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 slowdays 2001 +


2001

■ A piece of moment 1/26

 とくに何があったというわけでもなく久しぶりの更新です。この4ヶ月間で何があったかといえば、「スタートレック32時間」を観て、せっせと映画を観て、借りていたバイクを盗まれ、定期試験の問題を2回つくり、髪の毛を2回切り、腰を2回痛め、現在も腰痛である。バイクはナンバープレートだけが東村山で発見されたらしい。本体はいまごろ東南アジアの街角を走っているのかもしれない。土取、もうあきらめたほうがいいかも知らないぞ。あと、今年は年賀状は書かなかった。かわりにもう少し温かくなったら年賀状みたいに形式的でないカードを送ってみようと思う。そんなところだ。

 テレビでは今年から21世紀ということになっているらしい。やたらと「新世紀」という言葉を聞かされる。なんだかとってつけたような言葉で気に入らない。2000年も2001年も大差ないじゃないか。1999年から2000年になったときは3ケタ繰り上がっておおぉと感じたが、今回は「2001年だからなんだよ」って感じだ。スティーブン・グールドによると、21世紀は2000年からと2001年からの2説あるということだし、メディアがやたらと「今年から」新世紀とくり返すのはきっと何でもいいから話題にしたいからなんだろう。それにしても紋切り型な感じがする。

 電車の中で何人かの興味深い人物を見かけた。ひとりは小柄でしょぼしょぼした感じの40くらいの男性。少し頭も薄くなっていて区役所か中小企業の課長ふう。吊革につかまってじつにつまらなそうに本を読んでいる。どうせダイアモンド社あたりから出ている「管理職のための人心把握術」とかやたらと教訓的な時代小説でも読んでいるんだろうと思ってちらっと見たら、「うけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけけ」とスパミング気味の文字が並んでいた。びっくりした。初期の筒井康隆あたりかもしれない。さえないおじさんはそれをにこりともせず無表情で読み続けページをめくった。油断できない人物である。こういう人が職場では頭の悪いOLたちからさえない上司としてバカにされてながら自らもさえないおじさんを演じているのかもしれない。人生の神秘を思う。

 もうひとりは20代後半くらいのOLふうの女性。いちおうプラダのバッグをさげているがコートの縫い目から少々綿がはみ出ていたりして野暮ったい感じの身なりをしている。身なりなどかまわない人なんだろう。そんなことよりも、彼女、電車に入ってくるなりおもむろに本を広げ食い入るように読みふけっている。それはもう何事かというような気合いの入った表情でむさぼるようにページをめくっている。あまりの迫力に近寄りがたいオーラを放っている。やっぱりどんな本か気になるのでそれとなくのぞいてみると、「釣りキチ三平」だった。ちょうど場面は三平が魚信さんのアドバイスを得て伝説のイトウを釣り上げるところだった。むむむ。

 ある朝、電車の車内に「着メロ」が響きわたる。ハズカシー着メロだぜ。ピコピコという間抜けな電子音がどこかで聞いたような景気の良いメロディを奏でている。「ルパン三世」のテーマ曲である。うひゃあ。1小節が終わり2小節目に入る。誰も出ない。2小節目が終わり3小節目にはいる。さすがに周囲のものたちは「持ち主はどんなヤローだ?」と持ち主探しに視線をおよがせはじめる。4小節目に入ったところで、くたびれた感じの40代のおじさんがそおっと胸ポケットから携帯をとりだし電源をオフにした。周囲もあえて彼に視線を向けないようにしながら彼の動作をうかがっているみたいで、なんだか悪いところ見ちゃったなぁという感じ。おじさんは真っ赤な顔をしながら携帯を胸ポケットにしまっていた。ちょっとチャーミングだった。それにしても何で朝からこんな緊迫感を味わわねばならないのだ。着メロははずかしいのでやめてくれ。

 そんな年末年始であった。


■ A piece of moment 2/5

 すこし前、NHKの「クローズアップ現代」でヒットチャートを飾る女性シンガーの特集をやっていた。女性というよりも少女といったほうがいいような感じの思春期特有の「痛い」歌を歌う人たちで、椎名林檎と浜崎あゆみと何人かの新人歌手が取り上げられていた。どうやら番組はこういう「痛い」歌詞に共感する心の闇をかかえた現代の若者像というスジガキでまとめられているみたいだったが、こういう歌って何もいまにはじまったことじゃないじゃん。橘いずみやら中島みゆきやら綿々と続いている系譜に見えるし、そもそも、ここは自分のいる場所じゃないのではないかという思いや集団の中にいることの息苦しさ、日々くり返される日常への閉塞感、自分がいま・ここにいることのあてどなさといった思いは、「トムソーヤ」や「ライ麦畑」といったはるか以前の頃から青春小説のメインテーマだ。様々な人々によってくり返し物語られ歌われ描かれ、またそれらの作品は多くの人々の共感を得てきた。そういういたたまれない思いがあったからこそジョニー・ロットンはステージで暴れ回り、パティ・スミスは聴衆に向かって叫んだのではないのか。番組では司会のお姉さんが「中学生・高校生の頃って人生で一番楽しくて悩みのない時期なのに、いまの若者たちはこんなに多くの人が心の奥に闇をかかえているんですねえ」と驚いた顔でコメントをしていたが、私には彼女の薄っぺらい健全さのほうがよほど不気味だった。もしやこの人はネバーランドからやってきた人なんだろうか。彼女が保守系の政治家や財界人に人気があるというのもその辺の安心感によるものなのかもしれない。

 テレビというメディアはお茶の間のメディアとして、心の闇の部分をできるかぎり排除してきた。おそらく多くの人が心の中にかかえているであろうはずにも関わらず、テレビが想定した空想上のお茶の間からは生々しい感情や心の闇は取り除かれてきた。だからそれらを取りあげ報道するときは、「社会現象」というパッケージをかぶせることで異物として対象化される。自分の中にある生々しさや闇ではなく、どこかの誰かのかかえている激しい思いや闇というわけだ。人ごとなのでそれらの闇は茶の間を浸食することはない。安心だ。番組は丸く収まり、結果として視聴者は架空の闇のないお茶の間からちょっとだけスリルを味わい、「いまの世の中何がおきるかわからないねえ」と何事もなくもとの場所へ回帰していく。逆に音楽系のメディアをはじめとして一部の専門化されたメディアは、そうしたテレビメディアの白々しさへの反発からか、ひたすら内部からの視線を投げかけてくる。その結果閉じたオタク的世界ができあがる。生々しい思いを伝えようとするばかりで、自らを対象化してかえりみようとしないので、同じ思いを共有しないものにはまったく届かず、外部への波及力を持たない。まるで宗教団体の会報誌みたいだ。どちらもメディアの手法としては下だ。生々しい思い伝えつつそんな思いをいだいている自分を突き放してみせること、この両者が必要じゃないのか。ところで、ワタクシ、椎名林檎は言葉の感覚や自己演出に感心するんですが、浜崎あゆみはただ自意識を垂れ流しているだけに思えて聞くと恥ずかしくてたまらないんですけど。


■ A piece of moment 2/7

 どうもサラ金のテレビCMが気になる。ひとつはアコムの「むじん君」。私はこれをずっと「無尽君」だと思っていた。サラ金が無尽をはじめたとはおだやかではない。よく役所がそんなの認めたもんだとあきれつつ無尽君のネーミングに感心したりしていたのだが、何のことはない「無人君」で機械がサラ金の入会手続きをしてくれるというだけのものだった。でも、そうわかった後でもテレビで「アコムのむじん君」をみるとやっぱり無尽君を連想してしまってぎょっとする。サラ金が講をはじめるとしたらいったいどんなものになるんだろう、きっと越前屋や悪代官や豊田商事やアムウェイも一枚咬んでいるにちがいない。入会すると部屋に入りきらないくらいの洗剤が送られてくるんはずだ。きっとそうだ。ああ幸せな老後をおくるためにボクも無尽君に一口入会しなきゃ。友達にも勧めてあげなきゃね。もうひとつは「レイク・エンジェルズ」。チャーリーズ・エンジェルズのほうはぜんぜんみたいと思わないけど、あの3人組のおねえさんがあんまり下品なんでこれもつい見てしまう。とどめを刺すようにジーコがなんにも考えていない顔で「カンペキダァ〜」というのを聞くともう生きているのが嫌になるくらい脱力感をおぼえる。こんな破廉恥なコマーシャルがどうして放送禁止にならないんだろう。俺、どんなことがあってもレイク・エンジェルズの世話にだけはなりたくないな。


■ A piece of moment 2/8

 朝、学校でタバコを吸っていたら、キョートウセンセーが神妙な顔で近づいてきて「ん〜センセイ」と切り出す。何事かと身構えたら、どうも休み時間に生徒とウノをやっていたことが問題らしい。そうか中学校はトランプの持ち込みは禁止だったのね。生徒が朗らかな声で「センセーもいっしょにウノやらない?」と誘ってきたのでトランプが禁止だなんて思いもよらなかったよ。ま、どっちにしろトランプくらいかわいいもんだ。はいはいやりましたやりました楽しませてもらいましたと笑って答えると、キョートウセンセー、まだ神妙な顔で「あ、やったんですか、え、ええちょっと生徒からウノのことを小耳にはさんだもので」と言いにくそうに続ける。もしや学年会で問題にでもなったんだろうか。私は社会科を教えているといっても学校の内部事情に関しては部外者みたいなものなので、こういう時、自分の感覚とそれぞれの学校の感覚とのずれに戸惑う。結局、その話題はそのままなごやかな世間話になって終わってしまったが、ちょっと気になる出来事だった。あれはいったい何だったんだろう。

 トランプなどのゲームに関しては、小学校では子供がもってくることを認めているところが多い。雨の日は休み時間にみんなで楽しく遊ぼうというわけで、担任もいっしょになって水道管ゲームをやっていたりする。ところが中学になるとほとんどの学校でこの種のゲームは持ち込み禁止になる。持ってきた奴は見つかると没収され、職員室できびしく説教されることになる。小学校も中学校も休み時間はみんなで楽しく遊ぼうという基本方針は変わらないはずなのにこの落差はなぜか?中学だと授業中もゲームをやって注意されてもやめない奴がでてくるからだそうだ。休み時間のトランプくらいべつにいいような気もするが、トランプを認めるとじゃあなんで麻雀はダメなんだ花札もやらせろオレはサバイバルゲームがやりたいときりがなくなるので全部ダメとなる。基本的に中学校の規則は「生徒は悪いことをするものである」という前提から出発しているのでこうなる。同じ義務教育でも小学校と中学校とでは学校生活についての発想が180度異なっている感じだ。自分が小学校から中学校へ上がったときもその落差に戸惑った記憶がある。小学校ののんきな気分のまま中学でも同じようにふるまいずいぶん担任と衝突した。「キミは自由人だからなあ」と担任氏は困った顔でよく言っていたがきっとさぞ手を焼いたことだろう。

 じゃあ、高校はどうかというとこれはもう学校によって千差万別で、去年教えた工業高校では授業中に8割くらいがケータイをいじっていたぞ。あれはどうなってんだ。なかには授業中もケータイで話し込んでいたりして、「あ〜もしもし〜オレェ、ああ、そう、いま授業やってるぅ〜ああぁ〜つ〜まんねえ授業なんだぁ〜で、そっちどうよ?」ってどうよじゃねえぞどうよじゃオレの目の前でてめえどういう神経してんだというのまでいたりした。片っ端から没収してその場で床にたたきつけて「授業中にケータイいじっているお前が悪い」と言い放ってみたかったが、学校としては何の対処もしていないみたいでどの授業でも野放し状態だった。橋本県知事も成人式で激怒ってやつだな。あれでよく学校が成り立っているもんだと妙なところで感心したおぼえがある。あ、成り立っていないのか。ともかくあれを経験してしまうと休み時間のトランプを問題にするほうがどうかしている気になる。もちろん授業中にやっていたら話が違ってくるけど。


■ A piece of moment 3/16

 オウム真理教の「サティアン」跡に建てられたテーマパーク「ガリバーパーク」が資金繰りの悪化で閉鎖されるらしい。毎日新聞の1面に写真入りで載っていた。そんなテーマパークが山梨県にあったこと自体知らなかったが、新聞に載っていたテーマパークの写真を見ていて気になることがあった。ガリバーがやたらと巨大なのだ。これはおかしい。どうもその場面は小人国にガリバーが漂流してとらえられた場面を描写しているようだが、ガリバーが巨人なのではない。そこの住人が小人なのである。ガリバーを大きくつくるのでなくガリバーに縄を掛けている住人たちを小さくつくるべきである。確かに大きさなど相対的なものだ。どちらの視点で見るかで大きさの基準も変わる。そうそうなのだ。なぜかこのガリバーの物語、私たちはガリバーの視点から読むことがない。物語は明らかにガリバーの一人称で語られ、彼の視点にそってすすんでいくにもかかわらず、多くの日本人は小人の視点から自分たちの国に「巨人」ガリバーがやってきた物語だと解釈しているような気がする。これは日本人の多くが驕り高ぶった18世紀の西洋人であるガリバーになど感情移入する気になれないためか、黒船以来の西洋人コンプレックスなのか、それとも子供のころにガリバーの物語に出会うために巨大なガリバーよりも小さな小人国の住人の視点にたってしまうのか、はたまた古館伊知朗がプロレス中継でアンドレ・ザ・ジャイアントが出てくるたびに「現代のガリバー!!」と連呼していたためか、ともかく「ガリバー=巨人」というイメージがある。学生のころ、小学3年生相手に教育実習をしていたとき、彼らのあまりの小ささに「まるでガリバーになった気分だよ」と言った途端、小さい人たちは「ガリバーだあ〜」と足もとにじゃれついてきた。ああやっぱり勘違いしてる。ガリバーをめぐるこの状況というのは日本特有のものなんだろうか。イギリス人のジョンに聞いてみようと思う。

 読みたいマンガが何冊かあるのだが、ぜんぜんどこの本屋にもおいていない。ひとつは倉多江美の「お父さんはいそがない」。連載が「ビックコミック」から「プチフラワー」に移ってやっと単行本化されたらしいがまったく見かけない。もうひとつは「ネムキ」に連載されている諸星大二郎の「栞と紙魚子」シリーズの3巻。たしかだいぶ前にでたはずなんだけど、こちらは連載誌の「ネムキ」自体見かけなくなってしまった。もしや雑誌が廃刊になって単行本も流れてしまったんだろうか。こうして探してみてあらためて思ったんだけど、どこの本屋もマンガのコーナーが少なくなっているような気がする。マンガって最近売れていないの?ともかく、これらのマンガを本屋で見かけたら御一報ください。関係ないけど、勤め先の栄養士さん(40代半ばくらいの女性)が萩尾望都を愛読していると話していた。今、マンガの読者の中心層というのは案外これくらいの世代なのかもしれない。


■ A piece of moment 4/2

 「Ever Quest」というネットワークゲームがある。アメリカ製の多人数同時参加型のネットワークロールプレイングゲームで、日本でふつうにくらしているとまったく縁のない世界だが、知る人ぞ知るという感じで、それはもう濃い世界が展開されている。サーバーが立ち上げられたのが2年前で、世界中から約2000人がサーバーごとに集い、怪物を倒したり品物を売り買いしたり言い争ったり助け合ったり決闘したり派閥をつくったり友達になったり絶交したりなんてことをくり返している。ときにはゲームと関係のないバカ話でもりあがったりもする。片言の英語で大勢のアメリカ人の中に乗り込んでいく様子はバックパッカーの貧乏旅行を連想させる。もちろんかなりの数の日本人もいて、日本語の通じるコミュニティをつくり、共にゲームをプレイする仲間を募っている。怪物退治のゲームといってもコミュニケーション第一なので、当然、自分勝手なプレイヤーやだらしないプレイヤーはしだいにまわりから相手にされなくなっていく。それは現実といっしょだ。そのためこの種のゲームとしては比較的プレイヤーの年齢層は高い。家庭持ちのパパやママも仕事から帰ってログインしていたりするようだ。この2年間でゲームサーバーはしだいに増え、現在はそんな小宇宙が数十もつくられている。有料のネットワークゲームとしては成功しているといっていいだろう。

 このゲーム、「ドラクエ」の延長線上にあることは確かなのだが、ドラクエと決定的に異なる点がいくつかある。まず、多人数同時参加型のゲームなので、ゲーム内で知り合った者といっしょに戦うことが前提になっている。そのため怪物は非常に強く、ゲームの難易度は高い。うかうかしているとすぐ自分のキャラクターは死んでしまう。個人個人の技量もさることながら、コミュニケーションと指導力、人望、戦略の徹底が要求される。巨大なドラゴンを倒すためには100人以上の仲間を集めなければ歯が立たないなんてこともある。当然、非常に時間がかかる。人集めに数十分から数時間、打ち合わせと戦いの準備にまた数十分から数時間という感じで、そうやってようやく戦いが始まる。戦って何が得られるかというと、経験値と武器や防具、魔法、あとゲーム内で通用するお金である。経験値がある程度たまるとレベルが上がって、自分のキャラクターはしだいに強くなっていく。武器や防具も同様にそれを得ることで自分のキャラクターは強化され、より強い怪物と戦えるようになっていく。それらはプログラム上の電子データにすぎないのだが、向こう側の世界にいるとそれはきわめてリアルに感じられる。なんといっても、自分のキャラクターと手に入れた装備は半永久的にサーバーに残される。長い時間をかけて強化されたキャラクターはひと財産だ。そうしてプレイヤーは向こう側の世界へのめり込んでいく。そう、このゲーム、徹底してのめり込み型のゲームだ。つくっている側もその点はよくわかっていて、強力な武器や防具は非常に手に入れにくくなっている。数時間、数十時間と怪物を倒し続けても、しばしばそれらは得られない。手に入らないとますますほしくなる。そうして、ちょうど馬車馬の目の前にぶら下げられた人参のように、お宝にうえたプレイヤーを次の冒険へかりたたせる。

 これだけお宝が手に入りにくいとプレイヤー間の取り引きもさかんになる。他のお宝と物々交換したり、ゲーム内のお金で売り買いされたりとゲーム世界では常時お宝の取り引きが行われている。ちょうど蚤の市やバザーのように売り買いしたいプレイヤーばかり集まる場所も形成されている。それは制作者が意図して用意したものではない。必要にせまられたプレイヤーたちがそれぞれのお宝を持ち寄り、しだいに取り引きが慣習化されていった。その様子はまるでひとつの社会に経済が生まれ育っていく様子を見るようだ。それは完全な自由取り引きで、制作者側による一切の制度も価格統制もないため、同じ品物でも高い値をつける者もいれば安く売る者もいる。目新しく貴重な品ほどその差は大きいが、流通量が増加するに従ってしだいに「相場」が形成されていく。コミュニティの形成についての実験モデルとしても興味深い。こうしたオープンな市場での取り引きだけでなく、仲間内でのやりとりもさかんだ。親しい者に安く売ったり上げたり、もらったりという感じで、こちらは互助会や生活協同組合を連想させる。なかには現実のお金で取り引きしようという者もいるようだ。Webの掲示板を見ると、ゲーム内のお金やお宝を「〜を4万円で買います」「〜を200ドルで売ります」と告知しているを見かける。多くのプレイヤーはこうした現実経済への浸食を不快に感じているようで、私もこれには抵抗をおぼえるひとりだが、いっぽうであれだけリアルに機能している世界の財産を現実のお金に換算したいという気持ちもわからなくはない。その様子を見ていると、貨幣とはいったいなんだろうと形而上的な問いかけがアタマをよぎってくる。現実世界の貨幣価値もまた幻想にすぎないではないか、と。

 では、そうしてレベルが上がり強力な装備を手に入れたプレイヤーは何をするのか?答えは単純で、よりレベルを上げより良い装備を手に入れるために、さらに強い怪物と戦うことになる。ゲームの世界にはレベルが上がらないと歯が立たない怪物たちがいくらでも用意されている。プレイヤーキャラクターの平均レベルが上がって強い怪物たちが不足してくると、制作者たちはすかさずもっと倒しにくく、かつもっと性能の良いお宝をだす怪物たちを用意してくれる。もちろんドラクエのようなラストシーンは存在しない。悪の親玉も破壊の王も存在しない。ゲームが終わってしまうからだ。こうして、プレイヤーたちは終わりのないゲーム世界で際限のない冒険をくり返すことになる。単純だからこそひたすら前のめりに楽しめるというわけで、そのくり返しは中毒性をもっている。そんな世界にどっぷりと浸かった人を仲間内では「廃人」と呼び、互いに自虐的に笑い合っている。長時間のゲームプレイを要求されるこのゲーム、明らかに生活に影響をもたらす。

 どうです、あなたもやってみたくなりましたか?え?まっぴら?楽しいのに。興味を持った人は検索サイトで「everquest」と入力して検索してみてください。あなたの知らないひたすら濃い世界が広がっています。
 → 検索デスク

 個人的にはこちらの「Diary」が気に入っています。
 → EverQuest BBS


■ A piece of moment 4/9

 ちびちび読んでいたロバート・ホワイティングの「東京アンダーワールド」がようやく読み終わる。戦後の焼け跡から現在に至るまでの日米関係を不良ガイジン・ヤクザ・財界人・政治家に焦点をあてて浮かび上がらせているという内容。ホワイティングのいつもながらの大げさな語り口と日本社会について毎回くり返される紋切り型の考察にはややくどい印象も受けたが、今回は扱っている内容自体が魅力的だった。通俗文化と裏社会にはその社会の傾向が際だって現れる。特に日本社会の場合は裏社会が実質的に政治と経済を動かしているのでその傾向は顕著だ。そこをすくい取ってみせる。日本社会の外部に対する閉鎖性と内部に強要する同質性、無数の制度と法律でがんじがらめの表の顔の裏に広がっているコネとワイロとセッタイがものをいうグレーゾーン、アメリカ社会に対するあこがれと敵意をはらんだコンプレックス、一方で、戦後に支配者として日本に入ってきて、世界経済を牛耳り自分たちの価値観と習慣こそが普遍的だと思いこんでいる傲慢なアメリカ人たち。その両者がぶつかりすれ違うところで様々な事件が生じていく。ただ、この社会にくらす者のひとりとしては読み終えても依然として残る初歩的な疑問がある。ヤクザ・右翼・フィクサーといった裏の人間と政治家・大企業の経営者といった表社会の決定権をにぎっている人間とが互いを利用しながら密接につながっているというのは言わずもがなの日本社会の特徴なのだが、この構造で利益を得られのはきわめて特殊な社会階層に属する者に限られる。利益を得られないその他大勢の者たちはなぜ誰もが知っているこの構造を放置したままにしているのだろう。くり返し同じような事件が生じ、その度に騒がれるが、一時騒がれるだけで何も変わらない。そしてまた同じような事件がおきる。多くの者は明らかに不利益を被っているというのになぜ腹をたてないのだろう。読んでも疑問は解けないばかりかますますわからなくなる。それにしてもあの田中角栄がいまだに「好きな総理大臣」の筆頭にあげられるのをみるとやはりどうかしてるんじゃないかと思う。


■ A piece of moment 4/10

 テレビに田中麗奈が映っている。この人も不思議なポジションにいるタレントだ。いつまでたっても「ワタシ、テレビにでちゃいました」という感じのシロウトふうの印象を受ける。とくにかわいいわけでもないし、キャラクターがユニークなわけでもないし、話し上手なわけでも芝居が上手いわけでもない。テレビタレント特有の笑顔いっぱいで愛嬌を振りまく様子もない。そんなワタシがコマーシャルにでちゃいました、舞台にでちゃいました、ドラマにもでちゃいましたって感じで、なぜかいつの間にかポジションを確立しつつある。「なっちゃん」のコマーシャルがヒットしたのは、テレビというコテコテに演出された場に場違いな彼女が出演してしまったことの新鮮さだと思うのだけど、同じ調子で2本目3本目のコマーシャルもつくられるともうちっとも新鮮ではない。すぐに飽きられて消えていくか極端なイメージチェンジをはかるしかないのだろうと思っていたのだけど、いつの間にか彼女のキャラクターは定着し、すっかり知名度を得ているようで、明らかにもはやシロウトではない。じゃあいったい彼女のパブリックイメージはなんなのだろう。彼女がドラマに出演しているのを見ると、テレビ業界全体で「なっちゃん」のパロディをやっているような気がしてくる。彼女のファン層というのも気になる。おじさんなのかおばさんなのか若い女なのか若い男なのかあるいはおこちゃまなのかはたまたもともとそんなものどこにもいないのか?


■ A piece of moment 4/11

 面接試験では能力だけでなく人柄も判断するらしい。ペーパーテストだけではわからない部分を直接会って話をすることで見きわめるようだ。たいていまじめで明るくて人の話をすばやく理解し気が利く人間が評価される。こざっぱりとした身なりをしているかも判断材料になるらしい。入社試験なら「使える人材」を求めるためにそれでも良いのだが、入学試験での基準もそれと同じでよいのだろうかと思う。学校の役割は有能な人材を集めることではなく、もっと単純で、明るかろうが暗かろうがとんがった格好をしていようが性格が悪かろうが、学ぶ意欲がある者は受け入れ、その意欲に応えられる授業をすることではないのか。そりゃ授業をやる側から言えば、性格が悪くて嫌味な質問や意地の悪い発言をする奴はやりにくいんだけど、それでも本人が学びたいと思っているなら、カネとって授業をしているプロとしてはそれくらい我慢するべきだ。逆にぜんぜん学ぶ気もなく注意しても一向に改まらない者にお願いしてまで授業に出席してもらうことはないので、義務教育でないならとっととお引き取り願えばいいのではないかと思う。なのになぜ入学試験の面接で受験者の人柄までみようとするんだろう。すごく余計なことをしているように思える。なんてことを考えつつ、もうすぐ新学期の授業が始まる。


■ A piece of moment 4/18

 新年度の授業の打ち合わせにいってくる。単位制の高校ということで面白そうなので授業を引き受けたが、あんまり遠いんで授業をやる前からめげてきた。片道2時間、往復4時間。まるで地の果てである。往復4時間かけて50分の授業ヒトコマ。別の日にフタコマ。あまりに条件が悪すぎることに引き受けた今になって気づく。はたしてこんなの1年間続けられるのだろうか。せめて授業ぐらい楽しくできればと思うが、生徒たちが授業中ずっとケータイいじっていたらどうしよう。


■ A piece of moment 4/21

 単位制の高校で授業をする。まず職員室で生徒の名表をもらう。7人しかいない。やけに広い学校中を迷いに迷ってようやく教室にたどりつくと、教室には6人しかいない。夜の部の授業なのでとくに人数が少ないらしい。生徒は昼間にバイトしているのもいるみたいで、おれ倉庫で仕分けやってます、おれはカラオケ屋で店員、あ、もしかしてタンバリンならしながら店の中を走り回ったりしてるのあれカワイイよねなんて感じでなごやかに授業はすすむ。授業は現代社会の演習授業だったのでまるでゼミみたいだった。お茶でも飲みながらやるとちょうど良いかも知れない。1回目のテーマは出稼ぎ外国人労働者。雰囲気が雰囲気なので生徒からはそれなりに意見や体験談なんかもでて、こういう授業には向いている感じだった。この手の演習授業は30人も40人もいる中で教師が大声をだして講義調の話し方ですすめてしまうとうまくいかないし。ただ、英語や数学みたいに、ある程度スパルタンかつ積み上げ式に展開していく授業はあの雰囲気でやるのは難しそうだ。

 中学での授業もはじまる。こちらは1年生の地理。中学1年生はやけに小さくて、もうほとんど幼児番組のお兄さんになった気分。地球がまるいって知ってるかい?なんて大声で聞いたりして、我ながらやっていて少しテレた。ただ新宿の少年少女たちはあいかわらず屈託がなくてノリがよいのでたすかる。新宿の繁華街の真ん中にあるのに生徒たちはなぜか青春のけだるさみたいなのとは無縁で不思議な気がする。


■ A piece of moment 4/25

 夜の部のヒトコマ授業のために北赤羽まで行く。教室にはいると生徒は3人しかいない。う。本当に出席率の悪いゼミみたい。資料づくりに3時間もかけたのに。授業は世間話を交えて外国人労働者について生徒たちと議論する。あっという間に50分終わる。こういう授業は2時間、または3時間続きのほうがやりやすい。授業が終わって学食で夕飯。なんだか赤羽まで学食を食いにきた気分になる。かえりに霧雨が降ってきてぬれて帰宅。


■ A piece of moment 6/3

 テレビでイチローの試合を中継している。今日も打ったらしい。でも、彼のバッティングは見ていてあまり面白くない。ぺちぺちと三遊間に転がす様子は力感にかけていて、いくらヒットを増産してもはいはいよく打つねという冷めて気分になる。攻走守三拍子そろっているところも、これまた良い選手の典型みたいでしらける。ひとつふたつあらがある選手のほうが見ている方としてはずっと楽しい。マイケル・ジョーダンよりパトリック・ユーイングだし、千代の富士より小錦だ。

 イチローの唯一のすくいは人格的に問題があることだけど、なぜかこちらはぜんぜん話題にならなくなった。不倫スキャンダルを2000万でもみ消そうとしたとか、相手の人妻をソープ嬢なみに扱っていたとか、親しくつきあっていたスポーツライターを利用価値がないと判断した途端に手のひらを返して切り捨て訴訟にまでなったとか、インタビューは女のレポーターしか受けつけないとか色々言われていたことがあったが、メジャーで活躍するようになるとそんなことは何もなかったかのように試合での活躍ばかりが報道されるようになった。スポーツメディアにとって現在のイチローは、メジャーリーグで活躍するスーパースターという文脈でのみ語られる商品なのだろう。彼のスキャンダルや人格的欠陥はスター選手としての偶像をそこねるので、商売の都合でとりあえず今のところはみな口をつぐんでいるという雰囲気を感じる。きっとイチローが打てなくなって商品価値が下がったころに再びこうしたスキャンダルが吹き出してくるはずだ。勝てなくなった貴ノ花や打てなくなった清原がそうだったように。

 しかし、このあまりに一面的で薄っぺらい偶像に白々しさを感じる者は本当にいないのだろうか。スポーツの試合を見るとき、本当に人々はディズニーのおとぎ話のような文脈を望んでいるのだろうか。私にはとても信じられない。人格や社会生活に問題を抱えた人間が試合で活躍するからこそ面白いのではないのか。金に汚くあくどい投資をしてトラブルを抱えている選手がなぜか20勝したり、暴力犯罪と麻薬所持でしょっちゅう起訴されている選手が3割5分を打ったりするところが可笑しくて悲しくてビバ人間という気分を味わわせてくれるのではないのか。そもそも彼らは人格的に優れているからプロ選手になったのではないのだ。子供たちの手本などくそくらえだ。もちろん尊敬には値しないし、個人的につきあいたいとも思わないが、人間的な興味はわく。選手にたいして人間的興味を感じないスポーツの試合など、身体と丸い物体が動き回るだけの物理現象にすぎない。


■ A piece of moment 6/20

 1年に1度くらい、無性に清涼飲料水が飲みたくなることがある。ふだん飲まないので、こういうときは濃厚で甘くて毒々しい色をしたアメリカンなものが飲みたくなる。マウンテンデューとかドクターペッパーとかペプシとかコークとか。今回は猛烈にドクターペッパーが飲みたくなった。チェリー味でやたらと炭酸がきつくて薬品の風味がする何ともいえない濃い味が、ああ思い出すだけでたまらなく飲みたい、というわけでコンビニに直行。なぜか置いていない。そういえば最近見かけなくなったなぁと2、3軒のコンビニと西友をまわってみたが、どこにも置いていない。棚には、お茶とCCレモンやなっちゃんやポカリスウェットみたいな水っぽくて味の薄いものばかりが並んでいる。でも、私はこの手のものはめったに飲まないんだから、そんなカロリー表示がボトルに書いてあるようなうすいやつじゃなくて、もっとべったりと甘くてアメリカンなやつが飲みたいんだよ。

 アメリカンな甘い飲み物はどこの店からもすっかり姿を消していた。ドクターペッパーやマウンテンデューみたいな比較的マイナーなものだけでなく、スプライトまでもなくなっていた。この手のものはアメリカから直接輸入しているのではなくて、サントリーやキリンといった日本の飲料メーカーがライセンス生産をしている。商品が売れなくなったら契約をうち切ってしまって、少数の愛好家のために細々と製造を続けるようなことはしないのかもしれない。ドクターペッパーが飲みたい私はアメリカに行くか輸入食品を扱っている店に行くしかないらしい。飲めないとわかったらよけいに飲みたくなった。ああ……。

 コークとペプシとファンタはいちおう置いてあったが、棚のすみのほうに追いやられていて、以前ほどは売れていないみたいだった。でも、水みたいな飲み物なら水を飲んだほうがいいし、お茶だったら自分で入れたほうがいい。120円もはらって飲む気はしない。仕方がないので安売りをしていたCCグレープを買ってきたが、あまりおいしくなかった。


■ A piece of moment 6/27

 ドクターペッパー見つかりました。コカコーラからまだ生産されてるんですね。近所の自販機を片っ端からチェックしたところ、コカコーラの自販機の中に、ドクターペッパーが入っているものがいくつかありました。

 で、飲んでみました。記憶の中にある味よりもふつうの飲み物でした。もっと複雑で舌にクスリっぽい強烈な後味が残るものを思い浮かべていたんですが、わりとマイルドでおいしかったです。ただ、まあこんなもんかという感じで、ひと缶飲んで満足しました。もう当分いいです。まだ売ってるよと教えてくれたみなさん、ありがとう。

 先日の「60ミニッツ」では、アンディ・ルーニーがアメリカのソフトドリンクを紹介しながら文句をつけていました。アンディ・ルーニーのコメントは添加物がどうこうという話で、まあいまさらという感じでしたが、それよりも映像で紹介されているボトルのデザインがどれも強烈で見入ってしまいました。どれもこれも清涼飲料のボトルに見えません。エンジンオイルか液体洗剤のボトルに見えます。アメリカンズはあれをぐびぐびやるのかと圧倒されました。あ、今回はていねい語だ。関係ないですが、ワタクシ、マルシア語を聞くと、胃の下のあたりがむずむずする感触をおぼえるのでございますですよ。


■ A piece of moment 7/15

 管理人なるおばさんがやってきて、庭の雑草を片っ端から抜いていった。雑草の生い茂るなかに、露草がかわいい花をつけていたり、小さい緑色のバッタが集まって、ささやかな生態系ができあがっていたのに、そんなことはまったくおかまいなしに引っこ抜いていった。どうして田舎のばばあは雑草というと親のかたきのようにむしり取ろうとするんだろう。おかげで庭は赤土むき出しのはげ坊主になってしまった。この暑さでは土埃がたってかなわん。おばさんはさらに、「ああ、さっぱりしたろ、おにいちゃん、たまには自分で草取りしなきゃだめだよ〜」とのたまうので、地面むきだしでは暑くてまいります、今度からは少し緑を残してくださいと応える。管理人のおばさんは宇宙人でも見るような目でこちらを見ていた。砂漠化反対、森林伐採反対である。


■ A piece of moment 7/17

 中学の選択社会で生徒に書いてもらった感想文をどうにか文集のかたちにして生徒たちに配る。ぎりぎり1学期に間にあわせることができた。テーマは死刑制度だったが、生徒の感想はカタイのやら変なのやらアホなのもあって、それなりに楽しんで読めた。ただ、手書きの作文を全員ぶん入力していく作業はあいかわらず骨が折れる。もし生徒が全員コンピューターをあつかえるのなら、レポートはメールで送ってきてもらいたいところだ。それなら文集もあっという間にできあがります。


■ A piece of moment 7/20

 暑くて何もする気がおきない。部屋中のものが自分の体温よりも高くて、さわるとホカホカする。たまらん。内田百聞が季節というのは本来暑いか寒いかしかないのだといっていたのを思いだす。春も秋もたんに季節の境目に過ぎない。ジョンは毎年、夏になるたびに東京を脱出してスコットランドに帰りたがっていたが、元気だろうか。

 あまりの暑さに午後から近所のデニーズへ逃げ込んで、アイスクリーム一杯で3時間ねばる。おかげでハリーポッターの3巻が読み終わる。3冊の中では1番面白かった。


■ A piece of moment 7/21

 暑さから逃げるために近所の図書館へ行くが、やけに冷房がなまぬるい。冷やしすぎは体に良くないとか、省エネだとかという正論は良いから、ぎんぎんに冷房をきかせて欲しいものである。夏の図書館なんて、どうせみんな涼みにきてるんだしさあ。で、結局、冷気の吹き出し口のところへ椅子を運んで、陣取ることにする。冷たい風が気持ちよくて、暑さによる睡眠不足から、眠ってしまった。

 ハリーポッターだけど、主人公のハリーがカッコ良くて何でもできすぎるのところが引っかかる。主人公の描写に作者の願望を感じてしまって、いかにも女の人が書いた男の子が主人公の物語という気がしてしまう。少女マンガの学園ものに通じるものを感じる。この手の物語はもう少し内省的なほうが好みだ。「指輪物語」を読みはじめるが、こちらは延々と続く情景描写にはやくも音を上げている。話はいたって単純で、ふとしたことから世界に破滅をもたらす指輪を手に入れてしまった主人公が、指輪を悪者の手に渡さないために、仲間たちと長い旅の末、指輪を破壊する、以上、終わり。なのだが、それはもう延々と風景やら着てる服やら空の色やら生えてる木やら川の流れについての情景描写が続く。なんせ全6巻だ。読みすすめるのはかなりの苦行で、度々、斜め読みで読み飛ばしたくなる欲求にかられる。はたして読み飛ばさずにラストまでたどりつけるのだろうか。


■ A piece of moment 7/24

 ジョン・ダワーのピュリッツァー賞受賞作"Embracing Defeat"の翻訳が「敗北を抱きしめて」というタイトルで岩波から出版された。ジョン・ダワーは戦中戦後の日米関係が専門の歴史学者で、この本はその集大成といえる力作だ。以前から気になっていた本で、ぜひ読みたいのだが、近所の本屋をまわってみたところ、どこにも置いていなかった。

 1995年に、スミソニアン博物館の「原爆展」をめぐってアメリカで一大論争になったことがあったが、その時にジョン・ダワーがNHKのインタビューで語っていた言葉が印象的だった。アメリカでは、第2次世界大戦はドイツや日本の軍事独裁政権から正義と民主主義を守った「よい戦争」だったというコンセンサスができあがっている。とくに保守派はその勧善懲悪の文脈の中でのみ解釈しようする。その文脈に疑問を差しはさむ行為は、正義のために戦った兵士たちへの冒涜だとみなされる。そのため、アメリカで原爆といえば勝利のシンボルで、キノコ雲の下で数十万人もの民間人が犠牲になったことはほとんど知られていない。スミソニアンの原爆展はそうした負の面にも光をあて戦争の全体像をとらえようとする試みだったが、この企画は保守派の逆鱗にふれ、社会問題へと発展した。その論争の中で保守派は「愛国者たれ、批判するのではなくアメリカをたたえよう」と合唱する。「2発の原爆は第2次大戦の終結に役立ち、大勢のアメリカ兵の命を救った、以上だ、それ以外のことはとるにたらないことだ」と。そうした行為、つまり、英雄ぶったシナリオに基づく解釈を国民に押しつけ、歴史の中の事実を国民の目から遠ざけようとする動きについて、ジョン・ダワーは民主社会への冒涜だと語る。おだやかだが強い語り口だった。民主社会において、判断はひとりひとりが事実に基づいて行うべきものである、事実から目をそらし、愛国的物語を国民に押しつけようとする行為はあってはならないと。社会科の授業の中でも、しばしばこのスミソニアン原爆展論争のジョン・ダワーのインタビューを教材としてつかう。生徒たちは退屈そうだが、私は彼の話を聞く度に教室の後ろのほうで感動している。

 本屋にジョン・ダワーの本はなかったが、例の扶桑社の歴史教科書のほうは平づみになっていた。どうやら売れているらしい。バカは大勢いるもんだな。皮肉なことに、アメリカでの原爆展論争と同じ対立が日本でもくり返されているわけだ。民族は根拠のない幻想なので、その幻想を帰属意識のより所にするためには、物語としての歴史を必要とする。そこでは過去の出来事は事実である必要はなくなる。はた迷惑なロマンチストたちは、強引な文脈の中で過去をつくりかえようとする。この数百年にわたって、くり返しナショナリズムが原因の大量殺戮がおきてきたにもかかわらず、いまだに私たちはその大げさなロマンチシズムを克服できずにいる。幻想に酔うのは勝手だが、酔っぱらいほど態度と声がでかくなるのは困ったものである。


■ A piece of moment 7/29

 このところ、冷たくひやしたパスタをよくつくる。茹であがった麺をざるにあけ、そうめんのように水で冷やし、そこにたらこやドレッシングやトマトジュースをかけて食べる。ポイントはドレッシングで、色々ためした結果、キューピーのイタリアンドレッシングにおちついた。あと、パスタは1.3ミリくらいの細めのもののほうが食感が良い。自分でつくる食い物としてはめずらしくうまい気がする。


■ A piece of moment 8/3

 夏休みの長い時間をひたすらEverQuestに費やしている。単純な活劇の世界で、前のめりで単調な行為をくり返している。怪物を倒し、経験値をかせぎ、向こうの世界のお金と装備を手に入れる。ひたすらそれのくり返し。サルのマスターベーションみたいだ。傍でみている者がいたら、ゲームをやっている自分の姿はさぞ間抜けに見えるだろうな。ゲームを終えたとき、自分でもときどきバカらしく思えることがある。でも、やってるときはそんなことは感じない。向こう側の世界が単純なほど、前に進んでいく感覚にのめり込む。単調な行為に長い時間を費やすほど、向こう側にいる自分の分身が愛しく思える。そして、のめり込めばのめり込むほど、向こう側の世界はリアルに感じられる。困ったもんである。まあ、何の役にも立たないかわりに、まわりに迷惑をかけることもないのが救いではある。そんな人畜無害なゲームだ。

*あちらの世界の私*

■ A piece of moment 8/4

 あいかわらず、向こう側の暮らしが続く。このゲーム、目的と世界の構造は単純なのだけど、いかにやるかという部分に関してはきわめて複雑だ。メンバーを集め、作戦を立て、話し合い、乗り込む。失敗したら、作戦を立て直し、再度打ち合わせをして、乗り込む。ゲームとして最も重要な戦術部分に関しては非常に良くできている。そうしていっしょに怪物を倒していると、見ず知らずの彼らが本当に仲間のような気がしてくる。もう少し英語でのコミュニケーションがとれれば、もっと楽しめるんだろう。ただ、一方で、向こうの世界での「仲間」が、こちら側では原理主義教団の信者だったりするかもしれない。そう思うと不安がふくらんでいく。もしかしたら、アムウェイの訪問販売員かもしれないし、ナチのシンパかもしれない。そんなこともあってゲーム以外の話題については他愛もないことしか話さない。今週見た「60ミニッツ」の話もしないし、ウディ・アレンの新作の話もしない。もちろんジョン・ダワーの"Embracing Defeat"を読んだかなんて聞いたりもしない。ゲーム以外に接点がないような気がして、いまだにコミュニケーションの距離感をつかみかねている。

 よく出くわすプレイヤーにひとりやたらと口の悪いのがいて、彼を見かけるたびに「ER」のドクター・マルッチを連想する。「よう、Dr・マルッチ〜」と呼びかけたくてたまらない。本当に言動がそっくりなんだ。


■ A piece of moment 8/10

 国分寺の本多図書館へ行く途中で出会うネコがいる。いつも塀の一段低くなったところにすわって、道行く人をながめている。白地に茶色のブチで、よく毛並みが手入れされている。器量良しだ。いつも頭をなでる。うれしそうに目を細めてすり寄ってくる。すごくかわいい。物静かでゆったりと動く。雰囲気が芸子さんみたいなので、かってにポン太と命名して呼んでいる。


■ A piece of moment 8/13

 突然、高校の時に国語の教師が「文学とはタテ書きである」と力説していたのを思い出す。なぜ、文学がタテ書きなのかはぜんぜんわからないが、妙にインパクトのある言葉である。今まで私はまったく気がつかなかったが、もしかしたら文学とはタテ書きだったのかも知れない。友人にそのことを話したら、「間違いないね」と笑い転げていた。やはりそうだったのか。


■ A piece of moment 8/18

 台風がきている。子供のころから台風がくるとわくわくする。雨漏りしたり、停電したり、友達の家が床下浸水したり、中央線が止まったりすると、もう期待はどんどんふくらんでいく。巨大な台風は地上の何もかもをゆっくりと空に巻き上げ、過ぎ去った後の廃墟には、見たこともないほど色鮮やかな世界が広がっていることを思い描いていた。で、隣のクラスのかわいい子から愛を告白されたりするにちがいない。きっとそうだ。間違いない。そんなわけで「関東地方に接近」とか「950ミリヘクトパスカルで大型」なんて聞くと、ああもうどうしようって感じで、ともかく愛を受けとめる心がまえだけでもしておこう。


■ A piece of moment 8/19

 台風の被害は軽い雨漏りだけですみそうだ。ほっとしたような肩すかしをくったような気分だ。道ゆく美女から突然愛を告げられることもキム・ベイシンガーから国際電話がかかってくることも当分なさそうである。

 終わってしまった世界の空想は妙に甘くけだるい気分を誘う。UAの歌に「プライベートサーファー」というのがあったけど、あそこで歌われていた廃墟の風景と蜃気楼のような日常とが交錯する世界も、甘くけだるい虚無感が印象的だった。子供のころに見た台風一過の風景はぞっとするほど鮮やかで、自分が吸い込まれそうなほど生々しかったのを思い出した。


■ A piece of moment 8/22

 ずっとEverQuestをやっているせいで、どうしようもなく運動不足である。視力と筋力が明らかに低下し、タバコの量ばかりが猛然とふえている。このままではどうしようもないので、生活改善を決意する。どうせ2学期ももうすぐはじまってしまうことだし。ただ、このゲーム、やたらと時間を食うので、1時間や2時間のプレイでは、まともに遊ぶことができない。あちらの世界で充実した時間を過ごすには、仕事も妻も愛人もキム・ベイシンガーも老いた母もなにもかも捨てて没頭するしかないような気がする。アメリカでは、EverQuestのやりすぎのために衰弱して病院に運ばれた者もでてるという話だし、とにかくこのままでは危険である。週2日・4時間くらいのペースでうまく遊べる方法はないものだろうか。

*ゲームの中のカエル*
古くて長いつきあい。強敵。1匹逃がすとうじゃうじゃ仲間を連れてくる。Dammit カエル。ときどき夢にまででてくる。夢の中のカエルたちはぴょこぴょこはねながら、入り組んだ地下の迷宮をどこまでも追ってくる。カエルはどんどん仲間を呼び、ものすごい数になっている。目の前のカエルは大きな口を開け、にやっと笑った。だめだ、逃げ切れない。




■ A piece of moment 8/27

 しばらくEverQuestを止めてみたせいか人間の顔を見たい気分になる。カエルじゃなくてさ。喫茶店でぼんやりしていたら、レジのお姉さんがやけに色っぽく見える。もしかしたらカエルよりも美しいかもしれない。

 国分寺の本屋でようやくジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」を手に入れる。上下巻で合計800ページの大著だった。買いそびれていた今月号の「噂の真相」もついでに買う。読みかけの「指輪物語」は、読むたびに情景描写の長さにいらいらしてしまって、3巻目の途中からちっとも進まないし、ともかく読むものだけはたくさんあって満足である。


■ A piece of moment 8/29

 図書館の雑誌コーナーでぱらぱらとページをめくっていたら、年輩の女性が入ってくるのが見えた。何やら思いつめた表情をしている。彼女はつかつかとカウンターのほうへ向かい、「離婚手続きについて解説している本はどこにあるんですか」と図書館員へ切り出した。尋ねられた図書館員は一瞬言葉に詰まり、少しどもりながら本のありそうな場所を説明していた。世の中いろんなことがおきるもんだと妙に感心する。それにしても夏休みの図書館はガキがうるさくてかなわん。


■ A piece of moment 8/31

 ひさしぶりにテレビでモーニング娘を見た。やはり人数がふえている気がする。週刊誌によるとさらにまたふやすそうで、このままだと会員ナンバー38番とか132番とかシモ3ケタ167が4等とかでそのうち日本人の3人にひとりがモーニング娘になって、ひとクラスの人数が多すぎると市民団体からクレームが来たり文部大臣の通知があったりもうこれ以上ふやせないと川渕チェアマンが怒ったりして、A組とB組に別れて入れかえ戦をやりはじめるにちがいない。きっとそうだ。え、これ前にも書いた気がするって?よくおぼえてますなぁえらいえらい。で、彼女たち、「ラブ・マシーン」を歌いはじめたんだけど、久しぶりに聞いたら歌詞と振り付けがあんまりゲヒンでキワモノなんで思わずのけぞる。あの歌、当時はOLの宴会芸とキャバクラお姉さんのカラオケソングだった印象がある。モーニング娘もずいぶん路線が変わったみたいで、いまのお子さまメンバーがアレをやっている図はチャイルドプレイを連想して倒錯の匂いがした。あの歌は深夜番組でわんだふるぅ〜って言ってるお姉さんたちのほうが似合いそうだ。モーニング娘の顧客層って、ここ3年くらいでOLとキャバクラお姉さんから小学生に変わったの?ところで、あなた、カラオケで「ラブ・マシーン」を振りつきで歌ったりしますか?あ、やらんでええちゅうねん。


■ A piece of moment 9/1

 1年ほど前から、ひと月に4通くらいのペースでウィルスメールが届くようになりました。差出人も送り先もなく、ウィルスと思われるEXEファイルが添付されています。意図して送信しているのか、感染してしまったために本人も気づかないところで送られてしまっているのかわかりませんが、定期的にクロ箱のメールアドレスに送られてきています。もちろん、添付ファイルを開かずに削除しているので被害はないのですが、気持ちの良いものではありません。

 いま、このページを読んでいる方の中で私のメールアドレスをアドレス帳に登録している方は、ぜひウィルス診断ソフトで感染の有無を確認してください。もし感染していたら、私だけでなくアドレス帳に登録されているすべての人にウィルスメールが送信されているはずです。早めにウィルス感染のチェックをお願いします。

→ トレンドマイクロ・体験版ダウンロード


■ A piece of moment 9/2

 などと書いたら、今日もウィルスメールが送られてきた。やけにタイムリーなのでわざと送ってきてるんだろうか。かまって欲しいのかもしれない。


■ A piece of moment 9/3

 CS放送で「燃えつきた地図」をやっていたので観る。安部公房の原作は高校生のころに読んで強烈な印象を受けたので、以前から観たかった作品だ。期待しながら観ていたのだが、なんともひどい出来だった。あの物語の核になる迷宮感がまったく表現されていない。映像が悪いし、演出もだめだ、ぜんぜんだめ。主人公が勝新なのもだめ。あの主人公はもっと無機的で風景の中にとけ込んでしまうような影の薄い人物でないといけない。勝新では生臭すぎる。登場人物は勝新や市原悦子をはじめとしてことごとく生臭い面々で、制作者たちの読解力を疑う。原作、読んでないんじゃないのか。そうでないとあんなに面白い小説がこんなひどい映画になってしまうとは思えない。道理でちっとも上映されないわけだ。「砂の女」が映画のほうも立派なのとは対称的だった。関係ないが、市原悦子は若いときからおばさん体型だった。

 NHKでやっていた陣内孝典の探偵ドラマが1回目だったので見てみる。こちらは予想外に面白くなりそうな雰囲気。それにしても探偵が主人公のハードボイルドものって、どうしていつもヨコハマが舞台なんだろうか。あ、宍戸錠のほっぺたがすっきりしていた。手術は成功したようだ。

 さらにぼんやりCS放送を見ていたら、大川橋蔵の「銭形平次」20年分を全部放映すると告知している。CS放送って、どうしてこうマニアックなんだろう。深すぎる。深みにはまると出口がない気がする。油断すると888本全部見てしまいそうでちょっと怖い。白黒映像の中の初代おかみさん・八千草薫はやけに若かくてきれいだった。告知によると「必殺仕事人まつり」もあるそうで、必殺27時間一挙放送って、いったいどこの誰が27時間も見るんだ。でも、もうすぐスタートレック25時間一挙放送もあるみたいだし、仕事も妻も愛人もぬいぐるみのクマちゃんもミシェル・ファイファーも老いた母親も何もかも捨てて人生をかける時がきたのかもしれない。EQをひかえてもちっとも生活が改まらない。見なきゃ。


■ A piece of moment 9/4

 本屋に行くと柳美里の「生」がめだつところに平積みになっていた。本の表紙には、自分に酔った表情の柳美里が聖母子像のようなポーズをつけてかわいくないガキとともに写っている。ひええええ。自意識たれ流しみたいな本を書き続けているとしだいに感覚が麻痺して、自己愛が肥大化していくのかもしれない。おそろしい。ところでこのタイトルは「ナマ」だろうか。だとしたら、柳美里とナマでやってしまうと泥沼の三角関係をくりひろげたあげくに可愛くないガキまで生まれてしまい、ついには手記まで出版されて彼女の肥大化した自己愛につきあわされるぞという意味が込められているのかもしれない。なかなか示唆に富んだタイトルである。などと考えながら、サイモン・シンの「フェルマーの最終定理」を買って帰る。

 歌舞伎町の火事だけど、2階に入っていた風俗店というのが気になる。どんな店が入っていたんだろう。看板の「セクハラ・クリニック」という語感のまぬけさが44人も死んだ事件にそぐわなくて、テレビのニュース映像にビルがでてくるたびに妙な気分になる。


■ A piece of moment 9/5

 高校の授業で「つくる会」の歴史教科書問題を取りあげる。生徒は口をそろえて、日本に都合のいいことしか教えようとしないのはおかしいという。今週いっぱいこのテーマでやる予定なのに、全員一致では以上おしまいになってしまうので、不本意ながら私はつくる会の主張にそって生徒に反論する側にまわる。自分と異なる考えにこそより注意深く耳を傾けるべきだというのが演習授業の基本方針なので、生徒たちの言い分にひとつひとつ反論していく。おかげで自分がつくる会のスポークスマンになった気分だ。次回は生徒たちがきっちりと反論を返してくれることを期待する。

 ビョークの新しいアルバムがでているはずなのでレコード屋を覗いてみるが売り切れていた。買いそびれていた「セルマソングス」のほうを買って帰る。でも、7曲、32分しか入っていないのに、フルアルバムなみの2500円は高いんじゃないか。

 すっかりプッツン女優として奇行とゴシップばかりがとりあげられる広末涼子だけど、「噂の真相」には薬物を常用しているのではないかと書かれていた。表現者たちは日々自分のゆがんだ自意識とつきあいながら生きていかねばならないからたいへんだ。彼女もこのままメディアから消えていくかもしれない。


■ A piece of moment 9/6

 以前、中学校の授業で社会保障制度についての授業をしたことがある。社会保障制度についての概略を講義した後、モデルケースとしてスウェーデンと香港の様子を紹介したニュース番組を見せる。そして、高負担高福祉のヨーロッパ型社会がいいのか、社会保障もないかわりに税金が安く規制も少ない自由競争社会が良いのかと生徒に問いかける。生徒の反応はまちまちだ。将来、親のすねをかじってプータローになりそうなワルにかぎって、俺は香港みたいな社会で勝負するほうがいいねなんて答えが返ってきたりして、苦笑する。そうして生徒の考えを聞いていくとひとつの問題に行きつく。相続の問題だ。自由競争社会での貧富の差といっても、ひとりの人間が1代で築ける財産などたかがしれている。だが、それが親から子へ、子から孫へと引き継がれていくにしたがって、富のかたよりは天文学的な差になっていく。その差はたんに財産にとどまらず、教育、人脈、社会的地位すべてに及ぶ。そのような生まれながらにスタートラインに大きな差がついている中での「自由競争」など、どう考えてもフェアーな自由競争ではない。もはや勝負はついているのであり、それは自由競争を偽った搾取にすぎない。もし、完全な自由競争を主張するなら、相続は一切否定されるべきだ。社会保障と自由競争の問題は、とどのつまり親から子への相続の問題ではないかと思う。ところが現実は逆で、親から子への世襲が強い社会ほど社会保障制度は発達していない。日本もそういう社会のひとつだ。なぜ、もたざる者たちは自由競争の幻想にいつまでも騙されているんだろう。きみがその会社に入ってどんなにがんばったところで、社長になるのはジュニアなんだよ。


■ A piece of moment 9/8

 CS放送で映画を6本観る。成瀬巳喜男の戦前のもの2本、単純で説教臭いストーリーと間延びした演出。いまいち。成瀬巳喜男は当たり外れが大きい気がする。「ストーリー・オブ・ラブ」、ロブ・ライナーの甘いラブコメ。倦怠期の夫婦をミシェル・ファイファーとブルース・ウィルスが演じる。倦怠期なんだけど、ミシェル・ファイファーがにっこり微笑んだときにブルース・ウィルスが向けるうっとりしたまなざしを見れば、もう結末がどうなるか想像がついてしまう。ミシェル・ファイファー演じる美人でいじらしい奥さんに倦怠感を感じるほうがそもそもどうかしてるのである。ストーリーは別にして、気の利いた会話とこなれた演出で最後まで引っぱられる。「GUN」、1丁の銃が引き起こす物語のオムニバス。つまらなくはなかったけど何も印象に残っていない映画。タモリの「世にも奇妙な物語」みたい。後半のロトくじを当てるからくりがいくら考えてもわからない。「プラクティカル・マジック」、サンドラ・ブロックは気が強そうでいていざという段になるとオロオロしてしまう役柄がはまる。サンドラ・ブロックしか見ていなかったのでストーリーはよくおぼえてません。まあどうでもいい映画だった気がします。ただ、彼女、体を鍛えすぎているのか、首の太さがアゴと同じなのはどうも。「ザ・ハリケーン」、今週のベスト。良いストーリー、魅力的な登場人物たち、小細工のないストレートでテンポのいい演出、2時間半があっという間にすぎた。主役のデンゼル・ワシントンがまた良かった。しなやかな身のこなし、怒りをたたえた強いまなざし、知的で深みのある語り口、いまのハリウッドスターで1番いい男じゃないかと思う。ただ、以前「60mins」のインタビューに出演したときは、まるっきりふつうのおっさんで、映画との落差に別人かと思ったほどだった。これはハリウッドのSFXなんだろうか。


■ A piece of moment 9/10

 いままで飛び飛びでしか見ていなかった「ER」だけど、第6シーズンに入ってからはわりと続けて見ている。こうなると今までのぶんもまとめて全部見たくなってくる。やはり100話以上あるのでうかつに手を出しにくい。誰か各シーズンのDVDを貸してくれないだろうか。あ、うちはDVDのプレイヤーがないんだった。マンガの「うしおととら」もまとめて読みたいんだけど、これも古本屋で全巻まとめて買うのはためらっている。あれ、何十巻あるの?

 台風で身動きがとれない。土曜日からずっと降り続いているせいで、部屋中が猛烈にじめじめしている。洗濯物は乾かないし、身体はベタベタと湿ってきてたまらん。雨漏りがするところからは、カビだかキノコだか粘菌みたいなのが生えてきた。夜中に動き出したらどうしよう。


■ A piece of moment 9/11

 社会科教師の性犯罪が続いているせいで、友人から「よっ、社会科教師〜」などとバカにされる。そうか、俺の社会的立場は社会科教師だったのかそんなこといままで考えたこともなかったよ。で、田舎で教師なんかしていると家と学校の往復で出会いも娯楽もないだろうからテレクラに走ったり手近なところで不倫騒動おこしたりするんじゃないのと言うと、「お前もいっしょじゃ」とあざ笑われる。くそ。それにしてもたしかに病んでる人はけっこう多い気がする。学期の途中の変な時期に講師の依頼が来て事情を聞いてみると、前任者がノイローゼで療養中なんてことが多い。「職業、教師」という社会的立場を意識しながら仕事を中心に生活がまわっている人は、仕事に使命感でも持っていないと精神的にしんどいのかもしれない。ただ一方で、教育に使命感をもっている教師というもの鬱陶しい気がする。あ、ワタクシは生徒の前で50分間のしょうもない話をするだけの芸人でございます。なので、私の授業を気に入ってくれた方は授業料のほかに帽子に小銭を投げ入れてくれると、仕事にはりあいがでます。

 ビョークのニューアルバム「ヴェスパタイン」とグレイトフル・デッドのベスト盤を買う。


■ A piece of moment 9/12

 突然、「ダイハード」か「マーシャルロー」みたいな無差別テロ事件がおきた。事件の規模が大きすぎて、なかなか現実の出来事としてとらえにくい。ジャンボ旅客機をハイジャックして貿易センタービルに激突させる、つづけてもう1機の激突、崩れ落ちる貿易センタービル、煙につつまれるマンハッタン、さらにペンタゴンでの爆発、どれも道具立てがそろいすぎてハリウッド映画を連想してしまう。映画だと戒厳令が発動されて、アラブ系の住民への取り締まりと監視が強化され、差別や人種対立へと発展していくことになる。まさかとは思うが事件の規模の大きさを思うとありえないことではない。あとランボーが単身アフガニスタンへ乗り込んでいったり。

 ただ、崩れ落ちる貿易センタービル以上に衝撃的だったのは、アメリカのパニックに歓声をあげるパレスチナ住民の映像だった。ここ数年、パレスチナで続いている自爆テロの状況を考えると、同じ手法の大規模テロがアメリカで起きることは時間の問題だったとも考えられる。人間の命は地域によってやたらと軽かったり重かったりする。今夜の授業はこのテロ事件を考えることにする予定。

 昼に入ってから、急にオサマ・ビン・ラディンがテロの黒幕としてあがってくる。あれだけ組織化され大規模なテロ活動なら、PLOの一分派の犯行よりもラディンみたいな人物がかかわっていると考えるほうがしっくりくる。ただネタ元がアメリカ上院議員からのリークっていうところがなんか臭いな。夜の授業にそなえて、朝のテレビニュースの編集をして、Webでオサマ・ビン・ラディンとイスラム原理主義について資料を集める。で、Webを検索していたんだけど、イスラム原理主義について妙な記事を発見。今年3月にハマスのWebサイトにハッカーが進入して、ハマスのWebサイトを書き換えて勝手に有料のエロサイトに飛ぶようにしてしまったというアホな記事。さらに、ハマスはそれをイスラエル諜報機関の陰謀だと声明を出したというオチまでついている。まるでいしいひさいちのマンガみたいだ。 →こちら

 アメリカンズは今回の事件をさぞや深刻に受けとめているだろうと、向こうのプレイヤーとチャットでもしてみようかと思ってひさしぶりにEverQuestにログインしてみるが、あちらの世界は何事もないかのように「なんとかの剣600PP安いよ〜」なんてやっていた。ちょっとこれはあんまりじゃないか。ゲームオタクは国籍問わず社会意識がないんだろうか。キミたちハマスに怒られるぞ、こら。


■ A piece of moment 9/13

 予想通りアメリカは徹底報復のかまえだそうで、ランボーはすでにアフガニスタンに潜入していることだろう。国連関係者はアフガニスタンからの退去をはじめたらしい。ただ、アメリカはイスラム諸国に対してはいままでもずっと武力を背景にした力の外交をつづけてきたわけで、イスラエルの後見役であると同時に反政府ゲリラ組織に武器供与をし、湾岸戦争では他の選択肢を全部蹴って武力介入を強行した。そのように戦争を国際政治の一手段として認めるなら、テロもまた認められるということになる。もちろんビルを吹き飛ばして民間人を何千人も殺していいわけがない。でも、原爆で民間人を何万人も殺しても「あれは戦争だったから仕方なかった」という理屈がとおるなら、今回の事件も「あれはテロだったから仕方なかった」と受け入れねばならないはずだ。両者の論理に違いはない。アメリカはテロは国際社会への挑戦だとくり返しているが、アメリカのいう国際社会はアメリカと西欧にすぎない。ブッシュは報復攻撃を「善と悪の戦い」といっているが、その様子は狂信的原理主義者たちが口にする「聖戦」とだぶって見えた。

 それにしても新庄の「オレもアメリカ人やから戦う」ってコメントは限りなくアホで素敵だ。あの新聞の見出しを思い出すたびに吹き出してしまう。ツボをつかれたよ。新庄すごいわ。関係ないけど、NHKのワシントン支局長はいつになく生き生きしてるように見える。


■ A piece of moment 9/14

 夕方、ちらと国会中継を見たら、若い国会議員が今回のテロ事件にからめて、自衛隊の有事立法が必要だといきまいていた。新庄なみのアホさ加減。よっぽど自衛隊に戦争をやらせたいらしい。

 いまさらながら「おじゃる丸」を見る。電ボがお気に入り。早口でひとりごとをまくしたてながら妄想が暴走していく様子がおかしくて、油断しているとあのほにょほにょしたささやき声に足もとをすくわれる。よくあんなキャラクターを考えたもんだとシナリオライターのセンスに感心する。大人のファンも多いらしい。ところで、このところ巷でよく聞く「まったり」の発信源がこのマンガだっていうのはホント?


■ A piece of moment 9/20

 例年どおり大学院時代の奨学金を返せという通知が来た。例年どおりカネがないので、返済をのばしてくれと手紙を書いた。いつもは受理されるはずなんだけど、今年はアナタは返済をのばしすぎたのでもう待てないカエセと言ってきた。ひええええぇぇ。この時期に12万円の出費は痛い。痛すぎる。しばし呆然としてあたふたと部屋の中を歩く。確かに返さなきゃならないものではある。返す以外に手の打ちようがない。返すことを決意する。決意して12万円も借金返済にあてることを考えていたら、いままで欲しいものも我慢してケチケチとやりくりしていたことが急にアホらしくなった。物欲がめらめらとわいてくる。というわけで、本日、2万円の腕時計を買う。明日は欲しかったデジタルカメラを買う予定。散財散財。新宿のカメラ店でどっさりとカタログをもらって帰る。

 昼休みにバスケ部少年団と4on4をやったせいで腰痛気味。


■ A piece of moment 9/25

 休みでぼんやり昼間のテレビを見ていたら、NHKでひるどきなんとかかんとかという中継番組をやっていた。田舎芝居みたいなどろくさい主題歌の後にどっかの田舎から中継がはじまり、ほうきづくりを家業にしているという純朴そうなじいさんとばあさんがでてきた。それはいいんだけど、じいいさんがほうきづくりを紹介するたびにレポーターの森脇健二が何事かというような調子で盛大に感心するのである。じいさんがええこのほうき草からほうきをつくるんですよというと「ひぇええええこれがほうきになるんですねえ家族で刈り取りもやってるんですねえうわああああおばあさんはやいすごいなはやいな年期がちがうんですよねえさすがですねえやっぱ手作りならではですよねえうわああああ」とかなんとかという調子で、ぜんぜん心のこもっていないヨイショがえんえんと続く。どうみても地味な家内制手工業をやっているじいさんとばあさんをバカにしているとしか思えなかったが、じいさんもばあさんも人間ができているのか森脇健二の胸ぐらをつかむことはなかった。2、3発ぶん殴ってくれればすっきりしたのに。おかげでそれほど人間のできていない私は猛烈な不快感だけが残り、昼飯に食った松屋の牛丼で胸やけしてしまった。じいさんとばあさんに代わってNHKあてにカミソリでも送りつけてやるべきだろうか。

 夜、陣内孝則の探偵ドラマを見る。1回目が面白かったので、つづけて見ているがぜんぜんだめだ。ハードボイルド調の展開だったのは1回目だけで、あとはずっと安っぽいホームドラマだ。柴田恭平がはみだしたり藤田まことがさすらったりする刑事ドラマとほとんど変わらない展開をしている。おまけにNHKの大好きな家族ファシズムの説教節が入っていて、副主人公のガキは何かにつけて「お母さんがぁぁ〜」と学芸会的演技をする。「ガラスの仮面」の読みすぎかもしれない。たまらん。ダイコン大量出演。それにしてもあの設定でどうしてホームドラマになってしまうんだろう。横浜の港地区、主人公は社会からドロップアウトした一匹狼の私立探偵、倉庫を改造した部屋に一人暮らし、密輸の横流しでもやってそうなカタコトの日本語を話す外国人の友達、度々主人公にからんでくる地元のヤクザ、宍戸錠やミッキー・カーチスをはじめとした一癖ある強面の脇役、青みがかったコントラストの強い映像……とくればどうしたってハードな展開を期待する。でも、なぜかやってることはホームドラマなんだよ。家族愛なんだよ。親子の絆なんだよ。子役の自己陶酔した絶叫芝居なんだよ。どうしてよ。親が失踪したらガキは必ずグレるとでもいいたいのか。なめんな。

 むしゃくしゃしながらネットに繋いでメールをチェックしたら、どこかのバカが名前も名のらずにくだらないメールを送ってよこしやがった。お前に浩さんなんてなれなれしく呼ばれるおぼえはない。腹が立つので、ここで文面とアドレスをさらしものにすることにした。大量の顔文字メールでも死んだトカゲでもなんでも送りつけてさしあげましょう。

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件名:気ボーン   発信者:leotokyo2000@hotmail.com

久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
久しぶりです 浩さん 
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■ A piece of moment 9/26

 ロマン・ポランスキーがらみの作品を何本か観る。「記憶の扉」、これは出演作。監督はイタリアの才人、ジョゼッペ・トルナトーレ。中盤までの神経戦のようないらいらする展開にうんざりしていたら、後半に入って一気に深いところに引きずり込まれ急所をぐりぐりとつかれる。鮮やかな手際。圧倒される。終盤のどんでん返しも「シックス・センス」なんかよりもずっと衝撃的。見終わってしばらく呆然とした。それにしてもジェラール・ドパルデューの体型は見るたびに崩れていく。あんまり醜くなってるんでびっくりした。「ナインス・ゲート」、これは監督作品。オカルト、ただしスプラッターではない。ポランスキーのオカルト趣味はあいかわらずの模様。主人公は古書・奇書のたぐいを扱っているバイヤーで、オカルト趣味の金持ちからルネサンス期に出版された悪魔がらみの本の調査を依頼される。この、調査し道を失い深みにはまっていくという展開は、私にとってひとつのツボのようで最後まで一気に引っぱられた。「エンゼル・ハート」に似た感触。「死と乙女」、これも監督作品。こういう舞台ものの映画化もうまい。最初から最後まで登場人物は3人しかでてこない密室を舞台にした心理劇。3人とも見事な演技で、とりわけベン・キングズレーは見事だった。「ナインス・ゲート」みたいなオカルトものよりも私にはこっちのほうがずっと恐かった。大人のサスペンス。俺、大人で良かったぁ。

 このところ良い映画が続いたが、ベストは「ビフォア・ザ・レイン」というアルバニア映画。南欧の荒れて乾いた丘陵地の風景、オリーブの灌木と羊の群、そこで中世からほとんど変わらない生活をしている素朴な村人たち。でも、どの村人の手にもAK47がにぎられ、宗教や民族の異なる隣村とは憎みあっている。隣村といってもみな顔見知りで、そこには幼なじみもたくさんいる。にもかかわらず彼らは憎みあっている。幼い子供までAK47を手にし、小さないざこざは即、民族間の紛争へとふくらむ。懐かしい顔、愛しい顔、みなどんどん死んでいく。たまらなかった。

 他、成瀬巳喜男の古めのもの何本かとリメイク版「グロリア」。「グロリア」は監督がシドニー・ルメットだから観てみたが、やはりオリジナルよりずっとできが悪かった。主演のシャロン・ストーンは不自然にもりあがったシリコンおっぱいが気になってどうも。「必殺26時間まつり」は結局3時間で挫折。誰が中村主水の顔を26時間もみるんだ。ただ、必殺はシリーズを通して演出手法がマカロニウェスタンだということに気づいた。私、平尾昌章の音楽が好きです。


■ A piece of moment 9/27

 電車の中で気になった人たち。その1。乳母車に乗った赤ん坊がサイレンのようにけたたましく泣いている。若い母親があやすがぜんぜん泣きやまない。まわりの乗客はあまりの泣き声にぞろぞろと移動を開始する。母親はもうあきらめたようでもう泣かせっぱなしにしている。そこへ高齢の女性が下り際に母親ににっこり微笑みながら、近頃きいたことのないようなきれいな山の手言葉で話しかける。「丈夫そうな赤ちゃんですねえ」。若い母親は圧倒されたのかひたすら恐縮していた。俺も怖かったよ。

 その2。松尾スズキに似た坊主頭でひげ面の中年男がコム・デ・ギャルソンのジャケットをひるがえし乗ってくる。彼は電車に乗るなりおもむろにカバンから本を取りだし、やけに荒い鼻息で読みはじめる。何事かと思ってちらと見たら、本は「チーズはどこへ消えた?」だった。ありゃ何者だ。本人だったりして。

 高校のほうの成績がつけ終わる。


■ A piece of moment 9/29

 夜中にテレビをつけたらゲイバーのお姉さんたちがしゃべっていた。「アナタ、一週間ヒマができたら何する?」「アタシ?う〜んセイケー」。ああ、ふっきれた人たちは楽しい。あと、久しぶりに浜崎あゆみの顔を見た。目が変わっていて、やたらとしわがれ声になっていた。ライブで声帯をつぶしたのか、薬物でもやっているような声だった。ただ、タテ巻カールはステキだった。時代はタテ巻カールだと思った。俺もタテ巻カールにしたい。

 人のPCでクロ箱を見てみたら、フォントのサイズが違ってレイアウトが崩れていた。やけに不細工で気になったので、表紙といくつかのページに固定サイズのフォントを使うことにした。表紙を見てレイアウトが変わってると思った人はいままでが崩れていただけです。


■ A piece of moment 10/3

 CS放送で「帝銀事件・死刑囚」を観る。戦後間もない頃におきた帝銀事件をとりあげたセミドキュメンタリー映画。事実をあつかった作品にしては通俗的で紋切り型の演出で、映画としての出来はいまひとつ。ただし、そのぶん手堅く事件を見せてくれるので、事件について大した予備知識もなくあの時代を体験していない私にも、事件の展開とその問題点は非常にわかりやすい。捜査と裁判には明らかに問題を孕んでいる。見終わってあまりにも釈然としない気分なので、少し調べてみようとWebの検索サイトで「帝銀事件 平沢貞通」と打ち込み、「平沢貞通氏を救う会」による帝銀事件のWebサイトを見つける。Webの資料を見ながら唖然とする。映画が作られた1964年から現在に至るまで、ほとんどそのまま問題が残されている。再審請求はすべて棄却されその後の調査も進展がないために、映画を観て釈然としなかった灰色の部分は何ら解明されていない。事件当初から指摘されていたGHQや日本軍化学部隊の関係者の関与も、依然として闇の中にある。また、警察発表とマスコミ報道のあり方や容疑者の家族が受ける迫害といった問題も、度々その問題が指摘されているにもかかわらず、現在に至るまで何ら変わっていない。松本サリン事件のえん罪は記憶に新しいが、仙台の病院でおきた筋肉弛緩剤による殺人事件だってかなりあやしい。ムードにのせられ情報を鵜呑みにし自分のアタマで考えない者が多ければ、いくら時代が変わっても同じことがくり返されるだろう。平沢定通は1987年に死刑囚のまま肺炎で獄死したが、彼の家族や支援者は現在も再審請求をつづけている。

→ 平沢貞通氏を救う会による「帝銀事件ホームページ」


■ A piece of moment 10/4

 中学1年生を教えるのがはじめてのせいか、彼らがやけにちっちゃくて、1年の授業をしているときはほとんどあっぱれさんま先生の気分である。授業中にちっちゃいのがちょろちょろしててもつい笑ってしまってしかる気にもなれない。だまって問題やれよなんて言いながら自分のほうがきのうの志村けんのバカ殿の話をしていたりする。本日は東南アジアの地理の1回目。ちっちゃいのの1人がバリに行ったことがあると言いはじめる。「バリの海はすげぇ青いんだよ」「どこのバリだよ」「ほんとだよほんと、バリは蒸し暑いんだよ〜ハワイと違ってさぁ」「どこのハワイだよ」「ほんとほんとハワイは毎年行ってるんだ」「いま、クラスの全員を敵にまわしたね」「ほんとほんと」「じゃあ今度ハワイに行くときはうちの別荘によってくれ」「えっ、センセー、ハワイに別荘あるの?」「あるぞ、プールとゴルフ場とフラダンス・レストランもあるぞ」「うっそだぁ」「ほんとほんとレストランではリンボーダンスもできるぞ、リンボーダンスはコツがあってな太鼓の音をよく聞いてリズムを合わせないとうまくいかないんだよ」とまるで近所のガキをからかっている酔っぱらいのおっさんである。そんなマニックな木曜日だった。


■ A piece of moment 10/9

 演習授業で生徒たちにレポートや感想文に書かせると、たいていの場合、試験で95点や100点をとる者よりも80点くらいの者のほうが面白い文章を書いてくる。試験では7割8割くらいの出来の者が、ときにこちらが舌を巻くような幅広い知識とするどい考察を示してくることもある。社会科の場合、ふだんテレビニュースや新聞を読んでいれば、とくに試験勉強などやらなくても7割8割くらいはできる。むしろ日常で体験する社会現象のほうが授業で教わる「社会」よりもはるかに情報量が多く、そこから得られる経験のほうが、教科書丸暗記式の薄っぺらい知識よりも、社会現象を考える上で有用なことが多い。しかし一方で、7割8割を9割10割にするためには、試験に出そうな用語を暗記したり、正確に漢字で書けるようにしたりという詰め将棋的作業が必要になる。個人的にはそれは時間と労力の無駄だと思う。たかだか試験の点数を20点上げるためにそんな単調な作業に長い時間を費やすなら、そのぶんいい映画を観たりいい本を読んだほうがよほど有意義だ。本人が楽しいだけでなく、知識の幅を広げ思考力も高めてくれる。このことは逆にいえば、ふだん社会的現象にまったく感心がなく、ニュースも見ず本も読まなくても、徹底的に詰め将棋的作業をやりさえすれば試験で9割10割の点がとれることを意味している。ときどき、「社会科って暗記科目だから退屈でした」という人に出会うが、そういう人はきっと詰め将棋的作業ばかりしていた優等生だったんだろうと想像する。

 社会現象はジグソーパズルや論理パズルではないので、なにも知らなくても解けるという性質のものではない。たとえば、今回のアメリカ軍のアフガニスタン攻撃に自衛隊はどうかかわるべきかを考えるとき、アラブ社会とアメリカの関係や国連のPKO活動の限界性といったことを知らなければ話にならない。そのために授業では考える材料としての知識を教え、その確認のために試験をする。定期試験や受験問題では、「知っているかどうか」までしか問われない。しかし、知識があるかどうかは考えるための手段にすぎず、目的ではない。その知識を使って社会現象をどう考察していくかにこの科目の本質はある。だから、試験で満点をとってもつまんねぇレポートしか書いてこないやつは「3」でもつけてやりたい気分になる。美術でいくら色の三原色についての試験がよくできても肝心の作品のほうがつまんなかったら知識が作品に反映されたいないわけで、作品に反映されない知識が無意味なのと同じだ。社会科の本質は社会現象への考察を深めることにあるので、そちらの評価が成績に反映されず小手先の知識だけで成績をつけることにはいつも疑問を感じる。

 暗記科目という点では、外国語や古文・漢文、高校までの受験数学のほうがはるかに能動的に暗記することがもとめられる。英単語のスペルや公式は、ふだんの日常体験の中でいくらニュースを見たり本を読んだり映画を観たりしてもアタマに入ってくるものではないので、能動的におぼえようとしなければ7割8割どころか3割もあやしい。7割8割をとるためにはこつこつと地道な詰め将棋的作業が必要になる。とくに言語は学問ではないので、おぼえて使えるようになること自体が目的だ。社会科では8割を10割にする詰め将棋的作業は時間の無駄だと思うが、外国語をものにするにはそういう地道な努力をスパルタンにつづけていくことが重要になる。なまけ者にはつらい科目だと思う。

 夜中に中学の試験問題をつくり、2時間寝て朝に試験を実施、午後に採点する。1日で全部終わった。なんだか豆テストみたい。内容はどれも「知っていればできる問題」。これだから暗記科目なんていわれるんだ。

 このところ、行き帰りの電車の中で「ツァラトゥストラはこう言った」をちびちび読んでいる。読むとやたらと勇ましい気分になる。


■ A piece of moment 10/11

 夜中にラジオをつけたら、池真理子が「センチメンタル・ジャーニー」と「百万本のバラ」を歌っていた。真夜中の静まった中、おもわず歌詞に聴き入ってしまう。「百万本のバラ」の大げさなメロドラマを真剣に聴いていたらぞっとしてきた。なにもそこまで貧しい絵かきをいじめなくてもいいじゃないか。この歌はみじめで不幸であることに酔っているようなマゾヒズムの匂いがする。加藤登紀子が歌ったものより歌詞も歌い方もどぎつい。2番目はロシア語での「百万本」の連呼になり、最後には「それが人生♪」と運命論へと突入していく。おそろしい。おそろしすぎてうなされそうだ。ところで、この歌、ずっとフランスの歌だと思っていて、ロシアの歌だとは知らなかった。どうも絵かきは世界的に貧しいことになっているらしい。


■ A piece of moment 10/16

 夜中にふとルパン三世のマンガが見たくなって、押入から「カリオストロの城」のビデオを引っぱり出す。すごく面白い。宮崎駿のテンポのいい演出も大野雄二の主題歌もすごくいい。ただ、映画としては非常によくできているんだけど、あの世界はルパン三世ではないような気がする。お馴染みの登場人物たちはみなアクのぬけた気のいいおじさんたちになってしまっていて宮崎駿的だ。ルパン一味は基本的に非情でエゴイスティックな悪党たちなので、彼らが情にほだされたり人助けに命をかける様子には違和感をおぼえる。あと、ヒロインのお姫様がひたすらお姫様でうすっぺらいのも気になる。作者の好みなのだろうが、「おじさま」は勘弁してくれ。はずかしくてかなわん。そう思ってこの映画を見ると、これは40男たちが17、8の小娘を奪いあう物語ということになるわけで、倒錯の匂いがしてくる。私にはヒロインのただ健気なだけのお姫様より、自分が何を求めているかはっきりわかっていて自力で何もかも切り開いていく峰不二子のほうがずっといい女に見える。峰不二子だけは、テレビシリーズのお決まりの色仕掛けで人を利用することばかりを考えているキャラクターやコミックのバカ丸出しのキャラクターよりも、この映画のたくましくてさばさばした峰不二子ほうがリアルな存在感があって魅力的だと思う。


■ A piece of moment 10/18

 朝、電車に乗り込むとデスメタルみたいな音楽がヘッドフォンから盛大にもれて聞こえてくる。朝から元気な奴がいるなあと思ってみると、ロシアから来たバレエダンサーみたいなきれいな女の人だった。金髪をひっつめて後ろで団子状に束ねて、グレーのハーフコートを着てすっと立っている姿ははっとするほどきれいだった。朝から得した気分。あんまりきれいだったので、学校についてから生徒たちをつかまえてその様子を報告する。すると何人かの生徒からそれはニューハーフにちがいないまちがいないと言われる。どうも新宿ではきれいな人はニューハーフということになっているらしい。


■ A piece of moment 10/19

 ふと顔文字Tシャツをつくってクリスマスにでも無理矢理プレゼントしてみようかと思いつく。趣味の良い贈り物をもらって感謝される場面が頭に浮かぶ。「えーっこんなステキなTシャツもらっちゃっていいの?!」「もちろんだよきみへのプレゼントなんだから俺もそんなに喜んでもらえるなんてうれしいようんすごく似合ってるよきみにぴったりだこのTシャツを着るためにきみは生まれてきたにちがいない」。他にもマージャンで負けた奴に着せて渋谷のスクランブル交差点に放置してくるのも楽しい気がする。夢が広がる。


 こうして並べてみるとコンテンポラリーアートに思えてくるから不思議。ほらほら欲しくなってきたでしょう。


■ A piece of moment 10/20

 7年間さがしつづけていたCDがついに見つかる。Брати Гадюкiни(Braty Gadiukiny)というウクライナのパンクバンドで、インターネットが普及していなかったらこんなの一生見つからなかったろう。探し当てた自分自身がおどろいているくらいだ。ウクライナでは有名なバンドらしいが、なんせウクライナなので、それ以外の人間にはチェルノブイリとスターリンのコルホーズの国にコサックダンス以外の音楽があるなんてことはまったく知られていない。世界はアメリカを中心にまわっているので、英語圏以外の文化は内容の良し悪しに関係なく隅に追いやられてしまうのが現状だ。だからアメリカ人は有頂天になってトマホークを発射するんだ。そんなわけで、このCDはもちろんアマゾンでも取り扱っていない。ウクライナのCDショップが開設しているWebサイトで在庫を確認できたので注文してみた。うまくいけば来月あたりに地の果てウクライナからはるばるCDが我が家に届くはずだ。

→ Брати Гадюкiниのサイト(表示させるためにはスラブ文字のダウンロードが必要)

 関係ないが、テレビで小池栄子を見た。あんまりゲヒンなんでおどろいたよ。あれはゴールデンタイムに出演させちゃまずいんじゃないか。さらに関係ないが、深夜番組でレポーターをやっているYOUは楽しい。出てくるだけで可笑しい。でも、あれは深夜放送だからこそあのキワモノで思いつきなアドリブが効いてくるんで、もし売れても「笑っていいとも」なんかに出演したりしないでほしいところだ。

 日本シリーズってまだ始まっていなかったんだな。


■ A piece of moment 10/21

 10年近く前から探していて、でもどうしても名前を思い出せなかった漫画家を突然思い出す。朝倉世界一。最近さえてるな。こういうマイナーで、でもガロに書くほどカルトなポジションにいない作家はまわりにきいても誰も知らないので、いったん名前を忘れてしまうとなかなか出てこない。「ほら、双葉の「アクション」か「マンサン」あたりに描いてるひとで3等身の絵本チックなキャラクターがブラックででたらめな世界をくりひろげるマンガ、え〜と代表作は「アポロ」と「山田タコ丸くん」、あの人、何ていったっけ?」なんて聞かれても誰もわからない。当然といえば当然で、そこですらすら名前が出てくるほうがどうかしている。かくいう私も10年くらい前に雑誌でぱらぱらと見て、やけに絵がうまいんでおっと思ったきりすぐに名前を忘れてしまって、本屋のマンガコーナーでときどき単行本を探しても作者の名前を忘れてしまってはどうにもならないし、マンガ雑誌をまめにチェックする方でもないので思い出すきっかけがつかめないまま時間が過ぎていった。しかし、昨日ともかく思い出したのである。で、再び忘れないように朝倉世界一朝倉世界一とアホのようにつぶやきながら本屋に寄ってみたが、どこにも置いていない。10年たってもあいかわらず売れていないようだ。Webで検索したところいちおうサイトは見つかったが、その後ほとんど新しい単行本はでていなくて、最近は携帯コンテンツなんてあやしげな商売をやっている。きびしいなあ。絵はいま見るとあんがい流行りの絵柄というかクラブ路線な感じというか326(だっけ?)に似た絵柄で、もう少し売れても良さそうなんだけど。青春応援節みたいな326と違ってハートウォーミングじゃないからウケないんだろうか。

→ 朝倉世界一の朝倉的世界 (双葉社)

 ところで中学のほうで一緒に社会科を教えている40代後半くらいの女性がやたらとマンガに詳しいことを知る。「ガロ」から「スピリッツ」までほぼ網羅していて、いまだに雑誌で買って読んでるという。きっとあの学校で一番マンガを読んでいる人ではないかと思う。外見からカタイ一方かと思ったけど、人は見かけによらない。給食をくいながら、なぜかつげ義春と滝田ゆうの話になって、そうかちょうど全共闘世代なのかと気づく。きっと生徒たちは小テストばかりするきまじめで小うるさいおばさんくらいにしか思っていないんだろう。そう思うと少し可笑しい。そうして人生はめぐりすれ違っていくってわけだ。こういう時、私は頭の中でルイ・アームストロングの古い歌"What a wonderful world"が鳴っている気がする。

 録りだめておいた「スタートレックDS9」の26時間放送分をようやく見終わる。ドクター・ベシアが誰かに似ていると思っていつも気になっていたが、今回、「ナインティナイン」の岡村だと判明。やはり近頃さえてる。


■ A piece of moment 10/22

 9月の長雨で部屋の壁に生えたキノコの菌糸は、2つの丸いコロニーを形成しながらその後もすくすくと成長し、ついに人間の頭大にまでふくらんだ。夜中にそれをじっと見ていると、灰色の菌糸のかたまりの中からかさこそと小さな声が聞こえてくる。ああちがうそこじゃそこじゃそれでよいいやはや不便なところじゃ東下りの我が身の空しさよこの野蛮な土地を呪うぞよ……。「あんた誰だよ?」と話しかけるとささやき声はぴたりと止み、まもなく2つの球形の殻がやぶれ、中から大量の胞子をまき散らしながら2つの巨大なキノコが頭をのぞかせた。キノコは傘が濃い灰色で直径約60センチ、柄の部分はクリーム色で付け根の殻に近くなるにつれて太くなり細かい毛をたくさん生やしている。その後もキノコは猛烈な勢いで成長をつづけ、たちまち私と同じ背丈になって目の前で大きな傘を開いた。呆然とその様子をみていると、再び先ほどのかさこそとした声が聞こえてきた。なんともわびしいたたずまいじゃな、ああそち、楽にしてよいぞよ、これから長いつきあいになるのじゃからな。こうして私と2人のキノコ人間との共同生活が始まったのである。キノコはときどき私になりすまして電話に出たり、勝手にメールの返事を書いたりしているようで、近頃、友人・知人からの苦情がふえてきている。事情を説明しても信じてもらえそうにないし、ほとほと困りはてている。

 古本屋を2軒まわって、朝倉世界一を1冊見つける。あと、1年前からずっと探していた諸星大二郎の「栞と紙魚子」の3巻目・殺戮詩集も見つかる。最近の諸星大二郎ではこのシリーズがとぼけた味と軽やかさがあって気に入っている。ただ、雑誌の連載のほうは半年前に終わってしまったようだけど、4巻目の単行本はもう出ているんだろうか。

 ついでに95円でたたき売っていた「中島らもの明るい悩み相談室」を6冊まとめて買ったので、ごろごろしながら読んでいる。こういうのは1、2冊ぱらぱら読むぶんには楽しいんだけど、何冊もまとめて読んでいるとものすごく時間を無駄にしている気分になってくる。そういう意味ではこのサイトも同じで、疑問の泡のページなんかを1番から66番までまとめて読んだりするとむなしくなったりしませんか。

 ところで、古本屋の95円コーナーには、シドニー・シェルダンと渡辺淳一が大量に積み上げられていた。いったいどこの誰がこういう本を読むんだろう。幸い私のまわりにはひとりも愛読者はいない。渡辺淳一が愛読書なんて言われたら、どんなにいい女でもさめるぞ。


■ A piece of moment 10/23

 きのうウクライナからガドキン・ブラザースの2枚のCDが届いた。すごいすごい。注文から2週間もかからなかった。インターネットでウクライナの業者に注文し2週間足らずで航空便で届くなんて、10年前には考えられないことで、まるでアーサー・C・クラークの小説みたいだ。そう思うと夢でもみているような気がしてくる。本当はこの世界は1999年に消滅していて、俺は消えてしまった世界の夢を見ているだけなのではないだろうか。そんな不安が頭をよぎる。2枚のアルバムは7年間探し続けただ甲斐あって期待通りだった。くわしくはここの61番を。

 友人宅に姿見があって、うしろ頭をみてみたら自分があまりに不様で唖然とする。後頭部がやけに平べったくなっていて、襟足ばかりがボサボサとはねている。まるで杓文字だ。こんな格好で町を歩いていたとは我ながら情けない。もっとのばしてパーマをかけて、ラモスかダンスマンみたいにしようと思っていたんだけど、もうやめた。少し切って金髪にしてくるくるのタテ巻カールにすることにしよう。

 「栞と紙魚子」の4巻目、「夜の魚」が出ていることがわかったので本屋で買ってくる。近頃、次々とさがし物が見つかる。


■ A piece of moment 10/24

 食欲の秋である。食欲といえば牛肉。このところ我が家の胃袋は、投げ売り状態の牛肉とまぜもの加工乳事件以来98円で売られている雪印牛乳で満たされている。狂牛病騒動で当分この安値が続いて欲しいが、食肉業者がつぶれてしまっては元も子もないのでまあほどほどに。それにしても、狂牛病なんて何年も前から指摘されていたのに、国内で1頭発生しただけで急にヒステリックになるのはどうしてだろう。牛肉を食べないのが流行っているだけにしか思えない。突然ヒステリックに騒ぎ出した人たちは自分で判断する力がないんだろうか。そういう人はもともと脳味噌なんて入っていないだろうから、いまさら狂牛病を心配する必要なんてないのに。一方、ヒステリックに牛肉を怖がっている人もバカみたいだが、牛肉を食わせようとテレビカメラの前で「ん〜おいしい」なんてパフォーマンスをしている大臣たちはさらに間抜けだ。あんなもんを見せられて牛肉をくいたくなる人が存在するとは思えない。俺はかえって食欲がなくなったよ。俺の食欲を返してくれ。あそこには科学的根拠は何もない。プリオン感染のしくみはまだ完全には解明されていないし、発病するのは2年から10年後だというから食べてすぐ大臣がひっくり返らなかったとしても安全が証明されたわけではない。そもそも大臣たちは科学的なことを尋ねられても何も答えられない有様だ。あのパフォーマンスには、大臣のような「エライ人」が安全と言っているんだから安全なんだという思い上がった権威主義だけしかない。いまどき大臣や役所にそんな権威があるとは思えないが、あのパフォーマンスをやらせている官僚たちはいまだに自分たちを「お上」だと思っているらしい。こういう状況になったときに、情報や科学的根拠を公開して国民の判断にまかせようとせず、役所の権威によりどころを求めようとする姿勢はこの社会の知的レベルの低さと民主制の未成熟を物語っている。古くは水俣病のときの寿司ネタからO157のカイワレまで、大臣たちの不様なパフォーマンスはすっかりイベントとして定着してしまっているわけで、そこには何ら進歩が見られない。それとも、役所もテレビも間抜け面の大臣をさらしものにして楽しんでいるだけなんだろうか。どちらにしろメシがまずくなるので放送禁止を強く求める。


■ A piece of moment 10/25

 「栞と紙魚子」の4巻目は、古本屋をめぐる話が続いていた。その中に巨大な古本の迷宮の話がでてくる。建て増し建て増しのくり返して、いびつにゆがんだ古いアパートのような家は古本で埋め尽くされていて、ウンベルト・エーコの「薔薇の名前」かボルヘスの「バベルの図書館」のような迷宮ができている。いったん中に入った者は古本の山に道を失い出口を見失う。うむああいうイメージはときどき夢に見るよなあという感じで、古ぼけたアパートのゆがんだ外観も、内部の古本の迷路も、出口のない迷宮をうまくあらわしていた。2話連続の話にしてもっとじっくりその描写を見たかった気がする。ただ、後半の数話はネタ切れの感じで、こまぎれのアイディアをそのままマンガにしていて少々物足りない。こういう軽いけど毎回ひねりの利いた展開が求められる話は、案外大仕掛けの長編よりも連載を続けるのは難しいのかもしれない。何にせよ連載が終わってしまったのは残念と思っていたら、仕事の帰りにちらっと立ち読みした雑誌に再び短編が掲載されていて、近々連載も再会すると告知がでていた。めでたいめでたい。ところで、主人公のひとり、紙魚子はどこかで見たことのあるキャラクターだと思っていたら、教え子の中に雰囲気がよく似ている子がいることに気づいた。


■ A piece of moment 10/26

 現在利用しているAsahi-netが8メガbit/secのADSLに対応しているらしいので申し込んでみた。フレッツISDNとくらべて、料金は2割安くなって、速度が100倍くらいになるらしい。これだけ速くなると、Web上のデーターもハードディスクの転送なみにダウンロードできることになる。それはたんに大きいファイルを落とすときに便利だとか動画を扱えるとかいう次元ではなくて、インターネット上のプログラムをハードディスク内のプログラムと同等に扱えることを意味しているわけで、コンピューターの使い方自体が変わってくるような気がする。もっとも、そうした利点をうまく使いこなせればの話だけど。

 久しぶりに自分のサイトを検索していて見知らぬ人がリンクを張っているのを見つけた。それがなぜか「さとう珠緒」のファンサイトで、アイドルタレントとアニメ絵ゲームと小劇団のサイトに混じってこのサイトがリンクされていた。何か大きな勘違いがあるような気がする。


■ A piece of moment 10/28

 中学校の学芸会をのぞく。保護者にまじって後のほうで見ていたら、裏原宿あたりのスケボー小僧みたいなおにいさんとおねいさんがうろうろしている。なんだろうと思っていたら、1年生のとうちゃんとかあちゃんだった。ショックである。俺より若そうだ。で、あらためてまわりを見回してみると、見るからにおじさん・おばさんという感じの人は少ない。カラオケで都はるみや石川さゆりを歌いだしそうな感じの人なんてひとりもいない。中学生の親の世代はもはやロックとヒップホップとユーミンの世代らしい。それにしてもビデオカメラの大軍には圧倒された。噂には聞いていたが、本当にあんなことやってるんだな。べつに録るのはいいんだけどさ、録ったビデオは誰に見せるんだろうか。遊びにきた客に有無をいわさず我が子の晴れ姿を見せるんだろうか。おそろしい。ここ数年、正月になると子供がにっこり笑った写真付き年賀状が我が家にも送られてくるようになったが、あれをもらうと「俺はなにか悪いことでもしたんだろうか」という気分になる。電子機器のほうはやたらと発達したけど、それを使ってやっていることは十年一日何も変わっていない。もっと有効な使い道はないんでしょうか。うちの母親は猫を撫でながらよく、「かわいいのはうちの猫だけ〜♪」と言っていたのを思いだした。ビデオの晴れ姿を見て楽しいのは親と飼い主だけである。

 生徒のほうは熱心に練習していたようで、案外もりあがっていた。ニャン吉くんがあんなに芸達者だったとは知らなかったよ。


■ A piece of moment 10/29

 以前、近所で次のような看板を見かけた。


 ちらっと見ただけだと、わかば幼稚園が園児をバイオで育てているように思える。幼稚園の中にでっかい培養槽がずらっとならんでいて、そこでぶくぶくと園児たちが培養されている場面が頭に浮かんでぎょっとする。お母さんたちが「あ〜ら、うちもバイオにしたのよ〜うちは上の子が3年保育だったから下の子は5年保育にしたのよ」「やっぱりバイオよね〜」「わかばの培養槽はドイツ製だって聞いたわ」「うん、あそこはけっこういい設備つかってるわよね」「でも、育ちすぎちゃったら心配だわ」「タナカさんのところのおにいちゃん、いまどのくらい?」「この間うちに帰ってきたとき、4トントラックで十分間にあったわよ」「あら、それなら安心ね」「そうよ、小さく生んで大きく育てるっていうじゃない」「う〜ん、やっぱりバイオが一番ねぇ、いまどきバイオじゃないうちなんてあるのかしら」「手間もかからないしねえ」……なんて会話をしている姿が思い浮かんだりして夢が広がっていく。21世紀は大豆もとうもろこしも園児もバイオである。アーサー・C・クラークはきっと喜んでいるにちがいない。

 ただ、街道ぞいにある看板なので、自動車を運転中の人があの看板をちらっと見て、「ええっ、バイオで育ててるんだってぇ!?」と動揺して事故をおこす心配がある。現にそこには「事故多発地点 運転注意」の看板もならんでいた。


■ A piece of moment 10/30

 すっかり寒くなってきたので、扇風機を押入にしまい、床暖房とファンヒーターを出した。もうすぐ冬がやってくる。秋の虫ももう声が聞こえなくなり、夜中に南の空を見るとオリオンが高く登るようになってきた。なんて書くとまるで串田孫一のエッセイみたいですな。

 今月も新旧とり混ぜて10数本の映画を観た。今月はいまひとつ不作。話題の作品もいくつかあったが、どれもぴんとこなかった。「マグノリア」は散漫で作為的、断片的なエピソードの積み重ねからイマジネーションを広げていくのに成功できていない。「バッファロー66」、評判がよかったので期待していたが、主人公の男女がバカすぎて最後までいらいらさせられたままだった。主人公の神経症的キャラクターや会話の間も自虐的なユーモアよりも、むしろ自作自演のヴィンセント・ギャロの俺ってセンスいいだろ的挑発のほうが感じられて鼻につく。ただ、父親役でベン・ギャザラーが出演していたのは懐かしかった。ところで、アメリカ映画でダメ人間のスポーツといえば必ずボウリングということになっているけど、そんなにボウリングの社会的地位は低いの?「モハメド・アリ かけがえのない日々」、今月一番期待していたのがこれ。偉大なアリ、ボマイエ!といったら猪木なんかじゃなくてだんぜんキンシャサのアリだ。ただ、子供のころに見たアリはもはや盛りを過ぎていて、身体には贅肉がつきステップをする度にわき腹がたぷたぷとゆれ、体力とパンチ力のなさをクリンチで逃げる試合をしていた。それだけに全盛期のアリがどんなボクシングをしていたのかずっと気になっていた。ところが、映画がはじまって1時間近くたってもぜんぜん試合が始まらない。えんえんと関係者の証言と試合のアトラクションであるジェームズ・ブラウンのステージがつづく。そこでようやく、この映画がボクサーとしてのアリの軌跡を記録したものではなく、公民権運動とベトナム戦争の時代のスーパースターとしてアリをたたえる映画だと気づく。肩すかしをくった気分だった。映画の終盤に入ってようやく世紀の一戦とうたわれたキンシャサでのフォアマンとの試合が始まり、アリは終始押しまくるフォアマンに逆転KO勝ちする。たしかにKOシーンは見事だったし、アリはハンサムで陽気ないい男だったが、ボクサーとしてのアリはタイソンやフォアマンのようなずば抜けて強いチャンピオンではないようだった。アリがカシアス・クレイと名乗っていたころの全盛期の試合を見てみたいところだ。名勝負集のような記録フィルムは手に入らないものだろうか。


■ A piece of moment 10/31

 高校の授業が休みだったので、税金を払ったり家賃を払ったりマイラインを登録したりおくれていた確定申告をしたりとちまちました雑務を片づけていたら1日が終わってしまった。1日を無駄にした気分だ。8MbpsのADSLが正式に11/9に開通することになった。電話局に近くて良かった。

 何本かの映画を観た。「エニィ・ギブン・サンデー」、オリバー・ストーンのプロフットボールを舞台にしたスポコンもの。スポーツドリンクのコマーシャルフィルムみたいな映像がえんえんと続く。登場人物たちはどれも類型的で、映像も物語も薄っぺらい。本当にスポーツドリンクのコマーシャルみたいな映画だった。「黒い家」、森田芳光のサイコもの。ひたすら怖いばかりで物語としてはやはり薄っぺらい。狂ってる人は狂ってる、凶暴な人は凶暴というだけで、その狂いや凶暴をはらんだ心の中へと下りていかないために、ただ大竹しのぶが目をむいて包丁を振り回しながらせまってくるだけのホラー映画になってしまっている。この数年でサイコのもののホラー映画は山盛りつくられたけど、現実のほうで猟奇的な事件が多発しているために、怖いだけのサイコものはもはやワイドショーで語られる事件レポートと何ら変わらなくなっている。むしろ現実の事件のほうがはるかにショッキングだし、もうサイコもののホラーはうんざりという心境だ。もしつくるのなら、狂いをはらんだ心の中に観るものを引きずり込んでいくようなディープな内容でないかぎり存在意義はないしワイドショーを越えることすらできない。

 最近欲しいもの パイソン柄のレザーパンツ。シェリル・クロウがステージ衣装で着ていたニシキヘビみたいなのが欲しい。あんなのどこに行けば買えるんだろうか。あと「政治的に正しいおとぎ話」を探している。古本屋の100円コーナーにありそうでなかなか見つからない。


■ A piece of moment 11/1

 夜中にWebをちらほら覗いていて、なぜか「ウルトラQ」のサイトにたどり着く。ぼんやり見ていたら、猛然と「ウルトラQ」が見たくなってきた。DVD全7巻まで欲しくなってきた。「ウルトラQ」は学生の頃に再放送で1度見ただけだけど、けっこうあたりはずれが大きかった気がする。1巻3700円のDVDを買ったりしたらきっと後悔しそうだけど、でももう1度見てみたいしあの昭和40年代初期の風景はそれだけでそそるものがあるしああどうしようなんて考えていたら、朝方近くなっていた。おかげで今日はやけに気の抜けた授業になってしまった。生徒諸君にはもうしわけないことをした。

→ ウルトラQ
→ 怪獣アワ〜

 「怪獣アワー」のほうは、ウルトラシリーズの怪獣たちのソフビ人形が網羅されています。愛を感じます。掲示板の注意書きには、「人の悪口、中傷は勿論のこと、怪獣、宇宙人、ロボットに対する悪口、中傷は御遠慮下さい」と愛に満ちあふれたフレーズがあったりします。愛のない私は子供の頃たくさんあった怪獣たちのソフビ人形はみんなどこかへ行ってしまいました。いまもっていたらけっこうな値段で売り飛ばせたろうと少々おしい気分。

 ところで、狂牛病のあおりを受けて「松屋」のカレーがビーフカレーからチキンカレーに変わってしまった。チキンカレー、いまいちこくがなくておいしくない。べつに牛肉食いたくない奴は食わなくてもいいし、チキンカレーをメニューに入れるのもかまわないんだけど、ビーフカレーをやめちゃうことねえだろ。ここ数年来でもっとも不愉快な事件である。私は本気で腹をたてている。


■ A piece of moment 11/2

 めずらしく授業前30分に学校につき、さあ今日はちゃんと授業をやろうと気合いを入れていたら、「あれ?今日は時間割入れ替えで社会科はありませんよ」と生徒。職員室でウソだウソだとさわいでいるとキョートーさんが現れ、どうやら本当らしいと判明する。なんだいそれならそうとひとこと連絡くれてもいいじゃないかあまりにも不親切じゃねえかとむくれていたら、よほど凶悪な顔になっていたようで、キョートーさんにしきりに謝られる。きっと次回は連絡してくれるだろう。っていうかしろよな、こちとらボランティアのお手伝いさんじゃねえんだよ……とは言えなかった。

 というわけで授業は流れたし、せっかく早起きして新宿まできたので、映画のはしごでもしようと思いたつ。駅前のチケット屋で前売りを2枚買って、いざ映画館へと思ったら、両方とも新宿ではやっていないことに気づく。ウディ・アレンの「おいしい生活」は恵比寿の単館ロードショーで「リリィ・シュシュのすべて」は渋谷と銀座の2館。ガッデム。500年ぶりくらいに訪れた恵比寿はやたらと風景が変わっていて、ガーデンプレイスという煉瓦づくりの小じゃれた区画ができあがっていた。こういう小じゃれた場所には必ずカネ持ちそうな白人が植民地気どりでうろうろしている。いったいどこからわいてくるのか、まるで甘いものに集まってくるアリンコみたいだ。イラン人やパキスタン人はひとりもいなかった。世界は不公平だ。映画館は平日の昼間なのに、カネ持ちそうなオバハンと学生ふうの若い女で8割方座席はうまっていた。ウディ・アレンの映画にこんなに女の観客がついているとは知らなかったよ。それともたんに土地柄によるものなんだろうか。「おいしい生活」のほうは、ウディ・アレン久しぶりのドタバタコメディで、腹をかかえて笑う。会話のテンポも話の展開もすごく良い。会話のうまさとテンポの良さはもはや名人芸の域だ。最近のベスト。

 渋谷はあいかわらず人が多くて汚くて安っぽかった。せまっくるしい映画館に入り、ロビーでタバコをふかしながら上映を待っていると、係員が「2列にならんで入場をお待ちください」と怒鳴りはじめる。おいおい、入場ごときでならばせるなよ。俺はならばされるのと待たされるのが一番嫌いだ。係員の言いなりになって通路に2列縦隊をつくっている従順な連中の顔を見ていたら、よけいに怒りがこみ上げてくる。いくら渋谷はガキばかりだからっていっても、係員、客をなめてるんじゃねえか。映画館に放火してやりたい気分だった。設備もスクリーンがやけに湾曲して見にくい上に、デジタルビデオをつかった上映でプロジェクターのフォーカスが甘いのが気になる。ハイビジョン程度の解像度ではやはり映像のドットが目についてしまう。で、「リリィ・シュシュ」、悪いことをくりかえす中学生たちの話なんだけど、物語の根底には「スワロウテイル」と同様に自分がここにいることのあてどなさがある。自分がいま・ここにいるということのあいまいさとつかみどころのない不安、自分の無力さへの苛立ち、身動きのとれない毎日へのいたたまれない思い、それはいつどこにいてもつきまとってくる。だから彼らは叫び、自分をそこから救いだしてくれるかもしれないリリィ・シュシュという歌手に思いを寄せ、吸い込まれそうな濃い空の色を見上げる。たぶん「スワロウテイル」も「リリィ・シュシュ」も自分が中学生か高校生の頃に観たらもっと夢中になったのではないかと思う。ただ、いまの自分にはあの思いを全面に出されるのはしんどい。それにそういう思いをひとつの「作品」のかたちにするための仕掛けのあざとさに目がいってしまう。MTV調の小賢しいつくりにせずにもっとストレートなドラマにすればいいのに。もっともそういうあざとさが岩井俊二の持ち味だと言ってしまえばそれまでだけど。あと、今回の作品は「スワロウテイル」とくらべて脚本の詰めが甘く、不必要なエピソードが多い。担任の教師がビデオ屋の店員と知りあいだったり、友達の母親が意味なく若くて美人だったり、沖縄でモデルみたいなお姉さんたちがでてきたり魚の解説があったりと本筋のストーリーの複線にならないまま流れていく描写が多いために、散漫でやたらと上映時間が長く感じる。とくに現実のバスジャック事件を模したテレビニュースを見ながら親たちが「いまの子たちは何を考えているかわからないわねえ」と会話をする場面はあきらかに不要であるだけでなく、あのテレビ映像と会話があるために、「社会問題」という引いた視点が入ってしまい、物語性をそこなわせている。わかるとかわからないという外側の視線は無意味だ。あの映画はある少年と少女たちが体験している世界の物語であり、彼らの視点から一気に描いていかねばならないはずだ。そこには何処かの誰かがおこした「社会問題」としてのいじめや自殺や暴力事件など入り込む余地はない。映画全体を通しての印象は、後味の悪さもふくめて、岡崎京子の「リバーズ・エッジ」によく似ている。岡崎京子がモノローグを多用するのに対して、この映画ではインターネットの掲示板への書き込みがモノローグ代わりになっていて、モノローグのような生々しさを排除しドラマのテンポをつくる仕掛けになっている。ただ、作品としての出来は「リバーズ・エッジ」のほうがずっと良い。


■ A piece of moment 11/4

 「ウルトラQ」のDVDを買う決心がつかなくて、図書館で実相寺昭雄のウルトラシリーズの舞台裏を書いたエッセイを借りてくる。こういうのを心理学用語で代償行為といいますね。レンタル店に「ウルトラQ」、出まわっていないものだろうか。円谷プロは版権管理に神経質なようで、CS放送の古いテレビシリーズをやっているチャンネルにはちっともまわってこない。

 このところ映画づいていて、夜中になると観たくなる。「ボーン・コレクター」、脚本も演出も良くて中盤まで好調。ただ、猟奇殺人をくり返す知能犯にしてはラストで登場する犯人がいまいちなので見終わったときなあんだという気分。デンゼル・ワシントンはやはり格好いい。アンジェリーナ・ジョリーは顔アップよりもすっと立っている姿がきれいで、なるほどアクション向きのキャラクターだと納得した。きっと「トゥーム・レイダー」のララ・クロフトははまり役なんだろう。「ケロッグ博士」、これ、ずっと観たかったんです。ようやく観れた。ケロッグ博士というのはあのコーンフレークのケロッグで、コーンフレークを発明した人物。なんだけど、これがまた健康教のカルト教団の教祖サマのような人物で、コメディなのに演じるアンソニー・ホプキンスはレクター博士よりもずっと恐い。人は押しの強い人物にだまされるものなんだなあと改めて思う。カリスマというのは自分の信念に対する盲信とそれを人に伝染させる押しの強さから生まれるものではないかと思う。信じるもののない押しの弱い私は教祖にはなれそうもない。で、映画はその健康信仰を皮肉って笑ってやろうという演出なんだけど、怖すぎてちょっと笑えなかった。アラン・パーカーの叙情的な演出はコメディは向いていない気がする。あと、物語の展開が煩雑で中盤だれる。脚本に難あり。映画を観ていて、「健康のためなら死んでもいい」なんてほざいていたうちの母親を思い出した。ああ怖い。

 ところで、明日、我が家の回線をISDNからアナログにもどす工事があります。9日にADSLが開通するまでの5日間はネットに繋ぐことができませんので、メールの返事も遅れます。悪しからず。


■ A piece of moment 11/6

 ADSLの開通待ちでインターネットに繋ぐことができない。このところ、インターネットの利用時間が長くなっていたので、5日も接続できないのはかなり堪える。ただ、インターネットに繋いだからといって、とくに何かをやっているというわけでもないし、なければないでどうということもないはずなんだけど、なにやらあいまいな不便さと欠落感がある。ネット中毒みたいで怖いなあ。

 CS放送でデビッド・スーシェの「ポワロ」を観ていたら、ポワロが着ているようなウールの黒いチェスターコートが猛然とほしくなる。町を歩くとヴィンセント・ギャロもどきの汚いナイロンジャンパーばかり見かけるから、少しはずした服がほしい。丸井の紳士服売場をのぞくと、アンゴラのが8万円、カシミアのが13万円だそうで、それはちょっと。このところユニクロとGAPの安い服ばかり着ていたから、ヒトケタ、フタケタ物価が違う気がする。ジーパンとあわせるとパンクロッカー風で格好良かったけど。


■ A piece of moment 11/9

 目星をつけていたデジタルカメラが値下がりしていたので、仕事の帰りに新宿のカメラ店に寄って購入する。マウスのホイールがへたっていたのを思い出したので、光学式のマウスをついでに買ってくる。冷たい雨の中、家に帰るとADSLが開通していた。で、こうしてインターネットに接続しているわけだけど、たしかにADSL、速い。おっおおおという感じで重いWebサイトもパカパカ開いていく。パソコン雑誌がバカみたいに「ブロードバンド」とはしゃいでいるのもなんとなく納得した。8Mbpsのフルスピードはもちろんでていないが、2Mbpsくらいでつながるので、ISDNの30倍くらいの速度ということになる。ダウンロードもアップロードもあっという間に終わった。

 こうして通信設備も良くなって、我家は次第にデジタル要塞と化していく。ADSLでつながったコンピューター、ふたつのパラボラとCSチューナ、インターネットで検索すればそれまで考えられなかったほどの情報を得られるし、地球の反対側にある業者に商品の発注だってできる。CSチューナーのリモコンを押せば、テレビには古今東西の映画が映し出される。たしかにすごく便利だけど、でもなんだかなぁとひっかかるものはある。テクノロジー系の雑誌やWebに文章を書いているあの人あの人のようにはビバ・テクノロジーというおめでたい気分にはなれない。電子要塞の装備が良くなっていくたびに、本当に俺ってそんな暮らしがしたいのっていう疑問がいつも頭をかすめる。生活に必要なものがどんどんとふえていって自分自身がデジタル要塞の虜になったようなひよわさを感じる。それは便利であるようでいて、むしろ心理的にはそれにしばられて身動きがとれなくなりつつあるんじゃないかっていう不安だ。もっと身軽にせいせいとした気分でくらすことができないものだろうか。かといって、じゃあ何もかも捨てて路上での暮らしができるかっていうとそういう決心もつかないわけで、ホームレスへの道は険しい。ともかく、今日ADSLが開通して、再びインターネットに接続することができるようになった。


■ A piece of moment 11/10

 我が家は小平の中でも陸の孤島のような不便な場所にあるので、以前からよく移動販売のクルマがやってきた。たけやさおだけはもちろん、ヤマギシの自然食品から屋台のラーメン、豆腐、ぎょうざ、タマゴ、魚、アイスクリーム、灯油などなどで、ちょうどうちの前に止めてスピーカーから口上をくり返す。とくにうるさかったのがヤマギシズムとアイスクリームで、テレビの音も聞こえないくらいの大音量で、ピンク色のアイスクリームカーがやってまいりましたぁ他では味わえない美味しさぁとろけるような舌ざわりぃお父さんには抹茶アイスお母さんにはバニラお子さまにはストロベリーはいかがですかぁ寒い冬に暖かい部屋でアイスクリームというのはヨーロッパではあたりまえなんですぅ〜とべったり絡みついてくるような媚びた口上で俺様激怒、近所のガキはサイレンのように泣き出すといった具合だった。このところ近所に立てつづけに大きなスーパーやディスカウントストアができたせいか、巡回販売も減ってあのアイスクリーム屋やヤマギシズムに眉間にしわを寄せて耐えていた日々からもようやく解放された。そんな平和な暮らしを満喫していたところ、意外なところから新たな強敵が出現した。灯油屋である。灯油の巡回販売は以前からたくさんあったんだけど、そこにやたらとしつこくて押しつけがましい口上の灯油屋が割り込んできた。他の灯油屋の5倍くらいの大音量でなぜかベートーベンの第9交響曲の出だしをひびかせ、悪質な押し売りみたいな口上をえんえんとまくしたてる。おまけにそれがあまりに大音量なために、近所を移動しているはずなのにずうっと家の前にいるように感じる。パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜買ってくれないとワタクシ家に帰れませんうちの奥さんこわいんですぅ〜灯油灯油とうゆぅ〜安いよ〜850円〜灯油灯油とうゆぅ〜なんでこんなに安いのかっていいますと〜ワタクシみなさまの味方だからでございまぁ〜っす〜もしもっと安い灯油があったら遠慮なくいってくださいねえ〜でもこれ以上安くしたらワタクシうちの奥さんに怒られちゃいますぅ〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜このクルマはゆっくりとゆうぅ〜っくりとうごいていますからねえ〜あわてなくても平気ですよぉ〜奥さん〜ワタクシとりわけ女性には優しいんですよぉ〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜うちの奥さんがどんなにこわいかっていいますとねえ〜全部売るまで帰ってくるなっていうんですよぉ〜たまりませんよぉ〜だからみなさん買ってください〜灯油灯油とうゆぅ850円〜パンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパンパ〜パパァ〜ン灯油屋でぇ〜っす灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜この間なんてうちの奥さん何て言ったと思いますぅ?……ってそんなもん知るかいな。もう最悪である。あの勝手に土足でずかずか踏み込んでくるなれなれしい感触はピンク色のアイスクリームカーもヤマギシズムもかわいく思えてくるほどだ。もしかしたらこの冬いっぱいあの灯油屋につきあわされるんだろうか。俺の安らかな日々を返してくれ。灯油灯油とうゆぅ〜買ってください灯油ぅ〜って、ああ耳についてはなれない。買いません〜灯油ぅ〜ぜえぇ〜ったい買いません!


■ A piece of moment 11/11

 このWebサイトを作りはじめたときからずっと使ってきたHTMLエディタは、ファイルサイズの大きい文章を編集するとフリーズしたり文字化けしたりと動作が不安定だ。3年間、ずっといらいらしながら使ってきたが、ダウンロードも楽になったことだしと新しいHTMLエディタに換えてみた。良い良いすごく良い。動作は安定しているし、あれこれカスタマイズできるので使い勝手も良い。こういう良い道具をフリーソフトとして公開しているプログラマーの心意気にも感心する。なので敬意を表して勝手にリンクを張ることにする。

→ TTT Editor

 私のような自己流でコンピューターをいじっている者にとっては、最初に出会うソフトが変なソフトだとそのダメさに慣れてしまって、作業効率の悪いままずっと使い続けてしまうことになる。なんかこのソフト使いにくいんだけどでも設定をいじるのも面倒だし新しいソフトに換えても慣れないと使いにくいだろうしでももしかして自分の使い方が悪いのかもしれないしという調子で、やっぱりこれダメじゃんと結論が出るまでに3年近くかかってしまった。まるで不毛な同棲生活をだらだら続けてしまったみたいな気分だ。


■ A piece of moment 11/14

 いまさらながら「私立探偵・濱マイク」シリーズを見はじめる。凝った映像と道具立て……なんだけど肝心の永瀬正敏演じる濱マイクが何をやっているのかさっぱりわからない。1作目の「我が人生最悪のとき」はこんな話だ。雀荘のバイトをしている台湾人の楊はチンピラに因縁をつけられる。仲裁に入ったマイクはとばっちりを受けて怪我を負い、それがきっかけで楊と友達になる。楊の貧しい子供時代の話を聞かされたマイクは、自分の子供時代と重なって人ごととは思えず、仕事を紹介したりなにかと世話を焼く。そんなマイクに楊は行方不明の兄を捜してほしいと頼む。まかしとけと友情にかたいマイクは大見得を切り、さんざん苦労してつきとめるが、楊の兄がアジアン・マフィアの一員であることを楊に告げることができずにいる。ところが、楊自身も台湾マフィアの一員で、自分の兄がマフィアの殺し屋であることははじめから知っていた。楊は裏切り者の兄を殺すために送り込まれた殺し屋だった。そのことにようやく感づいたマイクは楊を止めようとするが、楊はマイクの制止を振り払い兄を殺しに向かう。ところが、組織ははじめからふたりを相打ちにして片づけるつもりだった。ふたりがそろったところをねらって兄弟とも殺してしまう。事がすべて済んだところに、マイクがようやくたどり着き、楊の遺品を拾う。センチメンタルモードに入ったマイクは楊の遺品を持って台湾まで訪れ、楊の恋人だった女に無言でその遺品を渡す。台湾と横浜の雑踏にたたずむマイク……ジエンド。なんじゃこりゃ。なんてひどい脚本。主人公のマイクは状況をかき回すだけで、最初から最後まで事件の流れを変える活躍をしないので、活劇なのにぜんぜんスカッとしない。ちょろちょろして殴られるばかりのマイクは、主人公なのにいてもいなくてもいい登場人物に見えてしまう。そもそもこの話では、楊と楊の兄さえいれば成立してしまうストーリーだ。しかもストーリーの鍵になるエピソードがきわめていい加減につくられている。なんで楊はプロの殺し屋なのに、友人であるマイクに兄を捜してほしいなんて危険な依頼を軽々しく口にするのか。なんで兄の事情を知った後も楊は兄を殺そうとするのか。ふたりの殺し屋が死んだところで、組織にはなんのメリットがあるのか。なんでマイクは、楊が自分を欺いていたとわかった後もあれほど肩入れするのか。子供時代の境遇が自分と似ているというだけで、なんでマイクはセンチメンタルジャーニーで台湾まで行っちゃうんだよ。友情大安売り。おまけに楊兄弟はいくらでも状況を変える選択肢があるはずなのに、死ぬことが決まっているかのようにふるまい、死ぬ場面に向かって一本道のように展開していく。見終わって、あまりに釈然としない気分でいらいらがつのった。脚本書いた奴、東映のヤクザ映画の見過ぎで脳味噌いかれてるんじゃないのか。テレビのサスペンス劇場だってもう少し気の利いたシナリオだ。主人公は楊兄弟を手引きして、カナダかアメリカあたりに出国させるためにマフィアも警察も敵にまわして活躍するくらいの展開があっても良いはずだ。にもかかわらず、物語は日本映画にありがちな組織は強く個人は弱いという論法に忠実にそって、組織に負ける結末へ向かって一本調子の展開を見せる。おかげで登場人物たちは最後まで生き生きと動き出すことはない。演出も凝った映像を見せようとするばかりで、テンポが悪くもたつく。たぶん、これは凝った映像と洒落た道具立ての中でセンチメンタルな気分にひたる永瀬正敏の姿を見せるためだけの映画だ。だから、終始、負け犬の美学のようなムードが押しつけがましいほどつらぬかれている。それにしても、けっこう話題になった映画のはずなのに、どうしてこんな映画がという疑問が残る。永瀬正敏が洒落た格好をしてスクリーンでポーズをつけていればなんでも良いという人が大勢いるんだろうか。そんな日本映画の安っぽい部分が凝縮したような映画で、3作まとめてみようと思っていたのにはやくも挫折気味。このところ、映画はハズレが多い。


■ A piece of moment 11/15

 以前、一緒に社会科を教えていた女性と昼の給食を食べながら、リアルタイムで経験した事件で何が印象に残っているかという話をしたことがある。浅間山荘事件と田中角栄の列島改造はかろうじて記憶にある、三島由紀夫の割腹自殺とアポロ11号の月面中継はおぼえていない、そう話すと、うちの母親とほぼ同世代で定年間近い彼女は、私はやっぱりケネディの暗殺かしらねえと話しはじめた。あれは日本ではじめての衛星中継で、ほんとうにちょうどテレビを見ているときにいきなり起きた出来事だっただけにすごいショッキングだったわよ。「ケネディ暗殺の頃はまだ俺は生まれてませんよ」と言うと、いやあねえケネディ暗殺なんてつい昨日のことのようなのにとあははと笑っていた。ケネディ事件がつい昨日のことのようだというのはなかなかおもむきのあるいい言葉だ。現代史はできるだけ年輩の人から体験談を交えて教わったほうが味わいがある。

 今日、中学校の選択授業で、ベルリンの壁が崩壊したときのことをおぼえているかという話になった。生徒たちはほとんどが記憶にないという。そうか、もう12年もたつのかと改めて驚かされる。まいった、ベルリンの壁の崩壊なんて、つい昨日のことみたいな気がする。壁によじ登ってハンマーを振り下ろしていたおじさんの顔まで鮮明に記憶している。なのに12年、まったく、いやあねえっていう感じだ。夜の授業で高校生たちにそのことを話すと大笑いされた。ハタチ過ぎで酒もタバコのオッケーの眉毛の細い副生徒会長は、今回のニューヨークのテロ事件だって、あと5年もすればそんなことぜんぜんおぼえていない連中が中学生になって、彼らを相手に授業をすることになりますよと笑っていた。まったくおっしゃるとおりで、気の利いたことを言うもんだ。ベルリンの壁の崩壊もニューヨークのテロもやがて歴史の中のひとコマになって、我々にとっての「体験」は、新しい世代にとって学校で学ばなければ知らない「歴史上の知識」になっていく。そうして彼らは、社会科っておぼえなきゃならないことが多すぎて嫌い〜と不満を言いだしたりする。わはは、ざまあみろ、遅れて生まれてきた君が悪いのだ。それが嫌なら、長生きすればいい。そして、世界は回っていくのだ。


■ A piece of moment 11/16

 生徒のWeb日記を見つけた。本人は今どきめずらしく「です・ます」を流暢につかって理路整然と話すので、日々、岩波文庫のゲーテかトルストイでも読んで暮らしているのかと思っていたら、ぜんぜんちがった。おじゃる丸のひとりごとみたいな文体で、マンガとコスプレとハウスミュージックのことがえんえんと綴られていた。どうやらサブカルチャーマニアだったらしい。人は見かけによらないものである、って私に見る目がないだけか。ともかくその振幅がおかしかった。からかってやろう。

 Web日記の彼女のように、ときどき話し言葉よりも書き言葉の文体のほうがくだけているという人を見かけるようになった。インターネットと携帯メールの影響だと思うが、いままでになかった現象だ。良くも悪くもメールとチャットは書き言葉を記号化し、軽いものにしている。そういう私は話し言葉も書き言葉も軽いために、日々ヘーゲルを読み世界認識のメタ化について考えているというのにアホだと思われているらしい。しかし、世界認識のメタ化について思いをめぐらす日々に身を置く者としては、松屋の牛丼が食い放題だったらいいなあとか小泉考太郎はあと半年持つだろうかとかゲームボーイアドバンスはちょっと欲しいなあとか来週あたり晩飯を賭けてモノポリーがやりたいなあとか通勤途中で見かけるラブラドール・レトリーバーの顔が志村けんのバカ殿に似ているなあとかそんなことはどうでもいいことなのであって、そんなアホなことばかり考えているように誤解されて非常に迷惑しているのである。なので、米米クラブが何人なのか教えてくださいなんて変なメールを送ってこないでください。知りません。私は米米クラブよりもアラジンが横にはべらせていた「じゅらくよ〜ん」みたいな女の人たちのほうが気なって……あ、いません、そんなこと考えたこともありません。


■ A piece of moment 11/17

 フリーウェアソフトの掲示板を見ていたら、10行程度の書き込みに「長くなりました」とことわっているのがあった。なんじゃそりゃ。3行4行の文章でいいたいことを伝えるなんて、まるで短歌の世界か「あれだよあれああそれそれ」といっているお父さんみたいだ。本当にそんなことでいいたいことが伝わっているのか不安にならないんだろうか。私としては999行くらい書き込んでも「言葉がたりなくてすいません 敬具」って感じなんだけど、やはりサーバーには私の意図が伝わらないようで「容量オーバーです」と意味不明のメッセージを返してきたりする。昨今のコンピューターは気合いが足りないような気がする。


■ A piece of moment 11/22

 期末試験前で問題をつくらねばならないのだが、こういうときに限ってやけに気力減退、アタマの中には霧がたちこめ、先月のさえわたっていた日々がはるか遠い出来事のようだ。仕方がないのでとりあえず問題作成をとコンピューターの前に座るが、ふと気がつくと夜中までテレビゲームの桃太郎電鉄をひとりコンピューター相手にやっていたりする。おまけに負ける。これが噂に聞いていたキングボンビーってやつかぁなどと納得している場合ではない。試験問題をつくらねばならないのである。でもやっぱりくやしいから、もうひと勝負って、あ、これは非常に危険な香りが……。それにしても、あのゲーム、どうしてあんなにメッセージが脳天気なんだろう。さあ、ももたろう社長のばんですよぉ〜って、あの脳天気さは状況がせっぱつまっているときほど心をゆさぶられるものがあります。


■ A piece of moment 11/23

 夜中までキングボンビーにつきあっていたせいで寝不足のまま授業をする。教室に近づくと廊下にまで生徒たちのさわぐ声が響きわたっていて、寝不足のアタマには堪える。どうして朝からあんなに元気なんだろう。ひたすら圧倒される。授業が始まってもアタマがぼんやりしているため生徒たちのハイテンションな会話についていけず、うまく生徒との会話を切り返すことができない。まるで、アドリブがきかない芸人になった気分だ。アドリブのきかない芸人にかぎってネタと企画モノをやりたがる。不様である。あれと一緒でこういう時はつい授業を進めたくなる。おかげで試験範囲は終わらせることができたが、まるで試験範囲を終わらせるためだけの授業をしたようで、生徒たちには申し訳ないことをした。

 Web日記嬢と廊下で出くわす。先日の近況を読んだらしく、「おじゃる丸ですかぁ〜」と顔は笑っていたがやや不満げな様子。やはりうまく会話を切り返すことができず、笑ってごまかす。たしかにおじゃる丸というよりグーグーガンモみたいでした。あ、またからかいそびれてしまった。笑いの感覚が似ている人というのは案外からかいにくいものかも知れない。

 先日、ラジオから流れてきた「ジェットにんぢん」という歌がアタマにすり込まれたようで、通勤電車に揺られてぼんやりしていたとき、ふとアタマの中でジェットにんぢんというフレーズをくり返して思考停止状態になっていることに気づく。ラジオはライブ中継だったようでやけにベースに勢いがあって、どの曲も妙なぶんぶん感が残る感じだった。その手のバンドにくわしい人によると1年くらい前からけっこう売れている新人バンドだそうで、GO!GO!7188というらしい。まわりに聴いている人はいなさそうだが、こういうバンドはかえって高校生くらいのほうがくわしいような気がする。

 おとつい、玄関先にとめておいた自転車が盗まれていることが判明する。ぼんやり気分のせいか怒りもわいてこず、ただバス通勤の不便さを味わっている。


■ A piece of moment 11/26

 自転車購入。27インチ、ママチャリ、変速機なし、9800円也。カゴが大きいのと輪っか式のカギが気に入る。新しい自転車はやはり気持ちよく走る。それにしても9千8百円。こんなに安いんなら、タイヤがすり減って穴があいたときに5千円も出して交換したりしないで、買い換えておけば良かった。ものの値段っていったいどうなってるんだろう。我が家の10年も使い込んだボロ自転車を盗んだ人間も、いったい何が気に入ってあんなのわざわざ盗んだんだろうか。世の中、不思議だ。でも、あの赤いボロがその辺に乗り捨てられてるとしたら、ちょっとかわいそうだな。ものはモノにして物にあらずだ。


■ A piece of moment 11/29

 遊びほうけていたツケが回ってきて、きのう今日と修羅場をむかえる。きのう、夜の部の授業を終えて、9時すぎに帰宅。そのまま中学のほうの期末試験を作成にとりかかるが、これが思った以上に難航、あいだに1時間の仮眠をはさんで朝までかかってしまう。学校へ行き図版のコピーなどをして、印刷を終えたのは試験実施の15分前だった。すべり込みセーフ。ひさしぶりにスリルとサスペンスを味わった。このところ問題作成はいつもすべり込んでいるけど、今回はヘッドスライディングで鼻血垂らしながらファイト一発って感じで、いつになく激しくすべり込んだ気がする。ただ、勢いで書き殴ったわりには、問題のほうは案外ちゃんと出来ていた。少し問題傾向を変えて、用語の穴埋め問題を減らし、説明文の中から間違った説明をしているものを選択する形式をふやしてみたりした。文章量が増えるのと適切な選択文を設定しなければならないので作成には手間がかかるが、こちらの形式だと用語の丸暗記でなく状況の理解のほうを問えるので、ひと手間かけてみた次第。もっとも生徒からは問題文が長いと不評。で、ほっとする間もなく試験の見回りやら試験監督やらをこなして、メシ食って採点開始。8人目を採点し終えたところで意識不明におちいる。何度か再トライを試みるがその度に意識不明に陥るので、あきらめて学校で2時間ほど仮眠。その後、ひとクラスぶん採点を終わらせ、再び夜の部の授業に向かう。定時制高校のほうは、原子力発電をテーマに有効性と問題点について考えるというもので、今回はその最終回なので、手は抜けない。用意した資料をあれこれ提示したり、生徒の考えをひとりひとり聞いたりして、どうにか2時間終える。生徒は概ね積極的に考えを発言してくれたが、ひとり、こちらが質問をするとしかられた子供のようにうつむいて黙ってしまう女の子がいる。ん?どう?と聞きなおしてもうつむいたまま10秒20秒30秒と重たい沈黙が続く。あの無言の間はけっこうつらいものがある。まるで俺がいじめてるみたいじゃんか。もしかしたら、小学校や中学校のころに、自分の発言を教師からバカにされたりした経験でもあるんだろうか。ふだんは陽気でへらへらしている子だけに不思議だ。この種の演習授業は、居酒屋の酔っぱらいオッサンみたいな「コイズミがダメだからよ〜」式の発言が続くとそれはそれで気が滅入ってくるものだけど、あれはまだ独善にせよ進行役の私には取り付く縞がある。でも、ひたすら黙られてしまって反応が返ってこないと、こちらとしてはもうお手上げである。参加者の顔ぶれでどんなふうにでもなってしまう授業なんだとあらためて実感する。で、そんなつな渡り気分を味わった後に、学食で晩飯をたらふく食って、ぎゅうぎゅう詰めの満員電車に1時間半ゆられて帰宅。これから中学のほうの採点の残りを終わらせる予定。明日、答案を返せばひと段落だ。でも、夏休み前の1学期とちがって、2学期の期末は終わらせてもいまひとつ開放感がない。まだまだ授業はあるし、冬休みなんてすぐ終わってしまうし、ちっとも終わったぁ〜という気分にならない。そんな1日。


■ A piece of moment 12/1

 IEのセキュリティホールをねらった「ワーム」と呼ばれるウィルスが大流行のようで、こちらのサイトにも日に2通くらいのペースでウィルスが添付されたメールが送られてくる。タイトルも送信先のアドレスがないものやタイトルが「Re:」だけで送り主のアドレスのはじめに「_」がつくものなど各種送られてくる。いちおうセキュリティパッチもあてているし、このサイトではgooのWebメールしか公開していないので、感染することはないんだけど、非常に鬱陶しい。ワームウィルスに感染した場合、本人に自覚のないまま自動でウィルス添付のメールをばらまいてしまうので、ちょっとでもあやしいなと思ったらウィルスチェッカーにかけてみた方が良い。というかしてください。まあめんどくさいけど、感染するとウィルスの種類によってはコンピューターが使えなくなるくらいの被害がでるしさ。そんなわけでインターネットにはウィルスがあふれているので、ウィルス対策の知識がない者はインターネットに繋ぐなという状況になりつつあるような気がします。ウィルス情報や対策はこちらを参考に。

→ Trend Micro Japan


■ A piece of moment 12/13

 前回の近況からちょっと間があきました。そのあいだに何をやっていたかというと、EverQuestの拡張パックを買ってしまったわけで、ああまたカエルと殴り合いするのかぁと気分はやや引き気味だったにもかかわらず、毒くわば皿までと勢いで買ってみた。で、拡張されて何がおきたかといえば、あちらの世界の月へ行けるようになって、キャラクターグラフィックが大幅に変更されて、3Dの描画プログラムを大きく変更しすぎたために大量のバグが追加されてしまったのであった。ともかく。我が分身、Efta Novemberstepsくんは白髪のちょんまげアタマになってあの世界に生まれ変わったのであった。岡野令子のマンガみたいな顔になった。前の羽賀健二みたいなな〜んにも考えていないようなハンサムくんよりはいいだろう。で、買ってしまったんだから、まあ仕方ない、ともかく3ヶ月ぶりにあちらでの暮らしを再開してみる。再開して何をやっているかといえば、ああもうこれは予想していた通りで……やっぱりこうなるのであった。


 カエル大行進。そして、再び変なアメリカ人たちとしょうもない会話をしながらカエルを殴る日々がやってきたわけで、3ヶ月前となんにも変わってねえじゃんか。もう俺、何やってんだろうって気分である。映画観るなり、本でも読むなりした方がよっぽど有意義な気がするが、でも目の前にカエルがいるんだもん、殴らなきゃ。そんなわけでとにかく寝不足である。

 ぜんぜん関係ないが、世の中にはやたらと自身に満ちあふれた人がいる。一方で、いつもおどおどしてやけに自身なげな人もいる。多くの場合、それは本人の能力と比例していて、能力の高い人ほど自信満々という雰囲気を漂わせている。ただ、時に、なんでそんなことを思いっきり断定できるんだろうというような自信過剰の困ったちゃんもいるわけで、あきらかに間違ったことをいっているのに断定調の言動をまきちらしたりする。どうやら、間違っていようが正しかろうが自信満々な様子をしていた方が日々の暮らしの中で得をすることが多いらしい。自信たっぷりに言えば、自分に都合のいいだけのでまかせがさも真実で重要なことであるかのように信じ込ませることができる。遅まきながら私もそのことにようやく気づいた。今日、昼飯の中華焼きそばを食いながら突然気づいた。多くの人は話の論理的整合性よりも相手の雰囲気に「説得力」を感じる。この数年、あちらこちらで聞くようになった「カリスマ」とか「オーラ」というのは、雰囲気にだまされる自分の愚かさを正当化する言葉である。なので、今後、私は会話の中で「カリスマ」とか「オーラ」という言葉をもちいる人間は皆アホだと相手にしないことにした。人間は「オーラ」も「フェロモン」も発していないのである。


■ A piece of moment 12/20

 ようやくバッドトランスBも下火になってきたようで、こちらに送られてくる「Re: 」のメールも減ってきた。12月はじめの多い時期は日に5通くらい新たな感染者からウィルス添付メールが送られてきて、その広がりが手に取るように伝わってくる感じだった。ウィルスの輪で人類皆兄弟。きっとウィルス制作者は人類愛に満ちた人物なんだろう。ビバ・ヒューマンビーイング。クリスマスも近いしさ。それにしてもこの種のウィルスはセキュリティパッチや簡単な設定をするだけでふせげるのに、ぜんぜん対策をとっていない人がずいぶんといるもんである。こうなってくると、コンピューターのウィルスの場合は、インフルエンザとちがって、うつされる方が悪いような気がしてくる。先日、ウィルス対策をとっていないものはネットに繋ぐなという状況がくるのではないかと書いたが、本当にアメリカの大手プロバイダーがセキュリティパッチをあてていない者の接続を拒否するという声明を出した。何のウィルス対策もとらずに感染してさらにネットでウィルスメールをばらまくようなアホは入場お断りというわけだ。厳しいような気もするが、ウィルスをまき散らす迷惑さとトラフィックの混雑を考えれば仕方ないところだろう。それにしてもセキュリティパッチをあてているかどうかなんて、どうやってチェックするんだろうか。

 3ヶ月ぶりに再開したEverQuestだけど、その間に知りあいたちのほとんどはやめてしまったり、別のサーバーへキャラクターを移動させたりしてして、いなくなってしまった。元々、日本人の少ないサーバーだったのに、少ない上にさらにメンバーのコミュニケーションがうまくいっていなくて、この有様に至ったようだ。引いた目で見るとたかがゲームでなんでもめるのか不思議な気がするけど、大勢でいっしょにプレイするゲームなので、どうしてもプレーヤー間で互いへのフラストレーションが溜まりがちになってしまう。ことにゲームに求めるものが大きくちがうと、一緒に行動することすら困難になる。下調べなしでダンジョンに突撃したい者にとってはあれこれ細かい指示を出す者は小うるさくて鬱陶しい奴に思えるし、逆に詰め将棋的にきっちり攻略したい者には打ち合わせもなしでただ突撃したがる者は人のハナシを聞かないでたらめな奴に思える。そうしてプレイヤー間で不協和音がたちはじめる。いい大人なんだから歩み寄ればいいものだが、互いにそんなことをしても楽しくないし自分は楽しむためにゲームをやってるんだと自分のプレイスタイルを譲らない。キャラクターが育って難易度の高いところを攻めるようになるほど大勢の人手とコミュニケーションが求められるので、プレイヤー間のフラストレーションはさらに高まってくる。そもそもレベルが上がってくると必然的に下調べやプレイヤー間の打ち合わせが必要になってくるので、気楽に突撃したいだけの人はプレイが困難になり、キャラクターが育たない。キャラクターのレベルが大きく違ってしまうとゲームの仕様で行動を共にすることは不可能になる。にもかかわらず「もう少しレベルの底上げをしてみんなで一緒にプレイしようよ」という呼びかけすらプレイスタイルの押しつけと受け取られ、白けた空気と不協和音を煽る結果を招く。コミュニケーションのうまくいっていないメンバーでは、うかつなことは言えないのである。もうダメじゃんこのメンバー。というわけで、攻略したい人たちはせっかくキャラクターが育っても、人手が足りないためにすることがなくなってしまい、もっと日本人プレイヤーの多いサーバーへ移ってしまった。一方、気楽に突撃したい人たちはゲームに飽きてやめてしまった。取り残された私はあいかわらず変なアメリカ人たちといい加減な英語でやりとりしながら、いまだにカエルを殴っているわけである。


2002

■ A piece of moment 1/12

 目くじらをたてるほどではないが、日頃、小賢しいと思っているものがある。
 たとえばカップラーメンの底に貼ってあるビニールはがし用のシール。あんなものつめをたててべりっとやればいいだけなのに、わざわざシールを貼ってほら私たちは親切でしょうこんなにあけやすいんですほらほら細かいところにも気配りしてるんですよと親切ぶってにじり寄ってくるような感触をおぼえる。素っ気なくしてくれたほうが親切という場合も多々ある。

 同じ理由で、たいして良くもないコンサートのお約束アンコールというのもいらいらする。興行は予定調和が当たり前とはいえ、当たり前のようにあらかじめアンコール用の曲や演出・衣装まで用意してあるのを見ると、演奏者と観客とのディスコミュニケーションを強く感じる。なによりもお仕着せの予定調和はロックスピリットとはもっとも離れているはずなのに、ロックコンサートほどお約束アンコールが多いのはどうしてだろうか。その日の演奏がどうしてもうまくいかないときは、非難をあびることを覚悟で途中でやめてしまうようなクラシックのミュージシャンの方がよほど潔い。コンサートは2時間を丸く収まればいいというものではないし、無難に予定調和を演出することがプロの仕事ではないはずだ。むしろ丸く収めようとする精神と対局の所にあってほしい。つまらない授業をしているときほど当たり障りなく50分間を丸く収めようとしている自分に気づくとき、自分の不様さにうんざりする。

 新築のこじゃれた一戸建ての庭に、これ見よがしに花壇がつくられているのもいやらしい。鉢植えや花壇がどう見ても通りを行く者にアピールするために配置してある様子で、草木を愛でている雰囲気が感じられない。ぴかぴかのベランダ、一本の雑草もなく手入れされた花壇、品種改良されてやたらと鮮やかな花をつけた鉢植え、どれも明るい我が家を通りをゆく者に見せびらかしているような押しつけがましさを感じる。バッタもミミズもヒキガエルもあの庭では居心地が悪そうだ。

 昨年末からたまっていた洗濯物をようやく片づけた。もう少しこざっぱりとした暮らしをしようと思う。年賀状はまだ書いていない。年賀状のような形式的なカードをまるで名刺のように数百枚もばらまく者の感性を疑う。そうまでして人とつながっていたいのか。そうして得た形式的なつながりに何の意味があるのか。もう少しあたたかくなったら、年賀状みたいに形式的でない便りを数少ない友人・知人に送ってみようと思っている。


■ A piece of moment 3/4

 ひさしぶりに近況を書くことになります。この2ヶ月、とくにこれということもなくあいかわらずです。最近のヒットは、梅谷献二の虫の本と「カムイ外伝」。カムイ外伝のほうは全20巻で完結しているようなので、まとめて読みたいところ。

 「Everquest」について、友人から「エバークエスト国」のGNPは世界第77位というWebニュースを紹介される。Webの記事はアメリカの経済学者がゲーム世界で動く仮想の経済について考察したものだが、社会科学系の研究者たちがあの仮想世界を考察対象として興味を示す様子はわかる気がする。かつてないほど濃いゲームで、世界中のハードコアなゲーマーが集まってコミュニティを形成している。そこで費やされる時間も労力も膨大で、プレイヤー間の欲望と願望を調節するための細かい慣習も形成されている。もちろんゲームの中には仮想のお金があり、仮想世界を駆けめぐっている。それだけにコミュニティや流通モデルの実験場としても非常に興味深いものがある。もちろんゲームプレイの最中はひたすらお猿のように前のめりなので、そんなことに頭は働かないのだけど。


 定時制高校のほうの授業が終わった。ここの学食はやたらとうまくて、まるで夕飯を食いに来ているような気分だった。おかげで1年間で5キロも太ってしまった。


■ A piece of moment 3/10

 ムネオブームである。ひさびさにヒットなおじさんを見た気分だ。もちろんめざといメディアはあのキャラクターを放ってはおかない。もはやテレビの番組表や週刊誌の見出しも「鈴木議員」ではなく「ムネオ」である。外務省の族議員で日本外交の黒幕なんていうから、さぞやインテリを鼻にかけて気どった奴がでてくるのかと思っていたら、ちんちくりんで下卑たしゃべり方をするおじさんだった。その落差が可笑しく、同時に自分の想像力の貧困さを実感する。あの泥臭い外見と下卑たしゃべり方をする人物が権力の中枢にいて、官僚たちをアゴで使い怒鳴り飛ばしながら日本の外交を左右し、数百億の金を動かしてきたわけで、その事実とくらべるとドラマや小説に登場する権力者像のうすっぺらさを思い知らされる。国会をキャバクラとを勘違いしているような野上次官のいでたちといい、今回の事件は登場人物たちがやけに濃い。ひさしぶりにビバ人間という気分である。それにしても、公金使い込みで逮捕された松尾にしても何年か前にアルゼンチンでテロリストに監禁された大使にしても外務省関係者には北方健三ふうの臭みがある。勘違いしている連中のたまり場なんだろうか。脱いだ背広を肩にひっかけて歩いているおじさんというのもひさしぶりに見た気がする。


■ A piece of moment 3/18

 日に日にあたたかくなってきて、いつの間にかこぶしの花は満開で今年も花粉症でアタマがぼんやりしていて、目の前の明るい風景がテレビか映画のような自分と隔てられた世界のように感じる。

 アメリカ製のコンピューターゲームを買う。あちらの世界に入っていく前に自分の分身をつくらねばならない。分身の性格づけには、善人か悪人かというお馴染みの縦軸だけでなく、興味深いことに組織や集団の秩序を重んじるかどうかという横軸がある。なので、「組織に忠実な悪人」や「社会秩序を無視する善人」という設定も可能になる。前者の例としては、組織に忠実でボスに命じられるままに凶悪犯罪をくり返すギャングのチンピラや組織のためなら汚いことにも手を染め平気で嘘もつけるような汚職官僚などがあげられる。後者は、自分の信じる正義のためなら躊躇なく法や社会秩序を犯すという人物で、ハードボイルド小説の主人公や社会的地位を捨て田舎で隠遁生活をしている偏屈者なんていうのがあてはまるようだ。で、この性格づけにしたがってあちらの世界での社会生活がはじまることになる。この性格づけ、ゲームを始める前にいきなり人生の重大問題を突きつけられた感じがして、いったい俺はあちらの世界でどう生きたいんだろうとコンピューターの前でしばし悩む。

 しばらく前、CBSのドキュメンタリーに黒人女性ではじめて東部の名門大学の学長になったという人が取りあげられていた。そこにこういうエピソードが登場する。彼女の古い友人でありノーベル賞を受賞した作家でもある人物に文学部の教授を依頼する。作家は彼女のたっての依頼ということもあり文学史の講義を引き受けることにする。で、話が進んでいざ契約という段になり、大学側は彼女に履歴書を提出してくれといいだす。そこでプライドの高い作家はへそを曲げる。今回の文学史の講義は古い友人のたっての依頼であるから引き受けることにしたのになんで履歴書なんかを書かねばならないのかというわけだ。これは自分と学長との信義に基づく合意であって履歴書なんか書かされるいわれはない、そんな形式主義的な書類を提出しろというのなら文学史の講義はお断りすると頑なな姿勢を示す。いっぽう大学の事務側も、これは正式の契約であり他の教授たちにもすべて書類の提出をお願いしているので例外は認めないとつっぱる。どちらの言い分もスジは通っている。先のコンピューターゲームの話にあてはめると、大学側の言い分を支持する者は秩序指向ということになり、作家の言い分を良しとする者は社会秩序よりも個人の倫理観を重んじる人物ということになるのだろう。では、いったいこの顛末はどうなったのかというと、間に入った学長が作家に代わって履歴書を書き、ひそかに大学側に提出したというものだった。大学側は作家が折れて履歴書を書いたものと思い、作家は大学側が折れて自分の言い分を認めたものと思い、双方まるく収まったという。こういうのを大人の解決というのだろうか。私は問題をすり替えられて気分がして、このエピソードを学長の美談として受けとめることはできなかった。

 小学生の頃、ひとつ上の学年に奇行で有名な男の子がいて近所に住んでいた。勉強はできて成績も悪くないのだが、授業中に突然きょえええええええええええええというような奇声を発して校庭に飛び出してしまったり、いきなり隣の子のノートびりびりにさいてその紙切れを食べてしまったりという事件で知られていた。度重なる騒動に困りはてた担任は、母親を呼んで事情を説明し、どうにかならないものかと相談すると、その母親は自分の息子がわけもなくそんなことをするとは信じられない、これはあなたの指導方針に問題があるに違いないと担任への不信感をあらわにした。けっきょく話し合いは決裂し、学校への不信感をつのらせた母親は子供を学校へは通わせず、自分で勉強を教えることにした。母親は近所でもインテリで知られていて、教員免許も持っていたらしい。数年後、きょえええの少年は母親の熱心な指導の甲斐あって大検に合格し、その後、東大に進学したという。

 学校のあり方に不信感や疑問を感じている人にこのエピソードを話すと、多くの場合、日本の学校がかかえている集団主義や子供の個性をつみ取るやり方への批判を聞かされることになる。彼のようなユニークな子は、そのまま学校へ行かされていたら、東大はおろか高校卒業もままならなかったろうというわけだ。一方、学校関係者にこの話をすると、子供の問題を学校の責任にしようとする親の悪口がはじまる。さらに、そんな子供はいくら東大に入ろうがろくなものにはならないと言いきる教師も多い。しかし、言うまでもなく学校はきょえええの少年のような子供には対応できていないし、授業のあり方も問題を抱えているのも事実だ。奇声を発して校庭に飛び出した彼にはおそらく彼なりに感情を高ぶらせる理由があったのかも知れないし、もしかしたら校庭に興味を引くものがあったのかも知れない。小学校の一斉授業に対応できないからといってその子の将来もろくなものにならないと否定してしまうのは乱暴だ。とはいうものの、ひとクラスに40人もいる教室で子供へ個別の対応といっても限界があるわけで、すべての子供とその親が満足する教室なんて現実にはありえない。問題はむしろ、どこの学校も同じ様な授業をしていて、親も子供も学校を選ぶ選択肢がないということなのではないかと思う。

 このエピソードにはひとつ疑問が残る。大学に進学した彼が再び授業中にきょええええと奇声を発しながら講義を無視してかけずり回りだしたらどうするんだろうということだ。母親は大学教授に対してもあなたの指導力に問題があると主張するんだろうか。学校のあり方に疑問を持つ者が大検で大学進学を目指すという場合、大学もまた学校のひとつにすぎないことを忘れているように見える。


■ A piece of moment 3/20

 2年間かかわった生徒たちの卒業式があったので中学校へ行く。正確にいうと、卒業式の後でおこなわれる集まりで、生徒にお祝いとお別れをいったり記念写真を撮ったりすることで心にくぎりをつけるために出かけたのだが、予定よりも早く学校についてしまったので卒業式にも出席する。私は卒業式につきまとう誰のための式なのかが見えてこない無意味さと形式主義が苦手で、うっかり出席してしまうとあの儀式の不可解さに悩まされることになる。念入りに予行演習が行われ、分刻みで進行表のつくられた式は、整然と破綻なく終わった。こういうのを恙なく終わったというのだろうか。式では生徒のナマの声を聞くことも親や関係者と生徒たちが交流することも一切なかった。この種の式典を企画する者は、誰もが仮面のような顔をして整然とその場が進行することが良い式典だと思っているんだろうか。私はその美意識に憤りをおぼえる。

 そもそも卒業式が卒業生たちを祝うセレモニーだと解釈するなら、彼らに予行演習をさせること自体がお門違いである。卒業生は式典のゲストであり、学校関係者や親や在校生が段取りをして彼らの卒業を祝うべきである。逆に卒業生たちが卒業する自分を親や関係者に披露するセレモニーだと解釈するなら、式は卒業生の発案と段取りでとりおこなうべきである。学校側が決めた段取りにのっとって卒業生たちに念入りに予行演習させて開かれる卒業式というのは、卒業生のためのものでも親や関係者のためのものでもない。いわば卒業式のための卒業式だ。卒業生たちは儀式の構成要素に過ぎない。だから卒業生たちは式典の中でくり返し教師の起立!礼!の号令で日の丸と学校の旗に頭を下げさせられることになる。

 そんな不可解な儀式の後、送り出された卒業生たちは近所の公園に集まっていたので、そこで彼らにお祝いを言ってくる。こちらはうってかわってなごやかな様子で、彼らとアホなことを言いながらようやく彼らとの2年間の区切りがついた気分になった。どうもこちらは学校側が用意したイベントではなかったみたいだけど、どう考えてもこちらの方をセレモニーのメインにするべきだよ。大きい教室でも用意して、親や関係者が卒業生を祝う立食パーティでもひらけばいいのに。シャンパンやラテンバンドがなくても良いからさ。ともかく、卒業おめでとう。


■ A piece of moment 3/31

 4月からの授業がほぼ決まった。新年度は中学のほうの授業はことわったので、高校だけで教えることになった。新宿の高校でも教えることになったので、中学で教えた面々とふたたびご対面なんてこともあるのかも知れない。それはそれで面白い。ただ授業数が多いので、しばらくは準備もふくめて授業にかかりきりになりそうである。持ちネタだけで何年も授業をまかなうのは、自分のモチベーション低下にもつながる。資料を集めて新しいネタを仕込まねば。


■ A piece of moment 4/2

 阪神が開幕2連勝だそうで、なぜか周囲に多い阪神ファンたちがさわいでいる。どうも阪神ファンと巨人ファンには、自分がファンであることをまわりにアピールしないと気がすまない者が多いように見える。私は何かを好きになるという行為を対象とと自分との一対一のひっそりとした関係だと思っているので、この種の人々を見ると「○○が好きな自分」への自己愛と自意識をまき散らしているように思えて気が滅入ってしまう。自分たちは多数派であるという意識もあるのかも知れない。

 この種の自分の愛情をアピールしたがるファンについてさらに滑稽なのは、ファン同士で愛情の強さや知識の量を競い合おうとする心理だ。阪神ファンでいえば、テレビで試合を見るファンよりもスタジアムで応援するファンの方がえらくて、ただスタジアムで応援するファンよりもトラ縞のハッピを着てメガホンを振り回しているファンの方がえらくて、さらに道頓堀に飛び込んだり頭をトラ刈りにしたりするファンの方がえらいというヒエラルキーがあって、お前はまだまだだとかお前もいっぱしのファンだとか言いあったりしている。実に鬱陶しい。何かを好きになるという行為は、対象と自分との一対一の関係性のなかで完結しているものである。自分の思いがすべてで、その関係性には第三者の入る余地はないはずなので、自分と誰かとをくらべて競い合ったり張り合ったりするという心理も本来は無縁のはずである。なので愛情の強さに何らかの物差しを持ち出して他者とくらべようとするなんて私には不純そのものに見えるのだが、この種のファンにはそうした行為がついてまわる。「○○な自分」が他者からどう見えるのかを知りたがり、あるはずのない物差しを持ち出そうとする。人の目を気にするこの文化では、この種のことについても他者と比較し自分の位置を確認しないと不安になるのかも知れない。なので、集ってもしょうがないはずなのにファンの集いがあれこれと色々な分野で催される。やはり不気味である。

 夜、「ER」を見たついでに「BSマンガ夜話」の手塚治虫特集を見る。これも同好の士の集い的番組で、見るとどうにも居心地の悪さをおぼえる。とりわけ、態度のでかい司会者とレギュラー出演者のデブのふたりが自嘲的な笑いをはさみながら「○○な私」というスタンスで語る様子は毎度ながら不快である。番組初期の村上知彦あたりが出演していた頃は、作品の取り上げかたがもう少し評論的で、その作品を読んだことのない人にも良さを伝えようとする雰囲気があって良かったのだが、司会者が代わって以来、ゲストが作品の何に感銘したのかというストレートな話をするとデブふたりが自嘲的な笑いで話をさえぎり、内輪話に持っていこうとする。作品を自分の側に引き寄せて「○○な私」についての自意識を語らないと気がすまないらしい。私は不快でしかないのだが、あのふたりの話を楽しんでいるという人もいるんだろうか。見ていてもやもやした気分になった。


■ A piece of moment 4/8

 花の時期も終わってあたたかい日が続く。
 新しい学校であいさつと授業の打ち合わせをする。授業数が多いことを改めて認識し、しばらく仕事中心の生活になることを覚悟する。新宿の高校では、生徒名簿の中に中学で教えた何人かの名前を見つける。またお会いしましたねって感じだが、向こうとしては妙な気分かも知れない。

 きのう衛星放送でやっていた「鉄腕アトム」特集の余韻で、夜中に寝床で「火の鳥・太陽篇」を、今日電車の車内で手塚治虫の自伝を読む。しばらく手塚治虫の漫画を読み返す機会がふえそうな予感がする。私はアトムに夢中になったというほど古い手塚ファンではなく、「ブラックジャック」以降の読者である。手塚治虫の漫画はすでに60年代はじめには漫画表現としての技法は完成され、ブラックジャック以降は自分がつくりだした技法によって物語とつむぐことに徹していく。絵柄へのこだわりを捨て、本人も漫画の絵は物語を表現するための記号でかまわないと割り切っていたようだ。なので、古い手塚ファンには、ブラックジャック以降の作品を漫画表現として新しいものはなくもはや見るべきものはないという人もいる。しかし、絵を記号と割り切ったことによって、物語作家としての彼は後期になるほどいっそう見事に花開いていく。そこに描き出される複雑な内面をかかえた登場人物たちと彼らが繰り広げるドラマは圧倒的である。それは絵としての表現にこだわっている限り到達できなかった世界ではないか。多作な作家だっただけに手抜きやいい加減な作品も多いが、こと「火の鳥」と「ブラックジャック」に関してはハズレはない。とくに「ブラックジャック」の百数十話の短編連作なかでひとつもつまらない話がなく、どれもきっちりと物語をつむいでいるということに、ストーリーテラーとしての力量を感じる。「火の鳥・復活篇」と「陽だまりの樹」と「ブラックジャック」のいくつかの物語が私にとってのベストオブ手塚治虫である。

 このところほとんど文章を書く機会がないので、言葉がスムーズに出てこない。文章や絵は日常的に書いていないと次第に書けなくなってくる。言葉で複雑な内容を伝えることがしんどい。しかられて、でも思うところがあってそれを伝えたいんだけれどうまく表現できなくて、で、うるせえなと斜に構えてしまう高校生を連想する。

 話はもどるが、映画化された「ブラックジャック」は実写版もアニメ版も根本的にあの作品を勘違いしているんじゃないかと思う。あの漫画は絵柄は手塚治虫スタイルの丸っこくてマンガチックなものだけど、それが表現している登場人物たちの心理や物語は非常に深く重たい。ところが映画化されたものは、まったく逆で映像はリアルでも登場人物たちの内面がきわめて薄っぺらい。しかも、あの主人公のスタイルばかりをリアルな絵柄や実写でそのままやろうとするので、ほとんどコスプレショウに見えてしまう。手塚治虫本人がいっているように、キャラクターたちの絵柄は物語をつむぐための記号にすぎない。それらしい格好をしていればいいだけのことであって、漫画の絵柄のままの黒マントにリボンタイの主人公がリアルな映像に出てきてしまったらまずいでしょ。実写版の「ブラックジャック」なんて仮装行列のおじさんにしか見えない。見ちゃいられません。映画制作者たちは漫画の記号性が理解できていないとしか思えない。


■ A piece of moment 4/12

 新しい学校での授業が始まる。久しぶりの授業で1時間目はテンションが上がらず、平板な話で淡々と授業の概要を説明して終わる。準備してきた話だけをしたところ授業時間が10分近く余ってしまう。生徒たちも退屈そう。40人もの前で話をするのはある程度テンションが上がらないと圧倒される。2つ目のクラスでは少しテンションも上がり、時間ちょうどに終わる。クラスに中学で教えた生徒がいて、「あれえ〜〜なんで先生ここにいるんですか!?」とおどろいていた。そりゃまあおどろくよな。3クラス目ではさらにテンションが上がり、芸人のいうところの「お客さんをいじる」感じになる。生徒をからかったりアホなやりとりをしたりしていたら時間が足りなくなってしまった。生徒たちにはウケていたからまあいいか。4クラス目にいたっては、用意してきた話をするのにすっかり飽きてしまったうえに、すでに3時間もしゃべり続けているので記憶が混乱してくる。半ばトランス状態で、何で「おさかな天国」みたいにへんてこなのが急に売れ出したんだとかまくしたてながら、「君、CD買った?」なんて生徒たちをからかっていたらぜんぜん時間が足りなくなってしまった。生徒たちは面白がっていたみたいだけど、きっと現代社会がどんな授業なのかはさっぱりわからなかったにちがいない。客をいじるばかりでネタをやらない落語家になった気分。続けて講義をするときは3時間目くらいがちょうど良いようだ。4時間しゃべりたおしてへとへとになって帰宅。帰り道でカサをなくす。


■ A piece of moment 4/14

 玄関先にとめておいた自転車が盗まれる。去年の11月に同じように盗まれて買ったばかりの自転車だったのに。どうも近所に手癖の悪いのがいるらしい。で、仕方ないので、安ければ何でもいいやという感じで6980円の26インチを買う。さすがにここまで安いと全体的につくりのちゃちな雰囲気が漂っていて、フレームはすぐゆがみそうだしギアのかみ合わせもすぐ狂いそうだけど、ふだん乗るぶんにはこれで十分なわけで、もうどうでもいいやという気分。案外、こういうモノの方が長持ちしたりして、ぜんぜん愛着もないまま5年も10年も乗ったりするのかも知れない。やりがいも情熱もなくルーティーンワークをこなしていく職場とか話も合わず互いに魅力も感じていないパートナーとの空気みたいな共同生活とか人生ケセラセラという感じで、それはそれで日々つつがなく回っていったりしてと6980円の自転車をこぎながら考えていたら、むなしさがこみあげてくる。サルトルの小説にパリのアパートで暮らす犬と老人の話がある。老人はパリのアパートに長いこと一人暮らしをしている。年老いた犬だけが唯一のパートナーだ。だが犬と老人は互いに憎みあっている。老人はその犬が少しも愛しいと思えない。犬の歩く姿は醜悪に見え、食事の時に犬がたてるがつがつという音や仕草はいちいち老人のかんに障る。一方、犬は犬で老人を憎んでいる。自分を口汚くののしる老人を殺意のこもった眼差しでにらみ、何かにつけ自分に手をあげる老人に怒りのこもった低いうなり声をあげる。スキあらば噛み殺してやりたいと思っている。それがいっそう老人の苛立ちをつのらせる。だが、犬と老人は離れられない。長い年月をそうやってすごし、憎しみの感情もふくめて互いへの依存関係が完全にできあがってしまい、分かちがたいほど人生の一部になっている。これから先も彼らの不幸な共同生活は、老人か年老いた犬のどちらかが死ぬまで、日々苛立ちと憎しみをつのらせながら続いていく。ああおそろしや。そして俺は6980円の自転車に乗って明日から通勤するわけである。


■ A piece of moment 4/15

 パソコンのモニターが壊れる。3年前にずいぶん気合いを入れて買った22インチのモニターだったのに、これで3回目の故障になる。やはりこだわりのある道具や愛着のあるモノほど壊れやすい気がする。仕方なく、押入からPCのおまけについてきた14インチモニターを引っぱり出す。こちらは3年ぶりに使うのに何事もなくちゃんと映る。もちろん画像はシャープでも発色がいいわけでもなく投げやりなほどそれなりな感じなんだけど、Webサイトをみてメールを書くだけならこれで十分事足りるわけで、もうどうでもいいやという気分。


■ A piece of moment 5/14

 仕事を中心にまわる日々が続く。授業をして、レポートの採点をして、次の授業のための資料を集め、資料の本を読みビデオの編集をし、授業で配るプリントをつくり、また次の日の授業をおこなう。せっかく提出させたレポートなので、採点してコメントを書くだけでなく、文集の形でまとめて授業にフィードバックさせて、それをもとにディスカッションをしたりもしてみたいところだが、なかなか手が回らない。生徒の手書き作文をワープロで入力する手間に挫折してしまう。レポートは週1回のペースで提出なので、文集に編集されないままどんどんたまっていく一方だ。レポート提出は成績をつけるためでなく、むしろそれをきっかけに考えを深めることに使いたいので、生徒全員に自分たちの書いた作文が公開されないければ意味がない。インターネット上に掲示板をつくって、そこにレポートを書き込ませる形にすれば、ネット上で議論もできるし理想的ではないかと考える。ただ、学校側がそうした授業形態を認めるか、生徒全員が家庭または学校でインターネットを利用できる状況にあるのかという問題がある。また、外部の者による悪質な書き込みや生徒のプライバシー保護に対して、私自身が掲示板を管理できるのかという疑問もあって、実行に踏み切れないまま二の足を踏んでいる。


■ A piece of moment 5/16

 高校では図書館を利用するみたいに学校のコンピューターを気軽に生徒が使えるのかと思っていたらとんでもなかった。授業または委員会活動以外では生徒に使わせないことになっているらしい。しかも教師が付き添っていなければ生徒にコンピューターをさわらせない方針とのことで、どうも文部省はパソコンが「パーソナル」なコンピューターだということを知らないようだ。カギをかけた部屋に40台のコンピューターをしまい込んでいくら大事に管理していても生徒が日常的に利用できなければ本末転倒で、いかにも役所仕事という印象を受ける。この先も当分、生徒のレポートの山と格闘することになりそうだ。

 先週、19インチのモニターを買う。ナナオのT731。今度は長持ちしてほしいものだ。上野千鶴子の「サヨナラ学校化社会」を読み終わる。森毅のエッセイを理路整然とさせたような内容。大学4年生で大学院への進学で悩んでいるという人からメールが来たので、この本を紹介した返信を書いたが、なぜかメールが届いていない様子。アドレスがhotmailだったので、消えてしまったんだろうか。2時間もかけて書いたのに。


■ A piece of moment 10/1

 遊びほうけていたら夏休みも終わってしまい、あたふたと授業をやっていたらあっという間に9月も終わってしまう。日はぐるぐるとめぐり、夜中に空を見上げると冬の星座がのぼっていたりテレビをつけるとアルファ・ケンタウリからこんにちは2134年10月1日のシャトル情報って、これ、前も書いたっけ。ともかく、あんまり文章を書かないでいると思考力も低下しそうな気がするので、再びこの身辺雑記をつけてみることにします。

 半年前に安自転車を買って以来、自転車についてはもやもやしたものが残っている。考えてみれば自転車ほど理性的で美しい乗り物はない。そこでもらい物のぼろMTBを修理して、東大和の高校には自転車通勤をはじめた。片道約10キロなので運動量としてはちょうど良い感じ。ただ、そうして自転車通勤をしてみると、日本の道路事情が自転車が走ることはまったく考慮されていないことにあらためて気づく。じゃまだどけと言わんばかりにあおってくるクルマとケンカし、右側を逆走してくる自転車に文句を言いつつペダルをこいでいる。運動にはちょうど良いが精神衛生上きわめてよろしくない。せっかくだしもうちょいましな自転車を買おうかとも思ったが、高級な自転車ほど実用にはむかないことに気づいて二の足を踏んでいる。あれはレースに出場するか観賞用としてながめる以外には使い道がない。何冊かの自転車雑誌を買ってみたところ、愛好家の多くはレースのための「機材」として割り切っている人とメカフェチでおたくな人とに2分されているみたいだった。そもそも10万円もする自転車なんて買っちゃったら、恐くておちおち玄関先に停めておくこともできないじゃん。


■ A piece of moment 10/2

 おくればせながら「ダンサー・イン・ザ・ダーク」を観る。ビョークのMTVにミニドラマが入るような映画だった。どうしてあれがカンヌでパルムドールなんだ。審査員たちはそろってビョークのファンだったんだろうか。ビョークの歌はこの映画に限らず基本的に心象風景の歌なので、空想癖のある主人公の思いとははまりすぎるくらいに合っている。それに対してドラマ部分があまりにも弱い。監督と主人公のビョークとの間に構想のズレがあって、ビョーク側が圧倒している感じだった。個人的にはサントラの「セルマ・ソング」だけ聴いていれば十分という印象。


■ A piece of moment 10/7

 職場で英語のセンセーとなぜ不良少年はタカ派な政治思想にはしるのかという話になる。彼らの多くは貧しい家庭の出身で、家庭環境に問題を抱えていることが多い。そのことから考えると、社会保障の充実した平等な社会を指向する方が論理的ということになる。日本でも欧米でも貧しい階層出身の者が社会的成功を収めることは非常に難しい。貧富の差の激しい自由競争社会ほどその傾向は顕著になる。豊かな者はより豊かに、貧しい者はより貧しくというのが弱肉強食の競争社会の基本だ。より良い教育を受け親の社会的地位を受け継ぐ者とそうでない者とでは、人生のスタートラインから大きな差がつけられているわけだから、それをひっくり返すのは非常に難しい。なので、保守系政治家や大企業の経営者の家庭に生まれた者が自由競争社会を指向するのは、その是非は別にしてわかりやすい。そのほうが自分にとって得だからだ。サラリーマン時代の同僚に大地主の長男で小学校から大学まで成蹊だったというのがいた。彼がやや気どった口調で消費税について公平で合理的な税制だと主張しはじめたとき、なんてわかりやすい奴だろうと思った。しかし、不良少年たちもまた弱肉強食のマッチョな社会を指向する。それは日本だけでなく欧米でも同じのようだ。英語のセンセーは、そこには力へのあこがれと序列社会への指向があるんじゃないかという。頼るものが自分の力しかないから力への指向が生じ、同じ指向を持つ者同士が集まって序列を形成する。そこには平等の思想が入り込む余地はない。だが、彼らはこの社会の中で権力をにぎる側にいないし、経済的にも労働条件においても序列の底辺層を形成する。悪循環に見える。そうして支配層と底辺層との奇妙な政治的指向の一致が生じる。でも、それじゃ何も変わらないじゃん。


■ A piece of moment 10/8

 「カムイ外伝」の8巻を探しに古本屋をのぞく。店にはいると店員のおねえさんが妙な節のついた調子で「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えている。叫ぶのでもなく客に向かって話しかけるのでもなく、ただ空に向かって「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えている。最近やたらとふえてきたチェーン店展開しているマンガの多い古本屋で、けっこう広い店内にはおねえさんの発する大音量が響きわたっている。圧倒される。気を取り直して本を探そうとすると再びおねえさんは空に向かって「いらっしゃいませこんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ」と唱えだした。ほぼ正確に8秒に1回の間隔で唱え続けている。店内放送では「立ち読みはご自由に ごゆっくりどうぞ」となんて言っているが、ごゆっくりなんてできるわけがない。あれは宗教だろうか。そうにちがいない。修行なんだきっと。オウム真理教かもしれない。どんなおねえさんか気になったので店を出る前にそれとなく近づいてみると、こちらに気づいたおおねえさんは、はっしとこちらを見据え仮面のような笑顔で「いらっしゃいませ!こんにちわぁ〜〜〜〜〜ぁ!!」大音量を発した。おねえさんはじつにうれしそうだったが、俺はちっともうれしくない。おねえさんの呪文で自分がカボチャかキャベツにでもさせられたような気分だった。「カムイ外伝」の8巻は見つからず、100円コーナーにあった「おるちゅばんエビちゅ」を5巻まとめて買って帰る。


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