聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。
1999.09.01-15
★は借りた新着、☆は新規購入。
9/1 ピーター・ガブリエル『US』(1992)☆
大ヒット『SO』(1986)の次。思ったより最近の作だなあ。益々ワールド色が強くなったということで敬遠していたが、改めて手にしてみる。ロックが異文化ベースの音楽表現とどのように接し、取り込んだかという、典型的とは言えないまでも、論じるに値するだろう一つの事例として。…というつもりだったんだが、何か予想外に良くって、論じにくいなあ。『SO』あたりでは、世評が「エスニックの要素を云々」と囃しても「どこが?」と思っていたが、この『US』は確かにある意味、理想的な「ワールド・ミュージック」なのかも知れない。
何と言うか、彼はもうロックのイディオムにワールドを接合しようなんて気を捨ててるとしか思えないのだ。そう。必死になぞる。アフリカのリズムもファンクなビートも、ひたすらに。ただなぞるだけじゃ猿真似か剽窃ってことになるが、ガブリエルはそこに、歌詞つきのメロディ譜1枚と彼自身の声だけで向き合おうとしている。「ロック」(あるいはプログレの流れを汲んだニューウェーブの作法ってことか)を捨てて、だ。
この盤が出たのが、椹木野衣みたいな「ワールドミュージック批判」の相次いだ時期だったせいだろう、以降ガブリエルは丸っきり時流と歩みを分かってしまったかのようだが、だからと言って、この作品が十把ひとからげのワールド批判で埋もれさせていい種類のものでないのは、確かだろう。9/2 ピーター・ガブリエル『US』
オウズリー(1999)
うん、いいのかも知れない。やっぱ1曲目 "Oh, No, The Radio" とか好きだし。でも何度か聴いて思うに、ビートルズべったりのイディオムがちょっと鼻につくし、何というかあまりに愚直な作りに過ぎる気もする。どうも、どういう方向に行きたいのかはっきりしないのが、聴いている側を落ち着かなくさせるような。単にノスタルジーに溺れたいのか、それとも何かヘンなことやりたいのか、どっちなんだい。というわけで、当分この盤はお休みということに決定。9/3 ハイポジ『身体と歌だけの関係』(1994/5)☆
うあああああ素晴らしすぎ。「歌だけがのこる」(タイトル曲より)というフレーズのあたりで鳥肌が。ああ。全然説明になってないなあ。それはまた改めて。これとか次の『かなしいことなんかじゃない』あたりと較べるに、『ハウス』はどんなもんかね、と思う。ハイポジ『ハウス』
何やってんだハイポジ。何やってんだゲスト陣。「らしい」もの山ほど聴かされても、「よくできました」とは思うけど全然感心しないぞ。ハイポジもゲスト陣に妥協した作り方してるだろうし、ゲスト陣ももりばやしを単なる囁きヴォイスとしか考えてないんだろう。全く。9/4 ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』を購入済みであることが息子に発覚。ああ。これでタイトル曲の単品無限ループが始まる〜。まあ超名曲であることは認めよう。ホント、よくぞこんな旋律がまだ残ってたよなあ、という。でも10回も聴けば飽きるぞとりあえずは。というわけで、何とか愚息をなだめすかして別のCDをセット。
ディック・リー『エイジア・メイジア』
ちなみに、なだめすかし文句は「こんどね、ポンキッキーズの『シャナナナ』をうたってるひとのおうたをきくけど、いい?」ここまでしなきゃいかんかね子供に。とは思うが、要はヘソ曲げられると騒々しくてかなわんのである。
でも一度他のCDに変えてしまうと、しばらくは安泰だったりするので、ピーター・ガブリエル『US』、マリーザ・モンチ『ローズ・アンド・チャコール』など掛ける。マリーザ、いいなあ、くせものブラジル歌謡。クールに軽く歌ってみせるのがいいのかも。さて、夕方ようやく坊主が昼寝入りしてくれると、全編通して掛けるのが困難だったビーチ・ボーイズ『ペット・サウンズ』とか、R指定でなかなかプレイのチャンスがないハイポジ『身体と歌だけの関係』などを楽しむ。
9/5 引き続きハイポジ単品ループの隙を窺って、こんなものをプレイ。
カエターノ・ヴェローゾ『リーヴロ』
宮沢和史『アフロシック』
カウボーイ・ジャンキーズ『レイ・イット・ダウン』(1996)
これ聴きながら、息子は眠り込んでしまった。昼間の水遊びの疲れか。しかし、そういう効果があるとは気づかなかったなあ、この盤。ダウナーな感じで透明度の高いトラッドなフォークロック、つうイメージだったんだが、それが子守歌? 案外近いか。「中国地方の子守歌」だって案外おどろおどろしいよなあ、そう言えば。9/7 ハイポジ『身体と歌だけの関係』
もりばやしみほの基本にはジャズとファンクがあると思う。キーボード系の人なのに、これだけ切り詰めたコード展開に頑強なコードプレイのリフを乗っけて、なおかつ多彩なメロディ/アドリブで遊べるように作れるのは、多分そういう背景があってのことだと思うが、実際はどうなんだろうか。
特にこの盤では複数のメロディ/複数の歌詞を同時進行でぶつける手法が目立つが、これはそういう自身の音楽性を正しく認識し、それに確乎とした信頼を置いていなければできない技だろう。心底震えが来るような出来、この盤は。しかしこの人たち、バイオグラフィ見てみると、結構苦労人なのだな。一度メジャー撤退に追い込まれて、インディーズでこの盤を出してメジャー復帰したのかー(ちなみに私が聴いているのはキティからの再発盤)。
それに、私とほぼ同い年か。初期メンバーに、私らが"A Pair of Hands"でお世話になった山口優氏の名前があるのもビックリ。…考えさせられる。私らは音楽に関しては単なる根性なしだったのかもしれない。ひょっとしたらあの後、こだわって歯を食いしばって貪欲にやれば、ハイポジのような歩き方もできたかもしれない(うわ大きく出たぁ)のに、自分は今こうやって勤め人して家庭もあって。それはとても「ラクな」方に逃げた生き方なのかもしれない。…ま、勤め暮らしは、それはそれで自分の尊厳を切り売りするような毎日だったりするのだけれど。矢野顕子『ゴー・ガール』聴きながら帰宅すると、相変わらずハイポジ『かなしいことなんかじゃない』タイトル曲の無限ループ。飽きるということを知らぬ、つうか自分の都合の悪いときは知らぬように振る舞う、子供という恐ろしい生き物がそこに。
この困った生物がダウンしたあとの静寂の中、レニーニ&スザーノ『魚眼』をそっと取り出して鳴らしながら、サイトの更新を図ったのであった。9/8 ピーター・ガブリエル『US』
エルメート・パスコアール『スレイヴス・マス』
ピアノ独奏(+終盤で若干のシャウト)のみの「ジャスト・リッスン」のグルーヴィーなことと言ったら。いや普通あのリズムにはこの単語使わないだろうな。基本はジャズのレフトハンド・ヴォイシング(左手でコードプレイをして右でソロを奏でる)なんだろうが、そのリズムはブラジルの様々なリズムを渡り歩きどんどん過熱する。陶酔のひととき。シコ・サイエンス&ナサォン・ズンビ『カオスのマンギ・ビート』
突っ掛かる独特のビート(もちろんブラジル生まれのリズムに基づいている)が、やっぱり自分的には心地よい。ポルトガル語がわかればもっと面白いんだろうが。ハモンズ『ライフ・ビハインド・TV』(1997)
矢野顕子と「打ち込みブレイン」ジェフ・ボーヴァのユニットが、矢野の前作『ウィウィ』と同時リリースしたミニアルバム。矢野の最新作『ゴー・ガール』所収の、ドラムンベースっぽい打ち込み曲の源流はこのユニットでの曲にあるのだが、これは買って聴いたときあまり良くないと思ってずっと寝かせていた。今回、確認のつもりで聴いたのだが、5曲中「その手の曲」は2つだけなのね。残りのトラックはむしろ、『ゴー・ガール』の主調音を決めている、アメリカのフォークイディオムや、ミディアムテンポのポップチューンの流れにスムーズにつながる佳品。その名もずばり「ギター・ソング」という、ブルージーなアコースティック・ギターをフィーチャーした曲もあるし。9/9 ディック・リー『エイジア・メイジア』
ああ、この作品で初めて久保田真琴がプロデュースに絡むのか。一つ前の『マッド・チャイナマン』とは違う、ある種の軽みはそこから来る部分もあるのかも。
しかし、これ面白いよなあ。T-3「コカトゥー」では、前奏が無伴奏のキーボードのシークエンスから入って、おいおいこれってa~haか何かか?(笑) と一瞬煙に巻きながら、それに絶妙なブラジル系パーカッション(多分打ち込み)がかぶさって「実はこういう曲なんだよー」とその色合いを変えていく。そして、お得意の民謡からの引用がサビを飾ると、そこから前奏と同じ間奏へなだれ込み、絶妙のスキャットで締める。うーん。変幻自在でいて統一感。その上何となく誠実さまで感じさせる(きっと本人も誠実な人なんだろうけど、ま、それとは関係なく)。不思議だ。プロコフィエフ『ピーターと狼 子供のための音楽童話』ウィリアムズ/ボストン・ポップス
何故だ突然の息子リクエスト。でも終盤(ここが音楽的には一番楽しいんだがなあ。特に猟師のテーマにサンドイッチされた狼のテーマ、って部分の転換が見事)まで行く手前で飽きる。昼寝してないそうだから、単に眠くなったんだな。というわけで彼も就寝し、こうやってパソコンに向かえる訳だけど。BGMにはイヴァン・リンス『Anjo de Mim (私の天使)』。こういうシットリしたのを落ち着いて楽しむ時間なんて、なかなかないよなあ。9/10 パット・メセニー・グループ『イマジナリー・デイ』(1997)
結構久し振りに聴く。動機といえば、最近ワールド・ミュージックを巡る問題を考えたり、ピーター・ガブリエルを聴いたせいだろうか。メセニーの場合、これはむしろワールド的アプローチ(主にブラジル音楽の影響)を離れて最初のまとまった作品ということになるんだが。そういう方向性に一区切りつけた彼らが、あえて「地理上の北米」(歴史・文化・社会としてではなく)に集中するコンセプトを採ったと思えるこの盤だが、しかしそれはあまりにフィクションでつかみどころがなく、ふわふわした像しか結び得ていないように思う。スパニッシュ&中東音階の思い切った採用(「ヒート・オヴ・ザ・デイ」)も中途半端な結果に終わっている。それに引き替え、最終トラック「アウェイクニング」の、アイリッシュ素材を軸に展開する見事なパノラマはどうだろう。言い方は陳腐だし誤解を招くかも知れないが、やはり口に馴染んだ言葉が一番強いのかなあ、と思う。9/11 職場のレイアウト変更の立ち会いにつき、土曜出社。ここんとこ準備が大変だった。でも、お部屋の模様替えってわくわくするよなあ。自分の私物でなければバンバン捨てても惜しくないし(笑)。
マリーザ・モンチ『ローズ・アンド・チャコール』
妙な言い方だが、カルリーニョス・ブラウンにはグラウンド・ビート(懐かしい名じゃ)に通ずるものを感じる。何というのかな、重いひきずるような独特のグルーヴ。それを例えばリズム隊でなくて、バックコーラスに醸し出させるあたり、カルリーニョスさすがと思わせる。レニーニ&スザーノ『魚眼』
ハイポジ『身体と歌だけの関係』『かなしいことなんかじゃない』9/13 マリーザ・モンチ『ローズ・アンド・チャコール』
レニーニ&スザーノ『魚眼』
マット・ビアンコ『ベスト・オブ・マット・ビアンコ』(1990)★
ご存知、ファンカラティーナをオサレで軽快なダンスミュージックへと昇華させた立役者の1990年ベスト。確か最近もまたベスト出てたよね、と思いつつ、教養主義的におさらい。…うーん、やっぱチャラい。バーシア&ダニー・ホワイトはここで自分らを活かし切れなかったから脱けたのねえ、と思わざるを得ないなあ、こうして概観してみると。彼らが抜けた後は益々スカスカなのが手に取るよう。9/14 マッシヴ・アタック『プロテクション』(1994)★
ブリストルの名を知らしめたユニットの2nd。1stが傑作の誉れ高いらしいけど、図書館で目の前にあったのをひっ掴んで来ただけなので、まあそこは。ダブがその根底にあるということはわかるが、今となってはディープともへヴィとも思わない音だなあ。かくしてビートは貪欲に消費され、最新のスタイルは一瞬で過去のものになる。つうのはまあ、飽きっぽい日本の私がいかんのかも知れんけど。
それと、意外なのは、実は結構「曲」としてまとまってしまっていること。ダブ/ヒップホップ/ハウスとしてはそこが何だか引っかかる。ある意味、ペダンティックな感じ。それは、時折ピアノのリフがリリカルに、それこそフランシス・レイを思わせるように現れることについても言える。和声展開の落ち着き具合とか、ピアノという楽器が旋律的構造を受け持つというのは、それだけで「クラシカル」な、もっと言ってしまえば「エスタブリッシュメント」な記号なのだろう。そういう意味ではたしかに「踊れない」=フロアに適さない音楽かかも知れない。しかし、自分がピアノ弾き(但し中級の下)のくせしてそう思ってしまうってのは何なんだろう。我ながら妙だ。マッシヴ・アタック『メザニーン』(1998) ★
相変わらず「踊れない」(って本当か、とも思うが。ワタクシはふわふわ揺れてりゃシアワセなもんで)ディープなグルーヴを繰り出す第3作、で確か今のところ最新。何か、前作が過去のものになったことに対する執拗な反撃、とさえ聞こえてくる凄味だなあ、これ。コクトー・トウィンズのエリザベス・フレイザーをゲスト・ヴォーカルに起用ってのもそうだが、マンチェ的狂騒からオレ達は一歩引いてるぜっていう自負が感じられるというか。それでいて、前作の楽曲的構成感はよりミニマルな流れに置き換わり(この方が却って良いと個人的には思うが)、フランシス・レイ風ピアニズムもかなり影をひそめ、しかもちゃっかりとケミカル兄弟顔負けのロック系サンプルを活用していたりする。これが本気でアンチのポジション取りだったら、結構いいんじゃないかなあ。バランス的にも。何にせよ一辺倒の世の中っつうのは息苦しいし。9/15 唐突に古典派モードな祝日の朝。いやその、週の半ばに一休み、って晴れやかじゃないすか、何か。ねえ。
モーツァルト「交響曲第35番『ハフナー』/第39番」ベーム/ウィーンフィル
モーツァルト後期交響曲でのお気に入りと言えばこの二つであるが、しかし子供の頃から耳に親しんだベーム/ウィーンフィルの音も、聴けば聴くほどロマン主義的な味付けのくどさが否めない。「何で?」って場所でテンポがいきなり落ちたりとか。特に39番などは自身演奏に参加したことがあるので、気になって仕方がない。すごく噛み砕いた言い方をすれば、モーツァルトってテクノでいいと思うのだ。テンポ揺らすな、冷徹に弾き切れ。宗教曲はともかく、後期の予約演奏会用に書かれた管弦楽曲とかオペラなんかはそれでこそスリリングってものでは。
35番の通称『ハフナー』はお里であるザルツブルクのハフナー家の祝い事のためにと、実家のおとっつぁん(レオポルト)からせっつかれて書いた、というものらしいが、それとおぼしきやっつけ仕事がところどころ聴かれるのが楽しいっすね。ベートーヴェン「ヴァイオリン協奏曲」クレーメル(Vn)/マリナー/アカデミー・オヴ・セント・マーティン・イン・ザ・フィールズ
カデンツァをシュニトケ(ロシア、1934-98)が書いている問題盤。1980年録音。好き嫌いは人によってかなり分かれると思う。ポイントは、第1楽章のカデンツァがバロックから近現代に至る様々なヴァイオリン協奏曲のカタログの如く書かれていること。この、段々とタガが外れていくようなかっ飛びぶりが、実に最盛期のシュニトケらしくて好きなんだがなあ。クレーメルも今みたいに色々とちょっかい出していないで、西側ではまだ無名だったお友達の作品を紹介しまくっていたこの頃がやっぱり良かったような。矢野顕子『ゴー・ガール』
掛けたトラックNo.を順に並べると、1-2-3-4-5-6-6-6-6(一時停止)5-6-6-6-6-6-7-8-9-10-11-12てな感じ。ああどうすれば子供に負けない強い意志を持つリスナーになれるのだろう。
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