。このところ、映画はハズレが多い。


■ A piece of moment 11/15

 以前、一緒に社会科を教えていた女性と昼の給食を食べながら、リアルタイムで経験した事件で何が印象に残っているかという話をしたことがある。浅間山荘事件と田中角栄の列島改造はかろうじて記憶にある、三島由紀夫の割腹自殺とアポロ11号の月面中継はおぼえていない、そう話すと、うちの母親とほぼ同世代で定年間近い彼女は、私はやっぱりケネディの暗殺かしらねえと話しはじめた。あれは日本ではじめての衛星中継で、ほんとうにちょうどテレビを見ているときにいきなり起きた出来事だっただけにすごいショッキングだったわよ。「ケネディ暗殺の頃はまだ俺は生まれてませんよ」と言うと、いやあねえケネディ暗殺なんてつい昨日のことのようなのにとあははと笑っていた。ケネディ事件がつい昨日のことのようだというのはなかなかおもむきのあるいい言葉だ。現代史はできるだけ年輩の人から体験談を交えて教わったほうが味わいがある。

 今日、中学校の選択授業で、ベルリンの壁が崩壊したときのことをおぼえているかという話になった。生徒たちはほとんどが記憶にないという。そうか、もう12年もたつのかと改めて驚かされる。まいった、ベルリンの壁の崩壊なんて、つい昨日のことみたいな気がする。壁によじ登ってハンマーを振り下ろしていたおじさんの顔まで鮮明に記憶している。なのに12年、まったく、いやあねえっていう感じだ。夜の授業で高校生たちにそのことを話すと大笑いされた。ハタチ過ぎで酒もタバコのオッケーの眉毛の細い副生徒会長は、今回のニューヨークのテロ事件だって、あと5年もすればそんなことぜんぜんおぼえていない連中が中学生になって、彼らを相手に授業をすることになりますよと笑っていた。まったくおっしゃるとおりで、気の利いたことを言うもんだ。ベルリンの壁の崩壊もニューヨークのテロもやがて歴史の中のひとコマになって、我々にとっての「体験」は、新しい世代にとって学校で学ばなければ知らない「歴史上の知識」になっていく。そうして彼らは、社会科っておぼえなきゃならないことが多すぎて嫌い〜と不満を言いだしたりする。わはは、ざまあみろ、遅れて生まれてきた君が悪いのだ。それが嫌なら、長生きすればいい。そして、世界は回っていくのだ。


■ A piece of moment 11/16

 生徒のWeb日記を見つけた。本人は今どきめずらしく「です・ます」を流暢につかって理路整然と話すので、日々、岩波文庫のゲーテかトルストイでも読んで暮らしているのかと思っていたら、ぜんぜんちがった。おじゃる丸のひとりごとみたいな文体で、マンガとコスプレとハウスミュージックのことがえんえんと綴られていた。どうやらサブカルチャーマニアだったらしい。人は見かけによらないものである、って私に見る目がないだけか。ともかくその振幅がおかしかった。からかってやろう。

 Web日記の彼女のように、ときどき話し言葉よりも書き言葉の文体のほうがくだけているという人を見かけるようになった。インターネットと携帯メールの影響だと思うが、いままでになかった現象だ。良くも悪くもメールとチャットは書き言葉を記号化し、軽いものにしている。そういう私は話し言葉も書き言葉も軽いために、日々ヘーゲルを読み世界認識のメタ化について考えているというのにアホだと思われているらしい。しかし、世界認識のメタ化について思いをめぐらす日々に身を置く者としては、松屋の牛丼が食い放題だったらいいなあとか小泉考太郎はあと半年持つだろうかとかゲームボーイアドバンスはちょっと欲しいなあとか来週あたり晩飯を賭けてモノポリーがやりたいなあとか通勤途中で見かけるラブラドール・レトリーバーの顔が志村けんのバカ殿に似ているなあとかそんなことはどうでもいいことなのであって、そんなアホなことばかり考えているように誤解されて非常に迷惑しているのである。なので、米米クラブが何人なのか教えてくださいなんて変なメールを送ってこないでください。知りません。私は米米クラブよりもアラジンが横にはべらせていた「じゅらくよ〜ん」みたいな女の人たちのほうが気なって……あ、いません、そんなこと考えたこともありません。


■ A piece of moment 11/17

 フリーウェアソフトの掲示板を見ていたら、10行程度の書き込みに「長くなりました」とことわっているのがあった。なんじゃそりゃ。3行4行の文章でいいたいことを伝えるなんて、まるで短歌の世界か「あれだよあれああそれそれ」といっているお父さんみたいだ。本当にそんなことでいいたいことが伝わっているのか不安にならないんだろうか。私としては999行くらい書き込んでも「言葉がたりなくてすいません 敬具」って感じなんだけど、やはりサーバーには私の意図が伝わらないようで「容量オーバーです」と意味不明のメッセージを返してきたりする。昨今のコンピューターは気合いが足りないような気がする。


■ A piece of moment 11/22

 期末試験前で問題をつくらねばならないのだが、こういうときに限ってやけに気力減退、アタマの中には霧がたちこめ、先月のさえわたっていた日々がはるか遠い出来事のようだ。仕方がないのでとりあえず問題作成をとコンピューターの前に座るが、ふと気がつくと夜中までテレビゲームの桃太郎電鉄をひとりコンピューター相手にやっていたりする。おまけに負ける。これが噂に聞いていたキングボンビーってやつかぁなどと納得している場合ではない。試験問題をつくらねばならないのである。でもやっぱりくやしいから、もうひと勝負って、あ、これは非常に危険な香りが……。それにしても、あのゲーム、どうしてあんなにメッセージが脳天気なんだろう。さあ、ももたろう社長のばんですよぉ〜って、あの脳天気さは状況がせっぱつまっているときほど心をゆさぶられるものがあります。


■ A piece of moment 11/23

 夜中までキングボンビーにつきあっていたせいで寝不足のまま授業をする。教室に近づくと廊下にまで生徒たちのさわぐ声が響きわたっていて、寝不足のアタマには堪える。どうして朝からあんなに元気なんだろう。ひたすら圧倒される。授業が始まってもアタマがぼんやりしているため生徒たちのハイテンションな会話についていけず、うまく生徒との会話を切り返すことができない。まるで、アドリブがきかない芸人になった気分だ。アドリブのきかない芸人にかぎってネタと企画モノをやりたがる。不様である。あれと一緒でこういう時はつい授業を進めたくなる。おかげで試験範囲は終わらせることができたが、まるで試験範囲を終わらせるためだけの授業をしたようで、生徒たちには申し訳ないことをした。

 Web日記嬢と廊下で出くわす。先日の近況を読んだらしく、「おじゃる丸ですかぁ〜」と顔は笑っていたがやや不満げな様子。やはりうまく会話を切り返すことができず、笑ってごまかす。たしかにおじゃる丸というよりグーグーガンモみたいでした。あ、またからかいそびれてしまった。笑いの感覚が似ている人というのは案外からかいにくいものかも知れない。

 先日、ラジオから流れてきた「ジェットにんぢん」という歌がアタマにすり込まれたようで、通勤電車に揺られてぼんやりしていたとき、ふとアタマの中でジェットにんぢんというフレーズをくり返して思考停止状態になっていることに気づく。ラジオはライブ中継だったようでやけにベースに勢いがあって、どの曲も妙なぶんぶん感が残る感じだった。その手のバンドにくわしい人によると1年くらい前からけっこう売れている新人バンドだそうで、GO!GO!7188というらしい。まわりに聴いている人はいなさそうだが、こういうバンドはかえって高校生くらいのほうがくわしいような気がする。

 おとつい、玄関先にとめておいた自転車が盗まれていることが判明する。ぼんやり気分のせいか怒りもわいてこず、ただバス通勤の不便さを味わっている。


■ A piece of moment 11/26

 自転車購入。27インチ、ママチャリ、変速機なし、9800円也。カゴが大きいのと輪っか式のカギが気に入る。新しい自転車はやはり気持ちよく走る。それにしても9千8百円。こんなに安いんなら、タイヤがすり減って穴があいたときに5千円も出して交換したりしないで、買い換えておけば良かった。ものの値段っていったいどうなってるんだろう。我が家の10年も使い込んだボロ自転車を盗んだ人間も、いったい何が気に入ってあんなのわざわざ盗んだんだろうか。世の中、不思議だ。でも、あの赤いボロがその辺に乗り捨てられてるとしたら、ちょっとかわいそうだな。ものはモノにして物にあらずだ。


■ A piece of moment 11/29

 遊びほうけていたツケが回ってきて、きのう今日と修羅場をむかえる。きのう、夜の部の授業を終えて、9時すぎに帰宅。そのまま中学のほうの期末試験を作成にとりかかるが、これが思った以上に難航、あいだに1時間の仮眠をはさんで朝までかかってしまう。学校へ行き図版のコピーなどをして、印刷を終えたのは試験実施の15分前だった。すべり込みセーフ。ひさしぶりにスリルとサスペンスを味わった。このところ問題作成はいつもすべり込んでいるけど、今回はヘッドスライディングで鼻血垂らしながらファイト一発って感じで、いつになく激しくすべり込んだ気がする。ただ、勢いで書き殴ったわりには、問題のほうは案外ちゃんと出来ていた。少し問題傾向を変えて、用語の穴埋め問題を減らし、説明文の中から間違った説明をしているものを選択する形式をふやしてみたりした。文章量が増えるのと適切な選択文を設定しなければならないので作成には手間がかかるが、こちらの形式だと用語の丸暗記でなく状況の理解のほうを問えるので、ひと手間かけてみた次第。もっとも生徒からは問題文が長いと不評。で、ほっとする間もなく試験の見回りやら試験監督やらをこなして、メシ食って採点開始。8人目を採点し終えたところで意識不明におちいる。何度か再トライを試みるがその度に意識不明に陥るので、あきらめて学校で2時間ほど仮眠。その後、ひとクラスぶん採点を終わらせ、再び夜の部の授業に向かう。定時制高校のほうは、原子力発電をテーマに有効性と問題点について考えるというもので、今回はその最終回なので、手は抜けない。用意した資料をあれこれ提示したり、生徒の考えをひとりひとり聞いたりして、どうにか2時間終える。生徒は概ね積極的に考えを発言してくれたが、ひとり、こちらが質問をするとしかられた子供のようにうつむいて黙ってしまう女の子がいる。ん?どう?と聞きなおしてもうつむいたまま10秒20秒30秒と重たい沈黙が続く。あの無言の間はけっこうつらいものがある。まるで俺がいじめてるみたいじゃんか。もしかしたら、小学校や中学校のころに、自分の発言を教師からバカにされたりした経験でもあるんだろうか。ふだんは陽気でへらへらしている子だけに不思議だ。この種の演習授業は、居酒屋の酔っぱらいオッサンみたいな「コイズミがダメだからよ〜」式の発言が続くとそれはそれで気が滅入ってくるものだけど、あれはまだ独善にせよ進行役の私には取り付く縞がある。でも、ひたすら黙られてしまって反応が返ってこないと、こちらとしてはもうお手上げである。参加者の顔ぶれでどんなふうにでもなってしまう授業なんだとあらためて実感する。で、そんなつな渡り気分を味わった後に、学食で晩飯をたらふく食って、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に1時間半ゆられて帰宅。これから中学のほうの採点の残りを終わらせる予定。明日、答案を返せばひと段落だ。でも、夏休み前の1学期とちがって、2学期の期末は終わらせてもいまひとつ開放感がない。まだまだ授業はあるし、冬休みなんてすぐ終わってしまうし、ちっとも終わったぁ〜という気分にならない。そんな1日。


■ A piece of moment 12/1

 IEのセキュリティホールをねらった「ワーム」と呼ばれるウィルスが大流行のようで、こちらのサイトにも日に2通くらいのペースでウィルスが添付されたメールが送られてくる。タイトルも送信先のアドレスがないものやタイトルが「Re:」だけで送り主のアドレスのはじめに「_」がつくものなど各種送られてくる。いちおうセキュリティパッチもあてているし、このサイトではgooのWebメールしか公開していないので、感染することはないんだけど、非常に鬱陶しい。ワームウィルスに感染した場合、本人に自覚のないまま自動でウィルス添付のメールをばらまいてしまうので、ちょっとでもあやしいなと思ったらウィルスチェッカーにかけてみた方が良い。というかしてください。まあめんどくさいけど、感染するとウィルスの種類によってはコンピューターが使えなくなるくらいの被害がでるしさ。そんなわけでインターネットにはウィルスがあふれているので、ウィルス対策の知識がない者はインターネットに繋ぐなという状況になりつつあるような気がします。ウィルス情報や対策はこちらを参考に。

→ Trend Micro Japan


■ A piece of moment 12/13

 前回の近況からちょっと間があきました。そのあいだに何をやっていたかというと、EverQuestの拡張パックを買ってしまったわけで、ああまたカエルと殴り合いするのかぁと気分はやや引き気味だったにもかかわらず、毒くわば皿までと勢いで買ってみた。で、拡張されて何がおきたかといえば、あちらの世界の月へ行けるようになって、キャラクターグラフィックが大幅に変更されて、3Dの描画プログラムを大きく変更しすぎたために大量のバグが追加されてしまったのであった。ともかく。我が分身、Efta Novemberstepsくんは白髪のちょんまげアタマになってあの世界に生まれ変わったのであった。岡野令子のマンガみたいな顔になった。前の羽賀健二みたいなな〜んにも考えていないようなハンサムくんよりはいいだろう。で、買ってしまったんだから、まあ仕方ない、ともかく3ヶ月ぶりにあちらでの暮らしを再開してみる。再開して何をやっているかといえば、ああもうこれは予想していた通りで……やっぱりこうなるのであった。


 カエル大行進。そして、再び変なアメリカ人たちとしょうもない会話をしながらカエルを殴る日々がやってきたわけで、3ヶ月前となんにも変わってねえじゃんか。もう俺、何やってんだろうって気分である。映画観るなり、本でも読むなりした方がよっぽど有意義な気がするが、でも目の前にカエルがいるんだもん、殴らなきゃ。そんなわけでとにかく寝不足である。

 ぜんぜん関係ないが、世の中にはやたらと自身に満ちあふれた人がいる。一方で、いつもおどおどしてやけに自身なげな人もいる。多くの場合、それは本人の能力と比例していて、能力の高い人ほど自信満々という雰囲気を漂わせている。ただ、時に、なんでそんなことを思いっきり断定できるんだろうというような自信過剰の困ったちゃんもいるわけで、あきらかに間違ったことをいっているのに断定調の言動をまきちらしたりする。どうやら、間違っていようが正しかろうが自信満々な様子をしていた方が日々の暮らしの中で得をすることが多いらしい。自信たっぷりに言えば、自分に都合のいいだけのでまかせがさも真実で重要なことであるかのように信じ込ませることができる。遅まきながら私もそのことにようやく気づいた。今日、昼飯の中華焼きそばを食いながら突然気づいた。多くの人は話の論理的整合性よりも相手の雰囲気に「説得力」を感じる。この数年、あちらこちらで聞くようになった「カリスマ」とか「オーラ」というのは、雰囲気にだまされる自分の愚かさを正当化する言葉である。なので、今後、私は会話の中で「カリスマ」とか「オーラ」という言葉をもちいる人間は皆アホだと相手にしないことにした。人間は「オーラ」も「フェロモン」も発していないのである。


■ A piece of moment 12/20

 ようやくバッドトランスBも下火になってきたようで、こちらに送られてくる「Re: 」のメールも減ってきた。12月はじめの多い時期は日に5通くらい新たな感染者からウィルス添付メールが送られてきて、その広がりが手に取るように伝わってくる感じだった。ウィルスの輪で人類皆兄弟。きっとウィルス制作者は人類愛に満ちた人物なんだろう。ビバ・ヒューマンビーイング。クリスマスも近いしさ。それにしてもこの種のウィルスはセキュリティパッチや簡単な設定をするだけでふせげるのに、ぜんぜん対策をとっていない人がずいぶんといるもんである。こうなってくると、コンピューターのウィルスの場合は、インフルエンザとちがって、うつされる方が悪いような気がしてくる。先日、ウィルス対策をとっていないものはネットに繋ぐなという状況がくるのではないかと書いたが、本当にアメリカの大手プロバイダーがセキュリティパッチをあてていない者の接続を拒否するという声明を出した。何のウィルス対策もとらずに感染してさらにネットでウィルスメールをばらまくようなアホは入場お断りというわけだ。厳しいような気もするが、ウィルスをまき散らす迷惑さとトラフィックの混雑を考えれば仕方ないところだろう。それにしてもセキュリティパッチをあてているかどうかなんて、どうやってチェックするんだろうか。

 3ヶ月ぶりに再開したEverQuestだけど、その間に知りあいたちのほとんどはやめてしまったり、別のサーバーへキャラクターを移動させたりしてして、いなくなってしまった。元々、日本人の少ないサーバーだったのに、少ない上にさらにメンバーのコミュニケーションがうまくいっていなくて、この有様に至ったようだ。引いた目で見るとたかがゲームでなんでもめるのか不思議な気がするけど、大勢でいっしょにプレイするゲームなので、どうしてもプレーヤー間で互いへのフラストレーションが溜まりがちになってしまう。ことにゲームに求めるものが大きくちがうと、一緒に行動することすら困難になる。下調べなしでダンジョンに突撃したい者にとってはあれこれ細かい指示を出す者は小うるさくて鬱陶しい奴に思えるし、逆に詰め将棋的にきっちり攻略したい者には打ち合わせもなしでただ突撃したがる者は人のハナシを聞かないでたらめな奴に思える。そうしてプレイヤー間で不協和音がたちはじめる。いい大人なんだから歩み寄ればいいものだが、互いにそんなことをしても楽しくないし自分は楽しむためにゲームをやってるんだと自分のプレイスタイルを譲らない。キャラクターが育って難易度の高いところを攻めるようになるほど大勢の人手とコミュニケーションが求められるので、プレイヤー間のフラストレーションはさらに高まってくる。そもそもレベルが上がってくると必然的に下調べやプレイヤー間の打ち合わせが必要になってくるので、気楽に突撃したいだけの人はプレイが困難になり、キャラクターが育たない。キャラクターのレベルが大きく違ってしまうとゲームの仕様で行動を共にすることは不可能になる。にもかかわらず「もう少しレベルの底上げをしてみんなで一緒にプレイしようよ」という呼びかけすらプレイスタイルの押しつけと受け取られ、白けた空気と不協和音を煽る結果を招く。コミュニケーションのうまくいっていないメンバーでは、うかつなことは言えないのである。もうダメじゃんこのメンバー。というわけで、攻略したい人たちはせっかくキャラクターが育っても、人手が足りないためにすることがなくなってしまい、もっと日本人プレイヤーの多いサーバーへ移ってしまった。一方、気楽に突撃したい人たちはゲームに飽きてやめてしまった。取り残された私はあいかわらず変なアメリカ人たちといい加減な英語でやりとりしながら、いまだにカエルを殴っているわけである。


2002

■ A piece of moment 1/12

 目くじらをたてるほどではないが、日頃、小賢しいと思っているものがある。
 たとえばカップラーメンの底に貼ってあるビニールはがし用のシール。あんなものつめをたててべりっとやればいいだけなのに、わざわざシールを貼ってほら私たちは親切でしょうこんなにあけやすいんですほらほら細かいところにも気配りしてるんですよと親切ぶってにじり寄ってくるような感触をおぼえる。素っ気なくしてくれたほうが親切という場合も多々ある。

 同じ理由で、たいして良くもないコンサートのお約束アンコールというのもいらいらする。興行は予定調和が当たり前とはいえ、当たり前のようにあらかじめアンコール用の曲や演出・衣装まで用意してあるのを見ると、演奏者と観客とのディスコミュニケーションを強く感じる。なによりもお仕着せの予定調和はロックスピリットとはもっとも離れているはずなのに、ロックコンサートほどお約束アンコールが多いのはどうしてだろうか。その日の演奏がどうしてもうまくいかないときは、非難をあびることを覚悟で途中でやめてしまうようなクラシックのミュージシャンの方がよほど潔い。コンサートは2時間を丸く収まればいいというものではないし、無難に予定調和を演出することがプロの仕事ではないはずだ。むしろ丸く収めようとする精神と対局の所にあってほしい。つまらない授業をしているときほど当たり障りなく50分間を丸く収めようとしている自分に気づくとき、自分の不様さにうんざりする。

 新築のこじゃれた一戸建ての庭に、これ見よがしに花壇がつくられているのもいやらしい。鉢植えや花壇がどう見ても通りを行く者にアピールするために配置してある様子で、草木を愛でている雰囲気が感じられない。ぴかぴかのベランダ、一本の雑草もなく手入れされた花壇、品種改良されてやたらと鮮やかな花をつけた鉢植え、どれも明るい我が家を通りをゆく者に見せびらかしているような押しつけがましさを感じる。バッタもミミズもヒキガエルもあの庭では居心地が悪そうだ。

 昨年末からたまっていた洗濯物をようやく片づけた。もう少しこざっぱりとした暮らしをしようと思う。年賀状はまだ書いていない。年賀状のような形式的なカードをまるで名刺のように数百枚もばらまく者の感性を疑う。そうまでして人とつながっていたいのか。そうして得た形式的なつながりに何の意味があるのか。もう少しあたたかくなったら、年賀状みたいに形式的でない便りを数少ない友人・知人に送ってみようと思っている。


■ A piece of moment 3/4

 ひさしぶりに近況を書くことになります。この2ヶ月、とくにこれということもなくあいかわらずです。最近のヒットは、梅谷献二の虫の本と「カムイ外伝」。カムイ外伝のほうは全20巻で完結しているようなので、まとめて読みたいところ。

 「Everquest」について、友人から「エバークエスト国」のGNPは世界第77位というWebニュースを紹介される。Webの記事はアメリカの経済学者がゲーム世界で動く仮想の経済について考察したものだが、社会科学系の研究者たちがあの仮想世界を考察対象として興味を示す様子はわかる気がする。かつてないほど濃いゲームで、世界中のハードコアなゲーマーが集まってコミュニティを形成している。そこで費やされる時間も労力も膨大で、プレイヤー間の欲望と願望を調節するための細かい慣習も形成されている。もちろんゲームの中には仮想のお金があり、仮想世界を駆けめぐっている。それだけにコミュニティや流通モデルの実験場としても非常に興味深いものがある。もちろんゲームプレイの最中はひたすらお猿のように前のめりなので、そんなことに頭は働かないのだけど。


 定時制高校のほうの授業が終わった。ここの学食はやたらとうまくて、まるで夕飯を食いに来ているような気分だった。おかげで1年間で5キロも太ってしまった。


■ A piece of moment 3/10

 ムネオブームである。ひさびさにヒットなおじさんを見た気分だ。もちろんめざといメディアはあのキャラクターを放ってはおかない。もはやテレビの番組表や週刊誌の見出しも「鈴木議員」ではなく「ムネオ」である。外務省の族議員で日本外交の黒幕なんていうから、さぞやインテリを鼻にかけて気どった奴がでてくるのかと思っていたら、ちんちくりんで下卑たしゃべり方をするおじさんだった。その落差が可笑しく、同時に自分の想像力の貧困さを実感する。あの泥臭い外見と下卑たしゃべり方をする人物が権力の中枢にいて、官僚たちをアゴで使い怒鳴り飛ばしながら日本の外交を左右し、数百億の金を動かしてきたわけで、その事実とくらべるとドラマや小説に登場する権力者像のうすっぺらさを思い知らされる。国会をキャバクラとを勘違いしているような野上次官のいでたちといい、今回の事件は登場人物たちがやけに濃い。ひさしぶりにビバ人間という気分である。それにしても、公金使い込みで逮捕された松尾にしても何年か前にアルゼンチンでテロリストに監禁された大使にしても外務省関係者には北方健三ふうの臭みがある。勘違いしている連中のたまり場なんだろうか。脱いだ背広を肩にひっかけて歩いているおじさんというのもひさしぶりに見た気がする。


■ A piece of moment 3/18

 日に日にあたたかくなってきて、いつの間にかこぶしの花は満開で今年も花粉症でアタマがぼんやりしていて、目の前の明るい風景がテレビか映画のような自分と隔てられた世界のように感じる。

 アメリカ製のコンピューターゲームを買う。あちらの世界に入っていく前に自分の分身をつくらねばならない。分身の性格づけには、善人か悪人かというお馴染みの縦軸だけでなく、興味深いことに組織や集団の秩序を重んじるかどうかという横軸がある。なので、「組織に忠実な悪人」や「社会秩序を無視する善人」という設定も可能になる。前者の例としては、組織に忠実でボスに命じられるままに凶悪犯罪をくり返すギャングのチンピラや組織のためなら汚いことにも手を染め平気で嘘もつけるような汚職官僚などがあげられる。後者は、自分の信じる正義のためなら躊躇なく法や社会秩序を犯すという人物で、ハードボイルド小説の主人公や社会的地位を捨て田舎で隠遁生活をしている偏屈者なんていうのがあてはまるようだ。で、この性格づけにしたがってあちらの世界での社会生活がはじまることになる。この性格づけ、ゲームを始める前にいきなり人生の重大問題を突きつけられた感じがして、いったい俺はあちらの世界でどう生きたいんだろうとコンピューターの前でしばし悩む。

 しばらく前、CBSのドキュメンタリーに黒人女性ではじめて東部の名門大学の学長になったという人が取りあげられていた。そこにこういうエピソードが登場する。彼女の古い友人でありノーベル賞を受賞した作家でもある人物に文学部の教授を依頼する。作家は彼女のたっての依頼ということもあり文学史の講義を引き受けることにする。で、話が進んでいざ契約という段になり、大学側は彼女に履歴書を提出してくれといいだす。そこでプライドの高い作家はへそを曲げる。今回の文学史の講義は古い友人のたっての依頼であるから引き受けることにしたのになんで履歴書なんかを書かねばならないのかというわけだ。これは自分と学長との信義に基づく合意であって履歴書なんか書かされるいわれはない、そんな形式主義的な書類を提出しろというのなら文学史の講義はお断りすると頑なな姿勢を示す。いっぽう大学の事務側も、これは正式の契約であり他の教授たちにもすべて書類の提出をお願いしているので例外は認めないとつっぱる。どちらの言い分もスジは通っている。先のコンピューターゲームの話にあてはめると、大学側の言い分を支持する者は秩序指向ということになり、作家の言い分を良しとする者は社会秩序よりも個人の倫理観を重んじる人物ということになるのだろう。では、いったいこの顛末はどうなったのかというと、間に入った学長が作家に代わって履歴書を書き、ひそかに大学側に提出したというものだった。大学側は作家が折れて履歴書を書いたものと思い、作家は大学側が折れて自分の言い分を認めたものと思い、双方まるく収まったという。こういうのを大人の解決というのだろうか。私は問題をすり替えられて気分がして、このエピソードを学長の美談として受けとめることはできなかった。

 小学生の頃、ひとつ上の学年に奇行で有名な男の子がいて近所に住んでいた。勉強はできて成績も悪くないのだが、授業中に突然きょえええええええええええええというような奇声を発して校庭に飛び出してしまったり、いきなり隣の子のノートびりびりにさいてその紙切れを食べてしまったりという事件で知られていた。度重なる騒動に困りはてた担任は、母親を呼んで事情を説明し、どうにかならないものかと相談すると、その母親は自分の息子がわけもなくそんなことをするとは信じられない、これはあなたの指導方針に問題があるに違いないと担任への不信感をあらわにした。けっきょく話し合いは決裂し、学校への不信感をつのらせた母親は子供を学校へは通わせず、自分で勉強を教えることにした。母親は近所でもインテリで知られていて、教員免許も持っていたらしい。数年後、きょえええの少年は母親の熱心な指導の甲斐あって大検に合格し、その後、東大に進学したという。

 学校のあり方に不信感や疑問を感じている人にこのエピソードを話すと、多くの場合、日本の学校がかかえている集団主義や子供の個性をつみ取るやり方への批判を聞かされることになる。彼のようなユニークな子は、そのまま学校へ行かされていたら、東大はおろか高校卒業もままならなかったろうというわけだ。一方、学校関係者にこの話をすると、子供の問題を学校の責任にしようとする親の悪口がはじまる。さらに、そんな子供はいくら東大に入ろうがろくなものにはならないと言いきる教師も多い。しかし、言うまでもなく学校はきょえええの少年のような子供には対応できていないし、授業のあり方も問題を抱えているのも事実だ。奇声を発して校庭に飛び出した彼にはおそらく彼なりに感情を高ぶらせる理由があったのかも知れないし、もしかしたら校庭に興味を引くものがあったのかも知れない。小学校の一斉授業に対応できないからといってその子の将来もろくなものにならないと否定してしまうのは乱暴だ。とはいうものの、ひとクラスに40人もいる教室で子供へ個別の対応といっても限界があるわけで、すべての子供とその親が満足する教室なんて現実にはありえない。問題はむしろ、どこの学校も同じ様な授業をしていて、親も子供も学校を選ぶ選択肢がないということなのではないかと思う。

 このエピソードにはひとつ疑問が残る。大学に進学した彼が再び授業中にきょええええと奇声を発しながら講義を無視してかけずり回りだしたらどうするんだろうということだ。母親は大学教授に対してもあなたの指導力に問題があると主張するんだろうか。学校のあり方に疑問を持つ者が大検で大学進学を目指すという場合、大学もまた学校のひとつにすぎないことを忘れているように見える。


■ A piece of moment 3/20

 2年間かかわった生徒たちの卒業式があったので中学校へ行く。正確にいうと、卒業式の後でおこなわれる集まりで、生徒にお祝いとお別れをいったり記念写真を撮ったりすることで心にくぎりをつけるために出かけたのだが、予定よりも早く学校についてしまったので卒業式にも出席する。私は卒業式につきまとう誰のための式なのかが見えてこない無意味さと形式主義が苦手で、うっかり出席してしまうとあの儀式の不可解さに悩まされることになる。念入りに予行演習が行われ、分刻みで進行表のつくられた式は、整然と破綻なく終わった。こういうのを恙なく終わったというのだろうか。式では生徒のナマの声を聞くことも親や関係者と生徒たちが交流することも一切なかった。この種の式典を企画する者は、誰もが仮面のような顔をして整然とその場が進行することが良い式典だと思っているんだろうか。私はその美意識に憤りをおぼえる。

 そもそも卒業式が卒業生たちを祝うセレモニーだと解釈するなら、彼らに予行演習をさせること自体がお門違いである。卒業生は式典のゲストであり、学校関係者や親や在校生が段取りをして彼らの卒業を祝うべきである。逆に卒業生たちが卒業する自分を親や関係者に披露するセレモニーだと解釈するなら、式は卒業生の発案と段取りでとりおこなうべきである。学校側が決めた段取りにのっとって卒業生たちに念入りに予行演習させて開かれる卒業式というのは、卒業生のためのものでも親や関係者のためのものでもない。いわば卒業式のための卒業式だ。卒業生たちは儀式の構成要素に過ぎない。だから卒業生たちは式典の中でくり返し教師の起立!礼!の号令で日の丸と学校の旗に頭を下げさせられることになる。

 そんな不可解な儀式の後、送り出された卒業生たちは近所の公園に集まっていたので、そこで彼らにお祝いを言ってくる。こちらはうってかわってなごやかな様子で、彼らとアホなことを言いながらようやく彼らとの2年間の区切りがついた気分になった。どうもこちらは学校側が用意したイベントではなかったみたいだけど、どう考えてもこちらの方をセレモニーのメインにするべきだよ。大きい教室でも用意して、親や関係者が卒業生を祝う立食パーティでもひらけばいいのに。シャンパンやラテンバンドがなくても良いからさ。ともかく、卒業おめでとう。


■ A piece of moment 3/31

 4月からの授業がほぼ決まった。新年度は中学のほうの授業はことわったので、高校だけで教えることになった。新宿の高校でも教えることになったので、中学で教えた面々とふたたびご対面なんてこともあるのかも知れない。それはそれで面白い。ただ授業数が多いので、しばらくは準備もふくめて授業にかかりきりになりそうである。持ちネタだけで何年も授業をまかなうのは、自分のモチベーション低下にもつながる。資料を集めて新しいネタを仕込まねば。


■ A piece of moment 4/2

 阪神が開幕2連勝だそうで、なぜか周囲に多い阪神ファンたちがさわいでいる。どうも阪神ファンと巨人ファンには、自分がファンであることをまわりにアピールしないと気がすまない者が多いように見える。私は何かを好きになるという行為を対象とと自分との一対一のひっそりとした関係だと思っているので、この種の人々を見ると「○○が好きな自分」への自己愛と自意識をまき散らしているように思えて気が滅入ってしまう。自分たちは多数派であるという意識もあるのかも知れない。

 この種の自分の愛情をアピールしたがるファンについてさらに滑稽なのは、ファン同士で愛情の強さや知識の量を競い合おうとする心理だ。阪神ファンでいえば、テレビで試合を見るファンよりもスタジアムで応援するファンの方がえらくて、ただスタジアムで応援するファンよりもトラ縞のハッピを着てメガホンを振り回しているファンの方がえらくて、さらに道頓堀に飛び込んだり頭をトラ刈りにしたりするファンの方がえらいというヒエラルキーがあって、お前はまだまだだとかお前もいっぱしのファンだとか言いあったりしている。実に鬱陶しい。何かを好きになるという行為は、対象と自分との一対一の関係性のなかで完結しているものである。自分の思いがすべてで、その関係性には第三者の入る余地はないはずなので、自分と誰かとをくらべて競い合ったり張り合ったりするという心理も本来は無縁のはずである。なので愛情の強さに何らかの物差しを持ち出して他者とくらべようとするなんて私には不純そのものに見えるのだが、この種のファンにはそうした行為がついてまわる。「○○な自分」が他者からどう見えるのかを知りたがり、あるはずのない物差しを持ち出そうとする。人の目を気にするこの文化では、この種のことについても他者と比較し自分の位置を確認しないと不安になるのかも知れない。なので、集ってもしょうがないはずなのにファンの集いがあれこれと色々な分野で催される。やはり不気味である。

 夜、「ER」を見たついでに「BSマンガ夜話」の手塚治虫特集を見る。これも同好の士の集い的番組で、見るとどうにも居心地の悪さをおぼえる。とりわけ、態度のでかい司会者とレギュラー出演者のデブのふたりが自嘲的な笑いをはさみながら「○○な私」というスタンスで語る様子は毎度ながら不快である。番組初期の村上知彦あたりが出演していた頃は、作品の取り上げかたがもう少し評論的で、その作品を読んだことのない人にも良さを伝えようとする雰囲気があって良かったのだが、司会者が代わって以来、ゲストが作品の何に感銘したのかというストレートな話をするとデブふたりが自嘲的な笑いで話をさえぎり、内輪話に持っていこうとする。作品を自分の側に引き寄せて「○○な私」についての自意識を語らないと気がすまないらしい。私は不快でしかないのだが、あのふたりの話を楽しんでいるという人もいるんだろうか。見ていてもやもやした気分になった。


■ A piece of moment 4/8

 花の時期も終わってあたたかい日が続く。
 新しい学校であいさつと授業の打ち合わせをする。授業数が多いことを改めて認識し、しばらく仕事中心の生活になることを覚悟する。新宿の高校では、生徒名簿の中に中学で教えた何人かの名前を見つける。またお会いしましたねって感じだが、向こうとしては妙な気分かも知れない。

 きのう衛星放送でやっていた「鉄腕アトム」特集の余韻で、夜中に寝床で「火の鳥・太陽篇」を、今日電車の車内で手塚治虫の自伝を読む。しばらく手塚治虫の漫画を読み返す機会がふえそうな予感がする。私はアトムに夢中になったというほど古い手塚ファンではなく、「ブラックジャック」以降の読者である。手塚治虫の漫画はすでに60年代はじめには漫画表現としての技法は完成され、ブラックジャック以降は自分がつくりだした技法によって物語とつむぐことに徹していく。絵柄へのこだわりを捨て、本人も漫画の絵は物語を表現するための記号でかまわないと割り切っていたようだ。なので、古い手塚ファンには、ブラックジャック以降の作品を漫画表現として新しいものはなくもはや見るべきものはないという人もいる。しかし、絵を記号と割り切ったことによって、物語作家としての彼は後期になるほどいっそう見事に花開いていく。そこに描き出される複雑な内面をかかえた登場人物たちと彼らが繰り広げるドラマは圧倒的である。それは絵としての表現にこだわっている限り到達できなかった世界ではないか。多作な作家だっただけに手抜きやいい加減な作品も多いが、こと「火の鳥」と「ブラックジャック」に関してはハズレはない。とくに「ブラックジャック」の百数十話の短編連作なかでひとつもつまらない話がなく、どれもきっちりと物語をつむいでいるということに、ストーリーテラーとしての力量を感じる。「火の鳥・復活篇」と「陽だまりの樹」と「ブラックジャック」のいくつかの物語が私にとってのベストオブ手塚治虫である。

 このところほとんど文章を書く機会がないので、言葉がスムーズに出てこない。文章や絵は日常的に書いていないと次第に書けなくなってくる。言葉で複雑な内容を伝えることがしんどい。しかられて、でも思うところがあってそれを伝えたいんだけれどうまく表現できなくて、で、うるせえなと斜に構えてしまう高校生を連想する。

 話はもどるが、映画化された「ブラックジャック」は実写版もアニメ版も根本的にあの作品を勘違いしているんじゃないかと思う。あの漫画は絵柄は手塚治虫スタイルの丸っこくてマンガチックなものだけど、それが表現している登場人物たちの心理や物語は非常に深く重たい。ところが映画化されたものは、まったく逆で映像はリアルでも登場人物たちの内面がきわめて薄っぺらい。しかも、あの主人公のスタイルばかりをリアルな絵柄や実写でそのままやろうとするので、ほとんどコスプレショウに見えてしまう。手塚治虫本人がいっているように、キャラクターたちの絵柄は物語をつむぐための記号にすぎない。それらしい格好をしていればいいだけのことであって、漫画の絵柄のままの黒マントにリボンタイの主人公がリアルな映像に出てきてしまったらまずいでしょ。実写版の「ブラックジャック」なんて仮装行列のおじさんにしか見えない。見ちゃいられません。映画制作者たちは漫画の記号性が理解できていないとしか思えない。


■ A piece of moment 4/12

 新しい学校での授業が始まる。久しぶりの授業で1時間目はテンションが上がらず、平板な話で淡々と授業の概要を説明して終わる。準備してきた話だけをしたところ授業時間が10分近く余ってしまう。生徒たちも退屈そう。40人もの前で話をするのはある程度テンションが上がらないと圧倒される。2つ目のクラスでは少しテンションも上がり、時間ちょうどに終わる。クラスに中学で教えた生徒がいて、「あれえ〜〜なんで先生ここにいるんですか!?」とおどろいていた。そりゃまあおどろくよな。3クラス目ではさらにテンションが上がり、芸人のいうところの「お客さんをいじる」感じになる。生徒をからかったりアホなやりとりをしたりしていたら時間が足りなくなってしまった。生徒たちにはウケていたからまあいいか。4クラス目にいたっては、用意してきた話をするのにすっかり飽きてしまったうえに、すでに3時間もしゃべり続けているので記憶が混乱してくる。半ばトランス状態で、何で「おさかな天国」みたいにへんてこなのが急に売れ出したんだとかまくしたてながら、「君、CD買った?」なんて生徒たちをからかっていたらぜんぜん時間が足りなくなってしまった。生徒たちは面白がっていたみたいだけど、きっと現代社会がどんな授業なのかはさっぱりわからなかったにちがいない。客をいじるばかりでネタをやらない落語家になった気分。続けて講義をするときは3時間目くらいがちょうど良いようだ。4時間しゃべりたおしてへとへとになって帰宅。帰り道でカサをなくす。


■ A piece of moment 4/14

 玄関先にとめておいた自転車が盗まれる。去年の11月に同じように盗まれて買ったばかりの自転車だったのに。どうも近所に手癖の悪いのがいるらしい。で、仕方ないので、安ければ何でもいいやという感じで6980円の26インチを買う。さすがにここまで安いと全体的につくりのちゃちな雰囲気が漂っていて、フレームはすぐゆがみそうだしギアのかみ合わせもすぐ狂いそうだけど、ふだん乗るぶんにはこれで十分なわけで、もうどうでもいいやという気分。案外、こういうモノの方が長持ちしたりして、ぜんぜん愛着もないまま5年も10年も乗ったりするのかも知れない。やりがいも情熱もなくルーティーンワークをこなしていく職場とか話も合わず互いに魅力も感じていないパートナーとの空気みたいな共同生活とか人生ケセラセラという感じで、それはそれで日々つつがなく回っていったりしてと6980円の自転車をこぎながら考えていたら、むなしさがこみあげてくる。サルトルの小説にパリのアパートで暮らす犬と老人の話がある。老人はパリのアパートに長いこと一人暮らしをしている。年老いた犬だけが唯一のパートナーだ。だが犬と老人は互いに憎みあっている。老人はその犬が少しも愛しいと思えない。犬の歩く姿は醜悪に見え、食事の時に犬がたてるがつがつという音や仕草はいちいち老人のかんに障る。一方、犬は犬で老人を憎んでいる。自分を口汚くののしる老人を殺意のこもった眼差しでにらみ、何かにつけ自分に手をあげる老人に怒りのこもった低いうなり声をあげる。スキあらば噛み殺してやりたいと思っている。それがいっそう老人の苛立ちをつのらせる。だが、犬と老人は離れられない。長い年月をそうやってすごし、憎しみの感情もふくめて互いへの依存関係が完全にできあがってしまい、分かちがたいほど人生の一部になっている。これから先も彼らの不幸な共同生活は、老人か年老いた犬のどちらかが死ぬまで、日々苛立ちと憎しみをつのらせながら続いていく。ああおそろしや。そして俺は6980円の自転車に乗って明日から通勤するわけである。


■ A piece of moment 4/15

 パソコンのモニターが壊れる。3年前にずいぶん気合いを入れて買った22インチのモニターだったのに、これで3回目の故障になる。やはりこだわりのある道具や愛着のあるモノほど壊れやすい気がする。仕方なく、押入からPCのおまけについてきた14インチモニターを引っぱり出す。こちらは3年ぶりに使うのに何事もなくちゃんと映る。もちろん画像はシャープでも発色がいいわけでもなく投げやりなほどそれなりな感じなんだけど、Webサイトをみてメールを書くだけならこれで十分事足りるわけで、もうどうでもいいやという気分。


■ A piece of moment 5/14

 仕事を中心にまわる日々が続く。授業をして、レポートの採点をして、次の授業のための資料を集め、資料の本を読みビデオの編集をし、授業で配るプリントをつくり、また次の日の授業をおこなう。せっかく提出させたレポートなので、採点してコメントを書くだけでなく、文集の形でまとめて授業にフィードバックさせて、それをもとにディスカッションをしたりもしてみたいところだが、なかなか手が回らない。生徒の手書き作文をワープロで入力する手間に挫折してしまう。レポートは週1回のペースで提出なので、文集に編集されないままどんどんたまっていく一方だ。レポート提出は成績をつけるためでなく、むしろそれをきっかけに考えを深めることに使いたいので、生徒全員に自分たちの書いた作文が公開されないければ意味がない。インターネット上に掲示板をつくって、そこにレポートを書き込ませる形にすれば、ネット上で議論もできるし理想的ではないかと考える。ただ、学校側がそうした授業形態を認めるか、生徒全員が家庭または学校でインターネットを利用できる状況にあるのかという問題がある。また、外部の者による悪質な書き込みや生徒のプライバシー保護に対して、私自身が掲示板を管理できるのかという疑問もあって、実行に踏み切れないまま二の足を踏んでいる。


■ A piece of moment 5/16

 高校では図書館を利用するみたいに学校のコンピューターを気軽に生徒が使えるのかと思っていたらとんでもなかった。授業または委員会活動以外では生徒に使わせないことになっているらしい。しかも教師が付き添っていなければ生徒にコンピューターをさわらせない方針とのことで、どうも文部省はパソコンが「パーソナル」なコンピューターだということを知らないようだ。カギをかけた部屋に40台のコンピューターをしまい込んでいくら大事に管理していても生徒が日常的に利用できなければ本末転倒で、いかにも役所仕事という印象を受ける。この先も当分、生徒のレポートの山と格闘することになりそうだ。

 先週、19インチのモニターを買う。ナナオのT731。今度は長持ちしてほしいものだ。上野千鶴子の「サヨナラ学校化社会」を読み終わる。森毅のエッセイを理路整然とさせたような内容。大学4年生で大学院への進学で悩んでいるという人からメールが来たので、この本を紹介した返信を書いたが、なぜかメールが届いていない様子。アドレスがhotmailだったので、消えてしまったんだろうか。2時間もかけて書いたのに。


■ A piece of moment 10/1

 遊びほうけていたら夏休みも終わってしまい、あたふたと授業をやっていたらあっという間に9月も終わってしまう。日はぐるぐるとめぐり、夜中に空を見上げると冬の星座がのぼっていたりテレビをつけるとアルファ・ケンタウリからこんにちは2134年10月1日のシャトル情報って、これ、前も書いたっけ。ともかく、あんまり文章を書かないでいると思考力も低下しそうな気がするので、再びこの身辺雑記をつけてみることにします。

 半年前に安自転車を買って以来、自転車についてはもやもやしたものが残っている。考えてみれば自転車ほど理性的で美しい乗り物はない。そこでもらい物のぼろMTBを修理して、東大和の高校には自転車通勤をはじめた。片道約10キロなので運動量としてはちょうど良い感じ。ただ、そうして自転車通勤をしてみると、日本の道路事情が自転車が走ることはまったく考慮されていないことにあらためて気づく。じゃまだどけと言わんばかりにあおってくるクルマとケンカし、右側を逆走してくる自転車に文句を言いつつペダルをこいでいる。運動にはちょうど良いが精神衛生上きわめてよろしくない。せっかくだしもうちょいましな自転車を買おうかとも思ったが、高級な自転車ほど実用にはむかないことに気づいて二の足を踏んでいる。あれはレースに出場するか観賞用としてながめる以外には使い道がない。何冊かの自転車雑誌を買ってみたところ、愛好家の多くはレースのための「機材」として割り切っている人とメカフェチでおたくな人とに2分されているみたいだった。そもそも10万円もする自転車なんて買っちゃったら、恐くておちおち玄関先に停めておくこともできないじゃん。


■ A piece of moment 10/2

 おくればせながら「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観る。ビョークのMTVにミニドラマが入るような映画だった。どうしてあれがカンヌでパルムドールなんだ。審査員たちはそろってビョークのファンだったんだろうか。ビョークの歌はこの映画に限らず基本的に心象風景の歌なので、空想癖のある主人公の思いとははまりすぎるくらいに合っている。それに対してドラマ部分があまりにも弱い。監督と主人公のビョークとの間に構想のズレがあって、ビョーク側が圧倒している感じだった。個人的にはサントラの「セルマ・ソング」だけ聴いていれば十分という印象。


■ A piece of moment 10/7

 職場で英語のセンセーとなぜ不良少年はタカ派な政治思想にはしるのかという話になる。彼らの多くは貧しい家庭の出身で、家庭環境に問題を抱えていることが多い。そのことから考えると、社会保障の充実した平等な社会を指向する方が論理的ということになる。日本でも欧米でも貧しい階層出身の者が社会的成功を収めることは非常に難しい。貧富の差の激しい自由競争社会ほどその傾向は顕著になる。豊かな者はより豊かに、貧しい者はより貧しくというのが弱肉強食の競争社会の基本だ。より良い教育を受け親の社会的地位を受け継ぐ者とそうでない者とでは、人生のスタートラインから大きな差がつけられているわけだから、それをひっくり返すのは非常に難しい。なので、保守系政治家や大企業の経営者の家庭に生まれた者が自由競争社会を指向するのは、その是非は別にしてわかりやすい。そのほうが自分にとって得だからだ。サラリーマン時代の同僚に大地主の長男で小学校から大学まで成蹊だったというのがいた。彼がやや気どった口調で消費税について公平で合理的な税制だと主張しはじめたとき、なんてわかりやすい奴だろうと思った。しかし、不良少年たちもまた弱肉強食のマッチョな社会を指向する。それは日本だけでなく欧米でも同じのようだ。英語のセンセーは、そこには力へのあこがれと序列社会への指向があるんじゃないかという。頼るものが自分の力しかないから力への指向が生じ、同じ指向を持つ者同士が集まって序列を形成する。そこには平等の思想が入り込む余地はない。だが、彼らはこの社会の中で権力をにぎる側にいないし、経済的にも労働条件においても序列の底辺層を形成する。悪循環に見える。そうして支配層と底辺層との奇妙な政治的指向の一致が生じる。でも、それじゃ何も変わらないじゃん。


■ A piece of moment 10/8

 「カムイ外伝」の8巻を探しに古本屋をのぞく。店にはいると店員のおねえさんが妙な節のついた調子で「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えている。叫ぶのでもなく客に向かって話しかけるのでもなく、ただ空に向かって「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えている。最近やたらとふえてきたチェーン店展開しているマンガの多い古本屋で、けっこう広い店内にはおねえさんの発する大音量が響きわたっている。圧倒される。気を取り直して本を探そうとすると再びおねえさんは空に向かって「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えだした。ほぼ正確に8秒に1回の間隔で唱え続けている。店内放送では「立ち読みはご自由に ごゆっくりどうぞ」となんて言っているが、ごゆっくりなんてできるわけがない。あれは宗教だろうか。そうにちがいない。修行なんだきっと。オウム真理教かもしれない。どんなおねえさんか気になったので店を出る前にそれとなく近づいてみると、こちらに気づいたおおねえさんは、はっしとこちらを見据え仮面のような笑顔で「いらっしゃいませ!こんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ!!」大音量を発した。おねえさんはじつにうれしそうだったが、俺はちっともうれしくない。おねえさんの呪文で自分がカボチャかキャベツにでもさせられたような気分だった。「カムイ外伝」の8巻は見つからず、100円コーナーにあった「おるちゅばんエビちゅ」を5巻まとめて買って帰る。


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