お気楽CDレビュー
図書館天国:書き捨て御免


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1998年下期のメモ

1998.11.15
いつになくジャズ・ヴォーカルものが多い。実はこれは信頼するヴォーカリストのお手本集を拝借したものだったりする。


ニーナ・シモーン「ファースト・レコーディング」
Nina Simone: First Recording

彼女はピアノも弾くんだ、知らなかった。これがまたMJQのジョン・ルイスばりのバロック対位法ソロでびっくり。実はこの手のソロは嫌いではないもののちょっと違和感ある。にしても、迫力あるなあ。「ムード・インディゴ」なんか、こんな曲だったのか、って感じで。


アビー・リンカーン「ザッツ・ヒム+2」Abbey Lincoln: That's Him! +2

こういうヴォーカルは好み。「アイ・マスト・ハヴ・ザット・マン」みたいな疾走するバップが特にいい。何か、「真夏の夜のジャズ」という映画の前宣伝(本編見てない)で、アニタ・オデイがあんな感じで気持ち良く唄ってたような...。


ジョン・ヘンドリクス&フレンズ「フレディ・フリーローダー」 Jon Hendricks & Friends: Freddie Freeloader

マンハッタン・トランスファーの「ヴォーカリーズ」で、この歌詞後付けの達人のことは知ってた。でも、「ヴォーカリーズ」が良くも悪くもコンテンポラリーな音作り(アレンジ、ミックスとも)に徹していたのに対して、これは意外なほどオールドジャズの香りプンプンで驚き。さすがに古過ぎやしないかとさえ思ったほど。個人的には、マントラで彼が客演したうちの「ナイト・イン・チュニジア」(あれはボビー・マクファーリンの技も冴えまくってたなあ)みたいなのを期待していたのだが。でも「スターダスト」のアップテンポなアレンジは面白い。あと「シング・シング・シング」。


ランバート、ヘンドリクス&ロス「ツイステッド」 The Best of Lambert, Hendricks & Ross

ビッグネーム同士がタッグを組んだジャズ・ヴォーカルグループ。上手いのだけれど、3人って難しいと思った、これは。3人ではコーラスにはならない。だからソロの掛け合いで聴かせる訳だが、コーラス/ソロ/コーラスという風に場面を切り替えられないせいか、今一つ平板に思えてしまう。


ランバート、ヘンドリクス&ロス「シング・ア・ソング・オヴ・ベイシー」Lambert, Hendricks & Ross: Sing a Song of Basie

その点、彼らのもう1作、ベイシーのカバーは楽しい。ホーンセクションの「パッ」というのをコーラスで置き換えたり。でも、アニー・ロスが3人とランバートが2人いるように聴こえるのは、どういうトリック? 単なる多重か、それとも助っ人?


アニタ・オデイ「シングス・ザ・ウィナーズ+7」「ピック・ユアセルフ・アップ」 Anita O'Day: Sings the Winners +7 / Pick Yourself Up with Anita

気っ風のいい唄いっぷりで圧巻。前者がビッグバンド系、後者はコンボ系。面白かったのは、マイナーコードのバラード系が妙に似合わないこと。「マイ・ファニー・ヴァレンタイン」は「ユード・ビー・ソー・ナイス」のヘレン・メリルのような声質・スタイルがいいように思ってしまう、どうしても。アニタが唄うと何だか明るい。不思議と。


ラシェル・フェレル「デビュー!」Rachelle Ferrell: Debut!
アニー・ロス「アニー・ロスは歌う」Annie Ross Sings a Song with Mulligan
何かこの邦題もすごいな

唄のスタイルではこのロスとアニタ・オデイが好みかも。ラシェル・フェレルのようなダイナミックかつ技巧派もいいけど、あのミニ−・リパートン風というか、マライア・キャリー風の超金切り声が美しいとは思えなかったので減点。


ユニコーン「おどる亀ヤプシ」+「ハヴァナイスデー」
(2タイトル合本!)

今頃ユニコーンもない、と言われそうだが。でも真面目に聴いていなかったので改めてきちんと。で、「ユニコーン=奥田民生」って訳でもない(結構メンバーみんなでワイワイ作ってた)ということすら今回初めて知った。反省。

どちらも1990年末のリリース。当時は死ぬほど仕事させられてて、新しい音楽どころじゃなかったなあ。まあ言い訳です。

で、「ヤプシ」って何だ? というのは置いておいて、この1曲目のアフリカン・ポリリズム風は結構凄い。いや何がと言って、やっぱりこういうのは声と打楽器中心でやるものだなあ、と。こういう瞬発力のある楽器(声も)にしかない躍動感、とでも言うか。何だか言葉にすると死んでしまうなあ。それにしてもこれ、リゲティに聴かせてやりたい。あなたがピアノで再現しようとした「ポリリズム構造」とは一体、何だったの? 死んで固くなった昆虫をピンで刺してガラス箱にしまっても、それはもはや「生きてはいない」でしょう、と。

もうひとつ、「俺の走り」の東南アジア風がすごかった。あれはベトナムかなと思うがよくわかりません。チャクラ系の人たちの応援を頼んでおきながら、「別天地」的借り物っぽさを逃れているのは、やはり強烈な声の個性が突き抜けているからなのか。うーん、なんかいいかげんな分析。

「ハヴァナイスデー」は早くも最近の奥田民生の語法の萌芽が見られる。って今振り返ればそういう分析が出来る、ということだが。当時のシーンの中ではこういうアプローチは「ひねったパスティーシュ」ではなくて「イロモノ」としか見られなかったんじゃないだろうか。もっとも彼らは、そういう評価を逆手に取って楽しくぶっ飛ばしてたような気はするが。

先日テレビをふわぁっと見ていて驚いたが、「おどる亀ヤプシ」って日本ゴールドディスク大賞のロックアルバム部門賞か何か取ってるって、本当? これそんなに数売れたのかあ。日本のマーケットってわからん。


サイズ「ホーム・メイド」 PSY・S: Home Made (1994)

またサイズを偲ぶのである。彼らには、ソングライティングの重要性を再認識させてくれたという一方的な恩義があるので、敢えて取り上げて一方的に斬りまくります(笑)。

本作はアコースティック・セットによるセルフカヴァーであるらしい。だがなぁ...皮肉なことに、それが松浦雅也のソングライティングの限界を露呈してしまっているのだ。あれほど「唄」にこだわった言説&作品を世に問うていたわりに、実は彼は「サウンド派」だったのである。彼自身が決してピアノの達人ではないこともあるが、ピアノソロ+α程度のシンプルなセットで浮かび上がって来るのは、松浦のメロディを支えている音組織の「貧弱さ」そのものなのだ。それは、「読み倒し」のなかでも批判した「中途半端な、学校教育的ディアトニック(全音)音階」の袋小路の中で、器用で誠実な一人のソングライターがもがき、あがいた無残な軌跡である。彼の行くべき世界はその外側にあったのだ。「アトラス」(1989年)で一度外へ踏み出しかけたのを引き戻し、その後の迷走を招いたのはC/S(現SME)の近視眼的なマーケティングではなかったかと思っているのだが、どうなのだろう。


ジョアン・ジルベルト「ジョアン・ジルベルトの伝説」The Legendary Joao Gilberto

今頃これを聴いているようでは、「モグリのボサノヴァファン」と言われても仕方ないなあ。でも、これは演奏する楽器が大きく影響している気がする。同じ「ゲッツ/ジルベルト」からボサノヴァに入っても、ギター派はジョアンを追うのに対し、ピアノ派はジョビンをたどってしまうんではなかろうか。

そんな訳で、これが「ジョビン作品」ファンであった私の正式なボサノバ体験である。なんだか、ジャヴァンを思い出す。つまり、声、唄い方そしてガットギターのカッティングの一つ一つこそが、彼の音楽の個性を決定づけているのであって、コードとかハーモニーは「名優とはいえ脇役」なのだ。そして、これこそが「ボサノヴァ」と呼ばれたのであって、ジョビンが、ではなかったということ、おそらくは。

とか言いながらそれでもジョビン作品が他より好きだなあ。やっぱ「デザフィナード」「コルコヴァード」、これしかないぜ、っていう(笑)。

うろ覚えの話だけど、ブラジルのファンは「デザフィナード」とかもコンサートで一緒に唄えちゃうというのは、本当なんだろうか。あんな複雑でワンコーラス長い曲、すごいと思うぞ。まあ、複雑なほどいいというものではないけれど、学校のドレミじゃ貧困すぎる。複雑なことができれば、その分表現の幅が広がる。それが多くの人に共有されればなおのこと。

ドレミを逆手に取って出来ることは、まだいくらもあるはずだ。ドレミでない何かを夢見て血を吐くだけが、新しい音楽というものでもないだろう。

いかん、この辺は今は深入りしないことにする。いずれそのうち。


マンハッタン・トランスファー「カヴァーズ」「ベスト」 Manhattan Transfer: Tonin' / The Best of ~

マントラについては色々思うところあり。どうも、この人たちは強味を活かしていない気がすることが多い。「カヴァーズ」はまさにそう。刺身のつまになってどうするよ、って思ってしまう。実は「ヴォーカリーズ」もところどころそう思う部分があった。だって、ソロを回すより他にやることがあるじゃない、彼らの場合は。

だもんで、やっぱり「ベスト」の中の名作を堪能してしまうのだった。彼らで一番好きなのはやはり「バークリースクウェアのナイチンゲール」。あとアップテンポなものでは、「ボーイ・フロム・NYシティ」とか。「スパイス・オブ・ライフ」はマントラだってこと忘れてた。まあ、「っぽくはない」からだろうけど。


ネーネーズ「あしび」(1993)

以前も思ったけど、ネーネーズつまり知名定男作品は曲によってすごく違和感があるなあ。「赤花」くらいはまだいいんだが、「バイバイ沖縄」のような安いフュージョン風とか、「星のパーランク」の「中学校合唱コンクール課題曲」的なサビを聴くと、「何だかなあ」と。理由はざっと2つあって、一つには単純化された全音階(ドレミファソラシド)に対するするあまりにナイーヴな感覚、もう一つはポップ/フュージョン的なサウンド作りの中途半端な導入だろう。うーん、またこの辺の話か。でも実は、りんけんバンドあたりに時々感じる違和感や、上々颱風がしょせんフェイクにしか感じられなかった理由もこの辺にあるのかも知れない。

あ、もう一つ。歌詞の問題もある。幸せとか平和とか希望とか、そういうことを言いたいのが悪い訳ではないのだけれど、そういう単語や言い回しを素のまま放り込んでしまう感覚は、どういうもんだろうか。これは、「ブラッド・ライン」(1980)あたり以降の喜納昌吉とか、先の上々颱風なんかにも通じる部分なのだが。

以下は東京方言基準での話として読んでほしいのだが、そもそも「幸せ」「平和」「希望」という言葉そのものの力、つまりそこに内包されるものが現状ではすっからかんの空っぽなのである。もし歌の言葉がこういった単語に生命を吹き込むことにあるとすれば(そうあってほしいと私は思う訳だが)、こういった言葉の使い方なり置かれる文脈なりを工夫するとか、あるいは具体的なイメージを喚起するような言い換えをするとか、何かやり方があっていいと思う。

そう思う一方で、軸足を沖縄に移してみると(あくまでも想像上にすぎないが)、これら東京では「死んでる」単語が、沖縄人の多くには具体的なイメージを伴って共有されている可能性と、これらがヤマトの言語であるがゆえに、丁度日本人が慣れない英語を使うと「こなれない」表現になるのと同じような事態が起こっている可能性が想定される。そうだとすれば、特に後者は我々ネイティヴ(と自任する者)にとっては扱いにくい問題である。白系英米人の英語が、黒人・ヒスパニック・中国系あるいはシンガポール人やオーストラリア人に対しての正統性を既に持ち得ていないように、自分の日本語がもはや「正典」ではないと認めることができるだろうか? ま、気が早い問題提起かもしれないけど。


橘いずみ「ごらん、あれがオリオン座だよ」(1996)

かつて一部の音楽ジャーナリズムが、「女尾崎」と呼んだり、それをレコード会社が仕掛けたイメージだと言ったりしたので、ずっと遠巻きにしていたシンガー。この作品は、そうやって騒がれた時期よりはずっと後のものなので、これで彼女を評価していいのかどうか判らないが、とりあえず。

曲そのものは、ブルース・ホーンズビー×ジャーニーとでもいう、憂いのない突き抜けメジャーコード系と、かなりブルージーなものと、マイナーコード中心、泣きのジャパニーズ・フォークロックがそれぞれ1/3くらいずつ。違和感なく並んでいるようでありながら、歌詞内容(後述)ともども実はきれいに色分けされている様子。

それに統一感を与えているのは多分音作りで、この時代の商業ロックとしては良心的なほう、とでも言えようか。

こういう整った舞台装置に乗っている歌詞なのだが、面白かったのは意外と笑いを取りに行く歌詞があるということ。なぜかブルージーな曲に顕著。特に「ハヤリスタリ」など、あけすけなHanako路線を何の疑問もなく突っ走る広瀬香美への強烈なあてこすりになってるあたり、なかなか。

ただ、先に書いたように、ほぼ曲のテイスト毎に歌詞の方向性が分かれていて、メジャーコード系には(他者の)繊細さへの愛しみが、ジャパニーズ・フォークロック系には生真面目で素のままの心情の吐露と人生へのエール(わたしの苦手なやつ)が、きっちり割り振られている。不思議なくらい。

これらの根が一つだということは、感覚的には理解できないが、理屈では何かわかる気がする。今の時代、これら3つを背負って唄うことはそれだけで「無粋」と見られるのだけれど、あえて承知で無鉄砲にも引き受けている、という感じか。それをいいとこ取り(自分にとっては「繊細さへの慈しみ」が捨て難い)して楽しむのはいくら何でも人が悪い気がするので、やはりこれは今後あまり聴かないような気がしている。

 

1998.11.30
引き続きジャズ・ヴォーカルものが少し。しかし、借りても借りても聴きたいものがまだまだある。何て知識が少ないんだろうと愕然とする毎日である。


ミルドレッド・ベイリー「ロッキン・チェア・レディ」 Mildred Bailey: Rockin' Chair Lady

なるほど録音古いわ、これは(1940年代?)。でもいいねえ。何か私はグレン・ミラー(この人はミラー楽団で歌っていた)とかってあまりにチャラい気がして好きになれないんですが、この人の印象は全然違うなあ。何でかな。


ベティ・カーター「アイ・キャント・ヘルプ・イット」 Betty Carter: I Can't Help It (1958-60)

うわ、すごいわこれは。何かこの人の前だとカサンドラ・ウィルソンとかラシェル・フェレルが小手先技に思える。ハスキーと言えば言えるが、そういう風に歌うというてらいはこれっぽっちもなくて、渋いのでなく哀切、どんな明るい歌でさえ!


マンハッタン・トランスファー「ブラジル」 The Manhattan Transfer: Brasil (1987)

さて、どうしたものか。コーラスワークにしろソロにしろ、どこかシックリ来ないのである。取り上げているのは、ジャヴァンが全体の半分、残りもイヴァン・リンス、ミルトン・ナシメント、ジルベルト・ジルというMPB世代のライターたちの曲だが、そもそもジャズの歌唱はMPBのメロディやコードワークと合わないのではないか、そんなことさえ思う。一番良かったのがミルトンの「Viola Violar」だったが、ゲストのミルトンが歌唱と曲の両面で完全にマントラを食ってしまっていたため、という感じで、マントラ的な主張はまるで影が薄かった。

言い出すときりがないが、曲の取り上げ方にも不満あり。イヴァンの2曲は、もっと他にコーラスワークの工夫の凝らせる曲がありそうに思うし、ジャヴァンも同様。英語の歌詞もなあ、こうやって見るとポルトガル語詞に比べて曲とのマッチングが相当劣る気がする、響きの面で。


ブラン・ニュー・ヘヴィーズ The Brand New Heavies (1991)

ブリティッシュ・ジャズ・ファンク興隆の立役者であるらしい(あくまで伝聞であるところが甲斐性のなさである、とほほ)、1991年のデビュー盤。以前小耳に挟んだ時とかなり印象が違う。ずっとブルージー。ドラムスのチューニングとリズムパターンは実は渋谷系〜日本のクラブ好み、という路線だったりする。あれえ、もっとあからさまに業界御用達オサレ系(笑)と思ってたのに。あれは「ステイ・ディス・ウェイ」(9曲め)だけだったのか。

だが、インコグニートみたいな「お洒落のみ、通し!」というのとどこが違うかと言うと、その2点だけだったりする。メロディの乗せ方が苦しいから、なかなか耳に残らないんだよね。コードから曲を作る時によくある苦労なんで理解はするけど、同情はせん(笑)。


ノア Noa (1994)

どうも、歌う声が癒そう、癒そうとしているようで、こっちは引いてしまうのだが。イスラエル生まれアメリカ育ちのイエメン人(イスラエル在住)という経歴も、素直に聴こうとする上ではむしろ邪魔だ。そういう付加情報なしでの印象は、むしろジョニ・ミッチェル経由でクランベリーズ、あるいはクラナドに繋がる系譜、逆からたどればアイリッシュ・トラッドのベースが垣間見えるアメリカ中西部フォークロック、という感じである。メセニーファミリーのサポートがそのテイストを思いっきり補強。そこにアラブ的唱法やヘブライ語が時々顔を出すのだが、まるでオマケというか、異物である。「だから?」と思ってしまう。いや本国イスラエルでは全部ヘブライ語で歌っているのでそれをどうの言ってもしょうがないのだが。まあ私もカテゴリーの典型に対する同一性で曲を評価してるだけってことなのか。何かそれだけでは済まないような気がするのだが。


ジョニ・ミッチェル「永遠の愛の歌〜ジョニ・ミッチェル・ベスト1」 Joni Mitchell: Hits

どうにかならんか邦題。今どきこのおかげで伸びる売り上げは、ハッキリ言ってゼロである。無駄な経費かけるのはやめなさい。

それに比べて原題、Joni Mitchell Hits。シンプル。ジャケット写真では道路にジョニがひっくり返っていて、ご丁寧に白墨まで引いてある。タイトルを「ジョニ・ミッチェル、はねられる」と読んでの洒落である。がはははは。豪快で良い。

いや、そういうことを書くところではないんだがなあ。まあいいか。本題いこ本題。

こんなに名声のある人なのに聴いてなかったのである。だからCS&N(って言っても今日日の若い方にはわからないか。クロスビー、スティルス&ナッシュという、ウッドストック世代の代表的なフォークグループである。ああ長い)と結構一緒にやってるってことも知らなくて。70年代以降は、トム・スコットのLAエクスプレスとか、パット・メセニーとかのジャズ系の人々をバックに呼んでいるので、そっちの印象が強かったが。

しかし、彼女の作品で良かったのは、むしろジャズメンと組む以前である。いやあフォークギターでかき鳴らす「ロックのビート」とコーラスワークの格好いいことと言ったら。「アージ・フォー・ゴーイング」「ビッグ・イエロー・タクシー」、もう言うことなし。メロディやコードワークのてらいのない奇抜さも見事に活きている。これを、もっとロックバンドの編成に拡大して、一方で音と音との間に隙間を作ってやると、フリートウッド・マックになる。そうか、彼らはジョニの後継者であったか(と勝手に決めつける)。

実は彼女にはもう1枚、同時発売のベストがあって、そっちは埋もれた名曲中心の選曲らしいのだが、ジャズ時代のものが多いようだ。聴くかどうか迷うところ。いや、むしろ「確立されたアイデンティティ」から新しい音楽語法へ踏み出していくことの困難(あるいは成果)を知るために聴くべきかも。

 

1998.12.13
映画好きの同僚がいるのである。で、彼女は音楽にも人並みはずれて詳しい。ということで、ある時70年代ディスコ音楽の話題で盛り上がり、そういう選曲のサントラを立て続けに借りたりしている。そうそう、図書館では最新ヒットは手に入らないから、そういうのがここで取り上げられていたら、大方は彼女から借りた物です。何かタイトル変えた方がいいかも。「同僚天国」。何だそりゃ。


ブラン・ニュー・ヘヴィーズ「オリジナル・フラヴァ」The Brand New Heavies: Original Flava

デビュー作以前の録音のお蔵出し集。ということで1988年から1990年までに制作年代は散らばる。どういういきさつでデビュー盤に入らなかったかは判らないが、個人的にはこっちの方がずっといい気がするなあ。どうしてだろう。一部ドラムスが打ち込みらしくて、ノリが外してて気持ち悪いところはあるんだけど。

そう、これって意外と初期のオリジナル・ラヴに似ている。まだちょっと下世話で手作りっぽかった頃の。これがデビュー盤より気持ちいいのは多分、ヴォーカルがお飾り以上の重みを持っていたからなんだろうな。じゃ歌として楽しんだかというとそれも違って、実はヴォーカルのメリハリも含めた音作り全てが「ノリ」を決定づけているのだという気がする。ヴォーカル下手に奥に引かせたソウルって何だかソウルフルじゃない気がするのだ。あー何か適当な感想。


ファストボール「オール・ザ・ペイン・マネー・キャン・バイ」 Fastball: All the Pain Money Can Buy (1998)

テキサス出身の3人組。ギターバンドの最小編成。最初の曲が「ベサメ・ムーチョ」とか「デラ・イラ」のようなメキシカン趣味なので、これはロス・ロボス系テックスメックス・ロックかと思ったんですが、残りは全部違うのね。正統派ロック、上質の。あの、38スペシャルとか、あるいはジャーニーのある時期の曲とか、ちょっと思い出す。買うほど好きではなかったけど、ああいうのは良かった。それを今やって売れるのかというと、実は音作り面で結構エアプレイを意識したフックを仕込んである。プロデューサー結構やり手かも。


「ブギーナイツ」オリジナル・サウンドトラック Boogie Nights - Original Soundtrack (1997)

いやあたまらないっす、70'sディスコ(以外の曲も入ってるが)。 「ベスト・オヴ・マイ・ラヴ」「エイント・ノー・ストッピン・アス・ナウ」、懐かしいし今聴いてもいい。特に「エイント...」のほう、こんなストリングスアレンジ、今書ける人いるんかなあ。ELOの「リヴィン・シング」もいい。 黄金期って感じだなあ。

ところで。これにはビーチ・ボーイズの「ゴッド・オンリー・ノウズ」入ってて、原曲聴くのは初めて。これはハマります。頭ん中グルグルです。以前聴いたのはカヴァーで、一つは達郎のライブ盤、もう一つはマン・トラのアカペラだったんだが、どちらも拍節感のないアレンジで印象薄かった。絶対この曲は原曲のような軽快なリズムのほうが「せつなさ100倍増し」だと思うんだけどなあ。何でカヴァーはみんなああなんだろ。


「54」オリジナル・サウンドトラックVol. 2 (1998)

「ブギーナイツ」とはまた違った選曲傾向。比較的「ソウル色の薄い」ものが多い。具体的には裏拍軽視というか、表拍ドスドスのイケイケ乗りというか。ベースが8分音符でオクターヴを刻む(擬音で言えば「ウンパッウンパッ」という感じの)音型が目立つ。

同じ70'sディスコと言っても、こっちの傾向はあまりピンと来ない。まあ趣味と言えばそれまでだが。70'sディスコサウンドにおける「黒人・白人による初めての共同作業」みたいな話を確か「音の力」の小倉利丸論文で読んだが、実はそのある部分は、この辺の曲のように、最大公約数的な結合(フュージョン)の結果である「過度の単純さ」に支配されてたりするんじゃなかろうか。まあ邪推って言えば邪推。

もう一つ。前から思ってたんだけど、収録されてるサンタ・エスメラルダの "Please Don't Let Me Be Misunderstood" と、尾藤イサオの唄った「悲しき願い」は別の曲であるっ! 誰が何と言おうが著作権がどうであろうが断乎として。カッコいいぞ、サンタ・エスメラルダ!


チャンバワンバ「タブサンパー」Chumbawamba: Tubthumper (1997/98)

んー、良く分からん。いいのか、これ? ...で済まそうかと思ったけど、それもひどいんで真面目にやります。

一聴アナーキーな(バンド名ではなく文字どおりの意味で)音作りなのに、聴き進めるに従って増していくこの「何だかなあ」感は何? と思って解説読んで、ふむ、と納得。これは80年代ポップスで私の苦手な面を集めたような作りなのだな。聞いててすごくのぺーっと言うか、べたーっと言うか。おざなりシンセ音うるさいぞ、とか、ドミソとドファラの繰り返しやめろー、とか。ポスト・ニューロマンティック、プレ・ユーロビートの時代のUKロックにそういう商業路線モノって結構あったような。(なかった?)

しかしまあ私もいい加減なもんで、それもペットショップ・ボーイズ並にあけすけに開き直られちゃうと「おおわかったわかった、俺は聴かねえけど好きにやっててくれ」って気になっちまうんだよなあ。どこがちゃう言うねん。

 

1998.12.23
加速する同僚天国 VS 図書館勢必死の抵抗。別に意味はありませんが。


「ラスト・デイズ・オブ・ディスコ」オリジナル・サウンドトラック The Last Days of Disco - Original Motion Picture Soundtrack (1997)

聴けば聴くほど、あの時代のディスコサウンドの中で、今でも自分に響くものとそうでもないものとの差が鮮明に。やっぱりドスドス表拍イケイケ系統はダメだ。でもあの当時ってそれが主流だったような気はするし、この辺のサントラで中核を成すのも当然といえば当然。

チャラいかも知れないけどやっぱり「ガット・トゥ・ビー・リアル」なんかが良いなあ。あと、表拍8刻み系でもドスドスのベードラじゃなくて、裏拍オープンハイハットも軽快な「ラヴ・アイ・ロスト」みたいなのは気持ちいい。このリズムはフィリーソウルをベースにしているのかな。


U2「ベスト・オブ・1980-1990」 The Best of 1980-1990/B-Sides

こりゃいいわ。重宝重宝。買います、きっと。(←買った。)

中でも「サンデー・ブラディ・サンデー」を思い出させてくれたのが、やはり最大の収穫。忘れもしないこのサビ。とか言いつつ当時はいい加減に聞き流して、クラッシュの曲だと思い込んでたような気が...(汗)。

同時期の曲と比べてもこれは異質。固ーくチューニングしたドラムスがほとんど剥き出しのノーエコーで迫って来る。ギターもいつものスペイシーで耽美的なエコーは無し。そこにいつも以上に張り詰めた叫ぶようなヴォーカル。

この曲のせいでIRAの標的になったと言うけれど、IRAはこれ自分の耳で聴いたんかな? この音、そして実は結構慎重に言葉を選んだ歌詞。一方的にIRAを非難する政治的なスタンスというのは、ない。むしろ、体制側(英国保守党と保守層?)が自分に有利なように、そういう文脈に持ち込んだと見た方がよさそうだ。「僕は戦いの呼びかけには応じない」「一体誰が勝ったというのか?」責められているのは両陣営ともである。

余計なことを敢えて一つ言えば、U2の政治的コミットメントって、この時点である意味「終わってた」んじゃないかな。このあと、U2自体の影響力が大きくなり過ぎて、どんどん自分たちの手に負えなくなっていったような印象があるんだが。それでもやってる彼らの愚直さを、時に揶揄してみたくなったりもするけど、多分それはいけないんだろう。スティングの場合は、どうにも無自覚的な部分が耐えられなくて色々言ったけど、見た目は似ているところもある彼らのアプローチは、もっと自覚的なもののようにも思えるし。


ブルース・ホーンズビー「ハーバー・ライツ」 Bruce Hornsby: Harbor Lights (1993)

自分のトリオを核に、パット・メセニー、フィル・コリンズ、ブランフォード・マルサリス、ジェリー・ガルシア(グレイトフル・デッド)ら大物ミュージシャンをゲストに迎えた豪華なソロ作。なのだが、どうも聴いていて苦しいというか、疲れるというか。これは彼のピアニズムの個性だから仕方ないのだが、こんなに揺れがなくビシッと拍をきめられてしまうと、耳の遣り場がないような気持ちになる。オール打ち込みでもないのに、それ以上に機械的な印象。曲自体にもそういう部分があるかも(システマチックに過ぎるコード進行とか)。あの「ザ・ウェイ・イット・イズ」のようなカントリーテイストの残ったおおらかな曲のほうが、彼の個性をバランスよく活かせる気がする。


コーネリアス「ファンタズマ」 Cornelius: Fantasma (1997)

前作で徹底したコンセプトワークから意外性のある音を引き出すことに成功してしまったので、さて次はどうなるかと思って聴いたら...何てマイペースなヤツ。ディズニーランド的な(もっと音楽的に言えばウェンディ・カルロス的な)空疎な浮遊感を自分の音楽性に見い出し、それをFantasma(幻影)と定義した上で思い切り膨らまして、つかみどころのない摩訶不思議な音を作る。自分自身を客体化して素材として料理する手さばき、ただ者ではない。(につけても、ソロデビュー盤の凡庸さがかえすがえすも不思議。)

この浮遊感を演出する素材に、ビーチ・ボーイズ(というよりブライアン・ウィルソン) 的な要素を採り入れているのは面白い。ジャケットのアートワークも、全てのページが上下2段に同じ図柄を色違いで配しているのが不気味で、Fantasma というにふさわしい。


60FTドールズ「ジョヤ・マジカ」 60ft Dolls: Joya Magica (1998)

ウェールズ出身の直球派ロックトリオ。2回ざっと通して聴いた後では、まるでピンと来なかった。3回目でやっと前面に浮き出して来たのが、意外なトラディショナル趣味。ウェールズのエスニックな音階とか音型とかは知らないけど、ちょっとだけギターがそれと思しきフレーズを弾いてる。でもそれ以外は別に、って感じ。

敢えて分析的に言えば、メロディが単調とか、バックのアレンジに工夫がないとか言えそうなんだけど、実際そういうのでも凄くいいものはあったりするので、それだけを原因と言うのもどうかなあ、と。


セミソニック「フィーリング・ストレンジリー・ファイン」 Semisonic: Feeling Strangely Fine (1998)

で、同じくロックトリオなんだけど、こっちはホント良かった。60FTドールズと何が違うの? というとまあ、比較で書けば「メロディラインがキャッチー」「アレンジも特徴的」と言えてしまうんだが。でも、アレンジったって目立った違いは、セミソニックはリフをしっかり強調するという点くらい。ギターだけでなく結構エレピとか使って意識的に目立たせている。その執拗な繰り返しの上に歌のフレーズを乗せ、繰り返しながら変容させていく。これって典型的なロックンロールの語法だろうとは思うんだけれど、それをかなり意図的に、強靭な構造に組み上げている。

でも、それって音楽の良し悪しをそこまで左右するものではない気がするんだな、確かに一要素ではあるけど。

一つ思い当たるのは、ヴォーカルの肌理とかギターの音作りとか、そういう割と理由づけしにくい部分が評価に影響してるのかな、と。正直、60FTドールズのヴォーカルには今一つ乗れないし、ギターも単にノイジーというよりはザワついた感じに聞こえる。でも、この論拠も今一つ心許ない。

何だかこう、上手く説明できないのは自分が「ピアノ耳」をしているせいかなーと思ってしまうのだ。ギター系のお耳を持つ人の意見、大募集。


ケミカル・ブラザーズ「ディグ・ユア・オウン・ホール」 Chemical Brothers: Dig Your Own Hole (1997)

このアルバムのトップ、「ブロック・ロッキン・ビーツ」をTVで聴いたときは、すげえ奴らが出てきたもんだと思ったっけ。まあすごいのは確かなのだが、今聴くとこの音は一過性かも知れない、という気もする。ハウスからテクノへの流れの中で、BPMが上がり、グルーヴの価値観が変わって裏拍や揺れ(スウィングとかシャッフルとか)の重要性が減退し、それと平行してクラブ文化が白系ヨーロッパ人を中心に担われるようになった、というイメージを持っている私には、このロックのビートを思い切り持ち込んだDJチームが、その流れの極北に位置しているように思えるのだ。ここから流れは逆流する? わからないが。

 



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