クロ箱 index   このサイトは?   サイトの制作者   メール送信


 slowdays 2003 +


2003

■ A piece of moment 2/14

 さて、ひさしぶりの近況報告です。この間に何があったのかというと、武道館の控え室で白木財閥のひとり娘である白木葉子から「好きなのよ矢吹クンあなたが……」と愛を告げられ、「行かないで」と泣き崩れる彼女を振りきるように「リングでよ世界一の男が俺を待ってるんだ……だから行かなきゃな」とウヒャーなセリフを発し、世界一の男ことホセ・メンドーサとのタイトルマッチにのぞむべく、武道館の花道をパンチドランカーのもつれた足取りでリングへと向かったのでした。というのはもちろん現実のできごとであって、断じてCS放送でたまたまやっていた「あしたのジョー」をだらだらと5時間もまとめて見てしまって影響されたりしてるわけではないのである。ましてやため込んだ仕事から逃避しているなんて不当な言いがかりをつけないでもらいたい。というわけで、当方、世界一の男とのタイトルマッチにそなえて、クロスカウンターにみがきをかける日々が続いています。本人が言うんだからまちがいないです。

 それにしてもリングで世界一の男が俺を待ってるんだなんて一生に一度くらいは言ってみたいものである。いえ松屋で牛丼食いながらジョーのモノマネするんじゃなくてさ、そうじゃなくってさ、泣き崩れる白木葉子を前にしてさ、えっ、あたしが白木葉子をやってやろうかって、いえ結構です、イメージが崩れますのでたのむからやめて。そんなわけで20年ぶりに見たジョーはひたすら格好良いのであった。破滅とともにあるカタルシスに向かって疾走するジョー、そんなジョーへ屈折した愛を抱く葉子、ジョーに夢を託す団平オヤジをはじめとした涙橋のドヤ街の面々、ああもうラストは涙で前が見えないって感じで、遅ればせながら2003年もよろしくである。関係ないけど、新宿のほうの高校の1年C組廊下から2列目の女子生徒は、小生の授業中ウハハハハってまっるきりワイドショウを見ているおばさん状態なのが気になる2003年早春なのであった。ま、楽しんでくれてるならそれでいいような気もするけど、でもそんなに楽しんでくれたのならおひねりのふたつみっつ投げてくれると仕事に張りあいが出ます。パンツに万札つっこんでくれればそっちのテーブルいってサービスしますぜ。というわけで、今年もあいかわらず野良猫の仲間なので、あ〜らよっとへっへっ〜なんて風来坊のジョーの口まねをしてみたりするのであった。

■ A piece of moment 2/16

 ついでに年末年始についてもふれておきます。今年は気がついたら年が明けていて、気がついたら授業まではじまっていたって感じで、なんだか年々だらしなくなってくる。一方、世間は逆に年々世知辛くなっている様子で、初日の8日からいきなり6連発も授業やらせないでくれよ。勤勉な高校生たちは文句も言わず授業を受けていたけど、こっちの方が世間様についていけてない感じ。くやしいのでベネトンのイメージ広告をネタにメディア論で煙に巻いてやろうかと思ったら、こちらの方が消化不良で煙に巻かれてしまう。この手のイメージを論じると微妙な話になってしまうので難しい。で、ようやく6時間目が終わって、ベランダでタバコをぶかぶか吸っていたら、新年会ですよムラタサンもどう食べ放題だよ飲み放題だよどうどうどうよと声をかけられたので、ほいほいついていったら、いきなりキョートーが尾崎豊を熱唱しはじめて、もう新年早々ピンチなのであった。大音量でサビを熱唱するキョートーを視界から消して、飲み食いに励みつつ隣の席の年配の女性と「今朝、南口のユニクロ前でパックンを見かけたんですぅ」なんて世間話をしていたら、「ソコ!チャントキケヨ!」とキョートーから檄が飛んできてしまった。これはなにかの罰ゲームなんだろうか。そんなまるで文学部唯野教授じゃねえかという波乱の年明けであった。

 VTRが1台壊れたので新しいのに買い換える。我が家のVTRはほとんど業務用で常に3台がフル稼働しているため、4年くらいでガタが来てしまう。ひさしぶりに電気店のVTR売場をのぞいたら、結構いいVTRが2万円台で売ってるので驚く。安くなったもんだ。それに録画機器はいつの間にやらHDD+DVDレコーダーに切り替わりつつあるようだった。で、新しいVTRは非常に使い勝手が良くて画質も良いので、こんなに安くなってるのならいっそ3台とも買い換えたい気もするけど、我が家のようにニュース番組を片っ端から録りだめておいて必要なものだけ残しておく使い方の場合、HDDレコーダーの方が便利そうなので悩むところ。HDDレコーダーは1番安いヤツでも5万円もするのがネックだ。政府も国際宇宙ステーションなんて何の役にも立たないものに1000億円も予算をつぎ込んでないで、俺に5万円のHDDレコーダーを購入すべきなのである。国家予算というのは国民の血税であるからして、本来、そのような有効な使い方がなされるべきなのである。誰が何といおうと絶対そうなのである。

 エバキュウのLandsさんから薦められて、その後、何人かの生徒も面白いと言っていた「ブラックジャックによろしく」をようやく読む。朝日の書評にまで取り上げられたりして話題になっているらしい。で、読んでみたところ、医療問題についてはよく取材してるけど、漫画としては物語と登場人物が単純すぎてあんまり面白くない。読み手にシリアスな問いを投げかけるけど物語としては薄いっていうのは、いまいち私の好みじゃないざます。医療問題を議論する際の業務用資料としては、ちょうど良いんじゃないでしょうか。新聞の書評はこういうの好きそうね。それにしても最近の週刊誌の連載マンガってどうしてこんなにヒトコマが大きいんだろう。緊迫した場面でかならず3段ブチぬきの顔アップになったりして麻雀劇画みたいだ。登場人物たちはなんかみんな顔がコワイしさ。

■ A piece of moment 2/22

 急にオートバイが欲しくなる。スピードは出なくても良い。丈夫でどこでも走れるものが好み。ということでオフローダー、250CC、中古で25万以下と条件をしぼり、情報収集を開始する。ヤフーのオークションは思っていた以上に高い。基本的に個人売買なのだから、値づけは業者への下取り価格と業者の販売価格との中間が妥当なはずだけど、業者が通信販売のつもりで出品しているケースも多く、個人の出品者もそれに引っぱられるように高値をつけている印象だった。で、さらに検索し、こんなサイトを見つける。
 → goobike.com
「カーといえばグー」は中古バイクの情報誌も出していたらしい。Web版と雑誌とを見比べてみたら内容はまったく同じで、検索が充実しているぶんWeb版のほうが使い勝手がよい。いちおうここらへんが候補。試験が終わったら中古車屋めぐりを開始する予定。
 → XR BAJA 22万円
 → TT250R Raid 21万円
 → TT250R Raid 25万円
 → ジェベルXC 33万
 → ジェベルXC 33万
 どれも一長一短という感じ。このあたりの車種で25万以下となるとどれも走行距離が2万を越えてしまう。いっそ朽ちかけXLR5万円とかいちおう動きますセロー7万円とか改造大失敗TW9万円とかにしようかとも思ったけど、土取セローで痛い目にあったのを思い出して、今度はあれこれ手を入れなくてもすぐに走れるのにすることにした。土取セローはタイヤ、ブレーキ、キャブレターと不具合が続出し、その度にちょびちょび手を入れて修理代に8万もかかったあげく盗まれてしまい、とうとう最後まで完璧な状態で走れなかった。

 ただ、よく考えてみると私は旅行が大嫌いである。暑いのも寒いのも濡れるのも嫌いだ。山道でのろのろ走るダンプカーに前をふさがれて排気ガスを浴びつづけるのも想像しただけでうんざりしてくるし、高速道路を120kmでながしていても退屈なだけでちっとも面白くない。和気あいあいのツーリングにも興味ないし、野宿も安宿もこじゃれたホテルも嫌いだ。おそらくバイクを買っても北海道旅行には行かないだろうし、草レースに出場することもないだろう。使い道といっても通勤と街なかのちょい乗りくらいしか思いつかない。せいぜいバスケをやりに練馬の体育館へ行くくらいだ。実用という点では小型スクーターでも買ったほうがずっと使い勝手が良いんだけど、でもなぜかスクーターにはまったく興味がわかない。ママチャリの延長線上にある実用品としか思えず、スクーターのある生活を思い浮かべてもちっともわくわくしない。なぜなんだろうと3日ほど考えてようやくわかった。私はバイクを日常からの脱出口だと思っているのである。日々の暮らしが息苦しくなって、些末事のあれやこれやにどっぷりと首までつかり身動きがとれなくなったとき、そこから逃げ出すための非常口が欲しいのだ。いや本当に逃げ出したりしなくてもいい。ちらと見た先に自分のバイクがあって、それが整備万端どこまでも走っていけそうな状態になっていればそれでいい。エンジンが金属質の鈍い光を放ち、キック一発で動き出す状態になっているのを見て満足し、また日々の生活の中にもどっていくことができる。なので、実用性とか小回りが利くとか最高速度がどうこうというのはどうでも良い。バイクは身軽な暮らしの象徴であり、どこまでも走っていけそうなわくわくする雰囲気があることこそ大事なのである。

■ A piece of moment 2/27

 授業で女性知事の「土俵入り」の是非をめぐって討論をすることになった。毎年、3月の大阪場所が開かれるたびに話題になるできごとで、もはや年中行事の感がある。で、資料を集めようとインターネットに書かれた賛否両論あれこれを漁っていたところだが、どの文章もなにやら的が外れているように見える。

 たとえば女性知事の土俵入りを批判する声にしばしば見られる「そんなことに神経質にならなくても」という指摘。これは無神経である。女性知事の土俵入りを支持する人たちにとって、このできごとは女性を排除する様々な社会システムのシンボルなのだから神経質になるのは当然である。こうした女性を排除する様々なシステムに対して神経質に文句を言い続けてきたからこそ、女性の権利はようやく認められるようになったのである。それもつい最近のことだ。もしもこうした排除に対して寛容であったら、社会は何ら変わらず女性の権利など夢物語だったはずだ。男女雇用機会均等法どころか女性に選挙権すら保障されていなかったろう。したがって寛容に構えることはちっとも褒められたものではない。また、「大相撲の伝統」というのもかなりいかがわしい。元来、大相撲は見せ物の要素が強い。テレビ中継にじゃまだとなれば柱を捨てて釣り屋根にしたり、ルールや土俵の広さだって変えてきた。格調高い不変の伝統というものからはほど遠く、むしろ演出された伝統という色合いが強い。

 土俵からの女性の排除は、宗教性という一点でのみ肯定されるべきものである。なんせ宗教なんだもん、女性の権利だとか男女平等だとかという論理性はすべて超越してしまっても仕方ないじゃんというわけだ。信仰の世界に論理的整合性を求める方がまちがっている。女人禁制の霊山もあるし、逆に男子禁制の聖地もある。それらの場所に性別を理由に立ち入りを断られたとしても、信仰の自由が保障されている限り文句をいうことはできない。信仰は論理を超越してるんだから、その場に直面した者の選択肢は信仰を受け入れるか立ち去るかしかない。

 ただし、この土俵を聖地とする宗教性については大きな矛盾をはらんでいる。もし土俵は聖地で相撲は宗教儀式だというのなら、大阪府のような公共団体から表彰も金一封も受け取るべきではない。ましてや日本国を代表する総理大臣から総理大臣賞を受け取ったり、大相撲が「国技」を名乗るなどもってのほかということになる。この社会は政教分離が原則なのである。わけのわからん信仰をかかえた宗教団体に、自分の払った税金から金一封が支払われるなんて認められるものではない。信者たちだけで勝手に運営していってくれということになる。それならば女人禁制にしようが羊を生け贄にささげようが傍からとやかく言われる筋合いはない。逆に、大相撲が「国技」を名乗り、国民の娯楽であろうとするならば、宗教性は排除していく必要がある。一方で国民の娯楽であろうとし、一方で宗教色を打ち出して女人禁制をもちだすなどムシが良すぎる話だ。というわけで論点はきわめて明快な問題に見えるんだけど、さてさて、生徒たちはどんな討論をするのやら。

 関係ないけど、新幹線の運転手居眠り、居眠りよりも居眠りしててもちゃんと止まってくれる新幹線のほうに驚く。きっと運転装置の中には小さい人たちがたくさん入ってるに違いない。などといいつつ我が身を振り返ると、バイクのことが気になって試験問題がぜんぜん手につかない。かなり危険な香り。2日続けて「おじゃる丸」を見そこねる。ああ時よ止まれ。

■ A piece of moment 3/2

 東大和のほうの試験が明日の朝だというのに試験問題がまだできない。危険な香りが濃厚にただよう。猛烈にヘッドスライディングの気配。といいつつだらだらラジオを聴きながら問題文を書いている。伊集院光の「日曜日の秘密基地」が最近のお気に入り。AM放送、案外面白いね。昨日の強風で屋根のアンテナが倒れる。テレビの映りが悪くて参った。アパートの屋根に登ると世界が見まわせて良い気分じゃなくて、8メートル下のアスファルトがやけに固く感じられて下をのぞくと手に汗にぎるのである。でも、電気屋に頼むと2万円コース。バイク買おうっていうのに参った。永六輔の人間講座を再放送で見る。けっこう面白い。

■ A piece of moment 3/5

 ヘッドスライディングを続ける日々が続く。どうにか今日の授業も無事終わって、半分居眠りしながら自宅に向けて自転車を漕いでいると、突然、アタマの中に「La vie en rose」のメロディが鳴り響く。いったいこの生活のどこがバラ色の人生なんだ。自分の無意識に皮肉をあびせられた気分である。家にグレイス・ジョーンズが歌ったバラ色の人生があったので引っぱり出して聴いていたら、そのまま寝てしまった。よだれを流し眠るバラ色の人生哉。

■ A piece of moment 3/7

 テレビアンテナが倒れたままで、地上波があいかわらずちゃんと映らない。特報首都圏のプチ整形レポートは資料用に録画したかったんだけど断念。ホームズの再放送とおじゃる丸の映りの悪さにストレスがたまる。今回の試験問題では、消費活動の変化をテーマに2問ほど出題した。以下、出題をとりやめた問題文。

 15年ぶりにオートバイが欲くなり、中古バイクの雑誌を買った。雑誌にずらっと並んだ中古バイクの写真を見ながら、おやっと思う。改造バイクが多いのだ。15年前、改造バイクというと暴走族かレース用というイメージで、市民権はほとんどなかった。ましてや、中古車市場に堂々と売り物として出まわることなどなかった。バイクは乗用車とくらべて趣味性の高い乗り物だ。また、乗ったときの感触は体格の影響を強く受け、ひとりひとり異なる。そのため、より自分にあったバイクにするにはある程度の改造は不可欠といえる。そういう意味では、改造バイクが受け入れられるようになったことは、この15年間でのオートバイ市場の成熟を意味している。つまり、メーカーのお仕着せをただありがたがって受け入れるのでなく、より個性的で自分にあったものにしたいというように消費者の意識の変化をあらわしている。それは趣味の世界ではきわめて当然の流れといえる。しかし、雑誌にならんだ改造バイクをよく見ると、どれもほとんど同じ改造がされていた。クラシックバイクの雰囲気を出すように、プラスチックパーツをクロームメッキの部品に取り替えるパターンで改造されている。改造は自分の好みに合わせるためでなく、流行に合わせるための約束事になっているようだ。そもそもよく考えてみれば、他人の好みで改造されたバイクがそのまま自分に合うはずがない。誰もが同じ改造をしているからこそ、改造車に値段がつき商品として成立する。一見、個性的であるようで画一的な現象であるのが改造バイクの流行のようだ。
 とまあいう文章なんだけど、長いのと文章で全部説明してしまっているので問題文として成立しないと判断し、断念。ちなみに上記の問題文の改造バイクは「ストリート・バイク」と呼ばれ、数年来のストリート・ファッションの流行と歩調を合わせて若い人を中心に定着してきたらしい。現在では中古車市場でもひとつのジャンルを成すほどの勢力になっているようだけど、バイク乗りたちの評価は2分されていて、ツーリングライダーや流行のファッションに疎そうなメカオタクは毛嫌いしているようだ。ま、カッコ重視で遠出するには向かないわな。で、代わりに出題したのは以下の文章。

 現在の日本社会では、様々な情報や商品があふれ、社会全体としては人々の好みは多様化しているといえる。高度経済成長期には社会全体に人並みでありたいという意識が強く、隣人がテレビを購入すれば我が家も、車を購入すれば我が家もという傾向が見られたが、現在では個性的なライフスタイルを求める傾向が強い。そのため書店には数多くの雑誌がおかれ、人々の好みに合わせて専門化された誌面づくりがおこなわれている。しかしその一方で、同じ価値観を共有する小集団内では、画一化がすすむ傾向にある。そのために小集団内では以前にまして人並みであろうとする傾向が見られる。これは情報化社会が高度に発達したために、インターネットやマスコミを媒体に価値の共有化がすすんでいるためといえる。この傾向は自分のライフスタイルが確立していない若者ほど強く、そのために商品コマーシャルの多くは若者向けのものが多い。現在の社会はこうした異なる価値観を持った小集団が無数につくられ、小集団同士は互いにすれ違いながら好みや考え方の分断を形成している。
 我ながらつまらない文章。いったいどこの役人が書いたのって感じで、文章としては前者のほうが具体的でずっといい。問題文の難しいところっていうか、あ、要するに俺の文章力のなさです、はい。すいません生徒諸君ってところであります。

■ A piece of moment 3/10

 いまから10年以上前のまだ消費税が3%だったころ。当時、エプソン製の98互換機を使っていたのだが、コーヒーカップをキーボードの上に落としてしまい、「P」のキートップが折れてしまった。まあキーの交換なんて古いのを引っこ抜いて新しいのに差し替えるだけなので、ひとまず新しい部品を手に入れようとエプソンのサービスセンターに電話をかける。すると、ともかくこちらへキーボードを持ってきてくれという。キーボードをかかえてバイクに乗り、調布のサービスセンターへたどりつくと建物はぴかぴかで、中へはいるとこぎれいな制服を着た受付嬢が「どういたしましたか?」とニッコリ微笑みかけてくる。猛烈に嫌ぁ〜な予感がよぎる。受付のおねえさんに事情を話すが、案の定、おねえさんはパソコンのことを何にも知らず、「いま修理の者が出払ってまして」とくり返すばかりで、まったく話が通じない。あんた何のためにサービスセンターなんかにいるんだよとおねえさんに毒づきたくなる気持ちをおさえつつ30分近く待たされ、ようやく修理担当者が登場した。事情を説明し、「P」のキートップをひとつわけてほしいと頼む。すると修理担当者はパーツの販売はしていないので修理としてあずかることになるとくり返しはじめた。キートップなんて引っこ抜いて差し替えるだけなんだからあずかるも何もこの場でできるはずだと主張しても、修理はあずかりが原則で部品の販売はしていないと杓子定規なことをくり返すばかりで取りつく縞もない。役所の納税科職員と話をしているみたいだ。結局、根負けしてあずけることになった。所要時間は待たされた30分もふくめてのべ1時間半。キートップの差し替えなんて15分もあればできるはずなのになんたる無意味さ。1週間後、修理が完了しましたという電話が入る。キートップの差し替えごときで何が完了だよと思いつつ、修理費用を尋ねると7251円だという。愕然とした。サービスセンターで明細をもらうと、基本料金3000円、技術料4000円、部品代40円と記してある。まるでぼったくりバーで柿の種をひとつまみ食べて万札ふんだくられたような猛烈に情けない気分。基本料金っていったい何なんだと受付嬢に詰め寄ると、修理をお預かりしたお客様からはすべていただくことになっておりますと再びさっぱり意味不明なお答えで従業員はみなカフカの城から派遣されてきているらしい。ともかく、この7251円がただにっこり笑うだけが取り柄の受付嬢とキートップを引っこ抜いて差し替えるだけの行為を「修理」と表現するサービスマンの給料になり、さらには顔が映るほどぴかぴかの自動ドアになり、大量の書類とこぎれいな制服になるわけである。

 キーボードを受け取りにいった同じ日に、近所のバイク屋でリアブレーキを交換してもらった。こちらはあらかじめブレーキシューを取り寄せてもらっていたのでその場で直してくれた。バイク屋の兄ちゃんは手を真っ黒にしてポンコツバイクの錆び付いたリアホイールと格闘し、こちらの修理代金は部品代込みで5400円だった。世の中いったいどうなっているんだろう。この日以来、私は大きな企業のやることは信用しないことにしている。パソコンはメーカー製を買わなくなり、秋葉原で部品を買ってきて自分で組み立てることにした。現在のは自作4台目になる。あれから10年以上たったが、エプソンは依然として巨大企業で、あのバイク屋はあいかわらず小さな店で少しくたびれた兄ちゃんが油まみれになってバイクと格闘している。この日の出来事を思い出すたびに日本経済はなにか根本的に何か間違っているように思えてくる。テレビをつけると毎日のように構造不況だとくり返しているが、あんなこすっからい商売をして儲かっていたほうがどうかしてるんじゃないのアンタさあ。そんなことをこの「バイク屋日記」を読みながら思い出した。ものはものにしてものにあらず。DIYの精神とものへの愛情のある良い文章だった。
 → オートボーイRC「バイク屋日記」

■ A piece of moment 3/20

 明るい日ざしに冷たい風。春である。
 今日、ようやく1年間の授業がすべて終了した。
 仕事中心でまわった1年間から解放されてほっとした気持ちが半分、すこしさみしい気持ちが半分というところ。授業数が多かったためにこの1年間は完全に自転車操業状態で、とにかく明日の授業の準備をし目の前の授業をやりとげるという感じ。ゴールの見えないマラソンを1年間にわたって続けてきた気分だ。授業は自分なりに工夫したつもりだが、やり残したことも多い。とりわけ生徒が書いたレポートを文集にまとめることもなく、ただ書かせっぱなしにしてしまったのは悔いが残るところ。けっこう良いこと言ってるのも多かっただけに、残念。ともかくこの授業を受けた者のなかに、授業を通じて自分の視野が広がったと感じてくれる者がわずかでもいたら、それで良しとしよう。

 今日、戦争が始まった。
 この1年間ですっかりブッシュというと悪役のイメージができあがった感がある。傲慢で独善的で単細胞。「お前まるでブッシュだな〜」と言われたら、間違いなく悪口を言われていると受けとめるべきだろう。気をつけよう。日本政府は全面的にアメリカ支持だそうで、攻撃が決まった途端、コイズミさんは急に勇ましい演説をまくしはじめた。ただ言葉の中身はあいかわらず空疎で、芝居がかった勇ましさばかりが目につく。国民をなめているとしか思えない。政策を決めている官僚たちにとって世論の支持があろうとなかろうとどうでもいいわけだから、そりゃ国民をなめるわ。政策決定にあたって国民に説明する必要もないし、議会で議論する必要もない。決定したことを一方的に通達すればいいわけで、芝居がかったパフォーマンスはこの状況にぴったりである。日本の民主制が機能していない典型的なケースといえる。ともかく日本政府にとってアメリカとの軍事同盟は、国連よりもさらには憲法よりも優先されると考えていることだけはよく伝わってくる。

 さあ我が家は大掃除をして倒れたアンテナを立て直してバイクを買おう。バイクはこの1年よく働いた自分へのご褒美である。

■ A piece of moment 3/24

 ようやくバイク購入。ピカピカのヤマハTT250R Raid。納車は4月の第1週の予定。待ち遠しい。なんて、まるで高校生みたいなメンタリティである。玄関を開けると向かいの庭木の沈丁花から良い香りがしてくる。団地のこぶしも満開。めっきり春めいてきた。遠出でもしたい気分である。

■ A piece of moment 3/30

 倒れたテレビアンテナを立て直す。ホームセンターで7mの2連梯子をレンタルしてのDIY。近所に高い建物がないために2階建ての屋根の上はやけに見晴らしがよい。見慣れた近所の景色も視点が変わって新鮮に映る。よく晴れた日なら新宿の高層ビルまで見えそうだった。そんなせいせいとした気分と恐怖感を味わいつつ、アンテナを立て直し、ワイヤーを張り巡らせる。古いアンテナがマストに錆び付いていて、取り外すのに難航する。CRC556を持って上れば良かった。今回はVHFアンテナを10素子ゴースト対策用のものに交換、ワイヤーもステンレス製の丈夫なものに取り替えた。マストと屋根馬もかなり錆びていたので交換したかったが、面倒なので断念。屋根の上での作業時間は約3時間。ゆらゆらゆれる梯子の上段に足をかけた時とワイヤー取り付けのために屋根の端に身を乗り出した時は足がすくんだ。毎度のことながら2度とやりたくないと思いつつ、アンテナ修復は今回で3度目になる。だいたい4年に1回の間隔で倒れていることになる。今回はワイヤーを7本も張り巡らせたので、当分保つはずである。というかもう倒れないで。出費はアンテナ6800円、ワイヤー1580円×2、梯子レンタル1000円、合計10960円プラス消費税だった。

 肝心のテレビの映りのほうはNHK総合にわずかなゴーストが出る程度でほぼ完璧。アンテナを新しくして正解。俺様天才。しばらくはアンテナが倒れていないかどきどきする日々になりそうである。

■ A piece of moment 4/11

 マンガ「うしおととら」を読んでいる。話の展開の遅さにかなりいらだっている。やたらとくり返される回想シーンとあいだあいだにはさまれる本筋と関係ないエピソードでちっとも話が前へ進まない。回想シーンがどれもこれもコピーの切り張りっていうのはあんまりじゃないか。はじめに古本屋で5冊買った。2巻分が1冊にまとめられたワイド版という体裁で、10巻くらいで完結するかと思っていたらとんでもなかった。とりあえず9巻までを古本屋で購入。まだ終わらない。10巻以降はどこの古本屋にも置いていなくてどうしようか迷っていたけど、もうここまでつきあったら最後までと本屋にあった残りを全部買ってきた。だらだらつづくマンガに1万円近い出費で、半ばやけくそである。で、ようやくエンディングを拝めるかと思ったら、16巻のラスト……!?!?まだ終わらない。くおぉぉぉぉ、もう泣きそうである。

 いちおう物語を説明すると、主人公の潮君は中学生。実家の寺のお堂である日、槍に串刺しにされた1匹の妖怪と出会う。妖怪はトラに似た姿で、空を飛び人間の言葉を話し雷をおこし非常に強い。槍は「けものの槍」と呼ばれるいわく付きのもので、この槍を手にし妖怪「とら」と出会った日から、潮君の妖怪退治の冒険がはじまる。潮ととらは度々対立しながらも力を合わせて困難を乗り越え、成長していく。とまあいう感じのかなり古典的な冒険活劇。物語の前半では、主人公の出自と槍との因縁、父親の所属する教団の正体、失踪中の母親の行方と次々と謎解きがなされて、この辺りはなかなか面白い。こうした謎は7巻目くらいでほぼ解き明かされる。それと同時に、主人公が倒すべき強大な敵が提示される。となったら、もう後はその強大な敵を倒す結末に向かって一気に物語は加速していかなければならない……はずなんだけれど、そこからなぜか話は前に進まずに停滞していく。主人公が結末に向かって進むのを邪魔するように次々とどうでもいい困難が待ちかまえていて、その度にこちらはえんえんと主人公の潮君が「くそぉぉぉぉぉぉ」と絶叫しながら槍を振り回す場面にくり返しつきあわされることになる。もう勘弁してくれ。結末が見えているのに話が前へ進まない活劇なんて、まるでのびたラーメンである。主人公の一本気な性格もはじめは心地良いんだけど、こう話が長くなってくると単調さに拍車をかけている。1巻目と16巻目で主人公の言動にぜんぜん変化がないっていうのはどういうこっちゃ。17巻目で終わらなかったら俺もう暴れちゃうよ。長いマンガはもう懲り懲りである。

 昨日、確定申告を済ませた。3月をすぎると税務署はガラガラで面倒な手続きは全部税務署の人がやってくれた。ところで、黒木瞳がしたり顔で税金払えと言っているポスターは見る度に腹が立つ。なんで俺の税金で黒木瞳の出演料を払わなきゃならないんだ。あんなポスター見て税金払いたくなるバカなんているんだろうか。

■ A piece of moment 4/16

 朝、テレビをつけていると3チャンネルだったみたいで、幼児番組がはじまった。見るともなしに見ていると、突然、やけに幼児番組らしくない人相の悪いお姉さんが登場し、サンバパレードみたいな衣装でおもむろに「もりのくまさん」を歌い始めた。なにごとかと思ってよく見るとUAだった。歌のおねえさんとしてメイン出演で、本格的に取り組んでる様子ではあるんだけど、見れば見るほど違和感がある。テカテカに照明のあたったパステル調のスタジオで童謡を歌うUAはテレビカメラの前でまるでさらし者になっているみたいで、あの人はテレビカメラに向かって歌ってはいけない人ではないかと思う。最近のNHKは自らが作り上げた幼児番組の古典的で丸く収まった調子を壊したいみたいで、よく小劇場出身の役者やライブハウス出身の芸人を出演させているけど、UAの場合はテレビに出てくるだけで違和感がある。なんだか奇妙な実験番組を見せられたような気分になった。この分だと、そのうち山田詠美が絵本の朗読でもはじめるんじゃないだろうか。そういえば、以前、中学校で教えていたときに、全国弁論大会だかなんだかのポスターに茶髪のJリーガーが起用されていて、それを見た年輩の女性教師が不満げに「こういうのは貴乃花とかにやってほしわ」とつぶやいていたのを思い出した。貴乃花ってセンスに爆笑してしまったが、よく考えてみれば今どきあちこちで文化のねじれ現象がおきているわけで、スタンダードな方がかえってとんがったスタイルのような気もする。ちなみにUAの歌のおねえさんは →こちら

 ようやく今年度の授業が始まる。今年は横田基地の近くにある都立高校で政治経済を担当。授業数も少ないので、今年は本当にバイクでも乗り回して遊んで暮らす1年になりそうな気配。この仕事、なかなかちょうど良い仕事量にはなってくれない。でも、バイク、かわいいから良いのである。もう乗り物というより大型犬がわが家にやってきたような気分で、ちょっとそこのタクシーうちのポチに幅寄せするなんて百年早いざますって感じなのだ。

■ A piece of moment 4/18

 陸の孤島のようなわが家の周りには安くてまずい店と高くてまずい店の2種類しかなくてサンクスのコンビニ弁当こそ最高のご馳走である。ところがここ数年、なぜか近所の新小金井街道がにわかにラーメン街道と化している。10年ちょっと前に青梅街道まで開通したときに数店が出店したんだけど、やけにしつこくて臭みの強いとんこつの店だったり気の抜けたようなスープのしょうゆの店だったりしていまひとつだった。にもかかわらずその後、前を通る度にラーメン屋が増えていって、現在では約20店舗が200mの通りに軒を連ねている。なんだかカタクリやドクダミの群生地みたいで、ラーメン専門店というのは地下茎で増えるのかもしれない。で、その中にいつも行列ができている店があって、どんなラーメンを出すのか気にはなるけどあの行列にならぶのはちょっと勘弁という感じで、前を通るたびに行列を横目で見ていたんだけど、今日はちょうど開店の時刻だったようで行列もなく、入ってみることにした。

 店の名前は「ラーメン二郎」という。ラーメンに積極的な関心のない俺でも聞いたことのある名前なので、有名店ののれん分けなんだろう。店はかなり狭くカウンターだけ。もくもくとラーメンをゆで続けるオヤジさんと野菜を炒めたりどんぶりを運んだりとちゃかちゃか動き回るおかみさんのふたりでやっている。客はみなラーメン道初段二段みたいなうるさそうな面々で、互いにお主できるな的空気がみなぎっていてなにやら鬱陶しい。俺、こういう雰囲気嫌いなんだよ。ともかく腹も減っていたのでラーメン大盛り・チャーシュー増を注文する。700円。待つこと10数分、ラーメン登場。ぬおぉぉぉものすごい量。大量の炒めたキャベツがどんぶりの縁から20cmくらい積み上がっている。大量の麺に大量のチャーシューに大量の野菜。味以前の部分で良心的である。チャーシューだけでもスーパーであれだけ買ったら500円くらいしそうだ。で、食す。スープはかなりこってり系。しょうゆベースに豚油……だと思うけど何が入っているかよくわからないくらいこってりした味。万人に受ける味というよりも好みのはっきりわかれる個性的なスープだ。個人的には気に入ったけど、ただかなり塩っ辛い。濃いスープで大量の麺と具をたいらげるラーメンらしい。麺がまた変わっていて、以前テレビで見た中国の麺みたいに平打ちでものすごく太い。色は茶褐色をしている。けっこう待たされたのはこの太麺を茹でていたからだったようだ。たしかにこの濃いスープにはこういう極太の歯ごたえのある麺でないとバランスがとれない。ただ、量が多すぎて、大食いの俺でも半分くらいで飽きてしまった。どうにかこうにか全部腹に収めたが、帰りの道ではかなりしんどい思いをした。食べて8時間経過したいまだに腹が張っている。運動部の学生向けという感じの味と量だった。

 とまあいうわけで、並ばないで食べれるなら時々寄りたい店である。なんせ近所だし。ただし盛りは小盛りでもふつうの店の大盛りくらいあるので注意。店内には有名ラーメン店特有の緊迫感があるので残すのはけっこう勇気がいる。ちなみに平日の開店は夕方6時なので、並ばずに食べたければこの時間をねらうと良い。2日分のカロリーと塩分を摂取することができます。以上、新小金井街道からラーメンレポートでしたっ。

■ A piece of moment 4/24

 先日の「クローズアップ現代」で、国分寺高校ではじまった予備校講師を招いての受験指導が紹介されていた。進学指導に力を入れるという学校の特色を出すため、土曜日に予備校講師による受験講座を行うのだという。いきなりはじまった予備校講師の受験講座に教師たちは動揺、予備校講師に対抗して受験指導に力を入れる者、受験用の知識ではなく考える楽しさにこだわる者、その混乱の様子を番組は伝えていく。やがて、一部の教師が予備校講師に対抗して独自に受験講座を土曜に開設、生徒たちに「さあどっちか選べ」とやりだしたのであった。生徒にとってはずいぶん迷惑な話である。で、どうなったかというと、ほとんどの生徒たちはどちらも選ばずに、自分で予備校を探して自分に必要な講座へ通うことにしたのだった。ははは、生徒たちの方がよっぽど冷静じゃん。俺だって受験生だったらやっぱりそうするよ。大学受験は高校のためのイベントではなく、生徒が自分の進路を決めるためのきわめて私的な活動なんだから。

 そもそも受験を中心に学校が回っていること自体、いびつな話である。学ぶことや考えることの楽しさを伝えようとせず、その知識が社会の中でどのように機能しているのかをふまえて授業が行われなければ、それは「高校」とはいえないんじゃないの。受験予備校は入試の点数を上げるためだけ存在する。それは自動車教習所と同じようなもので、それ以上でもそれ以下でもない。だからこそ、受験対策では予備校のほうがずっとノウハウを持っている。予備校講師が受験講座が上手なのは、自動車教習所の指導員が運転がうまいのと一緒である。高校がそれと同じ土俵に立って、受験指導を予備校と競い合うというのは、日本の学校から学歴の効果を取り除いたら中身は空っぽだと学校自ら認めているようなものである。

 高校が表立って受験指導に力を入れていることをアピールするというのは、きわめて大きな問題をはらんでいる。すなわち、日本では学校教育が視野を広げ心を豊かにするために存在するのではなく、受験競争に勝ち抜いて学歴と高い収入を得るための手段として存在するという問題である。受験競争を若者たちにたきつけることだけが唯一の学ぶ原動力になってしまい、学ぶ楽しさや自ら考えてなにかを発見する面白さは後回しにされる。それこそがこの問題の根底にある。しかし、番組ではその点には一切触れず、受験指導で高校の教師が予備校講師に太刀打ちできるのかという文脈でレポートされていく。はっきり言ってそんなことはどうでもいい。むしろ問題なのは、いまの中学も高校も学ぶ楽しさを体験する場になっておらず、教師にそのノウハウがないことのほうである。

 東京都が打ち出した進学重点指導というのは、高校なんて中身が空っぽでかまわないという開き直りの表明といえる。学歴という資格の効用を取り除いたらそこには何もないと。これほど大きな問題を投げかけているのに、番組では一切その点については触れない。見ていて終始もどかしさがつのるレポートだった。番組制作者たちは学歴の効用を最大限活用している受験競争の勝者ばかりなんだろうか。でも、大学受験のためだけなら、そもそも高校なんて行く必要ないんじゃないの。大検受けて予備校に通ったほうが時間もお金もずっと節約できるよ。

■ A piece of moment 4/25

 先月から今月にかけて、古本屋に入るたびになぜか必ず有線でI WiSHの「明日への扉」がかかっていて、この手のオトメチック青春ソングは自分から最も縁遠いところにあるはずなんだけど、ほにょほにょした歌声をくり返し聞かされているうちにアタマの中に少女マンガ的花びらがひらひらと舞いはじめて、あ、もしかして俺ってこういうの好きだったのかも何で今まで気づかなかったんだろうああムネがくるしいと古本屋で「リボン」を買って帰りそうになるのであった。「リボン」を手に取ったあたりで自分が恐くなって我に返るんだけど、曲がサビにさしかかって♪気がついたら〜♪心の中〜やさしい風が吹いて〜♪明日への扉〜そぉっと開く〜♪なんてほにょほにょした声がアタマに響くと懺悔の念でいっぱいになり、キカイダーみたいにのたうちまわるのであった。ワタシが悪かったプロフェッサー・ギル。これはまるでいらいらして真っ暗けだった自分の若い頃を埋め合わせするために、ああいう少女マンガチックなほにょほにょした世界の住人になりたいっていう願望があるみたいで、こういうのを心理学用語で代償行為って言うんだろうか。人生、落とし穴に落ち込むのはこのパターンが多いので要注意なのである。なんちゃって。ま、なんにせよ春は入学・卒業シーズンでこの手の歌が似合う。町ゆく人もあたたかくなって心なしかそわそわしているように見えるのであった。なんて今回はまるで電ボのひとりごとみたいな近況報告でした。 → ちなみにこんな歌。

■ A piece of moment 5/2  アトムもしくはおじさんたちのバービー人形

 今年は鉄腕アトムが生まれた年だそうで、あちらこちらで人型ロボットの研究が紹介されている。まあロボットの有用性はわかる。でもさ、なんでわざわざ人間の形にするの。わざわざ2本足で歩かせなきゃならない理由ってなんなの。Webでもテレビでも人型ロボットはここまで来たってビバテクノロジーな論調ばかりだけど、なんのための研究なのかはさっぱり見えてこない。研究のための研究というか、とにかくつくりたいんだから目的なんかなんでも良いという感じ。ロボット研究者のおじさんたちはこぞってアトムファンで、オタクによるオタクのための研究という印象を受ける。どこぞの大学の先生は「アトムがつくりたいんですっ!」なんて目をきらきらさせて言っちゃったりして、正直っていえば正直だけど、でもアトムつくってどうするんだろう。片やロボットフェアーに出品された1台はパトレイバーそのまんまの形をしているし、40代以上の研究者はアトムで30代以下はガンダムとパトレイバーって感じで、研究者のメンタリティはロボットプラモに夢中になっている子供と同じレベルに見える。まあそのこと自体は人畜無害なのでべつにかまわない。でも、国をあげて研究費をつぎ込んで産業として推進させようという思惑があったり、商品市場開拓をあてこんでのメーカーの皮算用がちらついたりしているだけに、研究者たちの視野の狭さとそこで動くお金の大きさのギャップが気になる。近い将来、宇宙産業みたいな税金のブラックホールになりそうな予感がして不気味だ。

 手塚治虫は「アトム」のなかで、異なる文化や価値観をもつ者が出会ったときに生じる摩擦と融和を描こうとした。だから悲劇的な物語も少なくないし、アトム自身の生い立ちからして影を帯びている。あの物語の中でのロボットの存在は、異質な背景をもつ他者の象徴といえる。しかし、こちらのほうはアトムが描かれてから50年たった今でも社会はいっこうに前進していないわけで、あいかわらず中国人が増えると日本があぶない式の論調が幅をきかせている。アトムが好きっていう人たちは大勢いるけど、あの物語から高性能ロボットが大活躍するっていう文脈以外なにも読みとっていないんだろうか。それにしてもメディアはクローン人間というと「生命倫理」を持ち出してやたらと批判的になるのに、人型ロボットの話題になると一転してテクノロジーバンザイになるのは極端すぎるのではないか。研究者たちの意識はどちらも似たりよったりなのに。コメンテーターとして出演していた立花隆は予想どおりロボット大注目だそうで、ニタニタしながらこれはすごい技術なんだよと語る様子はいかがわしさ全開。どうもあのおじさん信用できん。

■ A piece of moment 5/10 じゃあ俺を飼ってみねえか?

 近所のスーパーで大量に食料を買い込む。半分くらいがそうめんだとかレトルトのパスタソースだとかといった保存食で、まるで自分ちでキャンプをしているようだとあらためて気づく。この分量だと半月分くらいの山ごもりという感じ。久しぶりに米も買う。約2年間、家で米を炊かなかった計算になる。なんやかやと忙しかったし米が食いたかったらコンビニ弁当も松屋の牛丼もあるしで何とかなるものだ。この間、テレビでどこぞの大学のセンセーが最近はお手軽な食事ばかりが氾濫していてけしからん無洗米などまったくもってけしからんと説教をたれていたが、どう見てもそのセンセー、自分で料理をしている様には見えなかった。自分でなんにもやらない奴に限ってえらそうなことを言う。料理をしない者ほど食い物にうるさいし、自分が戦場に行かない者ほど戦争をしたがるし、若い人と話をしたことのない者ほど「最近の若者は」なんて言い出す。というわけでもちろん無洗米を買う。とぎ汁も出なくて便利。今日はネギトロ丼にする予定である。幸福は身近なところにあるのだ。

 「セサミ・ストリート」にペットを飼いたいという小グマが登場。「う〜んどんなペットにしようかなあ〜」とつぶやくクマちゃんにオオカミが出くわし、おもむろにこう切り出す。「おう、お前、ペットを探してるんだってな。じゃあおれを飼ってみねえか」。なんかこの番組、ときどきすごく倒錯的な展開をする。「そんな乱暴なオオカミじゃなくて一緒に遊んだりボールを取ってきたりしてくれるペットが欲しいんだよ」というクマちゃんにオオカミは「なんだとてめえ!」と一方的に怒りだして鼻息でクマちゃんを吹き飛ばしてしまうのであった。ああ不条理。ペットを飼いたいという彼女には「じゃあ俺を飼ってみねえか」と切り出してみるときっと新しい未来がふたりに訪れるはずである。もちろん当サイトはその後の展開にはいっさい責任は負わないあしからず。

■ A piece of moment 5/11 自転車はもっとも知的な乗り物である

 夜中に起きだしバイクを走らせにいく。最近整備された東八道路と鎌倉街道は流れが速くて快適。ただ夜中だと50km制限のところをみなさん一発免停ペースでとばすのでちょっと恐い。多摩川土手にすわってたばこで一服し、甲州街道から新宿まで足をのばす。バイクだと新宿で一杯っていうわけにもいかないので、西口ロータリーからそのまま青梅街道へ出て家へ向かう。なんか甲州街道より青梅街道のほうがガラが悪いね。路駐多いし半キャップの原チャリも多いしやけにふらふらしてる下手なドライバーもいるしで明らかに雰囲気が違う。

 道々で何人かの自転車乗りを見かける。みな良く整備されたロードレーサーに乗っている。かっこいい。ヘルメットにレーシングパンツに点滅式の赤いライト装備というスタイルで、気合い入ってるなあという感じ。サンダル履きの原チャリ乗りとはえらい違いだ。自転車という乗り物はこの世の中でもっとも知的で美しい乗り物なのではないかと思う。なんたって自分のカラダと脚だけで走る。だから整備も入念にするし、むだなものはそぎ落とす。ロードレーサーの繊細で美しいスタイルとくらべると原付スクーターなんて走る産業廃棄物なんじゃないかっていうくらいブサイクに見える。自転車いいなあ。ただ、日本の道路事情と道路行政はまったく自転車を考慮してくれていないので、本気で走ろうとするとしんどそうだ。去年はよっちゃんにもらったおんぼろMTBを修理して片道10kmの自転車通勤を続けたけど、クルマの幅寄せやら右車線を逆走してくるママチャリやらで、たった10kmでもずいぶんいらいらさせられた。カラダには良いかもしれないけど精神衛生上きわめてよろしくない。自転車乗りに神経質でなんかカリカリした人が多いのはその辺に原因があるんじゃないかという気がする。というわけで今年はバイク乗りになることにしたのである。まあ排気ガスまき散らして走ってるわけでえらそうなことは言えないんだけど、マイカーにふんぞり返ってるドライバーたちに後ろ指をさされるおぼえはないのだ。

■ A piece of moment 5/13 念仏の鉄

 CSで放送されていた「新必殺仕置人」が最終回を迎える。いつになく悲劇的な結末で、主な登場人物はあらかた死んでしまう。このシリーズの中にずっと流れていた非情で刹那的なムードがそのままラストにも反映されている感じだった。このシリーズ、ストーリーはいまひとつひねりがなくてマンネリだけど登場する仕置き人たちのキャラクターが良い。山崎努演じる念仏の鉄と藤田まことの中村主水が二枚看板で、自分の欲求のままに突っ走ろうとする鉄とどこまでもしっぽを出そうとしない主水とのコントラストがキャラクターを際だたせていた。彼らは非情で残忍な殺し屋でありながら時に純情な面を見せる。でも純情さや正義感は口には出さない。むしろそういう自分の甘さを照れる。そのバランス感覚とベタベタしない関係が良い。自分たちが悪党だと自覚しているところも良い。だから相手を仕留めても手柄を吹聴したりもしないしはしゃいだりもしない。ケッて感じで頭をかきながらしょぼくれた顔で女郎屋へと流れていくのであった。大人だ。

■ A piece of moment 5/17 時の河をわたる舟に

 薬師丸ひろ子がやけにはかなげな声で歌った「Wの悲劇」の主題歌が聴きたくなって、amazon.comでCDを購入する。本当はネット通販じゃなくて直接手にとって買いたかったんだけど、散歩がてらに数件まわったレコード屋にも中古レコード屋にも置いていない。別にコレクションの趣味はないしちょっと聴きたかっただけだからレンタルでもかまわなかったんだけどレンタル店にすら置いていない。レコード会社もこういう古いヒットソングは歴史的財産なんだからもっと大事にしなきゃダメだよ。コピープロテクトみたいなこすっからいことにばかり必死になってないでさ。でないと、レコード会社がいくら「著作権保護」なんてえらそうなことを言っても儲けるための口実としか聞こえないですぜ。アマゾンはなんでもそろっているし値引きもあるし送料無料だし注文してから2日後に来るしで案外便利だった。町のレコード屋が駆逐されているのがわかる気がした。ただ、どうせならアップルがアメリカではじめたみたいにデジタルデータだけを1曲100円くらいでダウンロードできるともっと便利なのに。たぶんそのうちそうなるんだろう。友人にこの話をするとじゃあ俺がカラオケで歌ってやろうかと言われる。遠慮すんなよっていやそういう問題じゃなくてタダで歌ってやるよってそういう問題でもなくて、アナタそれじゃ薬師丸ひろ子じゃなくてジャイアンだよたのむからやめて。

 でともかく購入したし聴いてみる。はかなげで寂しげな歌声でああワタシが悪かったプロフェッサー・ギルとふたたび悔恨の念にさいなまれつつ胸をかきむしる。この歌をカラオケで歌うことは全面的に禁止することにしよう。

■ A piece of moment 5/19 疾走ヤンキー魂。

 スクウェアー・エニックス・からヤンキーになるロールプレイングゲームが発売されることになったそうで、ゲーマーたちの間では話題になっているようななっていないような意図的に無視しているようなでもやっぱり気になるようなそんな感じである。
  → 疾走ヤンキー魂。

 内容はタイトルそのままで、ヤンキースに入団して3割30本を目指すゲームである。というのはもちろんウソで、特攻服でデコチャリを乗りまわしたりコンビニ前でうんこ座りしたりガンを飛ばしたりカツ上げしたりするわけで、それのどこが面白いんだときかれるとぜんぜん面白くないようなすばらしく面白いような感じなんだけど、これ、ネットワーク専用というのがミソで、ネットおたくたちがみんなで集まってヤンキーごっこをするわけである。ロールプレイングというよりもごっこ遊びそのまんまという印象。チャットにゲーム画面がついているソフトだと思えば、エバークエストみたいにみんなしてマホーやへんなカタナで怪獣をやっつけるゲームよりもひねりがあって面白いような気がする。ただ、ハードコアなゲーマーとしては3ヶ月たったらヤンキー学園を「卒業」してお終いっていうところがいかにもキワモノねらいな感じがして物足りない。どうせなら卒業後に上級クラスとして、鉄砲玉や若頭や出張ホテトル嬢やらシャコタンベンツ屋の店長やら街宣車の運転手やら竹内力や長渕剛や本宮ひろしや工藤静香が選べると一生楽しめるゲームになるはずなのに。俺、竹内力になってシャコタンベンツ屋を経営したい。おいこら店長ってよぶな社長とよべこちとら実業家よ。ところでこのゲーム、タイトルの末尾に「。」が入るのはヤンキーなセンスなんだろうか。なんだかモーニングむすめっ!みたい。

■ A piece of moment 5/24 いなげやのお総菜

 灯台もと暗し。いなげやの総菜がこんなに充実しているとは知らなかった。近所にあるというだけのただ大きいだけのスーパーで、大きいわりにめずらしい品揃えがあるわけでもないし、特別安いわけでもないという感じでワクワクとは無縁の場所だと思っていた。ところが試しに買ってみた自家製あんパンが予想外にうまい。パン屋のあんパンよりもうまい。翌日、カツ重弁当を買ってみるが、これも予想外にうまい。コンビニ弁当よりずっとうまい。で、あれこれ総菜を試しているところだけど、いまのところはずれがない。たまたま小平団地店に料理のセンスのいいスタッフが集まっているのかいなげや全体で教育が行き届いているのかはわからないが、どれもていねいにつくられている。というわけで12個入りぎょうざ360円を買ってビール飲んでるともう極楽気分である。ぎょうざは安売りになると280円なので今日は昼間から極楽。スーパーの総菜コーナーというのはどこもけっこう力を入れているようなので、あんがい穴場なのかもしれない。

 バイクいじり用に工具を購入。ブランドにはこだわらないので、つくりさえしっかりしていればなんでも良いんだけど、中国製の激安セット1980円とKTCのばら売りしかない。工具は完全に2極化している様子だった。激安セットはさすがに不安なのでしかたなくKTCを買うが、ラチェットハンドルだけで2740円もした。年に数回しか使わないのに分不相応な気がする。

■ A piece of moment 5/25 バイクはおとうさんのひそかな愉しみ

 バイクの走行距離が購入後1000kmに到達。ひと月半で1000kmだから出不精の私にしてはまあまあのペース。今度のバイクはいつになく手をかけている感じで、キャブレターを分解清掃したりヘッドライトを明るいのに取り替えたり点火プラグとコードを交換したりと暇を見つけては手を入れている。あ、これは正確な表現ではない。今年は基本的に毎日ヒマなので、天気さえ良ければいつでもバイクいじりをしているのである。やっぱり良い工具を買って大正解でした。カチッとした感触でこりゃ良いわ。中古車の場合は手を入れてやったぶんだけなにがしか改善されるのでいじり甲斐がある。というわけで近所のおばさんの冷ややかな視線がヒジョーに気になる日々なのであった。

 同じバイクに乗っている人たちが集まっている掲示板があったので、整備についての情報交換にまぜてもらうことにした。バイク乗りっていうとガラの悪そうなにいちゃんたちを連想するけど、そこに集っているメンバーはあらかた家族もちのおとうさんたちで、うちも奥さんの目がこわくってなんて会話が交わされている。どうもバイク乗りはおじさん化が急激に進んでいるようで、もはやバイクは若者のあこがれなんかじゃなくておとうさんの愉しみという時代になっているらしい。なかには学生時代から乗りたかったんですが40を目前にして一念発起で二輪の免許を取りましたなんていう人までいた。ドイツあたりだとクルマよりも二輪のユーザーのほうが年齢も収入も高いっていうデーターもあるらしいし、市民社会が成熟していくにつれてバイクみたいな趣味の乗り物はそういう方向へと向かって行くんだろう。自転車よりバイクがえらくてバイクよりもクルマがえらいっていう高度成長期的ヒエラルキーはもはや過去のものになりつつある。今どき運転手付きの高級車でふんぞり返ってるのなんて、ヤクザと土建屋と自民党の政治家くらいのもんだしね。ただ、この方向性は北欧型の平らな社会が実現してこそ意味があるわけで、バイクが趣味につぎ込むカネと時間のあるごく一部のエリート層のオモチャになってしまうとしたら残念だ。今度の夏は軽井沢の別荘でみたいなカーグラフィック的ムードがバイク乗りに幅をきかせるとしたら悪夢である。あの雑誌のクルマやバイクは知的で高級な趣味なんだと言わんばかりの気どった雰囲気はその自己肯定とエリート趣味が鼻について、けっきょく排気ガスまき散らして自己満足にひたってるだけじゃねえかという苛立ちを覚える。それならば近所のおばさんから眉をひそめらてるほうがまだましだ。バイクはちょっと後ろめたくてちょっと肩身の狭い、そんな身軽な暮らしの相棒である。それにしてもどうして若い人たちはバイクに乗らなくなったんだろう。楽しいのに。

■ A piece of moment 5/27 ぎょうざ20個300円

 閉店間際のいなげやへ行くと10個入りぎょうざが半額になっていたので、2パック買って帰る。ぎょうざ20個をウーロン茶を飲みながら一気に平らげ、なんだか大食い競争の気分。こりゃあ太るな。去年、生徒から「センセー、フードファイターやってない?」とからかわれたのを思い出す。すっかりいなげやの総菜売場が魅惑のワンダフルゾーンになりつつある。

 夜半に講師依頼の電話が来る。聞くと1ヶ月間の短期で週13時間だという。今年は短期の仕事はすべて断ることにしているので、少し考えたがやはり断ることにした。それにしても1学期も半ば過ぎたというのにこの時期になってあちらこちらから講師の依頼が舞い込んでくる。この手の話は1ヶ月間といってもそれで終わったためしがない。1ヶ月が1学期になり半年になり、こちらとしても年度の途中で生徒を放り出すわけにも行かないので結局まるまる1年間受け持たざるを得なくなる。でも契約はあくまで短期の契約なのでボーナスも出ない。ボーナスどころか夏休みの保障すらなく、風邪をひいて1日休んだだけで給料をひかれることになる。まるっきり日雇い人足である。いままでに何度もそういう目にあっているので、1ヶ月という話を真に受ける気にはならない。迂闊に引き受けて後々のっぴきならない状況に追い込まれている自分の姿が思い浮かんでどうしても慎重になる。この種の短期任用のケースは専任の教員が病気で休みを取った場合が多い。学期半ばでこれだけ講師の依頼があるということはそれだけ病んでいる教員が多いということだろう。でも、1ヶ月ずつずるずると1年間も休みを取るっていうのはいったいどういうこっちゃ。休むんなら1年まるまる休暇を取れよ。1ヶ月単位で休みを取って、新年度や夏休みといった授業のない時期だけ出勤していることにすればそのぶん給料が保障されるんだろうが、学期の途中で授業を放り出して生徒への責任感はないんだろうか。そういう前任者の尻拭いを非常勤講師がボーナスなし有給いっさいなしでやらされることになるわけだ。こちとらなまじ職業倫理があるだけに、いったん引き受けたらどんなに条件が悪くても途中で投げ出す気にもなれず、結局貧乏くじを引く羽目になる。キョートーとしては、どんなに条件が悪くても講師が引き受けてくれさえすればいいので、依頼の時だけは「ぜひセンセーのお力を貸してくださいっ!」なんて調子の良いことを言う。センセーのお力をなんてまるで用心棒の依頼じゃねえか。こんな時、キョートーが時代劇の口入れ屋に思えてくる。自分はさしずめ食い詰め者の貧乏浪人ってところだろう。青江又八郎はむむむと唸るのであった。相模屋、もう少しなんとかならんか。

 教員には権利意識の強い人が多い。それ自体は悪いことではないし、1ヶ月ずつ休みを取って給料が保障されるしくみについても批判する気はない。心の病をふくめて働けなくなったときの保障は大切だ。でも、教員以外の周囲の者に対して同じ職場で働く仲間と思っていないのか、無神経な人が多いのは困ったものである。非常勤講師に対してもしかり、用務や給食の人たちに対してもしかりだ。以前勤めていた学校で、職員室でお昼の給食を食べながら給食のおばさんの話になった。ひとりの教員が実にあっけらかんと「でもあの人たち、ぜんぶ民間にまかせれば1/3の予算ですむのよねえ」と言いだした。唖然とした。学校なんて給食1番、授業は2番だっていうのになんたることだ。どうやら学校は教員だけで成り立っていると思っているらしい。そんなに予算が気になるのなら教員も民間に委託してしまえばいい。教員をすべてクビにして塾や予備校から学校へ講師を派遣してもらえば、ずっと少ない予算ですむ。そうなったらあの人たちは猛然と反対するんだろうが、他者に同じことを求める人に同情する気にはなれない。また、ある学校では生徒による教員の評価があった。それ自体は良いことだ。教える側も評価されるべきである。ただ、講師には事前の相談も事後の通知も一切なく、生徒から「センセーの評価、ハナマルにしといたよ」と言われてなんだそりゃとなった。もし同じことを校長と教頭が職員会議で相談せずに一方的に実施したとしたら大騒動になったはずだ。にもかかわらず、立場が逆になり、自分たちが他者に同じことをしてもその自覚を持たない。その評価結果は学年主任からも教務主任からも最後まで見せてもらうことはなかった。自分だけ安全な場所に身を置いて、そのしわ寄せを不安定な立場にある者たちに押しつけ平然としていられるメンタリティは卑劣である。

■ A piece of moment 6/3 睡眠時間14時間

 寒くもなく暑くもなく寝るのに良い日和である。毎日平均14時間くらい寝ている。だらしない暮らしの典型みたいだけど、生物的には飯を食っているとき以外は眠っている方が合理的なわけで、眠っている状態こそ生物本来の姿ではないかという気がする。明日のために眠っておくのではなく、安らかに眠るために我々は生きているのである。安らかに眠るために飯を食い、体を動かし、働き、家賃を払っている。睡眠時間を減らして1日をもっと有効に活用しようという発想は近代社会特有のもので、他の社会では誰もそんなしんどい生活が有意義だとは思わない。安らかな眠りこそもっとも有意義な時間なのに、それを減らそうとするのは本末転倒に見える。少なくとも眠っているときに悪いことはできないわけで、悪人も善人も関係なくみな人畜無害な存在になれる。せっせと活動的に過ごす時間こそ有意義だとする近代人の意識は、自分のやっていることは良いことなんだという意識に由来する。傲慢である。私もあなたもやっていることはたいていろくでもないことなんだから、もっと謙虚になりましょう。ナポレオンが3時間睡眠でヨーロッパ征服に精を出そうが、あなたが毎日18時間働こうが、ありがたくもなんともないのである。睡眠時間は個人差が大きく、アインシュタインは毎日10時間以上眠っていたそうで、それに影響されたのかノーベル賞の小柴さんも10時間睡眠らしい。一方、エジソンは4時間しか眠らなかったそうで、「長く眠るのは知恵がない証拠」と言い、社員たちにも4時間睡眠で働くように要求したそうである。迷惑な話である。あなただってそんな上司は嫌でしょ。エジソンは社員の睡眠時間を減らすだけではあきたらず、人類すべての睡眠時間を減らすために電球を発明して静かな夜を奪ったのであった。悪い奴である。きっと時間貯蓄銀行に定期預金口座を持っていたに違いない。というわけで良い布団が欲しい今日この頃なのであった。

 夜、閉店間際のいなげやへ寄るが、ぎょうざはすでに売り切れていた。残念。総菜には8時すぎに半額マークのシールが貼られるんだけど、みなさんそれを狙っているようで、半額になった途端に総菜売場では奪いあい状態になるのであった。ちょっと圧倒された。トリ唐揚げとコロッケを買って帰る。トリを使った総菜はちょっとパサついた食感でいまひとつな気がする。

■ A piece of moment 6/12 睡眠時間14時間 その2

 寝てばかりいたら腰を痛めた。朝起きて、床に落ちてるゴミを拾おうとしたらクッときて、そのままその場で固まってしまった。それが先週の木曜日。寝返りをうつにもうめく有様で整体通いの日々が続いています。立ち上がるときと靴下をはくときが最も気を使う。歯を食いしばりながらそろりそろりと。

 昭和ヒトケタ村田父の思いで話・その1  子供の頃に良くやった遊び?ああクラスの中でふたり弱っちいやつをとっつかまえてくるんだ、で、みんなで取り囲んでふたりに殴りあいをやらせるんだ、どっちかが泣きだすまでな、それをみんなで見ながらどっちが先に泣きだすかを賭けるんだ、楽しかったぞ、昔の子供っていうのは元気がありあまってたんだな、ケンカしたって陽気でカラッとしてたもんだ、あっはははははははははははははは。くそおやじ、なに言ってやがる。

 昭和ヒトケタ村田父の思いで話・その2  うむほかによくやった遊びか、ああその辺にいるカエルをとっつかまえてくるんだ、で、口んなかに火のついた爆竹をつめて放り投げる、空中でポン!ってなぁ〜それがまたじつにいい音がするんだ、わははははは、なんたって昔の子供はやんちゃで活発だったからな、いまどきのもやしみたいな子供にはできん芸当だな、まったく最近の子供は覇気ってものがないからな、わははははははははははははは。まだ言うか、くそおやじ。

 というわけで、小生、「いまどきの子供は」式発言をする人間を信用しません。昔の子供は品行方正で純粋だったなんていうご老体は一度、よくよくその美化された思い出に正面から向き合ってみるべきである。

■ A piece of moment 6/13 賃金体系

 夕方、水道水の調査と健康のアドバイスを差し上げに参りましたという人物がやってくる。もったいぶった言いまわしだが、要するに浄水器のセールスである。まあ言われなくても見当がつく。うちみたいなボロアパートまで一軒一軒全部まわっているらしい。ヒマなのでつきあうことにする。セールスマン氏は、水道水のカルキの濃度を測りながら、マニュアルを読み上げているかのような一本調子の話し方で塩素剤が体に及ぼす影響を説明してくれた。説明を聞きながら、なんだか猛烈にせつない気分になった。なんでこの人はこんなくだらない仕事をやっているんだろう。浄水器が必要だと思ったら自分で買いに行くよ。ホームセンターに行けば、浄水器なんてピンからキリまでいくらでもそろっている。水道水のカルキ濃度なんて、情報のあふれている現在、説明してくれなくたって誰でも知っている。それを蒸し暑い中、セールスマン氏は額の汗を拭き拭きたどたどしい口調で塩素濃度がとかトリハロメタンがとか説明を続ける。売れてないんだろう、この人はどんな事情があってこんなくだらない仕事をしてるんだろう、この不景気で前の仕事をクビになったんだろうか、きっと営業会議で上司から嫌味を言われたりしてるんだろうな、なんてことを思いながら聞いていたら、セールスマン氏の顔を正視できなくなってしまった。さすがに浄水器を買ってしまうようなことはなかったが、ああいう人には幸せになってほしいものだ。皮肉ではなく本気でそう思う。

 単調で退屈な仕事や社会的地位が低く人からさげすまれたり軽く見られる仕事ほど、そこで働く人たちは高い収入と良い待遇が得られるべきなのだ。クリエイティブで自分の才能が発揮できてやりがいのある仕事、多くの人から尊敬されて社会的地位の高い仕事、それらはそれ自体で恵まれているのだから、収入や労働待遇なんか平均以下で十分ではないか。少しくらい収入や待遇が悪くたって、やりたいっていう人はいくらでもいるはずだ。ハリウッドスターやプロスポーツのスター選手、大物政治家あたりは最低賃金で十分である。むしろ、バキュームカーに乗ってうんこのくみ取り作業をしている人たちこそ知事や市長より高い給料と優雅な老後が保証されるべきである。野球場でスタンドのゴミ拾いをしている人たちこそイチローよりも高い給料をもらうべきである。映画会社の駐車場で守衛をしているおじさんや斬られ役専門の大部屋俳優はスターよりも高い給料と良い待遇を受けるべきである。工業用ロボットアームの取り扱い説明書にはノーベル賞受賞者の小説よりも高い原稿料が支払われるべきである。やりがいがあって社会的地位も高い仕事につきながら、なおかつそれが高い収入につながるっていうのでは虫が良すぎるようにみえる。創造性や社会的尊敬と高い収入とが比例するのが当然というのでは、世の中、あまりに救いがなさすぎるじゃないか。

■ A piece of moment 6/14 モリブデングリス風味

 ミニコンポのCDプレーヤが動かなくなる。3年前から動いたり動かなかったりが続いていたが、もうどうやっても機嫌を直してくれない。しかたないので、なかを開けてみる。

 ピックアップレンズを掃除し、CDユニットの可動部分に綿棒でシリコングリスを塗りつける。CDユニットを取り外した状態のまま、電源を入れ作動させてみる。トレイの開閉は正常。ピックアップユニットも上下にへこへこと作動する。ピックアップのLEDも光っているようだ。でも、ディスクが回転しない。本来、ここでディスクが1回転し、TOCという最内周にあるCD情報を読みとりに行くはずなんだけど、これが機能しないためにディスクが入っていることを認識してくれない。いままでの動いたり動かなかったりしていたときの症状から、いったんディスクが入っていることさえ認識すれば正常に作動するようだ。う〜む。考えられる原因としては、モーターのサーボ不調かピックアップのLEDが光量不足をおこしているかである。スピンドルモーター自体は、いったんCDを認識さえすれば正常に回転するので、壊れてはいないようだ。モーターのサーボとピックアップLEDの光量は、可変式の抵抗をいじることで調整できるはずだ。さあ可変抵抗はどこだ。格闘2時間、CDユニットをひっくり返したり分解したりしてみたが、けっきょくそれらしい部品は見つからなかった。くぅ〜完敗である。CDプレイヤーって壊れるものなのね。アンプとラジオチューナー部分はとくに不具合もないので買い換えるほどではないし、当分このままレシーバーとして使うことにする。

 バイクのシートがやけにズレるなあと思ったら、固定ボルトが2本とも抜けていた。なんてこったい。先日、プラグコードを交換したときに止め忘れていたらしい。ボルトはどこへ行っちゃったんだい。しかたないので、近所のホームセンターでそれらしいボルトを買ってきてはめ込む。そんな機械いじりの1日。なんだか気のせいか昼につくったそうめんはモリブデングリス風味がした。

■ A piece of moment 6/15 どうしてだまってるの?

 国家組織の描き方について、ハリウッド製のアクション映画と日本製の活劇アニメでは決定的に違う点がある。日本アニメの場合、国家や組織が巨大で分厚く、個人はそれにされるがままのひ弱な存在という対比が打ち出される。立場的に弱いというだけでなく、登場人物たちは理不尽な扱いを受けても正面切って異議申し立てせず、まるで実験動物のようにされるがままの状況を受け入れる。巨大組織や国家が個人をはるかに越えた存在という描写は、ラストに至るまでかわらず、見終わっての印象は巨大組織の不気味さと個人の無力さが残ることになる。ああ無情。「エヴァンゲリオン」の終始運命論的なムードや「甲殻機動隊」の悟ったような顔をして国家論をぶちあげる登場人物たちを見ると、もういらいらしてしまって、少しはしゃきっとしろよと登場人物たちにケツバット10発くらい入れてやりたくなる。ひきこもりの中学生じゃあるまいし、独り言じゃないと面と向かって文句も言えないなんてあまりにもお粗末だ。逆にハリウッド映画の場合、登場人物たちは相手が秘密組織だろうがFBIだろうが理不尽な扱いを受ければ猛然と食ってかかる。食ってかかるだけでなく、最後には状況をひっくり返して巨大な組織を転覆させてしまう。「ダイハード」のジョン・マクレーンも「リーサルウエポン」のリッグスもふてぶてしいほど手八兆口八丁で、孤軍奮闘の末に逆境をはねかえして、テロ組織もFBIもCIAもまんまと出し抜いてみせる。見終わってスカッとするがしばらくしてそんなバカなとアタマをかく。

 日米両国の国家観や社会感覚の違いがそういう差をもたらしているんだろうけど、政府組織の規模や能力ではアメリカのほうが圧倒的に巨大なわけで、日本製アニメがなぜそこまで国家組織を分厚い存在として描くのか不思議な感じがする。もしかして、アニメ関係者って超国家主義者の集まりなんだろうか。CS放送でやっていた「デビルマンレディ」を4回分まとめて見たが、登場人物たちはどうしてこんなことされて黙ってるのとイライラばかりがつのる。これはちょっと作品としてもひどすぎるのではないか。不愉快なもやもやが明日に残りそうなくらい釈然としない話の展開なのであった。秘密機関のエージェントがしたり顔で運命論を説くパターンはもう勘弁してくれ。

■ A piece of moment 6/19 クルマ昭和史

 古本屋で数冊の小説と一緒に徳大寺有恒の書いた「ぼくの日本自動車史」を買う。著者自身の個人史をからめての1950年代、60年代を中心にした自動車批評だった。90年代半ばの出版で、当時、日本の戦後史を回顧する本が数多く出版されたが、これもそうした一冊で、クルマを通じて見えてくる日本の戦後史というところ。彼は地方の資産家の長男として育ち、まだクルマの個人所有がほとんどない時代に高校生の頃から自動車通学をし、やがて嬉々としてお坊ちゃん大学へ入学を決める。そこには、閉店間際のいなげやで半額になったぎょうざを買って喜んでいる自分との接点はなにも見いだせない。彼が「我々庶民」なんて表現を使うのを見ると笑わせるぜって感じだし、いい年して一人称に「ぼく」をもちいる文体もスノッブな山の手文化が鼻について嫌味に感じる。ただ、彼の自動車批評の部分に関しては、クルマが好きな自分を突き放した視点から自覚している点が気に入っている。だから、クルマやクルマに乗ることを肯定するだけでなく、クルマにこだわっていることのバカらしさや大型車に乗ってふんぞり返っていることのみっともなさを自覚している。そこが良い。定期的に出版される「間違いだらけのクルマ選び」も時々読んでいる。多くの自動車評論家は走り屋かメカおたくかのどちらかなので、走行性能からのみの評価か機械構造的興味からの近視眼的評価に偏りがちなのだが、彼の批評はクルマが持つムードや設計思想にも踏み込んで論じる。そのため、クルマという商品を通じて社会批評や企業批評へと視野が広がっていく。クルマは機械ではあるが、工業用機械とは違ってスペック以上にムードや思想性が強い影響力を持つ社会的存在である。その点で服装を論じるのに似ている。そうしたモノをスペックやメカからだけで論じることはうわべしか見ていないように思える。ただ、モノについてのムードや思想を論じるのは、性能や機械的構造を論じるよりもずっと難しい。どうしても個人的な好みの部分が入ってしまうし、評論として成立させるためにはクルマ以外の見識や社会批評が必要になってくる。かなりの道楽者でないと高級車のムードの違いなんて見きわめられないし、同時にその社会的記号について合理的判断ができないと批評として成立しない。そこが彼の自動車批評の良いところだと思う。

 本の中では、高度成長期の日本車について「意あって力足りず」という表現がくり返し使われる。意欲と志はあるが技術力の足りなかった当時の自動車づくりをうまくあらわしている。同時に彼の当時のクルマへの愛情と現在のクルマづくりへのもどかしさが伝わってくる。NHKで働くおじさんの昭和史みたいな番組をやっているが、あの番組がメイドインジャパンをひたすらヨイショするだけなのにくらべると、愛情と批評が両立してずっと良かった。

 そういえば、バイクの分野では残念ながらそういう批評ができる人を見かけたことがない。バイクのほうがより趣味的な乗り物なんだから、ムードやモノとしての魅力を伝えることは重要なはずなんだけど、バイク雑誌を開くとゼロヨン何秒とかマフラーの改造といった即物的なことばかりが羅列されている。残りのページは宣伝ばかりだ。批評は存在しない。このあたり、バイクが若者のオモチャでしかなかった日本社会の状況をあらわしているんじゃないかと思う。

■ A piece of moment 6/20 オイル交換

 バイクのエンジンオイルを交換する。買ってからまだ1500kmしか走っていないんだけど、バイク屋がおまけで入れてくれたオイルなのでどうせ質のいいものではないだろうし、回転を上げるとエンジンがガーガーとがさつな感触がするので、交換することにした。せっかくなので、純正指定されているオイルにしてみる。ヤマハ・エフェローなんちゃら、インターネットのユーザー情報でも評者3人とも5ツ星をつけていて気になっていたのである。1リットル入り1680円を2缶使用。結構高い。エンジンオイルとしては特別高い値段ではないみたいだけど、いままで並行輸入の1クォート380円の激安バルボリンを溺愛していただけに、やたらと散財した気分。半化学合成で10W−40の設定のわりにやけにさらさらしている。ついでにオイルフィルターも交換しようと外してみたが、ほとんど汚れていなかったのでこちらは清掃だけしてそのままもとに戻した。オイルを換えて3時間ほど乗りまわしたところ、回転を上げてもがさつな音がしなくなり、するするとやけに気持ちよく回るようになった。オイルの宣伝文句にフリクション・ロスを抑えどうたらこうたらと効能が書いてあったが、きっとこの感触のことを指しているんだろう。オイルを変えてエンジンの感触が変わったなんていままで気づいたことなかったけど、今回はちょっと違いのわかる男なのであった。激安バルボリンとくらべて価格差分の価値があるかどうかはわからないけど。ただ、摩擦抵抗が少ないぶん粘度が柔らかめなので、真夏の炎天下で熱ダレしないか気がかりである。あ、でも、そもそも真夏の炎天下にバイクなんか乗りたくないのである。

 そんな梅雨の中休みの一日。炎天下のなか3時間もバイクに乗ったせいで、腕だけ日焼けしてひりひりするのであった。

■ A piece of moment 6/22 てこねずし

 桃太郎電鉄でおなじみ「てこねずし」。手でこねこねした寿司かあと姿を想像したり、そのビミョーなネーミングセンスに感心したりと、桃太郎電鉄をやる度に夢がふくらんでいたんだけど、このてこねずし、和歌山に実在することがわかった。きのう旅行雑誌をぱらぱら見ていたら写真が載っていた。毎日が発見である。一度食べてみたい。

 だんごだんごだんご、大きいお兄さんに小さいお兄さんにぼく、だんご三兄弟。といってもNHKのあれじゃなくて、ライブハウスでのパフォーマンス。三兄弟が仲良くほほ寄せて、三人のほっぺたを鉄ぐしがぐさあー。ぎょえええぇ。観客の女の子たちの絶叫が響きわたり劇場は阿鼻叫喚の地獄絵図と化すんだそうで、一度見てみた……くありません、へんなの誘わないで。

■ A piece of moment 6/26 ハイスクール・ウルフ

 毎日よく降りますなあ。バイクに乗れなくてくさってます。

 なぜかときどき見てしまうドラマ「ハイスクール・ウルフ」。3チャンで7時過ぎにやっているアメリカの高校生もので、やたらとちゃちいのがセールスポイント。主人公は高校生の男の子で、ハンサムで性格がよくて誰にでも優しくて親切でさわやかで運動神経抜群でフットボールチームの花形ランニングバック、で、なぜかときどきオオカミ男になってしまうというじつにつまらない設定なんだけど、周囲の登場人物たちがなんの必然性もないのになぜかみんなマニアである。主人公のお兄さんは猛烈なデブで、一日中テレビの前から一歩も動かずに、スナック菓子をぼりぼりかじりながらくだらないドラマや安っぽいバラエティを見ている。「なんだよ話しかけないでくれよ、いまギャラクシー星人のビキニフラッシュが炸裂するところなんだからさあ〜」ってな調子で毎回まともにコミュニケーションが成立しない。でも、人生を達観しているのか、妙に陽気でいじけたところがまったくなくてなんとなく憎めない。世の中にこんなに楽しそうにテレビを見ている人がいるんだろうかっていう感じである。で、もうひとり、主人公の親友のおじゃまむしキャラ。いつもおどおどした目つきをした典型的なおたくでオカルトマニア。家の物置を研究所にしていて毎回へんな発明をしたりへんな知識を仕込んできたりする。ただ根っからいい加減な性格でいつも肝心な場面になると逃げてしまう。このおたくの親友だけは主人公がオオカミ男になることを知っていて、毎回、ふたりで事件を解決したり怪物を退治したりするっていうドラマ。あんまりくだらないので番組もすぐ終了すると思っていたら、予想に反してけっこう続いていて、あ、まだやってるなんて調子でつい見てしまうのであった。 → NHK「ハイスクール・ウルフ」のサイト

■ A piece of moment 6/28 激安ライフ

 大型ドラッグストアで400g100円の激安そうめんを4kg購入。蒸し暑いとそうめんばっかりになるのでひと夏はもたないかな。ついでにとなりにあるユニクロに寄ると、去年のドライなんたらTシャツが380円になっていたのでまとめて5枚購入。すぐ乾くのでこれ便利。ぺらぺらの夏物Gパンも1000円引きになっていたので購入。着てるものも腹の中身も全身激安で大いに満足。デフレの悪口を言う人の理屈がいまだに理解できないのであった。政治・経済の授業でデフレが続くと経済規模が小さくなって倒産する企業がふえるなんてもっともらしいこと講義したりしたけど、日本経済は少しくらい貧乏になってちょうどいい。バブルよ再びで甘い汁を吸いたい銀行屋と株屋としては不満だろうが、拡大発展を続けないと破綻してしまう経済システムのほうがどうかしているのだ。

■ A piece of moment 6/29 平等と公平

 期末試験の問題を作成中である。平等と公平の違いについて一問出題しようと思って、インターネットで参考になるような資料がないかと検索したら、こんなコラムにたどり着いた。
 →「大村あつしの火曜はモーグでブランチを」 平等と公平と区別と差別
 ちょっとこれはひどい。ひどすぎる。まず、平等の基本的な理解からしてまちがっている。平等と公平は似ているようで性質が異なり、平等は不公平で、公平は不平等となる。そこまではいい。でも、この人、公平性のみが社会正義で、平等なんて必要ないという。スゲエ。公平が何をしたかに応じて見返りを受けることを意味し、平等は何をしたかに関係なくすべての者が等しい権利をもつことを意味する。公平の考え方はがんばって良いことをした人にご褒美を、悪いことをした人にペナルティをというはるか古代のハムラビ法典から綿々と続いてきた社会原理といえる。これがないと人間社会の規範は成り立たない。じゃあ平等はいらないのかというと、基本的人権の思想は平等の理念そのものといえる。すべての人間は等しく人間らしく生きる権利を有する。王様だろうがノーベル物理学賞受賞者だろうがマザー・テレサだろうが重度の知的障害者だろうが麻原彰晃だろうが関係なく、すべて等しい。誰もが見下されることなく尊厳をもって生きる権利がある。もちろんタテマエである。現実には有力政治家の権利は大きく、ホームレスの権利は限りなく小さい。知的障害者はしばしば見下される。じゃあこのタテマエはいらないのかというとそうではない。社会的地位による差別を廃し、個人が尊厳をもって生きていくためにきわめて重要な概念である。さもないと「予は貴族である、ゆえに支配す」の理屈がまかり通ってしまうことになる。だから選挙の投票権は政治学者だろうがテロリストだろうが関係なくみな1票だし、社会保障制度はほどこしではなく権利である。もし、平等の原則は必要ないと主張するなら、それは基本的人権などいらないといっているのと同じことを意味する。

 上記のコラムを書いた人はその商用サイトの社長のようだけど、ベンチャー企業を経営している若い実業家に意外とこういう考え方をする人が多い。若くて自分の才能を疑わず平らな人間関係が嫌いで弱肉強食の市場原理のみが正義だと思っているタイプ。SMプレイが趣味なのかもしれない。コラムでは公平な社会こそが理想的な社会とぶちあげた後に男女平等批判に話がうつる。男性と女性は異なる適性を持った別の生き物で性差による仕事の分業は合理的な発想で、男女平等など混浴の銭湯に入るのと同じだという。ひゃああぁぁ。ネットではこういうバカな文章をときどき見かけるけど、商用サイトに署名入りで書いてるおめでたい人にははじめて出会った。男女平等は混浴の銭湯ね。

 職業選択における性差の排除は、個人の資質や指向を尊重することを意味することに他ならない。男にも家事仕事が好きな者もいるし、女にも外へ出て働くことが好きな者もいる。また、私よりも腕力や体力がある女の人はいくらでもいる。そういう資質や指向の個人差を認めて、本人が望む生き方を性差というワクでじゃましないようにしようと言っているだけのことだ。それを男性と女性は異なる適性を持った別の生き物で男女の社会的分業は当然とする発想は、血液型で人間の特性や職業的適正を判断するのとまったく差がない。このバカらしさは先の文の言葉を入れ替えてみるとはっきりする。A型とB型とO型とでは異なる適正をもったまったく異なる生き物で、血液型による社会的分業は差別などではなくきわめて合理的な発想である、ほらね。キミはA型で几帳面だから経理、O型で楽天的なキミは営業ね、B型のキミは人事、あAB型の人は職場にそぐわないから家で家事仕事をするようにしてください、これは決して差別ではなく適正に応じた社会的分業なんですよ、なんて自分の意に反して血液型で仕事を押しつけられたらやってられないでしょ。さらにこれを人種や民族に置き換えるとナチスの発想ということになる。性差や人種による生物学的決定論も血液型占いも根拠などない。いずれももっともらしい顔つきで個人の尊厳と人間の多様性を踏みにじるものにすぎない。

 あんまりひどいので文句をいってやろうとメールの宛先を探したが載っていなかった。仕方ないので、掲示板に書き込んでおいたが、掲示板のほうは常連さんたちがお気に入りの漫画やソフトの話題で和気あいあいとやっていたりして、なんか自分が猛烈におじゃま虫になったような荒らしをしたような情けない気分。おかげで必要以上にバカ丁寧な文体になってしまった。商用サイトでああいうおめでたいコラムを書いているんだから、批判を受けるのは当然だと思うんだけど、ネットの掲示板って閉じた同人コミュニティばかりで嫌ねえ。

■ A piece of moment 7/2 親分子分

 自衛隊をイラクに送り込む法律が明日にも成立予定だそうで、この問題、授業で取り上げようかとも思ったけど、アメリカの思惑と政治の力関係がばかりがあまりにも露骨に見え隠れするために白けてしまってやめた。アメリカにいい顔をしておいたほうが得かどうかという下世話な思惑ばかりで、今後のイラクのために何をしたらいいのかという本質的問題はもうどうでもいい雰囲気。本音を言えばいいってもんじゃないのに。そんなわけで授業で取り上げてスジ論を議論するのもあほらしいという感じでとりやめ。

 要するにアメリカとしては従順な子分がほしい。フランスやドイツみたいにアメリカに逆らったりしない忠実な子分がほしい。たんにアメリカに従順なだけでなく、アメリカ軍と共同戦線を組んで、鬼退治に加勢してくれる子分がほしいわけである。で、日本政府としてはここで点数をかせいでおけば、親分の信頼も得られるし、ご褒美のきび団子としてイラク石油の利権を日本企業にも分けてくれるかもしれない。というわけで、日本政府としてはここはなんとしても自衛隊を送り込まねばならない。もうすでにアメリカ側からは自衛隊の輸送機を物資の運搬に使いたいという打診まで来ている。事態は急を要する。早急に自衛隊を送り込まねば親分の信頼は得られない。もちろん医療班や医薬品なんか送っても、イラク国民は大いに歓迎してくれるだろうが、アメリカはちっとも喜んでくれないのである。イラク国民などどうでもいいのである。この問題、本質であるイラク国民への援助という部分では軍隊を送り込む以外にもいくらでも役に立つ活動はあるし、憲法解釈でも国連PKOでもないのに自衛隊を紛争地域に送り込むのは憲法に抵触するはずなんだけど、そんな論理も本質も日本政府としてはどうでもいいと言わんばかりに損得勘定だけで話が進んでいる。石油利権のおこぼれにあずかって戦争特需で景気回復さえすればそれでいいと言わんばかりに、やけに露骨な感じがする。というわけで法案成立がほぼ確実になった今日、日本企業の株価は急上昇したのであった。さて、桃太郎と子分のキジは鬼ヶ島から宝の山を持って帰ることができるんでしょうか。

■ A piece of moment 7/3 便所でかくれたばこ

 ぎゃああああああ。来年度から都立高校が全面的に禁煙になってしまうそうだ。なんてこったい。俺にだまって勝手に決めちゃうなんてひどいじゃないか。NHKニュースに出てきた役人みたいな顔をした教師は、健康指導で生徒に手本を示さねばなりませんなんてインタビューに答えていたけど、こちとら生活面で生徒に手本を示すなんてまっぴらである。学校なんて授業だけちゃんとやってれば良いというのが持論の私としては、生活指導反対、心の教育大反対である。教師が便所で隠れてたばこを吸う時代がやってきてしまうんだろうか。で、生活指導の恐い人に叱られたり罰としてバケツを持って廊下に立たされたりムラタそこに正座して反省文を原稿用紙5枚なんてああもう悪夢である。

■ A piece of moment 7/29 エリック・ロメール20時間

 CS放送の映画チャンネルにやけにエリック・ロメールの放映率が高いところがある。このところ、いつチャンネルをあわせてもエリック・ロメールしかやっていないので、いよいよエリック・ロメール専門チャンネルになったのかと思ったら、特集プログラムを組んで一気に放映しているらしい。「緑の光線」や「友達の恋人」といった日本でもおなじみの作品はなく、初期の作品と最近の連作を中心に十数本のラインナップになっている。熱心なファンによる熱心なファンのためのプログラムという感じ。半分くらい見たが、どれも会話が実にいい。軽くてさりげない会話の中に登場人物たちがくりひろげるかけひきや自分にはコントロールできない情熱が織り込まれている。うまいなあ。見ていると映画は本来こういうものであるべきだという気がしてくる。会話のうまい映画というのはそれだけでいい映画である。海辺のリゾート地を舞台にそこで知り合った学生の男の子と女の子を描いた「夏物語」がとくによかった。

■ A piece of moment 7/31 釣った魚にエサはやらん

 去年から今年にかけて新宿駅の前を通る度に、白いハッピにADSLモデムの紙袋を下げたおねえさんたちが、ヤフーBBのキャンペーンやってまーすと声を張り上げていた。回線業者間の競争は激しい様子で、各社、加入者を増やすために工事費がタダになったり利用料金が半年くらい割引されたりと新規加入キャンペーンが行われている。まるで携帯電話みたいだ。でもさ、このキャンペーン、どれも新規加入者だけの割引サービスで、ずっと利用している者にはなんにも特典がない。キャンペーン期間を終えても使い続けてくれるユーザーこそが業者の利益を支えているはずなのに、そういうユーザーを大事にしないというのは各社視野が狭いというか目先の利益しか見ていない感じがする。釣った魚にエサはやらんというせこいやり方では、利用者の流動化に拍車をかけるだけで長期的なユーザーの獲得にはつながらないんじゃないの。

 というわけで、同じ業者を使い続けるのがアホらしい状況なので、2年間使ったEアクセスをやめて、フレッツに切り替えることにした。工事費タダで利用料金が半年間700円だそうだ。速度も8Mから24Mになるので、電話局から3kmのわが家でも多少は速くなるんじゃないかと思う。なんにせよ切り替えへのマイナスは何もない。このぶんだと割引期間が終わる半年後にはまた新規加入キャンペーンをやっている業者に乗り換えることを考えるのがかしこい気がする。キャンペーンの切れ目が縁の切れ目、せこいダンナにオンリーさんはつかないのである。あ、プロバイダーは相変わらずなので、このWebサイトもメールアドレスもそのままです。

■ A piece of moment 8/2 梅雨明け

 当方、精神年齢が幼いのかいまだに子供向けの科学絵本を愛読している。お気に入りは図解ものの虫の本と星の本と巨大建築物の本で、かたちあるものが好きな私としては物語絵本よりもだんぜん愛読している。とくに夏になるとなぜか猛然と読みたくなる。冷房のきいた図書館で寝そべって絵本を広げているともう極楽である。テレビの科学番組も夏になると見たくなるんだけど、今年はほとんど特集が組まれていないようで少々残念。火星大接近だそうだけど、天気も悪いのでぜんぜん見えない。7月以降、星を見ていないような気がする。プラネタリウムにでも行こうかと思うのであった。

 ラジオで小野リサがボサノバを歌っているのをバイクに乗りながら聴く。不思議なんだけど、ボサノバって、ブラジルの音楽なのにサンバと違って暑いところの音楽という感じがしない。ブラジルから出かせぎに来て自動車工場の組立工をしている人たちがボサノバを聴いている場面なんてまったく想像できない。むしろ、青山か代官山あたりのこじゃれたレストランでかかっている音楽という印象がある。これは自分だけの印象なのかと友達にそのことを言うと、えっボサノバってフランスの音楽じゃないのという反応が返ってきた。たしかにボサノバのささやくように歌うスタイルは、ブラジルの出かせぎ労働者よりも南仏あたりの金持ちたちが集まるリゾート地のほうが似合う気がする。ボサノバは1960年代にジョアン・ジルベルトっていうブラジルのミュージシャンが、ポルトガル語のポピュラーミュージックに革新的スタイルをもちこんで確立されたジャンルで、日本ではけっこう定着していると思うんだけど、ブラジルのほうではひとにぎりの音楽好きやインテリ層のための音楽という感じなのかもしれない。なんてことを小野リサのやけに品の良さそうな話しぶりを聞きながら思ったのであった。ラジオの小野リサも「バラ色の人生」をボサノバふうにアレンジしてフランス語で歌ったりして、こりゃフランスの音楽と勘違いされるのも仕方ないかなという気がした。ま、どうでもいいといえばどうでもいいんだけど、ちょっと気になるボサノバの認知度なのであった。

■ A piece of moment 8/3 ホームセンターとハワイアン

 ねじ釘とマスキングテープを買いに近所のホームセンターへ行く。冷房のよくきいた店内にはなぜかハワイアンが流れている。そう不思議なことに近所のホームセンターのBGMは夏になるとかならずハワイアンなのだ。それはもう原風景のようにすり込まれていて、ハワイアンを聴いて連想するのはハワイの波でもサーフィンでもなくて、980円のカラーボックスとビニールのすだれとパネルに入ったヒロ・ヤマガタの安っぽいポスターなのである。店内に流れるてん〜〜〜てん〜〜〜て〜〜〜〜ん〜〜〜というゆるゆるのハワイアンを聴いているとただでさえ少ない労働意欲が完全に消滅していまい、結局、暑い中バイクのボルトを交換するのはやっぱやめようという結論に達したのであった。ホームセンターのBGMがゆるゆるのハワイアンというのは近所のJマートだけでなく、日本全国的な現象なんだろうか。これもどうでもいいといえばどうでもいいんだけど、やっぱりちょっと気になるのであった。

■ A piece of moment 8/4 火星大接近

 猛烈な暑さを逃れて図書館で一日を過ごす。案外がきんちょは少なくてすいていた。子供たちは夏休みで田舎へ行ってるのかな。岩波から出ている「輪切り図鑑」を5時間かけて3冊読む。イギリス人が書いたユニークな図鑑で、帆船や中世の城を輪切りにして内部を詳細に解説している。外国の図鑑は、日本の客観的データーをならべただけのものと違って、著者の視点が色濃く出ていてユーモアある語り口なのが楽しい。たとえば「陸に上がった船乗りはすぐに見分けがついた。日に焼けた顔や入れ墨、船乗りしか使わない奇妙な言いまわし、何よりも彼らはたいてい酔っぱらっていたからだ」なんて調子で酒瓶片手に千鳥足の水兵のイラストが描いてあったりする。

 夜中、南東の空に火星が上っているのを見る。なるほど大接近のようで木星くらいの明るさで光っていた。

■ A piece of moment 8/5 だめんず・うぉ〜か〜

 本屋で小学4年生くらいの男の子が「だめんず・うぉ〜か〜」を立ち読みしているのを見かける。彼があの漫画から何を読み取ろうとしているのかはわからないが、かなり熱心に読みふけっている。思わず「面白い?」と話しかけたい衝動にかられた。家でつらいことでもあったんだろうか。

 夕方、雨に降られて帰宅。夏の雨は降られてもまあどうってことない。

■ A piece of moment 8/9 台風の日

 台風で身動きもとれず、家で映画を見てすごす。「ロスト・サン」、孤独な私立探偵が巻き込まれる大がかりな児童売買をめぐる組織犯罪。ダニエル・オートゥイユ演じる人生にくたびれた探偵は「ミッドナイトラン」のロバート・デニーロを連想する。出だしはなかなか良い感じ。事件は複雑に入り組んでいて、登場人物たちも主人公をはじめとしてみな過去を抱え心に傷を負っている……なんだけど、誰もかれも心に傷を負っているために個々の人物描写が掘り下げ不足で、結果的に全体が散漫になってしまっている。影のある人間を次々と出せば良いってもんじゃない。ストーリーも一見シリアスで複雑だけど、結局のところは主人公が孤軍奮闘の超人的活躍で悪者たちをひとりで全部やっつけてしまうのであった。なんじゃこりゃランボーかいな。映像と演出は悪くないと思うんだけど、シナリオがダメな典型的パターン。

 たいして重要でない役でナスターシャ・キンスキーが出演していた。なぜあの役がナスターシャ・キンスキーなのかさっぱりわからない。ひさしぶりに見る彼女は冷酷そうな嫌な顔になっていた。うまいものも食わずに鏡ばっかり見て暮らしているとあんなふうになるんじゃないだろうか。無表情で取り澄ました顔はまるでマネキンかアンドロイドみたいだ。役者は痩せてて顔が小さけりゃ良いってもんじゃない。競演の女優たちのほうが人間味があってよほど魅力的だった。スタッフロールにはダニエル・オートゥイユに次いで2番目に名前が出ていたが、なんだか過去のネームバリューだけで出ているような感じ。若いころ美人女優で売れてしまうとその後が大変なのかもしれない。

 夜、友人宅で「WASABI」。ひええぇまるで深夜にテレビ東京でやっている笑えないバラエティだ。なんでこんなの見せるんだよ、俺、何か恨まれるようなことしたんだろうかって感じのひどい映画。唯一の収穫はキャロル・ブーケがピーターにそっくりだとわかったこと。顔の各パーツがピーターそっくりだ。あ、ピーターに似てるんじゃなくて、ピーターがキャロル・ブーケに似せて直してるのか。とにかくここ何年かでワースト。

 さらに帰宅して「天使が見た夢」。エロディ・ブーシェ演じる主人公の女の子は貧乏旅行をしているバックパッカー。旅行者というよりも流れ者という感じで、その日ぐらしを送っているが、陽気で愛嬌があって妙にたくましい。でたらめに生きているようで人の気持ちに敏感な感受性を持っている。そんな彼女が勤めはじめた工場でマリーという情緒不安定気味の同僚と知り合う。ふたりは意気投合し、共同生活をはじめる。工場をクビになっても一緒に職探しをし、酒を飲み、町をぶらつく。そんなふたりの関係は、マリーがひとりの青年と知り合ったあたりから狂いはじめる。青年はハンサムでお金持ちだけど女を物のように扱う。慇懃だけど無礼に貧乏人を見下す。そんな青年のふるまいを主人公は冷ややかに見ているが、彼に夢中なマリーは青年の冷淡さがわからない。いや、わかっているのかもしれない。わかっていているからこそ未来のない恋愛にのめりこんでいく。だから彼を批判する主人公の言動がカンに障る。主人公のまっすぐなまなざしが疎ましく感じられ、そのいらだちから主人公のその日ぐらしをさげすみ、ナイーブさをあざ笑い、やがてふたりの共同生活は破綻していく。物語の展開の救いのなさを主人公のキャラクターが支えている感じだった。エロディ・ブーシェはくるくる変わる表情とじっと相手を見つめるまなざしが魅力的。ミハエル・エンデの「モモ」を連想する。女優は取り澄ました顔をしてればいいってもんじゃないのだ。監督はエリック・ゾンカ。少し前に同じエリック・ゾンカの「さよならS」をCSの映画チャンネルでやっていたけど見逃してしまった。残念。

 「天使が見た夢」の詳しい解説はこちらを →「Bouquet de Cinema」
 個人でつくっているサイトみたいだけど、最近のフランス映画がほとんど網羅されていて、ストーリーもふくめて詳しい解説が読めます。サイトの作者は毎日2本ずつ見ているんだそうで、ヨーロッパ映画はもう徹底的に好きかぜんぜん見ないかの両極にわかれる感じ。

2004

■ A piece of moment 1/28

 どうも、あけましておめでたいですか?
 再びひさしぶりの近況報告です。

 昨年は何人かの右翼系の人々から、お前のサイトはけしからんというお叱りのメールをもらった。
 ひとりはまだ若そうな人で、お前の言っていることは左翼のプロパガンダの受け売りであるそんな授業をやって若者を惑わすのはけしからんとご立腹の様子。気になるので、具体的にどのへんが間違っているのか指摘してほしいと返事をしたところ、間違っているのではない偏っているのだという。ではどのへんが偏っているのかと聞くと、朝日の記事を資料として使っているのがけしからん、朝日こそが左翼プロパガンダの発信源で、お前はその手先になって日本社会をゆがめているのだという。でも、「偏っている」というのは相対的な評価にすぎない。右翼から見れば朝日も毎日も極左の売国奴ということになる。したがって彼が自分のよって立つところが正しいことを示してもらわないことには話にならない。それが知りたいので、数週間にわたってメールのやりとりをつづける。しかし、来るメールは小林よしのりのマンガみたいな歴史観が書かれているだけで、私の文章と資料に使った朝日の記事のどこがどう偏っているのか指摘されていない。もどかしくなってきたので、もう少し具体的に根拠を示してくれないかというと、これを読めと「2ちゃんねる」と「つくる会」がらみのリンクがベタベタ張られたメールが送られてきた。ああ、もうダメ、限界。もしやあなたは肝心の記事も読まずに批判しているのではないかと尋ねたところ、そんな古い記事読んでるわけないじゃないか読んでるはずのないものを持ち出してきてケチをつけるなんてお前のやり方は汚いと返ってきた。なんてこったい。バカらしいのを越えて悲しくなってしまった。きっと私のやっていることが駄目だから、こういう馬鹿しか批判のメールを送ってくれないのだ。私の馬鹿さ加減に親近感をいだいてメールを送ってきたんだ。同類だと思われたんだ、そうだそうにちがいない。ああ俺はなんて駄目な奴なんだろうああ落ち込む気が滅入る。そういう意味で、この人のメールはかつてないほど痛烈な批判になったのであった。

 もうひとりは、私がWebに書いた天皇制についての文章がけしからんという。で、日本社会のあるべき姿と皇室の尊さ、人としてどうあるべきかが、文語調の文体でびたぁ〜っと改行なしの3000字ほど記されている。で、最後のほうを読むと、もし反論があるならば英語で書いてこい日本語は非論理的な言語であるからして論点を明確にするために英文での反論しか受けつけないとあった。ははは。大爆笑する。鳥肌実にネタみたい。

 というわけで、今年もよろしくである。
 こちとら、まだ正月気分が抜けていないのに、今日、早々に高校3年の授業が全部終了してしまった。やけに働かない1年であった。こんなんでいいんだろうかいいんですって古いね。

■ A piece of moment 1/30

 新種のコンピューターウイルス「Mydoom」が大流行の兆しで、こちらのクロ箱あてにも毎日10通近いウイルスメールが「Hi」や「Test」のタイトルで送られてきている。3年前のNimuda以来のフィーバーである。そうした中に宛先不在のため差しもどされてきたメールが何通も混ざっている。差しもどされてきたメールは、たいていTest というタイトルでpifファイルが添付されている。Mydoomそのものである。もちろんそんなものを送信したおぼえはないし、メーラーの送信ログにも記録されていない。もしやこれはアカウントを盗まれて悪用されたのか、それともうちのPCも感染したのかと青くなる。あたふたしながらウイルスチェッカーにかけるが感染している痕跡はない。そもそもPCにはMydoomに感染したときにかかるノートパッドが勝手にひらくような症状も起きていない。どうやら、このウイルスプログラムは、勝手に他人のアドレスを名乗ってファイルをばらまくようになっているらしい。クロ箱を訪問した人やこちらにメールを送信したことのある人のPCにはクロ箱のアドレスがログに残る。そのログをウイルスが勝手に読みとって利用するしくみになっているらしい。プログラムかしこいなあ……なんて感心してる場合ではなくて、おかげでクロ箱発を騙ったMydoomウイルスがインターネットの中をかけまわっているわけである。クロ箱発のウイルスメールを受け取ったみなさん、堪忍してけれ、おら何も悪さしてねえだよ。というわけで、わが家のパソコンには影響ないが、非常に迷惑なのである。あ、みなさんマメにウイルスチェックするようにしましょうね。
 → Internet watch 新種ウイルス「Mydoom」に注意
 → マイドゥーム診断ツール

 話はかわって、半年ほど前、こちらの近況に「平等と公平」についての文章を書いたことがある。どこぞの商用サイトの社長が書いた男女平等をめぐるコラムについて、まるっきり平等の概念が理解できていないという趣旨の批判である。長くなるが全文を引用する。

 期末試験の問題を作成中である。平等と公平の違いについて一問出題しようと思って、インターネットで参考になるような資料がないかと検索したら、こんなコラムにたどり着いた。
 →「大村あつしの火曜はモーグでブランチを」 平等と公平と区別と差別
 ちょっとこれはひどい。ひどすぎる。まず、平等の基本的な理解からしてまちがっている。平等と公平は似ているようで性質が異なり、平等は不公平で、公平は不平等となる。そこまではいい。でも、この人、公平性のみが社会正義で、平等なんて必要ないという。スゲエ。公平が何をしたかに応じて見返りを受けることを意味し、平等は何をしたかに関係なくすべての者が等しい権利をもつことを意味する。公平の考え方はがんばって良いことをした人にご褒美を、悪いことをした人にペナルティをというはるか古代のハムラビ法典から綿々と続いてきた社会原理といえる。これがないと人間社会の規範は成り立たない。じゃあ平等はいらないのかというと、基本的人権の思想は平等の理念そのものといえる。すべての人間は等しく人間らしく生きる権利を有する。王様だろうがノーベル物理学賞受賞者だろうがマザー・テレサだろうが重度の知的障害者だろうが麻原彰晃だろうが関係なく、すべて等しい。誰もが見下されることなく尊厳をもって生きる権利がある。もちろんタテマエである。現実には有力政治家の権利は大きく、ホームレスの権利は限りなく小さい。知的障害者はしばしば見下される。じゃあこのタテマエはいらないのかというとそうではない。社会的地位による差別を廃し、個人が尊厳をもって生きていくためにきわめて重要な概念である。さもないと「予は貴族である、ゆえに支配す」の理屈がまかり通ってしまうことになる。だから選挙の投票権は政治学者だろうがテロリストだろうが関係なくみな1票だし、社会保障制度はほどこしではなく権利である。もし、平等の原則は必要ないと主張するなら、それは基本的人権などいらないといっているのと同じことを意味する。

 上記のコラムを書いた人はその商用サイトの社長のようだけど、ベンチャー企業を経営している若い実業家に意外とこういう考え方をする人が多い。若くて自分の才能を疑わず平らな人間関係が嫌いで弱肉強食の市場原理のみが正義だと思っているタイプ。SMプレイが趣味なのかもしれない。コラムでは公平な社会こそが理想的な社会とぶちあげた後に男女平等批判に話がうつる。男性と女性は異なる適性を持った別の生き物で性差による仕事の分業は合理的な発想で、男女平等など混浴の銭湯に入るのと同じだという。ひゃああぁぁ。ネットではこういうバカな文章をときどき見かけるけど、商用サイトに署名入りで書いてるおめでたい人にははじめて出会った。男女平等は混浴の銭湯ね。

 職業選択における性差の排除は、個人の資質や指向を尊重することを意味することに他ならない。男にも家事仕事が好きな者もいるし、女にも外へ出て働くことが好きな者もいる。また、私よりも腕力や体力がある女の人はいくらでもいる。そういう資質や指向の個人差を認めて、本人が望む生き方を性差というワクでじゃましないようにしようと言っているだけのことだ。それを男性と女性は異なる適性を持った別の生き物で男女の社会的分業は当然とする発想は、血液型で人間の特性や職業的適正を判断するのとまったく差がない。このバカらしさは先の文の言葉を入れ替えてみるとはっきりする。A型とB型とO型とでは異なる適正をもったまったく異なる生き物で、血液型による社会的分業は差別などではなくきわめて合理的な発想である、ほらね。キミはA型で几帳面だから経理、O型で楽天的なキミは営業ね、B型のキミは人事、あAB型の人は職場にそぐわないから家で家事仕事をするようにしてください、これは決して差別ではなく適正に応じた社会的分業なんですよ、なんて自分の意に反して血液型で仕事を押しつけられたらやってられないでしょ。さらにこれを人種や民族に置き換えるとナチスの発想ということになる。性差や人種による生物学的決定論も血液型占いも根拠などない。いずれももっともらしい顔つきで個人の尊厳と人間の多様性を踏みにじるものにすぎない。

 あんまりひどいので文句をいってやろうとメールの宛先を探したが載っていなかった。仕方ないので、掲示板に書き込んでおいたが、掲示板のほうは常連さんたちがお気に入りの漫画やソフトの話題で和気あいあいとやっていたりして、なんか自分が猛烈におじゃま虫になったような荒らしをしたような情けない気分。おかげで必要以上にバカ丁寧な文体になってしまった。商用サイトでああいうおめでたいコラムを書いているんだから、批判を受けるのは当然だと思うんだけど、ネットの掲示板って閉じた同人コミュニティばかりで嫌ねえ。
 先日、生徒の書いた小論文を採点していたら、上で批判している「男女平等など混浴の銭湯と同じ」とまるっきり同じ文章に出くわした。乱暴に殴り書きされた文章から趣旨を読みとると、次のような展開になっている。

・男女平等などくだらない
・公平の原理こそ正義だ平等などいらない
・平等の原理など怠け者が得をするくだらない社会をつくる
・男女平等を主張する女はろくでもない連中だ
・男と女は違う生き物である
・女性の社会進出など混浴の銭湯にはいるようなものでそんな社会俺はまっぴらだ

 言葉のもちいかたといい、展開といいほぼそっくりである。上記で批判されているコラムは女性の社会進出を「能力さえあれば」と偉そうなただし書きをつけたうえでだが、いちおう認めている。それが唯一の救いなのだが、生徒の殴り書きにはそれすらない。ただなんにせよ不気味なくらいに似ている。何か共通の宗教団体か政治団体にでも所属しているのだろうか。日本のどこかでこの種の発言が盛りあがっているのかと思うと暗い気持ちになる。平等の原理というのは、その者が何をしたかに関わらずおしなべて等しくあることを指す。上でも書いているように、これを否定することは人権そのものを否定することになる。たとえば、生まれたての赤ん坊は何もできないし、もちろん何も成果を残していないが、人間である以上、大人同様に生きる権利を持っている。だから赤ん坊であっても殺せば殺人罪に問われるわけだ。能力や業績においてのみその者の価値がきまるという公平オールマイティの社会では、赤ん坊や重度の障害を持った人間は親の所有物扱いとみなされ、所有者が同意すれば殺してもかまわないということになる。平等などくだらないと主張する者たちはそういう社会を望んでいるんだろうか。

 生徒の小論文は規定の700字がほぼ埋まっていたが、自分の思いこみと独善を垂れながすだけでいっさい根拠が示されていなかったので0点を付けた。小論文は演説ではない。それにしても、たかだか17歳や18歳で、どうしてああもがちがちに固まってしまうのだろう。彼の親や周囲の人間もそういう考えの持ち主ばかりなんだろうか。ちなみに今回の小論文の課題は、大相撲の表彰式で女性知事が土俵にのぼれるか否か。課題からもずれてるじゃん。
 → 小論文・女性知事の土俵入り

■ A piece of moment 1/31

 きのうからの24時間でこちらに送られてきたメールは46通。うちMydoomが37通。ウイルス感染の広がりが手に取るようにわかる。残りの9通のうち、4通がノートンやウイルスバスターやらのアンチウイルスソフトからの自動メールで、「あなたのアドレスから送られてきたメールにはウイルスが含まれていました、あなたのPCはウイルスに感染していると思われますので早急の駆除をおすすめします」というもの。ああ、もうしわけない……、でも俺が送ったんじゃないんだってば誤解だってばノートン先生……。

■ A piece of moment 2/1

 昨年話題になった養老孟司 の「バカの壁」をおくればせながら読む。いまいち食い足りない感じ。もっとディティールの説明がほしいのにさっさと話が進んでしまう。その薄味さ加減でベストセラーになったんだろうか。また、重要な部分の論旨が矛盾しているように見える。出だしは好調だ。題名の「バカの壁」は、自分にとって興味のない情報や不都合な情報はあらかじめ遮断してしまうことで、興味の度合いによって同じものを見てもまったく意識しない人もいれば逆にはげしく反応する人もいる。あたりまえといえばあたりまえだけど、そのことが「Y=aX」で表される脳のインプット・アウトプットとして説明されてなかなか面白い。で、わかるというのはたんに情報としての知識が増えることではなく、その知識や理解によって自分が変わっていく経験をすることだと話は続く。それは個人差が大きいため、同じ状況を体験しても人によってまったく異なる印象をもたらす。だから人はそうわかりあったりしないし、話せばわかるなどというのはありえないという。ふむふむ。その例としてニューヨークのテロ事件があげられる。いくらテレビ映像でビルが崩壊する場面を見ようが、事件の背景についての解説を聞こうが、あそこで起きたことを分かったことにはならないという。うむ、その通りだ。そこまではいい。でも、全編を通じてひとつの主題になっているオウム事件についての話になると、養老センセーは考古学者が書いた本を読んでなぜかオウム信者の若者たちに何が起きていたのか納得してしまう。え、どうしてそうなるの。記録された言葉や物的証拠を見たところで分かったことにはならないはずじゃないの。そもそも認識には個人差が大きいんだから追体験など不可能ではないの。また、後半は教育の話になる。個性というのはもともと人間にそなわっているもので教育によって伸ばすものではないという。うむ。で、教育というのは人間を社会に適応させるために意識の共通化をはかるもので、極論すれば教師の役割は学生たちに自分を見習えと指し示すことだという。ええっ、どうして。それは後半をぜんぶをつかって批判している一元化する行為そのものではないの。異質なものを放っておかずみずからの信念を押しつけようとする原理主義の一元化作用と何が違うっていうんだ。言い換えれば、原理主義思想というのは自分たちをそうした教師とみなして、世界中の人間に自分たちを見習えを強要する思想ではないのか。むむむ。国際問題では不可知論を持ち出し、国内問題では一元化をとなえるという調子で恣意的に使い分けているようにみえる。でも、日本人だからって分かりあえやしませんぜ。というわけで、肝心の主題に矛盾をはらんだまま断片的な知識とエピソードが散りばめられた養老センセーにしては散漫な一冊。縁側でじいさんが勝手な思いこみをぶつぶつ言ってるだけの時事放談という感じがする。

■ A piece of moment 2/3

 「バカの壁」の中に、ふたつの頭蓋骨を見せてそのちがいを学生に説明させるという口頭試験の話がでてくる。ひとりの学生は5分間押しだまった後「こっちの方が大きいです」と答える。その学生の未知のものから情報や意味をくみ取る能力のなさに、養老センセーは絶句する。そして、他の大学の学生ならいざ知らず東大生ともあろうものがなんたることだとあきれる。また、オウム真理教の信者に東大の学生がいたことを知ったときも、同様に唖然とする。しかし、受験勉強が知的能力のうちのほんの一部しか使っていないことは脳の専門家に言われるまでもなく分かることだ。それはあらかじめ知っている知識をパズルのように組みあわせる能力だけが判定される、きわめて限定された知的活動にすぎない。したがって、受験勉強が得意なバカもいれば、その逆もいる。未知の状況におかれたときに、そこから情報や意味をどのように読みとり、どうふるまうかは入試の点数とはまったく関係ない。もちろんオウム真理教のようなものに惹かれるかどうかも入試の点数とは関係ない。オウム真理教に傾倒した者が他の大学同様に東大にもいたことはごく当然のことといえる。私としては、東大生が特別賢いと思っていた養老センセーの脳天気さのほうに絶句する。それは中学に入って偏差値という物差しに出くわし、トーダイが一番「アタマがいい」と思いこんでいる子供なみの認識ですぜ。

 というわけで、成績に「1」がついて留年しても私を恨まないでね。べつに社会科の成績が1だからってきみの知的能力を否定してるわけじゃないし、ましてや人格を否定しているわけでもないんだから。むしろ高い学費を払い込んでるにもかかわらずそこで何も学ばなかったことを悔いてほしいってまあ大きなお世話か。ともかく、本日、今年度の成績をすべてつけ終わる。ああ、麻雀がやりたい。

■ A piece of moment 2/6

 10年ちょっと前のことである。自民党竹下派のドンと呼ばれた金丸信が、佐川急便やゼネコン各社からヤミ献金を受けているとされ、脱税容疑で逮捕された。そのヤミ献金は数十億にのぼり、事務所の金庫の中には金の延べ棒がごろごろしていたという。事件が連日、新聞とテレビニュースをにぎわせていたころ、金丸信の地元である山梨県でひとりの教師が懲戒処分になるという出来事があった。中学か高校の社会科教師で、授業の中で金丸信について実名をあげて批判したことが処分の理由だという。おそらく保護者の中の金丸支持者が子供から話を聞いて校長にねじ込んだのだろう。

 いったいこの懲戒処分はどういう根拠で行われたのだろうか。実在の政治家を授業でとりあげて批判したことがダメだというのか。しかし、現実の政治に切り込んでいけない「政治・経済」の授業など本末転倒である。用語を暗記し理論を理解するだけでなんら社会への問題意識も持たなければ、学ぶだけ時間の無駄である。あくまで目的は現実の政治であり、知識や理論は手段にすぎない。したがって、授業の中で現実の政治問題を取り上げることは不可欠であり、できるだけ具体的にまな板にあげる授業ほど良い授業といえる。また、実名をあげて政治家を批判すれば、当然、当人やその支持者から反論を受ける。多くの者はその煩わしさをさけるために実名批判をさけようとする。そうすれば無責任な立場からいくらでも発言できるからだ。もしこの教師がそうした反論を覚悟した上で金丸批判を展開したのだとしたら、ずいぶんと肝のすわった人物だといえる。たいしたものだと思う。

 ただし、教師の役割は自分の信念を生徒や学生に押しつけることではない。あくまで考え、結論を出すのは生徒たちである。教師の役割は彼らが考えられるように資料を提示しながら状況を解説し、場合によっては議論相手になることである。したがって、この授業は保護者からの批判がでたことによって、はじめて本質に切り込んでいけるものになったといえる。保護者は教師の金丸批判がまちがっていると思うなら、校長に圧力などかけずにその教師と徹底的に議論すればいい。金丸批判をする教師と金丸支持者の保護者との議論はまさに生きた教材といえる。教師はその議論の様子を生徒に見せ、また生徒にも議論に参加させることで、生徒に考えさせればいいわけだ。意見のぶつかり合いのなかで互いの考察を検証していくことにこそ民主社会の本質がある。それを避けて社会科の授業など成り立たない。そうした意見の衝突を避け、教師を懲戒処分することで丸く収めようとした校長も地元の教育委員会も民主社会のしくみが理解できていないとしか思えない。彼らは本気で現実の政治に口をはさまない空疎な「政治・経済」の授業を望んでいるんだろうか。

 この出来事は、金丸ゼネコン疑惑の中のほんの些末な事件として新聞の3面記事に小さく扱われ、あっという間に風化していった。あれから10年以上たったいまとなってはその詳細を調べるのも困難になっている。しかし、その後ずっと引っかかっている。自分が政治・経済の演習授業を担当するようになって、ますます疑問がわいてくる。あの教師は懲戒処分を本当に納得したんだろうか、なぜまわりの教師はこの理不尽な処分に声をあげなかったんだろうか、社会科教師たちは教科書の知識と現実の社会は別物だと思っているんだろうか。この事件、社会科という科目の本質に関わる問題をはらんでいるように思える。

■ A piece of moment 2/9

 TBSラジオを聞いていると時報のたびに新光証券のコマーシャルが流される。番組問わず、曜日も関係なく毎日スポンサーになっているようで、かなりの頻度で耳にする。コマーシャルの内容は一言コントで、片方がせっぱ詰まった声で「隊長っ!○○が○○です」というと、もう片方が勝ち誇ったように「安心しろ!○○だ!」と答える。で、間をおかず「預けて安心 シンコ〜ショ〜ケン 5時です」というジングルが入る。かなりのバリエーションがあるようで、○○に入るものをいくつかをあげてみる。

「隊長っ!幻の魚を取り逃がしました」 「安心しろ!だから幻なんだ」 (1時です)
「隊長っ!ホームシックになりました」 「安心しろ!俺なんかロマンチックだ」 (2時です)
「隊長っ!本部と連絡がとれません」 「安心しろ!今日からは自由だ」 (3時です)
「隊長っ!流れが急で泳げません」 「安心しろ!俺は元々泳げん」 (4時です)
「隊長っ!罠に掛かりましたぁ」 「安心しろ!俺が仕掛けたんだ」 (5時です)
「隊長っ!大きな滝が迫ってきました」 「安心しろ!滑り台だと思え」 (6時です)
「隊長っ!ジャングルの出口が分かりません」 「安心しろ!地球は丸い」 (7時です)
「隊長っ!凄いカミナリです」 「安心しろ!おへそを隠せば大丈夫だ」 (8時です)
「隊長っ!隊長のいびきで眠れません」 「安心しろ!俺は寝れたぞ」 (9時です)
「隊長っ!ライオンが出ました」 「安心しろ!こう見えてもネコ科だ おぅヨシヨシヨシ」 (10時です)
「隊長っ!宝の地図が盗まれました」 「安心しろ!どうせ見つからない」 (11時です)
「隊長っ!宇宙人です」 「安心しろ!ワレワレモ ウチュウジンダ」 (12時です)
 愉快ですね大爆笑ですね笑いすぎてお腹が痛いですね。
 新光証券に信頼感を感じますね、損失補填など無縁の潔さを感じますね、いますぐお金を預けたくなりますね。
 それにしてもいったいどういう意図でこのCMが製作され、連日放送されているんでしょうか。
 もしやこれは手の込んだ新光証券批判キャンペーンなんでしょうか。
 「新光証券さん、そちらに勧められた株が下がってるんですが……」 「安心しろ!だから幻なんだ!」
 「新光証券さん、アメリカでブラックマンデーの再来です……」 「安心しろ!おへそを隠せば大丈夫だ!」
 「新光証券さん、株主総会で質問したら総会屋に脅されました……」 「安心しろ!俺が仕掛けたんだ!」
 ♪預けて安心 シンコ〜ショ〜ケン 5時です……。

■ A piece of moment 2/10

 録りだめておいた映画をまとめて観る。
 「英国万歳!/マッドネス・オブ・キングジョージ」。おもろいおもろい。時代は18世紀のジョージ3世統治の頃、きらびやかなバッキンガム宮殿を舞台に貴族たちと大臣たちがしたり顔で権力に群がる。そんな息苦しい王宮のなかでイングランド王、ジョージ3世はひとり、直情的にふるまう。下品な冗談をまくしたて、傲慢な自意識を隠さず、気にくわない家来を罵倒する。ただ、その子供っぽい天真爛漫さは妙に人なつっこく憎めない。王の奔放さはしだいにエスカレートし、やがて完全に抑制を失う。公衆の面前で侍女に卑猥な言葉をかけ、大小便を垂れながす。その様子を冷ややかにみていた皇太子は、父親から王位を奪う機会がきたと判断し、下院議員と手を結んで狂気の王を幽閉する。とまあ史実をもとに、狂気の王がまきおこす王室の混乱を皮肉たっぷりに描いたコメディ。コメディだけど映像は重厚で舞台も衣装も安っぽさはまったくない。ジョージ3世役のナイジェル・ホーソンは傲慢さと天真爛漫さが同居する老いた王を見事に演じている。油断するとその微妙なバランスの上に成り立った王の人格に足もとをすくわれることになる。それにしてもイギリス映画は王室に辛辣な皮肉をあびせる。療養所でひらかれた朗読会で読まれた本はよりによってシェークスピアの「リア王」だったりして、思わず吹き出す。こういう乾いたユーモア大好き。日本映画が大正天皇あたりをネタに同じことをやろうとしたら信者たちが騒ぎ出してえらいことになりそうだ。やはりこの社会は宗教国家のしっぽが取れていないように思える。

 「ウワサの真相/ワグ・ザ・ドッグ」。これまた辛辣なブラックジョーク。こちらはホワイトハウスを舞台に、大統領直属のもみ消し屋がスキャンダルをもみ消すために奔走する。次期大統領選挙を2週間後にひかえてホワイトハウスは騒然としている。そんな中、ホワイトハウス見学にきた中学生にあろうことか大統領が不適切な行為におよんだことが発覚してしまう。醜聞がメディアにもれるのは時間の問題。選挙を目前に控えてのセックススキャンダル、しかも相手はよりによって中学生。メディア対策室のスタッフたちが万事休すと頭を抱える中、ロバート・デニーロ演じる汚れ仕事専門のスピン・ドクター(もみ消し屋)はやけに生き生きと動き出し、矢継ぎ早に指示す。メディアと世論の目をそらすために彼がだした結論は戦争。戦争をでっち上げるしか、この事態を打開できないという。ひえええ。彼はただちに行動を開始し、でっちあげの戦争のためにハリウッドの大物プロデューサーとスタッフを雇い、2週間分の筋書きを書かせ、戦争でもりあがる愛国心をバックに大統領の再選を演出させる……ってこれもほとんど実話じゃん。出てくる登場人物たちはどれもこれも正義感のかけらもなく、この異常な事態に疑問を感じたりしない。ひたすらいかに上手くやりとげるかだけに徹し、これぞプロフェッショナルと言わんばかりに猛烈な勢いでアイデアを出し実行していく。そのノリの軽さは「アリー・マイ・ラブ」の法廷シーンを連想する。劇的なシーンや感動的な場面は一切排し、深刻な事態であるはずなのに終始乾いた笑いの中で展開していく。うまいなあ。その笑いはたんにアメリカの社会状況を皮肉っているだけでなく、そうした社会にくらす自分たちをも斬ってみせる自虐的なユーモアを感じる。アメリカ社会はブッシュの正義に熱狂する単純さの一方で、こうした自虐的なユーモアが受け入れられる奥の深さがある。ただあまりにも乾いていて見終わって頭を抱えてしまった。なにやら自分の純情さが試されたような気分。

 他、NHKとCS放送でやっていた「名探偵ポワロ」5本、アンド、つまらない映画数本。へとへと。
 今週のワーストは「バトルフィールド・アース」。あまりのすごさにテレビの前で吉本ふうにずっこける。

■ A piece of moment 2/11

 本屋へ行くと養老孟司 の本がまとめて平積みになっていた。
 対談集の帯には「話せばわかる!」と太ゴシックででかでかと書いてある。そのすぐ隣には先日読んだ「バカの壁」がならんでいて、こちらの帯には「話せばわかるなんて大うそ!」と書いてある。いったいどっちよ。そもそも「話せばわかるなんて大うそ!」なんて思っているなら対談なんかするべきじゃない。やはり養老センセー、どうでもいい本を出しすぎてるんじゃないか。

 古本屋でアガサ・クリスティーのポワロものをまとめて購入。ドラマを見ていたら原作が気になってきた。アガサ・クリスティーは、中学生のときに読んだ早川文庫の「アクロイド殺し」以来。懐かしいというよりもはや新鮮。

■ A piece of moment 2/13

 ひとりの老人が殺される。老人は強欲な人物で誰からも愛されていない。しかし老人は資産家でその遺産は莫大な金額になる。遺産のほうは誰からも愛されているようで、親族・関係者が群がるように老人の屋敷へと集まってくる。殺害の状況から犯行は顔見知りによるものと断定される。しかし、誰もが殺害の動機を持っており、またアリバイがある。遺産相続人にして容疑者の面々は、事件捜査への不満と互いへの不信感を隠そうとせず、ことあるごとに毒のある会話をまき散らす。あてこすり、ほのめかし、からかい、見下し、ときに罵倒する……というのが私にとってのアガサ・クリスティの典型で、この毒々しい面々がまき散らす欲と自尊心を面白がれるかが分かれ目という感じ。個人的にはトリックや謎解きにはぜんぜん興味がないので、彼らの生態とかけひきばかりに目がいってしまう。なにやらフェデリコ・フェリーニ後期の映画を見ているような錯覚をおぼえる。知人から遺産相続でもめてるなんていう話を聞くと、ああはやくポワロさんを呼ばなきゃなんて思ってしまうのであった。

■ A piece of moment 2/17

 連日30通も40通もきていたMydoomがぴたっと止まる。ウイルス自体に2月半ばで活動を停止するプログラムが入っていたそうで、親切なんだか目的達成なんだかわからないけどアフターケアも万全。ついでにうちのAtokがときどき調子悪くなるのも直してくれると言うことないんだけど。

 アメリカ牛のSARSじゃなくてヘルペスじゃなくてインフルエンザじゃなくてええとほらあれあれ……とうとう近所の吉野家と松屋からも牛丼がなくなる。3年前に国内で狂牛病が発生したときは大騒ぎになって牛肉の売れ行きが落ち込んだのに、今回はなぜか牛丼屋に群がる人多数。狂牛病より牛丼が食えなくなることしか心配していないみたいでこの落差はなんなんだ。不思議。牛丼屋のくせに牛丼を出さないのはけしからんと暴れる人もいたりしたけど、あれはきっと吉野家に雇われたさくらだよね。吉野家最後の一杯にあたってしまった人は各局のテレビニュースに出てたけど、テレビカメラにとり囲まれての取材攻勢におちおち食べてられない様子。「どうですか、お味は?」「……おいしいです」「あ、こちらにも目線ください」「……」「最後の一杯のお味はどうですか?」「……おいしいです」「とうぶん牛丼を食べられなくなりますがご感想は?」「……残念です」「かき込みながらこちらのカメラに目線ください」「……」「いかがですかお味は?」「……おいしいです」。まるで記者会見のような食事で最後の一杯の人はだんだん目に力がなくなっていったように見える。おつかれー丼。でも、取材陣からBSEは不安じゃありませんかという質問が一言も出なかったのは不自然な気がする。「いま食べているアメリカ産牛肉は狂牛病発生後に輸入されたんじゃないかっていう不安はありませんか」の質問に、最後の一杯の人がブーッと飯粒を鼻から飛ばしてくれると一視聴者としてはすっきりした気分になったのに。もしかしたら「この番組は吉野家の提供でお送りしました」だったのかもしれない。そんな牛丼フィーバーの2月。牛丼チェーン各社は良い宣伝になったとほくそ笑んでるにちがいない。かくいう私、3年前の狂牛病騒動のときは牛肉が安くなって助かったけど、今度の一件では牛丼を食べる気がしなくなったよ。そういえば日本がアメリカから輸入している牛肉のうち20%が吉野家で消費されているらしい。牛丼フィーバーは勉強にもなるのであった。

■ A piece of moment 2/18

 夜中、NHKのラジオ放送を流しながら雑誌をめくる。ラジオでは田舎暮らしをしているという園芸家がアナウンサー相手に何やら話をしている。この時間帯はインタビューコーナーになっているようで、たいてい一家言ある老人が登場してきて「最近の若者はまったく」的な人生訓やら蘊蓄やらを垂れ流す。今回も田舎暮らしを通しての人生訓を語っているようで、自然にふれる機会のない若者が本やテレビの知識ばかりふやしてうんぬんという話に田舎暮らしなど縁のなさそうな女性アナウンサーが盛大に感心しながら相づちをうっている。その園芸家の誇らしげに自己肯定する話しぶりに居心地の悪い気分になる。高石ともやでも出てきたのかと思った。話の中に庭いじりをしていてハチに刺されたというエピソードが出てくる。ええそういう時はおしっこをかければ良いんですよおしっこかけるなんて汚いっていう感覚は田舎暮らしをしたことのない人ですねハチの毒は酸だからおしっこをかけて素早く中和すればどうってことないんですふだん自然に接する機会がなくてハチに刺された経験がない人ほど大騒ぎをしたあげくに30分も1時間もしてから病院へ行ってひどい目にあうんですねハチの毒は血液に入って全身にまわるからそんなに時間がたったら処置できなくなるのはあたりまえですだから刺されたと思ったら素早くおしっこそういうことは田舎暮らしをしていたら経験的にわかることなんです。おしっこおしっこああおしっこって夜中にとんだおしっこおじさんの登場なのであった。

 あ、ちなみにハチに刺されたときにおしっこはききません。ハチ毒が酸というのはずいぶん長く信じられていたみたいだけどこれは間違い。ハチ毒の成分は酵素・生体アミン・ペプチドからなる複雑なたんぱく質で、これらの物質が総合的に働いて痛みや痒み腫れといった症状を起こす。なので、ハチに刺されたときは、患部を石けんでよく洗った後に抗ヒスタミン含有のステロイド軟膏を塗りましょう。それにそもそもおしっこの成分にアンモニアは含まれていないので酸を中和する働きはありません。健康な人のおしっこはアルカリ性ではなく弱酸性です。こういうことは田舎暮らしをしていても経験的にわからないんでしょうか。

■ A piece of moment 2/20

 授業もないのでひまにまかせて佐高信のエッセイを8冊まとめて読む。収穫は城山三郎の自伝的小説「大義の末」について書いた文章。さっそく「大義の末」を図書館で借りてきて読む。胸がつまるようなひとりの青年の悲痛な叫びだった。

 「大義の末」の主人公は昭和初期の生まれで青年期に軍国主義教育の影響をまともに受ける。中学の時に杉本五郎中佐の書いた「大義」を読み、その国を憂う気持ちに感動して、志願兵として中学の友人たちとともに海軍予科練に入隊する。杉本五郎は昭和12年に中国で戦死した陸軍中佐で、「大義」は彼が自分の子供にあてて書いた手紙という体裁になっている。そこには彼の純粋すぎるまでの皇国の思いが記されており、当時、10万部をこすベストセラーとなっていた。しかし、入隊した海軍訓練所には杉本五郎はひとりも存在しない。主人公には愛国を絶叫する周囲の大人たちの欺瞞がしだいに見えてくる。彼らは皇国や愛国の精神を持ち出して主人公らを叱責するが、その裏で大義に身をささげたものたちを冷笑し、建前としての大義をとなえることで自らの保身をはかろうとする。その様子は純粋なまでに皇国の大義を信じる主人公や彼の友人ときわだって遠いところにある。そうした中で友人のひとりは軍事訓練中の事故で命を失う。「天皇から賜った」銃を庇って岩場に激突した末の事故死だった。また、軍の身体検査ではねられ入隊できなかった友人は、その無念さから敗戦後に首を吊って自殺する。生き残った主人公の戦後は胸に穴のあいたような虚脱感からはじまる。そして身も心もささげた大義とはいったい何だったのかとくり返し問いかけていく。しかし、主人公は杉本五郎の「大義」を捨てることができない。それを捨てることは自分と友人たちが命をささげたものが無になってしまうように思える。復員して入学した高校・大学の寮で左翼学生から、おまえまだこんなもの大事にしてるのかとあざ笑われるとムキになって反論する。特攻隊を経験してきた主人公にとって、彼らは、民主主義という戦後の大義に乗っかって上手く立ちまわっているだけに見えてしまう。その姿は皇国の大義を利用して私腹を肥やした故郷の大人や軍の上官と重なって、どうしても表面的、欺瞞的な姿勢に思える。やがて敗戦から十年近い年月が流れ、米軍の逆コースの中で再び保守派が台頭してくる。戦後まもなくの時のような天皇制を否定する言葉は影をひそめ、天皇の権威を政治に利用するものたちによって天皇制は分厚い存在になっている。学生時代に天皇を「天ちゃん」、皇太子を「セガレ」と侮蔑していた者まで、自らの保身のために「天皇陛下」「皇太子殿下」と敬称をつける。再会した学生時代の仲間に対して、主人公はこう議論をふっかける。

「天皇制ほど大事なことは、ぼくには考えられない。天皇にぼくたちは自分のいちばん大事なものを捧げつくした。生命をかけ、青春を知らなかった。大義の世界に没入し、それから投げ返された衝撃だけで、一生を終わってしまった感じがする。後は抜けがらになり、惰性で生きてきたようなものだ」

「天皇というものは、支配権力にとって実に便利な存在だからな。国民の総意を代表し、それを越えた存在ということにしておけば、たとえ自分たちが不都合なことをしても、天皇の意志だと責任を逃げられる。国民の批判を無視することができる。世論にすり代わり、世論を押さえつける権威――天皇元首説がまた出てくる筈だ。しかも、憲法改正ということで再軍備と結びついて。……国防などと言ったって、結局、その時の政治権力を守るだけ。国民は狩り出され殺される。そんなとき、一番適当な冠が天皇制だ。天皇という一語ですべてが正当化される」
 そうした中、主人公の住む町に皇太子が訪問してくることになる。自らの保身に余念のない町長は、皇太子に取り入ることで自分の政治的立場を高めようとセレモニーを演出する。皇太子一行が通るコースには新しい道路が建設され、見栄えの悪い古い建物が取り壊されていく。そして、訪問の当日、日の丸がうち振られ、君が代の合唱と万歳三唱のなか、通りすぎていく皇太子の一行に向かって主人公は「セガレ!」と叫び続ける。それは、権威を利用するものへの怒りであり、権力に利用され捨てられたもののうらみであり、また、権威を取り巻くものをはぎ取った後に残るひとりの人間としての皇太子への親しみの思いである。もちろん、その思いは周囲に理解されることなく、主人公の叫びは万歳三唱によってかき消されていく。

 「大義の末」の主人公は城山三郎の自身が投影されているという。城山自身も杉本五郎の「大義」に感動し、主人公同様に特攻隊員として海軍に志願入隊した。入隊した海軍では、上官によって怒鳴られながら日々肉薄攻撃訓練をくり返し、精神注入と称するリンチを受け、仲間の中にはその暮らしに耐えきれなくなって自殺する者まで出てくる。その一方で士官たちは泥の中をはいずり回る新兵たちを鼻で笑う。新兵たちがイモの茎だけのおかずで飢えている中で、士官食堂からは毎日のように天ぷらやカツレツを揚げる臭いが漂ってくる。城山は彼らを唾棄すべき連中と呼び、彼らの欺瞞に憤っている。終戦になったからといってのめのめ彼らを帰すものかと思う。しかし、士官たちは敗戦がきまった途端、誰よりも早く駐屯地の倉庫から米や砂糖を担ぎ出して帰郷していく。城山の仲間たちがどれほど憤り、悔しがり、おびえ、悲しみ、そしてあきらめて死んでいったか。その死者の思いをぶつけることが城山の文学活動の支えになっている。城山は戦後になって「大義」に伏せ字になっていた箇所があったことを思い出す。そこには次のような文章が記されていた。「現在大陸に出ている軍隊は皇軍ではない。奪略・暴行・侵略をほしいままにする軍隊は、皇軍でなく侵略軍である」。城山はこの文を読んで驚き、そこで指摘されていることがそのまま自分の軍隊体験と重なることに納得する。また、杉本五郎の戦死も彼の一本気な正義感が軍部に疎まれ、中国の最前線の激戦地に飛ばされた結果によるものだと知る。城山は対談の中で杉本五郎について次のように語っている。

城山 杉本五郎はそういう正義感の人で、純粋に思い詰めて書いたから、僕らに訴えてくるわけです。だから、軍は困った。読ませたいけど、そこを読まれたら困る。それで伏せ字で出したんです。軍は杉本五郎は要注意人物だ、忠君愛国を鼓吹するけれど、今の日本がやっていることは悪いと書いている。というので、最激戦地に飛ばされ、戦死するわけです。まあ死刑ですね。若者はその純粋なものに打たれて、次から次へとみんな愛読していった。本当に魅力的な本だったんですよ。
藤田 私は大義は読んでないんです。田舎にいたのと三年の年齢の差があったからかもしれない。
城山 よかったじゃないですか。読んでいたらきっと志願していた。大変訴えかける本だから。
 城山三郎の戦争体験はちょうどうちの父親と重なる。父は昭和3年生まれで、城山同様に軍国教育を受け、やはり同様に戦争末期に志願兵として海軍に入隊した。もしかしたら「大義」も読んだのかもしれない。男らしさや勇敢さといった美意識を重視していた点でも共通している。しかし、軍隊生活から受けた印象と戦後の体験は城山とまったく異なる。敗戦と戦後の強烈な価値の変化のなかで、城山はむさぼるように本を読む。そうすることで彼は戦時中の大儀を解体しなんとかそれを乗り越えようとした。一方、父は意図して本を遠ざけ、社会への目を閉ざし、青年期の価値観を抱き続けた。社会への不信感は共通していたろう。その不信感が片や戦時下の大儀を乗り越える原動力となり、片や社会と自分との間に厚い壁をもたらしたのではないだろうか。父は、戦争はいかんという一方で、日本軍が中国で行っていた行為を否定し、アメリカとの戦争は当時の状況から必然であり仕方のないことだと私に語っていた。そして懐かしそうに軍隊での体験を話していた。長崎の被爆直後の惨状までその目で見てきたというのに。父は戦後の移り変わっていく世の中をどう受けとめていたのだろうか。
 城山三郎の詩に「旗」というのがある。彼は渾身の力を込めてみずからの思いを記している。

旗振るな 旗振らすな 旗伏せよ 旗たため
社旗も 校旗も 国々の旗も 国策なる旗も 運動という名の旗も
ひとみなひとり ひとりには ひとつの命
 去年、日の丸と君が代のどこが悪いと私にメールを送ってきた人がいたが、彼はこの詩をどう受けとめるだろう。旗を振りまわす者への怒りと、それに振りまわされ踏みにじられたひとりの青年の悔いを。

■ A piece of moment 3/1

 演習授業の「日の丸と君が代」を加筆修正する。
 → 日の丸と君が代

■ A piece of moment 3/5

 はやくも来年度の授業が全部きまる。学校のスケジュールがはやめに立てられるようになったのか、3月アタマで全部きまってしまうのははじめてのことだ。今度は立川と高田馬場の高校で現代社会と政治・経済を担当の予定。ぽんぽんと依頼がくるのに気をよくして引き受けていたら予定外に月曜から金曜まで授業でびたっと埋まってしまう。来年度は仕事中心の一年になりそうである。また授業を少なめにして晴の日はバイクを乗り回し雨の日はごろ寝読書で暮らそうと思っていたのに、ままならないのが浮き世の渡世なのであった。

 3年前から探していた倉多江美の「お父さんは急がない」を古本屋で発見する。
 それにしてもブックオフはあいかわらず店員が15秒間隔で「いらっしゃいませぇ〜こんばんはぁぁ〜ごゆっくりお選びくださぁ〜い」をずっとくり返している。その不気味さにこちらはごゆっくりどころかまったく落ち着かない。ありゃ一体なんだ。機械的に15秒ごとにくり返される「いらっしゃいませえぇ」の連呼には客を歓迎する雰囲気は感じられず、むしろ厚い壁をつくってコミュニケーションを拒絶する印象しか受けない。ブックオフでは従業員に自律的な判断を停止させるための特殊な精神教育を導入しているのかもしれない。おそろしい。それにしてもいくら漫画6割の古本屋だっていちおう本屋なんだからさ、少しは静かにものを考える雰囲気があってほしいのである。本屋の店員が機械のように騒音を発して客を思考停止状態にしてたら本末転倒じゃないか。6人の店員が常時でかい声張り上げながら店内をかけずり回ってるなんて宗教か軍国主義みたいだ。ブックオフは社長以下全従業員が本を嫌っているように見える。……と、ここまで書いて気になってきたので、「ブックオフ」と「いらっしゃいませ」のキーワードで検索してみる。(→どうぞ)出るわ出るわで3440件ヒット。みなさん不気味に思っている様子で少しほっとする。もし、あれを「気持ちの良い挨拶」とか「礼儀正しくて感激」なんて反応ばかりだったら、俺、この国から亡命したくなってたよ。検索した中に小売業のコンサルタントをしている人が的を射た指摘をしている文章を見つけたので引用する。

HCI・日本ホームセンター研究所 掲示板より
 高橋直樹 2003/03/16 17:49:04:
週末、小売企業の接客・挨拶を考察するには絶好の事例を発見した。その店は、古本チェーンのブックオフの都内原宿店。同社の店舗の中でも大型の2層の店舗である。何が絶好の事例なのか?それは、従業員がただひたすらに繰り返している「いらっしゃいませえ、こんにちはあ」という挨拶が、私にとっては「この世のものとは思えない」ほどひどい騒音に聴こえるからである。この種の挨拶に関しては、つい2日前に取材したハックキミサワの米田新社長が、「お客様に背中を向けて言うような「いらっしゃいませ」は、言わない方がましです」とおっしゃっていた。私もまったく同感である。けれども、その種の挨拶を平気で励行している小売店は少なくない。そういう小売企業の社長・役員・社員には、ぜひこのブックオフ原宿店を見学して欲しい。そして、顧客を無視した挨拶の行き着く先の状態を肌で感じて欲しい。私には絶対に、これが正しい挨拶だとは思えない。挨拶とは、顧客一人一人に対して、できるだけ顔を見て、手を止めて、心を込めて述べるべきものである。
 小売業のプロが見た的確な指摘という感じで、読んですっきり。あと、こちらの人はあれは宗教だとはげしく怒っている。怒りっぷりが良いのでリンクする。
→ 最近腹の立つこと 「いらっしゃいませこんにちわ教」の台頭

■ A piece of moment 3/7

 倉多江美の「お父さんは急がない」は続編も出ていることが判明(→こんな漫画です)。近所の本屋を5軒ほどまわってみるが、この手の短編漫画は完全に主流からはずれているようで全滅。紀伊国屋のような大きい本屋にもおいていなかった。漫画は90年代から出版傾向が変わってきたみたいで、週刊誌連載のヒット作とおたく人気のある作品以外はどんどん隅に追いやられている感じ。本屋の漫画コーナーをながめると、週刊誌連載の主流派マス人気の作品が6割、アニメ系・おたく系の固定ファンに支えられている作品が2割という配分。出版業界全体のパイが小さくなっているぶん、新作のほとんどがそのどちらかに集約されているように見える。そのうち、レンタルビデオ屋の壁一面に「マトリックス」と「タイタニック」がずらっとならんでいるみたいに、本屋の棚にも同じ本ばかりがならぶようになるかもしれない。で、残りの2割は旧作の文庫化。漫画は日本の文化なんて言われている割にはずいぶん薄っぺらい感じがする。小説の場合は、図書館へ行けば絶版になったものも少数出版のものも読めるけど、漫画の場合は入手自体が困難になってしまう。漫画をわざわざアマゾンで注文するのも気がひけるし、続編を見つけるまでにまた3年かかりそうな気配。

 いっしょに辻邦生と福永武彦の小説も探すが、こちらはすべて絶版になっていた。いまどき辻邦生なんて誰も読まないんだろうか。出版は文化だなんて偉そうなこと言っているわりには、こういう部分で所詮商売という出版社の本音が顔をのぞかせる。どうせなら著作権や版権は作家が死んだ瞬間に即消滅させて、インターネットで自由に読んだり聞けたりできるようにしたほうが良い。そのほうがずっと文化的だ。本人が死んでしまっているのに、権利だけが死後50年も70年も残るなんてどうなってるのって感じ。あ、これ、疑問のページに加えよう。

■ A piece of moment 3/9

 半日かけて、永住外国人の地方参政権についての資料を書く。アタマ使いすぎて知恵熱が出そう。それにしても、こうした政治問題は、インターネットのサイトで様々な資料が公開されていて便利。検索するだけで良質な資料や考察が次々と出てくる。もしインターネットがなかったら資料集めだけで半月くらいかかったと思う。資料を公開してくれているみなさんに感謝。
→ 永住外国人の地方参政権

■ A piece of moment 3/11

 結局、「お父さんは急がない」の続編をインターネットで注文して読む。1巻目とくらべると雰囲気や間合いの可笑しさが薄まっていてやや単調な感じ。書き手のほうがあきてしまったのかな。1巻目の最後に出てくる鎌倉へ行く話が全体のクライマックスだったような気がする。1巻目を読み返しながら、なぜかルイ・アームストロングの「What a wonderful world」がアタマのなかで鳴り響いて、押入をひっくり返してCDを探す。

I see trees of green, red roses too
I see them bloom, for me and you.
And I think to myself... what a wonderful world.

I see skies of blue, and clouds of white
The bright blessed day, the dark sacred night.
And I think to myself... what a wonderful world.

The colors of the rainbow, so pretty in the sky
Are also on the faces of people going by.
I see friends, shaking hands, saying "how do you do"
They're really saying, "I love you."

I hear babies cry, I watch them grow;
They'll learn much more than I'll never know
And I think to myself... what a wonderful world
Yes I think to myself..... what a wonderful world.

私は見る緑の木を、赤いバラを/それは咲きほこっている、私とあなたのために/そして私は思う、なんて素晴らしい世界だろうと/私は見る青い空を、白い雲を/光に満ちあふれた日、聖なる闇につつまれた夜/そして私は思う、なんて素晴らしい世界だろうと/虹の色があんなにきれいに空に映えて/道行く人の顔にまで映っている/私は友人たちを見る、彼らは握手をし、はじめましてと言っている/彼らは本当は愛してるよと言っているんだ/私は聞く、赤ん坊の泣き声を、私は見る、彼らが育っていくのを/彼らはたくさんのことを学ぶだろう、私よりもはるかにたくさんのことを/そして私は思う、なんて素晴らしい世界だろうと/そうだ、私は思う、なんて素晴らしい世界だろう/

■ A piece of moment 3/12

 生徒のボランティア活動を学校で必修にしようという動きがある。社会に奉仕する精神を育み、社会的弱者への思いやりや人をいたわる気持ちを育てようというのだそうだ。こういうことを思いつく人間というのは、いったい自分のことを何様だと思っているんだろう。人を思いやる気持ちは大事だ。でもそれなら、自分から率先して行動するべきであって、子供や若者にやらせようという発想はそこからかけ離れている。子供や若者は社会を反映する。子供に人をいたわる気持ちがなくなっているのは、社会全体がそういう傾向であることを反映しているにすぎない。そういう社会傾向を無視して、学校でのボランティア活動を必修にしたところで、子供たちは「やらされている」という意識しか持たないだろう。生意気盛りの中高生や多少知恵のある小学生なら、その社会的矛盾を容易に見抜くはずだ。そこから生まれるのは、所詮、命令する側にまわらなければ損をするという弱肉強食の社会認識である。したがって、人をいたわる気持ちが大事だというなら、そう考える者がまず率先して自らの行動で示し、その背中を見せるべきである。自分では何もしない者がお前たちやれと号令をかけたところで、若者たちは納得しないだろうし、人を思いやる気持ちなど生まれるはずがない。それはふだん本など読んだことのない親にいくら本を読めといわれたところで子供が本を読むようにならないのと同じ理屈である。社会は教育を変えることができるが、教育は社会を変えることはできない。組織的に実践する場合でも、上部組織に所属している者からやらなければ意味がない。教師にサービス業や接客業を体験させる研修を行っている自治体があったが、あれなども、大臣を筆頭に文部科学省官僚や教育委員がまず率先して牛丼屋でどんぶり洗いをやるべきである。彼らにはそれをする義務がある。高級官僚たちがノーパンしゃぶしゃぶで接待を受けながら、最近の若者はモラルが欠けているといったところでブラックジョークにすぎない。ふつう、社会の上部組織に所属し、大きな権限を持つ者ほど社会的責任も大きくなる。実際、アメリカの場合、公立大学の教授や連邦政府の上級職員には年数回のボランティア活動が義務づけられている。ところが、日本社会の場合は上部組織に所属することで社会的責任が免除されるしくみになってしまっている。それが特権意識を生じさせ、若い連中に「やらせる」という発想をもたらす。その構図は、若者たちに突撃せよと自爆させ、士官たちは後のほうから命令するだけで突撃することのなかった帝国陸海軍の時代からまったく変わっていない。

■ A piece of moment 3/14

 2月3月の映画は、新旧・話題になったのそうでないのとり混ぜての20数本。良かったのは「たそがれ清兵衛」「薔薇の眠り」「 マイ・ビューティフル・ランドレット」「ヘドウィク・アンド・アングリー・インチ」「悪い奴ほどよく眠る」の5本。今月はアタリが多かった。「たそがれ清兵衛」、藤沢周平の原作に流れる美意識を上手に映像化していた。真田広之演じる主人公は、東北の小藩の下級武士。そのあまりにつましい暮らしぶりと愚直さに驚かされる。うつむいてしょぼしょぼと歩き、同僚から軽んじられても声を荒げたりしない。その姿は時代劇のサムライにありがちなやたらと大声を張り上げたりする様子からほど遠い。ところが、物語が進むにつれて、ただ日々をまっとうしようとする主人公の生き方が鮮やかで愛おしく感じてくる。全編を通じて庄内弁なのも効果的だった。主演の真田広之も花があって良い。藤沢周平の小説は「三屋清左衛門残日録」をはじめ、映像化された方がしみじみとした味わいの中に鮮やかさが加わって印象に残る。ただ、地上波のテレビ放送で見たが、あまりにもCMが多い。テレビ局、儲けすぎているんじゃないか。「薔薇の眠り」、デミ・ムーア演じる主人公はニューヨークで出版エージェントをしているキャリアウーマン。彼女は毎晩、眠るたびに自分がフランスの田舎町でふたりの子供を育てている母親になっている夢を見る。そこではニューヨークでの暮らし同様に時間が流れ、生活が展開していく。その二重生活をくり返していくうちに、主人公はどちらが本当の自分なのかわからなくなっていく。後述する「GOUST IN THE SHELL 攻穀機動隊」同様に意識と自分という存在を問いかけているが、こちらのほうが日々の暮らしを愛おしむ眼差しがあってずっといい。「 マイ・ビューティフル・ランドレット」、ロンドンの下町を舞台に、そこに暮らすパキスタン移民たちの暮らしぶりと労働者階級の若者たちの様子がたんねんに描かれていく。以前、イギリスではドロップアウトした若者たちが左翼に走る傾向があると書いたが、ここではファシスト運動に参加して、自分たちの不満をパキスタン移民にぶつけている。彼らを「パキ」と侮蔑的に呼び、あいつらがイギリスを汚しているという。その様子は日本での外国人労働者の状況とほとんど変わらない。一方、パキスタン移民たちが信じるのは血のつながりと力関係だけだ。麻薬売買をはじめとした荒っぽいやり方で、イギリス社会から金を引き出そうとする。そうした両者の対立を背景に、パキスタン移民の青年と労働者階級の青年の同性愛が展開していく。ときどきイギリスの階級制度は職能の分業制としてうまくいっているという人がいるけど、そういう人はこの映画を見てほしい。労働者階級の若者たちの閉塞感とルサンチマンは、ビクトリア朝時代の貧民街の様子とほとんど変わらないように見える。「ヘドウィク・アンド・アングリー・インチ」、ゲイのお姉さんのロックミュージカル。グラムロックをベースにしたステージパフォーマンスと主人公のお姉さんの壊れっぷりが格好いい。主人公のヘドウィクを演じるジョン・キャメロン・ミッチェルは監督・脚本・プロデュースをかねていて、作品には彼の思い入れと手作り感があふれている。ヘドウィクはときどきはっとするほど美しい。ただ、そのぶん、主人公にばかりがクローズアップされていて、主人公をとりまく人たちの描き方が薄っぺらいのが残念。とくにヘドウィクが思いを寄せる青年はあきらかに役不足だ。そこまでていねいに描くことができたら、「トーチソング・トリロジー」みたいな美しい物語になったのに。「悪い奴ほどよく眠る」は3年ぶりの再見。何度も見ているけど、毎回わくわくする。黒沢明の前へ前へ進んでいく押し出しのいい演出はこういう話にぴったりだ。黒沢明の作品では個人的にこれがベスト。松本清張の原作もいい。

 もうひといきだったのは、「評決」「評決のとき」「冷たい月を抱く女」「平成ガメラ3作」「GOUST IN THE SHELL 攻穀機動隊」の5本。「評決」は15年ぶりの再見。ポール・ニューマン演じる主人公は離婚訴訟専門の三流弁護士。仕事への情熱も理想も失い、酒浸りの生活を送っている。そんな彼のもとに若い夫婦が訪れる。彼らは病院の医療ミスで植物状態になってしまった姉の弁護を依頼する。主人公は、当初、適当な示談金をもらって丸く収めようとするが、植物状態になった依頼人の姿を見て、長年わすれていた正義感が彼の中で目ざめはじめる。同時にこの訴訟こそが自分の人生を立て直す最後の機会だと自覚する。そこまでは良い。だけど、彼の思いは空回りし、ずさんな調査と訴訟準備のまま思いこみだけで突っ走ってしまう。依頼人が示談を希望しているのに、それさえ無視して訴訟に踏み切ってしまう。正義の押し売りはまずいでしょう。そんな主人公のスタンドプレーが気になって、裁判シーンは終始後味が悪い。主人公の描き方と訴訟の展開にもうひと工夫あれば、すごく良い作品になったのに。主人公が酒場で出会う謎の女を演じるシャーロット・ランプリングは良い。彼女の存在がどうにか物語を支えている感じがする。主人公の救いも彼女との関係にある。ラストシーンは胸にしみる。「評決のとき」、タイトルが似ていてやはり法廷ものだけど、こちらはぜんぜんダメ。いいかげんなストーリーとハンサムなのだけが取り柄の薄っぺらい主人公。裁判の判決もまったく腑に落ちない。ただ、主人公をサポートする役どころでサンドラ・ブロックが登場するのが一服の清涼剤になっている。早口でまくしたてる彼女のキャラクターは魅力的で、彼女のほうを主人公にして別のストーリーにすれば良かったのに。一応、ストーリーを説明すると、アメリカ南部の田舎町が舞台、人種差別主義者の白人ふたり連れが、通りがかりの黒人少女をレイプし半殺しの目にあわせる。ふたりはまもなく逮捕されるが、保釈金を払い仮釈放される。それに怒った女の子の父親は留置場へ押しかけマシンガンを乱射。ふたりを射殺し、つきそっていた警官の片足まで吹き飛ばしてしまう。主人公の若くハンサムな弁護士はこの父親の弁護を担当する。主人公の弁護方針は無罪主張。えっ無罪主張はないだろうって思うんだけど、KKKのこれみよがしな脅迫や妨害の中、正義のハンサム君は最終弁論でトマホークミサイルを発射し見事無罪判決を勝ち取ってしまうのであった。ひええ。アメリカ人は復讐が大好きなんでしょうか。「冷たい月を抱く女」、これも10年ぶりの再見。ニコール・キッドマンというともうこれと「誘う女」のイメージが強すぎて、何やっていてもこういうエグイひとに見えてしまう。映画自体は面白いっていえば面白いんだけど、その仕掛けにもう少し緻密さと心理描写に掘り下げが欲しいところ。序盤で起きる猟奇殺人が本筋にぜんぜん関係なかったり、共犯の外科医はよく考えたら医師免許をはく奪されるほどのリスクを犯しているのに見返りがなかったりとストーリーはかなりいいかげん。「平成ガメラ3作」、評判が良かったのでガメラもまとめて見る。1作目はテンポの良い展開で怪獣映画のつぼを押さえて作っている感じ。怪獣の登場する場面では夜の闇の中に現れるようにしていて、映像の作り方もうまくいっている。ハリウッド映画とくらべてしまうとちゃちいけど、そのへんはご愛敬。ストーリーは2作目が一番良くできている。ただ2作目はなによりも怪獣の造形が悪い。触手がうねうねする造形は最近の流行りなのかもしれないけど、あの形は体全体を使っての躍動感がなくて、アクションシーンで栄えない。怪獣同士の格闘こそ怪獣映画の見せ場なのに躍動感がなくて、爆発と閃光の特殊効果だけで見せようとしている感じ。3作目は全編を通して暗いトーンで黙示録的な話になっている。特殊効果は1作目、2作目とくらべてずっと洗練されている。ただ、シリアスに怪獣の存在の意義をつめていったあげくストーリー自体が破綻してしまっているのは致命的。後味の悪い話になってしまっている。「GOUST IN THE SHELL 攻穀機動隊」、5年ぶりの再見。脚本はガメラと同じ伊藤和典。「薔薇の眠り」のところでも書いたが、こちらも意識とは何かを問いかける話。ただ、こちらの主人公は、国家警察の特殊部隊に所属し、暗殺や破壊工作といった非合法活動を行うアンドロイドで、はじめから私生活が失われてしまっている。パーソナルな部分があらかじめ欠落している者が、自分の存在や意識を問いかけてもそこには茫洋とした感触しか得られるはずがない。したがって、人格を形成するのは記憶の集合体すぎないという短絡的な設定となり、物語の中では偽の記憶を植えつけることで人為的に別人格をつくり人を操るというゴースト・ハックという犯罪が横行している。そんなおぼろな世界のおぼろな話。5年前に見たときは、映像に圧倒されてむむむとうなったけど、冷静に見ると底が浅い。コンピューターネットワークは情報をふやしてくれるが意識を拡大してはくれない。いまにして思うと、電脳空間が人間の認識自体を変えるかのようなファンタジーはあまりにもプリミティブだ。そこを押さえると、登場人物たちがしたり顔で国家論や認識論を述べるのがすべてくすぐったく感じてしまう。まもなく公開の押井守の新作「イノセンス」も似たような電脳ファンタジーなんだろうか。「GOUST IN THE SHELL」や「アヴァロン」で展開されている電脳世界は、脳と意識の関係をブラックボックスにしたまま同道めぐりをくり返しているだけにしか見えない。

■ A piece of moment 3/21

 散髪をする。例によってこうしたいという明確なイメージのないまま、あいまいな注文をして切ってもらう。毛先をギザギザに軽い感じでとか切りそろえないで流れがつくようにとか襟足は短めにとか。毎度おなじみのメガネのおっちゃんは、ほいほいとやけに景気良くじゃきじゃき切りはじめる。ばばばばばっとハサミを縦に入れたりして手つきは鮮やかなんだけど、羊の刈り取りみたいに大量に床へ落ちていく髪の毛を見ながら、不安がふくらんでいく。はい、じゃあ流しましょうね、はい、乾かしましょうって、濡らされたりドライヤーでなでつけられたりして、さっぱりどんな格好になっているのかわからない。家に帰ってから、しみじみとながめる。できあがったアタマは、上の方がざん切りで、もみあげがぼさぼさと長い。まるでおさるのモンチッチかロンドンブーツの赤いほうみたいだ。打ちのめされる。こういうのが最近の流行りなんだろうか。いや、おっちゃん、これはたんに雑なだけじゃないの。明確なイメージを描いていなかったとはいえ、これはなんか違うぞ。違うことだけはともかくわかるぞ。次回こそは、いまだ見えない理想型、遙かなイデアの地平線を目指して、見本の写真集かなんか見ながら打ち合わせをしようと決意するのであった。

■ A piece of moment 3/23

 阪神をやめたタブチくん、選手の血液型で指導法を変えるそうだ。「ええ、B型の選手は唯我独尊なところがあるからね、こっちのやり方を押しつけるとまずいんですよ」って、アンタ、キャバクラで酔っぱらっておねえさん口説いてるんじゃないんだからさ、コーチ生活20年のキャリアの末にたどり着いた指導法がそれかい。ちょっと軽すぎやしませんか。なじみの女将かママの入れ知恵なんだろうか。本気で言っているとは思えないんだけど、ラジオから聞こえてくる声は冗談とも思えない口ぶりで、血液型占いのうんちくを語り続けていた。そういえば野村克也も血液型、人相、四柱推命もろもろの占いの信奉者で、ヤクルト時代に飯田をセンターにコンバートした理由について「耳の小さい奴っていうのはですね、向こうっ気が強くてですね、猪突猛進、周りを見ない傾向があるから、内野で細かいプレーをさせるより外野のほうが向いてるんですよ、ええ」と揺るぎない事実であるような口ぶりで語っていた。こちらはサッチー直伝にちがいない。きっとさぞや当たるんだろう。彼は新庄のことをさかんに宇宙人と呼んでからかっていたが、野村カントクのほうも現代人とは思えないのである。で、タブチくん、ラジオ出演でのひと言、「ところで、あなた、血液型は何型?」。ああ軽い。

 先日、ふとグリム童話の「ねずの木」の話が気になって、本棚の奥の方からほこりまみれの岩波文庫を引っ張り出す。ついでにいくつかの話をつらつらと読むが、釈然としない話が多い。近代の小説的展開に慣れている者としては、話の筋の脈略のなさがやけに不気味である。わけのわからない暴力や不条理な悪意が多い。あと、身体が変形する話が多いのもグロテスクな印象を受ける。おかげで、読後にもやもやとした不快感につきまとわれる。ついでに、インターネットでグリム童話についての資料を検索したところ、こちらのサイトに出くわす。
 → 『グリム童話/メルヘンの深層』全文
 法政大学で身体表現を教えている鈴木晶さんの個人サイトの一部で、このページでは彼が書いた講談社現代新書版の『グリム童話/メルヘンの深層』をまるまる1冊ぶん読むことができる。本が実質的に絶版になったので、全文をWebサイトに掲載したとのこと。やけに気前のいい人である。内容のほうは近年のグリム研究の成果をふまえて論旨が展開されており、グリム童話への既成概念を鮮やかに壊してくれる。明瞭で論理的な文章も心地良い。夜中に読みはじめて止まらなくなり、とうとう徹夜してしまった。論旨をざっと紹介するとこんな感じ。

1.グリム童話がドイツ土着の民間伝承であるというのは間違った認識である。グリム兄弟は民俗学的な手法をもちいて民話の採取をしていないし、そもそも田舎へ行って年老いた農婦たちから昔話を聞いたりなどしていない。ほとんどの話が都市部に住む女性たちから聞いたおとぎ話で、彼女たちはインターナショナルな経緯をもつ知識階級に属している。当時、すでにフランスで出版されていたペロー童話とかぶる話が多いのはそのためである。さらに、グリム兄弟は本にまとめるにあたって大きく手を入れており、グリム童話におさめられた多くの童話は実質的にグリム兄弟による創作物といえる。グリム童話がドイツ土着の民間伝承であるという認識は、19世紀のドイツ・ナショナリズム運動のなかで政治的につくられた幻想にすぎない。

2.グリム童話について、近年、精神分析的研究がさかんだが、グリム童話は土着の民間伝承ではないので、その分析を人間の普遍的心理とみなすのは誤りである。グリム童話の多くは実質的にグリム兄弟の創作物なので、むしろ、その分析は19世紀ドイツ社会における知識階級の意識を読み解くことになる。

3.弟のヴィルヘルム・グリムは版を改訂するごとにさらに大きく手を入れている。兄のヤーコプ・グリムは原形を残すことを主張したが、弟は民俗学的資料としての性質よりも子供に読んできかせる童話としての実用性を重視する。そのため、2版以降はヴィルヘルム・グリムひとりによって改訂され、その内容は当時のドイツ社会の道徳観に合わせた教訓話になっていく。ヴィルヘルム・グリムは6回にわたって改訂しており、最終版の7版が決定版とされている。書きかえの方針はすべての話で一貫した傾向があり、各版を比較することで、しだいに性的な表現は削除され、女性の登場人物が非能動的な受け身の存在になっていく様子が読みとれる。初版では活発だった女性たちは、決定版になると王子からのプロポーズをただ待っているだけの貞淑でしとやかな性格になっている。これは当時のドイツ社会における知識階級のモラルを反映したものといえる。

4.グリム童話には、手足を切り落としたり、目をくりぬいたり、皮をはいだりといった描写が多く、現代人にとってはきわめて残酷に見える。ヴィルヘルム・グリムは性的表現については神経質なほど手を入れたが、暴力的な表現についてはほとんど書き改めることなく決定版に残している。そのために、グリム童話がことさら残酷であるかのような指摘がされているが、これは当時と現代との社会状況の変化にすぎない。当時のドイツでは、戦争や飢饉が続き、また身体に加える刑罰も行われていた。そのため、こうした暴力表現はとくに残酷とはみなさず、子供に聞かせるお話の中にもそのまま残されたといえる。

 とまあいう感じで、グリム童話をドイツ土着の民間伝承だと思いこんでいた私には、新鮮な驚き。目から鱗が落ちました。本のほうも手元に置いておきたいと思い、今日、古本屋をまわって購入する。

■ A piece of moment 3/24

 本屋で丸田祥三の写真集「廃車幻想」を手に取る。どのページも廃車になったクルマたちで埋め尽くされている。かつてクルマだった残骸は風景の中でゆっくりと朽ちていく。機械であることの痕跡を残しながら、ゆがみ、へしゃげ、錆を浮かせ、雑草の生い茂る景色に溶けていく。それは甘く切ない。丸い目をした優しい顔の廃車たちは、クルマとして町中を走っていたときよりも朽ちていく姿にぬくもりを感じる。生活の道具であることをやめ、社会的存在でなくなったことで、すぐ身近にありながら見知らぬ世界との境界線に存在しているようなたたずまいを見せる。写真集にはいくつかの短い文章が収められている。そこでは未だ多くの人たちの記憶にある高度成長期の姿が語られている。それはクルマを所有することで幸せになれるかのような幻想を抱いていた時代の姿だ。過去に引きつけられるのではなく、過ぎ去ったものと現在との距離を見つめようとするまなざしのなかで、高度成長期の社会に起きた光と影がスケッチされる。そこで描かれる出来事は歴史におさまるには生々しすぎ、一方で、いま自分がいる場所からは地続きでありながら遙かに遠い。本屋でしばらく迷った末、写真集を買って帰ることにした。

 この丸田祥三さん、Webサイトも持っていて、そこでいくつかの写真も見ることができる。硬質なモノクロ映像で廃墟を撮した初期の作品は見ていると吸い込まれていくような気がした。
 → 丸田祥三写真館
 1970年代の東京・国分寺は宅地化の波が押し寄せてきていて、戦後まもなくに建てられたくすんだ板壁の平屋と真新しい二階建て住宅とが混在していた。町のあちらこちらで建て売り住宅が建設され、あちらこちらに古い家を取り壊した廃材置き場があった。廃材置き場は子供たちの格好の遊び場だった。体中に擦り傷をつくりながら乱雑に詰まれた柱や壁の中に潜り込み、少しずつ廃材を動かしてはモグラのようにトンネルや通路を張りめぐらした。廃材は二階建ての屋根近くまで積みあげられていたように思う。その一番底に潜り込むと、強い木の香りがした。同時に、廃材が家の一部だった頃の生活の臭いがかすかにした。よく見ると廃材のひとつひとつには落書きや油にしみが残っていた。その狭く薄暗い空間に昼寝部屋をつくった。廃材の奥底の空間は夏でもひんやりと心地よく、そこに潜り込むとこの世界に自分たちしかいないような気がした。廃材の一番高いところには見張り台をつくった。ゆらゆらする足場をのぼり穴からはいでると、家々の屋根が下の方に広がっていた。そこからは自分がまだ行ったことのない遠くの裏道や見たことのない家々まで見渡すことができた。このままどこまでも廃材がうずたかく積まれればいいと思った。見上げるほど高く、遙か彼方まで廃材が積み上げられたらどんなに良いだろう。どこまでも見渡せる見張り台をつくり、誰にも見つからない深いところに隠れ家をつくり、町の至る所へ出られる抜け穴を張りめぐらすことができる。世界中がすべて廃材とがらくたで埋め尽くされればいい。そこではすべてのものがゆっくりと朽ちていく。そんな子供の頃の記憶が丸田祥三の廃墟の写真を見ながらよみがえってきた。

■ A piece of moment 3/25

 「女性セブン」の先週号を探している。あ、アナタ、いまバカにしたでしょ。じょせーせぶんなんてねえって。うちのゲヒンな母親ですらあの手の女性週刊誌は見下しているみたいで、ゴシップとセックス記事ばっかりで読むと知能指数が100下がるなんてえらそうに言っていたけど、意外なことに特集記事はけっこうしっかりした内容になっている。先週、散髪したときにぺらぺらめくっていたら、死刑についての特集記事があって、読むとこれがちょっとびっくりするくらい良く書けている。特集記事は6ページにわたって、日本の死刑の現状と問題点が取り上げられている。硬めのニュース雑誌でこの手の問題を扱うといきなり各論になって細かい部分の指摘になってしまうんだけど、そこはなんせ「女性セブン」、まず、導入部分で麻原判決をはじめとした最近の凶悪犯罪をめぐる刑事裁判と死刑判決についての現状が基本的な部分から解説される。で、そこから展開して、拘置所での死刑囚の状況や死刑制度の問題点が法曹関係者や刑務所職員への取材を織り交ぜながらかなりつっこんだ指摘がされていて、6ページの中できっちりと日本の死刑制度の全体像がとらえられる内容になっている。読みながらむむむとうなる。そういえば、前に読んだときは日本の宇宙開発についての特集記事で、こちらもしっかりした内容だったし、「女性セブン」はあなどれないのである。ライターさん、がんばってます。発行部数多そうだし、取材費もけっこう出るのかもしれない。もっとも、特集記事が女性タレントの同棲をすっぱ抜いた記事とセックスの体位紹介だかへんなダイエットの紹介する記事にはさまれているあたりは、ご愛敬。で、授業の資料に使おうと本屋を覗くが、先週号だったのでもう置いていない。古本屋ではどこも週刊誌は扱っていないみたいだし、小平中央図書館では「女性セブンも女性自身もありませんっ」とふんって感じであしらわれる。けっ。6ページの特集記事のためだけにバックナンバーを取り寄せるのも気がひけるし、どうしたものか。美容院か銀行にでも行って、先週号の「女性セブン」もらえませんかと頼んでみるべきだろうか。

■ A piece of moment 3/26

 先週、10ヶ月ぶりにバイクのエンジンオイルを交換する。エンジンの底にあるボルトをはずし、真っ黒になったオイルを抜き取り、飴色の真新しいオイルを注ぐ。ついでにオイルフィルター、ゴム類、ワッシャーも新しいものに交換。ガラガラゴロゴロと重たい音をたてていたエンジンは嘘みたいに軽やかに回りはじめる。アラ、マッチャン、デベソノチュウガエリ。こんなに良く回るエンジンだったのね。オイルは少しずつ劣化していくので、ガラガラ具合をまあこんなもんだろうと勝手に納得していた。ゆっくり変化していくものほど変化に気づかないまま慣れてしまうのであった。エンジン様も性能が発揮できるようになってちょっと嬉しそうだし、もっとまめに手入れしてやろうと悔い改めるのでありました。作業中に廃油を少しこぼしてしまう。ふき取っておいたが、道路のアスファルトには黒いしみが付いてしまった。ご近所のみなさん、すいません。高峰秀子のエッセイを3冊まとめて読む。

■ A piece of moment 3/27

 「飛び入学と飛び級」について、メールをいただいたのを機に解説文を大幅に加筆修正する。
 → 飛び入学と飛び級

■ A piece of moment 3/31

 バイクのキャブレターがオーバーフロー気味でガソリンが漏れる。エンジンは好調だしアイドリングも安定しているんだけど、キャブのフロート室からじわじわとガソリンが漏れていていつもガソリン臭い。1年前に買ったときからの症状で、以来、ずっと気になっていたんだけど、キャブレターの修理に関してはいまひとつバイク屋はアテにならない。以前、別のボロバイクに乗っていたときに、いいかげんな修理をされてぜんぜんなおってないのに代金を請求されたり、変ないじり方をされてかえって調子が悪くなったりしたこともあるので、部品だけを購入店にクレーム扱いで取り寄せてもらって修理は自分でやることにした。自分で分解すれば構造を理解できるので、乗っているときにキャブレターがどう作動しているのかわかるぶん安心感がある。要はていねいに確実にやればいいのだ。と、人生の真理を悟ってから早10ヶ月、月日は百代の過客のごとしでキャブレターの分解修理はヒジョーに面倒くさいのでほったらかしていたのであった。まあ、走るぶんには支障ないしさ、今度すごくヒマなときにでもやろうねって感じで、本当は毎日ヒマだったのにだらだらとガソリンを漏らしながらだらだらと先送りしてきたわけです。ほら、トルコのことわざに「明日できることは今日やるな」ってあるでしょ。で、先日、オイル交換したのを機に、一念発起、キャブレターの分解清掃を決行する。予想どおりの大仕事で、日曜から月曜にかけて二日がかりの延長戦となる。まず、車体からキャブレターを取り外すのに一苦労。シートをはずしてガソリンタンクをはずして、エンジン側のジョイントとエアクリーナー側のジョイントをゆるめて、いざキャブレターを外……外れない。ぐりぐりねじりながら力ずくで無理矢理外す。取り外したキャブレターは細かい部品が多く埃を嫌うので、室内で分解清掃することにする。台所の流しにキッチンペーパーを敷き詰め、そこでキャブレターにクリーナーを吹き付ける。みるみる溶け出していく茶色い液体。さらにフロート室を開け、内部もクリーナーで清掃し、バルブを分解するべくフロートピンを抜……抜けない。ポンチの軸が太くてフロートピンを最後までたたき出せない。ここで力まかせにキャブ本体をひん曲げてしまうと全損3万円コース。むむむと思案の末、ホームセンターに自転車を飛ばし、軸が2ミリ程度の細い釘を購入。釘の先を平らに削り、それをポンチ代わりに小さいハンマーで慎重にたたく。ころりと抜けるフロートピン。どうにか成功。フロートを外し、フロートバルブをアッセンブリで新品に交換。ついでに取り寄せてもらっておいたスロージェットとメインノズルも新品に交換。フロート室のOリングも新品に交換し組み込む。これだけ徹底的にやれば3年間ほったらかして腐食ガソリンでキャブレター内部がげろげろになったバイクだって走り出すぞ間違いナイ。なんて長井秀和ごっこをしていたらすっかり日が暮れてしまったので、日没順延、続きは翌朝に持ち越し。部屋中にキャブレタークリーナーの猛烈な臭いが充満する中、晩飯を食い、映画を観て、鼻をつまんで寝る。夢の中でまでアンモニアとシンナーとガソリンが混ざった強烈な臭いがしてうなされる。吐きそう。日が変わって月曜朝、天気予報では午後から雨とのことなので早起きして作業開始。込み上げるゲロを反芻しつつキャブレターを車体にはめ込むべく格闘する。外す以上に難しい。格闘すること小1時間、へとへとになって断念。うまくはまらないばかりかせっかくぴかぴかに磨き上げたキャブレターは車体のグリスで油まみれになってしまう。ぬおお。再度キャブレターを清掃し、今度はエアクリーナーボックスを外してから、キャブをはめ込むことに方針変更。エアクリーナーボックスは3本のボルトでフレームに固定されているんだけど、ボルトを外してもフレームに引っかかってしまって動かない。なんてこったい。結局サブフレームまで取り外す羽目になる。ああ腰が痛い。どうにかエアクリーナーボックスを後にずらしてエンジンとの間隔を広げ、キャブレターをはめ込むことに成功する。で、ワイヤーやらゴムホースやらをつなぎ、エアクリーナーボックスをもとに戻してフレームを戻して、ガソリンタンクをえっちらおっちらはめ込んで、ああもう嫌。ともかく仮組みして、エンジン点火。ばばばばばと動き出すエンジン、どうやら成功の模様。たばこで一服し、アイドリングの様子を観察する。安定しているようなので、アクセルワイヤーを調整し本組みする……はずなんだけど、今度はワイヤーまで手が届かなくて調整ナットをいじれない。仕方ないので再度ガソリンタンクをえっちらおっちら取り外し、ワイヤー調整。ああめんどくさい。空冷単気筒エンジンのくせになんでエンジンまわりがこんなにみっちり詰まってるんだろう整備性悪すぎやしませんか本当はわざと意地悪くつくってるんでしょヤマハさん今度の株主総会は覚悟しとけよと強い決意を抱きつつ、アクセルワイヤーの遊びを調整し、タンク、シート、サイドカバーをはめ込んでどうにか完成。「シンコーショーケン、お昼ですっ」とラジオが脳天気な声で正午を告げる。昨日から合計9時間も格闘していたことになる。甲子園球児なみである。肩を壊してプロからスカウトが来なかったらどうしてくれるんだ。気を取り直して近所を一周。エンジン快調、俺様天才、ねえねえ聞いて聞いてキャブレターの分解修理に成功したんだよって、よく考えたらエンジンはもともと快調だったのであまり威張れないのであった。見えない箇所の修理をいくらがんばっても人は理解してくれないものである。本屋を何軒か回り、バイクを止めるたびにガソリンの漏れをチェックする。どうやら漏れも止まっている様子でほっと一安心。お疲れお疲れ。ボルトのまわしすぎで指先がじんじんと痛い。バイク屋がキャブレター修理で手を抜こうとする気持ちが大いにわかったDIY2DAYSなのであった。

■ A piece of moment 4/7

 先週、約2年ぶりに母親に会う。車いすの祖母を押しながら花見をする。「オマエ、まだ学校で教えてるのか。センセーなんて呼ばれるようになっちゃおしまいだな」って、大きなお世話である。

 明日から授業が始まる。去年と違ってなにやらはじまりがやけに早い。今年度は毎日びったっと授業が入っていて忙しくなりそうなので、それまでに部屋の大掃除をしておこうと一大決心する。引き出しや押入に詰め込んだ服を引っ張り出し、虫に食われたスーツや黄ばんだシャツといった前世紀の遺物を片っ端から処分する。何年も前に買ったままほとんど履いていないズボンもサイズが合わなくなっていたのでこれもえいやっと捨てる。脱皮した虫の気分。育ち盛りである。結局、処分するものだけで大きなゴミ袋で4袋ぶんにもなる。総量で3分の1くらい減って少し風通しが良くなった感じ。

 発掘したシャツやズボンを今度はまとめて洗濯する。何年も奥の方に詰め込まれていたのでカビくさい。気合いを入れて洗う。大量の洗濯物を片づけながら、ラジオのニュース解説を聞く。テーマは川口外相が中国側にクレームを出したというインターネットの「反日掲示板」についてで、コメンテーターはで東海大学の葉千栄。それによると掲示板の書き込みは主張だけでなく言葉の用い方に至るまで「にちゃんねる」や「ヤフ−ジャパン」での中国人差別や韓国・朝鮮人差別にそっくりとのこと。それは戦争を体験した世代の反日意識とはまったく異なり、一人っ子政策のなかで物質的豊かさと親の愛情を独り占めして育った中国の若い世代が大国意識を持ち、その肥大化した自意識とナショナリズムから日本人をあざ笑う内容だという。興味深い。葉さんは「にちゃんねる」や「ヤフ−ジャパン」の裏表の関係といっていたが、歴史から学ぼうとしない傾向はどこも一緒らしい。互いにナショナリズムをぶつけることが何をもたらすかは20世紀の歴史を見れば一目瞭然なのに。掲示板のかき込みで中国に文句をつけた川口外相、国内では「にちゃんねる」や「ヤフ−ジャパン」でのかき込みを取り締まるよう注文をつけるつもりなんだろうか。そんな大掃除の1日。

■ A piece of moment 4/13

 連日授業でへとへと。風邪をひく。邦人イラク人質事件、外務省官僚が「危険地域へ自ら行ったのだから自己責任だ」「未成年をああいう場所へ行かせてしまうなんて親としての自覚にかけてるのではないか」と発言。ひええ。さらに、人質の家族宅には連日嫌がらせの電話。恐ろしい。こうした言動には「国の政策の足を引っぱって迷惑」という発想しか見えてこない。家族が死ぬか生きるかっていう時に役人が発言するべきことではない。外務省官僚は自分のことをパブリック・サーバントや国民への奉仕者ではなく、日本の支配者かなにかだと勘違いしてるんじゃないのか。恐ろしいのでそういう人は早く役所を辞めるべきである。こんな人が自衛隊の「人道支援」を熱烈に支持する人道的な人だったりするっていうのはブラックジョークでしかないのであった。

■ A piece of moment 4/22

 この春はあたたかい日が多いせいか4月の2週目からおけらの声が聞こえる。こちとらもおけらで給料日が待ち遠しい日々が続いている。カネもないのに物欲モードに突入。授業が身体測定で中止になったので、空っぽの財布を抱えて新宿各店を回り念入りに価格調査を行う。帰宅後、散歩をかねてディスカウントストアも見物する。猛烈に新しい枕と敷き布団がほしくなる。低反発ウレタンフォームというのが最近の寝具業界のトレンドらしい。じんわりとへこみゆっくりと押し戻してくる感触がなんといえず心地良くて、カネが入ったら買おうと決意する。寝てる時間が人の倍くらい長いので、寝床の居心地は最重要課題。2時間近くかけてあれこれ感触を試す。ああ欲しい。すっかり日も落ちて、おけらのジージーいう声を聞きながら帰宅。からりとした陽気で気持ちの良い晩だった。

■ A piece of moment 4/23

 近所のスーパーから帰ってくると玄関が開いている。出るときにちゃんと閉めてこなかったらしい。半開きのドアからのそりのそりとトラ縞のネコが出てくる。目が合う。寅蔵、きょとんとした顔で悪びれもせずすたこらと去っていく。念入りに探検したらしく畳には点々と足跡が残っていた。イギリスのことわざにネコは好奇心で命をおとすとある。玄関を開けておくと道行く人たちがこちらをのぞき込んでいくように、ネコも戸の隙間はやっぱり気になるのであった。

 諸星大二郎の新連載がはじまったので、半年ぶりに「ネムキ」を買う。ふた月に1回しか発行しない雑誌なのに連載のほとんどが続きものの漫画で話のスジが理解できない。ネコの4コマ漫画が気に入る。

■ A piece of moment 4/28

 天気も良いので自転車で立川の高校まで出勤する。懐かしい国分寺の町並みを抜け、30分少々で到着。10キロ弱、運動不足解消にちょうど良さそうな感じ。気持ちの良い季節なので雨の降らない日はなるべく自転車で行くことにする。20年もののぼろぼろマウンテンバイクはハブのグリスが切れてるみたいで、車輪が転がるたびにゴロゴロという感触が気になるけど、他はとくに不具合もなく片道10キロ弱の通勤なら十分。このまま乗ることにする。

■ A piece of moment 4/29

 なんという失態、おばあさんはあっけにとられていたし足は痛いしガソリンだらけになるしみっともないし、バイクはこっちが下敷きになっていたせいで傷ひとつなかったけどさ。発端は今日も良い天気なのでオートバイでもみがこうかと思ったことだった。ワックスを掛け、ついでにチェーンに油もさすことにする。うちのバイクはセンタースタンドがないので、後輪を持ち上げるのはけっこう面倒くさい。面倒くさいので、家の前の通りでバイクを30センチずつちょびちょび動かして油をさしていく。ああじれったい。やはり後輪を持ち上げて一気にやることにする。サイドスタンド側にバイクを大きく傾けて後輪を持ち上げる。よいしょ。バランスが微妙で不安定だなあ……!?○×△……倒れるバイク。おまけにそのままバイクの下敷きになる。なんとか立てなおそうと下敷きになったままジタバタもがくがバイク持ち上がらない。身動きがとれないまま道端でもがくこと数分、今度バイクを買い換えるときはセンタースタンドがあるやつにしようああそれにしても空が青いなあ幼稚園の頃ガチャガチャの指輪をあげたルリコちゃんはいまどうしているんだろうもしルリコちゃんがいま偶然通りがかってこの下敷きになっている姿を見てしまったらどうしよう僕もう明日から幼稚園へ行けないなんてことが走馬燈のように脳裏を駆けめぐっていたら、買い物帰りのおばあさんが通りがかる。「すっすいません……あの……てっ手を貸してもらえませんか?」。

■ A piece of moment 5/5

 ん?高橋克実って誰それ、彼は梨元のセガレでしょ、最近はバラエティの司会までやってるんだね。時代劇とサスペンス劇場専門かと思ってた、あと「ショムニ」。えっ違う?違わないよナシモトのセガレだよ、ほら芸能レポーターの梨元勝のセガレ、えーとなんて言ったっけ、ああそうそう梨本謙次郎、「ショムニ」の部長やってたじゃない、えっ「ショムニ」の部長も高橋克実だって、誰よ高橋克実って、あれは梨本謙次郎でしょ。えええ梨本謙次郎を知らないの?そもそも梨元勝に役者の息子がいるなんて聞いたことがない?ほら、よく時代劇の人情ものでワケあって人を殺めてしまう過去のある男を演じてるじゃない、あれよあれ、あとサスペンス劇場の刑事役、渡辺いっけいじゃないよ渡辺いっけいはわかるってああそうですかオヤジと違って芸能レポーターはやらないのかなあ、ん、なに番組そろそろ終わる時間だからテロップをよく見ろって?そんなもの見なくてもあれは梨本謙次郎……。

 この一件以来、小生、嘘つきと呼ばれて肩身の狭い思いをしています。なに言っても「あーはいはい」って俺はボケ老人じゃねえぞ。「トリビア」も「ショムニ」も高橋克実ですってあーそうですかい。あ、もしかして梨本謙次郎って名前を変えたんじゃないの……。

 → 梨本謙次郎氏画像「Nashiken in TV」

■ A piece of moment 5/11

 ようやく給料も入ったので、低反発ウレタンフォームの敷き布団を購入。9000円也。じんわり凹んでゆっくり押し戻してくる感触が何ともいえず心地良い。慢性腰痛との決別を期待しつつ15時間睡眠モードに突入……と思ったら、真夏日の陽気に誘われて蚊が活動開始。羽音が気になって目が冴えてしまった。くうう。

■ A piece of moment 5/17

 低反発ウレタンフォームのマットレスは良い感じ。目がさめたときに腰に違和感がないのは画期的。これは枕も低反発ウレタンフォーム素材にしてみる価値があるような気がする。最近、寝違えたのかずっと首に違和感があって猛烈に枕も新調したい気分である。あと、バイクのシートも低反発ウレタンフォームは効果的らしい。雑誌によると長時間のツーリングでも尻が痛くならないとのこと。時代は低反発ウレタンフォームなのである。ということはトイレの便座にも効果的なはず。30分や1時間の長便でもトイレライフは快適にちがいない。いっそ床も壁もテーブルも部屋中敷きつめておけば地震の時も安全である。あっこれはもう宇宙船エンタープライズ号の乗組員たちにも教えてあげなきゃ。毎週、宇宙人に攻撃されて、その度に乗組員たちは固そうな床や壁に頭をぶつけて死んじゃってるし労働環境は劣悪なのである。ああ野麦峠。カーク船長もピカード船長もこれ以上ジュラルミンの床むきだしで宇宙船を飛ばそうとしたら、乗組員たちは待遇改善を要求してストライキをはじめたりプラカード持って行進したり山猫闘争したり資本家の搾取を糾弾したり女性の自立を訴えたりしはじめるにちがいない。ストライキ回避のための唯一の妥協案は低反発ウレタンフォームしかないのである。というわけで低反発ウレタンフォームの寝床が待っているのでもう寝なきゃ……極楽極楽。

 授業のページの「女性知事の土俵入り」を加筆修正。

■ A piece of moment 5/24

 イカスミスパゲッティーで腹を下す。真っ黒な物体にあたふたと動揺する。
 あきる野市で温泉開発というニュース。へえと思ってみていたら、水温27度の「お湯」を沸かしなおして利用するとのこと。どこが温泉よ。
 どうにか中間試験の問題を完成させる。へとへと。

■ A piece of moment 6/3

 今日は授業もないし試験問題も作り終わったし天気も良いしでバイクに乗る。エンジン点火、ゴーゴー、とりあえず甲州街道を道なりに行ってみよう。高尾通過、空気がひんやりして気持ちいい、大垂水峠通過、のろのろ運転の工事車両でつっかえて数珠繋ぎになっちゃったけどまあいいや、大月通過、空気がカラッとしてて気分良い、どんどん行こうゴーゴー、笹子トンネル通過、うおぉこんなに長いトンネルだったのね、甲府盆地が目の前に広がる、絶景かな絶景かな、ゴーゴー、韮崎越えて白州越えて、ついでに名水をペットボトルに詰めて峠を越えたら信州、山の緑と田んぼの照り返しがまぶしい、まだまだ行けるゴーゴー。とうとう諏訪湖に到着。道程180キロ5時間。下道だとこんなもんかな。しばし湖畔でごろ寝。6月の諏訪湖は結氷も御神渡りもワカサギ穴づりもないけどやけに光あふれる景色が広がっていて妙にリゾートな気分。さあ昼飯食って帰るべっておっとっとちょっとふらつく。東京まで180キロの帰り道に不安がよぎるのであった……。

■ A piece of moment 6/5

 結局、ふらふらのよれよれで8時すぎに帰宅。もう諏訪湖日帰りはやめよう。翌日は授業4連発。なんだかまだ体がふわふわしてる感じのまま、自然法と人権について講義する。どうにかこうにか4発終わらせて、さあ家に帰って爆睡しようと思ったら、玄関のポストに奨学金返せと振り込み用紙付きの手紙を見つける。よく見ると返済額が例年の倍近い額になっている。日本育英会が独立法人化された影響だろうか。いきなり30万円なんて返せるわけないじゃん。役人たちは社会保障のなんたるかがわかってないんじゃないのか。ふてくされて寝る。

■ A piece of moment 6/6

 まだ体のあちこちが痛いし左手の握力ももどらないけど、懲りもせず夜中にバイクを走らせに行く。エンジン点火、ゴーゴー。とりあえず今夜は16号を横浜方面へ。流れは速いけど案外混んでいて、信号の度にスタートダッシュをくり返す。ぜんぜん面白くない。横浜から横須賀へ抜ける。路面が悪い上に路駐と工事が多くてやたらと走りにくい。さらに面白くない。横須賀から三浦半島を回ろうかと思ったけどすっかり退屈してきたので、適当な道で右折して逗子から鎌倉へ抜ける。夜の鎌倉の海は、弧を描く海岸線に点々と街灯と家々の明かりが連なっていて、夢の中の風景のようで吸い込まれそうになる。高速コーナの連なる134号をハイペースで飛ばす。我がオフロードバイクは重心が高すぎるのか高速コーナーでラインがぶれて少々恐い……って俺がヘタなだけか。タイヤの空気圧が少し高すぎるのか、サスペンションの動きが渋くなっているのか、やけに路面の凹凸を拾う。とりあえず、ガソリンスタンドのエアーコンプレッサーは空気圧の設定がいいかげんみたいなので、今度、安いエアゲージでも買うことにしよう。左手に海を見ながら闇の中に吸い込まれそうな海岸通りを江ノ島から茅ヶ崎、平塚と抜ける。平塚で大きな橋を渡ったところで右折し、129号を北上、東の空が白みかけた頃に帰宅。200キロ弱の道程、計5時間。

■ A piece of moment 6/13

 やたらと評判の良かった「ミスティック・リバー」を遅ればせながら観る。3年ぶりの高田馬場の名画座。う〜ん、釈然としない決着のつけ方にモヤモヤしたものが盛大にたまる。私は評価できません。ラストはあんまりじゃないか。ショーン・ペンのへらへら顔に「貴様そこに直れ」って感じ。映画を観ながらのどに何か引っかかったような違和感を感じで、嫌な予感がしたら案の定、扁桃腺を腫らしてダウン。これで2ヶ月ごとに扁桃腺で熱を出していることになるわけで、満員電車でゲホゲホやってる人がいるたびにうつされそうな気がして眉間にしわが寄るのであった。そういやこのところ車内でゲホゲホやっている人が多いような気がする。

 録画しておいた成瀬巳喜男の「流れる」を寝床から観る。

■ A piece of moment 6/20

 風邪をこじらす。ガラにもなく無理をおして授業4連発なんてバカなことをやっていたら、のどが腫れて声が出なくなってしまった。こんなことしても誰も喜んでくれないし、さっさと仕事休んで寝てるのが一番。ほら、時々いるでしょ、風邪ひいてゲホゲホやってたり交通事故にあって松葉杖ついてたりするときに限って俺ってこんなに仕事熱心なんだよってアピールするみたいに生き生きと出勤してくる人。風邪ひいちゃってさぁ今も熱が39度もあるんだよぉいやぁまいったよハハハなんてやけに嬉しそうな人。そんな自己満足、誰も喜んでくれないので家で寝ててちょうだい。ハーイそうしまーすっていうわけで来週は心の声に従うことにするのであった。

 そういえば、今年度の勤め先は両方とも進学校で、とくに片方では進学指導に力を入れているようで、職員室では「一橋の過去問でさあ」とか「東大の出題傾向が」なんて会話が飛び交っている。授業をした感触だと、生徒たちは偏差値が少し高いだけのごくふつうの若者たちという印象なんだけど、職員の多くはうちの生徒は特別と思っている様子が日常会話の端々に垣間見えて、鼻につく。外部講師の講演があったときには、「あの程度の内容じゃうちの生徒の知的レベルに達していないよ」なんて鼻持ちならない発言が職員室で飛び交ったりしていて、どうも生徒よりも職員の方がエリート意識を持ってる様子。滑稽である。進学校を卒業し有名大学を経てそのまま進学校に教師として就職したりするとああいう価値観が形成させるんだろうか。それとも最近は都立高校でも成果主義導入で教え子を何人東大に送り込んだかによって給料や昇進に差がつくようになったんだろうか。ともかく職員には今どきめずらしいほど学歴社会の伝道者という感じの人物が多くて、ちょっとしたカルチャーショックを受けている。学問を身につけることを否定はしないが、それはたくさんある資質のひとつにすぎない。魚釣りがうまいとか料理が上手とか足が速いとか体が丈夫とか虫歯がないとかね。昔、学校の教師が大嫌いなうちの母親がよく「教師ほど人を職業や社会的地位で判断しようとする連中はいない」と言っていたのを思いだしたのであった。

 第二次大戦中にドイツからアメリカに亡命したユダヤ系の社会心理学者にアドルノという人がいる。彼は戦後、ナチスを支持した人々についての心理分析を行い、「権威主義的パーソナリティ」という著作の中でその傾向を指摘する。興味深いのでそのいくつかをならべてみるとこんな感じ。
・人間を人柄ではなく、生まれや社会的地位で判断しようとする。
・みずからの所属する集団を絶対視し、他集団に排他的・攻撃的な姿勢を示す。
・自律的判断を放棄し、集団内の命令や規範に服従する。
・強者にへつらい弱者を見下す。
・現実主義と称して理想主義的な努力を冷笑する。
 ギャングや暴力団のような集団にその典型が見られるけど、よく考えたら日本社会全体にこういう傾向があるような気がする。集団主義的で序列社会の傾向が強いもんね。

 ところで先週書いた成瀬巳喜男の「流れる」はひさしぶりの良い映画だった。下町の老舗の芸者置屋で繰り広げられる人間模様だけど、テレビのホームドラマみたいに登場人物たちはベタベタともたれかかるような人間関係は形成しない。微妙な距離を取りながら互いに遠慮したり衝突する様子が繊細な描写で描かれる。大人だなあ。ラストはたまらなく切ない。見終わって、生きていくって大変だよなって気分。こういう映画を見ると周りにいる生身の人間の方がマンガチックで薄っぺらく感じる。

■ A piece of moment 7/24

 この暑い中、バイクの大型免許を取るために教習所へ通うことにする。思いたったが吉日、人生は短いのだ。もっとも、そう決意したまでは良かったんだけど、ほとんど20年ぶりになる教習所はさっぱり勝手がわからない。受付の女性がものすごい早口で手続きの手順をまくしたてるのを薄ぼんやりと聞き、状況がつかめないまま1回目の教習を受ける。とりあえず何も考えずにただバイクに乗って教官の言う通りにやってれば何とかなって自動的に免許がもらえるだろうくらいのつもりで構えていたらいたら、後にこれが大間違いだと思い知らされる。体は動かないし、教官にあれやれこれやれと指示をされてもそれに何の目的があって何をチェックされているのかさっぱりわからない。漠然とぐるぐるコースを回っていたら、「アナタ、ぜんぜんできてませんよ」と教習3回目にしてはやくも落とされる。1回落とされるとその度に3800円の追加出費、これはいかんと帰りに古本屋に寄って大型二輪の教習本を買い込む。あらかじめ予習しておかないと教習について行けそうもない。理解してからできるようになるまで時間がかかるのだ。そんなこんなでへとへと。連日気温は37度を超えてるし。二輪教習を受けている同輩諸氏のなかにはバイク初心者ふうの若者やずいぶんなまってる感じのおじさんもいたけど、みなさん指示されたその場でちゃっちゃとできてるんだろうか。暗雲立ちこめる。「A Whiter Shade of Pale」が突然聴きたくなって棚の奥から引っ張り出す。
 A Whiter Shade of Pale

We skipped the light Fandango
Turned cartwheels 'cross the floor
I was feeling kind of seasick
But the crowd called out for more
The room was humming harder
As the ceiling flew away
When we called out for another drink
The waiter brought a tray

And so it was that later
As the Miller told his tale
That her face, at first just ghostly
Turned a whiter shade of pale

She said there is no reason
And the truth is plain to see
But I wandered through my playing cards
And would not let her be
One of sixteen vestal virgins
Who were leaving for the coast
And although my eyes were open
They might just as well've been closed

And so it was that later
As the Miller told his tale
That her face, at first just ghostly
Turned a whiter shade of pale

And so it was....
 ついでに訳してみる。過ぎ去っていった青春の馬鹿騒ぎの日々。そんな歌詞。

 青い影

私たちは軽いファンダンゴのリズムに合わせてスキップしていた
カートにつまずいて向こう側へやってしまった
まるで船酔いしたみたいな気分だった
それなのに仲間たちはさらに大声を張り上げて叫んでいた
天井が飛んでいきそうなほど部屋ははげしく家鳴りしていた
私たちが大声で注文すると、ウェイターはトレーごと持って来た

だから、ミラーが自分の物語を話し出したときにはもう遅すぎた
彼女の顔は一瞬、幽霊に見えたほど青白くなっていた

彼女は言った、理由なんかない、真実は明瞭なものだと
私はトランプを散らかしていた
彼女を海岸へ去っていった古代ローマの聖女にはさせない
私はまだ目を開けていたけど、ほとんど閉じているのも同じだった

だから、ミラーが自分の物語を話し出したときにはもう遅すぎた
彼女の顔は一瞬、幽霊に見えたほど青白くなっていた

■ A piece of moment 8/3

 教習所は7月末に無事卒業。悔い改めた甲斐あって卒検もどうにか1回で通る。でも、大型免許を取ってもバイクを買い替える予定もなく、ぜんぜん気分的に盛りあがらないのであった。連日37度の炎天下の中、汗で塩しおになって教習受けたんだから、免許所得にあたってはもう少しカタルシスがほしいところである。関係ないが、毎年この時期になると、エンヤの「カリビアン・ブルー」とジュリアン・バーンズの小説「10 1/2章で書かれた世界の歴史」を思い浮かべる。両者の印象は完全に対になっていて、あの物語を思い浮かべると頭の中に波間を滑っていくようなあのメロディが鳴りはじめ、あのメロディを思い浮かべると物語の中の波間にあてどなく流されていく不条理な情景の数々が広がっていく。すると自分は今こんなことをしてる場合でなく、丸太をくり抜いた大型カヌーで太平洋に漕ぎだして行かなきゃと思うのであった。府中の試験場で献血をする。5年ぶり。

 CARIBBEAN BLUE

...Eurus...
...Afer Ventus...

...So the world goes round and round
With all you ever knew...
They say the sky high above
Is Caribbean blue...

...If every man says all he can,
If every man is true,
Do I believe the sky above
Is Caribbean blue...

...Boreas...
...Zephryus...

...If all you told was turned to gold,
If all you dreamed were new,
Imagine sky high above
In Caribbean blue...

...Eurus...
Afer Ventus...
...Boreas
Zephryus...
...Africus...


 カリビアン・ブルー

……エウルス……
……アフェール・ベントゥス……風の神々よ

……そして世界は回りつづける
あなたのすべての知識と共に……
彼らは言う、遙か高みの空はカリビアン・ブルーだと……

もし誰もが全能だと言ったら、
もし誰もが正しいとしたら、
私は空の高みがカリビアン・ブルーだと信じるべきなんだろうか

……ボレアス……
……ゼピュロス……

……もしあなたの言葉がすべて黄金になったとしたら、
もしあなたの夢がすべて新しいとしたら、
思い浮かべてほしい、遙か高みの空がカリビアン・ブルーだと……

……エウルス……
アフェール・ベントゥス……
……ボレアス
ゼピュロス……
……アフリカス……

■ A piece of moment 8/29

 あっという間に夏休みも終わり9月がせまっている。
 大量の宿題を手をつけずにため込んだまま新学期を迎えようとしている子どもの気分である。
 というわけでこの夏にたてた目標とその成果を総括。

・大型バイクの免許を取る→達成
・岸田今日子が朗読した「銀河鉄道の夜」を聴く→達成
・八ヶ岳に登る→未達成
・バイクで信州から飛騨へ抜け、能登半島を回る→未達成
・クロの頭をなでる→達成
・新しいパソコンをつくる→達成
・その新しいパソコンに授業で使う資料映像を400時間分すべて記録させる→未達成
・ダンボール8箱分のビデオテープを処分する→未達成
・iPodを買う→達成
・iPodに録音した志ん生と圓生の落語を聞きながらツーリングに行く→未達成
・フーコーの「監獄の誕生」を読む→未達成
・年賀状をもらったまま返事を出していない人たちにお詫びと感謝の暑中見舞いを出す→未達成・すいません
・母親の顔を見に行く→未達成
・「ER」をはじめからまとめて百数十話見る→達成
・「風の谷のナウシカ」を十年ぶりに読み返す→本日達成
・新しい棚をつくり部屋の大掃除をする→未達成
・1学期に授業で書かせたレポートを評価し、かんたんな文集を作成する→未達成
・グールドのバッハ集をとおして聴く→未達成
・近所の駐車場に生えていた小さい薄紫の花の名を調べる→未達成
・自転車のタイヤに空気を入れる→未達成
・バイクのエンジンオイルを交換する→達成

 結局、モノが増えただけの2004年夏であった。お粗末。

■ A piece of moment 9/18

 iPodを買ったのを期に押入や本棚の奥の方から古いCDを引っ張り出して整理している。収穫はトム・ウェイツの古いCDが出てきたこと。懐かしくて聴き入ってしまう。彼の歌で描かれるのはスラム街や場末の売春宿で生きる人たちで、皆、生活にくたびれていてうつむき加減だ。彼の歌はそうした人たちを批判するわけでもなく励ますわけでもなく、ただ寄り添うようなまなざしを向ける。聞きながら漫画の「じゃりんこチエ」を連想する。85年の「Downtown Train」と83年の「In the Neighborhood」は名曲だと思う。Downtown Trainで歌われている列車は、本当の列車ではなく、ブルックリンの夜の町にずらっと並んで客引きをしている売春婦たちの比喩なんだと今回はじめてわかった。

IN THE NEIGHBORHOOD -- Tom Waits

Well the eggs chase the bacon
Round the fryin’ pan
And the whinin’ dog pidgeons
By the steeple bell rope
And the dogs tipped the garbage pails
Over last night
And there’s always construction work
Bothering you
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Friday’s a funeral
And saturday’s a bride
Sey’s got a pistol on the register side
And the goddamn delivery trucks
They make too much noise
And we don’t get our butter
Delivered no more
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

Well big mambo’s kicking
His old grey hound
And the kids can’t get ice cream
’cause the market burned down
And the newspaper sleeping bags
Blow down the lane
And that goddamn flatbed’s
Got me pinned in again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

There’s a couple filipino girls
Gigglin’ by the church
And the windoe is busted
And the landlord ain’t home
And butch joined the army
Yea that’s where he’s been
And the jackhammer’s diggin’
Up the sidewalks again
In the neighborhood
In the neighborhood
In the neighborhood

■ A piece of moment 10/28

 試験期間に突入し、毎度のごとく問題作成で四苦八苦している。
 今回は1年生の現代社会で「飛び入学」をテーマに授業を行ったので、学校と日本社会についての出題をしようと手元にある問題集と参考にしようとめくっていたら、変な問題に出くわす。90年のセンター試験に出題されたらしい。

問  日本の近代化の過程では、教育を受けるのは就職の手段である、という考え方が一般的になってきた。このことの背景を説明したものとして適当でないものを、次の1〜5のうちから一つ選べ。

1.学歴の経済的効用を重視する価値観は、第二次世界大戦後、外国からもたらされた。
2.個人の社会的地位が、家柄などよりも教育によって大きく影響を受けるようになった。
3.職業能力の基礎は、学校教育において形成されるところが大きい。
4.教育水準が上昇するにつれて、職業選択の幅が広くなる。
5.専門的・技術的職業につくには、教育水準が高いと有利である。
 どう見ても選択肢すべてが「適当でない」ものばかりである。センター側の言う「正解」は1だそうだが、2〜5を「適当である」と判断するには、よほど学校教育と学歴を全肯定しないとできないし、こういう問題もつくれないはずだ。まず1番。確かに間違っている。学歴の経済的効用は戦前からあったし、戦前の帝国大学卒はいまよりもずっと社会的地位や給料が高かった。ただ、こうした学歴の経済的効用が広く日本社会に定着したのは、戦後、産業構造が変化して労働人口の過半数が給与所得者になってからのことである。日本人の大多数がイモ作ったり魚捕ったりしていた時代、ほとんどの人にとって学歴の経済的効用は無縁だったはずである。帝国大学農学部卒業者が耕したイモ畑はプレミアがついたとでも言うのだろうか。2番。出題者は学歴社会がフェアーな競争社会だと言いたいのだろう。しかし、高学歴で社会的地位が高い親ほど子供の進学に熱心であり、親子の社会的地位や学歴は類似する傾向にある。高級官僚の親はやはり東大卒で高級官僚であることが多い。したがって「高い家柄」と「高い学歴」には共通性があり、社会階層が流動化しているわけではない。この現象は上野千鶴子に言わせると「社会の支配層にいる者が自らの地位のアリバイづくりのために学歴という尺度を持ち出しているだけ」となる。選択肢の「個人の社会的地位が、家柄などよりも教育によって大きく影響を受けるようになった」という表現は、あまりにも表面的にしか社会をとらえていない。家柄の高さと学歴の高さは正比例の関係にあるのだから、家柄の影響力が薄れたかのようにいう2番の表現はあきらかに間違っている。3番。本当に職業能力の基礎は学校で形成されているんだろうか。読み書きそろばんという点ではそうだけど、学校で学ぶ知識の圧倒的多数は実用にならないものである。高校時代に教わった社会科教師は「学校とはサラリーマン予備校である、だから詰め込み教育は正しいのである」と言い放っていたけど、この問題の作成者もそういう人かもしれない。さらにその教師は「芸術家だとか作家だとか創造性や個性を生かした職業につこうと思っているなら、本校にそぐわないからとっとと自由のなんとか学園にでも転校したまえ、あ、君、シャツの襟が曲がっているぞ」と続けた。ヒトラー・ユーゲントの学長みたいな人である。80年代半ばの管理教育と詰め込み教育が社会問題になっていたころの出来事だ。4番。一見正しいように見える。しかし、「教育水準」というあいまいな表現が気になる。おそらく問題作成者は、「教育水準」イコール「学歴」というつもりで作成しているのだろう。「学歴が高ければ職業選択の幅が広がる」という意味に解釈すると、日本の社会状況にあてはまる。しかし、教育水準という言葉にはずっと広い意味が含まれる。小さい子供に母親が良い絵本を読んで聞かせてあげるのも高い教育水準だし、近所のおじさんがケンカをしている子供をうまくさとすのも高い教育水準となる。良い絵本やおじさんの良い話が就職に有利に作用するかどうかはまったくデータがないため不明である。そもそも「教育水準の高さ」が「高学歴」とイコールとする問題作成者の視野の狭さと言語感覚が非常に気になる。言葉はもっと吟味して用いるべきである。5番。再び「教育水準」。これで選択肢4番の「教育水準」が誤植でないことがはっきりした。本気で「教育水準」イコール「学歴」だと信じているようで、鰯の頭も信心である。5番でもうひとつ気になるのは、「専門的・技術的職業」という表現。おそらくエンジニアや研究職、あるいは法律家や会計士といった職業を念頭に置いて「専門的・技術的職業」と言っているのだろう。そう解釈すると「エンジニアや法律家になるためには高学歴のほうが有利である」となり正しい。しかし、「専門的・技術的職業」には大勢の職人が含まれるはずである。宮大工の頭領なんて専門知識と専門技能が法被を着て歩いているみたいな存在だ。はたして宮大工の頭領になるには、大学の建築学部を卒業して弟子入りしたほうが良いのか、それとも中卒でたたき上げたほうが良いのか、あるいは、一流のコックになるには大学で食品衛生学を研究してから弟子入りしたほうが良いのか、10代半ばからたたき上げたほうが良いのか、やはり不明である。こういう問題を出題する人間は、はなから職人を眼中に置いていないのだろう。出題者の視野の狭さと傲慢さを感じる。文部省関係者だろうか。

■ A piece of moment 11/2

 ようやく試験期間終了。へとへとのふらふら。
 徹夜で採点を終わらせ授業4連発を乗り切る。学生時代、試験で徹夜勉強なんてしたことないのに、この仕事をはじめて以来、試験の度に徹夜である。何かがおかしい。世の中、何か間違っている。上の近況で批判した学歴をめぐる日本社会の状況は、4時間の長考の末、まったく内容を変えて次のような問題を出題した。上記のセンター試験への批判も込めて、正反対の内容となった。授業でこんなつっこんだ内容の解説はしてないけど、授業ではオウム真理教事件での若者たちの話もしたし、課題図書に上野千鶴子の「サヨナラ学校化社会」も指定してあることだし、まあいいでしょう。

問  日本の近代化の過程では、学校教育を受けるのは就職の手段であるという考え方が一般的になってきました。この日本社会の状況を説明した次の中から、間違っているものを選びなさい。

ア.学歴の経済的効用を重視する価値観は第二次世界大戦以前からあったが、戦後、産業構造の変化により給与所得者が増加するにともなって広く定着していった。
イ.高学歴で社会的地位が高い親ほど子供の進学に熱心であることから、学歴を重視する社会であっても、親子の社会的地位は類似する傾向にあり、社会階層が完全に流動化したわけではない。
ウ.法律家やエンジニアのような専門的・技術的職業につくには、大学や専門学校などで高等教育を受けている方が有利になる。
エ.高学歴であるほど職業選択の幅が広がるため、平均収入は上昇する傾向が見られる。
オ.学校教育を就職のための資格と見なす傾向は学校での授業内容にも影響を与えており、中学や高等学校の授業が受験指導に片寄りがちという問題が生じている。
カ.学校教育を就職の手段とした場合、重要視されるのは資格としての学歴となり、学校でどのような教育を受け、学び考えてきたのかという内容のほうが空洞化する問題をはらんでいる。
キ.高校や大学の入試で学力別に選別されることから、学力の高い若者ほどみずからの社会的責任を自覚している傾向がみられる。

 駅前で年賀ハガキを販売していたので、めずらしく年賀状を買う。それにしても2005年の年賀状、なんという現実感の欠落。2005年だなんて冗談としか思えない。こういう出来事に出くわすたびに、ひとつのイメージが頭をよぎる。本当はいま1999年で、自分は21世紀の夢を見ているのではないのか、アトムのいない21世紀の夢を長々と見続けているだけで、現実の自分は1999年に居続け、長い夢見にくり返し寝返りをうっているのではないのか。2001年も2002年も2003年も「今年」とされている2004年もつかみどころのないまま過ぎ去り、時間が過ぎ去っていくときのごつごつざらざらした手触りを残さない。本当に自分は2004年のいまに身を置いているんだろうか。

■ A piece of moment 11/12

 都立高校で生徒の社会奉仕活動の義務化が決定したそうだ。2007年度からのスタートのこと。何というバカげた決定。強制された奉仕は奉仕活動ではない。社会への奉仕精神を育み社会的弱者への思いやりの気持ちを育てるのが目的というが、むしろ逆効果である。今年3月の近況にも書いたけど、「やらされてる」という思いは他者への思いやりなど育まない。若者に社会奉仕の精神を育ませたいのなら、そう思う人間こそ、社会奉仕活動しろよ。その姿を見せることでしか、社会は変わらない。単純な論理だ。義務化というのなら、国会議員のセンセーと国家官僚、及び各自治体の教育委員にこそ社会奉仕活動を義務づけるべきである。彼らは立場上、社会奉仕をしなければならないはずである。毎年、3週間くらいゴミ拾いや便所のくみ取りでもやるべきである。老人の介護は、あの連中に介護される老人のほうに悲劇をもたらすので、人間相手のボランティアはやらせるべきではない。ノブレス・オブリジェという言葉があるが、社会的地位のあるものほどその社会的責任は重い。日本社会にこの基本原則が失われているからこそ、甘い汁を吸える側にまわらなければ損、他人を思いやるなんて馬鹿らしいという状況が生まれているのではないのか。そうした自分たちの社会的責任を棚に上げて、若者に「やらせる」という発想は、他人を思いやる気持ちから遙かに遠く離れたところにある。それは戦時中の滅私奉公の大義と何も変わらない。新兵が「お国のために」という大義名分によって、死にそうな目にあっていた一方で、将校はトンカツにかぶりついていたというではないか。日本社会の構図はそのころから何も変わっていないのではないか。ああ腹立つ。


都立高校「奉仕」必修へ 東京都教委が07年度に
朝日新聞 2004.11.11
 東京都教育委員会は07年度から、すべての都立高校に「奉仕体験活動」を必修教科として導入する方針を固めた。05年度は単位認定などに関する研究校20校を指定する意向で、新年度予算で300万円を財政当局に要求した。学校教育での奉仕活動を巡っては、森首相当時の私的諮問機関「教育改革国民会議」で義務化が検討されたが、「自発的でないと意味がない」などの反発で義務化を見送った経緯がある。
 都教委によると、都道府県立高校全体で奉仕活動を必修化するのは初めて。1単位(35時間)を、卒業に必要な単位として設定する予定だ。
 「奉仕体験活動」は学習指導要領に教科としては位置づけられていない。このため、各校が独自に設ける「学校設定教科・科目」として導入する。現在、希望者によるボランティア活動を単位に認定している都立高校は15校ある。新年度はこのうちの10校に新たに10校を加え、研究指定校にしたうえで、07年度から全校に広げる予定。
 都教委は昨年度、高校改革の一環として「ボランティアの日」を設定。各校で工夫して、車いすの修理や水害に備えた土嚢(どのう)作りなどに生徒が取り組んだ。
 奉仕活動は、戦後教育の見直しを目指した教育改革国民会議で浮上。自主性を基本とするボランティアと異なり、共同生活の中で義務付けるものとして検討された。
 都教委幹部は導入の狙いについて「内容はボランティア活動と変わらない。生徒がいろいろな人と交流し、活動を通してより広いものの見方ができるようになることを期待する」と話している。
 一方で都教委は、「ボランティア」でなく「奉仕」と呼ぶ理由について、「自主的・自発的に行うだけでなく、他教科と同じく教育課程に組み入れて必修化するため」と説明する。 (11/11)


■ A piece of moment 11/18

 近所の子供たちが「ヨン様ヨン様」と囃しながら通っていく。世の中いったい何がおきているの?そんな11月18日。授業で選挙制度を取り上げる。小選挙区の問題点で、ゲリマンダーについて解説する。ついでに鳩山内閣の「鳩マンダー」と田中角栄の「角マンダー」も紹介する。このネーミングセンス、聞く度にくらくらとめまいがする。ゲリーのサラマンダーまでは許すとして、「鳩マンダー」ですぜ、どうしますかい、あなた。生徒はなぜか真剣な顔でノートとっていたけど、生徒が熱心に「はとまんだ〜」なんてノートとっている様子に吹き出しそうになる。

 先月、授業で在日外国人の参政権をめぐって討論を行う。ひとクラス、やけに反対派の多いクラスがあって、小林よしのりみたいな発言が飛び交う。「在日朝鮮人に参政権を付与するなんて日本社会の破壊行為だ」なんて極端な発言まで出てくる。愛読者が多いのか、それとも担任の影響だろうか。共通していえる傾向は、認める側の発言に「〜なんじゃないかと思う」や「〜じゃないかな」が多いのに対して、認めない側の発言に断定調が目立つ。発言の是非はともかく、断定調連発で討論の方はもりあがる。テレビの討論番組に、右翼系の人物が必ずひとりふたり起用されている理由がヒジョーによくわかったのであった。

■ A piece of moment 12/9

 ようやく中間試験が終わったと思ったら、あっという間に期末試験である。もはや試験の度に恒例になってしまった徹夜の日々が続く。学生時代には試験勉強で徹夜なんかしたことなかったのに、この仕事をはじめてから毎度のごとく徹夜で、世の中、何か間違っている気がする。

 授業で、死刑の是非を取り上げる。このテーマをやると必ず「当事者の気持ちを尊重して」という発言が出てくる。ほとんどのケースで凶悪事件の被害者や遺族たちは、犯人の処刑を望んでいるんだから、死刑制度は残すべきだという主張だ。この主張は一見スジが通っているように見える。もしも自分がそういう状況に立たされた場合、やはり犯人の極刑を望む可能性は高い。しかし、自分がそう思う可能性があることとその感情に正当性があるかどうかは別の話だ。このことは、パレスチナ紛争を例にあげるとわかりやすい。イスラム教徒の自爆テロで家族を失ったイスラエル人は、多くの場合、徹底的な武力制圧を望む。一方、イスラエル兵に家族を射殺されたパレスチナ人は、自爆テロまでもふくめた報復を望むことが多い。被害を受けた当事者ほど、かたくなで強硬な姿勢になりやすい。こうした「当事者の気持ち」を尊重し、怒りと憎しみに社会全体が引きずられていくほどパレスチナ問題は泥沼へはまりこみ、平和的解決は遠ざかっていく。怒りと憎しみという強い感情は、周囲の共感を呼びやすく、強い社会的影響力を持つ。その結果、やっちまえという空気が生まれる。しかし、周囲の者がやるべきことは、当事者の感情にゆだねることではないはずだ。被害者に配慮しつつ、その一方で、冷静な判断が必要なのではないのか。同じことが死刑制度の是非についてもいえるのではないかと思う。

 先日、見知らぬ人から、死刑についてのメールをもらった。「あんた、自分の家族が殺されても死刑に反対なんて言ってられるのかよ」ではじまる走り書きのような短いメールだった。私がこのWebサイトに書いた死刑制度の是非についての文章が気にくわなかったらしい。ただ、この人物がどういう事情で私にメールを送ってきたのかが見えてこない。文面からするとこの人は凶悪犯罪の被害に直面していて、その体験のない私に当事者の気持ちがどんなものかを諭している、もしくは当事者である自分の心情を察してほしいと思っているように読める。もし、このメールの送り主が本当に凶悪事件の被害者であるのなら、私にはお悔やみを言うことしかできない。当事者に私のような見ず知らずの者が何を言ってもなぐさめることなど不可能だ。しかし、実際に凶悪事件の被害にあった者が、一面識もない私に対して自分の心情についてこのような乱暴なメールで送ってくるものだろうか。常識的には考えにくいことだ。この人物が実際の被害者でないにもかかわらずこうしたメールを送ってきたのだとしたら、私は強い憤りをおぼえる。自分はなんら被害を受けていないのに、犯罪被害者の気持ちを山車にして怒りと憎しみをまき散らす行為は卑劣としか言いようがない。このメールの送り主に、どういう事情でメールを書いてきたのかたずねてみたが、それっきり返事が返ってくることはなかった。

2005

■ A piece of moment 1/13

 年も明けて授業もはじまり、再び満員電車で通勤する日々がはじまる。
 痴漢をかばう気はないが、ただこれだけぎゅうぎゅうと詰めこまれると起こるべくして起こる犯罪に思える。見知らぬ人とまるで抱き合うかのように接触することを余儀なくされるなんてどう考えても異常な事態である。人間の持つ動物的な部分の許容範囲をこえている。あの状況でむらむらと性的欲求が起こってしまうのは自然なのであって、満員電車での痴漢はモラルと法律だけでどうにかなる問題ではない。むしろ満員電車の車内が夜祭りの乱交になってしまわない乗客の行儀の良さに感心する。かくいう私は痴漢に間違われると嫌なので両手で吊革につかまるようにしている。どうせ本なんか読んでられないし。そんな異常な状況が日常である日々。

 車内だけでなく駅の駐輪場も自転車であふれている。根本的に駐輪場が不足していて、無理矢理詰め込まれて壊されたり倒されたりして、自転車はすぐぼろぼろにされてしまう。壊されるのが嫌で駐輪場の外に停めると「放置」自転車と見なされて撤去される。別に放置したわけじゃないのに。あまりの状況なので市の管理課に電話をかけて問い合わせると、1年後に駅の反対側に有料駐輪場ができるという。でも、更地の無料駐輪場と違って、屋根付き電動カート付きの有料のほうは設備の充実度の点から見て、利用料金をよほど高く設定するか利用率が100%にでもならない限り、維持費はかかりそうだ。管理課の担当者に言わせると「受益者負担」の原則なのだそうで、財政難の昨今、有料の駐輪場を作ることはあっても、無料の駐輪場を増設する予定はないとのこと。なーにいってんの建設会社を儲けさせたいだけだろって感じだが、そもそも「受益者」についての認識が根本的に間違っている。駅に人が集まって利益を得るのは鉄道会社と駅前商店である。また、こういう問題は東京をはじめとした大都市圏の住宅地だけで、むしろ、日本のほとんどの地域では、逆に利用者が減って駅前がゴーストタウン化していることの方が深刻な問題になっている。都市部の行政と鉄道会社・駅前商店街は、嫌だけどぎゅうぎゅう詰めの電車を利用せざるを得ない住民の弱みにつけ込んで、問題を意図的に放置しているように見える。乗りたかったら乗せてやるぞただし混んでるなんて文句言うな、使いたかったら使わせてやるぞただし狭いなんて甘ったれんな、そんな調子で人口の多さにあぐらをかいている印象だ。高度成長期から40年、いっこうに改善されない満員電車と駅前状況を考えると日本の都市行政はあまりにも無策だ。

 なんてことを市の担当者と電話で議論しても一市民の声に耳を傾けてくれるほど日本の地方行政は民主的ではないので、市議会議員に要望をあげてみることにする。方向性としては間違っていないはずだ。日本の役人は議員さんの圧力に弱いし。無料駐輪場に賛成してくれそうな市議会議員を調べてメールを送る。返ってきた返事によると、駐輪場増設についてはそれなりに活動している様子。ただ市議会の主流派でないせいか駅前再開発の方針を変えるほどの力はないみたいで、見通しは明るくない。署名活動でもして無料駐輪場の増設を求める直接請求でもするべきなんだろうか。というわけで花小金井駅前の無料駐輪場増設に賛成という方、メールください。

■ A piece of moment 1/14

 碁をおぼえる。コンピュータ相手に3勝48敗。1980円のソフト、初級・9路盤の設定なのに、ぜんぜん勝てない。図書館で借りてきた「囲碁入門」でいちおうルールは把握しているつもりなんだけど、死活がちょっと複雑になると読めない。あれここどうなってるんだろうなんて曖昧な手を打っているとコンピュータ君が容赦なく急所に打ち込んでくる。おぼえたてなんだからもうちょっと手加減してくれよ。というわけで血も涙もないコンピュータ君じゃなくて人間相手にやりたい。ただ、おぼえたばかりで碁会所の戸をたたくのは気がひけるし、初心者歓迎の囲碁教室は受講料が月1万円近くもすることが判明して打ちのめされる。ヘボ同士で石取ったり取られたりしたいだけなのに、なんでこんなに敷居が高いんだ。神の一手を極めたいってわけじゃないんだからさ。公民館あたりでただで教えてくれる囲碁講座はないんだろうか。

■ A piece of moment 1/18

 NHKの番組改編問題について授業で取り上げる。戦争責任をめぐる国内世論の分裂を示す典型的なケースとして紹介する。自民党議員の政治的圧力によって改変されたとされるドキュメンタリー番組は、従軍慰安婦を取り上げたもので、ここ十数年、右翼とタカ派がとくに神経質に噛みついている問題である。従軍慰安婦問題は、約20年ほど前に韓国人女性が「自分は戦時中、日本軍によって強制連行され奴隷的待遇の中で日本兵のための売春を強いられた」と告発をしたことに端を発している。当時も日本の右派からは「事実無根であり彼女は日本を非難することで目立ちたいだけ」「彼女はお金めあてでみずから望んで売春をしたのだ」等の批判がおこるが、やがて戦時中の資料から日本軍が組織的に関与していたことが明らかになり、90年代に入ってからは日本の歴史教科書にも記載されるに至ったという経緯がある。従軍慰安婦問題が教科書に取り上げられるようになったことについても右派は不満に思っているようで、「自虐史観」の押しつけであると批判を展開している。数年前、センター試験に従軍慰安婦問題が出題された際には、今回の渦中の人物である中川議員が文科職員に出題者は誰だと詰め寄ったことは記憶に新しい。ただ、この右派の主張が今ひとつわかりにくいのは、日本軍による地元女性への売春強要は存在しなかったと言いたいのか、それとも、日本の戦争責任を追及するべきではないと言いたいのかがはっきりしないところにある。前者はいまだにくり返されている「彼女たちはお金めあての職業売春婦」という批判で、すっかり右派の広告塔のような存在になってしまった小林よしのりの『ゴーマニズム宣言』には、戦後のパンパンそっくりに描かれたパーマ頭に厚化粧の「慰安婦」が登場する。日本軍の組織的関与を示す資料が見つかり、国連もこの問題を戦争犯罪・組織的性犯罪と指摘している今になってもこうした主張を展開しているのは、戦時中に屈辱的な体験をした女性をさらに意図的に侮辱し貶めている行為以外の何ものでもないように見えるのだが、なぜか日本国内ではこの種の言説がかなりの支持を得ている。日本は悪くなかった式の夢想家が大勢いるということなんだろうか。一方、後者は、現在の価値観で過去を裁くべきではないというもので、一見筋が通っているかのように聞こえるのだが、その実は日本を賛美する価値観は大歓迎で「公正」であり、戦争責任を指摘する言論はすべて「自虐史観」「偏ったものの見方」「左翼イデオローグ」と噛みつく子供だましの理屈にすぎない。日本の近代史における戦争責任が100年後200年後どう評価されているかわからないというのなら、右派が躍起になって糾弾している北朝鮮の拉致行為も同様にわからないのであり、すでに自己撞着が生じている。日本の強制連行を「悪くなかった」という者が北朝鮮の拉致を批判するのは論理的に破綻している。我々がすべきことは、被害者・加害者という立場を越えて過去にあったことを常に検証していくことであって、ナショナリズムをぶつけ合うことではない。被害者が自分たちの被害をアピールすることでナショナリズムを高める政治的道具にし、加害者が開き直って自分たちは悪くないといっている限り、歴史から何かを学ぶことなど不可能である。ナショナリズムのぶつけ合いから生じるのは「今度は負けない」という敵意と狡猾さだけである。たしかに「自分たちを批判するのではなく讃えよう」という政治的主張は、日本国内だけのものではなく、多かれ少なかれどこの国にも存在する。ただ、この国で問題なのはそれがきわめて大きな勢力として強い政治的影響力を持っていることにある。政治家が日本は悪くなかった式の発言をしてその度にアジア諸国から批判されるにもかかわらず、いっこうにその種の発言がなくならないのは、選挙にまったく影響しないからである。支持率が下がるどころか、むしろ、ナショナリスト気どりのパフォーマンスをすることで右派・保守層の支持を得て政治的発言力が高まるという構図がある。今回の安倍、中川はその典型といえる。記者たちから実際に圧力をかけたのかと問われた安倍は、拉致問題から目をそらすために北朝鮮に操られた者たちがしくんだ陰謀だと答えたという。いったいどういう社会感覚の持ち主だろう。世論の分断を意図してあおっているとしか見えない。ツジマンかミロシェビッチにでもなりたいのだろうか。それにしても今回の事件、あのふたりはどういうルートで放送前の番組内容を知るに至ったのだろう。会長の海老沢をはじめとしてNHK幹部に自民党との太いパイプがあることはよく指摘されているが、もしNHK内部からのリークだとしたら放送局として自殺行為に見える。

■ A piece of moment 1/19

 夜中、録りだめていたドキュメンタリー番組を見る。
 興味深かったのは、今日の夜に放送されたイランの改革派新聞の活動を取材した番組。イランという国に抱くイメージ、イスラム革命による聖職者支配とイスラム原理主義、言論の弾圧のなかで窮屈な生活を余儀なくされる国民、しかしそうしたイメージに反して、番組に登場するイランの人々の社会意識は極めて高い。新聞記者たちが政治や社会の動向に敏感なのは当然だが、驚かされるのは街頭インタビューでの市民たちの意識の高さだ。イラン政府による言論統制について聞かれたおじさんは苦笑いしながらこう言う。「改革派新聞の記者は司法当局にびくびくしてる、(政府当局に取りつぶされた新聞社の)編集長たちは今も監獄だ」。また、街角の新聞スタンドで、ある女性はサダム・フセインの裁判がはじまったことをつたえる新聞の一面をみながら、こう答える。「サダムを誰が裁くの?アメリカ?サダムを生み育てたのはアメリカよ、でも彼が刃向かうとアメリカは抹殺しようとした、ビン・ラディンと同じよ」。見ていてやらせではないかと勘ぐりたくなるほど次々と切れ味の良い言葉が返ってくる。その様子からは、ブッシュの「悪の枢軸」という単純化された世界観からは見えないイラン社会の姿が浮かび上がってくる。アメリカ人の国際感覚の欠如は近年しばしば指摘されているが、イラン市民たちの様子はそれと対照的に見えた。

■ A piece of moment 1/20

 平田オリザを集中的に読んでいる。どれも面白い。彼の書く日本語論も演劇論も明快で切れ味するどい。戯曲を書く予定などないし、芝居をはじめるつもりも全くないにもかかわらず、問題点を解きほぐしていく手際の鮮やかさに夢中で読み入ってしまう。講談社現代新書に入っている「演劇入門」など、言っていることは当たり前のことだし演劇の基本中の基本なんだけど、こうしたことを理論化したものが今まで無かっただけに画期的な一冊ではないかと思う。知識人の偶像化はみっともないと思うが、それでもこういう人が同時代に存在していることを思うと嬉しくなってくる。数年前から桜美林大学で演劇講座のワークショップをやっているみたいだけど、機会を見つけて聞きに行きたいなと思う。

■ A piece of moment 1/21

 三年生の授業がすべて終了する。三学期は特別講習で少数の受講者相手にセンター試験対策やら時事問題を取り上げたりする内容だが、なぜか誰も教室に来ない。ずいぶんいいかげんだなあ半徹で資料作ってきたのにと憮然としていたら、翌日、生徒から、センセーどうして授業に来てくれないのと言われる。どうやら三年の特別講習だけ時間割が違っていて、すれ違いになったらしい。なんてこったい。授業時間が三年だけ違うのに学校側から一言の連絡もないなんてどういうこったい。「特別講習・村田・2時間目・教室番号・受講者」とだけ書いてあるぺら紙一枚が机に置かれてるだけの連絡で時間割が違うなんてわからんわい。でも確認しなかった俺も悪いのかな。ともかく生徒に謝って学校をあとにする。

■ A piece of moment 1/24

 以前、テレビで田辺聖子が関西にはちゃうちゃうがたくさんいるのよと言っていた。
 「ちゃうちゃうちゃうんちゃう?」なんのこっちゃい。
 それ以来、関西人がちゃうちゃうを連発しながら会話をしているのを見ると、関西でちゃうちゃうがうじゃうじゃ増殖して、そこら中で野生化してゴミ箱を荒らしたり食用にされてスーパーで売られていたり川渕チェアマンにちゃうちゃうが多すぎると文句を言われて1部リーグと2部リーグにわかれて入れ替え戦をやっていたりする場面が頭の中を駆けめぐるのであった。

■ A piece of moment 1/25

 授業のあと、新宿をぶらぶら歩く。三年の授業がなくなったので時間に余裕があるのだ。新宿はそこら中で工事をしていてビルド&スクラップのはげしい東京の縮図のよう。伊勢丹のエルメスショップのショウウィンドウを見るともなく眺めていたら、耳に押し込んだラジオのイヤホンからドンキホーテ放火事件の容疑者が捕まったというニュースが聞こえてくる。火元に落ちていたたばこの吸い殻から、唾液のDNA鑑定をして容疑者をたどったらしい。最近の警察は前科者のDNAサンプルまで登録しているんかいな。ニュースを聞きながらドンキホーテと伊勢丹とでは明らかに客層が違うことを思う。伊勢丹で有閑マダムふうのおばさんを眺めながら、日本社会の階層化は経済的だけでなく文化的にも進んでいるんじゃないかと思う。昨年、京大の経済学研究室が日本社会の貧富の差の拡大傾向を示す調査結果を発表してずいぶん話題になった。その調査では、現在、日本政府が行っている民営化推進や税制改革は、先進国の中で最も急激に貧富の差の拡大をもたらすと指摘されていて、賛否両論、議論の的になった。このレポートへの批判の中に、日本で貧富の差の拡大が進行しているのは事実だが、「階層化」というにはたんに経済格差だけでなく階層ごとに文化的な乖離がなければならないという指摘があった。つまり、日本社会では流行や文化現象はクラスレスで発生するというわけだ。例えば、ネイルアート。見るからに非実用的なファッションだが、あれはもともとアメリカの有閑マダム層で流行ったファッションなので、実用性は関係ない。彼女たちは家事雑務は一切、家政婦にまかせている人たちなので、日常生活の中で生爪をはいだり、爪水虫にかかって苦労するようなことはない。これが日本に入ってくると、富裕層もそうでない人も一斉に派手なつけ爪をはったり長々と爪を伸ばしたりするので、日常生活の中で様々なトラブルが生じる。日本のクラスレス社会の一端を示す文化現象というわけだが、でも、待てよと思う。アメリカのように極端に貧富の差が激しい社会を比較対象にすること自体、無理があるのではないか。ビル・ゲイツのような億万長者がいる一方で、6人にひとりが健康保険にすら入れない社会である。それと比較して日本は平たい社会だといったところで一体何の意味があるのだ。それは何も言っていないのと同じではないのか。また、伊勢丹を闊歩する有閑マダムたちを見ていると、そこには文化的な断絶があると考えた方が妥当に思える。彼女たちとドンキホーテ常連のヤンママに、何らかの文化的共有はあるのだろうか。なんてことを考えながら、新宿をぶらぶら歩く。お目当てのハードディスクレコーダー特価販売は見つからなかった。どう見ても自分の生活はドンキホーテのヤンママたちに近い気がする。

■ A piece of moment 1/28

 シャラポワ・フィーバーである。勝っても負けてもスポーツ新聞はシャラポワ。試合がなくてもつけ乳首疑惑でシャラポワ。もはやスポーツ新聞とおじさん週刊誌の女神様である。しかし、私および当サイトにとっての興味の対象はもちろん一球打つごとに下品な叫び声をあげるシャラポワなどではなく、だんぜんウィリアムス姉妹である。ウィリアムス姉妹の何が気になるか、もちろん、姉が「ビーナス」なのに妹が「セリーナ」である点である。どう見ても釣り合いがとれない。時代劇にたとえると、兄が「民部権大輔慶篤」なのに弟が「伝助」みたいなものである。これではお姉ちゃんとちがってあたしは拾われてきた子供なんだ橋の下に捨てられてたんだああ本当のお父さんお母さんに会いたいと思いつめても仕方ないのである。明らかに差別であり手抜きでありえこひいきであり虐待である。ねんのために語源を確認しておこう。
    ・Serena 【ラテン語】平穏な 光、公正、明るい
    ・Venus  【ラテン語】ローマ神話の美の女神
 同じラテン語源でも差は歴然である。姉が美の化身を名のるのなら、妹は「アフロディーテ」か「クレオパトラ」か「マリーアントワネット」か「タイタン」か「ヘラクレス」か「エステティックTBC」か「ああ女神さま」くらいでないと釣り合いがとれない。なんか違う気もするけどそうなのである。よって当サイトは、手抜きでえこひいきなウィリアムス親に代わって、妹を「アフロディーテTBC」ウィリアムスと命名するものである。本当はもっとならべたいところだけどこれ以上ならべるとじゅげむになってしまうのでこのへんで勘弁してやるのである。健気でいじらしい彼女は、いままで通り「セリーナ」と呼ばれても怪獣のような雄叫びをあげるくらいでじっと堪えるだろうが、当サイトは断固抗議するのである。

■ A piece of moment 1/29

 「ベネトンの広告」について、論点を整理して加筆。 →「ベネトンの広告」

■ A piece of moment 2/4

 10年近く前のことである。本屋の雑誌コーナで戦車模型専門の雑誌を発見したときの衝撃は今でも鮮明に覚えている。そんな狭い世界が雑誌として成り立つのか。棚に平積みされた雑誌を見ながら自分の目を疑った。たしかに、スケールモデルの愛好家はそれなりにいる。スケールモデルの中でも第二次大戦期の戦車模型は人気のある分野でもある。模型を作るのに4万円も5万円もするエアーコンプレッサーや旋盤を買ってしまうような熱心なマニアがいることも聞いたことはある。でも、いることはいても雑誌が成り立つほどの数とは思えない。もしも、オフィスで交わされる日常会話の中で、昼飯を吉野家にするか松屋にするかとまるっきり同じ調子で四号G型戦車と四号J型戦車の砲塔の比較が語られていたとしたら、あるいは入社3年目の女性社員たちがホカ弁をぱくつきながら、グアムでのスキューバ体験ではなく、75ミリ撤甲弾の形状について熱く語っていたとしたら、きっとその日は、いつもの場所にいつもの町並みがあるのか、今夜帰宅する先に本当に我が家があるのか、寝床の中で眠りにつくまで不安にさいなまれるはずだ。しかしそんな内容で埋め尽くされた雑誌が現実に創刊され本屋に置かれている。隔月刊の発行とはいえ驚愕である。編集長は土居雅博氏というその筋では有名なカリスマモデラー兼編集者。編集方針はもちろん一見さんお断りというかはなからまるっきり初心者など眼中にない誌面作りで、タイガー戦車の初期型・中期型・後期型の砲塔ハッチ形状の違い、東部戦線における各戦車中隊ごとの認識番号の特徴、鋳造砲塔表面の鋳型に由来する荒れの特徴、さらには東部戦線各地域における土質の違いとキャタピラについた泥の表現などなどなどが展開される。もはや子供の頃によくリモコン戦車を作ってよっちゃんとひっくり返し合戦をやったよなあとかそういう次元でついていける内容ではない。制作記事も非常に高度で、車体の前半分や上半分をフルスクラッチで作ったりキットのプロポーションを変えるために車高を2ミリ上げたり車幅を1ミリ広げたりするのは当たり前。イラストレーターが使うような高価なエアーブラシで塗装するのも当たり前。記事はそこからさらに上を目指すために、油絵の具を用いた錆の表現やパステルの粉をプラパテに混ぜ込んで作る泥汚れの表現といった職人芸の世界が繰り広げられる。六根清浄、精進あるのみ。読んでいるとたしかに作りたくはなってくるんだけど、それ以上に深い底なし沼に落ち込んでしまったような恐怖感と閉塞感をおぼえる。読者欄では、「腕を上げましたな」と互いに褒めあったり、「その解釈には致命的欠陥がある」と論争を繰り広げたりしている。資料と解釈に対して厳格であることこそマニアの証なので、些細な意見の相違はしばしば感情的な確執をもたらす。いったん深みにはまったらもう出口はないという感じだ。恐いので、数号買った後はもう見なかったことにしていたのだが、それでも本屋の雑誌コーナーに寄るたびに目に入ってきてしまう。そう、この雑誌、あれから10年たった現在もまだ続いているのである。もはや驚愕を通り越して畏敬の念すらおぼえる。日本語を用いる1億数千人のうち、いったいどれだけの人たちが吸着式地雷よけのコーティングをプラパテで表現する技法に目を輝かせているのだろう。我々が存在するこの世界は本当に10年前とつながっているのだろうか。ああ気が遠くなってくる。

■ A piece of moment 2/6

 以前から観たかった「ドッグヴィル」をレンタル店で借りてきて観る。期待に違わぬ濃厚な作品だった。観ながら心の急所をえぐられるような感覚をおぼえる。監督・脚本はラース・フォン・トリアー。彼の一連の作品は、いずれも観る者を追いつめるように物語は展開するが、今作はその中でも際だって鮮やかな手際で深いところへ引きずり込んでいく。

 舞台になるのは、アメリカの山奥にある小さな村、ドッグヴィル。閉鎖的で貧しく陰気な田舎によくある同質性の強い小さな共同体だ。その村にある日、ギャングから追われている若い女が逃げてくる。彼女がギャングから追われている事情や彼女の生い立ちは語られない。ただ、彼女の派手な身なりと思いつめた表情から村人たちは事情を推察する。話し合いの末、村人たちはこのよそ者をかくまうことにする。女は献身的に村人に接し、村にとけ込もうと様々な雑務を引き受ける。彼女は派手な外見に反し、囁くような穏やかな語り口で話し、聡明でまるで信仰のように村人の善意を信じる。はじめは疑心暗鬼だった村人たちは、しだいにそんな彼女を受け入れ、陰気な村にも互いの善意がもたらす明るさと活気が生じていく。しかし、彼女が村の中にとけ込み、遠慮がなくなっていくにつれて、村人の彼女への要求はエスカレートしていく。さらにその要求は、彼女がギャングに追われているという弱みと重なって際限なくエスカレートしていく。ギャングから匿ってやっているという意識が、村人たちに自分の要求の理不尽さから目をそらせ、それは当然の代償にすぎないという自己肯定をもたらす。そうして、彼女は村人たちから奴隷か牛馬同然の扱いを受けるようになる。女はこの小さな共同体に抱いていた隣人愛の希望を失い、村の暮らしと村人たちに絶望するようになる。村人のむごい仕打ちに無言の抗議をあびせるように悲しそうなまなざしを向け、理不尽な扱いにじっと堪える。村人にとっての彼女は、欲望と不満と自尊心のはけ口であるのと同時に自分たちの醜さを暴きだす鏡でもある。その後ろめたさを心の奥底へ押し込めようと村人はよりいっそう彼女を疎んじる。当初、村に暮らしに光をもたらしていたはずの彼女の存在は、村人たちの欲望と心の奥に押し込んだ後ろめたさによって、重くよどんだ空気をもたらしていく。

 エンディングで流れるアメリカを歌った歌詞は、主人公の女の信仰に似た人間性への信頼とその反動による極端な制裁を象徴していると解釈した。この物語、一見、利己心のかたまりのような村人たちが、人間性を全肯定する無垢な女を一方的に苛んでいるかのようだが、見終わって振り返ると、彼女のふるまいが村人たちを追い込んでいったようにも思える。全面的な人間性の肯定は同時に全面的な否定であり、違いを認めることのない同化は支配と服従をもたらす。あまりに重たい内容なので二度三度観たいとは思わないが、物語の場面場面が澱のようにたまって頭から離れない。

■ A piece of moment 2/9

 「まもなく!」「いよいよ!」「直前!」と四週間も前からテレビで言っていたので、とっくに終わってるのかと思ったら今日試合をやっていた。この世知辛いご時世にずいぶんと悠長なことである。しかし、私および当サイトの興味の対象は、カラス印のサッカーチームなどではなく、だんぜんアメフトである。アメフトのなにが気になるのか。もちろん、今年もスーパーボールでジャネットのオッパイぽろりが見られるかどうかである。願わくば毎年恒例の年中行事になって、アメリカ市民たちにささやかなどっきりと顰蹙を提供してほしいものである。こういうのは出る出ると思っているときの方が期待感が高まるものである。あらおじいさんたらまたジャネットですか、うむ今年は張りがいまいちだな、なんて。

 私のささやかな夢は、アメフトチームのオーナー兼ヘッドコーチになることである。アメフトの場合、サッカーやラグビーと違って、完全にトップダウンのシステムでゲームは展開していく。ワンプレイごとにヘッドコーチからの指示が出て、それにもとづいて選手たちは動く。対戦チームもまた同様で、互いに作戦を読みあいながら次の一手を決めていく。アメフトの作戦はこの十年間で猛烈に複雑になっていて、まるで生身の人間を使ってやるチェスみたいな状況になっている。そのなかで屈強な大男たちを駒のように動かし、言うことを聞かないクォーターバックをロッカールームでクビをちらつかせながらネチネチと説教したり、巨大なラインバッカーを全米中継のテレビカメラの前で罵倒したり、エースランニングバックを札びら切って人身売買したり、盛りの過ぎたワイドレシーバーを食肉処理場に払い下げたり、尿検査の担当者にフロリダビーチのコテージをプレゼントしたり、対戦チームのランチに下剤を混ぜたり、黒人選手のウォークマンをヒップホップからウィンナーワルツにすり替えたりするのは、まちがいなく男の夢である。ロマンである。本宮ひろしである。人生を賭けるに値するのである。よくテレビやラジオでは今の職業についていなかったらどんな仕事がしたかったですかなんてインタビューをしているが、なぜ私には誰も聞いてくれないのだろう。

■ A piece of moment 2/14

 年末から録りだめていたドキュメンタリー番組をまとめて見る。正確に書くと、見きれないままどんどんたまっていくストックを少し消化する。半ば業務用なので、めんどくせえなと思い始めるとただ義務感だけで目を通す状態になってしまうので、気が向いたときにまとめて見るようにしている。で、その中に、日本人メージャーリーガーたちに2004年のシーズンを振り返ってもらうというスポーツドキュメンタリーがまぎれていた。興味深かったのは、野茂英雄の回。ひさしぶりに試合中継以外で見る野茂は、なぜか前歯が真っ茶色だった。いまどきヘビースモーカーのおっさんでもあんなに茶色い歯の持ち主は少ないんじゃないかっていう茶色さ具合だった。朝も晩も歯磨きしないで缶ピースを常時スパスパやってるとああなりそうだけど、メジャーリーガーって日本のプロ野球選手と違って体調管理にうるさそうだし、アクの強いドクダミ茶でも愛飲してるんだろうか。そんな歯の色ばかりが気になった30分番組。番組の野茂は、不本意な成績に終わった2004年シーズンを振り返りつつ、再帰を賭けて必死にトレーニングに励んでいた。インタビューに答える野茂はあいかわらずの木訥とした調子で、意気込んでみせることもなく感傷的になることもない。そこが彼の良いところ。もくもくと働く農耕馬を連想する。歯も茶色いし。言葉の端々に俺ってイケてるでしょという自意識が見え隠れするイチローのインタビューとは対照的だった。

■ A piece of moment 2/16

 教室にDVDプレーヤーが導入されたので、さっそくMPEGファイルからDVDを作成して使ってみる。
 結論。ヒジョーに使いにくい。
 いきなりの結論だが、DVDという規格自体に欠陥があるんじゃないかというくらい使いにくい。
 問題点1。MPEGデータをDVDに変換するのに専用ソフトが必要である。6000円もする。今回は30日間試用期間つきというのをダウンロードして間に合わせたが、本格的にDVDを作成するとなるとソフトを買わねばならない。データを変換するだけのソフトに6000円も払うなんて馬鹿みたいだ。
 問題点2。民生用のDVDプレーヤでは、安いデータ用ディスクは読んでくれない。なにやら「リージョンコード」という国別の信号があるようで、中国製の安いメディアを使うとパソコンのDVDでは使えるのに民生用プレーヤでははじかれてしまう。仕方ないのでビデオデータ用のDVD-Rを買ってきたが、1枚200円近くもする。そもそも記録用のDVDメディアはやたらと規格が乱立してしまってわけのわからない状況だし、消費者の利便性無視で事態は進行しているように見える。
 問題点3。やたらと時間がかかる。4.6GBめいっぱい1枚のディスクに入れようとすると、MPEG→DVDファイルの変換に約15分、メディアへのかき込みに約20分、これではビデオテープをダビングするのと大差ない。デジタルデータであることのメリットをまったく感じない。そもそもビデオテープからデジタルデータに変換するのに手間と時間がかかっているのである。デジタルからデジタルへの転送くらい瞬時にすませてほしいものである。それによく考えたらダンボール箱7箱分のビデオテープを早く処分したくてせっせとハードディスクに動画データを入れているのに、今度はDVDのディスクが増えてしまったらまるっきり本末転倒で俺は一体なにやってるんだろうって感じだ。

 せめて民生用のDVDプレーヤーがMPEGデータを読めれば良いんだけど、コピープロテクトを厳重にしたい業界の思惑なのか、ほとんどのプレーヤーでMPEGデータは利用できない。これまたユーザーの利便性は二の次という感じ。「国策」として進行中の地上デジタル放送では、放送自体にコピープロテクトがかかって録画した機器でないと再生できないようになるとかで、もうがんじがらめである。デジタルデータであることの利便性はまったくない。というわけで、DVDには見切りをつけてポータブルのハードディスクレコーダーでも探した方が良さそうである。iPodがMPEG等の動画データを使えるようになるとすごく便利なんだけど。ただ、完全に業務用の機器であることを思うと、自腹で購入するのはなにやら馬鹿らしい気がしてくる。というわけで政府は税金のブラックホールみたいな国際宇宙ステーションに1000億円もつぎ込んでないで、俺にポータブルのHDDレコーダーを支給すべきなのである。誰が何といおうと絶対そうなのであるって前にも書いたような気がするけど細かいことは気にしない気にしない。

■ A piece of moment 2/18

 社会科の教員控え室にて。進学担当のセンセーと大手予備校の営業担当氏が最近の進学傾向やら入試の出題傾向やらなんとかプロジェクトについて会話をしている。営業担当氏が立て板に水のごとくものすごい勢いでまくしたて、進学担当のセンセーがいやいやとかまあまあとか合いの手を入れる。私は嘱託のおじさんセンセーと一緒にそれを横目で見ながら、ずずずとお茶をすすり、営業担当氏のあまりに流暢でハイテンションな営業トークに圧倒されつつふたりで顔を見合わせ苦笑する。営業担当氏、大いに語り、嵐のように去る。立ち去った後もハイテンションな空気がただよっている。
 「いやあすごかったですねえ」
 「まさにプロって感じだねえ」
 「圧倒されました」
 「前の担当者がぜんぜんダメでね、上司が直接担当することになったみたいだよ」
 「さぞややり手なんでしょう」
 「鍛えられてるねえ」
 まるで上野でパンダに会って感動している子供みたいである。営業担当氏は私にまで名刺を渡し今後ともよろしくお願いしますとあくまで慇懃に、でも一分の隙もないしぐさで会釈をしていった。サラリーマンをやめて以来、ひさしぶりにこういう人と出会った気がする。私は職業的仮面によってパーソナリティがまったく見えない人物は基本的に苦手なのだが、ここまで徹底していると隙のなさ自体が一種の職人芸のように思えてくる。先日観た岩松了の芝居に出てきた登場人物を連想する。ちょっとビバ人間である。

■ A piece of moment 3/4

 今回はめずらしく徹夜することもなく試験問題の作成が終了。論述問題を中心にわりと良い問題ができたような気がする。採点が大変そうだけど。

 そんな試験期間の最中、大型バイクを買うことを決意する。ホンダのV4、1000cc。VF1000Rという20年ものの旧車で外見はかなりへたっている。こんな厄介なの俺の手に負えるんだろうか、そもそもこんなレーシングマシンみたいな大型バイクを乗りこなせるんだろうか。初っぱなから暗雲たちこめるが、それはもうほれぼれするほど美しい姿をしている。少しレトロな赤青白の三色配色も良い。車検も半年残っているし、オーナー氏がフロントフォークのスプリングも交換したと言うし、個人売買で十数万と安かったのでエイヤっと購入を決める。人生は短いのだ。「エンジンもかかりますよ」とオーナー氏、エンジンを始動させるが、燃料コックをオンにした途端、キャブレターからガソリンがだだ漏れ。ひえええ。できるだけ自分の手で整備していきたいところだけど、V型4発のぎっちり詰まったエンジンと複雑に組みあわされた4連キャブの構造を見るとちょっと自分の手には負えそうもない。これから先、バイク屋さんとの長ぁ〜いお付き合いになりそうである。今後の出費を思うと気が遠のいてくる。オーナー氏は民俗学を専攻しているという大学院生。わりとご近所。若いのにこんなのに乗るなんて物好きな人である。1年半前にやはり個人売買で手に入れて半年前にはフロントフォークのスプリングも入れ替えたけど修士論文で乗るヒマがないので手放すことにしたとのこと。「今どきバイクはすっかりおじさんたちのひそかな楽しみになってるのにめずらしいですね」と言うと、仲間からは変人扱いされてますと自嘲気味に笑っていた。ふたりでそのまま立川の陸運局へ行き名義変更もすませる。週末に引き取りに行く予定である。わ〜い。

■ A piece of moment 3/7

 VF1000R到着。武蔵野市の先方宅から乗って帰ってくる。
 せっせと油をさしワックスをかける。オイル交換もしようと思うが、アンダーカウルが外れない。どうなってるんだこりゃ。左右分割式になっていないので、車体をつり上げでもしないと外れないじゃん。小一時間の格闘の末断念する。想像以上に整備性が悪い。でも見た目はほれぼれするようなたたずまいをしていて、写真を撮りまくる。完全におもちゃ状態。







■ A piece of moment 3/16

 今年度の授業が終了。ほっと一息と思ったら風邪でダウン。バイクもバイク屋へあずけてもう10日目。発注したパーツが入らずに作業が滞っている様子。生産終了から20年近くたつ古いバイクだけに部品の入手で苦労しそうだ。ふて寝する。

 今年度の反省。今年もレポートは出させっぱなしにしてしまった。中には非常に良く書けていたものもあって、それを授業で紹介しながらクラスで問題点を再検討する時間をとりたかったんだけれど、生徒のレポートを入力し文集にまとめるだけの時間的余裕と気力がなかった。と、このところ毎年言っている気がする。インターネット上の掲示板にレポートを提出させるようにでもしないと、根本的解決にならないように思う。提出したレポートが生徒と授業担当者との間だけで完結してしまうのは、あまりにも生産性に乏しくもったいない。べつに掲示板上で討論などしなくても良い。かき込まれたレポートを他の生徒が読める状況をつくるだけでも、ああこいつこんなふうに考えてるのかとわかって刺激を与えてくれるはずなんだけど。

 反省その2。今年度はクラスによる反応の違いが顕著だった。一方で好評だった授業がもう一方ではこちらが居たたまれないほど冷たい反応で、アップとダウンがはげしく一日授業をやるともうへとへとだった。イギリス下院議会のビデオなんて、自分で見ても可笑しいのに、クラスの過半数の生徒が眠そうにしたり寝てしまったりしたときにはいったい何がおきてるんだろうという感じだった。私の授業は講義で生徒を引っぱっていくのではなく、解説はほどほどにして生徒と対話しながら考察していくというスタイルなので、もともとクラスごとの差が大きいんだけど、これほど落差が大きいのははじめてだ。生徒がこちらに背を向けはじめたときの対応策を考えておかねばってなんだか実演販売のおじさんみたいですな。ちょっとオクサンまだ帰っちゃダメだよ。

■ A piece of moment 4/9

 新年度の授業が始まる。今年度の授業数は少なめ。収入は減るが、読みたい本もたまってきたし、バイクもいじりたいし、時間に余裕があるのはありがたい。

 ボロバイクは問題続出。でも、ひとつひとつ直して良くなっていくのが実感できるからそれもまた楽しからずや。このところ土日の度に玄関先の道端でレンチを持ってごにょごにょいじっているので、近所のおじさんから声をかけられる。ニイチャン熱心だねぇいやいやどうもってな感じで少々照れくさい。お隣のおばさんの冷ややかな視線も気になる。ともかく、キャブレターからのガソリン漏れも止まったし、ウォータポンプからの冷却水漏れも直った。カウルの穴もふさいだし、ヘッドライトからメーター球、テールランプまで電球も全部交換した。ついでに部屋の蛍光灯まで取り替えた。高いパーツをデコデコつける趣味はないので、ともかくちゃんと走ってちゃんと止まるようになってくれさえすればいい。でも、それが難しい。すっかり顔なじみになったバイク屋のニイチャンから、温かくなってきてどこか行きましたかと聞かれ、直してばかりですよと答える。ふたりで爆笑する。

 最近おぼえた言葉。

【雪月花(せつげっか)】 雪と月と花は美しいもの風流なもののシンボル。はらはらと落ちてくる風花、さえざえとして月の光、一斉に咲きほこる花、いずれも見慣れた風景を一変させてくれる。そんな美しい風物を愛で、楽しく生きていこうという意味の言葉。書でよく見かける。今日、散歩ついでに花見をしてきたが、その後、くしゃみが止まらない。鼻水ずるずるで風流もないもんだ。

【直線番長(ちょくせんばんちょう)】 大排気量の大型バイクに乗って、エンジンパワーにものを言わせて直線コースばかり速い人のこと。けっしてほめ言葉ではない。むしろ、ウデもないのに大型バイクに乗って力ずくの走りをしてるくせに、自分が速いと勘違いしてる困ったちゃんの意味が込められている。ストレートでアクセルを開けるだけならテクニックはいらないもんね。誰が言い出したのか知らないが、じつに冴えたネーミング。広辞苑にも次回改訂では掲載してほしいところである。レーサーみたいな大型バイクを買ったはいいがぜんぜん乗りこなせていない私も人ごとではないのであった。

 風流といえば、こちらの草レースをしているというおじさんのレース日記は妙に枯れていて味わい深い。「ツクバの第2コーナでぜんぜんエンジンが吹けなかったのでキャブレターのセッティングをしようと思いたつが、最近、老眼がすすんで細かい作業が億劫になり途中で投げ出し一杯やって寝てしまう」なんて調子でアルコールを燃料にレースおじさんは走る。表彰台とうまい酒を夢見て。リアサスペンションを交換したときの話がいい。レース仲間が高価なスウェーデン製サスペンションをつけて良いタイムを出しているのを見て、おじさんも同じものをつけようと思いたつ。明らかに自分のボロバイクには不釣り合いだが、おじさんは清水の舞台から飛び降りるつもりで購入する。表彰台に上がっている自分の姿がアタマをよぎる。ところが、サスペンションを交換したのにぜんぜんラップタイムが縮まらない。縮まらないどころか多少のブランクで腕が鈍っているのかむしろ遅くなっている。おじさんはひたすら恥じ入る。これみよがしに高いサスペンションを入れてのろのろ走っているなんて、まるで成金オヤジのパレード走行じゃないか。こんな不様な姿を仲間に見られたらかなわない。おじさんは早々に練習走行を切り上げ、そそくさとサーキットを後にする。江戸っ子である。意外なことに、長年趣味で草レースをやってるという人にはこういう飄々とした人が多いようだ。勝利のために一直線という少年ジャンプみたいな人は長続きしないのかもしれない。なぜかおじさん、一人称はずっと「当方」。
→ 酔っぱらいの国へようこそ

■ A piece of moment 4/10

 レンチをまわしながらバイクを直してるんだか壊してるんだか自分でもわからなくなってきた頃、耳に押し込んだポケットラジオのイヤホンから三味線の音色が聞こえてくる。幻聴かと思ったら、音曲師の柳家紫文が登場、「長谷川平蔵市中見廻日記」のさわりを披露する。都々逸のような節まわしで、通りの向こうから粋な身なりの若い女が〜と小話。おかしい。猛烈におかしい。道端でレンチを手に笑い転げる。今度、高座も見に行こうと強く決意する。世の中にこんな芸をする人がいたのかという感じ。立てつづけにすかされる感触は、いしいひさいちの「B型平次捕物帖」を連想する。

 深夜2時すぎ、急に目が覚めたのでバイクを走らせにいく。耳にイヤホンを押し込み、漱石の「草枕」の朗読を聞きながらとりあえず南へ向かう。とかくこの世は生きにくい。そうね。でも、エンジン快調、道も当然空いていて、気がついたら相模湖まで来ていた。星がよく見える。東の空が明るくなりかけた頃、東京へと引き返す。朝5時、府中街道へ入る。突然、前のクルマが府中刑務所の前で停車し、見るからにマル暴なふたり組みが下りてくる。片方は禿げアタマに黒ずくめのスーツ、もう片方はオールバックに口ひげで派手なガラのジャケット。何事かと身構えるが、ふたり組みは反対車線からのクルマも押しのけるようにして道を横切り、刑務所正門へ向かう。アニキ、お勤め御苦労様ですってやつだったのであった。実物を目撃するのははじめてである。

■ A piece of moment 4/11

 新しい学校の授業もはじまる。学校まで片道10キロ弱と自転車にちょうど良い距離なので、雨の中、せっせとペダルを漕ぐ。こういう事もあろうかと冬のバーゲンでゴアテックスの雨合羽を買っておいたのだ。土砂降りでラジオを濡らしそうなので、自分の鼻歌で我慢する。突然、アタマの中に「黒猫のタンゴ」のメロディが流れる。♪僕のかわいい若い黒猫〜赤いリボンが良く似合うよ〜だけど時々つめを出して〜僕の心を悩ませる〜黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ〜僕の恋人は黒いねこ〜。ああこの歌は童謡だと思っていたけど歌詞は歳の離れた若い恋人に向かって屈折した愛情を吐露するかなりきわどい歌じゃないかとひとり合点する。かなり煮つまったゲイカップルかもしれない。夏樹マリあたりが歌ったら似合いそうだ。帰宅後、気になるので歌詞を検索する。微妙に記憶が間違っていたが、倒錯した愛の告白であることにはちがいない。4番目の歌詞があったら、僕のかわいい黒猫ちゃんはバスタブで手首を切って血まみれになっているにちがいない。そんな気まぐれな若い愛人に振りまわされつつ恍惚感に浸る痴人の愛の歌である。

黒猫のタンゴ

ラララララララッラ
君はかわいい僕の黒ねこ
赤いリボンが良く似合うよ
だけど時々つめを出して
僕の心を悩ませる
黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ
僕の恋人は黒いねこ
黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ
ねこの目のように気まぐれよ
ラララララララッラ

すてきな君が街を歩けば
悪いドラネコ声をかける
おいしいえさにいかれちゃって
あとで泣いても知らないよ
黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ
僕の恋人は黒いねこ
黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ
ねこの目のように気まぐれよ
ラララララララッラ

君はかわいい僕の黒ねこ
赤いリボンが良く似合うよ
だけど時々つめを出して
僕の心を悩ませる
黒ねこのタンゴ タンゴ タンゴ
僕の恋人は黒いねこ
だけどあんまりいたずらすると
あじのひものは(ニャーオ)
おあずけだよ
ラララララララッラ(ニャーオ)
 授業のほうは生徒集会だかなんだかでなくなっていた。仕方ないので次回の授業分の資料を印刷し、初日の挨拶をすませる。たぶん来週には授業もはじまることだろう。そんな雨中サイクリングの一日。

■ A piece of moment 4/17

 2台のバイクを維持できそうもないので、2年間乗ったオフロードバイクを売りに出す。程度も良いので20万弱で売れるものと皮算用をたてていたら、買い取り業者の査定は10万円ちょい。打ちのめされる。仕方ないので、ヤフーのオークションに出品してみる。とりあえず10万円スタートにして、すぐ入札されるだろうと思ったら、3日たっても4日たっても入札者が現れない。とうとう4日目には、「8万円なら買いますよ」と本気なのかからかっているのか足もとを見るような声が質問欄に書き込まれる有様。とことん打ちのめされる。似たような中型バイクがどれくらいで取り引きされているのか気になるので、他のオークションをのぞいてみると、これはキャブレターが腐ってるんじゃないかというようなボロボロのバイクでも、5万円くらいで出品されているものにはそれなりに入札が入っている。どうやらオフロードバイクの需要というのはそういうものらしい。結局、我がバイクは、オークション最終日にバタバタと入札が入って11万ちょっとで落札される。浮き世の渡世はきびしいのであった。

 昨日、オークションの落札者が来てバイクを引き取っていった。ふたりの子供がいるという40くらいのお父さん。小柄でにこやかで平田オリザのような風貌。ピカピカのオフロード用ヘルメットとゴーグルを持参してなかなか気合いが入っている。「ひさしぶりのバイクなんですよ」とお父さんは上機嫌。おじさん化が進むバイク乗りの現状を垣間見た感じがする。思った以上に程度も良いとバイクにも満足してくれた様子で、「これであちこちツーリングに行ってみようと思います」とうれしそうに語っていた。事故にあわず日々の暮らしにささやかな愉しみがもたらされることを願いつつ見送る。個人売買の良さは値段の安さよりも人とのつながりにあるのかもしれない。業者に売らないで良かった。ともかくバイク乗りのお父さんに幸あれ。

 というわけで、この2年間、故障知らずでよく走ったオフロードバイクは去り、我が手元には程度が悪くて燃費も悪い20年ものの大型バイクが1台残された。我ながらひどく非合理的なことをしているような気がするが、直すと決めたんだからもう後には引かないのである。もう徹底的に直すのである。

■ A piece of moment 4/18

 1年ぶりに母親に会う。ひさしぶりにあった母親は、なぜか突然右翼になっていて、反日デモをめぐってさんざん中国と中国人の悪口を聞かされる。中国なんか国交を断絶してしまえ、あんなことされて黙っているなんて今の日本人には愛国心がたりないとまくしたてる。いったい母に何がおきたのやら。さらに北朝鮮と韓国と韓国ドラマの悪口が続く。60過ぎてヒマを持てあましたあげくワイドショーの勝谷誠彦にでもかぶれたんだろうか。でもさ、そうやって自国中心主義の愛国心と国益を互いにぶつけ合うようになったら19世紀的国際情勢に逆戻りするよ、そういう世界を望んでいるの?と口をはさむと、う〜むそれはまずいと母。たいした右翼ではないようだ。やっぱり戦争はまずいから日中の自称愛国者の自国中心主義者たちを魚釣り島にでも押し込こめてバトルロイヤルで決着をつけさせれば良いのよって、アナタは中学生かいな。めまいがする。

■ A piece of moment 4/23

 古いバイクの部品はメーカーでも欠品になっているものが多いので、必然的にパーツマーケットに詳しくなってくる。感心したのはインターネットのパーツマーケットの充実ぶり。とくにヤフーのオークションには、多くの解体屋やマニアが出品していて、たいていの中古部品が千円、二千円といった安価で入手できる。実際、古いバイクに乗っている人の多くが、うまくヤフーオークションを利用しているようだ。解体屋を何軒もまわって、無愛想な解体屋のオッサンと値段の交渉をするしか中古部品を入手する手段がなかった頃を思うと、夢のような環境である。部品は車種や年式によって無数のバリエーションがあるので、適合する部品を入手できるかどうかが古いバイクを維持する最大の難関といえる。逆に現在のようにインターネットのパーツ市場が充実していれば、特殊なスキルのあるマニアでなくても古いバイクを維持できそうだ。

 もうひとつ感心したのが部品メーカーの対応の良さ。いくつかの部品メーカーにメールで質問したところ、私のような小口相手にも、営業担当者がちゃんと答えてくれるし、Webサイトの適合表に間違いがあると指摘すると翌日には修正されていたりする。部品1個売って数千円、感心すると同時に製造業大変なんだろうなあと思う。

 ブレーキホースを部品メーカーに注文した。やはりホンダ純正のブレーキホースは欠品になっていたので、ステンレスメッシュのホースを作っている部品メーカーにメールで質問したところ、セット販売している各ホースの長さを確認してくれた上に、追加料金無しで長さの変更もできるという。ホースを切り売りしている町のバイクショップの話ではない。メーカーが私のような小口相手にこんな事していて採算がとれるんだろうか。ともかく、バイクのブレーキホースを採寸し、長さを指定して注文する。ホースがカウルに接触してこすれるのが嫌なので、各部分を厳密に計ってミリ単位で指定する。ところが届いたホースはそれぞれ指定長より20mmほど短い。取り付けられないことはないが、ブレーキホースの遊びが足りないのは不安なので、交換してもらえないかとメールを書く。日曜日なのに即座に返事が返ってくる。メーカーの営業担当者は平謝りで交換するから宅配便でこちらまで送ってほしいという。営業に日曜日は関係ないんだろうか。配送して3日後、新しいホースが届く。作りなおしたにしてはやけに早い。メーカーには様々な長さのホースがストックしてあって、それと交換したんだろう。ところが届いたホースは今度はそれぞれ15mmずつ短い。どうなってんの。「せっかく作りなおしていただいたのに心苦しいのですが」という書き出しで再度、交換依頼のメールを送る。再び営業担当者から「お手数かけて申しわけありません」と平謝りのメールが届く。今回は向こうも動揺している様子。というわけでまたまたホースをメーカーに送り返し、交換してもらうことになった。それがおとついの出来事。つい先ほど、採寸し直して発送しましたというメールが届いたので、明日には、交換されたものが到着するはずである。二度あることは三度あるじゃなくって、三度目の正直を期待しよう。それにしてもメーカーの対応の早さと逐一状況を報告してくるていねいさに驚かされる。いや皮肉ではない。人間のやっていることなんだから手違いがあるのは仕方ないわけで、それよりも間違ったときに適切に対応できるかを評価したい。というわけで営業担当氏の心意気を買って、メーカーのWebサイトにリンクを張ることにする。リアブレーキのホースを交換するときもここに注文しようと思っている。
 → プロト

 4月から「おじゃる丸」の新シリーズが始まった。電ボの声が変わっている。ショックである。ドラえもんの声が変わったことよりずっとショックである。電ボの妄想が暴走するハイテンショントークこそ、あのまんがの魅力だったので、面白さ半減という感じ。新しい声の人はまだ慣れていないのか棒読み調で、セリフの説明臭さばかり気になってしまう。

■ A piece of moment 4/26

 25日、晩。この春はじめてのジィーィーを聞く。オケラが鳴くから帰るのであった。今年の春は寒い日が多かったので少し遅め。26日、朝。通勤途中の道々、細かい羽虫が飛びまわっている。この時期のみに現れる有翅のアブラムシだった。一斉に飛びまわってこの時期のみ有性生殖を行い、その後は秋まで単性生殖でどんどん増えるへんな奴。

 先週末、バイクのブレーキホースは三度目の正直でちゃんとしたものが届く。土日に作業実行。ブレーキレバーも完全にへたっていたのでマスターごとオークションで落札したVTR-SPのセミラジアル(新品!)に交換。キャリパーは分解清掃してシール一式とパッドを新品に交換。うまくホースのエアが抜けなかったり、ハンドルを切ると新しいレバーがメーターに擦れたり、試走の後、ブリーダーバルブからフルードが滲んでいたりと思いのほか大仕事になってへとへと。積算走行距離は先々週に15000マイル。と思ったら、オドメーターが千マイルの位で引っかかってしまい、繰り上がらないまま十分の一マイルだけが空転している。メーターをパネルから取り外し、ギアの穴からドライバーを差し込んでそおっと千マイルの数字を繰り上げる。メンテナンスというよりレストアしている気分。月曜朝、足に激痛がはしって目を覚ます。寝てる最中に足をつったらしい。なんじゃこりゃあ。

■ A piece of moment 5/2

 駅のホームでジャリジャリという音を聞く。見るとスーツ姿の中年男性が電気カミソリで髭を剃っている。かなりあわてているようで、シャツの襟が折れ曲がってスーツからはみ出している。ちょっとほほえましい。御同輩、生きていくのは大変だという気分。そう思うと若い女性が駅のホームや車内で化粧をすることにばかり目くじらを立てるのもスジが通らない。公衆の面前で化粧するなんてという声の背景には、たんに公衆道徳ではなく女らしさを要求する性的役割の押しつけを感じる。人に冷たいこの社会では、男も女も生きていくのは大変なのだ。化粧や髭剃りくらいで目くじらを立てることないじゃないか。シャツの折れ曲がった御同輩は、髭剃りもそこそこにあわただしく上り電車に飛び乗っていった。

■ A piece of moment 5/6

 5月6日である。腹でもこわしたことにして今日休めば日曜までさらに連休はつづくどこまでもなんて怠惰な誘惑を振り払いつつ出勤する。我ながら勤勉である。どうせ生徒は半分くらい休みで中には日曜までハーワーイーなんてうらやましい奴もいたりするんだろうなあと思いつつ教室へ向かうと、ひとりの欠席もなく全員そろっている。ひえええ勤勉な人たち。恐れ入谷の鬼子母神である。そんな勤勉な人たちに脳死と臓器移植についての授業を行う。1週間ぶりの授業にもかかわらず勤勉な人たちはなにやら楽しげに授業に参加していた様子。休みボケでろれつが回らない私にも寛大なのであった。ありがたやありがたや。各クラス、半数以上の生徒たちがドナーカードの実物を見たことがないというので、ドナーカードをもらってこようと昼休みに高田馬場駅前まで足をのばして十数件のコンビニと病院を回るがどこにも置いていない。どうやら元締めの移植ネットワーク自体がドナーカードの普及に見切りをつけてしまった様子。ドナーカードの普及よりも、臓器移植法の改正によって、本人の意思表示なしでも家族の同意だけで移植を可能にしたほうが手っ取り早いと踏んだのだろうが、ちょっと露骨すぎやしませんかい。ドナーカードの普及によって脳死と臓器移植への理解を広めるというやり方は、ある意味で理想的だと思うんだけど、移植ネットワークはそうした地道で民主的な方法よりも、政治を動かして法改正を求める手法を選んだわけである。いかにも日本的である。理事長による医学界へのウラ金工作も週刊誌で暴露されていたし、政治的思惑をはらんで事態は展開しているように見える。というわけで、改正臓器移植法はまもなく国会での審議がはじまるのであった。ドナーカードは小一時間歩き回って探した後に、学校の目の前にある郵便局に3枚だけ残っていたのをもらって帰る。釈然としない気分。

毎日新聞 2005年4月9日社説 移植法改正案 ドナーカード普及が先決だ

 日本で臓器移植法が施行されて7年以上になる。法律に基づき、脳死と判定されて臓器提供した人は36人いる。臓器移植を待つ患者の数から考えると、提供数は足りない。
 こうした現状を背景に、自民・公明の検討会が法律の見直しを進めている。現時点の改正案は、「脳死は人の死」と一律に定義した上で、本人が事前に拒否していなければ、家族の同意で臓器提供できるようにするという内容だ。
 現状を見ながら法律を見直すこと自体は必要だ。しかし、改正案は現行法の基本である「本人同意の原則」を変更しようとしている。重要なポイントであり、にわかに賛成はできない。
 現在の臓器移植法では、脳死で臓器提供できるのは、提供者本人が提供の意思を書面で表し、家族がそれを拒否しない場合に限られる。15歳未満は法的に意思表示できないとみなされ、提供者にはなれない。
 この条件は、確かに国際標準からみると厳しい。子供の臓器が提供されないため、小さな臓器を必要とする子供の移植が難しいという実情もある。患者団体などが臓器提供の条件を緩和してほしいと訴える気持ちは理解できる。  だからといって、本人同意の原則をはずすことで対応するというのは早計ではないか。
 「脳死を人の死」と一律に定め、家族の同意だけで提供できるとする法案は、現行法制定の過程でも議論された。しかし、脳死を人の死と認めない意見や、医療に不信感を表明する意見があり、「脳死での臓器提供を認める場合に限り、脳死を人の死とする」という現行法が合意された。
 その原則を覆すには国民の意識の変化が前提となるが、はっきりした変化は認められない。提供者不足の解消というだけでは国民は納得させられない。家族の同意だけで提供できるようにしても、脳死移植が急激に増える見通しがあるわけでもない。脳死を一律に人の死と定めると、移植に関係のない医療現場にも影響は及ぶ。
 親の同意で子供の臓器提供を可能にするとすれば、提供候補の子供が虐待を受けていないかどうかなども十分留意しなくてはならない。改正案は、臓器提供者の生前の意思に基づき、親族に優先的に臓器提供する規定も盛り込んでいる。これも、臓器の公平な分配の原則から議論のあるところだ。
 臓器移植法が施行された時は、提供の意思を示す「ドナーカード」が積極的に配布されていたが、最近は目にしない。臓器提供者を増やそうと考えるなら、ドナーカードの普及などに力を入れることが先決ではないか。カードの軽微な記載ミスで提供意思が無効とされるケースは、最近、見直された。プライバシーに配慮しつつ、運転免許証への記載などについて、もっと検討してもいい。
 脳死移植は、一人の人の死を前提にして他の人の命を救う特殊な医療である。提供者の条件を変更するには、幅広い層を巻き込んだ議論が欠かせない。

■ A piece of moment 5/12

 CS放送で「新半七捕物帖」がはじまる。楽しみ。番組は真田広之の主演で1997年にNHKで放送されたものの再放送になる。何といっても主演の真田広之が良い。8年前に見たとき、縞の着物を着てすっと立っている姿は半七そのものに思った。素早しっこい身のこなしや着物の裾を払うなにげないしぐさも良い。原作の半七と違うのは、世の中への怒りがある点だ。原作は「世の中まあそんなもんです」という諦観の言葉を話の中に織り込みながら、半七老人が過ぎ去った江戸の頃を振り返るというスタイルで、突き放されたまなざしが貫かれているのに対して、ドラマの半七は現在進行形で事件と世の中への怒りをたたえている。撮影当時の真田広之は30代半ば。小柄だが精悍で引き締まった体つきをしている。時代劇に多い恰幅の良い親分ではなく、むしろ世の中と生への諦観を拒否する若僧に見える。事件にかかわる人たちと自分の明日のあてどなさを思い「ケッ」とつぶやく。江戸の下町を舞台にした青春ドラマだと思う。エンディングロールで流れる奥田民夫の主題歌も良い。原作の69編すべてのドラマ化を期待したが、残念ながら1シリーズ15本で終わってしまった。イギリスのテレビ局がホームズやポワロの完全ドラマ化に取り組んだように、少しずつで良いから撮り続けてほしい作品だ。
 → 時代劇チャンネル「新半七捕物帖」
 岡本綺堂の原作はすでに著作権が切れているので、こちらで69編すべて読むことができます。
 → 青空文庫「岡本綺堂」

■ A piece of moment 5/13

 この20年間で小さくなって不便になったものな〜んだ?答え→納豆のパック。
 20年前、100gのパックが標準だった気がする。さらに30年前は150gくらい入った藁筒が標準だったような気がする。ところがこの20年間で、いつの間にか50gに小分けされたパックが標準になって、最近では45gや40gのパックも増えてきてさらには30gのミニミニパックまで出まわったりと縮小傾向が続いている。30gや40gぽっちの納豆なんて珍味じゃあるまいしわざわざ食べる必要ないじゃん。嫌いなら食うなよ。納豆を食べるとき、私は1回に100gから150gを食べるので、ちまちましたパックに小分けされていると非常にめんどくさい。ふたを開けてビニールシートをはがして醤油と芥子をしぼってあっ醤油が飛び散ったおっと芥子が手についちゃったうううイライラするティッシュティッシュというのを3回くり返すことになる。このちまちました作業が納豆ご飯を食べるときの最大の障害で、好物のバナナを食べるためにいちいち知能テストをやらされるチンパンジーの気分になる。おまけに3食くらい納豆ご飯を食べたら、燃えないゴミの袋は納豆のスチロール製パックだけで一杯になってしまう。我が家の燃えないゴミの半分近くは納豆のパックである。ちまちまとパッケージされた納豆はどう考えても非合理的だと思うんだけど、いっこうに改められる気配のないところを見ると、メーカーは納豆のパックだけで東京湾を埋め立てようという野望を抱いているのかもしれない。

■ A piece of moment 5/14

 関西人の東京嫌いは、たんにコンプレックスによるものだけではないように見える。関西人に限らず西日本の人たちの多くが「文化は西から」という優越感を抱いていて、そのことが東京への反感につながっているのではないだろうか。西日本を文化的先進地域と見なす発想は、弥生文化の伝播以来、新たな文化は一貫して西から東へ広がっていったという誤解に満ちた歴史観によって補強され、東日本を文化的僻地として「蝦夷」「東くだり」「奥の細道」と称してきた古来の西日本中心主義が現代まで脈々とつづいているのではないかと思う。大学時代、地方出身の友人知人で、東京の暮らしや慣習を批判するのはほとんどが西日本から来た者たちだった。長崎出身の父はことさら露骨で、ことあるごとに東京を罵っていた。住みにくい、町並みが汚い、人間が冷たい、言葉に品がない、物価が高いなどなど。はては地震が多いなんてことまで非難の対象になっていた。とりわけ父の毒舌の集中砲火を浴びていたのが東京の食べ物だった。子供の頃、父と一緒に料理屋へ入る度に、「なんでも醤油味」「田舎者の味つけ」「関東のどん百姓の食い物」「東京にはうまい店はない」と悪口のフルコースを味あわされた。もちろん料理には地域差があるので、東京の味が父が幼い頃から慣れ親しんだものでないことはわかる。遠く離れるほど故郷が美化されていくのも想像つく。しかし、それが「口に合わない」という相対的評価にならずに、「関東のどん百姓の食い物」という差別的評価になってしまうところに西日本中華思想ともいうべきエスノセントリズムを感じる。つまり、関西をはじめとした西日本の人々が東京に対して抱く敵対心は、見下していた者が大きな顔をしてのさばっていることへの反感というところではないだろうか。一方、東北や北関東出身の同級生たちには地域差という視点は感じられず、都会として単純化された東京像を見ている様子だった。彼らの多くが自分のなまりを消すことに敏感だったのは、都会という一元化された尺度で出身地と東京とを比較していたからではないかと思う。いずれも東京の文化への正当な評価とはいえない。文化的差異に出くわした時、多くの者は、まず恐れ、その後に見下して拒絶するか、劣等感に陥り崇拝の対象にするか分かれる。自らの価値観を相対化し、文化的差異を面白がることができる者は稀である。もっとも、私は地域にも国家にも帰属意識を感じていないので、出身地が自分のアイデンティティの一部であるかのように所属集団と自分とを同一視する認識自体が滑稽に思える。

■ A piece of moment 6/4

 期待していたドラマの「新・半七捕物帖」はいまひとつ。以前に見た時は、原作を読むのと同時進行だったので、原作の印象と重なっていたのかもしれない。原作のもつせいせいとした感覚がなかった。残念。主役の真田広之をはじめとして配役は悪くないと思うんだけど、人物描写が単純すぎて、幕末の江戸に生きる生身の人間たちに思えなかった。まるでコントの登場人物のようで、カメラのフレームから外れた途端、書き割りのようにぱたぱたと倒れてしまうような薄っぺらい感じだった。

 バイクは今週、立ちゴケをして以来、ステアリングの調子が悪い。右に切れ込む感じ。ハンドルの曲がりとフロントフォークのねじれは修正したが、症状はおさまらない。フロントフォークのオーバーホールとステムベアリングの交換までやるとなるとかなりの大仕事になる。レーシングスタンドもない状況で、道端でやるのはちょっと無謀な気がする。店に頼むと3万円コース。交換しても調子が良くなる保証はない。気が滅入る。事故は4日ほど前、Uターンの最中のこと。人通りのない路地をそろそろとUターンしている時に、自転車のおばさんがケータイ片手にふらふらと進行方向へ割り込んでくる。あろうことかおばさん、そこに停車してケータイで話しはじめる。で、こちら、曲がりきれずにバランスを崩して転倒。あ〜ら大丈夫ぅごめんなさいねえとおばさん。あまりに情けないシチュエーションに泣きそうである。分析と対策その1、バイクから降りて押してUターンする。その2、「おばさん、道あけて」と一声かける。その3、自転車運転中のケータイは百叩きの刑にするべく運動する。

■ A piece of moment 6/9

 レンタル店でアニマルズを見つけ懐かしいので借りる。ストーンズの2枚組みベスト盤もあったのでこれも懐かしいので借りる。LPからデジタルに切り替わって以来、完全にコレクションの趣味はなくなってしまったので、もうベスト盤のレンタルで十分という感じ。本とCDでぼろアパートの床が抜けそうな状況なので、どうせなら全部デジタル化してハードディスクに収まってくれたらどんなにせいせいするだろう。懐かしいのでアニマルズの「朝日のあたる家」を訳してみる。

HOUSE OF THE RISING SUN

There is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many a poor boy
And God I know I'm one

My mother was a tailor
She sewed my new bluejeans
My father was a gamblin' man
Down in New Orleans

Now the only thing a gambler needs
Is a suitcase and trunk
And the only time he's satisfied
Is when he's on a drunk

Oh mother tell your children
Not to do what I have done
Spend your lives in sin and misery
In the House of the Rising Sun

Well, I got one foot on the platform
The other foot on the train
I'm goin' back to New Orleans
To wear that ball and chain

Well, there is a house in New Orleans
They call the Rising Sun
And it's been the ruin of many a poor boy
And God I know I'm one

---------------------------

ニューオリンズに一軒の家がある
皆はそれを陽の昇る家と呼ぶ
そこには大勢の貧しい男たちの破滅がある
神よ、俺もそのひとりだ

母親は仕立屋だった
彼女は俺の新しいブルージーンズを縫ってくれた
父親は博打打ちだった
ニューオリンズの下町で

博打打ちに必要なものは
スーツケースとトランクだけだ
父親が満ち足りた気分になるのは
酔っぱらっている時だけだった

ああ母さん、子供たちに言い聞かせてくれ
俺がやってきたようなことはするなって
罪深くみじめな人生を
陽の昇る家ですごすようなことはするなって

俺は片足を駅のプラットホームにおき
もう片足を汽車に乗せた
俺はニューオリンズへ帰る
足かせを架せられたように

ニューオリンズに一軒の家がある
皆はそれを陽の昇る家と呼ぶ
そこには大勢の貧しい男たちの破滅がある
ああ神よ、俺もそのひとりなんだ
 アニマルズのヒットソングだけど、もとはケンタッキー州の古い民謡らしい。大げさで芝居がかった歌詞。そういえば、ずいぶん前に建設会社のテレビCMでこの歌がBGMに使われていたけど、ほとんどブラックジョークだった。歌詞の意味を理解した上でBGMにしていたんだろうか。当社は罪深い破滅の家を誠心誠意デベロップメントします、なんて。歌のなかでライジングサンと呼ばれている家はなんなのか。濃い化粧をした女たちが阿片の煙をくゆらせながらうつろな顔で男たちの相手をしているような場末の売春宿を思い浮かべるけど、悪魔崇拝の集会場だったりして。

■ A piece of moment 6/27

 期末試験1週間前になり、3年生の女の子が質問しに来る。推薦で大学進学を考えているそうで、ぜひ、政治経済で「5」をとりたいとのこと。5をつけてくれというアピールのような気もするが、3年生の1学期の成績は何かと重要だし気合いが入っているということにして質問につきあう。
「80年代末のバブル経済のしくみを教えてください」
「企業がさかんに株式投資と不動産投資を行ったために株価と地価が急上昇して……」
「バブル経済ではどうして日本企業の投資資金がこれほど急激に拡大していったんですか?」
「例えばある企業が自己資本1億円で不動産投資をしたとします。その1億円の土地を担保に銀行からお金を借りると、銀行は地価の値上がりを見越して2億、3億の資金を融資してくれる。なにせ当時、地価と株価は毎年倍々のペースで高騰していましたから。で、企業はその2億、3億の資金でさらに不動産投資をします。さらにそこで買った不動産を担保に銀行からお金を借りると、銀行は地価の値上がりを見越して今度は4億、5億の融資をしてくれる。さらにそのお金で……ということをくり返していくことで、企業は実際の資本の何倍、何十倍ものお金を不動産や株式の投資にまわすことができるわけです。つまり、アブクのように企業の投資資金がふくらんでいったわけで、この経済現象を後に「バブル」と呼ぶようになったんです。なかなか的を射たネーミングで……」
「では、なぜ80年代半ばの円高不況がバブル経済につながっていくんですか?」
「プラザ合意を発端に急激に円高に推移したため、輸出に頼っていた日本経済は大打撃を受けたんです。そこで政府は景気へのテコ入れとして公定歩合の引き下げを……」
 なんて調子でなんだかこちらの方が口頭試問を受けているような気分になる。ところが、フムフムとうなずいていた彼女はなぜか円高の話になるとぽかんとしている。「ほら、ちょうど今、アメリカが中心になって中国の通貨切り上げを要求しているでしょ。中国の通貨が実質的な経済力にくらべて安すぎるために外国で買う中国製品が割安で、今、世界中に中国製品が押し寄せてきている。この押し寄せる中国製品と同じ状況が、20年前の日本製品だったわけで……」と説明してもやはりぽかんとしている。「ん?」「あのー、円が高いとか安いとかってどういう意味なんでしょうか?」「えっそれは日本のお金と外国のお金とを交換する比率のことだよ」「それに1ドル=250円が1年後に1ドル=120円になったら円安じゃないんですか?」「えっえっえっとあのその」「あとそれとどうして円高になると日本製品が外国で売れなくなっちゃうんですか?」「……」。これはもう子供電話相談室で無着成恭さんに聞いたほうがなんて言いそうになりつつ為替相場の基本的なしくみを説明するが、暗雲たちこめてくる。はたして彼女に「5」がつくのか。試験は来週、乞うご期待。なんちゃって。

 使わなくなったあれこれをヤフーのオークションに出品する。10年間しまいっぱなしだったレコードプレーヤーがなんと5万円で落札される。わーい。

■ A piece of moment 6/30

 マルチナ・ヒンギスもマイケル・チャンもいなくなり、とくに誰を応援するともなくウィンブルドンの大会を見ている。男女共に完全にパワーテニス全盛になっていて、大味で面白くない。少しでも優勢に立つと「アウー」とか「オオゥ」とか動物的な雄叫びを発しながら強打を連発する展開で、テニスを見ている気がしない。ちょうどテンパイ即リーチの麻雀みたいなもので、読みも駆け引きもなく「ウラドラ期待!おりゃあ」と叫びながら互いにツモリあっている場面を連想する。強打が入ればエースでガッツポーズ、外せば自滅。なんだが大男と大女のマスターベーションという感じ。

 フロリダのテニススクールがパワーテニス全盛の牽引力になった。国際大会に出場する選手の国籍は様々だが、その多くは5歳6歳でフロリダに移り住んで学校にもろくに行かずひたすらテニスの英才教育を受けてきた若者たちだ。実質的にフロリダ出身と言っていい。1980年代、スポーツ選手のマネージメントを手がける巨大企業IMGが、フロリダにあるニック・ボロテリー・テニスアカデミーを買収、巨額の資本を投下し、テニス選手の卵たちを投資の対象として育成をはじめた。それ以来、フロリダは世界のテニスのメッカとなり、若いテニス選手を大量生産する製造ラインになった。IMGは、現在、有名スポーツ選手のマネージメントだけでなく、グランドスラム大会をはじめとした大会そのものをほぼ独占的にマネージメントしている。つまり、プロテニスの世界はIMGが選手を育成し、自らの運営する大会でお披露目し、名前が売れたら各企業にスポンサー契約を持ちかけ選手のマネージメントを行うという独占体制になっている。IMGのマネージメント料は収入の25%。客を呼べるスター選手については第一線から退いた後も、エキシビションマッチやイベントを企画してくれて引退後のアフターケアーも万全。当然、フロリダには、毎年、世界中から見込みのある子供たちと自分の子供をテニス選手に仕立てて一攫千金を狙う親たちがつめかけてくる。テニススクールでは、集まってきた子供たちに有名選手になって大金持ちになれるというニンジンをぶら下げ、子供同士を徹底的に競い合わせるというアメリカンなスタイルでそれに応える。将来有望でルックスが良い子供には幼いうちからスポーツメーカーのスポンサー契約をつけ、コーチたちも特別待遇で育成にあたる。1995年にCBSが取材した際、当時13歳のアンナ・クルニコワはIMGから金のなる木と見なされ、すでに複数の専属のコーチがつけられていた。テニスコートにコーチの檄が響く。「お前ら、これは遊びじゃないんだぞ」。もちろん子供たちはそんなことは良く理解している。テニスが遊びではなく投資の対象であり、自分が商品であることを。13歳のやせっぽちの少女はテレビのインタビューに答える。「テニスでの賞金よりCM契約したスポンサーからの収入のほうがもっと多いかな、いまだっていくつものスポンサーと契約してるのよ、アディダスでしょヨネックスでしょあとIMGも、テニスが上手いだけじゃなくってイメージづくりも大事ね」。ひとりのシャラポワやクルニコワを生みだす影に数千人の夢やぶれた子供たちがいる。夢やぶれた大勢の子供たちも夢かなったひとにぎりの子供たちも、充実感と達成感を感じているならそれはそれでいいんだけど、大人たちの欲望と思惑に翻弄され、二十歳過ぎて抜け殻のような虚脱感をかかえてスーパーで万引きしたり、読み書きもあやしいままティーンエージャーの頃に抱いたスポンサー収入の夢とともに「余生」をすごすことになるとしたらあまりにも哀れだ。こうした過酷な競争をくぐり抜けてきたフロリダ出身の若い選手たちには、テニスをビジネスと割り切った発言と能面のような顔で強打を連発するスタイルという点で共通した傾向がある。試合も味気ないけど、選手たちもなんだか競走馬みたいで不気味だ。



■ A piece of moment 7/2

【金曜日】 試験問題作成を放り出して朝方までテニスを見る。シャラポワ対ウィリアムス姉、両者一球打つごとに絶叫で怪獣映画みたいだった。キングギドラ対アンギラスとかそんな感じ。見ごたえはありました。寝不足のまま出勤し授業3連発。授業は「靖国問題」で討論会。ひさしぶりに会ったムラタ母63歳が突然右翼になって中国の反日デモとヨン様の悪口をまくしたてていたことを紹介する。生徒は笑っていたが、よく考えたら俺ぜんぜん笑えない。ムラタ母に靖国参拝の問題点と戦争責任の背景を説明したところ「オマエは中国の肩を持つのかこの非国民」と母激怒。世の中アブナイ人がふえているようで気が重いのである。帰宅して寝床へ直行。明日の問題作成にそなえてともかく寝る。

【土曜日】 「ヒロシです……」が何者なのか気になって検索する。なぜか検索にこちらのサイト(→「ハネモノ」)がヒットする。バービーなのかリカちゃんなのかはわからないがえんえんとお人形さんの写真で綴られる日記サイト。マニアなのかそういう職業なのか、ともかく熱烈な着せ替え人形への情熱があふれていて思わず見入ってしまう。写真は人形のポージングも服のコーディネイトも徹底的に細部までこだわっていて、ちょっとこれは素人の域を超えている感じ。6月30日の写真なんかモデル嬢の目に力を感じる。こうやってお人形さんの髪の毛は伸びはじめるんだな。試験問題はまだできていない。

【日曜日】 昼、どうにかこうにか月曜日のぶんの試験問題を作り終え、選挙に行く。夜、ウィンブルドンの決勝を見る。フェデラー圧勝。でもテニスウェアーが絶望的にダサイ。まるで下着姿でうろうろしている日曜日のお父さんである。例によってウィンブルドン的演出で、良い場面になると客席にいるフェデラーの「ガールフレンド」がアップで映し出される。テニス選手の「ガールフレンド」というと叶恭子みたいなツラの皮千枚張りのモデル嬢と相場が決まっているんだけど、めずらしくまともそうな感じ。フェデラー、良い奴なのかもしれない。テニスを見ていたら、二階のオッサンが、床をどしどし踏みならしはじめる。何事かと思ったら今度はどんどんと玄関を叩く音。玄関先でテレビの音下げろと怒鳴り声がする。コミュニケーションのたくみな二階の住人で心あたたまるのであった。

【月曜日】 早起きして出勤。朝イチで試験問題を印刷し、そのまま試験を実施、試験終了とともに採点に取りかかる。わりと良い問題ができたつもりだったが、生徒には難しかったのかやけにデキが悪い。ともかく採点を終え、くらくらしながら帰宅。寝床へ直行。

【火曜日】 もう一校の試験問題を作成。夜更けにようやく完成。やっぱり試験当日の朝に印刷することになる。連日ヘッドスライディングがつづく。

【水曜日】 3時間睡眠で朝5時起床。再び朝イチで試験問題を印刷してそのまま試験を実施して採点してああもう嫌。くらくらしながら午後3時すぎに採点終了。どうにか試験ウィークを乗り切ったが、精神的に完全に煮つまっている。猛然と内田百閧ェ読みたくなり、本屋に寄って「立腹帳」を買って帰宅。立腹立腹。寝床へ直行。夏休みが待ち遠しい日々が続く。

■ A piece of moment 7/8

 業者に表皮の張り替えを依頼していたオートバイのシートが宅配便で到着。ひびの入っていたカウルをついでに補修し、シートを装着。夜中、2週間ぶりにバイクを走らせる。ロンドンのテロ事件の影響なのか、やたらとパトカーを見かける。多摩川を越え、多摩丘陵を回って帰宅。翌朝、エンジンオイルを交換。ついでにグリスアップ。夜中、再び目が冴えバイクを走らせに行く。エンジン快調。ホイットマンのオープン・ロードの詩を連想する。

■ A piece of moment 7/15

 夜中、庭先でチチチチチチと小鳥が泣き叫ぶような声がする。つづいてガサガサバシンと何かがぶつかる音。ガサゴソバサッチチチチチチチチッ……。何事だろうとあかりをつけ窓からのぞくと軒下から真っ黒な猫がこちらをきょとんとした顔で見上げている。猫は両前足を伸ばした姿勢で何かを押さえこんでいる。どうやら犠牲者はスズメらしい。猫は突然目の前に現れた邪魔者を警戒しつつもその場から離れようとしない。ふてぶてしいのか食い意地がはっているのか愛嬌のある顔に似合わずこちらをにらみ返してくる。押さえこんだ獲物にとどめを刺したくてうずうずしている様子。はやくどっか行ってくれよおこちとら取り込んでんだからよう。しばらく顔を見合わせた状態がつづいた後、猫に気合い負けする。そおっと窓からはなれ、あかりを消す。

 本日、1学期の授業がすべて終了。期末試験が終わった先々週の時点で気分はとっくに夏休みになっているのに、この数年、高校は終業式ぎりぎりまで授業をやることになっているらしい。年々世知辛くなっていてゆとりの教育ってどこの話っていう感じ。夏休み直前になってひとクラスだけヒトコマフタコマの授業があってもどうにもならんわい。2学期は今年も8月末から授業開始ですのでムラタセンセーよろしくお願いしますねって、あまりよろしくないのである。

■ A piece of moment 7/22

 21日。低温殺菌牛乳はうまいと本に書いてあったので、いつもの普通の牛乳といっしょに買ってきて飲み比べてみる。本当に味が違う。バターのような濃厚な風味。知らなかった。毎日のように飲んでいたのに牛乳なんてみんな同じ味だろうと思っていた。生きていると発見があるものだと感心する。きっとこういうささやかな発見がどうでも良くなった時に人は自殺するんだ。低温殺菌のものは日持ちしないのが欠点だけど、すぐ飲む時はこちらを買うことにしよう。
 夜、「ガウディ・アフタヌーン」を観る。良かった。主演のジュディ・デイビスが良い。よく考えたら彼女の出演作ほとんどが好きな映画であることに気づく。やはり発見した気分。

 日が変わって22日。お昼になんとなくテレビをつける。NHKで女性アナウンサーが愛知万博の紹介をしていたが、どう見てもNHKによるNHKのための自画自賛番組だった。「NHKの素晴らしい最新技術をご紹介します」なんてまあよくもはずかしげもなく言うもんだ。不快なりNHK。
 夜中、CBSドキュメントを見る。いつもながら見ごたえのあるレポート3本。そういえばこの番組にときどき登場するアンディ・ルーニーのテレビコラムは、CBSについてもちくちくと皮肉を放つ。どうして日本のテレビジャーナリズムは所属組織に対してこういう距離の取り方ができないんだろう。給料やギャラをもらっているからって局の奴隷になったわけじゃなかろうに。職員研修でマインドコントロールでもされてるんだろうか。

■ A piece of moment 7/25

 「ラスト・ゲーム」、スパイク・リーとデンゼル・ワシントンのコンビのバスケットボールもの。期待して観たらひどい映画だった。この1年で最低。もやもやとフラストレーションばかり溜まったので内容をまとめてみる。舞台はニューヨークのスラム街。デンゼル・ワシントンは幼い息子に日々スパルタ式でバスケットボールを仕込んでいる。「お前がここから抜け出したかったらこれで這い上がるしかない」が彼の口癖。当然、子供はバスケなんかもうやりたくないと反発する。彼は力ずくで子供を従わせようとし、間に入った妻を突き飛ばす。テーブルの角に頭を強打した妻は死んでしまう。で、殺人罪で刑務所行き。アメリカには過失致死罪という概念がないらしい。主人公のバスケットボールへの思いやバックストーリーが最後まで描写されないため、なぜ彼がそれほどバスケットボールにこだわるのかがまったくわからない。せめて演じるデンゼル・ワシントンが流れるようなフォームでジャンプシュートやドリブル・ペネトレイトを決めてくれれば話にリアリティが出てくるんだけど、サッカーのスローイングみたいにぎくしゃくと放るばかり。「ザ・ハリケーン」であれほど見事にボクサー役を演じたのに、今回はバスケのトレーニングをまったくやらなかったんだろうか。ともかく6年が過ぎて、父親は依然刑務所、息子は叔母に引き取られ、なぜか高校バスケット界のスター選手になっている。あれほどバスケットを嫌がっていたいったい彼に何があったのか、この6年間のことはまったく説明されないのでわからない。ともかくスター選手になっていて、それを現役NBA選手のレイ・アレンが演じている。当然のことながら彼のプレイは高校生ばなれしていて、全米が注目するニューフェイスとさわがれる。様々な大学が奨学金やらお小遣いやら色仕掛けやら高級車のプレゼントやらをちらつかせて彼を勧誘しようとしている。そのおこぼれにあやかろうと、欲深い親戚や腹黒いガールフレンドや卑屈なコーチが彼の進路にあれこれと注文をつける。そんな中、州知事が自分の出身大学に彼を入学させようと画策し、服役中の父親に目をつける。特別措置で出所させ、息子を説得してこいできなかったらどうなるかわかっているな……って、ああもうなんというか書いていて嫌になるほどひどい話。1998年のニューヨークは悪徳保安官が支配する無法地帯なんだろうか。そんな州知事からの理不尽な注文に対し、主人公デンゼル・ワシントンは、ふざけるなと一喝し蹴っ飛ばす……なんて骨のあるところを見せたりせず、いそいそと息子のところへ行って「お前さえ言うことを聞いてくれれば俺の刑期が短くなるんだ」とせまる。最低である。もちろん息子はそんなダメおやじに反発する。自分から母親を奪った殺人者として父親を憎んでおり、口もきこうとしない。ところがラストで一転、息子は父親が言う大学への進学を決意する。感動的なBGMがじゃかじゃか鳴り響き、父親は刑務所の空を見上げ胸を熱くするジ・エンド。なんじゃこりゃ。息子が決意するに至る間、デンゼル・ワシントンは何をやったか。その1、ダウンタウンの安宿で知り合ったミラ・ジョボジョボジョボビッチ演じる娼婦と行きずりのセックスをしようとするが立たず妻の墓前で泣き崩れる。その2、息子のガールフレンドに言いがかりをつけ「息子に近づくな」と高校の正門前で突き飛ばす。その3、息子に1対1のバスケ勝負を挑み、俺が買ったらこの大学へ入れと賭けを申し出るが、スナップのぜんぜんきいていないシュートでは、レイ・アレンに歯が立つわけもなくあっさりと退けられる。以上である。あなたが息子ならそんな父親に胸をうたれますか?ともかく息子は観客には理解できない超自然的パワーで父親の熱い思いに触れてしまいハッピーエンディングをむかえるのであった。でも、そもそも父親の熱い思いってなんなんだ、最初から最後までさっぱりわかんねーぞ、そんな映画。いくつかの会話の中に例によってスパイク・リー的社会批判が散りばめられている。でも、ひとにぎりの勝者が富を独占するアメリカ社会の根本的問題については一切ふれない。バスケでスター選手になって大金持ちになるというアメリカンドリームが階層間格差の不満をガス抜きする社会的装置にすぎないことも指摘しない。スラムの黒人青年たちがアメリカンドリームを夢見てバスケとラップとギャングに夢中になっている限り、アメリカの白人支配は揺るがない。にもかかわらずスパイク・リーはアメリカンドリームという宝くじを肯定し、マイケル・ジョーダンを聖者のように崇める。だからスラムの貧困を描いてもうわべだけで問題の本質にせまることはない。一方で富のおこぼれにあやかろうと画策するスラムの住人にはその卑しさを容赦なく描写する。要するにスラムの住人は努力が足りないから貧乏なんだと言っているだけなので、そこには成功者からの視点しかない。ナイキ関係者や共和党員たちとゴルフ三昧の生活をしているとああなってしまうんだろうか。ナイキのテレビCMでも作っていた方がお似合いである。映画が描くべきことは、マイケル・ジョーダンにあこがれてバスケに明け暮れた若者たちが、夢やぶれた後にどう生きていくかではないのかと思う。映画の中で印象に残ったのは次の3点。

   ・ミラ・ジョボジョボビッチは脱ぐと砲丸投げの選手のような逆三角形の体型をしている。
   ・デンゼル・ワシントンのジャンプシュートはスナップがぜんぜんきいていない。
   ・BGMで観客を誘導しようとする演出は最低である。

■ A piece of moment 7/26

 ふたたびスパイク・リー、「サマー・オブ・サム」。こちらはまとも。舞台になるのは1977年のニューヨーク、イタリア人街。ワル仲間が登場する。妻や子供のいるいい歳の男たちがいつも仲間内でつるんで、道端でくだを巻いたり行きつけの店でだべったり週末にはオープンカーでディスコへくり出したりしている。ほとんどイタリア人街から外へ出ることはなく閉鎖的で身内意識が強い。ちょうど中学生のワルたちがそのまま大人になったような感じ。マッチョな価値観を信奉し、黒人、ユダヤ人、外国人、同性愛者、ヒッピー、パンクロッカーが大嫌い。この辺のイタリア人街の風俗は「ドゥ・ザ・ライト・シング」と同様で誇張されているように見えるが、なかなか興味深い。同時にその論理の通じない会話と人間関係が不気味でもある。そんな中、連続殺人事件がおきる。彼らは自警団まがいの組織を作り、気にくわない者をつかまえては「怪しい」と力ずくで吊し上げはじめる。それはしだいにエスカレートし、ロンドン帰りだというパンク青年が彼らの標的になっていくとまあいう話。70年代懐古趣味的でいまさらこんな映画作ってなんになるんだという気もするけど、一方で、アメリカではいまだにゲイの青年が酒場でリンチされて殺されたなんていう事件もおきているので今日的問題なのかもしれない。観ながら思ったのは、最近やたらとあちらこちらで聞かされる「地域社会の回復」という言葉につきまとう危うさ。べったりとした人間関係の閉鎖的で同質性の強い村社会をつくれば良いってもんじゃない。むしろ互いの差異を認めつつ1対1の人間関係をうまく結べないことの方が問題なのではないかと思う。

■ A piece of moment 7/31

 捕鯨について国内の世論調査では、だいたい6割から7割の人が賛成だという。先日、永六輔のラジオを聞いていたら、ゲストに捕鯨協会の人が来て捕鯨をおこなう正当性を語っていた。捕鯨については結論が出ないまま悩んでいる問題なので、ラジオの一方的に捕鯨の正当性を説きながら皆で鯨肉を試食し、「ああクジラってとってもおいしいんですね」で締めくくってしまう扱いにもやもやしたものをおぼえる。授業であつかおうと思いつつ放り出していた事柄だったので、簡単に論点をまとめてみる。

 まず、捕鯨を支持する根拠はおなじみの次の3点。
1.調査捕鯨によってクジラの数は増えていることが判明しており、これ以上、保護する必要性はない。
2.捕鯨は日本の伝統文化であり、捕らえたクジラは食べるだけでなく様々な工芸品にも無駄なく利用される。
3.捕鯨禁止の背景には、クジラを食べる習慣のない欧米諸国による文化的偏見がある。

 一方、捕鯨を批判する根拠は次の3点にまとめられるのではないかと思う。
1.クジラの数が増えているというデータは商業捕鯨再開を求める国が出したデータであり鵜呑みにすることはできない。また、海洋の隅々まで調査しているわけではなく、本当にクジラが増えているのかは結論できない。絶滅のおそれがある以上は、商業捕鯨再開はするべきではない。
2.クジラはゴリラやチンパンジーや犬と同等に知的であり、自分が狩られることの恐怖を感じ、人間とコミュニケーションができるほど高度な知性を持った生命である。こうした生命を狩るという行為は、残酷であり野蛮である。
3.日本の捕鯨は近代捕鯨であり、最新装備をそなえた捕鯨船で効率良く捕獲し、水揚げされたクジラは市場原理によって取り引きされる。こうした捕鯨を北極圏のイヌイットがおこなっている伝統捕鯨と同列にして伝統文化と見なすことはできない。

 2番目のクジラが知的生命で殺すのは残酷という指摘は少々なじみにくいので、チンパンジーやゴリラに置きかえてみるとわかりやすいのではないかと思う。アフリカ中央部の熱帯地域では、伝統的にチンパンジーやゴリラを食べる習慣がある。それは「ブッシュミート」と呼ばれ、市場で取り引きされている。そのため、大型霊長類の絶滅が指摘され国際条約で狩猟が固く禁じられている現代でも密猟はつづいている。欧米人や日本人にとって、チンパンジーやゴリラがきわめて人間に近い種で高い知性を持っていることはよく知られており、人間の友達というイメージが定着している。もちろんそれを食べる習慣はない。そのため、ジャングルでチンパンジーやゴリラを狩り出し、ライフル銃で仕留めるという行為は殺戮そのものに見える。しかし、現地の人たちにとっての思いは異なる。チンパンジーやゴリラは鹿やイノシシ同様に森の資源のひとつであり、長年、生活の糧としてきた。そこに欧米人が入ってきて、チンパンジーやゴリラは知的な動物だから狩猟はやめろということは、西洋的価値観の押しつけでありアフリカの文化を見下した偏見であるという反発が生じる。そこには捕鯨の賛否とまったく同じ構図がある。もちろん、チンパンジーやゴリラが絶滅寸前なのは誰が見ても明らかなので、狩猟が解禁されることなどあり得ないが、もし、チンパンジーやゴリラが十分な数が生息していたとしたらどうするのだろう。残忍な殺戮として否定されるのか、伝統文化として肯定されるのか、きわめて難しい問題だと思う。クジラが知的生命というと、欧米の自然保護団体のセンチメンタリズムとして端から聞く耳を持たない日本人は多いが、問題はそれほど単純ではないように見える。

■ A piece of moment 8/11

 夜中にテレビをつけるとマンガをやっていた。どこかで見たような聞いたようなシチュエーションとセリフだなと思いつつ見ていたら、黒沢明の「七人の侍」だった。でも、なぜかSF仕立て。村をおそう野伏せりたちは超合金ロボ、侍たちはビジュアル系なのであった。こういうのありなんでしょうか。あっけにとられてぽかんとしていたら、侍たちが戦いはじめる。刀一本で超合金ロボとどんなふうに戦うんだろと思ったら、侍たちは皆、「ルパン三世」の石川五右衛門のごとく、超合金ロボだろうが空飛ぶ巨大要塞だろうがまっぷたつにしてしまうのであった。なんじゃこりゃ。豆腐のようにすぱすぱ切り刻んだ後、ビジュアル系の人たちは「侍たる者、戦場でためらってはならぬ」とわかったようなことを言ったり、「一粒の米をおろそかにするでない」と妙に説教臭いセリフを重々しい口ぶりで言ったりするのであった。摩訶不思議な演出。シリアスなのかパロディなのか不条理なのか演出の意図がわからないまま混乱状態に陥る。凝ったアートワークと見るからにお金のかかっている緻密な絵作りなんだけど、演出の基本的な部分でなにか根本的に間違ってるというか完全に私の理解の外にあって、いったいこれはなんなんだろうと思考停止状態のまま恐いもの見たさで続きが気になっているのであった。全26話。今夜が最終回とのこと。
 → 「SAMURAI7」

■ A piece of moment 8/12

 例の超合金ロボの「七人の侍」、全26話、見終わる。こんなに真剣にテレビアニメを見たのは何百年ぶりかのことである。不条理にシリアスな物語は、残念ながら最後まで理解の外にあった。個々のキャラクターはそれぞれバックストーリーを持っているようで多面的にうまく描かれていたけど、ただもう根本的にストーリーと演出が破綻しているので物語としてはどうにもならないという感じ。俺の13時間を返せ。

■ A piece of moment 8/14

 深夜1時すぎ、自転車で近所の団地前を通る。頭上から狂ったように泣き叫ぶセミたちの声。蝉時雨なんて風流なものではない。アブラゼミの耳をつんざくような金属音が誰もいない深夜の街に響きわたっている。その頭上からの音圧に押しつぶされそうになりながら自転車をこぐ。どうやらこうこうとオレンジ色に輝く団地の街灯に反応してセミたちは昼間だと勘違いしているらしい。10年ほど前、痴漢防止を目的に設置されたらしいが、セミの習性も狂わしてしまうとは誰も想像しなかったんだろう。深夜の住宅街がまるごと操業中の機械工場の中に入ってしまったような騒音である。住民から苦情が来ないんだろうか。

■ A piece of moment 8/16

 あまりの暑さに夕方ようやく起きだしてまとめて映画を観る。「スリーピー・ホロウ」、ティム・バートンとジョニー・ディップのコンビ。ティム・バートンのデコデコした風味はやや抑えめで、意外とストレートなホラー映画になっている。それにしても、日本でも海外でも映画監督というと声も態度も顔もデカイのが相場だけど、ティム・バートンみたいなオタク丸出しの映画監督というのは、どうやって撮影現場を指揮しているのか気になるところである。それ以前に、彼がスタッフとコミュケートできているのかということ自体が謎である。テレビのインタビューに出た時は、インタビュアーと目をあわさず、うつむいたままぼそぼそと話していたのが印象に残っている。「コンフェッション」、アメリカテレビ界の名物プロデューサー、サム・ロックウェルの自伝を映画化したもの。この自伝というのが、自分はテレビ業界にいながら同時にCIAの殺し屋だったという二重生活の告白で、どこまで本当かもふくめてアメリカでずいぶん話題になったもの。たしかに題材としてはショッキングで興味深いんだけど、映画としてはその素材を手堅くまとめているだけでそれ以上でもそれ以下でもないという感じ。実在のしかもまだ生きている人物の自伝が元になっているだけに、これ以上ふくらませるのは難しかったのかもしれない。監督はジョージ・クルーニー、顔に似合わず手堅い。マイケル・ムーアの「ザ・ビッグ・ワン」、あいかわらずのマイケル・ムーア節。陽気でパワフル。うれしかったのはスタッズ・ターケルが登場するところ。まだ現役でシカゴのラジオ局で番組のパーソナリティをしている様子。「ナビィの恋」、評判の良かった作品で実際に良い映画だった。沖縄の離島を舞台にした話で、連続ドラマの「ちゅらさん」に設定が似ている。ただ、連ドラみたいなもたれかかり式の人間関係や押しつけがましい家族主義はここには見られない。微妙に距離をとりながら互いを見守っている。物語は、平良とみ演じるおばあが60年越しの恋を実らせ、おじいや孫を捨てて初恋の相手とともに島を出て行く。おじいはそれについてなにも言わない。長年連れ添った相手をいたわり、むしろおばあの想いを邪魔しないようにさりげなく距離をとり、その行方をそっと見守る。おばあが去る日、おじいはいつものように畑へ出かけ、さみしそうな満ち足りたような顔で海を見る。その横顔に胸が熱くなる。テレビの連ドラでこういう芸当はできない。おじいを演じる登川誠仁が飄々とした味わいで抜群にいい。ずいぶんアドリブで喋っているように見えるんだけど、あんまり自然体なんでどこまでが演技でどこまでが地なのかわからない。畑仕事の合間、サンシンをつま弾きながら島に旅行に来たという若者にいきなりシモネタをかます。「オッパイは良いよ、うちのおばあも昔は大きかったんだよぉ、孫のは小さいけどね小さいオッパイも良いもんだよオッパイはかわいがってあげなきゃね、どううちの孫は」。思わず吹き出す。こういうおじいになるにはずいぶん修行がいりそうである。で、そのオッパイの小さい孫に西田尚美。とくに演技がうまいわけでもないし華やかなわけでもないのになぜかいつも良い役をやる。今回も良い役どころ。ファンも多い。ちょっと不思議である。私も8年前に「ひみつの花園」を見て以来、やはりなんとなく気になっている。誰かに似ているような気がしてたけど、今回、岡崎京子が描くキャラクターに似ているんだと気づいた。
 →「ナビィの恋」Official Home Page

■ A piece of moment 8/17

 再び晩方から映画を観る。「アンダー・ワールド」、ボスニア紛争のセミドキュメンタリーだと思って見はじめたら、なぜかコテコテの特撮の吸血鬼映画だった。どうなってんのと番組表を確認したところ、ボスニア紛争のセミドキュメンタリーのほうは「アンダー・グラウンド」というタイトルで次週放映の模様。まぎらわしい。「WXIII 機動警察パトレイバー」、劇場版パトレイバーの三作目。一作目が面白かったので二作目、三作目と期待したが、いずれも作り手の独善さと視野の狭さを感じて後味の悪い映画になっている。三作目の「WXIII」は、女性科学者が死んだ幼い娘の細胞を使って怪物を作り上げるという話。物語は事件の捜査担当である刑事の視点から描かれていく。おなじみの陽気な隊員たちはほとんど登場しない。若い刑事は女性科学者の影のある美しさに惹かれ、ふたりの関係を軸に映画はシリアスムードで展開していく。女性科学者は、幼い娘を失った悲しみのあまり、怪物を自分の娘の生まれ変わりだと信じ込もうとしている。その一方で、彼女の作りだした巨大な生物は凶暴で、東京湾岸各地で十数名の命を奪っている。湾岸工事の作業員は引き裂かれ肉塊となり、駐車中のクルマにいた青年は上半身を食いちぎられ血の海と化した車内で発見された。刑事は彼女のセンチメンタリズムに引きずられるばかりで、そのことを一言も彼女に指摘しようとしない。むしろ映画はひたすら彼女のセンチメンタリズムに寄り添うように展開し、クライマックスでは、彼女の娘がピアノで弾いたという発表会での録音が怪物に聞かせるように流される。ショパンのセレナードの感傷的なメロディが大音量で流れる中、怪物は殺され、女性科学者は死を選び自ら身を投げる。なんだか見ていて気が滅入ってくるほど、強引で独りよがりな映画。視点を相対化させる場面が一切なく、まるで主人公しかこの世界に存在しないかのような話だ。作り手の幼児性を感じる。自分の文脈でしかこの世界を解釈できない人間なんだろう。そこへ直れって気分。

 深夜、十数年ぶりに「2001年宇宙の旅」を見る。美しく宗教性を帯びた映画。だが、その根底にある生命観や人間観には、きわめて古典的なキリスト教の世界観を孕んでいる。すなわち、生命の歴史は単純で「下等」な存在から知的で「高等」な存在へと至る歩みであり、人間はその頂点に位置し神に最も近い存在であるという認識である。この尊大さ、生命を序列化し神へ至る道とする世界観には、強い拒絶反応をおぼえる。それは敵意に近い怒りだ。知性など命のゆらぎが生みだしたひとときの夢ではないのか。「2001年宇宙の旅」の取り澄ました美しさは、西洋文明を中心とする近代的秩序そのものに感じる。その意味でオープニングで流れる「美しき青きドナウ」はこの映画全体を象徴している。人間社会を「原始的」な社会から高度に「洗練された」文明社会に至り、さらに知性をとぎすましていくことで神に近づいていくとする歴史観は、19世紀ヨーロッパの植民地主義者たちの戯言としか思えない。十数年ぶりの再見で何か新たな発見があるかと期待したが、やはり苛立ちがつのるばかりだった。

■ A piece of moment 8/18

 ひさしぶりに髪を切る。いつものオッチャンがいなかったので、まだ修行中ですという感じの若いニイチャンに切ってもらう。毎度のことながら、とくに髪型をどうしたいということもなく、長くなって鬱陶しくなったから来ただけなので良いようにやってくれといいかげんな注文をする。我ながら最低の客である。伸びたから切りに来ただけなんて、まるで子供の散髪ではないか。自分の姿形をこうしたいという意志すら持てないなんて生きているのをやめた方が良い。いつもそう思うのだが、散髪の度にあいまいでてきとうな注文を述べ、毎回かわりばえのしない髪型にしてもらい、GAPの8割引セールで買ったあり合わせの服をてきとうに着て、とりあえず腹がふくれれば良いと松屋の豚丼をかき込みつつ暮らしているわけで、我ながら情けない限りである。「良いようにやってくれなんて言われるとやる気しなくなるでしょ」と尋ねると、「いやいやいやいやいや……」とニイチャンは苦笑いしていた。「ラモスみたいにしてほしいとか、ダンスマンでお願いしますなんて言われたほうが張り合い出ませんか」とさらに聞くと、「いやいやまあその……そういうお客さんのほうが少ないですよ、男性の場合は伸びたから切りにきたで良いんじゃないでしょうか」とニイチャン。そんなもんでしょうかねえ。なんだか自分が若い美容師をこまらせて面白がっているオバタリアンになった気分。彼はいま髪を伸ばしはじめたところだという。自分も伸ばそうと思うことはよくあるけど、3ヶ月も切らないと格好がつかなくなって、半年もするとまるで秋葉原で紙袋を下げてうろうろしている怪しい人みたいになってしまう。そう彼に言うと、大笑いしながら「伸ばす場合でも1ヶ月おきくらいにハサミを入れて形を整えていくんですよ、矛盾してるみたいですが、伸ばしかけの微妙な時期を越えるのが難関なんです」とのこと。ひとつ賢くなったのであった。

 いつものオッチャンはものすごく手が早くて、まるで羊の毛の刈り取りのようにばばばばばとハサミを入れていくが、今回のニイチャンはゆっくりとねらいを定めるようにハサミを入れていった。一抹の不安がよぎったが、丁寧にやってくれたようでそれなりに仕上がる。次回も彼にたのんでみようと思う。なかなかハンサムで日焼けした胸元がセクシーだったし。なんちゃって。

■ A piece of moment 8/19

 夏休み前に靖国問題について授業でとりあげたので、Webにまとめてみようと思いたつ。靖国神社の歴史的背景と戦争責任の問題、首相の参拝の何が問題なのか、参拝を支持する者はどんな主張をしているのか、書くべきことは見えている。構成もだいたい決まっている。でも、筆がいっこうに進まない。出来事をならべるのは簡単だが、いざ抽象的な事柄を文章で表現しようとすると主語と述語がうまく結びつかなくなる。我ながら自分の言語能力のお粗末さにあきれる。言葉を探しながらひとつひとつ主語と述語を結びつけ、その文章のたどたどしさに苛立ち、戻って書き直す。書き直す度に文章が硬くなってきて、意味ははっきりするが文章がごつごつして前後のつながりが悪くなってくる。気に入らないのでまた戻って書き直す。それをくり返しているうちに窓の外が白々と明るくなってくる。書いていて楽しい内容ではないし一銭にもならないのに徹夜とは物好きなものだ。

 すっかり明るくなった朝7時、突然、電話が鳴る。「タナカですが……」聞き覚えのない男の声が不機嫌そうに話しはじめる。男は自分が送った商品がこちらに届かず、宅配会社によって送り返されてきたという。なんだこれは、まるで安部公房の小説みたいだ。なんのことかわからずぼんやり聞と男の不機嫌そうな抑揚のない声を聞く。大丈夫かこの人。どうやら、先週、こちらがヤフーオークションで落札したCDのことを言っているらしい。月曜日にお金を振り込んだきり先方から連絡が来なかったので、どうなっているのかメールで尋ねたのだった。不機嫌な声の主は、こちらの住所を確認し、再度、宅配便に送り直してみると告げる。それにしても朝7時から宛先確認の電話とはずいぶんさわやかな人物である。電話を切り、意識が朦朧としてきたので寝ることにする。

■ A piece of moment 8/21

 食事をしながらちらちらとNHKの大河ドラマを見る。不思議なことに弁慶に女房がいる。弁慶といえば男色と相場が決まっているし、そのためにわざわざマツケンサンバがキャスティングされて、どっちもOKそうなジャニーズ君の義経とコンビを組んでるんだろうと思っていたのに、どうやらそういう展開にはなっていないらしい。NHKも中途半端なことをする。一方、きのう、おとついとやっていた「ウォーターボーイズ」はそっちの皆さんへのサービスシーン満点で、きっと新宿三丁目のお姉さん方も堪能されたのではないかと思う。いっしょに見ていた友人は、「あら、この子の腹筋セクシーね」とまるっきり若いコ好きのおばさん状態。こういう発言をババアギャグと呼ぶことにしている。人はこうしておばさんになっていくのだ。

 ひさしぶりに自分のサイトを検索にかけてみる。誰かが名作マンガ「おるちゅばんエビちゅ」のサイトと一緒にここにリンクを張っているのを見つける。ありがたいことである。この素敵なセンスの持ち主はいったいどんな人物だろうと思ってよく見たら、小学校時代の同級生がつくっているWebサイトだった。世間は狭いのであった。

 疑問のページの「フニクリフニクラ」を加筆する。

■ A piece of moment 8/22

 アマゾン.comのWeb広告がまるで自分の好みを見透かしたようにピンポイントでねらい打ちしているような感覚をおぼえた人はいませんか。あれは過去に購入したりチェックしたりした商品データーが全部あちらのサーバーに記録されていて、それにもとづいてユーザーの好みを解析し、似た傾向の商品広告を発信してくるというしくみになっている。当然、アマゾンを利用する機会が増えるほど、データの蓄積量も増えて購買傾向の解析精度が上がり、よりこちらの好みにあった広告を発信してくるようになる。あなたのライフスタイルに最適化したサービスをお届けしますというわけだ。だから、酔っぱらった勢いで、どぎついスカトロものなんかを何本も注文してしまうと、次回そんなことすっかり忘れて昼飯を食いながらアマゾンを覗いた時に鼻から牛乳とツナサンドを吹き出すなんてことになるわけである、たぶん。このシステムを考えたプログラマーはアタマ良いなあと感心する一方で、その小賢しさにいらだつ。まるで、自分の好みを先回りして囲い込まれていくような息苦しさを感じる。もしこのシステムを、自分の好みにあった商品をすばやく知ることができて便利だなんて思っている奴がいたら、名を名乗れ、そこに直れ、目を閉じて歯を食いしばれって感じである。その小賢しさは、木下藤吉郎や石田三成の逸話を連想する。十やそこらの小坊主が、一杯目の茶をぬるめに出し二杯目は熱くして出すなんてあざとい芸当をしたら、そのねっちりとした気のまわしように気色悪いガキのアタマを二三発はたいてやりたくなるでしょ。けっして気が利いていてかわいいとは思わない。情報化社会の商売は、誰もがその気色悪いガキになろうとしているみたいで、息苦しいのである。欲しけりゃ自分で検索して注文するわい。

■ A piece of moment 8/24

 てくてくと歩きながら、なぜかアタマの中にポリスの「Don't Stand So Close To Me」のサビの部分がリフレインする。なんだこれは。潜在的願望なんだろうか。家に帰って押入を引っかきまわすと古いCDが出てきたので、歌詞を訳してみることにする。
Don't Stand So Close To Me (The Police 1980)

Young teacher the subject
Of schoolgirl fantasy
She wants him so badly
Knows what she wants to be
Inside him there's longing
This girl's an open page
Book marking - she's so close now
This girl is half his age

Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me

Her friends are so jealous
You know how bad girls get
Sometimes it's not so easy
To be the teacher's pet
Temptation, frustration
So bad it makes him cry
Wet bus stop, she's waiting
His car is warm and dry

Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me

Loose talk in the classroom
To hurt they try and try
Strong words in the staff room
The accusations fly
It's no use, he sees her
He starts to shake and cough
Just like the old man in
That book by Nabakov

Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me
Don't stand, don't stand so
Don't stand so close to me

-------------------------------

若い教師、少女の幻想の奴隷としての存在
彼女は彼を求める
彼の中に長く自分を刻み込もうと
この少女は開かれたページ、栞のはさまれた
彼女はいま近づいてくる
少女の歳は彼の半分にすぎない

近づかないで、そんなに近く
そんなに僕に近づいては……
近づかないで、そんなに近く
そんなに僕に近づいては……

彼女の友人たちは嫉妬する
彼女たちはどう貶めればいいのかを知っている
教師のお気に入りというのはそう楽なものではない
誘惑、欲求不満
あくどい手口が彼を悩ませる
雨のバス停、彼女が待っている
温かく快適な彼の車を

近づかないで、そんなに近く
そんなに僕に近づいては……
近づかないで、そんなに近く
そんなに僕に近づいては……

教室にうわさ話が飛び交う
ふたりを傷つけようと
職員室では強い調子で非難が飛び交う
それはもうふたりには届かない、彼は彼女を見つめる
彼はふるえだし小さく咳をする
まるでナボコフの小説のなかの中年男のように
 あと一歩でほとんどエロ小説です。最後にナボコフの「ロリータ」を持ち出してくるのはベタすぎるけど。あと曲のチャカポコしたアレンジが邪魔。こういう曲はもっとねっちりと演奏してほしいところ。ポリスはアレンジが安っぽいと思う。スティングがソロになってバックにうまいミュージシャンをずらっとそろえたのはわかる気がする。ところで大学に勤める知人は、夫婦して大学院生と不倫で家庭崩壊状態なんて話をしていたけど、世の中のあちこちでそんな面白いことがおきていたりするんでしょうか。なんだか高校生に政治経済を教えているよりもエロ小説でも書いていた方が自分に向いているような気がしてきたのであった。

■ A piece of moment 8/25

 ってよく考えたらエロ小説書いて食っていけるんだったらたいていの人はそうしたいわけで、満員電車に2時間も詰め込まれることもなく上司の顔色をうかがうこともなくプレゼンで失敗して胃がキリキリして昼飯がのどを通らないなんてこともなく日々妄想の世界に漂うことができる。肝心なのはそれで食っていけるかどうかなわけで、我ながらいい年してなに甘っちょろいこと言ってるんだろって感じである。1本や2本くらいなら思いつきと勢いでなんとかなるかもしれない。でも、読み手を意識しつつ、毎年、コンスタントに長編数本、短編数十本と書き続けるのは底力以外の何ものでもない。というわけでエロ小説家というのは、なりたくてもなれない世のあこがれの職業のひとつなのであり、人々の羨望の的だったのである。おそまきながら不肖ワタクシ、そのことにたったいま気づいた。エロ小説家の皆さまに申し訳ないかぎりである。明日のご飯のために2学期の授業の準備をしよう。

 家にいたくない気分だったが、台風直撃で夜遊びもできずぼんやりと家ですごす。部屋の空気が薄くなったような息苦しさを感じる。しんどい夜である。で、なにもする気がおきないので、この文章を書いている。

 まとめてマンガを読んだ。面白かったのは諸星大二郎「私家版鳥類図譜」と陽気婢「内向エロス」1巻。陽気婢「内向エロス」のほうはここ何年かに読んだマンガ・ベスト・オブ・ベスト。すごいわ、この人。エロマンガなので誰にでも勧められるわけではないが、ストーリーテラーとしての底力に圧倒される。

 物語は、複雑な入れ子構造になった短編連作で構成されていく。絵柄は80年代風少女マンガを簡略化した感じ。繊細な絵柄で物語に入りやすい。全体の主人公といえるのかどうか微妙な存在として、竹井という若い教師が登場する。高校で社会科を教えているふぬけた雰囲気の男。(誰ですか、変な想像してるの!)彼は学校には内緒でエロマンガを描いており、陽気婢というペンネームで雑誌にレギュラー連載をもっている。つまり、このマンガ自体を彼が書いていることになっている。入れ子のメビウスの輪というわけです。ストーリーは、1話ごとにその彼と彼をとりまく人々の日常と、劇中の「陽気婢」が描いたエロマンガとが交互に展開していく。劇中劇になるのは20ページ程度の短編で、いずれも若者たちのある状況を切り取り、そこでの微妙な心理をすくいとってみせる。ほのぼのとした恋愛ものあり、しんみりした思い出話あり、さらにはぶっ飛んだSFやほとんどアイデア勝負のナンセンスありとイマジネーションの振幅は大きい。20ページ程度なので複雑なストーリーはないが、若者たちの微妙な関係をベースにして、時々突拍子もなく不条理に展開したりするので油断できない。なにより、その微妙な心理描写と会話が抜群にうまい。映画でもそうだけど、何げない会話を上手に描けている作品というのはそれだけで良い作品だと思う。エロマンガなのでセックスシーンは多いが、よくできた物語の一部として構成され、コミュニケーションの表現として描写されているため、良くも悪くもあまりいやらしくはない。むしろ、読み終わって人恋しくなる感じ。一方、竹井の日常のほうは、たんなる現実ではない。創作の過程で彼が落ちていく妄想の世界や過去の記憶といった意識下の世界が交錯し、変容した現実として提示される。竹井の妄想の橋渡し役として、ある時は美術教師だったりある時は犬だったりする謎の存在がちらちらと現れる。クローネンバーグの映画や筒井康隆の「脱走と追跡のサンバ」みたい。そこでは、竹井はエロマンガを描いていることが学校にバレるんじゃないかとびくびくしながら勤務し、そつなくまとまっているが熱意のない授業をおこない、なかなか進展しない同僚の若い女教師との関係に妄想をふくらませ、生徒たちに日々からかわれている。(誰ですか、また変な想像してるの、実在のマンガだってば。)それにしても教員同士の関係など、学校での人間関係はやけにリアルだ。こちらでは竹井をとりまく奔放な女生徒たちが同級生の男の子とセックスを繰り広げる。それは閉じた物語の一部になっていないぶん、妙に生々しく刺激的だ。入れ子構造が効いている感じ。2巻目以降は、竹井の妄想世界が現実を浸食していき、彼の日常を描いた部分は消滅していく。結果的に、入れ子構造は崩壊し、彼の妄想の産物である各話完結した物語がならべられた普通の短編連作になっていく。なので、構成的には1巻目が面白い。2巻目以降は毎話完結した短編が続くため、いくらバラエティに富んでいても少し単調になる。20ページにすっきりまとまっていることがかえってマイナスに働いてあっさり味になっている感じ。雑誌で読むとまた違うのかな。ともかくまあそんなマンガで、やっぱりこれくらい底力がないとエロ作家で食っていけないのである。まったくもって恐れ入りましたという感じです。

 こういうマンガを読むと、当然、実際の陽気婢さんのほうがどういう人なのか気になるわけですが、大学卒業後、1年間の銀行勤めを経て、以来、十数年にわたって専業のマンガ家として活動している様子。もちろん高校の社会科教師ではない。(当然といえば当然で、もし俺が学校に内緒でエロマンガを書いていたら、やっぱり自分を投影させたキャラクターを社会科教師としては登場させないもん。)1966年大阪生まれの男性。内気な優等生として学生時代を過ごし、作品はそのころの自分を投影したものが多い。竹井の風貌や妄想癖のある性格は、かなり忠実にご本人を反映している様子。本名も竹井さんだといっそう入れ子が補強されて面白いんだけど、できすぎかな。ホームページもあって掲示板もあるので、なにか書き込んでみようかとも思ったけど、ご本人の掲示板に論評めいた感想を書くのも失礼だし場違いなので、ひとまず、上の文章にまとめてみたというしだい。エロマンガに抵抗がなければおすすめです。
 → 陽気婢自由帳
 → 漫画街 30の質問

 あ、このページ、高校生も読んでいたりするのかな。もちろん高校生にエロマンガをすすめる気はないけど、ただ、高校生といっても精神的な成熟度も様々だし性体験も様々だから、一律に18歳未満禁止とする発想はあまり意味がないような気がする。それよりも問題なのは、エロマンガの性質上、登場人物たちが繰り広げるセックスがやたらと刺激的で気持ちいいものとして表現されることで(まあそうでないと役割を果たさないわけでエッチな空想をふくらませたい時に倦怠期夫婦のしらけた性交渉を見せられてもね)、そのため、セックスや異性に過剰な幻想を抱きがちな人は注意が必要だと思う。とくに性体験や恋愛経験がほとんどない人がこの種のマンガで幻想をふくらませてしまうと、現実の相手とうまくつきあえなくなってしまう危険性がある。その点では成人も未成年も関係ないし男も女も関係ない。もっとも逆に、暑くて億劫だし疲れるしと夏場にすぐセックスレスになってしまう人やバイクいじってるほうが楽しいしと遊びにきた彼女を追い返してしまうような人も問題ある気がするけど。

【追記】 継続して作品を追っているような熱心な読者がコアなファン層としてついている作家のようです。Webにはそうした読者による数多くの感想が書かれていました。そのなかに彼が描く何げない瞬間のうまさについて、上手に表現している文章があったのでリンクしときます。ハタチそこそこくらいの若い方のようです。ときめいているようです。
 → 不時着カロン舟のミスナビ 2003.1.2

■ A piece of moment 8/28

 電車の中で内田百閧フエッセイを読む。じわじわ来る可笑しさがある。1ページ2ページと内田百閧フ不機嫌節が続き、3ページ目くらいからその不機嫌節がじわじわと可笑しくなってくる。4ページ目、5ページ目くらいで吹き出しそうになる。人混みの中でニタニタするのはちょっと恥ずかしい。

 国分寺のGAPはいつも売れ残り品を8割引くらいで売っている。シャツ800円、カバン700円、短パン900円とかそんな感じ。この定価との落差は何なんだ。ガレージセールみたいな値段をみる度に、値段っていったい何なんだろうという気分になる。GAPの値付けは、新製品=定価→3ヶ月経過=4割引→さらに売れ残った処分品=8割引という感じみたいだけど、国分寺店の場合は商品の回転が悪いのか常に処分品が充実している。ひと月に1度、処分品コーナーを覗くのが生活の一部になっている感じ。今回は、800円の開襟シャツを買って、レジでタグを外してもらい、その場で着て出かけることにした。荷物にもならず合理的である。もうひとつGAPで不思議なことは、客の雰囲気が男女で明らかに落差があること。国分寺店のような小さい店舗は別にして、新宿南口にあるような大きな店舗に入ると、女性客はわりとこざっぱりとした格好をしていて、たまにはGAPもという感じなのに対して、男性客は圧倒的に服なんかもうGAPでいいじゃんという投げやりな雰囲気を全身から滲ませている。この男女格差はなんなの。俺も人のこと言えないけどさ。

 選挙もからんで政治は郵政民営化一色という状況。この郵政民営化ですったもんだしていた6月の国会で、ひっそりと刑務所民営化法が成立した。いえ、ブラックジョークではありません。またムラタがデタラメを言い出したと思ってる方は政府のWebサイトでも見て確認してください。ほとんどニュースにも取り上げられず、かくいう私も深夜にNHKでやっている「今日の成立法案」一覧で知ったしだい。日本の政治は1980年代の中曽根政権以来、一貫してアメリカの「小さい政府」政策の後追いだけど、とうとうここまで来たかという感じ。90年代にアメリカで刑務所の民間委託がはじまった時、これは悪い冗談かと思った。案の定、問題続出で、ある民間委託刑務所は利益を上げるため、職員のトレーニングもろくにしないままホテルの空き室を埋めるかのように凶悪犯を定員以上に受け入れたあげく、脱走事件が発生。ほとんどモンティパイソンの世界である。日本もこんな法律とおして、本気で刑務所を民間委託しようとしてるだろうか。刑務所より国会を民営化したほうが良いんじゃないの。日本から脱走したい気分。


800円のシャツ。定価は謎の6200円。

■ A piece of moment 8/29

 右の胸がむずむずする。興奮した彼が湿った舌でアタシの乳首をリズミカルに……じゃなくって、シャツの上から触ってみると右の乳首が二つになったような出っ張った感触。なんだろうとシャツをまくると、脇の下から右乳首にかけて赤い発疹が帯状に連なっている。大きいの小さいの繋がってるの離れてるのと複雑な地形のようで、インドネシアのアーキペラゴみたい。熱を持って地腫れしている。こんなじんましんができるなんて、夜遊びがすぎたのか変なものでも食ったのかたんに体力が落ちてるのか、心当たりがありすぎて原因不明。乳首が増えてもうれしくないので医者に行くことにする。かゆい。

 医者は一目見るなり、「ああ、これは帯状疱疹だね、じんましんじゃないですよ」と言った。ウィルス性の発疹でヘルペスの一種だとのこと。帯状疱疹は、体に潜伏した水疱瘡のウィルスが体力が弱った時に発症するもので、発疹が神経にそって帯状に連なるのが特徴だと医者は言う。「背中にもあるね、右胸の神経にそって発症してるようだ、痒くないですか」と医者。ま、むずむずします。水疱瘡が部分的に発症してるのと同じだから、何日かしたら発疹にカサブタができるという。発疹にできた薄いカサブタをぺりぺりめくる様子を想像してうっとりする。ちょっと楽しみ。

 薬局へ行き処方箋を渡す。「あらウィルス性の発疹、ヘルペスですか」と薬局のおばさん。帯状疱疹だというと、あらそれは大変ですね痒いでしょとおばさん。「右の胸なんですけど、出っ張ったのがむずむずしてはじめ乳首が二つになったのかと思いました」というと、おばさんウハウハ笑う。楽しんでいただけて何よりです。薬局のおばさんからは、抗ウィルス薬は値段が高くてすいませんとやけに恐縮されて何事かと思ったら、5日分、内服薬30錠とチューブ入り軟膏1本で6500円も取られる。うぐっ。

■ A piece of moment 8/30

 病気見舞ということで友人宅で夕飯をごちそうになる。豚肉とゴーヤと豆腐の炒め物にやたらと具の多い山菜汁。たらふく食す。食事をしながら帯状疱疹を見せびらかす。友人激怒。瀬戸内海の離れ小島に隔離するべきだと言い出す。こうして無知が差別の歴史をつくりだすのである。いっぺん水疱瘡をやっている人にはうつらないんだってば。

■ A piece of moment 8/31

 どんなに立派なことを言っていても、ある一言でそれまでの言葉ががらがらと崩れていくことがある。「文句があるなら日本から出て行け」という発言はその典型的なひとつといえる。発言者の意識の低さをこれほど端的にあらわしている言葉もない。この発言が出てきたら、それまでの言い分がどれほど優れていたとしても、もうそれ以上、読んだり聞いたりするに値しないと判断すべきだろう。

 言うまでもなく、批判的精神こそが社会を改革していく原動力である。批判的に物事を見て、何が間違っているのかを指摘し、どうすべきなのかを検討していくことでしか社会は改革されない。この言論の自由の保障が近代民主社会を支えている。それは基本原理であり、どのような政治主張をする場合でも、この原理は変わらない。郵政民営化を支持する者しない者、首相の靖国参拝を支持する者しない者、憲法9条改正を支持する者しない者、どのような立場をとり、どのような発言をしようと、その根底には批判精神を尊重する原則が不可欠である。「文句があるなら日本から出て行け」という発言は、この原則そのものを否定し、政治プロセスに議論も検証も不必要だと主張する。しかし、批判的精神が失われ、人々がただ政府の政策を無批判に受け入れ、服従する、その不気味な社会の行く先は火を見るより明らかだ。20世紀の様々な歴史は、失われた多くの人命と踏みにじられた多くの精神によって、そのことを示している。「文句があるなら出て行け」式の発言は、自らそういう社会を望んでいることに他ならない。まともな判断力のある者の発言とは思えない。にもかかわらず、インターネットの文章を見ると、様々な場面でこの種の発言に出くわす。それは日本だけの現象ではなく、アメリカでも中国でも愛国心をとなえる声の高まりと共に増加傾向だという。多くの人がこの種の発言に触れたとき、なーに馬鹿なこと言ってんのとその愚かさを見抜く判断力を持っていることを願う。

 二学期の授業では、在日外国人の参政権問題についてクラス討論する予定だけど、生徒がこの種の発言を口にしだしたらどうしよう。討論の展開は生徒たちの発言にまかせ、こちらから口をはさまないのが基本方針だけど、「文句があるなら出て行け」式の発言の愚かさについては、はじめにことわっておくべきだろうか。

■ A piece of moment 9/1

 陽気婢、女友達には不評。セックス描写よりも、作者の願望を前面に出した都合の良い展開と現実味のない女性像が気になって、まともに読めなかったとのこと。内容をどうこう言う以前の問題なのでそれ以上はノーコメントだそうで、でもこのマンガに他者と他者がぶつかりあうことで生じるドラマ性を要求するのは読み違えてるんじゃないのこれは都合よく他者性を喪失した自己の分身たちと同一化していくことへの渇望感と快感を描いた妄想の世界なわけでと弁護してみるがダメでした。どうもエロと関係ない部分で読み手は限定されるようです。NHKでやっていた「ポワロ」の新作四本。楽しみにしていたのに「ハードディスクが容量不足です」とのことで、「五匹の子豚」の一本しか録画できていなかった。「五匹の子豚」はいままでのシリーズよりもずっとシリアスな内容。ポワロ役のデビッド・スーシェも抑えめの演技で聞き役に徹し、登場人物たちが織りなす濃密な人間関係を浮かび上がらせていく。(それにしてもスーシェも熊倉一雄も老けた。)物語は、14年前に殺害された画家と殺人犯として処刑されたその妻、この不在の二人を中心に、彼らをとりまく人々の複雑な人間関係といびつな恋愛感情が関係者の証言によって描かれていく。若い愛人への嫉妬、人を支配し独占ことの欲望と快感、富と才能をあわせ持つ者の傲慢さ、恋する者の卑屈さ、若く一途な情熱と策略、幼なじみへの押し殺した同性愛、見ていて背筋がぞくぞくする。(こちらは他者と他者とが濃密に絡み合い互いに精神的殺戮を繰り広げる世界。)心の中のもろい部分をぐりぐりとえぐられるような感触で、見終わってしばしのたうち回る。犯人さがしやトリックの仕掛けというミステリーの部分はもうどうでもいい。それよりもひとりの人間をこの世界から抹殺しようと思うに至るはげしい感情とそこに追いつめていく濃密な人間関係のほうに圧倒される。ときどき人から自虐趣味がありませんかと聞かれることがあるけど、本当にそうなのかもしれない。アップを多用し、冷たく冴えた映像も見事だった。あんな物語が書けたらなと思う。今回録画できなかった「ナイルに死す」「杉の柩」「ホロー荘の殺人」もなんとしても入手したいところ。急にプイグの「蜘蛛女のキス」が読みたくなる。20年近く前に観た映画はもうストーリーも忘れてしまった。舞台で再演するとのことでこちらも気になるところ。あいかわらず授業の準備が手につかない。

 疑問のページに「2005年度版 バイク乗り考」を追加。けっこう力作。

■ A piece of moment 9/3

 夜9時すぎ、都心部へ向けてバイクを走らせる。8月の猛暑とくらべてこのところ少し気温も下がってきたし、混んでる時間もすぎたしと油断していたら、中野のあたりで水温計が「H」を振り切り、リザーバータンクから冷却水が噴き出してくる。200メートルごとに信号にかかる東京の道が悪いのか、1000ccのエンジンが大きすぎるのか、ともかくこの調子では、都市生活者にはきびしい。緊急事態で高田馬場の職場まで行かなきゃならないなんて場合でも、バイクに飛び乗ってエイヤっていうのはちょっと無理そう。エンジン出力が多いぶん、発熱も大きいわけで、それにあっという間に100キロ150キロと加速していくので、都市の渋滞路を40キロくらいでもたもた走っているとやたらとストレスがたまる。バイクも前へ出たがってうずうずしている感じがする。この手の大型車は山梨あたりから高速をつかって東京に通勤なんていう人には良いのかもしれないけど、東京に住む者にとってはあまりに実用性に欠ける。ある程度予想はしていたけど、これほどひどいとは思わなかった。大型バイクに乗るようになって、かえって出不精になっている気がする。長く乗りつづけているオーナーのほとんどが田舎暮らしなのは自然淘汰の結果だったのである。10月には車検。いちおう通すつもりだけど、私とこの巨大なV型4気筒のバイクとの関係に未来があるような気がしないのであった。

 疑問のページに「仔ワニ500円」を追加。

■ A piece of moment 9/6

 高田馬場で「ムーランルージュ」と「オペラ座の怪人」の2本立て。「授業をサボってぇ〜♪」って教える側にまわってしまうとそうもいかないので、パレスチナ問題の授業3連発の後に映画館へ入る。「ムーランルージュ」は作家のタマゴとキャバレーの踊り子さんとのねっちりとした恋愛ものだと思っていたら、なぜか特撮全開のドタバタミュージカルで、韓国焼酎のテレビコマーシャルみたいだった。ストーリーの暗さと外連味たっぷりのスラップスティックな演出とが合っていないと思ったけど、隣の席で見ていた女性はラストでボロボロ泣いていたので、ああいう変化球もありなのかな。大勢のダンサーをバックにニコール・キッドマンが踊る場面は圧巻。ニコール・キッドマンはドタバタのシーンでは素で笑ってる感じで、めずらしく気立ての良い陽気なお姉さんに見える。個人的には、いつもの情念と怨念と野心のかたまりみたいなキャラクターより、こっちのほうがずっと良い。もっとコメディもやればいいのに。「オペラ座の怪人」のほうは、ファントム氏が劇場に住みつくようになったいきさつがわからない。寮長みたいなおばさんとファントム氏との間に何やらいわくありげな雰囲気だったけど、母親と息子ってわけでもなさそうだし、これも最後まで判然としない。映画版はストーリーを端折ってるんだろうか。

■ A piece of moment 9/7

 6500円もした抗ウィルス薬の効能なのか、帯状疱疹はカサブタもできずに発疹の腫れもひく。ただ、右胸から背中にかけて、打ち身や火傷のあとのようなひりひりした痛みが残る。しくみはよくわからないが、神経を刺激するので痒みよりもむしろ痛みが出ると医者は言っていた。このひりひり感が気になって、右の胸をもむ癖がついてしまった。昨日は混雑した西武新宿線の車内で、自分の胸に手を当ててモミモミしそうになったところで我に返り踏みとどまる。この状態が続くとそのうち授業中にオッパイをモミモミしてしまいそうで、自分の自制心のなさに不安が広がっていくのであった。

 当サイトの紹介文を少し手直ししました。読んだことのない方はご一読を。
 → information Box96

 ラジオからシンディ・ローパーの"Time After Time"が流れてきたついでに、疑問のページの37番目、「タイム・アフター・タイム」を加筆修正する。

■ A piece of moment 9/10

 授業はパレスチナ問題の3回目。ナショナリズムが連鎖していく問題とアメリカによるイスラエル支援を説明する。アメリカによるイスラエル支援は、中東戦争での軍事支援、イスラエル建国から継続的におこなわれている経済支援、国連での擁護と広範囲におよぶ。パレスチナ自治区への入植政策について、安保理ではたびたび反対決議がおこなわれようとしてきたが、その度にアメリカは拒否権を発動。このパレスチナ問題でのアメリカの拒否権発動は冷戦終結後だけで十数回におよぶ。その結果、戦争でぶんどった占領地に自国民を入植させ、既成事実として領土化するという現代社会にあるまじき野蛮なやり方がずるずると30年以上にわたって続いている。そうしたアメリカの姿勢が、アラブ諸国、イスラム諸国の反米感情を生んできた。とここまで説明したところで生徒から質問。「どうしてアメリカはそこまでイスラエルに肩入れするんですか?」あっ良い質問です。やっぱり不思議だよね、と生徒と一緒に不思議がっているだけでは話が進まないので、いちおう二つの点を指摘する。ひとつはアメリカ国内でのユダヤ系財界人の社会的・政治的影響力の大きさ。ユダヤ系の人口自体は数パーセント程度でたいした数ではないが、テレビ、新聞業界をはじめとしたマスコミ関係にユダヤ系の財界人が多く、ホワイトハウスとしては彼らの支持をつなぎ止めておきたい。ただ、興味深いことにアメリカ在住のユダヤ系市民には民主党支持のリベラル派が多く、彼らはブッシュ政権のイラク問題やパレスチナ問題での強硬なやり方を批判していて、この点ではアメリカ世論にねじれ現象がおきている。もうひとつは福音派をはじめとしたアメリカの保守的なクリスチャンに、親イスラエル・反イスラムの意識が強いこと。そのため福音派を主な支持母体とするブッシュ政権になってから、パレスチナ和平の仲介よりもシャロン政権の強硬路線を支持する立場を打ち出している。「でも、三つの宗教はルーツが同じで、キリスト教もイスラム教も同じ神を信仰してるんじゃないんですか?」ああ優秀な生徒、キミはインタビュアーか。えーと、アメリカでキリスト教の神とイスラム教の神とが同じ存在であることを知っている人はほとんどいません。多くのアメリカ人はイスラム教を狂信的な原理主義宗教だと考えていて、キリスト教とは相容れない異質の宗教と思っています。その認識は、湾岸戦争やイラク戦争の時にテレビのコメンテーターが「キリスト教徒の神とイスラム教の神のぶつかり合いです」なんてデタラメな発言をしても受け入れられてしまうくらい定着している。あと、アメリカの子供向けのテレビ番組では、悪者というとたいてい褐色の肌にターバンを巻いていて髭もじゃの人物が登場する。さらにその悪者は、やたらとマシンガンをぶっ放す残忍なテロリストだったりもします。これがアメリカ大衆文化に登場するアラブ人とイスラム教徒のステレオタイプ。なので、教育のない人ほど「アラブ人=悪者」の短絡的イメージを抱いているようです。こうしたステレオタイプが形成された背景に、アメリカの敵としてわかりやすい悪者を求めるネオコンの動きがあったという指摘もされているけど、その点ははっきりとはわかりません。個人的にはアメリカ人の国際問題への関心の低さが最大の問題だと思っています。ほとんどのアメリカ人は、イランで優れた映画がたくさん作られていることも知らないし、カンヌの映画祭でイラン映画がパルムドールを受賞していることも知りません。そうしてアメリカ大衆文化に「アラブ人、イスラム教徒=悪者」という単純化されたイメージが定着していることが、ブッシュ政権のイラク政策をアメリカ世論が受け入れる背景になった。あ、イランはアラブ人じゃないけど。そもそもまともな感覚があったら「悪の枢軸」なんて発言、悪い冗談としか思えないもんね。てな感じで、本日の授業もつつがなく終了。夏休みに遊び呆けていたわりに2学期の滑り出しは順調な気がするが、生徒に司会してもらっているような感じもするのであった。彼をサクラとして雇って、すべてのクラスに潜り込ませたいところである。

■ A piece of moment 9/11

 授業のページの「所沢高校入学式事件」を7年ぶりに加筆修正。事件から7年も経過して、いまさらという気もするけど、その後も似たようなケースはあちこちの学校で起きているし、今年は勤め先でも卒業式のあり方をめぐって、校長と一部生徒との対立もあって、改めて考えてみたしだい。
 → 所沢高校入学式事件

■ A piece of moment 9/13

 仕事の帰りに「パッチギ」と「69 Sixty nine」の青春映画2本立て。先週の「ムーランルージュ」と「オペラ座の怪人」は女性客大入りだったのに、こちらはがらがら。「パッチギ」は評判通り良い作品。「69 Sixty nine」は最低。7月に観た「ラスト・ゲーム」とならんで最近のワースト、と文句だけ言って、書き逃げしてしまうのも気がひけるので、「69 Sixty nine」の何がダメか挙げてみることにする。我ながら職業的訓練による忍耐力のたまものである。

 時代は学生運動はなやかなりし頃の1969年。主人公は高校生の男の子。妻夫木聡演じるお調子者で口が達者なハンサム君。退屈な日常と窮屈な高校生活に、なんかおもしろいことしたいなあ、みんなをあっと驚かせるようなことがしたいなあと思っている。まあたいていの人にはそんな経験ありますね。で、その彼が、安藤政信演じるもうひとりのハンサム君と知り合い、意気投合し、学校をバリケード封鎖しようということになる。バリケード封鎖をする政治主張や思想なんかはどうでも良くて、ともかくパフォーマンスとしてみんなが驚くようなことがしたいわけである。そこまでは良い。それもありだ。でも、このハンサム二人組み以外の登場人物たちは、いずれもブサイクでどんくさくて小心者の三枚目として描かれる。愚かな彼らは主人公に突っ込まれるとまったくなにも言い返せない。映画の中の笑いは、すべてこのどんくさい脇役たちを主人公のハンサムふたり組みがからかい、見下し、笑い者にすることで成り立っている。じつに感じが悪い。コンプレックスのかたまりみたいなクラスメイトを使いっ走りにして、彼がドジる度にふたりで小突き回す。運動もどきをしている連中を主人公は得意の口からでまかせで自分の計画に巻き込み、彼らがなにも言い返せないと見るや、手下としてあごで使う。彼らがその小心ぶりと三枚目ぶりを発揮するたびにふたりは笑い転げる。なんて嫌らしいんだろう。一方、教師たちはそろって感受性の欠落したステレオタイプとして描かれる。主人公が毎度のごとく口からでまかせで挑発する。「ベトナムで戦争が起きているのになにも行動せず、ただシェークスピアを読んでいるなんてくだらないと思いませんか」。その口先だけの批判に対して、教師はなにも答えられない。うっと言葉に詰まり、代わりに乱入してきたただ暴力装置として存在しているかのような体育教師が主人公をぶん殴る。おいおい……。我々が生きているのは極論するとシェークスピアを読むためである。政治とは人間がより良く暮らしていくための手段にすぎない。政治に関する問題提起や行動は、より良くシェークスピアを読める社会環境をつくるために行わるのである。人は天下国家のために生きているのではなく、人の暮らしを良くするために天下国家が存在する。これが近代社会の基本原理である。したがってシェークスピアを読むことを否定してしまったら、社会改革など無意味である。主人公の政治を論じることこそが上等であるかのような言い分は、お国のために滅私奉公をとなえた国家主義者と変わらないではないか。なーんて議論は一切なく、感性の欠落した教師はバカ面を下げてただ規則をとなえ、主人公はそれをあざ笑う。なんて薄っぺらい登場人物たち。おまけに学校一の美少女は、主人公の口先だけの社会批判に感動してしまい、彼に恋してしまうのであった。どこまでも主人公にムシのいい話で、おいしいところは独り占めである。やがて、主人公はバリケード封鎖の首謀者であることが発覚し、警察の取り調べを受けた末に謹慎処分となる。さらに謹慎期間中にヌードダンスとロックのイベントを企画したことで、とうとう退学処分になりそうになる。主人公はそれに猛反発する。なんでよ。あれだけ学校に不満をまき散らし、口先だけとはいえ「学校解体!」と校舎のそこら中にペンキで書き殴ったではないか。どうしていまさら退学になることに異議申し立てするの。そんな学校やめちゃってせいせいすればいいじゃん。要するに、主人公はちょっと暴れて目立ってみたかっただけで、本気で学校のあり方を改革しようなんて思っていないことはもちろん、進学校の生徒という社会的に有利な立場を捨てる気もなく、自らの言動の落とし前をつける気すらない。「学校解体!」と言いつつ、学歴だけはちゃっかり欲しいわけである。とことん嫌らしい奴。そんな主人公は退学をせまられた末、学校中の生徒を扇動し、全生徒たちに学校への不満をぶちまけさせる。退学させたいのなら生徒全員をやめさせてみろと逆に教師にせまる。そりゃあ誰だって窮屈な日常にどこかしら不満はある。でも、ただ自分がいい格好をしたいだけの底意地の悪い主人公に、なぜ、彼らが動かされるのか、まったくわからない。どこまでも主人公に都合良くできている話で、なんじゃこりゃまったくと思っていたら、最後でどんでん返し。(あ、以下「ネタバレ」ってやつです。)ラストでいきなり冒頭の教室でだべっている場面に巻き戻され、「なーんて話はどうかな」と主人公。ぬおおおおお夢オチかよ。なーんて話はどうかなじゃねえよ、なめんな。要するに観客は、ボクちゃん大活躍・ボクちゃん人気者・ボクちゃんモテモテというただ自己愛を垂れ流しただけの主人公の妄想に2時間もつき合わされたわけである。エンディングのスタッフクレジットを見ながらこの悪趣味な映画を作った連中に殺意をおぼえたのであった。脚本と監督は復讐ノートにメモってやる。もしあなたがこの映画を好きだとしたら、私はあなたのことも嫌いです。村上龍の原作はもう少しマシだったような記憶があるんだけど、映画はとにかく最低である。星マイナス5つです。

 「パッチギ」の主人公も、ヒロインが美少女というだけでひと目ぼれしてしまい猛アタックするといういい加減さでは同じである。ヒロインの女の子は朝鮮高級学校の生徒で彼女のお兄さんは京都中に名の知られた番長。でも、そこから彼は、彼女に少しでも近づこうと朝鮮語を学び、彼女が演奏していた「イムジン川」を一緒に歌えるようになりたいとギターを練習し、歌詞の意味と彼女が日本社会の中でおかれている状況を読み解こうとしていく。もう、こころざしと決意が決定的に違うのである。それでも在日の人々が日本へ抱く敵意と不信感によって、主人公は在日コミュニティからはじかれる。彼らが体験した出来事を知ることはできても、彼らがその体験で抱いた思いを共有することはできない。憤り、打ちのめされ、主人公は「イムジン川」を歌う。その歌声が地元の小さなラジオ局から流される。ヒロインの女の子はラジオから流れてくる彼の歌を聞き、涙ぐむ。そして、彼の思いを家族に伝えようとラジオのボリュームを上げる。印象的なシーンでした。同じ時代の同じようにマンガチックにデフォルメされた高校生たちの青春群像にもかかわらず、そこに登場する若者たちのリアリティと想いの深さに決定的な差のあるふたつの映画だった。

■ A piece of moment 9/14

 疑問のページの「バレエダンサー」に追記と佐藤さんからのメールを追加。
 → 「バレエダンサー」
 授業のページに「専業主夫」を追加。
 → 「専業主夫」

■ A piece of moment 9/15

 ここ数週間、アタマの中で同じメロディが鳴っていた。気がつくと口ずさんでいたり、アタマの中で鳴っているメロディにあわせて歩いていたり、皿を洗う手を動かしたりしていた。当然、聞き覚えはあるんだけどなんの曲かわからない。歌詞もおぼえていない。友人にさびの部分を歌ってきかせてもただニヤニヤと笑われるだけ。手がかりなしであきらめかけていたところ、昨日、古いCDの山の中からそれらしいのが出てきました。ああ、これこれ。こんな歌でした。

Hang Down Your Head (Tom Waits 1985)

Hush a wild violet, hush a band of gold
Hush you're in a story I heard somebody told
Tear the promise from my heart, tear my heart today
You have found another, oh baby I must go away

So hang down your head for sorrow, hang down your head for me
Hang down your head tomorrow, hang down your head Marie

Hush my love the rain now, hush my love was so true
Hush my love a train now well it takes me away from you

So hang down your head for sorrow, hang down your head for me
Hang down your head, hang down your head, hang down your head Marie
So hang down your head for sorrow, hang down your head for me
Hang down your head, hang down your head, hang down your head Marie

 浮気した女に語りかけている歌です。流れ者の男が何年も女を放っておいたあげく、彼女に別の男ができたことを風の便りに聞いて、遠く彼方の彼女へ歌いかける。そんな西部劇みたいなシチュエーションを思い浮かべるわけです。ただ、男はかなり未練があるみたいで泣きが入っている感じ。ことさら「俺は行かなきゃならない」なんて強調したりして。で、問題なのは次のさびの箇所。
    So hang down your head for sorrow, hang down your head for me
    Hang down your head tomorrow, hang down your head Marie
 「お前の首をつるせ」!?「お前の首をぶら下げてやる」!?○□△*……。
 「明日こそお前の首をつるしてやる」・・・・「つるしてやるからな、マリー」!!ぎょぇぇぇぇ……。
 さびに来て突然の血まみれ殺人事件発生でサイコホラーでスプラッターな急展開にどきどきしたんだけど、違うよね。まさかね。ありえないよね。こんな歌を口ずさみながら皿洗いを……いやいやいや。えーっと、英和辞書によると「hang one's head」で「(恥ずかしくて)こうべをたれる」ってあるから、こちらだと思うんだけど、どうなんでしょう。

 なぜかいまさら、「クリントン、セックススキャンダル」を加筆修正する。読み返しながら、文章がまるで酒場の酔っぱらいによる無責任な政治放談みたいで笑う。授業のページの中で一番可笑しい気がする。わずか7年前の出来事なのになんだか遠い昔のことのように思える。アメリカも日本ものんきだった時代ののんきな授業。
 → 「クリントン、セックススキャンダル」

 「モーターサイクル・ダイヤリーズ」他、映画3本まとめて観る。「モーターサイクル・ダイヤリーズ」の主人公は若き日のチェ・ゲバラ。ただし、革命家としてのゲバラではなく、スクリーンの中の彼は、茫洋とした将来に不安を抱く繊細な23歳のひとりの若者にすぎない。医学部を休学し、年上の友人とポンコツのオートバイに二人乗りして一年におよぶ放浪の旅に出る。オートバイは古いノートンの単気筒。出発の時からすでにオイルが焼けて白い煙を上げている。ついついキャブレターのオーバーホールとピストンリングの交換をしなきゃなんてことが気にかかる。陰影の濃い南米の風景の中をオートバイは走り、主人公の家族へ宛てた手紙がモノローグとして語られる。そこからは家族思いの文学青年としての若きゲバラの姿が浮かび上がってくる。旅の前半は、恋人との再会や見知らぬ女性たちとの出会いを求め、その中でひとりの若い魂が解放されていく様子が描かれる。中盤、転倒と故障の連続でなかばスクラップと化したオートバイを手放したあたりから物語のトーンは変化する。主人公はより密接に人々とかかわるようになり、そこで出会った貧しき者、虐げられた者とのかかわりから、南米社会の抱える社会的矛盾に思いをはせ、しだいに共産主義者としての自分を自覚していく。最近観た日本やハリウッドの青春映画がどれもマンガチックにデフォルメされた演出に満ちていたのとは対照的に、劇的な場面や大げさなセリフを避け、何げない描写やさりげない会話から揺れ動く若者の心理をすくいとってみせる。やはり映画はこうあって欲しい。我々はマンガのパロディとして生きているのではないんだから。それにしても南米の人たちは踊る。映画は50年も前の出来事だけど、そこでは誕生日、週末、歓送迎会、ことあるごとにダンスパーティを開き、老いも若きも機械工も療養所職員も、みんな踊る。ダンスが習い事や都会の風俗ではなく、生活の一部になっている様子はちょっとうらやましい。あと驚いたのはロバート・レッドフォードがプロデューサーとしてかかわっていること。20年ほど前に監督をした「ミラグロ」では、メキシコのスラムを逃れてアメリカに密入国する子供たちを描いていたけど、今回はチェ・ゲバラだし、アメリカの中南米政策に批判的な政治思想の持ち主なんだろうか。ハリウッドスターと社会主義者の取り合わせというのは、ちょっとイメージしにくいんだけど。

■ A piece of moment 9/16

 職場に「モーターサイクル・ダイヤリーズ」を観たという人がいたので、なぜ、いまだにゲバラだけは人気があるのかと聞いてみる。共産主義の理想は色あせ、毛沢東もフィデル・カストロも評価は地に落ちたというのに。返ってきたのは「やっぱりハンサムだからでしょう」と単刀直入なお答。「ハンサムな文学青年で、文章も若々しくて理想主義的だし、あの時代を体験した人にとってジョン・レノンとゲバラは特別なんじゃないかな。それに若死にして権力者としての醜態をさらさなかったっていうのも大きいと思いますよ」とのこと。うーむやっぱりカオとイメージですか。そういえば、60過ぎて突如右翼になった母はことあるごとに中国政府の悪口を言っていたのに、周恩来だけはハンサムで男らしくて立派な政治家だったと褒める。アンタは周恩来の業績の何を知ってるんだって感じだけど、男の価値は顔に現れると本気で信じている母には何を言っても無駄なので、ああそうと聞き流すのであった。

 2年ほど前、見知らぬ人からメールをもらった。丁寧な文章で書かれた所沢高校入学式事件についてのメールだった。その人は当時、所沢高校の1年生として在籍していて、自分が体験したあの出来事を考えてみようと、当時の資料を集めているとのことだった。日本の学校の卒業式・入学式のあり方について、どうも大学の卒論か研究室のレポートとして発表するみたいだった。私がWebに書いた所沢高校入学式事件の中のビデオ資料がどうしても入手できないので、もしよかったらダビングしてもらえないかと書いてあった。もちろん引き受けた。ただ、ちょうど期末試験直前でバタバタしていたので、少し待ってほしいとつけくわえた。ようやく答案の採点も終わり、ビデオテープのダビングもできたので、自宅宛てでも研究室宛てでも宅配便で送ると連絡した。ところが、やけに遠慮がちな人で、それは申し訳ないので近くの駅まで行くから待ち合わせしましょうと返事が来る。かえってその方が面倒な気がするけど、メールの主がどんな人なのか興味もあって会うことにした。数回のメールのやりとりで待ち合わせ場所と時間を決めるが、なかなかうまく互いの時間の都合がつかない。そうこうしているうちに、先方の研究発表も終わってしまったようで、メールの文章もトーンダウンしていった。研究発表に間に合わなくて申し訳ない、もし今でも必要ならテープを宅配便で送るとメールしたところ、再び、それではあまりに厚かましいので近くの駅で待ち合わせしてと返事が来る。まだるっこしいなあ。そこでもやはりうまく時間の都合がつかず、しだいにメールのやりとりもなくなり、2年が過ぎていった。棚の目立つところにおかれたままになっているビデオテープは、埃と煙草の煙で少し黄色くなっていて、それを見る度に夏休みの宿題をやり残した小学生のような気分になる。先日、Webの所沢高校入学式事件の文章を書き直したのを機に、2年ぶりにメールを送ってみた。2年もたてばアドレスも変わってしまってもう届かないかなと思ったが、予想に反して「MAILER-DAEMON」からの不在通知は来なかった。でも、それから1週間経過するが、返事はこない。なにをいまさらと腹をたてているのか、それともアドレスだけ残っていてもう使われていないのか。ひとまずビデオテープの埃を落として棚の奥にしまい込むことにした。

■ A piece of moment 9/19

 80番目の疑問を追加。悩めるタナカくんの巻。
 → 「だめんずうぉ〜か〜」

 炎天下の中、アタマから汗を流してバイクのチェーンに油をさし、ワックスをかける。車検にそなえて気合いを入れてみたのである。雨の中走って泥まみれだったアンダーカウルも分解洗浄。ぴかぴかである。隣の建築現場の兄ちゃんが邪魔だと言わんばかりにこっちをじろじろ見ていたので、ガンを飛ばしあう。邪魔はそっちじゃ。ぴかぴかになって気分も良いので記念写真も撮ってみる。バイク様とその下僕の図という感じ。





■ A piece of moment 9/21

 このサイト、何かがたりないと思っていたんですが、「FAQ」がないことに気づき、新設してみました。
 → FAQ

■ A piece of moment 9/25

 唯一、楽しみにしていたドラマ「シックス・フィート・アンダー」が13回であっさりと終わってしまった。放送開始時の番組宣伝では、「エミー賞6部門受賞!全米を震撼させた衝撃のドラマ、いよいよ放送スタート!」なんて大げさにぶちあげていたから、50本くらい一気に放送するのかと思っていたのに、なんともあっけない幕切れ。最終回の後に「今回をもって番組を終了します」の字幕が出ただけだった。わずか3ヶ月足らず。1stシリーズだけの放送契約だったようだ。あまりにも放送期間が短かったために、最終回の放送終了後にもプレゼント告知で、「番組放送開始を記念してマグカップをプレゼント」となんてやっていた。間の抜けた話。アメリカでは5thシリーズまでつくられているみたいだけど、CSで今後の継続放送をどうするのかについては一切告知がなかった。いいかげんだなあ。
 → スーパーチャンネル「シックス・フィート・アンダー」

 惰性で見ている「ER」と「スタートレック・エンタープライズ」はまだ放送が続く様子。もう200話くらい続いている「ER」はメインキャストが次々と入れ替わり、その度にトーンダウンしてもう出がらしという感じ。「スタートレック・エンタープライズ」は最近のアメリカを反映してか、やたらと好戦的な内容で見る度に不愉快な気分になる。「スタートレック」シリーズは、前作の「ヴォイジャー」あたりからCGを駆使した活劇調に雰囲気が変わっていて、このシリーズの本来の魅力だった思索的な部分は影をひそめ、「やっちまえ」という暴力性がやたらと前面に出てくる。「エンタープライズ」はさすがにアメリカのファンにも嫌がられたようで、4thシリーズで放送打ち切りとのこと。ちょっとほっとしている。新番組では、以前、町山智浩がコラムで紹介していた、「デスパレート」がNHK・BSで放送が始まるみたいで、これは少し楽しみにしている。もっともこの所、精神的に落ち込んでいて、テレビドラマを見る気分ではないんだけど。

 ひさしぶりにラジオで「伊集院光の日曜日の秘密基地」を聞く。番組の企画やテンポの良い会話は面白いんだけど、メインパーソナリティの伊集院光の発想が保守的すぎて、少々げんなり。「プロジェクトX」が大好きと公言し、彼氏以外の相手と手をつないでデートするという投稿に「そんなのありなの?!」とわいわい騒ぐ様子に、ちょっと勘弁してくれよって感じ。「プロジェクトX」のなんでも美談に仕立ててスタジオのおじさんたちに泣かせる演出は悪趣味の極みだと思うし、彼氏がいようが旦那がいようが、他の男と手をつないでデートするくらい別にいいじゃない。スワッピングパーティに参加したってわけじゃないんだから。それに「プロジェクトX」は、成功者のみを取り上げることで、日本企業が体質的に抱えている問題から意図的に目をそらそうとしているように見える。あれを見て泣いちゃう人の単純なメンタリティは不気味である。Webサイトを見ると、彼のラジオ番組はおたく系の人々に絶大な人気があるみたいだけど、無茶な企画をやってはじけているようでいて、保守的でマイホーム志向なところで丸く収まっていることに安心感をおぼえたりしているんだろうか。こちらはその丸く収まり具合にやけに居心地の悪さをおぼえる。

 先日、喫茶店でカウンター席に座ったら、隣のふたり組みが見るからにヤクザだった。ふたりとも40代半ば、サロン焼け、金髪、ぶっとい金のネックレス。片方は金髪を短く刈り込んでいて巨漢、服は黒ずくめ。もうひとりは肩までのロング、シャツのボタン4つあけて紫がかった紺のスーツ。当然、彼らがどんな会話をしているのか気になるので、本を読むふりをしてそれとなく耳を傾ける。
 「なあおい、豆乳ってカラダに良いんだって」
 「らしいな、でも砂糖が入って甘いのはダメだ」
 「ああ、甘いの飲むくらいなら豆腐か納豆でも食った方が絶対良いって」
 「俺よ、一日一回は納豆食うようにしてるぜ」
 「ああ、納豆は良いよな、ありゃ完全栄養食だってよ」
 「納豆食ってりゃ肉食わなくても十分だって聞いたぜ」
 なんだか老人介護のヘルパーさんみたいな会話。ヤクザの地味な食生活を垣間見た気分である。「俺よ、一日一回は納豆食うようにしてるぜ」ってあたりで思わずコーヒーを吹き出しそうになる。あぶないあぶない。ヤクザもヘルシー指向の時代なんだろうか。豆乳と納豆で、今日も元気にヤミ金の取り立てをしちゃうのである。

■ A piece of moment 9/28

 バイク、車検の日。もちろんユーザー車検。半年かけてぼろバイクの修理と整備をくり返してきたわけで、いまさら車検ごとき恐れるに足りずなのである。ここまできて誰かにまかせるなんて考えられないのである。ちょろいのである。どこからでもかかってこいなのである。エンジンオイルが漏れてるけどさ。ただ、バイクの車検を通すのは学生の頃以来16年ぶりなので、「オートバイのユーザー車検」の本を古本屋で買ってきて、あらかじめ予習する。ずいぶん制度が簡素化されたみたいで、車検費用も安くなっている様子。前は税金と自賠責だけで6万円くらいかかって個人的に経済破綻をきたしたけど、今回は3万弱でいけそう。ハーレーダビッドソンあたりが大型バイクを日本で売りやすくするために外圧をかけた成果なんだろうか。ともかく、立川の車検場の予約を取り、自賠責を更新し、ワックスをかけて磨き上げ、今日の日がやってきたわけである。朝9時出発、15分に車検場到着。30分かけて書類を作成、いよいよ検査。書類を書きながら、車検場まで独立法人化されていたことに気づき、妙な感慨に浸る。「はい、ヘッドライトを上下切り替えてください、次、ウィンカー、ブレーキランプ、前ブレーキだけ握ってください、次、リアブレーキのフットペダル……」、車検場の茶髪の兄ちゃんに言われるままに動かす。兄ちゃんが茶髪でロンゲでひげ面なのも独立法人化による規制緩和なんだろうか。ともかく、ライトはヘッドライトからテールライトまで全部新品に取り替えているので、文句なんて言わせないのである。「じゃあ、前に進んで掲示板の表示に従って操作してください、あ、となりに立って説明しましょうか」「あ、お願いします、車検16年ぶりなもんで」「はいはいはい」。茶髪の兄ちゃん結構いい奴。前輪をフリーにしてローラーに載せ、40km/hのメーター検査。そのまま前ブレーキの利きのテスト、ローラーを後輪にずらして後ブレーキのテスト。さらに前に出て、ヘッドライトの光軸・光量の検査。「はい、おしまいです」というわけであっけなく1発で通る。所要時間15分。同じバイクのオーナーたちの車検体験談によると、製造から20年経ったバイクなので配線の劣化から、ヘッドライトの光量不足で落とされることが多いとのことだったけど、とくに問題もなかった模様。そもそもヘッドライトが暗いのは気にくわないから、ヤフオクで買った中古のリレーとマルチリフレクターを半年前に組み込んでおいたので、それなりに明るいのである。というわけで、書類手続きを済ませ、新しい車検証と国土交通省マークのついた新しいシールをもらって帰宅。正味1時間かからなかった。というわけで今回はなんだかボクちゃん大活躍とでも言いたげな嫌味な近況報告になってしまって申し訳ないです。予想外のトラブルでアタマを抱えてる自分を思い描いていたんだけど。ともかく、これでまたこの先の2年間、合法的に乗り回すことができるわけである。
   ・自賠責保険 2万円弱
   ・書類 30円
   ・予約申し込みの電話代 50円
   ・重量税印紙 5000円
   ・検査登録印紙 1400円
   ・ユーザー車検の本 500円
  しめて約2万7千円也。


 FAQを加筆しました。へんなところから反響がありました。
 → FAQ

■ A piece of moment 9/29

 81番目の疑問の泡を追加。
 → 「合コン」

■ A piece of moment 9/30

 勤務先の高校では、植え込みの秋の花が満開。たくさんの虫たちが花の蜜を求めて集まり、飛び交っている。タテハチョウ、アオスジアゲハ、クマバチ、ミツバチ、ハナアブ、都心といってもこの辺は庭木の種類も多いし、広い公園もあるので、かえって郊外の住宅地よりも虫の種類は豊富だ。その中になぜかひときわ大きいスズメバチが混ざっている。オオスズメバチである。スズメバチも花に集まるんだっけ肉食専門じゃなかったっけと不思議に思っていたら、オオスズメバチは花の周囲を旋回し、やおら空中でハナアブを羽交い締めに抱え込んで器用に麻酔処理をし、そのまま巣に連れ帰っていった。花粉をなめつつ花に集まる虫を狙っていたのであった。一石二鳥。こんな都市部でもオオスズメバチの巣があるんだと感心する。スペクタクルシーンを生で見て得した気分。

 授業では、今年も在日外国人の参政権問題を取り上げる。昨年つくった資料を少し手直しして使うことにする。資料の会話文には、次の文章をつけくわえた。
「民族主義によって社会をまとめようとするやり方は、「同じ」であることを社会の求心力にするわけだから、そういう社会では、マイノリティや立場の異なる人を差別・排除しようとする傾向が強まる危険をはらんでいるよ。この同質性を指向する社会傾向が、日本ではアイヌの人々や在日朝鮮の人々への差別につながっていったわけでしょ。確かにナショナリズムは自分たちは同じだという意識によって強い団結力を生みだすから、19世紀の帝国主義の時代には外国の侵略に対抗するという意味で効果があった。でも、現在は国際情勢も大きく変わったわけだよね。もはやナショナリズムという同質性で社会をまとめようとする発想自体が現代の社会にそぐわないと思うよ。」
 この10年間、ナショナリズムの問題について自分なりに考えた結論である。

■ A piece of moment 10/3

 今年度は授業のレポートをまめに文集にまとめている。いままでやったテーマは、「クローンと遺伝子組み換え」「脳死」「原発の是非」「靖国問題」「カースト制」で、それぞれA4で12枚程度の文集をつくってまとめた。手書き原稿を入力しているとこちらが死んでしまうので、生徒にはなるべくメールで提出してもらっている。本当はインターネット上の掲示板に提出といきたいところだけど、インターネットに接続できない環境の生徒もいるし、ほとんどキーボードで文章を入力できない生徒もいるみたいなので、「できればメールで、もちろん手書きでもOK」というスタイルを今年度から採用している。メールと手書きの比率はほぼ半々、やや手書き優勢という感じ。なかには800字指定のレポートをケータイメールで送ってくる強者もいたりする。で、メール提出ぶんのレポートを省エネ運営で文集にまとめ、生徒たちと一部学校関係者に配布している。本当はこのWebサイトにも載せたいところだけど、個人情報の問題もあるし、現在進行形でおこなっている授業でもあるので、学校内のみの配布ということにしている。そんなわけで、このWebサイトはもともと生徒のレポート集を載せるためにはじめたものだけど、最近ではすっかり資料のみの公開になってしまっている。そろそろこのWebサイトの存在意義を問いなおす時期に来ているように思う。今夜は、「カースト制」のレポート集を作成したせいか、アタマの中でゴダイゴの「ガンダーラ」が鳴っている。

■ A piece of moment 10/9

 以前、中学校で教えていた頃に受けもった生徒と町で出くわす。もう大学も卒業して、いまはドイツ留学のために準備中だという。若者はどんどん育ってこちらの成長のなさを突きつけてくる。喫茶店で2時間以上もだべる。大学のこと、就職した友達のこと、家族のこと、留学のこと、国籍のこと、将来のこと。彼女の頭の回転の速さと生きる力にあふれている様子に圧倒される。いい女になっていた。それはこちらにこの8年で少しは賢くなったのかと問いかけてくるようだった。どうしたらあんなに屈託なく自分と自分を取り巻くものについて話せるんだろう。こっちのほうがいまだに自分を持てあまし気味で、まるで出来の悪い弟になった気分だった。すまん、ねえさん、おれ、まだバイク乗りまわしてるよ、なんて。

 放ったらかしにしていたリンクを修正。
 → 検索とリンク


■ A piece of moment 10/11

 500年ぶりに六本木へ行く。六本木ヒルズは子供を押しつぶす回転ドアのあるただのビルなのかと思っていたら、中層のビルが複雑に組みあわされた巨大な立体区画になっていた。うーむここが三木谷やホリエモンのいる六本木ヒルズかあ、たのもう一手お手合わせ願いたい、拙者、生国は武蔵の国、一刀流を少々、どこからでもかかってきなさい。あ、待った、その前にトイレ、でも、ここはきっとトイレの注意書きにも「FAQ」なんて書いてあったりするのかな、ちょっと嫌かも、そういや公衆電話が1台もねえでやんの、とまるっきりのおのぼりさん状態で、うろうろしてるうちに迷子になる。くねくねと曲がった通路、なぜか地下1階から1階、2階を飛ばして屋上へ行くエスカレーター、いちいち階上の広場を通らないと移動できない各セクション、この奇妙な立体構造は何かに似ていると思いながらうろうろしてると、突然思い出した。シロアリの蟻塚である。中心部に巨大なタワーがあって、中層の建築物がそれを取り巻き、内部の温度と湿度を一定に保つため換気ダクトをかねた吹き抜け空間が随所に設けられ、地下にすべてがつながった巨大フロアーがあるという構造は、アフリカやオーストラリアに生息するシロアリの蟻塚にそっくりである。きっと最下層部ではキノコの培養をおこなっているにちがいない。迷いに迷った末に、3Fから階上の広場に出ようとエレベーターに乗り込むが、ドアが開いた先はなぜかいきなりコカコーラのオフィスになっていて、スーツを着込んだ働きアリさんたちがケータイをいじりながらこちらを見てへんな顔をしていた。なんじゃこりゃ。

 六本木ヒルズ (写真は「武蔵野学院大学やきもの美術館」より)


■ A piece of moment 10/13

 試験問題作成中。もう徹夜はしたくないので、早めに取りかかってます。「疑問の泡」に新たな謎を追加。自己紹介なんだかどうかよくわからないページの文章と写真を修整・変更。試験問題を作成しはじめると、なぜかやたらとWebの文章の筆が進みます。
 → バーチャルアイドル IM-2005号
 → slices of time

■ A piece of moment 10/14

 朝、目ざめると腰が痛くて立ち上がれない。寝てる間に何があったんだろう。授業を終えて夕方になっても痛みがおさまらないので、近所の整形外科に通院することにする。整形外科の待合室で去年教えた生徒とばったり会う。最近こういうの多いな。人混みの中で「あれぇムラタセンセー」って、なんかテレます。ペンギンのようによたよた歩いて帰宅。

 動画再生のできるipodが発売開始。これを待っていたんだよ。このために授業の資料映像をデジタル化してきたんだよ。やっとビデオテープの山から解放される日が来るのである。もう出勤時間を気にしながらその日の授業で使うビデオテープが見つからなくてパニックなんてことともオサラバである。と思ったら、MPEG2形式の動画再生には対応していない様子。対応フォーマットはMPEG4とAVC(H.264)という独自形式のみ。なんじゃそりゃ。意味ないじゃん。MPEG4だってフォーマットが固まってるとはいえない状態だし、なんでこんな中途半端なことするんだろう。パソコンにテレビチューナーカードを入れてデジタル録画している人のほとんどがMPEG2のフォーマットだし、もちろん我が家の動画データもすべてMPEG2である。MPEG2に対応してないポータブルの動画プレイヤーなんて、何を再生するっていうんだろう。そもそも音楽データの再生機器として、ipodが日本製デジタルプレイヤーを蹴散らして国際市場の75%を独占できたのは、MP3というコピープロテクトのない共通フォーマットに対応していたからのはずだ。動画データへの対応になって独自形式のみ対応なんて、マーケットシェアを確保して保身に走ったとしか思えない。それとも小型ハードディスクの場合、技術的にMPEG2の再生に問題があるんだろうか。ともかくMPEG2対応の動画プレイヤーが発売されるまでは絶対に買わない。ipod用に400時間分の動画データーをわざわざMPEG4に再変換するくらいなら、ビデオテープで十分である。
 → 動画再生できる「iPod」発売へ 米アップル 朝日新聞 2005年10月13日10時59分
 → Apple、QVGA液晶搭載MPEG-4/H.264対応の新「iPod」 AV watch 2005年10月13日

■ A piece of moment 10/15

 朝の整形外科はジジババで満員。やたらと待たされる。年取るとたいていどこかここか痛いもんだからまあ仕方ないのかな。整形外科でリハビリを受ける場合は、午後のほうが空いているようです。腰も痛いし、コンピュータに向かうのがしんどいので、試験問題作成は後回しにして寝ることにする。撮りだめた「おじゃる丸」でも見よう。

■ A piece of moment 10/17

 10年ほど前から背中に小指の先くらいのできものができた。脂肪のかたまりのようで、固くしこっている。それが先々週あたりからぶよぶよと柔らかい感触になってきた。気になるので、指先で強く押すと脂肪のかたまりが指先についた。ちょうどチューブ入りワサビのような感じで、小さなつぶつぶがゲル状に固まっている。10年も背中にとどまっていたせいなのか、脂肪は酸化しまだら状に茶色く変色して、古くなったサラダ油のようなすえた臭いがする。ここぞとばかり力を入れて、できものの中身をすべてひねり出す。脂肪はにゅるにゅるにゅると大量に出てきて、人差し指と親指の間にべったりと付着する。指先で丸めてみたり、臭いを嗅いでみたりする。紙になすりつけ、ムラタの背アブラと命名する。試験問題を作成していると、ふだん思いつかないことに情熱をそそいだりするのである。ちなみに夏目漱石は、原稿が行き詰まると鼻毛をむしる癖があったそうで、漱石の書生をしていた内田百閧ノよると、鼻毛の毛根部分を原稿用紙に張りつけ、ぶちぶちと抜いた鼻毛を何列にも原稿用紙に植毛していたとのこと。ほんまかいな。

■ A piece of moment 10/20

 試験日までまだ1週間もあるというのに、めずらしく試験問題が作り終わる。やりはじめると一気に仕上げたくなって、締め切りが迫っているわけでもないのにけっきょく今回も徹夜。アホじゃ。来週は楽したいところだけど、500字指定の論述問題を出題したので、採点で泣きそうな気がする。腰痛激化。只今、低周波治療器の購入を検討中。6000円も出せばちゃんとしたのが買えるらしい。
 → ヨドバシ・ドット・コム

■ A piece of moment 10/24

 職場で歴史のセンセーとパレスチナ問題について話す。昨年死去したアラファト議長がムスリムではなくクリスチャンだったと指摘される。知らなかった。奥さんがアメリカ人でやたらと若くて金髪なのは気になっていたけど。何億ドルともいわれた彼の隠し資産はいまどこにって話でもりあがる。

 バイクを飛ばしながらふとアタマの中に「お言葉少女」という言葉がちらつく。あまりの脈略のなさに自分に戸惑う。「ごめんあそばせ」「ご機嫌よろしゅう」って、なんだったのアレなんてぼんやり思っていたらブレーキのタイミングが遅れて冷や汗をかく。へんな宗教団体の教祖にまつられた女の子が予言めいた「お言葉」を発することで話題になったのかと思っていたんだけど、どうもそれはまた別の女の子のことでワイドショーネタが自分の中でごっちゃになっていたようだ。気になるので帰宅して調べたところ、マルシア語もしくは真珠夫人用語みたいな不思議な言語を話す「お上品な」小学生の女の子がいるってことが地元広島で話題になり、その後、ワイドショーにも取材されて全国的に知られるようになったというだけのことらしい。実家は裕福な神社、現在はなぜかミッション系の金持ち女子大に通学中とのこと。たんに丁寧に話すよう教育されたというのではなく、社会階層を「古き良き時代」に回帰させようという周囲の政治的意図を感じる。不愉快なり。教祖にまつられた女の子のほうのその後が気になる。腰痛は少しおさまってきた。

■ A piece of moment 10/25

 ひと月半ぶりにバイクのタイヤに空気を入れる。空気圧指定は前2.5、後2.9。それぞれコンマ5ほど抜けていた。以前乗っていたオフロードバイクと違ってチューブレスタイヤなので空気が抜けやすいようだ。涼しくなるこの時期、タイヤの空気圧は2週間おきに入れる必要がありそう。ボロバイクは手間がかかる。近所のガソリンスタンドにある空気入れはエアゲージがいいかげんなので、東八道路沿いにあるバイク用品店の空気入れを利用することにしている。精密なエアゲージつきのエアコンプレッサーが二輪駐車場に備え付けてあって、無料で使えるようになっている。すごく良心的。いつも空気入れだけ使わせてもらってなんだか悪いので、たまには何か買って帰ろうと思うんだけど、整備もひと段落ついて最近はとくに買うものもない。いつもスイマセンって感じです。店はこちら。
 → ナップス三鷹東八店
 中間試験で授業もないので、バイクの整備をする。雨の日も乗るので、下まわりが泥まみれ。

■ A piece of moment 10/26

 消極的千葉ロッテファンを10年やってきましたが、日本一になる日がくるなんて思ってもいませんでした。川崎にホームグラウンドがあった頃、秋口にはとっくに優勝戦線から脱落して、がらがらのスタンドでは、客がコタツを持ち込んで麻雀やってたり、ひげ面の面々がモツ鍋つつきながら一升瓶抱きかかえて宴たけなわだったり、ホームレスのおじさんみたいに寝袋にくるまって寝ながら観戦してたりとやる気のなーい雰囲気が常に漂っていて、いつかは自分もあの無気力パフォーマンス集団の一員になろうと夢を抱いていたのである。千葉に移ってファンの雰囲気はすっかり変わったみたいだけど、私はあいかわらず消極的ファンなので、テレビ中継をみながらグーグーと寝てしまい、日本一決定のシーンを見逃してしまう。目が覚めたらビールかけやってやがんの。リーグ優勝の時もそうだったので、ビールかけを見ながらとうとうフラッシュバックが来たのかと思った。というわけで、日本一を記念して疑問のページの「バレエダンサー」にボビーさんについて追記する。きっと年末には2005年の顔としてボビー羽子板も登場するんだろう。
 → 「バレエダンサー」

■ A piece of moment 10/27

 となりの部屋の住人が電話に向かって叫んでいる。「マジぃ?マジマジマジマーーージぃマジかよーマジ、マジマジマジマジマジマジマジマージぃ……」。まだまだ続くがまあこのへんで。彼の言う「マジ」には微妙にアクセントやイントネーションの異なる用法があって、語尾が上がる場合は疑問形、語尾が強まる場合は驚きの表現としての感嘆詞、さらに連呼する場合は驚きの強調となる。したがって上記の会話は疑問を抱きつつ驚き大いに感嘆している状態を表現している。電話の内容は、緑色の宇宙人にレイプされたという彼女からのものか、友人が蠅男に変身しているという田舎の同級生からのものであることが推測できるわけである。この興味深い言語を自在に操る住人は学芸大で体育を専攻しているという地方から出てきた青年。運動部の練習で真っ黒に日焼けしておつむもちょっと弱そうだし、学芸大体育科はギャル系だったらしい。この出来事は約7年ほど前のことである。きっと今頃はどこかの中学校だか高校だかで生徒たち相手に「マージぃー」を連発しているんだろう。べつにいいけど。ともかく彼の存在によって、私は「マジ」を多用した会話術を学んだ。その後、「マジ、ヤバイっす、村田さん」なんて言う30男にも出会ったりして、「マジ」の普及率が上昇していることを感じている。しかし残念ながらまだ自分で試したことはない。マジ恥ずかしいもんで。

 話かわって、NEET。「ニート」と発音する。なんのことかと思えば、「プー太郎」または「すねかじり」「ゴンたくれ」のことらしい。べつにプー太郎って言ってりゃあいいじゃんか、なんでわざわざこんな無機的な用語を当てるんだろうと思ったら、どうも意図的に個人的視点を排して「社会問題」としての視点からのみとらえようとする政治的背景があるようだ。この言葉、もともとはイギリスの社会学者が働かない若者を総称してつけた名称で、学際用語なので、そこには「社会現象」というマスの視点しかない。若者個人の内面性や生き方の問題という個人的視野はすっぽりと抜け落ち、「社会問題」というマスの視点でのみ働かない若者をとらえようとする。厚生労働省がこの言葉を導入し、NHKはじめマスメディアがさかんに用いるようになった背景には、若者を労働資源としか見なしていない政治的意図を感じる。マスの視点からのみ人間の生き方をとらえようとするので、そこに社会生産性からみて邪魔者という批判的眼差しを付与しやすい。「ニートが増えたら私たちの年金はどうなる」というわけだ。窮屈な日本社会らしいといえばらしいんだけど、NHKが番組をあげて「アナタの子供がニートになったらどうしますか!?お困りご近所の悩み解決!」なんてアピールしてる様子をみると、まるで戦前の隣組を復活させようとしているかのようで不気味である。この構図は1980年代はじめのモラトリアム批判にそっくりである。「モラトリアム」は青年期の長期化を指摘するためにアメリカの心理学者が使い始めた言葉だが、日本に輸入した慶応大の小此木敬吾によって、最近のふぬけた若い連中は「大人」になる自覚に欠けてけしからんという保守的な政治意図が付与され、やはり「社会問題」とされた。でも、社会体制の維持に参加することこそ正しいとする発想は、社会になんら問題がない場合にのみ成立する。現代社会が様々な矛盾を抱えていることは明らかだし、若者がそうした矛盾に疑問を発するのはそれなりに意義がある。盲目的に現状に乗っかっているよりはずっと良い。で、やがてモラトリアム批判はすたれて、今度はニートというわけだ。芸のなさに笑っちゃいます。

■ A piece of moment 10/28

 このところ急に冷え込んできたので、扇風機の埃を落とし仕舞う。代わりに押入からファンヒーターを出そうかとも思ったけど、まだ、早いかなと今回は見合わせる。おとつい、明治通りで半袖短パンのおじさんがバイクで爆走しているのを見かける。罰ゲームだろうか。

 講談社現代新書から先月出たばかりの「人類進化の700万年」を読む。この分野、新たな人類化石が発見されるたびに定説が塗り替えられるので、研究は日進月歩というか朝三暮四というか、いままでの定説がどんどん古くなるので、最新の研究事情が知りたかったのである。まるでそんな私のために書かれたかのような一冊。よく歴史教科書の冒頭に載っている「アウストラロピテクス」→「ハビリス原人」→「ネアンデルタール人」→「ホモ・サピエンス」という一本道の人類進化の図式は、もう30年以上前に否定されていてるのに、いまだに教科書が改められないのは怠慢な気がする。人類進化はもっと細かく分岐していて、現代人につながらない道を歩んだ絶滅人類が10〜20種いることがわかっている。本書ではそのへんの研究成果がほぼ網羅されていて、すっきりとわかりやすい文章で解説されている。著者は読売新聞で科学欄を担当している若い記者。研究者自身が書いたものと異なり、仮説は仮説と一歩引いた視点で最新学説を紹介しているので、各研究者によって異なる見解を比較しながら現在の研究状況を俯瞰するように見ることができる。ずいぶんもめていたホモ・サピエンス進化の単系説と多系説の対立もようやくアフリカ単系説で決着がついたようだ。欧米の研究者が1980年代末にはアフリカ単系説でほぼ一致していたのに対して、日本ではつい最近まで国立科学博物館を中心に世界各地の原人がホモ・サピエンスに進化したとする多系説を主張していて、これもその後どうなったのかとずっと気になっていた。国立科学博物館で7年くらい前にひらかれた「ジャワ原人展」では、「ジャワ原人はアジア人の祖先」なんてキャッチコピーまでつけていたけど、遺伝子解析の結果がいずれも、世界各地の現代人の遺伝子が20万年前のアフリカにいた祖先に由来するのを示していることに加えて、2003年にはアジアの原人化石がホモ・サピエンスの系統につながらない証拠も出てきて、ようやく多系説の敗北を認めた様子。読み終わってすっきり気分。ぜひ、5年ごとに改訂版を出してくれるよう希望する。

■ A piece of moment 10/30

 押入の奥の方にあったCDを引っ張り出して、片っ端からituneに入れていく。サイモン・ラトルが指揮したシベリウスの交響曲全集があったり、ピエール・ブーレーズによるウェーベルンの全曲集があったり、カール・ベームが1970年代に録音したブラームスの交響曲3枚組みがあったりと、けっこう値のはるセットがあれこれ出てくる。おもに15年くらい前に集めたものだけど、なんでこんなに金があったのか不思議である。ブルックナーの第8交響曲やバルトークのピアノ協奏曲は3枚も4枚も出てくる。重たい曲ばっかり。シェーンベルクの「清められた夜」はアレンジ違いで3種類あって、カラヤンがベルリンフィルを指揮したフルオーケストラ版は重厚でやけに深刻だし、オルフェウス室内楽団による室内楽版はシャープできらきらした感じで、ラサール・カルテットによる弦楽4重奏版は枯れてて思索的と編成の規模や演奏スタイルで雰囲気が違っていたりする。こういう聞き比べみたいな集中力を必要とする聴き方はもうすることはないだろう。ベーム指揮のブラームス第1交響曲も録音年代別に3枚あって、ベームが歳をとるにしたがって演奏がスローテンポになっていく様子がなんだか可笑しい。3日がかりで100枚ちょっとituneに登録する。

■ A piece of moment 10/31

 昨夜、授業のプリントをつくろうと思いたつが、うまくまとまらずに徹夜する。寝不足でくらくらしながら授業4連発。アドリブが効かず、けっきょくただプリントを解説するだけの授業をする。生徒諸君、申し訳ない。

 ホリエモンのTシャツは2万円のプラダだそうで、ユニクロの500円セールかと思ってた。高いほうが恥ずかしい場合だってあるのだ。ちなみに「現代用語の基礎知識」によると、「エグゼTシャツ」と呼ばれてるって、いったいどこの誰がそんな言葉つかってるの、出てきて俺の前で言ってみろ声が小さいっもう一回って感じである。寝る。

 夜中、目が覚めて、組閣のニュースを見る。猪口邦子のドレスにずっこける。ドレスというより衣装である。熟女メイドカフェ。そっちの趣味の人なんだろうか。クマさんのぬいぐるみでも抱いて出てくればいいのに。サプライズである。

■ A piece of moment 11/5

 深夜、バイクを飛ばしていると、ラジオのイヤホンからアストル・ピアソラのタンゴが流れてくる。バンドネオンの湿った響きとモダンジャズみたいに前へ前へ進んでいくドライブ感。クルマのほとんどない青梅街道は時間が止まったみたいだった。そういえば、映画「12モンキーズ」の音楽も全編ピアソラ。あの映画でのピアソラの曲は、不安を駆りたてるような響きで、奇妙な登場人物たちと不条理なストーリーを音楽が際だたせていた。

 映画「サハラに舞う羽根」を観る。舞台は19世紀、アフリカ・スーダンの植民地戦争に送り込まれたイギリス軍の若い士官たちの友情物語なんだけど、植民地支配にまったく悪びれることなく大英帝国の栄光をたたえる上流階級の若者たちのメンタリティにまったく感情移入できない。彼らが友人の戦死に涙し、再会に肩を抱き合い、恋愛の三角関係に苦悩していても、いい気なもんだと白けるばかり。むしろ次々と射殺されていく現地スーダンの反乱軍兵士たちの方に目がいくが、彼らは残忍で理解不能の「蛮族」として描かれるばかりで、内面描写はまったくない。こんな映画が作られるなんて、現代のイギリス人に植民地支配への後ろめたさはないんだろうか。この居心地の悪さは、「アラビアのロレンス」の脳天気な英雄賛美に感じた不快感によく似ている。BBCのニュースを見ていると時々、「ヨーロッパの植民地支配でアフリカに近代文明がもたらされたのです」なんて論調で報道しているものがあるけど、アタマの中身はいまだに19世紀なんだろうか。現代アフリカの混乱がまるでヨーロッパ諸国がアフリカから手を引いたからみたいな言いぐさだけど、多くの場合、内戦の原因は植民地時代の統治に利用された部族対立に行きつく。西欧近代文明を尺度にして人間の暮らしを序列化する発想は、いまだに欧米では根強いように見える。1950年代、レヴィ=ストロースをはじめとした文化人類学者たちが西洋中心主義批判をくり返したが、多文化主義が大衆文化に定着しているとはいえない。5年ほど前、アフリカ諸国が植民地時代に行われた搾取と弾圧について、旧宗主国であるヨーロッパ各国に謝罪と損害賠償を求める決議をしたが、ヨーロッパ諸国は黙殺した。その理由として、あまりにも規模が大きいために、頭を下げ責任を認めたら賠償額が天文学的になるからではないかと言われていたが、もしかしたら半分くらいは本気で植民地支配はアフリカを文明社会にするために行った「援助行為」だと認識しているのかもしれない。野蛮人と見下していたくせに。この映画、監督・脚本がインド出身の人。これまた不思議。

 風邪をこじらせて熱を出す。最近の風邪薬が効くのを実感する。飲んで小1時間もすると、のどの痛みと発熱がすっとおさまってくる。効きすぎて少しこわい。

■ A piece of moment 11/9

 風邪が治らず寝てすごす。熱のため手足の関節がしびれる。ちょうど電動歯ブラシのように細かく振動している感じで、くすぐったい。あまりのくすぐったさにニヤニヤしながらのたうち回る。電話が鳴る。「もしもし……」、自分の声が電子音のように聞こえる。こりゃいかんわ。寝る。

 スーパーのレジで、前のおばさんが小銭をじゃらじゃらさせながら、89円あるわいちにぃさんしぃと1円玉を数えるのをいらいらしながら待つ。1円玉9枚と10円玉8枚を出した後、おばさん今度はスタンプカードあるわと財布をひっくり返しはじめる。おいおい。近所のスーパーやドラッグストアでは、なぜかスタンプカードが大流行。おばさんたちはこういうちまちましたものを貯めるのが大好きみたいで、ヤンママからヨボヨボまでならんでいる誰もがスタンプカードを持っている。殺意が込み上げてくる。1389円の買い物して10円分だか20円分だかポイントを貯めて何がうれしいんだ。ヨドバシカメラやヤマダ電機のように何万円もする買い物をする店ならまだポイントシステムも理解できるが、ネギとダイコンと牛乳とリップクリームを買ってスタンプスタンプあらこれはドラッグサンのカードでこっちはいなげやってああもうそのみみっちさに目眩がしてくる。おばさん、自己嫌悪に陥りませんか。スタンプカードで豚みたいにふくらんだ財布を見て人間やってるのが嫌になったりしないの。レジの行列にたたずみながらショットガンを乱射する妄想に浸る。割高でもかまわないからスタンプカードのない店で買い物がしたい。

■ A piece of moment 11/14

 なすびかじゃがいもみたいな形をした下図の動物はカピバラである。齧歯類でネズミの仲間。写真だとただの丸っこいネズミに見えるが、実物は50kgくらいある。大きいのである。南米の湖沼の多い草原地帯に生息し、足には水かきがあり器用に泳ぐ。草食。水辺に暮らす生態はカバに似ている。短い足でもこもこと歩く。カピバラのような大型の齧歯類は妙に収まりが悪い感じがする。ようするに見れば見るほどなんか変なのである。その違和感が気になって落ち着かなくなる。体重50kgもある巨大なネズミがゆっくりした動作で草をはんでいる様子は現実感に欠けているのである。ハンナ&バーベラの「チキチキマシン」に登場した毛むくじゃらの原始人に似ているような気もする。小さくてつぶらな目、昼寝中のハムスターのような温和そうな表情、丸い胴体、短い足、見ているとしだいに思考力が停止して笑いが込み上げてくる。なんかもうどうでもいいやという気分になる。深夜、翌日の授業の準備をしながらカピバラの姿が思い浮かぶ。もこもこと歩いている。カピバラが1匹、カピバラが2匹、カピバラが……。いいやもう寝ちゃおう。カピバラが出てくるようじゃもうお仕舞い。カピバラとコミュニケーションはとれるんだろうか。牧場の牛のように親しい相手には「グゥー」とか「ボェー」とか鳴くんだろうか。もちろんカピバラと親しい関係をつくりたいわけではなく、ときおり不機嫌で投げやりな声を発しながらもこもこと動いている様子を見たいだけである。羊は目つきが意地悪そうでこちらを値踏みしているようなこすっからい印象を受けるが、カピバラの顔はどこか諦観したような感じがする。長崎にある動物園ではカピバラが放し飼いになっていて、さわることもできるという。きっと人間になど興味ないという調子でもこもこ歩いているんだろう。ちょっとさわってみたい。毛はたわし状の剛毛だそうだ。


 ビーバーも齧歯類。正面から見るとネズミの顔をしている。体重は約30kg。かなり大きい。体重だけでくらべるとジャーマンシェパードくらいある。ネズミの顔をした大型動物というのは、やっぱりなんか収まりが悪くて妙な違和感を感じる。手足が短く、信楽焼のタヌキのようなずんぐりした体型。水中で尾びれの役割をするシッポはシャモジの形をしている。水中では活発に泳ぐが、陸に上がるとやけにどんくさい。ビーバーエアコンのビーバーはスマートでくりくりした目の利発そうなキャラクターとして描かれているが、実際のビーバーは見るからに臆病そうで不機嫌な顔をしている。カピバラほどケセラセラな感じはしない。むしろ臆病さに突き動かされるように、せっせと立木を囓り倒し、巨大なビーバーダムをつくりあげる。丸太や小枝を泥で塗り固めて堤防を築いて、小川をせき止める。水位は微妙に調整されている。ビーバーもカピバラと同じく草食なので、つくったダムを魚の生け簀にしているわけではない。ダムは捕食者から逃れるための要塞で、中心に築かれた浮島がビーバーの巣になっている。巣の入り口は下部の水中に開いており、上部は出入り口のないドーム状をしている。堀に囲まれた臆病者の城という感じ。太ったネズミ顔の生き物が丸太をせっせと運ぶ姿は、世界への恐れに突き動かされているかのように見える。その情熱が世界を変容させる。巨大なダムは何世代にもわたって増築され、何段にも築かれる。それは建築物というよりも体の一部のようだ。歪な形にふくらみ、生き物のようにぬくもりをたたえている。内部は胎内のように自分の他者の境目がない世界が広がっているんじゃないかと想像する。子供の頃、廃材置き場につくった秘密基地を思い出す。ああビーバーになりたい。
 → Wikipedia ネズミ目
 → 羽村市動物公園 アメリカビーバー

カピバラ正面図。つぶらな目。50kgの巨体。性質温和。水かきもちゃんとあります。でもそこはかとなくネズミ。本当はすごくさわりたい。

■ A piece of moment 11/16

 大学受験はミスコンテストのようなものだと思っている。まあお好きな人はどうぞとそんな感じである。大学を受験するという人は、大学に行ってまで勉学にはげみたいという物好きな人なのだろうから、きっと誰それの講義を受講したいとか、何々講座のゼミに参加したいとか希望があるんだろう。少なくとも建て前としては。でも、べつにその大学の学生にならなくても、講義を受講したりゼミに参加するのはいくらでも可能だ。大学なんてニセ学生がまじっていてもわかるわけないのである。むしろニセ学生のほうがたいてい熱心に質問したりノートをとったりするので、彼らが多く入り込んでいる大学ほど講義やゼミに活気がある。時には自主ゼミの発起人がニセ学生だったなんてケースもあったりする。それに教える側から言うと、ただ卒業単位のためだけに嫌々出席してぜんぜん授業を聞いていない学生よりも、学生でもないのにわざわざ自分の講義を受講するためにやってくるニセ学生のほうがよっぽどかわいい奴に思える。もし「実はここの学生ではないんですが」とことわった上でゼミへの出席許可を求めたとしても、たいていの教師は苦笑いしながら受け入れてくれるはずだ。というわけで、大学の本質的役割を学問研究だと解釈した場合、どこの大学に入学するかはたいした問題ではない。希望する大学に合格したところで、学問的探求という点では、たんに気をつかわずに講義やゼミに出席できる程度の御利益しかない。なので、受験勉強はバカにならない程度にほどほどにやればいいんじゃないという感じである。教育者としては、「そんな無意味なことに時間を費やしてないで良い映画でも見なさい」と若者を諭すのが本筋なのかもしれないけど、それもまたよけいなお世話のような気もするので、まあお好きな人はどうぞというところに落ちつくわけである。

 一方、現在の日本の大学は実質的に就職予備校になっている。学校の役割として、内容よりも学歴を重視する傾向は、日本に限らず、学校教育を国力増進と産業発展のための手段としてきたアジア各国に共通して見られる現象である。こうした社会において若者を勉学に向かわせる原動力は受験競争でしかない。学ぶことは目的ではなく、競争に勝ち抜いて上位階層の一員になるための手段である。学ぶことは自分の知的能力の向上のためという意識が確立しているヨーロッパの個人主義社会とは対照的である。とくに韓国は暗記中心の学習内容や高校が大学入試のための受験予備校になっているところまで日本そっくりであり、さらに日本以上に大卒と高卒とではっきりと社会階層が分離する。じつに嫌な社会である。したがって、大学はホワイトカラーとしての職を得るための窓口であり、卒業資格はホワイトカラー候補者になるための証明書といえる。こちらの点から大学を考えた場合、学問研究はほとんど意味をなさない。たとえ「キルケゴールとイングマール・ベルイマンの信仰における相似性」について、斬新な切り口で精緻な研究論文を書き上げたとしても、そんな学生、どこの企業も欲しがらないのである。研究者になるか評論家になるかでもしないと、才能を職業に生かす道はないだろう。同様に「冷戦後の核管理と流出問題」について、膨大なデータを読み解き、新たな国際関係の指針になるような研究論文を書き上げたとしても、やはり研究職か国連にでも就職しないかぎり仕事に結びつけるのは難しい。さらに言えば、夏目漱石の小説をすべて読破していることよりも、「夏目漱石」と漢字で書けることのほうが就職先でずっと高く評価されるのである。いくら「草枕」や「夢十夜」を愛読していても、とっさに「漱」の字が出てこなかったら、「坊っちゃん」を3ページしか読んでない係長に「キミ、教養ないね」としたり顔で添削されるはずである。もちろん企業側は、大学との文化的ズレを百も承知しているので、一部の技術系研究職を除いて、就職面接で学生に論文の研究テーマを尋ねたりしない。たとえば大手商社の場合、入社志望の学生に求めるのは次の三つである。
  1.体育会サークルに所属し、体が丈夫でガッツがあること。
  2.英会話が達者なこと。
  3.入試の合格偏差値が高い大学であること。
 いずれも学問研究とは無縁である。1と2は兵隊としての実用性。3は大学の入試問題を能力評価テストとして企業が信頼しているというわけではぜんぜんなくて、競争に勝ち抜いたという資質と学閥による人脈形成という点で重視しているだけである。センター試験に詰め将棋が出題されたところで、企業としてはいっこうにかまわないはずである。したがって、大学をホワイトカラー就職予備校としてとらえた場合、カリキュラムは全面的に改める必要がある。そもそも日本の企業に就職するのに帰国子女のほうが優遇されるという現状は、日本の大学制度が企業の求めているものと大きくズレていることを如実に表している。というわけで、新カリキュラムでは、午前中は全部英語、午後は全部第二外国語。どこかの私立高校みたいに体育会系サークルへの入部を必修として出席もとる。また、夜は積極的に合コンとパーティへ参加することを学生に奨励する。コミュニケーション能力とマネージメント能力の向上と人脈形成を促すためである。そして最終的には就職活動そのものが卒業研究となる。就職予備校なので当然である。就職が決まった時点で卒業資格を与え、3年生でも飛び級で卒業を認める。学内の競争を活性化させ、大手に就職した卒業生とのパイプを太くしていくことは大学の資産になるはずである。最近はやりの「勝ち組」育成であり、ビジネスマン養成所としてはきわめて合理的なカリキュラムではないかと思う。企業の新人研修で似たようなことをやっているところも多いのではないだろうか。これを4年間みっちりやれば、英語も中国語もぺらぺらで毎晩パーティの主役になれる24時間戦う優秀なビジネスマン候補生ができあがるというわけである。大学の本質を学問研究の場と考える物好きな人々は、こうしたやり方に眉をひそめるかもしれないが、大手企業に続々と人材を輩出し、卒業生の平均所得が日本の平均よりも70%も高いとなったら、入学希望者は殺到するはずである。キルケゴールより「ドラゴン桜」のほうが若者に人気があるようなので、すでに素地はできていると言えるだろう。考えようによっては、現在の大学がそうなっていないために、学生たちは授業をサボって自主的にこのカリキュラムを自らに課しているのだと見ることができる。ただ、これを「大学」と呼べるかどうかは微妙なところである。先の学問研究の場としての大学とはあきらかに水と油である。同じ敷地内にあったら、学生も教師も互いに険悪なムードになることは容易に想像がつく。両者をはっきり分け、どちらかが「大学」を名のるのをやめて、「学問所」もしくは「就職予備校」と名前を改めればきわめてすっきりするのだが、「大学」の方がなんだか学校として立派なような印象を与えるので、名称の取りあいでもめそうなのが唯一の気がかりである。

■ A piece of moment 11/17

 気ままな散策者にしてうちの同居者。忘れた頃に現れ、吸盤つきの大きな手でひょこひょこと壁をつたい下りてきては壁の隙間に消えていく。平たい体、背中は灰色ですべすべしている。最近、ちびヤモリも加わって二世帯。食料も豊富にあるようだ。大小ヤモリのアタマのサイズはほとんど同じで、ちびヤモリは体だけ小さい。3等身でマンガのキャラクターのよう。そろそろ今年も冬ごもりである。


■ A piece of moment 11/18

 先日の学校の話の続き。放課後、職場のオジサンたちと茶菓子をかじりながら、最近の大学の授業風景のひどさについてだべる。多くの大学で授業が成立しないほど学生の授業態度が悪くなっているという。1時間目は出席者名簿に記名した途端に寝てしまい、2時間目以降は携帯をいじっているかマンガを読んでいるかだべっているかで、学生の私語で授業にならないとのこと。まるでどこかで見たような風景。前に受けもった工業高校では、授業中に後のほうでサッカーボール蹴っ飛ばしてたぞ。「大学で学級崩壊だなんて世も末だねえ」とずるずるお茶を飲みながらオジサン。でもよく考えたら、学校に通う目的が学歴でしかない社会の場合、競争がゆるくなったらそうなるのは必然的といえる。少子化で誰でも大学に入れる時代になり、産業構造の変化でホワイトカラーのリストラが増加して学歴の「うまみ」もなくなりつつある中で、学生の意識もとりあえず大学に来ているという傾向が強まっているんだろう。そういう意味ではもはや高校生と一緒である。本質的な改善方法は、学ぶことは自分の知的能力を高めて視野を広げるためという意識を社会の中に定着させていく必要があるということになるんだけど、どう見てもいまの日本社会にこうした個人主義的価値観が定着する気配はない。結局、日本もアメリカみたいに貧富の格差が広がる状況で、「勝ち組」「負け組」で若い人たちを脅しつけながら、彼らに競争をたきつけることでしか、学ぶ原動力にならないように思える。なんて嫌な社会。さらには、アメリカの大学みたいに毎回大量の課題を出して、それをこなせない学生はどんどん留年させるようにしようという声も出てくるだろう。「とりあえず」大学にやってくる若者たちを相手に、もはや「大学は自分から学ぶところ」なんて悠長なことは言ってられないというところなのかもしれないけど、やはり本末転倒に見える。外的動機づけである「有利な就職」「課題」「競争」といったムチとニンジンがないと学ぶ気がしないというのは、根本的に勉学に向いていない人たちなんだから大学なんて行かなくていいのにという気もする。何かを学んだり考えたりすることの最大の利点は、それによって自分の思いこみや不合理な慣習から解放されることにある。「ああそうだったのか」といままでと違う視点で考えるようになる。そのときの胸のすくような快感こそが物事を考える原動力になり、その成果として得られたものは、日々の暮らしにおける自らの意識を変化させる。それは実務的なハウツーとは関係なくても、自らの意識そのものを変化させるため、日々の暮らしの中で広く影響をおよぼし、同時に広い意味で「実用的」である。ただ、そうした成果はあくまで自ら考えた末に得られるもので、制度化され体系化された知識を効率良くおぼえるという手法ではたどり着くことはできない。したがって逆にいうと、授業がテキストを効率良くおぼえることを主目的とする内容である限り、その学校のカリキュラムは卒業後の実務に直結する内容であるべきだ。だって何にもちいるもわからない知識をただおぼえさせられるなんてやってられないじゃない。ほとんどの若い人たちが就職のためのステップとして「とりあえず」進学しているのなら、半数くらいの大学を実務的なカリキュラムに特化した就職予備校に改変して、そちらを充実させた方が合理的である。ビジネス英会話とか表計算ソフトの使い方とか商法の基礎とか簿記とか宅建とか。なんだか商業高校の延長みたいだけど、けっしてそれらの実用的な知識や技能を見下しているわけではない。実務的ハウツーを「学問」や「教養」よりも低く見る傾向は、知識階層のエリート意識がつくりだしたこっけいな幻想にすぎない。それにしても、最近の大学の教師は学生を叱らないんだろうか。べらべら喋ってる学生を教室から叩き出したところで、大学ならべつに問題ないんじゃないの。

■ A piece of moment 11/20

 すっかり寒くなってきて、バイクの整備も億劫に。整備は億劫だけど、我がぼろバイクは常にオーバーヒート気味なので乗るぶんにはちょうど良い感じ。それなりに距離も走っているし、まあ仕方ないかと整備にとりかかる。キャリパーの分解は面倒だから、とりあえずクリーナーを吹き付けてブレーキダストを落とす。前後ともブレーキがキヨキヨと鳴いて不愉快だけど、効くことは効くので今回はまあいいや。汚れ落としとワックスがけが同時にできますという手抜きワックスで車体とホイールを磨く。手抜きなのであまりぴかぴかにはならない。小雨の日に走ったので下まわりがやけに汚い。バッテリーは弱り気味。この冬もたせるか悩むところ。新品に交換すると8000円の出費、うーむ。チェーンの掃除と注油は面倒だからサボる。アンダーカウルの分解清掃も面倒だからサボる。いちおうエンジンオイルのチェックはする。オイルはあいかわらずじわじわとミッション左側から漏れ続けていて、非常に気分が悪い。ずいぶん漏れてるはずなのに、なぜかオイルレベルは規定量入っている。よっぽど多めに入れていたらしい。オイル管理くらいはきちんとやりたいところである。三鷹のバイク用品店まで走ってタイヤに空気を入れる。前回、2週間おきにタイヤの空気圧はチェックするべきなんて偉そうなこと言ってたのに、やっぱり1ヶ月ぶり。前後ともコンマ4ほど抜けていた。東八道路を走っていると、ラジオのイヤホンから、RCサクセッションの「どかどかうるさいロックンロールバンド」が聞こえてくる。ひさしぶりに聞いたら歌詞がやけに格好いい。いつかカラオケで歌おう。帰宅してテレビをつけると東京女子マラソンをやっていた。高橋尚子復活優勝で、小出カントクがどんなコメントをするのか期待していたのにインタビューはなし。べろべろに酔っぱらってしょうもないことをぼやいてる姿をみなさん期待してるんじゃありませんか。どうよ。

■ A piece of moment 11/24

 疑問のページに→「うちの嫁さん」を追加。

■ A piece of moment 11/26

 このところ、別役実のエッセイをまとめて読んでいる。微妙に論理がずらされ、乾いた笑いがこみあげてくる。次第にものの考え方が別役調になってくる。さっき書いた文章を読み返したら、あきらかに影響されていてる。恥ずかしい。
 →「うちの嫁さん」を加筆修正。
 →「合コン」に追記。

■ A piece of moment 11/28

 授業で、小泉政権の民営化推進政策を検証する。「小さな政府」と「大きな政府」の長所短所を説明し、例によって、でどうすればいいのかと生徒に尋ねる。うーんどっちのほうが良いんでしょうかねえと生徒。いやいや聞き返さないでよ、それを考えるのが今回のみんなの課題なんだから。この問題、いずれにしても一長一短あるわけだから、最終的な判断材料は、みんなが将来どんな社会に暮らしたいかっていう好みの問題だよと説明する。生徒たち、ふーむという様子で、その中のひとりが「ではセンセーはどう考えるの」と聞いてくる。おっとっと。

 「えーとそうだね、まず、公務員の数はこれ以上減らすべきじゃないと思うよ。人口あたりの公務員数では、日本は先進国中最低でヨーロッパ諸国の1/2から1/3程度しかいない。公務員数でいえば、日本はとっくに小さな政府になっているわけだし、これ以上減らしたら、行政サービスに支障をきたす危険性が高いよ。実際、JR西日本の尼崎線での大事故やマンションの耐震性の手抜きも利益最優先で安全面を軽視する傾向がもたらしたわけだから、なんでも民営化すれば良いってわけじゃない。逆に、公務員の既得権益は大きく減らすべきだと思う。この場合の既得権益は権限と給料。日本の場合、役所の裁量権が大きいから、企業は関係官庁にアタマが上がらないっていう構図があるよね。結果的に、公務員がパブリックサーバントっていう国民に奉仕する立場ではなく、まるで国や自治体の支配者のような意識を持ってしまう。これはアジア諸国の国家主導による開発独裁でよくあるケースだけど、民主制が十分機能していないという点では日本も変わらないよね。だから、裁量権をもっと限定したりオンブズマン制度を国も導入して業界との癒着をチェックしたり天下りを制限したりする必要がある。公務員の数を減らすより、こちらのほうがずっと優先課題じゃないかな。とくに財務省は権限が集中しているから、2つか3つに分割するべきなのに、小泉改革は郵政民営化ばかりで、財務省解体はぜんぜん言わなくなってしまったのは本末転倒だと思うよ。あと、給料、公務員の給料はだいたい半分くらいでいいんじゃない。退職金は1/5で十分だと思うよ。国や自治体の赤字財政を理由に社会保障を削ろうっていうなら、国民にツケをまわす前に、まず赤字財政にした張本人である公務員から責任をとらないとね。それができるまでは社会保障の削減には手をつけるべきじゃないよね。政府は赤字財政を理由にまず社会保障から削ろうとしているけど、順番は逆だよね。もともと産業構造の変化で日本社会の所得格差は開く傾向にあるわけだから、社会保障はむしろ充実させるべきで、それを削減するのは最後の手段にするべきだよ。まあ、公務員給与の減額っていっても、月給18万円の新人職員から減額するのはかわいそうだから、そのへんは累進的に高額所得者から減額するってことで」。しどろもどろで答える。お粗末。

 公務員の給料を減らせというと、たいていの公務員が憮然とした顔をする。まあ当然といえば当然なんだけど、現職にとっては、公務員数の削減よりも給料の減額のほうが嫌らしい。いくら財政が逼迫していても、いったん手に入れたパイを人と分けあうのはまっぴらというわけだ。それにしても、区役所職員から公立高校の教員、国立大の教授まで、みんな同じ反応をする。何を言うかというと、かならず「銀行員は30代で年収2千万だしねえ」である。大笑いである。なぜ比較対象がよりによって銀行になるんだ。役所の業務が民間委託されて、どこの銀行が役所の下請けを引き受けますかってんだ。学校給食が民間委託された場合、民間の給食センターで働く人たちは月収12万円の低賃金パートである。彼らに退職金などまったくない。警備が民間委託された場合も似たり寄ったりである。だから逆にいえば、民間委託が「安上がり」になるのである。要するに民間の低賃金労働との格差が「民営化は財政の節約」という論理を支えているわけである。したがって、公務員の給与の比較対象は、こうした民間委託した場合の低賃金労働者であるのが論理的だし、公務員の給料を彼らと同程度にまで引き下げるべきである。むしろ、将来的な保障のない彼らのほうが公務員よりも高額の給与でなければ給与バランスがとれない。区役所の正規職員ひとりぶんのパイで、嘱託や臨時職員なら3人、民間委託の低賃金労働者なら4人雇えるというのは、どう考えても異常な状況である。以前勤めていた中学校で、職員室で給食を食べながらひとりの教師があっけらかんとこう言い出した。「給食は民間委託しちゃえば経費は1/5ですむのよねえ」。なんて無神経な奴。同じ職場で働く者の解雇を示唆するほど経費削減を気にかけているなら、まず自分が退職金返上で辞職してお前の授業を民間委託しろよ。自分だけ安全なところに身を置いて、立場の弱い者を切り捨てようとするのは卑劣である。こういう輩に限って給与削減の話になると大騒ぎし、「銀行員は30代で年収2千万だしねえ」などと言う。そのツラの皮の厚さには、開いた口がふさがらない。

 そもそも銀行員が高額の給与をもらっているのが間違っているのである。ほとんどの銀行がバブル期にヤクザと組んで不動産融資に奔走し、濡れ手に粟の泥棒商売をした。そのあげくにバブル崩壊で不良債権を抱えてどこの銀行も倒産寸前。すると自業自得にもかかわらず開き直って、「銀行が倒産したら日本経済は崩壊するぞ」と国民を脅しつけ、恐喝屋に変身する始末。税金から何十兆円もの公的資金を引き出し、不良債権を肩代わりさせたわけである。ヤクザよりもよっぽど悪質である。少なくともヤクザは公的資金で救済などされていない。公的資金を何兆円もつぎ込んでもらってどうにか倒産を免れた銀行で、30代の行員が年収2千万円、頭取の退職金が8億円というのはどう考えても異常であり、これほど理不尽なことはない。年収2百万円でももらいすぎに見える。それを批判せずに、「銀行員は30代で年収2千万だしねえ」と泥棒商売を自分の給与の比較対象にするというのは、「私にはまったく職業倫理がありません」と自ら暴露しているのと同じである。大学院時代に世話になった国立大の教授が、ゼミの前の茶飲み話で、自らの薄給を嘆きつつ「銀行員は」と言うのを聞いて愕然としたことがある。なんてさもしい小役人。それ以来、私は彼を尊敬には値しないと思っている。

■ A piece of moment 11/30

 前回書いた格差社会についての続き。高度成長期の人海戦術で安価なものを大量生産していた「労働集約型社会」から、現在のような商品やサービスの付加価値が重視される「知識集約型社会」に産業構造が転換すると、必然的に高度な専門性が要求される業務についている者とそうでない者との間に所得格差が広がる。ひとにぎりの高度な専門職には高額の給与が保障され、それ以外の者は、発展途上国の低賃金労働と労働市場を競うことになり、失業するか低賃金のパート・アルバイト労働しかないという状況が生じる。さらに現在、日本ですすめられている「小さな政府」づくりは、そうした格差社会をいっそう押しすすめることになる。行きつく先はアメリカ型の社会である。人口で20%の富裕層が富の90%以上を独占し、ビル・ゲイツのような国家予算なみの億万長者がいる一方で、6人にひとりは健康保険にも入れないという社会。どう見ても楽しい社会とは思えないんだけど、官僚や大手企業に勤めるホワイトカラーには「アメリカでは」とアメリカ型社会を指向する「出羽守」が多い。自分が「勝ち組」だという意識が強いんだろう。たしかに、格差社会は競争を活性化し、短期的には経済効率を向上させる。しかし、「人より良い暮らしがしたい」という競争意識が経済活動の原動力になっている社会では、勝者は「次は負けるかもしれない」という不安から休むことなく仕事に駆りたてられ、敗者は「あいつらばかり良い思いをして」と勝ち組への不満と社会への不信感をつのらせる。死ぬまで続く競争はゲームと違って、勝っても負けてもあまり楽しそうではない。勝者も敗者も自分の生活を守るのに精一杯で、他者に手をさしのべようとはしなくなる。「なんでおいらの税金で見ず知らずの貧乏人を救ってやらなきゃならないんだ」というビートたけしみたいな人間が増えて、その結果、ともに社会を支えていくという連帯感は失われる。社会への不満と貧困によって、治安も悪化する。この10年で、アメリカの平均労働時間は日本を抜いて世界一長時間となり、犯罪はいくら刑罰を重くしてもいっこうに減らない。「ウイナーズ・テイク・オール」で2割の勝者が社会の9割の富を独占し、残り8割の人々は1割の富しかありつけないんだから当たり前である。日本も同じ道を歩みはじめた。もはや、たけしの発言は多数派の声であり、ちっとも「過激」ではない。ただえげつないだけである。こうした社会においては、治安対策として警察と軍隊が強化され、同時に、人々の意識を国家につなぎ止めておくためにナショナリズムが声高にとなえられるようになる。ああいつかどこかで見た風景。歴史は繰り返すで、我々は20世紀の歴史から何も学んでいないんだろうか。そうして、フランスではルペンやサルコジのような右翼が支持率を上げ、アメリカでは「私は新聞を読まない」というアホのブッシュが再選され、日本では小泉純一郎や安倍晋三や石原慎太郎の人気が高まる。「小さな政府」をとなえる連中が愛国者を気どり、他人にも押しつけがましく愛国心を要求するのは、あまりにも古典的でわかりやすい図式だ。市場競争万能をとなえる新古典主義者はネオコンとリンクする。

 よく聞くラジオ番組に、火曜のお昼2時からTBSラジオで放送されている町山智浩のラジオコラムがある。アメリカ在住の映画評論家で、毎回、アメリカの社会事情や映画やテレビ番組の裏事情を紹介するという内容。以前は授業時間と重なってなかなか聞くことができなかったが、10月からはインターネット上にもMP3ファイルでアップされていて、パソコンにダウンロードして聞けるようになっている。
 → TBSラジオ「podcasting954」より「11/29コラムの花道」
 今回、11/29の放送は、アメリカのウォルマートの実態を描いたドキュメント映画「ハイコスト・ロープライス」の話で、ウォルマート従業員の低賃金労働にみるアメリカの格差社会の様子が紹介されている。ウォルマート従業員の平均年収は約200万円。この数字は経営者や管理職もふくめての年収なので、ほとんどの従業員は年収180万円くらいということになる。週5日、朝から晩までフルタイムで働いて年収180万円である。当然、健康保険にも年金にも加入していない。この低賃金労働が大規模店舗の激安商売を可能にしている。日本では1980年代にディスカウントストアが進出してきたが、たしかにそれによって色々なものが安くなった。とりわけ自転車と家電製品は、中国や東南アジアで製造されたものをディスカウントストアが輸入販売するようになって、価格がヒトケタ下がった。アメリカではこの現象を「ウォルマート・エフェクト」と呼んでいるという。そうしてアメリカ各地では、ウォルマートのような大規模ディスカウントストアが「価格破壊」で地域の商店を圧倒し、家族経営の個人商店や中小スーパーは倒産、大規模店の独占状態が形成された。つぶれた商店の主やスーパーに勤めていた従業員は他に働き口がないので、ディスカウントストアでの低賃金労働を余儀なくされる。さらに、ビジネスのグローバル化で中国やインドで製造された低価格製品に押されて、国内の製造業は工場閉鎖が相次ぎ、そこで働いていた人々もディスカウントストアの低賃金労働者になっていく。こうしてウォルマートをはじめとしたディスカウントストアはさらに規模を拡大して他の地域に進出し、そこでまた同じことがくり返される。現在、ウォルマートの全従業員数は千8百万人。東京都の人口よりも多いという。興味深かったのは、こうした格差社会をアメリカ政府が政策として意図的につくりだしているという話。国内に一定量の貧困層を作っておくことで、企業は低賃金労働を確保して利益を出し、アメリカ企業の国際競争力を高めているという。実際、ウォルマートは世界最大の小売業となり、日本にも西友への資本提供を通して進出しはじめている。さらにこの低所得者層の存在がアメリカの軍隊も支えている。町山智浩は皮肉混じりに笑いながら話していたが、聞いていて気が滅入ってきた。「百姓は生かさず殺さず」の発想は江戸時代の日本だけではないらしい。「勝ち組」「負け組」の人生ゲームに参加するつもりはさらさらないが、私のような低所得者にとってこの状況は他人事ではない。

■ A piece of moment 12/4

 家にこもって試験問題作成。どうにか徹夜せずに間に合いそうなめどが立つ。ふう。職場で「試験さえなければこの仕事、ずっと楽になるのにねえ」と愚痴をこぼしあう。授業のページに「コンピュータチェス」を追加。
 →「コンピュータチェス カスパロフ対ディープブルー」

■ A piece of moment 12/7

 期末試験、一校ぶん採点まで終了。もう一校は問題作成中。あと3問、なかなか良い問題が思いつかない。
 「コンピュータチェス」の課題部分を加筆修正。わりと良い課題ができた気がする。来年度、もしこのテーマを取りあげる機会があればこれでいこう。アタマを使う日々が続いて知恵熱が出そう。問題作成は明日にしてビールでも飲んで寝よう。採点をしながら、「魔法使いサリー」の主題歌を歌う加藤登紀子のものまねをする清水ミチコのものまねというのを思いつく。誰もいない社会科準備室で歌ってみる。出だししか歌詞を思い出せない。

■ A piece of moment 12/8

 「コンピュータチェス」の課題部分をさらに書き足す。すっかり長文になってしまって、こりゃ高校生向けの課題にならないんじゃないかという気もしてきた。高校1年生たちに、AとBの主張の先を考えろっていうのはちょっとひどいように見える。自分でも文章を読み返すのが億劫である。まあ、この手の話が好きな生徒が面白がってくれればそれでいいのかな。チェス・アルゴリズムの技術的な話は別にして、私たちがふだんどの様にして物事を判断し、考えているのかというのは、好奇心をかきたててくれる話題じゃないかと思う。なので、プログラムの技術的な解説は最小限にとどめて、できるだけ触れないようにした。局面の評価関数プログラムなんて、いくら解説を読んでもしくみがよくわからんのだ。
 →「コンピュータチェス カスパロフ対ディープブルー」

 夏に途中まで書いて放り出した「靖国問題」、論理の進め方の何が問題だったのか見えてきた。満員の通勤電車で後ろに立ったピアスだらけの兄ちゃんからゲホゲホと咳を浴びせかけられながら突然ひらめいた。小泉首相の参拝について、賛成・反対の2つの軸で考えると、それぞれ内部での考えに差が大きすぎて話がかみ合わないのである。次の4つくらいにわけるとちょうど良いのではないかと思う。

   A.日本は悪くない。アジア侵略もしていないし、A級戦犯も悪くない。靖国神社も悪くない。
     戦没者は国家的英雄であり、首相の参拝は当然。
     中国・韓国の靖国批判は反日を政治的に利用しているだけ。聞く必要ない。参拝はぜひ8月15日に。
   B.日本はアジアを侵略したし、靖国神社が主張していることも間違い。
     ただし、戦没者は時代と国の政策の犠牲者であり、首相の参拝は必要。
   C.日本はアジアを侵略したし、靖国神社が主張していることも間違い。
     アジア諸国の感情を考慮して、A級戦犯が合祀されているかぎり、首相の参拝はダメ
   D.日本はアジアを侵略したし、靖国神社が主張していることも間違い。
     アジア諸国の批判やA級戦犯の合祀に関係なく、戦争責任と政教分離の点から、首相の参拝はダメ。
     空襲や原爆の犠牲者を無視して、軍人だけを神として祀る軍国神社に参拝しても平和を願うことにならない。

 授業でやった感じだと生徒の反応は、Aが1割、Bが3割、Cが3割、Dが3割。同じ首相の参拝支持でも、Aの戦没者を「国家的英雄」とみなす立場とBの「犠牲者」と見なす立場とでは、あまりにも差が大きい。数でいうとAが最も少ないんだけど、発言が圧倒的に攻撃的で活発なため、クラスで議論すると押し気味になる。じゃあ議論が白熱するかというとそうではなく、他の生徒がその攻撃的発言にうんざりして白けた空気が漂うという感じ。このあたりは、最近の世論状況を反映している。

 期末の問題は未だ完成せず。論述問題として出題するフランスの暴動事件について、解説文を書いたり消したりをくり返していて、ちっとも先に進まない。嫌な予感がする。

■ A piece of moment 12/11

 どうにかこうにか期末の問題完成。エイドリアーン!って感じ。3日も家にこもってぐちゃぐちゃ文章を書き直していたら、しだいにテンションと集中力が上がってきて、最後は半ばトランス状態で書き上げる。それなりにまともな文章になった気がする。論述問題は力作。どうも書きながら考えるのが習慣になっていて、書くことではじめて気づいたこともあったりする。ふだんぼーっととしているので、後で自分の書いた文章を読み返すと他人が書いたもののような気がするのであった。A4に文章びっちり12枚。生徒たち苦しめ。なんちゃって。そんなわけで昨日のバスケはまたサボる。こうも欠席が続いていると、サボっているというより実質的に幽霊部員状態で、出席して驚かれる気がする。やる気は十分なのに。

 何度かメールをもらった人から、立花隆がWeb版の「日経BP」に連載しているコラムを教えてもらう。面白かったのでリンクに追加した。→立花隆の「メディア ソシオ-ポリティクス」バックナンバー

■ A piece of moment 12/12

 連日の寒さでバイクのバッテリーがいかれる。「うわああ授業時間ぎりぎりぃー」と今朝、大わらわでバイクのスターターを押すと、セルモーターが力無くウィウィと唸る。こういう忙しいときに限って、機械はトラブルをおこすのである。やればやるほどセルは回らなくなっていくので、あきらめて自転車で行くことにする。片道10kmの道のりを酸欠状態でせっせとこぐ。15分の遅刻。今期2度目で、生徒たちは「またですかい」と暖かい眼差し。ごめんよー。

 バッテリーは夏にチェックしたときもだいぶ弱っている感じだったので、じたばたあがくのはやめて新品に交換することにした。ヤフーオークションでちょうど良いのを半額セールしてたのでさっそく注文。20年ものの古いバイクなので指定タイプは「YB16B-A1」という開放型バッテリーなんだけど、いまさら開放型に交換するのも持ちが悪そうで不経済だし、同じサイズのシールドタイプにした。古河電池製FTH16-BS、7500円+送料500円也。やたらと安い気がする。我が家のぼろバイクはヤフーオークションによって維持されているのであった。

■ A piece of moment 12/13

 期末の採点、すべて終了。2学期は期末の採点が終わっても、さあ夏休みーとはいかないのであまり開放感がない。ちょっとひと息という感じで、とりあえず、試験期間中に散らかしっぱなしにしていた部屋の片づけをはじめる。ほこりだらけの部屋の掃除をして、たまった洗濯物をまとめて洗い、人間らしい生活を取り戻すことにする。

 今回の論述問題は次の3問。いずれ演習授業のページに資料つきで載せる予定。


1.日本社会における男女間の賃金格差は、交通事故で子供が死亡した際の賠償金額にも影響を与えています。交通事故の賠償金額は、主に慰謝料(いしゃりょう)と逸失利益(いっしつりえき)から成ります。慰謝料は、子供を失った心の傷について支払われるもので、こちらは男女間で差はありません。それに対して、逸失利益は、その子が生きていれば得られたはずの収入への保障です。逸失利益は、働いている成人が交通事故で死亡した場合、死亡時の収入に基づいて算定されます。ところが、子供の場合は、現在の平均賃金から算定されます。この平均賃金の算定方法が、保険会社によっては、しばしば男女別の平均で算定され、結果的に女の子の賠償金額のほうが安いという状況が生じています。この男女別の算定方法については、法の下の平等に反するとして、全国各地で数多くの民事訴訟が起きています。裁判所の判決は、近年、男女共通の算定方法を支持する傾向がみられますが、最高裁でも裁判官によって判断がわかれており、男女共通にするか男女別にするか結論が出ていない状況です。(新聞記事を参照)

逸失利益 女児交通死2件で算定方法統一できず 異なる判決も
毎日新聞 2002.07.10
 交通事故で死亡した女児の逸失利益(生きていれば生涯得られた利益)の算定方法をめぐり、最高裁で9日、2件の決定があった。男女格差の是非が注目されたが、算定方法は統一されなかった。今後、地裁、高裁で逸失利益に関して異なる判決が出ることが予想される。
 小学6年生の女児(当時11歳)を交通事故で亡くした東京都内の父親が、加害者らに賠償を求めた訴訟では、第3小法廷(上田豊三裁判長)は、加害者側の上告を棄却する決定を出した。逸失利益に男女格差をつけず、全労働者の平均賃金で算定し、約2100万円の賠償を命じた東京高裁判決が確定した。年少者の遺失利益を、男女同基準で算定する裁判例は増えているが、高裁判決が確定したのは今回で2件目とみられる。一方、第3小法廷(金谷利広裁判長)は同日、別の訴訟で、交通事故で死亡した女児(当時11歳)の逸失利益を、女子労働者の平均賃金を基に算定した東京高裁判決を支持、確定した。
 次のAとBの主張を参考にして、あなたの考えを根拠を示しながら述べなさい。(約200字6点)

A 子供が定年をむかえ、生涯の全収入を得るのは50年以上も先のことである。こうした未来においても現在の男女間の賃金格差がそのまま続くとする発想には、合理的根拠がない。現在、男女雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法が施行され、男女間の収入格差は縮まってきており、今後も是正されていくはずである。こうした動きを無視して、現在の男女格差をそのまま未来にもあてはめようとする発想は差別的である。また、子供の逸失利益はあくまで「平均値」からおおよその収入を類推するものなので、男女別・地域別に細かく分類して算定するのは無意味である。したがって、男女別にわけず、全体の平均賃金で算定するべきである。

B 逸失利益の保障とは、あくまでその事故がなければ得られたであろう収入を埋め合わせるものであり、命の価値を決めるものではない。子供の場合は現時点で収入があるわけではないので、将来の収入を現在の社会情勢をもとに算定することになる。そのため、現在の平均収入をできるだけ正確に逸失利益の算定に反映させることが望ましい。現在、居住地域や男女間で平均収入には格差がある状況なので、正確に算定するためには、地域別・男女別に算定する必要がある。したがって、逸失利益の保障額も現状の男女格差に基づいて男女別に将来の収入を算定するのは合理性があり、差別とはいえない。


2.日本で飛び入学や飛び級を積極的に導入することの問題点を指摘した次の主張を読み、あなたの考えを述べなさい。(約200字6点)

 フィンランドをはじめとした北ヨーロッパ社会では、学ぶことは、視野を広げ、心を豊かにするという個人を尊重する価値観が定着している。そのため、勉強で他の生徒と競い合うという意識はほとんどない。クラスでは、「競争」よりも、勉強のできる子が他の子に教えるという「助け合い」のほうが重視されている。競争に勝つことよりも、自分の能力や意識を高めていくことが学ぶ原動力になっているため、学力に問題があると教師から指摘された場合、生徒みずから留年を希望するケースもある。そうした選択をした者は、「落ちこぼれ」とはみなされず、むしろ「意欲がある」と評価される。こういう社会ならば、飛び入学や飛び級も自分の能力を高めるひとつの選択肢として受けとめることができる。
 しかし、日本では、学ぶことを学歴を得るための手段、競争に勝ち抜いて高い社会的地位や収入を得るための手段として認識する傾向が強い。このような競争原理が基本になっている社会で、飛び入学や飛び級を積極的に導入した場合、それは「自分の能力を高めるひとつの選択肢」とは認識されず、「人よりも先に進む手段」と見なされ、進学競争をあおることになる。現在の飛び入学制度は、「たぐいまれなユニークな才能の持ち主」を対象とした研究者育成コースとして位置づけられているが、積極的に導入され、学力上位者に適用されることになった場合、「先に進む手段」として潜在的な希望者は多いはずだ。
 すでに現在、日本の高校生は学力別に振り分けられることによって、学力の低い高校では、多くの生徒が挫折感を抱いており、自分に自信を持てなくなっている。飛び入学や飛び級の積極的な導入は、学力による振り分けをいっそうすすめることになる。競争の過熱化は、敗者には挫折感と社会への不満をもたらし、勝者には次は負けるかもしれないという不安からさらなる競争をもたらす。こうした競争のプレッシャーが強い社会では、勝った者も負けた者も自分のことで精一杯で、利己的になっていくのではないだろうか。たしかに、産業の発展には効率的かもしれないが、このような息苦しい社会で、楽しく暮らせるとは思えない。


3.2005年10月からはじまったフランスの暴動事件は、その背景に移民の子孫である若者たちの社会への不満あると指摘されています。フランスの移民は、高度経済成長期に建設現場や工場で働くために北アフリカから出かせぎに来た人々です。そのほとんどは、肌の色が褐色のアラブ系で、イスラム教徒です。フランスの国籍制度では、両親が移民でもフランス国内で生まれた子供には、フランス国籍が保障されます。しかし、フランス国籍は持っていても、就職で不利になるケースが多く、定職に就くことができない若者が大勢います。現在、フランス全体の失業率は約10%ですが、移民やその子孫の失業率はだいたい30%にも上ると見られています。そのために、移民家庭の多くは低所得層に集中している状況です。このことが、移民の子孫の若者たちに、社会から差別され、疎外されているという思いをもたらしています。今回の暴動事件では、たんに警察の力で暴動を鎮圧しても、移民の若者たちのおかれた状況を改善しなければ、本質的な問題解決にはならないと指摘されています。その改善策のひとつとして、移民やその子孫を対象としたマイノリティ優遇政策を実施する必要があるという声が出てきています。これは、移民家庭を対象とした生活保護、また、企業や役所が人材を募集する際に移民やその子孫を優先的に採用する一定の枠を設定するというものです。このマイノリティ優遇政策について、次のAとBの主張を参考にして、あなたの考えを述べなさい。(約400字10点)

A 現代の社会では、日本もふくめて、社会的格差が広がってきており、社会は貧しい人々や疎外されてきた人々に手を差しのべようとしなくなってきている。こうした状況を改善し、共に社会を支えていこうとしないかぎり、社会的弱者へのしわ寄せが続くことになる。長年、差別され、虐げられてきた人々は、たとえ差別がなくなったとしても平等な社会的地位を得ることは困難である。フランスの移民たちは、社会の中で建設現場や工場での低賃金労働を割り当てられ、不安定な生活を強いられてきた。近年の不況で、まずはじめに解雇されたのも彼らである。これは実質的に、移民やその子孫たちがフランス社会の中で二級市民として扱われてきたことを意味している。そのため、差別がなくなったとしても、フランス社会において、移民の子孫たちが人生のスタートラインで大きく遅れをとっているのは変わらない。したがって、就職や解雇で、民族・宗教を理由に差別をした企業への罰則強化をするのと同時に、マイノリティ優遇政策を導入して、移民やその子孫たちの生活状況を改善していく必要がある。これは、アメリカでの黒人を対象としたアファーマティブアクションやインドでの不可触民出身者を対象とした優遇措置として、すでに世界各国で実践されている。長年虐げられてきた人々に社会的平等を保障するためには、何らかのこうした支援プログラムが必要である。重要なことは、どのようにその支援が行われるかである。移民の若者たちが、自分は社会から支援されていると感じ、社会への参加意識を持てるような支援プログラムになることが望ましい。

B たとえ長年差別されてきたとしても、ある特定の集団に優遇措置をとることは、社会に不公平感をもたらし、その恩恵を受けられない人々の不満をまねくことになる。フランス社会における就職難は、移民の若者だけでなく、すべての若者にあてはまる問題である。そういう中で、移民の子孫を対象にした特別枠をもうけて企業が採用するようになったら、他の人々はイスラム教徒やアラブ系市民への不信感や不満をさらにつのらせることになる。このことは、フランス社会に民族や宗教による分断・対立をもたらす危険性がある。また、移民の子孫に優遇措置を設定することは、自ら努力して働こうとする意欲を彼らから奪い、社会保障にたよって生活しようとする者を増やすことになる。そもそも、マイノリティ優遇政策というのは、対象になる人々を「立場が違う特殊な存在」と見なすことである。しかし、フランス社会は、移民を受け入れ、フランス国籍を保障し、共に社会を支えていこうとする理念をかかげてきた。そのため、フランスでは、移民をできるだけ特別あつかいしないことで、同じ社会の一員という意識を形成しようとしてきた。マイノリティ優遇政策は、こうしたフランスの同化政策と相容れないものである。たしかに現状では、移民への差別は存在し、経済格差も大きい。そのため、就職希望者や従業員に民族的・宗教的な理由で差別的な対応をした企業への罰則を強化するなど、差別をなくしていくことで、同じ社会の仲間という意識をつくりあげていくべきである。政策はそちらに専念し、特定集団を特別あつかいすることになるマイノリティ優遇政策は導入するべきではない。


 50分の制限時間がきびしかったようで、書けていない生徒多数。論述以外の分量も多かったので、60分から70分くらい欲しいところだけど、定期試験は完全にフォーマットができあがってしまっているので、試験時間を柔軟に対応することはできないらしい。他の回答欄の様子からあきらかにわかっている感じなのに、時間が足りなくて後のほうがずらっと空欄になっている生徒についてどう配慮するか思案中。

 「ゲド戦記」宮崎アニメの次回作にという新聞記事。へえと思ったら、「監督は宮崎駿氏の長男」ってなんだそれ。アニメ監督も最近は世襲制なんかい。宮崎駿はそういうの嫌いそうに見えたけど、歳とって呆けてきたか。

■ A piece of moment 12/14

 掃除・洗濯で一日が終わる。冬休みになると生活が崩壊して、「ああ3日も寝てすごしてしまった、寝過ぎでダルいから吾妻ひでおのマンガでも読んでまた寝ちゃおう」となるのが目に見えているので、いまのうちに雑務をすませておかねばとムチを入れる。ラジオで手抜きマンション事件の証人喚問を聞きながら掃除機をかける。渦中の人、姉歯元建築士登場。なんだけれど、一人目の質問者が延々と演説をはじめてしまってぜんぜん「喚問」にならない。自民党のワタナベなる国会議員。なんなんだこいつ。自分の一方的な解釈とこの事件が社会におよぼした影響の解説を浪花節調で語り続け、肝心の姉歯から話を引き出すそぶりも見せない。「私はこの事件の全容をこのように見ているのです」「私がいま指摘したこの点は非常に重要です」……おいおい。発言の9割がこのアホの発言で、姉歯が話している時間は1割程度。姉歯がちょっと長めに話すと、「時間も限られているので」と言葉をさえぎって、さらに演説しはじめる始末。「証人喚問」とは何かわかっていないのか、「政治屋」をやりすぎて人と対話する能力が欠落してしまったのか、ともかく、こういうアホを代表質問に立たせるっていうのは党の見識も問われるのである。洗濯をひと段落させて、夕方、午後の部の証人喚問をテレビで見る。再び自民党の議員が延々と演説を続け、ヨシダロクザエモンなる議員は、証人から間違いを逆に指摘されしどろもどろになる始末。あまりにもお粗末。自民党、土建業界からの献金漬けで、問題を追求する気がないように見える。施行での手抜きと行政との癒着が常識の業界だけに、根は深いはずなんだけど。

■ A piece of moment 12/15

 引きつづき洗濯。夕方4時、宅配便でバイクのバッテリー到着。日暮れまでぎりぎりだけど、毎度のごとく見切り発車で作業開始。説明書を読みながら電解液を注入し、約30分ほど放置。希硫酸が反応してポコポコと泡が出てくる。いい感じ。30分待つ間に、古いバッテリーを取り外し、ついでにグリスを車体のあちこちに塗りたくる。うちのぼろバイクはシートからリアカウルまで全部外さないとバッテリーまで手が入らないのでけっこう面倒。日も暮れて暗くなりはじめる中、新しいバッテリーをはめ込み端子を接続。シートとリアカウルをはめ込んで、どうにか暗くなって見えなくなる前に終了。ついでに、漏れて減ったエンジンオイルを足しておく。古いバッテリーは近所のガソリンスタンドまで自転車でえっちらおっちら運ぶ。レジのお姉さんは「ああいいですよ」と嫌な顔もせず引き取ってくれる。いつもすいませんって感じ。さあ、バイクのスターターオン。一発でかかる。わーい。しばし乗り回す。三鷹のバイク用品店までタイヤに空気を入れに行く。「いま無料点検サービスやってます」と店員氏。冬場でバイク乗りが減って、整備員が手持ちぶさたなんだろうか。でも、そこまでしなくてもいいのに。不景気なんだろうか。今回も何も買わなかったので、点検サービスは辞退し、自分でタイヤに空気を入れる。なにはともあれエンジン快調。オイル漏れが気になるけど。






 明日、期末試験の答案返却の予定。前回、中間試験の答案を返した際、残り時間すべてを使って問題解説したところクラスのほとんどが寝てしまう。「点数だけを気にしてないで出来なかった所を見なおしてこそ力がつくんだよ」などというこちらの説教はありがたく聞き流して、やらされる側としては終わった試験なんてさっさと忘れたいのである。ああ、俺もそうだったよ。というわけで、今回は論述問題として出題したアファーマティブアクションの資料として、ビデオを2本、見ることにする。ふたつとも「CBS 60mins」からで、1本目は、アファーマティブアクションの廃止運動をする黒人実業家、ワード・コナリーについてのレポート。2本目は、人種問題のネタにする黒人コメディアン、クリス・ロックのステージとインタビュー。


■ A piece of moment 12/20

 2学期の授業もどうにか終わったので、押入から資料用の古いビデオテープを引っ張り出し、パソコンのハードディスクに記録していく。量が多いので、こういう時でもないとなかなか手をつけられない。雑然とダンボール箱に詰め込まれたテープの中から、デジタル化するものをより分けていく。V・E・フランクルの1994年のインタービュー、永山則夫の裁判記録、ワイツゼッカーが1995年に行った来日公演、1997年に成立したアイヌ新法について語る萱野茂、1995年にスミソニアン博物館によって企画された「原爆展」をめぐる論争、NHKが1995年に特集番組として放送した映像記録「映像の世紀」などなど。

 パソコンのモニターに映し出されたワイツゼッカーが語る。「自らの歴史と取り組もうとしない人は、自分がなぜそこにいるのかがわからない」、「過去を否定する人は過去をくり返す危険にさらされている」。この言葉は、その後、様々なところで引用され、すっかり有名になった。だが、個人的体験を越えた「自らの歴史」とはいったいなんだろう。民族や国家へ安易に帰属意識を抱き、「我々の歴史」として過去を認識することは、新たなナショナリズムを生みだす。「ドイツ人として」ユダヤ人のホロコーストに後悔し、「日本人として」アジアの植民地化とそこでの虐殺に後ろめたさを感じることは、ナショナリズムの裏返しでしかない。ナショナリズムの犯罪をナショナリズムで乗り越えることなどできるはずがない。

 私たちは、何も知らず何もわからないままこの世界に放り出され、ただ暗闇の中をおびえながら手探りで歩いている子供のようなものではないかと思う。唯一のかすかな道しるべは、過去にあった出来事をできるだけ正確に知り、その過去があったことで現在に至っていることに思いをはせ、社会が同じ道をたどらないよう考え、発言し、行動していくことでしかない。現在に生きるひとりの個人として過去の出来事と対峙せず、国家的利益の点から過去の問題をとらえ、それを利用して政治的優位を得ようとするかぎり、ナショナリズムによる過ちは何度でも繰り返される。それはちょうど、暗闇の中で雄叫びをあげながら断崖へ向けてチキンレースをしている姿を連想させる。

 たしかにナショナリズムは強い結束力をもたらす。そのため、外国による植民地支配に対して蜂起する際、しばしば指導者は人々のナショナリズムに訴えかける。日本や欧州諸国の支配下にあった中国で孫文が中国の自立を呼びかけた言葉やイギリスの支配下でガンジーがインド人のアイデンティティとして糸車をまわす姿には感銘を受ける。それを否定するつもりはない。日本の支配下にあった戦時中の中国や朝鮮半島でナショナリズムが高まったのも当然といえる。しかし、「我々」が同質であることを求心力とするナショナリズムは、同時に異質な者への排他性と外部への攻撃性をそなえる。迫害を逃れ安住の地を求めてパレスチナへ集まってきたユダヤ人は、今度はそこで自分たちがアラブ人を迫害する側に回る。彼らはただ安心して暮らせる場所が欲しかっただけで、アラブ人を追い出すつもりはなかったと言う。しかし、「安心して暮らせる場所」というのがユダヤ人だけの国であるのなら、その後のパレスチナの混乱は起こるべくして起きたといえる。むしろイスラエルは多くの点でナチス時代のドイツによく似ている。ある集団のナショナリズムはそこで迫害された者たちのナショナリズムを連鎖的に生みだす。

 以前、授業の中で生徒にこう話したことがある。もし、中国や韓国へ行って、「日本人である」というだけで地元の人から敵意の目で見られたとしても、後ろめたく感じる必要はない、君らが弾圧や殺戮を行ったわけじゃないんだから、毅然としていればいい。ある者の犯罪を、人種や民族が同じというだけで他に転嫁する考え方は、ナチスや差別主義者の発想だ。「親の罪を子が贖う」という儒教的発想は間違っている。もちろんそれは「日本は悪くなかった」と開き直ることではないし、「自分には関係ない」と無視することでもない。その過去があったことで現在の社会が存在するのだから、そこで何があったのかは知る必要があるし、同じことをくり返さないためにどうすればよいのか考える必要がある。だから、近代史の中で何が起きたのかを考えるとき、国籍や被害者・加害者という立場に関係なく、また、ナショナリズムや愛国心の道具に利用するのではなく、現在に生きる者として同じ方向を向いて、同じことをくり返さないために、どうすれば良いのか一緒に考えて欲しい、と。これはいまでも間違っていないと思っている。ただ、国家による犯罪の場合、国の責任とその国に所属する個人の責任とをどこでどう線を引いたらいいのだろう。いつもそこで考えが止まってしまう。


■ A piece of moment 12/31

 年の瀬でラジオは昭和歌謡の特集番組をやっている。江利チエミの「テネシーワルツ」に笠置シズコの「東京ブギ」。植木等の「スーダラ節」や美空ひばりの「東京キッド」もかかる。「東京キッド」は「歌も楽しや 東京キッド〜♪」ではじまり「左のポッケにゃ チュウインガム♪」のおなじみのフレーズに続く1950年のヒット曲。戦後の焼け跡と混乱とアメリカ文化へのあこがれを時代背景に、まだ子役時代の美空ひばりが、カネはないけど夢はあるよと東京の暮らしを陽気に歌う。有名な曲だけど、よく考えたら歌詞をちゃんと聞くのははじめてだ。歌詞を気にしながら聞いていたら、「もぐりたくなりゃ マンホール〜♪」のフレーズが妙に気になってくる。なぜマンホールにもぐるんだろう。こんな歌詞である。

東京キッド  作詞・藤浦 洸  作曲・万城目 正

歌も楽しや 東京キッド
いきでおしゃれで ほがらかで
右のポッケにゃ 夢がある
左のポッケにゃ チュウインガム
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
泣くも笑うも のんびりと
金はひとつも なくっても
フランス香水 チョコレート
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール

歌も楽しや 東京キッド
腕も自慢で のど自慢
いつもスイング ジャズの歌
おどるおどりは ジタバーク
空を見たけりゃ ビルの屋根
もぐりたくなりゃ マンホール
 東京キッドは歌とチューインガムが好き。ビルの谷間から空を見上げることもある。フランスの香水やチョコレートを夢見たりもする。通りまで響いてくるジャズを聞きながらリズムに合わせてジッターバグをおどる。そこまではいい。でも、なぜ「もぐりたく」なってしまうのか、展開が唐突で、ここに来ると東京キッドの気持ちが理解できなくなる。しかも、よりによってマンホールに。1番から3番まで、「もぐりたくなりゃ マンホール〜♪」のフレーズをくり返しているところを見ると、あきらかに作詞家は意図して「もぐりたくなる気分」と「マンホールのモチーフ」を東京キッドのキャラクターづくりに用いている。よっぽどマンホールに思い入れがあるんだろうか。もしかしたら酔っぱらうとマンホールにもぐりたくなる趣味の持ち主だったのかもしれない。ちなみにこの歌は美空ひばりが主演した同名映画の主題歌である。時代的にもしや映画は「マンホールで暮らす戦災孤児」の物語なのかとも思ったが、調べてみたところやはり違うようだ。(映画については→こちらのブログで詳しく書かれている。)あるいは、「もぐりたくなりゃ マンホール〜♪」の歌詞について、半世紀以上もとくに誰も異議申し立てすることもなく、広く受け入れられているということは、潜在的にマンホールにもぐりたい人が大勢いるということを意味しているのかもしれない。東京のある自治体では、成人式の式典のあとで振り袖姿や紋付き袴姿の新成人たちがマンホールにもぐるのが毎年恒例の行事になっていて、マンホールにもぐらない奴は地域社会の中で一人前として認められなかったりするのである。ええっマンホールにもぐったことないってえお前さん東京もんじゃないなってまあそれは良いとして、実際のところ、「もぐりたくなりゃ マンホール〜♪」の歌詞にどんな意図が込められているのか、事情をご存知の方、メールください。

2006

■ A piece of moment 1/2

 2006年である。悪い冗談のような気がする。年末から家にこもって、仕事の資料用ビデオをパソコンに取り込んでデジタル化している。大半が10年くらい前のニュース番組とドキュメンタリー番組で、久米宏が「明日、いよいよ臓器移植法が施行されます」なんて語っていたり、国谷裕子が「東海村の原子力施設で放射能漏れ事故が発生しました」と深刻な顔をしていたりする。そんなビデオを百時間近く見ていると、鴨長明が川の流れにたとえた過去から未来へ流れる時間の感覚がしだいに失われていく。録画されたニュースの中では断片的な過去が時系列とは関係なく現在進行形で語られ、1997年の出来事と1999年の出来事が同時進行的に全部「いま」に思えてくる。どうも、2000年をすぎたあたりから時間の感覚がずれているように感じていたが、こういう仕事をしていることが原因なんじゃないかという気がしてきた。10年近く前の出来事なのに少しも過去として収まってくれないのである。というわけで2006年である(らしい)。こんな新聞記事を見かけた。

NBAドレスコード、黒人選手と白人観客の意識に違い
朝日新聞 2006年01月01日19時57分
 米プロバスケットボールNBAが今季導入した選手に対するドレスコード(服装規定)について、関係者は低迷する視聴率や、黒人選手と白人観客の服装に対する意識の違いなどの要因を挙げている。選手の姿には、ファンやメディアの熱い視線が注がれる。
 NBAは選手に、金の鎖や宝石類、ダボダボの袖無しシャツ、屋内のサングラスを禁止し、ビジネスにも通用するカジュアルな服装にするよう通告した。
 黒人選手が圧倒的に多いNBAは、白人が圧倒的多数を占める観客に支えられている。しかし、大金を稼ぐ黒人選手のラフすぎる姿は、企業人が主体の白人観客との「違い」を際だたせる。テレビの視聴率も長期低落傾向だ。
 禁止された服装に「スローバック・ジャージー」がある。メーカーのミッチェル・アンド・ネス社の広報担当によると、もともとは中年以上のバスケットファンを対象に売り出した往年の名選手の復刻ユニホームだ。
 00年ごろからこれをゆったりと、ダボダボに着ることが若者の間で大流行した。ラップミュージシャンやバスケット選手が、こうしたヒップホップのファッションの推進役だった。
 「(スローバック・ジャージーの着こなしで有名な)アレン・アイバーソンらが記者会見で着られなくなるのは残念だけど、大きな影響はない」と広報担当は言う。最近は、ダボダボの着こなしがヒップホップでも流行から外れる傾向にあるという。
 スポーツ専門テレビ局ESPNのウェブサイトには、選手の様々な反応が載った。「服の規定には異存ないが、鎖の禁止は(黒人への)人種差別では」(スティーブン・ジャクソン=ペーサーズ)、「そんなにスーツを持っていない。手が長すぎて店で買えない」(デズモンド・メーソン=ホーネッツ)
 ノースイースタン大スポーツ社会センターのピーター・ロビー所長は「特定の服装に不快感を抱く人がいることや、服装で人は判断できないことを考える機会になるといい」と話す。
 マイケル・ジョーダンもいなくなって人気低迷のプロバスケットボールがイメージを変えようとしているという記事。だぼだぼのジャージはギャングを連想してガラが悪いから規制しようという。プロスポーツは人気商売なのでイメージづくりは大事ということなんだろうけど、気になるのは最後のノースイースタン大の先生の取って付けたようなコメント。人に不快感を与えない服装なんて、まるで企業の新人研修みたい。「相手への配慮」というのは保守的な価値観を押しつける際にしばしば用いられる。でも、誰からも不快感を抱かれない服装なんて存在しないわけで、世の中にはビジネススーツとネクタイに大いに不快感を抱く私のような人間もそれなりに存在する。そちらへの配慮はぜんぜんない発言で、鈴木健二の「気くばりのすすめ」を思い出したのであった。時間は流れないのである。そもそもプロスポーツの選手はひとりひとりが看板背負って立っているエンターテナーなのに、こういう人にビジネススーツを着せようっていう発想自体がひどくゆがんでいるように見える。

■ A piece of moment 1/7

 近所のコンビニにバイクを停めていたら、見知らぬ兄ちゃんから「ああっVF!懐かしいっすねえ」と声をかけられる。なんかてれくさいですな、こういうの。ピカピカですねえコンディション良さそうですねえと持ち上げられて逃げ出したくなる。実のところは、エンジンオイルの漏れがあまりにひどいので、どこから漏れているのか確認するために昨日、分解清掃したばかりなのであった。彼は30年もののCBヨンフォアに乗っているという。ヨンフォアやZ1は完全にプレミアムバイクの世界なので、我が家のただの程度の悪い中古バイクとは次元が違うのである。きっとフルレストアで新車以上の状態のはずである。くらべないでちょうだい。エンジンの調子はどうですかと聞かれ、「いちおう4発とも爆発してるみたいです」と答える。ふたりで笑う。

 うちの庭をなわばりにしている猫がいる。真っ黒い奴で、顔は目が大きくて愛嬌があるんだけど、こいつがじつにふてぶてしい。夏に窓を開けて寝ていたら、寝返りをうった瞬間、目の前に黒い猫がいる。こっちはぎょっとしたが、向こうはまったく動じていない様子で、後ずさりもせずににらみ返してくる。1分近いにらみあいの末、負ける。秋口には、夜中にガサガサ音がするから何かと思ったら、こいつがすました顔をしてスズメをくわえていやがる。じつにけしからん。このふてぶてしい奴が、バイクカバーにいつもマーキングをしていく。マメな性格で、毎日定期的に巡回しているらしく、油断するとまだおしっこで濡れていたりしてズボンに強烈な臭いがついてしまう。ますますもってけしからん。とは言うものの、窮屈なこの土地でいっしょに生きてる仲間のようにも思えて、追い立てる気にはならない。そんなわけでうちのバイクは、ファブリーズと黒猫印の香りがするのである。

●●
●●
 
・slowdays 2000・・slowdays 2001+・・slowdays 2003+・・new pieces・