聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

1999.11.01-15

>11.16-30
<10.16-31
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。


11/1 レニーニ&スザーノ『魚眼』
ジェームズ・イングラム『グレイテスト・ヒッツ パワー・オブ・グレイト・ミュージック』

11/2 ドリ・カイミ(1988)
ボカ・リヴリ "Dancando Pelas Sombras"

夜、近所の日蓮宗のお寺から万灯会(まんとうえ)のお囃子が聞こえてきたので見に行く。昨年は日蓮上人入滅700年だったかの大きなお祭りで賑やかだったらしい。...らしい、と「伝聞推量」なのは、昨年のこの日は寒くて遠くに音だけ聴いて家に居たのだった。今年は昨年よりはかなり地味のよう。惜しい。でもこの囃子の面白さは十分満喫できた。(ここに音あり、最初に出てくる囃子のバリエーションが多かった)

独特なのは大小の団扇太鼓だろう。ティンバレのような乾いた音。それに普通の小太鼓や鉦、それに掛け声が加わるのだが、連ごとにそれぞれ異なったリズムと纏の踊りを携えて練り歩く様は、どこかサンバ隊(エスコーラ・ヂ・サンバ)を思わせる。...そうそう、きっとこれを知っていたから、サンバと読経のバトルロイヤルCDを聴いたときも「ふむふむ」と何も驚かず受け入れられたのだな。

それにこのお囃子のリズム、大きい団扇太鼓は表拍担当と裏拍担当がほぼ同数居たりして、独特の横ノリを醸し出しているのが楽しいし、興味深い。いつの時代からこんなリズムになったのかはわからないけど。あ、でも、比較的よく伝統的なリズム型を守っていると思われる神田系の祭囃子だって結構横揺れだよなあ。何ていうか、落語でよくある、両袖つまんでひょろひょろ歩く若旦那みたいな感じの。一頃よく「日本人は農耕民族だから2拍子系タテノリ(=表拍強調)」なんて議論があったが、ありゃフィクションだと思う。まあ、ヤマト=農耕民族っての自体が壮大なフィクションだって網野善彦が言ってるくらいだから当然か。いやそれ以前の問題として、「農耕=タテノリ」ってステレオタイプ自体かなり強引じゃないか? 唄はユンタ(仕事唄)だけではあるまい。

11/3 祝日。なのに、聴かない一日。なんでだろ。疲れたな。寒くなったし、体を大事に。

11/4 ドリ・カイミ(1988)
ディック・リー『シークレット・アイランド』

深夜、DJクラッシュ『覚醒』を。タイトルに反してか、あるいは似合ってか、むしろ鎮静される感覚。

11/5 ドリ・カイミ(1988)
穏やかで繊細な彼のメロディラインに、もし日本語の詞を乗せたらどうなるか、と、ふと考えてみた。意外とKiroroみたいになっちゃったりして(笑)。でもわからないんだな、どうも日本語の詞の作法というものが。何故だか、響きのきれいな言葉>平易な言葉>ありふれた意味、って流れてしまいがちな気がするのだ。自分が作詞が苦手な原因の一つでもあるのだが。バラードに乗るコトバが岡本真夜やKiroroだけなんて、何だかやり切れないぞ。

...まあ、詞なんて当たりも外れもある。そのくらい微妙なものなんで、ドンピシャリはまった詞に出会えたら手を摺り合わせて拝むくらいしてもいいのかも知れない。

11/6 ネットワークサーバーの更新に立ち会うので休日出勤。行きがけ、楽しみにしていたイヴァン・リンス "20 Anos"を鳴らしながら行くが...到着寸前に電池切れ。うーむ、昨日帰ってからリモコンのロックをかけなかったか? しかし、誰も聴かないのにカバンの暗闇で回り続けるCDの気持ちとはどんなもんであろう。

昼飯は意外や意外、どこも混んでるので、ちょっとお値段高めのタイ料理ランチとする。北川純子編『鳴り響く性---日本のポピュラー音楽とジェンダー』(勁草書房、1999)の前書きから序章の途中まで読む。ウムムムこれは面白そうだああ。文学研究では既に中心的なテーマの一つとなっているこの視点のもとに、日本の音楽学の論集が組まれた、ほぼ最初の例ということになるのかな? ジェンダーと音楽、個人的には最重要関心事の双璧がクロスする好企画。しかも、狙いもきっちり定まっている様子。

夕刻、サーバー更新はとりあえず無事完了。連れ合い&子供と落ち合って買物の後、貸スタジオで妹とその彼氏の歌伴ピアノ。彼らが自分たちの披露宴で歌うための最終練習なのだが、コーラス部分が難しく、その特訓にほとんどを費やす。で、息子にもちょっと見学させてみたが、さすがに邪魔になるので、ハンバーガーでも食わせててと言って中座願う(笑)。

しかしレッスンつけるって楽しい。コーラスの一番の問題は何と言っても「メロディにつられる」ことなので、どの音に注意を集中したらうまく行くか、ということを、あれこれ試行錯誤しながらやってみる。自分も唄ったりしてね。いやあ、体使ったあとのビールが美味いっす。謝礼代わりとはいえ妹たちにおごってもらってしまい、ちょっと照れくさい私たちである。

11/7 イヴァン・リンス "20 Anos"
ブラジル盤というのは概してクレジット表記が不足気味で、ライナー見ても何年にどこで録ったのかよくわからないが、ものの本によるとこれは90年のライブ。スタジオ盤よりも更に伸びやかに歌うイヴァンの、ボーカリストとしての魅力が満開といった好録音。

しかしまあ、このブラジルの聴衆! 話には聞いていたが、本当にのべつイヴァンと一緒に歌ってる。気持ちいいだろうなー。エリス・レジーナが取り上げて、イヴァンが世に出るきっかけとなった「マダレーナ」では、聴きながら思わず一緒になって "O, Ma-da-le-le-le-le-le-e-na-a" と歌い出しそうになる。マズいマズい、イヤホンして街中で歌ってたら、只のヘンなオヤジではないか。でも、これが自分的にはほぼ理想的な音楽の楽しみなんだよなあ。口を衝いて歌が出る。それは、「さあ歌うぞォ」と意気込んで密室の中だけでがなり立てるカラオケの楽しみとは、全く別のものだ。

それと面白いのが手拍子。思いっきり表拍! いや、冷静に考えれば当たり前なのだ。サンバ系の基本は2ビートで、他の拍は大体揺れてる(シンコペーションしてる)んだから、手拍子打つなら「いち、(とォ、)に、(とォ)」以外に叩きようがない。だから、一聴して揉み手なんだけど、それは必ずしも「表拍重視」のタテノリってことを意味しないんだよね。打楽器持たせりゃ好き勝手にポリリズムするかも知れないと思うよ、この人たちは。

それで思い出したが、ビーチ・ボーイズのドキュメンタリーで見た聴衆の手拍子が完全に揉み手だったっけ(連れ合いが気づいて教えてくれた時はひっくり返るほど驚いた)。今じゃロックで表拍打ちなんて考えられないけど、昔は違ったのだ。すると、ロックコンサートの手拍子はいつごろから、どうやって裏拍化したんだろう。裏拍打ちがクールであり、表拍は全てタテノリであるみたいな(考えてみるとかなりゴーマンな)概念はどうやって普及したんだろう。面白そうなテーマだけど、大変そうだし他人まかせにしたいな(笑)。

ケイト・ブッシュ『レッド・シューズ』
ボカ・リヴリ "Dancando Pelas Sombras"

11/8 矢野顕子『ゴー・ガール』
イヴァン・リンス "20 Anos"

11/9 イヴァン・リンス "20 Anos"
矢野顕子『ウィウィ』
エグベルト・ジスモンチ『輝く水』
ヤマハ的な興ざめは、特に彼がピアノを弾く曲で顕著なようだ。ああ、でもこの違和感を上手く言葉にできないなあ。何がそんなにいけないのか。実は、家で聴くときも状況次第では実に気持ち良く響くことがある。サロン・ミュージック。ポップ音楽のタイムに乗せたロマン派小品。だけどイージー・リスニングってのとはちょっと違う。あれはポップスとして流通することへの割り切りが好ましく作用しているケースが結構ある。パーシー・フェイスとか初期のポール・モーリアとか。それとは違って、ジスモンチの場合「ポップスの世界でクラシック風を吹かせてる」感じに聞こえるってことか。そうかも知れない。微妙な「場違い」感。

11/10 イヴァン・リンス "20 Anos"
もうこればっか、なのであるが。

11/12 イヴァン・リンス "Acervo Especial"
BMGから出ていて、MCA在籍時のコンピレーションのようだが、ディスコグラフィーと照合すると、実は1974年リリースの復活第1弾"Abre Aras"の大半をカバーする内容らしい。アレンジとか演奏は後のものに比べると荒削りだが、むしろまとまっていない分不思議な浮遊感のある曲などもあって、バラエティに富んで面白い。カエターノ・ヴェローゾ作品を1曲歌っているのが美しい("Avarandado")。

11/13 最近、ひょんなことからイヴァン・リンス『ノーヴォ・テンポ』のタイトル曲が息子のお気に入りとなった。例によってリズムは3連符系。しかしこの曲だけは、無限ループされても飽きないので助かる。ああ何て美しいメロディ。歌詞を覚えることを決意。その一助としてポルトガル語辞典の購入も決心。ああ。

で、昼から出掛けて実妹の婚礼、そして夕方に披露宴ピアノ。ソロでなく歌伴なので、責任感まるでなしでヘラヘラと臨む。だが、その前に従弟(大学ジャズ研でバリバリの現役)らのピアノトリオによる会場BGMがバッチリ決まっていたので、悲しいかな技術の差が目立ってしまった。タッチの違いがそれこそタッチの差では済まない。まあ、才能と今までの鍛錬がいずれも大差だからしょうがないが、せめてもう少しピアノに精進したいものだとの思いを新たにする。

しかしピアノというのは困った楽器だ。狭いアパート住まいでは場所・音量ともとても収まり切らない(ので置いていない=ろくに練習してない)。本当はブルジョアの楽器なのだ。ただ1つ楽器を手にするにあたって、何でピアノにしちゃったかねえ、と悔いなくもないけど、ピアノ(というか、鍵盤楽器)でしか出来ないことというのも沢山知ったし、その辺はどの楽器やっててもそんなに関係ないのかも。

それはそれとしてフラメンコ・ギターもやりたいなー。ちきしょう仕事やめてプーになったろか(<甘い!)。

11/14 親族が集まっているので実家詣で。息子は従姉と仲良く遊んでくれて手間いらず。ゆっくりとしかし着実に増え続ける父親のCDコレクションから何と東儀秀樹を発見、借りて来る。96年ってことは話題になった"Tohgism"より前かな。どんなものか、という興味だけど、ちょっと楽しみ。

11/15 イヴァン・リンス "20 Anos"
"O, Ma-da-le-le-le-le-le-e-na-a"と(頭ン中で)おらびながら通勤する日々続く。

 



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