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scene 19 : trick and treat

 (12k) 「もう一人?修理屋の共犯ってことですか?僕が ― 」言いかけた助手氏が、急に大きく息を吸い込んだ。「まさか、僕のことですか?そりゃ学部長まで疑うなら僕だって例外じゃないかも知れませんけど、僕は誓って ― 」

彼は片手を挙げて、相手を制した。

「いや、違います。確かに君という可能性も全く無くはないが、仮にそうだとすれば目的は何であれ幾らでも機会はある訳だから、もっと確実に自分に疑いが掛からないような方法を選ぶだろうし、これまでに挙げられた訪問者達の説明にしてもわざわざ全員の潔白をほぼ認めるような証言はしない。修理工にしても実際店に電話すれば直ぐにはっきりした事が分かるでしょう。いっそ実際には全く存在しない訪問者をでっち上げて、『大きな鞄を下げた出版社の営業担当が新しく発売になる書籍の申込みを取りに来た。教授の机に書類を広げて説明を始めたが断ったので全部鞄に入れ直して帰って行った』と言っても誰も絶対に嘘だとは言えないし証明もできない。それをせずに代わりに自分から犯人である可能性を持出して慌てて否定するというのは、目くらましにしても些か拙い」

彼の言葉に、助手氏は目に見えてほっとした表情になった。

「何だ、僕が疑われてるのかとぞっとしましたよ。でも理詰めで推定無罪っていうのも、喜んでいいのか何なのかちょっと複雑だなあ」

そう言って頭を掻く助手氏を、教授はなだめるようなちょっとからかうような口調で、

「君が正直者だと言っとるんだ、そう腐る事もあるまい。私も君がそういう事をする人間とは思ってないよ」
「はあ、ありがとうございます」助手氏はちょっと照れたように言った。「でも、そうするとそのもう一人って誰です?やっぱり修理屋の仲間ですか?でも僕は少なくとも一人しか見てないし、はっきりした証拠でもなければ他に入った人間がいるかどうかは分からないですよね」
彼はにこりとして、立っている助手氏を見上げた。

「これまでに挙げられた訪問者以外に、少なくとも確実に一人はここに入っている証拠はあります。修理工を残して部屋を空けた時、途中で誰かに会いませんでしたか」
「いえ、誰にも会いませんでしたよ。こっちの棟は教室もなくて静かだし、あの時間は他の部屋の教授陣も大方出払ってるし。怪しい輩がいれば目立ちますしね」
「挙動不審な人間だけが怪しいとは限らない。本当に誰にも会いませんでしたか」
「会いませんでしたよ」
「ワゴンを引いた清掃作業員にも?」

助手氏は何か言おうとするかのように口を開いたが、一度閉じ直し、首を突き出して彼を見つめた。

「いや ― ああ、ええ、掃除のおばさんなら見ましたよ。ちょうど僕が新館に通じる連絡廊下の辺りに差し掛かった時に向こうから来たんで、ご苦労さんと声を掛けましたが」
「女性ですね?」
「ええ」
「年齢は?」
「ええと、少し前までやってた人が中年っぽい感じだったので掃除のおばさんとは呼んでますが、今の人はそんなに年はいってないと思います。いつも何だか変な帽子をかぶってるし、顔までよく見たことはないですけど ― そのおばさん、いや清掃員が僕と入れ替わりにここに入ったってことですか?確かに言われてみれば今日はまだ掃除に来てなかったから、あり得ますね」

「ね、その清掃員って、さっき講義室ですれ違ったひとかしら」不意に思い出したので言ってみた。
「その可能性はあるな、別棟とは言え続いているし。大学の庶務課に聞けば誰がどの区域の清掃を担当しているか分かるだろう」
「でも、どうしてそのひとが来たって分かったの?その頃はまだ、わたし達は教授の講義を聴いていた時間だわ」

彼は微笑んだ。

「屑入れが空になっているからね」
「屑入れ?」

わたしがおうむ返しに聞いたのとタイミングを合わせるように、教授がその屑入れにまた紙屑を放った。紙屑は緩やかな弧を描いて、屑入れの中にぽとりと落ちた。

「教授がこの午前中はほぼずっとこの部屋に居て、いつも通り始終紙屑を放り続けていたとすれば、講義のために部屋を離れた時点で屑入れの中身は既にかなり溜まっていただろう。だが僕達が来た際には屑入れは空になっていたから、講義中のどこかの時点で清掃員が入って屑入れの中身を空けたということだ」

助手氏が歩いていって、屑入れの中を覗き込んだ。

「ああ本当だ、一度空けてありますね。さっき教授が戻られてから捨てた分しか入ってない。すると、その清掃員が僕と入れ替わりにこの部屋に入って、用具入れに放り込んで論文を持ち去ったってことですか」
「その可能性もあるという事です」彼は考え深げに言った。「毎日の事だし、この部屋の大きさならざっと床を拭いて埃を払い、屑入れを空けて作業を終えるのに3分も掛からないでしょう。修理工にしてもコンピュータの修理に集中して彼女にはほぼ背を向けているだろうから、清掃作業を装って教授の机周辺に手を触れても怪しまれはしないだろうし、彼の死角になる机の陰に過って紙挟みを落とした振りをして内容を確認することもできる。無論修理工が持ち去った可能性もまだありますが、個人的には清掃員を調べてみても無駄ではないと思います。今日たまたまこの部屋に呼ばれた修理工が見つけた論文に何らかの興味を示す可能性と毎日ここを清掃している作業員が興味を示す可能性では、後者の方が明らかに高い。講義室で見たのと同じ女性だとすれば、清掃員の作業に余り慣れているようにも見えなかった。単に最近この仕事に就いたばかりだからということも考えられるが、学生でもおかしくない年齢の女性が積極的に就こうとする種類の職種でも無いし」
「もともと何か良からぬ目的のために清掃員を装って最近入り込んでた、ってこともあり得るわけですね」

「成る程なあ」しばらく黙って聞いていた教授が、感心したように言った。「面白い。うん、多分その通りだろうな。さて、それはそれとしてそろそろ出ようかね」
「出ようかねって教授、論文はどうするんです」

慌てたように振り返った助手氏に、教授は肩をすくめた。

「どこかに高値で売り飛ばせるようなものでもないし、盗作目的でもないとすれば、誰であれあちらは手に入れさえすれば当面満足する訳だろう?だったら暫くは満足させておけばいいさ」
「だって、締切りは」
「そっちは何とかなるだろう、まだ三日あるしね(三日しかないんです、という助手氏の反論は無視された)。取り敢えず私は腹が減った。君はまだ残るのかね?後の戸締まりは頼んだよ」

食器を簡単に片付けて手早く身支度を整えると、教授はわたし達と一緒に部屋を出た。わたしも論文のことが心配で一、二度聞いてみたが、教授は陽気に大丈夫大丈夫と言うし彼も特に何も言わないので、その晩はそれきりその話をすることもなく、教授が予約を入れておいてくれた店で夕食を楽しんだ。

*
「ね、今の電話はG博士?」

受話器を置いた彼が振り向いた。

「ああ」
「この間の論文の話?」
「ああ」彼はソファに戻ってきて、テーブルから珈琲のカップをつまみ上げた。「君にお礼をしてくれ、と言われた」

「お礼?」意味が分からなくて、わたしは座り直して彼の顔を見上げた。「それでわたしの名前が話に出てたの。お礼を言われるようなことをした憶えはないけど。それで結局、論文はどうなったの?見つかった?」
「いや。だが締切りには無事間に合ったそうだ。あの翌日、助手君がひと働きさせられたらしいが」
「どういうこと?」
「いわゆる口述筆記だな。博士が口頭で言った内容をそのまま助手君がコンピュータに打ち込んだそうだ。彼のタイピングは速くて正確だし、見直しを含めても一日掛からずに仕上がったらしい。電子メイルで原稿を送ったのは初めてだ、と博士が笑っていた」

「博士は論文の内容まで、一字一句全部空で憶えてるの?」
「盗まれたものがほぼ完成稿だったので、記憶も新しくて容易に出てきたという話だったが」
「そのおかげで論文の締切りに遅らせて博士の信用を落とそう、っていう企みは無駄に終わったわけね。それで、論文を盗んだのは結局誰だったの?やっぱり清掃員のあのひと?」

彼は頷いた。

「翌日直ぐに辞めたという話だし、まあ間違いないだろうね。最初から特にあの論文を目当てにしていたのかどうかは分からないが、清掃員として部屋に毎日出入りすることで何か機会が無いか狙っていたんだろう。博士はある程度黒幕の見当はついているような話し振りだったが、余り詳しく追求するつもりは無いようだ」
「博士のじゃない本を返しに来たひとは?」
「それは単なる慌て者だったらしい。他から借りた本と取り違えていて、後から慌てて正しい本を返しに来たそうだ」
「盗んだひとは、学生か何かだったのかしら」
「多分ね。博士はその辺りも考慮して大事にしたくはないんだろう」

わたしは思わずため息をついた。

「博士みたいなひとにも、そんなことをしようとするひとがいるのね」
「ある程度の地位や名声を得れば、本人がどう考えようとそれを妬んだり羨んだりする者は多かれ少なかれ出てくるんだろうな。まあ博士なら大丈夫だろう。相手にしても小細工が通じるような人ではないと思い知っただろうし」

彼がにこりとしたので、わたしも釣られて笑顔を返した。

「そうね、博士なら心配しなくても大丈夫ね。それはそうと、ずっと不思議に思ってたことがあるの。些細なことなんだけど」

彼が尋ねるような顔で促したので、わたしは続けた。

「彼女が部屋に入ってた証拠に、屑入れが空になっていたって言ったでしょ。あの部屋に入ってからあなたはずっとわたしの隣にいたから、屑入れに近づいたことはなかったわ。どうして空だって分かったの?金属製で中は見えないし、あの大きさだから溢れそうになってでもいない限り、離れたところからはどれくらいゴミが溜まっているかなんて分からないわ」
「ああ、その事か。あれが金属製だったから分かり易かったんだ」

今度はわたしが分からない、という顔をして首を傾げたので、彼は続けた。

「博士が部屋に入って最初に紙屑をあの中に放った時、小さく畳んでから捻った紙屑は金属製の屑入れの底に当たって固い音を立てた。あの屑入れは教授が部屋に居る時は直ぐに一杯になる訳だから、投げ入れた紙屑が直接底に当たったということは溜まっていた中身はその直前に空けられて屑入れの中には全く何も入っていなかったか、少なくとも底を覆う程のゴミは無かったということになる」

そう言われて、わたしはその最初の紙屑が投げ込まれた時はコツンと響くような音がしたのと、その後教授が次々と紙を投げ込むに連れてポトリとかカサリとか、既にいくらか溜まっている紙屑の上にまた紙屑が落ちる音になっていたのを思い出した。

「そういうことだったのね。そうだ、それともうひとつ、さっき言ってたわたしにお礼ってどういうこと?誰が盗んだのか当てたあなたにお礼、なら分かるけど」

「博士にもそう言われたので、それは僕ではなくて君のお陰で分かったと答えたんだ」
「わたしの?だってわたし、何も言ってないわ。タイプライターの印字がどうとか、なんて役に立ちそうもない提案しかしてないもの。推理小説は好きだけど、わたしは探偵にはなれそうもないわ」

彼は微笑んで、

「いや、あの女性が何か関係があるかも知れないと思ったのは君の注意力のお陰だ。講義室で彼女とすれ違った時、君が言及したので僕も彼女を見た。その時に余り用具の扱いに手慣れてはいないようだし、実際は若いのに不自然に地味な装いをしているなと思ったんだ。その時点では単にその職に就いて間がないのかも知れないし、色々個人的な事情もあるのだろうと思っただけだったが、その後論文紛失が発覚して誰が部屋に入ったかという話になった時に屑入れと結び付けて彼女を思い出した」
「でも、そもそもなぜ清掃作業員って思いついたのかも、ちょっとわたしには分からなかったわ。助手のひとだってすっかり忘れてたのに」

「それも君のお陰だな。毎日見慣れている掲示板を殆ど気にしなくなるという話をしたろう。それと似て、毎日同じ格好で同じように部屋に入ってはさっさと作業を済ませて行く清掃員は、学生も教職員も見慣れ過ぎていて殆ど『会った』とさえ認識しなくなる。現に助手君も特定して聞かれるまでは、声まで掛けていたのに全く思い出さなかった。『人に会ったか』と聞かれると、無意識に自分が知っている相手か特に注意を引く人物の事しか考えないんだろう。ある意味あの時彼が悩んでいた数式の場合と逆かな、あれはそこに有るべきごく短い数式が無いのに『当然ある』と思い込んでしまうことで、何度見直しても抜けた部分を見逃してしまっていた」
「推理小説にある『執事やメイドは食卓を囲んでいた人には数えられない』っていうようなものね」

彼は頷いた。

「同じ理由で彼が部屋に居た間に清掃員が入ったが『人が来たと認識しなかった』という可能性も考えたが、単に廊下で見掛けただけよりは実際に清掃作業をする場に居合わせた方が流石に印象が強いだろうから、部屋に入った者は居なかったかと聞かれてあれだけ他の訪問者に付いて仔細に思い返しているのに彼女だけ全く思い出さないというのも却って不自然だ。彼女が教授室から何か利益になるものを持ち出せないかと暫く様子を窺っていたとすれば、助手の彼がちょうど席を外したのを見て部屋が開いていないか試してみたと考えてもおかしくない。実際に今回は修理工のお陰で部屋は開いていて入れた訳だ。万一まだ自分が部屋にいる間に助手が戻ってきたとしても、論文を用具入れに隠そうとしている瞬間を押さえられでもしない限りたまたま助手が席を外している間に開いていた部屋に入って作業をしていたというだけでは何も責められる謂れはないし、その時点で怪しまれることはまず無いだろう。盗作が目的でないなら、一旦持出しに成功さえすれば後は直ぐに処分してしまっても何の支障もないしね」
「じゃあわたし達が講義室で彼女とすれ違った時、もしかしたらまだ論文は用具入れの中に入っていたか、それともどこかで処分した直後だったかも知れないのね」
「時間的に見れば論文を持出してからあの講義室に来るまで半時間もなかったが、彼女としては発覚が早くて捕まって問い詰められる可能性を考えると一刻も早く手放したいものだったろうから、既に処分した後だったかも知れないな。ともかくそういう訳で話に出ていなかった清掃作業員の事に思い当たったのは君のお陰だから、博士も君にお礼をしてくれと言った訳だ」

わたしは少し考えた。

「それでもやっぱり、彼女を言い当てたのはあなたのお手柄だと思うけど。でも、博士が『お礼をしてくれ』ってあなたに言ったなら、何か頂けるって期待していいのかしら」

少しふざけてそう言うと、彼もいたずらっぽい顔になって、

「そうだな」
「本当?なあに?」

答える代わりに彼は手にしていたカップをテーブルに戻すと、いきなりわたしを抱き上げて自分の膝にふわりと乗せた。

「取り敢えず両腕を僕の首に回して」

驚いているわたしに、彼は落ち着き払って言った。

「これ、お礼なの?」

大体状況が読めてきたが、一応彼の言う通りにしつつわざと不満そうに言う。

「僕はそのつもりだが」
「ご褒美の方が近くない?」
「そうとも言うかも知れないな。ご褒美では嫌かな」
「そういうわけじゃないけど」
「では、眼を閉じて」


結局、ご褒美をもらうことになるのはどちらだろう、と考えながら、わたしは眼を閉じた。




31.10.2004


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