A
ディープブルーはふたつの方法で「次の一手」を決めている。まず、データベースに登録された過去数百年分の対局から同じ局面を探しだし、過去の名人たちが勝利したやり方を模倣する。データベースにない局面が発生した場合には、未来の状況を局面ごとに評価し、自分にもっとも有利な未来につながる道を選ぶ。この場合、ディープブルーのプログラムは、未来の各局面を残されたコマの数や配置によって点数化し、もっとも高い点数の未来につながる一手を選ぶように設定されている。当然、できるだけ先の未来を読んで評価することができればそれだけ有利に対戦することができるが、未来になればなるほど局面の数は膨大(ぼうだい)なものになる。ディープブルーは1秒間に数億回という高速計算によって十数手先の未来まで局面を評価し、最も遠い未来にある無数の局面の中から最高の点数を選び、sの未来につながるよう次の一手を決める。それまでのチェスコンピューターとくらべて、ディープブルーが優れているのは、膨大なデータを有効に活用できるプログラムと未来の状況をきわめて正確に評価できるプログラムの両方をそなえていることである。
B
コンピューターと人間とでは、チェスの次の一手を決める「判断」の仕方がまったく違う。コンピューターは、計算の速さを生かして、すべての未来の局面を評価し、次の一手を決める。しかし、人間はそんなことはしない。経験から未来の可能性を予測し、ある程度限定された選択肢の中から判断していく。そのため、人間は1秒間に数手しか読めないにもかかわらず十分強くなれる。コンピューターのような、力ずくですべての可能性を計算して、次の一手を決めるやり方は、チェスが完全に理詰めのゲームだからこそ通用するやり方である。たしかに、チェスや将棋・囲碁は複雑な推論が要求されるゲームだが、どんなに複雑であっても未来の局面は有限であり、計算によって未来が予測できる論理的ゲームである。言い換えると計算によって「正解」にたどりつくことができる閉じた世界である。そういう世界で、1秒間に数億回も計算できるコンピューターが強いのは当たり前である。このようなチェスの論理的世界はあまりにも特殊であり、現実の世界とはかけ離れている。したがって、いくらチェスが強くてもコンピューターが「知性」を獲得したとは言えないのではないだろうか。
現実の世界では、計算だけでは予測不可能な様々な出来事が起きる。コンビニへ買い物に行くだけでも、クルマが飛び出してきたり、子供の乗った自転車が飛び出してきたり、道路工事で歩道の形が変わっていたり、道端に犬のフンが落ちていたりする。また、から揚げ弁当が売り切れていることもあるし、お金が足りずに雑誌が買えない場合だってあり得る。私たち人間は、こうした様々な問題に直面した時、状況に応じて臨機応変(りんきおうへん)に対応することができる。たしかに私たちの日常行動は本能や学習によるプログラムによって営まれているが、それは状況の変化に対応することのできる柔軟性をそなえている。また、本人の意志や新たな経験によって、考え方や行動は常に変化しており、新たなものをつくりだすこともできる。だから、私たちはから揚げ弁当をいつも選ぶわけではないし、ジャンプではなくいままで読んでいなかった別の雑誌を買うこともある。それに対して、ディープブルーのチェスプログラムのように、すべての未来の局面を計算して判断していくやり方では、現実の世界の流動的な状況に対応することはできない。そのため、いくら強いチェスプログラムを開発したとしても、その研究は人工知能の発展には役立たない。現在、クルマを自動運転させるための人工知能の開発が進められているが、いまのところ、その対応力はネズミよりもはるかに劣っている。生命がそなえている現実の環境への適応力は、きわめて柔軟性に富み、高度に洗練されたもので、コンピュータープログラムはまだそれに遠くおよばない。予測不能な様々なできごとが起きる現実の世界に対して、臨機応変に対応できるような人工知能が開発されるまでは、いくらチェスが強くてもコンピューターが知性を獲得したとは言えないはずである。