新世紀つれづれ草



04年1月−6月のバックナンバー

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2004年6月

 <『時間の岸辺から』その57 デジタル万引き> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 昔は、書店で立ち読みしている人たちを追い払うため、ハタキでパタパタと本のほこりを払って回る店主の姿がよく見られたものです。
 いまはコンビニでも書店でも、そんな光景はなくなりました。立ち読みされたくない本は、ビニール袋に入れるか紐でしばるかしておき、それ以外の本は立ち読み放任というところがほとんどのようです。
 立ち読みによって必要な情報を頭にたたきこみ、売り場を離れたところでポケットの紙切れなどに、読んだ内容を忘れないうちに走り書きでメモに残すようなことは、ボクも何度か経験があります。
 こうしたアナログな情報の寸借が、社会的に黙認されているのは、どんなに物覚えの良い人間でも、一時的な記憶力には限界があるからだと思います。
 先日、近所のコンビニで、コピー機を使おうとしてカバーを開けたら、一冊の週刊誌が開いたまま置いてありました。
 前の人の忘れ物かと思って店員に知らせたところ、これは店の商品で、不心得物が必要なページをこっそりコピーして立ち去ったものと分かりました。
 コピー代を払っているとはいえ、これはもはや情報の万引きです。
 最近、カメラ付き携帯電話で、本や雑誌の必要な箇所だけをさりげなく撮影してしまう「デジタル万引き」が、大きな問題となっています。
 日本で使われている携帯電話は8000万台を超え、うち5000万台がカメラ付きで、いまやどんな場所でもカメラのレンズが向けられていると思って間違いありません。
 携帯電話の場合は、着信のチェックをしたりメールを打っているのとほとんど同じような操作で、本のページをコピー機にかけたときと同じくらい精密に撮影してしまいます。
 とりわけ狙われやすいのは、情報誌に載っている映画館や飲食店の地図や紹介記事、料理のレシピなどで、撮影する側にそれほど大きな罪の意識はありません。
 いまのところ「デジタル万引き」には取り締まる法律がありません。個人が私的な目的で撮影するだけならば、著作権法にも触れないとされています。
 日本雑誌協会は、携帯電話による書籍・雑誌の撮影を禁止するポスターを張り出し、モラルに訴えていますが、あまり効果はないようです。
 撮影禁止の美術館などでは、客が持つ携帯電話のカメラレンズに、目隠しのシールを貼らせるところも現れました。
 書店では、目隠しシールまでは踏み込むところはありませんが、携帯電話で本を撮影しているらしい客に対して、店員が注意して回るところも出てきました。
 デジタル技術の進歩に対する自衛策は、昔ながらの店内巡回しかないのが、いまの社会の実情です。
 そのうち、ハタキを手にして本のほこりを払って回る店主の姿が復活するかも知れません。(6月29日)

 <無免許運転50年に思う、発覚さえしなければ何だってやれる社会>
 茨城県古河市で、50年間もの長期に渡って無免許運転を続けてきた67歳の男性が、ひき逃げ交通事故を起して逮捕されたというニュースが朝刊各紙に載っています。
 50年といえば実に半世紀です。男は、見よう見まねで運転を覚え、これまで一度も免許を取ったことがなかった、と言っているとのこと。これは、もしかしてギネスブックものではないでしょうか。ギネスブックに「負の記録」部門というような項目があれば、の話ですが。
 さらに、このニュースにはおまけがあり、男の長男も20年間、次男も15年間の無免許運転を続けていて、この家族は稀代の無免許一家だったというのです。
 今回、事故を起したために3人の無免許がそろって発覚しましたが、無事故のままだったら、一家の無免許運転日数は日々更新を続け、ついには発覚しないままだった可能性もあります。
 こうした発覚しない無免許運転というのは、実は意外に数が多く、事故さえ起さなければ大丈夫、と今日も日本全国津々浦々で、無免許運転の車が走り続けているのではないでしょうか。
 発覚しなければ規則違反も法律違反も、何食わぬ顔で隠し通すことが出来る、というのは、無免許に限らず、日本の社会に蔓延している「大人の常識」であり、ボクたちは社会の真の姿とはそういうものなのだ、と知る必要があります。
 かつての雪印にしても、今回の三菱の数十件にも上る重大リコール隠しにしても、企業の不祥事隠しやトラブル隠しがいっこうになくならないのは、発覚した時のダメージが大きくても、うまく隠し通せた時のメリットの方が数十倍も大きく、経営側にとって隠す誘惑に勝てないからです。
 不祥事や欠陥を知った企業のトップが、隠しおおせる確率と、内部告発などで発覚するリスクを天秤にかけ、隠しおおせる確率の方が高いと判断したら、隠すことに賭けるのは当然かも知れません。
 こうした欠陥やトラブルを隠していた企業が、連日のようにニュースになっている背後には、これをはるかに上回る発覚しないミスやトラブルが存在しているに違いありません。隠しおおせることが出来て、極秘裏に処理して事なきを得ていることの方が、企業にとってはごく当たり前のケースなのだといっていいでしょう。
 法律、規則、決まりごとなどは、すべて表向きの話。現実の世の中は、無法と不法、規則破りに満ち満ちていて、偉い立場になればなるほど、こうした「真実」を理解して、頬かむりや見てみぬふりを自然体で演じることが身についていくようです。
 世間や社会というものは、真面目な人たちが考えるほどには、きちんと構築されてはおらず、いいかげんで無責任なつくりになっているのかも知れません。(6月25日)

 <夜9時すぎに突然来訪した「水周りの点検」は、信用できるか>
 昨日の台風は、関東地方から離れたコースだったにもかかわらず、東京でも激しい風雨に見舞われました。
 そんな荒れ模様の中、夜の9時を回ってから玄関のチャイムが鳴りました。この台風の中を、宅配便か速達かといぶかりながら、インターホンに出てみると‥。
 「この近くで水周りの工事をやっている業者ですが、工事の案内と点検にうかがいました」とのこと。
 工事の案内とは、どういうことだろうか。近所で行う水回りの工事に伴って、騒音や断水などの影響が出るので、その説明なのだろうか、と一瞬思います。
 たずねてみると、「一軒ずつ水周りの状態を点検しています。説明をしますので、玄関まで出てきて下さい」といいます。
 これは何かおかしくないか。「その点検というのは、管理組合を通して行っているのでしょうか」と聞くと、「うちでやらせてもらっています」という曖昧な返事です。
 夜中というのに玄関のドアを開けて、水周りの点検をしてもらうために、見ず知らずの男を家の中に入れる人がいるだろうか、と思います。
 しかし、お年寄りだけの所帯や、一人暮らしの老人の中には、てっきり公的な点検と思い込んで、家に上げるものがいないとも限りません。
 大多数の家からは断られることを承知の上で、それでも10軒か20軒に1軒くらいは、家に上げて点検をしてもらう家があるからこそ、こうした夜の飛び込み営業が成り立っているのでしょう。
 家に上げたからといって、すぐに凶悪な態度に出るようなことはないとは思いますが、問題は点検した後のことです。
 水道のパッキングや排水管の継ぎ目などを少しいじって、「具合が悪いところを調整しておきました」と調整料を取られることは、十分ありうることです。
 それよりもこの業者の狙いは、「見えないパイプなど水周り全体に寿命がきているので、すぐに本格的な工事をしないと大変なことになる」として、半ば強制的に工事の発注を取り付けることにあるのでしょう。
 こうした業者の来訪は、これまでも何回かありました。いずれも作業服に身を包み、ボードにはさんだチェック用紙などを手にしていて、いかにも公的な点検という感じです。
 不思議なのは、それぞれ別な業者なのに、いずれも夜の9時過ぎに来ていることです。昼間の仕事が終わった後に、こうして夜回り営業をしているのでしょうか。
 点検をしてもらって悪い箇所を指摘されたのに、工事については結構ですと断ったら、とたんに態度が豹変して脅迫まがいの捨て台詞を残して行った、という話が、新聞の投書欄に載っていました。
 うまい言葉のかげには、落とし穴があるものです。やはり、めったなことではドアを開けてはなりません。(6月22日)

 <カレー事件の林被告は本当にクロなのか、3つの大きな疑問>
 和歌山カレー事件の林真須美被告は、シロかクロか。カレーにヒ素を入れた犯人は、本当に林被告なのか。
 大阪高裁で行われている控訴審の公判で、黙秘を続けてきた林被告が初めて供述し、問題とされる時間帯には次女とカレー鍋の見張りをしていて、鍋のふたは開けてない、と述べて無実であることを主張しました。
 この事件の公判が、裁判員制度によって裁かれることになっていたら、裁判員たちはどのように判断するでしょうか。
 林被告の性格や人格が、たとえいかに社会常識をはずれたものであり、良識ある市民とはいえないものであったとしても、それとシロクロとは別物です。
 事件後さまざまな報道が、「平成の毒婦」とまで呼んだ林被告のさまざまな挙動が、社会的な非難を受けても当然な荒廃としたものであったとしても、だから林被告がやったことに間違いはない、とは断定できません。
 ボクは、事件の調書などを読んだわけでもありませんが、おおざっぱに言って、3つの疑問を感じます。
 第1は、カレーにヒ素を入れた動機です。近所の住民から冷たい態度をとられて激高した、というのは、4人も殺す動機としては弱すぎる、というのが常識的な印象ではないでしょうか。
 第2は、カレー鍋にヒ素を入れることが出来た人間を一つ一つ消去法で除いていって、最後に残ったのが林被告であり、林被告以外にヒ素を入れることが出来た人間はいない、というのは有罪を宣告するだけの説得力を持つのでしょうか。
 第3は、そしてこれが最も大きな問題だと思うのは、カレー事件が発生しなければ、林被告による保険金詐欺事件はおそらく永遠に明るみに出ることもなく、また保険金目当てとされるヒ素による殺人未遂事件も決して疑われなかっただろう、という点です。
 これらの事件が発覚する危険を犯してまで、一時の激高からカレー事件を引き起こすことは、犯罪者の心理からいってもあり得ないように思います。いかに林被告が悪女であっても、いや悪女ならばなおのこと、そのようなドジは決して踏まないのではないでしょうか。
 ワトソン君、この事件はもっと多角的に見ていかなければならないぞ。
 もしも、林被告をワナにはめて地獄に突き落としてやろうとたくらむものがいたならば、これほど完璧な状況設定はありません。林被告がヒ素を入れたという証拠もないけれども、林被告にはアリバイがなく、圧倒的に不利な立場に置かれています。
 保険金詐欺事件が明るみに出たおかげで、世間の心証は99%、林被告クロになっています。
 ヒ素を入れることが出来たのは林被告しかいない、という論理に落とし穴はないか。まさかと思うような人物が、決定的なウソをついているか何かを誤魔化している、ということはないのか。
 捜査関係者の調べに、なんらかの作為や仕掛けが紛れ込んでいないか。
 ボクが裁判員ならば、死刑を宣告した一審の判決は無理があるとして、もう一度振り出しに戻ってこの事件の全体構図を洗い直すことを要求します。(6月18日)

 <『時間の岸辺から』その56 さよならゴジラ> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 最近は銀座を歩く機会もめったにありませんが、たまに銀座に出かけた時には、ボクはいつも4丁目交差点の角にそびえ立つ和光の時計塔を見上げます。
 50年前、映画の中で東京湾から上陸して銀座に進んだゴジラが、この交差点を通る時のことです。
 時計の針が夜の11時を示し、鐘が鳴り始めた瞬間に、ゴジラは時計塔を一撃のもとに破壊しました。
 時計塔を壊された和光はその後長い間、映画を製作した東宝に対してロケを許可しなかった、というエピソードは有名です。
 映画「ゴジラ」は1954年の第1作以来、これまでに27作が作られてきました。
 しかしながら、ゴジラ生誕50周年の今年、東宝は12月に公開する28作目を最後に、ゴジラシリーズを終了する方針を明らかにしました。
 日本人にとってゴジラとはなんだったのか、そしてゴジラはなぜいま消えていくのかを、ボクなりに考えてみました。
 第1作のゴジラが作られたのは、太平洋戦争の敗戦からまだ9年しか経っていない時で、東西冷戦が高まる中、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験で第五福竜丸が被爆するという衝撃が日本中に走っていた時期でした。
 口から放射能を吐き出して周囲のものを焼き尽くすゴジラは、水爆の象徴でした。ゴジラが破壊した東京の街の無残な光景は、東京大空襲やヒロシマの惨状と重なります。この第1作は日本映画史に残る反核・反戦映画としても高い評価を得ています。
 2作目からのゴジラは、日本を舞台にほかの怪獣とバトルを繰り広げるなど、お子様向け怪獣映画の趣向が強くなっていきます。
 それでも、多くのゴジラ研究家やゴジラ愛好家が指摘しているように、ゴジラにはシリーズを通じて変わらない特徴があります。
 ゴジラはたいてい南の海から上陸して、夜の大都市に現れ、シンボル的な建物を次々に破壊しますが、決して皇居は襲いません。
 その本質については、さまざまな解釈が出されています。近代へのアンチテーゼ、都市なるものへの憎悪、戦争犠牲者たちの苦しみの総体、等々。
 ボクが考えるに、日本人がゴジラに対して持つ共振・共鳴の感覚は、二度と戦争はしたくないという反戦・非戦の意識と、深いところでつながっているように思います。
 第1作のゴジラが公開された11月3日は、奇しくも8年前に日本国憲法が交付された日です。
 ゴジラこそは、平和憲法が発信する警戒シグナルの具象化であり、戦争放棄を定めた憲法9条の守護獣ともいえる存在だったのではないか、とボクは考えます。
 自衛隊が戦闘地域のイラクにおおっぴらに派遣され、各種の世論調査で憲法改正賛成が反対を初めて上回るようになった今年、ゴジラが姿を消していくのは、偶然ではないような気がします。(6月15日)

 <名前にふさわしくない字を大量追加、なんのための人名漢字か>
 法務大臣の諮問機関である法制審議会の人名用漢字部会が、11日公表した人名漢字578字の追加案には仰天しました。
 雫、苺、遙、牙、琥、珀、萠、舵など、名前に使いたいという要望が多かった文字が加わったのは、むしろ遅すぎた感があります。
 こうした字が加わったのはいいとして、ボクが驚いたのは、呪、癌、溺、疹、痔、屍、罵、怨、など常識的に考えて名前にふさわしくないことが、誰の目にも明らかな文字をあえて追加していることです。さらに淫、妾、姦、娼も加わっています。
 審議会はなぜ、わざわざこのような字を人名漢字に入れようとするのでしょうか。
 現在でも、常用漢字にある文字はすべて人名に使うことが出来、殺、死、汚などが使えることから、使うかどうかは親の常識にゆだねるというのが、審議会の見解ということです。
 それでは何のための審議会なのでしょうか。人名用漢字に追加した中に含まれていれば、ひねくれた親がわざと問題になりそうな字を、自分の子どもの名前に使うケースがあるかも知れません。
 記憶に新しいところでは、1993年の「悪魔ちゃん」騒動があります。
 人名漢字に追加されたじゃないか、といって親が「呪怨」や「癌屍」といった子どもの名前を届けてきた時に、役所の窓口はどうするつもりでしょうか。
 女の子に、「姦淫」や「妾娼」といった名前をつけようとする親も出てくるかも知れません。
 「悪魔ちゃん」のケースに見られるように、こうした親は世間の意表を突いて出てくるもので、その根拠として人名漢字表にあることを挙げられたら、役所としては受理するしかないでしょう。
 役所が法務省の判断を仰いだりすれば、何のための人名漢字なのかということになってきます。
 人名漢字に追加しておいて、実際には使用を認めないというような、馬鹿げた対応をするくらいなら、ボクはいっそのこと人名漢字などというものは廃止して、JISの第1、第2水準にある文字はすべて名前に使用出来るようにすべきだと思います。
 それだと、人名に不適当な文字を使う親が現れるかも知れないだと? だって人名漢字にわざわざご丁寧に、人名にふさわしくない漢字を加えておいて、人名漢字を決めなければ不適当な字が使われるとは、どうかしていませんか。
 審議委員の方々は、自分の子や孫が溺淫君や姦娼ちゃんでも、平気なのですか。(6月11日)

 <122年ぶり金星太陽面通過、イランからのネット中継で見れた>
 今日は午後から122年ぶりという金星の太陽面通過が起こり、日本で見られるのは130年ぶりということ。各地の天文台などでは、この模様をインターネット中継する態勢を敷いていましたが、なにしろ日本列島は昨日、東北、北陸地方が梅雨入りして、梅雨のない北海道を除いてすべての地方が梅雨に入ったばかりです。
 ネットのライブ中継はどこもほとんど梅雨空に覆われて、めったにない天文ショーを前にしてどうすることも出来ない、ため息とうらみ節が全国から聞こえてきそうです。
 そんな中で、イランのイスファハン工科大からネット配信されたストリーミング動画は、完全な形で太陽の前を横切る金星の黒い小円を捕らえ続け、おかげで稀少なこの機会を見逃さずにすむことが出来ました。
 水星の太陽面通過は時々起こりますが、金星の場合はめったに起こらないとは不思議な気もします。これは、金星の軌道面が地球の軌道面に対して3.4度傾いているためで、起こる日は6月7日前後か、12月9日前後かに決まっています。
 また、めったに起こらない現象ですが、100年以上の間隔を置いて起きた後は、すぐ8年後にもう一度起こり、その後は再び、100年以上間を置かないと見られません。
 この次は、8年後の2012年6月6日に起こることが分かっていて、その次となるとさらに105年後の2117年12月11日まで待たなければなりません。
 ボクが驚嘆するのは、いかに天体の運行が正確であったとしても、100年以上先に起こる金星の太陽面通過の日付まで、今から分かっているというのは凄いことではないでしょうか。昔は天文学者が預言者として畏敬されていたというのも、うなづけます。
 こうした天体の運行は、これから100年間もの間、なにものにも邪魔されたり影響を受けることなしに、寸分の狂いもない正確無比の動きを続けていくということ自体が、あいまいででたらめでウソ八百の人間社会から見れば、うらやましいくらいに冷厳です。
 人間は、100年後の惑星同士の位置関係をちきんとはじき出すことが出来るにもかかわらず、122年ぶりに訪れた金星の太陽面通過が進行していることを知りながら、厚い雲に覆われて見ることが出来ないで地団駄を踏んでいる、というのも、なかなか味わい深いですね。
 人間の力でどうすることも出来ないのは、昔も今も雲の動きであり、天の気、すなわち天気なのですね。
 2012年も、やはり梅雨の季節なので、ずいぶんと空模様に気をもむことでしょう。2117年には、人間の力で雲をどかすなど、気象を人為的に動かすことが出来るようになっていると思いますか。
 ボクが思うに、そのころは温暖化の暴走を食い止めることが出来ずに、人類は破局の淵に立たされている可能性の方が高いような気がしてなりません。(6月8日)

 <佐世保の女児殺害で、加害少女はなぜ抑止力が働かなかったか>
 佐世保市の小6女児同士による殺害事件についてマスコミは、、「ぶりっ子と言われた」「重たいと言われた」など、刺殺の動機となった文言を、チャットや交換日記から探し出そうと懸命です。
 こうしたセンセーショナルな事件では、テレビのワイドショー的に、なぜ11歳の少女が同級生を刺殺したのかを、動機の面から明らかにすることがマスコミの使命であるかのごとくに報道は過熱し、読者も毎日クルクルと変わっていく動機報道に目を奪われがちです。
 ボクはこのような事件では、報道されているような動機はたぶん真実とは違うような気がしてなりません。おそらく本当の動機は、もっと複雑で重層的で、加害少女自身でさえも整理がつかないほど混乱していて、言葉では説明できないもののように思います。
 時間が経てば、しだいに動機らしいもの、あるいは動機につながるようなことがらは、断片的に明らかにされていくでしょう。
 しかしボクは、今回のような事件では、動機が何であれ、それよりも知りたいことは、人を刺殺するという重大な行為に対して、なぜ11歳の少女の心に抑止力が働かなかったのか、ということです。
 子どもであれ大人であれ、他人に対して猛烈に腹が立つようなことは、せちがらいこの世に生きるからにはしょっちゅう経験することです。時には、殺してやりたくなる時や、死ねばいいのにと思うことさえも、みんなが心の中で何度か経験しているはずです。
 99%以上の人たちは、どんなに心の中で殺意を抱くことがあっても、もちろん実行には移しません。実行しないのは、人を殺したり傷つけたりすることは良くないことだという、モラルがあるからでしょうか。そういう人も、もちろんいるでしょう。
 ボクが思うには、多くの人たちが、誰かを殺してやりたいと思った時に、実行しないのは、自分をがっちりと抑える強固な「抑止力」が働いているからだと思います。
 実際に人を殺傷したら、その後の自分の人生がどうなるかは、普通の人ならば思いをめぐらせることが出来ます。さらに、自分だけではありません。自分の家族がどのような状況に置かれるのか、そしてその後、どのような展開が待ち受けているのかは、容易に想像が出来ます。
 このように、自分と自分の家族が、一生地獄の苦しみを味わうという明々白々の見通しこそが、抑止力の最も重要な要素で、それは単なるモラルをはるかに超えた力を持っています。
 今回の佐世保の事件で、動機よりも重要なことは、刺殺した少女にはなぜ抑止力が働かなかったのか、という点です。事件を起せば自分や家族が、どのような人生を送ることになるのか、普通の子どもならば、どんな動機があったとしても、そこで行動に移すことを思いとどまるまずです。
 他人に対して憎しみや怒りを覚えることが問題なのではなくて、抑止力が効かないことこそが問題なのです。他人を思いやること以前に、自分の人生がたった一回きりのもので、やりなおしがきかないということを、全く分かっていないのかも知れません。(6月4日)

 <『時間の岸辺から』その55 落書き列島> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 日本史の教科書に載っている有名な落書きに、南北朝時代前夜の京都に現れた「二条河原の落書(らくしょ)」があります。
 「このごろ都にはやるもの 夜討ち、強盗、謀綸旨(にせりんじ)」で始まる落書きは、時の権力者への皮肉と風刺に満ちていて、落書き史上の最高傑作とされています。
 ボクが感心するのは、洒脱な文章でリズミカルに綴られた批判精神もさることながら、わざわざ立て札に書いて河原に立てるという、深遠な配慮です。
 これが建物の壁や塀に書かれたものだったら、当時の民衆をうならせるほどの効果をあげたでしょうか。
 落書きによって何かを表現し、伝達したいと思うならば、周りの人たちに迷惑をかけてはならない、ということを、この落書きの作者はよく心得ていたに違いありません。
 「二条河原の落書」から670年の歳月を経た現代の日本で、落書きの嵐が全国に吹き荒れています。
 落書きには、さまざまなタイプがあります。アメリカで一時期流行したウォール・ペインティングをまねたアート系のもの。グループの名前やイニシアルを、シンボル化した独特の書体によって表す「タギング」と呼ばれるもの。
 さらに、これらに便乗した悪乗りグループや個人によるいたずら書きが加わります。
 いずれも、人通りの多い都心の繁華街にはほとんど見られず、夜間に人出が少なくなる郊外に行くにしたがって、目だって多くなります。
 建物の壁や塀、シャッターや看板はもとより、線路沿いの法(のり)面、歩道橋や跨(こ)線橋の側面など、どうやって書いたのだろうと驚くようなところにまで、塗料やカラースプレーで書き付けています。
 条例で落書きへの罰則を設ける自治体も出ていますが、あまり効果はなく、各地の商店街や市民グループは、落書き防止のパトロールや、落書きを消す作業に追われています。
 警察庁のまとめによる全国の器物損壊事件は、昨年23万件と前年に比べて3万件以上も増えて、過去10年で最も多く、ほとんどが落書きによるものだということです。
 この落書きの蔓延(まんえん)を、ビジネスチャンスと位置づけ、「落書き落とし剤」などの消去グッズを開発して、自治体や市民団体に売り込みをはかるメーカーも続出しています。
 驚くことに、「落書き消去グッズ」の開発・販売に続々と参入している企業の多くは、落書きに使用されている塗料やカラースプレーを作っているメーカー自身なのです。
 そのうち、「どんな消去剤でも消えない塗料」と、「どんな塗料でも消せるグッズ」の両方を販売するメーカーが出てくるかも知れません。
 どんな盾(たて)をも破る矛(ほこ)と、どんな矛をも防ぐ盾を同じ人物が売るという「矛盾」の故事を、昔の話として笑っていられない気がします。(6月1日)

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2004年5月

 <バグダッドで2邦人が襲撃、この事件が号外ものである理由は>
 今日の昼前、新宿西口の京王デパート玄関前で、なにやら人だかりが出来ていて、その中心にいる人が大声で叫んでいます。
 何事だろうと近づいてみると、朝日新聞の号外を通行人に配っているところで、叫んでいる内容は「号外で〜す。バグダッドで日本人2人が襲撃されました」というものでした。
 ボクも号外をもらって見ましたが、「大きな事件ではあるが、号外を出すほどのことなのだろうか」という疑問が一瞬、脳裏をかすめました。
 号外をよく読んでみると、イラクで邦人が襲われたのは、去年11月の外交官2人殺害と、4月に起きた2件の人質以来のことで、死者が出ているという情報が本当ならば、外交官殺害以来のことになります。
 やはりこれは大変なことなのだと思いつつも、なぜこれが号外に値する重要な出来事なのかを、あらためて考えてみました。
 4月に人質事件以来、政府・自民党や一部マスコミからは、イラクでのNGO活動やフリーの取材活動に対しては、「自己責任」という言い方でもって、何が起きても政府の責任ではない、ということを明確にさせようとする動きが顕著になっています。
 外務省はイラク全土からの退避勧告を繰り返し出していて、そうした中で起こった今回の襲撃事件は、イラクでの日本人の活動を巡って、改めて激しい議論を巻き起こすことは必死で、その意味で号外ものだ、ということなのかも知れません。
 日本人ジャーナリストが襲撃されたことへの、新聞社としての危機意識から号外となった、とも考えられます。イラクでは去年の開戦以来、多くのジャーナリストが殉職していて、日本人だけが災難を免れるとは考えにくい状況にあり、今回の事件はすべての取材者にとって危機的な状況だということでしょう。
 号外を手にした人たちがそれぞれに、「なぜ号外なのか」を考えることに、今回の号外の最大の意味があるのではないか、とボクは考えます。
 ボクの解釈では、この邦人襲撃事件の持つ意味は、アメリカによるイラクへの侵略と不法占領を、日本が支援し加担していることに対する、犯人側からの警告であり、見せしめなのでしょう。
 イラクはいまや全土が戦争状態であり、米軍によるイラク人虐待事件が油を注いで、ますますベトナム化の一途をたどりつつあります。
 独仏露中は開戦はもちろんのこと占領統治にも加わらず、スペインも抜けてしまいました。その中で、日本だけは突出してアメリカに擦り寄り続け、世界の大勢に逆行する少数派としてますます目立つ存在になってきています。
 いくら政府が「人道支援」と言おうが、アメリカの占領統治に対して命がけで戦っているイラク人から見れば、日本もアメリカも同じ占領軍の仲間でしかありません。
 今回の襲撃事件は、日本がイラク戦争に片足どころかほぼ半身を突っ込んでいる状態を、白日の下にさらした事件として、その意味でまさしく号外ものなのだという気がします。(5月28日)

 <ラピスラズリの青が、「真珠の耳飾りの少女」や高松塚古墳にも>
 絵画に描かれた女性の中で、最も多くの人々を惹きつけてやまないのが、フェルメールの最高傑作とされる「真珠の耳飾りの少女」です。
 この絵の少女が頭につけている青いターバンはことのほか印象的ですが、この青の秘密が当時としては金よりも高価だった青い宝石ラピスラズリだったことは、多くのフェルメール研究者たちによって明らかにされています。
 「真珠の耳飾りの少女」の清楚な美しさは、この深い青があってこそのものなのですね。これがほかのどんな色であっても、たとえ青であってもラピスラズリ以外の原料による青だったら、絵から受ける印象は全く別の物となっていたでしょう。
 このラピスラズリは、ほとんどアフガニスタンでしか産出されない珍重な宝石で、フェルメールは、このラピスラズリを砕いて粉末にした天然ウルトラマリンという絵の具を、惜しげもなく使用したということです。
 先日、奈良県明日香村の特別史跡・高松塚古墳の国宝・極彩色壁画に、青の顔料としてラピスラズリが使われていた可能性が高いことが、東京文化財研究所の調査によって明らかになりました。
 フェルメールは17世紀のオランダの画家で、一方の高松塚古墳は7世紀末から8世紀初めころに描かれたとみられています。
 1000年という時を隔てて、日本とオランダで、アフガニスタンからもたらされたラピスラズリを使った絵画が存在しているのは、なんとも不思議な感覚にとらわれます。
 顔料としてではなく、宝石として装飾に使われているケースとしては、古代エジプトのツタンカーメンの黄金のマスクが有名です。
 さらに、原石としてのラピスラズリば、宮崎駿監督が絵コンテと脚本を担当した映画「耳をすませば」 にも出てきます。
 主人公の雫が書き始めた物語の中という設定ですが、猫の男爵バロンとともに雫が空を飛んで、遠い魔法都市にラピスラズリの原石を探しに行くシーンが幻想的です。
 ボクはかなり以前のことですが、鉱石の原石に夢中になっていたことがあり、気に入った鉱石を見つけては購入した記憶があります。
 その中に、ラピスラズリがあったかも知れない、と思い出したボクは、タンスの中や物入れの中を、くまなく探してみました。
 ボクの記憶からすっかり忘れ去られていたこれらの原石コレクションの中から、なんとラピスラズリが見つかりました。アフガニスタン産で、重さ1.7キロもある特大の原石です。
 このラピスラズリの原石は、2年前にようやくのことで手に入れた「耳をすませば」のバロン人形と並べて飾ってみました。
 映画の中のバロンのセリフが聞こえてくるようです。
 「いざ、お供つかまつらん。ラピスラズリの鉱脈を探す旅に」(5月24日)

 <頭頂部に穴の開いている新種の恐竜発見、何のための穴かを推理する>
 米モンタナ州の1億5000万年前の地層から、頭のてっぺんに謎の穴が開いている新種の草食恐竜の化石が発見されたました。全長15メートルの竜脚類の一種で、雷を意味する先住民の言葉から「スーワセア・エミリエアエ」と名付けられたそうです。(読売夕刊)
 頭頂部の穴は、なんのための穴なのかは全く不明です。命名からは、雷にでも打たれたというイメージがあるのかも知れませんが、その程度では頭皮に焼け跡が付くくらいで、頭部の骨に穴が開くことはないでしょう。
 南米やアフリカでも、頭に穴の開いた恐竜の化石が見つかっているということで、この穴は何らかの重要な機能を果たしていたことが伺えます。
 頭に鶏冠のような飾りをつけるのであれば穴は必要ありませんし、角を生やしていたとすれば角が付いたままの頭部の化石として残るはずです。
 ということは、この穴は外界から何かを取り込むための穴か、逆に体内の何かを放出するための穴、というのが一つの考え方でしょう。
 食物や水は口から、また空気は鼻から取り込みますから、ほかに頭から取り込む物質は考えられません。
 放出は、例えばほかの肉食恐竜に襲われた時に、スカンクのように毒ガスのようなものを出して退散させるということは考えられるでしょう。しかし毒ガスだとしたら、頭部で製造・貯蔵しておく必要があり、はたして脳の周りでそのようなことが可能なのか疑問です。
 物質の取り入れや放出ではなく、何らかの情報を取り込むための未知の感覚器官だった、という見方はどうでしょうか。
 例えば、超音波や赤外線といった通常の五感ではキャッチできない情報を、頭のてっぺんにつけた器官によって、脳に直接取り込んでいた、という可能性です。
 首の長い竜脚類の場合は、どうしても顔の後方が死角になってしまい、肉食恐竜が近づいてきても、首をひねって頭の向きを変えなければ、認識しにくいのではないでしょうか。
 ましてや、植物を食べている最中であれば、後ろの守りは完全に手薄になってしまい、胴体も長い尾も肉食恐竜の格好の標的となってしまいます。
 頭のてっぺんに備えたセンサーによって、肉食恐竜の身体から発せられる微量の超音波や赤外線をキャッチ出来るならば、厳しい自然の中で生き延びる可能性は飛躍的に高まります。
 もうひとつの可能性としてボクが考えるのは、ほかの仲間とのコミュニケーションの送受信器官がここから出ていたのではないか、ということです。
 通常、動物は鳴き声や咆哮などによってほかの仲間と原始的な交信を交わしてしますが、音を出すということは、ほかの肉食恐竜にも存在を知られることになり、危険と紙一重です。
 このため、外敵の接近を知った者が、音声に頼らずに、仲間たちに知らせて逃げてもらうことが出来るならば、種として生き延びる確率はずっと高くなります。交信の媒体は、やはり超音波や赤外線を使うのが最も簡単と思われますが、ほかの波長の電磁波による交信という可能性もあるでしょう。
 いわば電波を使った交信で、簡単に言ってしまえばボクたちが使っているケータイを、この恐竜たちは頭に備えていたということになります。もしかして、自分が見ている光景をそのまま仲間たちに転送出来る動画転送機能も備えていたかも知れません。
 頭の穴はよくよくの必要から出来たもので、あなどれない気がします。(5月21日)

 <『時間の岸辺から』その54 温泉に沸く東京> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 静岡県の伊東温泉は、イノシシによって発見されたと伝えられています。長野県の鹿教湯 (かけゆ) 温泉の発見者はシカ、野沢温泉はクマが発見したとされています。
 岐阜県の平湯温泉はサル、山形県の湯田川温泉と佐賀県の武雄温泉の発見者はシラサギです。
 各地にこうした言い伝えがあるくらいに、温泉というのは人間が利用するよりずっと以前から、自然に湧(わ)き出ているものだったことがうかがえます。
 温泉の熱源のほとんどは火山付近の地下にたまっているマグマで、火山の近くにはたいてい名湯と言われる温泉地があります。
 最近、火山地帯でもない東京の都心が温泉ラッシュにわいています。
 昨年3月、江東区の臨海副都心に大型温泉施設「大江戸温泉物語」がオープンしたのを始め、文京区、練馬区でも相次いで温泉レジャー施設がオープンしました。
 東京タワーに近い港区芝公園では、23区内では初めての温泉付き大型ホテルが、来年春の開業をめざして建設中です。
 マンション業者も、去年から今年にかけて、新宿区、足立区、町田市で、全戸に温泉を引いたマンションの建設を始めています。
 なぜ東京に次々と温泉が出るのか、不思議な気がします。
 ブームとなっている都心の温泉は、地下水の循環によって湧き出る火山性の温泉とは異なり、地下1000メートル以上もボーリングをして動力で汲(く)み上げる温泉です。
 東京では多摩地区の山間地を除いてほとんどの地域で、地下深く掘り進めば温泉にたどりつくことが最近分かってきました。
 ボーリング費用も以前に比べて大幅に安くなり、都心の源泉の数は、95年の33カ所から02年には52カ所に急増、温泉施設も38カ所から127カ所に急増しています。
 地下深くから汲み上げられている温泉は、1000万年前から200万年前もの太古の時代に、海水が地殻に閉じ込められたもので、化石海水と呼ばれています。
 化石海水の量には限りがあります。汲み上げた後の地下は空洞になるのか、地殻がへこむのか、はっきりしたことも分かっていません。
 東京都は、温泉掘削が地盤に及ぼす影響についての研究会を、去年10月に発足させたばかりです。
 ボクは率直に言って 都心の温泉ラッシュにはどこか違和感があります。
 温泉の醍醐味は、コンクリートに囲まれた都心の喧騒(けんそう)から離れ、大自然の深山幽谷(ゆうこく)につつまれてこそ、味わえるもののはずです。
 力づくで深い地下から化石海水を汲み上げて温泉にしてしまうやり方には、資金と技術があれば何でも出来るのだという、強引さが潜んでいないでしょうか。
 それは、自然に湧き出る温泉が持つやさしさとは、相容れないもののように思えてなりません。(5月17日)

 <愛鳥週間の愛鳥とは何をすることか、まさか鳥食を愛すること?>
 10日から愛鳥週間が始まっています。この時期になるといつも、不思議に思うことは、なぜ愛鳥週間だけが昔からあって、愛魚週間や愛獣週間、愛虫週間などがないのだろうか、ということです。これは鳥に対する不当な優遇ではないでしょうか。
 さらに、愛鳥とはどういう意味なのだろうかとも考えてしまいます。
 新聞やテレビでは、早起きしてバードウォッチングを楽しむ催しなどがニュースとして取り上げられています。愛鳥とはいっても、相手は人間が近づくと空を飛び去ってしまうもので、ネコやイヌのように抱いたり触ったりして可愛がるわけにはいきません。遠くから観察するくらいが、せいぜいの愛鳥ということでしょうか。
 いや、もしかすると鳥を愛するというのは、鳥食を愛することの意味なのではないか、などとオソロシイことを考えてしまいます。
 だいぶ昔のことになりますが、愛鳥週間の催しの一つとして、愛鳥作文コンクールというのが行われ、なぜかお門違いのボクが審査員の一人となって、作文の選考会に臨んだことがあります。
 その選考会で出された昼食のお弁当は、なんと鳥のから揚げでした。これは主催者のブラックユーモアだろうかと、ボクはしばし箸をつけるのをためらいました。
 「鳥ですね」とほかの選考委員に言うと、「ああ、鳥ですね」と短い返事。会話はそれ以上進まず、なんとなく気まずい雰囲気の中を、選考委員たちは鳥のから揚げを食べつくし、みな何食わぬ顔で午後からの審査に入りました。
 いやはや、人間というのは、なんともすごい動物です。愛鳥とは鳥を食することなりと、目からウロコが落ちたしだいです。
 去年、モロッコを旅行した時のこと、カサブランカのスーク(市場)で、生きたニワトリを売っている店が何軒もありました。驚いたのは、客がニワトリを買うと、目の前で絞めてからさばいてくれるのです。まるで活き魚をさばくような感覚です。
 絞められるニワトリの断末魔の鳴き声が、迷路のようにゴチャゴチャしたスークのすみずみまで響き渡りますが、耳をふさいで見ないようにしているのは日本人観光客くらいのもの。モロッコの人たちにとってはごく日常の光景なのですね。
 愛鳥週間の対象となる鳥は、ボクが思うに食用になっている鳥以外の鳥で、捕まえることが出来るものならば、それらの鳥も食べてしまいたい、というのが人間の本音のような気がします。
 捕まえるのが難しいから、愛鳥週間のようなものをこしらえて、負け惜しみをしているような、そんな偽善っぽさをボクは感じてしまいます。
 愛鳥週間についてどう思うか、聞けるものなら鳥たちの受け止め方を聞いてみたいものです。(5月13日)

 <現役世代の年金掛け金で、いまの年金世代を支える仕組みが混乱のもと>
 どうもよく分からないのですが、国民年金の未払い期間があったということは、内閣官房長官が辞職したり、野党第一党の党首が辞任するほど大変なことなのでしょうか。
 年金の仕組みが複雑すぎて理解できないのですが、国民年金の未払いによって不利益をこうむるのは、年金支払額が減額になる本人なのですから、これは脱税のような悪質な行為とは異なるのではないでしょうか。
 国民年金を払わなければならない人は、すべて例外なく払うべきであって、個々人の判断によって、あるいは錯覚やうっかりミスによって未払いが生じることは、国策遂行の観点からして許されない、というのは説得力に欠けます。
 新聞の解説などを読んでも、国民年金の未払い期間があったことが、なぜ脱税や秘書給与スキャンダル並みに騒ぎ立てることなのか、すっきりした説明が見られません。
 ボクが推察するに、現役世代が払っている国民年金の掛け金は、将来の自分の年金に当てるための積立金ではなくて、いまの年金世代に支払う年金の原資として使われているため、未払い者がいるとその分だけほかの現役世代の負担が大きくなり、だから未払いは悪いことである、ということのようです。
 しかし、年金の仕組みがこのようなものであることは、どれだけ多くの人が知っているのでしょうか。ほとんどの人たちは、自分が払っている年金は、将来の自分のための積み立てだと信じて疑わないのではないでしょうか。
 現役世代が払う年金によって、いまの年金世代の支払いにあてるというのは、なんだかごまかしのような気がしてなりません。どこかで巨額の年金積立金がいつの間にか、なんだかんだの名目で消えてしまい、苦し紛れで自転車操業のような年金の流れをこしらえてしまった、としか思えません。
 政府与党の年金改革案も、民主党の年金改革案も、非常にわかりづらいものですが、最低限に抑えておく必要があるのは、自分が支払った年金の掛け金は、絶対に他の用途に流用することなく、必ず自分の将来の年金として、確実に戻ってくる、という仕組みをはっきりさせることです。
 30年、40年後に物価上昇で積立金の値打ちが下がった場合は、それこそ消費税など国の責任によって、目減りを補填するような対策も必要でしょう。
 年金を若い時から払い続けた人は、確実にそれを上回る年金を将来受け取ることが出来るのだという、国の保障が何よりも求められています。
 逆にいうと、年金を払いたくないという若い人たちが続出しても、自分に跳ね返って将来、無年金になるだけならば、それこそ自己責任なので放っておくしかありません。
 そいう若者が老人になって生活することが出来なくなったら、自業自得として最低限の生活に切り詰めてもらった上で、生活保護を受けてもらうしかないでしょう。
 こういうシビアで割り切ったやり方を貫くか、さもなければすべての階層の年金掛け金を廃止して、その代わりに消費税を30%から40%程度に引き上げ、老後はすべての国民に政府が年金を保証するやり方しかないでしょう。
 年金を払うのはイヤ、しかし老後は年金をくれ、というのはもはや通用しないことを、はっきりさせなければなりません。(5月9日)

 <イラク人への虐待と蹂躪、辱め、これがアメリカのいう「自由」の実体だ>
 今朝の朝日新聞の2面に、イラクのアブグレイブ刑務所での米兵によるイラク人虐待の写真が載っていました。
 裸にされて折り重なるように床に積まれたイラク人たちは、いったいどれが胴体でどれが頭なのか、どれが手足なのか分からないほど、すさまじい屈辱の形になっていて、人数を数えることも出来ないくらいに折り曲げられ、のけぞっています。
 イラク人たちは、もはや人間の姿形をしていません。それは動物以下の扱いをされるまま、反撃も抵抗も出来ずに転がされている屈辱の肉の塊です。
 この人間の山の後ろ側で、腕を組んで得意そうにニヤニヤ笑っている男の米兵と、面白い遊びに興じているという表情で笑っている女(?)の米兵が写っています。
 新聞に掲載された写真は、膨大な虐待現場の写真の中のほんの一枚でしょう。もっともっと目をそむけるような写真がたくさんあり、ビデオ映像も相当数あることでしょう。
 それどころか、写真やビデオに撮ることすら出来ないイラク人虐待は、たまたま記録された虐待の何百倍あるいは何万倍もの件数があるはずです。
 拷問は日常茶飯事で、殺害でさえも当然のように行われ、遺体はゴミのように捨てられたといいます。
 女性の拘留者を裸にしての性的な辱めや、性行為の強要も行われていたと報告されています。
 もともと、ありもしない大量破壊兵器の脅威を大義名分に、国際世論を押し切ってアメリカが先制攻撃を仕掛けた国際法違反の戦争でした。
 イラク人虐待問題は、戦争とはそういうものだとして、覚めた見方をすることも出来るでしょう。古今東西のさまざまな戦争で、侵略軍の兵士たちが敵国民を虐待、虐殺したり、女性を性的奴隷にして強姦し回すなどは、戦争につきものでした。
 しかし今回のイラク人虐待は、戦争とはそういうものと片付けるだけではすまない重大な問題をはらんでいます。それは、アメリカという超大国の存在理由に対する、根源的な疑念です。
 アメリカは大量破壊兵器が見つからないまま、イラク戦争の目的をイラク国民の「解放」にすりかえ、それが無理だと分かるといつの間にかテロとの戦いになり、イラクにアメリカ的自由と民主主義を根付かせるのが目的だなどと、釈明に追われています。
 イラク人への信じられないほどのむごく屈辱的な虐待こそ、まさにアメリカの掲げる自由の実体であり、仮面を一皮むいたアメリカ的民主主義そのものなのです。
 これほどの肉体的精神的な苦痛と辱めを受ければ、イラクの人々がアメリカへの怒りと憎悪を激しく募らせるのは当然のことです。
 イラク人が名誉と誇りにかけて、アメリカ兵を最後の一人まで追い出すために、あらゆる立場の違いを乗り越えた反米救国の戦いが沸き起こるならば、それこそが正義の戦争であり、道理に基いた戦争であることを、ボクは否定することが出来ません。
 日本政府は、これでもまだアメリカに義理立てして、自衛隊のイラク派兵を続けるつもりなのでしょうか。コイズミはイラク人虐待についても、「アメリカの立場は理解出来る」というつもりでしょうか。(5月5日)

 <『時間の岸辺から』その53 バーチャルな星空> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 ニート彗星とリニア彗星という2つの彗星が、いま地球に接近中です。
 5月末ごろには、400年ぶりに2つの彗星を同時に肉眼で見ることが出来ると予想されていますが、確実に見るためには明かりの少ない山や野に行く必要があるようです。
 ボクは7年前の1997年3月、4300年ぶりに地球に接近したヘール・ボップ彗星を見た時の感動が忘れられません。
 東京で見ることは不可能だろうとあきらめていたのですが、たまたま強い寒風でスモッグも春霞も吹き飛ばされて、大気が澄み切った夕刻、尾もくっきりとした彗星を、肉眼でキャッチすることが出来ました。
 星から発せられた光が時間と空間を旅して、いま自分の目に届いたのだと思う時、人間は広い宇宙と自分との確かな接点を感じます。何万年も何十万年もかかって旅してきた星の光も少なくありません。
 その星空が日本の都市部から消えて久しくなります。
 大気汚染の方は排ガス規制などによってかなり改善されてきましたが、ビルの明かりや広告塔、ネオンなど、夜の市街地が不必要なほどに明るいために、都市部では一等星くらいの明るい星を見つけるのが精一杯となっています。
 裏返しとして、日本は世界一のプラネタリウム王国となってしまいました。アメリカはプラネタリウムの数でこそ世界一ですが、中小規模のものが多く、ドーム直径15メートル以上の大型プラネタリウムは日本が約100カ所とダントツなのです。
 年間入場者は、1990年に574万人を記録したのをピークにしばらく減少が続き、渋谷の五島プラネタリウムをはじめ閉館が相次ぎましたが、去年あたりから再びプラネタリウム人気が盛り返してきてきました。
 去年6月にいったんは閉館した池袋のプラネタリウムが、投影装置を一新して3月にリニューアル・オープンしたのをはじめ、東京・お台場には昨年暮れに新しいプラネタリウムがオープンしてカップルや家族連れでにぎわっています。
  ボクもかつてはプラネタリウムによく行きました。静かに流れる音楽と満天の星。それはそれとして楽しむことが出来ましたが、プラネタリウムを見終わった後のむなしさもまた、消しようのないものでした。
 ドームに映し出されたバーチャルな星空。その星の光は、はるばる宇宙空間を旅してやっとのことで地球に届いた光ではありません。あくまで、投影機の人工的な光に過ぎません。
 ボクは、教育や癒し(いやし)の空間としてのプラネタリウムの役割を否定するものではありませんが、プラネタリウムから一歩出れば不夜城のような街の明かりで、本物の星が見えなくなっている光景は、どこかおかしいという気がしてなりません。
 夜空が白く輝くほどの強烈な街の明かりは、そろそろ見直す時にきているのではないでしょうか。(5月2日)

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2004年4月

 <明日からGW、あなたはマイカー派か交通機関派か出かけない派か>
 いよいよ明日から、GW。といっても、これといって行楽地に出かける予定もないボクにとっては、あまりピンときません。普段と変わることといえば、夕刊のない日が多く、またGW後半には朝刊のない日もあったなあということくらいです。
 GWもそうですが、8月のお盆休みと年末年始は、行楽地も交通機関も道路も、混雑の極みとなります。いくらこの時期しか休みがとれない人が多いといっても、わざわざ混雑に突っ込んで、自らもまた混雑の一翼となるという、この日本人の集団行動がボクには苦手です。
 雑踏を見に行って、なにをするにも長蛇の列で、並び疲れてクタクタになるくらいなら、家でゆっくりするか、近場をぶらぶらと散歩するくらいが、最高のレジャーなのに、と思ったりします。
 何よりもボクが理解に苦しむのは、100キロにもなる道路の大渋滞をものともせずに、マイカーで行楽地などに出かけていく人たちの多さです。
 高速道路の料金所までたどりつくのに、4時間や5時間の渋滞は平気で、歩く速度よりもノロノロとしか進まない車の中で過ごして、何がいいのかと思います。
 ボク自身、かつてはマイカーで行楽地に行ったりしたこともありましたが、大渋滞に巻き込まれるのは心底から苦痛でした。
 渋滞することが分かっていながら、それでもマイカーで出かけて案の定、渋滞で身動き出来なくなってしまっても、イライラもせずに平気でいられる人たちは、よほど車が好きな人たちなのかと思ったりします。
 つまりは、行楽地に行って、そこで楽しむことは主要な目的ではなく、マイカーで行くことこそが最高の価値であり、車に乗っていること(走っていることではなくて)こそが、レジャーそのものなのですね。
 彼らにももちろん言い分はたくさんあるでしょう。荷物を抱えて駅の階段を上り下りして、汗だくで乗り換えや乗り継ぎをするくらいなら、どんな大渋滞に巻き込まれようともマイカーの方がはるかに楽だ、と。また子供づれでは、自由のきくマイカー以外には考えられないという人も少なくないでしょう。
 それでもボクは、一カ月前の発売日にまめに指定券を買って、接続の列車やバスなどを事前に調べておけば、荷物が多かろうが子連れであろうが、交通機関を利用した方がはるかに楽だと思うのですが、マイカー派は異論があるでしょうね。
 結局のところ、人間には二種類の人間がある、マイカー派と交通機関派と、ということが出来るくらいに、これは人生観の違い、幸福感の違いなのだと思います。
 あ、もう一種類の人間がいることに、うっかりしていました。そのどちらでもなく、「人出の多い期間には出かけない」派がいることを忘れてはいけません。
 ボクは、交通機関派というよりはむしろ、この第三の種類の人間のような気がしてきました。(4月28日)

 <小学校で習う1006の常用漢字表を見て思う、日本文化は漢字にあり>
 最近、ちょっとした必要に迫られて、小学生が習う学年別の常用漢字表なるものを、初めてじっくりと見てみました。
 常用漢字1945字のうち、小学校で習う1006字は教育漢字と呼ばれていて、1年で80字、2年で160字、3年で200字、4年で200字、5年で185時、6年で181字が割り当てられています。
 これを見ると、日本はまさに漢字の国であり、簡易体を多く取り入れている現代の中国よりも、はるかに文字の難しい国なのだということが分かります。
 最近は、小学生でもパソコンやケータイを使いこなして、器用に漢字を打ち出して文章を作っていますが、読むことは出来るかも知れませんが、漢字を書けるかどうかは、はなはだ心もとありません。
 どんな言語でもそうですが、人間はみな、覚えなければ生きていくことが出来ないという状況に直面して、初めて必死で言葉を覚えようとし、文字を書けるようになっていくまで繰り返し練習をします。
 ボクが始めて社会人になった時がそうでした。当時は、パソコンだのワープロだのという入力機器は一切存在せず、出先からの原稿の送稿はすべて電話でした。
 送る方は、締め切りギリギリに電話をかけてきて、一刻も早く原稿を受けてもらおうと、おおいばりでどんどん読み上げていきます。
 受ける側は、受話器を肩と頭に挟み込んで聞きながら、ザラ紙の原稿用紙に鉛筆を走らせていきます。
 「穂高と槍ヶ岳の遭難で‥」などと早口で言われて、「ホダカってどんな字でしたっけ」などと聞き返そうものなら、「バカヤロー! ホダカも書けないのか。山のホダカだよ」と怒鳴られ、ボクは取りあえず原稿用紙には「ほだか」と書いておいて、後で地図か何かで確認しようとします。
 こんどは「ヤリガタケ」が分かりませんが、聞き返すのはもう怖いので、原稿用紙にはとりあうず「やりがたけ」と書いておきます。こうなると頭が真っ白になって、「ソウナン」もどんな漢字だったのか思い浮かびません。これも後で広辞苑で確認するとして、「そうなん」と書きます。
 こんな時に限って、デスクは「受けた分だけ先によこせ」といって、漢字の確認をしていない原稿を脇からさっと持っていきます。
 「ほだかとやりがたけのそうなんで‥」という、幼稚園児が書いたような原稿を見たデスクが、激怒します。「バカモノ。お前は漢字というものを書けないのか。小学校から出直して来い!」
 事件現場などからの、電話による原稿の読み上げ送稿は、今も新聞社では健在なのでしょうか。それとも、ノートパソコンをケータイに接続してスマートに送信しているのでしょうか。
 常用漢字表を見ながら、こうしたことを思い出すにつけ、日本精神だの日本文化だのとお上から言われなくても、日本人として切っても切り離せないのが漢字なのだということを、改めて感じる日々です。(4月24日)

 <『時間の岸辺から』その52 ドラえもん人気> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 「ドラえもんのタケコプターが実現可能かどうかを検討せよ」という設問が数年前、千葉大学理学部と工学部の入試問題として出されたことがあります。
 タケコプターとは何かを受験生が知っていることが前提になっていて、ドラえもんがいかに日本人に浸透しているかが伺えます。
 今年は、ドラえもんが映画化されてから25周年ということもあって、このマンガの息の長い人気が改めて見直されています。
 映画は25作目が先月から公開中で、昨年の24作までの観客動員数は7500万人にのぼり、48作まで続いた「男はつらいよ」シリーズの8015万人に迫る勢いです。
 漫画の単行本は日本国内だけで約1億6000万冊が売れ、海外でも10の国と地域で3500万冊が売れています。
 ドラえもんオフィシャルマガジンと銘打った「ぼくドラえもん」という月2回発行の雑誌も2月から登場しました。
 作者の藤子・F・不二雄さんの出身地である富山県高岡市の市立中央図書館には、今月から全作品1344編をそろえたコーナーが誕生しました。
 新たなドラえもんブームともいえる人気の秘密は、どこにあるのでしょうか。いろいろな理由が考えられますが、ボクは次の二つが大きいと思います。
 一つは、原っぱの消失などのため外で遊ぶ機会が減っていた子どもたちが、ますます外から締め出されている現状です。
 自治体が公園を整備しても、子どもたちはなかなか寄り付きません。公園に不審な大人がうろうろしていて、子どもを連れ去る事件が続出している世相が背景にあります。
 放課後の子どもたちは学習塾へ行くか、近所の児童館に行って部屋の中で遊ぶかのどちらかです。児童館なら大人の目があるため、親も子どもに公園に行かずに児童館に行くよう勧めています。
 ドラえもんの世界は、究極の外遊びの世界なのだと、ボクは思います。子どもたちにとって、登場人物たちは外を縦横に駆け回る分身です。
 この分身たちと一体化して、「擬似外遊び」を体験できる爽快感が、子どもたちをひきつけて離さない魅力になっています。
 二つ目は、ドラえもんの世界は、勉強が出来て力の強いものが勝つのは当然とする強者の論理に対する、明確なアンチテーゼに貫かれていることです。それを体現しているのが主人公の、のび太です。
 世界の超大国も日本もいま、強者の圧勝は当然という競争原理を、むき出しにしている点で際立っています。
 ドラえもんは、勉強が出来なくても腕力がなくても、人や生き物に優しいことこそすべてに優先する価値である、というメッセージを発し続けています。
 強者になれない圧倒的多数の子どもたちや大人たちこそ、ドラえもん人気を支え続けている広い裾野なのだとボクは思います。 (4月20日)

 <人質解放に喜ぶ家族たちと、虫けらのごとく殺され続けるイラクの人々>
 イラクで人質となっていた3人が無事解放されました。テレビの速報を見た人質の家族たちの喜びようは、画面からも弾むように伝わってきます。歓声を上げ、抱き合い、小躍りし、手を取り合い、ニュースの画面をケータイに撮るもの、ケータイであちこちに知らせるもの。
 涙をぬぐい、声をつまらせて「ありがとうございました」と深々と頭を下げるもの。沈痛と苛立ちの一週間を吹き飛ばすような、歓喜の極みは、イタリア人の人質1人が殺害されたというニュースがあった後だけに、ひとしおのものがあったことでしょう。
 生死の境にさらされた人間が無事であることが、家族にとっていかに大事なことであり、これ以上の幸せはないのだということを、家族たちの喜ぶ様子は語っています。
 この家族たちの喜びの一端を、画面を通して共有しながらも、ボクは命が助かることがこれほどまでの大きな喜びであるということは、イラクの人たちの命についても全く同等なのではないか、と思うのです。
 昨年3月からのアメリカによるイラク戦争の開始以来、米軍の死者も多数にのぼっていますが、イラク人の死者は武装勢力では把握できないほどの数にのぼり、民間人の死者も1万人前後に達しているのではないでしょうか。
 ここ最近では、アメリカのファルージャへの包囲と空爆による無差別殺戮で、民間人600人が死亡したと伝えられています。こうしたイラクの犠牲者たち一人一人にも家族があり、一人の死者の回りには何人、何十人という家族の慟哭や号泣があるはずです。
 日本人の人質の命が助かったことの喜びの一方で、イラクの人たちの命は助からなくても仕方のないことなのかという、不条理さに対する割り切れさをどうすればいいのでしょか。
 アメリカのやり方を見ていると、イラク人は武装勢力であれ民間人であれ、虫けら同然の扱いです。アメリカの信奉する価値観と国益のためには、イラク人が何人死のうが全く問題ではないのだということが良く分かります。
 女性や子どもを含む多くの民間人の犠牲をものともせず、他国に力づくで拡大しようとしている「自由」や「アメリカ的民主主義」に、どれほどの価値があるというのでしょうか。いまやみんなが感じていることは、アメリカの大義なき戦争の目的は、何よりも石油の権益を支配下に置くことであり、イラクを拠点として中東全域をアメリカに忠実な国家に作り変えるためです。
 解放後に、イスラム宗教者委員会の人たちの前で泣きじゃくる高遠菜穂子さんの様子は、極めて印象的でした。高遠さんの涙の意味は、助かったことへの安堵感はもちろんですが、自分の命が助かったのに、多くのイラクの民間人たちが無抵抗のまま殺戮されている現状を、自分はどうすることも出来ない悲しみだったに違いありません。
 人間はみな、自分が生きているということは、理不尽に命を奪われている無数の人々の苦しみと無念さの上に、かろうじて成立していることを、知るべきです。
 生きるということは、それほどまでにきわどく危ういバランスの上にようやく保たれている営みであり、極限すれば結局のところ利己的な営みなのだと、ボクは思います。(4月16日)

 <休刊日なのに朝日と読売の号外配達、自衛隊イラク派遣は大失敗>
 イラクでの日本人人質事件のさなか、今朝の朝刊は休刊日のため休み。昨日は夕刊がなかったので、未明に出された「解放声明」も含めて、新聞は延々と報道の空白が続き、今日の夕刊でようやく気の抜けた2日分のニュースを掲載するのか、と思っていました。
 それがなんと先ほど9時半すぎに、玄関の新聞受けにバサッという音がして、新聞が配達されたのです。それも、驚くことに朝日新聞と読売新聞の2つの号外が、一人の配達員の手によってです。
 号外が家庭まで配達されるのは異例ですが、犬猿の仲の朝日と読売が手を取り合って共同で、それぞれの号外を配達して回るというのも前代未聞です。この事件に対する国民の関心の大きさとともに、休刊日が新聞離れの要因となっていることへの新聞社側の危機感がうかがえます。
 読売の号外は、いかにも号外という感じで、イラク人質関連ニュースだけを特大の見出しと大きな活字で組んでいて、最終面は英文のTHE DAILY YOMIURIの号外になっています。
 朝日の号外は、イラク関連ニュースだけでなく、スポーツ、社会、国際、経済など、ほかのニュースも8ページの中にコンパクトに収録していて、増ページラッシュが始まる前の昭和30年ころの新聞のような感じです。
 広告もラテ欄もなく、余計な作り物のページがないぶん、すっきりしていて読みやすく、新聞というのは、読者サイドからすれば8ページあれば十分こと足りるのだ、ということを認識させられる紙面です。ニュースに徹して軽量化するというのは、新聞生き残りの一つの道として、選択肢に入れておく必要があるでしょう。
 ところで、その人質事件ですが、こうした事態を招いた根本は、アメリカの間違った開戦とその後の不法なイラク占領にあることは、だれの目にも明らかです。
 このままいけば、アメリカの強気の思惑は裏目裏目に出て、イラク国民の民意をまったく読み取ることなしに、ベトナムの二の舞となって、結局はみじめな惨敗を喫して、多数の屍の山を残して撤収することになりかねません。
 日本政府は、いつまでもブッシュが政権にいるわけではないことを肝に銘じておくべきです。アメリカの政権が変わって、イラク戦争とその後の占領が誤りだったことを認めた時、ブッシュに追随してイラクに自衛隊を派遣した日本政府の責任もまた、国際的に厳しく問われることは避けられません。
 自衛隊をいま撤退させれば日本は国際的に権威失墜だ、という声がありますが、ここでいう「国際的」というのはアメリカのブッシュ一味のことでしかありません。最初からイラク戦争に反対して占領軍に加わらなかったドイツ、フランス、ロシア、中国、それに撤退を決めたスペインなど世界の大勢は、日本の撤退決断を高く評価することでしょう。
 ファルージャはじめイラク全土に戦火が拡大し、イラク人諸勢力の反米反占領闘争の色彩が濃くなっていく中で、「人道支援」をうたう自衛隊の活動は極めて制限されています。来る日も来る日も、宿営地の外に出ることが出来ない中で、自衛隊は何のためにイラクにいるのか、しだいに不明瞭になってきています。
 人質事件の展開は不透明ですが、こんどの事件をいい機会としてとらえ直し、アメリカに撤退を促しつつ、日本は自衛隊を撤退させることを一刻も早く、小泉首相が全世界に向けて表明すべきです。(4月12日)

 <東京メトロというレトロな響きに思い出す、橋・吉永のデュエット>
 営団地下鉄は、昭和16年に開業した帝都高速度交通営団という大時代的な名前を、60年以上も保持してきました。ボクはこの会社名を見るたびに、太平洋戦争が続く帝都東京を闊歩したカーキ色の軍服の群れを思い浮かべます。
 その営団が今月からようやく「東京地下鉄」と改名し、車内放送の案内にも「東京メトロ」の愛称が使われるようになりました。
 東京メトロという愛称は、いまふうの洒落た響きとともに、どこか下町ふうのレトロな響きがします。それはたぶん、日本がまだ貧しく、東京には都電が縦横に走っていて、夕陽が赤く家々を照らす中を、トウフ屋のラッパがのんびりと鳴り渡る、そんな時代の響きなのかも知れません。
 東京メトロという言葉は、どこかで聞いたことがあるような気がしてなりませんでしたが、ようやく思い出しました。
 昭和30年代の後半でしょうか、橋幸雄・吉永小百合の夢のコンビが歌って流行したデュエット曲「若い東京の屋根の下」です。
 このコンビによる歌としては、第1回レコード大賞を受賞した「いつでも夢を」が時代を超えた名曲として、いまも多くの人々に口ずさまれています。ボクは「若い東京の屋根の下」もそれに劣らず大好きな歌でした。
 当時、ボクはまだ東京に住んだことはなく、この歌をラジオで耳にするたびに、東京というところは、なんとロマンと恋にあふれたすばらしい街なのだろうか、と胸をときめかせ、いつか東京暮らしをすることに憧れていました。
 1番から3番まである歌詞は、みな「山の手も下町も 下町も山の手も」で始まり、小百合ちゃんの純情さが切ないくらいに際立っていて、高度成長期に入る前の東京をこれほど甘い哀愁を込めて描いた歌は、ほかにありません。
 この歌の3番に、「なじみの街よ 夜霧に更けて 下るメトロの階段よ」というくだりがあります。そのころのボクにとってメトロこそは、夢と希望にあふれる若い東京の象徴であり、メトロを乗りこなすような生活をすることが、ボクの当面の目標でした。
 そのボクも東京に住んで数十年。東京の現実は、歌のように甘いばかりではなかったのも事実です。それでも今のような季節に、夕陽がビルを染める光景を見ると、この歌の歌詞とメロディーが浮かんできます。
 あちこちで再開発による巨大ビル建設が相次ぐ東京ですが、地下鉄に東京メトロという抜群の愛称が付けられたことをきっかけに、そろそろ優しい街づくりへの転換を考える時期にきているのではないか、とボクは考えます。
 歌の2番で、橋・吉永コンビが声を合わせる「東京やさしや やさしや東京」こそ、これからの街づくりの立脚点ではないでしょうか。(4月8日)

 <『時間の岸辺から』その51 半鐘の鳴らし方> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 美空ひばりさんが歌った数々の名曲の中でも、ひときわ印象深いのが「お祭りマンボ」です。
 お祭り好きのおばさんとおじさんが、おみこしやお神楽に夢中になっている間に、おばさんは空き巣に入られ、おじさんは火事で家を失ってしまいます。おかしくも悲しい歌詞は、良質の短編小説のようでもあります。
 歌の中で、半鐘が鳴っていることをおじさんに知らせるところで、「火事は近いよスリバンだ」というくだりがあります。
 スリバンというのは、火災現場が近いことを住民に知らせるために半鐘を連打することで、この歌が作られた1952年ごろにはみんなが知っている言葉だったことが伺えます。
 いまは半鐘そのものが、広報車や防災無線のスピーカーなどにとって替わられ、すっかり使われなくなってしまいました。
 半鐘はなくなったわけではなく、地方の町や村に行くと、使われていない火の見やぐらのてっぺんにつるされていて、その下に消防のホースなどが干してある光景を、よく見かけます。
 正月の出初式の時だけ半鐘を鳴らすというところもあり、鳴らし方の分かる消防団員がいなくなった、というところもあります。
 この半鐘を、停電でも使える究極の防災警報機として見直そうという動きがいま出ています。
 茨城県北茨城市は、新年度から2年計画で、海岸沿いの22カ所に半鐘とそれをつるすコンクリート柱を新設し、津波警報などが出された時に使う方針を決めました。
 打ち鳴らすのは、市職員や消防団員、事前に登録した住民で、いざという時には市の災害対策本部から携帯電話で連絡を受けて、半鐘のもとにかけつけます。
 半鐘の音は、300メートルから500メートルの距離に響き渡り、警報伝達の役目は十分果たすことが出来る、とされています。
 市によると、ハイテクの警報伝達システムを整備すると1億5千万円の費用がかかるのに対し、半鐘は全部で1千768万円ですむそうです。
 このところ世の中は、あらゆる家電製品がネットワークで結ばれるユビキタス時代が喧伝され、携帯電話で家のエアコンの温度設定を指示したり、出先から冷蔵庫の中身を確認することが出来るような生活が、盛んに提案されています。
 ボクは、そこまでハイテク化する必要があるのだろうかと、首をかしげたくなります。
 なんでもかんでもハイテクでなければ遅れているという風潮こそ、仕掛け人によって作り出されているワナのような気がします。
 地方鉄道でSLが復活して着実に客足を伸ばし、子どもたちの間でソロバンやベーゴマが静かな人気をよんでいることは、注目に値します。
 北茨城市のように、エネルギーを使わない昔ながらのローテクをうまく使いこなしていくことこそ、21世紀らしい進み方なのだと思います。 (4月4日)

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2004年3月

 <明日から消費税込みの総額表示スタート、税率アップへの地ならしか>
 いつの間にか、今年2004年も4分の1が過ぎてしまいました。今日は2003年度の最終日で、明日から2004年度のスタートです。
 年度の始まりとともに、4月1日からいろいろな制度がスタートします。
 明日から変わる最も大きな改革は、商品やサービスの価格表示が、原則として消費税込みの総額表示になることでしょう。
 これまで380円で表示されていた商品は399円に、480円のものは504円にと、これまでキリのいい値段だったものが一気に、半端な価格で表示されます。
 すでにデパートなどでは今月半ばから一足先に総額表示に切り替えていますが、1円単位の細かく中途半端な価格の羅列は、見た目にも異常な感じがしてギョッとさせられます。
 なぜこんな面倒なことをするのかというと、政府の説明では消費者にとって支払う総額がすぐに分かって便利だ、ということですが、どうもこじつけの理由のような気がします。
 大方の見るところでは、近い将来に実施せざるを得ない消費税引き上げの地ならしというのが本当のところのようで、今後、消費税が7%、10%と段階的に上がっていっても、総額表示にしておけば消費者の反発は緩和出来る、と踏んでいるようです。
 それにしても、いままでキオスクなど駅の売店では、そもそもが総額表示になっていて、それが定着しています。また飲食店などでも、消費税込みで表示してきたところも少なくありません。
 今回、切り替えに追われているのは、なんとかして1円でも安く見せようと価格を8の字商法で設定してきたところで、総額表示によって8の字商法の意味がなくなってしまいます。
 580円と609円では、受ける感じは全くちがいます。これは一種の目の錯覚のようなものですが、消費税込みで609円のものよりも、580円プラス消費税5%のほうがもずっと安く感じてしまいます。
 今後、不動産価格やちょっとした家の修理の見積もりなども、総額表示になるのでしょうか。新築マンションはいま1000万円程度の値引きは当たり前といいますから、総額表示にする意味はないような気もします。
 細かいことを言えば、お店でお得意さんに渡す500円割引きなどのクーポン類は、本体に対する値引きなのか、総額からの値引きなのかによって、客が支払う金額は微妙に違ってきます。
 また海外パック旅行の代金などは、そもそも消費税がどういう扱いになっているのか、これも説明が必要でしょう。ツァー代金には、海外のホテル代金や食事代が入っているため、単純に日本の消費税をあてはめることには無理があると思うのですが。
 消費税をどのように使ったかという具体的な報告は、これまで国民の前に明らかにされているのでしょうか。法人税の伸びがあまり期待できない中、消費税こそが格好の財源として鵜の目鷹の目で狙われていることを、ひしひしと感じます。(3月31日)

 <六本木ヒルズ事故に思う、入場者を選別する回転扉は消えろ>
 昨日、六本木ヒルズの回転扉に、6歳の男の子が頭を挟まれて死亡した事故は痛ましい限りです。ビル側も扉のメーカー側も、想定外の事故だったとしていますが、ボクは起きるべくして起きた事故だったのだと思います。
 どのビルでもそうですが、ボクはいつも回転扉の前に立つ時、入るタイミングが取れないわずらわしさと同時に、ある種の威圧を感じて腹立たしい思いがします。
 回転扉の動きは意外に速いもので、回転している時に入り込むのは、二人がかりで回している縄跳びの回転の中に素早く入るのと同じタイミングが要求され、おそれをなしているといつまでたっても入ることが出来ません。
 ほかの人に続いて同じスペースに入ってしまうと、窮屈のあまりほかの人の靴を踏んでしまいます。手をはさんだり荷物をはさんだりする危険を感じながら、回転に合わせて足を動かし、扉から出るとホットするほどです。
 そもそも回転扉は何のために設置されているのでしょうか。スライド式の自動ドアではだめで、回転扉でなければならない理由とは何なのでしょうか。
 今朝の新聞には回転扉の効果として、ビル内の気密性が保たれる、機械に支障をきたす強風が入りこまないようにする、冷暖房効果が保持出来る、などの理由があげられていますが、本当でしょうか。
 回転扉を設置していないビルは、こうした効果がないためにビルとしての機能が損なわれているとでもいうのでしょうか。現に、今回の事故を受けて、回転扉の使用を止めたり、回転させずにスライド扉に切り替えるビルが出るということは、何が何でも回転扉でなければダメだというわけではないことを示しています。
 では、新しいビルやホテルが回転扉をつけたがる理由は何なのでしょうか。
 それは、回転扉を設置することによって、ビル側は入場者の資格を無言のうちにチェックし、入場者を選別している、ということです。
 はっきり言えば回転扉には、スマートに通過するすべを心得ている者のみが入場を許される、という暗黙の約束事があり、回転扉こそは現代の関所なのです。
 通ることが出来るのは、エグゼクティブでありセレブであり業界人であり、つまりは勝ち組のみなさんたちのために用意された扉です。
 関所の通過資格がある人たち、あるいは通過資格があると思い込んでいる人たちは、回転扉を通る際に、ことのほか落ち着いたふりをしていて、そのくせちょっぴり誇らしげな顔色を隠すことは出来ません。
 目の不自由な人や車椅子の人など、ハンディを負った人たちにとって、回転扉は極めて危険な存在であり、ビルにとってお呼びでない人たちに対する入場拒絶のサインと同じです。
 回転扉が流行る社会は、力のある者だけが大手を振って進んでいく社会です。
 入り口で差別と選別を行う「ふるい」としての回転扉は、即刻世の中から消えてほしい、とボクは願ってやみません。(3月27日)

 <ハルウララ狂想曲で思い出す、1970年の「走れコータロー」>
 高知競馬のハルウララは、武豊騎手が騎乗しても106連敗という記録を打ち立てました。
 重賞以外の地方競馬で初めて全国で馬券が売られ、ハルウララグッズは飛ぶような売れ行き。つめかけた報道陣は400人にものぼったそうです。
 ハルウララ人気を報じる今朝の新聞は、「自分の人生と重なり合う」「勝つことよりも走り続けることの大切さ」などと、どこも同じようなファンや識者の話が載っています。
 昨日は11頭中の10位に終わりましたが、おや、これってどこかで聞いたことがあるような気がしませんか。
 そうですね。思い出した方は相当の年齢の方かも知れません。
 34年前の1970年に、ソルティー・シュガーが歌って大ヒットした「走れコータロー」です。えっ、ソルティー・シュガーって知らない? 「岬めぐり」の山本コータローさんのグループといったらお分かりでしょうか。
 「これから始まる大レース」で始まるこの歌で、コータローは「スタートダッシュで出遅れる、どこまでいっても離される」と、さんざんな出だしを切ります。
 歌の2番と3番の間に入るセリフが絶妙です。当時の美濃部東京都知事の口調をまねて、「 エーこのたび、公営ギャンブルを、どのように廃止するかという問題につきまして」と始まるこのセリフは、一斉を風靡したものです。
 セリフは美濃部ぶしから一転して、競馬の実況アナウンスとなり、コータローは大きく遅れて10位で最後の直線レースに入ります。
 ハルウララも同じ10位でしたが、歌のコータローはここから神がかり的な奇跡を起し、居並ぶ名馬をかきわけてトップに躍り出るのです。
 ついでに騎手まで振り落とすという、文字通りのオチまでついています。
 この歌が流行った背景については、当時もやはり「みんなが自分の人生と重ね合わせる」といった見方がほとんどだったようです。
 負け続けているものが、時に信じられない力を発揮して勝利をものにするというのは、日本人の夢なのですね。
 ハルウララは生きたコータローであり、そこには阪神タイガースの影も二重映しになっているような気がします。(3月23日)

 <『時間の岸辺から』その50 人を裁く人> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 終戦から間もない1947年、東京地裁の山口良忠判事は、法律違反のヤミ米を食べることを拒否して餓死する道を自ら選びました。
 人を裁く立場の厳しさを身を持って示した出来事として、いまなお語り継がれています。
 陪審員制度のない日本では、裁判など自分と無縁と思っている人がほとんどでしたが、会社員や主婦など一般の人たちが裁判に参加する「裁判員制度」の導入が、先日の閣議で決まりました。
 殺人などの重大な刑事事件については、国民の中から無作為で選ばれた裁判員が、プロの裁判官とともに裁判に参加し、有罪か無罪か、有罪ならどのくらいの刑罰を課すかを決めます。
 裁判は原則として裁判官3人と裁判員6人で進められ、試算では一生のうちに裁判員に選ばれる確立は、116人に1人程度と想定されています。
 2009年4月の施行をめざして今後、国会などで細かい内容を詰めていくことになっています。
 さまざまな問題がある中で、国民にとって気が重いのは裁判員の守秘義務です。裁判を通して知りえたことは生涯を通じて漏らしてはならず、違反すれば懲役刑を課せられます。
 周囲の人に意見を聞くのも相談するのもダメ、裁判が終わった後も話すことは禁止ということでは、一生を貝のように口を閉ざし続けるしかありません。
 裁判員になった人が、供述調書や証拠調べなどの膨大な資料を、自分が納得のいくだけ十分に目を通す時間が、保障されるのかどうかも問題です。
 世論調査によると、裁判員になりたくないという人は、6割を超えています。
 閣議では、「思想・信条」を理由とした辞退を認めることにしましたが、辞退者が続出しないよう歯止めをかけるべきだという意見もあって、今後の大きな論点です。
 ボクは正直なところ、裁判員に選ばれたとしても、人を裁く自信はまったくありません。
 逆の立場になって、ボクが被告人として裁判にかけられるとしたら、裁判員に裁かれることには極めて抵抗を感じます。十分な法律知識や社会経験の少ない素人から、自分の行動やプライバシーに関する尋問をされても、一切何も答えたくありません。
 裁判員には、何よりも信頼できる人格と豊富な社会経験、そして山口判事並みとはいわないまでも、身ぎれいであることが要求されるのは当然でしょう。
 国民の裁判に対する関心を高めるというねらいはいいとしても、素人でも簡単に人を裁くことが出来るということになると、誤審につながるリスクも大きくなるのではと懸念します。
 無作為で選ぶのではなく、民間の適格者のリストの中から裁判長が任命するか、さもなくば公選制のような形をとるべきだとボクは思うのですが、国民レベルでこうした議論が行われることはもうないのでしょうか。(3月19日)

 <アテネ五輪のマラソン代表にQちゃん落選、待ちの姿勢が裏目に>
 Qちゃん落選。陸連は今日、アテネ五輪の男女マラソン代表を決定しました。シドニー五輪金メダルの高橋尚子選手は選ばれず、補欠からもはずれました。
 この結果は、昨日の名古屋国際女子マラソンで土佐礼子選手が2時間23分57秒の好タイムで優勝した段階で、ある程度予想されていたことですが、五輪連覇をめざしてきたQちゃんにとっては、思いもよらない厳しい結果となりました。
 アテネでもQちゃんの世界一の笑顔を楽しみにしていたファンも、残念だったことでしょう。
 ボクははっきりいって、Qちゃんは大きなカケに失敗したのだと思います。昨年の東京国際女子マラソンで2時間27分21秒の不本意なタイムで優勝を逃した後、Qちゃんはひたすら待ちの姿勢のまま、積極的に打って出ようとしませんでした。
 今回の名古屋国際女子マラソンに出場しないと決めた時、すでにQちゃんは精神的に五輪代表の座をすべりおちてしまったのだと言っていいでしょう。
 選考レース重視か実績重視か、これまでいくたびとなく揺れ続けてきた陸連の態度も、Qちゃんに甘い期待を持たせてしまったのかも知れません。
 Qちゃんは、名古屋で土佐選手がこれほどの好タイムを出すとも思っていなかったのだろうと思います。
 土佐選手は、Qちゃんが参加を見送った名古屋で、日本中が納得するタイムを自分が出せば五輪に行けると確信を強め、このレースにすべてをかけて臨んだに違いありません。土佐選手の好タイムを後押ししたのは、ほかならぬQちゃんの欠場そのものだったのです。
 ボクもQちゃんファンの一人として言わせてもらえば、Qちゃんは昨日の名古屋に出場すべきでした。出場してその結果、期待する展開にならなかったとしても、自分もファンも納得して笑顔でアテネをあきらめることが出来たでしょう。
 好不調は時の運とはいえ、運を味方に付ける最良の方法はチャレンジです。Qちゃんが捨て身で名古屋にチャレンジしていたら、レース展開はまた違ったものになっていたかも知れないと思うと、スポーツ選手は座して待つべきではないのだと、つくづく思います。
 スポーツだけではありません。人生の勝負どころにおいて、動くべきか動かずに機を見るべきかは、まことに難しい問題ですが、動かずに失敗するよりは、動いて失敗することのほうが、まだサバサバしていて、明日につらなる前向きのものがあるような気がします。
 ともあれ、選ばれた土佐選手、坂本直子選手、そしてすでに内定している野口みずき選手には、アテネでのメダルをめざして、涙をのんだ選手たちの分もがんばってほしいと思います。(3月15日)

 <エスカレーターの片側開け、そしてフォーク並びのマナーについて>
 先日、関西へ行った時のこと、エスカレーターの左側に立っていて、後ろから「すみません」と進路を空けるようせっつかされることが何度もありました。
 おっと、ここは東京ではなくて、大阪だったか、と改めて回りを見てみると、止まって乗っている人たちはみなきれいに右側に寄っていて、歩いて登る人たちのために左側を開けています。
 この状態でボクが左側に立っていたのでは、後ろから登って来る人たちがつかえてしまうのは当然です。
 関西と関東では、エスカレーターのどちらを開けておくかが逆になっていることは、昔から言われていましたが、数年前までは関西では左側を開けて右側に立っている人の方が、いくぶん多い程度だったようにボクは記憶しています。
 どっちを開けたかてええやんけ、というような、良い意味での関西的いいかげんさがあったような気がするのですが、いつからこんなに整然とみんなが左を開けるようになったのでしょうか。
 梅田の阪急にある長い動く歩道の場合は昔から、歩かない人は右側に立ち、急ぐ人たちは左側を足早に歩いていて、この習性がいつの間にかエスカレーターに広がっていって、左開けがマナーとしての市民権を獲得したのかも知れません。
 東京では、エスカレーターの右開けがすっかり定着しているせいか、東京・恵比寿の駅からガーデン・プレイスに通じる動く歩道には、「お急ぎの方のため、右側をお開け下さい」とわざわざ書いてあります。
 こうした右開けか左開けかをめぐっては、体の不自由な人たちやお年寄り、子連れの人たちなどから、どちらかを開けるべしという決まりを勝手に作らないで欲しい、という声が強く出されていますが、いったん定着した流れを変えるのは難しいことのようです。
 歩く元気のある人は階段を登れ、という意見もありますが、最近は地下深い駅では上り下りのエスカレーターが各2本ずつあるのに、階段が併設されてない場所もあって、急ぐ人はどうしてもエスカレーターを歩くことになります。
 話は変りますが、JRの「みどりの窓口」や金融機関のATM、公衆トイレなどでは、並ぶ人がすべて1列に並んで空いたところへ先頭の人から順に行く「フォーク並び」がかなりマナーとして普及してきました。
 フォーク並びと書いてなくても、2、3人がフォーク並びをして待っていると、後に続く人たちも自然発生的にその後に並んで、効率良く列がさばけていくものです。
 しかし、今日の昼、ボクは見たぞ。新宿の某Mデパ地下のレジで、おばさんたちが自発的にフォーク並びでレジ待ちをしているのに、それを無視してサッとレジの前に立ち、「みんな1列に並んでいるんですよ」とたしなめたおばさんに、「いえ、ワタシが先です」と敢然と言い放って割り込みを勝ち取った若い女性のア・ナ・タ。
 割り込みはおばさんの専売特許かと言われたのは、とうの昔のこと。いまやおばさんの方が、若い女性よりずっとマナーがよくなっているのですね。(3月11日)

 <『時間の岸辺から』その49 ネズミ求む> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 風が吹くと桶屋がもうかる、というのは思わぬ結果が生じることのたとえです。
 風が吹くと砂ぼこりが舞って、視力を失う人が増える。失明した人は三味線弾きとなるため、三味線に張るネコの皮がたくさん必要になって、ネコが減る。
 ネコが減るとネズミが増えて桶をかじるため、桶の需要が高まって桶屋がもうかる、という論法です。
 論理の飛躍のおかしさもさることながら、この話からは人間がいかにネズミの悪さに手を焼いてきたかが伝わってきます。
 古今東西を通じて、ネズミほど嫌われてきた哺乳類も珍しいでしょう。いつも駆除の対象となって追われ続け、実験動物として医療に貢献しているのに、ほとんど感謝もされません。
 最近は木造家屋が少なくなり、マンションなどコンクリート住宅が普及したこともあって、家の中でネズミを見かけることはまれになりました。
 すみかを追われたネズミは、レストランが入っている街中のビルや、地下鉄線路の側溝などにひっそりと生息していて、ときたま丸々と太った姿で現れて都会の人々を驚かせます。
 そのネズミが、日本でにわかに脚光を浴びています。
 石川県輪島市の伝統工芸品である輪島塗は、仕上げに使う蒔絵(まきえ)筆に、昔からネズミの毛を使ってきました。
 繊細な曲線を描くのには、ネズミの毛が最も適していて、とくに琵琶湖周辺など水辺に住むクマネズミの毛が最高とされてきたのです。
 それが1990年ごろから、再開発の影響などで水辺のネズミが激減し、理想的な蒔絵筆が作れなくなって、輪島塗そのものがピンチに立たされています。
 ネズミが減っると輪島塗が作れなくなる、というのは、これこそ思わぬ結果といえるでしょう。
 輪島漆器蒔絵業組合では、代わりにネコやウサギの毛で代用してみたり、ナイロン製の筆を開発してみたりと、対策に追われていますが、どれもネズミの毛と同じタッチは出せないといいます。
 奄美大島にいるアマミノクロウサギの害敵を駆除している自然保護団体が、網にかかったクマネズミの提供を申し出るなど、支援の動きも出ています。
 蒔絵業組合では、こうした提供を含めて全国各地からクマネズミを取り寄せ、どの地域のネズミが輪島塗の筆に適しているのか、研究と試作を続けています。
 経済産業省でもこの問題を重視して新年度から調査研究に乗り出し、5年後をめどに具体策を打ち出す方針で、もしかすると政府が音頭をとってネズミ探しが始まるかも知れません。
 ボクが思うには、蒔絵筆の毛となって輪島塗づくりの役に立つことは、人間に迷惑をかけ続けてきたネズミにとって精一杯の償いだったのではないでしょうか。
 どんな生き物にも、それなりの存在価値があるのだということを、つくづくと考えさせられます。(3月8日)

 <火星に大量の水の痕跡、アメリカが狙う火星の独り占めと移民>
 火星にかつて大量の水が存在していたことが、無人探査車の観測データから確実になった、とNASAが発表しました。火星には現在でも、地表の下に氷となった水が存在すると推定されていて、水が地表に存在していたこと自体は、それほど驚くことではないでしょう。
 こうなると焦点は、生命の痕跡が見つかるかどうかであり、さらには現在も何らかの形で生命が存在しているかどうか、になってきます。
 生命の痕跡は、おそらくそう遠くないうちに発見されるだろうとボクは思います。どんな生命なのか、やはりタンパク質で構成されるものなのか。また遺伝子は地球と同じDNAなのか。これらが解明されていった時、地球人の生命観は大きく変わるかも知れません。
 火星の地下に眠る凍土を溶かし、地球型の大気を作り出して火星の環境を人為的に変え、将来は人間が移住して住める惑星として改造しようという構想が、アメリカを中心に進められています。
 そのようなことが可能かどうかは、さまざまな議論があるところですが、これを推進しているのがアメリカであるという点は、見逃してはならないことだと思います。火星への殖民・移住は、いかにもアメリカの発想であり、かつての西部開拓と同じフロンティア精神を継ぐものでしょう。
 火星に食指を伸ばし始めたアメリカは、やがて火星を第2のアメリカとして、星条旗があちこちにはためき、コカ・コーラとマクドナルドがどこにもある街として、建国していくつもりなのかも知れません。
 そこでボクは改めて、1950年にレイ・ブラッドベリが書いたSF小説の白眉『火星年代記』を想起せずにはおられません。
 この小説の2002年10月のくだりでは、地球からの殖民が始まった時のことが次のように書かれています。
 「第二の波は、ちがった言葉と思想をもつ、ほかの国の人たちをもたらすべきだったのだ。だがロケットはアメリカ製であり、それに乗ってきた人々もアメリカ人であり、この状態は永くつづいた。ヨーロッパや、アジアや、南アメリカや、オーストラリアや、島々の人たちは、ローマ花火の打上げをただ見守っていた」
 そしてアメリカ人たちは、自分たちの出身地とまったく同じアメリカの街を、つぎつぎと火星に建設していくのです。この小説が書かれてから50年以上経った現在でも、アメリカの発想は何一つ変わっておらず、ブラッドベリの慧眼には驚くばかりです。
 この小説では、もう一つ忘れがたい箇所があります。
 2005年11月の記述で、地球が核戦争によって破滅する様子を、移民者たちが火星から息を殺して見守るくだりです。
 「黒い夜空で、地球の姿が変った。ぽっと火に包まれた。地球の一部は、まるで、巨大な嵌め絵が爆発したようだった。百万の破片に分裂したように見えた。つかのま、通常の三倍の大きさに膨らんで、不浄な、滴たるような閃光を放ちながら燃えさかり、それからだんだん小さくなっていった」(以上の引用は、早川書房版、小笠原豊樹訳より)
 火星を考えることは、地球を考えることです。火星の生命を考えることは、地球の生命を考えることです。
 火星は、見えていない地球の真の姿を映し出す、赤い鏡なのです。(3月4日)

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2004年2月

 <何をするにもユーザー登録だらけ、個人情報が漏れるのは当然>
 このところ、あり得ないはずの個人情報の大量流出が相次いでいます。三洋信販から200万人分のデータが流出したのにつづいて、ヤフーBBからは460万人分の個人情報が流出しています。
 ボクは管理者側が何と言おうと、個人情報ほど流出しやすい情報はない、と確信しています。
 だいぶ前のことになりますが、いろいろなサイトを見て回りながら、そのサイトのリンク先のさらにリンク先へと進むうちに、全くの偶然ですが、ある登録会員数百人分の名簿にたどり着いたことがあります。
 そこには、別なBBSによく書き込みをしていてボクがネット上でのみ知っている人の、住所と自宅の電話番号、勤務先と所属部署、勤務先の電話番号まですべてが露出していました。あの人の勤め先はここなのか、と好奇心をいたく満足させられる一方で、やすやすとプライバシーが覗けるシステムに背筋が寒くなる思いでした。
 ボクの自宅にも、マンション販売などさまざまな勧誘の電話がかってきて閉口します。こうした電話に対しボクは必ず、どこで名前と電話を調べたのかを聞きただすことにしています。
 「独自に調べまして」というような、しどろもどろの返事が多い中で、「お客様が以前に、ネットでお買い物をされたり、何らかのサービスを利用された時に、会員登録をされた時の情報を、名簿業者さんから購入して使わせてもらっています」という正直な返事も何度かありました。
 思い返してみると、ボクは実にさまざまな場面で個人情報を書かされています。パソコンからデジカメまで何か製品を買うたびに、ユーザー登録が義務付けられ、住所氏名、電話番号やメールアドレス、さらには性別、生年月日、勤務先と部署、既婚未婚の別まで事細かに記載しなければなりません。
 書きたくない項目を空欄にすると、記載されていない事項があります、というエラーメッセージが出て、ユーザー登録が出来ないものもあります。
 こうしたハードだけではありません。ウィルスチェックをはじめ、さまざまなソフトを使う時も、まずはユーザー登録をすることが半ば義務付けられます。
 オンラインで書籍を検索して注文出来るシステムなど、ネット上の各種サービスを受けるにあたっても、個人情報を事細かに記載しなければユーザーIDをもらうことが出来ません。関心のある分野にチェックを入れることが、必須になっているものも少なくありません。
 これだけいろいろなところに個人情報を出していれば、漏れるのは当然だと覚悟しておくしかないでしょう。
 登録した情報が絶対に漏洩しないと言い切れるのは、その情報にアクセス出来る関係者全員が100%の確立で、規則通りのことをする正しい人間である、という完全なる性善説が大前提です。
 さらに、情報の管理にまつわるいかなるミスも誤謬も、システム上の欠陥もないという、神の完璧さが要求されます。
 現実には、世に盗人の種は尽きまじで、個人情報が漏れるのは日常茶飯事と考えていいでしょう。
 住民基本台帳の個人情報が大量に漏れるのも、もはや時間の問題だろうという気がします。(2月26日)

 <『時間の岸辺から』その48 さらば牛丼> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 「よしぎゅう」と入力して変換すると、たいていのパソコンでは「良し牛」など意味不明の文字になりますが、ケータイでは即座に「吉牛」と変換されます。
 10代から30代くらいの世代では、「吉牛」と言えば牛丼の吉野家のことで、メールで相手に現在位置を知らせたり、待ち合わせ場所を決めるのに欠かせない日常語なのです。
 吉野家は日本全国に1千店近い店舗を持ち、どの街でも目印的な存在になっています。同業他社も店舗数を増やしていて、吉野家を含む大手の牛丼チェーン店5社が提供してきた牛丼は、1日100万食にも上ります。
 この100万食という数字に、ボクは驚嘆を禁じえません。一種類の料理だけが、これほど大量に提供されたことがかつてあったでしょうか。
 牛丼が国民食にまで成長したのは、値下げ競争によって大手チェーン店の多くが、丼一杯280円という破格の値段を実現したことが要因です。
 それに加えて、明治以降の日本人の中にある牛肉信仰のようなものが、牛丼の広がりを支えてきたのではないか、とボクは考えます。
 奈良時代から禁じられてきた肉食が解禁され、初めて食べた牛なべやすき焼きの味は、文明開化の味であり、あこがれの西欧文明の味であったことでしょう。
 牛丼は、牛なべやすき焼きの残りをご飯にかけたのが始まりです。牛肉は高価でなかなか食べる機会がない、という多くの庶民にとって、牛丼はオール・イン・ワンの略式すき焼きだったのです。
 いま、その牛丼が日本全国の津々浦々から一斉に姿を消すという、大異変が起きています。
 BSE(狂牛病)に感染した牛が見つかった問題で、アメリカからの牛肉輸入が止まっているためです。このあおりで、豪州産などの輸入牛肉も国産牛肉も、軒並み高騰を続けています。
 牛丼チェーン店では、鳥丼、豚丼、カレー丼、マーボ丼など、代替メニューで急場をしのごうとしていますが、価格も高くなって、牛丼ファンのつなぎとめは難航しています。
 ボクが不思議でならないのは、1日100万人にも上る牛丼難民を前にして、政府も国会も何ら救済策を打ち出そうとしないことです。
 1人前2万円も3万円もする高級すき焼きに慣れきった政治家や高級官僚にとって、280円の牛丼が消えることなど、どうでも良いことなのか、と思ったりもします。
 それにしても、確信犯と思えるほどの政府の無為には、別な理由があるのかと疑りたくもなります。
 牛丼の値下げ競争は、デフレの象徴のように言われてきました。デフレからの脱却に苦慮するこの国のリーダーたちは、消費者物価を反転させる格好のタイミングとして、今回の事態を舌なめずりして見つめているように感じるのは、うがち過ぎでしょうか。

 <50光年の距離にダイヤで出来た星、そこに知的生命がいたら>
 想像するだけでも、夢のような幻想的な光景が浮かびます。地球から50光年ほど離れたケンタウルス座の星が、巨大なダイヤモンドで出来ていることが分かった、と米ハーバード・スミソニアン天体物理学センターが発表しました。
 カラットにすると10の34乗といいます。10000000000000000000000000000000000カラット。
 この星は恒星が燃え尽きてできる炭素が主成分の白色矮星で、星の内部が超高圧のためにダイヤ化しているというのです。
 ビートルズの曲にちなんで、この星はルーシーと名付けられました。
 冷えて固まった恒星とはいえ、想像を絶する重力のため、生物がいる可能性は限りなくゼロですが、無数の偶然と幸運が重なって、重力に打ち勝つさまざまな生き物が進化して、ついには知的生命が登場したとします。
 ルーシー人たちの文化は、固いダイヤを切り取ったり削ったりする挑戦から始まりました。
 彼らの石器時代は、すべてダイヤモンドを削ったり割ったりして作ったダイヤ石器で、住居もダイヤの岩盤をくり抜いた洞窟です。
 食器も壷も、ベッドも棚も乗り物も、農具も工具も、すべてがダイヤづくめ。
 海岸も川岸も、それはそれはゴージャスなダイヤがかなたまで連なって、幾万もの輝きが水面に反射する様子はこの世のものとも思えません。
 ルーシー人の文化は、地球時間でいうと500万年もの長い期間に渡って石器時代のままでした。すずや銅、鉄など、青銅器時代や鉄器時代を生む元素が、そもそも存在しなかったためです。
 ダイヤの砂に生える植物や、ダイヤの野原に生息する動物たちを、必要な分だけを消費しながら栽培・飼育していく循環型の生活に徹し、電気も機械文明も持つことなく、持続可能な原始的生活を続けた結果、一つの文明としては稀に見る長期間、存続することが出来たのです。
 ルーシー人たちは、民族も国家も最初から存在せず、ダイヤに囲まれた原始生活以上のものを望もうともしませんでした。私有財産が偏在することもなく、そもそも戦いを知らない生命体でした。
 彼らの最大の楽しみは、詩をつくり、歌い、踊ることでした。
 このささやかな文明は、予想外の事態がきっかけで、あっけなく滅んでしまいました。
 50光年離れたところにある攻撃的な惑星から、ダイヤ目当ての探査機が続々と送り込まれ、ルーシー人たちの生活の基盤そのものを容赦なく破壊し続けたのです。
 戦い方を知らないルーシー人たちは、ひとたまりもなく滅びていきました。
 ダイヤをごっそり持ち去っていった惑星の名は地球。探査機が帰還する前に、地球ではダイヤの分け前を巡って収拾のつかない核戦争が起こり、地球人はすべて滅んでしまったということです。(2月20日)

 <通販には何度も懲りているはずが、広告につられて購入して失敗>
 ボクは通販が大嫌いです。新聞や雑誌の広告、送られているカタログなどに、どんなに飛びつきたくなる商品が掲載されていても、また魅力たっぷりの宣伝文が書かれていても、通販には手をださないことにしています。
 食わず嫌いではありません。これまで何度か通販に手を出してしまって、手痛い失敗を重ねた結果が、いまの通販嫌いなのです。
 通販で買ってはみたものの、宣伝文に書かれていたような利便さとは、ほど遠いもの。安さにつられて買ったものの、結局は使う機会がなく、物入れに死蔵したあげくに捨ててしまったもの。新しい機能を取り入れた画期的な商品には違いないものの、使い勝手が悪くて実用にならないもの。
 ボクが通販で買って失敗した割合は、95%を超えるでしょう。
 通販がなぜダメなのか。それはまさに通販であるからだ、と言えます。商品を店頭で実際に見て触り、大きさや機能を自分の五感で確かめ、疑問な点はすべて店員に聞いて、納得して購入するという、ショッピングの正道を踏み外しているために、通販で買った商品はガッカリ商品がほとんどなのです。
 そうしたことを百も承知で、もう何年も通販には見向きもしなかったボクが、魔が差してしまいました。今月5日の朝日新聞に大きな広告が掲載された、「ワイヤレス骨伝導ヘッドホン」という東芝製品を扱う通販です。
 耳で聞くヘッドホンと違って、頭蓋骨で音を直接受け止めるため、テレビを音声をこのヘッドホンで聞きながら、家族の話し声も通常と同じく聞こえ、電話やインタホンの音も遮ることはない、と夢のような説明文が並んでいます。
 ボクは、朝日新聞の広告であることと、東芝製品であることの二つの理由から、この商品が広告通りの機能を持つものと信じ込み、電話で購入してしまったのです。
 結果は、惨憺たるものでした。いくら説明書の通りにやってみても、ボクには骨伝導による音声がほとんど聞こえないのです。ヘッドホンのように直接耳にあてるとクリアに聞こえますが、それではこの商品を購入した意味がありません。
 結局、通販元に電話して使い物にならないことを話すと、意外にすんなりと返品OKの返事が返ってきました。
 ボクが思うには、骨伝導がうまく作用して聞こえる人もいるけれども、まったく作用しない人も少なくないのではないでしょうか。
 ケータイでも最近は、骨伝導を売り物にした新製品の広告をみかけます。
 自分に合う商品かどうか。よく試してから買うべきでしょう。
 なにしろ、頭蓋骨のそもそもの役割は、脳を外界から保護することであって、音を伝えることではないはずですから。(2月17日)

 <マスクの季節、不織布で7枚200円の使い捨てタイプがお勧め>
 街中でも電車の中でも、マスク姿が目立っています。今年の冬はSARSの流行はみられないものの、インフルエンザが全国的に蔓延している上、アジアやアメリカで感染が広がっている鳥インフルエンザも不気味で、外出する時は何はともあれマスクを付けようという心理に拍車がかかっています。
 それに加えてそろそろ花粉が飛び始めていて、花粉症の人にとってはつらいシーズンが始まりました。
 ボクも今年の冬は、カゼでもないのに外に出る時はマスクを着用しています。
 これまでマスクといえばガーゼのマスクしか知らなかったのですが、これが意外に高くつきキオスクなどでは250円もします。薬局では完全防備タイプの高級マスクしか置いてなく、使い捨てにするにはもったいない値段です。
 マスクの効果を調べたところ、値段の如何を問わず、不織布のマスクが細菌やほこり、花粉などを最も良くシャットアウトし、しかも呼吸が楽だという記事を何かで読んで以来、不織布のマスクをあれこれと探してみました。
 最も手軽なのは100円ショップで、不織布のマスクが3枚入りで100円あるいは4枚入りで100円。これなら使い捨てに出来る価格です。
 たいがいのコンビニでは不織布のマスクを置いていて、ボクの家の近くではファミマが7枚入り220円、サンクスが7枚入り200円と、100円ショップに劣らない低価格となっています。
 付け心地は、どれも大差はありませんが、大き過ぎると隙間が出来て、空気の濾過作用がだいなしになってしまうので、自分の顔にフィットするサイズを試してみるといいでしょう。ボクは7枚入り200円のものを使い捨てにしています。
 マスクは便利なものですが、人と話をする時には声がこもって相手に伝わりにくくなるので、買い物する時などは配慮が必要でしょう。
 またマスクは表情を覆ってしまうため、何を考えているか分からない不気味さがあり、ある意味で白い仮面としての役割を持ちます。時と場合によっては、表情を前面に出さなくてすむ気楽さが役に立ちますが、一歩間違えばコミュニケーションの拒否になりかねません。
 サングラスにマスクでは、顔つきを知られたくないという強い意思表示になり、その姿で銀行やコンビニに入っていったら、警察への通報ボタンを押されても仕方ないでしょう。
 マスクはなぜ白一色だけなのでしょうか。汚れが目立ちやすくて衛生的なためとは思いますが、せっかく顔の最重要部分につけるのですから、プリンターで自分の好きな図柄や文字を印刷出来る個性的なマスクがあってもいいように思います。
 「イラクへの自衛隊派遣反対」とか、「アメリカはイラクから撤退せよ」とか、そんな文字をプリントしたマスクを付けて歩いたら、どういうことになるでしょうか。ボクにはそんな勇気もありませんけど。(2月13日)

 <『時間の岸辺から』その47 夢見工房> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 ところは中世のヨーロッパ。異端審問裁判で火あぶりの刑を宣告された一人の修道士が、必死の思いで考えついたのは、夢の世界をくぐりぬけて独房の外に脱出することでした。
 修道士は夢の世界に入り込むことに成功しましたが、迷路に迷い込んで現実に戻ることが出来なくなりました。
 時間のない世界で、出口を探し続ける修道士の姿は、現代でも多くの人の夢の中で目撃されているということです。
 これは「眠りの帝国」というフランスの小説に出てくる話です。
 夢の世界は実在するもうひとつの世界なのかも知れない、という感覚は太古の昔から今日まで、人間につきまとっています。
 見たい夢を見ることへのあこがれは捨て難く、眠る前に見たい夢の内容を念じたり、会いたい人の写真を枕の下に置いておく、などさまざまな方法が試みられてきました。
 その願いが夢物語ではなく、本当に実現しそうな世の中になってきました。
 日本の大手玩具メーカーが、見たい夢を見やすくする装置を開発し、5月から発売するというのです。
 この装置で夢を見る手順は、会いたい人の写真などを装置に貼って寝る直前にイメージを整え、見たい夢のあらすじを自分の声で録音して枕元に置きます。
 眠りについてから6時間を経過して、最も夢を見やすい時間になると、装置から内容に合った音楽と香り、それに自分の声が静かに流れ出して、希望に近い夢を見ることが出来るという触れ込みです。
 見た夢を忘れないように、太陽光に近い光を徐々に浴びせて、ゆっくりと目覚めに導く機能も備えています。「夢見工房」と名付けられた装置の値段は、1万4800円。
 期待通りの夢を見ることが出来る確率が5回のうち1回くらいでも、人間の夢見史上、画期的なことだとボクは思います。
 細かいストーリーを設定するよりは、おおざっぱな舞台設定と登場人物だけを指定し、あとは夢が本来持っている意外性や現実離れした展開にまかせる方が、実現度は高くなり、忘れがたい夢になるでしょう。
 この装置の効果はともかくとして、人類が進化の過程で夢を見る能力を獲得したのは、何のためでしょうか。ボクが想像するに、それは不可能に満ちた短い人生を、希望を持って豊かに生きる知恵なのではないでしょうか。
 夢の中の不思議な出来事や、それに伴う高揚や驚きの感覚、甘美な陶酔感、声を上げるほどの恐怖などは、記憶に入ってしまえば現実の思い出と等価値で、体験という意味ではどちらも本物なのだ、とボクは考えます。
 優れた夢見人とは、夢と現実を自在に行ったり来たり出来る人のことだと思います。
 夢で会った素敵な人と、「じゃあまた明日」と指切りをして、翌日に夢の続きに入ることが出来たら最高ですね。(2月10日)

 <空から1万羽の鳥が降った不気味、ウィルスを積んだ鳥兵器だったら>
 いしいしんじさんの「麦ふみクーツェ」というファンタジックな小説に、空からネズミの大群が雨のように町中に降ってくる話があります。
 ネズミの雨は午前中いっぱい続き、頭を直撃されて亡くなった人が17人、命を落とした家畜が83頭、屋根に穴があいた家は131件と、なぜか被害の数字はどれも素数になっています。
 保健所に運ばれた、ネズミの死骸は32トンにも達し、これもグラム単位まで正確に測ったら素数になるはず、と主人公の父親は確信します。
 この奇妙な話を思い出したのは、中国・江蘇省で3日昼過ぎ、空から雨のように鳥が降ってきて、道路も農地もあっという間に鳥の死骸で埋め尽くされた、というニュースです。
 鳥の種類はまだ分かっていないとのことで、死んだ鳥の総数は1万羽にものぼるということです。
 いったい鳥に何が起こったのでしょうか。鳥インフルエンザの疑いもあり、何らかの中毒とも見られていますが、空を飛んでいてこれだけの数が一斉に突然死して落ちてくるというのは、まことに不気味であり、不思議なことです。
 この鳥たちは1日ごろから上空を旋回していたと地元の人たちは話しているそうです。
 ボクが推測するには、一斉に食べた餌に問題があったか、さもなくば有毒な気体を吸い込んだか、それとも飛行中に次々に発症が伝染するような病原体にとりつかれたか、それに似たようなことが起こったのでしょう。
 渡り鳥の群れに向かって、中枢神経を麻痺させるような光線あるいは電磁波、超音波のようなものを、誰かが意図的に浴びせて、その効果を確かめた、ということだってあり得ない話ではありません。そうだとすると、誰が、何の目的で、とさらなるナゾが出てきます。
 もっと邪推すれば、殺人ウィルスなどの生物兵器によって汚染させられた鳥兵器の実験という可能性も、全くないとは言い切れないでしょう。汚染させるのは数羽だけで、あとは強烈な感染力によって集団全体が汚染していき、上空を旋回中にほぼ同じ時刻に発症して落ちてくる、という仕組みです。
 牛や豚、羊など陸上の動物と違って、鳥は人間の管理が行き届かない空からどこへでも移動していくため、自然汚染にしても人為汚染にしても、まことにやっかいなことになります。
 生物化学兵器を搭載したミサイルや細菌風船などは、発射した場所の特定はそれほど困難ではありませんが、渡り鳥を使ったテロないしは悪質ないたずらは、いったいどこで汚染させられたのかが分からず、またどこへ広がっていくかも不明で、脅威の度合いはまことに大きいと言えるでしょう。
 今回の中国・江蘇省の事件については、詳細な調査を待つしかありませんが、鶏ならばともかくとして、人間は空を行く鳥の移動を禁止したり制限したりすることは不可能なのだということを、心しておく必要があると思います。(2月6日)

 <100万人の牛丼難民はどこへいく、政府や国会が放っておく理由は>
 大手5社だけで1日に100万食を提供してきた牛丼が、いよいよ消える日がやってきました。2日には、業界4位の「なか卯」が牛肉の在庫が尽きて、牛丼の販売を停止。最大手の吉野家も、今月中旬がXデーとなりそうです。
 鳥丼に切り替えようとしていた矢先の鳥インフルエンザ騒動で、代替メニューへの切り替えは難航しています。
 こうなったら豚丼しかない、と消去法で豚が浮上してきましたが、カツ丼ならともかくとしても、むき出しの豚肉は丼には向かないように思います。値段も400円前後では、客足は伸び悩むこと必至です。
 牛丼の280円という低価格、味、早さ。どれをとってみても、代わりとなる食べ物は存在しません。
 100万人もの牛丼難民は、これからどうなっていくのでしょうか。平たく言えば、牛丼のおかげでなんとか食いつないできた100万人は、これから何を食べて生きていったらいいのでしょうか。
 これはもはや、深刻な社会問題といっていいでしょう。牛丼消滅という歴史的な大事件が進行しているというのに、政府も国会もまったく問題にする兆しさえなく、緊急の対応策をとるべきだという声さえ上がっていないのは、どういうことでしょうか。
 霞ヶ関のお役人たちや永田町のセンセイ方には、牛丼が消えるといってもピンとこないのでしょうね。高級でうまいものばかり口にしているエライさんたちは、そもそも280円の牛丼をチェーン店で立ったまま食べた経験なんて、あるわけありません。
 牛丼の消滅に危機感があるならば、災害対策基本法でもなんでも拡大解釈して適用し、国を挙げて取り組むべきです。国会に牛丼対策特別委員会を設置することだって、真剣に考えてもいいと思います。
 政府も政治家もまったく関心を払おうとしない中で、牛肉の小売価格は輸入牛、国産牛とも急上昇を続けています。鳥インフルエンザの影響とも微妙にからみあいながら、豚肉の価格も上昇のタイミングをうかがっています。
 昨年の米の不作による価格上昇に続いて、食肉が価格上昇を牽引していくならば、どういうことが起こるか。お役人も政治家たちも、先の先まで読んでいることは間違いないでしょう。
 それは、構造改革の頓挫によって出口をふさがれてしまった、デフレ脱却への道を一気に切り開いて、消費者物価の反転上昇を推し進め、経済の基調をインフレに切り替えるターニングポイントとなるでしょう。
 インフレの到来こそ、この国のリーダーたちが渇望しながら、口が裂けても言えなかった悲願です。
 それは、1000兆円突破が時間の問題となっている、超巨額の国債累計残高をやすやすと減額し、国の財政危機を脱出するための唯一可能な道だからです。
 消える牛丼は、こうした流れにおける作為的な無策の結果といっていいでしょう。(2月3日)

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2004年1月

 <元のファイルが永遠に消える上書き保存の怖さ、人生も上書きの連続>
 パソコンなどIT機器におけるバックアップがいかに大事であるかは、これまで口をすっぱくして語りつくされてきました。
 多くの人たちが、データの消失やCD−ROMの破損などさまざまな荒波にもまれる中で、バックアップの大切さを身をもって体得していきます。
 ボクも数知れぬほどの失敗を繰り返してきましたが、いまなお最も怖いのは、うっかり上書き保存して元の大切なデータを丸ごと消してしまうことです。
 今日も午前中、苦労してワードで資料を作り上げ、用心深く名前を付けて保存したところまでは、順調でした。午後になって、もつひとつの資料を作るため、午前中に作った資料の書式をそっくり利用しようと文書を開き、内容を全部削除して新しい資料のデータを打ち込んでいまきした。
 そして、保存、保存、なにはともあれ、上書き保存、と繰り返していって‥。やや待てよ、ボクは上書き保存をしているけど、この資料はまだ別名保存をしてなくて、ファイル名は午前中につくった文書のままではないか。
 しまった、と思って編集の取り消しをクリックしてみましたが、一度でも上書き保存をしてしまったら、もはやテコでも元の文書に戻ることは出来ません。唖然、呆然、愕然。午前中のあの苦労は、水の泡です。
 上書き保存による元の文書の消失は、バックアップにおける落とし穴であり、まさかのデータ消失をボクも何回か経験してきました。失敗を避けるためには、すでに作った文書の書式をそのまま踏襲することはやめ、面倒でも新規作成で書式から設定していくのが一番でしょう。
 とはいっても、ボクのような凡人は、すでにある文書の書式を雛形として借りて、新しい文書を作成するという横着をやめることが出来ません。だってその方がずっと簡単なので、ついやっちゃうのです。
 願わくば、うっかり上書き保存した場合のために、パソコンの電源を切っていない間は、上書きされてしまった元の文書も復元出来るような、救急措置があるといいのにと思います。
 考えてみれば、上書き保存は人生の基本原則であり、また世界の最も根幹を成す原理でもあります。人生において、どちらかの決断を必要とする時には、必ず決断した方の選択に基づいてあらゆることが上書き保存されていきます。
 人生には、別名保存はあり得ないのです。車がスリップして大怪我をした自分と、車に乗らなかった自分とが、両方が保存されることは決してありません。
 世界も同じです。ブッシュがイラク攻撃に「レッツゴー」のサインを出した世界と、出さずに思いとどまった世界とは、どちらかしか保存されないのです。
 上書き保存は取り返しがきかない。このことをよくよく肝に銘じておく必要があります。(1月30日)
 
 <学歴詐称問題に血道を上げるマスコミ、もっと追及すべき問題は山積>
 学歴詐称問題の渦中にいる民主党の古賀潤一郎衆院議員を見ていると、なんだか哀れを感じます。アメリカまで行って、在籍・卒業を確認しようとしたのに、逆の結果を大学当局から突きつけられて、スゴスゴと帰国する姿は、涙なくしては見れません。
 アメリカの大学を出たというハクをつけたかった気持は、みんなが分かっているのに、なぜこれほどまでにマスコミは、よってたかって古賀議員を完膚なきまでに叩きのめそうとしているのでしょうか。
 この異常なバッシングは、マスコミによる集団ヒステリー以外の何物でもなく、こうした流れを作り出すことで、ますます過剰報道の深みにはまり込んでいくところに、高度情報化社会におけるマス・メディアの怖さがあります。
 学歴詐称は良くないことであり、公選法違反である。だから、どんなに叩いても構わない、いや叩くだけではなく、議員辞職に追い込んで政治生命を絶つのがジャーナリズムの使命だ、などと本気で考えているマスコミ人がいるとしたら、はっきり言って狂気の沙汰です。
 芸能人でも政治家でも、また最近は北朝鮮に対しても、マスコミが集団バッシングを始めたら、もう止まることは不可能です。関係あるなしに関わらず、あらゆる非を洗いざらいほじくり回して、とことんまで追い詰めて、ようやくマスコミはエクスタシーに達して引いていきます。
 最近は、辻元清美、土井たか子など、政府・自民党のタカ派にとって最も都合の悪い人間を、集中的に血祭りにあげる傾向が感じられ、今回も古賀議員の足をすくうことで自衛隊のイラク派遣に反対している民主党を切ろうという政治的意図が見え隠れしています。
 マスコミはおそらく、どの政党の議員であろうが、悪いことは悪いのであって、それを批判して何が悪いのか、と開き直るでしょう。しかし、いまマスコミがやらなければならないことは、一国会議員の学歴が正しいか間違っているかの問題ではないはずです。
 大義がなかったことがいよいよ明白になってきたイラク戦争、にもかかわらず、イラクから撤退するどころか、アメリカの都合の良い政権を打ち立てることに夢中になっているブッシュ政権。
 そのアメリカに卑屈なモミ手で擦り寄り続けて、憲法に抵触する自衛隊派遣を強行する日本政府。公然と始まった憲法改正への準備。
 再び日本の進路を間違った方向に急旋回させようとする、これらの問題について、大新聞を含めてマスコミの多くは妙に物分りの良い顔で権力に媚を売り、社説でたまに批判的なことを書いても、「もっと議論をつくせ」と言うのがせっいっぱいとなっています。
 古賀議員のバッジをはずさせることに血道を上げるひまがあったら、戦争国家への道を突き進むこうした動きに対して、マスコミの存亡をかけて疑問を呈し、堂々と反対の論陣やキャンペーンを張るべきではないのでしょうか。(1月26日)

 <『時間の岸辺から』その46 旅順からイラクへ> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 今年は日露戦争の開戦から、ちょうど100年にあたります。
 この戦争で旅順を攻囲した日本軍の中に、与謝野晶子の弟がいました。晶子が弟を案じて「君死にたもうことなかれ」という長詩を発表したのは1904年のことでした。
 自衛隊が戦闘地域のイラクに派遣される緊迫感の中、この詩が改めて読み直されています。
 「死にたもうことなかれ」という叫びが、時代を超えて熱い共感を呼ぶのは、それが「殺してはならない」という叫びに裏打ちされているからだ、とボクは思います。
 最初の方に「親は刃(やいば)をにぎらせて 人を殺せとおしえしや 人を殺して死ねよとて 二十四までをそだてしや」というくだりがあってこそ、この詩は強い説得力を持つことが出来るのです。
 今、日本の指導者たちが恐れているのは、イラクで自衛隊員に犠牲者が出て、小泉政権が持たなくなることだと言われています。
 昨年11月に総選挙があったばかりというのに、最悪の事態になった場合は夏の衆参同日選挙は避けられない、という見方さえ出ています。
 ボクは、自衛隊に死者を出さないことと同じくらいに重要なことは、自衛隊が決してイラク人を殺さないことだと思います。
 その自衛隊は、かつてない重装備でイラクの土を踏みます。
 有効射程が数百メートルで強い威力のある無反動砲。500メートル以内の戦車を破壊出来る個人携帯対戦車弾。1分間に1100発を撃てる機関拳銃。
 重装備は自爆テロなどから身を守るため、と説明されています。しかし、これらの武器は催涙弾などと違って、相手の命をほぼ確実に奪います。使用する時には、イラク人を殺す覚悟が必要なのです。
 野営中あるいは活動中に、とっさの攻撃がかけられてきた時、戦争の継続としての反撃なのか、無差別テロなのかを見分けることは、ほとんど困難でしょう。
 自衛隊がイラク人を殺してしまった時、政府や防衛庁は、「卑劣なテロに対する正当な防御だった」と釈明する一方で、「これでひるめば敵の思うつぼ。国民が一致結束して自衛隊を援護せよ」と勇み立つ声も高まっていくでしょう。
 国民の中に撤退論が出ても結局は増派論にかき消されてしまい、自衛隊はイラクのさまざまな勢力を敵に回して、収拾のつかない泥沼にはまりこんでいく危険が大きいのです。
 こうした戦争の論理に組み込まれないための唯一の方策は、自衛隊派遣そのものを撤回することですが、それが出来ないのならば、ボクは声を大にして叫びたいと思います。
 死んではならない、しかし決して殺すな、と。
 「死にたもうことなかれ」と「殺したもうことなかれ」は、同じことをこちらから見るかあちらから見るかの違いであって、実は同義語なのだと思います。(1月22日)
 
 <BSEに感染した人間は世界に何人いて、何人が死んだのか知りたい>
 ボクが不思議に思うのは、BSE(狂牛病)の牛が見つかるたびに、どこもかしこも天地がひっくりかえるような大騒ぎをしていますが、これに感染して狂牛病になった人間は世界で何人くらいいるのでしょうか。また狂牛病に感染して死んだ人はどれくらいいるのでしょうか。
 BSEは恐ろしいというイメージばかりが先走りしていますが、これって北朝鮮は怖いというイメージと同様に、マスコミなどによって作為的に誇張され過ぎた恐怖のような気がします。
 これまで世界で確認された狂牛病の感染者の数や、その人たちが牛のどの部位を食べて感染したのか、感染後どのような症状と経過をたどったのか、治療法はどのようになっているのか、等々、最も必要なデータがほとんど示されていないように思います。
 大手旅行会社の中には、ヨーロッパのツァーの食事には、一切牛肉の料理を出さないことに決めて、頑固に守り続けているところもあります。ヨーロッパの人たちが、厚切りのビフテキをうまそうに食べている隣で、日本のツァー客たちは不味い魚や鳥などで我慢を強いられているのです。
 BSEに汚染された牛であっても、脳髄や骨髄など特定の部位を除けば食用として問題はない、と言われているにもかかわらず、BSEが発生した地域や国の牛肉はすべてが食べられないかのような過敏な対応は考え物です。
 アメリカで狂牛病の牛が見つかって日本への輸入が禁止されていることで、さまざまな影響が出始めています。吉野家などの牛丼チェーン店だけではなく、安くて美味しいステーキランチやステーキ丼を売り物にしてきたお店の多くが、こうしたメニューをやめてしまいました。
 オーストラリア産やニュージーランド産の牛肉を使えばよさそうなものですが、価格の高騰などで対応が難しくなっているのでしょう。
 SARSのように感染者や死者がはっきりしている感染症の場合には、ハクビシンなどの野生動物を食べてはいけない、というのは良く分かります。また鳥インフルエンザも、ベトナムなどで感染して死んだ人が把握されているので、警戒が必要でしょう。
 鯉ヘルペスはどうなのでしょうか。これは人間への感染の可能性はなくても、鯉から鯉への感染で大量死が広がっているので、業者にとっては食い止めることが死活問題といえます。
 豚肉はいまのところ、漁夫の利の立場にあって、安心して食べられる数少ない食肉とされていますが、牛、鳥、鯉が品不足になって高騰している中で、つられて値上がりを起さないとも限りません。
 万一、豚に新しい病気が発生して広まるような事態になったら、食肉の世界は総崩れです。豚肉はすでに抗生物質の過剰投与が問題となっていて、抗生物質が効かない病原菌が豚に取り付くのも時間の問題なのかも知れません。
 地球環境の悪化は、人間も含めてさまざまな動物たちの抵抗力を弱め、一方では環境の劣化が新種の病原菌を発生させやすい条件を作り出しています。
 この肉は食べてもいいのかどうかを、最終的には個々人の判断と自己責任で決めなければならないという、やっかいな時代になった、と言えそうです。(1月18日)

 <薄型大画面テレビやDVDはいま「買い」なのか、迷いに迷うこのごろ>
 現代の三種の神器は、薄型大画面テレビ、DVDレコーダー、デジカメなのだそうです。
 このうちボクが持っているのはデジカメだけですが、三種の神器の仲間入りをしているのは、動画も静止画も高画質で取れる新タイプのデジカメということで、そのうちテレビ機能を持つものやケータイと融合したタイプなど、さまざまなデジカメが登場してくるのでは、と思います。
 薄型大画面テレビとDVDレコーダーは、いずれ欲しいと思って家電量販店の売り場をのぞいてみたり、カタログをもらってきてチェックしたりしているのですが、なかなか買う決心がつきません。様子見をしているうちに、高性能で価格の安い機種がつぎつぎに登場して、ますます迷ってしまいます。
 まず薄型大画面テレビですが、ボクの家にある37インチテレビが、購入から16年もたっているのに壊れるどころか、歳月を経るごとにますます画質が向上して色彩も鮮やかになり、これを捨てて買い換える気にはならない、という問題があります。
 年とともに画質が向上しているというのは、おかしな話ですが、16年前に比べてテレビ局のカメラや機材がめざましく進化していて、そのおかげで買った当時よりもはるかに鮮明な映像を楽しむことが出来ているようです。
 ボクにとって薄型大画面テレビを購入するタイミングは、いまのテレビが完全に寿命が尽きた時しかない、という気がします。もともとボクは1日平均で2時間程度しかテレビをつけていないので、ブラウン管の寿命はまだたっぷりあるのかも知れません。
 それに、プラズマテレビにしても液晶テレビにしても、量販店の売り場でBSハイビジョンや地上波デジタルを放映しているものを近くで見ると、細部までくっきりと鮮明であることに感心しますが、ボクのように視力が落ちている人間がテレビから離れて見るのであれば、これほどの鮮明さは必要なのか、という疑問もあります。
 テレビの放映方式が複雑でめまぐるしく変化していることも、薄型大画面テレビへの切り替えを躊躇させる大きな要因です。BSも地上波もアナログからデジタルへ、という方向はなんとなく分かりますが、どちらにしてもそれぞれ専用のアンテナを設置しなければならず、これが大変にやっかいな問題です。
 三種の神器のもう一つ、DVDレコーダーはどうか。これはひところネックになっていた3つも4つも規格の異なる録画方式が競争している問題は、マルチタイプの機種が増えてきて、ほぼクリアされてきましたが、問題はこれまで撮りためたVHSビデオテープとの関係です。
 また、DVDはデジタルテレビ番組を、高画質のままで録画することは出来ないという、意外な問題があることも最近になって知りました。デジタルテレビを高画質で録画するには、目下のところD−VHS方式のデデオテープしかないというのは、なんともちぐはぐな話です。
 結局のところ、DVDレコーダーはいまのところアナログ放送の録画向けに作られていて、それならビデオテープでも同じじゃないか、ということになります。
 こうして考えていくと、三種の神器はもう少し様子を見ようかという結論に達して、今日もまた振り出しに戻ってしまうのです。(1月15日)

 <『時間の岸辺から』その45 海面じわり上昇> 欧州の日本語新聞「ニュースダイジェスト」紙に同時掲載
 海水に浸った線路の上を、ゆっくりした速度で走る電車。
 宮崎駿監督のアニメ「千と千尋の神隠し」に出てくる、不思議なシーンです。
 どこかで見たような懐かしさを感じるこの光景は、これから見るかも知れない胸騒ぎに裏打ちされた、近未来の既視感なのではないか、とボクは思います。
 このシーンと二重写しになるような写真が先日、新聞に載りました。
 世界遺産にも指定されている広島県宮島町の厳島神社で、国宝の回廊が海水に浸ってしまい、朱色の床板の間から海水が噴き出している光景です。
 一部の床板は海水によって浮き上がり、神主たちが体重をかけて押さえ続けて、拝観は1時間近く停止された、というのです。
 時を同じくして、東京・隅田川の水位が上がり、橋げたの下をかろうじてくぐり抜けている水上バスの写真が、新聞に載りました。
 海面上昇に伴って海に近い河川の水位が上昇し、観光船や水上バスが橋げたをくぐれなくなる現象が、ここ数年、全国で発生している、といいます。
 二つの記事とも、温暖化による海水膨張や海流の変化などが関係しているとみられる、という気象庁の話が載っています。
 ボクたちがイラク戦争に目を奪われている間にも、温暖化の影響が確実に広がっていることを、ジワジワと上昇する海面は如実に示しています。
 日本付近の海面が50センチ上昇すると、陸地の水没で290万人が移住を余儀なくされ、1メートル上昇した場合は、東京都の面積よりも広い2339平方キロメートルが水没して、410万人の移住が必要となる、という試算もあります。
 水没は免れても満潮時に海面より低くなる土地は、この10倍にもなると予想され、高潮などによる氾濫の危険にさらされる人口は1500万人以上、影響を受ける資産の総額は370兆円にも上ると見られます。
 海面上昇対策としては、避難、防護、順応の三通りが考えられますが、山地の多い日本の場合、海辺に近い都市機能を住民ごと避難させることは不可能とされています。
 そうなると、海岸線を高い堤防で囲むなどの防護策を講じつつ、日常的な冠水に都市と住民が順応していくしかありません。
 冠水に順応していく社会とは、どんな姿になるのでしょうか。
 ボクが想像するに、潮が満ちるたびに一面の海となる市街地で、一戸建て住宅は高床式となり、マンションも商業ビルもオフィスビルも、海水に侵食されない土台の上に、そびえ立つような構造になるでしょう。
 移動手段は軽量ボートが一般的となり、大きなビルの間は空中回廊で結ばれるかも知れません。
 大量輸送機関は、海水をかぶることを前提に作られた線路の上を、ゆっくりと走る防水電車。まさにこれこそ、どこかで見たような光景なのではないでしょうか。(1月11日)

 <東京区部では30代前半女性の未婚率が40%、それもいいかも>
 今年もさまざまな人達から年賀状をいただきました。ボクにとって年賀状が年に一度の音信となっている人も多く、そこに短く綴られた近況に接するのは、感慨ひとしおです。
 ボクの最後の職場で一緒に仕事をしていた女性たちは、みなそれぞれに新しい会社などに散らばって元気で生きている様子がうかがわれ、思わず賀状に向かって「がんばって」と語りかけたくなります。
 それにしても、この女性たちは年齢的には30代前半がほとんどのはずですが、住所も姓も変わってなく、文面からもみな独身でいる様子が察せられます。
 あんなに美しくて素敵な女性たちが、まだお嫁に行ってないというのは、なんだかホッとするような気持ちがするのも事実ですが、決まった結婚相手はいるのだろうか、それとも良い相手に遭遇しないのだろうか、などと余計な心配をしてしまいます。
 このところ30代前半の女性の未婚率が急上昇しており、それが少子化に拍車をかけていて、ひいては近い将来の人口の急激な減少につながることが、さまざまなところで指摘されています。
 2000年の国勢調査によると、東京都の区部の場合、30代前半の女性の未婚率は40.6%で、なんと10人に4人が未婚です。これは95年調査の34.0%から大きく上昇しています。30代後半では減っているかというとそうでもなく、24.6%つまり4人に1人が未婚です。
 女性が結婚しない理由として、さまざまな要因が指摘されています。女性の側からは、結婚によって自由な生活が出来なくなることや、生活水準が大幅にダウンすることへのためらいなどがあります。
 そもそも女性が結婚相手として考えている高学歴、高収入で背が高くハンサムという独身男性は、めったに存在しなくなりました。家事を対等に負担することを、快く承諾してくれる男性もまた少数です。
 さらに社会そのものが結婚への大きな障壁となって立ちはだかっています。子育てと教育に費やされる膨大な費用とエネルギー。子どもが生まれれば、成長していく喜びとともに苦労もまた増加します。
 危険に満ちた社会の荒海の中を、いじめにも遭わず、大病やけがをすることなく、すくすくと大きくなっていくだろうか。登校拒否、自閉症、家庭内暴力などを引き起こさずに、成人していくだろうか。心配は果てしなく続くことでしょう。
 日本が戦争をおっぱじめることをためらわない国家に変質しつつあることも、若い人たちに結婚や子育てを躊躇させている要因に違いありません。
 そんなことを考えていくと、あせって納得のいかない結婚をして生涯苦しむよりは、結婚をしない生き方があっても当然という気がします。短い人生は自分のものです。みなさんも、どうか一日一日を大切にして悔いなく生きて下さいね。(1月8日)

 <人類が姿を消した後も進化を続ける生物の姿、文明とは一瞬の夢>
 NHK衛星第2で昨日放映された、「オドロキ! これが未来の生き物だ」と題する、3時間近くに渡る科学番組に、釘付けとなってしまいました。
 これは、世界中のさまざまな分野の科学者たちによる、5年がかりの調査・研究と分析に基づいて、地球の未来生物たちの生態を、CGを駆使してリアルに生々しく描いたものです。
 「500万年後」「1億年後」「2億年後」の3部構成で、それぞれの時代の地球の陸地の姿や気象環境をもとに、現在の科学が推測し想像し得る限りの未来図が、恐ろしい迫力で目の前に出現します。  500万年後の地球では、人類はとっくに姿を消していて、アフリカやアマゾンの一部をのぞいてほとんどの陸地は厚い氷河に覆われています。
 1億年後の地球は、殺伐とした灼熱地獄になっています。ここでは哺乳類のほとんどが絶滅していて、爬虫類がかつてのように大型化して、新しい恐竜たちが跋扈しています。
 2億年後はもっとグロテスクな世界です。移動を続けてきた5大陸は1つに結合し、その内陸部は異常な乾燥地帯となって、昆虫が進化したような生き物が、分業で深い地下から水を運び上げながら生きています。
 巨大大陸の臨海部は逆に、一年中雨季のような気候で、ここにはイカが進化して陸に上がった体長40メートルもの怪物が8本足で歩行しています。  人間が、旧石器時代以降、営々として築き上げてきた文明の痕跡は、これらのどの時代にも一切残されていません。
 ルネサンス以来の芸術も文化も、科学もテクノロジーもITもデジタルも、いや国家も兵器も超高層ビルも、すべてが崩れ去って無に帰し、その記録さえも廃墟さえもない茫々たる地球の姿には、言葉を失います。
 ボクたちは、地球の上の進化は、下等な生き物からしだいに高等で複雑な生き物へと進化を遂げ、最も高等な霊長類の中でも頂点に立っているのが人間である、というふうに教わり、そのように信じてきました。
 人類が、ここ10年ほどの並外れた愚考によって地球環境を破壊してしまい、生命圏もろとも遠くないうちに絶滅するとしても、人類が絶滅した後の地球では、かろうじてバクテリアやゴキブリのたぐいだけが細々と生き延びる、というようなイメージが、ボクにはありました。
 しかし、人類が滅びたらほかの生物もみな滅びて、地球の進化はそこで終焉する、というのは人間の思いあがりであり、人間の傲慢と過信に過ぎないのだ、ということがこの番組を見てよく分かりました。
 人類のいないところで、ただ黙々と自分たちだけで進化を続けていく生物たちの姿には、寒々とした恐ろしさと同時に、羨望と嫉妬のようなものすら感じます。  地球と生命が50億年以上の時の流れに耐えていくためには、むしろ人類の存在は邪魔なのです。
 知性や英知や文明は、悠久の地球の歴史の中では、さまざまな偶然に恵まれた幸運な短い時期に、チラと出現してすぐに消える一瞬のあだ花であり、「神」がつかの間見る短い夢なのかも知れません。
 そうだとしたら、なおのことボクたちは、ごく限られた時間した残されていないこの文明を、いかに有意義に使いこなすかに、もっと全知全能を注ぐべきではないでしょうか。 (1月4日)  

 <2004年の初めに想う、すべての人の祖先は必ず猿にたどりつくことを>
 2004年が明けました。早いもので、21世紀も満3年が経過して、今日から4年目に入ります。
 この3年間、世界は「9.11」−アフガン戦争−イラク戦争という、20世紀末には予想もしなかった奔流にのまれて、殺戮と破壊の連打を繰り返し、早くも崖っぷちに立たされているかのごとくです。
 今年もこのままでは、アメリカの独善的な一国主義と全世界のアメリカ化に向けたネオ帝国主義がますます猛威をふるい、21世紀は100年持たないことが、多くの人の目にはっきりと見えてくることでしょう。
 ボクたちは、この2004年をどのように呼吸していったらいいのでしょうか。
 ひとつの回答は、歴史を大きく俯瞰しながら、巨大なスケールで遡ってみることだと思います。
 アメリカは移民の国です。初期の移民たちは、どうやってアメリカに住み着き、居住地を拡大していったのか。それは、先住民の土地や財産の略奪であり、先住民の文化の破壊です。
 この移民たちの罪深い行為への贖罪なくして、アメリカが自由や民主主義を語ることは、おこがましいにもほどがあるでしょう。
 さらにアメリカという国家や国民に欠けているのは、ヨーロッパが経験した市民革命の精神です。いまアメリカは「自由」を過剰なまでに粉飾して、厚化粧をほどこして見せびらかしていますが、本来、自由とは、平等、博愛という市民社会の基本的な3原理の要素として、初めて成立する性質のものです。
 平等と博愛が欠落したアメリカ的自由とは、手段を問わない資本の利潤追求の自由であり、利潤の度合いこそが勝ち負けを決める市場万能主義と同義語にすぎません。
 どうもこの平等、博愛というのは、伝統的・保守的なキリスト教とは相容れないもののようで、ヨーロッパがその相克と矛盾に苦しみ続けてきたのに比べ、アメリカは能天気にも平等と博愛を、弱腰な古臭い価値観として見下しているようなところがあります。
 21世紀に必要なのは、改めて自由、平等、博愛の相関を探るとともに、市民革命後に世界が体得したもう一つの基本原理である、「非戦」の理念を民衆レベルから肉付けしていくことだと思います。
 世界の最大の不幸は、歴史も文化も持たない金粉ケバケバの成り上がり国家が、神から宣託を受けたかのように錯覚して世界に君臨しようとしていることにあります。
 アメリカの指導者たちは、一度でも考えたことがあるでしょうか。自分たちの祖先の祖先を、何百代も何千代も遡っていった時、ルーツの系統図はいつしか猿にたどりつく、ということを。アメリカの人々もイラクの人々もボクたち日本人も、はるか遠い祖先はみな猿なのです。
 猿からさらにDNAのリレーを遡れば爬虫類に、そしてついには魚になることを、今の人間たちはどれだけ自覚しているでしょうか。ボクたちの体には随所に、海中で生活していた時代の記憶が刻み込まれていることを、謙虚に受け入れる必要があります。
 すべての人間が持つ、39億年に渡る生命史の刻印に思いを馳せることなく、傲慢な思いあがりを続けるならば、21世紀は無残にも中断したままで、地球システムの終焉を迎えることになるでしょう。(1月1日)

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 Pachelbel "Kanon in D"

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