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  疑問の泡 81-

       iii. jumpin'

 81.合コン

 1年ほど前のことです。おだやかな陽気の春の午後、西武新宿線に乗っていると、高田馬場から学生ふうの若い女性が乗ってきました。すらっと背が高くてきれいなお姉さんでした。さらさらのセミロングの茶色がかった髪、クリーム色のスプリングコート、ルイヴィトンのトートバッグといういでたち。その彼女、隣の席に座るやいなや携帯電話をとりだし、ものすごい勢いでキーを連打しはじめました。携帯を両手で握りしめ、両親指を指相撲のように振りまわしてばばばばばばばばばばばばばばと何やら打ち込んでいます。「ドラゴンボール」のスーパーサイア人みたいになにやら怪しいエネルギーを放っています。両親指を振りまわしてキーをたたいている様子に、シューティングゲームかなにかに熱中しているのかと思ったんですが、やはり携帯メールに何かを入力しているみたいです。ちらっと横目で覗いてみると、「タイトル: 土曜の合コンについて」。あはははそりゃ気合い入っちゃうよな。再度ちらっと見ると、「今回は、ケーコがいじられ役ね、私、つっこむからさ」と役割分担まで決めていたりします。すげえ。これにはちょっとしたカルチャーショックをおぼえました。メールで打ち合わせの後、リハーサルまでやったら完全にコントです。いや覗くのも悪いと思ったんだけど、あんまり気合いを入れてキーを打ち込んでいるからつい気になって。すいません。こういう合コンに燃えるお姉さんというのは、ドラマとマンガの中だけに存在するカリカチュアされたキャラクターだと思っていたんですが、実在するのね。「今回は」の一言に彼女の場数を踏んでいる様子がにじんでいます。もはや合コンの主導権は女性陣にあるのかもしれない。よっぽどいい男でも集まるんだろうか。何はともあれお姉さんに幸あれ。

 そんな春の日のカルチャーショック以来、いつ頃からこんなお見合いパーティみたいな不思議な慣習が定着したのか気になっています。私が学生だった1980年代末、よその大学や別のサークルの連中と一緒にやるコンパは、全部「合同コンパ」「合コン」と呼んでいたような気がします。彼女や彼氏がほしい人のためにセッティングされたパーティではなく、男同士で飲もうが2次会で雀荘へなだれこもうが、知らないメンバーと一緒に飲めば合コンだったような気がします。それは、小さなオートバイと徹夜麻雀と三鷹の映画館の三本だてとラテン語の古文書が生活の中心だった私にたんに縁がなかっただけのことかもしれないけど、貧乏長屋の麻雀面子たちも、テレビドラマにその種のお見合いパーティの場面が登場すると、「農家の嫁取りパーティ」「主催は青年団にちがいない」「結婚式も合同結婚式でやるんだろう」と茶化していて、それが実際にある風俗だとは思っていないようでした。深夜にやっていた「ねるとん」も若い男の子たちがとんねるずに笑いものにされるだけの悪趣味な番組としか思えなかった。

 ほぼ同世代で地方の国立大に通っていたという女性に、学生時代の合コンについて聞いてみました。彼女によると、とっくに合コンはイベントとして定着していて、彼氏と彼女をさがす人のためのセッティングされたパーティとして形式ができあがっていたとのこと。「うちは地方だったから電力会社のエリート社員との合コンが企画されたりすると、女子学生たちは色めきたって午後の授業ではせっせと化粧してましたよ」。ふーむ関西の人は斜に構えたりしないんだろうか。ここでひとまず仮説を立ててみました。
  1.合コンは地方のほうがさかん。
  2.原型は青年団のお見合いパーティ。
  3.関西のほうがさかん。
  4.東京では1990年代に定着。
 個人的にはひどく泥臭い風俗に見えます。集団お見合いのようにセッティングされたパーティなんて、気どりがあったら恥ずかしくて参加できないし、そもそもお見合いや嫁探しのような因習に反発を感じたらやってられない。1990年代に入り、都市部の若者もしだいに保守的になり、異性に対して斜に構えなくなって定着したのではないかと考えています。というわけで、ひとまず仮説も立ったので、職場の人々にリサーチしてみることにしました。

【証言1】 う〜ん、合コンねえ、なかったなぁ、みんなで飲むのをコンパと呼ぶことはあったけど、そんな男女の出会いの場のパーティじゃなかったね、ああいうのは「フィーリングカップル5対5」みたいなテレビ番組のイベントだけのことだと思っていたよ、新歓コンパとか卒業コンパならあったけど、あと「合ハイ」、えっ、知らない、合同ハイキング、一緒にハイキングへ行ってお弁当食べて、いま思うとまるで「青い山脈」みたいだねえ、あははは、もうそんなのやってないんだ、合ハイ、ご存じないですか、うん、70年代半ばの頃ね、東京の大学です。
【証言2】 えー、合コン、なかったね、ぼくらのまわりでは、ええ、70年代の終わり頃かな。
【証言3】 ありましたよ、もうあっちこっちから引っ張りだこで毎週のように合コンの女王としてブイブイと、ええ本当です本当ですってば、80年代初めのこ……あ、そういう歳に関する質問はしないこと。
【証言4】 ありましたよ、ええ、70年代後半、ええ東京の大学です、女子学生との出会いパーティみたいにセッティングされたもの、で、それがどうしたんですか。
【証言5】 なかったよ、そんなの、私の学生時代はちょうど全共闘運動まっただ中の頃、70年安保反対で1年の時に安田講堂の占拠があって、2年目は3年目は学費値上げ反対闘争で大学はロックアウト、授業もほとんどなくて、で、筑波大学設立が国会で強行採決されて座り込み、私は東京教育大だったからもう大変で、色々あった時代でねえ、よど号ハイジャックがあって浅間山荘があって……(以下省略、キョートーが遠い目をして語る全共闘の思い出話を30分にわたって聞かされました)。
【証言6】 ああ、ありました、そういえば、ええ、男女でセッティングされた合コン、うーん、それを「合コン」って呼んでいたかどうかは定かではないけど、男女でわかれてセッティングした飲み会はありましたよ、1970年代半ばだったけど、ただ、私は大学が名古屋だったんで、東京の様子とはまた違うのかもしれない。
【証言7】 私の頃はなかったわね、70年代前半の頃、国立大の学費値上げ反対闘争で……(以下省略)。
【証言8】 あったよ、ぼくは参加しなかったけどやってる奴はやってるっていう感じでね、1982年入学で85年卒業、うん、けっこうメジャーなイベントだったと思うよ、「フィーリングカップル」とか「ねるとん」なんかの影響なんじゃないかな。
【証言9】 ありましたよ、80年代半ばね、バブルの頃で、合コンが一番さかんだったんじゃないかな、でも、私が通っていたところは語学系の大学で女子学生が多かったから、それほどよその大学とのイベントっていうのはなかったけど、でも、隣の女子大との合コンになると男子学生だけが集まってこそこそやってたりして、そう、クラスの女子はそういうときは呼ばないの、いやあねえ、吉祥寺が私のホームグラウンドで北口の焼鳥屋さんでよく飲んだ記憶があるけど、そもそもコンパってコンパニオンが語源ですかねえ、あらやだ、私、英語が専門なのに、いまでも学生さん、合コンなんてやってるのかしら。
【証言10】 ええありましたよ、70年代の終わり頃、マメな奴が女子大のコに連絡つけてセッティングして、ええそれのことを合コンと呼んでいました、ぼくはもっぱら数あわせに呼ばれただけだったけど、うん、一橋で学内に女子学生もほとんどいなかったし。
 → 語源由来辞典 「コンパ」
 → Wikipedia 「コンパ」
 大きく予想が外れました。1970年代半ばから後半には、すでに一部の学生と大学では定着していたようです。職場の人々の話を聞いた限りでは、全共闘運動がすたれた70年代半ばくらいからぽつぽつとはじまって、1980年代半ばにはすでに一般化していたという感じです。ただもしかしたら、女子大の学生を誘って男女として飲むイベントは全共闘のずっと以前からあって、70年代後半にそれを「合コン」と呼ぶようになって「ああ、あれね」と認知されるようになり、同時にパーティのひとつの形態としてフォーマット化されたのかもしれません。地方の学生から広まった風俗なのか、関西のほうがさかんなのかはいまのところ不明です。70年代後半に人によって違うのは、その大学の女子学生の割合、近くに交流のある女子大があるかどうか、クラスやサークルにその手のイベントにマメな人間がいるかという差ではないかと思います。1980年代半ばには、すでに一般化していたみたいなので、どうやら麻雀学生の私に縁がなかっただけのことのようです。でも、思い出すと、大学1年の時にセンパイに呼ばれて飲みに行ったら、ずらっと女子大のおねえさんたちがいてなんだこりゃってことが何度かありましたが、私が言葉を知らなかっただけで、あれは「合コン」だったのかもしれない。ただ、これほど広く定着したのは90年代以降だと思うので、バブル期に合コン全盛というのは疑問です。というわけで、かえってわからなくなってきたので、調査継続します。情報募集中。(2005.2006加筆修正)

 82.バーチャルアイドル IM-2005号

 1997年、芸能プロダクション「ホリプロ」がCGで作成した「バーチャルアイドルDK-97号」を売り出しました。当時、ブラジャーのテレビCMに起用されたりして、そこそこ話題にはなりましたが、結局、大ブレイクとはならず、企画されていたCDデビューも立ち消え、DK-97号のことはしだいに忘れられていきました。美少女フィギュアを連想させる体型と雰囲気はいかにもおたく青年の願望と妄想がつくりだしたという感じで、そちらの趣味の男性からはそれなりに支持されたみたいですが、女性視聴者にはあまり受け入れられなかったようでした。その後、コンピュータの性能と3Dグラフィックは日進月歩で、よりリアルにバージョンアップしたバーチャルアイドルがぞくぞくと登場……と恐いもの見たさの好奇心を抱いていたんですが、結局、とくにそういう動きはなかったようで、やっぱりテレビアイドルっていっても生身の女の子のほうがみなさん良いのかとちょっとほっとしたような拍子抜けしたような気になっていました。ところが、3年ほど前から、CGの女の子を本屋の店先に積まれた雑誌の表紙やテレビCMでちらほらと見かけるようになりました。大きな目にちょこんとした鼻、痩せていてやたらと長い手足、合成音みたいな話し方、顔もスタイルもバービー人形そっくりで、当然ながら生活感をまったく感じさせません。コマーシャル映像だと、その人工的な雰囲気がはまっていて、案外と見映えがします。着せ替え人形のような彼女がニッコリと笑ったり、唇をとがらせたりしているコマーシャル映像を見ていると、「百恵ちゃんはトイレになんか行かないんだ」と言っていた人たちがやけに純朴で暗示にかかりやすい人に思えました。いまにして思うと山口百恵は非常に人間くさい存在だったのだと感慨にふけったりして。ただ、CGの彼女の場合、コマーシャル映像には映えるんですが、ドラマや映画になるとリアルさや生活感に欠けて、そのへんにCGアイドルの限界を感じたりするわけです。彼女のようなキャラクターは、ある程度、役柄が限定されます。インド映画のようになにかと踊りまくるミュージカルやスターシステムで製作された他愛ないおとぎ話、あとはB級のSFものやアクションものといったところで、シリアスなのはちょっと無理かなという印象を受けます。欧米の基準だと、彼女のようなリアルさのない女優は、なかなか役者として評価されるのはきびしいので、銀色のレオタード姿でキャプテン・カークと色っぽいことをする宇宙人美女やサイボーグ美女のような役柄か、スケスケの下着姿でジェイソンやゾンビ軍団に追いかけられて血まみれになるような役柄に限定されがちです。ところがこの3年、雑誌の表紙やテレビCMへの露出が増えるにともなって、映画やドラマにも進出、脇役から主役にステップアップし、とうとう2005年10月の現在では、9時台のドラマの顔になっています。私は彼女がシリアスな役柄を演じていると猛烈に違和感があるんですが、多くの視聴者はコンピュータ技術の進歩と彼女のCG顔を好意的に受け入れているようです。DK-97号とは違って今回はまさに大ブレイクで、支持層もマニア系の青年より若い女性に幅広く受け入れられているようです。DK-97号のプロモーションの時、ホリプロの二代目社長はまるっきりおたく青年がビジネススーツを着ているみたいでしたが、今回は自分の趣味を少し抑えてCGデザイナーやパブリックイメージを管理するスタッフに大勢の女性スタッフを起用したのかも知れません。バーチャルアイドルの逆襲にかけるプロダクションの意気込みを感じます。まわりを見回すと日本は社会全体がバーチャルワールドみたいなもんだし、みなさん人間であることが嫌みたいで生活臭を消そうと日々躍起になっているし、実生活でのコミュニケーションもコントみたいなもんだし、ドラマの主人公は、OLだろうとキャバ嬢だろうと教師だろうと、あれくらい無味無臭で人工的なキャラクターのほうが視聴者に受け入れられやすいみたいです。えっ彼女、ホリプロじゃないの。DK-97号のCGデザイナーはとっくにホリプロを辞めて「ファイナルファンタジー」へ移籍して現在はフリーだって。じゃあ彼女、誰がつくってるのさ。
 → IM-2005号 オフィシャルWebサイト

 ところで、彼女が主演したドラマの主題歌にELOの「Twilight」が使われていたみたいですが、どう考えても同じアルバムに入っている「Yours Truly, 2095」のほうが彼女にぴったりきます。「IBM製の彼女」を歌った曲で、あ、露骨すぎるからあえて外したのかもしれない。1981年の「Time」というアルバムの中の一曲で、アルバムは未来世界にタイムスリップした男のエピソードで綴ったストーリーものになっています。関係ないですが、ちょうど高校生の頃、このアルバムをBGMにしながら「家畜人ヤプー」を読んでいたので、ピコピコという安い電子音と強いエフェクトのかかった歌声を聴くと条件反射的にヤプーな主人公が「伸縮自在の生きた鞭」でご主人様からご褒美をもらっている場面を連想します。こんな歌詞です。

Yours Truly, 2095

2095, 2095, 2095, 2095
I love you, sincerely
Yours truly, yours truly...

I sent a message to another time
But as the days unwind, this I just can’t believe
I sent a note across another plane
Maybe it’s all a game, but this I just can’t conceive.

Can you hear me?

I drive the very latest hovercar
I don’t know where you are
But I miss you so much till then
I met someone who looks a lot like you
She does the things you do
But she is an IBM.

2095, 2095, 2095, 2095
I love you, sincerely
Yours truly, yours truly...

She’s only programmed to be very nice
But she’s as cold as ice
Whenever I get too near
She tells me that she likes me very much
But when I try to touch
She makes it all too clear.

She is the latest in technology
Almost mythology
But she has a heart stone
She has an i.q. of 1001
She has a jumpsuit on
And she’s also a telephone.

2095, 2095, 2095, 2095
I love you, sincerely
Yours truly, yours truly...

Is that what you want? (is it what you want? )
Is it what you really want? (is it what you really want? )
Is that what you want? (is it what you want? )
Is it what you really want?

I realize that it must seem so strange
That time has rearranged
But time has the final word
She knows I think of you, she reads my mind
She tries to be unkind
She knows nothing of our world

Although her memory banks overflow
No one would ever know
For all she says: is that what you want?
Maybe one day I’ll feel her cold embrace
And kiss her interface
’til then, I’ll leave her alone.

I love you, sincerely
Yours truly, yours truly...

Is that what you want?
ヤプー的訳

2095年、2095年、2095年、2095年
君を心から愛している
敬具……敬具……

別の時間にメッセージを送った
でも、何日も巻き戻されたみたいで、信じられなかった
別の平面を横切るようにノートを送信した
多分それはすべてゲーム、でも、僕にはどうしても想像できない

僕の声が聞こえる?

僕は最新のホバーカーを運転する
君がどこにいるのかわからない
僕は君を見失う
それから僕は君にそっくりな誰かに出会った
彼女は君がするようにふるまう
でも、彼女はIBM製なんだ

2095年、2095年、2095年、2095年
君を心から愛している
敬具……敬具……

彼女のプログラムは素晴らしい
でも、僕の側にいるとき、彼女は氷のように冷たい
彼女は僕のことをとても好きだと言う
でも、僕が触れようとするとき、彼女は明確に冷たさを発揮する

彼女は最新のテクノロジーの産物
それはほとんど神話のよう
でも、彼女は石の心を持っている
彼女のIQは1001
ジャンプスーツに身を包み
彼女の身体は電話にもなる

2095年、2095年、2095年、2095年
君を心から愛している
敬具……敬具……

君は何を求めているの(それは君の求めるものではないの)
それは本当に君の求めているものなの(それは本当に君の求めているものなの)
君は何を求めているの(それは君の求めるものではないの)
それは本当に君の求めるものなの

時間が再配列されたとき
それはとても奇妙に感じられた
でも、最後の言葉のとき
彼女は僕の心を読み、僕が君のことを考えていると気づく
彼女は冷たくしようと試みる
彼女は僕らの世界のことを何も知らない

彼女のメモリーバンクがオーバーフローする
でも、誰も知りたがらない
「あなたは何を求めているの?」それが彼女の言葉のすべて
たぶん、いつか、彼女の冷たい抱擁を感じるんだろう
そして彼女のインターフェイスにキスをする
彼女を一人残して立ち去るまで

君を心から愛している
敬具……敬具……

君は何を求めているの

 こうして改めて聴くと意外と他愛もない歌詞でした。少々残念。P・K・ディックの小説みたいに、同じ顔をしたIBM製のアンドロイド美女が続々と現れて呆然としたり、自分の脳にも彼女と同じ電子チップを埋め込んで欲しいと懇願したりした末に、歌の最後では、彼女の崇拝者となった主人公が生きたネジとして彼女の部品になろうと決意するものと思いこんでいました。ヤプーと混ざっています。 (2005.10)(2006.7)


 83.うちの嫁さん、うちの奥さん

 「嫁」という言葉は、東京ではふつう「息子の配偶者」について用いる表現です。「うちの嫁がね」という発言は、たいていの場合、中年以上の女性が、長男だか次男だか三男だかの配偶者について、第三者に愚痴をこぼす時に用いられます。それに続く言葉としては、「トイレは洋式じゃないと嫌って言うのよ」や「卵焼きに醤油をかけるのよ」や「パート先の店長と怪しいみたいなの」等があり、「嫌ぁねえ」と結ばれます。「嫁と姑」は対になった言葉として認識されているわけです。夫本人が、配偶者を指して「嫁」と言うことはまずありません。こちらは「夫と妻」が対の関係で、配偶者を第三者に語る言葉としては、「うちの妻が」が一般的です。「妻」はやや硬い表現なので、日常会話としては「うちのやつが」「うちの女房が」あたりがよく用いられます。気どった言い方には「うちの妻(さい)が」なんていうのもありますが、実際にこの表現をつかう人に出会ったことはありません。鎌倉や軽井沢あたりに行くとステッキを持った人から聞けるのかもしれません。「うちのかみさんが」はコロンボの決まり文句ですが、これもドラマ以外ではめったに聞くことはありません。「かみさん」までくだけた表現を使う場合、日本では夫婦関係を子供中心にして把握する傾向があるので、一般的には「かあちゃん」となります。以前、近所の豆腐屋のご主人が常連さんに「かみさんがきつくて参ったよ」とこぼしているのを聞いたことがありますが、小さな商店をやっている子供のいない夫婦が、なじみの客につれあいの愚痴を言うなんて場合に限定して用いられるわけです。子供のいない夫婦でも、小津安二郎の映画に出てくるような「鎌倉の叔父さん」や「成城のお義兄さん」にはちょっと似合わない表現です。「刑事コロンボ」にコロンボの私生活は一切出てきませんでしたが、配偶者を「かみさん」と言うセリフには、彼のたたき上げの刑事としての社会感覚や子供がいない夫婦関係といったニュアンスを感じさせます。うまい翻訳だと思います。

 一方、若い人を中心に、自分の配偶者を「奥さん」と言う男性がふえてきました。非常に気になります。もちろん、この「気になる」は最近流行りの「日本語の乱れを嘆いている」のではなく、奥さんという微妙な表現に相手がどのようなニュアンスを込めているのかはかりかねて、「相手との接し方に困惑している」という意味です。もともと「奥さん」は、使用人や出入りの商人が女主人への尊称として使ってきた言葉です。そもそも「奥」があるような大きな屋敷の住人でなければ成立しない表現です。自分の配偶者に尊称を用いるというのは、ふたりの関係に何らかの特殊な上下関係があることをうかがわせます。毎夜、手錠プレイで「奥さん」に攻めてもらっていることが予想されます。配偶者に対して「奥さん」と呼びかけているぶんには、奥座敷で手錠プレイをしているという程度の単純な因果関係ですむわけですが、第三者に向けて「うちの奥さんがさ」と語られる時、そこにはさらにいくつかの意味が付与されます。ひとつは言うまでもないことですが、「我が家は奥座敷があるほどの大きな屋敷である」という財力のアピールで、同時に「それにもかかわらず、配偶者にさえ尊称を使うほど腰が低く人間ができている」という屈折した自尊心のアピールも込められています。もうひとつは、「そんな高貴な配偶者と暮らしている自分もまたお前さんよりずっと育ちが良いのである」という間接的な敬意の要求を読みとることができます。そのために、相手から「うちの奥さんがさ」と話しかけられると、その肥大した自意識にあてられて自分がまるで太鼓持ちにでもさせられたような気分になるわけです。いよっ若旦那、このところ奥方はめっきり色っぽくなりましたでげすなぁって、なんで俺がこんな役回りをしなきゃなんないのさ。

 住宅会社でサラリーマンをやっていた頃、顧客の50代の男性と間取りの話をしながら、「奥さんのご要望はいかがでしょうか」と尋ねると、彼は「いやあ、奥さんなんてそんな上等なのうちにはいませんよ」とからからと笑い出しました。やっぱり大人はこうでなくっちゃいかんぜよ。子供の頃に聞いた大人同士の会話はたいていこんな調子だった気がするんですが、東京の人間の感受性や美意識もずいぶん変わったようで、最近ではめったに聞かなくなりました。その50代の男性は、東京の下町で町工場を経営しているという飄々とした人で、下町のコミュニティにはまだこうした感覚が残っているようです。私はひさしぶりに触れた感覚にどう言葉を返したらいいかわからず、いえいえご謙遜をとかなんとかいかにもサラリーマンふうの紋切り型を返すのが精一杯という有様で、日ごろの自分の会話がいかに硬直化しているか思い知らされました。

 はじめに書いたように、東京で自分の配偶者を指して「嫁」と言うのは、かなり違和感のある表現です。核家族化が進み、家意識よりも個人対個人の夫婦関係が家族の基盤になってきている状況で、配偶者について「家の女」と書くこの言葉を用いる人はめったにいません。あえて「嫁」という言葉を使う男性からは、血族意識や親との結びつきが強く、配偶者を「よそ者」として「家に迎えている」というニュアンスを読みとることができます。親に頭の上がらないマザコンや家制度と家父長制の復権をとなえている超保守主義者、あるいはその両方であることが疑われます。ところがです。このところインターネットで知り合った人たちの中に、かなりの割合で「嫁」という言葉を使う人がいます。掲示板の書き込みやチャットで「嫁の目が恐くて」「うちの嫁さんもそう」なんていうやりとりをしています。実際に会って話したわけではないので、じつは50代以上の年配の人が「息子の配偶者」のことを指して言っているんだろうかとも思ったんですが、もっぱら話題がケロロ軍曹だったりイヤミな係長だったりハイハイをはじめた子供だったりで、その中に「嫁」が登場するので、やはり「自分の配偶者」について言っている20代30代の若い人のようです。出身を尋ねると、ほぼ全員が大阪でした。話を聞くかぎりは、とくに犬神家の一族出身の人というわけはなく、家父長制復権のための政治活動をしているというわけでもなく、また、ママにべったりの冬彦さんというわけでもないみたいです。どうやら大阪では、自分の配偶者を第三者に語る時、「嫁」を用いるのが一般的表現のようなのです。驚きです。このカルチャーショックは、いまこうしてこんな文章を書かせるほどに大きなものでした。最近の関西弁の氾濫で、雑誌やテレビでもしばしば「うちの嫁が」と自分の配偶者を言うのを見かけるようになりました。以前、こちらの疑問のページに関西人の丁稚奉公好きについて書いたことがありますが(→関西発「朝の連ドラ」)、家族関係のあり方についても関西の人は封建制への回帰を希望しているんでしょうか。それとも、関西では「嫁」という言葉を家制度や家父長制とは無関係の文脈で認識しているんでしょうか。関西における「嫁」という言葉のもつニュアンスについて、どなたか解説をお願いします。(2005.11)

 84.東京キッド

 「歌も楽しや 東京キッド〜♪」ではじまる昭和歌謡の名曲。美空ひばりの1950年のヒット曲です。よく年末にテレビやラジオでやっている昭和歌謡特集や日本の戦後史を振り返るというような番組で、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」とともにかかるので、若い人でも聞いたことがあるんじゃないかと思います。でも、歌詞をよく聞いてみるとなんだか変です。こんな歌詞です。
東京キッド  作詞・藤浦 洸  作曲・万城目 正

歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール
 → YouTube「私の昭和の日 08.04.29」
 → YouTube「Hibari Misora -Tokyo Kid 1950 & 1973」

 東京キッドは歌とチューインガムが好き。ビルの屋上に上がって空を見上げることもある。フランスの香水やチョコレートを夢見たりもする。通りまで響いてくるジャズを聞きながらリズムに合わせてジッターバグをおどる。戦後の焼け跡と混乱とアメリカ文化へのあこがれを時代背景に、まだ子役時代の美空ひばりが、カネはないけど夢はあるよと東京のくらしを陽気に歌います。そこまではいいです。でも、なぜ「もぐりたく」なってしまうのか、しかも、よりによって「マンホール」に。歌はここに至って急激に展開し、なんの説明もないまま唐突に終わります。1番から3番まで、「もぐりたくなりゃ マンホール〜♪」のフレーズをくり返しているところから、作詞の藤浦洸は、マンホールにもぐるという行為が「なんとなくマンホール」のようなあいまいな動機であってはならず、「もぐりたくなったらマンホールでなければならない」と定言命法による道徳律をもぐる行為に求めていることがわかります。また同時に、少女時代の美空ひばり扮する東京キッドについて、「マンホールにもぐるキャラクターなのである」とくどいほど何度も念を押していることが読み取れるわけです。でも、なんで東京キッドはマンホールにもぐるのか、マンホールにもぐりたくなる東京キッドとはいったい何者なのか、さっぱりわかりません。というわけで、いつものように仮説を立ててみましたので、みなさんの見解を募集します。

1.作詞の藤浦洸は、マンホールが大好きで、酔っぱらうといつもマンホールにもぐる趣味を持っていた。
2.実は美空ひばりは、マンホールが大好きで、以下同文。
3.東京キッドは戦災孤児で、モンゴルのストリートチルドレンのように下水道で暮らしている。
4.まだ下水道が普及していない時代だったので、マンホールはビルとともに都市のシンボルだった。
5.なぜか東京以外の人々には知られていないが、戦時中の防空壕体験以来、東京のこどもたちにはマンホールにもぐって遊ぶ習慣が普及し、現在でも成人式にマンホールへもぐるイベントは「一人前の東京人」として認められるための通過儀礼として残っている。
6.ここで歌われている「マンホール」とは、一般的に用いられる「下水につながる垂直孔」のことではなく、文字通り「マンのホール」すなわち「人間性におけるある種の欠落」を意味しており、東京キッドと呼ばれる女の子が心に深い闇をかかえていることが表現されている。



 この歌は1950年に公開された同名の映画の主題歌になっています。ヒントになるかと思って衛星放送でやっていたときに見てみたんですが、これがもうなんというか悲しくなるくらいいいかげんな映画で、最後まで見るのはほとんど拷問でした。マンホールがどうこう言う以前に、なんでこんなのの主題歌が昭和の名曲なのかのほうが不思議というのが見終わっての感想です。とりあえず「少女スター・美空ひばり」が主演で歌うシーンだけはてんこもりだから、後はもうどうにでもしてくれという投げやりさによってできあがった映画という感じ。もちろん美空ひばりは下水道で暮らす戦災孤児ではないし、そもそもマンホールにもぐる場面すらありません。主題歌は叙情的ですが、内容は一発芸のようなドタバタ喜劇のくり返しととってつけたような人情劇とがまぜこぜになっていて全体的にすべてが中途半端で投げやり。おまけに当時12歳の美空ひばりが絵に描いたようにこまっしゃくれた子役で、「少女スター」というよりただのかわいくないガキんちょにしか見えません。まあ歌は上手いけど。いちおうあらすじは、母ひとり子ひとりで暮らしていた美空ひばりが、病床の母と死に別れ、売れない流しの歌手のアパートに転がり込み、健気に街角で歌い、やがて生き別れになっていた大富豪の父親に引き取られてアメリカへ行くというもので、こうして書くのも恥ずかしいくらい少女趣味。小学生の作文みたい。シナリオも演出も雑すぎて、パロディとしてお涙ちょうだいを皮肉っているのか、ドタバタも涙もある人情喜劇をやろうとしているのか、さっぱりわかりません。というわけで、もうこれ以上の調査は当方の気力が続きそうにないので、なぜ東京キッドがマンホールにもぐりたくなるのかご存知の方はメールいただけるとたすかります。 (2006・2008)
 → Wikipedia 「美空ひばり」


 85.広告入りバイク

 まずはこちらの写真を。ホンダのスポーツバイクの2008年モデルです。



 → ホンダのWebサイト より
 とんがっています。イタチみたいです。でこのメカイタチ、大きく「KONICA MINOLTA」と書いてあって、バイクに乗らない人はコニカミノルタがカメラの製造をやめたかわりに電動バイクをつくるようになったのかと思うかもしれませんが違います。ホンダが「スペシャルエディション」として生産をはじめたニューモデルです。愛社精神を盛り上げるためにコニカミノルタが社員向けに販売する特注モデルというわけでもなく、限定500台の受注生産ですが市販されます。コニカミノルタの広報車でもありません。じゃあなぜこんなに大きく「KONICA MINOLTA」なんて書いてあるのか。これが今回のテーマです。これでは購入しても自分のバイクではなくコニカミノルタさんから借りてるみたいだし、まるで社員が広報活動をさせられているみたいです。日曜なのにたいへんだねなんて声かけられたりして。コニカミノルタステッカーはサイドだけでなく正面にもめだつところに念入りにベタベタはられています。ほらこのように。



 バイクに乗らない人は、広告入り葉書が1割引であることや都営バスが車体を看板にすることで広告料を徴収しているように、コニカミノルタが広告料を出してそのぶん割引販売されるのかと思うかもしれませんがちがいます。実際は逆に標準のカラーリングよりも1割増しの価格設定がされています。標準カラーが107万円なのに対し、こちらの「スペシャルエディション」は117万円とじつに10万円高。コニカミノルタさんから借りているみたいなバイクに117万円も支払ったうえに無給で広報活動に協力したい人たちが500人もいるという事実をバイクに乗らない人は理解できないかもしれません。私はバイクに乗りますが私にもさっぱりわかりません。何度見ても車体全面に缶コーヒーの広告を貼られた都営バスを連想します。ホンダではさらにこのありがたいコニカミノルタステッカーをこのバイクを買った人だけに特別にわけてくれるとのこと。どうやらこのステッカーは企業広告というよりも「成田山」の交通安全シールのようになんらかの「御利益」が期待できる性質のもののようです。

 このコニカミノルタカラーのバイクには「オリジナル」が存在します。オリジナルのほうは市販車ではなく、GPレースを走るレーシングバイクです。オリジナルのGPレーサーのほうも「御利益」を期待してレーシングチームがお金を払ってありがたいコニカミノルタステッカーを貼らせてもらっている……わけではもちろんなく、こちらは都営バスとまったく同じしくみで車体を広告塔にすることでコニカミノルタから広告料を徴収しています。こうしたレーシングバイクの広告料がいくらなのかは明らかにされていませんが、モトGPのレーシングバイクだとだいたい10cm×10cmの面積で数百万円、このコニカミノルタのようにめだつ箇所に大きな企業ロゴを入れてメインスポンサーになるには数億円、2輪よりもマーケットの大きい4輪のF1クラスになるとさらにその十倍くらいと言われています。この広告料がレーシングチームの活動資金になるわけです。資本主義経済における企業の広告活動としては古典的かつ明快なので、経済行為としては成田山の交通安全祈願シールよりもわかりやすいシステムです。

 このオリジナルとコピーの関係は、十年ちょっと前に流行ったマイケル・ジョーダンのバスケットシューズと同じ図式にあります。オリジナルは、企業が巨額の広告料を支払って知名度のあるプロフェッショナルに使用してもらい、逆にそのコピーは割り増し価格で販売されるというしくみです。町ゆく人があの派手なバスケットシューズを履いていれば、それも十分な広告効果があると思いますが、こちらに広告料の対価は支払われません。個人ユーザーはあくまで「消費者」であり、広告の一方的な受け手と見なされてきたためです。ただ近年、こうしたマスの広告手法が通用しなくなってきているのも事実です。企業や広告会社が大勢のサクラを雇ってクチコミ広告に力を入れるようになった現在の状況では、個人ユーザーにも広告料が支払われるべきだと思うんです。とくにこのコニカミノルタバイクなんて、知らない人にとっては社員が広報活動をしているようにしか見えないでしょ。乗ってるライダーがGPレーサーでなくても、走っているのが鈴鹿やル・マンでなく甲州街道だとしても。むしろ甲州街道や明治通りを走っているほうが、社員も色々やらされて大変だなあって思いませんか。エア・ジョーダンの場合、オリジナルも市販されたコピーも同じ機能と同じデザインだったし、マイケル・ジョーダンのスポンサーであるナイキやゲイターレードのロゴがベタベタ靴に貼ってあるわけでもありませんでした。それに対し、こちらのバイクはエンジンもフレームもGPレーサーとはまったく異なっています。別物の中身にGPレーサーと同じカラーリングとコニカミノルタの企業ロゴをほどこすことでコピーであることを主張するものです。商品としてはキワモノに近い成りたちをしていると思うんですが、オートバイの世界では、この種のGPレーサーふうのカラーリングやスポンサーロゴを入れた商品はずいぶん以前から企画製造され、バイク乗りたちにそれなりに受け入れられてきました。20年くらい前にはレーシングチームのスポンサーをしていたタバコ会社のマークやロゴがでかでかと入ったバイクが町中にあふれていたのをおぼえている人もいると思います。少し冷静になって考えれば、なぜカネを払って自分がタバコ会社の宣伝をしてやらねばならないんだと疑問を抱くはずですが、当時、多くのライダーがマルボロやラッキーストライクやロスマンズのバイクにGPレーサー気分で嬉々として乗っていたわけです。ファッション業界ではこういうありがたい消費者のことを「ヴィクテムズ(犠牲者・カモ)」と呼びます。

 1980年代末の町中にマルボロやロスマンズのバイクがあふれていた頃と異なり、現在ではこうしたバイクはほとんど売れなくなりました。バイク乗りが少し賢くなって自分のバイクにただで企業ロゴやマークを入れさせてあげることに疑問を持つようになったからなのか、たんに流行らなくなっただけなのかはわかりません。ともかく、いまどきGPレーサーふうのスタイルをありがたがるのは、ひとにぎりの好事家だけになりました。そのほとんどは80年代に若者だったおじさんたちで、この500台限定のコニカミノルタバイクを買うのもそういう当時の価値観を引きずっているおじさんたちだろうと想像します。ユーザーが自分のバイクをGPレーサーふうに色を塗ったりステッカーを貼ったりするのはバカっぽくてかわいいといえばかわいいんですが、メーカー側がそういう商品を割り増し価格で用意するのはあざとくて志が低いと思います。企業カラーのバイクを販売するなら、レーシングバイクと同じようにスポンサー料をとり、そのぶん割引価格で販売するべきです。広告効果という点では、GPレーサー1台よりも市販バイク1000台に企業カラーを施すほうがレースに興味のない人たちにもアピールできるぶん波及効果は大きいはずです。グーグルがインターネットの世界でやっていることを考えれば、広告入りのオートバイや自動車を個人ユーザー向けに割引販売するというのはそれほど非現実的な話ではないと思います。個人的には、1割安くなったくらいではこのコニカミノルタバイクに乗る気はしませんが、半額になるなら広告塔にされても我慢するというところです。私はGPレーサーへのあこがれはまったくないので、ロゴが「KONICA MINOLTA」でなく「ヤオハン」や「いなげや」でもべつにかまいません。グーグルの広告入りソフトのように無料で貸与してくれるなら、いなげやカラーのバイクで甲州街道も明治通りも走りますぜ。実現への最大の障害は、117万円も払ってコニカミノルタバイクを購入する人たちが存在することなわけですが、いったい彼らはなにを考えているんでしょうか。すでに500台完売だそうです。購入を決意した500人のみなさん、ぜひご意見を。(2008.6)

 86.ニューヨーク・ヤンキースの痛んだ選手は故障者リストに入りました

 NHKのメージャーリーグ中継でのアナウンサーのコメントです。なんだかラジエーターの壊れたクルマが修理工場へ入っていく様子や傷んだカボチャを農家が仕分けしている様子を連想します。ちょっとこれはあんまりではないではないかと思うわけです。スポーツメディアが怪我を「故障」と表現するのはかなり以前から定着していますが、「痛んでます」はここ数年耳にするようになった新顔です。1990年代末にアメフトのテレビ中継で解説の後藤完夫が使っているのを聞いたのが個人的には最初で、その後、サッカーや野球の中継でも耳にするようになりました。「ああ!ゴール前で3人痛んでます、痛んでますよ痛んでます」なんてサッカー中継ではアナウンサーが連呼したりして、使用頻度は増加しているようです。選手から俺たちゃカボチャじゃねえんだぞって苦情は来ないんでしょうか。人体を物体と見なす認識は近代科学の発展とともに定着してきましたが、なにもここまで即物的に表現しなくてもと思うんですが。

 同様の疑問や違和感を感じている人はそれなりにいるようで、ネットの検索でもいくつか出てきました。
 → MSN質問箱「なぜ故障?」
 → YAHOO知恵袋「スポーツ選手などの人間が『故障』はおかしくないですか?」

 放送局にも同様の投書が来ているようで、NHKのことばおじさんもコラムで取りあげています。
 → ことばおじさんのナットク日本語塾 「58 人間なのに『故障』?」
 (以前はWebで各回のコラムを読めましたが、単行本になったのを期に削除され、見出しだけになりました。けち。)

 で、Webの質問サイトもことばおじさんも「故障という表現は機械だけでなく人体の不調にも用いると辞書にのってるんだから間違いではない」ということで一件落着のようです。おいおいいいのかそれで。辞書というのは、「言葉を定義する」という役割だけでなく、「このように使われている」という状況を示すものでもあります。とくに日本語のように流動性の高い言語では後者の要素が強くなります。たとえば今年2008年に刊行された広辞苑の第6版では、「自己中」「うざい」「ラブラブ」といった若者ことばが新語として追加されたわけですが、べつに「正しい日本語」として認定されたわけではなくて、あくまで「そう使われている」という状況を示しているだけのものです。なので、テレビのスポーツ中継でアナウンサーが「このプレイは自己中ですからチームメイトとしてはうざいですね、観客はラブラブのようですが」と言いだしたらやっぱりそれはちょっとあのそのなわけで、広辞苑への収録を理由に正当化するのは無理があるわけです。では、「故障」を各国語辞典はどう言っているのか。
・広辞苑 第4版
1物事の正常な働きがそこなわれること。さしさわり。さしつかえ。「肩の――で欠場する」2故障1があると申し立てること。異議。盛衰記42「面々の――に、日既に暮れなんとす」。「――を入れる」

・goo国語辞典(三省堂「大辞林 第4版」より)
(1)機械や身体などに不調が生じて、円滑に働かなくなること。「エンジンが―する」「強行軍で体に―をきたす」 (2)事態の進行をさまたげるもの。さしさわり。「風紀上―ある文字/社会百面相(魯庵)」(3)さしさわりがあると申し立てること。異議。異論。「何の彼のと、―を云つて/婦系図(鏡花)」――を入(い)・れる不服を言う。邪魔をする。

・新明解国語辞典 第4版
そのものの内部の機能が狂ったり外部からの事情に左右されたりして、進行が止まったり、正常な働きを失ったりすること。「機械が――する:――が入る(相次ぐ):――〔=意義〕を申し立てる」
 Webの質問箱やことばおじさんが指摘しているように、各辞書は、「故障」が機械の不具合だけでなく、身体の不調にももちいられると指摘しています。また、用例にあるように古くは事態・状況のさしさわりや異議を申し立てることについても「故障」「故障する」と言ったようです。ことばおじさんのコラムでも、鎌倉時代に記された「古今著聞集」の「僧、故障ありて行かず」という文を例にあげ、「さしさわり」 の意味で用いられていることを指摘し、古くは物事の不調・さしさわりについて広く用いられてきたと解説していました。なので、故障といってもスポーツ選手を機械扱いしているわけではないとのこと。ふーむ、なるほどこれにて一件落着、ではありません。

 ふだんの会話のなかで、この「故障」ということばを「身体の不調」の意味で使っている人っていますか。たとえば駅の階段を踏み外してひどくねんざしたとします。病院で包帯ぐるぐる巻きに固定してもらって、翌日、学校や職場へ行くと、クラスメイトや同僚からこう言われたとします。「あれっ左足、故障したの?」……えっ故障?って違和感を感じませんか。あるいは、風邪をおして登校・出勤して、教室やオフィスでげほげほ咳きこんでいたとします。顔色の悪いあなたにクラスメイトや同僚がこう話しかけます。「風邪?故障ははやめになおしたほうがいいよ」……やはり違和感を感じませんか。もしそう言ったのが上司だったら、私は産業用ロボットではない、これはパワーハラスメントだって職場の人間関係に支障をきたしたりしませんか。現在の日本語の用法として、身体の不調を日常的に「故障」と表現する会話や文章表現は思い浮かべるのが困難です。日常会話以外でも、医療関係者が同僚や患者との会話の中で、臓器や関節の機能不全を「故障」と表現するケースってあるんでしょうか。「患者は長年のアルコール依存のため肝臓が故障しています」「故障の度合いから見てウィルス感染も疑ったほうがいいんじゃないでしょうか」なんて会話を医師同士が症例検討の場でしているのもきわめて不自然な感じがします。その一方でスポーツメディアでは、テレビのスポーツ中継でも新聞でもこの表現はやたらと多用されています。「松坂 右ヒジ故障 レッドソックス故障者リスト入り」「ゴジラ松井 ヒザ故障で今期絶望」「シャラポワ 右肩故障で全米欠場」などなど。


 つまり、身体の不調を「故障」と表現するのはスポーツメディアにほぼ限定され、スポーツ関係者やメディア関係者の業界用語のようなものだと考えられるわけです。各国語辞典の用例も、こう使うのが正しいと規定しているのではなく、現在、様々なスポーツメディアで「故障」という表現が氾濫している状況をふまえて、「身体の不調にももちいられている」と現状を追認しているのではないでしょうか。したがって、メディア関係者が「辞書にも書いてあるから問題ない」というのは、「自分たちが使っているんだから正しいんだ」と言っているようなもので、なにも根拠を示していないことになります。むしろ、ある特定の集団や分野でのみ多用され、一般性を持たないという点で、IT業界の「FAQ」やおたく業界の「萌え萌え〜」なんかと大差ないように見えるわけです。

 ことばおじさんは「痛んでいる」という表現についても、「この表現がもっと普及したら、スポーツ用語として辞書にも載るかもしれませんね」とコラムを締めくくっているんですが、ことばおじさん、ちょっと身内のメディア関係者に甘すぎやしませんか。「故障」や「痛んでいる」は「ストライク」や「オフサイド」と違って、スポーツ用語ではなくスポーツ業界用語です。むしろ、時津風部屋のリンチ殺人で一躍有名になった大相撲の「可愛がる」と同種の内輪ことばです。それをアナウンサーが連呼したり、スポーツ新聞が大見出しにするは、ちょうど吉本の芸人がやたらと「ボケ」とか「ツッコミ」とか「ノリツッコミ」とか楽屋ことばを電波に乗せてまき散らすのといっしょでさ、公共の場で発する言葉としてちょいと下品じゃないですかい。というわけで、「故障」や「痛んでる」について人間性への冒涜だと文句をつけるつもりはないんですが、業界用語をメディアに氾濫させるやり方については、俺たちが使ってれば一般性を持つんだと言わんばかりの傲慢さを感じるわけです。世界はメディアを中心に回ってるわけじゃありませんぜ。どうよ。(2008)

 87.セレブ侍

 まったく内容に即していませんが、語呂が気に入ったのでタイトルにしてみました。今回は短く縮めらた恥ずかしい言葉がテーマです。漢字文化の日本語では、学術用語と法律用語以外にあまり長い単語がないため、外来の長いカタカナ単語はおさまりが悪く、だいだい三文字四文字くらいに省略されて普及・定着していきます。それと同時にニュアンスもカジュアル化します。例えば「セクシャル・ハラスメント」は労働問題やフェミニズムのテーマとして扱われてきたカタイ言葉でしたが、それが「セクハラ」に縮められるのとともにワイドショーや週刊誌のネタになり、まもなく広く知られるようになって日常会話の中に定着していきました。省略された言葉には、「デパート」や「コンビニ」のようにその言い易さからしだいに普及・定着したものだけでなく、「セレブ」や「メタボ」のようにメディア主導でブームによる消費の掘り起こしを狙って流通しているバズワード、あるいは「板」や「サバ」のように仲間内の隠語がひろまったものなど、様々な種類があります。ところが、私、この省略言葉の作為性とそれを使う人たちのニュアンスが気持ち悪くて、かなり普及してからも引っかかりをおぼえます。そこで今回は自分の言語感覚を確認する意味で、どのあたりから引っかかりを感じなくなるのか、「恥ずかしさと気持ち悪さ」を基準に格付けしてみました。 (2008.8)


A

A+++
「エコ」
大量に流通している言葉なのに聞く度に不快感をおぼえる。そりゃ環境問題は重要だけどさ、重要なだけに「エコ」なんて縮めた言葉をばらまいて、小さいこどもが「いーけないんだいけないんだあ」と囃したてているようなやりかたをしても、問題の本質が見えなくなるだけじゃないの。とくに「エコッ」と小さい「ッ」が入った発音を聞くともうだめ。エコエコアザラクたすけて。

「デジイチ」
デジタル一眼レフカメラのことらしい。言葉のほうは製品ほど普及していないが、どうにも語感が恥ずかしい。マッキントッシュのパソコンを「リンゴ」と呼ぶ人と同様に、通を気どった自意識がまた恥ずかしい。「ニコンのデジイチはセンサーの反応が鈍いんだよね」なんて、おいこら、貴様そこへ直れって感じ。どうせデジタルカメラなんだから一眼レフも二眼レフもあえて構造を区別して呼ぶ必要ないと思うんだけど、マニアとしては高級一眼レフの差別化をはかりたいらしい。「デジカメ」が言葉の普及にともない枯れた語感になったのに対し、「デジイチ」はまだ汁気たっぷり。これくらいの鮮度が一番臭い。「写メ」よりもさらに臭い。ところで撮ってる写真も高級なんでしょうかって大きなお世話ですね。

A++
「ググる」
語呂が気持ち悪い。Googleは便利な検索エンジンだけど、これ以上「ググる」なんて気色悪い動詞を普及させないためにも他の検索エンジンにとって代わられることを切に願う。インターネット黎明期のInfoseekやLycosがそうだったように。

「ニート(NEET)」
プータローやスネかじりでいいじゃねえか。人間を労働資源としか見なしていない役所がプータローやスネかじりにあるちょっとした人間味と愛嬌が許せなくて導入した言葉。元はイギリスの社会学者がつくった学術用語だから、当然、愛嬌ゼロ。「我が家のスネかじり」と「我が家のニート」ではニュアンスがまったく異なる。なお、イギリス人は誰もNEETなんて言わないらしい。

「メタボ」
メタボリック・シンドロームも役所主導の言葉。デブや太っちょでいいじゃねえか。医学用語のふりをしても理論的裏づけなんていいかげんなんだし。これも人間を社会保障費を浪費する存在としか見なしていない役所の非人間性が感じられる。さらにメタボと縮めらて健康ブームによる消費の喚起にめざといメディアに氾濫、バズワード化するとともに流行語へ。

「ぶっちゃけ」
ぶっちゃけ、ぶっちゃけちゃえ、ぶっちゃけるとって、それ、AVの見過ぎじゃないの。え、省略形じゃないの、これ。

「メアド」
普及しているのかしていないのかわからないけどメルアドとともにしぶとく残っている。語呂の気持ち悪さと恥ずかしさでは「ググる」「デジイチ」とならんで筆頭。登場からずいぶんたつが、いっこうに不快感がおさまらない。

「高っ」「安っ」「でかっ」「小さっ」「早っ」「遅っ」「臭っ」「凄っ」
なんだろうこの上っ調子な言い方は。ガリバー旅行記に登場する臆病で底意地の悪い小人たちがキキキキと耳障りなかん高い声で早口で会話している様子を連想する。最近のマンガはこの手の会話で埋めつくされていて読むともうガリバーの気分。たいていボケ・ツッコミの吉本マンザイふうの掛け合いの中に登場するので、発信地はタコ焼きの国でしょうか。

「セレブ」
セレブリティ(celebrity)はメディアの注目をあつめる有名人という意味だけど、「セレブ」の場合、ヤッピーでヒップでカネまわりが良ければ、名前が知られているかどうかは関係ないらしい。そのためセレブOLとかセレブ妻とかセレブ番長とかセレブ自衛官とかセレブ力士とかセレブ名ばかり店長とかセレブ忍者とかセレブ侍とか様々なセレブが存在するらしい。あ、「セレブ侍」は語呂がちょっと好きかも。

「ロハス」
もとはアメリカでつくられた「環境・健康・社会問題への関心が消費活動におよぼす影響」という意味の略語らしい。アメリカではマーケティングの業界用語で、ナイキのインドネシア工場で従業員に低賃金・長時間労働を「Just do it」させていたのが報道されて、アメリカでナイキの不買運動がおきたようなケースを指す。でも、日本でのニュアンスはまったく違って、「こじゃれたライフスタイルもろもろを指向するあいまいで中身のないバズワード」というところ。イメージ先行のこじゃれた語感によって消費の掘り起こしを狙っているのか、メディアによって「セレブ」とともにやたらとばらまかれている。仕掛け人は小黒一三という業界ゴロみたいな雑誌編集長。その商売臭さとうさん臭さは、バブル期に流行った「メセナ」を連想させる。
*Wikipedia「バズワード」

A+
「Jポップ」「Jホラー」「J文学」
はいはい商売ね商売。あまり繁盛してないみたいだけど。

「Kカー」
軽自動車のイメージアップのために業界がいいだした言葉。でも、そのいじましさのためによけい物欲しげでみみっちく感じるのはJポップやJ文学と同じ。軽自動車と言ったほうがはるかに清々しい。もし自分が軽自動車を買って、無邪気で鈍感な人から「へえ、Kカーにしたんだ」なんて言われたら、しばらく立ち直れません。

「デパ地下」
こちらは逆に大繁盛。でも、すり寄ってくるようななれなれしい語感が嫌い。ブームの仕掛け人たちはさぞやしてやったりと思ってるんだろうと想像するとまた腹がたつ。どれだけ言葉が普及しようと、私は「デパートの食品売り場」と言い続ける。

「ノーパソ」
パンツを履いていないことの2ちゃんねる用語というわけではなく、ノートパソコンのことらしい。パソコン自体が省略形なので二重に縮められた不細工な言葉。なにもそこまで縮めなくてもと思うのだが、こういう言葉を好んで使う人は、なにがなんでも縮めて言わないと気がすまないのかもしれない。この手の人と会話をするときは、そのひらべったいパソコンを断固として「ラップトップ・コンピューター」と呼びつづけることにしている。向こうは向こうで私のことを気どった嫌味な奴と思っているのかもしれないが、たんにへそ曲がりなだけです。

A
「板」「サバ」「カキコ」
ネットの住人に使われるようになってもうずいぶんたつ。一部の人たちには完全に定着したけど、それ以外の人たちにはまったく波及していない。そういう言葉は最近たくさんありすぎて、もうどうでもよくなってきている。目新しさがなくなって枯れてきたからなのか、こちらが慣れてきたからなのか、お仲間同士で好きなだけ使っててちょうだいという感じ。もっともこういう言葉を使っている人たちは、あくまで仲間内の隠語として用いているのであって、日本語として世間に普及させようなんてまったく考えていないだろうから、現在の状況を歓迎しているのかもしれない。そういえば「逝ってよし」は見かけなくなったね。

「キャラ」
マンガやアニメーションの登場人物をあらわすおたく言葉だったが、いつの間にか広く普及。いじられキャラ、天然キャラ、不思議ちゃんキャラ、切れキャラ、社長キャラ、クラス委員キャラ、保健委員キャラなどなど、近頃では生身の人間のタイプ分類にまで用いられる。こういう言い方をする人にとって、人間はおしなべてコントやマンガの登場人物のように類型化された薄っぺらい存在に見えているんだろうか。舞台の上で役割を与えられたときだけ存在し、舞台から下りてその役割を失った途端、書き割りのようにぱたぱたと倒れてしまうとでも思っているのかもしれない。

「パワハラ」「アカハラ」
人名みたいだけど、「パワー・ハラスメント」「アカデミック・ハラスメント」の略語。はたして上野千鶴子による二匹目のドジョウは、セクハラ同様に認知されるのか。

「スタバ」「ミスド」
スターバックスとミスタードーナッツのことらしい。吉牛は聞くぶんには違和感なくなってきたけど、スタバとミスドは言うのも聞くのもまだまだくすぐったい。あといい年したおっさんが喫茶店を「カフェ」なんて呼んでるのを聞くと恥ずかしくて逃げ出したくなる。もっともこれはたんに私の利用頻度の違いによるものかもしれないので、逆にヨシギューという発音に鳥肌がたつという人もいるだろう。

「モー娘。」
あと少しで違和感を感じなくなりそうだけどあと少しで彼女たちも消えてしまいそう。

「ドンペリ」
こちらはもうすでに死語。ドン・ペリニヨンというやたらと高いシャンペンのこと。言葉としてなじむ前にバブルの成金風俗ととも時代の彼方へ。

B
あえて使う気はしない。見たり聞いたりするぶんには違和感を感じない。
「ファミレス」「吉牛」「アニメ」「セクハラ」「リストラ」「ブラピ」「ミスチル」「ファミマ」
C
ときどき使うくらいになじんでいる。声に出すのは少しくすぐったい。
「インフラ」「デジカメ」「ヘビメタ」「取説」「スカパー」「マック(両方とも)」
D
それが省略形であることを意識しないくらいなじんでいる。
「テレビ」「デパート」「コンビニ」「ガス欠」「パーマ」「パソコン」「ワープロ」

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・ 疑問の泡 1-40 ・ ・ 疑問の泡 41-80 ・ ・ クロ箱 表紙 ・