クロ箱 index   このサイトは?   演習授業 index   サイトの制作者   メール送信


  疑問の泡 41-80
61.ウクライナの赤い馬車
62.宝塚な名前 自動生成CGI
63.我が輩は作品である
64.国際宇宙ステーション
65.お支払いは何回払いにしますか?
66.映画館嫌い
67.シンクロナイズド・ネッシー
68.萌え?
69.カメラ目線で口パク
70.多数決の有効性
71.宴会おじさんのネクタイ鉢巻
72.バレエダンサー
73.西洋人は狩猟民族?
74.寿限無トワイライトゾーン
75.ボウリング・イン・ザ・USA
76.ネタバレ
77.友達以上、恋人未満
78.バイク乗り考
79.仔ワニ500円
80.だめんずうぉ〜か〜
 41.Web日記

 ネットに氾濫している「Web日記」(このサイトにもありますが)、どう思いますか?
 ときどき、独善と偏見のかたまりみたいな感情に毒気にあてられ、うんざりすることがあります。そんな時、あらためてインターネットは無数の自意識が渦巻いてできているんだなと思います。インターネットを「電子通信網」というのは一面的な見方で、それは一冊の本を「紙とインクとのり」というくらい本質からはずれていると思ったりします。

 ただ、一方で、役所や企業の広報みたいな匿名性の文章が氾濫することを考えると、自意識の垂れ流しだろうが、個人が「私」の言葉を吐き出すことを認めたい気持ちにもなります。で、無数にある「Web日記」をどう思いますか?

 あと、書いてる人のパーソナリティが見えてこないWeb日記というのも不気味です。「1+1は2になるね」式の論理ならば誰が言っていても同じことなのですが、そうではなくもっと個人的なことを見知らぬ誰かが見知らぬ他人にあてて書いているのに自分を明かそうとしない文章を見ると、それを言葉通りに受けとめていいのか不安になります。闇の中で手探りでざらざらした感触の言葉にふれている感じです。ここでいうパーソナリティというのは、年齢や性別や学歴や職業といったプロフィールのことではなく、その人がどういう考え方をしてどういう立場からものをいっているかということで、それがわからないと言葉がどういう文脈で語られているのかが見えてこないのです。語られた言葉そのものから「わかる」ことなんてすごく限られたものです。Webの文章の多くは私的な手紙みたいなもので、「文学作品」じゃないですし。(ときどき、Webの書き手が悪質な宗教団体やマルチ商法の団体で、高い壺でも売りつけようとしているんじゃないかと勘ぐったりしてしまいます。)多くの人はWebの文章にふれるとき、どう感じているか気になるところです。


 42.ドラムンベース

 リズムを刻む低い電子音を「ドラムンベース」というらしいのですが、あれはあの音そのものをドラムンベースというのでしょうか?それともテクノ系の音楽のひとつのジャンルを指しているのでしょうか?

 どうも4年くらい前から流行っているみたいで、「ドラムンベースを多用して」とか「ドラムンベースのリズムを取り入れて」なんて言い回しをよく聞きます。ドラムンベースって一体なに?あと「ブレイクビーツ」もわかりません。現在調査中ですが、誰かわかりやすく教えてくれる人、御一報を。

【追記】 学校で音楽に詳しそうな子たちに聴いてみたところ誰も知りません。どうも高校生にはきびしいみたい。やっぱ、高校生は歌謡曲とヒップホップね。で、ネットで検索して少しわかってきました。

 「ドラムンベース」という名前は見てのとおり、ドラムとベースの音を合わせたような低い電子音という意味から来ています。意味はあの低音でリズムを刻む電子音そのものを指す場合と、そのリズム音を使ったハウス系のひとつのジャンルを指す場合と両方あるみたいです。で、その電子音なんですが、たんに低い音というだけでなく、異なるテンポのビートを混ぜることで独特の崩れたリズム感を出しているところに特徴があるようです。Webの解説には「スットコドッコイ」とありました。うまい。確かにあの独特の低いリズム音はトリップします。で、ルーツなんですが、90年代の初め頃、ロンドンのクラブシーンでヒップホップのリズム音をテンポアップして使われはじめたのがはじまりのようです。その後、テクノ系によくあるパターンですが、どんどん細分化していって、現在はもはや下火になりつつあるようです。

 ビョークを大音量で聴いているときに感じる陶酔感が小さい音でBGM代わりに聴いているとなくなってしまうのも、このドラムンベースの音によるものみたいです。小さい音で聴いているとドラムンベースの低音が聞こえなくなって、ただのピコピコ音だけの安っぽいアレンジに聞こえてしまいます。これ、大音量が基本です。ドラムンベースを解説してあるページを見つけたので、詳しくはこちらを。

→ Jungli-la
→ mad sounds regional



 43.焼き肉ランチ580円

 焼き肉おごってくれるなんてきくと狂喜乱舞するのですが、「安楽亭 焼き肉ランチ580円」の看板が近づくにつれて期待はしぼんでいきます。大喜びしたぶん、損した気分になります。

 で、不思議に思うんですが、どうしてクルマで行ける焼き肉屋って美味しいところがないんですか?
 落差が大きすぎる気がします。焼き肉食いに行こうって言われて、クルマに乗せられるとなんかガッカリします。ああ、クルマで行くの、そう、クルマで行っちゃうのねって。そんなことない?


 44. Walk Out to Winter

 高校生の頃、ザ・スミスとともによく聴いたアズテックカメラ、ふとベスト盤を買ってきました。
 「ウォーク・アウト・ウィンター」はとくによく聴いたのでなつかしいなと歌詞を訳したりしながら聴いてみると、なにやら「僕」と「君」の関係が微妙です。

Aztec Camera "Walk Out to Winter" (1983)

We met in the summer and walked 'till the fall
And breathless we talked, it was tongues
Despite what they'll say, it wasn't youth, we hit the truth

Faces of Strummer that fell from your wall
And nothing was left where they hung
So sweet and bitter, they're what we found
So drink them down and

Walk out to winter, swear I'll be there
Chill will wake you, high and dry
You'll wonder why
Walk out to winter, swear I'll be there
Chance is buried just below the blinding snow

You burn in the breadline in ribbons and all
So walk to winter, you won't be late she'll always wait
This generation they'll walk to the wall
But I'm not angry, get your gear, get out of here and

Walk out to winter, swear I'll be there
Chill will wake you, high and dry
You'll wonder why
Walk out to winter, swear I'll be there
Chance is buried just below the blinding snow

僕らは夏に出会い、秋までともに歩いた。息が詰まりそうになるほど僕らは語り合った。言葉のことで。彼らが何といおうがそれは若さじゃない。僕らは真実に出会ったんだ。ジョー・ストラマーのポスターが君の壁からはがれ落ちて、そこにはもう何もない。甘さと苦さを僕らは経験してきた。そして、それらを飲み干したんだ。冬に向かって歩きだそう。僕はそこにいることを誓うよ。冷たさが君を目覚めさせるだろう。高原の乾いた空気のなかで。冬に向かって歩きだそう。僕はそこにいることを誓うよ。チャンスはまぶしい雪の下に埋まっている。君は食糧配給の列のなかで、くたくたになりながら身を焦がしている。だから、冬に向かって歩き出すんだ。遅れはしないよ。彼女はきっと待ってくれるよ。この時代、彼らは壁に向かって歩こうとしている。でも、僕は怒ってはいない。君の道具をまとめるんだ。そしてここから立ち去るんだ。冬に向かって歩きだそう。僕はそこにいることを誓うよ。冷たさが君を目覚めさせるだろう。高原の乾いた空気のなかで。冬に向かって歩きだそう。僕はそこにいることを誓うよ。チャンスはまぶしい雪の下に埋まっている。
 はじめこの歌を聴いたとき、別れた恋人に向かって「つらいかもしれないけど、冬に向かって歩き出そう」と呼びかけている歌だと思いました。でも、「彼女はいつまでも待ってくれるよ」と言っているところをみると、「君」と呼びかけられているのは、どうやら男の親友みたいです。夢中で語り合い、色々な経験を共に分かち合ってきた親友、そんな設定みたいです。「甘さと苦さを僕らは経験してきた。そして、それらを飲み干したんだ」というあたりに、友情だけでなくなにやら恋愛感情に近いものを感じさせます。一昔前の少女マンガみたいです。萩尾望都の古いマンガにもそんな物語があったような気がします。曲の感じからもそのほうがしっくりくるような気がします。

 ところで、「食糧配給」や「僕は怒っていないよ」とか「ジョー・ストラマー」という言葉の使い方にイギリスのパンク世代の感覚を感じます。ザ・ジャムとかザ・スミスとかもよく80年代の長い不況や職がない若者たちのことを歌っていました。イギリスの青春映画もそういうの多かったし。最近、イギリスは景気がいいみたいだけど、あの「怒れる若者たち」はその後どうしているんでしょうか。

 45.関西発「朝の連ドラ」

 朝、出勤前の忙しい時間、ふと油断しているとNHKの連ドラを見てしまいます。しまった、今日も見てしまったって。で、見てしまうと、つい次回も気になって見てしまいます。心の隙に入り込んでくる感じです。

 朝の連ドラはNHKの東京局と関西局が交互に制作しているみたいですが、関西局でつくったものはどれも決まって「旦那様・奥様・丁稚」の世界です。花登筐以来の伝統なのか、「旦那はん、定吉、この御恩は一生忘れません、へへエー」って毎度毎度やってます。制作者側はあれを「温かい人間関係」として描いているようですが、あの憲法14条平等権も労働基準法も存在しない不条理な世界はほとんど悪夢です。鬱積した不満をたぎらせた定吉が、いつ血まみれの鉈とチェーンソーを振りまわす時がくるのか気になってどきどきします。連ドラでホラーものもやればいいのに。毎朝、定吉の「わいは丁稚やあらへん」のつぶやきとともに、すがすがしく盛大に血しぶきが飛び散るスプラッターな展開に。視聴率とれるぞ。あと、「東京者」はどれもアンドロイドみたいに無表情で冷酷でビジネスライクな存在として描かれます。関西局がつくった連ドラに、スーツを着て東京弁で「経常利益と契約書」について語る人物が登場したら、ほぼ間違いなく詐欺師です。ステレオタイプで安心安心ってそんなコントみてえな奴いるわけねえだろなめんなコラ。あれが東京へのコンプレックスと敵意のあらわれだとしたら、ちょっと幼稚すぎやしませんか。どうせなら東京者はみんなロボットの着ぐるみを着て登場すればいいのに。「ソレハワタクシノイチゾンデハ、ハンダンデキマセンノデ、トウキョウホンシャノめいんこんぴゅーたニあくせすシマス、ピーピーピー、トコロデコンヤ、ゴウコンシマセンカ」。で、不思議に思うわけですが、本当にああいうメンタリティを関西の人たちは共有しているんでしょうか。丁稚奉公的に上下に固定された人間関係を「血の通った人情味あふれる」ものとして受けいれているんでしょうか。おかみさん、どうかこの定吉めに教えておくんなはれ、船場の大旦那さんはわいがきっと説得してみせます。(2000)

【解答】 大阪の団地妻さんより。

 今の「あすか」だっけ?(知ってるやんか) 関西側の方はこないだの「やんちゃくれ」も見たいとも思わんかったなあ。(結構知ってるやんか)とりあえず、役者さんのど下手な大阪弁が聞いてて寒いし、岩崎ひろみはまだ上手かったけど、「大阪弁=きつい」ってのを出しすぎで、汚いし、怖いし。奉公モノもたーまらーんで。いつの時代の事言うてるんやろうねえ。なんかNHK関西の人って、ホントは地方出身なんじゃないかと思う。か、よっぽど頭の中身が北京原人か。まあ、あれ見てる人ってだいたいが年食ってる(と思う)から、お好きな人はいるんでしょうなあ。あ、東京にコンプレックスがあるのは確かね。それを、ああいうふうに「大阪の人間はあっちと違うてこんなに人情にあふれとるんや」と勝負してるつもりなんやろう。もう止めたらどうや?
 「このかし どくいり たべたらあかん」じゃなくて、書き言葉で関西弁だと妙にインパクトあります。ところで、東京の人間もNHKに限らず、ほとんど地方出身者です。むしろ東京のほうが大阪より地方から出てきている人多いんじゃないかな。(東京は地方出身者が当たり前のようにいるので、まず言葉の訛りをからかったりバカにしたりする人はいないんですが、東京でも西のほうへ行くほど地域の閉鎖性が強くなって、学校だと地方から転校してきた子の言葉をからかう傾向があります。埼玉との県境あたりだと「〜だべ」という北関東の訛が入りますが、そういう地域ほど異なる訛には敏感に反応して「変な言葉」として受けとめられるようです。田舎の人ほど人の訛をからかう傾向があるっていうのもなんか奇妙な感じです。あ、話がそれた。)ところで、岩崎ひろみは千葉出身で、それ以外の連ドラヒロインは関西出身だったと思ったんだけど。言葉が不自然だとしたら、単純に演技力の問題ではおまへんか?

 46.峰不二子

 以前、謎19で藤原紀香を取り上げたときに「ルパン三世」を実写で取るとしたら峰不二子は彼女ではないかというメールをもらいました。私は藤原紀香ではキャラクターが単純すぎてぴんとこなかったのですが、どう思いますか?私はもっと手管やかけひきを使って人を煙に巻くややこしい女というイメージがあります。その線で行くと例えば麻生祐未や中村江里子あたりを連想します。

 「ルパン三世」も長々と続いているマンガなので、原作のコミック、テレビシリーズ、映画とそれぞれ登場人物たちのキャラクターもずいぶん違っているみたいです。テレビシリーズの峰不二子は色仕掛けで男を利用することばかり考えているエゴイスティックで嫌な女だし、原作のコミックではルパンを騙すつもりで逆にいつもルパンに手玉に取られる愚かな女として描かれています。シリーズの水準を引き上げ、後に人気を定着させた「カリオストロの城」では、峰不二子のキャラクターはかなり異色で、安っぽい色気をふりまいたりせずにさばさばとした大人の女として女として描かれています。長々と続くシリーズの中で登場人物たちはさまざまな人の手によって描かれ、もはやどれが正しい人物像なのかわからなくなっていますが、個人的には「カリオストロの城」の峰不二子は魅力的でした。自分が何を求めているかはっきりわかっていて自力で何もかも切り開いていく様子はリアルな存在感があって、健気なだけのヒロインのお姫様よりもずっといい女に見えました。


 47.ベルギーのヴァイオリニスト

 10年くらい前、ベルギーの映画だったと思うのですが、引退した宮廷音楽家とその娘をめぐる話がありました。17世紀くらいの時代設定で、主人公は天才ヴァイオリニストといわれた男で宮廷音楽家として一世を風靡したのですが、宮廷での陰謀や音楽を貴族たちのおもちゃにされることにうんざりして、田舎で自分の娘たちと隠遁生活をしている。そこに若くて野心家の青年が自分を弟子にしてくれと頼みにくる。男は断るが、その青年と娘とが恋仲になってしまったことから仕方なく受け入れ、宮廷音楽家にはならないという約束のもとに演奏の手ほどきをするようになる。ところがやがて、青年の野心が再び頭をもたげ、娘と田舎での暮らしを捨てて、華やかな宮廷へと去っていく。そんな話だったと思います。静かで陰影のある映像と古楽器のやさしい音が印象的な映画でした。

 どなたか、この映画のタイトルを知っている方がいらしたら、御一報を。(2000)

【追記】 疑問をはきだしてから4年半経過して、ついにわかりました。メールをくださったサビねこさん、ありがとうございます。間違いなく、これです。

10年くらい前のベルギー映画、というご記憶のようでしたが、あらすじの内容からして、これではないでしょうか。

めぐり逢う朝 1991年フランス映画

私の大好きな俳優ジェラール・ドパルデューが主演してる映画なんで、内容としてはどうしてもひいき目に見てしまうんですが、それ抜きにしても美しいいい映画でした。一応DVDも出てました。追加生産はされてないようなので、在庫限りかもしれませんが……。ヨーロッパ映画はそういう扱い不遇なので。
 一度観た映画について、内容のほうはわりとよくおぼえているんですが、タイトルはすぐに忘れてしまうので、後でもう一度観ようとするときに苦労しています。なんとしても観たいというときは、レンタル店へ行って店員さんに監督やキャストの名前をあげながらえんえんとストーリーを説明したりするんですが、あらすじと場面描写でどんな映画かわかる人っていうのはなかなかいませんので、たいていの場合、見つからないまま断念しています。キャストをおぼえているときはまだいい方で、それも出てこないときはさらに困難を極めます。え〜っとよくラブコメに出演しているアメリカの女優さんで夫と子供を捨ててオーストラリア人のマッチョ俳優と不倫してからは女性の支持ががくっと落ちて最近パッとしないけど……(→メグ・ライアン)そうそれそれその彼女、そういえばサントリーのお茶のコマーシャルになぜかキモノ着て出演していましたがあれはサントリー関係者の趣味でしょうか、それは良いとしてその彼女とサタデーナイトライブでスタンダップコメディをやっていたコメディアン兼俳優で最近はシリアスな役もやっている白人俳優でジム・キャリーじゃくってえーっとほらこの間アカデミー賞の司会やっていた……(→ビリー・クリスタル)そうそうそれそれそのふたりが主人公のニューヨークを舞台にした恋愛映画(→また忘れました)という調子で、まるでアレだよアレアレと言っているおじいさんみたいです。

 というわけで、タイトルさえわかればこっちのもんなわけです。サビねこさん、感謝。
 → めぐり逢う朝 - goo 映画
 ジェラール・ドパルデューは私も好きなんですが、彼が主演していたというのは、まったく記憶に残っていませんでした。この映画、オープニングの場面の一面にひろがる麦畑の風景がまるで印象派の絵画みたいで、この麦畑の風景はときどき夢に見るほど鮮明におぼえています。(2005.3.28)

 48.フランソワ・トリュフォーの「終電車」

 トリュフォーの1981年の代表作に「終電車」という映画があります。ナチス占領下のパリを舞台に、ナチスの検閲のなかで演劇を続けようとする人々の話です。トリュフォーにしては重厚なタッチで、若いジェラール・ドパルデューとカトリーヌ・ドヌーブの微妙な恋愛感情を描いていきます。カトリーヌ・ドヌーブの美しさと繊細な演技が印象的な映画でした。

 この映画、映画自体はいいんですが、なぜタイトルが「終電車」なんでしょうか?

 見終わった後、電車のシーンなんて一度もなかったことに気づいて、腑に落ちない気分になります。映画はほとんどが劇場内で話が進み、劇中劇にも電車なんて一度も出てきません。たしか、前に観たときもやはり後からタイトルが気になった記憶があります。有名な映画なのにそのことについて誰かが言っているのを聞いたことがないのも不思議です。みなさん、あのタイトルに疑問を感じていないんでしょうか?

【追記】 この映画、原題は"Le Dernier Metro"といいます。直訳すると「最終の地下鉄」です。でも、電車同様、映画には地下鉄もでてきません。タイトルだけみると、終電車で逢い引きを続ける恋人たちの恋愛映画みたいですが。

【追記】 突如、思いつきました。たしか舞台になる劇場の名前が「メトロ座」だったような気がします。ということは原題の"Le Dernier Metro"は「最後のメトロ座」とか、少し意訳して「メトロ座最終公演」と訳されるべきです。それを「終電車」と訳すのは明らかに誤訳です。邦題をつけた人が映画を観ないまま、原題をただ訳したとしか思えません。

【追記】 記憶が不確かなので調べてみたところ、舞台になる劇場はモンマルトル劇場でした。うっ、ぜんぜん違うじゃない。調査は再び振り出しに戻ってしまいました。なんで「終電車」なの?なんで"Le Dernier Metro"なの?

【解答】 映画サイトを開いているshimizさんに質問メールを送ったところ、返事をいただきました。感謝。
 shimizさんのサイトはこちら → 映画道楽

残念ながら、私も真相は知りません(笑)。しかし、真相に一歩近づく?一文を発見いたしましたので引用させていただきます。

「ナチス占領下のパリは闇市が横行し、娯楽も少なかった。映画館や劇場は人々に数少ない娯楽を与え、毎晩超満員だった。そして、夜間外出禁止令が出ていたため、地下鉄の終電車も超満員だった。」シネアルバム/フランソワ・トリュフォー(芳賀書店)より

それから、出典は明らかではありませんが、当時のパリで終電車といえば、映画や舞台を観たあとと決まっていてある種の特別の思いがあるとの、トリュフォーのインタビューを読んだ記憶があります。

 49.アラーキーこと荒木経惟

 今回はちょっと地雷を踏む思いで質問します。誰もがほめるアラーキーこと写真家・荒木経惟、一体どこがいいんですか?本当にいいと思っていますか?美術雑誌や朝日新聞の美術批評みたいな「堅い」メディアから「ガロ」や白夜書房系の雑誌みたいなサブカルチャーまで、一様に荒木経惟を絶賛してます。美術館や美術評論みたいなお堅いメディアは権威に弱いですから一定の評価が定まった作家に甘いのはわかるんですが、権威に対して口の悪いサブカルチャー系のメディアまで、こぞって彼をカリスマとして一目置いているのは何でなんでしょうか?私にはここ10数年の荒木経惟は権威そのものに見えるんですが、本当に誰も彼の写真に疑問を持つ人はいないんでしょうか?「あれのどこがいいの?」なんて聞くこと自体、写真がわかっていない奴って見られそうで、言い出しにくい雰囲気です。非常に不気味です。

 私自身、彼の写真の湿ったムードが苦手というのがありますが、そうした個人的好みをさておいても大勢いる「よい写真家」のひとりにすぎないように見えます。少なくとも誰もが手放しで絶賛するというタイプの写真家には見えません。そもそも美術作家なんて、賛否両論がないほうが不自然です。マスメディア優先で彼をスターに仕立てあげている匂いがします。有名な写真家たち、例えばアジェもアーヴィング・ペンもロバート・フランクもロバート・メープルソープもシンディ・シャーマンも知らない人たちが、「アラーキーはいい」なんて言うのを聞くと滑稽で仕方ありません。そして彼らには勿論、賛否両論あります。

 80年代半ば、彼が例のユニークなキャラクターで自分のことを「天才」と称しながらメディアに顔を出し始めたころ、大手のメディアはまだ一種のキワモノという扱いでした。だからこそあのキャラクターが胡散臭さくておかしかったのです。彼は80年代を通して白夜書房のSM雑誌(かなりゲヒンでした)を中心に活動していてサブカルチャーの人という印象が強く、はじめからメジャー指向だった篠山紀信とは対照的でした。ただ、彼が他の「緊縛もの」を撮っていたカメラマンや団鬼六みたいな監督と違っていたのは、遊びのセンスがあってSMマニアの狭くて出口のない世界にのめり込んでいるように見えなかったことと活動がコマーシャルな匂いがしていたというところです。(だから、逆に本当のSMマニアからは彼はあまり相手にされていません。)そのセンスが90年代に入って、サブカルチャーにコマーシャルな感覚と「かっこよさ」を感じていた若い人たちにアピールしたのではないかと思います。その売れかたはちょうどタモリに似ています。そう、「写真界のタモリ」というのがアラーキーのポジションではないかと思います。タモリもアラーキーも今やすっかり権威そのものなのに、サブカルチャーの匂いがするために、うまく権威としての批判の目にさらされることをさけている、そういう感じがします。サブカルチャー出身の人たちの強みは、売れるようになっても「見られる側」にまわらず、いつまでも「見る側」に自分をおけるところにあるのではないかと思います。なんせ日本のメディアは身内に甘いですから。

 では、美術評論のようなオーソドックスなメディアはどうかといえば、日本の美術批評にサブカルチャーをきっちり論じられるだけの力があるようには見えません。むしろ、下手なことを言ってサブカルチャー好きの若い人やメディアに笑われてそっぽを向かれるのを恐れているように見えます。だから、はじめから相手にしないか、サブカルチャーの新しい動きを追従するだけになってしまう。その様子は、メープルソープがニューヨークのゲイ・カルチャーから登場してきたときに賛否両論が渦巻いたのとは対照的です。

 一昨年、世田谷の現代美術館で荒木経惟展があったとき、多摩美の若い評論家が徹底的に荒木経惟の作品とスタイルを批判したそうです。人からの又聞きなので詳しいことは知りませんが、そうした真正面からの批判があったこと自体、はじめてのことなので、その出来事はかなり話題になったそうです。そういう動きがあることはきわめて健全に思えるのですが、一方で批判があったことだけでさわがれてしまう状況というのも不気味な気がします。

【追記】 書いていてすごく初歩的なことに思い当たりました。日本では自分で写真を撮るのが好きな人は大勢いますが、一方で写真集を買ったり写真展に出かけたりして、身内以外の写真を楽しんでいる人はほんの一握りしかいないのではないかと。メディアも個人も身内の同人集団にしか興味がないなんて、まるでパラレルワールドの悪夢です。

【解答】 マレーシアの油井さんより。

 アラーキーは私は嫌い。すごーく不潔な感じで生理的に嫌い。「冬の旅」もよくわかりません。中山美穂と竹中直人の映画「東京なんとか」も見ましたが、あの奥さんってタダの変な人ってだけじゃない。高校生だった頃、今はなくなった紀伊国屋隣のDUGの地下でアラーキーがインタビューを受けているのを見ました。やっぱりグラサンかけてたよ。


 50.ドコモのCMのBGM

 ドコモのCMでかかるサックスフォンの景気のいいBGMが気にいっています。関東地方のドコモだけかも知れませんが、「iモード」の告知とともに流れてきます。いくつもアレンジがあるみたいですが、ビッグバンド風の景気のいいやつか好き。パッパッパッパッパァ〜パパァ〜パッパッパッパ、ドンドンドンドン……と書いてもわかりませんね。あれはどなたのなんて曲でしょうか?


 51.ガングロキング

 松崎しげる、竹中直人、東幹久、いつ見ても不自然なくらい黒いです。ただのジグロとは思えません。日焼けサロンに通っているのか肝臓をこわしているのかわかりませんが、冗談みたいに黒いです。ドラマで何かとよく脱ぐ竹中直人はハダカになっても全身おけつまで黒いんで笑っちゃいます。あの黒さはなにか塗ってるんでしょうか。それとも日焼けサロンにでも通っているんでしょうか。

 2000年夏の時点で、近所の短大にはガングロちゃんがかなりの割合で生息しています。8人に1人、いや、もっといるようにも見えます。お揃いのように袖口と襟にフェイクファーのついた白いコートと蛍光水色のセーターを着込み、山姥メイクまでしています。思ったよりもこの風俗、長持ちしています。ここまでスタイルが定着したのはここ2年くらいですが、黒いのが格好いいという感覚はけっこう古くから続いていて、たぶん、山田詠美の小説が出始めた80年代末頃に、六本木のディスコで黒人ダンサーや米兵たちにぶら下がって「黒人になりたいの」って言っていた女の子たちがルーツではないかと思います。その頃から日焼けサロンもぽつぽつできはじめたし。90年代のヒップホップの流行であの風俗が低年齢化していまに至ってるんじゃないかと思うんですが、どうなんでしょうか。
 52.歯医者の受付嬢

 学生の頃から3年おきくらいに国分寺北口にある歯医者へ通院しています。そこの歯医者はひどく枯れた感じのお爺さんセンセーがやってるんですが、なぜかアシスタントのお姉さんたちはいつ行っても二十歳前後の美しい方ばかりです。不必要かつ不自然なくらいの美女がそろっていて、受付で彼女たちに「今日はどうなさいましたか?」なんてニッコリされると虫歯を治している場合じゃないような気分になります。パステルピンクの白衣に紺のカーディガンもまるでプレイみたい。しょぼしょぼしたセンセーが若くて美しいアシスタントをはべらせている図はひどくワイセツな感じで、やっぱり違う店にきてしまったような錯覚をおぼえます。

 この十数年間、ずっとそんな調子で歴代アシスタント嬢の写真集でもつくりたいくらいの美女ぞろいです。もしかして歯医者のアルバイトって顔で選んでいるんでしょうか?みなさん一貫して小柄で華奢な宇宙企画路線なのもセンセーの好色な趣味を感じます。だとしたら爺さん、見かけによらず趣味がいいじゃねえか。

【証言1・ナカムラ】 そうそう、そうだよ。間違いないね。顔で選んでるよ。前にうちの姉ちゃんが歯医者でアルバイトしてたことがあるんだけど、そこも30過ぎの子持ちなんて姉ちゃんだけで、ほかみんな若くてかわいい子ばっかりで互いにライバル意識をもやしてたり先生と不倫してたり三角関係があったりで、人間関係がどろどろしていてすごく居心地が悪かったってさ。休憩時間の控え室は彼女たちの人間関係がつくり出す緊迫感で空気がどょ〜んとよどんでたって。あ、うちの姉ちゃんはどさくさの間違いで雇われたみたい。

【証言2・マチダ】 あ、私が通っているところもそう。確かに不必要にかわいい子が多いわね。うん、不思議だわ、あれ。たぶんさ、歯医者のアシスタントって仕事は楽だし時給はまあまあだしってことで、きっと大勢アルバイトに応募してくるでしょ、で、大してむずかしい仕事なんてないだろうから、そういう中から顔で選んでるんじゃない。あれ、看護婦と違って資格なんていらないんでしょ。歯科技工士を目指してアルバイトしながら勉強してますって感じの人はみたことないなあ。やっぱ、受付嬢はカオが命よ。

 ちょっと歯医者がうらやましくなってきました。ああ、俺も彼女たちの空気をよどませたい。
 で、みなさんの通っている歯医者はどうですか?(2002)

 53.エイリアンの宇宙船

 「エイリアン」の1作目で、遭難した異星人の宇宙船を調査にいく場面があります。はじめにエイリアンに遭遇するシーンです。探査船は惑星上に降り立ち、異星人のものとみられる宇宙船を発見します。調査隊が組織され、荒涼とした惑星上におりたち、巨大なオブジェのような形をした宇宙船のなかへと入っていきます。調査隊ははじめに宇宙船の上の方に登り、操縦室らしき部屋に入ります。円形のがらんとした部屋の中心はコックピットのようになっていて、そこに身長3メートルはあるかという巨人がすわっています。巨人は骨格が外部に露出しており、あきらかに異星人のようです。その体は化石化しており、胸には何者かにくい破られたような穴があけられている。その様子ははるか昔に何らかの事故でその異星人は死亡し、そのまま宇宙船は座礁したことをうかがわせます。

 この異星人と宇宙船ですが、これはあの怪物のようなエイリアンとその宇宙船なのでしょうか?それとも怪物におそわれた別の異星人なのでしょうか?おそらく後者だと思うのですが、この異星人と宇宙船に関してはその後の続編でもほとんどふれられておらず気になっています。どういう設定になっているのかご存知の方、情報お待ちしています。

【追記】 ところで、エイリアンの生態に関しては続編がつくられるにしたがって、けっこういい加減に設定されていることが目につくようになってきました。蜘蛛みたいなやつは何の役目があるのか、胸を突き破って出てきた蛇みたいな幼生が何を食べたというわけでもないのに急に大きくなって成体になるのはどうしてか、宇宙船の外壁まで溶かす強酸性の血液でどうして自分の体は溶けないのか、などなど。1作目の時はそのわからなさが不気味で効果的でしたが、2作目以降はお馴染みのエイリアンさん状態なのに、生物としてのしくみをきちんと設定していないことはあきらかにあらになっています。ただ怖がらせるためだけの装置になってしまって、安っぽいし物語に広がりもでてきません。話が広がっていかないから、2作目以降は全部1作目のつけ足しのように見えてしまいます。そもそもエイリアンは人を殺すばかりできちんと食べないのはすごく不自然です。ご飯は残さずちゃんと食えよ、大きくなれないぞ、こら。

【追記】 2000.4.9の近況より。

 「エイリアン」4本をまとめて観る。やはり良くできているのはオリジナルだけで、あとはつけ足しみたいな映画だった。あれは宇宙船という密室でおこる怪事件という設定が面白いので、それは1作目で全部やり尽くしている。H・R・ギーガーのデザインによるエイリアンというキャラクターのインパクトの強さで2作目以降がつくられたけど、キャラクターの押し出しの強さだけで4作もつくるのは無理がある。まあとにかく一気に4本観た。物語のつながりもばっちり理解した。エイリアンをこれほど真剣に観るのは中学生の時に国立スカラ座で観て以来のことだ。自分をほめてあげたい気分。

 主人公のエレン・リプリーの性格づけも1作目が自然でよかった。2作目以降は母性愛やら自己犠牲やらテーマ主義がちらついてくさくなってくる。しだいにリプリーが女ランボーみたいなヒロイックな存在になっていくのも嫌らしい。きっと主演のシガニー・ウィーバーが主人公の性格づけにあれこれ口を出して脚本を書き直させたりしたんじゃないだろうか。こんなんじゃ出演しないとかなんとかごねて。そんなの全部無視してグロテスクでオカルトチックなSFに徹すればいいのに。そんな2作目以降で面白かったのは4作目。ただ、ジャン=ピエール・ジュネの他の映画にくらべると彼の色がでていなくて今ひとつだけど。きっとシリーズもので色々制約があるんだろう。もっとも、映画は作品がすべてだから内幕の内情をどうこういってもできの悪さのいいわけにはならないけど。で、2作目はひたすらちゃちで安っぽい。3作目は映像はきれいだけどテンポが遅くて中盤退屈。このぶんだと5作目もやりそうな気配だけど、ほとんど朝の連ドラにつきあっている感覚で観てしまうような気がするのでたのむからつくらないで。ところで、デザインのH・R・ギーガーはふだんから黒いマントを愛用していて趣味は黒魔術っていうのは本当だろうか。だとしたら、ギーガー自身のほうがエイリアンよりずっと恐いです。

 54.自称アーチスト

芸術は美しくあってはいけない うまくあってはいけない 心地よくあってはいけない 岡本太郎
 ミュージシャンや画家・彫刻家・写真家といった創作活動を職業にしている人たちが、自分を「アーチスト」と称する場面をよくみかけるようになりました。この「アーチスト」という言いまわしには、いまだにひっかかるものを感じます。作品を芸術と評価するかどうかは受け手しだいのはずです。人によって評価の異なるものについて、自分から「アーチスト」「芸術家」と称してしまうのは、裸の王様のようにまわりの見えていない人に思えるわけです。絵を描いていれば画家だし、歌を歌っていれば歌手なのは客観的事実ですが、その人をアーチストと見なすのはそこに表現者としての評価が含まれます。そういう評価を自分から言っちゃあおしまいよと思うのと同時に、芸術至上主義に由来する優越感を感じて嫌らしいなあと感じるわけです。もちろん、他人が言うぶんには、そこに多少の社交辞令や賛辞が含まれていて、会話の潤滑油みたいなものとして聞き流せます。でも、自分から「アーチストとしてはね」なんてスカした調子で切り出されると、当然こちらはそれが自嘲的な落とし話であると解釈して、熱く芸術論を語り続ける様子に、つい、「で、オチはなんなんだよ」と茶々を入れてしまい、気まずい雰囲気になったりします。

 日本でミュージシャンが自分をアーチストと言いはじめたのは1980年代半ばくらいからだと思います。当時、テレビの歌番組で本田美奈子が舌っ足らずなしゃべり方で「美奈子はぁアーチストだからぁ〜」を連発するのを聞いて、仲間たちとこいつバカじゃねえかといいながら麻雀をしていた記憶があります。いつの間にかこの自称アーチストが一般化してしまいましたが、みなさんは違和感を感じないのでしょうか。この調子だと役者や映画監督や作家がアーチストと名乗りはじめるのもそう遠くない感じがします。表現者はみんなアーチストなんだろうか。だとしたらこうしてWebに文章を書いているのも宴会でカラオケを歌うのもアートなんだろうか。もちろんそのへんの評価は人それぞれなんですが、自分からアーチストを名乗る人をみると、酔っぱらってカラオケを熱唱するオジサンもアーチストでいいような気がします。

 何かを表現したい、創作したいという思いは、やむにやまれぬ衝動に由来するもののはずです。そうせずにはいられない衝動にかられて創作行為に向かうのであって、社会的な評価や成功は付随的なものにすぎない。それは自分の耳を切り落とすくらいの狂気をはらんだもので、けっして社会的な行為ではない。逆に、そうでなければ創作行為などする必要はないと思っています。「芸術作品には価値がある」からではなく、そうせずにはいられないから表現するのであって、たまたまどこかの誰かがそれを見て共感したり感動したりして、結果的にその作品に「評価」や「価値」が発生するにすぎない。(草間弥生と彼女の作品を見るたびにそのことを強く感じます。この人は創作活動をすることでどうにか自分をたもっているんだろうと。その作品が多くの人に支持されたことが、本人にとって良かったのかどうかは知るよしもないけど。)そもそも何かを表現することや表現された作品に普遍的な価値などないはずです。私は銀行や歯科医院の待合室の壁に掛かっている絵画を嫌悪しています。待合室の壁で丸くおさまっている絵画は、壁紙の代用にすぎない。もしそれを描いた画家がはじめからインテリアの一部になることを意図して制作したのならば、絵など描いていないで壁紙工場の職人に転職するべきだと思います。何かを表現したいという衝動は、公共性や日常性とは対極にあって、その結果生まれた作品はインテリアの一部になるようなものではないはずです。例えば、草間弥生の強迫神経症的なオブジェは、彼女の言葉にならない思いの結晶で、その異様さはインテリアや公共空間の一部になることを徹底的に拒絶する。私は彼女の作品をすごいと思う一方で、それを自分の部屋に置きたいとはけっして思わないし、日常風景の中で目にしたくもない。見ずにすむものなら見たくないという一種の「劇物」のような存在に思えます。その意味で美術館は「劇物」をひとまず隔離するための施設ではないかと考えています。「公共空間とアートとの調和」をとなえて駅前広場や公園に作品の設置をすすめている人たちがいますが、それは「アップルグリーンには鎮静効果がある」という心理実験や「暖色系の空間では購買意欲が高まる」という市場調査と同種のマスの視点によるもので、内的衝動に由来する表現行為とは性質の異なるものだと思います。(もしくは、芸術作品には価値があるという社会通念を逆手にとって、作り手たちが日常風景の中に劇物をしかけるゲリラ活動をしているのかもしれない。)何かを創作したいと思う衝動は、いま・ここに自分がいることへの違和感だったり、自分が自分でいることの居心地の悪さだったり、目の前に広がる世界への不安だったりとなんらかの心理的な欠落感に由来します。満ち足りた気分でいる人は、耳を切り落とすような衝動で創作活動に取り組んだりしません。創作するにせよ鑑賞するにせよ、そんなことをしなくても満ち足りた気持ちでいられるならそれにこしたことないわけで、そうした行為やその産物である作品を「芸術」として価値を見いだす社会通念はきわめて滑稽に見えます。作品に対する共感は、日常性や社会性に収まりきらないパーソナルな感情によるもので、それは本来、社会的評価とは対極にあるもののはずです。そのことは逆に言うと、芸術作品の価値が一般性を持つ社会というのは、それだけ精神的ストレスの強い社会で、目の前の世界に違和感や距離感を感じている人が多い社会ではないかと思います。創作行為や作品によって精神的欠落感をうめることで、どうにか保たれている社会というわけです。私もそんな現代人のひとりですが、そうした自分の性質を肯定的に評価する気にはどうしてもなれない。なので、自分をアーチストと称し、自らの表現行為に価値があると信じている人を見ると、そのナイーブな脳天気さに唖然とするのです。そのおめでたい芸術至上主義はいったいどこから来ているんだろうと。

 同じ理由で、自分の創作物や創作行為について理路整然と語る「芸術家」も信用できないと考えています。言葉はきわめて強力な表現とコミュニケーションの道具です。そのため、言葉を自在に操ることのできる人ほど、言葉で物事を考えるようになります。それは同時に、自分の中の言葉にならない思いを切り捨て、言語化できる範囲内で物事を判断する傾向をもたらします。つまり、言葉を自在に操れる人ほど言葉に語らされている人であり、思考や感情の社会化が進行している人といえます。私は高校で「政治・経済」を教えていますが、偏差値によって学校を割り振られた高校生たちを見ていると、その傾向を如実に感じます。進学校の生徒たちは、当然ながら文章や会話における表現力がすぐれている一方、そこで語られていることはたいていありきたりです。彼らの書いたレポートや小論文は、どこかで聞いたことのある主張や論理が常識的に展開され、そつなくまとめられているというものが多い。逆に定時制高校の生徒たちは、言語表現がつたなく自己検証も不十分なため独善的な傾向がある一方、その中には社会化されていない独自の視点や発想を多く見いだすことができます。そのオリジナル性は社会生活を営む上ではたいていマイナスになるので、それを良い・悪いで評価することはできませんが、創作活動をするにはそうした社会化されない視点が不可欠のはずです。人を創作活動へ向かわせる衝動というのは、言葉にならない思いに突き動かされることではないか。言葉にならない思いや言語化すると切り捨てられてしまう思いをなんらかの形あるものにしたくて、あるいはどこかの誰かに伝えたくて、創作活動に向かうのではないかと思うのです。そのため、自分の創作した作品について、とうとうと解説する人物を見ると、いったいこの人はなぜ創作活動をしているのだろうと不思議に思います。それほど雄弁に語れるのならば、言葉で説明すれば済むことではないか、そもそも自ら言葉で解説できてしまうような作品ならばわざわざ作品にする必要などないではないか、と。それは制作中の放心状態から我に返ったことの反動でべらべら喋っているという様子ではなく、言葉を選びながら、まるで評論家か大学の教師のように自らの作品を解説する。フランク・ステラや村上隆などなど現代アートに多いタイプですが、言語化されたコンセプトと社会的ニーズに基づいて「今シーズンのニューモデル」を発表しているかのようで、なんか商売くせえなあと思うのです。(2001・2006加筆修正)

【解答1・売れないカメラマン、スマさん】 少しだけ音楽制作の現場を見た感想としては、スタッフ側が「アーティスト(芸術家)の方がミュージシャンより、相手を持ち上げている。」ように思っている気がします。それが制度化し、みんなが真似したのでは?要は立場(メインかサブか)の違い、悪く言えば「へつらい加減」。例えばスタジオミュージシャンは「スタジオアーティスト」とは(ほとんど)呼ばないし。一方で俳優・女優・監督・作家などはステイタスがある言葉なので、今のところいちいちアーティストとは呼ばないです。人によっては内心アーティストなんでしょう。(そう思っていない「職人気質」の人達も、それぞれの分野で存在します。)

【解答2・zazabyさん】 アーティストには2種類あるそうで”アー”にアクセントがあると”芸術家”で”ティ”にアクセントがあると”芸人”であるとのことです。昔 ボムで読んだので本当です。

 おっと「ボム」ですか。もう「ボム」が言うんだったらまちがいないですね。たしかに関西の芸人さんは自分たちのことを自嘲的にアー”ティ”ストと呼んでいそうです。そういえば、以前、日比野克彦が「日曜美術館」にゲスト出演したときに、「芸術家という言い方は妙におさまった感じがして良くない、美術館の中に丸くおさまるようなものをつくりたくて創作活動をしているんじゃないから、むしろ芸人と呼ばれたい」と話していました。彼もアー”ティ”ストと名乗っているかもしれません。
 → BOMB
【追記】 「ボム」でオチもついちゃったし、もうアーチスト云々についてはいいやという気分でいたんですが、どうも近年、この「自称アーチスト」はある種の人々を指すひとつの用語として定着しているようなのです。2001年に元の文を書いたとき、自分からアーチストと名のる裸の王様のような人という意味で「アーチスト」の滑稽さを指摘したんですが、世の中はそんなことはとっくに受け入れてしまっているみたいで、むしろ、多くの人は社会的認知を得ないのにアーチストを名のる「自称」のほうに言葉のざらつき感をおぼえるようです。つまり、「創作活動で身を立てたいけど実質プー太郎」の人を表す言葉として「自称アーチスト」は定着していて、Googleで「自称アーチスト」を検索したところ、1万件以上がヒットしました。「自称芸術家」よりも語感がカジュアルなので、なんちゃってな人たちもひるまずに用いることができるみたいです。自称芸術家や自称哲学者になるともうほとんどコントだし。で、「自称アーチスト」な人たちに共通している傾向は、自分は特別であるという自意識とその一方で創作行為と格闘していない生ぬるさで、以前、メールをくれたりりこさんは、そんな彼らの生ぬるさに違和感と憤りを感じているようです。商業美術のきびしい世界で、日々、クライアントと格闘しながら作品制作に取り組んでいる彼女にとって、自称アーチストの生ぬるさと妙な自意識は鼻持ちならないと映るようです。(仕事で高校生と接している私としては、偏差値やら学校名やら容姿やらで序列のなかに若者を押し込めようとする窮屈な社会的圧迫からの脱出口として、彼らが「アート」を志向しているように思えて、少々複雑な気分になります。)以下、りりこさんのメール。
昔は「アーティスト」という言葉は一般的ではなくて、「画家」とか「音楽家」とか「俳優」のように、活動の主な範囲を特定して、その名前で呼ばれていたと思います。私が芸術系の大学にいたのは1980年代前半だったのですが、そのころは、少しずつ、「アート」とか「アーティスト」という言葉が一般化しはじめたように思います。ちょうど、「デザイナー」という言葉が、ファッションデザインだけではなくて、広告とか商品のデザインをする人のことも指すのだと、世間が理解し始めた頃だったように記憶しています。しかし、その当時(つまりバブル直前)の日本で、人々が「アーティスト」というカタカナ日本語を使う時には、一種の「あざけり」っぽい感じがあったのですね。なぜでしょうかね。1982年に、それまで広告界で大活躍していた横尾忠則が「芸術家宣言」と取られる展覧会をした時、それがものすごく話題になりました。本人も「もう広告の仕事はやらない」というような発言をして、物議をかもしたのです。つまり、それまで地道に画家活動をしてきていた方々は、「商業美術家ふぜいが、いまさら芸術家を名乗るな!認めんぞ!」という怒りを感じたようです。(余談ですが、50〜60代以上の人たちって、「なにもそこまで……」というぐらいストイックに「純粋芸術家」と「商業美術家」というのを区別したがる人が多いのです。)話を元に戻しますと、怒れる純粋芸術家の方々の怒りを察知したマスコミの人々は、横尾忠則のことをどう呼ぶかに困り(「芸術家」と書くと重鎮から叱られる)、「アーティスト」と呼ぶことが増えた……確証はありませんが、当時大学生だった私は、「どうもそのようなことになっているらしいぞ……」と感じていました。横尾忠則が原因かどうかは不明ですが、でも、英語の「artist」と日本語の「アーティスト」とは微妙に意味が違うのは確かです。まして「アーチスト」と書く時には、書き手側に「軽んじる」意図があることが多いようです。

 今、実際に活動している人々とは別に、働きたくないプーさんたちの中に「私、アーチストなんです」とか言って、成人国民の義務である、勤労と納税の義務を放棄している人々が増えています。“アーチスト”と言っても、何か作品を描いたり踊りを踊ったり歌を歌うわけではありません。ただ仕事をしていないだけです。それでも人間が自分をどう呼ぶかは勝手でしょ、という理屈で自称アーチストは増えています。私は芸術系の大学を出て、画像にかかわる仕事をしています。勤務先の名刺には「デザイナー」と書かれています。このため、「自称アーチスト」とか「自称アーチストの卵」とか名乗る人々から「アーチストになりたい!」という夢を聞かされたり相談されることがよくあります。そんな時、私は、「さぁ……私は確かに芸大出てるけど、でも、今は“商業美術”やってるからね」とごまかします。卑下したり、自嘲するつもりはありません。私自身は芸術を「する」ことに興味はありませんし、自分の仕事に、適度な誇りを持っています。だから私は堂々と「“商業美術”やってるからね」と言います。私は、プーな「自称アーチスト」のことは、あまり好きではありません。私の同級生や先輩の中には、「この人は、いずれ、“芸術家”として認められるに違いない」と思える人々がたくさんいます。そういう人々には、地味な人、派手な人、崇高な人、低俗な人、さまざまです。芸術に人格はあまり関係ありません。善良で崇高だからといって素晴らしい作品が作れるとは限りません。しかし、作っているものは、すごいです。解説を聞かなくても、素直に「スゲー……」と感動します。そういう人のことを知っていると、安直に「アーチストになりてぇー」とほざいて「何もしない」若者と話すのは嫌になります。「……なれば?」と冷たく言ってしまうのです。おっしゃるとおり、誰かが何かを作ったものが芸術であるかどうかは、本人が判断することではありません。本人だけがいくら「これは芸術だ」と言っても、それを「そうだ」と認めてくれる人が出現しなければ、芸術にならないのです。ゴッホは今では芸術家として認められていますが、生きている間は芸術家としては認められませんでした。認めない世間が愚かだったと言う人がたくさんいます。でも、現実は、現実です。そういうことだってあるのです。プーな「アーチスト」が本気で「アーチスト」を目指すのであれば、万が一にも「生きている間は誰にも認められないかもしれない」ことを覚悟してかかれ、と、私は思っています。
 アメリカには、自分の家の庭に巨大なオブジェをつくったりする人たちがいます。他に仕事があって、土日になると一心不乱に制作に励むけど、家族はたいてい迷惑していて近所の住民は気味悪がっている。この手の人はけっこうな数いて、作品もお父さんの日曜大工みたいなものから鬼気迫るものまで様々あるみたいです。自分の内的衝動を形にする行為としてはきわめて純粋ですが、社会的評価とも名声とも無縁で本人もそれを何かに発表するつもりもない。こういう人は自分から「アーチスト」なんて言ったりしないのかな。様式と技巧での評価が不可能な作品の場合、それがただの自己満足で終わるかどうかは、見るものの共感次第ではないかという気がします。ところで、「アーチスト」で通してきましたが、「アーティスト」のほうが一般的なんでしょうか。ニュアンスの使い分けはしていませんでした。次に、美大時代の仲間と創作集団をつくって活動しているという大里圭介さんからのメール。作品や活動が昔のように「絵画」「彫刻」とジャンル分けができなくなっているので、それらの総称として「アート」「アーティスト」が用いられているのではないかと指摘されています。
 ・大里圭介さんのWebサイト →「ダメ工房」
僕は昨年美術大学を出て、フリーで制作活動をしています。そこで肩書きをどのようにするのかたいへん迷いました。いちど、個展を開いたときに、プロフィールにうっかり「アーティスト」と書いてしまったのですが、その後たいへん恥ずかしい気持ちがこみ上げてきて、二度と書くものかと、そのときのフライヤーは破り捨てたい気分です。ちょっと謙遜して「かけだしアーティスト」「アーティストの卵」などとしても、愚の骨頂です。
これまでの経験では「俺、アーティストです。まじ、ノンジャンルで何でも好きっす」などと自己紹介してくる人は、だいたい胡散臭く、かつ狭い領分の中でかなり特定されたジャンルが好きな人です。やはり傲慢さと、自分に対する客観性の無さが象徴される肩書です。
しかしこの問題には、特定の肩書きでは説明できない活動をする人が増えているから、自分のことを「アーティスト」と呼ばざるをえなくなっているのかな、とも思います。具体的には、たとえばいま「画家」と言い切れるような創作活動をしている美術作家は、なかなか居ないと思うのです。画家といいながらインスタやパフォーマンス、アニメ、メディアアートなど、カテゴリーを飛び越えて活動している人はかなり多くいると思います。しかし、やはり社会的生活のなかで肩書きを聞かれてしまうのです。そこで、しょうがなく、自分を活動をまとめる言葉として「アーティスト」と 答えてしまうのかなと。では「美術作家」ではどうか?というふうに考えたこともあるのですが、これは使ってみるとなかなか伝わらない言葉です。なぜ伝わらないのか疑問なのですが、「美術作家」といったときにはたいてい「画家」「彫刻家」と捉えられてしまうからでしょう。
 「まじ、ノンジャンルで何でも好きっす」には吹き出してしまいました。それはたしかに怪しい。怪しすぎる。美術関係もギョーカイ周辺をちょろちょろしている人や山師のような「業界ゴロ」がいたりするんでしょうか。(出版関係は多かったです。学生の頃に編集プロダクションでバイトをした際、よくわからない肩書きの海千山千な人々をけっこう見かけました。)あと、アーティストと名のる事への疑問はひとまずおいて、「自称」をつけることで自分を茶化しているのかなと思いました。先のりりこさんは、「逃げ道を用意して自分の甘えを正当化している」と一喝しそうですが。次は、以前、美術館勤務をしていたという松永康さんからの、美術作品と美術館の社会的意義についてメール。
「価値があるから作られるべきもの」という社会性の下で創作はなされるのではなく、むしろ、社会性からはみ出した欲求や衝動にかりたてられることが、作り手を創作にとりくませ、また、受け手に共感や様々な感情をかきたてさせるのではないでしょうか。納得するためでなく、増大してきた違和感を解決したいという欲求や衝動なのでしょう。たしかにそれは人を社会的な実践に向かわせ、多くの反発やときおりの共感を招きます。
軍事独裁体制の圧政下のようなきびしい社会状況で、しばしばすぐれた詩や美術作品が生まれるのも、そうしたことと無縁ではないと思います。共通の違和感が社会に蔓延したとき、美術作品が人々のものの見方を一気に変えることもあり、それは社会革命に似ています。
芸術作品に「社会的」評価を示そうとする言動は、作品から毒気をぬいて制度内で丸くおさめようとする行為に見えて、 胡散臭く感じます。まさに公教育における社会科の授業ですね。以前、私は公立美術館に勤めていたこともあったのですが、本当に毒抜きの毎日でした。ただ私は、こうした毒抜き作業も今の時代では「必要悪」になっている気がしています。
 耳が痛いです。私は自分を教育関係者だとは思っていませんが、それでも授業では常識の範囲内におさめようとする傾向があって自分に戸惑うことがあります。ただ、最近の傾向として生徒のほうが常識的で「よい子たち」なので、教える側のほうが丸く収まるなと煽ることが多い気がします。ひとまずここでひと区切り。メールをくださった皆さん、ありがとうございます。(2006)

 55.1280×1024

 コンピューターの代表的な画像解像度には、640×480、1024×768、1600×1200なんていうのがあります。デジタル画像の場合は「画素」と呼ばれる小さな升目をならべることで画像が表示されます。640×480というのは、その画素の数が横に640列・縦に480列で307200個あることをあらわしています。この解像度の数字を大きくすることで、画像はよりきめ細かく表示され、画像の情報量を増やすことができるというわけです。で、この数字、どれも横と縦の比率が4:3になっていますよね。一般的なディスプレイの比率が4:3だからあたりまえと言えばあたりまえで、4:3以外の比率の画面を表示すればゆがんだものになってしまいます。

 ところがです、代表的な解像度の中に1280×1024というのがあるんですが、これ4:3ではありません。4:3.2の比率です。当然、普通のディスプレイで表示すると上下がつまったちょっと寸詰まりの画面になります。テキストを表示しているぶんには別にどうってことないんですが、顔写真なんかを表示させるとあれってことになります。ちょうど横長テレビで普通のテレビ放送を見ているみたいな違和感を感じるわけです。

 この1280×1024の解像度は、「VESA」なるコンピューターの画像表示を考える団体が決めた規格のようです。パソコンのグラフィックカードやデジタルカメラの規格として、かなり一般的な解像度になっています。不思議なんですが、何でわざわざこんな歪んだ解像度が普及しているんでしょうか。もしかしたら、私が知らないだけで世の中には4:3.2のテレビやパソコンモニターが出まわっているんでしょうか。それともやはり寸詰まった画像を愛する秘密結社があって、世の中の電子画像をすべからく寸詰まりにするためにロビイストを雇ったり国連に代表団を送ったりフリーメイソンと手を結んだりして日夜奮闘し続けている成果なんでしょうか。でも、そもそも1280×1024や横長テレビに誰も文句をいわないところを見ると、大勢の人がちょっと寸詰まりで横長くらいのほうが心地よいと感じているんでしょうか。このところ普及してきた高解像度のデジカメは、1280×1024が標準になっているみたいです。こうなってくるとやはり背後で陰謀がうごめいているような気がしてきます。みんな本当に4:3.2の画像に納得してるんですか。

 あと同じ理由で、横長テレビというのもいったい誰がどんな使い方をしているのか気になる商品です。ハイビジョン以外、すべてのテレビ映像は4:3なのです。「ワイド」なんて呼ばせてますが、4:3の映像を縦に縮めて映しているだけで、何らかのメリットがあると思えません。本当にあんなのが売れてるんでしょうか。それとも世の中にはあのゆがんだ画像が好きな愛する寸詰まりフェチや横長マニアが大勢いるんでしょうか。え、あなたのうちも横長テレビ?

 ふと思ったんですが、はじめて遊びに行った家にもしも横長テレビがでんと置いてあったら、ギョッとしませんか。付き合い始めたばかりの恋人の部屋でもいいし、会社の上司のリビングルームでもいい。ともかくあなたの目の前に横長テレビがあるわけです。その人を見る目が変わってきませんか。この人こんな人だったのまさかこんな人だとは思っていなかったのに。そんなこちらの動揺にはまったく気づかず、相手はごく自然な動作で横長テレビのスイッチを入れて、妙に引きのばされた久米宏の顔が36インチモニターに映し出されているのを平気で見ていたりするわけです。あなたはその横長の物体とやけに寸詰まった久米宏の顔が気になって、今まではずんでいた会話が急にぎこちなくなる。目の前にでんと横たわっている横長のアレはまるで仏壇の中にイエス様が置かれているみたいで、うかつに触れてはいけないような気がする。でも、こんなに目立つものについて何も言わないのも不自然だし、相手が横長に引きのばされた画像に違和感を感じていないのかも聞いてみたい。でも、うかつに「ゆがんでる」なんていって相手が怒りだしたらどうしよう。もしかしたら、この人は寸詰まり秘密結社の一員で逆に横長テレビがあたりまえのように「あれぇ〜きみのところはワイドじゃないのぉ〜」なんてすました顔でいわれたら目の前の風景が遠のいていきそうだし、そもそも「ワイド」って言いかたもなんかむかつく。きっとワイドって一言は、私の一生を左右するトラウマとして心の深いところに傷を付けるにちがいない。それはたぶん、タブーに触れてしまった私がいけないのだ。だから何もいわずに私たち別れましょう。もうあなたとはやっていけません。(2000)

【追記】 おどろきです。上記の文章を書いてから3年がたち、本当に4:3.2のディスプレイがたくさん出まわっていたのです。液晶ディスプレイが欲しくなってメーカーのWebサイトを覗いていたんですが、17インチ以上の液晶ディスプレイは画面の比率自体がどれも4:3.2だったのです。だから解像度も1280×1024の固定になっていた、というか1280×1024の解像度のほうに画面の縦横比をあわせたみたいです。液晶ディスプレイは基本的に画像の画素ひとつに対して液晶の画素ひとつが対応するので、画素の形が正方形であるかぎり、1280×1024の表示をするための液晶は必然的に4:3.2になります。というわけで判事、以下の証拠を提出いたします。

→ FlexScan L767(表示部分 横376mm×縦301mm)
→ MITUBISHI RDT176V/RDT176V(BK)(表示部分 横337.9mm×縦270.4mm)

 ディスプレイの縦横比を変えてしまうほど1280×1024の解像度は市民権を得ていたようです。よく考えてみれば、パソコンのディスプレイはテキスト表示が圧倒的に多いわけで、画面は縦長のほうが使いやすい気がします。Webを見たり文章書いたりしているときなんて縦スクロールしまくりで、もうスクロールホイールのないマウスなんて考えられません。でも、横スクロールなんてめったにしませんよね、巻物じゃあるまいし。だからいっそのことパソコンのディスプレイを正方形にしてしまえば、対角線の長さあたりの表示面積は最大になって合理的です。というわけで、当サイトではパソコンのディスプレイとデジカメの画角は正方形にするべきだと提言することにします。これであなたもわたしも気分はもうロバート・メイプルソープです。 (2003.5.1)

【追記】 りりこさんよりメールをいただきました。ありがとうございます。

 疑問の直接の答えになるかどうかはわかりませんが、4:3.2 = 5:4 ですよね。(長辺が短辺の125%)5:4というのは、今もプロの写真家が広く使っている蛇腹式の銀塩フィルムカメラのフィルム画面の比率と同じです。モデルなど動くものを撮るカメラマンは35ミリやブローニーのような「持ち運べる」カメラを使う人が多いのですが、商品を撮る(=ブツ撮り)や建築物などを撮るカメラマンには、商品の素材感やロゴなどにビシッとピントを合わせられる蛇腹式の固定カメラを愛用している人はまだまだ多くいます。人物も、記念写真などでは、まだまだ蛇腹式カメラが使われていますね。蛇腹式のカメラには大きさはいろいろありますが、もっともよく使われる規格のサイズは99mm×122mm、つまり4インチ×5インチです。4×5なので「しのご」と呼びます。写真を焼きつける「4つ切り」とか「6つ切り」という印画紙のサイズも、この比率で作られています。規格は統一されていた方が気持ちいいし合理的ですが、今はまだ、旧規格に合わせた新商品を出せば買う人がたくさんいる、だからメーカーも出す……ということなのではないでしょうか。私は35mmの一眼レフでもデジタルカメラでも写真を撮りますので、画面の規格の混在には正直言って困ることも多いのですが、今は過渡期なんじゃないかなと感じています。
 なるほどなるほど。蛇腹式の大型カメラというと記念写真で写真屋さんがアタマから布をかぶって「ハイいきますヨー」っていうアレですよね。パソコンモニターの解像度が蛇腹式の大判カメラの規格に由来しているなんて思いもよりませんでした。日本ではブローニもふくめて大判カメラは35mmに駆逐されてしまって、写真を職業にしている人以外では縁のないものですが、欧米ではけっこういまでも使っている人がいるみたいです。1280×1024の規格を決めたのもそういう人なのかも知れません。秘密結社の社会改造計画ではないようなので少し安心しましたが、ただ、4:3が基本のパソコン・ディスプレーに5:4の解像度規格を定めるというのは強引というか非合理的に見えます。ご指摘のように、今が過渡期でしだいに電子画像も規格が定まっていくといいんですが、最近の規格乱立傾向を見ると、むしろ5年後には三角形や丸形のディスプレイが登場したりするんじゃないかという気もします。(2005.3.2)

 56.ミニスカポリス

 コスプレマニアのお姉さんのWebサイトを発見しました。 → ここ。
 彼女はミニスカポリスのコスプレで遊園地のアトラクションにも出演したそうですが、ミニスカポリス自体がそもそもコスプレみたいなものだし、そのコスプレというのはメタ世界のメタ世界みたいで遊園地のショーも難しいことをやるようになったもんです。で、それを見ていた人がホンモノだと勘違いしてコスプレお姉さんにサインを求めたそうです。あの格好をしてれば勘違いされるのも無理もないと思うんですが、お姉さんはご機嫌ななめのようです。ホンモノと思われてしまうコスプレなんて邪道だと思ったんでしょうか。凡人にはメタメタ世界の構図は難しすぎてお姉さんの気持ちは理解できないのですが、そもそも私にはあの格好をしていたら誰もがミニスカポリスに思えます。仮面ライダーの着ぐるみを着て遊園地でアトラクションをやれば、中に入っているのが藤岡弘だろうと日給1万5千円のバイトくんだろうとそれはもう仮面ライダーです。中身にニセモノもホンモノもありません。あの着ぐるみが仮面ライダーなのです。同様にあのコスチュームがミニスカポリスではないのでしょうか。はち切れそうなミニスカポリスも鶏ガラみたいなミニスカポリスもあのコスチュームをつけてアトラクションをやっていれば全員ミニスカポリス隊員ではないのでしょうか。それを「コスプレショー」として見せようとすることは観客をメタメタ世界のメビウスの輪へと連れさり、遊園地のアトラクションを別役実の不条理劇につくりかえてしまう可能性があります。あ、いまふと頭の中に「すべてのクレタ人は嘘つきである、とクレタ人は言った」という言葉が浮かびました。アレです、アレ。あの循環状況をもたらします。それは遊園地の油っこい焼きそばを食いながら見物するには高級すぎる気がするんですがそれでいいんでしょうか。

 ところで、ミニスカポリスのメンバーを全員判別できる人なんて世の中にいるんでしょうか。


 57.名前の不思議

 ときどき自分の名前にやけにこだわりのある人に出会います。名前の由来や意味を話してくれたり、名前の音の響きがいかに気に入っているかを話してくれたりして、まるで名前がアイデンティティの一部であるかのようです。はあはあと適当に相づちを入れながら聞くのですが、どうしてそんなに名前を大事そうに話すのか不思議になります。この人は姓名判断も信じているんだろうかと考えたりして、相手の名前そのものよりも名前にこだわる意識のほうが気になってきます。当然のことながら、そういう人の名前をうっかり間違えて呼んでしまうと非常にいやな顔をされます。私は人の名前をおぼえるのが極端に苦手なので、初対面の人が自己紹介で名前の由来を話しだしたりすると、まいったなあという気分になります。私にとっては自分の名前が「ムラタ」だろうが「ムライ」だろうがどうでもいいような気がしているのです。

 高校の時の古文の先生で、1年間ずっと私を「タムラ君」を呼びつづけた方がいました。(教師は生徒の名前をおぼえるのが仕事の一部のように思われているので、こういうルーズな人はめずらしいケースです。アララギ派の句会に入っていたそうですが、やけに軽い人で「美味しんぼう」の出っ歯の課長に似ていました。)「う〜ん、ここはどう解釈しますかね、じゃあタムラ君」という調子で、私の顔を見て「タムラ君、どうですか?」とやるわけです。クラスの数名からくすくすと笑い声が起こるのですが、私を指していることは明らかだし、悪意を込めてわざと違う名前を呼んでいるふうにも見えなかったので、1年間ずっとタムラ君で通しました。訂正するのも面倒ですし。私にとって名前はその程度のものです。呼びかけている対象がわかればいいという認識しかありません。だから、近所の野良猫に呼び名をつけるときも、黒ければクロだし白ければシロだし小さければチビです。逆に、凝った名前をつけられたペットを見るとやけに気恥ずかしかったりします。以前、うちの軒先で寝起きしていた野良猫の「クロ」は、行く先々で違う名前で呼ばれていたみたいでした。

 古代社会の人たちは東西を問わず物事の存在が名前と深く結びついていると信じていました。確かに固有の名前が与えられることによって、それまでは何かの「部分」でしかなかったものが独立した存在として際だたせられます。より大きな構造の部分や関係性の中の結節点にすぎなかったものが名前を得ることであたかも独立して実在しているかのようにふるまいはじめます。本当にそれが個として独立した存在なのかどうかは別にして、私たちの認識の中では独立したものとして認知されるようになる。例えばたくさんの葉をつけている大きな木があるとします。無数の葉はその木の一部にすぎない。ところがその中の一枚の葉が特別に名前を与えられていたとする。その時、それは私たちの認識において多くの葉の一枚ではなく特別な一枚になる。そればかりか木の一部であることもやめる。つまり、独立した個としての認識はその名前と密接に結びついているわけです。そのことは逆にいえば、何かに名前をつけようとするとき、私たちは名前を与える対象を一個の独立した存在と見なしていることを意味します。古代の人たちもまた名前が私たちの認識に働きかける作用を知っていた。だから名前をつける行為に呪術性を見出したのです。認識の世界と現実の世界とのあいだに明瞭な分断があると考えてはいなかった彼らにとって、それはきわめて合理的な発想です。(もちろん現代の私たちも認識の世界を通してしか外界を知らないわけですから、「現実の世界」なるものがどういうものかわかっていないはずです。わからないけれどもひとまず「ある」ということにしているだけです。)そのため、物事の存在を現す「真の名前」を見つけることで自在に物事を変容させることができるという言霊による呪術を信仰していました。「呪文」を唱えるだけで世界を変容させることができる魔法はそのわかりやすい例です。名前でその人の性質や運命がわかるという姓名判断の発想も同様です。

 やたらとヒットした映画「千と千尋の神隠し」でも、名前はそういう呪術性を持つものとして描かれていました。名前を奪われてしまった者は自分の意志で行動することができなくなり、集団の中の結節点として魔女の言いなりになっていきます。ル=グインの小説「ゲド戦記」でも、やはり名前は存在と深くかかわっています。その世界では、自分の「真の名前」を他の魔法使いに知られたら、魔法で好きなように操られてしまいます。そのため、誰もが真の名前は隠していて、ふだんは通り名しか使いません。真の名前は本当に信用できる相手にしか明かさないのです。

 しかし一方で、どんな名前で呼ばれようが自分が自分であることは変わりません。私が「村田 浩」だろうが「R2D2」だろうが「メロンちゃん」だろうがあるいは名前など持たなくても私は私です。私にとっての自己認識はいま・ここにいてキーボードをたたきながらこんなことを考えている意識です。それはどんな名前で呼ばれようがゆらぐことなどありません。呼び名は便宜的に私を指す記号にすぎないからです。私にとっての名前はアクセサリーに似ています。指輪や腕時計やペンダントは身につけているけれど「私」の一部ではない。それに似た感覚です。もちろん「馬鹿」という呼び名をつけられれば腹を立てますが、それは相手の悪意と自分が馬鹿だと思われたことに腹が立つのであって、私が馬鹿になるわけではありません。同様に私が「浩」から「虎之助」に名前を変えたところで、勇ましい人間になるわけでもない。もし改名によって豪快で勇ましい人間になったとしたら、それは私のそうなりたいという意志や自己暗示の結果であって、名前の呪術性によって自分が変化したわけではありません。そもそも私が「私」だと思っているものに実体などなく、そこにはただ思考という動きがあるだけです。それを「私」と呼ぶのはただの便宜的なもので、同様に名前もまた便宜的なものです。名前があろうがなかろうが、私が「私」だと思っているもののあいまいさはかわりありません。ただ、名前はそういうあいまいさを覆い隠して確固とした存在であるかのような錯覚をおこす作用を持っています。もしかしたら、自分の名前にこだわる人というのは、あいまいでふと油断すると不定形に消え失せてしまいそうな「私」を確固とした存在と思いこむためのよりどころとして名前にこだわっているのかもしれません。

 というわけで、人が自分の名前をどう認識しているのか興味があります。とくに自分の名前にこだわりのある人は名前をどうとらえているのか不思議です。よかったら、考えを聞かせてください。

【追記】 つい最近教わったんですが、マッキントッシュはハードディスクに名前をつけてやらないとLAN上で各ハードディスクが区別できなくなるそうです。だからLANに接続するときには、まず、ハードディスクに名前をつける必要があるとのこと。命名の儀式みたいです。あ、ウィンドウズでも「マイコンピュータ」に適当な名前をつけないとLAN上で識別できなくなってしまうんでしょうか。うちはルーターでインターネットに接続しているのに、パソコンが1台しかないので、そんなこと考えたこともなかったよ。漫画の「風の谷のナウシカ」で、巨大な人造人間が名前をつけられた途端にアイデンティティが確立して知的レベルが上がる場面があるのですが、なにやらあの場面を思い出しました。宮崎駿は名前の呪術性が好きみたいですね。

 ところで、私は名前などどうでもいいので間違えられても別に気にもならないのですが、誰かにお前はこういう奴だと適当な解釈をされると無性に腹が立ちます。たとえば、うちに遊びに来た人が本棚から自分の知っている本を発見した途端にしたり顔になり、「へ〜え」なんてニヤニヤしながらわかったような顔をされるともう相手の胸ぐらをつかみかかりそうです。相手の世界に自分が取り込まれれて、ひどく自分が小さな存在に貶められたような気分になります。ナンシー関のコラムを読むとそこで取り上げられてる芸能人よりも解釈しているナンシー関の方が強い立場にいるような気がしますが、あれと一緒です。あのコラムの中では、まな板にのせられ解釈される芸能人がやけに不様に見えるのに対して、自分の姿を現さないまま一方的に他人を解釈し続けるナンシー関は神の位置にあります。解釈する行為を自分の世界に取り込むことだと考えると、人とのコミュニケーションは取り込んだり取り込まれたりという自意識のせめぎあいです。自分の世界に取り込んで見下したり、逆に取り込まれて見下されたりのくり返して、互いにわかりあえることなど永遠にありえません。くたびれます。そういう小説ばかり書いていた芥川センセーはおかげでノイローゼになってしまいました。気をつけよう。 (2000.9.22)

【追記】 なんて書いたら、知らない人から「はじめまして、村井さん、ホームページ楽しく読んでいます」というメールをもらいました。うーむ、わざとかな、わざとだよね。ゆるせぬ。


 58.叶姉妹

 芸能情報に疎い私は今頃になって叶姉妹が気になっています。彼女たちは一体、何者でしょうか。ニューハーフのポルノ女優に見えるんですが、ちがいますか。あ、何者か気になるといっても彼女たちのプライベートな素性が知りたいのではなくて、叶姉妹のパブリックイメージの不気味さのほうに興味があるわけです。マスコミはどうしてあの得体の知れない「姉妹」を持ち上げ騒ぎ立てているんでしょうか。彼女たちの何に話題性があるんでしょうか。きわどい服を着ている人も巨乳な人も新宿2丁目にいっぱいいます。どうも素性のわからないことまでも話題になっているみたいです。それにしても素性のわからない人なんていくらでもいるわけだし……。テレビタレントのパブリックイメージというのは基本的に奇妙なものですが、それにしてもここまでわからないのははじめてです。ヒジョーに不気味です。ゴシップメディアは21世紀を目前にしてバベルの塔を建設しはじめたのでしょうか。

【追記】 今年の2月に「ニューヨーク・タイムス」が彼女たちをめぐるメディア状況を日本における奇妙な現象として特集あつかいで記事にしたそうです。たしかにすごく奇妙です。記事にした記者も何がおきているのかよくわからないみたいで、関係者のコメントを紹介するにとどまっていて、つっこんだ考察はないようです。

→「スポーツ報知」芸能情報 2001.2.21

 「ロス疑惑」の三浦和義以来、どうもワイドショーだけで有名というワイドショータレントというジャンルがあるそうです。松田聖子や神田うのや梅宮アンナやデビ夫人あたりがここ数年のワイドショータレントのようで、本業の歌やモデル業は今ひとつパッとしない一方で、ゴシップで話題を提供しながらワイドショーとスポーツ新聞ではお馴染みの存在になっています。本来、ゴシップというのは有名な人物がなにか下世話なトラブルをおこすから話題になるはずなんですが、現状ではそれが逆転していて、ハデなスキャンダルを起こしたタレントが、ゴシップメディアの注目を集めることで話題性を作り、結果的に芸能人としてのポジションを確立するという仕掛けです。有名で顔の売れていること自体がステイタスになりうるからこそ成立する仕組みですが、ま、こんなのいまさらいうまでもないことですね。叶姉妹はこの仕掛けを一歩進めて、なにもないところからハデなゴシップのみであらわれたワイドショータレントのようです。きっとゴシップメディアは自分たちが騒ぎさえすれば本業や社会的ステータスが何だろうと話題の人にすることができると気づいたのでしょう。もはやゴシップメディアはネタをさがす時代から自分たちでつくりだす時代に移っているみたいです。火のないところに水煙。生産効率がいいのでこれからこういうタイプのタレントが増えるかもしれません。藤原紀香のときも思ったんですが、タレントの話題性というのは完全にメディア側に主導権があって、視聴者不在のままメディア間でネタをやりとりしているうちに「話題性」がふくらんでいくという感じがします。自分たちででっち上げたにもかかわらず、メディアはその話題性がある程度ふくらむと今度は既成事実として扱うようになるので、私みたいにめったにテレビを見ないものには、ふと気づいたら変な人がやたらとテレビにでているという事になるわけです。叶姉妹の存在は日本のゴシップメディアを考える上ですごく良い素材だと思うんですが、一方でまじめに考察するのは気恥ずかしいですね。あ、私、ようやく「姉」と「妹」の区別が付くようになりました。「姉」の濃い顔と「妹」のムネはなかなか見応えがあります。ムネは油でも塗っているのかはだけた胸元がマンガチックなほどつやつやと張っていて、なんだか競馬馬のお尻を連想します。 (2001.5.13)


 59.現代のガリバー

 なんてタイトルを書くと、アメリカの世界戦略とかマイクロソフトの新展望とか書き出すんじゃないかと思うかもしれませんがぜんぜん違います。先日、オウム真理教のサティアン跡に建てられたテーマパークが資金繰りの悪化で閉鎖されるとの新聞記事を見かけました。そのテーマパークが「ガリバー王国」というらしいのです。そんなテーマパークが山梨にあったことすら知らなかったので記事そのものはふ〜んという感じでしたが、そこに掲載されていた写真が気になりました。ガリバーがやたらと巨大なのです。身長45メートルくらいあるそうで、その巨大なガリバー像がそこの売り物だったらしいのですが、何やら釈然としない気分です。ガリバーはべつに巨人ではなくて普通サイズの人です。漂流した先がリリパットという小人の国だったはずです。にもかかわらず、なぜかガリバーというと巨人のイメージがあって、テーマパークに巨人のガリバー像が展示されてしまうほどそのイメージは定着しているようです。まあ観光地に普通サイズのガリバー像が展示してあってもインパクトに欠けますが、いくら客寄せといっても45メートルのガリバー像を作ってあからさまに誤解にもとづくイメージを肯定していいもんでしょうか。ガリバーは巨人の国にも行っているわけだし、巨人国の再現には建設費用がかさみそうですが、インパクトという点では小人の国よりずっとあります。もしそのテーマパークがガリバーの奇妙な旅を追体験するという意図でつくられているのだとしたら、それくらいやってほしいところです。あと、言葉を話す馬たちや傲慢なラピュタ人との形而上学的問答なんていうのも面白そうです。遊園地の油っこい焼きそばには取り合わせが悪そうですが。

 確かに大きさというのは相対的なものです。大きいのか小さいのかなんて、どちらの視点で見るかで基準も変わります。ガリバーの視点で見ればリリパットたちは小人ですがリリパットの視点で見るとガリバーが巨人ということになります。そうそうなんです。あの物語は主人公ガリバーの一人称で語られ、彼の視点をとおして奇妙な小人たちや言葉を話す馬たちの様子が描写されるにもかかわらず、私たちが「ガリバー」という言葉から連想するのは不思議な体験をしたひとりの船乗りではなく、ある日突然自分たちの町にあらわれた「巨人」です。絵本の中のガリバーは常に小人たちの視点から描かれ、20階建てのビルディングのようにそびえ立っています。どうしてこのような視点のすり替えが定着したのでしょうか。たんに絵本の影響なのか、でもそうだとしたら絵本の中の巨人としてのガリバー像はいつどのようにしてつくられていったのか。もしかしたら私たちはあの底意地の悪い小人たちに自分を投影してしまうほど彼らが好きなんでしょうか。あるいはこれは日本だけの現象で18世紀の驕り高ぶった大英帝国市民であるガリバーになど感情移入する気になれないためか、黒船以来の西洋人コンプレックスなのか、はたまた古館伊知朗がプロレス中継でアンドレ・ザ・ジャイアントが出てくるたびに現代のガリバー!と連呼していたためなのか。

 学生のころ、小学3年生相手に教育実習をしていたとき、彼らのあまりの小ささに「まるでガリバーになった気分」と言った途端、小さい人たちは「ガリバーだあ〜」と足もとにじゃれついてきました。ああやっぱり子供たちも勘違いしてる……。

【追記】 イギリス人のジョンに電話で聞いてみました。やはりイギリスでもガリバーというと巨人というイメージがあるようです。「あの物語で一番有名な場面は浜辺に打ち上げられたガリバーに小人たちが縄をかけるところだしね、絵本のあの場面の印象が強いんじゃないかな」とのこと。日本と同様にイギリスでもスウィフトの原作はほとんど読まれていないそうです。「いまどきスウィフトを読むようなヒマな人はいないよ、ムラタさん、相変わらず変なこと調べてるね、イギリス人みたい」って大きなお世話だ。というわけでやはり絵本が鍵をにぎっているようです。図書館へ行って無数に出版されているガリバー絵本を注意深く調べてみる必要がありそうです。いつどこで誰が描いたかどういう絵柄なのかなぜ小人国の話だけしかないのか。これ、本気で調べだしたら論文でも書けそうなテーマのような気がしてきました。根気がいりそうです。

 ところでガリバー王国なんですが、巨大なガリバーを作っちゃう時点ですでにまじめにやっているとは思えないんですが、いったいどんなところだったんでしょうか?いったことのある方、体験レポートをこちらまでプリーズ。いちおうWebサイトは見つけました。Webを見るかぎりでは客寄せにでっかいガリバー像をおいてあるだけのリゾート地のようです。 (2001.4.14)
→ ガリバー王国


 60.戦後民主主義

 ここ数年、色々な場で「戦後民主主義」が批判されています。それらはどれも戦後民主主義はうまくいっていないという点では一致しているのですが、よく読んでみると戦後民主主義が指しているものが人によってちがうようで、戦後民主主義が引きあいに出される文脈もその後の話の展開もそれぞれ異なっています。ある人は戦後の進駐軍による保守的エリートの排除をさして戦後民主主義といっているようで、家父長制やエリート教育を復活させろという戦前への懐古趣味を展開しています。ある人は50年代の逆コースで中途半端な改革に終わってしまった日本の「戦後」を指して戦後民主主義といっているようで、欧米型の人権思想と個人主義にもとづいた市民社会を目指して改革するべきだと主張しているようです。またある人は日本社会の自己責任のなさと集団主義を指していたり、論理性のないまま大衆メディアの言説に乗ってムードだけで盛り上がっていくポピュラリズムを指していたりして、「戦後民主主義」と言われただけでは何のことだかわからない状況です。にもかかわらず、意味があいまいなまま言葉だけが一人歩きをして、ともかく戦後民主主義はまちがっていたというムードだけが定着しているみたいです。職場の日常会話の中でも「これも戦後民主主義の弊害よね」なんて発言を聞いたりします。非常に不気味な感じがします。

 そもそも民主主義というのは、参加者全員で決めるという決め方のひとつです。「主義」なんて言葉がついているので難解な社会思想やありがたいお札のような気がしますが、デモクラシーの基本は全員で知恵を出し合って決めるということにすぎません。答の見つからない問題や決め方ひとつでメンバーに不公平が生じるような問題に直面したとき、あみだくじやじゃんけんと同じくらいに便利な決め方といえます。きわめて有効です。神社のお札よりもずっと役立ちます。高校生たちにえらそうに政治を講義している私が言うんだから間違いありません。ところがです、先日テレビニュースを見ていたら、地方議員が記者に向かって「民主主義への冒涜だよ」と激怒していました。どうも廃棄物処理場の建設をめぐって、住民グループが住民投票を要求したことを指しているようです。民主主義という点では、代表者である議員だけで決めるよりも住民全員参加で決めるほうがより本質的といえますので、住民投票が民主主義への冒涜とはこれまた難しいことをいう人です。単純な私にはこの場合の「民主主義」は「地元の有力者の既得権益」を指しているようにしか思えないわけで、あ、わかりました、それなら私も反対。日本型戦後民主主義はまちがっています。


 61.ウクライナの赤い馬車

 仕事柄、よくテレビのドキュメンタリー番組を見ます。半ば義務的・習慣的に見ているんですが、年に1本くらいはこちらが圧倒されるほど出来の良い作品に出会うことがあります。良いドキュメンタリー番組は映画以上に刺激的だと思うんですが、なぜかドキュメンタリー番組はマイナーなジャンルなようでひっそりと放映されているのが残念なところです。

 1994年にNHK衛星で放送された民族対立をめぐる6回シリーズの番組も、そんなひっそりと放送された素晴らしい作品のひとつでした。BBCとカナダのテレビ局が共同で制作した番組で、マイケル・イグナチェフというカナダ人の作家が、インタビューと思索的なナレーションによって見るものを民族対立をかかえた地域に導いていくというものでした。見る者はレポーターの肩越しに民族紛争をはらんだ地域の様子や人々の意識をのぞき込むような構成で、イグナチェフがくり返し発する問いかけ、なぜ人々はそれほどに民族に拠り所を求めるのか・なぜ異なる生活習慣を持つ者を排除しようとするのか・民族とは何か・国家とは何かといった言葉を手がかりに、紛争地域の人々の意識にふれるていくことになります。日本で制作されるドキュメンタリー番組が整理された事実を客観的に伝えようとするのに対して、欧米のドキュメンタリー作品の多くは制作者の疑問から出発し、レポーターのまなざしを強調する傾向があるようで、制作側の作家性が強く出ている感じがします。番組は、紛争中だったユーゴ、クルド難民、統一ドイツとまわって、4回目はウクライナを舞台に、ソ連から独立後の民族対立についてのレポートでした。

 1989年、バルト三国の独立を武力で制圧しようとソ連軍の戦車隊がリトアニアに向かったとき、リトアニアの市民は通りで手をつなぎ人間のバリケードをつくって戦車に立ちふさがりました。まだ記憶に新しいできごとですが、戦車兵が機関砲を向ける中で、彼らは口々にリトアニアの歌を歌いみずからを励ましながら戦車に対峙していました。その中には目に涙を浮かべている人も多く見られました。あの時、それを報道した西側のテレビ局もその映像を見たものたちも、自由と民主社会を求める市民と抑圧的な権力との衝突という図式であのできごとを受けとめていたし、革命後にもたらされるであろう民主的な社会を思い描いていました。ところが革命から数年経って、そこにもたらされたものは自由と民主主義ではなく、経済の混乱と民族間の摩擦でした。民主化運動のリーダーの多くは同時に熱心な民族主義者で、独立後、国の舵取りを任された彼らは、自らの心の支え同様に国家の求心力として民族主義的な政策を打ち出しました。民族というなじみ深い幻想は、混乱の中にある東欧社会において、格好の求心力として人々の心の中へ入っていきました。番組では、そんな革命後の混乱の中にあるウクライナを舞台に、独立後の国づくりと民族主義がもたらす新たな火種についてレポートされていました。ウクライナでは、お隣のロシアとの関係を「くびき」と呼んでいます。くびきという表現には、切っても切れない両国の密接な関係とウクライナの人たちのロシアという大国への親近感と潜在的な脅威とが入り混じる感情が込められているようです。大国ロシアへの妬み・ライバル意識・スターリン時代の粛正への恨み・恐怖心といったものが、独立後のウクライナで近親憎悪のように吹き出している様子でした。いうまでもなく、ナショナリズムは外部に大きな脅威があって内部が混乱しているときほど求心力を発揮して盛り上がりますから、独立後のウクライナで民族主義者がリーダーシップをにぎったのは想像に難くないところです。そうして、民族主義に由来するこっけいな儀式が公の式典で催され、民族にまつわる古い物語や神話が引っぱり出され学校で教えられるようになりました。ナショナリズムという同質性を社会の求心力とすることは、同時に異質なものを排除しようとする作用をもたらすわけで、国内では多数派であるウクライナ人のナショナリズムはユダヤ系住民や中央アジア系住民といった少数派にとっての脅威になります。そのことが少数派に新たなナショナリズムをもたらし、国内での民族間の緊張関係をもたらすというナショナリズムの連鎖が生じる。案内役のイグナチェフは番組の中でくりかえしナショナリズムに拠り所を求めることの危険性について問いかけますが、彼が出会う人々は民族という古い幻想から逃れることができずにいました。

 番組のエンディングでは、そんな混乱の中にあるウクライナ社会を皮肉った歌が紹介されます。ガドキン・ブラザースというウクライナのパンクバンドの歌で、レゲエ調のとぼけたリズムに乗せて痛烈な皮肉をこめた言葉が投げつけられます。こんな歌詞です。

赤い馬車は走った お決まりの道を
赤い馬車は走った 約束の地へ向かって
おんぼろ馬車は 転がるように走った
御者は共産主義へ向けて 馬車を走らせた
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら

おい まぬけな御者よ
ここはいったいどこなんだ
こんな御者は 泥にほうりこんでやれ
それから 馬車の色を塗り替えるんだ
赤い馬車の行き先は とんでもない所だった
青と黄色に塗り替えて 約束の地を目指そう
コサックが口笛を吹き 歌い始めた
なんだそれは! 共産主義の歌じゃないか
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら

腹が満ちたとたん 人々は歌いだす
「尊い自由のためなら 身も心もささげよう」
突然 馬車が泥の中に沈んだ
おい 国なんか どこにもないじゃないか
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら
赤い馬車は走った ガタガタ揺れながら
 ロシアで政治を風刺した人形劇が話題になっていますが、スラブの文化には風刺の笑いという伝統があるのかもしれません。こういうポップソングを番組のエンディングにもってくるセンスもふくめて見事なドキュメンタリーでした。このガドキン・ブラザースの歌、番組を見た7年前からずっとレコードをさがしています。日本には東欧やロシアのポップスやロックはほとんど紹介されないので、7年たった今でも入手する手がかりすらつかめない状況です。もし何か情報がありましたらご一報を。以前、ロシア情勢が騒がしかったころ、TBSのニュース番組でモスクワ特派員の方がロシアのロックバンド事情を紹介していましたが(やたらと気合いの入った良いレポートでした)、音楽的にもなかなかレベルが高そうでした。英語圏以外のロックやポップスももっと日本に紹介されるようになると良いんですけど。マイケル・イグナチエフの民族レポートのほうは、その後、本としても出版されたようです。Webを検索していたらヒットしました。「民族はなぜ殺し合うのか」というタイトルで河出書房新社から翻訳もでています。 (2001.9.19)

【追記】 あれこれWebで検索した結果、どうやら「ガドキン・ブラザース」と思われるバンドを見つけました。インターネットが普及していなかったらこんなの一生見つからなかったと思います。探し当てた自分自身が一番おどろいています。手伝ってくれた加藤さん、ありがとう。「Braty Gadiukiny」というパンクバンドで、こちらのサイトで2枚のアルバムについて紹介されています。2枚ともまいったなぁという感じの非常に趣味の悪いジャケットで、それぞれ3曲ずつ聴くことができます。ウクライナ語のページもあって、そちらではよりくわしく紹介されているみたいなんですが、もちろん私にはちんぷんかんぷんです。どうやらウクライナでは非常に有名なバンドらしいのですが、それ以外の人にはウクライナにコサックダンス以外の音楽があること自体知られていないので、日本にもまったく入ってきていません。ちなみにアマゾン.comでも扱っていません。インターネットはボーダーレスのはずなんですが、現実世界以上にパックスアメリカーナなものを感じます。音の感じはだらだらしたトーキングヘッズみたいでした。

→ http://www.umka.com.ua/eng/gadiuk02.shtml
→ http://umka.com.ua/eng/gadiuk03.shtml

 ただこちらのサイト、サーバーの調子が悪いのか、ときどきページが開かなくなってしまいます。チェルノブイリからの送電が止まってしまうためなのか、秘密警察に検閲されているためなのかわかりませんが、ともかくしばらく時間をおくと動き出すようです。私はすごく気に入ったんで、2枚とも注文したいんですが、これ、どうやったら注文できるんでしょうか。そもそも日本まで届くんでしょうか。ウクライナの「CD」は本当にコンパクト・ディスクなんでしょうか。色々とすごく不安です。

 さらなる追跡調査の結果、ガドキン・ブラザースのオフィシャル・サイトと思われるところを見つけました。
 先のサイトのウクライナ語のページを見ると、「Braty Gadiukiny」はウクライナ語で「Брати Гадюкiни」となるようで、それをキーワードに検索した結果、こちらにたどりつきました。

→ ガドキン・ブラザースのサイト
  (トップページがうまく表示されないみたいなのでメンバー紹介にリンクしました)


 バンドの歴史、メンバーの横顔、2000年までに発表された5枚のアルバムすべてと全歌詞がウクライナ語で紹介されています。ディスコグラフィーが完璧に網羅されていることからもきちんと作られていることはわかるんですが、なにぶんウクライナ語なので、ちんぷんかんぷんです。ファンの集いのようなゲストブックまでありますが、やはりすべてウクライナ語なのでさっぱりわかりません。ただ、バンドメンバーのおじさんたちの写真は妙に力の抜けた雰囲気で親近感がわきます。

【追記】 ウクライナの赤い馬車きたる

 ついにガドキン・ブラザースの2枚のCDが到着しました。米軍によるアフガンゲリラへの報復攻撃の最中、ウクライナからの貨物便は撃墜されることもなく日本まで飛ぶことができたようです。インターネットでウクライナの業者に発注してパンクバンドのCDが我が家に送られてくるなんてお茶の水博士もアーサー・C・クラークもびっくりって感じで、SF小説の21世紀に来てしまったような気分です。ただ、送られてきた小包は、のりしろをべっちょりなめて封をしたのか、よだれの臭いがはげしくただよってきます。このへんはあまりSF的じゃありません。で、さっそく聴いているところなんですが、期待していた以上に良い感じです。全体を通して感じるだらだら感と人をくった曲の展開にパンクスピリットを感じます。場末のキャバレーのムード歌謡みたいなオープニングに酔っぱらいのおじさんがくだまいてるみたい歌が入って途中で突然ポルカになって絶叫とともに終わる曲が気に入りました。妙にツボをつかれる感じがします。ドキュメンタリー番組のエンディングに使われていた曲は、彼らの2ndアルバムの3曲目に入っていました。「赤い馬車」というタイトルの6分以上の長い曲で、じつは5番までありました。レゲエのズンドコ調のリズムがちんたら走っていくウクライナの馬車を暗示しているようで、ボーカルの投げやりな歌い方とあいまって自虐的なユーモアを感じます。ホーンセクションの入り方も格好いいし、もったりした泥臭いウクライナ語も聴いているとこれでなければいけないという気がしてきます。英語のスマートな発音で聴くとぜんぜん違った印象になりそうです。アルバム全体を通してウォッカ片手に酔っぱらって演奏しているようないい加減さがただよってくるところもいい感じです。ただ、予想どおり歌詞の英訳はついていませんでした。翻訳サイトにウクライナ語の翻訳もあったので試してみたんですが、精度が悪いようでぜんぜんわかりませんでした。友人にひとりロシア語がわかるのがいるんですが、もう5年近く音信不通です。 (2001.10.22)


 62.宝塚な名前 自動生成CGI

 ふと自分の名前が宝塚の男役みたいだったら人生が変わるような気がしました。疑問の泡57で名前なんてどうでもいいと書きましたがやめました。名前こそ大事です。ある日突然、名前が剣崎麗華とか朝霧南風とか如月大宇宙になっていたらもう男装の麗人です。男装の麗人しか許されません。なので名乗ってしまえば麗人です。タテ巻カールだってもう平気です。

 とはいうもののカタギの人が自分から麗人な名前を名乗ってタテ巻カールにするのは勇気がいります。下品で無理解な人たちからのあーはっはお前が蘭黒薔薇だってえという悪意にみちた笑いが聞こえてきそうです。それに、一歩まちがうとヨシモトか吉田戦車になってしまうのも難しいところで、一路真希は宝塚だけど真実一路はヨシモトです。夢路いとし・喜味こいしもヨシモトです。花村万月はハゲのおっさんです。このへんの微妙な違いを見きわめるセンスが必要とされます。ホンモノの人たちはどうやって名前を決めているんでしょうか。そこで、現代の神であるコンピューター。コンピューターが麗人な名前を託宣してくれればどんなにいいでしょう。なんせコンピューターがつけた名前だし、無責任に名乗れます。誰かCGIにくわしい人、プログラムつくってみませんか。


 63.我が輩は作品である

 作品の評価と作家の人間性とは完全にわけて考えるべきだと考えています。三島由紀夫がくだらない政治思想の持ち主でもその作品は正当に評価されるべきだし、矢野顕子や桜田淳子が醜悪な原理主義宗教の信者でも彼女たちが歌ったポップソングの価値が下がるわけでもないと思っています。この場合の作品は創作行為に限ったものではなく、業績と言い換えてかまいません。スポーツ選手や政治家などの業績はもちろん、仕事はできるけど嫌な奴というようなサラリーマンにもあてはまります。タイ・カップがどんなに粗野で暴力的な人間でも彼の残した安打記録の価値が下がるわけではないし、クリントンが性的にだらしない人間でも彼の政治的業績には関係がない。むしろ私はそういう人格的欠陥を持つ人間が成し遂げる作品や業績の生成過程に興味を引かれます。もちろん、個人的な交流は望みませんが。

 少し話はそれますが、ニュートンもエジソンも非常に性格の悪い嫌な奴だったそうです。当然、子供のころは問題児だったわけですが、彼らが残した業績があまりに偉大なために性格の悪さや子供のころの問題児ぶりまでも肯定されてしまいがちです。彼らの資質が見抜けなかったまわりの大人が悪いと。そこには上記の人間的欠陥が作品の評価に影響するのとは逆の意味で両者の混同があるわけです。でも、どれほどニュートンが優れた業績を残そうと彼が嫌な奴だったことには違いないわけで、偉大な業績と性格の悪さとの間には関連性はありません。私はむしろ彼に手を焼いたうえに後世の人たちから白い目で見られてしまうまわりの大人たちに同情します。

 創作物が「作品」として評価される背景には、マスメディアによる世論の形成があります。マスメディアの発達は、有名人の偶像を不気味なほどふくらませてきた歴史でもあります。そうした偶像の肥大化は、名前が知られていればそれだけで優れた人間であるかのような錯覚をもたらします。この偶像に魅せられた者は情報の受け手の側だけでなく、むしろ送り手の側であるマスコミ関係者にも多く見られます。彼らがしばしばメディアに取りあげられている人間だけが優れた人間であるかのような口振りで、そうでない人を「一般人」と見下すとき、彼らの思い上がりに唖然とします。(日本の社会でこの「一般人」という表現をしばしばつかう人種には2種類いて、ひとつはマスコミ関係者やテレビタレント、もうひとつは役人です。よほど特権意識を持っているみたいです。)

 言うまでもないことですが、優れたミュージシャンというのは優れた音楽をつくる人のことだし、優れた小説家というのは優れた小説を書く人のことです。優れたスポーツ選手は試合で活躍する人のことです。それ以上でもそれ以下でもない。彼らが人間的に優れているかどうかとは別問題です。優れた倫理観を持っているかどうかとか、高い社会的見識を持っているかどうかとは無縁です。にもかかわらず、私たちは彼らの偶像に魅せられ、彼らを自分のロールモデルにしようと彼らの発言や私生活を知りたがります。彼らのつかう商品やコマーシャルに出演した商品は売れ行きがのびたりもします。また、専門知識や高い社会的見識があるわけでもないテレビコメンテーターやテレビタレントの発言に「説得力」という非論理的な権威を感じたりもします。この偶像崇拝が彼らの作品と人間性との混同をもたらします。そのためにある時はロールモデルとしてあがめられ、ある時は私生活の言動に作品の評価までも左右されるムードをつくりだす。彼らの偶像に興味のない私には非常に不気味です。

 1960年代にサルトルはさかんに文学者の社会的責任をとなえて、政治運動への参加を呼びかけましたが、これなどは愚の骨頂に思えます。彼は思想的な小説をいくつも書きましたが、それと社会的見識が高いかどうかは別問題です。文学者に限定された社会的責任など存在しません。まして、小説家のような感情を喚起させる言葉の使い手に、政治のような論理で語らねばならない場に特権的な席などないはずです。さもなければ政治はアジテーションの場になってしまう。事実、彼はジャン=ポール・サルトルという偶像を背負ったアジテーターになっていきました。もちろん、ひとりの市民としては政治に参加する責任がありますが、ひとりの文学者としては政治に対して口をつぐむことこそ彼のとるべき行動だったはずです。

 しかし一方で、作品と作者の生き方が切り離せないケースもあります。アンディ・ウォーホールは「私自身が作品だ」と言っていましたが、彼は有名人=アンディ・ウォーホールという偶像をつくり出すメディアの現象を逆手にとって、その現象を操作し偶像自体を創作することこそが彼の作品でした。その場合、彼のシルクスクリーン1点1点をとりあげてその手法を論じても彼の創作活動の核心をつくことはできません。彼の創作活動の中心は、彼自身が言うように、有名無名の芸術家たちと交流し、その中で何か新しい動きをおこし、メディアを騒がせ注目を浴びること自体にありました。だから自分が有名人であること自体が作品だということになるわけです。なんともまあいやらしい奴に見えますが、偶像をつくり出すメディアのしくみを逆手にとって「作品」とする手法は鮮やかではありました。したがって、彼が残したいくつもの有名人のポートレイトは、メディアの仕掛け人としての活動の副産物にすぎません。彼自身がメディアの仕掛け人としてみずからの偶像を作品にしていたからこそ、有名人の偶像を描いた彼のシルクスクリーンは強い意味性を持つのであって、両者をわけてシルクスクリーンだけを作品として評価することなど不可能です。そうなるとアンディ・ウォーホールという偶像をつくっているもろもろのゴシップすべてが評価の対象ということになります。

 ウォーホールの場合は極端ですが、作品=自分というようなメディアでの活動をしている有名人は大勢います。松田聖子や神田うのなどなどなどなど、メディアの中で注目をあびる自分自身が作品のような人たちは数えたらきりがありません。松田聖子にとっての芸能活動は、偶像としての「松田聖子」こそが目的であって、歌手活動をふくめたすべての芸能活動は「松田聖子」を売り出すための手段にすぎないように見えます。その点では、彼女の歌はワイドショーで取りざたされる数多くのゴシップとなんらかわりない。彼女が浮気したり離婚したり若い男を囲ったりすることはメディアの注目を集め、それ自体がすでに芸能活動のようです。ゴシップをうまくコントロールできれば、新曲を発表する以上の話題づくりになります。偶像はよりふくらみ、ギャラは上がり、メディアへの露出もふえます。そういう彼女のヒットソングを考えるとき、「松田聖子」という偶像の社会的記号が大きいために、それぬきで考えることは困難です。また、彼女の偶像の社会的記号を考慮に入れずに、彼女の歌を音楽的にいくら分析したところで、核心からはずれた重箱の隅をつついているだけになってしまいます。松田聖子にそういう図式があてはまるなら、はじめにもどって、統一教会で熱心な活動をしている桜田淳子と彼女の歌の関係もそれと大差ありません。作家や映画監督にしても、三島由紀夫がまさにそうでしたが、テレビや雑誌で盛大に言葉をまき散らし、それ自体が活動の中心になっている人が大勢います。そうなると小説や映画というかたちで制作されたものだけを作品として限定することは難しいように思えます。そうしてフェリーニは「8 1/2」で、ウディ・アレンは「スターダスト・メモリー」で、有名な映画監督という偶像としての自分とその偶像に魅せられる周囲の関係をテーマに、自意識を垂れ流しつつ映画を撮ってしまうわけです。そこには偶像としての自分と作品の関係の複雑な入れ子構造があるわけで、ああ、俺が悪かったよ、まちがっていたよという気がしてきましたが、ややこしくてわからなくなってきたので、わからないままひとまずこのへんで退散。 (2001.9.27)


 64.国際宇宙ステーション

 有人宇宙飛行というのはアポロ計画以来、何ら科学的な成果をもたらさない政治的デモンストレーションとしておこなわれてきました。政治的産物だからこそ国家予算を湯水のように使うことができたわけで、おかげでアメリカ人は月にまで足跡を残したわけですが、冷戦が終わった途端にNASAの予算は大幅に削減されてしまいました。カネ食い虫で科学的な成果をもたらさない有人宇宙飛行は、UFO研究や超能力研究と同じようなトンデモ科学のたぐいに見えるのですが、なぜか日本政府はこれに積極的です。予算を減らされたNASAのパトロンになって、資金援助をするかわりにキャベツ人形に似たおじさんをスペースシャトルに乗せてもらって宇宙から理科の授業をやったり、メダカの観察をしたりしています。その度に何百億も出資しているわけです。いったい何のためにあんなことをやっているのか非常に不思議です。あと、日本のマスメディアもUFOや超能力は完全にキワモノ扱いなのに、なぜか宇宙開発については科学と人類の栄光という文脈でしか報道しません。これも非常に不思議です。で、今度は国際宇宙ステーションをつくるらしいのですが、あんなもの何に使うんでしょうか。何千億もつぎ込んで宇宙でトマトでも栽培しようっていうんでしょうか。税金返してくれ。 (2001.9.27)


 65.お支払いは何回払いにしますか?

 私も一応、クレジットカードを保有できる程度には社会生活をしています。小銭が鬱陶しいので、わりとよく使います。ネギ、ダイコン、牛乳、納豆、冷凍シュウマイ、たらこスパゲッティソース、オレンジジュース1658円なんて時も、西友・花小金井店ではカードで払ったりします。ところがカードで支払うと、レジのおねえさんたちは必ずこちらをふ〜んという目で見ながらこう言います。「お支払いは何回払いにしますか?」

 そんなもん1回払いに決まってるじゃねぇかネギとダイコン買って12回の分割にするやつがどこにいるんじゃボケと思うのですが、もしかしたら俺はダイコンも分割払いにしなければ買えないほど貧乏そうに見えるんだろうかという不安もよぎります。おねえさんのふ〜んという視線に怖じ気づきながらもごもごと「あ、いいっいっかいで……」なんて答えていると、自分が世間に負けたようなひどくみじめな気分になります。

 くやしいので、「ボーナス時変動24回払いで」とか「36回リボ払いで」とか「デリバティブ・オプションつき48回払いで」と言ってみたい気もするのですが、やっぱりおねえさんのふ〜んという視線に負けて、「いいいっかいで」と言ってしまいます。世の中に西友・花小金井店でネギとダイコンを買って分割払いにしたことのある人なんているんでしょうか。いたら体験談をきかせてください。私はあなたの勇気をたたえます。 (2001.10.6)


 66.映画館嫌い

 ときどき、映画は劇場で観なきゃと映画会社のまわし者みたいなことを言う人がいますが、どうしても理解できません。私は映画は家でひとりでテレビで観るべきだというのが持論で、集中して観たい良い作品ほどそうするべきだと考えています。

 私は映画は好きなのですが、映画館が苦手です。例外的に場末のポルノ館とガラガラの名画座は前の座席に足をかけてふんぞり返ってタバコを吸いながら観れるので好きだったのですが、そんなのとっくに絶滅してしまったので、現在はほぼすべての映画館が嫌いです。とくに敵視しているのがこじゃれたロードショー館と気どったシネコンです。映画を見せるための空間をあんなふうに作ってしてしまうなんて、根本的にまちがっています。あとミニシアターやマニアックなレイトショーだと、へんに同人の集い的な仲間ムードが漂っていたりして、そういうのも非常に苦手です。お前らと一緒にされてたまるか、俺はただ映画が観たいだけなんだよって、へんな自意識が頭をもたげてきたりします。そんなわけで、毎年100〜200本くらいの映画を観ていますが、9割以上がCS放送かレンタルビデオです。

 映画館の何が嫌いかって、1本の映画のチケットに1800円も払わされたり、上映待ちで時間をつぶしたり、行列をつくったり、良い席をさがすためにうろうろしたり、座席がせまくて腰が痛くなったり、となりの席に鞄をおけないほど混んでいて鞄をかかえながら2時間も同じ姿勢をとらされたりすることで、そんなしんどいおもいをして映画を観たら作品の内容なんて関係なく、今日は映画を観たぁ〜という山登りでもしてきたかのような達成感を感じてしまいます。つまんない作品だったとしても、それを観るための代償を考えたら、自分を騙してでもありがたがらなければ報われません。行列のできるまずい店で食事をしてしまったときと同様に、アンビバレントなもやもやした気分になります。案外、それが映画館と配給会社側の策略ではないかという気さえします。

 私は映画を観るときは作品の世界に没頭したいので、映画を観ること以外の要素はできるだけ排除したいのです。自分とスクリーンしかない状況で、作品と1対1で対話するように映画を観たい。それ以外のものは全部じゃまで、とくにデートでとなりの席にいい女が座っていたりすると、作品と自分との対話どころじゃなくなってしまいます。映画館で映画を観るという行為は一種のイベントなので、作品以外の要素が色々入りすぎてしまうのです。町を歩いたり焼肉食ったり一杯飲んだりという一連の行動のひとつとして映画館へ行った場合など、作品の内容よりもそれを観たシチュエーションのほうが重要になってしまいます。「タイタニック」や「ジュラシックパーク」みたいな大げさで単純で何も考えなくてもそれなりに楽しめるような映画ならそれでも良いんですが、もう少し微妙な感覚や洞察力を必要とする作品をそういう状況で観てしまうとすごくもったいないことをした気分になります。なので、集中して観たい作品ほどむしろ家で寝そべってテレビで観るべきだと考えています。37インチのテレビとCSチューナーのない生活なんてもう考えられません。

 映画館で映画を観ることにはもうひとつ問題があります。1800円という料金を払って月に何十本も観れる人というのはまずいないと思うんです。月に1本か2本しか観ないという場合、どうしても話題の作品や雑誌で評価の高い作品を選びがちです。その結果、宣伝や雑誌のようなメディアの影響力が強くなって、余計な情報があふれてしまいます。私の場合、話題の大作や雑誌で評判のこじゃれた作品で気に入ったものに出会ったことはまずありません。むしろ、CSやBSのチャンネルに合わせたとき、たまたまやっていたような映画に掘り出し物が多い。そういう地味な作品や古い作品は、もし映画館でしか映画を観る機会がなかったら、一生出会えなかったのではないかと思います。そういう意味でもテレビで映画を観ることのメリットは大きい。メリットばかりなので、テレビで映画を観ることを邪道のようにいう人がなにを根拠にそんなこというのか理解できないのです。映画館の何がいいんでしょうか。


 67.シンクロナイズド・ネッシー

 少々古い話ですが、シドニーでオリンピックをやっていたときのことです。夜中にテレビのスイッチを入れるといきなり「シンクロ」をやっていてギョッとしたことがあります。私はどうしてもあれを美しいと思うセンスが理解できないんですが、ともかくその日のメモ書きをここに再録してみます。

 夜中にテレビをつけたらいきなり「シンクロ」をやっていた。びっくりした。見てはいけないものを見てしまったような気分。深夜4時、ブラウン管には強烈に頭をひっつめて目のつり上がったお姉さんが映し出されニカ〜ッと笑っている。彼女はおもむろにツンと上方70度を見上げロボットのような不思議な動作で手足をくねらせた後、バネ仕掛けのようにプールに飛び込んでいった。一瞬判断力が停止し、自分が見ているものが何なのか理解できなかった。いままで見慣れてしまったためについうっかり「シンクロ」とはああいうものだと認知してしまっていたが、あれは慣れてはいけないものだったのだ。安易にあの様式を受け入れるべきではない。土星から来た人たちが地球人の生態を調査するように、もっと注意深く観察しそこで何がおきているのかを冷静に見届けなくていけない。「シンクロ」は演技を審判が採点することによって順位が決まる。表現力や技術力が評価されるらしい。ということは、あれを「美しい」と思っている人がどこかにいることになる。その美しさに少しでも近づくために選手たちはニカ〜ッと笑い奇妙なポーズをつけ、審判たちはその演技をシンクロ的「美」と比較することで点数を割り出す。選手や審判が本気であの動きを美しいと思っているのかそれともたんにあの様式に従っているだけなのかはわからないが、少なくとも建前としては「美しい」と思って演技し採点していることになっているはずだ。そうでないとあの競技は成立しない。ネス湖のネッシーみたいにプールからにゅうっとあがってきた脚を美しいと思っている人がどこかに必ずいるはずだ。そう思っている人たちがあの様式をつくり出し、こっちのネッシーは9.5点でこっちのネッシーは9.7点と採点基準を定めてきた。それはいったいどこの誰なんだ。一杯おごるから、ぜひその人の話が聞きたいものである。ワタクシは韓国チームのネッシーがなめらかそうで気に入ったんだけど、審判たちはお気に召さなかったみたいで高い点数はつかなかった。 (2000.9.24の近況より)
 というわけで、一杯おごりますのでぜひお話を聞かせていただけたらと思っています。「シンクロ」がメジャーな存在になって社会的認知を得るほど、私はあの様式に違和感をおぼえます。(2001.10.23)


 68.萌え?

 インターネットのWebサイトをみていると、「萌え〜」という表現をよく見かけます。ありゃどういう意味でしょうか。3年くらい前からネット上の文章で目立つようになって、いまではネット上では当たり前のように飛び交っています。ただ、それ以外のところではまったく見かけません。顔文字や(爆)と同様にインターネットに限定されたオタク言葉のような雰囲気を感じますが、漫画かゲームか何かに出典があったりするのかな。オタク言葉はコギャル言葉とならんで、新語の生産量と言葉の違和感の強さで言語的小宇宙の双璧という感じがします。関係ないですが、個人的に今年もっともインパクトを感じた言葉は、歌舞伎町の火事で一躍有名になった「セクハラ・クリニック」でした。今年のマイ流行語大賞はセクハラ・クリニック。 (2001)
【解答1】 ナニワのヤンキー主婦代表より。
 もしやアナタ「2ちゃんねる」とかいう劣悪なサイト見てんじゃないでしょーね?よい子はあないなもん見ちゃいけないんだぞ。でもよく見かけたのは確かだがあそこは特にわけわからん言語がはびこってておばちゃんついて行けないわん。でもあの絵っていうの?みんなヒマなのね。ある意味感心するけど。
 検索の末にたどり着いたところが2ちゃんねるのスレッドだったりすると、しまったぁという気分になります。たしかに2ちゃんねるは萌え〜連発してもりあがってます。私は見るともりさがります。で、萌えってなんだよ。
【解答2】 ナニワのヤンキー主婦代表より。
 アニメ系の話みたい。萌えキャラっていうらしい。らしいわ。
 やっぱり出典はアニメね。で、萌えキャラってなんなんだよ、話がちっとも進まねえじゃねえか。
 我々萌えシロウト同士がこうして情報を交換していてもいっこうに埒があかないので、学校でこの手のことなら何でも知っていそうな生徒にインタビュー取材を試みてみました。すると理路整然と明快なお答が返ってきました。マイクロソフトのユーザーサポートよりもあてになります。

 えっ、萌えですか?あの草冠に日と月の萌えぇ〜ですか?あれは何かに夢中になったり熱烈に気に入ったりしたときに使う言葉です。たとえば私がセンセーに夢中になったとしたら、「ムラタセンセー、萌え〜」となります。たぶん同人誌系のマンガが発信源だと思います。ところでセンセー、そんな言葉どこで知ったんですか。友達とふだんそんな話をしてるんですか。自分でも言ったりするんですか。
 彼女はそう語った後にニヤニヤッと笑って去っていきました。あのニヤニヤは意味深です。やはりふだん大っぴらに使うべき言葉ではないというニュアンスを感じます。同人誌っていうのはエッチなやつなのかな。本来の用法にはセクシャルな意味が込められているのかもしれません。むらむらとした性的リビドーのような。だから、きんつばや大福がすごく好きでも「きんつば萌え〜」や「大福萌え〜」だとなんだか違和感を感じます。そのへんが「萌え」と「マイブーム」の違いじゃないかと想像するんですが、どうなんでしょう。

 我らがユーザーサポート嬢は追跡調査までしてくれたようで、翌日、調査の結果を教えてくれました。それによると元々この言葉は「燃える」で、それが「萌える」に変化して「萌え〜」に短縮されたとのことでした。変化のきっかけはアニメの美少女キャラクターか美少女タレントの名前からで、「天才テレビくん」に登場していた「萌ちゃん」ではないかと言っていました。言葉の意味のほうは予想どおり、「女の子に熱くなる」ことを指すようです。おたく少年たちの欲情ってところでしょうか。ただ、現在はもっと広い意味で使われているみたいで、2ちゃんねるなんか見ると気に入ったものはなんでも萌え〜なので、「きんつば萌え〜」でも「コクヨの目玉クリップ萌え〜」でもいいみたいです。ただ、そういう使い方でもセクシャルなニュアンスが入ってくるので、「コクヨの目玉クリップ萌え〜」だと特殊プレイを好むマニアに見られる可能性が高くなりそうです。あと、この言葉を日常的に使っているのは、やはりネットおたくとアニメおたくに限定されるようで、このページを見た友人からは「萌え〜ってなんですか、そもそもなんて読むんですか、そんな言葉ははじめて聞きました」とメールが来ました。はい、これは「もえ〜」と読みます。不親切な文章を書いてすみません。でも、本当に聞いたことないの?カマトトぶっていない?まあ何にせよ、ふだんの日常会話で「萌え〜」を連発するのは「っていうかぁ〜」を連発するのと同じくらいはずかしいので、使用はひかえた方が良さそうです。

 で、教えてもらった「天才テレビくん」と「萌え」をキーワードに検索してみた結果、次のサイトに行きつきました。そのサイトでは上記のことがさらに念入りに考察されています。しかも2年も前に作成されていました。ただ、そこでも「萌え」の語源になった「萌ちゃん」が何者かついては3つの説をあげていて、特定するには至っていませんでした。その点については引きつづき情報があったらください。私はアニメ絵のエッチなゲームに登場する女の子ではないかと想像しています。もしこれにちがいないというのがあったら教えてくださいって、よく考えたらあんまり知りたくないかも。 (2001)
→ うほ〜! ○○萌え萌え〜
【解答3】 さらに追加情報。加藤さんよりメールをいただきました。
「萌え」の反対の意味を持つ用語は「萎え」です。(2ちゃんねる用語集より・・・知られざる世界がここにあります。)たとえば私が村田さんに「萌え」ていて、突然幻滅したら「ヤダ〜村田さんたら、萎え〜」となります。かなりセクシュアルな意味合いを持つ蔑視用語ではないかと思います。なので、はい。あまり大きな声で言わないほうが良いと思います。ちなみに現在の私の中での流行語は「放置プレイ」です。
→ 2ちゃんねる用語集
 この「2ちゃんねる用語集」を見ると、「萌え」は元々は20年も前からアニメの同人用語として使われていたとあります。ぜんぜん知りませんでした。世の中には知られざる閉じた小宇宙がたくさんあるもんです。で、それがやがて草の根ネットやインターネットに載るようになって、我々の目の前に現れたわけです。ただ、これだけ広く流通するようになったのはここ3、4年のことだと思うんですが、それについてはやはり2ちゃんねるの影響が大きいようです。ところで、加藤さんや我がユーザーサポート嬢も頻繁に2ちゃんねるに出入りしているんでしょうか。深入りすると心身の健康を損なうおそれがありますのでのめり込むのはほどほどに。良い子はあないなもん見ちゃいけないんだぞ。あと、私宛てに送られてくる変なメールにこのところ意味不明の単語がまじるものがふえてきたんですが、このサイトの解説でそれらのほとんどが2ちゃんねる用語だとわかりました。ためになります、まったく。 (2001)

【おまけ】 4年経過。「萌え」はすっかり市民権を得ているようです。(2005)
Yahoo!辞書 新語探検 「萌え」文化 (2005年3月28日)
「萌え」はもともとはアニメやゲームなどの美少女キャラクターに対するオタクたちの愛情表現のことばだったが、現在では文化現象となっていると、経済アナリストの森永卓郎が指摘している。「萌え」は、世間と切り離された空間で自己規制した恋愛感情をもつことと解されるようになり、だれも傷つけず、だれからも傷つけられない状況を彼らはつくりだしている。たとえば、メイドカフェでメイドのコスプレをした店員とおしゃべりをしたり、フィギュアとよばれる美少女のキャラクター人形を集めたり、パソコンで恋愛シミュレーションゲームを楽しんだりしているが、それが他人に迷惑をかけるわけではないし、彼らは決して自らの領域からはみ出そうともしない。この「萌え」が一つの文化として認知されるようになってきた。現代美術作家の村上隆が作成するフィギュアのミニチュアは食玩として発売されているが、フィギュアそのものは芸術作品としてクリスティーズのオークションで高値で落札されている。

婦人公論文芸賞に桐野夏生氏の「魂萌え!」 朝日新聞 2005年08月22日19時59分
 第5回婦人公論文芸賞(中央公論新社主催)の選考会が22日、東京都内で開かれ、桐野夏生氏の小説「魂萌(たまも)え!」(毎日新聞社)が選ばれた。
 副賞100万円。授賞式は10月21日午後6時から、東京・丸の内のパレスホテルで。

 69.カメラ目線で口パク

 1980年代にミュージックビデオが出はじめたとき、ミュージシャンたちがカメラに向かって歌い上げる様子に強い違和感を感じました。あれがライブ演奏ならかまわないんですが、スタジオで録音した音源にあわせて口パクでカメラに向かって熱唱していると思うともう気持ち悪くて鳥肌がたちます。音源はスタジオで収録していることは誰もが知っているわけですから、ビデオの中でさもその演奏がそのまま使われているかのように熱唱したりギターをかき鳴らしたりしている様子は白々しくて不自然です。なにより不様です。むしろ映像のほうでは演奏とぜんぜん関係ないものを音楽のイメージに合わせて構成していった方がミュージックビデオとしての役割をはたしていると思うのです。1980年代に、その手の口パクビデオが出まわりだしたとき、これはMTV黎明期だからまだ方法論も確立されていないだろうし、こういう奇妙なビデオがつくられるんだと自分を納得させた記憶があります。ところが、それから20年近くたった現在、私の予想は大きく裏切られ、あの不様な口パク演奏の手法は完全にミュージックビデオの本流として定着してしまいました。私以外に誰も違和感を感じないんでしょうか。先日、ぼんやりとMTVをみていたら、日本人のロック歌手が最初から最後までずっと顔アップでカメラに向かって語りかけるように切々とラブバラードを歌っていました。口パクで。私はもうはずかしいのと気持ち悪いのとで吐きそうでしたが、ファンとしてはあの調子でカメラに向かって「おまえの首筋にぃ〜♪」なんてうっとりした顔で歌われるとしびれちゃうんでしょうか。ファンは口パクでも真似事でもいいから演奏している場面が見たいものですか。ミュージックビデオがつくられるようになって20年近くたっても、歌ってるふり演奏してるふりのビデオが主流なところをみると強い需要があるようにも思えます。ただ、映像作家にとって音源にあわせて偽物の演奏をただ撮しているだけなんて、自分のイマジネーションの欠落を認めているようなものです。映像をやるものとしてのプライドはないんでしょうか。


 70.多数決の有効性

 中学1年生に地理を教えはじめました。「イギリスの首都はどこだ?」「パリ」「ロンドン!」「ニューヨーク!」「メキシコー!」。「じゃあ、メキシコだと思う人、手をあげて……ひとり。少数派はつらいねぇニューヨークだと思う人は?……ふたり。仲間がいて良かったじゃん。パリは?……ふたり。ロンドンは?……えーっと12人。というわけでイギリスの首都は多数決でロンドンに決定ね、次いってみよう」。どよどよどよと教室に動揺が広がります。「センセー」「なんだよ」「で、本当はどこなの?」「だから多数決でロンドンだよ、なんか不満?」「えっいやその……でも多数決っていうのはあんまりじゃないかと……」「みんなの決定にさからうのか?」「だって、多数決だと間違えることだってあるし……」「俺だって間違えて教えちゃうこともあるよ、そもそもイギリスなんて行ったことないし」「センセー、行ったことないの?」「立川のロンドンならいったことあるよ、あと吉祥寺のニューヨークとか荻窪のベニスとかも」「……」「で、なんで、イギリスの首都がどこなのかがみんなの多数決だと信用できなくて、俺が教えたことだと信用できるの?俺、立川のロンドンしか行ったことないのに」。彼らに多数決がどういう場合に有効なのか説明せよというと、うむむむとだまってしまいました。からかいがいがあってかわいいです。

 で、多数決の有効性はどういうケースにあてはまるのか、私自身もあいまいにしか考えていなかったことに気づきました。うまく説明できる方がもしこれを読んでいたら、メールをいただけたらと思います。


 71.宴会おじさんのネクタイ鉢巻

 忘年会・新年会シーズンも過ぎましたが、年末になると毎年、宴会でアタマにネクタイを巻いてるおじさんが本当に実在するのかという疑問がわき上がってきます。年の瀬に酔っぱらい率の多い夜の新宿駅のホームに立っていると、そんなところにいるはずもないのに、ついネクタイをアタマに巻いたおじさんが現れないかとあたりをきょろきょろ見まわしてしまいます。ビックコミック・オリジナルあたりではサラリーマンの定番宴会スタイルですが、あなたのまわりにはそんな絵に描いたようなおじさんはいませんか。巻いたネクタイに割り箸をさしたりしてさ、カラオケで「泳げたいやきくん」を歌っちゃう様な立派な方は。俺、サラリーマン生活が短かったから、そんなディープな醍醐味を十分に味わえなかったのが心残りです。接待ゴルフでは本当に「カッチョー、ナイスオン」なんて言うんでしょうか。1回くらいはそんなトキメキ体験もしてみたかったような気がします。

 話はそれますが、定期試験の結果を1番からビリまで全員廊下に張り出すなんていうのはマンガの世界だけのハナシだと思っていたんですが、最近になってそんな学校が現実にけっこう存在していることを知りました。こちらもあんまりマンガチックなシチュエーションなんで、現実の方がマンガのパロディをしているような錯覚をおぼえます。やっぱりモテモテ生徒会長が今回もトップだわなんて少女マンガ的会話が展開されたりするんでしょうか。どうせならそれくらいパロディで押し通してほしいところです。こちらも合わせて気になっています。 (2002.1.31)


 72.バレエダンサー

 いったいその人たちはどこにいるんだろうと疑問を持っている種類の人々が3つあります。
 ひとつは先にも書いた藤原紀香のファン。今年2002年になってもあいかわらず問答無用で「藤原紀香イコールいい女」という完全に記号化されたパブリックイメージを振りかざすメディアへの違和感もふくめて、彼女を本当にいい女だと思っている人なんているんだろうかとつい気になります。もうひとつは渡辺淳一やシドニィ・シェルダンの読者。古本屋へ行くとたいてい100円コーナーにどっさりと山積みにされているから、どうやら読者は実在しているみたいだけど、それでもやはりいったいどんな人たちが読んでいるのか気になります。もっとも「ええ失楽園大好きです」とか「愛読書はシドニィ・シェルダンです」とはなかなか言いにくいだろうし、調査の困難さが予想されます。そして3つめが十年来の疑問で、今回のテーマ、男の子のバレエダンサーです。

 とくにバレエに興味があるというわけではないんですが、なぜか毎年、偶然が重なってローザンヌでやっているバレエ・コンクールのテレビ中継をみています。エルトン・ジョンのようなメガネをかけた見るからにゲイという感じの男性評論家とパリ・オペラ座の校長という鶏ガラみたいに痩せた女性のコンビがくりだす毒舌解説が名物で、毎年若いダンサーたちにするどいパンチを浴びせています。「これじゃあキャバレーの出し物よ」「このコはアタマが大きすぎるんじゃないでしょうか」「悲惨だわ、もっと良い指導者につくべきよ」「リズム感がないわね、退屈だわ」「体型がバレエに向いていないわね、別の道を探すべきよ」といったハードヒットの連打でコンクールは進行していきます。こちらはそれをぼんやり見ながら、いなげやのお総菜のカニクリームコロッケをつまんだり、ビールをずるずる飲んだり、足の爪を切ったりしながら、今年もまた「海賊」をやる子が多いなあとか、クラシックのコスチュームはなんとかするべきなんじゃないかとか、モダンは当たり外れが大きいとか思ったりするわけです。まったくもって熱意のない観客ですが、それでも十年以上もテレビ桟敷にすわっているので、いちおう「軸がブレた」とか「動きがカタイ」とか「振り付けが単調」くらいの判断はつくようになりました。で、見終わると、かならずひとつの疑問がアタマをもたげてくるのです。いったいあの男の子たちはどこから現れるんだろうと。

 決勝に残るダンサーは男女同数でそれぞれ10人くらいずつ、応募者の総数も男女でそれほど違わないようです。しかし、バレエというと女の子の習い事という印象が強くて、日本でバレエ教室に通っている子供が100人いたら、ほぼ全員が女の子ではないかと想像します。女の子の習い事としては華やかなので、親の趣味で子供をバレエ教室に通わせているケースも多いのではないかと思います。それに対して、男の子の場合、親の趣味でバレエ教室にかよわせるというのはちょっと想像しにくいし、小学生くらいの男の子が自分からバレエを習いたいと言い出すとも思えない。「キャプテン翼」に夢中になってサッカー教室に入ったり、お父さんとのキャッチボールがきっかけで地元の少年野球チームに入ったりするのは容易に想像つきますが、男の子がバレエ教室に通いはじめるシチュエーションを思い描くのは困難です。とくにクラシックバレエの場合、白いタイツ姿をはじめとしてすべての様式が生クリームたっぷりのデコレーションケーキのような美意識で統一されていて、それは男の子文化の対極にあるように見えます。たいていの男の子は、「白鳥の湖」よりも「メカゴジラ」と「タイガー戦車」のほうが好きです。たとえ本人があの美意識の世界に「ステキ……」と心惹かれたとしても、実際にバレエ教室へ通うようになるまでには、色々な壁が立ちはだかっているのではないかと思います。まわりは女の子ばかりで居心地が悪かったり、浮いてしまったりするかもしれない。うわさを聞きつけた学校の悪ガキ連中にからかわれたりするかもしれない。「なんだおまえ、バレエだってえ」、この一言はキツイです。男の子の場合、はじめるのも続けるのもかなりの覚悟がいるのではないかと思います。

 ところがそれにもかかわらず、ローザンヌみたいな国際コンクールのレベルになると応募者の男女比にほとんど差がなくなってくる。裾野の広がりの大きさには、男女で大きな違いがありそうなのに、国際コンクールのレベルになるといきなり男女格差が解消されてしまうわけです。なんとも不思議です。毎年、日本からもけっこうな数の男の子たちがローザンヌコンクールには参加していて、日本でバレエを習っている男の子がこんなにいるのかと驚かされます。デビュー前の熊川哲也をはじめとして、時には決勝に残ることもあります。また、男女の裾野の広がりを考慮すると、ダンサーの技能レベルにも男女で開きがありそうですが、テレビ桟敷の私の目には男の子たちのほうが下手というふうには映りません。むしろ男の子のダンサーたちのほうが気合いが入っているようにすら見えます。さらにプロのレベルになったら、団員の半数近くが男性ダンサーでないと、クラシックバレエの場合、公演が成り立たないはずです。群舞は女性ダンサーがやるとしても、王子様も海賊も道化師もいないとなると、できる演目はごく限られてしまいます。プロの公演なんだから、こどもの発表会みたいにソロと群舞ばかり細切れにやってるわけにはいかないはずです。というわけで、いったい彼らはどこから現れるのか、こども時代の男女格差はどのようにして解消されるのか、不思議でなりません。なんだか、小麦と古シャツを放置しておくとネズミが発生すると信じていた中世ヨーロッパの生命観を連想したりします。

 こうした事情はバレエ関係者に聞けばわかりそうですが、突撃取材を試みるのはちょっと気がひけます。ほら、バレエ団やバレエ教室って、変質者の覗きが多そうだし、勘違いされるとやっかいです。それに「これはなんの調査なんですか」と聞かれたら、たんなる興味ですとしか言いようがないので、やはり勘違いされそうです。そこでひとまず、仮説を立ててみました。

1.本当はバレエをならっている男の子はそれなりにいる。とくに成城や芦屋のような高級住宅街には大勢いる。下々の者とは接点がないだけである。

2.男の子でサッカーでも野球でもなくバレエをやりたいというのは、よほどバレエへの思い入れがないとできない。親の趣味で習わされている女の子とは気合いの入り方が根本的に違うのである。近所のバレエ教室に通っている女の子のほとんどは、プロのダンサーをめざしてバレエを続けているわけではないが、男の子の場合、もっと本格的にバレエをやりたい、できればプロのダンサーになりたいと思っている子が多い。つまり裾野は小さくても少数精鋭なので、レベルが高くなるほど男女格差は自然と小さくなってくる。

3.プロのレベルになっても女性ダンサーのほうが圧倒的に多く、過当競争の状況にある。逆に男性ダンサーは常時不足しており、公演では毎回ひとり三役四役をかけ持っていて、公演の終わり頃には酸欠状態になっている。こうした男性ダンサーへの需要から、機械体操や他のダンスからバレエに転向してくるケースも多い。男性ダンサーの場合、ポワント(トゥ)で立たなくても良いので、高校生や大学生からはじめてもプロのレベルに到達するのは可能である。

4.バレエが女の子のものという現象は日本だけのものである。ロシアやヨーロッパのようなバレエが文化として深く根づいている社会では、男女問わず人気のある習い事である。

5.すべてのバレエ団は宝塚方式であり、団員は「娘役」と「男役」で構成されている。したがって、王子様も海賊も騎士もロミオもジークフリートもバリシニコフも熊川哲也もパ・ドゥ・ドゥーで支えているのも、じつはみんな「男役」である。

 つづけて高校生たちにリサーチしてみました。
「えええーっバレエを習ってる男の子ですか、女の子なら友達にいるけど、男の子はねぇ、やっぱりあのタイツ姿が抵抗あるんじゃないかな、あらステキなんて、いえそのあのなんていうか困っちゃいますよねぇってなんてこと言わせるんですか」

「あっ!いますいます中学の時の男子でいましたよ!もうバレエまっしぐらみたいな人で、気合いの入り方がぜんぜん違いました、そんなタイツが恥ずかしいとかまわりの目が気になるとかっていう次元じゃないんです、もう超越してるって感じで、誰もからかったりしません、あの気合いを見たら、冷やかしたりからかうなんてできません、からかわれるのは、本人が中途半端にやっていて恥ずかしがるからじゃないのかな」

「私の通っているバレエ教室に男の子はいないなあ、あっ、でも先生は男の人です、先生はどうしてバレエはじめたんだろ、今度聞いてみますね、ところで、もしかしてバレエを習いたいんですか、習いたいんでしょ、もっと正直になるべきです、いいと思いますよ、男の人のバレエ、きっと似合うと思います、本当です本当、そういえばいままで気づかなかったけど、バレエ教室の先生に雰囲気がなんだかよく似てますね、いつも黒い服着てるし」

「いません、きっとそういう本格的にバレエをやってる人は特別な環境で育ってるんですよ、公立中学や公立高校なんか通ってないだろうから、俺らとは接点がないです」
「でも、吉田都はすぐそこの北多摩高校出身だよ」
「ええぇー!って誰ですか、それ」
 というわけで、事情を知っているかた、ぜひ、メールください。これはたんなる興味ですが、同時に、この十年間、常に気になっている疑問でもあります。(2002)

 「リトル・ダンサー」というイギリス映画を観ました。物語の舞台はイギリスの田舎にある炭坑町。男たちはみな炭坑のストライキに夢中で男の子たちはボクシング教室に通っているというバレエには縁遠い土地柄。主人公の男の子も父親の言いつけでボクシングを習っている。そんなある日、ボクシングジムの半分をバレエ教室に貸すことになり、主人公の男の子はひょんなことからバレエのレッスンを受けることになる。まわりは女の子ばかりで男の子は彼ひとり。てれくさいがいざ踊ってみると楽しい。やがて彼はボクシング教室に行かなくなり、バレエのレッスンに通いはじめる。バレエ教室の先生も彼に熱心に指導してくれる。でもその一方で、彼自身、男のくせにバレエなんてという意識があって、家族や学校の友達にはバレエのことをかくしている。そんなある日、バレエのことを最も知られたくなかった父親に見つかってしまう。気の荒い炭坑夫である父親は血相を変えて彼を怒鳴り飛ばす。父親は自分の息子がバレエをやっているなんて許せない。それ以前に理解できない。あんなものは女のやることでお前も男だったらボクシングを続けるかサッカーかレスリングでもやれ……とまあそんな話で、イギリス労働者階級のジェンダー意識は日本と大差ないようです。子供の頃、なぜかやたらと空手を習わせようとした昭和ヒトケタの父を思い出しました。映画のほうは、息子のバレエへの熱意を知った父親は、やがて息子にロンドンのバレエ学校を受験させてやろうと応援するようになっていきます。登場人物たちの微妙で繊細な内面を描きだした良い映画でした。わき役の登場人物にも人間的な厚みを感じさせるのがイギリス映画の良いところです。それにしても「ブラス!」もそうでしたが、イギリスの炭坑町は閉鎖と首切りをめぐるストライキで大変そうです。というわけで、仮説の4番は消えました。高校生たちの証言から、本命2番・対抗3番・穴が5番というのが現状における当サイトの予想です。(2003)
 → 「リトル・ダンサー」オフィシャルサイト

 以前、カルロス・アコスタが「CBS 60 minutes」の取材を受けた際、「バレエをはじめたばかりのころは、男がバレエなんてとずっと思っていたよ、僕は本当は野球がやりたかったのにさ」と話していました。「あのタイツ姿については?」という問いには、「ああ、最悪だったよ」と応え、インタビュアーとふたりで爆笑していました。「サボってばかりでね、でも、行くと先生がアメ玉をくれるんだ、それが目当てで通っていたようなもんだったよ」とのこと。カルロス・アコスタはキューバ出身のスターダンサー。こどものころはかなりの悪ガキだったようです。「60 minutes」の取材は、彼が黒人ダンサーとしてはじめてロイヤルバレエ団プリンシパルに就任したのを受けておこなわれたもので、2000年の放送。「男がバレエなんて」という社会通念は、キューバもアメリカもやはり日本と大して変わらないようです。私も幼稚園の制服の紺のタイツが大嫌いでした。
 → Wikipedia「カルロス・アコスタ」

 以前、メールをくれた方がWebに「リトル・ダンサー」について感想を書いていたので、男の子のバレエダンサーについて尋ねてみました。
「少なくとも、仮説5は誤りです。私の友人にバレエを習っている男の子が確かにいました。立派なゲイです!女ではありません。彼は体が弱いことを理由に、お母さんにバレエに通わされたようで、結構長い間習っていたらしいのですが、それを男友達に言おうものなら、からかわれるので、ひたすら沈黙していた。と言っていました。しかし、彼の体型はまさしく、熊川哲也のような感じだったので、分かってる人が見ればバレエをやってる!とばれるような気がします。そういう観点から行くと、隠れバレエをやっているであろう男性を体型から探せるのではないでしょうか。ちなみに私の周りにはバレエをやっていたという男性は彼1人しかいないです。今のところ。」
 立派なゲイの人というのは、金の斧・銀の斧・鉄の斧で「鉄」を選んだり、大きな葛籠と小さな葛籠で「小さなほう」を選ぶ人という意味でしょうか。それはともかく、ココロはお姉さんという人もふくめると、5番はかなり範囲が広がります。なぜかは知りませんが、昔からダンサーは、美容師、ファッション関係者、映画評論家とならんでゲイの多い職業ということになっているので、あんがい5番は正しいのかもしれませんよって、なんだか偏見を助長しているみたいですが、そういう意図はありませんので悪しからず。当方、性的役割よりも個人の資質と嗜好が尊重されるべきだと考えています。

 「男のくせにバレエなんて」というジェンダー意識は、イギリスでは階級による差が大きそうですが、日本の場合、地域差が大きいように見えます。都心部へいくほどそうした抵抗感は薄くなり、地方へ行くほど「男のくせに・女のくせに」という感覚は強くなるという印象です。新宿の中学校では、休み時間になるとよく男の子と女の子が一緒に遊んでいて、彼らが手をつないで一緒にパフィを踊っている光景にはちょっとしたカルチャーショックをおぼえました。もしかしたら自分の知らないところで世の中は大きく変わりつつあるのかもしれないとその様子をみながら思いました。こういう地域では、バレエを習っている男の子がいてもまったく違和感がないわけですが、日本全体ではそうでないところのほうが多そうです。(2005)

 子供の頃バレエを習っていたという女性が職場にいたので、たずねてみました。
「ええ、小学校を卒業するまでね、バレエって習い事の中でもけっこうお金がかかるんですよ、レッスン料以外にも衣装にシューズ、それに発表会の度に会場の費用やら出し物の衣装やらなんやらで長く続けるにはそれなりに家が裕福でないときびしいのよ、フィギュアスケートに次いでお金のかかる習い事じゃないかな、まあヨーロッパみたいに国立のバレエ学校があるところでは事情がぜんぜん違うんでしょうけどね、うちは親が公務員でそんなに裕福じゃなかったからまあ小学校まで、本当はもうちょっとやりたかったんだけど、上のクラスにいくほどまた出費もかさむようになるのよ、で、いま、うちは息子がふたりいるんだけどね、小学校に入るくらいのころ、ふたりにバレエを習うよう熱烈にすすめたのよ、なんだか「母親の夢を息子に」って感じで恥ずかしいんだけど、元バレエ少女だったお母さんとしてはもう熱烈にね、バレエいいわよ楽しいわよ華やかで素敵よって「リトル・ダンサー」をふたりに見せたりして、男の子がバレエやるのはちっとも恥ずかしいことじゃないんだから、男の子のバレエダンサーってすっごくカッコイイわよ、それにバレエ教室はどこも男の子が不足しているから貴重な人材ってもう間違いなく大事にされるよ、かわいい子とも手をつなげるし、年上のお姉さんたちも優しくしてくれるし、大勢の女の子に囲まれちゃってもうモテモテ、バレエ教室行ってみない?どう?って、でも、ふたりとも絶対嫌だって言うのよ、母親の意気込みに逆に引いちゃったみたいで、嫌だ、絶対行かないって、こういうのは押しつけちゃダメね、お母さんはがっかりです」
 せっかくいいところに目を付けたのに、お母さん、残念でした。たしかに、クラシックバレエのクライマックスといえば、きまって主人公の女の子が王子様とふたりで踊るパ・ドゥ・ドゥーということになっています。白馬の王子様を待つ少女という設定は、女性の願望の具現化なのか、19世紀的道徳観によるものなのかはわかりませんが、「白鳥の湖」にしても「くるみ割り人形」にしても「眠れる森の美女」にしても、バレエではともかくそういうことになっています。王子様の登場しないバレエは、具のないおにぎりみたいなものなので、バレエ教室で男の子は貴重な人材として歓迎してくれそうです。こどもだからリフトはできないにしても、ひとりふたり男の子がいれば、発表会でできる演目も増えるし、なにかと重宝がられて大事にされそうです。ただ、「大勢の女の子たちの中に男の子は自分ひとり」というシチュエーションを、「女の子に囲まれちゃってモテモテ」と認識するか、「居心地が悪くて逃げ出したい」と認識するか、たぶん、たいていの男の子は後者ではないでしょうか。逆におじさんになると、ハーレムを妄想して悪代官と化し、セクハラで訴えられたりします。なので、お母さん、それをモテモテと解釈するのはおばさんの発想です。力説しても男の子には通じないと思います。

 ところで、男の子のいないバレエ教室では、もしかして本当に宝塚方式を採用して、ジークフリートやロミオを女の子が演じていたりするんでしょうか。プロの公演だと、まさかそういうわけにもいかないだろうし、男性ダンサーはいったいどこから、あ、話が元に戻ってしまった。問いを発してからもうずいぶんたちますが、いっこうに謎は解決しません。いちおう調べてはいるんですが、決定的情報にはたどりつけない状況です。ただ、日本では、高校生・大学生の上級クラスになっても、男性ダンサーはあいかわらず不足しているようです。これについては、次のコミュニティサイトによせられた声が参考になりました。興味深いので引用します。(2008)
 → OKWave「男の子のバレエ教室」
「私の息子はバレエをやっていました。
小学5年から中学3年まで教室に通いましたが高校で辞めました。
結論からいうとおおかたの教室では歓迎されると思います。バレエのストーリーには男役があるのですが、きわめて人数が少ないためできない演目が多いのです。また子供のときは男女の性差は少ないですから同じ役をやっても(チュチュとかのものは別として)あまり違和感のないものも多いので、なんとでもなります。
大学くらいまで続ければ(つまり女性を持ち上げることのできるほどの骨格になれば)良いバイトになる可能性もあります。
その年頃までバレエを続けている女性は発表会でソロを踊ることになりますが、多くの振り付けでは「持ち上げてくれる男性」が必要になるので、だいたいの場合お礼を出して頼んでいるのです。
最大の問題点は本人の意識です。まわりからあれこれ言われる可能性はあります。男の子がバレエをやっているというとほとんどの人は「バレーボールをやってる」と思うでしょう。
たまたま私の息子はものに動じないというか、全然平気でした。高校になって辞めたのは環境の変化により時間がなくなったのが原因です。そのときも先生からは「辞めないで」という呼びかけが熱心にありました。
まあともかくやらせてみて本人が気に入るかどうかを見るのがいいと思います。問い合わせれば男の子を受け入れるバレエ教室はいくらも見つかるでしょう。」
 男の子にバレエを習わせたいというお母さんはけっこう多いようで、こんなQ&Aもありました。
 → Yahoo!知恵袋「男ですがバレエを習わせたらダメですか?」

 ひとまず、いままでにわかったことをまとめてみます。

・日本でバレエを習っているのは、圧倒的に女の子が多い。
・日本でバレエ教室に通っているこどもたちのほとんどは、プロのダンサーをめざしているわけではない。
・日本でバレエを習っている男の子がからかわれるのは、今も昔も変わらない。
・「男のくせにバレエなんて」という認識は、イギリスにもキューバにもアメリカにもある。
・日本でプロのバレエダンサーになる若者たちは、中学生くらいのころに地元のバレエ教室からバレエ団の養成所へ移り、高度なレッスンを受けるようになるというケースが多い。
・地域のバレエ教室が踊る楽しさを目的にしているのに対して、バレエ団の養成所では、プロのダンサーを養成することを念頭に置いて、高度な指導をしている。
・吉田都が世界的に活躍するようになったことで、日本のバレエ状況は大きく変わった。現在では、国際コンクールをへて海外のバレエ学校へ留学し、海外のバレエ団で活躍している日本人ダンサーも多い。
 → 毎日新聞「時代を駆ける:吉田都」

・近年では、中学生くらいから海外のバレエ学校へ留学するという若者も多い。
・日本では、高校生・大学生の上級クラスでも、男性ダンサーは不足している。
・ところが、クラシックバレエを中心に公演しているバレエ団では、日本でも海外でも基本的にだいたい男女同数である。人手不足のために男性ダンサーがひとりで三役も四役もかけ持つということはない。
・ただし群舞は女性が踊る場面が多いせいか、コール・ドの人数はプロのバレエ団でも女性のほうが多め。
 → 新国立劇場バレエ団 シーズン契約ダンサー
 → スターダンサーズ・バレエ団 ダンサー紹介
 → チャイコフスキー記念東京バレエ団 STAFF & DANCER
 → 牧阿佐美バレヱ団 ダンサー紹介
 → Kバレエ カンパニー メンバー情報

・バレエ団やその付属学校は、プリマを頂点としたピラミッド型のヒエラルキーを構成している。そのシステムは、階級制による序列と内部での激しい競争が特徴で、大相撲のしくみによく似ている。幼いころから厳しいレッスンを続けても、バレエ団に入ってプロのダンサーになれるのはひとにぎりであり、それについても、相撲部屋に入門する若者の中で関取になって給料をもらえるようになるのはほんのひとにぎりという大相撲の世界と共通している。

・プロのダンサーを育成するためのヨーロッパやロシアのバレエ学校は、日本のバレエ教室とは大きく様子が異なる。パリ・オペラ座の付属学校は1990年代に全寮制を廃止したが、ロシアのバレエ学校は現在も全寮制をつづけており、生徒たちは24時間バレエづけの日々をすごす。朝、起床とともにウォーミングアップ、9時にはレッスンがはじまり、合間に学科の授業をはさんで、レッスンは夜9時までつづく。もちろん遊んでいる時間などない。クラスメイトは友達というよりもライバルで、仲が良くても互いに一定の距離を置いている。レッスンはおどろくほどスパルタ式で、指示されたことができない生徒には教師から叱責が飛ぶ。叱られて泣く子、できない自分へのもどかしさにべそをかく子。そこではプロのレベルに到達できるかどうかが評価基準のすべてであり、見込みがないと判断された生徒については容赦なく退学が宣告される。「こども時代をのびのびと」というルソー的価値観や「できない子はできないなりに」という学校的平等主義は存在しない。評価はバレエの技能だけでなく、レッスンに取り組む熱意はもちろん、容姿や体型にもおよぶ。太ってしまってダンサーの体型が維持できない者も学校から去るよう告げられる。生徒たちは幼いうちから常にプロの審美眼にさらされ、競わされ、評価され、選別される。そのプレッシャーで、拒食症になってしまう生徒も少なくない。小学校低学年くらいの痩せた女の子は、インタビューに「これ以上太ったら学校をやめさせられちゃうから、もっと減量しないといけないの」と話す。そのあまりの厳しさにドキュメンタリーフィルムを見ながら唖然する。ただ、バレエ学校の教師にしてみれば、バレエはあくまでひとつの特殊な世界なんだから、この子はプロにはなれないと判断したら、早めにそれを宣告して他の道を示したほうが本人のためで、ずるずると期待を持たせたまま在籍させるほうが残酷だと考えているのかもしれない。ヨーロッパやロシアのバレエ学校は、基本的にこうしたプロのダンサーの養成所で、「こどものお稽古ごと」としてのバレエ教室は日本ほどさかんではないようだ。

・ロシアのワガノワ・バレエアカデミーの場合、毎年、入学希望者は数千人。そのうち入学できるのはわずかに60人。小学校・中学校・高校に相当する9年間の教育課程の中で、多くがふるい落とされ、卒業時に在籍しているのは約半数。さらにそこからプロのバレエ団に入れるのはひとにぎり。こうした状況は、パリ・オペラ座付属バレエ学校でも、他のバレエ学校でも変わらない。パリ・オペラ座バレエ学校の教師は、ドキュメンタリーフィルム「エトワール」の中で、バレエ学校のシステムについて、プロのダンサーを育成するしくみとしてきわめて有効であると認めつつ、その一方で、生徒にこども時代のすべてをバレエへ捧げることを要求し、ごく幼いうちから徹底的に競わせ、心理的にも肉体的にも追い込んでいくことのいびつさも指摘する。「バレエ学校のシステムは、ひとりのすぐれたダンサーを育てるために大勢の若者の夢を踏み潰していくしくみね、それはまるで弱者をすり潰し、ふるいにかけて落としていくための巨大な装置のようなものよ」。
 → ロシア国立 ワガノワ・バレエ・アカデミー 第14回 留学生オーディションのご案内
 → Amazon.co.jp「エトワール デラックス版」
 → BS世界のドキュメンタリー「犠牲の先に夢がある 〜ロシア国立ペルミバレエ学校〜」

 といったところです。バレエ学校の厳しさは衝撃的でした。ローザンヌのコンクールで解説をしていた女性校長の口の悪さもフィルムを見ながら納得しました。もし彼女が芸術至上主義に凝り固まった人間で、一流のダンサーになれそうもない若者たちを見下しながら毒舌を吐いているとしたらただの嫌味なババアですが、バレエをひとつの特殊な世界ととらえているなら、あれもありかなと思います。映画にも登場する彼女は、学校でもあの調子でしたが、生徒たちからは慕われているようでした。こうしたバレエ学校の厳しさを見ると、「こどものお稽古ごと」としてのバレエ教室とは完全に別の世界のように見えます。地域のバレエ教室に通っている女の子が日本にいくらいても、プロのダンサーの裾野にはならないのではないかという気がしてきました。そこで、新たに6つめの仮説をくわえることにします。

6.日本でさかんな「女の子のお稽古ごと」としてのバレエ教室は、踊る楽しさをつたえることが目的で、プロのダンサーを育成するためのものではない。地元のバレエ教室に通っている多くのこどもたちもプロをめざしてバレエを習っているわけではない。そのため、そうしたバレエ教室での男女比がたとえ1対100だとしても、プロのダンサーの人材育成にはほとんど影響がない。プロのバレエダンサーの裾野になっているのは、日本では、バレエ団の養成所であり、海外では国立のバレエ学校である。また、近年では海外のバレエ学校へ留学している日本の若者も多い。このようなプロのダンサーをめざしてバレエに取り組んでいる若者たちについては、男女でそれほど大きな格差はない。国際コンクールには、そういう若者たちが参加するので、事情を知らない者には、男の子のダンサーが手品のハトのようにいきなり現れたかのように見えるのである。

 今回はわりと良いところをついているんじゃないかと思います。ただ、「プロのダンサーになりたい」とバレエ団の養成所や海外のバレエ学校の門をたたく男の子たちについて、なぜ彼らがそこまでバレエに惹かれるのかは依然としてよくわかりません。また、地元のバレエ教室を経ずに、いきなりプロのバレエ団の養成所や海外のバレエ学校へ入るなんていうことがあるもんなんでしょうか。でも、そうでないと地域のバレエ教室の男女格差はどこまでもついてくるので、バレエ団の養成所でも国際コンクールでもプロのバレエ団でも、差は縮まらないはずです。さらに、本格的にバレエに取り組んでいる若者では、本当に大きな男女格差がないのかもはっきりしません。色々調べてみたんですが、バレエ団の養成所や海外のバレエ学校の男女比がどのくらいなのかわかりませんでした。バレエ学校のドキュメンタリーフィルムは、きまって女の子が主人公なので、男の子たちは画面の端に写っているだけで、どのくらいの人数がいるのかもわかりませんでした。唯一はっきりわかったのは、吉田都のように、公立高校へ通いながらバレエを続け、国際コンクールをきっかけに世界へ羽ばたいていったというのは、かなり例外的なケースだということ。多くのダンサーは中学卒業と同時にバレエに専念するか、より幼いうちから海外のバレエ学校へ留学するケースが多いようです。「そういう本格的にバレエをやってる人は特別な環境で育った人だから、俺らとは接点がないです」という高校生の指摘は、案外事実を言い当てているのかもしれません。というわけで、もやもやした疑問があいかわらず消えません。20年におよぶこの疑問にもそろそろ決着をつけたいところです。バレエにくわしくない者同士で「不思議だ」と言いあいながら、奇妙な仮説を立てているのにもあきてきました。事情をご存知のかた、メールください。(2009)

 73.西洋人は狩猟民族?

 奇妙なことに、日本では、「西洋人は狩猟民族である」という認識が定着しています。たいていの場合、西洋人は狩猟民族だから攻撃的で自己主張が強く、日本人は農耕民族だから温和で集団の協調性を重んじるといった調子で、良くも悪くも日本人のユニークさを強調する文脈でこの手の発言を目にしたり聞いたりします。でも、多少の世界史の知識がある人なら誰でも、ヨーロッパ社会の経済基盤がはるか昔から狩猟採集ではなく、農耕と牧畜にあったことは知っているはずです。地中海地方の農耕は数千年前にはじまり、もっとも古い歴史を持つ農耕・牧畜地域のひとつだし、北部フランスやドイツでもキリスト教の定着した中世初期には、麦の畑作と羊や牛の牧畜を組みあわせた農業がすでにはじまっていました。和辻哲郎の分類を持ち出すまでもなく、グリムやペローの童話に羊飼いや農夫や粉挽き屋のおやじさんがしばしば登場することからも、中世ヨーロッパが農耕社会だったことは明らかです。なんてことを説明するのも口はばったいくらい誰もが知っている常識だと思うんですが、それにもかかわらずなぜか「西洋人は狩猟民族」という言葉だけが一人歩きして、西洋史の基礎知識と同居しつつ不思議なことに定着しているようです。

 おそらく、明治期の文化人あたりが当時のいいかげんな知識で「西洋人は狩猟民族」と言いだしたのがはじまりじゃないかと想像しています。肉食の習慣のなかった当時の日本人が、西洋の肉料理におどろいて、肉食ってるから自己主張が強くて体が大きくて攻撃的なんだとかなんとか。どうひいきめに見ても酒の席の与太話のたぐいとしか思えないんですが、なぜか現在に至るまで通用しています。そもそもヨーロッパといっても地域ごとの文化的な差異は大きいので、イタリア人でもドイツ人でもイギリス人でもなく、「西洋人」と大ざっぱにくくってしまう時点で、もうすでにシリアスな社会批評にはならないはずなんですが、話す方も受けとめる方もそれを馬鹿話とは思っていないケースが多いようです。黒船来襲以来、日本社会に根強く残る西洋コンプレックスと国粋主義のなかで、日本人の特異性を強調するのに便利だったために使われ続けているんじゃないかと思うんですが、この奇妙な文明観・民族観がどういういきさつで現在まで生きのびているのか興味深いところです。その辺の経緯をご存知でしたら、ぜひご一報を。

 現在の地球上で、本当の意味での狩猟生活者というのは、アラスカやカナダのイヌイットとカラハリ砂漠のサン族、あとオーストラリアのアボリジニーくらいしか存在しません。彼らは非常に優れたハンターたちです。とくに北極圏のイヌイットたちは農耕が不可能な土地で暮らしているため、完全な狩猟民で、伝統的な食事はほぼ生肉のみです。植村直巳が犬ぞりで北極点をめざしたとき、三度の食事は地元のイヌイットにわけてもらったアザラシの生肉だったと話していました。(内臓を生で食べることでビタミンやミネラルも補給できるそうで、臭いにさえ慣れれば栄養的に「完全食」だそうです。)しかし、そうしたイヌイットやサン族やアボリジニーたちが暴力的で自己中心的だといういう話は聞いたことがありません。もしも狩猟民が自分勝手で暴力を好む傾向があるなら、生肉しか食べないイヌイットたちは「マッドマックス」や「北斗の拳」に登場する荒くれ者みたいに近寄るのも危険な集団になっているはずです。テレビのドキュメンタリー番組で、サン族の男たちがヌーの仲間を狩る場面を見たことがありますが、その狩りは銃の威力に頼らず、仲間同士の連携によってねばり強く追いつめていくというものでした。村の男たちが5人程度の小さなグループを作り、数日かけて獲物の群れを追跡し、その中の一頭を追いたてるためにグループ内では細かく役割分担が決められ、最後は獲物がくたびれるのを待って仕留めていました。このような伝統的狩猟では、仲間同士の密接な連携が不可欠で、わがままやスタンドプレーの入る余地はなさそうです。小柄なサン族の男たちは、粗野な乱暴者でも自慢話を吹聴する自己顕示欲の持ち主でもなく、素朴で穏和な人々に見えました。狩猟民を粗野で自分勝手な人間と見なす意識は、近代以前から日本社会にあった里者が山の民に抱く蔑視と明治期に輸入された狩猟採集社会から農耕社会を経て近代文明に至るという一本道の19世紀的文明観とが合わさってできあがっていったのではないかと想像します。「西洋人は狩猟民族だから自己中心的なんだよ」という発言の根底にある「西洋」と「日本」の乱暴な2項対比の図式には、世界各地の伝統的狩猟民への文化的理解がまるっきり抜け落ちているというか、あえて無視しているように見えます。もしかしたら、この手の発言をする人の頭の中には、「人喰い人種」の住むアフリカや南太平洋という茶色く変色した19世紀的世界地図が存在しているのかもしれません。なので、目の前の人が「西洋人は狩猟民族だからさ」と真顔で言っているのを聞くと、私、背中に冷たい汗が流れるのを感じます。(2003・2006)

【追記】「狩猟民族」をキーワードにGoogleで検索すると、最初にヒットしたのが次のふたつでした。
 → 農耕民族と狩猟民族の特性について No.1
 →  Yahoo!知恵袋「農耕民族と狩猟民族」

 ひとつめのリンクは、福岡で整体教室やら健康食品やゲルマニウムなんたらやらを販売しているところがつくったWebサイトで、日本人(農耕民族)と欧米人(狩猟民族)の特性のちがいが詳細に対比され、一覧表にまとめられています。神秘的なトンデモ理論のオンパレードで、なかなか楽しめます。筆者は日本人のユニークさと日本の伝統文化のすばらしさを訴えたいようですが、国籍によってくくられる人間集団と人種(らしきもの)でくくられる人間集団とを対比させることの非論理性に思いが至らなかったようです。

 ふたつめのリンクはYahooの質問サイトで、質問のほうはいたってまともですが、珍解答続出でこちらも大笑い。例えばこんな感じ。
「「日本は農耕民族」と言われますが、其れは江戸時代の記憶からです。当時、誰もが米作に駆り立てられた。しかし稲作渡来以前は永く太陽信仰で定住して採集する暮らしでした。其れに対して月を祭る大陸のシナは米作など「農耕民族」でした。此処は装置産業です。収穫まで年月が掛かるので移動はしない。更に月や星は太陽と違って主として夜の神です。よって日本では夜見の国と言って黄泉の国の字を充てた。特に欧米人は伝統的に「狩猟民族」でした。獣は夜行性であり、其れを飼う民族も季節によって移動した夜間に移動するので星明かりを頼りにします。よって彼等は国旗に星のマークを飾る。こうした種族は機動力を持ち、好戦的なため、各地で大文明を滅亡して来ました。だが日本人は伝統を守って永い歴史を綴って来ました。他国を滅ぼしたのではなくて諸国を独立させて来ました。」
 前半は何いってるんだかわかりません。装置産業ってなんだよ。「欧米人は夜行性」というこのびっくり理論をがまんしながら読み進めると、どうやら解答者は、日本軍の八紘一宇が侵略戦争の口実ではなく、「好戦的な狩猟民族である欧米人」からアジアを救い、植民地からの独立を支援するものだったと訴えたかったということが解読できます。日本人ユニーク論が右翼思想と結びつきやすいことの典型的な例ですね。解答者は神話と民族起源とが渾然一体となった世界と物語を思い描いているようで、なかなか壮大なイマジネーションです。太陽神ラーを主神として祀っていた古代エジプトも諸国を独立させていたんでしょうか。その壮大でユニークな世界観の中で古代エジプトがどう解釈されるのかも聞いてみたいところです。またこんな珍解答も。
「英米人は牛肉のステーキをよく食します。ゲルマンの本家ドイツの名物料理はソーセージですね。このように彼等の食文化には今でも狩猟民族としての伝統が息づいています。また、同じ欧米と言ってもラテン系のイタリアでは小麦が主食だからパスタ料理が広く食されています。イタリアは欧州における典型的な農耕民族でしょう。このようなゲルマン系=狩猟民族=肉食、ラテン系=農耕民族=穀類食という区分けは、古代ローマ帝国の時代から程度の差こそあれ、現代に至るまで厳然と続いているのです。食事は人間個人は勿論ですが、民族的個性を生み出す重要な源泉のひとつです。食事が肉食中心なのか穀類中心なのかという食文化の違いが、文化の中心が農耕なのか狩猟なのかという問題から影響を受けていることは間違いないでしょう。(中略)普段の食事内容や代表的料理を観れば、農耕文化が中心の民族なのか狩猟文化が中心の民族なのかという色分けは可能であり、それが身体的特徴や思考方法の特徴にも影響していると考えられている以上、決して無意味な分類方法ではないでしょう。」
 一見論理的に展開しているようですが、「イギリス人やドイツ人が肉食中心なのは狩猟民族としての伝統である」という間違った出発点から展開しているために書き進むほど間違った方向へ行ってしまっています。食生活の違いは、地理的要因・気候・農業形態・宗教が絡みあって形成されてきたもので、数千年前の祖先の暮らしぶりとは関係ありません。例えばノルウェーやアイスランドの住民の多くは、イギリス人やドイツ人と言語的に近いバイキングの末裔たちですが、海辺に面しているために漁業がさかんで食事にも魚料理が多く出ます。ドイツの場合は、多くの地域が内陸に位置していることに加えて、農業形態が畑作と牧畜とを組みあわせた混合農業であるため、肉料理が多くなったわけです。ほら、「アルプスの少女ハイジ」で、フランクフルトのお屋敷に奉公したハイジがペーターのおばあさんに「白パン」を食べさせてあげたくて、自分の白パンを毎日残していたっていうエピソードがあったでしょ。ヨーロッパでも北方に位置するドイツや高地のスイスでは小麦の収量が少ないため、精白された小麦から作られる白くて柔らかいパンは、20世紀半ばまで贅沢な「ごちそう」でした。これは小麦の生産に適した地中海地方とは食糧事情が違うということであって、べつに狩猟民族の血が騒いでソーセージづくりに精を出したわけでもないし、農耕民族の血がパスタや寿司を普及させたわけでもありません。ドイツでは、寒い気候に適した農業が発展した結果、肉料理とジャガイモ料理が名物料理になったわけです。また、日本で明治の「文明開化」以前に肉料理が普及しなかったのは、仏教による肉食の戒めが広く定着していたためだし、和食に肉料理が少ないのも精進料理の影響が大きいからです。数千年前の祖先が農耕中心の生活をしていたかどうかとはまったく関係ありません。こうしたもろもろの事情を考慮せずに、肉料理中心の食事を狩猟民族の伝統に由来するといってしまうのはあまりにも乱暴というか、完全に与太話です。そもそも「民族」という概念は、「人種」と異なり、身体的特徴をともなわずきわめて流動的で、かつ近代以降に人為的に形成された人間集団だということをこの人は学校で教わらなかったんでしょうか。先にあげた解答者もふくめて、もしかしたら「日本人は神世の時代から大和民族というひとつの人間集団だった」という民族神話を学校で教わった気の毒な世代なのかもしれませんが、遺伝子解析でホモサピエンスの移動してきた道程をたどれるようになった現代においても、いまだにこういう民族観を抱いているのは知的怠慢です。それにこの人、出発点の「食文化は狩猟民族としての伝統に由来する」という主張をなんら証明していないにもかかわらず、先に進むほど「現代に至るまで厳然と続いている」「間違いない」と語調を強めて、最後までなにも根拠を示さないまま「農耕民族・狩猟民族という分類方法は決して無意味なものではない」という結論に至っています。語調を強めれば説得力を得られると思っている論理的思考の欠如した人のようです。血液型占いは「厳然と」科学に基づいた性格分類だと声高に主張している人を連想します。「ベストアンサー」に選ばれた解答にしても、「牧畜民は物への執着が強いため、ヨーロッパやイスラム圏で貴金属を身につける文化が根づいた」と怪しげな説をとなえています。おいおい。
「農耕・定住の場合は,土地に対する執着が強いのに対し,牧畜・移動の場合は,物への執着が強いと言われています。牧草を求めて常に移動するわけですから,貴金属などは肌身に付けておく。イヤリングやネックレスなどが,ヨーロッパやイスラム圏で盛んなわけです。そういうところから,私有財産(この場合はモノ)に対する意識も強いのです。」
 貴金属で身体を飾る文化が牧畜の民の文化に由来するという説は、私、生まれてはじめて聞きました。牧畜民にとっての財産は貴金属ではなく家畜です。たくさんの家畜を所有することは、牧畜民にとって生活保障であり、富の象徴です。なので、牧畜民に所有する羊やトナカイの頭数をたずねることは、銀行預金の残高をたずねるようなもので、きわめて失礼な行為にあたります。現在も伝統的牧畜を続けている人々に、トナカイの放牧をしている北欧のサーメ(サーミ)の人々、シベリアのいくつかの少数民族、羊の放牧をしているモンゴルの一部の人々などがありますが、彼らがモノへの執着心が強くて貴金属の装飾品が大好きという話は聞いたことがありません。もっとも私が知らないだけで、「ムー」では常識なのかもしれません。
 → Wikipedia「サーミ人」
 → サーミ人の生活と文化

 Yahooの質問コーナーには、「農耕民族・狩猟民族」について同様の質問がいくつも上がっていて、その多くにくらくらするような珍解答がよせられています。はじめは笑いながら読んでいたんですが、だんだんアタマが痛くなってきました。
 → Yahoo!知恵袋「日本人と西洋人の気質の違いを説明する時に良く使われる言葉に……」
 → Yahoo!知恵袋「日本人は農耕民族で、どこの國は狩猟民族で、っていう俗説が……」
 → Yahoo!知恵袋「農耕民族と狩猟民族」
 → Yahoo!知恵袋「日本人と西洋人の気質の違いを説明する時に良く使われる言葉に……」
 → Yahoo!知恵袋「日本人は農耕民族で、欧米人は狩猟民族。では宇宙人は何民族なんですか?」

 まるっきり同じ質問文が別のジャンルにマルチポストされてますが、解答は異なっています。質問者がマルチポストするほどこの問題について切実に悩んでいたためなのか、コピペして質問をあちこちにまき散らすとYahooのポイントや得点がもらえるからなのかはよくわかりません。あ、最後の「宇宙人は何民族」は皮肉がきいていて笑えました。サイア人は戦闘民族です。ときどき金髪になったりもします。

 というわけで宇宙人まで登場してオチもついたし、いちおうポイントをまとめてみます。

1.民族(nation)という概念は、近代ヨーロッパで人為的・政治的に形成された概念である。近代初期の絶対王政による王権の拡大にともなって、それまでの領地ごと・村ごとに分断していた人々の帰属意識が変化し、似たような言語・似たような文化をもつ人間集団を「民族(nation)」という大きなくくりでひとつの国にまとめようとする動きが生じる。18世紀末のナポレオン戦争を期にこの動きは加速し、19世紀ヨーロッパにナショナリズム(nationalism)の高まりをもたらす。したがって、民族集団の形成においては、文化的同質性についての客観的な分析よりも、「人々がそう感じている」という主観的認識のほうが重要である。そう感じていなければいくら言葉や宗教が同じでもひとつの民族集団とはいえないし、逆に互いに同質性を感じていれば文化的背景が多少違っていてもそれはひとつの民族集団ということになる。明治期の日本でも、国家建設にあたってこの民族という概念が輸入され、政府によって「日本人」という民族意識の形成がすすめられる。そのひとつが国つくり神話で、神世時代のはるか昔から日本人がひとつの民族だったという物語が学校でさかんに教えられ、日本人意識の形成をうながした。民族がたんに「近代に政治的に形成された人間集団」であるという身も蓋もない事実だけでは、所属する人々の帰属意識や忠誠心を高めることができない。そのため、ナショナリズムが高まった社会では、常に民族神話や民族の英雄といった物語が必要とされ、近代以前のはるか昔から面々と続いてきた人間集団であるという幻想が形成される。日本で国つくり神話や元寇での神風がさかんに教えられたように、19世紀のドイツではゲルマン神話やライプチヒの戦いでの英雄的活躍がもてはやされた。

2.日本語の「民族」はきわめてあいまいな言葉で、日常的には、nationだけでなく、近代国家(nation)などなかった時代の人間集団、あるいはある特定の地域で同じような伝統的生活を営んでいる小集団(ethnic group)についても用いられる。さらに、先にあげた日本人と西洋人を表にして対比させているWebサイトのように、場合によっては身体的・遺伝的な人間の特徴である人種(race)の意味で用いられることもある。このあいまいさが混乱をもたらしている。例えば「日本人は農耕民族」という言いかたをした場合、「日本人」というnationと「農耕の民」というethnic groupとが混同され、結果的に日本人というnationがひとつの巨大なethnic groupであるかのように誤用される。つまり、ethnic groupのように古くから自然発生的に人間集団を形成し、そこに属する者同士が仲間意識を抱いているかのような誤解をもたらすことで、ナショナリズムを助長する効果をもたらす。「日本人のDNAに刻まれている」という近頃しばしば耳にする言い回しでは、遺伝学的にも日本人のユニークさが規定されているかのよう表現され、民族という概念をいっそう混乱したものにしている。このような「日本人は○○な民族」という言い方は、「民族」という言葉のあいまいさによって、ナショナリズム幻想を補強する作用をもたらしている。

3.「農耕民族」「狩猟民族」「遊牧民族」などなど、こうした言い方は人間集団の概念に混乱をもたらすだけだ。近代以前の生活形態に「民族」という言葉をあてるべきではない。というよりも、「農耕民族」や「狩猟民族」なんて言いかたをする時点で、nationの概念もethnic groupの概念も理解していませんと表明しているようなもので、恥ずかしいからやめましょう。人間集団は流動的で、何千年も同じ生活形態を続けながら固定的な集団を維持してきたわけではない。

4.肉食ってるから狩猟民族ってなんなんだよ。バカまるだし。アンタは牛鍋に目を丸くした明治の人間か。肉料理がその国の名物料理であることと数千年前の祖先が狩猟生活をしていたかどうかとはまったく関係ない。同様に和食に肉料理が少ないことも数千年前の祖先が農耕生活をしていたかどうかとは無関係。和食に肉料理が少ないのは仏教の戒めと精進料理の影響によるものだ。

5.タキトゥスが「ゲルマニア」に書いたからって、ゲルマン人が2000年前から民族だったわけではない。ライン川のあたりに住んでいる諸々の部族(ethnic group)をひっくるめて、彼らをよく知らないローマ人たちが「ゲルマン人」と呼んだだけ。ドイツナショナリズムは18世紀末のナポレオン戦争と19世紀の普仏戦争によって急激に盛りあがったもので、はるか古代からゲルマン民族として集団を形成し民族的連帯を維持してきたなんてナチスのつくったおとぎ話。いまどき「ゲルマン民族の血統」なんて言い出す人は、「家畜人ヤプー」の愛読者かネオナチ、あるいはその両方で「愛の嵐」のシャーロット・ランプリングにエナメルのハイヒールで踏みつけてほしいと思っている人物である。


6.同様に「大和民族」も19世紀に発明されたオカルト的民族観にすぎない。近代以前、この島々には、征服と政治的圧力によっていくつものethnic groupが合わさってできた「大和系の人々」という不均質であいまいな人間集団があっただけで、「大和民族」も「日本人」もそこには存在しない。古代や中世の人間集団ついて、日本史や東洋史の研究者まで民族という言葉を無頓着に使うことがあるが、この「民族」という日本語の混乱した概念にもっと注意するべきだ。ラテン、スラブ、ゲルマン、アラブなどと同様に「大和系の人々」も文化や言語のタイプをあらわすもので、ひとつの固定した人間集団ではない。ラテンといえばダンスとミュージックであって国籍も肌の色も関係ないでしょ。

7.でけっきょく、いったい誰が日本人は農耕民族で西洋人は狩猟民族なんてオカルト人類学を言いだしたのか。有力な容疑者として上がっているのが、山本七平の「日本人とユダヤ人」。あ、そこのアナタ、うんざりした顔でいま「ああ、あれかぁ」って言ったでしょ。私も山本七平の名前を聞くだけで気が滅入ります。まあいかにもありそうなんだけど、ただ、山本七平がイザヤ・ベンダサンという偽ユダヤ人に扮して「日本人とユダヤ人」を書いたのが1970年。そう古いものではない。この種の言説にはもっとルーツをさかのぼれるのではないかという気もする。ともかく、300万部のベストセラーになったこの本が与えた影響はそれなりに大きいと考えるべきだろう。こうした単純化された人間の分類は血液型占いと同様にわかりやすいだけに、論理的思考のできないある種の人々に好まれ、定着しやすい。それにしても、レヴィ=ストロースが「構造人類学」を発表したのが1958年、それから10年以上たってもなおこんな本が300万部も売れて日本人の文明観に影響を与えたと思うと絶望的な気分になる。もちろん、信教の自由という意味では、日本人農耕民族説も血液型占いも動物占いも天照信仰も水晶ドクロもアポロ月面中継特撮説も、等しく保障されている。でも、この種のオカルト人類学があまり大きな顔をしてのさばると鬱陶しいし、ナショナリズムと結びついて奇妙な言説をまき散らすようになるときわめて厄介なので、せめて、こうした話題を持ち出す人はどうか自分の愚かさを自覚して、多少の後ろめたさと恥ずかしさを感じながらひっそりと話すようになりますように。ついでにいつかうちの母親の本棚から血液型占い本のコレクションがすべて消える日が来ますように。来年の七夕には短冊にそう書こう。ご静聴長々とどうも。 (2008.7)
 → Wikipedia「民族」 読むべし!
 → Wikipedia「ゲルマン人」 これも!
 → Wikipedia「イザヤ・ベンダサン」 読みたくないでしょうが
 → entee memo 「農耕は殺戮する」Returns! 今も残る山本七平の「民族論」の罪科

 74.寿限無トワイライトゾーン

 大学院の学生だった頃のことです。学生がひとりしかいない近代西洋思想の演習で毎度のごとくフランス語の発音のひどさについてネチネチと皮肉を言われつつどうにかこうにか90分間終え、いつものようにA定食と揚げ出し豆腐を昼夜兼用の食事にして腹ごなしにぶらぶらしていると、羽織袴のお兄さんに呼び止められました。お兄さんは「落研・新人落語会」と書かれたのぼりを持っています。「これから新入部員の落語会がはじまりまーすヒマそうなアナタ覗いてやってくださいなもちろん無料ですええすぐそこの201教室ですええかわいい女の子も出演しますよええええはいはいぜひぜひ」とまくしたてられ、覗いていくことにしました。だだっ広い201教室に客はぱらぱら、ちょうどこれから一人目がはじまるところのようで、「寿限無」と筆書きされた演題が出てきました。じゅげむじゅげむごこうのすりきれっていう小学生の早口言葉みたいな入門者定番のあれです。いまだかつて寿限無を聞いて笑ったことなどありませんが、それは寿限無をやるのが下手と決まってるせいなのか、寿限無の話そのものがつまらないのかは微妙なところです。名人だって寿限無で話に引き込んだり爆笑させるのは難しいような気がします。円生や志ん生の寿限無が存在するなら聞いてみたいもんです。そんなことをぼんやり思っていると、まもなく、桜色の着物を着た女の子が入ってきました。呼び込みが言っていたかわいい女の子というのは彼女のことだろうか、いやまあそれは別にいいんです。

 見るからに地方から出てきたばかりという雰囲気の女の子で、小柄で丸顔でほっぺたがちょっと赤くなっていて、なんだかやけに初々しい感じです。彼女はぎこちないしぐさで教卓のうえの座布団にあがり、かたい表情のままぺこりと頭を下げました。ぱちぱちぱち。「んがえぇ……おんがらいをいっいっいっせき……カチン」何やら滑舌が変です。カチンってなんだろ。思わず彼女を見ると、真っ赤な顔をして目の焦点が合っていません。極度の緊張状態のようです。「ええぇ……カチッ……縁起のいい名前……というのがあっあっありますが……こっ子供の……名前というのはカカカッカチン……」。カチカチという音は彼女の歯が鳴る音でした。ひええ。彼女の緊張は話しはじめてもまだほぐれてこないようで、むしろ自分がとちっていることにあせっていっそう緊張している様子です。真っ赤な顔で額から汗を流しています。落語が好きってわけじゃないけど人前で話す練習になるからと勘違いして落研に入部してしまったまじめな人なんだろうか。30人程度入っている客たちも彼女の緊迫感が伝染して石のように固まっています。201教室は水を打ったように静まりかえり、彼女の歯の鳴る音が響きわたります。「四光五光ってのは……しっ知ってますけど……カッおしょうさん……擦り切れってなんですかカカッ……おっお前さんのカチッ……言っておるのは……はっ花札ではないか……五劫の擦り切れ……こんな言葉はよほど学が無いと……でっあっカチッカチッカチッ……」。ねえちゃんどうしたい入れ歯が合ってねえのかなんて客席から声でもかかれば場がなごむんですが、そんな度胸は私もふくめて誰もないようで、重たい雰囲気の中、苦行のような寿限無がつづきます。話のなかば、とうとう彼女は止まってしまいました。アタマがまっ白になってしまったようで言葉が出てきません。いちだんと赤い顔で目に涙を浮かべ、ゼンマイの切れかかった人形みたいに口をパクパクさせています。永遠に感じられる数十秒間でした。生まれてこのかたあんなに緊張したのはこの時だけです。一種の極限状況で私もいっしょに泣きそうでした。

 ともかく彼女は最後までやりとげました。あの時、話の途中で彼女が声を上げておいおい泣きだしていたらどんなに楽だったろうと思います。人前で大っぴらに自分の感情をさらけだせる人はあんなに緊張しないもんです。彼女は感情を押し殺し、目に涙を浮かべつつ最後までやりとげました。根本的にお笑いに向いていない人に思います。最後のじゅげむじゅげむごこうのすりきれと早口でくり返すくだりになると突然流暢になりました。さぞかしたくさん練習したんでしょう。じゅげむじゅげむごこうのすりきれとくり返す彼女は、能面をかぶったように無表情でした。彼女の後には3人くらいの新入生が続きました。最初の寿限無とは打って変わってそつなくやっていましたが、もはや落語を聞ける精神状態ではなく、内容はまったくおぼえていません。時折、廊下から寿限無の彼女のすすり泣く声が聞こえてきて、トワイライトゾーン体験のような一時間でした。

 そんな寿限無の彼女のような人がいる一方で、「いまキャンペーンやっていまーす」と道行く人にたかい英語教材を売りつけるおねえさんもいます。こちらのおねえさんは緊張や動揺とは縁のない様子で、立て板に水のごとくセールストークをまくしたてて強引に自分のペースに引き込みます。ザ・プロフェッショナル。セールスにたずさわっている人たちに特有の分厚い鉄仮面をつけて、パーソナリティを見せず、獲物を仕留める話術に徹します。セールスの度に自分の内面をさらけ出したり相手の反応に傷ついたりしていては精神的にもたないので、こういうスタイルがしだいに身についていくんでしょうが、やっぱりこういう人と話をしたときも異次元体験を味わうことになります。

 75.ボウリング・イン・ザ・USA

 といってもテキサスの油田掘削の話でもカナダ国境のウラン鉱山の開発の話でもなくて、ごろごろと樹脂製の球をころがすあれのほうです。なぜかアメリカ製の映画やドラマを見ていると、ボウリングのシーンというのは、登場人物たちのダメさ加減を表現するための人物描写のひとつとしてもちいられているように見えます。たいていの場合、そこに登場するは、ホットドックをビールで流し込んでいる入れ墨だらけのデブのおっさんとシンディ・ローパーみたいなケバイ化粧の場末のウェイトレスで、そんなアメリカの競争社会からドロップアウトした人たちがやる気のない様子で球をころがしたり、チョコバーの自動販売機を「ファック」とか「シット」とか言いながら蹴っ飛ばしたりしています。印象に残っているものをいくつかあげてみます。

その1「ビッグ・リボウスキ」  ジェフ・ブリッジス演じる主人公デュードは、ヒッピーくずれのだらしないおっさん。定職もなく朝からウォッカと生クリームを混ぜたへんなカクテルを飲んでマリファナをくゆらせてだらだらしている。そんなとっても親近感をおぼえる主人公が友人たちと熱中しているのがボウリング。彼が通っているLA郊外のボウリング場は、彼のような生産性のかけらもない奇人変人たちのたまり場になっていて、毎夜、変人チーム対奇人チームの対抗戦がくり広げられている。

その2「バッファロー'66」  主人公は刑務所を出所したばかりの気の弱いチンピラ青年。町でたまたま出会ったクリスティーナ・リッチ演じるロリ巨乳の女の子を誘拐同然に連れ回す。誘拐といっても、懇願して一緒にいてもらってるという感じ。そんな将来も未来もカネも職も希望もない主人公がロリ巨乳の女の子にいいところを見せようとしてやるのがボウリング。場末のボウリング場で主人公がはりきってごろごろと球をころがすたびにそのいけてなさが際だってふたりの関係が空回りしていく。

その3「ボウリング・フォー・コロンバイン」  1999年にコロラド州ジェファーソン郡コロンバイン高校でおきた銃乱射による無差別殺人事件を取りあげた映画。コロンバイン高校のある田舎町は工場もオフィスもなく、町全体が停滞している。高校生たちは、大学進学を決めて町を出て行ける優等生を除いて、退屈で停滞した町とともに自分が朽ちていくような感覚を味わっている。そんな中、いじめられっ子のふたりの青年は、ナチズムと銃に傾倒し、銃乱射による無差別殺人を計画する。ふたりは犯行直前まで、近所のボウリング場でプレイしていたという。映画の冒頭のピンが倒れていくシーンは、事件の被害者が銃弾に倒れる様子を連想させると同時に、ふたりの青年の閉塞感を表しているように見える。

その4「ザ・シンプソンズ」  「もうこんな仕事やってられるか!」、ある日、ホーマー・シンプソンは勤め先の原発を飛び出し、近所のボウリング場でバイトをはじめる。万事ルーズででたらめなホーマーにとって、ボウリング場はむしょうに居心地がいい。ボウリング場の常連客である変人たちも、ホーマーのぶっ飛んだ言動を面白がり、彼を慕うようになる。そこでホーマーは目に涙を浮かべて言う。「俺は生まれてはじめて自分の居場所を見つけた気分だ!」。

その5「刑事コロンボ」  例によって犯人は大金持ちのセレブリティ。その犯人のアリバイを確認するためにコロンボが立ち寄ったのは、ハリウッドにある高級ブティック。そこでコロンボは、犯人と同じスポーツジャケットを自分にも仕立ててほしいと店員にもちかける。明らかに場違いなコロンボに対して、ブティックの店員は露骨に見下した態度で接するが、コロンボは意に介さず、「今度、うちのかみさんと町内のボウリング大会に出るんだから、洒落たジャケットに仕立ててよ」と得意げに言う。慇懃無礼な店員はうんざりした顔でため息をつき、コロンボのよれよれのレインコート姿を見る。
 とまあいう感じで、アメリカ人にとってのボウリングって、ジョークのネタや停滞ムードのシンボルになるほど社会的評価が低いんでしょうか。ダメな人たちのためのゆるい娯楽というか、ホットドックをビールで流し込んでいるようなレッドネックな人たちやヒッピーくずれの人たちのための心の洗濯場というか、柴田元幸が紹介するアメリカ文学の世界とは明らかに異質な空間で、なんというか個人的にヒジョーに親近感をおぼえるわけですが、実際のところどうなのか気になります。アメリカでの生活体験のある方、あちらのボウリング事情をお教えいただければ幸いです。(2005.2009)

 76.ネタバレ

 小説や映画・ドラマのあらすじを結末まで話すことを「ネタバレ」と言うそうです。
 この言葉、最近知ったんですが、Webの映画サイトを見ると「ネタバレ禁止」や「ネタバレ等の無神経な書き込みは削除します」とかなり嫌がられる行為のようです。ぜんぜん知らなかった。でも映画のストーリーを知ることで本当に興がそがれるんでしょうか。ストーリーや結末がわかっただけで白けてしまうなんて映画を一発芸のコントか何かと勘違いしてるんじゃないでしょうか。ストーリーや結末を「ネタ」だなんて。あるいは野球なんて夜のニュースでどっちが勝ったかだけわかれば十分と思っている人たちなのかもしれない。そりゃあいっしょに映画に行った奴がいちいち次の展開をああなるこうなると得意げに囁いていたらうんざりしますが、それは隣からぼそぼそ話しかけられることの鬱陶しさであって、べつにそれが自作のラップであっても耳元でぼそぼそやられたらやっぱり鬱陶しいわけです。小説や映画で重要なのは、どんな結末なのかではなくそこに至るまでにどういう過程をたどったかだし、どうストーリーが展開したかではなくそこで登場人物たちがどう感じどんなしぐさや話し方をしたかのはずです。あらすじを知っていることはそれを楽しむ上でまったく影響しません。例えば、私のお気に入りの映画のいくつかは最初に結末が明かされます。「市民ケーン」では、最初の場面で新聞王と呼ばれた大金持ちの老人が「薔薇のつぼみ」という言葉を残して死にます。映画はこの最初の場面に向かって歩んでいく彼の半生が語られていくわけですが、死に際の様子を知っているからといってこの男の何がわかったわけでもないし、彼の半生に興味が失せてしまうこともありません。十回くらい観ていますが、毎回楽しめます。あるいは「アニー・ホール」では、主人公ウディ・アレンの回想によって恋愛における失敗が語られていきます。当然、彼が失恋することは誰もがわかっていて、ダイアン・キートン演じる若い彼女が去っていくこともわかっているわけです。そうした結末がわかっているが彼らがかわす会話の可笑しさを損なうことはありません。やはり何度観ても楽しめます。あるいはまた、「刑事コロンボ」では、最初にすべての犯行の手口が明かされます。犯人は最初に登場した人物だし、観る者はラストでコロンボが犯人を逮捕することもわかっている。それらを「ネタ」と解釈すればこれほどのネタバレはないわけですが、結末や犯人を知っているかに関わりなく、毎回、犯人とコロンボの会話やコロンボが犯人をはめるためにうつひと芝居を楽しめるわけです。というわけで、ラストに至るまであらすじを知ったからといってだからなんなんだという感じでして、それを「ネタバレ」なんて奇妙な言葉を用いて規制しようとするなんて滑稽に思えます。むしろ、結末がどうなるかや次にどう展開するかといったハラハラ感に固執する見方は薄っぺらいし、先の展開の見えなさを強調してハラハラ感を煽る作品というのも作り手のあざとさを感じます。

 77.友達以上、恋人未満

 今から十数年前、今井美樹が芸能レポーターに聞かれて答えた言葉です。なかなか洒落たことを言います。そんな思わせぶりなタイトルをつけてみましたが、恋愛話やテレビタレントのゴシップが書きたいわけではなくて、人間関係についての話です。

 私は基本的に人との関係性というのはだらだらとした流動的で連続的なものだと思っています。なので、自分の周囲の人間をその関係性でカテゴライズするのは、たんに便宜的なものにすぎないと思っているわけです。言語という静止した思考方法では、流動的で境目のない有り様をそのままの姿ではとらえることができないので、ひとまず独立し固定した概念に置きかえて認識し表現しています。なので、実態と認識されたものとの間に大きなズレがあると思うのです。なんていうとややこしい話のようですが、これは、石ころの大小や性格の陽気さなんかに置きかえて考えるとわかりやすくなります。大きい石ころという場合、何をもって大きいというのか、大小の判断基準は何か、きわめてあいまいな表現ですが、これはもともと石ころの大きさという連続した概念を大小で分断された概念に置きかえ、個別の石ころを「大」と「小」の2種類にカテゴライズする行為なわけですから、あいまいにならざるを得ないわけです。陽気な人、陰気な人というカテゴライズは、人の心という形のないものを静的な概念に置きかえたうえでさらに二つに分断しているので、よりそのあいまいさが際だちます。同様に、「親しい人」「友人」「親友」「恋人」といった関係性を表す表現は、いずれも流動的で連続的なものを静止した概念に置きかえて、とりあえず便宜的にそう呼んでいるに過ぎないわけです。ところが、言葉にした時点で、もともとの不定形で流動的な実態のほうを忘れてしまいがちです。しばしば、言葉の中だけで考え、言葉の静止した世界に確かさを見いだして安心しようとし、言葉で表現された関係性のほうが実態であるかのような錯覚を抱きます。「友達だもんね」「夫婦なんだから」と。アメリカ製のテレビドラマや若いコ向けのテレビドラマを見ると、関係性の言語化がいっそう進んでいるようで、「友達になろう」「つきあって欲しい」「わかれよう」という表現が頻繁に登場します。そこには社会的に定型化された存在としての「友達」や「恋人」しか存在せず、不定形で流動的な実態のほうははじめからなかったかのようです。逆にいうと、三角関係のもつれや不倫を描いた小説や映画がくり返し創作されているのは、言語化され日常生活の中に収まったかのように思っていた人間関係の背後に、もろく不定形で生々しい関係性があることをわかりやすく示してくれるからではないかと思うわけです。「友達になろう」「つきあって欲しい」という言葉は、要するに「親しくなりたい」という意志の表現です。しかし、「友達」や「(恋人として)つきあっている」状態になることは、目的ではなく親しくなった結果のはずです。つまり、親しくなった結果、自分たちの関係を言葉で便宜的に表現すると「友達」だったり、そこに独占欲や性的衝動が絡んでいたりして「恋人」だったりするわけです。第一、「つきあってほしい」なんて中学生の告白ゲームじゃあるまいし不自然です。なので、ドラマでこの不自然なセリフを聞くと、つい、「高田馬場まで?」なんてテレビにつぶやいてしまったりするわけです。

 ということを友人(便宜的表現です)に話したところ、アンタはネコちゃんか人間の交際というのはもっと節度あるもんだと顰蹙を買いました。本気で怒っている様子でした。それによると、つき合うも別れるもなく、ただ、一緒にいて楽しければいるし楽しくなければいないなんていう生き方は、自分の感情に正直というよりも相手に残酷なだけで最低であるとのことでした。そういうもんでしょうか。でも、私には、関係性を固定しようとする行為のほうが欺瞞に満ちているように思えるし、はじめからある種の関係を築くことを目的にして人と接するというのは策略的で腹黒く感じます。なのでむしろ、「友達としてならお付き合いします」とか「結婚を前提として交際しましょう」式の発言のほうがよほど自分にも相手にも不誠実で失礼ではないかと思っているわけでありまして、そんなに怒らなくてもいいじゃんかという感じなんですが、いかがでしょう。(2005.8)

 78.2005年度版 バイク乗り考

 今回は別に疑問というわけではなく、2005年現在のバイク乗りの状況を考察してみました。
 この10年間でバイク乗りの嗜好はずいぶん多様化、細分化しました。閉じた小宇宙がたくさんある感じです。おそらくバイクに乗らない多くの人が抱いている「バイクに乗る若者」のイメージは間違っています。でこでこしたカウルつき小型バイク、うるさいマフラー、やたらとじゃらじゃらしたアクセサリー、「夜露死苦」のステッカー、巻き舌気味の発音で不機嫌そうに喋る若者、1980年代のバイクブームの時にはやたらと多かったタイプですが、もはや絶滅寸前です。ほぼ東京では見なくなりました。はなわの「佐賀県」じゃないですが、よほど田舎へ行かないともういないんじゃないかと思います。もしいまだにバイク乗りにそういうイメージを抱いているとしたら、20年くらいズレています。それはクラブと聞くとヒップホップとハウスがじゃかじゃかかかってるところを連想する人と同じくらいズレてます。そもそもバイク乗りの主流は、若者ではなくおじさんに移りつつあります。というわけで、バイクに乗っている私もこの状況をどう把握したらいいのかと惑っていまして、とりあえず、バイク乗りの現状を次の6つに分類しつつ考えてみました。バイクの分類ではなく、あくまでバイク乗りたちについての観察記録です。バイヤーズガイドにはなりませんので悪しからず。

1.半キャップな人
 東京ではこの10年間で、250CCのスクーターが急激に増えました。若い人でバイクに乗っている人の8割くらいはこうしたスクーターやアメリカンにワイルドなスタイルで乗っています。数では圧倒的多数派です。アメリカン・タトゥを連想させるペイント、うるさいマフラー、光り物のカスタムパーツ、ベタベタステッカーを貼った半キャップのヘルメット、バイクに装着したステレオから流れてくるヒップホップとちょっとワルな若者文化を発信しつつ走っているという感じです。腕に本物の彫り物を入れている若者もけっこう見かけたりします。20年前の「夜露死苦」よりはずいぶんあか抜けている感じがするけど、あのワル文化の系譜にあるのかもしれない。ただ、髪の毛を脱色しているだけで「不良」と見なされた20年前と異なって、若い人たちのファッションの幅は大きく広がりました。そういう意味で、タトゥやヒップホップ系の格好は、今風のスタイルとしてけっこう幅広く若者に受け入れられているようです。「夜露死苦」に代表されるスタイルが暴走族文化に直結していたのとは異なる状況です。女の子を後に乗っけている子も多くて、少しうらやましかったりもします。彼らのバイクの利用のしかたで特徴的なこととして、遠くへ旅したり速く走るための乗り物ではなく、ほぼ都市部での移動手段に限定される点があげられます。ヒエラルキーの底辺には小型の原付スクーター、頂点にはハーレー、その中間層に圧倒的多数派として250CCのスクーター乗りがいて、裾野の広がりは大きい。そうハーレー、あのファッションで大きなバイクに乗るには選択肢がハーレーしかないわけです。で、この10年、ハーレーがやたらと売れている。80年代はほとんど見向きもされなかったのに。ただ一方で、250CCのスクーターに乗る若者のうち、どれだけの人がゲタ代わり以上のものを求めているのかは不明です。多くはバイクのような不便な乗り物に長く乗りつづけるようには見えないし、彼らの中からどれだけ趣味として長くバイクとつき合う者が出てくるかは疑問を感じます。ハーレー乗りはオトナが多いし、分けて考えたほうが良いのかもしれません。スタイルが似ているので線引きが難しいけど。あと、スクーターの若者はバイクのキャリアが浅いため、たいてい運転は下手で乱暴。コアなバイク乗りの連中からは、チョロイ奴らと軽んじられる傾向にあります。うるさいし。

2.遠くへ行きたいっ
 本質的にバイクというのは遠くへ行きたくなる乗り物なので、このタイプのバイク乗りがもっと大勢いていいと思うんですが、なぜか日本では圧倒的に少数派。不思議な状況です。少数派なのでキャラクターもかなり限定されます。きまじめで繊細でシャツの裾をズボンに入れているような若者。あきらかに現在の主流から外れたタイプです。理工系や農学部あたりに通っている銀ぶちメガネの若者というのがそのステレオタイプ。20年前だったらユースホステルに泊まってフォークソングでも歌いだしそうな感じ。運転もおとなしめで飛ばすわけではないので、たいてい、オフロードバイクや中型のレトロ調バイクに乗っています。ただ、所属する文化的背景の違いからか、ワル系スクーター乗りとは水と油の関係のようです。同じバイクに乗る仲間とは認識しておらず、むしろ敵視している感じ。ツーリング雑誌の掲示板には、彼らへの悪口が神経質そうな文章でえんえんと書かれていたりして、唖然としたことがあります。このタイプにはおまわりさん大好きな人が多いのかもしれない。もはや「バイク乗り」と一言では言えない閉じた小宇宙がたくさんあるように見えます。個人的には、ワルでもオタクでもない高校生くらいの子が、もらってきた小さなぼろバイクを自分でこつこつ直して、見知らぬ女の子との出会いを期待したりしながら夏休みをめいっぱい費やしてあちこち旅してまわるというイメージは、バイクから連想する物語としてひとつのツボなんだけど、実際にそんなことをする若者はほとんどいないみたいです。

 さらに、遠くへ行くことへの欲求に取り付かれた人々、バイクで世界一周してしまうような本格的にワイルドな人々、彼らに共通した傾向として、バイクを旅するための「機材」と割り切っていることがあげられます。モノとしてのバイクへのこだわりはほとんどなく、地平線の彼方へ行くことこそに喜びを感じる。安全を確保するために最小限のメンテナンスをおこない、酷使して乗りつぶしたらさっさと別のに乗り換える。その潔いほどのモノへの執着のなさにあこがれます。格好良いです。

3.頭文字D
 モノマニアでナルシスト。速いモノ好きで、かなりメカオタク入り。パーツ量販店の売り上げにもっとも貢献している人たち。日曜日にその手の店へ行くと、うじゃうじゃいるので、じっくり彼らの生態を観察できます。20代後半から30代にかけての年齢層が中心で、皆、高そうなバイクに乗っています。なんちゃってレーサーというかサーキット野郎予備軍というかそんな感じ。ただ、20年前のバイクブームの時と違って、今時わざわざこんな事やろうっていうのは、よっぽど物好きな人たちなわけで、走りのレベルはけっこう高い。峠道でとろとろ走ってると、一瞬のうちに追い抜かれたりする。サーキットでもないのにヒザすりそうなフルバンクしたりして、峠道でそこまでやるかいい歳してって、あ、これは負け惜しみです。そんな絶対性能至上主義な人々なので、スクーターの若者をチョロイ奴と露骨に見下す傾向がある。この手の人はたいていカネがあるので、よくチューニングされた排気量1リッタークラスの大型バイクに乗っていて、そのヒエラルキーの最上位にはドゥカティのスーパースポーツが位置している。新車で350万円。イタリア製。すごいらしいです。乗ったことないけど。

4.ぞろぞろ
 もう自分の人生は折り返し地点にあると悟ってしまった中年の危機でバイクの免許を取ったおじさん、まわりにバイク乗ってる人なんかぜんぜんいないけどなんか面白そうと急に目ざめた女性ライダー、彼らは免許所得後どうしているのか。どうやらバイクを買ったショップが主催する日帰りツーリングや1泊2日温泉ツーリングなんかに参加しているようです。ときどき出先で、似たようなバイクにばかり乗ったツーリング集団がぞろぞろと隊列を作って通りすぎていくことがあるけど、あれがそうではないかと思ってます。完全にクローズドな世界で、当方まったく接点がないので、実態はよくわかりません。その生態は謎に包まれています。

5.サーキット野郎
 なんちゃってレーサーの一歩先に位置しているわけですが、本格的にレースやジムカーナなどを始めると、バイクは機材、パーツは消耗品の合理主義的世界なので、雰囲気がまったく違ってきます。プロレーサーのレベルになると、レーシングバイクは完全に商売道具なので、プライベートでは一切バイクに乗らない人も多いみたいです。マイバイクに愛と幻想を抱くなんちゃってな人たちは、2〜3回サーキットでの練習走行をするとそのことが見えてくるのか、たいていそれ以上本格的にレース参加することはないようです。また、大型スクーターに乗っている若者がレースに関心を抱く確率はほぼ0%です。レース場にあつまる人々の平均年齢がこのところ毎年1歳ずつ上がっているとよく冗談が飛び交ってますが、冗談ではなく事実です。サーキット野郎は次の二つのタイプにわかれます。

a.体育会系
 本格的にレースをやるとなると、自分で何もかもまかなうことは不可能なのでレーシングチームに入るのがほぼ必須になります。チーム内は完全に実力主義の世界で、レギュラーポジションをめぐって熾烈な競争が行われます。さらに、レースはやたらとカネのかかる世界なので、レース以外の時間はほぼバイトに明け暮れることになります。ちょうど強豪の運動部に入部したようなもので、生活はすべてレース活動を中心に回るようになります。なので、本格的にレースをやっている人は、雰囲気も体育会系な感じです。メカオタクな幻想を抱いている余裕はないのである、オス。ただ、本気で世界的なプロを目指すとなると、すでに子供の頃からポケバイで英才教育を受けていないときびしいようです。グランプリレーサーがすべてのバイク乗りのあこがれだった時代はもはや終わり、レースは特殊な人たちによる特殊な世界になりつつある感じです。3年連続ワールドチャンピオンのバレンティーノ・ロッシを知らないバイク乗りもけっこういるみたいです。

b.枯れた人々
 一方、草レースはこの十年でずいぶん増えました。趣味でレースをやってるオッサンやら第一線を退いた元レーサーの兄ちゃんやらが、自分の腕と懐具合に応じて参加し、勝ったり負けたりしています。草レースとはいえ、サーキットを時速200キロで競争するシビアな世界なわけですが、ギラギラした上昇志向がないぶん、いい感じに力の抜けた飄々とした感じの人がけっこういて、俺、女だったら抱かれてみたいかも。ただやはり平均年齢は高め。不倫は勘弁ね。

6.いじり屋
 バイク乗りの平均年齢上昇にともなって近年、急激に増えているのがこのタイプ。新型バイクには興味を示さず、若い頃にあこがれだった昔のバイクを手に入れ、こつこつ直していくことに喜びを見いだす人々。乗ってる時間よりも直してる時間のほうが圧倒的に長い。強者になると新車が買える値段でプレミアつきの古バイクを買い、さらにその何倍もおカネをかけて完全分解のフルレストアするなんていう人までいる。のめり込むときりがないマニアの世界で、深みにはまったらもう出口はありません。将来バイク屋になろうっていうなら別だけど。こういう人のバイクは、30年前のバイクなのになんでこんなにピカピカなのって感じで、高速のパーキングやパーツ量販店の駐車場でひときわ妖しい光を放っています。モノへの偏愛度では最も上位に位置する人々です。心理学用語でフェティッシュ。ジャン・ボードリヤールの言うところの「モノと一体化しようとする人々」。こうした人々が自らのフェチを正当化する言葉としてしばしば用いるのは、「バイクは趣味の乗り物なんだから」。でも、物神性を高めること自体が目的になってしまって、バイクが遠くへ行くための道具であることを完全に放棄している様子は、どうしても不健全に見えてしまいます。こういう人の多くは、郊外や田舎にガレージつきの一戸建てをもつおじさんたちで、ガレージには同じバイクが3台くらいならんでいたります。そしてその実態は子煩悩な円満パパだったりします。都市生活者は少数派です。20年もののぼろバイクをちょびちょび修理しながら乗っている私も、いちおうこのいじり屋の末端構成員なわけですが、ガレージつきの一戸建ても円満パパも一生縁がなさそうな私としては、バイク以外のことでまったく共通点がなく、話が合いません。バイクもとりあえず走りゃあいいよって感じ。オイル漏れてるけどさ。
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 というのがここ何年かバイク乗りを観察したところの考察です。バイクおじさんはマイバイクの大型化・趣味化が加速し、若者はスクーターをゲタがわりにしてそれ以上のことは求めないという感じで、中間層がなく極端に二極化がすすんでいるという印象を受けます。さらにその中には閉じた小宇宙がたくさんあって、細分化を続けている感じがします。(2005.9)

 79.仔ワニ500円

 いまから30年ほど前、国分寺北口の再開発はまだ始まっておらず、駅前周辺の細い路地や古ぼけた店に戦後のヤミ市の名残が色濃く残っていた頃のことです。北口を出てすぐの路地はつげ義春的風景で、よく露天商のおじさんが店を出して、ひよこや金魚やミドリガメを売っていました。縁日の夜店同様に、ぞんざいにタライに入れられ、金魚10円とかひよこ20円とか亀50円とかそんな感じの値付けだったと思います。現在のマクドナルドとドラッグストアにはさまれたあたりの道端です。その露天商では、ときどき小さなワニが売られていることがありました。タライの中に体長20cm程度の小さなワニがうじゃうじゃと入っていて、「仔ワニ500円」の札が貼り付けてありました。猛烈に欲しかったので、タライの中でうごめいている仔ワニたちの灰色でごつごつした背中の質感をいまだに思い出します。よく母親にねだっては、「ダメ!ワニは大きくなるから」と言下に断られ、露天商のおじさんがしわがれ声で「オクサン、これは大きくならないワニだヨ」なんて嘘八百の助太刀をしてくれた記憶が残っています。で、あんまりしつこくワニをねだる私に辟易とした母は、時々、代わりにひよこやミドリガメを買ってくれたりしました。「お前はワニのように執念深い」が当時、母の口癖でした。1970年代はじめのまだ、ワシントン条約っていったい何という頃の出来事です。

 その後、オトナになり、国分寺駅前の道端でワニをよく売っていたという思い出話を何度か友人たちにしたんですが、誰もまともに取り合ってくれません。「ふーん、ワニねぇ、はいはい」と、ああまたはじまったかという調子です。ひどい奴になると、「で、オチは何?」なんて失礼なことを言い出したりします。つい先日、高校の授業の中でワシントン条約の解説をしていた時に、この仔ワニ500円の話をしたんですが、やはり生徒たちはふーんという雰囲気で、あまり信用してくれていない様子でした。そんなこんなで、もしかしたら願望が記憶になっているんじゃないかという不安もよぎっています。もし、これを読んでいる方の中に、国分寺北口の道端で仔ワニが売られていたという記憶のある方がいらしたら、御一報ください。(2005.9)

 80.だめんず・うぉ〜か〜

 少し前のことです。本屋の新刊本コーナーへ行くと、小学校高学年くらいの男の子がなにやら熱心に立ち読みをしていました。ひょろっと背が高く、度の強そうな銀ぶち眼鏡をかけたガリ勉少年といった風貌、本を目の前20センチくらいのところにかかげ、ページをむさぼり食うかのように読みふけっています。開いたページ以外、彼には何も目に入らないかという様子で、ときおり周囲を威圧するかのようにバサッと鋭い音をたてながらページをめくる。彼を没入させる本がなんのか、当然、気になるので、それとなく彼に近づき、買うつもりのない書棚の本に手をかけながら少し身をかがめ、彼が腕にかかえている本の表紙をちらと見ると、それは「だめんず・うぉ〜か〜」でした。げええ。彼の人生の転機に出くわしてしまったのかもしれない。横っ面をはたいて目を覚ませといってやりたい衝動にかられます。いったい何が彼を「だめんず・うぉ〜か〜」に駆りたてているのだろう、よりによって「だめんず・うぉ〜か〜」を。今朝、ママンが見知らぬおじさんと家を出て行ってしまったんだろうか、本屋を出たら午後のアルジェの日射しのせいで彼は家に火を放ちたい衝動にかられたりするのではないか。彼がページをめくるバサッという鋭い音を聞きながら、彼のかかえているいくつかの事情を推察してみました。

1.美人でかわいいクラス担任のナオちゃんから彼はオトナの関係をせまられている。
2.忘れ物を取りに学校へ戻ると、放課後の人気のない教室で、ナオちゃんがジュリーの「時の過ぎゆくままに」を口ずさんでいるのを聞いてしまった。
3.近頃、家に帰るとママンはいつも瀬戸内寂聴法話集を聞いている。
4.塾で配られる「歯に良いキャンディー」の本当の名前が「プロザック」というらしいと隣の席の石井くんから教えてもらった。
5.2歳年上のおねえちゃんはこのところ四谷大塚の模試で順位が下がり気味で元気がないため、「歯に良いキャンディー」をおねえちゃんにもわけてあげることにした。
6.クラスの意地悪女子グループの中でもとびきり意地悪で長くてきれいな脚をしているサキちゃんは、算数の時間になるといつもコンパスの針で彼の小指が紫色になるまで刺してくれていたのに、近頃、前の席の多田くんのことばかりかまっていて、とうとう今日は一度も目を合わせてくれなかった。
7.近頃、ママンは日本刀の収集をはじめた。

 やがて彼はふうっと息をつくと、「だめんず」3冊を手にレジへ向かったのでした。タナカくん(仮名)10歳の明日はどっちだ。私は彼のように倉田真由美の印税収入に手を貸してあげられるほど広い心は持ち合わせていないので、とりあえず古本屋の100円コーナーへ行き、タナカくんの明日のために何冊か入手してきました。いろんな意味で衝撃的な内容でした。ページを閉じた後も不快感がじっとりとつきまとってくる感触。前にどこかの雑誌で断片的に見かけたことはあったけど、これほど不快なマンガだったとは。むさぼるように読んでいたタナカくんの心の闇は果てしなく深そうです。早く遠ざけたいので嫌がる友人に無理矢理押しつけたところ、3日後に電話がかかってきて、お礼に今まで集めたものみの塔の小冊子「めざめよ!」2年ぶんをくれるとのこと。喜んでもらえてなにより。貰いっぱなしでは悪いのでお返しに「プリンセス・テンコー写真集」をプレゼントしようかと思っています。

 ちなみに倉田真由美の不快さについて先の友人は電話の向こうで次のようにわめき散らしていました。
「自分は安全地帯にいてそこから見下すようなヤジを飛ばすばかりでさ、まるでワイドショーのコメンテーターみたいな奴だとと思っていたら本当にワイドショーに出てきてコメンテーターやってやがんの、常識や世間体に内在する滑稽さを感じ取れない自分の鈍感さは棚に上げたまま、そこからはみ出す者をあざ笑おうっていうのが彼女のマンガのパターンでしょ、批評性の欠落した彼女のマンガにあるのは年収と地位と学歴っていう世間体がつくる紋切り型のヒエラルキーだけで、相手が自分より上にいれば尻尾を振るみたいにへつらって下にいれば見下してあざ笑う、どのエピソードもそんなのばかりじゃない、まず紋切り型の価値観の補強が基本にあって、そのまなざしの中に少し変わった人物を引っぱり込んで晒し者にするっていう笑い、さんまのバラエティに構造が少し似てるかな、でも、そこからは彼女の勝ち組に入りたいっていう上昇志向と妙な自意識が伝わってくるだけで少しも可笑しくない、厚顔無恥な自意識が生臭いにおいを発しているだけ、それにヒエラルキーの下に自分がいることは嘆くけど、批評眼の欠落についてはいっさい嘆く気配がないっていうのは表現者として救いようがないじゃない、せめて自分の滑稽さを笑おうっていう意識があるならまだしもそれを自覚すらしていないとなるともう何のために表現活動をしているのかさえわからない、本人をあのマンガに登場させるなら青っぱなを垂らしているキャラクターとして描くべきよ、いっとき西原理恵子とくらべられていたけど、自分も対象も斬りつけて紋切り型を破壊していく西原理恵子とでは、まるっきり向いている方向も表現者としてのセンスもちがっているよ、だって白馬の王子様が外資につとめる年収二千万以上のトレーダーっていう世界なんだよ、はじめ「金魂巻」のパロディでもやってるのかと思ったら本人はまるっきり疑問を持っていないみたいじゃない、30過ぎのオンナがさ、きっとそのうち「面達」書いてるバカといっしょ就職相談はじめたり、ハウツー本専門の経済評論家といっしょに生活レベルアップ術講座みたいなのをはじめたりするわよ、まちがいないわね」。
(2005)(2006修正)

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・ 疑問の泡 1-40 ・ ・ クロ箱 表紙 ・