99年7月−12月のバックナンバー

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1999年12月

 <Y2Kはバベルの塔となるか、24時間後の新年が見えない不安>
 1999年も今日1日を残すのみとなりました。
 「失われた90年代」という10年レンジで回顧するもよし、世紀とは1年ずれるけれども1900年代という100年レンジで思いをはせるもよし、あるいは1000年代という1000年レンジで見るもよしですが、あとわずか24時間以内に迫ってきた新しい年2000年の姿が、まったく見えてこないのは不気味です。
 デパートやスーパーでも備蓄買い占めの騒ぎは微塵も起こらず、銀行のATMの前にも人の姿はまばら。これは「嵐の前の静けさ」なのか、それとも2000年問題などというものは幻におわるということの前兆なのか、なんとも心もとない不安感に襲われます。
 まもなく訪れる元日の午前零時から、何が始まるのか、何も始まらないのか、それさえ分からないというのは、科学の世紀と言われた20世紀の最終年を前にして、なんとも皮肉で滑稽でさえあります。いわんやそれが、20世紀最大の発明とも言われるコンピューターそのものがもたらすものだとは、神に近づこうとし過ぎた人間への警鐘として、現代の「バベルの塔」になぞらえることが出来るでしょう。
 旧約聖書のバベルの塔の物語では、神のいる天まで届く塔を築こうとした人間の奢りが神の怒りを呼んで、神は人間の言語をメチャメチャに混乱させてしまい、塔の建設にあたっていた人々は言葉が通じなくなって大混乱に陥り、途中まで建設が進んでいた塔は崩壊してしまいます。コンピューターの2000年問題は、この言語の混乱に酷似しています。
 人類が24時間以内に襲われるY2Kを乗り越えることが出来たとしたら、人類は神の極みに大きく近づくことでしょう。しかしY2Kをきっかけとして、さまざまなシステム混乱やテロ、争いが激化して収集がつかなくなった時、途中まで築き上げた「塔」は無惨な崩壊を起こしていくでしょう。
 あと1日、神のみぞ知る人類の明日。(12月31日)

 <東西問わず伝わる「竜」の正体、人類に刻まれた太古の記憶>
 毎年、この時期になるとあちこちの動物園や観光名所では、「干支の引き継ぎ式」が行われ、新旧2つの動物が今年1年の反省と来年への抱負を交わす光景が見られます。
 97年暮れは牛からトラへ、98年はトラからウサギへ、という具合ですが、今年の暮れはウサギから竜へ、というところで困ってしまうのですね。「辰」すなわち竜は、十二支の動物の中で唯一、この世に実在しない想像上の動物だからです。
 そこでほとんどの動物園が、竜の代役としてタツノオトシゴを連れ出してきます。普段は「落とし子」だなどと、日の当たらない名前をつけておいて、この時ばかりは「あなた様こそ、竜一族の正統のお世継ぎでございますよ」とVIP扱いとなるわけです。大阪・通天閣で行われた今年の引き継ぎ式では、タツノオトシゴ様はなんとワイングラスに入れられて登場しました。
 ネコでさえ十二支に入れてもらえないのに、全くの空想の動物がなぜ入っているのでしょうか。この疑問を解くには、竜の正体は何なのかをじっくり考えてみる必要がありそうです。実在しないとはいえ、竜は東西を問わず広く語り継がれている存在で、水と深い関係にあって空中を天に登ること、火を吹くこと、頭にアンテナ状の角を持つこと、など際だった特徴があります。
 竜の原型となった動物については、ヘビやワニと見る説もありますが、僕はもっと竜のイメージに近い何かが人類史のはるか初期のころに存在したものと推察します。最も可能性があるのは、人間のDNAに深く刻み込まれた恐竜の記憶でしょう。しかし、アンテナのようなものがあって、火を吹いて天に昇るところは、ロケットのようでもあります。人類は太古にこのようなものと遭遇した記憶があるのでしょうか。
 竜は体内に炎が血となって流れているため、つねに大量の水で体を冷やさなければならない、と言う伝説もあります。これは戦慄すべきことに、原発そのものではありませんか??
 竜には、人類史の深い謎が秘められているに違いありません。(12月28日)

 <元日午前零時、ライフラインの確認が社会的パニックになる危険>
 2000年問題は、本題のコンピューター誤作動による災害とは別に、思いもよらない社会的・心理的な要因による副次的災害を発生させる恐れがあることが、いまごろになって心配され始めています。
  その1つは、元日午前零時すぎに、みんなが電話が通じているかどうかを一斉に確かめることによる、電話回線のパンクです。電気やガス、水道が止まれば、それでは電話はどうか、ということになるのは目に見えています。電気などが無事ならば、やはり電話も無事か、ということになるでしょう。
 「おめでとうコール」を兼ねて、だれかに電話して、「どう、そっちの状況は?」などと、Y2Kの影響の有無を尋ねるのは当然の成り行きです。電話をかけなくても、受話器を上げて発信音が聞こえるかどうかだけでも確かめておこうとするでしょう。NTT東日本は、この発信音の確認が一斉に行われただけで回線トラブルを引き起こす恐れがあるとして、発信音の確認も控えるよう呼びかけることになりました。しかし、この呼びかけにみんなが素直に従うとも思えません。
 電話が通じていなければ、元日からの生活はたちどころにお手上げとなり、早い話が、強盗に入られようが火事になろうが、110番も119番もかけられません。携帯電話はどうなのでしょうか。オフィスや家庭の電話とともに、ケータイについても通じていることを確認するのではないでしょうか。この場合、電源をオンにしてアンテナのマークが出ることを確認するのはどうなのでしょうか。回線の一斉使用によるパンクと、本物のY2Kによる障害との区別がつきにくいのも心配です。
 電話以外にも、いろいろな問題が出てきそうです。午前零時に、ガスが出るかどうかを確認する家は多いでしょう。さらに水道が出るかどうかも、蛇口をひねって見るでしょう。本当にこのまま出続けるのか、細くなって止まってしまうのではないかと、どの家庭でも何分間かガスや水道を出しっぱなしにしたら、やはりトラブルの引き金にならないでしょうか。
 高度にシステム化された情報化社会の一角が崩れることにより、パニックが雪崩現象のように広がっていくことの恐ろしさに、もっと注目すべきです。(12月25日)

 <サンタクロースの服はなぜ赤い? この色が持つ深い意味>
 これまで疑問に思ったこともないのですが、ふっと、サンタクロースの服ってどうして赤い色なんだろう、と不思議になりました。ポインセチアの赤に似合うから、なんてのはウソっぽいですね。サンタクロースの服が赤なのには、何かワケがありそうです。
 いろいろ調べていくと、まず驚くべきことには、サンタクロースの赤が世界中に普及するきっかけになったのは、1931年に作られたコカコーラ社のCMが大きな役目を果たしたという点です。いきなり夢のない話が出てきてびっくりです。しかし、そのCMの絵の作者が、それ以前に作られたサンタのイメージに影響を受けたことは容易に想像出来ます。
 一般的には、トーマス・ナストというドイツの画家がクレメント・ムーアのサンタ物語の詩に描いたイラストが、現在のサンタ像の原型とされています。そのドイツにはナストの以前から、クリスマスに赤いマントをはおってプレゼントを配る冬男の伝説がありました。これは太陽の運行を司る神の化身とも言われ、マントの赤は太陽の色を表すとされています。
 こうしてみていくと、サンタクロースの服の赤は、太陽の色、と思えてきます。12月25日は、ローマやゲルマンの人々の間で、冬至の後で太陽が蘇る日として、昔から信仰された日だったことを思うと、説得力がありますが、なにか単純すぎて物足りない気もします。
 そこで、サンタクロースのモデルとなったセント(聖)ニコラウスについてみてみましょう。ニコラウスは、貧しい3人の少女たちの部屋に、お嫁に行く時の持参金として、金貨の入った財布を夜中に投げ入れてやった、という伝説があります。
 ニコラウスはキリスト教の司祭で、古来から司祭服の色は赤でした。この赤は、自らの命や体をなげうってでも、信者達の幸せのために尽くすべき司教の覚悟、つまりは司祭が流す血の色を示すといわれています。
 サンタの服の赤は、遠くこの司祭服に由来し、覚悟の血の赤なのだと解釈することが出来ます。太陽の色でもあり、血の色でもある赤。その両方の流れが合流して作られてきたサンタの赤は、とても奥の深い赤なのですね。(12月22日)

 <99報道写真展−共有していた時間たちへの惜別とともに>
 新宿の小田急百貨店で開催されている「99報道写真展」を見てきました。毎年のことですが、この1年というのは、かくも激動の連続だったのかと改めて驚くとともに、僕達はそれらの出来事が今年起こったという事実すら忘れて生きている、という健忘ぶりに驚きます
 。次から次へと重大なことが発生しては大々的に報じられ、そのニュースが終わっていないのに早くも次の大事件が登場して、僕達は一つの出来事の意味や周辺についてじっくり吟味する暇もなく、ひたすら大見出しを追っているうちに、1年が終わっていきます。
 この写真展は、1年のさまざまな一瞬一瞬を鋭く切り取った数々のカラー写真によって、僕達が確かに共有していて、驚愕や衝撃、歓喜や激怒とともに迎えた時間たちを、魔法のように蘇らせてくれ、しばし懐かしさと惜別の念で釘付けにさせてくれます。
 初の脳死移植、トキの赤ちゃん誕生、ユーゴへの空爆、石原都知事誕生、全日空機長がハイジャック犯により刺殺、トルコと台湾の大地震、池袋と下関の通り魔、ダイエーの日本一。1年間は、過ぎてみれば矢のごとしですが、なんと密度が濃くて、なんと多くの出来事が発生するものなのでしょうか。
 現在起こっているさまざまな事どもも、容赦なく過去へとなだれ込んで行き、ほどなくすっかり過去そのものとして収まっていくのですね。いったん過去になってしまったものは、個々人の記憶の中では、すべて過去として等価値です。そして記憶においては、時系列はまったく無意味です。記憶の鮮明さや、自分にとって持つ意味の大きさは、時間的に古いか新しいかは全く問題ではありません。
 1年の中でさえこの状態ですから、どの年に何が起こったかということも、いずれは無意味になっていくでしょう。
 共有していた時間たちが過去になっていくのに、自分は過去になっていない。いや、過去になった自分もあるのだろうか。それなら今存在している自分は何者だ? 考えれば考えるほどに、いまの自分の存在が不思議でたまらなくなる年の瀬です。(12月19日)

 <Y2Kに向け、ついに懐かしの石油ストーブと灯油を購入した>
 あと16日に迫った2000年。食料や飲料水の備蓄は少しずつ買い揃えてきたのですが、最も難しいのは電気・ガスともに止まった場合の燃料エネルギーです。
 調理用熱源には、カセット式ガスコンロ2台とカセットボンベを20本ほど。照明は懐中電灯2本と、ろうそく。情報源は携帯ラジオと小型携帯テレビ。暖房用としては、大量にホカロンを買って、それでしのげると思っていたのですが…。ここ2、3日の寒さでホカロンでは心もとなくなり、さらに、2000年問題で石油ストーブの売れ行きが好調というテレビニュースなどを見るにつけ、迷いに迷ったあげく、ついに石油ストーブを購入しました。
 迷っていたのは、わざわざ買っても、何事も起きなければ無駄な買い物になってしまうという思いや、いまの密閉住宅ではたして換気の問題をクリア出来るのか、という心配があったためです。しかし、そんな迷いを吹き飛ばしたのが、昨日15日の読売夕刊の社会面トップに載った「2000年 古風な迎春」というY2K関連の記事で、サブ見出しには「石油ストーブ注文殺到」とあるではありませんか。
 本文を読めば「品薄の状態」「製造が注文に追いつかず、悲鳴を上げている」などと、オソロシイ文字が並んでいます。この記事によって、もはや一刻の猶予も出来ないと判断した僕は、近所の日用雑貨店に走りました。
 石油ストーブなんて、何十年ぶりだろう。1台9800円の大特価。「おばさん、ところで灯油って、いまどこで売ってるの」「ああ、昔はおコメ屋さんなんかで売ってたけど、今はガソリンスタンドで売ってるよ」「ええっ、ガソリンスタードまで行くの」「この大通りをガードまで行くとあるよ」。というわけで、ポリ容器を抱えてガソリンスタンドへ。
 昔は四角い缶ごと買ったと思うのですが、いまはリッター販売のみ。15リットルで700円ほどと意外と安いものです。この灯油を実際に使うことになるか、「備えあれば憂いなし」の保険として終わるか、その日は刻々と近づいてきます。(12月16日)

 <12月14日は四谷怪談の伊右衛門が殺された日でもあった>
 12月14日といえば、赤穂浪士の討ち入りの日であることはみんなが知っていますが、この日が東海道四谷怪談の民谷伊右衛門が死んだ日でもあるというのは、とても衝撃的です。
 四十七士が本懐をとげたこの日、仇討ちのメンバーにも入れてもらえず、悪の道を転がり続けて、ついに殺された伊右衛門の無惨。かたや300年たった今でも12月14日がやってくる度に、日本中から熱い思いで語られ続け、かたや命日さえもだれからも忘れ去られているとは。
 東海道四谷怪談の作者鶴屋南北は、「裏忠臣蔵」としての緻密な構成の中に、義士の仇討ちの日と伊右衛門の死を同じ12月14日に設定するという、極めて意味深い配慮をしたのです。
 四谷怪談が初演されたのは文政8年(1825年)、江戸中村座でした。この時の演目は、『仮名手本忠臣蔵』と『東海道四谷怪談』の2本立てで、しかも両方の芝居を細分割して交互に上演していき、2日間で両方の芝居が完結する演出でした。
 つまり、この2つのドラマは、最初から表と裏の関係にあり、同時進行していく物語だったのです。ですから12月14日の明暗も、違う年の同じ日ではなくて、全く同じ年の同じ日のことだった、と解釈するのが妥当でしょう。初演の流れでは、『四谷怪談』のラストで伊右衛門は、お岩の妹お袖の夫である佐藤与茂七により、妻と義姉の仇討ちとして雪の中を斬り殺され、ついで雪の降る中を『忠臣蔵』の討ち入りへとつながっていくのでした。
 四十七士のドラマは、映画やテレビドラマなどで何度見ても素晴らしいと思うのですが、僕は自分が赤穂の浪人だったら仇討ちに加わっていたか、と自問してみると、自分にはどうやっても出来なかったと確信します。僕はむしろ、伊右衛門の方に他人事とは思えない共感を覚え、自分の中に「内なる伊右衛門」が潜んでいることをジンジンと感じます。
 12月14日、義士たちの快挙に快哉を叫びながらも、伊右衛門の冥福をそっと祈らずにはおれない気持ちになるのです。(12月13日)

 <たばこ税の大幅引き上げこそ、年10万人の死者を減らす道>
 自民党の亀井静香政調会長が打ち出した、たばこ税の1本あたり2円の増税が波紋を呼んでいます。JTの水野社長は「増税すれば年間100億本から200億本の売上げ減となる」と緊急会見、たばこ族議員たちも「煙草栽培農家の死活問題だ」などとして亀井提案に猛反対しています。
 たばこの売上げが減少して、たばこ離れが進むなら、まことに結構なことじゃないですか。カメさんは、ただ単に税収を増やすために、たばこ税の増税を打ち出したのではありません。こうでもしなければ、先進国の中で最も高率となっている日本の喫煙率を下げることは出来ないことを、だれよりも承知しているのでしょう。
 日本の愛煙者のマナーの悪さも、世界で飛び抜けています。レストランなどでの我が物顔の喫煙、歩き煙草、ポイ捨て。煙を吸いたくない人がすぐ隣に存在していることすら気がつかない無神経。スモーカーたちは、たばこが原因で死亡する人が日本で1年間に9万7000人もいるということを知っているのでしょうか。これは交通事故の年間死者の10倍です。
 交通事故死は社会問題となっているのに、日本ではなぜ「たばこ死」がほとんど問題にならないのでしょうか。世界全体では年間400万人がたばこで死んでいます。21世紀の前半には4億5000万人が死ぬと予想されています。
 スモーカーがそれを承知で死に向かって突き進むのは自業自得です。しかし非喫煙者を巻き添えにするのは許されません。所構わず煙をまき散らすスモーカーは、未必の故意による殺人罪に問われても仕方ないでしょう。
 カメさん、どうか頑張って、たばこ税の増税を実施して下さい。その次のステップは、悪質スモーカーに対する刑事罰の適用です。殺人罪で起訴されて実刑を受けるスモーカーが続出すれば、喫煙率はかなり減るでしょう。
 21世紀は、吸いたくもない煙を吸わずにすむという、あたりまえのことが実現している世の中でありたいものです。(12月10日)

 <20××年発売のガイドブック「火星の歩き方」はこんな内容>
 NASAの火星探査機「マーズ・ポーラー・ランダー」からは、何の信号も送られてきません。通信装置の故障か、着陸自体が失敗したのか、と世界中の火星ファンが気をもんでいます。
 僕はこんな想像をめぐらせます。探査機はNASAの計画通りに予定地に着陸し、通信装置も正常でした。地球に信号を送ってこないのは、探査機の通信装置が止められたからです。こんなやり取りの末に…。
 「また地球から探査機が来たぞ」「これまでは荒地の映像を地球に送るだけだったので、見逃してきたが、今度はこの惑星の音声を採録するらしい」「ここの音を地球人に聞かれるのは、まずいな」「通信装置をオフにして、地球がどういう対応をとるか、様子を見よう」。
 火星には生命は存在しない、と決めてかかってきた僕たちの認識が、根本的に間違っていたのです。というようなことを想いながら、今日の朝日新聞の夕刊を見ると、1面下段の広告に「火星の歩き方は、20××年発売予定です。もうしばらくお待ち下さい」とあるではありませんか!?
 これはどこまでが僕の妄想で、どこからが現実なのか。虚実の境目を彷徨うような危うい感覚の中で、気を取り直して読んでみると、これは海外旅行ガッドブック「地球の歩き方」シリーズの絶妙のコピー文なのです。うーん、悔しいくらいに秀逸な広告。
 「火星の歩き方」って、どんな内容になるんでしょうね。火星に入る主なルートと見どころ、火星の気候と気温、火星滞在の注意事項、必要な携帯品と持ち込み禁止の物。予防注射と検疫について。火星人との交流の基本、簡単な火星語会話。火星人に喜ばれる地球のおみやげ。地球のクレジットカードが使えるお店の一覧。スペース・パスポートを紛失した場合の手続き。地球国連総領事館の場所。
 観光のハイライトは、火星が誇るマーズ天文台の巨大望遠鏡から遙かな地球を展望することで、3年先まで予約で満杯、と書かれています。(12月7日)

 <消えゆく「あだ名」に思い出す、ラリゴ先生のゴリラの物まね>
 このところ、希薄な人間関係を反映して、子ども社会からも大人社会からも、「あだ名」が姿を消しつつあるのだそうです。そう言われてみると、サイバー社会では自分のお気に入りのハンドルネームやニックネームは百花繚乱ですが、実社会で「あだ名」で呼び合う関係は確かに少なくなっています。
 「あだ名」というのは、ハンドルやペンネームと違って、その本人の特徴やクセを端的に言い表して、第三者が勝手につけたものがほとんどで、たいがい本人にとっては不本意なもの。しかしそれが定着してくると、いつのまにか本人もその気になってきて、あだ名で呼ばれて嬉しそうに返事をしたりします。
 今は、姓名を短縮しただけの「イナチュウ」とか「ナカショウ」とか「ナベツネ」などの呼び名を振るのが精一杯です。それでさえ抵抗があると見えて、「高橋チャン」「村上チャン」などと、大の男たちが名字にチャンづけで呼び合っています。
 昔は僕の周辺でも、ほれぼれするような素晴らしいあだ名がたくさんありました。
 「河童」「八戒」「ジャン・バル・ジャン」「鬼太郎」「雷魚」は、まさにそのものズバリの顔つきと雰囲気。「イデア」「珍才」もよくぞ付けたと手を叩きたくなります。
 「ラリゴ」というあだ名の英語の先生がいました。あだ名の由来は、反対から読んでズバリの風貌と雰囲気。ふざけている学生には容赦なく雷を落とすオッカナイ先生でした。そのラリゴ先生がとても機嫌が良かったある日の授業中、なんと自ら教壇でゴリラの物まねを始めたのです。手つきから歩く仕草、表情まで、あまりのそっくりぶりに、僕たちは爆笑するどころか凍り付きました。少しでも笑ったりしようものなら、「なぜ笑ったのか、理由を英語で説明せよ」と突っ込まれそうな気がしました。
 いま思うと、ラリゴ先生は自分に付けられたあだ名の由来を、誰よりもよく承知していたのですね。授業中にその物まねを披露した先生の心の内を思うと、なんだかジーンときます。ラリゴ先生は、いまご健在でしょうか。(12月4日)

 <2000年問題への一斉警戒が引き起こす巨大停電の恐怖>
 あと1カ月で、2000年元日。私達はその日、どのような新年を迎えているでしょうか。いま電力会社が最も警戒しているのは、実はコンピューターの誤作動による停電ではなく、社会全体が一斉に2000年問題への対応策を取ることによって起こる大停電です。Y2Kへの一斉対応が引き金となる大停電、社会的要因による大停電とでも言ったらいいのでしょうか。
 今年の大晦日から三が日にかけては、例年は年末年始も操業を続けていた多くの工場などが、2000年問題を警戒して電源を落とし、この間操業をストップすることを決めています。このため、元日の午前零時になったとたんに、日本社会全体の電力使用量は急激にダウンする見通しなのです。急激な電力使用量の低下は、かって一度も経験したことのないものです。
  これだけ技術革新が進んだ現代においても、電力は依然として蓄えておくことが出来ないエネルギーです。発電をこれまで通りに続けていると、行き場を失った電力によって変電所などさまざまな施設で大事故が起きる危険があるため、まず原発が自動的に緊急停止します。それでも供給オーバーなら、火力発電も自動停止する可能性があります。発電所の停止は、非常に広範囲な停電をもたらし、社会全体を機能マヒに陥れるでしょう。
 そこで電力会社では、原発から出力調整のしやすい火力発電に発電量をシフトさせる準備を急ピッチで進めています。それでも供給電力がオーバーする可能性があるため、発電停止の事態を避けるため、揚水発電の揚水モーターに電力を流す方針です。仮の電力需要を一時的に作り出して、後で揚水発電によって電力を回収しようというわけです。
 Y2Kへの社会全体の対応が、逆に思いがけない大混乱を引き起こす恐れを生むという事態にこそ、2000年問題の最も重要な本質があるような気がします。(12月1日)

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1999年11月

 <100円ショップよりも、50グラムショップがあったらいいのに>
 いま流行りの100円ショップが近所に開店したというので、行ってみました。雑貨や文房具、缶詰やビン詰め、お総菜から冷凍食品まで、すべて100円ポッキリなのですが、どういうわけか、お客は買い物かごを手に、あっちへウロウロ、こっちへキョロキョロ。早い話が、何か買っていきたいけれども、買いたいものが見つからないのです。
 「安いことは安いけど、こんなもの買ってもねえ」というため息が聞こえてきそうです。総じて、品揃えが総花的で焦点が定まらず、そのせいでかえって必要なものがありません。また置いてある商品も、売れ筋のものはほとんどなく、2番手、3番手のメーカーのものが大半です。100円ショップが定着していくためには、お客が欲しいものを惜しみなく、どんどん揃えていく経営努力が必要でしょう。
 僕は、100円ショップよりも、50グラムショップを作ったら面白いと思うのですが。ジャンルは食料品中心がいいでしょう。お米も味噌も野菜も肉も魚も、なんでも50グラムずつ売るのです。価格はデパートやスーパーで買うより、3−5割ほど安くします。パックにしておいてもいいし、袋や容器を持参した人には、目の前で切り分けて50グラムずつ売るようにします。50グラムの倍数でも構いませんが、基本単位は50グラムです。
 砂糖50グラム、豆腐50グラム、魚の切り身50グラム、お浸し50グラム。さらに50グラムのおにぎりや、50グラムのすき焼き、50グラムのステーキ、50グラムのお刺身なども評判となることでしょう。
 50グラムのてんぷらや50グラムの鰻蒲焼きなどもいいでしょう。昭和30年ころの個人商店の店先にだんだん似てきましたね。スーパーによって潰された微量単位での売買を、復活させる試みが出てきてもいいように思うのですが。(11月29日)

 <春奈ちゃん殺害で逮捕された主婦の顔写真はなぜ載らない?>
 東京・文京区の春奈ちゃん行方不明事件は、顔見知りの35歳の主婦を殺害容疑で逮捕というショッキングな結末となりましたが、なぜどの新聞にも逮捕された主婦の顔写真が掲載されていないのでしょうか?
  これまでこの種の事件で逮捕された容疑者は、未成年の場合を除いてはまず例外なく、顔写真が大きく掲載されて社会的なさらしものとなるのが通例です。写真に加えて、護送車に載せられるところや警察署に入るところの写真が載る場合もあります。今回は、山田みつ子という実名や夫が僧侶であること、家族構成や実家の場所、生い立ちまで克明に書かれているのに、顔写真だけは載っていません。
 警察が顔写真を公表しなくても、新聞社は近所の人たちや実家の周辺などから、顔写真を入手するのが普通です。今回は、顔写真が入手されているにもかかわらず、なんらかの判断で掲載を見送っていると見るべきでしょう。その判断とは何でしょうか。
 容疑者の幼い2人の子どものことを配慮したのでしょうか。でもこれまでは子どもの将来や家族の人権もなんのその、容疑者の顔写真はビシビシ掲載してきたではありませんか。容疑者が女性だからでしょうか。もしそうなら、とんでもない逆女性差別です。容疑者が、なんらかの精神病歴などがあって刑事責任が問えない可能性があるからでしょうか。もしそうなら、最初から実名は出せないはずです。
 朝日新聞読者広報室に電話で尋ねてみたところ、「まだ容疑が固まっていないので…」という不明確な回答でした。もしかして、山田みつ子容疑者は大新聞の幹部の血縁であるとか、マスコミに影響力の大きい政界の大物が背後にあるとか、そんなことさえ勘ぐりたくもなります。不掲載の本当の理由を知りたいと思います。(11月26日)
 追記:11月29日の毎日新聞朝刊が主婦の顔写真を掲載しています。またNHKなどテレビは先日以来、顔写真を放映しています。(11月29日)

 <長時間、見知らぬ人と一緒にエレベーターに閉じこめられたら…>
 昨日、自衛隊機の墜落事故に伴う送電線切断で、東京、埼玉の80万世帯が大停電する騒ぎとなり、港区、世田谷区、武蔵野市など15カ所でエレベーターに人が閉じこめられました。幸い今回は短時間で復旧しましたが、来るべきY2K本番では、エレベーターに閉じこめられてしまうと、そう簡単には復旧しない可能性もあります。
 あなたは、エレベーターに閉じこめられて外部への電話も通じないとしたら、どういう行動を取りますか。
 広範囲にライフラインが止まる事態のもとでは、呼べど叫べど何の反応もないことが考えられます。ボクだったらどうするかなあ。誰と一緒に閉じこめられるかによって、この密室での過ごし方が決まってくるでしょう。
 薄暗い非常用ランプの明かりの下、妙齢の美しい女性と2人きりだとしたら。しかも時間がどんどんたっても、救出される気配が全くないとしたら。お腹はすくし、トイレにも行きたい。寒さはつのる。女性はシクシクと泣き出す。ボクはその状況の下で、スケベ心を一切起こすことなく、セクハラ的痴漢的行為を断じて己に禁じつつ、紳士的に振る舞うことが可能だろうか。
 励まし慰める意味で、ちょっとくらい肩を抱き寄せてもいいのではないか。いや、女性の方も、この非常事態の中では、ボクにやさしく抱きしめられることを望んでいるのではないか。抱き合って暖め合うだけでなく、もうちょっと親しいことをしたらいけないだろうか。
 かくしてボクは、膨らむ妄想の中で完全に理性を失い、救出されることよりも、その女性と二人きりのハリウッド的アバンチュールの実行に全精力を傾けているのです。
 おいおい、若い女性と二人きりになるって、だれが決めたの? ホモで色情狂のオヤジと二人きりになるかも知れないし、ハジキを持ったその筋のおニイサンとか、潜伏中の殺人犯と二人きりになる可能性だってあるのだよ。
 今年大晦日の深夜零時前にエレベーターに乗る時は、お互いに一緒に乗る相手をよく確かめましょうね。(11月23日)

 <オルセー展で強い印象、20世紀の惨状を予告したドレの『謎』>
 東京・上野で開催されているオルセー展を観てきました。パリでオルセーを訪れた時は、画集などで観たことのある名画の質量に圧倒される思いでしたが、今回の展覧会では厳選された絵をじっくりと楽しむことが出来ました。
 ピュビス・ド・シャヴァンヌの『鳩』や『気球』も好きな作品ですが、最も強烈な印象を受けたのはギュスターブ・ドレの『謎』です。
 1871年に描かれたこの絵は、黒煙があちこちから天に昇る遠景の市街がまず目を引きます。手前には小高い丘に兵士や市民の死体が累々と横たわり、中央に人頭獣身のスフィンクスが座っています。その脇で翼を付けたシルエットの女性が涙を浮かべてスフィンクスに何かを尋ねています。
 この絵は普仏戦争の様子を描いたというのですが、いま僕達が観てまっさきに思い浮かぶのは、湾岸戦争やベオグラード空爆で生々しいあの光景であり、阪神大震災で炎上する神戸の姿です。それはさらにベトナム戦争における北爆から、東京大空襲やヒロシマ・ナガサキの惨状へと溯り、この絵に描かれているものが、戦争と破壊の世紀であった20世紀そのものであることに気がつくのです。
 それは、19世紀が予言した20世紀への不安と警告と言えるでしょう。翼をつけた女性が尋ねている問いに対し、スフィンクスからの答えはたぶん出ていないのでしょう。スフィンクスは、答えがないという答えしかないことの不条理さに、深い絶望と悲しみを自覚しているように思います。
 20世紀が終わろうとしているいま、僕達はやはりスフィンクスに同じ問いを発し続けるしかありません。スフィンクスが口を開くことがもしあるとすれば、こう言うでしょう。「答えは、あなたがたの中に」。
 ドレの絵のタイトルは『謎』。人間存在が謎。この世界の存在が謎。この宇宙が、謎を謎として自覚出来る存在を生みだしたこと自体が、最も不可思議な謎。(11月20日)

 <お湯をかけて2分の青春、インスタントラーメン記念館が開館>
 大阪・池田市に「インタントラーメン記念館」が21日、開館します。日清製粉の安藤百福会長が、自宅敷地の小さな小屋で、1958年に世界初のインスタントラーメン「チキンラーメン」を開発した発祥の地で、当時の研究小屋もそっくり再現されています。
 このチキンラーメンは20世紀の数ある発明の中でも、B級発明のトップといっていいでしょう。なにしろ、店で食べる中華そばが35円だったころに、1袋を同じ35円で発売して爆発的に普及していったのは、安さ以外の革命的な魅力があったからにほかなりません。それは、いつでもどこでも、「お湯をかけて2分」たてば袋の中のカチカチの麺が、まったく姿形を変えた新しい食べ物にヘンシンするという、驚くべき発想を実現した点です。
 小さな下宿の冷え冷えとした冬、石油ストーブで沸かしたお湯を丼のチキンラーメンにかけて、2分間、じっと待つ。冷めないように、襟巻きで丼の回りを囲っておく。その2分間はなんと長く、そして何と深い思索にひたることが出来た時間だったことでしょうか。バイトで月謝が入った日には、特別に1個10円の生卵(当時、卵は高かった)を入れるのが、贅沢なご馳走でした。
 時計をみながらやがて頃合いを見て、丼のフタ、といってもそのへんの皿なのですが、それを取ると、なんとも食欲をそそるいいにおい。半熟になった卵をチキンラーメンにからめて口にする時の至福。ああこれこそが青春の味であり、日本の高度成長の始まりを告げる味だったのです。
 夕暮れ時、表の通りをゆっくりと豆腐売りのラッパが聞こえ、ラジオではプロ野球の実況が、阪神の村山投手とデビューして間もない巨人の長嶋茂雄選手の対決を伝えていました。遠く過ぎ去った学生時代は、チキンラーメンのにおいとともに蘇ってきます。
 あの日、あの時、あの人、あんな行動、あんな闘い、あんな愛。チキンラーメンは、数々の追憶を暖かい状態で保存し続けるタイムマシンなのです。(11月17日)

 <エジプトを旅して思う、西暦2000年間は人類史の青二才>
 10日間ほど、エジプトを旅して来ました。クフ王のピラミッドなど4つのピラミッドの内部に入り、かつてテーベと呼ばれたルクソールの王家の谷や王妃の谷の墓に入り、カルナック神殿、ルクソール神殿、アブ・シンベル神殿の中で時の経つのを忘れて佇んでいると、現代の私たちの文明があまりにもせせこましく、スケールが小さくて薄っぺらなことに愕然とします。
 キリストが生まれる遙か以前に、王朝が2000年も続いたエジプト文明は、いまでこそ「古代文明」などと呼ばれていますが、精神的な深さにおいても技術的な水準の高さにおいても、時代の最先端をゆく極めて高度な文明だったのですね。「神々の指紋」のグラハム・ハンコックがいうように、ギザの三大ピラミッドやスフィンクスは、1万年以上昔に造られたのかも知れないという感じもします。
 現代の人類は、西暦2000年や21世紀を前にして、文明が発達したのはこの2000年間なのだという、思い上がりに似た錯覚に陥っていないでしょうか。この2000年より昔の時代を指す「紀元前」という言い方が、どこか未開で野蛮な石器時代のイメージで語られるのも、その錯覚の現れです。
 エジプトの高度な文明が5000年の歴史を持つにしても、あるいは本当に1万年以上の歴史を持つにしても、キリストの出現は極めて「最近」の出来事であり、西暦2000年の歴史はまだ「ひよこ」か「青二才」のようなものです。
 人類はこの2000年の間に、それ以前に栄華を極めたエジプト文明を超える文明を創り上げたと言えるのでしょうか。さまざまな動物や植物を神として大切に扱い、宇宙や自然環境との共存を図ってきたエジプト文明の方が、ずっと豊かではないでしょうか。
 こう考えていくと、たかだか100年の20世紀は、人類にとって何だったのか、謙虚に考え直す必要があるでしょう。理想を失い、目先の卑称な損得に振り回されて大量殺戮を繰り返している現代人は、悠久の人類史の流れにおいて、とんでもない過ちを犯しているのではないか。ナイルの流れを前に、そんなことを考えさせられた旅でした。(11月14日)

 <文化と文明はどう違う? インターネットは文化か文明か>
 今日11月3日は、晴れの特異日とされる「文化の日」ですが、今日の関東地方はいまひとつすっきりせず、さすがの特異日も息切れというところでしょうか。
 ところで、文化と文明はどう違うのか、と尋ねられて、すぐにきちんと答えることが出来ますか? 僕はいつも分からなくなって、辞書を引いたりするのですが、分かったような分からないような。広辞苑によれば、文化と文明は同義語として使われることもあるが、精神的所産としての狭義の文化に対して、人間の技術的・物質的所産として文明を指すこともある。文化の根源性・統一性に対して、文明の皮相性・無性格性を対置する場合もある、などと説明されています。
 なるほど。だから今日は、「文明の日」ではなく「文化の日」なんですねえ。
 でもどうなんでしょうか。文化包丁や文化鍋、鯖の文化干しは、技術的・物質的所産のよう気がするけれど、あれは精神的所産なんですかねえ。文化包丁の根源性とはなんぞや、鯖の文化干しの統一性とはなんぞや。包丁や鍋、鯖を前にして、深く考え続けるその行為にこそ文化ありき、なのです。
 日本文化とは言うけど、日本文明という言い方はしない。文明とは、文明開化に見られるがごとく、外から入り込んだ異質なもの、という意識があるのでしょうか。
 それなら、日本の風土の中で形作られてきたものは、やはり文化なのでしょう。文化住宅、文化風呂、文化せんべい、文化カクテル、文化デート、文化占い、文化盆踊り、文化ステテコ、このあたりになると、本当にあるのかどうか怪しくなってきます。
 それにしても、日本でいう文化とは、何だかスケールが小さく、所帯じみているというか、しみったれているというか。ちょっぴり悲しく、悲哀を感じます。逆に、古代文明とは言うけど古代文化とは言いませんね。時代のスケールを超えて残るものが文明なのかも知れません。
 インターネットは文化でしょうか、文明でしょうか。ディスプレイを見つめながら、考えてしまいます。(11月3日)

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1999年10月

 <過ぎ去った時間たちは、どこかに存在しているのだろうか>
 子どもの頃から不思議でしょうがなかったことの中で、最も不思議で、今なお何も分からないのは、「時間」とはいったい何か、です。
 時間ははたして未来から現在を経由して過去に流れているのだろうか。時間が流れているというのは、人間の意識の中で作られた概念で、実際には時間は存在しないのかも知れない。しかし現実には、僕達の行動も僕達を取り巻く世界も、すべてが時間とともに動き変化しているように思えるのは、なぜか。
 存在するのは、空間と物質とエネルギー、およびそれらの運動であって、その運動による複雑で難解な軌跡こそが、時間が存在するかのような錯覚を僕達に起こさせているのではないか。
 現在、脳科学や意識の研究の分野では、「時間」意識について、かなりの解明が進んでいます。時間の概念は、人間の意識の中でさまざまに増幅され彩られて、とらえどころがないような感じですが、時間意識もまた、何らかの外界の実在が反映したものと見るべきでしょう。だとするならば、人間の意識とは独立して存在しているはずの「時間」そのものについての科学的研究が、もっと進んでもいいように思います。
  時間の正体は何か。時間を構成している最小単位は何か。時間を加工したり、切断したり混ぜたり、前後を入れ替えたり、凍結したりすることは可能か。時間を蓄積することが出来たり、空間の一部を時間に変換することが出来たりしたら、この世界には革命的な変化が起きるでしょう。
 過ぎ去った時間たちが、ごっそりとまとまって存在している「場所」が解明・発見されたら、たとえ過去のことがらに変更を加えることが一切出来なくても、人間社会に大変な衝撃を呼び起こすでしょう。
 21世紀には、ぜひとも「時間研究」が飛躍的に発展することを期待したいものです。(10月31日)

 <新聞記事は情報エネルギー、新聞紙は燃料エネルギー>
 うろ覚えで恐縮ですが、野営などで生米からご飯を焚かなくてはならない時、新聞の朝刊が1部あれば、それを効率的に燃やして4人分のご飯が炊ける、というようなことを何かで読んだことがあります。確かに、いまの全国紙の朝刊は、36ページから40ページもあって、1枚ずつ切って燃やしていけば、結構な熱エネルギーが発生するだろう、という気はします。
 そんなことを考えると、毎日発達されてくる新聞を、古紙としてゴミ収集に出す時に、リサイクルもいいけれど、これをダイレクトに燃料として使えないものだろうか、と思ったりします。新聞用紙にはそもそも再生紙が含まれていますが、リサイクルの循環にも限度があるため、リサイクル困難になった古紙は、最後には焼却処理されてしまいます。
 もったいない、と思っていた矢先、今朝の朝日新聞の「論壇」に、大国昌彦王子製紙社長が「古紙を燃料としても生かそう」という記事を寄稿していました。再生紙を製造するためのエネルギーは、化石燃料を使うのではなく、古紙を燃料としても使おう、というのです。リサイクルの過程で、古紙を燃料としても利用する方法は、来年度からは法的にも認められるとのことです。
 僕はもっと簡便に、新聞紙を各家庭で直接燃やして熱エネルギーとして、調理や湯沸かし、冷暖房などに使えたらいいのに、と思います。そうした簡単な新聞紙熱発生器のようなものを新聞社が工夫して開発し、購読世帯に配ったらいかがでしょうか。
 新聞のコンテンツは情報エネルギーとして、新聞紙そのものは燃料エネルギーとして活用していく。これが実現すれば、いかに電子メディアが普及しても紙の新聞は支持され続け、宅配もまたエネルギー対策として支持されていくことでしょう。(10月28日)

 <31日のハロウィンには、仮装して都心にでかけてみよう>
 今月31日はハロウィン。キリスト教の祝日「万聖節」の前夜祭で、日本人にはほとんどなじみがなかったこの日も、近年はカボチャをくりぬいたお化けのイメージで知られるようになってきました。
 ここ数年は、JR山手線のあちこちの駅から、お面をかぶるなどの仮装した外国人らしい人々が乗り込み、車内で酒を飲んだり蛍光灯を消すなどして大騒ぎするようになり、逮捕者まで出るようになりました。JR東日本では、「扮装しているだけでは乗車を断るわけにいかない」としながらも、今年のハロウィンを警戒しているとのこと。
 西洋では昔から仮面舞踏会などが催されて、お面をつけて公の場に臨むことはそれほど奇異なことではなかったのに対し、日本では一般人が仮装する習慣は少なく、能楽やお神楽、なまはげなど、特殊な役割の人たちが行うものでした。
 僕は、ハロウィンの意義はともかくとして、仮装して公の場に出るという行為には、世紀末的な神秘主義に通じる怪しい魅力を感じます。電車の蛍光灯を壊すなどはもってのほかですが、この日くらいはお面をつけて仮装し、都心へ行ってみたい誘惑にかられます。お面をつけてしまえば、ヘンシンなどという語を持ち出すまでもなく、僕は僕でなくなり、社会的にはもはや何者でもない怪人となるのです。
 仮装してどれくらいの行動が可能か、試してみるのも面白いでしょう。例えば天狗やお岩さんなどのお面と装束で、デパートに入っていったら、阻止されるでしょうか。日曜なので役所が閉まっているのが惜しまれますが、都庁や中央官庁などに行ってみたい気もします。首相官邸のまわりを歩いたら捕まるでしょうか。
 政官財の無責任さと破廉恥への抗議を込めて、天狗踊りやお岩の舞いなどを演じたら、スカッとするように思うのですが。(10月25日)

 <人間の遺伝子を解読して特許を競い合うのは、何かヘンだぞ>
 約10万個あるとされる人間の遺伝子(DNA)を、世界のベンチャー企業たちが競い合って解析し、他よりも先に解読出来た遺伝子を次々に特許申請していくというのは、考えてみると何かヘンだと思いませんか。
 つい先日、日本の官民共同設立企業のヘリックス研究所が、約6000個の遺伝子を特許申請したのに対抗して、こんどはアメリカのベンチャー企業セレラ・ジェノミックス社が、自分のところで解読出来た新たな遺伝子6500個を特許申請しました。特許が認められれば、他の企業や研究機関などが、その遺伝子情報を元に新しい治療薬などを開発しようとしてもストップがかけられ、膨大な特許使用料を払わなければならなくなります。
 しかし、遺伝子というのは、解読できたからといって特許の対象になるものなのでしょうか。早い話が、僕の身体の中に存在する遺伝子のいくつかが、どこかのベンチャー企業の特許になっていると言われても、「オレの遺伝子のどこがアンタの特許なんだ」と言いたくなります。
 僕の遺伝子は、両親から引き継がれたもの、そして両親の遺伝子はそのまた両親から引き継がれ…つまり人間の遺伝子は、そして人間以外の全ての動植物の遺伝子もまた、地球に生命が誕生して以来40億年の時間をかけて、気の遠くなるようなさまざまな試行錯誤によって作られてきたものです。
 遺伝子の解読は、他のさまざまな分野の科学の発見と同様に、全人類の共有財産として、すべての研究者や企業、公共機関らに公開されるべきものではないでしょうか。
  自分が作ったわけでもない遺伝子について、解読出来たからといって特許申請するというのは、企業や研究者の奢りであり、思い上がりも甚だしいという気がしてなりません。(10月22日)

 <日本列島で一番早い初日の出は、根室や銚子でなく意外にも>
 日本列島で最も早く2000年や21世紀最初の初日の出が見られる地点として、北海道根室市の納沙布岬がPRを始めたところ、千葉県銚子市の犬吠埼が「うちの方が2分早い」とクレームをつけ、根室は「最も早い初日の出が見られる地点の一つ」とトーンダウン。代わって銚子の方は、意気揚々と「日本列島で最も早い」をPRしているのですが…。
 意外や意外というか、やっぱり、というか、列島で最も早い初日の出は、実は根室でも銚子でもないのです。海上保安庁が発表した2000年の初日の出の予想時刻によると、日本列島で最も早い初日の出が見られる場所は、なんと富士山山頂で午前6時44分22秒ころなのです。
 これに対して、「最も早い」を売り物に観光宣伝に力を入れている銚子は、6時45分45秒ころと1分23秒遅れで2番目。「富士山は高いから早いのはあたりまえで、これを最も早いというのはアンフェアだ」という銚子の嘆きが聞こえてきそうです。
 これは2000年の初日の出についての時刻ですが、2000年でも2001年でも早さの順番は同じはずですので(年によって順番が変わったらコワイ)、21世紀最初の初日の出を日本列島で最も早く見ることが出来るのは、やはり富士山山頂ということになります。
 ちなみに列島以外の日本で最も早い初日の出は、太平洋沖の南鳥島で5時27分ころ。しかし住民がいない無人島のため、気象観測などで駐在している気象庁や海上保安庁職員だけが拝むことが出来るということ。住民のいる島で最も早いのは、小笠原諸島の母島で6時16分42秒ころです。詳しくは、海上保安庁水路部のホームページでどうぞ。
 テレビ局はそれぞれ生中継をどこでやるのでしょうか。もっとも、来年の初日の出は、2000年問題でテレビ中継どころではない可能性もあり、まず自分の家の電気が使えるかどうかが気になります。(10月19日)

 <21世紀に望みをつなぐ「国境なき医師団」へのノーペル平和賞>
 今年のノーベル平和賞が「国境なき医師団」に贈られるというニュースは、世界の行く末に悲観的な出来事が相次いでいる中で、地球の未来も捨てたものではないと、希望と勇気を与えてくれます。今回のノーベル賞の意義は、この受賞組織の名称にすべて表されています。
 まず1つ目は「国境なき」ということ。これは今、世界が直面している最も困難かつ不可避の問題を、如実に示しています。21世紀の地球のキーワードは、数千年もの間人間たちを縛り付けてきた「国境」を名実ともに撤廃することです。「自分たちの国」「国家的名誉」「国の威信」を優先させるのではなく、種としての人類の地球的広がりにおける共生と共存を優先させる。その中で、人種と宗教の対立をどう乗り越えていくことが出来るか。この点に、地球と人類の未来がかかっています。
 2つ目は「医師」ということです。これにはもちろん看護婦も含まれます。地上の人々が戦争や天災で大きな被害を受けた時、何よりも緊急に必要なことは、被災者たちの命をどこまで救うことが出来るかです。政治家や軍、マスコミではなく、そこに求められているのは「医療」です。このことは裏を返せば、戦争という理由で他国の国民を大量に傷つけたり殺したりすることを、人類はもうそろそろ止めて、戦争そのものを不可能にする国際的に有効な手だてを考える必要があるということです。
 3つ目は医師団の「団」であるということです。特定の個人の力で、世界を変え得る時代ではない。多くの人々が力を合わせて、巨大な宇宙船を少しずつ動かし、方向を変えていくしかない時代。
 このように考えると、「国境なき医師団」へのノーベル平和賞は、21世紀に私たちが進むべき方向を、分かりやすく指し示した「先触れ」として多くのことを読み取ることが出来ます。(10月16日)

 <JCOとJOCを見出しで間違えて訂正とは、意味深の傑作ミス>
 他人のミスを面白がっちゃいけません。人間だれにも間違いはあるもの。それは分かっているんですが、これは近年にない傑作ミスで、何度読んでも笑えるんです。ククク……。
 今朝の毎日新聞社会面トップの見出しに、なんと「JOC臨界事故 違法認識あった 以前からの手順を文書化」と大きな活字が踊っています。JOCって、日本オリンピック委員会のほかにはありませんよね。さては長野に続いて、2008年五輪の大阪誘致をめぐっても、またもやギワクを持たれるようなことをやったのか、あるいはシドリー五輪の出場ワクを巡って何かコソクなことをやらかしたか。
 それにしても、スポーツ組織でも臨界という言葉があるとは知らなかったぞ。スポーツ界に君臨するという意味で「臨界」なのか。などと思いながら記事をよく読んでみると、あれれ、見出しにJOCとあるのに、記事中はJCOとなっていて、事故を起こした東海村の核燃料再処理工場のことなのですね。
 うーん、JOCとJCOは、そっくりさん大賞ものだぞ。JCOの人たちも驚いたでしょうが、JOCの幹部や職員たちはさらにキモをつぶしたことでしょう。「どこから漏れたのか」と愕然として大声を上げた幹部はいなかったでしょうね。ウラン溶液は漏れたのではなく、バケツから沈殿槽に入れられて臨界事故を起こしたのですよ。なんだかこちらまで混乱してきますね。
 早速、今日の毎日新聞夕刊に「おわび」が載りました。「JOCはJCOの誤りでした。おわびして訂正します」ですって。JOCの皆さん、これで安心してはいけませぬぞ。今回のミスは、実はフカーイ意味を込めて毎日新聞がJOCに発した警告信号なのかも知れません。
 「JOC 違法認識あった」という本物の見出しが載ることのないように、くれぐれも自戒とご用心を。(10月13日)

 <山陽新幹線が脱線・転覆し、1000人を超す死者が出る日>
 かつて、どの新聞社も必ず作成しておいた大事件の予定稿に、昭和天皇の死去と、新幹線の脱線転覆事故がありました。このうち、昭和天皇の死去は現実のものとなりましたが、新幹線大事故については、いまどのような予定稿が準備されているのでしょうか。
 山陽新幹線のトンネルからまたもやコンクリート塊が落下した出来事は、これまで「幻の予定稿」だった日本での新幹線脱線転覆事故が、いつ活字となって紙面に載っても不思議ではないという、重大な状況を意味しています。JR西日本は、運行を全面ストップして総点検をするつもりはない、と強気ですが、もはや休業による損失とか採算性とかをはるかに超えた問題であるはずです。マスコミも一連のコンクリート落下問題をどのようにとらえているのか、おぼつかない感じがします。
 今朝の朝日新聞の「天声人語」は「電車がさしかかっていたら、車内に飛び込み乗客を直撃しただろう」などとのんびり書いていますが、利用者がみな漠然と予想しているのは、そんな甘っちょろい事態ではありません。天声人語子はなぜ、はっきりと書かないのでしょうか。
 線路に落下したコンクリート塊に、時速250キロで突進してきた満席の16両編成新幹線が乗り上げたら…。死者の数は日航ジャンボ機墜落事故の2倍、1000人を超して世界の鉄道史上最悪の惨事となるでしょう。
 このところ、ドイツ、インド、イギリスで大きな鉄道事故が続いています。事故が起きた時の、当事者たちのコメントが目に浮かぶようです。「あってはならない事故で、このような事態はわれわれの想定外だった」「構造上の問題ではなく、人為的ミスの可能性が高い」云々。
 こうしたお定まりのコメントも、予定稿がそのまま使えそうです。(10月10日)

 <2000円札発行は、金融・財政の巨大疑惑への目くらまし>
 なぜいま、2000円札発行なのでしょうか。西暦2000年にかけたシャレなのでしょうか。あるいは、本当に使い勝手の良さを考えての発行なのでしょうか。
 僕は、その程度のことで、政府が新しい紙幣を発行するとは思えません。2000円札発行は、なぜいまのこの時期に、唐突に発表されたのか。なぜ、図柄に沖縄の首里の門や源氏物語を選んだのか。僕は、国民が2000円札に目を向けてしまうことで、いま最も真剣に追求されなければならない3つの巨大疑惑を覆い隠してしまうことこそ、真の狙いだと読みました。
 巨大疑惑の第一は、破綻した長銀をリップルウッドグループに譲渡するために必要な、4兆5000億円という信じられない額の公的資金の投入です。この額を算用数字で表すと、4,500,000,000,000円になります。40億円でも論外だと思うのですが、4兆という数字は一つの私企業を生かすための血税としては、許される額ではありません。この公的資金は、いつのまにかズルズルと額が膨れ上がったこともあって、野党もマスコミもさっぱり問題にしていません。
 疑惑の第二は、地域振興券についての総括がまったくなされていないことです。自自公政権は、費用対効果の収支決算を国民の前に明らかにすべきです。
 そして第三は、今年度末で総額327兆円を超えるとされる破滅的な国債残高の問題です。利払いだけで年11兆円になり、もはや国の財政は完全な倒産状態なのです。このツケを、だれがどうやって払い、だれが責任を取るつもりなのでしょうか。
 2000円札発行は、こうしたひっ迫した危機を覆い隠し、日本を衰弱から滅亡に追い込む危険をはらんでいることを、僕達は見据える必要があります。(10月7日)

 <遺伝子組み替えより、「非組み変え」が付加価値となる時代>
 コンビニの棚に並ぶ納豆を手に取ったら、パッケージに「遺伝子組み替え大豆は使用しておりません」とプリントしてありました。ほかのメーカーの納豆も、同じような表示が書かれています。
 遺伝子組み替え食品については、2001年4月からその旨を表示することが義務付けられますが、「非組み替え」の表示はそれに先手を打って、「非組み替え」の安全性を広く浸透させ、商品の付加価値として消費者に認知してもらおう、という狙いでしょう。
 とりわけ大豆系の食品は、納豆、豆腐、醤油、味噌、油揚げ、厚揚げと、日本人の日常の食卓から切っても切れない食材だけに、ここで先行出来るかどうかは、メーカーの死活問題になります。この動きはハナマルキの味噌や、豆乳、トウモロコシ関係へと広がっていて、ビールメーカーや日本ベビーフード協議会でも全面的に「非組み替え」にする方針を打ち出しています。
 そんなに「非組み替え」の方が消費者に好まれるなら、いったい何のために「組み替え」作物を作り出したのか、と首をかしげたくなります。病害に強い、収量が多い、などのメリットがいくら強調されても、それを口にするかどうかは、消費者が決めることです。日本人だけが神経質というわけではなく、ヨーロッパでも「組み替え」に対する不安感は強いようです。
 結局、「組み替え」を力ずくで広めようとしているのは、アメリカなのですね。このままいくと、「組み替え」の表示をした食品は、たとえ価格が安くても、市場で市民権を得るのは難しいでしょう。そのうち、クローンについても「非クローン」を表示した牛肉や豚肉、畜産品の方が人気を呼ぶようになるのは必至でしょう。
 食品の選択は、大国の論理や行政・技術者の押しつけではなく、消費者の自主的な選択にまかせてもらいたいと思います。(10月4日)

 <核兵器でも原発でもないのに、いとも簡単に臨界が起きる衝撃>
 東海村の民間ウラン加工施設で、起こるはずのない「臨界」が起こってしまい、大量の放射線が発生して49人が被爆した事故は、さまざまな意味で衝撃的です。
 僕が最も愕然としたのは、核兵器や原子炉の中でしか起きないと思っていた「臨界」がこんなにも簡単に、まるで枯れ草が自然発火するかのように、人間の意志とは無関係に起きてしまうという驚きです。ウランやプルトニウムは一定量以上が集まると、それだけで臨界を起こしてしまい、核分裂の連鎖反応によって、核兵器が実際に使用されたのと原理的に同じ状態が出現する、というのです。
 このように重大な原理は、国民の前にどれほど説明されてきたのでしょうか。原子力行政に携わる人たちや技術者たちは、住民への不安をいたずらにかき立てるとして、こうした説明を一切避けてきたように思われます。
 今回の事故についても、政府や電力業界などでは、「本来はあり得ない極めて初歩的なミス」として、原子力が本来内包している危険ではないことを強調しようとしています。
 しかし問題は、そのような初歩的なミスによって、ヒロシマ、ナガサキ、第五福竜丸以来の重大な被爆事故が、やすやすと起きてしまうことの重大さです。人間というのは、初歩的なミスを犯す存在であり、あり得ないはずのミスを犯してしまうものだということを前提に、すべての事故防止策は構築される必要があります。
 さらに、今回は人間の意図に反して起きた臨界でしたが、逆に言えば、意図を持った人間がやる気になれば、たいした精密装置などなくても簡単に臨界を作り出せるということです。テロリストグループやカルト教団が、都会の密集地などで臨界を発生させて大混乱を起こそうとすれば、たやすいことかも知れません。
 身近に出現し得る「原爆」からどう防御するか、社会全体が真剣に考える必要があるでしょう。(10月1日)

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1999年9月

 <男が混じったチアリーダーとは、ラインダンスに男がいるような>
 だいぶ以前、新体操に男性の種目があることを知って驚きました。新体操という競技には、女っぽさ、あるいは色っぽさが、不可分ではないのか、と思っていました。優美さとかエレガンスという言葉に置き換えてもいいのですが、女の美しさ、女の身体の美しさ、女の身のこなしと躍動の美しさ、といった要素が、新体操の魅力ではないのでしょうか。こんなことを思い出したのは、最近、チアリーダーに男性が進出しているという記事を読んだことにあります。アメリカではすでに男女の混成チームが主流で、日本でもしだいに混成チームが増えてきている、といいます。でも、チアリーダーって、僕のイメージでは、ラグビーやアメフトのように、女性が参加出来ない激しいスポーツに、華やかな応援という形で女が参加するいわば分業のようなものだと思うのですが。チアガールたちは短いスカートで足を上げて飛び跳ね、女たちの肢体のすべてを動員して、味方チームの勝利を呼び込もうという、これまた一種のスポーツなのです。このチアリーダーに男が加わるというのは、保母さんの世界に男が参入するのとはワケが違います。つまりは、タカラヅカのラインダンスに男がレオタードで加わるよ うな、そんなバツの悪さと居心地の悪さを感じます。もっといえば、女だけで頑張る魅力が半減してしまい、チアボーイ(って呼ぶんでしょうか)がいることで、試合をする選手たちも落ち着かないのではないでしょうか。えっ、こういう見方は男女の役割分担の固定化につながり、女性に対する偏見だ、ですって? でも、なにもかも機械的に男女平等を言うのは、どうかと思うなあ。シンクロナイズドスインミングだって、女だけの競技でしょう。男が水面に毛むくじゃらの両足を出して左右に開いても、ゼッタイに見る気になれないのは、僕だけでしょうか。(9月28日)

 <誰からも見捨てられた昨日の「中秋の名月」、でも満月は今夜>
 昨日は「中秋の名月」だったのですが、夜のテレビニュースでも今朝の新聞でも、一言も触れられないという、史上まれにみる気の毒な「中秋の名月」となってしまいました。台風18号が日本列島を走り抜け、雲の切れ間が出来る地域がほとんどなかったことに加え、熊本では高潮で12人が命を奪われ、豊橋では巨大竜巻が発生して多くのけが人が出るなど、お月見どころではなかった、ということなのでしょう。今年のお月見は「荒天中止」のまま、来年までお預けなのでしょうか。でもよくよく見てみると、確かに「中秋の名月」は9月24日なのですが、満月は今日9月25日で、それも正確には午後7時51分になっています。これってヘンじゃないですか。「中秋の名月」というのは、満月の日だとばかり思っていましたが、陰暦8月15日の夜の月を言うのですね。暦を基準にして決めているから、実際の月の満ち欠けとズレが生じていって、今年のように完全に満月と1日かけ離れてしまった、というわけです。だから、今夜の月こそが、本当の中秋の名月なのだと解釈して、晴れ渡った東の空から昇る名月を存分に堪能しても一向に構わないのです。今日は残暑が厳し過ぎて、いまひとつ お月見に趣向が乗らないという人は、来月まで待ちましょう。来月は21日が陰暦9月13日で十三夜です。十三夜とはまたなんと美しい響き。秋が深まる中を、満月になる少し前の楕円形の月をわざわざ鑑賞するという、極めて日本的な趣なのですね。この十三夜は、豆名月とも栗名月とも、小麦の名月などとも呼ばれます。地方によっては女の名月と呼んで女性を中心にお祭りをする風習もあったようです。春に桜の開花と散り時で心乱れた僕たちは、秋には月の見ごろをめぐって、またまた心が千々に乱れるのです。(9月25日)

 <5300年前にミイラとなり、裸を世にさらし続けるジンジャネラ>
 おや、またお会いしましたね。この前はロンドンで。そしていま東京で。あなたはこの前もいまも、身をかがめてうずくまる同じ格好。さぞやお美しかっただろうと想像されるあなたは、女としての羞恥心さえ剥奪され、一糸まとわぬ素っ裸で、来る日も来る日も、衆人の好奇のまなざしに耐え続けているのですね。あたかも、それがあなたの任務であるかのように。そして、あなたが発する無言のメッセージを人々が解読してくれる時を、ひたすら待ち続けるがごとく。ジンジャネラさん、あなたの本名は誰も知らないのに、みんなが勝手にジンジャネラという名前を付けてしまいました。髪の毛がショウガ色をしているという、単純な理由からです。あなたが横たわるガラスケースには、B.C.3300年ころの自然ミイラと説明書きがあります。あなたにとっては、思いもよらない災難でしたね。まだ若々しい肉体のまま命を落とし、エジプトの乾燥した高温の風土によって、あなたの褐色の裸体が腐敗を免れて、自然のままでミイラとなってしまったことは、神の御心による偶然として、甘受するしかありません。しかし、数千年後にそのミイラが発掘され、こともあろうか大英博物館の展示の目玉と なって、世界中からやってくる見学者のまなざしにさらし者となり続ける日々が待ち受けるとは、生前のあなたには予想もつかないことだったでしょう。ジンジャネラさん、東京まで運ばれてさらし者になりながら、あなたはいま、何を考え、何を思っていますか。僕には、分かるのです、ジンジャネラの魂は時を超えて蘇っている。あなたは、自分の抜け殻を見ながら人々が喋っている内容を、全て聞いている。あなたは屈辱や苦悶を表に出すことなく、神が与えてくれた自分の使命に、身じろぎもせずに耐え続けている。(9月22日)

 <地球が太陽の回りを公転して反対側にきたことを知るお彼岸>
 普段の生活の中で、私達は地球の自転も公転も意識することなく暮らしています。24時間で地球が1回転しているという驚愕の事実は、あまりにもあたりまえ過ぎて、朝が来て太陽が昇り、太陽の位置が東から南へそして西へと動いていって日没を迎え、夜が訪れる、といったなんの不思議もない1日のサイクルとして、日常そのものになっています。自転でさえ、こんな調子ですから、私たちは、地球が太陽の回りを約365日と4分の1日かけて一周しているという、公転運動については、日常の生活の中でほとんど自覚することがありません。そんな中で、僕はいつも春と秋のお彼岸の頃になると、なぜか太陽の輝きが懐かしく思えるのです。いえ、太陽の輝きそのものというよりは、その太陽のちょうど反対側の、まぶしさの極みに溶けてしまいそうなあたりの遙かな宇宙空間の一点を、半年前のお彼岸の時期に、確かに地球が通過していたという驚くべき事実を、タイムマシンを覗くようなスリリングな懐かしさで、実感するのです。太陽の反対側に、今年春のお彼岸の地球が感じられる。その地球には、半年前の人類が満載されており、半年前の僕がいる。そしてさらに、僕は今から6カ月後の 来年の春のお彼岸に思いをめぐらせるのです。次のお彼岸までには、地球はまた壮大な公転運動を続けていって、再び今太陽の反対側となっているあの位置まで行くのだ。その時には、現在地球が存在しているこの位置が、太陽の反対側に見えるのだ。その間に地球に起こるであろう諸々のことども。どんなことが起ころうとも、地球は無言で黙々と自転と公転を続けていくでしょう。お彼岸は、人間と地球、太陽との深い関わりについて、静かに思索させてくれる時空の交点なのですね。(9月19日)

 <「月の沙漠」の幻想美に見る生きることの限りない孤独>
 遠い昔の学生時代の合宿。男子学生も女子学生も一緒になって、さまざまな叙情歌やロシア民謡を歌い続け、酔うように青春に浸りきって時の経つのを忘れた夜がありました。その中で、童謡「月の沙漠」(砂漠ではなく、正しくは沙漠なのですね)を歌いだした時に、ある学生から異論が出されました。「王子様とお姫様は、民衆を抑圧する側ではないのか。この歌詞は労働もせずにブルジョワ的な贅沢の限りを尽くす王政賛美の歌で、我々は歌うべきではない」というのです。これをきっかけに、激しい議論となり、歌というのはは階級意識に貫かれるべきか、多くの愛唱歌は否定されるべき内容なのか、といったやりとりになっていきました。あの時の議論は、決着がつかないまま、プチブル派とゴリゴリ派に別れてしまったように記憶しています。この「月の沙漠」は、さまざまな物議を醸す歌で、「なぜ王子様が先で、お姫様が後なのか」として、男女差別を指摘する向きもあります。僕は、この歌の限りない幻想美と、あり得ないシュールな光景は、現実世界を生きている私たちの影であり、真の姿なのかも知れない、と思うのです。どこから来て、どこへ行くのかさえも分からない、果てしない 砂漠の旅。孤独と寂寞感。あなたが男性ならば、お姫様だと思っている相手をよく見てご覧なさい。お姫様とは、あなたの心が生みだした幻覚に過ぎません。あなたが女性なら、王子様が幻覚であることを知るでしょう。それどころか、駱駝も鞍さえも幻影であることに気付くでしょう。「月の沙漠」とは、一人で生きて一人で死んでいく茫漠たる人生の写し絵。この歌のメロディーが、慟哭するような短調の響きなのは、それでこそ理解出来ると思います。(9月16日)

 <首相がY2Kで国民に2、3日分の備蓄を呼びかける時>
 今年の夏の異常な暑さは、9月に入っても和らぐどころか、ますます蒸し暑さの度を増し、天気予報は狂いっぱなし。この先、どんな秋と年末が待ち受けているのだろうかと、静かに思案することも出来ない灼熱の毎日です。しかし、カレンダーは着実に1日ずつ進行していって、1999年は残り110日余りとなりました。2000年問題に備えて、ささやかな備蓄をしなければ、と思いながらも、ついつい先延ばしになっている人たちは多いことでしょう。この暑さでは、水や食料を買い置きするのにも躊躇してしまいます。やはり本格的な涼しさが訪れてからでも間に合うのでは、という気になって、様子見といったところでしょうか。そういう僕も、昨日の読売新聞の記事を見て、いささか焦り始めています。小渕首相が2000年問題で、国民に対して2、3日分の備蓄を求めるアピールを10月下旬にも発表する、というのです。これが本当だとしたら、オイルショックのトイレットペーパー騒ぎを上回る買いあさりパニックが出現する公算は、極めて大きいでしょう。パニックが出現してからでは、もう遅い。その前に、あらかたの必需品を買い揃えるとしたら、どのタイミングが最適か 。やはり今月のお彼岸直後が一つのタイミングのような気がします。ミネラルウォーター、カセット式携帯ガスボンベ、缶詰類、乾電池は早めに用意したいものです。切りモチやカップ麺、素麺などは、賞味期限を見ながらもうすこし後で。いまの日本では、いったん騒動が始まったら社会的パニックに発展するまで半日とかからないでしょう。いまは嵐の前の静けさ、パニックの前の不気味な酷暑といったところでしょうか。(9月13日)

 <新宿三越南館跡に大塚家具ショールーム、初日の印象は>
 新宿三越の南館跡に大塚家具のショールームが今日オープン、というので見に行ってきました。だれでもブラリと自由に見て回れるものと思っていたのですが、これが大違い。会員制という建て前になっていて、まずは入り口で入会申込書に住所、名前、勤務先などを記入させられ、さらに「本日はどういった家具をお求めでしょうか」と最初に尋ねられる。そして、呼び出しがあるまで、ロビーのようなところで待つ。やがてアドバイザーが名前をよんで、客はそのアドバイザーからショールームを案内され、気に入った商品が見つかるまで説明を受けて見て回る。全ての客に対して、それぞれアドバイザーがついて回っているので、広いショールーム内は、客とアドバイザーがほぼ同数という感じ。お店の側は、この方式のほうが確実に商品の購買に結びつけられると踏んでいるのでしょう。しかし、これだけ大勢のアドバイザーの姿を目のあたりにすると、この人たちの人件費はいったいどれくらいになるだろう、とゾッとしてきます。アドバイザーの数をこの10分の1に減らして、その分、家具の価格を下げた方が売れるのでは、という気にもなります。不況のこの時期、家具を売るのは大変なこと なのでしょう。家具は、現在使っている古い家具で我慢しようと思えば出来ないものではありません。買い換えるにしても、古い家具をどう処分するかという、やっかいな問題があります。新たに家具を増やせば生活スペースが狭くなります。そもそも50万円から100万円以上もする婚礼用3点セットなど、どれくらいの需要があるのでしょう。21世紀には今の形のアナログ家具は姿を消し、全く予想もつかないデジタルまたはバーチャルな形で家具的機能が代替えされるのでは、という気がします。(9月10日)

 <この世界は実体があるか、自分は実体ある実在の存在か>
 秋風を感じるせいか、濁世のゴチャゴチャした流れの中で、いったいこの先、僕達は何に向かって行こうとしているのか、どういう物語を描こうとしているのか、分からなくなってしまう気分になります。テレビや新聞のニュースも、飽き飽きするような醜悪な出来事ばかりで、目を覆いたくなります。そんな中で、今日の読売新聞の「まんだら宗教学」というコラムで、山折哲雄という短大学長が、煩悩を断ち切ることをめざした小乗仏教に対して、煩悩を受容する大乗仏教、という分かりやすい書き方で説明しているのが心にとまりました。大乗仏教は「煩悩即菩薩」という言葉で表現され、日本の仏教は万事この道でやってきたが、今後の人類と地球は、これでは立ちゆかなくなるのではないだろうか、と山折学長は言うのです。しかしそうかといって、煩悩を断ち切るのは、ごく少数の自覚的精神エリートにしか耐えられない道です。21世紀に仏教が存在意義を持つためには、大衆の煩悩をどう位置づけるのか、根本的に考え直す必要があるでしょう。あらゆるものはそれ自体の固有の実体をもたないという「無自性」の思想、実践的にはなにものにもとらわれない心で行動する「無執着」の立場。 この大乗仏教の理念の中に、未来に向かうポイントがあるように思います。ここから疑問を押し進めていくと、この世界は実体があるのか、人間は実体があるのか、そのことを考えている自分という存在は実体のある実在か、というところまで行き着いてしまいます。「無自性」を知ることで、有限の生をどう生きるかが問われ、世界と自分の正体を見つめるところから、「無執着」への悟りが切り開かれるのだと思います。(9月7日)

 <チャイコフスキー作曲の「星空の物語」とは、なんとあの旋律>
 NHKのFMをなにげに流していたら、チャイコフスキー作曲「星空の物語」という説明が耳に入りました。はて、そんな題名の曲があったっけ。オペラか歌曲集の中の曲だろうか、などと思っていたら、ホセ・カレーラスの堂々たるテノールがオーケストラの伴奏で歌いだしたのは、なんと交響曲第6番「悲愴」の第1楽章のあまりにも有名な旋律ではありませんか。このとてつもなく美しい旋律は、第2主題なのですが、いつも「悲愴」を聴くたびに、チャイコフスキーはこれほど美しいメロディーをどうやって創作したのだろう、と思っていました。カレーラスが熱唱するこの旋律は、まさに最初から歌曲として作られたかと錯覚するほど、ピタリと決まっていて、劇的効果にあふれ、これならば交響曲の主題を歌曲に編曲するという「邪道」も許される、と納得してしまう出来映えでした。そして、この旋律はひょっとして、もともと歌曲向きなのではないだろうか、という気もしてきました。民謡から採ったのか、チャイコフスキーのインスピレーションが生みだしたのかそのへんは分かりませんが、歌曲を思い描いて温存していた秘蔵の旋律だったのかも知れません。テノールだけでなく、ソプラ ノで歌ったらどんな感じになるだろうか。二重唱や四重唱も良さそうだ。混声合唱になったらもっと素晴らしい感じになるかも知れない。そんなことを考えていくと、チャイコフスキーは、この旋律を合唱曲として終楽章に置く交響曲を構想していたのではないか、とさえ思えてきます。実際にはチャイコフスキーはこの旋律を第6交響曲の第1楽章に置いて、言語による意味づけを一切しませんでした。そのことの持つ意味は尊重しつつも、なおこの旋律をもとにした壮大な合唱曲で、21世紀の開幕を祝福してみたい、という気持ちにもなります。(9月4日)

 <携帯用パーソナル「動く歩道」なんてのがあったら楽しそう>
 新宿西口の地下から都庁方面に向かって、「動く歩道」が通っています。いつもは、歩道に乗って立ったままのひとが半分近くいるのですが、今日はなぜか全員がほぼ同じ速度で、動く歩道の上をひたすら歩いていました。僕もみんなと同じ速度で歩いたのですが、これが意外に快適なのですね。自分の歩く速さが一気に2倍になったようで、普通に歩いているつもりが面白いようにスイスイと前に出ていきます。途中、何カ所かにある歩道と歩道の途切れているところでは、ガクンとスピードが落ちますが、次の歩道に乗ると再び歩行能力がパワーアップ。これを繰り返してやがて動く歩道は終点となり、こんどこそ自分本来の速度で歩かなければなりません。わずか数分間とはいえ、いったん2倍の歩行速度の快感を味わった身には、人間本来の歩行速度がなんともまだらっこく、もどかしく感じます。あの歩行速度を、いつでもどこでも出すことが出来たら、どんなにか気持ちいいだろう。携帯用のミニ版パーソナル「動く歩道」を発明したらどうだろう。長さは2メートル、幅は60センチほどで、ふだんはクルクルと巻いてカバンの中などに入れておく。使う時には広げて道路に敷くと、精巧なキャ タピラの仕組みで前に動き始める。その上をテクテクと歩くのです。スケボーのようなテクニックも必要なく、あなたは普通に歩くだけ。こんなもの買う人なんていない、ですって? 混雑した場所では、腕に巻いたリモコンを操作すれば、あーら不思議、磁力と反重力の組み合わせによってフワリと浮き上がり、地上2メートル程度の高さを浮遊したまま水平に移動出来るのですよ。下から見上げる人々の驚愕と羨望のまなざしが目に浮かびます。夢物語でなく、21世紀の早い時期には実用化出来るような気がしませんか。(9月1日)

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1999年8月

 <阿波踊り、盆踊り、カーニバル、人はなぜ夏の終わりに踊る>
 徳島や東京・高円寺の阿波踊り、浅草サンバカーニバル、そして全国津々浦々でいま、盆踊りの真っ最中です。連日続く真夏日の中を汗だくになって踊り続けている人たちを見ていると、人はなぜ夏の終わりに、それもほとんどが夏の終わりの夜に、踊りまくるのだろう、と考えてしまいます。死者供養としての念仏踊や収穫の秋に向けての労働儀式がミックスして発展した盆踊り、混沌の中から生命の更新と社会の活性化を図るカーニバル。西と東でそれぞれの成り立ちは異なるものの、死から再生へ、混沌から再構築へという、民衆の踊りの根源的なところにおいて極めて似通っているように思います。いずれも踊りの振り付けや型は、あってなきがごとくに単純で、集団で身体を動かし続けることにこそ最大の意味がありそうです。踊ることの意味は何か。それは自分が死んでいないことの確認なのでしょう。大勢の死者たちと、まだ生きている自分を区別するものは、たぶんほんのわずかな偶然と運不運だけ。こうして踊り、また踊りを見物する自分も、やがて死者たちの世界に入って行く。踊ることによって、死者たちと自分との関係が明確になり、死と生との距離が確認出来る。実際に踊っている 人たちは、こんなことは考えて踊っているわけではありません。しかし、汗だくになって手と足そして全身を動かすこと、群舞にまじって少しずつ位置が動いていくこと、声を出すこと、人から見られ、見ている人をこちらも見ること。これらすべてが、いま死んでいないことの証でなくて何でしょうか。夏の終わりは、死と再生が身体で実感出来る時です。収穫の秋が、もの悲しくうら寂しいのは、豊かな実りが死者たちによって支えられていることを、私達が知っているからなのでしょう。(8月29日)

 <NASAが火星に集音マイク、聞こえるはずのない歌声が…>
 NASAが今年12月3日、火星の南極付近に無人探査機「マーズ・ポーラー・ランダー」を着陸させ、特殊な集音マイクによって火星の地表の音を地球に送信するということです。火星の地表の鮮明な映像は、これまでも送られてきましたが、火星の音と聞くと、なんだか懐かしいような怖いような気がするのは、なぜでしょうか。聞こえてくるのはたぶん、無味乾燥な風の音や、砂嵐の音なのでしょう。でも、もしかしてですよ、聞こえてくるはずのない音が聞こえてきたら、いったいどうなるでしょうか。例えば、歌声のような調べ。砂嵐のノイズに混じって、遠くから、聞こえては消え、消えては聞こえてくるもの悲しい歌。一人の声にも聞こえ、男のため息のようでも、女のすすり泣きのようでもあり、時には数人の詠嘆歌であり、時には大勢の御詠歌のように。ブラッドベリの「火星年代記」そのままに。NASAのコンピューターで言語解析してみても、解読は不可能という結論が出ます。しかし、世界中にテレビやインターネットで中継された火星の「歌声」を聞いた子ども達の相当数が、共鳴現象を起こしたように反応して、世界中のあちこちでそれぞれの言語によって、同じ意味の歌を歌 い出したとしたら…。「昔々にありました 緑の火星 青い空 われらはここに 生を得て 豊かに暮らし 栄えたり 鳥もけものも 飛び回り 海は恵みの水たたえ 幸にあふれた星でした 歌にあふれた星でした 遠い昔にいくさあり 大地も森も 火の海に 赤く焼けこげ 燃え尽きて 水も命も絶えました そしてわれらは滅びたり 残る子孫は隠れたり 闇の地中に隠れたり もう戻らない 青い空 もう見られない 日の光 幾年月が過ぎるとも わがふるさとは 火星なり わがふるさとは この火星」(8月26日)

 <あなたも妖精の国際資格を取ることが出来るって知ってた?>
 映画の影響もあるのでしょうか、「天使」に代わって「妖精」がちょっとしたブームです。天使というのは、マリアの受胎告知やキリスト降誕などの場面に必ず登場していて、キリスト教のイメージが強いのですが、妖精は特定宗教のイメージが薄い霊的存在で、北欧やアイルランドの土俗的・民俗的な世界、庶民の伝承の世界に生きる存在です。天使が神聖にして絶対的な存在であるのに対し、妖精はいたずら好きで怒りっぽく、気まぐれで楽天的、といいますから、人間にずっと近い存在なのですね。妖精のことを堕天使というのも、つまりは天使になろうとしてなれなかった落ちこぼれであり、凡庸のままで大気を漂い続ける我らのような存在と思っていいでしょう。最もよくイメージされる妖精の姿は、手のひらに乗るほどの少女の姿をしていて背中にトンボのような薄い羽根をつけている妖精ですね。しかし妖精といってもいろいろあって、人間よりも大きな巨人のようなものから、けし粒ほどの小さなものまで多種多彩なものが存在しているのです。妖精にも国際資格があって、人間のあなたも妖精資格を取得することが出来る、って言ったら信じてくれますか。これ、ホントの話。フィンランド にある3校のサンタクロース養成学校に入学して、6日間の講義を受けると、サンタクロースの仕事を手伝う妖精としての「トントゥ」の資格が取得出来るのです。講義の内容は、原生林の中からクリスマスツリーに使う木を見つけ出したり、ツリーの装飾について学ぶなど。濁世にもまれてあくせくと生きていくことに見切りを付け、「妖精」として生きて見るのも、悪くはないという気がします。(8月23日)

 <21世紀の空を見る日まで500日、みんながんばりましょう>
 今日8月20日で、21世紀まであとちょうど500日となりました。このホームページがスタートしたのは、21世紀まで1400日以上もある時期でした。そして去年4月7日、新宿西口のスバルビル屋上に設置されている「21世紀大時計」の数字が、残り1000日を表示しました。その日、西口ではテレビ局のリポーターが、21世紀まであと1000日の感想を、行き交う通行人たちにインタビューしていました。それからもう500日が経ったのですね。いろいろなことがあった500日でしたが、それにしても過ぎてしまえばアッという間です。さあこの調子で、いやこんどはさらに急速度で、20世紀最後の500日は過ぎていこうとしています。みんな、あと500日をがんばって生き抜いていこうではありませんか。重い病に伏している方も、あと500日がんばれば、21世紀の空を見ることが出来、21世紀の空気を吸うことが出来ます。21世紀になれば、新たな治療法や対処法が実現するかも知れません。O・ヘンリーの「最後の一葉」ではありませんが、弱音を吐かず、気力を振り絞って、なんとしてでも21世紀の世界を目の当たりにする日まで、生き続けましょう。リス トラや経営難、生活苦、いじめや自信喪失、失恋などなどで、生きる力を失ってしまったあなた。あと500日がんばってみましょう。21世紀の空気に触れ、21世紀の水を飲み、21世紀の街を歩いてみれば、きっと21世紀の新しいあなたを発見出来るでしょう。20世紀的なものに決然と別れを告げ、しなやかに、やさしく自分を大切に生きる21世紀のあなた自身に出会うことが出来るでしょう。みんな、約束しましょう。21世紀の空を見る日までは、どんなに苦しくてもつらくてもがんばり抜くことを。(8月20日)

 <トルコ大地震に思う、これが戦争相手国でも救援しますか>
 トルコ西部を襲った大地震の死傷者は増え続け、地震のエネルギーは阪神大震災の6倍とも言われます。瓦礫と化したビル街や炎上する製油所、肉親の死に泣き叫ぶ人々をテレビのニュースで見ると、この光景はついさきごろ見た光景と同じであることに気付いて、愕然とさせられます。ここで見ているのは、NATO軍によるユーゴ空爆で破壊されたベオグラードであり、さらに溯るならば多国籍軍による空爆で粉々に粉砕されたイラクのバグダッドと同じ光景なのです。大自然の力が、予測できない地域と時期に文明を破壊し、多くの人命を奪う一方で、人間の方も、科学の粋を尽くした軍事力によって、こんどは特定の地域に対して狙い定めた時刻に、同じように文明を破壊し、多くの人命を奪っていく。国際的な救援活動が始まり、真っ先にフランスやドイツがトルコに乗り込んで、救護を始めています。NATO軍の中核メンバーです。各国も続々と救援隊を送り始めています。けが人の手当てや不明者の救助などに、国際協力で臨む理性を持った人類が、一方では、ゲーム感覚による空爆を平気でやってのけ、ビルも橋も道路もメチャメチャに壊し、市民を虫けらのように殺傷出来るのは、なぜな のでしょうか。あなたがNATO軍の指揮官だったとして、ベオグラードへの空爆続行中に、同じような大地震が空爆機の真下で発生したら、いったいどうしますか。地震は天誅とばかりに大喜びして、被災地に追い打ちをかけるごとく、さらに激しく爆弾の雨アラレを降らせますか。それとも、空爆を中止して、被災地救援に切り替えますか。これまで戦争中に、地震や豪雨などの天災によって交戦相手国に大きな被害が出たケースでは、どうしていたのでしょうか。戦争と救援について、破壊と救助について、深く重い気持ちで考えさせられます。(8月18日)

 <全国戦没者追悼式の君が代斉唱に漂う大政翼賛のキナ臭さ>
 日本武道館で行われた全国戦没者追悼式で、初めて君が代斉唱が天皇皇后の前で行われたのをテレビで見て、国家としての結束強化に向けての不気味な実地訓練そのものだと感じました。その光景には、国民総動員の大政翼賛大会にそのまま移行してもおかしくないキナ臭さを感じます。このような急激な右傾化をだれが予想し得たでしょうか。官庁の記者クラブでは、記者会見場に国旗として日の丸が立てられることになり、クラブ側もほとんど無抵抗のようです。重大な疑問がいくつもあります。第1に、数々の国家主義法案の強行成立はなぜこの時期に急いで行われたのか。第2に、長年の自民党政権がなし得なかった重要案件の中央突破を実現させた、真の仕掛け人は誰なのか。あるいはどういう勢力なのか。第3に、マスコミとりわけ言論機関を自負する大新聞は、読売は別にしても、今回の事態に対してどのように責任を取るのか、取らないのか。朝日にしても毎日にしても、国民への情報提供と世論形成の点で、パワー不足というよりも舵取りを誤ったのだと思います。大新聞は、小渕政権の本質と政治の流れについて、完全に読み違えていたようです。小渕内閣の「経済再生内閣」という看板 を真っ正直に受け止め、なめてかかっていたとしか言いようがありません。新聞本体もさることながら、新聞社発行の週刊誌、新聞社系列のテレビ局に至るまでが、内容の薄い卑小な企画記事や下らない低俗ワイドショーにうつつを抜かしている場合ではなかったのです。戦時中の大政翼賛的報道に続いて、今回もまた日本の新聞は言論機関としての責任を果たし得なかった、という評価が下されても仕方がないでしょう。(8月15日)

 <終戦の日の都庁舎光文字、今年は「平和」やめ「前進」とは>
 毎年、終戦記念日の8月15日に、東京・新宿の都庁舎の窓の明かりで描き出してきた光文字について、今年は「平和」をやめて「前進」に変える、と石原都知事が発表しました。石原さんが「平和」という言葉にどれほどの嫌悪感を抱いているかは想像に難くありませんが、この決定に違和感を抱く都民は少なくないはずです。「平和」の文字は、多くの都民の願いや思いを端的に表していて、都知事のイデオロギーによって勝手に変えていいものではないはずです。「前進」という言葉は、はたして8月15日にふさわしい言葉でしょうか。「前進」という響きは勇ましく攻撃的で、「ほふく前進」に見られるように軍隊用語として長い間使われてきた言葉です。かつての労農派の機関誌のタイトルが「前進」であり、いまも革マル派の機関誌が「前進」であることに見られるように、「前進」とは戦いであり、敵を掃討して制覇する前進なのです。それは味方だけの前進であり、同じ民族だけの前進です。弱い者、役に立たない者、足手まといの者、生産効率が低い者を置き去りにし、農民たちや発展途上国を踏み台にした前進です。いまのこの時期に、石原さんが「前進」を掲げる意図は、あまりにも 明々白々です。ガイドライン関連法、国旗国家法、通信傍受法、憲法調査会設置。すべてがひとつの流れとなって、平和主義と戦後民主主義の息の根を止め、「平和」ではなく「前進」する国家と社会に改造しようという、右への急旋回。このまま行けば、街中に軍艦マーチと迷彩服があふれ、「平和」という言葉が非国民扱いされる日がやってくるでしょう。進軍ラッパの響きが聞こえてくるような「前進」を、僕達は断固として拒否し、返上したいと思います。(8月12日)

 <11日の欧州皆既日食の4分前にルーマニアで地震の予想>
 今世紀最後の皆既日食が、あさって11日、欧州の人口密集地帯で観測され、フランス、ドイツ、オーストリア、ルーマニア、トルコ、イランなど皆既帯にあたる各地には、大勢の観光客が殺到します。そんな中、この日食の4分前に、ルーマニアを地震が襲う、という予測をブルガリアの物理学者が公表して話題を呼んでいます。この学者はボイコ・イリエフ氏で、国営ブルガリア通信によれば、1995年から98年の間に6回の地震を予知し、大半が予想時間通りか数日以内に発生した、といいます。これまでも、新月の前後には大きな地震が起きる、ということはよく言われてきました。太陽と月が同じ側に来るため、重力が重なって大潮を引き起こすことは知られていますが、地震との関係については、専門家たちの見方は否定的です。こんどのイリエフ氏の予知が当たるのかどうか、興味津々です。何百万トンもの海水を持ち上げる力を持つ重力が、地核に影響を及ぼすことが全くないとは言えない気もします。1999年の7の月が過ぎたといって安心している向きには、用心が必要かも知れません。この7の月というのは旧暦だという説もあり、旧暦の7月は皆既日食の起こる11日から始ま るのです。さらに18日は、プルトニウムを満載した土星探査機「カッシーニ」が地球に戻ってきてスウィング・バイをする日で、この時が危険だと指摘する声もあります。予知にしても予言にしても、私達の安穏とした生活の意外な脆さに気付かせ、突然の破局への心構えを整えさせてくれることに意義があるような気がします。あさってから10日間ほどは、地球全体が要注意かも知れません。(8月9日)
 ルーマニアに関する限り、日食直前の地震は発生しませんでしたね。ここ数日、何事も起こらなければいいのですが…。(8月12日)

 <被爆体験を世界に語り継ぐ反核平和国家こそ日本の選択だ>
 今年もまたヒロシマ、ナガサキの原爆の日がやってきました。私たちは21世紀に向けて、世界唯一の被爆体験をどう語り継ぐか、重くて困難な十字架を背負っています。高齢化が進む被爆者たち。減少する生き証人たち。世界では、アメリカを始めとして「核」に対するタブーが薄らいできて、巨悪を征するためには核もやむを得ないという危険な空気が出ています。こうした中、21世紀に進む日本はどのような役割を担うべきでしょうか。ガンドライン法によってアメリカの軍事行動にベッタリと協力する体制を整え、日の丸・君が代を法制化し、通信傍受をおおっぴらに行い、憲法改正への道を敷き詰める。いま日本が進みつつあるこの方向は、日本から被爆体験と反核の魂を骨抜きにし、平和国家を希求する国民の半分を一網打尽に掃討してしまうものです。数の力によって強引にこの方向へ向かっていった時、日本には滅亡しか残されていないでしょう。ニューヨークタイムズのニコラス・クリストフ支局長が、離任にあたって最近書いた大型記事は、「日本の輝きは戻らない」として、数十年先の日本の姿は過疎の島に暗示されている、としています。この直言は、なかなか鋭いところを突いて いると思います。いま日本に最も必要なのは、世界の中での自らの役割についての高い志と固い決意なのです。それは、「われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ」という日本国憲法前文の言葉で言い表される精神です。複雑化する21世紀の国際社会の中で、日本が大国に追随したまま衰弱していくのでなく、身の程を知った独自の国として輝きと誇りを持ち続けるには、反核平和国家を貫き通すことが、唯一の選択だと言っていいでしょう。(8月6日)

 <東京近郊の山奥にいるサルたちよ、都心に住んでみないか>
 東京・麻布かいわいに出没しているサルは、人間側が捕獲作戦をあきらめたこともあって、すっかり都心の生活になじんでいるようです。マンションのベランダや民家の軒先に現れても、もはや110番通報をする者もなく、住民たちも「おや、おいでなさったか」と、果物などを与えて共存をはかっているとのこと。最近では、子猫の友達も出来たということで、新聞やテレビで話題になっています。この子猫は、サルが現れた時に、ほかの猫たちが素早く逃げたのに、ボヤボヤしていて逃げ遅れ、サルの方もすっかり子猫を気に入って、ノミを取ったり毛繕いをしてやったりしているそうです。この子猫はサルを怖がらずにマイペースで悠然としているので、サルの方も安心出来るのでしょう。人間も騒ぎたてたりせずに、普段のペースで生活を続けていれば、サルは人に危害を加えたりせずに落ち着いているものです。この麻布ザルを見習って、奥多摩の山奥で生活しているほかのサルたちも、思い切って都心に進出してみたらどうでしょうか。カラスやスズメのように、都心にサルがいることがあたりまえになれば、それもまた都市の風景として意義深いものと言えます。麻布に住むコマダムたちも、 道でサルに出会ったら「お早うございます、おサルさん」くらいの挨拶をするようになるでしょう。一人暮らしのお年寄りは、「おサルはまだ来んかのう」と待ちわびるようになるでしょう。サルが都心に住む以上は、多少のイタズラも大目に見てあげましょう。生放送中のテレビ局のスタジオに、サルが制止を振り切って侵入するのも悪くありません。サッチーバッシングで吐き気のするようなワイドショーなど、いっぺんに吹っ飛ぶでしょう。大学や官庁、銀行などに、サルたちが突然の見学に現れるのも、だらけきった空気が一変することでしょう。「サルの住む首都」なんて、いかにも21世紀的でシュールな感じがしませんか。(8月3日)

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1999年7月

 <トキの人工孵化支え日本人に強い感銘、帰国する席咏梅さん>
 中国から贈られたトキのつがいとともに1月末に来日し、日本初の人工孵化を支えた「トキのお母さん」席咏梅さんが半年間に渡る大役を終えて今日、中国に帰国します。トキのつがいが贈られて以来、佐渡トキ保護センターでのさまざまな節目節目にテレビで映し出される席咏梅さんの姿は、ひときわ印象的でした。たった一人で中国からトキに付き添って来日し、日本人スタッフの中で重圧とも言える期待を一身に受け、無事に優優の誕生と成長を支えてくれました。テレビで見る席咏梅さんはいつも控えめで、化粧っけのない素顔がとても清々しく感じられました。しっかりとした口調で静かに話す様子からは、トキの繁殖にかける愛情と日中友好へのひたむきな使命感が伝わってきました。日本人スタッフたちは不安ととまどいの中で、席さんの「大丈夫ですよ」という言葉に、どれほど心強い思いをしたか、言い表せないほどだといいます。先日、帰国が決まった席さんが記者会見する様子をテレビで見ました。初めて見せた薄化粧でしたが、ハッとするほど美しい容貌に、胸を突かれる思いでした。席さんはこの半年間、飼育の合間に日本の各地を回ってトキの保護を訴え続け、多くの日本人から 励ましを受けました。日中友好を声高に叫ぶでなし、先の大戦の責任論を振りかざすでなし。しかし、席さんほど日中人民の友好について、黙々と淡々と、身を持って実践し続けた中国人はいません。私達は、日本が中国に対して行った取り返しのつかない多くの過ちにもかかわらず、日本人の中に入って献身的にトキの飼育を支え続けた席さんに、心から感謝の気持ちを表し、日中友好の誓いを新たにしたいと思います。席咏梅さん、本当にありがとう。(7月31日)

 <1999年7の月が何事もなく過ぎた後に待ち受ける大破局>
 かつて松本清張の小説で、某国から2発の核ミサイルが東京に向けて誤発射され、それを待ち受ける日本や各国の対応ぶりをシリアスに描いたものがありました。全国民が見守る中を、ミサイルが大空の1点から現れ、やがて都心に落下してくる。万事休す、というところでミサイルは不発に終わり、東京都民あげて、いや日本国民あげて大歓声と拍手、安堵の喜びに沸き上がり、人類みな兄弟的な同胞愛の中を、見知らぬ者同士が抱き合って、平和の尊さと生きていることの有り難さを、お互いに確かめ合います。この感動的な光景の中で、大空の1点からもう1発のミサイルが姿を現した、という究極のどんでん返しでこの小説は終わっています。「1999年7の月」が、何事もなく終わろうとしている今、僕はこのミサイルの話を思い出すのです。マスコミは挙げて、この月に人類が滅亡するとした『ノストラダムスの大予言』の作者五島勉氏の弁解や釈明を特集し、責任を追及する声も出ています。だいたい、1973年にこの本が出版された時に、もっともらしく騒ぎ立てたのはマスコミです。五島氏自身、この月に人類が滅亡するなどとは信じていなかったわけで、ちょっとした言葉のお遊びだ ったのでしょう。予言などというものは、すべてが言葉遊びであり、どんな言葉もどのようにでも解釈出来るところが、予言の面白さなのです。7の月に何事も起こらなかったからといって、五島氏は責任を感じたり、修正宣言をしたりする必要など全くないのです。2発目のミサイルは、2000年の1の月に出現するでしょう。「恐怖の大王」の名はY2K。これは決して不発弾ではありません。滅亡の時期が、当初の予測より5カ月ほど後にずれ込んだだけなのです。(7月28日)

 <凶器を飛行機内に持ち込ませない確実な方法は、これだ>
 全日空のジャンポ機がハイジャックされて機長が刺殺された事件は、手荷物検査の盲点を巧みに突いた計画的な犯行のようですが、機内に刃物などの凶器を持ち込ませない確実な方法はあるのでしょうか。僕が前から気になっていたのは、手荷物検査を受けてから機内に入るまでの距離と時間が長すぎることです。それに、手荷物といいながら巨大なバッグや大荷物を持ち込む人がなんと多いこと。これからは、機内持ち込み手荷物は原則として認めないことにしたらどうでしょうか。例外的に持ち込みが出来るのは、書籍や新聞、一定量の書類、常備薬、飲み物、カメラ、非金属の筆記用具、セーターなどの軽衣類に限定し、それも有料にして指定の透明袋に入れることを条件にします。持ち込むものは、機内に乗り込む際に中身を全部出してチェックを受けることにします。ここで、ああだこうだと文句を言う客は、問答無用で搭乗をお引き取り願うことにします。それでも衣服の内側や下着の中などに凶器を隠し持つ客がいないとも限りません。金属探知器を搭乗口だけでなく、機内の随所に設置しておいて、一定の大きさ以上の金属が機内で検知されたら、機外に出て身体検査を受けてもらうことにし ます。離陸後に金属所持が検知された者に対しては、シートベルトがオートロックされて、身動き出来ないようにしてしまいます。それでも一抹の不安が残るですって? では最後の手段として、搭乗直前に乗客全員が水着に着替えることを義務付けたらどうでしょうか。パイロットや客室乗務員だけは服を着ていて、ほかは男も女も子どもも水着。これなら凶器を隠し持つことは出来ないでしょう。しかし、こんどはセクハラなどほかの問題がいろいろと発生しそう。ハイジャックをなくするためには、ま、仕方ないか。(7月25日)

 <雷ほど素敵な自然現象はない、雷の正しい鑑賞法と楽しみ方>
 九州北部から東海までが梅雨明けとなりましたが、関東などはお預けで、またもや雷鳴がとどろく午後となっています。今日の雷はたいしたことはありませんが、昨日の雷は豪快で見事な雷でした。僕は、あらゆる自然現象の中で、雷ほど素晴らしい現象はないと思っています。雷の魅力は、虹の優雅さや夕焼けの懐かしさの比ではありません。天地を揺り動かす雷鳴の大音響、稲妻の先鋭で美しい軌跡と青白いフラッシュ。そして雷とともに続いて襲ってくる豪雨の激しさ。どれをとっても、生半可なものではなく、身体全体がしびれるほどの快感を覚えます。とりわけ、雷が人の生命や身体にとって危険で死と隣り合わせにあるということが、フグ毒にも似た愉悦を感じさせてくれます。雷で犠牲になった方々には申し訳ないのですが、この一瞬の破壊力と容赦のない落下ぶりが、地上の者たちの興奮に拍車をかけ、どうか気の済むように存分に暴れまくって下さいませ、という気持ちにさせるのです。こんな素晴らしい雷を厄介者にしておく手はありません。雷を心ゆくまで鑑賞し堪能することを考えましょう。それにはまず、遠方で雷が鳴り始めてこれは大物らしいと感じたら、ビルの高層階の展望の いいところに陣取りましょう。雷はどの方向に現れるか分からないので、四方を見渡せるフロアなら最高です。これは花火大会の場所取り以上に重要なことです。雷が接近してきて近くに稲妻が走り、落雷が続出するころがクライマックスです。耳をふさいだり身を伏せたりせずに、正面から雷鳴と向き合い、雷への畏敬の気持ちとともに、雷のすべてを賞味して楽しみましょう。雷の快感にひとしきり溺れた後は、けだるい満足感の中で、去っていく雷に感謝と別れの言葉をかけましょう。「すばらしかった。こんど会えるのはいつ?」と。(7月22日)

 <人類初の月面到達から30年、真の評価は1000万年後に>
 20世紀に人類が成し遂げた最大の偉業とされるアポロ11号による人類初の月面到達から、20日で30年になります。人類月に立つ。この意味をめぐって、いまさまざまな総括論議が展開されています。人々の地球観を変革し、宇宙船地球号という視点を確立した。巨大マネジメントの有効性を実証した。米ソの競争から国際協力による宇宙開発への道を開いた。それぞれにうなづくものがありますが、僕は根本的な意味づけはまだされていない、と感じるのです。アームストロング船長とオルドリン飛行士が月面につけたブーツの足跡が、降り注ぐ流星塵によってかき消されるまでに1000万年かかるという驚異の事実。この中にこそ、偉業の真の意味を解くカギがあるように思います。ブーツの足跡が消える1000万年後、人類はどのような道をたどっているでしょうか。恐竜が絶滅してから6500万年経っていますから、人類にとって1000万年はそれほど遠くない未来といっていいでしょう。科学技術がどのように発展を遂げ、社会の仕組みや人々の意識がどのように変わっているにしても、確実に言えることは、人類はいつまでも地球につがみついているわけにはいかない、ということ です。資源、エネルギー、食料、環境、どれをとっても、地球がこれ以上人類を支えきれなくなる日は早々にやってきます。人類の活路はただひとつ、地球を離脱して宇宙に拡散していくことです。地球に残る残存部隊と、宇宙のあちこちに新天地をめざして飛び出して行く部隊と。多彩なコースに応じて、人類の進化もさまざまに異なったものとなっていくでしょう。1000万年後、広大な宇宙のあちこちで、それぞれの発展に挑み続ける人類の多様な子孫たちは、アポロ11号の小さな一歩の意味が痛いほどに分かることでしょう。(7月19日)

 <夏の高校野球は地方大会たけなわ、若い記者たちがんばれ>
 夏の甲子園をめざして地方大会たけなわ。昨日は31大会で289試合が行われ、今日は新たに7大会が開幕して、支局では担当記者たちが、梅雨明け前の天気に一喜一憂しながら、球場と支局を駆け回って修羅場の中で鍛えられていることでしょう。昔から、高校野球担当記者は支局2年目の若手と決まっていて、サツ回りを終えたばかりの、まだおぼつかない記者たちが、甲子園大会が終わって支局に帰ってくるころには、見違えるばかりに成長している、とよく言われたものです。新聞社に入ってくる記者はみんなが野球に精通しているとは限りません。草野球の経験さえない女性記者が、初めて野球というものを知るケースも少なくありません。スコアブックの付け方などの講習は受けるものの、いざ地方大会が開幕してみると、あまりの作業量の多さにパニック状態です。地方版の前書きを書きながら試合の戦評を書き、スコアブックをもとにテーブルを作る。この数字が縦横で合わないことが多く、アルバイトの高校生にスコア記入の確認をしたりしているうちに、さまざまな雑用が飛び込んでくる。ノーヒットノーランなど、ニュース性のある試合となれば、急遽、ハイライト記事を作らなけれ ばならない。いまは記者もノートパソコンの時代。球場からパソコンで戦評を書いて支局に送信しているのでしょうか。スコアブックは相変わらず手書きでしょうか。スコアブックこそ、電子化されるといいのにと思います。なぜ高校野球だけ優遇するのか、の声も毎年出ていますが、ともあれ地方大会が若い記者たちを成長させるバネになっているのは、昔も今も変わらないはずです。野球担当の支局記者たちの検討を祈ります。(7月17日)

 <早大と日本女子大が単位の相互乗り入れでワクワク講義>
 学生同士の仲の良さでは「相思相愛」ともいわれる早大と日本女子大が、単位互換協定を結んで、来春から学生たちが相手校のキャンパスでお互い肩を並べて講義を受けることになる、ということです。ワクワク、ドキドキの合コンのノリといった感がありますがが、学校がお膳立てしてついに講義も一緒とは、ほほえましいような、おぼつかないような。ポンジョの女子学生がワセダに来るのは、それなりにサマになっていて、ワセダの男どもの中には熱烈歓迎する者も少なくないでしょう。しかしワセダの女子学生たち、いわゆるワセジョたちにとっては、いい気持ちがしないかも。「いいかげんにしてよね」というところでしょうけど、ポンジョの女の子にはおっとりした子が多いので、ワセジョたちの一方的な歯ぎしりに終わりそう。一方、ポンジョに講義を受けに行くワセダの男ドモの「通い婚」は、なんとなく落ち着かないイメージしか浮かんでこないのは、ナゼ? このニュースを伝える新聞の中には、「便所あるの」という超ヘンタイ的見出しをつけているところもあって、結局はそういう連想になってしまうのですね。しかし、真っ先に「便所」のことしか思い浮かばないヤツは、ポンジョ に講義を受けに行く資格などないのです。相互協定の対象となるポンジョ側の講義には、「女性のライフステージと健康」「栄養科学」「居住論」といった、21世紀の男性に不可欠の教養が目白(!)押しです。周りの視線を気にせずこうした講義に集中するワセダボーイに声援を送りましょう。もっとも、ワセジョがこれらの講義を受けに行ってもいいわけですが、こっちのほうが勇気が要りそう。それにしても、こんなことで一喜一憂出来るとは、なんと平和なキャンパスでしょうか。大学というのは、あらゆる意味で強烈な飢餓感と切迫感に満ちているものと思っていたのですが、どうやらそんな時代ではないのですね。(7月13日)

 <不老不死の遺伝子発見、150歳まで生きられることは幸せか>
 米カリフォルニア大学の教授が、ショウジョウバエを使った実験で、不老不死の遺伝子を発見したと伝えられています。この遺伝子の化学物質を突き止めることで人間の老化防止薬を開発し、140−150歳まで寿命を延ばすことが可能だとしています。しかし、寿命が150歳に延びることは、人間にとって幸せなことなのでしょうか。70歳を過ぎてからの老人時代がさらに80年も続くのは嬉しいことでしょうか。医療費や年金、介護の問題が今よりももっと重く若い人たちにのしかかって、社会は崩壊してしまうでしょう。20歳から40歳くらいまでの青年・壮年時代が長く持続し、120歳くらいでも現在の40歳と同等の体力・精神力が維持出来たらどうでしょうか。この場合は、120歳までバリバリの現役として仕事に励み、私生活を満喫することが出来ますが、一方では後から続く若い人たちの行く手は完全に阻まれてしまいます。社会のどこへいっても、高齢者たちであふれかえり、若い人たちは仕事も結婚もままならない窒息状況となるでしょう。結婚したとしても子づくりはますます難しくなり、少子化はさらに進んで、ある時点で人口が一気に縮小してしまうかも知れません。 さらに、せっかく寿命が大幅延長されたというのに、途中で交通事故や不治の病にかかって命を落としたらおしまいです。早死にする人と寿命を全うする人との、人生の格差が今以上に問題となるでしょう。こうして考えていくと、寿命を延ばすことよりも先に、ガンやエイズをはじめとする重い病気を確実に治療する技術、交通事故や天災などで助からない人を蘇生させる技術を開発することの方が、まず先決問題だという気がします。みんなが85歳前後まで生きることが出来るようになった後で、寿命を延ばす技術の開発に取り組んでも遅くはない、と思うのですが。(7月10日)

 <今夜は七夕、織り姫と彦星が年に一度しか会えない理由とは>
 今夜は珍しく快晴の七夕です。織り姫と彦星にとっては、年に一度の逢瀬が地上からよく見えすぎて、恥ずかしいのでは、などと思うのは、よけいな心配。いまは、再会を喜び合って人前はばからずに堂々と抱き合うのが、正しい七夕道かも知れません。ここでクイズです。カササギが天の川に架けた橋を渡るのは、織り姫と彦星のうちのどちらでしょうか。この答えは結構難しく、中国の伝説では、織り姫が橋を渡って彦星に逢いに行くことになっていたのですが、日本に伝播してからは日本の習俗に合わないとして逆にされ、彦星が橋を渡って織り姫に逢いに行くという設定になったのです。美しい織り姫が、いまかいまかと身悶えして彦星を待つ様子こそ、日本的な恋愛の極美なのでしょうね。ところで、この二人はなぜ年に1度しか会えないのでしょうか。何か理由があるのだろうかと、調べてみたら、意外な事情が分かりました。二人は天帝のはからいで結婚した夫婦だったのですが、仲よくしてばかりいて仕事をなまけたため天帝の怒りを買い、分け隔てられてしまった、というのです。要するに、イチャイチャしていて働かなかったため、年に一度しか会えなくなった、というわけです。世の善 男善女、若いカップルのみなさん、この話はよく心にしておく必要があるでしょう。彦星は牽牛ともいわれ農業の象徴であり、織り姫は機織りの女神で工業の象徴です。七夕伝説はそのロマンチックな雰囲気の中にも、生産活動、産業活動あっての恋愛であり子孫繁栄であるということを、鋭く諭している物語なのですね。ともあれ、二人は今夜だけは仕事を忘れて1年ぶりにたっぷりと愛を交わし、明日からはまた仕事に励み続けることでしょう。(7月7日)

 <他の星のETが地球に飛び交う電波を傍受したら何と思う?>
 映画にもなったカール・セーガンの「コンタクト」の中で、かなたの宇宙から地球に向けて発信されている電波を解析したところ、第2次大戦中のヒットラーの演説の様子が画面に現れて、関係者が驚くくだりがあります。地球外知的生命が、地球から宇宙に飛び出した電波をキャッチした証拠として、地球に向けて送り返していた電波が、たまたまナチスについてのテレビの特集番組だった、というわけです。物語は、送り返された電波の中にさらに濃密な膨大な量の信号が隠れていて、それを手かがりにコンタクトへと進むわけですが、こうした設定に見られるように、外から見た地球はさまざまな電波を乱発信している異常な「光源」としてひときわ輝いているはずです。とりわけ出力の大きいものは、各国のテレビやラジオ放送であり、最近では携帯電話の電波でしょう。宇宙のどこかで、文明が高度に発達した知的生命体が、地球から発信される電波に気付いて解析を始めていたら、この地球のことを何と思うでしょうか。日本のテレビから連日発信されている「サッチー騒動」について、知的生命体はどんな分析をするのでしょうか。このサッチーというのは、地球の支配者なのだろうか、いい支 配者なのだろうか悪い支配者なのだろうか、地球の生命たちはなぜ連日連日サッチーのことについて協議を繰り返しているのだろうか。ほかにも分からないことがいろいろある。ジジコウとは何だろう。結合型の生き物だろうか。ヒノマルキミガヨとはどういうものか。音の出るアイコンの一種だろうか。地球はなんとも不可解で不気味な星だ。コンタクトを取るのは、もうすこし様子を見てからにするか。(7月4日)

 <ティラノサウルスの化石がネットで競売、最低価格10億円>
 恐竜ティラノサウルスの雄の化石が「Zレックス」と名付けられてインターネットのオークションページで競売にかけられているそうです。ネットのオークションなら面白そうだから僕も参加してみようかと思い、よく読んでみるとあまりのデカサに仰天。まず最低競落価格が500万ドル、日本円にして約6億円ですから、庶民が手を出せる値段ではありません。仮に、大金持ちの恐竜マニアが落札したとしても、体長が11−13メートルもあるということで、どこに飾っておくかが大問題です。日本家屋やマンションでは、部屋に入れることも出来ないでしょう。いったいどんな経緯でこの化石が競売にかけられたのか、興味津々ですが、おそらくさまざまな持ち主の手を経てきたのでしょう。1997年にはティラノサウルスの雌の化石「スー」が大手競売商サザビーズのオークションにかけられ、化石としては過去最高の836万ドル(約10億円)で落札されています。世界には、10億円出しても欲しいという人がいるということです。人間はなぜ、恐竜の化石に惹かれ、かくも血が騒ぐのでしょうか。6500万年前に絶滅した地球の支配者への畏敬と哀惜。あるいは、おなじようにいつか滅 びる自分たちが鏡に写った姿を見るような思い。なによりも、自分たちも結局は、何億年という時を超えた恐竜たちとDNAの仕組みが同一であり、地球の生命という点では同じものなのだ、という衝撃的な事実を確認する快感のようなもの。実は、僕の家にも、恐竜の卵の化石が2個あります。鉛の塊のような思い卵の化石を持ってみると、僕のDNAのある部分がザワザワと共振し、化石のDNAとコンタクトを取ろうとしているのが感じられるような気がするのです。(7月2日)



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