A 安全性に問題がなく、自然環境への悪影響をおよぼさないよう対策をとれば、遺伝子を組み換えられたペットの生産・販売を認めるべきである。もしも「人間の都合で生き物を勝手に改造するのはまちがっている」という考え方をしたら、すべての家畜を否定することになる。ウシもブタもニワトリも、人間の生活のために長い年月をかけて性質を改造してきた家畜であり、これを否定したら、人間の生活が成り立たなくなってしまう。
犬や猫もオオカミやヤマネコを品種改良し、人間が扱いやすいようにした家畜である。犬はオオカミの中から人になつきやすいものを選び、一万年以上の時間をかけて、狩猟の補助や家畜の番に役立つよう品種改良してきた。さらにそうした犬の中から、より働く犬同士を交配させ、目的に合わせて様々な品種の犬がつくられてきたのである。また、猫はネズミの駆除のため、数千年前に北アフリカでヤマネコを放し飼いにするようになったことから、やがて世界中で飼育されるようになった。
家畜やペットの遺伝子操作もそうした品種改良の延長線上にあるものにすぎない。多くの人は品種改良によってつくりだされた「血統書つき」の犬や猫をありがたがるのに、その一方で、遺伝子組み換えの犬や猫については、まるでモンスターであるかのように拒絶するというのは、あきらかに矛盾した姿勢である。それは新しい技術への無知のために、ただ感情的に拒否しているにすぎない。
品種改良によってつくられた犬の中には、きわめて優れた性質を持っているものもいる。たとえば、ラブラドールレトリーバーは、賢く、性格がおだやかで、人間に従順なことから、しばしば盲導犬としてもちいられている。また、ジャーマンシェパードは、勇敢で力が強いという性質を生かして、しばしば警察犬として使われている。こうした品種改良に遺伝子組み換え技術を使うことで、さらに優れた性質の犬を開発できるはずである。将来、遺伝子組み換え技術によって、より賢く、より人間に従順で、より長生きで、より手間のかからない犬や猫が開発されるだろう。このような大きな可能性をもった技術をたんに不気味だからという感情的な理由だけで否定するべきではない。禁止・規制するよりも、上手に利用する方法を探していくべきである。
また、生命の設計図を操作することが本当に許されるのかという問いは、誰にもはっきりとした答えのでない問題である。そういう「生命観」や「倫理」というあいまいな理由で、遺伝子組み換えペットを規制するのは、自分の信じる宗教を他人に無理矢理おしつけるのと同じであり、ごう慢な行為ではないだろうか。
B 遺伝子を組み換えたペットを認めるべきではない。そもそもこの技術でつくりだされた生命の安全性や環境への影響を完全に予測することは不可能である。実際に、遺伝子組み換えトウモロコシの花粉が他のトウモロコシに受粉してしまい、在来種や野生種のトウモロコシに遺伝子汚染をもたらしていることが指摘されている。遺伝子組み換え技術は、従来の品種改良と異なり、遺伝子を直接操作し、短期間のうちに生命の本質を大規模に作りかえるものである。もしもこの遺伝子組み換え生物によって、大規模な遺伝子汚染や生態系の破壊がもたらされたら、取り返しのつかないことになってしまう。いくら実験室の中で安全性が証明できたからといって、自然環境の中でどういう事態が生じるかまでは予測できるものではない。
犬や猫をはじめとしたペットは、食料用の家畜や実験動物とは性質が異なる。食料用の家畜や医療用の実験動物のように、人命に直接関わる分野で限定的に遺伝子組み換えやクローン技術を用いるならまだしも、ただ人間の欲望を満たすために生命の遺伝子までも操作するようになれば、社会的な歯止めが失われてしまう危険性がある。犬や猫の役割は19世紀に大きく性質が変化した。それまでのように、狩猟の補助やネズミの駆除といった「仕事」のために飼育されるのではなく、純粋に愛玩動物として飼育されるようになった。その結果、「より可愛いペットがほしい」「よりめずらしいペットがほしい」という飼い主の美意識や所有欲を満たすために、近親交配による無理な繁殖が行われるようになり、この200年間で、ブルドッグはどんどんつぶれた顔へ、ダックスフントの脚はますます短く品種改良された。現在、「純血種」と呼ばれる血統書つきの犬や猫の多くは、近親交配をくり返したことによる遺伝的な病気や無理な品種改良による体質的な問題をかかえている。ブルドッグやパグはつぶれた顔になったためにしばしばいびきをかくし、場合によっては呼吸困難に陥ることもある。ダックスフントは短い脚になったために腰に負担がかかり、椎間板ヘルニアになりやすいという持病をかかえている。さらに、チワワのような小型犬に至っては、犬として本来ありえないサイズに品種改良されたため、人の手を借りて帝王切開をしないと出産することもできなくなっている。こうした品種改良は、それ自体、残酷ではないだろうか。遺伝子操作によって、より人間に都合の良い犬や猫をつくろうとする行為は、この延長線上にあるもので、無理な品種改良をいっそう加速させる危険性をはらんでいる。
日本でも最近のペットブームで、めずらしい品種の犬が散歩させられているのを見かけるようになった。その一方で、「じゃまだから」「なつかないから」「かわいくないから」という理由で、毎年何万匹もの犬や猫が捨てられ、保健所で殺されているという状況がある。もうこれ以上、人間の都合で生命をおもちゃにするべきではない。どこまでも人間に都合の良いおもちゃが欲しいのならば、ペットロボットを購入するべきである。
たしかに、「生命観」や「倫理」はひとりひとり異なっている。しかし、だからといって「人それぞれ」ですむ問題ではない。例えば、基本的人権や殺人の禁止は、科学的に証明できるものではないが、だからといって「人それぞれ」ということにしてしまったら、人間の社会が成り立たなくなってしまう。それと同様に、生物の遺伝子を人間の都合で操作することの是非についても、生命観や倫理という点から社会的な合意をつくっていく必要があるのではないだろうか。