聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

1999.08.16-31

>09.01-15
<08.01-15
<index

★は借りた新着、☆は新規購入。


8/16 矢野顕子『ゴー・ガール』
8/17 矢野顕子『ゴー・ガール』
8/18 矢野顕子『ゴー・ガール』
カエターノ・ヴェローゾ『リーヴロ』

一旦気に入ってしまうと、とことん繰り返して聴いてしまう。しまいには副旋律、対旋律、ベースラインはおろか、パーカスのキメの一つ一つまで覚えてしまうくらいに。これは学生時分、バンドのために耳コピー修行を積み重ねた後遺症なんだろう。だが、単に気持ちよく音に身を委ねて、細部は(聴きつつも)立ち入らない、ということは、どうしてもできない。そうさせるのは多分、自分が音を奏でる者でもあろうという意地だ。その音の秘密に立ち入り、自分も何かしら魔法の音を鳴らせないか、と考えるとき、細部に分け入り、分析的に聴いてそれを記憶しようとしてしまうのは、自然なことだ。
それは「音の快楽」ではない、という人がいるかもしれない。分析的に聴くことで取りこぼされる音楽の愉しみは、確かにあるんだろう。しかし、自分にとっては、奏でる自分まで行って初めて「音の快楽」は完結するのだ。丁度、相手の話だけ聞いているのは「会話の愉しみ」ではないように。あるいは、貰った手紙をただ読むだけでは「文通」とは言わないように。
コール&レスポンス。あるいは、ダンス・トゥ・ザ・ミュージック。音楽に応えることで、音楽は人と人との間を循環する。自分の場合は、それは歌うこと、弾くこと。消費しているだけ(させられているだけ)の自分など、耐え続けられる訳がないじゃないか。

んー、まあでも、こんな聴き方するから、該博な知識とか俯瞰的な視点つうのが得られないんだよなあ、それはそれとして。

8/19 シコ・サイエンス&ナサォン・ズンビ『カオスのマンギ・ビート』
家で、矢野顕子『ゴー・ガール』

8/20 カエターノ・ヴェローゾ『リーヴロ』
通勤の 往きも帰りも カエターノ。
うおお、5-7-5にしてしまったああ(汗)。それはともかく。ゆっくりと全身に毒が回るかのように日々聴いているのであった。この盤は以前に比べてボサノヴァ回帰の傾向が更に強いが、そこに楔のごとく打ち込まれた打楽器のビートは、世界標準化されムードミュージックの1チョイスとなったボサノヴァを、一人のバイアーノ(バイーアの人)が奪還しようとする試みにも聞こえる。
そうそう、ここのところまつずしさんとこで「納涼盤」がお題になっていたが、これなんかは極上のそれであろう。但し、氷菓や氷枕のように、ひんやりとした感覚を楽しむ納涼でなく、もわぁっとする熱気が残る中、かすかな涼風に身を委ねる納涼。

またまた家で、矢野顕子『ゴー・ガール』

8/21 矢野顕子『ゴー・ガール』
何故か、「夕暮れ」が息子に大受け。結構さみしい雰囲気の曲なのに。やはりシャッフルするリズムがポイントか。何とか単品リピートに飽きてくれるまで耐えしのぎ、以降「納涼盤」オンパレード。
ジプシー・キングス『コンパス』『モザイク』
カエターノ・ヴェローゾ『リーヴロ』
トニーニョ・オルタ『ムーンストーン』

これだけは、暑さをしのぐ系ではなく、ひんやり冷たい氷菓子系。クール。

8/23 レニーニ&スザーノ『魚眼』(1993)☆
現在のブラジル音楽シーンをリードするソングライター/ヴォーカリスト、ならびにプロデューサー/パーカッショニストの2人による、噂の名盤の再発。「ラティーナ」のサイトで「限定発売」ってあったので即申し込んでゲットしたのだけど、昨日HMV見たら並んでるじゃん。おいおい。まあ、もっともCD屋にいつ行けるか予想のつかない生活を送っている私なので、文句も言えないが。
しかしこれは、先に読んでいたあらゆるコメントから全く予想のつかない音。凄いの一言。ある種、「ネオアコ・ロック」(アズテック・カメラみたいな、か)のような曲想と言えなくもない部分もあるのだが、それの言語と楽器を違えただけでこうも違うものか。いや、要は言語と楽器には、固有の音楽語法が貼りついているということなのだ、と思う。マルコス・スザーノの刻むパンデイロ(大きめのタンバリンのような打楽器)に常に寄り添う、独特のリズムの揺れ。ガットギターのピッキングは、スチール弦にない強弱のうねりをもたらす。そしてレニーニの投げつける言葉のうねり。全てが「反=打ち込み」を志向しながら、それでいて疾走するグルーヴは今を追い越そうとしてさえいる、と思う。必聴!

またまた家で、矢野顕子『ゴー・ガール』

8/24 矢野顕子『愛がたりない』
1986年頃までのアルバム未収録曲のコンピレーション。シングル曲とか、CMや「みんなのうた」への提供曲が中心だが、うーん、こういう曲というのはやはり片手間仕事ではあるのだなあ。どれも、アルバム収録にはちょっと力不足か、あるいは傾向が違いすぎる。「あしたこそ、あなた」なんて出だしが「ママがサンタにキスをした」そのまんまだし、アレンジはモータウンだし(そこに達郎コーラスがガンガンかぶってくるのが一種異様ではあるものの)。とはいえ、「わたしのにゃんこ」などは、矢野の一連の「童心もの」シリーズ上に連なる佳品。

レニーニ&スザーノ『魚眼』
またまた家で、矢野顕子『ゴー・ガール』
宮沢和史『アフロシック』
さて、レニーニ&スザーノのマルコス・スザーノが大部分に参加している宮沢のソロなのだが、本当に東琢磨の言うような「ヒエラルキー/中心」が発生してしまっている(『ユリイカ』1998年11月号、特集「オーネット・コールマン」中の論文「すべての空の下で」)のだろうか。疑問だ。多分、彼の議論には、日本のミュージシャンが何をすべきか、という視点が全く欠けている。一方的な音楽の「消費者」の視点。世界中からレアなものを集めてきて聴くというあり方こそ、単なる文化帝国主義ではないか。というわけで、ちょっとつらつら考えてみる。長いので興味とお暇のある方はどうぞ。

8/25 矢野顕子『ゴー・ガール』
特に"Girlfriends Forever" "Go Girl"の2曲に思い入れて聴く今日この頃。ナニお前はgirlではないのに何故か? と。確かにそうなのだが、英語におけるgirlという単語が年齢を限定しないのと同じように、ここで矢野が唄う"girl"は、性的な、あるいは社会的な性別すらも限定していないのである。敢えて言うならば、社会的な性別(ジェンダー)上の"girl"によって暗喩的に指示される、全ての社会的なポジションとでも言おうか。あらゆる不条理なプレッシャー(抑圧)を持ち堪え、強く生き抜こうとする全ての人にとって、これは凱歌となるものだ。そういう意味において"girl"とは、あなたであり私である。

エルメート・パスコアール『スレイヴズ・マス』(1977)☆
もう何と言っていいのかわからないなあ、この人は。とにかく常軌を逸している、いい意味でと言い切れるほどの強度で。サウンドの構成要素的には、70年代後半フュージョン+若干のブラジル打楽器といった塩梅なのだが、それで14/8拍子(7+7で、各7拍の頭ではサンバの大太鼓「スルド」が鳴る。うおお)を演ってしまうとか、ピアノの即興的なソロが変幻自在にリズムを変えていって、果てにはエルメートおじさん叫んでピアノとユニゾンしちゃうとか、まあとにかく、半端な人がやったらコケそうなアイディアが全て突き抜けている。落ち着いて聴けるか、と言われるとそれは絶対無理だが、この面白さにハマると抜けられないことも確か。

などというものを聴きつつ、仕事帰りに腕時計を買いに行く。今日から連れ合いが息子連れて一足先に帰省しているので、3日やもめとなるのである。が、こういう時こそ気を抜かず、普段こなせない用事を。とかいって実は単に今使ってる安物時計が電池切れになったからなんだけど。

ドリ・カイミ(1988)
バイーアの重鎮ドリヴァル・カイミの長男だが、むしろミルトン・ナシメントらミナス一派との交流が深いらしい、ブラジルのベテラン。「少し歌の巧いジョビン」を思わせる、深く沈潜した声と歌い方、そして透明度の高いギターで、デリケートな流れを紡いでいく。この盤はセルジオ・メンデスのプロデュースで、ドン・グルーシンら米国のスタジオメンとの録音、ということは、世界市場リリース用に新たに録音されたセルフカヴァー盤か? 明らかに作詞者と思われるクレジットがある曲のいくつかがスキャットのみなのだから、多分そうなのだろう(全編スキャットなのにジョルジ・アマード作詞ってこたぁあるまい)。
にもかかわらず、これはよく練られた上出来の一枚。というのはおそらく、全曲本人のアレンジによるため、歌とギターや打楽器のバランス含め、見通しのいい音響デザインが実現しているせいだろう。前半はスキャット、後半は歌詞付きで歌うという構成も気持ちのいい流れを作る。これも、ひんやりした触感の納涼の一枚か。

8/26 マリーザ・モンチ『ローズ・アンド・チャコール』(1994)☆
カルリーニョス・ブラウン、マルコス・スザーノという今をときめくパーカッショニストも参加の3作目(だったかな)。この人はとことん「歌謡の人」なんだなあ、とつくづく思うが、昔の歌から新作までをひとしく並べる手さばきはどこかひねくれていて、一筋縄では行かない。古めかしい雰囲気の新作を混ぜたりとか。それと、この盤は前作『マイス』に比べると、より「ブラジリダーヂ」を意識したトーンになっているのも面白い。
しかし、アート・リンゼイのプロデュースが妙である。ジルベルト・ジルを招んでおいて、ほとんどギターだけ弾かせてるとか、フィリップ・グラスが1曲だけホーンのアレンジで顔を出すとか。そうそう、1曲だけローリー・アンダーソンがポエトリー・リーディングで参加。そこまでしなくても、と思うがどうだろう、アート先生。

カエターノ・ヴェローゾ『リーヴロ』
やもめdays第2日は、残業のあとCD漁りに。HMVと中古屋とで計11枚。うおおがあぁぁ。というのも、この中古屋さんは盤質B以下など滅多に扱わないようなので、値段が軒並み新品の半額強。お財布辛いけど、渋谷の街でレコ掘り帰りにオヤジ狩りに遭ってもコワイしなあ…。この季節のワタクシと言ったら、暑さで背に腹は代えられぬとはいえ、半袖ワイシャツにノージャケットという、汗だくの会社員のオッサンそのもののいでたちなのだ。絶対狙われそう。

というわけで、帰宅後早速、ようやく入手したハイポジをうれしさのあまりヘヴィロ。
ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』(1996)☆
内数曲は歌詞がエロいのでR指定(息子にゃ聴かせられん)だが、やはり超名盤。

8/27 ハイポジ『ハウス』(1997)☆
というわけで、『かなしいことなんかじゃない』の次にあたるのを聴く。…何だかなあ、マンチェなドラムマシンとか、ドラムンベースとかにならなくたっていいじゃないかハイポジ。もりばやしみほの才能は、ソングライティングだけとは言わないが、やはりヴォーカルが奔放に遊べる枠組みとしての楽曲やサウンドデザインを作り出す点にあると思うのだが、この盤は小山田圭吾、Tokyo No.1 Soul Setら客人たちが銘々自分のやりたいことをやって、残されたわずかな隙間に嵌め込まれたもりばやしの囁きヴォーカルがあるだけだ。緻密に作り込んだものとしてはまあ結構いけるけど、これは「ハイポジではない。」

レニーニ&スザーノ『魚眼』を聴きながら、久々に友人たちとの飲みに向かう。タイ料理をたらふく頬張りながら沖縄音楽の話、なんてホントにただのスノッブみたいだ。いやいや実のある話だったんですよ実際は。

8/28 後追い帰省。車中の暇つぶしに雑誌買うくらいなら、とDiscmanをカバンにぶち込んで出発。

オウズリー(1999)☆
邦題は『カミング・アップ・ローゼズ』だが、輸入盤タイトルは名前のみ。うーん、こま切れに聴いたせいもあろうが、最初に聴いた時よりずっと平板な印象。リミッタ掛けすぎのマスタリングも一因か。

ディック・リー『エイジア・メイジア』(1990)☆
ようやく中古で見つけた。前作『マッド・チャイナマン』と双子の作品と言うべきコンセプトと手法。ただ、アジア各地の歌謡や民謡を処理する手さばきそのものは前作より小振り、というか、大胆さから軽妙さへの転換が。ひょっとするとそれが、自作中心へと大きく転換する次作『オリエンタリズム』へと繋がるのかな。この転換が吉と出たのか、あるいは裏目ったのか。個人的には、自作主体への転換はむしろ、彼自身の独自語法から、通俗化された平均的な西欧ポップスのイディオムへの後退のように見えてしまうのだが、何はともあれその次の『シークレット・アイランド』を今度は聴いてみようと思う。
いやいや、そうは言っても『エイジア・メイジア』も楽しいわ。人を食った変幻自在のショーマンシップ。

一眠りして呆けた頭に喝を入れんと、ベン・フォールズ・ファイヴ『ラインホルト・メスナーの肖像』をぶちかまして到着! 待ってろよ妻よ息子よ! (<そりゃ待ってるって)

8/29 帰省先で ドリ・カイミ(1988)なんぞ鳴らす残暑の昼下がり。こりゃ気持ち良くて眠ってしまいそうだあぁ。



→インデックスへ
→ただおん目次に戻る

ただ音楽のことばかり

(c) 1999 Shinichi Hyomi. All Rights Reserved.