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scene 20 : such a long way home

最後の信号を渡ろうとして、背後の気配にふと振り向く。雪で音が消されていたためか全く気付かなかったが、大型のトレーラー・トラックがすぐ後ろに迫って来ていた。僕が振り向いたとほぼ同時に、ハンドルを取られたのかトラックが歩道の方へ大きく振られる。ここまで来て事故で病院行きになるのは避けたい。第一この分では(運転手が人一人引っ掛けた事に気付いて通報してくれたとして)救急車が到着するまでこの寒空の下延々待たされかねない。脇へ避けて遣り過ごすとトラックは軌道を修正し、地面を振動させて走り過ぎて行った。降りしきる雪を透かして光る尾灯を見送りながら視線を前に戻すと、 歩調を緩めた間に信号は赤に替わっていた。自宅を前にして気は急くが、彼女が普段生真面目に信号を守るので自分もそれが癖になってしまっているようだ。

立ち止まり、雪を払うため自然と頭を下げた瞬間、眼の前に明らかに雪ではない何かが落ちて来た。顔に風を感じたので余程近かったのだろう。今や視界を遮る程の降りになっている雪に眼を凝らす。通行人に踏み固められた足元の雪に太い氷柱が突き刺さっている。一歩下がって頭上を仰ぐと、三叉路の車両用信号機から今落ちたものよりは小さいが2,3本の氷柱が下がっているようだ。恐らく今のトラックの振動で一番大きなものの根元に亀裂が入って落ちたのだろう。家の軒先や岩棚ならともかく信号機から下がっていたにしては結構な太さと重さがあるし、それなりの高さから落下して来た事を考えると直撃されれば突き刺さりはしなくともいずれ喜ばしくない成行きにはなっていただろう。今更ながら些か背筋が寒くなる。積もっている雪を手で固めて ― 粉雪なので中々固まらない ― 幾つか雪礫を作り、狙いを定めて残った氷柱を根元から叩き落とす。彼女が見ればこのままにしておくのは危ないと言う筈だ。背後から人が来る気配がしたので多少急いで作業を終え、落ちる氷柱が無くなったのを確認して信号を渡る。建物の入口に辿り着いた時、後ろから来ていた親子連れの子供が何やら不服そうに抗議するのが聞こえた。大きななりで雪投げに興じていた大人を真似ようとして親に諌められたようだ。週末にしても子供が出歩くには遅い時間だが、やはり長い家路を辿って来た口か、等と思いつつやや急かされるようにして中に入る。

この期に及んでエレヴェータが停まって中に閉じ込められでもしたら笑い話にもならないので、念のため階段を使って数階分上った。廊下が妙に薄暗いと思ったら灯りが消えている。今日は尽く陰気な歓迎を受ける日らしい。それでも玄関に辿り着いた時は何か夢でも見ているような気分だった。漸く着いたと玄関を開けると旅客機の連絡通路に繋がっていてまた振出しに戻るような夢だった場合に備えて、(自分でも馬鹿げているのは承知しつつ)扉が確かに本物なのを確認しながら軽く深呼吸をして気を落ち着かせる。鍵を上着のポケットではなく鞄の方に移し替えてあったのを思い出して一旦鞄を降ろした時、唐突に中から扉が開いた。


明るく柔らかな室内の光に縁取られて彼女が立っている。驚いたように見開かれた榛色の眼が、僕を認めた途端に溢れんばかりの優しい光で満ちる。

「おかえ ― 」

彼女には悪いが、その歓迎の言葉を皆まで聞く余裕は今の自分には無かったようだ。気が付くと彼女を腕の中に抱き締めていた。一週間前に家を出た時と変わらない暖かで柔らかな優しい感触、頬を撫でる髪の心地良さ、仄かに甘い肌の匂い。寒さも強張った身体もふわりと溶かされていくような感覚。帰宅時間が大幅に遅れて会う時間が引き延ばされただけでなく、彼女自身に何か不測の事態が起こって帰宅できていないのではないかという危惧が募っていただけに安堵感は大きい。

「ねえ」

少しくぐもった、甘えたような声で彼女が言う。

「うん?」
「そんなに抱き締めたら、苦しい」

半ば夢見心地だった意識が一気に覚醒した。力加減を忘れて思い切り抱き締めていたらしい。慌てて腕を解いて彼女を自由にする。

「済まない、つい」
「別に、謝らなくてもいいんだけど」彼女がはにかんで俯く。「わたしだって、飛びつくところだったんだし。遅くなって心配してたから ... ともかく、おかえりな ― 」

もう一度こちらを見上げ、言いかけた彼女の表情が劇的に変化する。笑顔だったのが僕の顔に焦点を結んだ途端急に眉を寄せ、困ったのか怒ったのか泣きそうなのか(或いは笑いを堪えようとしているのか)何とも形容し難い奇妙な顔になった。それが余りに出し抜けで可笑しかったので思わず吹き出しそうになった時、一瞬早く彼女が僕の腕を捕らえてぐいと引いた。普段からは考えられないような力で引張られるので咄嗟に足元の鞄を何とか拾い上げ、様子を窺いに隣の玄関から顔を覗かせた隣人に身振りで挨拶するのもそこそこに室内に引きずり込まれる。

「どうしたんだ一体」
「いいから、来て」

有無を言わさずぐいぐい腕を引かれるまま、食堂のいつもの席に座る。まだ僅かに雪片の残るジャケットを引き剥がすように脱がせると彼女はどこからともなく出してきたタオルを僕に押し付け、湿った髪を拭く暇も与えず居間から攫って来た膝掛け毛布を殆ど頭から被せた後、そのままスープ用の皿をオーヴンに入れ鍋の載ったガス台に火を点けと目紛しく立ち動き始める。

「ああ、いや ― 」
「いいから座ってて」

立ち上がろうとしたのを察して素早く振り向いた彼女にぴしりと決めつけられ、仕方なく大人しく従うことにして取り敢えず毛布を多少緩めに羽織り直す。部屋が暖まっているとは言え雪道を一時間余り歩いて来た身には特に邪魔な物でもない。居間の方に眼を遣ると、長くなって寝そべっている犬が尻尾だけ振って出迎えの意を表した。端から見たら自分の様子はそれこそ救助隊に拾い上げられた遭難者のようかも知れない、等と考えながら彼女の動きを眼で追ううちに程なく良い匂いが漂い始め、急に自分が酷く空腹なのに気付く。

眼の前に、深皿にたっぷりと取り分けられたシチューが置かれた。見上げると彼女が無言で頷いたので、促されるままスプーンを取り上げて湯気を立てるそれを口に運ぶ。

とろりと熱い液体の中には鶏肉と野菜類、特にトウモロコシの実がふんだんに入っている。彼女が寒い日等によく作るシチュー料理の一つだ。トウモロコシの甘味が優しく、ゆっくり煮込んだ鶏肉が口の中でほろりと解ける。味を確かめるようにして咽に流し込むと芯まで冷えていた身体が内側から少しずつ温まってきて、我知らず溜息が漏れた。

「どう?」

それまで黙って見守っていた彼女が隣の椅子に滑り降りるように腰を下ろし、こちらを覗き込む。

「うん、旨い」
「そうじゃなくて、少しは生きてるって気がしてきた?」
「 ... そんなに酷い様子だったかな」

彼女は大真面目な顔で頷いて、

「地球を全速力で3周して、砕氷船に拾われて北極周りで帰ってきたみたいな顔してたわ」

時々、彼女は友人にも負けないような奇妙な表現を使う。実際にそんな経験をした者が(居るとすればの話だが)どういう顔をしているかは知らないが、とにかく自分は余程惨澹たる有様だったらしい。自宅の玄関を開けるにも用心していたところに思い掛けず彼女の方から迎えられて一気に気が緩んだのかも知れない。

「たくさん作ったから、よかったらお代わりしてね。時間が遅いし、あまり食べ過ぎちゃいけないけど ... でもあなたのことだもの、きっと何時間も何も食べてないでしょ」

言われてみれば確かに、固形物を口に入れたのはホテルの朝食以来だ。

「飛行機や交通機関の様子はチェックしてたし、留守番電話にも何度か入ってたから遅れるのは分かってたけど、こんなに遅くなるなんてどこをどうやって帰って来たの?」

「それより、君だ」本人を眼の前にして安心した所為で忘れていた疑問を思い出す。
「ずっとここに居たのか?何度掛けても留守番電話だったから、どこかに出掛けたままこの大雪で帰れなくなってでもいるのかと思っていたんだが」
「お隣にいたの」彼女は少し困ったような顔で言う。

隣のフラットには僕とほぼ同世代の夫婦が住んでいる。自分がここに引越して来た当初は顔を合わせれば挨拶する程度だったが、彼女が一緒に住み始めてからよく話すようになった。最近奥方が出産したので休暇を取って育児に励んでいた筈だ。

「何かあったのか」
「っていうほどでもないんだけど、昨日から親戚の三歳の女の子を三日間だけ預かってたんですって。昼間も奥さんがいるから問題なかったんだけど、今朝になって赤ちゃんが熱を出して、お医者様もこの天気でなかなか来られないとか何かで病院に連れて行かなくちゃならなくなったの。小さな子を一緒に連れて行くのも可哀想だからってご主人が仕事を早退けしようとしたんだけど、途中で車が動かなくなったって連絡が来て、それでわたしが留守の間その女の子を見ていることになったわけ。あなたからいつ連絡があるか分からないと思って、何回かうちに戻ってたんだけど、いつも一足違いで録音メッセージが入ってて ― そうこうするうちに夕方近くになって、電車とタクシーを乗継いで来たご主人と、熱の下がった赤ちゃんを連れた奥さんも帰って来たから、わたしも家に帰って来たけど」

「一時間程前に電話した時も留守番電話だったから、いよいよ家に居ないのかと思って何も伝言を残さず切ったんだが」

彼女は二、三度瞬きしてから少し戸惑ったように、

「シャワーを浴びてた時かしら。だって、やっと家に戻って来られて(でも子守りも楽しかったのよ、とても可愛くていい子だったし)、いつあなたが戻ってもいいようにシチューを作って、エルクをお風呂に入れて、部屋も片付けて、考え付くことは全部したけどまだ帰って来ないでしょう?何もしないでいると色々考えちゃうし、あとは自分がお風呂に入るくらいしかすることがなかったんだもの」
「そうか。却って心配させてしまったな」

「ううん ― 心配じゃなかったわけでもないけど、そんなに深刻に心配してたわけじゃないの」彼女は急いで言う。「途中までは連絡があったんだし、お隣のご主人の例もあるからきっと時間がかかってるだけだろうと思って。あなたが帰って来るのは間違いないと思ってたから ― うまく言えないんだけど、どこにいるにしてもここに向かっていて、遅かれ早かれ無事に着くだろうと思ってたの。だから、気になったのは寒いところにいるんじゃないかとか、お腹が空いてないかとかそういうことね。あなたってあまり自分のことには気を遣わないもの。でも ― 」

不自然に言葉が切れたので顔を覗き込む。彼女は少し笑って、

「もう一週間も離れてたでしょう?だから、やっと会えると思ってた時間が延びると、やっぱり ― 寂しい」

語尾が微かに揺らいだ。照れたような笑顔とは裏腹にその眼に涙が溜まる。衝動的にまた抱き締めそうになったが、寸前彼女の側の手にスプーンを持っているのに思い当たって一瞬躊躇した間に話題を変えられた。

「それで、ここに着くまでにどんな冒険をしてきたの?」
「大して面白い話でもない。行く先々で尽く進路を断たれて回り道を余儀無くされただけで」
「でも、無謀運転の車と危なく正面衝突するところだったって聞いたわ」

どうやら、友人が多少誇張付きで電話報告を入れていたらしい。

「そこまで劇的な場面でも無かったが」
「火花が散ったんじゃなかったの?」
「僕は見なかったな。彼は何時頃電話して来たんだ」

一体友人はどこまで話を膨らませて伝えたのだろうと内心怪しみながら尋ねると、7時半頃に向こうの自宅から掛かってきたという。彼の方はその後さしたる障害もなく無事に帰り着いたようだ。

「それからあなたが帰るまでもう4時間近く経ってるもの、どこをどうやってここまで辿り着いたか、ぜひ聞きたいわ。でも、先にシャワーを浴びる?お風呂の方がいいかしら。さっきはまるで雪だるまに抱き締められたみたいだったもの、ゆっくりお湯に浸かった方が体が暖まるわ。風邪をひいたら困るし」

シチューのお陰で冷えた体も既に大分暖まって人心地が着いていたが、正直なところこういう一日を過ごした後に熱い湯に体を沈め四肢を伸ばすという案は悪くない。暫し考える。

「君も一緒に入らないか」

二杯分を平らげて空になったシチューの皿を片付けようとしていた彼女はぴたりと動きを止めると僕の顔を見て、それから耳どころか首まで真っ赤になった。しまった、と思う。

「またそういう変な冗談を言ってからかって」

冗談どころか大真面目だったのだが、それ以上何か言うとシチュー皿が一枚廃棄処分になりそうだったので黙る事にする。熱い風呂は確かに魅力的だが、一方でその選択肢を選べば当然ながら部屋を移動する必要がある。折角一週間振りで漸く彼女を眼の前にしたのだ、例え暫くの間でも顔が見えないのは寂しい。早い話が浴室で寛ぐ間も手の届く範囲から彼女を出したくないという極めて我侭な要望が子供染みているのは承知の上で、両方の欲求を如何にして同時に満たすか考えた結果最も単純な解決策が口を突いて出たのだが、どうやら彼女には些か違ったニュアンスで伝わったらしい。無理もないと自分でも思う。

「それに、わたしはもうさっきシャワーを浴びたって言ったでしょ。バスタブだってそんなに大きくもないんだから、二人も入ったらゆっくり暖まれないし、体を洗うにしても邪魔で仕方ないし、かえって風邪ひいちゃうわきっと」

こちらの論点はそれとは別のところにある事と、彼女がこちらの発言を多少誤解していると思われる点を指摘したい欲求に駆られたが、懸命に喋り続ける彼女に些か罪悪感を感じたのとやはり食器を割って怪我などされても困るので沈黙を守る。だが実を言えば軽口と受取られたら取られたで彼女が相変わらず少女のように動揺する様を見るのも久し振りだし、漸く家に帰って来たのを実感して妙にほっとしてもいた。こういう時の常で頻りに髪を掻き上げて耳に掛ける彼女の仕種でふとある事を思い出し、椅子に掛けてあったジャケットの内側を探る。
 (5k) 「忘れるところだった。おいで」

また何か『からかわれる』とでも思ったかやや疑わしげな様子で戻って来た彼女は、ジャケットの内ポケットから出した小箱を差出すと不思議そうな顔になって受取った。

「なあに?」

答える代わりに箱の蓋を開けてやると、彼女の表情が驚きに変わる。それは花を象った銀細工と天然石を組み合わせた耳飾りで、滞在していた街を空き時間に歩いていた時にたまたま前を通った店の窓に見つけたものだった。特に大きなものでも高価な品でもないが、石の甘く優しい色がどこか彼女の眼を思わせてどうしても持ち帰りたい欲求に駆られた。片方を耳に着けてやると、彼女はその僅かな重さを量るかのように少し首を傾け、頬を染めてにっこりと微笑んだ。複雑に輝く薄片を内に閉じ込めた石は彼女の眼の柔らかな光を映しているようにも見える。暫し惚けたように見蕩れていた僕の首に、彼女の腕がするりと絡んで来た。

「ありがとう」

唇がふわりと頬に触れる。僕が捕まえるより一瞬早く彼女は身体を離し、少し首を傾げてこちらを見上げた。

「それから、もう一つ忘れそうになってたこと」
「うん?」

「お帰りなさい」

蕩けるような笑顔でそう言ってもう一度身体を預けてくる彼女を、今度はしっかり受け止める。

「ただいま」


*


贈り物に気を良くしたか、或いは一人で黙って入っていたら疲れて寝入るかも知れない、とふと言ったのを本気で心配したのか、彼女は一緒に『浴室に』入ることには合意した。つまり未だ一人で入浴させるには心許ない子供を監督する母親のような具合だ。浴槽の外に腰を下ろして頻りに僕の一日の行程を話させたがったので、よく推理小説にある『眠り込んで頭が浴槽に落ちたまま溺死』という下りでも思い出したのかも知れない。僕の方はと言えば長い一日を過ごした割には不思議と余り疲労感は無かったが、『疲れた』という魔法の言葉で彼女に甘えられるなら今夜位はそれを利用しても良かろう(少なくとも全く嘘ではない)、と思う事にした。しかし一方で、ここまで譲歩できるなら ― 別に殊更それにこだわる訳では無いが ― 後一歩踏み込んで一緒に入浴する位大した差でも無かろうと思うのだが、彼女にとってはそうではないらしい。浴室が明る過ぎるのが嫌なのか、それとも何か他に問題があるのか漠然と幾つかの可能性を検討しながら窓を見上げる。雪は一頃よりはやや弱まったが相変わらず降り続いているようだ。

「明日の朝までにはずいぶん積もりそうね」僕の視線を追って彼女が言う。先刻の耳飾りをまだ着けたままなので、湯煙に曇る室内でも彼女が首を動かす度に淡い光の乱反射が躍る。「スキーがあれば近所でクロス・カントリーができそうよ。ね、明日晴れたら雪だるまを作ってね。 ... 作ったことない、雪だるま?」
思わず仰ぎ見た僕の顔を見てそう付け足す。

「あるが、もう四半世紀ばかりも前だ」
「子供の頃にやったことって、結構憶えてるものよ」彼女は尤もらしく言う。
「そのお隣に来てる子がね、昼間窓から雪が降るのを見てとてもはしゃいでたの。こんなに積もったのをまだ見たことがなかったらしくて、本物の雪だるまが見たいんですって」
「成程」

その『成程』を彼女は『じゃあ明日雪達磨を作ろう』と解釈したらしく、満足気ににっこりして立ち上がる。

「タオルを持ってくるわね」

本当に雪達磨が見たいのは彼女の方ではなかろうかとぼんやり考えながら湯に浸かったまま窓外の雪を眺めているうち、彼女がバス・タオルとローブを抱え、上機嫌で歌を口ずさみながら戻って来た。

「どうかした?」

尋ねられて、自分が彼女を凝視していたのに気付く。彼女が歌っていたのは最前の ― 地下鉄駅の構内でサキソフォン吹きが奏でていたあの曲だった。

「ああ、いや何でもない」
そう言ってタオルを受取ると、彼女は少し探るようにこちらを見詰めたがにこりとして、

「お茶を入れるわね、今お湯を沸かしてるから。飲むでしょ?」
「ああ」
「じゃ、上がったら寝室に行ってて」

僕の右頬に軽く唇を触れると、捕まえようとする腕をすり抜けて彼女は浴室から姿を消した。耳許でちらちらと閃く光の残像を惜しんでいるうちに再び歌声が聞こえて来て、その主が台所に移動したのが分かる。自分が歌っている事も殆ど意識していないようだ。僕自身にしても余りに耳慣れた旋律で、普段は歌の内容など気にも留めなくなっていたような気がする。だがあの駅で聞いた時、楽器で旋律だけをなぞられていただけにも関わらずいつも聞き慣れた彼女の声と共にその歌詞が不意にはっきりと思い起こされて、不覚にも目頭が熱くなった。

It's such a long way home,
It's such a long way ...


だがあれから僅か2時間足らず後の今、また同じ旋律を彼女の声で聴くのは何と違って聞こえる事か。あのサキソフォン吹きの事を話したら彼女は何と言うだろう。彼女が口ずさんでいる歌詞そのままのような一日を僕が過ごしたと言ったら ― 或いは僕が不在の間に彼女もまた同様の経験をして、ほぼ無意識とは言え今その曲を選んで歌っているのかも知れない、と考えるのは自惚れ過ぎか。歌の主人公もやがては彼を待つ女性の元へ戻ったのだろうか。あの駅でこんな日にサキソフォンを吹いていた青年も、今頃は暖かな家に ― 彼が戻るべき場所へ帰り着いたろうか。そうであってくれればいいと共感とも親近感ともつかぬ奇妙な感情に捕われながら、手早くローブを羽織る。

It's such a long way, yes, such a long way home ...


微かに流れてくる彼女の歌声が、いつものようにその歌詞を優しく繰返す。言われた通り大人しく寝室で待たずにこんな格好でうろうろと台所に行ったりすれば、多分また叱られるのだろう。それも悪くない。僕は浴室を出ると、セイレーンに魅入られた船の如く声の主の元へと迷わず舵を切った。

23.2.2005

"It's such a long way home" : by Chris de Burgh, from his album Crusader, released 1979.


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