聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2000.08.01-31

>09.01-30
<07.01-30
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。

今回集中的に論評したディスクなど:
Spandau Ballet を振り返ってみる
実は見どころ一杯だった後楽園遊園地の夏休み
いきなりカヤックで湖上を行く
アカペラコーラスの夢と野望(黎明編)
日本では知られていないがMaria Bethaniaは凄そうだ
はじめてのLuiz Bonfaは何故かToninho Hortaを思わせた


8/1-2 上司がいないも同然の孤軍奮闘孤立無援の仕事なので---納期が厳しくて他人に振るヒマもない訳だが---、気分を落ち着かせる/高揚させる両面のある選曲をしてみてはいる。Milton Nascimento & Lo Borges: "Clube da Esquina", Boca Livre (1979)など。輝かしい鼓舞と深い共感に彩られた歌の数々。Pat Metheny Group: "Letter From Home" (Geffen, 1989)もそういう延長にある、というかそれらの音楽への共感と自身の問題としての引き受けとが厳しさを形作っているのだろう。

8/3 The BOOM: "Faceless Man" (Sony, 1993)
今日はアクセルふかそう。といっても、今日ほしいテンションとは、もっと考えずに突っ走る勢いだ。テンション高いとはいえ、この盤にはやはり醒めた思索が連綿と埋め込まれている。もちろんそれは美点なのだけれど。

8/4 ハイポジ『身体と歌だけの関係』(Biosphere, 1994/Kitty, 1995)
何かハズしてるなあ選曲。もし手許にスパンク・ハッピーがあれば一発で決まり、なんだが。

やれやれ、と仕事を切り上げPat Metheny Group: "Letter From Home"を聴きつつ帰宅。やっと来た来た夏休み。とはいえ休み明け後の状況など想像しようものなら休んだ気がしないだろう。ということで、でもないがまあサウダーヂしましょうってことで Toots Thielemans: "The Brasil Project" (Private, 1992)など深夜に。

8/5 とにかく引越片付けがまだ積み上がっているので、Boca Livre (1979), "Dancando Pelas Sombras", Los Del Rio: "Fiesta Macarena"などで自分にムチ打ちつつ。午後はスタジオの予約を入れてあったが、引越のバタバタで全然予習が出来てないので自主練習に充てさせてもらった。出掛けついでに久々に図書館。

スパンダー・バレエ Spandau Ballet: The Singles Collection (Chrysalis, 1985) ★
本当はSteely Danの今年出た新譜でもないかなーと思って探していたのだが、ふとその近辺で目についたこれをピックアップ。...まあ、今更なぜSpandau Balletかという感じもあるし、イマドキの人たちは彼らのことを憶えてすらいないだろうが、ふと彼らは何だったんだろうかと、結構好きだった曲のいくつか('Only When You Leave', 'Gold'など)を思い出しながら考えてみたのだった。

彼らは当時のカテゴリーで行けばいわゆる「ニュー・ロマンティック」だったはず。ただ彼らの場合、ある時期以降(というか、このベスト盤で聴く限りは明確に'True'のヒットでメジャーになった近辺から)、エレクトロを離れてアコースティックな音作りに大きく傾いていく。それが同時期に進行していたはずの「ネオアコ」として括られなかったのは、彼らが基本的にはクラブでのギグを前提にしたダンスバンドであって、そのグルーヴの根拠を強く60年代後半〜70年代半ばのソウル・ミュージック(というか、聴いた感じではむしろフィリー・ソウルに思えた)に求めていたからだろう---一見そう見えながらむしろ当初はフォーキーな要素が前面に出ていたアズテック・カメラ=ロディ・フレイムなどとは対照的に。

であれば、90年代以降の音楽シーンに難なく接続しそうにも思えるのだが、後期の一握りのメジャーな曲ですら、「打ち込み的な均等割りビート」や「典型的なシンセ音によるリフ」など、80年代の音楽テクノロジーの進展過程で刹那的にウケたサウンドデザインが、彼らの目指していたであろうグルーヴを見事に邪魔してしまっているのだ。テクノロジーに浮かれて足元すくわれている80年代、といったステレオタイプを、これもなぞっているのだった。

Toninho Horta: "Moonstone" (Verve Forecast, 1989)
そんな騒ぎをよそに、あまり国際化されていなかったブラジルのミュージシャンたちはそれぞれに成熟を迎えていた、ってことだろうか。

8/7 丸一日を買物に充てる。足りないもの多いが決まるもの少ない。注文が多いってことか。多分そうだ。だが、中でもパソコンデスクだけはちょっと譲れないもがある。機能を優先しすぎて部屋で浮いても、デザインを優先しすぎて機能面で不便でも、いずれも後悔することは間違いない。しかし結構みんな同じ悩みを持つだろうに、これだっつうソリューションに出会わないのはどうしたことか。

8/8 Gipsy Kings: "Compas", Elis Regina: "Essa Mulher"

8/9 夏休みの真ん中は子供サービスということで、タイムレンジャーショーとウルトラマンフェスティバル@後楽園遊園地+東京ドームシティに出掛ける。ショーなんて子供に付き合うだけのつもりで見ていたのだが、本物のアクション演技を目の前で見るのは、これはこれで結構楽しい。特に、着地点にマットを用意した上で数メートルの落差を飛び降りながら演技するスピード感には、思わずほうと溜め息が出る。

遊園地内を回るマーチング・バンドがいて、見栄えを考えてかスーザホーン含め全員が女性なのだが、これがめちゃ上手い。移動中はパーカス隊のみがリズムを刻みながら練り歩くのだが、特にカウベルとミニシンバルの付いたスネアを叩く人が実に冴えてる。大太鼓が基本の2ビートを刻むのに乗せて、彼女が絶妙のシンコペーションで刻むフィルインが、マーチをサンバパレードに一変させる。

ところで、ウルトラマンの方でもショーがあって見たのだが、ここで東映と円谷の現時点での実力差を見た気がした。それはストーリーの基本的な骨子に関わる部分での力量の差だ。東映(タイムレンジャー及び仮面ライダークウガ)が、ヒーロー物であるにもかかわらず、片や友情や信頼、片や親しい人たちの笑顔や喜びを軸に据え、守るべき対象を具体的に描くことで「大きな正義」というテーマを巧みに回避しているのに対し、ウルトラマン(このショーで軸となったのは、後で知ったところではティガの設定らしい)は、くどいくらいに「光の世界」と「闇の世界」の対立という抽象的なテーマを繰り返すばかりだ。しかもショーでは、それを言い換えるとか膨らますということがなく続くために、子供はついて行けないし大人は食傷するし、と客席の反応も今一つな状況であった。それに、「闇」を完全否定して全てを「光の世界」に導こうというプロットは稚拙なばかりでなく、優生学的な潔癖主義のにおいがして嫌気が差す。それって実際、ナチ配下の反ユダヤ主義青年組織の若者たちがそんなこと言ってなかったか? 子供には世界観を単純化して示すことが必要だという思い込みからこんな脚本になるのかも知れないが、正直言ってこんなもの子供に見せていいのかという気がした。

8/11 セッション相手のMさん一家に誘われて、2泊3日でキャンプに出掛ける。アウトドア経験ない上に、ウチ誰も車運転出来ないけど大丈夫ですか、との問いにOKを出されたので「はいはい」と話に乗ったはいいが、オートキャンプ場に行くのかと思いきやさにあらず。何と私は触ったこともないカヤックを操って、Mさんと手分けして荷物を載せて運ぶことになっていたのだった。不安がる私にMさんは「講習3分、実技2分で大丈夫」と仰るので、恐る恐る組み立てを手伝い(血まめ作った...)、ライフジャケットを装着し、実技講習を受けて乗ってみた。言われたとおり、両膝を外に押し出すようにして、ようやくバランスを取る。

...一人乗りのカヤックはまさしく、穏やかな湖面に一人静かに座るがごとき浮遊感。無防備でもあるのだけれど、それより解放されたような高揚感が勝る。組み立てに手こずった分スタートが遅くなり、夕闇が迫っていたが、やや雲のかかった暮れなずむ空に向かって慣れないパドルを操りながらゆっくりと漂う時間は、夢のような至福の時だった。こんな安っぽい言い方しか出来ないのが悔しいけど。

8/12 そんな隠れ家のようなキャンプ場で、カヤックで遊んだり子供らを森で遊ばせたりして最後の夜。疲れ切った子供をテントに寝かせ、大人たちは焚き火の周りに集まる(高地なので、夏とはいえ夜は冷え込むのだ)。で、キャンプファイヤーだし歌おうか、でも「♪燃えろよ燃えろよ...」ってのもナンだし、などと話すうち、誰が切り出すともなく「男女4人居るし、『バークリースクエアのナイチンゲール』(The Manhattan Transfer: 'A Nightingale Sang In Berkeley Square')、出だしだけでもやってみる?」てな話になったのだった。
いや、この曲の実演を夢見たことのある人と会うことがあろうなんて、まさか思ってもみなかった。これはチャンスだ。とりあえず最初の2小節くらい合わせた感じでは結構行けそうだ。

楽譜があるでもないのでこの曲はこのくらいにして、その後はああでもないこうでもないと曲を出し合っては遊ぶ。どう見てもヘンなキャンパーではあるが、どうせ管理人さんくらいしか見ていないので(しかも幸いというか、この人がボサノヴァ好きだった)、別に構いはしない。私たち夫婦が披露して意外とウケたのが、二人アカペラで再現する『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』の第1楽章、というネタ...うーん、これ本当に「ネタ」と呼ぶのがふさわしい。一人がめぼしい旋律線を歌い、もう一人、ってつまり私ですが、そっちはベースラインを中心としつつ、キモになる対旋律を渡り歩くという仕掛け。長くなるので真ん中のいわゆる展開部は省略していきなりコーダ。自分たちの遊びとしてやっていたものなので、人前では照れくさくて吹き出しそうになってしまったがともかく完奏。こうして湖畔の夜は尋常ならざる雰囲気のなか、更けていくのであった。

8/13 帰京する朝。Mさんは就寝前にああだ、こうだと『ナイチンゲール』の音取りをしてたそうだ。わはは、それ私も。

(なお以降のパラノイアックな事態の展開について、「アカペラコーラスの夢と野望:立志編」に掲載予定。お好きな方は乞うご期待。)

8/14 いとこ来訪。昼には久々にカルボナーラ作ったりして。BGMにもはや納涼盤の定番となったCaetano Veloso: "Livro"など流しつつ。

Sergio Mendes: "Brasileiro" (Elektra, 1992)★
先日借りた CD にはこれも。なべぞうさんもお薦めだし、以前友人たちにも薦められたし(但し彼らはこれ聴いて来日公演に行ったけど良くなかった、って言ってた)。カルリーニョス・ブラウンと彼の手勢のパーカッション軍団をフィーチャーしたサウンドは、セルメン自身の采配も行き渡ってかワイルドながらも「練れた」音。とはいえ、聴けば聴くほど、セルメンって一体このアルバムで何やってるの? という感じは強まる。まあ、今振り返ればこれで彼はカルリーニョスの世界進出の道をつけてくれたのだなあ、とは思うし、それでいいのかも知れない。ドリ・カイミのアルバムをプロデュースしたりとかもあったし、そうやってブラジル音楽の良質な部分を世界へ紹介しようという彼の一貫した活動は評価すべきなんだろう。

8/15 で、社会復帰できるんだろか私は、と考えつつ出社。

マリア・ベターニア『25イヤーズ』 Maria Bethania: "Canto do Paje" (PolyGram, 1990/Philips, 1991)★
ブラジル最高の歌手の一人とまで言われながら、また中原仁が「聖なる」ということばを敢えて冠するほどの歌手でありながら日本ではそんなに知られていない、カエターノ・ヴェローゾの実妹。私自身、バイーア四人組のうち唯一聴いたことがなかったので借りたのだが、これが素晴らしい。特にNina Simoneと歌う'Pronta Pra Cantar' は圧巻。彼女は元来演劇的指向が強くて、そうした趣向での舞台も多いらしいが、確かに歌声だけ取っても、ミルバに通じるような語りを交えた演劇的な歌唱には、ぐいぐい引き込む迫力がある。

8/16 ジョイ・ディヴィジョン Joy Division: "Substance" (CentreDate, 1988/1992)★
1977-80に活動したパンク/ポスト・パンクのバンドのシングル集。メンバーのイアン・カーティスの自殺により活動を停止し、のちにNew Orderとして再生するが、そのイメージと地続きかというと、この方面に詳しくない自分には何とも言い難い。敢えて言えばそれはやはり切断されていて、どんなに練れても'Transmission'までであり、疾走するバッキングをイアンの声がおどろおどろしく異化していく様というのは、まさしく「ポスト」・パンクという呼称にふさわしい。初期のヘタウマどころかヘタヘタな演奏や歌から、手探りで自分自身の語法を掴んでいくと同時に挑発力を増していく様は実に聴き応え十分。

8/18 ルイス・ボンファ Luiz Bonfa: "The Bonfa Magic" (Caju, 1991)★
ボサノヴァのギタリストと言われるが、物の本によれば彼はボサノヴァ・ムーヴメント以前から活動しており、ジョアン・ジルベルトならびにそのフォロワーとは一線を画す世界にいるらしい。このアルバムを聴いた限りでは、ジョアンのような「テクノ」と言ってもいい正確無比で冷徹なバチーダ(ストローク)ではなく、むしろ歌うことに重点があるようなギター。それは彼のパートの作り方にも出ていて、リズム刻みに徹するということはまずなくて、常にメロディ+バッキングという一まとまりの音世界をギターから紡ぎ出すという方向で組み立てられている。それは、歌まであって完結するボサノヴァのサウダーヂではなく、言葉少なに全てを語る、遠慮がちな渋いサウダーヂだ。
そして気づいたのだが、以降の世代のギタリストにも、明確にこの二つの傾向が見られるように思うのだ。例えば、ジャヴァンはジョアンのレガシーの上にあるが、トニーニョ・オルタは実はボンファ系じゃないか、という具合に。

8/19 友多数来る。至福のひととき。

Toninho Horta: "Durango Kid" (Big World, 1993), "Durango Kid 2" (Big World, 1995)
こういうものは、もっと少人数のとき、しかも夜更けに流すべきだったか。会話の波間に完全に沈んでしまって、ちょっと惜しかった。

Maria Bethania: "25 Anos"

8/20 忙しい妹夫妻が時間を作って訪ねてくれる。これまた嬉しいひととき。

Sergio Mendez: "Brasileiro" (Electra, 1992)
Ivan Lins: "20 Anos" (Som Livre, 1990)
Marisa Monte: "Rose and Charcoal" (Metro Blue/EMI, 1994)

8/23 忙しくてここんとこ持ち歩くCD を変えていないが、変えないと何か勢いがつかない。というわけで、

8/24 XTC: "Apple Venus Vol. 1" (Idea, 1999), "Wasp Star: Apple Venus Vol. 2" (Idea, 2000)持って出たが数曲を除いて気分乗らず。カラダはブラジル的テンションを求めている、それもイヴァン・リンスの強靱なメロディラインとエルメート・パスコアルの目眩くリズムの森という2つの極端な方向性で。

8/25 Hermeto Pascoal: "Festa dos Deuses" (Philips, 1992)
ところが同じHermetoでもより自由なインプロが繰り広げられるこの盤の気分ではなかったのだった。確かに形式面で見ればより枠が外れているように見えるのだけれど、実はその分ショーロやノルデスチ(ブラジル北東部)の色が抜けて、むしろきっちりとジャズの枠内に収まってしまい、結果としてよりおとなしいものに感じられてしまう。

Ivan Lins: "Awa Yio" (Reprise, 1991)
西海岸スタジオミュージュシャン型サウンドなのにこの突き抜けた強さはどうだ、と益々思うなあ。しかもそれは単に旋律線のせいではなく、このメロディをイヴァンの声で歌う、ということが重要なのだ。セルメンの"Brasileiro"収録の"Lua Soberana"も強靱な歌ではあるけれど、欲を言えばこれがイヴァンの声だったら、と思うのだ。

8/27 セッションの日。朝からひたすら'Waltz For Ruth'を採譜(音源サンプルこちら。でもパッセージが難しくなる前で切れちゃってます)。練習が足りない分このくらい準備していかないと申し訳が立たない。

夕方はMさん宅に招かれて、飲み食いしつつThe Manhattan Transfer のライブビデオ(1982頃)など見る。ピアノを囲んでの練習シーンがあるのだが、1パートずつ音を確認し、2人から順に合わせていって出来上がって行く様が鳥肌モノ。なのだが、メンバーの一人はサンドイッチほおばりながらだったりと、極めてリラックスした雰囲気が面白い。'Nightingale' 計画推進の決意を新たにする。

8/28 夏バテが来て起きあがれなくなり、半日寝ている。

8/29 Hermeto Pascoal: "So Nao Toca Quem Nao Quer"
ハイ・テンションったらやっぱりこの盤。もう一つのほうではなく。

Ivan Lins: "20 Anos"
どんなせつない旋律線にも強靱な生命力を宿らせる彼のボーカルは、正直初めて聴いた頃は違和感なくもなかったが、今は聴けば聴くほどより深く感服するばかり。

8/31 Dori Caymmi: 2 em 1
ブロードな感じ。広く深くどっぷりと。忙しさをひととき忘れる。



→インデックスへ
→ただおん目次に戻る

ただおん

(c) 2000 by Hyomi. All Rights Reserved.