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■ 村田 浩
 1967年、東京生まれ、18歳。
 小金井自動車教習所卒業。
 愛読書は昆虫図鑑。
 180cm、フォワード。
 3点シュートはめったに入りません。
 形あるものが好き。




 slices of time

 このページの制作者について。村田 浩といいます。
 どんな人間がつくっているのかさっぱりわからないWebサイトというのも不気味なので、自分についての断片的な文章を書いてみます。

 1967年、東京生まれ。東京ではめずらしく雪のたくさん降った夜中に生まれた。正確にいうと血まみれの姿で医者に引きずり出された。帝王切開だった。生まれるのが億劫だった私は、ぞんざいな手つきで臍の緒の処理をしている医者を見ながら、不機嫌な声で「おい、寒いな」とつぶやいた。それがこの世界との出会いだった。というのはもちろん身におぼえのない出来事で、本当は生まれたことすら身におぼえがないわけです。もしかしたらほんの数分前に生まれたばかりなのかもしれない。なのでせめて、芥川の河童みたいにあらかじめ生まれたいのか聞いておくのが道理ではないかと思うんですが、そのひと手間をはぶかれたおかげで、今になって自問自答する羽目におちいってます。非常に疲れます。

 子供のころ、この世界は一瞬一瞬に入れかわっていると考えていた。なめらかに連続して移行する時間などなく、ぱらぱらまんがのように非連続の静止した世界が各瞬間ごとに入れかわり、自分はその残像を見ているのだと信じていた。いまこの瞬間と次の瞬間とがつながっているなんてどうしていえるんだろう。不連続の世界が入れかわっているんだから時々入れ替えに誤りもおこる。そんな時に、さっきまで泣いていた友達が急にうれしそうに笑ったり、朝家を出るときに怒っていた母が学校から帰るとやけに上機嫌だったり、昨日まで気にもとめてなかったとなりの席の女の子が気になり出したりするんだと思っていた。毎朝、目が覚めるたびに自分が昨日の自分とはなんのつながりのない別人のように思えた。

 小学校で教師をしている友人によると、世界は入れかわっていると考えている子供は案外多いという。誰だって、いま・ここに自分がいるのは不思議なんだろう。記憶の中の自分は断片的で常に不連続に思える。5年先10年先の自分を思い描くことができないまま、世界は回りつづけ、いま・ここはどこまでもついてくる。いつか振り切ってやる。

 東京・国分寺で大学1年まですごす。新興住宅地の中に取り残されたように建っていた古い小さな家だった。毎年春になると床下から大きなひきがえるやトカゲが這い出てきて、雑草の生い茂る庭には、たくさんの虫と数匹の野良猫が住みついていた。雨戸の戸袋についたトックリバチの巣、枯れ草の中のカマキリの卵塊、足もとを低く飛ぶハンミョウの翅の金属質の光沢。小さな虫たちがつくり出す宇宙は、幾何学的に完璧な調和をたもっているように見えた。じっと見ていると意識が吸い込まれ、自分もその美しい宇宙の一部であるような気がした。一日中そうしていても飽きることはなかった。

 人との関係性の中にこそ「自分」がいるという人がいるが、私はまったくそう思わない。私は虫たちがつくる幾何学的な宇宙の一部として「自分」がいると思っている。間違いなく我が半生でもっとも多くページをめくったのは昆虫図鑑だ。現在でも六本脚の生き物たちとの共同生活はつづいており、羽蟻がぞくぞくと壁の隙間から這いでてきて台所上空に大編隊をつくる様子に感動したり、カツオブシムシに一張羅を穴だらけにされて怒り狂ったりしている。ああ、コム・デ・ギャルソンのスーツ、高かったのに。

 あまり丈夫な子供ではなかった。よく熱を出して寝込んだ。熱にうなされて見る夢はいつも同じだった。無数の立方体や六角柱がはるか地平線まで埋め尽くし、複雑な幾何学模様をつくっている。その巨大な積み木のような物体は重くもなく軽くもなく無機的でつるつるした手触りがする。ただひたすらそれを運び、積み上げ、並べかえ、その世界をつくりかえようとしている。でも、どう組み合わせてもどこかしっくりこない。不様な隙間と不揃いな空間に苛立ちながらまた並べかえる。何としても解かねばならないという強迫観念だけが自分を動かしている。ただ、その組み合わせがこの世界の構造を示しているという確信がある。自分が立方体の組み合わせを変えることで、どこかの国では革命がおき、些細なことから戦争になり、はやり病によって人々は死んでいく。今度こそ、すべてのパーツが収まるべきところに収まったと思っても、あまった空間や不安定な組み合わせが生じ、まもなく、立方体はガラガラと音をたてて崩壊していく。結局、解決の糸口はつかめず、自分が何をやろうとしているのかもわからないまま夢は突然終わる。目がさめてもその不快感からは解放されなかった。

 もっとも古いと思われる記憶は向かいの空き地にぼんやりと自分が立っているというものだ。3歳くらいのものではないかと思う。西に傾いた午後の日射しを受けてあたりは鈍く光り、古いアパートの小豆色をした板壁には長い影が映っている。動くものは何もなく風景は不自然なくらい静まりかえっている。唯一、生々しいのは空の色だ。濃い空の色と白い絹雲の強いコントラストに吸い込まれそうな感じがする。それが私の原風景だ。もちろん記憶などあてにならないし、それが実際の体験にもとづくものなのかもわからない。記憶というのはバケツリレーのようなものではないかと思う。受け渡されるたびに付け加えられたり省略されたり文脈がすり替えられたりしていく。古い記憶というのは古い出来事を思い出しているのではなく、それを思い出した一番最近のことをふりかえる行為ではないかと思う。

 朝、明るい空に下弦の月が残っているのを見ると、きまってこどものころの風景を思い出す。その風景は鮮明だが自分がどんなこどもだったのかはよくわからない。たぶん、いつもぼんやりと空を見上げてるようなぼんやりしたこどもだったんだろう。

 1984年、トルコ人留学生からの苦情を受けて、厚生省は「トルコ風呂」という特殊浴場の呼び名を廃止させると発表した。このニュースは波紋を広げ、テレビ番組では糸井重里や秋元康といったいかにもな面々が新しい呼び名を提案したり、ちょっとした時の話題となった。しかし、名前を変えるといっても、性風俗というアングラ文化のしかも通称にすぎない呼び名である。役所がどう文句をつけたところでそうした慣習は変わるはずがない、当時高校生だった私はそう高をくくっていた。ところが現実は大きく違った。「ソープランド」という名称が決まり、半年も経たないうちに「トルコ風呂」という言葉を耳にすることはなくなっていった。その様子を目のあたりにして、社会的慣習が不変の分厚い存在などではなく、人為的操作によって容易に変更可能であることを実感した。それは大げさではなく私の社会観を変える衝撃的な事件で、その衝撃は同時に愉快でもあり不愉快でもあった。それが私にとっての1984年だった。朝の朝礼でジョージ・オーエルを批判する校長がひどく鈍感に思えた。

 子供の頃、なぜか母親は気の抜けたような昭和歌謡をよく口ずさみながら部屋の掃除をしていた。おかげでとくに好きでもないのに古い歌にはわりと詳しい。ときどき、なんの脈絡もなく「皆の衆〜皆の衆〜♪」ではじまる人をなめたフレーズが頭の中を駆け回り、思考停止状態になる。共通一次試験の古文の問題文を読んでいる最中に突然、皆の衆が無限ループをはじめたときにはほとほと参った。

 場の雰囲気をつかむのはむずかしい。人間の感情は幾何学的なパズルよりもずっと複雑に思える。だから、場の雰囲気を敏感に察知して集団の中でうまく立ち回ったり場の雰囲気をコントロールできる人間を見ると驚嘆し警戒する。人づきあいが特別悪いわけではないが、集団の中に身を置きたくはない。学生の頃は否が応でもそういう場に参加せざるを得ないわけですが、学食でひとりでうどんすすっていても一向に平気でした。ただ、「ひとりぼっちのかわいそうな奴」と見られるのは許せない。俺はちっともかわいそうなんかじゃないんだってば。

 無数の脚をなめらかに動かしすべるように進んでいくムカデを見て、キツネは薄笑いを浮かべながら言う。「ムカデさん、どうしてそんなにたくさんの脚を優雅に動かすことができるんですか?」。ムカデははたと考え込む。いままでそんなこと考えたこともなかった。言われてみればたしかに不思議な気がする。脚に意識を集中して動かしてみる。なぜか違和感をおぼえ、いままでみたいになめらかには動かない。意識を集中して慎重に動かそうとすればするほど脚は絡まってしまい、とうとう前に進めなくなってしまった。それは不様に歩く自分の姿だ。自分と自分でないものとの境界を意識しながら、ギクシャク歩き、わざとらしく話し、わざとらしく笑う。日々、リハーサルなしで舞台に立っているようなもので居心地の悪いことこのうえない。でも、何かの陰に隠れたいとは思わない。何かに帰属せずにはいられない者を軽蔑する。自分の言葉で話し自分の足で立ち、一対一の人間関係を大事にしたいと思う。なんてね。なかなかそう格好良くはいきません。自分のみっともなさに、消え失せてしまいたくなります。

 我が家は男が居着かない。3世代にわたって母子家庭が続いている。父は私が中学生の時に余所に女をつくって家を出た。養育費は一銭も入れなかったが、その後もちょくちょくやってきては勝手に上がり込み、「おうどうだいっ」なんて軽口を叩いていった。ときどき説教までされた。いったいどういう了見だったんだろう。父の言動には疑問を感じるが、家族の形態に良いも悪いもなく、そこには無数のバリエーションがあるだけだ。NHKの連ドラを見るといつも家族ファシズムのプロパガンダのように感じる。見なきゃいいのに、ふと油断していると歯ブラシをくわえながら見てしまったりして、半日くらい嫌な気分になる。一度見てしまうとつい続きが気になっていつの間にか見るのが習慣になっていたりと朝のひとときのエアポケット。俺、苦手なものに弱いんだよ、あ、またやってる。「やっぱり家族が一番やわぁー」。ひえええぇ〜。

 小学校を卒業するとき、中学に提出する書類として住民票が配られた。隣の席の奴には「養子」と書いてあった。それを見たよっちゃんは「養子ってなーにー?」と無邪気にたずねた。一瞬の沈黙の後、多少事情を知っていた私は困った顔をしている当人に代わって、よっちゃんに養子の意味と彼の家庭事情を説明することにした。おせっかいな気もしたが、養子のどこが悪い、そんな思いだった。だから努めてなんでもないことのように話そうとした。すると、その話を聞いていた前の席のやっちゃんがすごい剣幕で「そんなこと話すもんじゃないよ!」と私たちを睨み付けた。重たい沈黙がおとずれた。クラス中がこちらを見ていた。結局、私はやっちゃんの剣幕に圧倒されたまま何も言い返すことができなかった。隣の席の彼はまいったなあという感じで笑っていた。悲しそうな笑い顔だった。まいったよ、まったく。ごめんな。今でも時々、あの時のことを思い出す。どうすればよかったんだろう。明らかに言い返さなければいけなかったのだ。あれじゃああんまりだよ。でも、何て言えばよかったんだろうか。おだやかに一言、「どうして?」と尋ねればよかったのかもしれない。「養子のどこが悪いの?」と。そのたった一言を思いつくまでに20年がすぎてしまった。

 大学院での専攻は近代西洋哲学。哲学は人気がないので、その年の大学院生は私ひとりだった。大学院進学にあたって学費援助を母に願い出たところ、「そりゃあ、ハイリスク・ローリターンだわ」と一笑に付される。くそっ、時々さえたこと言いやがる。勤労精神の信奉者である母は、大学も高校も自分の才覚で生きていく力のないひ弱な連中の吹きだまりだと馬鹿にしていた。あの日、母はあきれた顔で「おまえはとことん怠け者で酔狂な奴だな」と笑っていた。その通りです、お母さん。

 けっきょく大学院は学費免除と奨学金で通う。つまりはみなさんの税金です。ただ、おかげでいまになって毎年やってくる奨学金の取り立てに苦労している。あの頃、よほど貧乏そうに見えたのか学生課の太ったおばさんがやけに同情してくれて、時々アルバイトを紹介してくれた。でも、俺、物好きなだけでかわいそうなわけじゃないんだってば。でも、おばさんありがとうな。

 教える側にまわって感じたことは、授業はつまらないものという前提をみなが暗黙に受け入れていることだ。でも、みな学校へ来る。そういうことになっているからだ。それを受け入れている生徒たちの素直さと問題意識のなさが時々猛烈に不気味に思える。きっと彼らには学校なんかやめちまえと言ってくれる親はいないんだろう。同時にそのことが教室を奇妙で息苦しい空間にしている。無理に来ないでもいいのに。授業で学ぶことは知ってると少しだけ便利だったり楽しかったりする程度にすぎない。その程度のことに毎日何時間も費やすのだから、こちらとしてはよほど物好きな奴だけが来てくれればいいやと思っている。私は自分がやっている授業が世のため人のためだなんてこれっぽっちも思っていない。自分が奇妙に感じていることをどうしてと問いかけているにすぎない。自分にとって奇妙なものは他の人がどう思っているのかも気になるので、授業という場を借りて若い人たちを巻き込んでいる。たしかに知識があることは自由な生き方を支えてくれるが、それを望まない者に押しつけることはできない。なので、私の退屈な問いに巻き込まれてつまらなそうにしている若い人たちをみると申し訳ない気分で一杯になり、とても叱る気にはなれない。そんなに辛そうな顔でこっちを見ないでくれよ、無理に授業に来なくて良いからさ、ほら駅前のパチンコ屋が新台入れ替えってポスター貼ってたよ。私は教師に辛辣な学生だったので、教壇に立っている自分の不様さを思うと時々いたたまれなくなる。

 わかりたいという欲求はある種の病ではないかと思う。理解し言語化し分類することはこの世界を支配下におくことだ。わかることで支配欲は満たされ、すっきりした気分になる。それは幼児的な全能願望の表現であり、部分的にはその欲求をかなえてくれる。ただ、そんな行為に毎日何時間も費やすことを考えると、卒業資格は物好きで変わり者であることの証明書に思えてくる。そんな証明書をありがたがり、就職や結婚で有利になるというのはなんと奇妙な社会だろう。ここはガリバーが流れ着いた空飛ぶ島なんだろうか。技術習得や資格所得のためのコースとわかりたい病の人のためのコースははっきり分けたほうが良いのかもしれない。いずれにしても就職先が決まった学生を無試験で卒業させちゃう学校なんて「私たちは何も教えていません」と空っぽのコンテンツを自ら暴露しているようなものだ。

 大学院は日々寝転がって古文書のようなフランス語とラテン語を読んですごす生活だった。研究室の雰囲気は盆栽をいじるように哲学史に注釈をつける作業こそが研究というもので、自分の頭で理屈をこねたい私はすぐにプロの研究者としてやっていくことに音を上げたが、それでもけっこう楽しい時期だった。なによりそこが学歴とも肩書きとも無縁な物好きな連中のための場であることが心地良かった。ほとんどの先生は私の語学力の欠如と文献学に対する勤勉さの欠如にあきれ、一握りの先生だけがなぜかやけに私とのやりとりを面白がってくれた。暇になると、近所の公園でハトをからかいながら缶ビール片手に日向ぼっこをしたり、色男気取りであちこちの女の子を口説いて後でつけが回ってきたりとまあそんな時期だった。というとなんだか高等遊民を気取っている嫌味な奴を連想しますが、実体はただの貧乏学生でした。

 学生の頃、近所の公園のベンチで昼間からビールを飲んでいると、通り過ぎるおばさんたちはなぜかみな敵意をはらんだまなざしをこちらに向けた。なかには「まったく若い人が昼間っから嫌あねぇ」「ほんと嫌あねぇ」とこちらまで聞こえる声で嫌みを言っていくおばさんたちまでいた。おばさんきついなあ。一方、スーツ姿でとぼとぼと通り過ぎるおじさんたちは、励ますような哀れむような妙に温かいまなざしをこちらへ向け、ときどき、こちらをちらちら見ながらひとりでうんうんうんとうなずいて去って行くおじさんもいた。会社で何かつらいことでもあったんだろうか。こちらとしてはおじさんたちの温かいまなざしのほうが堪えました。失踪願望は圧倒的に男性のほうが強いようです。中学校の授業で新宿西口のホームレスについて取り上げたときも、生徒たちの反応は男女ではっきり分かれて、女子生徒たちはたいてい辛辣でした。

 文献学を重視する哲学研究のスタイルでは、テキストは比較検討の対象ではなく、教えを請うありがたい教典になりがちで、古典の言説を無批判に受け入れる傾向が生じる。しかし、くり返し読まされたベルクソンの文明批評は植民地主義者の戯言にしか見えなかったし、ラマルクの進化論を原書講読している人はもはやなにがやりたいのかもわからなかった。現代の文化人類学なり進化生物学なりをフィードバックしながら古典を批判的に読み解くなら世界観の転換を知る上で有意義だけど、19世紀の文明観や生命観をただ思想としてありがたく拝読するという姿勢は無意味どころか有害に見える。「獲得形質は遺伝するんじゃないだろうか」なんて真顔で言われたら、どう返せば良いんだろう。黒人奴隷の子孫は生まれながらに奴隷的性質をそなえているとでも言いたいんだろうか。生物学の研究者なら誰もそんなの相手にしないのにさ、哲学研究にありがちな文献原理主義だとそういう奇妙な言説がまかり通ってしまう危険性がある。

 論文のテーマはデカルトだった。長い引用と細かい解釈。その作業から浮かび上がった考察は、私たちはこの世界について、「かたち」と「うごき」とを同時に知覚することができないということだった。たったそれだけだが、子供のころからの謎をひとつ解くことができました。静止した世界が各瞬間ごとに入れかわっていると考えていた私は、「かたち」を世界の第一義としてとらえていたから、「うごき」が把握できず、逆に「うごき」を世界の第一義としてとらえる人にとっては、すべての「かたち」は意味を持たなくなり不定形に溶けだしていく。そして言葉は変容する世界を静止させる。言葉にしてすくいとった瞬間にすでに世界は姿を変え、後には言葉だけが残る。大発見をした気分になって、何人かの友人に電話して聞いてみたところ、世界は不定形だというチベット仏教みたいな奴もいて妙に感心したおぼえがあります。デカルトは「かたち」をこの世界の第一義ととらえたので、「うごき」そのものである思考はこの世界には存在し得ないという二元論の立場をとった……なんてことはまあどうでもいいですね。大発見をしたつもりでしたが、後になってレヴィナスと養老孟司 が形と動きの知覚について同じことをずっと立派な文章で書いているのを見つけました。興味のある方はそちらをどうぞ。これはレヴィナスのいう「存在するという動詞」のことです。ときどき、酒の席で私の専攻が哲学だったと聞いてやけにからんでくる人に出会いますがどうかお手柔らかに。なぁアンタ、こういうのを問答法って言うんだろって、おいおい。

 大学院修了後、住宅会社に就職し短いサラリーマン生活を体験する。とびこみの営業とキャッチセールスみたいな電話をかけるのが主な業務で、そうやって新入社員に根性をつけさせるというのが、その会社のやり方のようだった。仕事の中身は別として、サラリーマンライフは新鮮だった。何千人もの人間が制服みたいなスーツを着て、そこでしか通用しない言葉と規範をもちいながら毎日遅くまでなんの役に立つのかわからないことをやってる様子は、奇妙で不思議な生態に思えた。帰属意識のない私は自分もその一員であるという意識はさらさらなく、いくら一緒に仕事をしていても自分が社会見学に来た小学生のような場違いな存在な気がしていた。

 私は研究室で専門書の編集をという話で入社したのだが、これはまったくの嘘だったらしく、いつの間にかこの先もとうぶん営業をやってもらうということになっていた。ちょうどバブルが崩壊した時期で、昨日まで十年間設計畑一筋でしたなんていう人まで営業所へ回されてきていた。営業なら残業手当を払わずに何時までもコキ使えるというわけだ。平均退社時刻は22時くらいだった。もちろんこれは私にとって不愉快な体験だったが、同時に嘘をついてまで私のような場違いな人間を採用しようとしたのが不思議に思える。腹が立つという以上に一体あれは何だったんだろうと狐につままれたような気分になる。会社にしても新人研修の何百万円もが無駄になってしまったわけだし。もしかしたら、採用担当者も営業時代のくせが抜けずに、口からでまかせのキャッチセールスをしてしまったんだろうか。だから学生のみなさん、会社はよく選びましょうね。テレビコマーシャルもやっている有名な会社だから安心だろうなんて大まちがい。日本では労働基準法を遵守している会社なんてほとんどありませんぜ。

 会社勤めをしていた年はやけに暑い夏だった。冷房のきいた地下鉄を下り、複雑に入り組んだ地下道を抜けて蟻のように地上へ這い上がると、あたりは強烈な日ざしと照り返しで原色の世界が広がっていた。新宿東口の雑踏は蜃気楼のようにゆらぎ、一歩踏み出すたびに湿った重たい空気がウールのスーツにまとわりついてきた。自分も道行く人も行き交う車も蜂蜜の中を動いているようだった。耳に押し込んであるラジオのイヤホンからは、ガーシュウィンの「パリのアメリカ人」が流れていた。けだるい管楽器の音とともに目の前の風景は遠ざかり、いま自分のしていることは遠い記憶の中の出来事のように思えた。1年後に自分が同じことをしていることは想像できなかった。

 外回りの仕事をさぼって図書館の雑誌コーナーで冷房にあたっていると、ひょろっと痩せた若者がやって来て、書棚の鉄道雑誌を手に取り、ページをめくりはじめた。彼は腕と脚を内側に奇妙にねじらせ、ときどきアーウーと低くうなり声を上げている。軽い知的障害を持っているようだ。やがて彼は鉄道雑誌の誌面から目を上げ、まわりを見回す。母親がいなくなっていることに気づいた彼は、不安そうな声で母親を呼ぶ。母親は来ない。彼の不安は高まり、かん高い声で母親を呼びつづける。「おかーさーんおかーさーんおかーさーんおかーさーん」、彼の連呼は止まらなくなり、それは悲鳴に似てくる。やがて彼の声には、奇妙な抑揚と節がつきはじめる。「おっかあさんーおっかあさんーおっかあさんーおっかあさんーおっかあさんー」、そのリズムに合わせて、彼は体を揺らし、踊りはじめる。言葉は意味を失い、音の抑揚とリズムが彼を支配する。とりわけ、「っかあ」の抑揚が気に入った様子で、ためをつくり、ひときわかん高い声で発声するとともに両腕を左右に大きく振る。まもなく、トイレから出てきた母親が「あらあら大きな声出しちゃダメよ」とムーミンママのような口調で彼をなだめながら近づいてきた。彼は、母親が来てもなお上機嫌で歌い、踊り続ける。「はいはいはい、ここにいますよ、迷惑だから踊りは外で踊ろうね」。ふたりはつないだ手をリズムに合わせて振りながら、図書館から去っていった。きっと音楽とダンスはこうしてはじまったんだろう。

 そんな一年足らずのサラリーマン生活の後、高校で社会科の講師をはじめる。そういや俺、教員免許あったっけという感じで当座の食いつなぎではじめたが、このページに掲載しているような演習授業がやってみたくなり現在に至っている。ある程度やりたい授業ができたら、その次を考えようと思っている。(だからこのページはその道程表みたいなもんです)。生徒指導や心の教育には興味ないので正式採用の教員になるつもりはない。若い人たちに人格教育やら生活指導やらを説くほどツラの皮は厚くないつもりだ。

 学校ってさ、学びたいものが集まってきて、その意欲にこたえられる授業をすることが一義的な役割じゃないの。学校が教育を受ける権利の保障としてあるというのなら、顔中ピアスだらけだろうとAVに出演していようとどこかの組員だろうと本人が学びたいのなら受け入れればいいし、学ぶ気がないのなら、甲子園のエースだろうと偏差値75だろうと次期ダライ・ラマだろうととっととお引き取り願う、それだけの単純な役割ではないのか。なんで生徒が万引きするとみなさん学校に電話かけて来るんだろう。夜遊びの監視や歯みがきの指導なんて親や地域社会の役割じゃないの。受験だって基本的に生徒の個人的なイベントなんだから、受験予備校みたいに受験指導を売り物にしたら、日本の学校から学歴の効果を取りのぞいたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものだ。そうしてカフカの迷宮は混沌を深めていく。

 まあいいやそんなこと。

 ときどき自分が水面に浮かんでいるアメンボウのように思える。波ひとつなく静まりかえった水面をアメンボウが滑っていく。アメンボウは水に接しているにもかかわらず、表面張力に乗り、身体を濡らすこともない。静止した水面は鏡のようにあたりの景色を反射している。空ははるか高みにあって、絹雲がゆっくりと流れている。アメンボウはそのまぶしい光と濃い空の青さが交錯する鏡の風景を現実だと思っている。アメンボウの足もとには、深い淵が広がっている。そこでは巨大なものの影がゆらめき、いくつもの事象を飲み込みながら、黒々とした深みへと消えていく。アメンボウは深い淵でおきている無数の生々しい事件を予感するが、それ以上のことはなにもわからない。なにかに触れることもたしかな感触もないまま、アメンボウはただ鮮やかな鏡の風景の中を上滑りしていくだけだ。

 私たちは小舟にゆられて日々この世界をただよっている漂流者なのではないか。波間をただよいつづけながらどこにもたどりつけず、世界の表面をただ上滑りしているだけの存在ではないのか。私たちはこの世界に存在しながら、この世界の生々しい感触に触れることすらなく、ただうわべをなでているだけではないのか。そして、物事のつるりとした表面にはじかれ、その下に広がる分厚く生々しい世界の有様には一歩も踏み込めずにいるのではないか。ときどきそんなふうに思う。

 祖母が死んだときの出来事だ。死の間際、祖母はじっと自分の手のひらを見つめていた。ぼけているとは思えない真剣なまなざしだった。やがて、祖母は自由が利かなくなった指先をゆっくりと動かし、空をにぎりしめた。それは自分がまもなく去ろうとしているこの世界の感触だ。祖母にはもう目の前の手のひらは奇妙な物体でしかなく、自分が動かしていることすらわからなくなっているようだった。ただ、そこでくりひろげられている不思議な現象をじっと見つめていた。あのとき祖母は深みにある生々しい事象に触れることができたんだろうか。そうあって欲しいと思う。

 いま・ここに自分がいるということほど不思議なことはない。時々、「そんな答えのでないことを考えるなんてよっぽど暇なんですね」という人に出会う。そんなとき言葉の真意がわからずにとまどう。本当にこの人はこんな不思議なことを平気で見過ごせるのだろうか。本当に考えずにいられるというのだろうか。答がでるとかでないとかそんなことはどうでもいい。一体この人はこれほど不思議なことに目を向けずに何を考えるというのだろう。日々、目の前で繰り広げられ、その渦中に自らも身を置いているというのに。

 いま・ここに自分がいることの奇妙さと不気味さを思うと、すべてのことは靄のかかった遠いできごとに思える。自分というあいまいでとらえどころのない感覚、ただそれがあることだけを明瞭に感じる。この感覚と知識にもとづく類推との間には大きな断絶がある。自分が人間であったり東京で暮らしていたりするのは、とりあえずそういう事になっているというだけで、本当のところはよくわからない。だから、ある日突然、欺く神だか悪魔だかが「なーんちゃって」と言いながら目の前で繰り広げられるこの世界に幕を引き、いままでの記憶と知識がすべて偽物であることを示すために楽屋裏を案内してくれたとしても、たぶんおどろかないだろう。目の前の風景が書き割りでないなんてどうして信じられる。性別・国籍・社会的地位といった属性が確固として自分と一体であるかのように言う人がいるけど、いったいどういう自己認識をしているんだろう。こっちは自分が人間なのかどうかもよくわからないというのに。メガネはカオの一部なんですか。

 最初に月面着陸に成功したアポロ11号のアームストロング船長は月面からのテレビ中継で有名な言葉を残した。すなわち「私にとっては小さな一歩だが人類にとっては大きな一歩だ」と。では、二番目に月に降り立った人間はどんな言葉を残したのか。こちらはほとんど知られていない。彼は待ちきれない子供のようにあわただしく着陸船を降り、うれしそうにこう言った。「ニールにとっては小さな一歩かもしれないけど私にとっては大きな一歩なんだよ」。そうして彼はドタバタと自分の足跡を月面に残していった。偉大な人である。

 ゲームは楽しい。いかにやるかだけを考えていればいい単純な世界の前のめりな楽しみ。ひたすら前に進むことだけを考え、立ち止まってなぜかと問うことはない。なんて痛快なんだろう。でも、やがて前に進むことに飽きたとき、その閉じた世界は急に色あせる。あれほど前のめりになっていたことがどうでもよくなり、単純さに逆に苛立ちをおぼえるようになる。それが潮時。後にははじめる前と何らかわらない自分と世界が残される。それでいい。目の前には常に不気味なほど分厚く色鮮やかな世界が広がっているのだから。そこでは日々立ち止まり、苛立ち、なぜと問い、くよくよと過去の出来事をふりかえる。私は人の考えよりも自分の考えを疑う。決着は常につかない。ただ圧倒されるのみだ。最後にそんな私の嫌いなものをいくつか。

よく吠える犬
 べつにあなたのことを遠回しに言っているわけではない。

手をたたいて笑う女
 なぜ手をたたく。うるせえよ。

女子アナ
 ひさしぶりに会った学生時代の友人たちがどいつもこいつも女子アナ大好きおやじになっていて、ひどくショックを受けています。居酒屋で酔っぱらって、誰それには紺のタイトスカートをはかせたいとか白いブラウスが透けていたとか、もうどうしようもなくおっさん。ワタクシ、人の趣味の悪さにケチをつけるのは大好きですが、あの時ばかりはいたたまれなくなりました。

勝負な会話
 会話を勝負の場だと思っている人が多いことに最近ようやく気づきました。会話は相互理解と事実確認のためのものだと思っている私は、この手の人と話をするとたいてい一方的に聞き役にまわってしまう。こちらが発言すると目がうつろにさまよいだし、話をぜんぜん聞いていない様子。たぶん、会話の主導権をにぎるきっかけをうかがっているんだろう。マスコミ関係者・営業・教師に多いタイプ。職業病かもしれない。彼らは自分の主張が通らないと露骨に不愉快そうな顔をする。でも、論理的整合性さえ見いだせれば、どちらの主張が通ったかなんてどうでもいいじゃない。

着飾るための本や音楽
 ひけらかしても賢そうには見えません。「読書するひまつぶし屋をわたしは憎む」、ニーチェ先生もそう言っています。あ、ひけらかしてしまった。みっともねえ。

なんでも人それぞれ
 5つあるリンゴのうち2つ食べたら残りは3つ。人によってリンゴが4つになったりもしないし2つになったりもしないので、残り3つというのは「私の考え」ではありません。事実に基づく論理的帰結に「私の考え」も「あなたの考え」も存在しない。なんでも人それぞれではありません。

銀行のロビーに飾ってある油絵
 銀行のロビーの油絵、歯医者の待合室のパステル画、デパートの店内に流れるクラシック、そのアートでございとばかりに全方位的に納まり返った様子に火をつけて燃やしてやりたいくらい怒りをおぼえる。すべての表現行為は、心の中の欠落から、やむにやまれぬ衝動にかられて行うものではないのか。表現されたものとそれと向き合う者とは常に一対一の関係ではないのか。私には、絵画サークルや文章教室で「腕を上げましたな」なんて言っている人たちがサルに思えてしかたない。駅前でハンドマイク片手にへたくそな自作の歌をがなり立てているにいちゃんたちのほうがずっと志が高いと思う。

一般人を連発する特権階級
 いつの間にかへんな言葉が使われるようになりました。この「一般人」をやたらと使う人種にはふた通りある。ひとつはマスコミ関係者とテレビタレント。もうひとつは役人。何様のつもりかはわからないが、よほど特権意識を持っているらしい。おいそこの一般人とはなんだこのおまわり。

(^^)と(笑)
 言葉がふわふわしてしまうのと読み手の感情を誘導しようとする押しつけがましさが気になって毛嫌いしていたんですが、インターネットのゲームで私も使ってみました。たしかに便利です。言葉を補ってくれるのでいったん使うようになると癖になります。小心者の私としては「キミに敵意はないヨ」「ボクは怒ってないヨ」と(^^)を連発しそうになります。とくに英語圏の人とのチャットでフェイスマークを連発していると、まるで自分が薄笑いを浮かべてハワイのショッピングモールをうろうろしている日本人観光客になった気分。なんか猛烈に情けないのでやっぱり使うのやめました。
 一方、(笑)の用法にはジョークであることを示すためだけでなく、相手をあざ笑うための使い方もあるようです。例えばこんな感じ。「あんたアタマいいね〜(笑)」。もしこんなメールが来たら果たし状をたたきつけられたと解釈するべきでしょう。てやんでえ上等じゃねえか。


早稲田大学
 ワセダ出身者がふたり以上そろうと、きまってやっぱりワセダの人間はひと味違うああワセダワセダなんたってワセダとはじまる。頭の禿げちょろけたおっさん同士でおお君は二期後輩かなんて言いあったりして、死ぬまで大学に籍をおいているつもりらしい。大学なんて自動車教習所といっしょで卒業したらもう部外者なんだから、とっとと忘れちゃえばいいのに。日本社会では田舎へ行くほど旧制中学の同窓会人脈が地元経済とその利権を牛耳っていたりしますが、ワセダ出身者はそれを日本全体でやろうとしているように見えます。だから田舎の人ほどワセダが好きなのかな。

前置き
 「気を悪くしないでほしいんですが」「こんなこと言って失礼かもしれませんが」「怒らないで聞いてね」などなど。前置きのある話にはろくなことがない。会話における前置きはたいていが解釈の強要です。単純な私は相手の言葉を額面通りに受けとめてしまうので、こういう人と会話をすると身動きがとれなくなる。私には怒る自由も気を悪くする自由もないというんだろうか。こんなかけひきめいた会話をするよりは胸ぐらつかんでがなり合ったほうがよっぽどせいせいとした気分になれます。野蛮人で結構だ。「あばれはっちゃく」の主人公、桜間長太郎の言動はいまも私の行動指針です。

 とまあ、そんな奴です。長くなりました。ご静聴どうも。

 ひまな人はメールでもください。当方、いちおうネットワークの住人ではなく生身の人間ですので、人生いろいろ、ひまつぶしくらいにはなると思います。「ピンクのクマちゃん」及び「これを10人に出すと幸せになれるメール」は間に合っています。問答法を試みたい方も上記の通りどうかひらにご容赦を。

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