お気楽CDレビュー
図書館天国:書き捨て御免


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1997年下期のメモ

本当に索引が必要そうですね。もうしばらくお待ち下さい。


フィッシュマンズ「空中キャンプ」

三田格が10年に1枚の奇跡って言うから聞いてみたけど、それって誉めすぎじゃない? 悪いってほど悪くはないが...。極端な言い方をすれば、「グランジなスピッツ? オルタナな清志郎? それってちょっとアナクロじゃ...」とも言えてしまう。個人的には苦手だな、この拗ねてる(くせに戦略的なあざとさが感じられない)歌い方。

(とはいうものの、その後SMAPの「ス」で1曲取り上げられているのを聴いて、結構見直した。曲作り、音作りに関しては独特の位置を築いていると思う。)


ディック・リー「オリエンタリズム」 Dick Lee: Orientalism

やった! 南北問題中心のワールド・ミュージック論議に東からの横ヤリ。

(続きは「マッド・チャイナマン」の項をお読み下さい。)


福富幸広「POST」
こんなんも図書館にあったよー

いわゆるアンビエント・テクノの本流か。とても考えられていて、綺麗で、ちょっとドラッギーで。でも残らない。ハウスに始まって、テクノとか、ドラムンベースとか、ダンスミュージックが物凄い量、生産されているけれど、それだけ量的な爆発が起こったベースには、音楽の消費のされ方の変化があると思う。延々、流しておく。身を委ねる。だから作家の無名性、量的な暴力、が許されている。これが、「音楽とは聴いたり演奏したりするものだ」というふうに聴衆が変質していったら、テクノミュージックはひとたまりもないだろう。「残らない」というのは、生産-消費システムから来る必然であるのだろうが、そういうもので一向に構わない、という時代も実は長くないのかもしれない。


かせきさいだぁ「ベストオブかせきさいだぁ」

最低。こんなもの誉めたやつの気が知れない。渋谷系の中心的存在? そうなのかもしれない。いわゆる渋谷ってそういう奴のことなんだよね、結局(「69/96」参照)。DCブランド全盛時に服を着て思想を着なかった馬鹿連中のことを思い出す。だから音は確かにいいんだよね(特に1曲目)。身辺雑記をラップにするなんて(ラップ・ヒップホップという手法を与えられた)恩を仇で返すようなものじゃないか。まあ、身辺雑記を戦略的に語る手法もあったけれど(ミニマリズム)、そんな悪意は微塵も隠されていなくて、ただそこにあるのは身辺雑記と退行的なだけのノスタルジアと毒抜きされた趣味的な引用(てぃーんず・ぶるーす、相合傘、Happy Man)。内輪指向のライナーノーツも不快。


デイヴ・グルーシン&リー・リトナー「ハーレクイン」 Dave Grusin & Lee Ritenour: Harlequin

イヴァン・リンスをゲストヴォーカルに借りるだけ借りてきて、これはないんじゃないの。彼の歌う、彼の自作3曲だけが浮いている。もちろんそれ以外の曲は、ただの予定調和的フュージョンでクズ。


ザ・ブーム「フェイスレス・マン」 Faceless Man

いいねえ。世間が「島唄」で盛り上がり始めた頃に、そんな騒ぎをよそにこんなにディープなアルバムを作っていたなんて。「真夏の奇蹟」あたりにジルベルト・ジルの面影を見ると、このバンドがこのあと辿る航跡の意味も見えようというものだ。沖縄なんだかバリなんだかわからないハチャメチャな「いいあんべぇ」も聴きもの。


ジェームズ・ブラッド・ウルマー「アー・ユー・グラッド・トゥ・ビー・イン・アメリカ?」 James Blood Ulmer: Are You Glad to be in America?

さあ...はずれ、かな。手法的にあまりにもオーネット・コールマンそのままなのと、それをギターでやろうというのにそこにギターならではの方法論が見られない。あと、歌ありと歌なしの曲とで構造がここまで違うのはなんだか子供じみて見える。歌ってなおかつハーモロディック、っていうのは出来ないの? そんなことはないと思う。今思いついたが、例えば矢野顕子のボーカルなんていうのはハーモロディックなのではないか。メセニーとの共演がしっくりくるのは当然かもしれない。


チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー「ミズーリの空高く」 Charlie Haden & Pat Metheny: Beyond the Missouri Sky

"The Moon is a Harsh Mistress"、いいねえ。バカラックの次は、そろそろジム・ウェッブが来るか? (と言っても、「マッカーサー・パーク」と「ビートでジャンプ (原題は "Up, Up and Away"と言う。全然ちゃうやん)」くらいしか知らないなあ)

あ、ところでアルバム全体は、夜中に馴染みのバーで客一人マスター一人残って、話してるんだけれど言葉も途切れながら、という感じの内省的な、でもしっっかりジャズしてます。


ディック・リー「ホエン・アイ・プレイ」 Dick Lee: When I Play (Best)

昔の作品のコンピレーションということで、近年に比べるとずっと音もチープだし、曲も歌謡曲的。それでも卓越したメロディとコードのセンスは光っている。「ビューティフル・サンデー」のボサノバ風オーシャンリゾート・ヴァージョンも楽しい。


ロキシー・ミュージック Roxy Music

上野俊哉の言うように彼らが「ハミルトンのポップアートから多大な影響を受けている」かどうかはちょっと怪しいと思う(つまり、ハミルトンのアイロニカルななぞりを真に受けてしまったとんまな連中、という気もちょっとはするということ)が、それをとりあえず措いても面白い。その源泉は、フェリーの作曲というよりは、どうもイーノのミュージック・コンクレートを髣髴とさせるサウンドコラージュにあるようだ。執拗に繰り返されるポップそのものといったリフを横から脱臼(あーやだやだこの用語!)してみせたり、遠くから眺めるように相対化してみたり。とりあえずロキシーで聴くべきはイーノが参加したあと1枚(2nd)と、あとはイーノのソロってところか。


ロキシー・ミュージック「サイレン」 Roxy Music: Siren

というわけで、イーノがいなくなって、フェリーがずっと垢抜けて、ソリッドなプレ・ニューウェーヴのロックになってしまったロキシー。悪くはないけど、なんだか使用後って感じもありあり。


パブリック・イメージ・リミテッド「メタル・ボックス」Public Image Limited

ピストルズは聴く気がしなかった(今もあまり乗り気ではない)が、PILは面白い! 椹木野衣が言っていた「真正のワールド・ミュージック」なる指摘もむべなるかな。ジョン・ライドンのボーカルが素晴らしい。完璧なオフ・ピッチとでも言うのか、これも矢野同様に声のハーモロディクスとでも言うのか。


オアシス「デフィニトリー・メイビー」(邦題未確認) Oasis: Definitely Maybe
97.08.28

オアシスとブラーがブリットポップの両雄だということは聞いていたので、興味はあったんだけど...私が積極的に聴くタイプの音楽ではなかったみたい。でも、5曲目「コロンビア」なんかはとても良かった。

で、興味深いことがあるのだけれど、どことなくこれ、「パンクの伝統」を意識させないだろうか? パンクが「伝統」なんて言うこと自体、ふざけた話と言われるかもしれないけれど。でも、この歌い方にジョン・ライドン(ジョニー・ロットン)の潜在的な影響を感じたり、シンプルなコード進行を刻むギターにパンクを聴いてもおかしくはないと思う。要は、どういう意識で彼らがこれらの「パンク語法」を転用しているか、だ。いやむしろ、それが英国ではどういう風にとられているか、かもしれない。そのあたり、英語の聞き取りも満足に出来ない日本人の自分には、見えにくい。

あえて踏み込んで推測すれば、こうした転用によって今の時代にあのパンクの挑発力を作動させようというものではなさそうに思える。むしろ、安定した若者文化(Youth Culture)、いつかは卒業するもの、としてのパンクロック、とでも言うのか。ポール・ウェラーが一時目指していたような、あえて格好をつけた、受け入れられやすい身振りを借りてのアジテーション、といったものでは決してないと思う。良し悪しではなく、そこが今の英国を映し出しているのであれば興味深い、ということ。


ヴェルヴェット・アンダーグラウンド・アンド・ニコ The Velvet Underground and Nico

ロキシーに先駆けること約6年、本家本元のポップアート系グループの1st、な訳だけれど、多分ここで確立されたイディオムが今までに散々流用されているんだろうなあ、あまりインパクトは感じなかった。ファズってるルー・リードのギターの音がとてもドラッギー。


ザ・ザ「マインド・ボム」 The The: Mind Bomb

この時代のイギリス「ニューウェーブ」はずっと避けていたのだけれど、ふと思い立って聴いてみた。思ったよりもずっと垢抜けていて、綺麗。語法も豊か。詩も考えられているし、全体的に完成度が高い。あとで聴いたザ・スミスに比べると、かなり見晴らしのいい音作り。時代の閉塞を歌うのには、閉塞を音で表すのではなく、風穴をあけるのが近道、といういい例か。


クランベリーズ(日本語タイトル不明) The Cranberries: Everybody Else is Doing It, So Why Can't We?

曲がね、もう一盛り上がりあるかなってところでエンディングに向かっちゃうんだよね。なんでかな。もう少し考えればいいのに。まあ、考えてみれば、童歌とかマザーグースなんかはそういう構成だけれど、それをこのギターバンドの編成でありきたりに聴かせるのはちょっと芸がなさすぎるような。ひょっとして、セカンドアルバム以降はもっといいのかな? シングルカットされてた「ゾンビーズ」って曲はもっと良かったから。


エルビス・コステロ「コジャック・ヴァラエティ」 Elvis Costello: Kojak Variety

何が面白いっての? ごめん、誰か上手く解説してくれる人募集!


インコグニート「100・アンド・ライジング」 Incognito: 100 and Rising

同業者がよく誉めるのはわかる。ストリングスの使いとコードがきれい。クラウス・オガーマンを思わせる。でも、なんだかコピーしたけど魂入れずって感じがする。シックにも近いんだけれど、でもそれならスピリットではソウル・II・ソウルのほうが正統の後継者って感じがする。うーん、変な言い方かもしれないけれど、こんなにコマーシャルな音楽ってここんとこ聴いたことがなかった。有線やFMで流れることのみを期待して作られたかのような。どうしても今一つ乗れない。メロディラインとか無理がありすぎて、聴いてるこっちがはぐらかされちゃうんだろうな。


インコグニート Incognito

ブリティッシュ・ファンクのはしりと言われる1982年の作品。あのジュニアの「ママ・ユース・トゥ・セイ」なんかと時代的には近いらしい。でもそれならジュニアのほうがノリはいい。なんだかこれは「ママ...」の中でリズムがヨタる部分を集めてきたような頼りなさ。普通この手の、ソウルに憧れる「似非ソウル」は、ソウルのようにキまらない分、その隙間に自分の本当のバックグラウンドがちゃっかり顔を出して、そこが音楽的な魅力になったりするものなんだが、これはそこに顔を出すモノがそもそもない。スカスカ。これを語るのにあんまりソウル・II・ソウルなんかを引き合いに出さないでほしいな。


ザ・ザ「インフェクテッド」 The The: Infected

次作「マインド・ボム」のほうが完成度は高いが、これも面白いアルバム。


ディック・リー「マッド・チャイナマン」 Dick Lee: The Mad Chinaman

嫌う人がいるのはわかるが、私は好きだ。自分の問題意識に対して正面から向き合っているから、それが音楽語法にも出ている。節操のないような、それでいて実は確信犯的なチャンプルー・ミュージック。近隣のマレーやインドネシアなどから、華僑資本によるアジア民族支配の資本主義音楽だ、という批判が起こることも十分承知の上でやっているのではないだろうか。日本のザ・ブームと重なる部分は、まさにそういうスタンスだろう。ただ違うのは、ザ・ブームの場合、日本が他国/地域と比べて確たる根っこを持たない、という「ルーツ喪失感」からスタートしているのに対し、ディック・リーにおいてはルーツがないこと、というか、ルーツがそもそもごった煮であることががあらかじめ明白だという点だろう。その分ふっ切れていて明るい。そこがイヤな人はイヤなんだろうな。


井上陽水奥田民生: ショッピング

「力を抜く」のと「力を入れない」のは違う。誉めた人の気が知れない。


「スウィンガーズ」オリジナル・サウンドトラック "Swingers" original soundtrack

ラウンジ、というジャンルが如何なるものか、これで勉強させてもらった。曲は結構面白くて、特にベイシー・オーケストラものなんか本当に格好いいんだよね。なのに、解説によれば、ラウンジというのはそういうものをいわば「悪趣味」として楽しむ、という。おいおい、何思い上がってんだ、ふざけんな、って。こんなトンチキ野郎どもにラウンジ扱いされたピチカートも浮かばれないってもんだ。(もし"Swingers"の解説にあるラウンジの定義がまるで見当外れ、っていうんなら解らなくもないが...)


サイズ「ウィンドウ」 PSY・S: Window

今は亡きサイズを偲んでやろうかと思ったが、こんなに音楽的に破綻しているなら解散もむべなるかなと言う感じ。ほぼ唯一、"Anemometer"がかつてのサイズらしい美しさ。あの超名盤「アトラス」をものにした輝きはどこへ行ってしまったのか。あまりに哀しい。


ザ・スミス The Smiths

上野俊哉は誉めてるが、それほどのものかなあ。ロック少年とは言い難かった自分には、こういうものへの思い入れはやっぱり解らない。最近の、例えばオアシスでもそうなんだけど、こういうギターバンドは、いわゆるギターバンドサウンドの中に自分を囲い込んで追いつめて行っているような、そんな気がしてならない。同じ編成でもっと違った音も出せるのに、あるいは楽器持ち替えたりすれば違ったことができるのに、そういう方向へはいかない、いわゆるバンドサウンド。パンクの出来の悪い末裔のような。閉塞した状況を表したいのだとしても、それを音楽的行き詰まりで表現することなどできないと思うのだが。その点で自分はスタイル・カウンシル当時のポール・ウェラーあたりをむしろ支持する、ってことになるのだろうか。


ビル・エヴァンス「ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング」 Bill Evans: You Must Believe in Spring

美しい。タイトル曲の原曲はルグランなのね。なるほど。買おうかな。(買った。)


チコ&ザ・ジプシーズ「ノマド」 Chico and The Gypsies: Nomade
97.11.18

なんだか、クラブプレイを期待してシンセやサルサ風のホーンをフィーチャーしているような、そんな安っぽさだなあ。と思ったら突然セリーヌ・ディオンみたいなゲストボーカルがもろ米音の英語でおらぶ。何だこりゃ。チコ・ブシキって物の本ではもっと気骨のある、ジプシー音楽の推進者だったような気がするが、堕ちたか。

ジプキンの曲のリメークは、あまりやらないほうがいいと思う。例外は「バンボレオ」かな。あれは完全に中南米化(ほとんどサルサ)していて面白かった。あと良かったのは「ラスト・ダンスは私に」のカバー。2回聴いて初めて気が付いた。実によくはまってる。


ジプシー・キングス「コンパス」 Gipsy Kings: Compas
97.11.18

2nd「モザイク」の頃に戻った感じ。音作りはずっと凝ってるけど雰囲気とか曲の感じが。2曲目のルンバのサビ前の「溜め」なんかにグッと来てしまう私ではある。一頃、曲作りが行き詰まっていたような感のあったジプキンだが、これは見事に復活。


「ブエノスアイレス」オリジナル・サウンドトラック "Happy Together" original soundtrack for a Won Kar-Wai Film
97.11.27

タンゴ・ナンバーは、オリジナルとピアソラとが入っているが、全く別々の世界。オリジナルは敢えて場末っぽさを強調した猥雑な雰囲気で、一方ピアソラは刃物のような容赦の無さ。どちらも面白かった。

ザッパだけが、何といっていいかわからない。実は私、ザッパは今日まで完全迂回していたので。昔、友人が音楽好きの友達からザッパとトッド・ラングレンを薦められてハマッたというんだが、トッドとの共通項ってあるんだろうか。

それから、この映画、英語のタイトルが実は"Happy Together"で、その「ハッピー・トゥゲザー」のカバー・バージョンがすごくよかった。何かちょっと自暴自棄でぐれてて。

映画館には行ってる暇ないので、ビデオ化されたら見るぞー。しかし、香港と南米のこの出会い方って、自分にはひどく魅惑的に感じらるのだが、他の人たちはどうなんだろう。


パット・メセニー「80/81」 Pat Metheny: 80/81

今までは、どうもこういうメインストリームのジャズは苦手だなあ、と思っていたが、歳を取ったのか、今回久々に聴いたら随分と気持ちいい。特に、「エヴリデイ(アイ・サンキュー)」の息の長い展開が夢のような心地よさ。買おうかどうか迷うな。(買った。)


電気グルーヴ「A(エース)」

もちろん「シャングリラ」聴きたさに借りたのだが、1曲目、禅問答のような歌詞の「かっこいいジャンパー」から始まって最後まで良かった。買うぞー(といいつつ何となく買ってない)。


小川美潮「4 to 3」

小川美潮を聴いたのは、「サイケデリック物理学」でキリング・タイムのゲストで歌った時だから、かれこれ10年も前になる。このソロが出たのは91年のことで、気にはしていた。小川美潮はそこそこのボーカリストだと思っていたから。

でも...どうかな。これで聴く限りでは、まあ「別天地」組の限界を再確認しただけってところか。いくつか気持ちいい曲はあるのだけれど、何か物足りない。板倉文らの曲も、どこか借り物っぽさが抜けない気がする。それが限界、ってことなんだろうが。また、小川美潮のヴォーカルも、悪い意味での子供っぽさが興をそぐ。子供っぽさを演じる自分に、本当の子供らしさを見て自己満足している、そんな顔が時々見える。矢野顕子になろうとして、なれる訳ないからよしておけばいいのに、って感じか。


「タンゴ・レッスン」オリジナル・サウンドトラック "The Tango Lesson" Original Soundtrack

フレッド・フリスとかって誉められてるけど、私はダメかなあという気がした。アングラミュージックのどれを評価し、あるいはしないか、というのは結局主観的な物差しに過ぎないのかもしれないけれど、私は彼(ら)に、かつてのじゃがたらとか、別天地がらみの面々とかと同じ限界を感じてしまうのだ。彼らに共通するのは、自分たちの音楽的方向性を、言葉や理屈で語る、あるいはそういう流通のさせかたを自分で用意していることだ。しかし彼らは本当に、自分たちのやっていることをきちっと分析できているんだろうか。そのギャップ感こそが、「なんだかなあ」というしらけの源泉であるのだが...。


スティング「ブリング・オン・ザ・ナイト」(ライヴ盤) Sting: Bring On The Night

別途「スティングをめぐる難しさ」を書きました。



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