ループな日常
〜普通に聴いて考える
1999.1.19-3.31


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1999.3.29-31

3/29 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』

ブラジル音楽の楽しみについて思うところをまとめてみました。ホントに流してますけど。

クラナド『パスト・プレゼント』

エンヤのお兄さんお姉さんのバンドとして有名なのは不本意であろうアイルランドの実力派、1989年のベスト。民謡のアレンジものと並んで、ブルース・ホーンズビーらアメリカ勢との共演(『シリウス』1987 所収)が意外と良い。彼らの商業ロック的な完璧主義のなかから、フォークロア的なニュアンスの肌理を上手く引き出している。この当時、よく行っていた店(といっても軽食の美味い喫茶店といった風情の店であった)では、チーフが新しい音楽を次から次へと掛けていて、これもそのうちの1つ。そういう場を持っていないと、コンテンポラリーな音にはなかなか接することができないのも事実だ。今の生活ではとてもそんな店には入り浸れないが、どころかこの店のチーフは私や悪友が若気にまかせて語るあてどない夢に刺激されて、店を辞めて新しい仕事へと発って行ってしまったのだ。そしてそのあてどない夢とは違う人生を歩いている自分。縁とは異なものというか。チーフお元気ですか。私も投げ出さずにぼつぼつやってます。

3/30 イヴァン・リンス『ノーヴォ・テンポ(新しい時)』

これはちょっと感涙もの過ぎて、元気が出ないなあ。というわけで通勤BGMは元に戻したのである。↓

3/31 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』



1999.3.26-28

3/26 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』

ここをお読みの方にはまさかそんな誤解はあるまいと思いつつ、念のため。あんまりへヴィローテーションだと一押しのように思われがちだが、やっぱりこれは自分の特別な趣味には違いない。イヴァンの良さを知るための一枚となると、やはり『今宵楽しく/ある夜』(1977/79、2 in 1でCD化)に尽きるだろう。なおそれでも、イヴァンの若干カンツォーネがかったダイナミックなメロディラインと歌いっぷりに、違和感を覚える人はいるに違いないだろうが。

カエターノ・ヴェローゾ『シルクラドー』(1991)

で、今週の仕事を終えてのクールダウンの1枚。とはいえあまりカエターノな気分ではなかったりする。ある種、非常に頭の中の思考する部分を刺激する音楽なのだ。

パット・メセニー・グループ『ファースト・サークル』(1984)

あまり全編聴こうという気はなく、ただ1曲目の「アヘッド・マーチ」を聴きたくて。ぶっ壊れたマーチング・バンド・サウンドに、ギターでコントロールされたシンクラヴィアのフリーフォームなソロがうねる。すごくヘン。最初に聴いたときはCDの中身違いかと思った。

3/27 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』
ピチカート・ファイヴ『スウィート・ピチカート・ファイヴ』

さる人にプレゼントしようと思って、リクエストされたオムニバスものを2点買って持って行った。ついでに一緒に聴いて来る。

フラメンコ・ギター・ベスト(BMG)

カルロス・モントーヤ、サビーカス、そしてマノロ・サンルーカルという世代の違う3人の名人芸が聴けて、実は大変にお得。特にカンテ(歌)とサパテアード(ステップ)の入ったサビーカスの録音は秀逸。うちにも一つ買おうかな。

カンツォーネ(キング)

まあこんなものか、のベスト盤2枚組。しかしキングの持ってる音源って、童謡の時も思ったけど、何かツボを外しまくってるような。

3/28 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』
『すくすくどうよう 2〜4才児向』
トマティート『ギターラ・ヒターナ』
(1996)

若手フラメンコ・ギタリストで、ごく最近ジャズ・ピアニストとのデュオで来日してたらしい。以前聴いた1枚は純粋にフラメンコの定番ナンバーばかりで、上手いとは思ったが特に興味は沸かなかった。わりと近年の作であるこのアルバムは、コンサートに行ったという知人から借りたのだが...何というのか、フュージョン的なスタイルへの接近によってエッジが削がれているような。ポップス的な和声が割り込んだ分、フラメンコの持ち味である、フリギア旋法を軸に動く和声のドラマチックさが薄まってしまっている。それから、バンド編成の曲はいざ知らず、伝統的なフラメンコの編成(ギターソロ、もしくはこれに歌、手拍子が加わる)の曲でフェードアウトはどんなもんか。バシッとキメてなんぼのフラメンコでしょうが、というのはオリエンタリズムでも何でもない。踊りの快楽を愛するなら当然の感覚だと思っている。

ジプシー・キングス『コンパス』(1997)

というわけで、恐らくはトマティートのような紆余曲折の後に、ポップスの語法を自分の重力圏に取り込んでしまった、ジプキン近年の傑作。スパニッシュ・ギターのストロークにサルサ・ピアノのブレークビーツ! たまりません。

チャーリー・ヘイデン&パット・メセニー『ミズーリの空高く』(1997)

2人だけの親密な会話が、十分に完全な世界を形作る、良質な1枚。子供が早々と眠ってくれると、酒を傾けながらこういうしみじみした音楽を聴いて、日頃棚上げにしているあれこれを語り合ってみたくなる。のだが、一方で妙に拍子抜けした感じがして、結局何もはかどらなかったりすることが多い。まあ、子供依存症ではあるのだろう。しかし、それほどに子供はパワフルだし、またそれゆえこちらのパワーも要求されるということの、それは裏返しでもある。



1999.3.20-25

3/20 「フニクリ・フニクラ」from『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 4』

今日に限って息子に単品リピート指定を乱発される。もっと聴きたいのに無念にもぶっちぎられたCD、多数につき掲載略。

ジョニ・ミッチェル『hits』

何故これは最後まで聴かせてくれるんだ? ポイントは車の写っているジャケット写真か?

ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』

最初は通しで(18禁除く)かけてたんだが、どういう訳かタイトル曲を気に入られて単品リピート。この曲、ホーンのアレンジが素晴らしくて、息子もここを「ぱぱらぱ」で口ずさむ。ホント、何で大衆的な人気が出ないんだか。

The Norton Anthology of African American Literature; Audio Companion (1997)

つまり学術書の付録だが、これが結構面白い。スピリチュアル、ゴスペル、ワークソング(秀逸!)、ブルース、ラップ、果てはキング牧師とマルコムXの演説まで、軽くではあるが一通りさらえる。あ、でもマヘリア・ジャクソンの『スーン・ア・ウィル・ビー・ダン』は妙に遅いテンポで、何か演歌っぽいヘンな演奏だったなあ。それはともかく。キングとマルコムの演説のスタイルの違いは何かそのまま「ゴスペル/ラップ」「南部/北部」「農村/都市」と対応しているようで興味深かった。

イービーティージー『Walking Wounded』

3/21 都知事選立候補予定者の討論を朝の番組(フジ系)でやっている。しかしなあ、明石康。一つテーマを選んで、他の候補者を一人指名して討論せよ、ってのに、石原と「国際都市TOKYO」ですか。帰れ帰れ。そーゆー夢振りまいて鈴木俊一が役にも立たないハコモノばっかこさえて丹下健三とゼネコンに大金ばらまいたから、今の都の財政はガタガタなんでしょうが。ほんまに。鳩山(弟)は言ってること意味不明だし(ここまでとは思わなかった)、柿沢は中身ないし、石原は無教養なタカ派だし、こりゃ舛添・三上の「福祉コンビ」で決選投票ってのもあながち有り得ん話じゃなくなってきたぞ。ってここって政治コラムじゃないでしょう(自己ツッコミ)。

終日出掛ける。雨の中はさすがに疲れる。ドロ靴で抱っこをねだる我らが悪ガキ。

3/22 さすがに今日は家で。

『すくすくどうよう 2〜4才児向』
『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 2』
ピチカート・ファイヴ『スウィート・ピチカート・ファイヴ』
矢野顕子『ウィウィ』

3/23 パット・メセニー『ウォーターカラーズ』(1977)

時代的に見ても、ここの音がのちの「ニューエイジ」の起源の一つになっていることはまず間違いないんだけど、でも、これはアルファ波どころではない胸騒ぎの音楽だったりする。特に最終トラック、10分にも及ぶ「シー・ソング」の寄せては返す不定期的なうねりは、セイレーヌの魔の手とは言わぬまでも、人魚姫の無念を漂わせる北の海のおどろおどろしさを宿している。

イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』(1991)

出ました邦題。これもちょっと何だかなあ。原題は"AWA YIO"だけです。ただしこれ、ポルトガル語ですらなく、アフリカ起源の言葉らしいので、何か付け足すのはやむを得ないか。ブラジルものの邦題と言えば、カルリーニョス・ブラウンのソロ第1作が『バイーアの空の下で』なんつう観光ビラみたいなのにされてたなあ。ちなみにこっちは原題が"alfagamabetizado"で、これまたまるで翻訳不可能だったが。

久々に聴いたのは、多分これが今手持ちのCDのなかで一番「芯が強い」だろうと思ったから。気合いを入れねばならぬ事情があるのである。詳細は略すが。自分に檄を。以前聴いたときよりも好印象なのは何故だろう。ワンフレーズの息の長さに慣れてきた証拠か。歌謡曲や欧米ポップスに慣れた耳だと、こういうじわじわと盛り上げてくる、ヒネリの効いた旋律線はかったるいかも知れない。しかし、自分的にはこういうのこそ歌なのだ、ほとばしる生命なのだ。そう改めて認識する。中でもTRK 2「クラレオウ」は大傑作。以前は気になった、ラリー・ウィリアムズのコテコテに塗りたくり過ぎのきらいのあるキーボードも、今はむしろギラギラした熱気を醸し出しているようで好ましい。

イヴァン・リンス『Nos Dias de Hoje』(1978)

国内盤がないので歌詞の意味とかほとんどわからないのだが、イヴァンはこれが一番と思う。洗練と野性と諧謔とがバランスする。

3/24 イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』
ジョニ・ミッチェル『逃避行』

3/25 シック『セ・シック』(1978)

気合いを入れるならシックかと思って試したのだが、実はバラードでだれてしまう。彼らの(この頃の)曲はABABAと、パーツを変化させずにブロックのごとく無機的に併置していくのが特徴だが、ダンスものではハマッているこの構造もスローなものでは今一つなようだ。

イヴァン・リンス『アウア・イオ〜魂への賛歌』
安里勇『海人(ウミンチュー)』
(1996)
大工哲弘(1995)

息子が「おきなわのおうたのしーでぃー」と言うので、ああまたブームの「島唄」かあ、と思って見せると「ちがう」と言う。で安里勇を出してくると「これだね」。今まで一度も好きだって言ったことないじゃん、と思いつつ、何でこれなのか、と考える。ジャケット写真が鮮烈。藤原新也がぎらつく太陽を風景の中に写し込んでいる。これだろうなあ理由は。

理由はともあれ、これ幸いと唄っしゃー比較研究。概ね前に思ったとおりだが、安里の録音はミックスの際にハイ上がり気味にすることで、あえて三線の音のエッジを立て、声の質をよりノイジーに、軽く聴かせるようにしているとも思える。一方の大工はもっとくぐもった音で、三線が丸みを帯び、声の芯が強調されている。その差が「自然に溶け込む声/対峙する声」という印象の差を作りだしているのかも。確かに両者の唄いっぷりには大きな違いがあるが、それは途中に介在するプロダクション含めた聴く側が作りだした幻想により、実態以上に拡大されているのかも知れない。そもそも、島唄が自然に溶け込むも対峙するもないのかも知れないのだ。その唄を唄う者と、幸いにもその場に居合わせる者にとっては。

エヴリシング・バット・ザ・ガール『ランゲージ・オヴ・ライフ』(1990) 『アイドルワイルド』(1988)

大好きなのに何故かあまりかけないEBTG。『ランゲージ...』はジョー・サンプルら豪華ゲストを迎えてのLA録音、というとチャラいようだが、他の誰もここまで渋くは出来まい、という傑作。『アイドルワイルド』は逆に自宅録音的なインティメートな作りなのに、しみじみと奥行きを感じさせる音作り。どうやらベン・ワットはこの頃から打ち込みに凝り始めたようだ。



1999.3.15-19

3/15 スガシカオ『ファミリー』 『クローバー』

昨日から異様に暖かくなった。それなのに電車も会社も暖房してるとしか思えない蒸し暑さで、頭が痛くなり、気持ちが悪い。こういう時にスガシカオは逆効果である。リアルを強調するザラついた声。いや、普段はそれがいいのだが。

3/16 矢野顕子『ウィウィ』
リゲティ『ピアノのための作品集(練習曲集ほか)』
エマール(Pf)

作曲者自身の解説にあるようなポリリズム構造があまり聞こえてこないのは、演奏者が背景を成す「格子状の構造」と旋律線(と呼ぶのもどうかと思うが、まあ一応)を律儀に対比させて演奏しているせいなのだろうか。前回と同じエマールでなく、別のがあれば比較できるのだろうけど、そもそもあるんだろうか。ライブに行かないとダメか。

夜はジョニ・ミッチェル『逃避行』を時間まで。

3/17 リゲティ『ピアノのための作品集』

『練習曲集』全15曲を聴き込んでみる。作曲者本人が解説でも引き合いに出しているエッシャー効果なのだけれど、確かにそう聞こえてくる部分もなくはない。ただそれ以前の問題として、エッシャー効果は自分にとっては「アートの楽しみ」ではないのだ。もっと言語的、論理的なもの。だからこれを音楽の楽しみとして聴くことがそもそもできないようだ。この曲集で面白かったのは、途中から(あるいは第14番『無限柱』のように冒頭から)いきなり暴走し破局へ向かうような流れのものだ。今のところ最新の第15番『白の上の白』(1995)などは、それを殆ど(全部か?)白鍵のみで展開するため、その輪郭が更にくっきりして興味深い。

ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』(1996)

一部で非常に評価の高いハイポジだが、やっと聴けた。いやカッコいいぞ。ポップソング作りの指針となるべき音作り。

でも歌詞がなあ。先に歌詞カード見て、予想を上回るエッチさにひっくり返ったんだけど、聴いてみるとそういう側面よりも「どう?こういうふうに女から求められたいんでしょ」と言いたげな、男性性のプロトタイプの押し付けがしんどい。小谷野敦あたりがこれ聴いて「うるせえ、どうせそういう強くてたくましくて叩いても壊れないオトコが好きなんだよなあ、女は」とかキレながら、「一夫一婦制は素晴らしい」と制度的暴力に訴える様を思わず想像してしまう。

そう言えば、誰だったか「ハイポジのポップセンスの高さはもっと認知されてしかるべきだ」というようなことを言ってたけど、殊このアルバムに関して言えば、歌詞で引いた人がかなりいたはずだ。実質的オープニング(TRK 2)にいきなり「理想の♂」では、CD屋で試聴した人が面食らうでしょ、さすがに。そういうとこで損してもなあ。何かもったいない。

『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 2 』目玉は「草競馬」。

リゲティ『ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲/チェロ協奏曲』

真夜中に再聴。『ヴァイオリン協奏曲』と『ピアノ協奏曲』では共に、複数の調律、複数のリズムの併存による効果が試されているが、それが後者ではピアノという楽器の打楽器的特性と平均律音組織をある程度フィーチャーしたものとせざるを得ないという矛盾にぶつかっているように思える。結果として複数の調律は背後へ退き、ピアノの調律とポリリズム的側面(そしてこれを私はあまり評価していない)が勝った響き。では前者がそれに成功しているかというと、これも楽章、部分による。個人的な好みを言えば、ヴァイオリン協奏曲なるものにはもっと線的な強さを期待したいところなので、良くも悪くも周到に作られた散逸構造のようなこの曲に対しては、「よく書けている」以上の評価はしにくい、現時点では。これもまた演奏によって印象が大きく異なるに違いないので、いい奏者を揃えたライブがあれば行ってみたいが。

3/18 ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』

実はもりばやしみほの歌がめちゃウマである。特にアドリブの節回しが絶妙。所々矢野顕子を思わせなくもなし。だが楽曲と歌詞の傾向はまるで別もの。乾いた叙情、明るいかなしみ。実にいい。唐突だが、逆に楽曲と歌詞の意匠で矢野をなぞってなぞり切れなかった種ともこの(初期のものしか知らないが)中途半端さを思う。

インスタントシトロン『チェンジ・ディス・ワールド』

ではシトロンがインディーズ時分のようなエレポップに戻って、これらの曲をやったとしてハイポジのようになったろうか、と考えてみる。が多分ならないだろう。何故かと考えてみるに、シトロンは曲作りの時点できちっと作り込み過ぎていて、実際に鳴らす段になっての遊びがなさすぎる気がするのだ。ベーシックトラックはシンプルな構造にしておいて、歌やソロ回しで伸び伸びと遊びまくるハイポジとは対照的。

3/19 アラニス・モリセット『ジャグド・リトル・ピル』

ちょっとむしゃくしゃしたことがある時はこれかな。本人の手になる訳ではないが、バックトラックがツボを押さえていてしかも出すぎず、上出来。

ハイポジ『かなしいことなんかじゃない』

但し、息子の前では18禁(...)の曲を飛ばしてかける。困るのは、そーゆー歌詞が繰り返しになっていたりすることだ。「理想の男 でっかい男」とか「うすめて だして ふって だして」とか覚えて保育園で唄われたらかなわんもんなあ。



1999.3.12-14

3/12 リゲティ『ヴァイオリン協奏曲/ピアノ協奏曲/他』ガヴリーロフ(Vn)/エマール(Pf)/ブーレーズ/アンサンブル・アンテルコンタンポラン

以前聴いたのだが、さる方の指摘をきっかけに再聴中。も少し聴いてから書こう。とりあえず通勤途上で聴いたのだけど、それでは聴き落としが多そうだ。とはいえ、家でもなかなか静寂の時間というものがあまりないのが悩みの種。

ジョニ・ミッチェル『逃避行』

「ジャコ・パストリアスが全面参加」と以前書いたのは勘違いで、全9曲中4曲が正解。にもかかわらず、彼のベースの肌触りが与えるインパクトは抜きん出ており、アルバム全体の印象の形成にも大きく影響している。

3/13 ジプシー・キングス(1987)

アルバムとしてはやはり、メジャーデビュー前のほうが好きで、こっちはそれほどではない。インスト曲で、キーボードやベースを加えたアレンジが安直すぎてやや興をそぐ。にも関わらず聴くのは、「ジョビ・ジョバ」の演奏が素晴らしいからだ。

スティーヴィー・ワンダー『シークレット・ライフ』(1979)

映画「シークレット・ライフ・オブ・プランツ」(どんな内容かは知らないが、「植物・驚異の世界」みたいな話だろうか)のために書かれた2枚組の大作。なのだが、ライナーを読んだ限り、これがサントラであるかどうかははっきりしない。スティーヴィー自身の謝辞などを見ると、どうも映画とは別のものとして完成したようにも読めるし。

それはともかく、これは天下の怪作の一つではあろう。数種類のテーマが変形したり組み合わさったりしながら全体を作っていく、という作法自体はクラシック伝来なのだが、それを生のオケなしで、シンセとロックの楽器だけで織り成していくことによる響きの不思議さ。そして、テーマが変容すると言ってもそこにはジャズの即興演奏的なパラフレーズもかなりあって、ライト・モチーフ的な構成感とは違った肌合いの流れが展開されていく。もう一つ、驚くべきはこうしたパラフレーズに耐える楽曲の強靱さとでも言おうか。タイトル曲をはじめ「愛を贈れば」「カム・バック・アズ・ア・フラワー」など、スティーヴィー屈指の名曲がさまざまな相貌を帯びる様は圧巻。

実家に遊びに行く。既に買ってあるとは聞いていた、速水けんたろう・茂森あゆみ 他「だんご3兄弟」を早速かけてみる。やっぱ映像ないとだめでしょう、と思うのは大人だけか。息子は喜んで「だんご、だんご」と繰り返している。

しかしこの曲、ほんとうに曲だけとったら大したことない。キャッチーではあるけど、それはCM曲のキャッチーさそのもので。まさに同じ佐藤雅彦による「ポリンキー」と同じような。「だんご」の基本もこれと同じような、歌と言うにはちょっと単純すぎるような8小節から出来ているし、しかも最初にそれを3回も、単純に繰り返してしまう。画(え)がなければ退屈です、これは。それを「末永く愛唱される歌になる」と色んな人が言っているが、本当に歌というものが好きならちょっと言えないんでは。

なお本件、多分しばらくはへヴィローテーションだろうから、今後ここでは掲載略。

スコラーズ『ブリテン諸島の民謡』

実家の父が手当たり次第に買ってみている名曲CDの一つだが、これは大当たりに近い。カウンターテナーを含む男声3人のコーラスが音質的な均一感で丸みのある響きを醸し出し、それにソプラノのソロが絡んでいく。伝統的な唱法ではなくてクラシックの発声なのだが、アレンジに気を配っている(例えばご存知スコットランド民謡「蛍の光」では、バスとテナーがドとソの5度の持続音を延々鳴らす、など)ので、クラシック的に翻案してしまったという感じにはなっていない。

邦題は本当は『イギリス民謡集』だが、内容はスコットランドはおろかアイルランドまで含んでいる。邦題気を付けられたし。原題はきちんと"Songs of The British Isles" なのだから。

3/14 『Walt Disney Children's Favorite Songs Vol. 4』
スガシカオ『ファミリー』

ここのところ『クローバー』ばかりだったのは、これが貸し出し中だったから。「バクダン・ジュース」のような、神経が張りつめたような歌詞と音がたまらなく良い。



1999.3.8-11

3/8 インスタントシトロン『チェンジ・ディス・ワールド』(1995)

往時のArnoと私のコラボに通じるものがあると方々から指摘されたので、どんなものかと聴いてみる。そうかあ、そんなに似てるかなあ。長くなるので詳しくはこちらに書きましたが、フォーキーなスタンダード・ポップスを目指しつつも何かそれ以上でないのが歯がゆいような。良質なのだけど。

3/9 ジョニ・ミッチェル『逃避行』

ジャコ・パストリアスがほぼ全面参加の1976年作品。1973年に発表されて、ジャズ/フュージョンを大胆に取り入れたと言われた『コート・アンド・スパーク』あたりと比べると、ジャズ・ミュージシャンの起用の意味はまるで異なっていることが判る。ドラムスがビートを刻むのを極力抑え、ジャコのベースのうねりの上にパーカスとジョニのギターが繊細に刻まれていくこの流れは、ギター一本でやっていたころのジョニの音(「アージ・フォー・ゴーイング」とか「ビッグ・イエロー・タクシー」とか)に、可能性として埋まっていたものではないだろうか。それは「ジャズ/フュージョン化」などでは全くない、未知の音を紡ぎ出す営為そのものだ。それを「ジャズ/フュージョン化」のレッテル貼りで封じ込めた当時の音楽ジャーナリズムの責任は重いのではないか。思うに、ジャコをこういう風に使ったのは彼女が最初かも知れない。何故って、ウェザー・リポートのベスト盤をかつて聴いたとき、ジャコがこんなに美しく響いた例がなかったから。

3/10 ジョニ・ミッチェル『hits』

邦題はこちら(笑)。しかしまあ、ギター一本の曲って割と斜に構えて聴いてしまうことが多いのだけど(日本的フォークイデオロギーへの反感とでも言うか)、これには本当に参る。全面投降。

3/11 スガシカオ『クローバー』

ネットで椎名林檎のサンプルを幾つか聴いてみる。確かにこれは大化けするかもしれない。しかし、それ聴いて唸ってる自分、自分は何をしたいのか。何で文字をパチパチ打ってるの? いや、それはそれでやらないとと思うのだが。あまりに自分は無知、無策に過ぎる。

イービーティージー『Walking Wounded』



1999.3.1-7

3/1 ギドン・クレーメル(Vn)『アストル・ピアソラ〜エル・タンゴ』(1997)

クレーメルのピアソラ関連第2作。毀誉褒貶の激しい彼のピアソラ弾きだが、私は最初にCDも聴かずいきなりコンサート(1997.9)に行ったので、結構いい心証を持っている。このコンサートでの彼のカルテットは実によく踊れていて最高であった。それで、そのあと第1作『ピアソラへのオマージュ』を聴いたら、あまりの物足りなさに驚いた。ありふれたメロドラマとしてのタンゴ。それはピアソラが最も避けていたものではなかったか(そのメロディストとしての資質はそれとして)。そして、ヴァディム・サハロフのピアノがピンボケで頂けない。コンサートとはまるで別人である。で、余りに妙なので念のため第2作を買ったら、これは結構良くなっているのだ。いわゆる、弾き込んだ成果なのか、ダンスの快楽がずっと鋭角的な形で像を結び始めていた。そして、観に行ったコンサートはこの2作目の録音の後になる。つまり、一番いい出来のを最初に聴いてしまったらしいのだ。

その後、クレーメルは『ル・シネマ』なんて変なコンピレーションものを出したりして、個人的には彼のやることからすっかり関心が離れてしまった。ところが彼は、ピアソラ人気にあやかったと思われるのがいやなのか、今またピアソラのタンゴ・オペラ『ブエノスアイレスのマリア』に取り組んでいるらしい。世のブームが去っても取り組む心意気自体は評価したいところだが、何かもう食指が動かない。

ミルトン・ナシメント『ジェライス』(1976)

この一つ前の『ミナス』と対で「ミナス・ジェライス」、ミルトンの出身地の州の名になる。だが前作と比べると何か物足りない感じがしてしまう。それは、他人の作品のカヴァーが大半だということと無縁ではないように思える。ミルトン自身、またブラジルのポピュラー音楽(MPB)の志向性の一つである、パンアメリカニズム(USA的な意味ではなくて)からすれば、それは当然のアプローチなのだが、カエターノとジルのような挑発力とは反対に、妙な納まり具合を見せてしまうのはどうしてなんだろう。

オーネット・コールマン&パット・メセニー『ソングX』(1986)

メセニーは、オーネット・コールマンからの影響を公言し、また彼への讃辞を惜しまない。この妙な取り合わせに多分、回答を与えうるのがこの共演作なのだろう。だが、聴くとこれはもう、一面オーネット的快楽一色で、ここでのインタープレイがメセニー自身のグループでのインプロヴィゼーションにどう結びつくのか、というあたりは結局よく見えてこない。

オーネットを聴いていて面白いのは、即興演奏の掛け合いそのものが、テンポの良い会話のように思える瞬間だ。個人的には、それがフリーフォームが成功した瞬間という評価になる。もっとも、全ての会話がうまく行くとは限らないのと同様、これも全てのトラックが成功している訳ではない。それでも例えば、TRK4や7のようなスリリングな掛け合いが決まったとき、それと同じような快楽を生み出すことが、あるフォーム(スケールとかモードとか)に則りつつも可能なのだろうけれど、則らなくても同等に可能だということを、それは証明しているように思えるのだ。つまりそういう音楽上の約束事は単なる「枠」でしかなくて、それが音楽の快楽を決める訳ではない、と。

3/2 コーネリアス『ファンタズマ』(1997)

アカルイものは実はアブナイということを思い知らされる奇特なアルバム。「おまけ」で入っている「タイプ・レッスン」は何度聴いても吹き出さずにはいられない怪作。

ユニコーン『ケダモノの嵐』(1990)

この直後の2ヶ月で『おどる亀ヤプシ』『ハヴァナイスデー』を立て続けに出してたなんて、勢いあったんだなあこの頃のユニコーン。ただ、アイディア自体は後の2作のほうが練れていて、この『ケダモノの嵐』は寄せ集め短編集の趣き。だがその分、歌詞のひねりはこっちの方が一級品と言えそうだ。出社拒否症を描いた「いかんともしがたい男」とか、実は内心不安を抱えた「スターな男」とか。音的には奥田民生が傾倒していたというXTCの影響もかなり顕著。

3/3 ピチカート・ファイヴ『女性上位時代』(1991)

出た当時は興味が沸かず、後から遡って中古で購入した。かせきさいだぁと同様の内輪志向と、UFOに似たスノビズムが鼻について、アルバム自体は頂けない。これを発売当時、年間No.1に推してるレヴューをいくつも見掛けたが、信じられんぞ。そういうCDではあるが、「トゥイギー・トゥイギー〜トゥイギー対ジェームス・ボンド」とか「君になりたい」とか、珠玉の名曲があるので久々に聴いてみた。いやあ以前聴いてたとき以上に内輪ネタの見せびらかしが邪魔。こーゆーもんは自分的には本当に要らんのだな、とつくづく。

スガシカオ『クローバー』

雑踏の中で「黄金の月」が流れ出すと、涙腺緩む。いやそれだけではなくて、スガの本領のもう一つは「Sweet Baby」や「イジメテミタイ」のような粘り腰のファンキーなナンバーにあり、それもたまらなく良いのだが。

3/4 カーティス・メイフィールド『ニュー・ワールド・オーダー』

陽差しを浴びながら、エンディングの「オー・ソー・ビューティフル」が鳴り始めると、涙腺が緩む。やだなあもう、こればっか。もうトシってことか。あああ。

スガシカオ『クローバー』

出だしのアコースティック・ギターの掻き鳴らしを聴くたびにゾクっとしつつ、しかしギターという楽器は決して自分のものではないことを思う。鍵盤楽器につきものの、ある種の隔靴掻痒感、まあ鍵盤を弾く人はそれも含めて鍵盤が好きだったりはするのだが、それとは反対に発音体を直接、素手で鳴らす快感を、自分のものとしてではなく、憧れとして聴く奇妙さ。でもやはり憧れるのだけど。

パット・メセニー・グループ『カルテット』(1996)

モダンジャズのコンボもののソロ回しの面白さが今一つ解り切ってない自分としては、ジャズコンボが全てこうだったらなあと思ってしまう。沈思黙考と阿吽の呼吸が織り成す夜の音楽。あ、「夜の音楽」と呼ばれたのはバルトークだったっけか。そう言えば、キーボードのライル・メイズは相当バルトークに傾倒しているとも聞いたが。

3/5 ユニコーン『ケダモノの嵐』
ミルトン・ナシメント『Milagre dos Peixes』
(1973)

ナナ・ヴァスコンセロスの自然音模倣を交えたパーカッション・プレイの効果もあり、森林の奥深くへ誘われるような不思議な、目眩めくようなアルバム。ファルセットでのスキャットが多く、実は歌詞は少ない。アビーロード・スタジオでのリマスタリングも空しく音がつぶれまくっているが、それでもなおミルトンの重要な作品には違いない。こういう指向性が先の『ジェライス』でのように他人の作品と出会うとき、テクスチュアの差異から生じることが期待されるような効果は、むしろ相殺されてしまうのかも知れない。

3/6 ジプシーキングス『ジョビ・ジョバ』

1988年発売だが、前年発売のデビュー版『ジプシー・キングス』以前に発表されていた2作を1枚に収めたもの。実はそれ以降とはメンバーが異なる(レイエス家以外のメンバーがもう少しいた)ので、表記も"Gipsy Kings"でなく"Gipsykings"と一続きである。ここではキーボードやベース、ドラムスなどのサポートを入れず、ギターとパルマ(手拍子)だけのシンプルな演奏を聴かせていて、表題の『ジョビ・ジョバ』や『ウン・アモール』の旧ヴァージョンも楽しめる。一頃フラメンコにはまった身としては、この時期のジプキンが一番凛としててカッコイイように思えるのだった。そして例によって、『ジョビ・ジョバ』という語呂の良さを活用して息子の支持を取り付ける。へヴィローテーション化成功。万歳。

3/7  『たのしいどうよう ベスト50』 DISC 1 



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