98年1月−6月のバックナンバー

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1998年6月

 <W杯3戦全敗を責めるより、W杯初ゴールを高く評価する>
 W杯での日本の3戦全敗は、あるていど予想していたことですし、3戦とも1点差に食い止めたことは、大いに評価していいと思います。それにしても、マスコミはなぜ、歴史的なゴンのW杯初ゴールに冷たく、3戦全敗したことを酷評ともいえる調子で責め立てるのでしょうか。問題点ばかりをあげつらい、記者が満面を怒りで真っ赤にして、口角泡を飛ばさんばかりの批判的記事を書きつらね、こうすることがジャーナリズムの使命だなどと本気で思っているのでしょうか。こんどのW杯での日本代表チームを、全敗で見るのか、初ゴールで見るのかは、その人の姿勢の問題であり、生き方・哲学の問題だろうと思います。スポーツは結果がすべて、などというのは、建て前でしかなく、そんなことを言うならば、1次リーグで敗退したチームはすべて評価出来ないということになってしまいます。ジャマイカ戦での中山の初ゴールは、日本のサッカー史上に燦然と輝くゴールです。このゴールがないままノーゴールで3戦敗退となっていたら、どんな恐ろしい事態になっていたか。考えるだけでも慄然とします。ゴンゴールは、日本代表と岡田監督を救い、日本のサポーターと日本国民を救ったのです。 昨日の全国紙の中で、毎日新聞だけは全敗をことさら強調せずに、1面は「日本 W杯初ゴール」、社会面は「気迫のゴンゴール」をトップ見出しにしていました。毎日新聞は、自らが血の滲むような厳しい再建を経験しているだけに、選手たちや応援した多くの日本人の気持ちが、記者たちにも痛いほど伝わってくるのかもしれませんね。(6月28日)

 <また出てきたサマータイム論と日本人の時間の流れ>
 このところまたサマータイム論が論議を呼んでいます。このサマータイム論、出ては消え、消えては出てきてさながら幽霊のごとし。今回は、省エネ効果と余暇の有効利用などをうたっていますが、省エネといっても効果は1000分の1ほどで、それも余暇利用で相殺されるのではという気もします。大きな問題は、すべてがコンピューター制御の社会で、サマータイムを導入した場合の混乱です。テレビの番組、交通機関のダイヤから金融機関の出し入れなど、時間を基準に動いているシステムは社会に満ち満ちています。サマータイム対応は、ソフトで切り替えるのか、OSを変える必要があるのか。さらに対応出来ないコンピューターはどうするのか。1時間の勘違いや調整のミスが、大事故につながる危険は多大です。そうはいっても、多くの欧米諸国では実施している、という反論が出るでしょうが、欧米と日本では労働や余暇に対する考え方も伝統も異なります。日本人は、時間の流れを川の流れのようにとらえて、あるがままの流れの中に身をまかせて自然体で生きていこうとする傾向が強いように思います。サマータイムを強行しても、これに乗らない人たちは少なくないでしょう。サ マータイムを実施しない自治体や企業、市民グループが出てくることも考えられます。非サマータイムをうたうテレビ局やデパート、レストラン、私立学校、学習塾、時計店なども出現しそうです。その場合は、罰則でも適用するのでしょうか。「サマータイムを実施せずに社会に混乱と危険を招いた」罪で懲役刑に処する、なんて凄み満点。サマー連合によるアンチサマー掃討作戦やいかに。サマータイムの効用よりも、こちらの攻防の方が面白そうですね。(6月25日)

 <苦難の独立から6年、クロアチアのW杯健闘を讃える>
 今朝のスポーツ新聞には、「絶望」の文字があふれています。昨日のW杯クロアチア戦、日本は後半攻め続けながら、悲願の1点が取れずに敗退しました。しかし、スポーツには勝者があれば敗者がいるのはあたりまえ。残念は残念ですが、そんなにしゃかりきに嘆くこともないのに、と思います。それよりも僕は、日本を破ったクロアチアという国に、強い関心を呼び起こされました。クロアチアは人口わずか450万人と、東京の人口の半分ほど。10世紀初めに最初の独立国家を建てたものの、12世紀からはハンガリーとハプスブルク家の支配下に置かれて苦難の道。今世紀は2度に渡る大戦とナチスの支配に翻弄され続け、小国の苦渋の選択としてのユーゴスラビアへの参加とソ連との対立。そして東欧民主化の激動の中でクロアチアは独立を宣言し、こんどは旧ユーゴ軍やセルビア軍からの猛攻撃を受け続けます。ようやく独立を果たしたのが1992年ですから、クロアチアにとって、独立後初めて参加するW杯なのですね。今朝の新聞を見ると、日本にいるクロアチア人は25人ほどで、昨夜は渋谷にある在日大使館に集まってワインで乾杯して勝利を祝った。祖国の首都ザグレブでは、シュ ケル選手のゴールが決まると、あちこちで銃が空に撃たれ、国中が喜びにわき返っているとのこと。テレビで見ていて、ゴールの瞬間に、日本人サポーターであふれるスタンドの一角で、人数は少ないクロアチア人たちが点火した祝福の花火が、赤々と輝く様子がとても印象的でした。クロアチアにはぜひ決勝トーナメントに進んで、日本の分とも健闘を続けてほしいと思います。(6月21日)

 <旧枢軸国の日独伊で出生率低下が続く怪現象>
 日本、ドイツ、イタリアで出生率が下降し続けていることを、今朝の朝日新聞社説が取り上げています。この、日独伊という組み合わせは、第二次大戦の枢軸国ではありませんか。これは偶然なのでしょうか。それとも、敗戦と深くかかわっている現象なのでしょうか。朝日の社説は、この3国が旧枢軸国であることには何も触れていませんが、「三カ国で出生率が減り続けている主な原因は男女の役割分担の伝統にある、と多くの専門化がみている」と書いています。だとするならば、「男女の役割分担の伝統」がなぜ旧枢軸国=敗戦国に根強いのだろうか、という疑問が生じます。この3国は、ベルリン・ローマ枢軸、日独防共協定、日独伊三国同盟など、さまざまな形で結びつき、ファッショ的な国家体制を社会の隅々まで浸透させていました。そして連合国による敗戦処理によって、枢軸国の指導部は戦争責任を厳しく問われるとともに、国家と社会の徹底的な民主化が進められたはずです。にもかかわらず、この3国に「男は仕事。女は家庭」という伝統が根強いとすれば、国民一人一人の意識のレベルでの民主化は足踏み状態だ、ということでしょうか。戦勝国=連合国による外からの自由で民主 的な改革に、反発する感情もあるのでしょう。ファシズムには、民族固有の伝統的文化を絶対視する傾向が強いことは、従来から指摘されてきたところです。「男は仕事。女は家庭」というのは、一見、伝統的な美徳のように見えて、実は内なるファシズムの残照のように思います。職場に進出する女性が多い先進国ほど、女性が生涯に生む子どもの数が多い、という統計を、伝統主義者たちはどう見るのでしょうか。(6月18日)
 
 <大敗しなくてだれもがホッとしたW杯アルゼンチン戦>
 だれもが大きな声では言わなかったけれども、日本が強豪アルゼンチンに大敗を喫するのではないかと、心配していました。しかし昨日の歴史的な日本の初戦は、0−1。岡田監督は「W杯は結果だ」と憮然とした表情でしたが、これは善戦中の大善戦もいいところ。アルゼンチン国内では、日本相手に1点しか取れなかったことに不満の声が出ているというのも、うなずけます。こんなにいい勝負が出来たのだから、日本がせめて1点入れることが出来ていたら、とみんなが思うのもまた当然の気持ちですね。まあ、勝負に「たら、れば」は禁句とのことですので、今回の大健闘を讃え、20日のクロアチア戦に期待しましょう。ところで、テレビを見ていて意外だったのは、スタンドを埋めた日本人サポーターの多さです。3万7000人収容のスタンドは超満員で、その7割に当たる2万5000人が日本人だったというから、あのチケット騒動はいったいどういうことなのでしょうか。やはり、チケットはあるところにはあったのです。スタンドに入れた日本人は、日本の旅行代理店以外のルート、例えばフランス在住の邦人や日本企業の出先などを通じて入手したのかも知れませんね。今回の教訓と しては、このような場合、何よりも大事なのはまずチケットを確保することだということです。チケットさえ確保してしまえば、フランスへ行くのは簡単です。その逆を行くと今回のようにお手上げとなり、「ふらんすへ来てみたものの、競技場はあまりにも遠し」と嘆くことになるのです。(6月15日、今日は60年安保での樺美智子さんの命日です)

 <芸術や宗教さえもが止められなかった戦争を止めるものは>
 10日間ほど日本を留守にして、ベルリン、ポツダム、プラハ、ブダペスト、ウイーンと回ってきました。これらの都市に共通するのは、いまだに第二次世界大戦の臭いがし、冷戦の戦跡が見え隠れしていることです。人類の2000年と20世紀の100年とを、両方抱えた中欧の都市たち。どの建物も、実に多くのさまざまな彫刻で飾られているのが印象的でした。その彫刻は、喜び、悲しみ、苦悩する人間や神々の姿です。人間は、これほどまでに自らの存在の不思議さについて思索し続け、その謎を芸術にまで高め、祈り続けてきたのに、なぜ2度に渡る大戦を止められなかったのでしょうか。政治や言論はもちろんのこと、科学も、芸術も、宗教さえも、戦争を止めることに失敗したということは、考えてみれば驚くべきことです。21世紀に、戦争を止める力がもしあるとすれば、それは地球を包み込む「情報」の網以外に考えられません。今回の旅行中、電話線がないところでも、インターネットに手軽にアクセス出来たらいいのにと、痛切に感じました。世界のどこからでも携帯電話を使って高速回線でインターネットにアクセス出来、ホームページの更新も一発で出来、撮影した画像もその 場でホームページに送ることが出来る情報環境。それが実現して始めてモバイルと言えるのだと思います。実現までにはあと少なくとも2年ほどかかるようですが、パソコンと携帯が一体化された使いやすいモバイルが地球を包み込み、世界の破局をくい止める力となっていくことを夢見たいと思います。(6月13日)

 <不夜城の時代の終焉を知る、15分間消灯された銀座のネオン>
 昨夜9時から15分間、銀座4、5丁目の晴海通りに面したビル屋上のネオンが消灯された、というので、消灯された街並みの写真が新聞に載っています。この消灯、全日本ネオン協会が設立30周年を記念して「ネオンサインの美しさや有効性を知ってもらおう」と企画したイベントとのことですが、ネオン協会の方々には悪いけど、僕はネオンがない夜の繁華街もいいものだなあ、とシミジミと受け止めたのです。銀座のネオンが一部とはいえ消えたのは、73年のオイルショック以来のことだそうですが、そんなにネオンって消しちゃいけないものなのでしょうか。僕は、今回の消灯をきっかけに、繁華街の明かりのありようについて、根本的に見直してみたらいいと思うのです。いまどき、ネオンがきれいだからといって、その商品やサービスを購入する人がどれほどいるでしょうか。また、夜通しネオンが輝いている街の姿こそ活況の象徴、などと本気で思っている人がどれだけいるでしょうか。いまや、電力は貴重なエネルギー資源です。1本1本のネオンを輝かすために、どれだけの温暖化ガスが増え、どれだけの原子力を使っていることか、考えただけでも、もったいない話です。百歩譲って 、日没から夜9時くらいまでは、ネオンを点灯することにしましょう。でもその後は、どの繁華街も消灯しましょう。歩道や車道、裏道や横町などは、交通安全と防犯のために明るくしておきましょう。不夜城の時代は終わった…今回の銀座のネオン消灯は、この歴史的転換に気付かせてくれた点で、まことに画期的なイベントだったのです。(6月2日)

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1998年5月

 <パキスタン核実験に無力感、人類も知性ハードルの前に滅ぶのか>

 インドに続くパキスタンの核実験で、地球全体に無力感と疲労感が漂い始めているのを、ヒシヒシと感じます。もう何をやってもムダ、国際政治も外交も何の力にもならない、というあきらめ感。どだい、米、英、露、仏、中がさんざん核実験をやりつくした後で、ほかの国が核を持つことを阻止しようというのが、根本的に矛盾しているのです。唯一、この問題で発言出来るはずの日本が、まったくの及び腰では、もう核廃絶など無理ではないでしょうか。やがて、イラン、イラク、イスラエル、リビア、さらに北朝鮮へと核は拡散し、隣国への恐怖が恐怖を呼んで、さまざまな国が核を持つようになるでしょう。大予言など信じたくもないのですが、1999年の7の月は刻々と近づいています。それにつけても、この宇宙に無数に存在するであろう知的生命体が住む星の中で、なぜ超文明を持つ生命体が存在しないのか、という問題が見えてくるような気がします。ほんの一握りであっても、物質のエネルギーを縦横に駆使して、宇宙空間を駆けめぐるくらいに発達した生命体がいてもいいはずです。それがいないのは、この宇宙の生命の発展段階には、どうやっても超えられないハードルがあるのでは ないでしょうか。それはどの星でも、化石エネルギーを使い尽くした時に直面する死活問題で、核エネルギーの発見にまでこぎつけたとしても、核エネルギーの制御という知性のハードルを超えることが出来ず、結局は滅亡していくのだと思います。滅亡を免れた生命体があるとすれば、核エネルギーを知らずに、化石エネルギーが尽きた後は、細々と中世の村のような、あるいはアーミッシュの人たちのようなつましい生活を続けていく生命体でしょう。21世紀を目前にして、人類はいま最大の試練に立たされています。(5月29日)

 <芸能マスコミ手玉に聖子完勝、「ビビビッ」は今年の流行語大賞だ>
 いやあ、久々にスッキリした気分です。昨日の聖子の電撃結婚の、ほれぼれするような鮮やかさ。記者会見に先だって姿を現したウエディングドレスの聖子は、デビュー以来18年間で最も美しく輝いて、まさに女王さま。「聖子さん、聖子さん」と必死に質問を浴びせる芸能レポーターたちが、気の毒なくらい惨めでした。今回のバトルは聖子の圧勝、芸能マスコミの完敗です。なんだかんだ言っても、どこのテレビ局も週刊誌もスクープ出来なかったわけですし、結婚記者会見のファックスを送られて蜂の巣をつついたような騒ぎになっても、まだ相手の名前さえつかんでいないという、前代未聞のうろたえぶり。聖子本人の口から初めて結婚相手の名前を発表し、芸能記者たちがどよめく。これはメディアと芸能人の力関係を逆転した記念すべき記者会見として、歴史に残るでしょう。何も材料を持たない記者たちは、聖子から聞き出すことだけが、すべてのデータという屈辱。今の日本で、マスコミを、そしてメディアを、これだけ自在に操ることが出来る有名人は、聖子をおいてほかにいません。相次ぐバッシングの嵐に耐え、バッシングと正面から付き合い、バッシングを取り込んで自分の力に変 えて成長していく。いままでのどんな芸能人・歌手にもなかった生き方が、多くの支持を(もちろん多くの反発も)得ているのでしょう。聖子はメディアとのバトルを明らかに楽しんでいる様子。これでゴールインどころか、さらなるバッシングの始まりであることは、聖子自身が一番よく知っているでしょう。それにしても、「ビビビッ」は今年の流行語大賞の最有力候補ですね。「タイタニック」や「キレる」に比べて、はるかに時代の空気に感応している言葉です。(5月26日)

 <ナイフ少年から缶コーヒーまで、「キレる」という不思議な言葉>
 いま、ナイフ少年などの行動論理を、彼らの言い方に従ってマスコミはみな「キレる」と表現していますが、これはなんだかヘンじゃないですか。もともと、ある人間が「切れる」というのは、「決断が早くて、よく事を処理する」(広辞苑)という意味です。「あいつは切れ者だ」などという言い方は、そうした意味です。また「切れ味」というのが「才能の鋭さ」を意味するのも、同じ使い方です。ところが、昨今のように自分の思い通りにならないからといって、すぐにナイフで相手を刺したりする少年に「キレる」という言い方をするのは、少年たちの甘えた論理にまんまと乗せられているように思います。「刺したくはなかったけど、キレたんだから仕方がないんだ。オレのセイじゃないよ」といっているように聞こえるのです。「キレる」などと言う言葉は使わずに、「自制心を失って、見境なく衝動的・短絡的に突っ走る」とはっきり言うべきだと思うのですが。それとも、カタカナ混じりの「キレる」は、「切れる」とは別の意味を持つ新語扱いになってしまったのでしょうか。そんなことを考えているうちに、今日の夕刊にデカデカと載った缶コーヒーの広告に驚きました。なんとキャッチ コピーが「深くて、キレる」。この場合の「キレる」はどういう意味で使っているのでしょうか。缶コーヒーの名前は「ジャック」。まさかジャックナイフや「切り裂きジャック」の連想から来たわけじゃないでしょうね。僕が解釈するに、「すっきりとした飲み心地、味がもたもたしない、後に尾をひかない」というようなことだろうと思いますが。悪いイメージの「キレる」を、あえて使ったコピーライターは相当の「切れ者」と見ました。そのうち「時代がキレる」などという言い方が出てくるかも知れませんね。(5月23日)

 <映画「卓球温泉」の神髄は現代社会が失ったラリーの精神>
 映画「卓球温泉」を観てきました。平凡な毎日を生きる主婦のファンタジーとしても、生きがい探しとして、あるいは自分探しの映画としても楽しめる佳作です。決して派手な役ではありませんが、松坂慶子がひたむきに集中している姿がとても素敵です。この映画のポイントは、最初に温泉宿で卓球をする松坂慶子が、相手が得意げに打ってきた返しにくい速球に対して言う「そういう思いやりのない球はいけません」というセリフにあると思います。卓球の試合はあまりテレビで中継されることは少ないのですが、テニスはしょっちゅうテレビで中継されていて、相手に対していかに容赦のない意地悪い返球をする事が出来るかで、勝ち負けが決まることを、僕たちはいつも見せつけられています。それがあたりまえとなっていて疑問を挟む余地もありません。ミミッチクても、セコクても、ズルクても、相手のラケットの届かない方向にわざと球を返して、相手を蹴落とす。スポーツマンシップなどという言葉は、とっくの昔に死語となり、弱肉強食どこが悪いの世界。そして現代は、学校も勉強も、地域も会社も、国家社会さえもが、この食うか食われるかの論理にどっぷりと浸りきっているのです。 しかし、卓球の原点は、自分も相手も共にラリーを楽しむことにあるはずです。この映画の鋭いところは、ラリーとしての卓球を徹頭徹尾追い求めているところにあります。相手を負かしてはいけない、自分が勝って早く終わらせてはならない、ともに出来るだけ長く続けることが出来るよう気を配りあう。大競争時代などと言われるいまの世の中が、完全に捨て去ろうとしているこの精神こそ、映画「卓球温泉」を貫く深いテーマなのだと思います。人類が21世紀を生き抜く知恵は、ラリーの精神にあるといっても過言ではないでしょう。(5月20日)

 <大胆予測! 2001年の日本の総理大臣はこの人だ>
 エリツィン大統領が橋本首相に、2000年のサミット開催国をロシアに譲ってほしいと頼んだという話は、あけすけなロシア人らしいおねだりで、まあ他のサミット国がいいというなら、譲ってあげたいところですね。その場合、2001年の開催国が日本になるのか、それとも当初の順番のイタリア、カナダと続いて日本は2003年になるのか、そのへんが微妙なところです。それはそれとして、2001年の日本の総理大臣は誰になっているのでしょうか。この際ですから、大胆に予想してみましょう。まず本命は小渕さん。本人もやる気満々で、国民には「平成」の元号を掲げて発表した官房長官時代の印象が強烈。最短距離にいることは間違いありません。対抗は、これが難しい。山崎、小泉、加藤のYKKはいずれも力量不足。僕はこの先、日本社会が沈没を始めた時には、救国内閣として田中真紀子を総理にするという奥の手があるとにらんでいます。先日のサッカーくじ法案の審議でも、骨のあるところを見せて多くの共感を呼びました。自民以外では、管、鳩山、小沢らがあわよくばと出番を狙っているところでしょうが、いかんせん、乱立新党は国民にわかりにくい。社 民党から総理を出すならおタカさんでしょうけど、本人は引き受けないだろうなあ。あっと驚く野党連合の結果、共産党の志位書記局長を総理にするというのも、意外性があって面白いかもしれません。サッカーくじをやるくらいなら、2001年の総理大臣を当てるクジをやろうではありませんか。僕のイチオシは、大穴ねらいで田中真紀子でいきます。(5月17日)

 <ゼロを発見した偉大なインドがなぜ? 核実験は思想への侮辱だ>
 インドの2度に渡る核実験で、新世紀に向けて暗雲が急速に広がってきました。もともと、米、露、中、英、仏の核保有国を5カ国に限定した状態での包括的核実験禁止条約(CTBT)づくりに無理があることは、さんざん論じられてきたことです。インドにも百も言い分があるでしょう。にもかかわらず、こんどの核実験によって僕たちは、インドという国に対して抱いていたある種の哲学的・思想的偉大さへの畏敬のようなものが、崩れてしまったという失望感を味わっています。「あの非暴力のガンジーを生み出した国が」という声は、そうした失望の中身を表しています。僕は、ガンジーもさることながら、西洋が生みだし得なかったゼロの概念を生みだしたインドがなぜ、という観点から、人類の思考・思想の問題として受け止めてみたいと思うのです。いまから約2000年ほど前の西暦紀元元年のころ、名もない一人のインド人が、ビーズ玉による計算盤の上で、ビーズ玉がないカラの桁を表すためにスーニャという記号を考え出しました。これが偉大なるゼロの発見の始まりでした。核を持たないインドは、どんなに先進核保有国がうらやましくとも、核ゼロの立場が持つはかり知れない価 値に気づくべきでした。ゼロだからこそ、無限の力となり得る。ゼロだからこそ、すべてを包み込むことが出来る。ゼロだからこそ、だれに対してでも主張することが出来る。スーニャとは、もともと「空」という意味ですが、「空」とは奥行きが深く、濃密で重たいものなのです。インドの核実験はこの思想への侮辱であり、じっくりと思考することへの嘲りです。戦争放棄という、たぐいまれな「ゼロ」を掲げた憲法を持つ日本は、いまこそ国際的な役割を果たすべき時だと思います。(5月14日)

 <連合赤軍あさま山荘事件とカップヌードルの知られざる関係>
 今から26年前、厳寒の軽井沢での話。1972年2月19日、連合赤軍の5人が管理人の妻、牟田泰子さんを人質にして「あさま山荘」に立てこもる。28日警官隊突入、2警官が殉職。この間、現場の雪の中には、おびただしい報道陣が24時間、取材にあたっていました。各社ごとにさまざまな弁当が届けられましたが、最も注目を集めたのが、お湯を注げぐだけで容器のいらないカップヌードルでした。日清食品が5カ月前の71年9月に発売したばかりでしたが、あさま山荘事件の取材現場でアッと言う間に広がり、体が芯まで温まるカップヌードルは、何よりの前線食となりました。僕はいまもカップヌードルといえば、あの事件の現場が目に浮かぶのです。さて、いまごろこんなことを思いだしたのは、今日の朝日の1面に載っている『即席めん、中国市場争奪戦 「元祖」日清が本格参入』という記事の中に、日清食品の安藤社長の話として「今年は(中略)カップヌードルをつくって17年になる」というくだりがあったからです。17年って、ヘンだぞ。だって、あさま山荘事件から26年も経っているんだぞ。朝日に電話しようか。それとも黙っていた方がいいか。でも、あの大事件と 結びついた食べ物の記憶は誤魔化せない。それに、この記事が後日、ほかの記事に再引用されないとも限らない。ということで、僕は朝日の読者広報室に電話を入れたのでした。「カップヌードルの味は、あさま山荘事件の味なのです」と言う僕に、係りの方も「僕も大学の時にカップヌードル食べました。17年よりもっと前のはずですね」。カップヌードルの登場は、僕たちにとって70年代の幕開けと結びついた、ちょっとした事件だったのです。(5月11日)

 <英BBC放送が人の一生のさまざまな行為のトータル量を計算>
 一人の人間の生涯におけるテレビ視聴時間の総量は、12年間に相当する。英BBC放送が、今月20日から7回放送するドキュメンタリー番組で、一人の人間の一生におけるさまざまな行為のトータル量を科学的に算出しています。キスをしている時間は2週間、トイレにいる時間は6カ月、電話をしている時間は2年半、渋滞に巻き込まれている時間は1年半。涙の量は65リットル、爪の伸びる長さは28メートル、尿の量は4万リットル。さらに、1歳までのよだれ量は145リットル、2歳までのハイハイの距離は150キロメートル。性行為の回数は2580回。チョコレートの消費量160キログラム、卵の消費量7300個。あなた自身のケースに照らし合わせてみると、これらの数字は多いでしょうか、少ないでしょうか。BBCの数字を見ていると、人間って、「こんなにも!」という感じと同時に、「たったこれだけ?」という気もします。すごいと感じるのは、テレビ視聴時間。12年間もブラウン管を見続けているわけですから。それに65リットルの涙は、涙を流すその状況ごとに、人それぞれのドラマがあることを思うと、考えさせられる数字です。人間というものを、こうし て客観的な数字から見直してみるのも面白いものですね。だれもが結構カッコ悪くドタバタしながら生きている様子がよく分かります。せっかくですから、人の一生における数字を、ほかにもいろいろ知りたいと思います。行列に並んでいる時間やお風呂に入っている時間のトータル、さがしものに費やす時間の総量、体重計に上がっている時間の総量、病気にかかっている時間のトータル。目が点になる回数とか、地団駄を踏む回数とか、片思いでため息をつく回数、なんてのも知りたいところです。(5月8日)

 <白昼、開館中のルーブルから消えたコローの絵画のナゾ>
 アルセーヌ・ルパンならやりそうな犯行ですね。パリのルーブル美術館で3日、展示中のコローの名画が盗まれた事件。ただちに閉館して、数百人の入館者の所持品検査や身体検査をしたけれど、手がかりはなし。犯人はどうやって、白昼のルーブルから絵を盗み、持ち出すことが出来たか? 当然、発見した警備員や美術館の係員が真っ先に疑われて調べられたのですがシロだった、といいます。この絵に近づくことが出来る立場にあるのは、ほかにどういう人でしょうか。美術館の幹部職員とか、名の通ったコローの研究家とか、美術大学の教授とか。あるいはパリ警察の警備責任者とか。清掃業者とか照明や空調の整備業者を装っている可能性もあります。「自由の女神」を消したりするイリュージョン・マジシャンたちも疑ってみる必要があります。最初の発見時、本当に絵画は盗まれていたのでしょうか。何かのトリックで盗まれたような錯覚を起こさせ、あたふたと大騒ぎが始まる一瞬のスキに本当に盗み出し、騒ぎに乗じてかけつけた関係者を装ってすんなりと運び出したのかも知れません。各地で続発している名画泥棒ですが、犯人なりのルールがあるようで@絵画を損傷しないA人を殺傷し ないB盗んだ絵画は責任を持って保管する、などです。盗む行為はもちろん良くないことですが、戦争の名のもとに大量殺戮をしたり地雷で不特定多数の命や手足を吹き飛ばすことに比べたら、ずっと罪は軽いと思います。簡単に盗まれる美術館側の警備こそ問題にすべきです。何年後かに、犯人が無傷で絵画を返してきたら、刑事訴追はしない、ということにしてもいいのではないでしょうか。(5月5日)

 <混沌の世紀末から新世紀への指針として読む日本国憲法前文>
 ニッポン・タイタニックを沈没から救う羅針盤は、はたしてあるのでしょうか。答えはYES。それは日本国憲法、とりわけその前文です。今の日本が最も必要としていることを、これほど簡潔に力強く指し示しているのは、日本国憲法前文をおいてほかにはありません。混沌の世紀末から新世紀を迎える日本の指針として、日本国憲法前文を位置づけ直し、その観点からじっくり味わってみたいと思います。(5月2日)
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 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との
協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。 そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。 これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基くものである。 われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。
 日本国民は、
恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。 われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。 われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、
政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
 日本国民は、
国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

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1998年4月

 <マイクロソフトが人間と会話するコンピューターを開発中>
 マイクロソフト社は人間と会話するコンピューターを開発するため大型投資を行っており、10年後には実現する見通しとのことです。ビル・ゲイツ会長がハイテク関係の会合で明らかにしたもので、それは「見て、聞いて、学習するコンピューター」になるということ。現在のマシンの進歩速度からすると、これは確実に実現し、人間とコンピューターの関係は新たな段階を迎えるでしょう。会話するコンピューターとして最もよく引き合いに出されるのは「2001年宇宙の旅」のHAL9000ですが、コンピューターが人間の話を聞いて、その内容に誤りがあったり、重大な問題があると判断した場合に、人間にどういう返答をすべきかは、深刻な問題です。とりとめのない日常会話程度ならともかく、ユーザーの指示が他のユーザーの利益と対立するような場合。また権力の中枢にいるユーザーの指示であっても、それが社会全体や国際社会の利益に合致しないとコンピューターが判断した場合には、困難な問題が生じます。人間の暴走をコンピューターは止められるか。逆にコンピューターの暴走を人間は止められるか。さらに、邪悪な意図を持つ人間が、コンピューターの判断チップに改変を加 えようとした場合、コンピューターはどこまで自己を守るべきか。アシモフのロボット三原則のような、なんらかの原則を確立する必要に迫られるかも知れません。戦闘機に組み込まれたコンピューターが、敵国の市街地や農村へのミサイル発射を拒否したら、軍律違反となるのでしょうか。地雷の生産を管理するコンピューターが、これ以上の地雷生産は人道上問題があるとして生産を止めたら、どうなるのでしょうか。会話し、学習し、判断するコンピューターとは、新たな「わたし達」そのものなのですね。(4月29日)

 <カップメンの容器にも環境ホルモン、生物総メス化の危機>
 生物の生殖機能を攪乱する環境ホルモンが、カップめんの容器にも使われている発泡スチロールなどに含まれていることを、国立医薬品食品衛生研究所が確認した、とのことです。この環境ホルモンは、生物の生存環境を脅かす地球の環境汚染とは違って、生物のいわば内部から生存を脅かすことにより、地球が46億年かけて育んできた生命圏を一気に崩壊させてしまう危険をはらんでいます。男性の精子の減少から、魚介類やカエルの生殖器官の異常まで、生物全体が総メス化しつつあるのは事実のようです。なぜオス化ではなくメス化するのか。メス化の進行は、何を意味するのか。極論すればメス化とは、すべてが守りの性・受動の性になることであり、攻めの性・能動の性の喪失にほかなりません。それどころか、性そのものの意味がなくなること、つまりは繁殖の終焉にほかなりません。ヒトの場合はまだ男性の精子減のみが顕在化していますが、やがて生まれてくる男子の割合が低くなっていき、成人した男性もますます生殖意欲に乏しくなっていったら、人類は絶滅の崖っぷちです。どうやら、この兆候は先進国から先に現れ始めているようです。環境汚染や温暖化、エネルギー問題とともに 、人類と地球はさらにやっかいな難問を抱え込んでしまいました。100年後は、健全なセックスが出来る男女のカップルがまことに貴重な存在となって、地球連邦政府から手厚い保護を受け、昼夜を問わずひたすら子孫を残すことに専念しつづける事態になっているかも知れませんね。(4月26日)

 <新宿誕生300年、元禄末期の江戸の町を歩けば>
 甲州街道の新しい宿場町として新宿が誕生して今年でちょうど300年、ということで26日には記念式典が行われるのを始め、さまざまな催しが計画されています。300年前というと、西暦では1698年で17世紀末のただなかです。当時の江戸の様子を、タイムマシンで見に行けたら面白いだろうな、と思います。時は元禄11年。徳川5代将軍綱吉の治世です。西鶴と芭蕉が相次いで世を去ったばかり。農村ではしだいに疲弊が進んでいます。江戸の元禄文化は爛熟を迎え、こうした中で綱吉の「生類憐れみの令」に、江戸中がピリピリとしているところです。野良犬が人間の捨て子をかみ殺しても民家の食物を奪っても、だれも手出しは出来ません。幕府は大久保と中野に巨大な御犬小屋を建て、ここに10万頭の犬を収容しています。犬の食費だけで年9万8千両と、幕府の収入の1割を超えるありさまです。御犬費用のために町人や村方への賦課を課すなど、異様な事態となっています。元禄13年にはウナギもドジョウも生き物なので、売買してはならぬ、というおふれが出されます。翌元禄14年、江戸城・松の廊下の刃傷事件が発生します。この事件と「生類憐れみの令」の間に、共通する時代の雰囲気を見る向きも多いようです。300年前の新宿を訪れたら、江戸の町民たちに、その後の300年間をどう説明したらいいのでしょうか。江戸幕府はやがて終わって文明開化となり、そして明治・大正・昭和・平成と続く波乱の近・現代史。いえ、結局のところ何も説明などしないほうがいいに決まっています。ただ一言、言ってあげましょう。「300年後も新宿は健在ですよ」と。(4月23日)

 <エリツィン大統領が見せたロシア的なるものと日本人>
 エリツィン大統領の短い訪日は、両国の政治的思惑や北方四島の帰属問題とは別に、ソ連時代には見られなかったロシア的なるものを日本人に強く印象づけました。パフォーマンスとはいえ、同じホテルで行われていた結婚披露宴への飛び入り祝福は、いかにもロシア人の好みそうなこと。超多忙の合間に、大統領は海釣りでアカイサキなど2匹を釣り上げ、さらに1キロ2万円の大トロ5キロと緑茶20缶を買っていったそうです。昼食は刺身、タイのポワレ、ヒレステーキなどを平らげ、夕食は寿司などを食べた後、ルームサービスで焼きアワビ2枚とサザエ4個を冷酒とともに食べたとのこと。まさに北の白熊のイメージです。こうした飾らない親しみやすさとバイタリティーは、ロシアの風土そのものなのでしょう。日本は今世紀、日露戦争や第二次大戦そして冷戦時代と、ロシアそしてソ連に対してずっと敵対と緊張の関係にありましたが、そろそろこうした関係を脱却する時が来たようです。日本人はもともと、ロシアの文化や芸術が大好きです。トルストイ、ドストエフスキー、チャイコフスキー、ムソルグスキー、等々。そしておなじみのロシア民謡の数々。ピロシキもボルシチも日本人に好 まれる味です。世界史の中では、ロシアに進軍したナポレオンの軍勢が、冬将軍の前に敗退する1812年の局面と、ヒットラーのドイツ軍がナポレオンと全く同じ状況に陥り、ソ連軍と一体となった労働者・農民の大反攻の前に敗退する1943年の局面は、最も興奮を感じさせてくれるハイライトです。21世紀は、日本とロシアが手を携えて世界史を作っていく時代となることでしょう。(4月20日)

 <デフレ突入前夜、四面楚歌の日本は滅ぶのか>
 政府が相次ぐ大幅減税を打ち出しているのに、なぜ日本の消費者はモノを買わないのか。ワシントンのG7での各国からの激しい突き上げにもかかわらず、消費者はますます生活防衛のカラを固めつつあります。何兆円減税しても、その分は貯蓄に回されてしまうことは、素人目にも明らかです。日本経済の先行きがアブナイこと、これからは収入の道を確保するだけでも大変なことを、みんなが肌で感じて知っています。税金を湯水のごとく無駄な公共事業に投げ込んできた政治家や官僚。特権意識丸だしで接待浸けにおぼれるままの役人。ナンダカンダと言っても、超高給と超高額退職金にヌクヌクと抱かれている金融機関の幹部たち。自らの保身と業界擁護に奔走し、無力な国民を切り捨ててきた大蔵省や厚生省などの省庁。国民は黙っているけど、じっと見ています。選挙をやっても結局、何も変わらない。それならもう何も信用しない。自分の生活は、自分で守るしかない。その結果、モノが売れなくなって、企業はお手上げとなり、倒産やリストラが相次ぐのはあたりまえ。いまようやく、マスコミが近づくデフレについて警告し初めていますが、もう遅いのです。戦後最大の本格的なデフレに突 入するのは時間の問題でしょう。製造業、ゼネコン、流通、新聞を含めたマスコミなど、各分野で倒産・廃業が相次ぐでしょう。ここで財政再建を先延ばしにすれば、それこそ日本株式会社の破産に直結です。日本は今世紀二度目の敗戦を迎えるのだという覚悟が、わたしたち一人一人に必要のようです。(4月17日)

 <2028年の小惑星衝突に備え、マイケル・ジャクソンが潜水艦購入>
 2028年に超接近する小惑星が地球と衝突した場合に備え、歌手のマイケル・ジャクソンが33億円で潜水艦を購入し、生き残りを図っている、と今日(新聞休刊日)の駅売り日刊スポーツが大きく報じています。潜水艦はダイニングやリビングルームを装備した長期居住が可能なタイプで、マイケルは今月3日に誕生した長女パリスちゃん、1歳の長男プリンスちゃんら、家族・友人15人で乗り込むつもり、とのことです。この小惑星が海に衝突した場合は、高さ数百メートルの津波と大洪水で海岸線の都市は壊滅し、死者の数は予測もつかない、とされています。まさに、21世紀のノアの方舟です。はたして潜水艦で生き延びることが出来るのだろうか、という気もしますが、たとえ首尾良く15人が無事だったとして、その後どうやって暮らしていくつもりでしょうか。食糧も調達出来ず、気候も激変した世界で、マイケル一族だけで人類と文明を再建していくつもりなのでしょうか。それよりもまず、衝突が迫ってきた時、潜水艦に乗ろうと押し寄せる無数の知人たちやファンたちを、阻止出来るのでしょうか。銃で撃退するのでしょうか。そんなことを考えていくと、結局のところ、何億年に 一度の天変地異に遭遇出来たことを幸せに思いながら、衝突のカタストロフに身をまかせ、地球最後の日を楽しみながら自分も滅んでいく、というのが最も良い生き方=死に方のように思うのですが。(4月13日)

 <京都で最も顔を知られている目川探偵、その正体は?>
 今日の日経夕刊のコラムに、美術家の森村泰昌さんが面白いことを書いています。「京都に有名な探偵がいる」として、京都市内のあちこちに、顔の絵が書かれた大きな看板を出している目川探偵という人物について、あれこれと推測しているのです。この看板については僕も、嵐山に行く京福電車の四条大宮駅などあちこちで目にして、大変印象に残っています。森村さんは、「看板に顔をのせたりして探偵業に支障はないのか」と素朴な疑問を呈していますが、なにせ探偵のやることですから深いワケがあるはずです。あの看板の顔は、もう10年以上も前から、同じ顔のままというのもアヤシイ。僕の推理では、看板の絵そのものが、変装した顔なのです。本当の目川探偵は、看板からはおよそ思いもよらない顔つきなのでしょう。目川探偵は、実物とかけ離れた風貌の看板をあちこちに立てることによって、探偵業をやりやすくしているのです。これほどまでに関心を引きつける探偵というのも珍しく、ポール・オースターの傑作小説「幽霊たち」を思いだします。探偵ブルーが見張っているブラックという男が、変装して近づいたブルーに「実は自分は探偵で、ある男を見張っているのだ」と告白す る倒錯した展開は、ショッキングです。目川探偵は、自分の看板に見入っている人物の言動を間近から探ることを、最も重要な任務としているのかも知れません。「あの看板の探偵、自分の顔をさらして、おかしいと思いませんか」と話しかけてくる見知らぬ人がいたら、その人こそ目川探偵なのですよ。(4月10日)

 <21世紀スタートまで残り1000日。もう時間がない!>
 今日4月7日で、21世紀のスタートまでちょうど1000日となりました。新聞各紙は新宿・西口のスバルビル屋上に設置されている「21世紀大時計」が「1000日」となった写真を大きく掲載しています。あと1000日という日数が長いか短いかは、いろいろな感じ方があるでしょう。ちなみに今日から1000日前というのはどんな時期だったかを振り返ってみると分かりやすいでしょう。それは1995年7月12日。阪神大震災のツメ跡も生々しい時に、地下鉄サリン事件が発生して、世の中はオウムで騒然としていました。4月には東京で青島幸男知事、大阪で横山ノック知事が誕生しています。総理は村山さんで、橋本総理は誕生前でした。沖縄で米兵による少女暴行事件が発覚するのも、もう少し後のことです。米大リーグ1年目の野茂投手の活躍が日本を沸かせていました。あのころから今日までの1000日間。あっと言う間だったと同時に、実に多くのことがあった1000日間だった、というのが僕の実感です。1000日あれば、人生も社会も世の中も世界も、すっかり様相が変わってしまいます。でも、それは矢のように過ぎ去る1000日間とイコールなのが、「時」の 不可思議で恐ろしく、容赦のないところなのでしょう。20世紀の残り時間1000日は、さらに光速に近いスピードで過ぎ去ることでしょう。しかも、この1000日は、20世紀のどの時期にもなかったほどの激変の1000日であることも、疑いありません。私たちひとりひとりにとっても、人類にとっても、なすべきことの多さに比べて、時間はもう、あまりにもないのです。(4月7日)

 <これぞ悪魔の発明、人間と動物の混合動物「キメラ」の恐怖>
 キメラ、あるいはヒトキメラという、聞きなれない言葉が新聞で話題になっています。人間と他の動物を混ぜた全く新しい異種混合動物のことで、アメリカの生物学者がキメラの作製を特許申請した、というのです。ウッソーといいたくなるような話で、エイプリルフールのジョークかと思ったくらいですが、2日付の英科学誌「ネイチャー」や同じく2日付のワシントンポストが報じたというから、これは本当の話でしょう。キメラという言葉そのものが、ギリシャ神話に出てくる、ライオンの頭、ヤギの体、ヘビの尾を持つ怪物からきているということで、これはクローンとは比較にならない恐ろしい発明といえます。たとえ最初は医学的な目的で作り始めたとしても、カルト教団や犯罪シンジケート、テロリストグループなどがこの技術を使って、大量のヒトキメラを作り出さないとも限りません。人間の頭脳とイヌの嗅覚とコンドルの翼とトラの牙とライオンの爪とサイの皮膚とダチョウの足を持った、殺戮用兵器動物だって作ることが可能になっていくでしょう。こうしたヒトキメラが、人間の感情を持ったとしたら、自分の存在をどう思うでしょうか。フランケンシュタインのように、恐ろしい自 分を作り出した人間をのろい、復讐へと突き進むこともあり得ることでしょう。特許申請した学者は、他の研究者がキメラを作製するのを封じるために特許申請したといいますが、はたして特許で阻止出来るものでしょうか。さまざまな動物との混合キメラたちが、自らの存在をのろい苦しみ、夜の都会を咆哮しながら駆け回る姿が、いまから目に浮かびます。(4月3日)

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1998年3月

 <いにしえびとは、散る花びらに万物の本質を見ていた>
 情報過多で氾濫するメディアの時代には、かえって物事がみえにくくなっているように感じます。たとえば、桜。新聞やテレビに開花情報があふれ、花の名所はどこも人の洪水。しかし、桜の美や本質はかえって見えなくなってしまいました。そんな中でふと、いにしえびとたちが詠んだ歌をひもといて見ると、驚くほど新鮮なものを感じます。 
 久かたの 光のどけき春のひに しづ心なく 花のちるらん  紀友則
 よの中に たえて桜のなかりせば 春の心はのどけからまし 在原業平
 ちょうど今の時期そのものの歌。西行の詠む桜とはまた違って、友則の歌にはこの世の無常、万物流転への「さとり」のような、万感の思いがうかがえます。業平の歌は、逆説の持つすさまじい肯定のパワーに圧倒される思いです。僕はこの「たえて桜のなかりせば」については、その前後も作者も不確かだったのですが、インターネットが意外な力を発揮することを発見しました。日本古典文学索引というホームページから、国文学資料館のホームページに入り、覚えている言葉だけを入力して検束すると、ちゃんと該当する和歌が全部表示されるのです。これからのインターネットの役割を示唆しており、多くの人に利用してほしいページです。(3月30日)

 <火星の「人面岩」の正体探るため、NASAが探査機で観測へ>
 「火星の顔」とか火星の「人面岩」などと呼ばれているナゾの地形の正体を探るため、NASAは火星を周回中の「マーズ・グローバル・サーベイヤー」で今月末から9月にかけて、新たな観測を行うとのことです。写真で見ると、人間の顔それも西洋人かギリシャ人のような面もちで、目、鼻、口元、ひたいなどが整っているように見えます。1976年に惑星探査機バイキング1号が発見して以来、知的生命の構築物ではないか、と話題を呼んできたもので、「大半の科学者は自然の地形と信じているが、なぞは解明した方がいい」というのが、今回観測を行う理由のようです。確率は極めて低いと思いますが、万一にも、あるいは百万に一つにでも、この地形が作為的に作られた可能性があるという観測結果がでたら、どういうことになるでしょうか。だれが、いつごろ、何の目的で? と有史以来最大の大騒ぎとなることは間違いないでしょう。映画「2001年宇宙の旅」で、月の地中から発見されたモノリスをめぐる緊迫した探査の様子を思わせます。火星の「人面岩」は、数億年前に滅んだ火星文明の記念碑であり、いつの日か、地球に育つであろう文明が発見することを願って作られた目印だ った。その下には、火星文明の全貌が巨大カプセルの中に封印されていて、驚愕のメッセージが綴られていた…。なんてふうに空想は果てしなく膨らみます。あるいは、「神」(もしくはそれに近い存在)が地球に知的生命をプログラムした時の「絵コンテ」あるいは「下書き」が、この「人面岩」だった、ということだってあり得ます。いずれにしても、こんどの観測は、「われわれとは何か?」を考えるいい機会のようです。(3月27日)

 <アカデミー賞に「タイタニック」、文明崩壊への共振>
 第70回アカデミー賞に、史上最多の14部門でノミネートされていた「タイタニック」が受賞し、「ベン・ハー」と並ぶ11部門での受賞となりました。「タイタニック」は、なぜこれほどまでに圧倒的な共感を呼んだのでしょうか。この欄で前にも書きましたが(1月23日)、ジェームズ・キャメロン監督らスタッフたちが、映画人としての全てを投入した努力はもちろんのことですが、世紀末のこの時期、タイタニックの悲劇には世界中の人々を引きつけ、共鳴させるものが確実にあるのでしょう。技術の粋を尽くした豪華な客船が、氷山との衝突ごときで沈没していく。タイタニックは、いまの私たちの文明。タイタニックはこの地球そのもの。栄華を極めたものが滅んでいく、栄枯盛衰の定め。平家一門の滅亡や、近くは震災で一瞬にして崩れ去った神戸の街にも通じるものがあります。折しも、2028年に地球に超接近する小惑星が、衝突するのでは、と話題になりましたが、氷山を小惑星に置き換えてみれば、タイタニックは地球に置き換わるのです。技術によって支えられた文明のもろさ。技術への過信の怖さ。この映画から何を受け取るかは、見る人によってさまざまでしょう。オスカ ーを手にしたキャメロン監督が音頭を取り、発表会場の全員によって、1500人を超えるタイタニックの犠牲者たちに黙祷を捧げた光景が印象的でした。それは、2度の大戦を含む20世紀文明による犠牲者たちへの黙祷でもあるのかもしれません。(3月24日)

 <地下鉄サリン事件3周年と新宿サザンテラスオープン>
 昨日3月20日、新宿駅南口の遊歩道「新宿サザンテラス」がオープンしました。JR東日本本社と小田急サザンタワーを2本の核にした都市空間で、タカシマヤタイムズスクエアへは横断橋で結ばれています。このサザンテラスを散策しながら見回す周囲の景観は、まるで新宿未来都市。眼下に中央線や山手線が走り、西口の超高層ビルや対岸の高島屋が新しい角度でそびえ立っています。こうして見ると、南口全体が一つの新たな都市として誕生したことが実感出来ます。またここから見ると、それぞれの建物の設計センスがよく分かります。ルミネ2は、ポストモダン風の洒落た外観なのに対し、小田急ミロードは窓がほとんどない機能性1本の無粋なデザインで、サティアンそっくり。そういえば、この日は、奇しくも地下鉄サリン事件3周年でした。一見なんの繋がりもない新宿サザンテラスと地下鉄サリン事件ですが、僕にはなんだか深いところで関連しているような気がします。それは2つの出来事が、来るべき未来へ向かう時代の一里塚のように感じるからです。3年で、世の中は激変する。社会の流れも人の心も時代の精神も。このことを痛感させるのが、「サリン後」の日本の変容であり 、それを端的に示す「南口」の変貌ぶりなのです。これからの3年後、日本の社会も人間の生きようも新宿の景観も、いまとは予想もつかないほどに変わっていることでしょう。(3月21日)

 <バンダイが女優育成ゲーム「玉緒っち」。次は「わいろっち」を>
 「たまごっち」をもじって中村玉緒に「玉緒っち」などという愛称がつけられていましたが、なんとバンダイがその名も「玉緒っち」という携帯型の女優育成ゲームを4月下旬に発売するとのこと。中村玉緒がキャラクターで、プレイヤーがマネジャー役となって、女優の卵の身の回りの世話をしたり芝居や踊りのけいこを繰り返して、一人前の女優に育て上げていく内容。育成に失敗すれば、一定の時間がたったときキャラクターが引退してしまう、というから芸能界のキビシサそのものですね。勝新太郎のキャラクターが加わればゲームにさらに深みが増すことでしょう。パンツにコカインをうまく隠せるかどうかが、ゲームのポイントになりそうです。そこで、バンダイにはお願いがあります。こういうゲームを作れるのなら、いっそ「わいろっち」を発売してくれませんか。キャラクターは、某国会議員、某省官僚、某金融幹部、某公団幹部など。プレイヤーはキャラクターに出来るだけ多額のわいろや接待を重ねて、エリート臭プンプンのワルに仕立て上げるのです。ノーパンしゃぶしゃぶでの痴態は、ゲームのヤマ場でしょう。検察の動きから、いかに巧妙に逃げおおせるか、もゲームの興です。 窮地に立たされたキャラクターは、最後に、逮捕されるか自殺するか、それとも入院するか天下るか、などを選択します。こんなゲーム、バカバカしくて誰も買いやしないですって? いえ、天下の某大を出た官僚の卵たちへの、新人研修用「教材」として、最適だと思いますけど。(3月18日)

 <2028年に小惑星が月よりも地球に接近、衝突の可能性も>
 うっかり見過ごしそうな小さなベタ記事が、とてもスゴイことを伝えています。全米天文学協会の研究者らの発表によると、「衝突すれば地球に広範な被害をもたらすほど大きい小惑星が近づいており、2028年には地球と月の間の軌道を通過する」というのです。この小惑星は昨年12月に米アリゾナ大が発見した「1997 XF11」で直径は1.6キロ以上。近代に入って地球に接近した天体の中では最も大きく、地球に衝突する可能性は小さいがゼロではない、として研究者たちは警戒を続けるとのこと。地球に最接近するのは、世界標準時で2028年10月26日午後5時半で、日本時間では10月27日午前2時半です。あと30年後ですが、過去の地球史では全生物相を一変するほどの天変地異が4−5回起きていることを考えると、そろそろ何かあってもおかしくない時期ではあります。もし衝突が避けられないことになったら、人類はどうするでしょうか。核兵器などで小惑星の軌道を変えるか爆破するか。いや、小細工はやめて、このまま衝突するにまかせよう、という意見も世界的に高まるようにも思います。地球をボロボロにし、己の醜い保身と目先の争いごとに明け暮れた人間どもへの天罰なのだ。そんな議論が目に浮かぶようです。僕の意見は、こうした原因で人類が滅びるのなら、仕方のないことだと思います。にわかに現実のものとなりそうな「地球最後の日」まで、一人一人が、そして家族が、国が、どうふるまうか、その有様を見るためにも、なんとしてもその日までは生き延びたいものです。( 3月12日)
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 続報。14日の朝刊各紙は、この小惑星の通過についてNASAが「地球からせいぜい100万キロのところを通過するだけで、衝突の危険はまったくない」と発表した、と伝えています。全米天文学協会とNASAとでこんなにも見通しが異なるのは、不思議です。政府の経済報告が、いまなお日本経済が不況だとは決して認めないようなものでしょうか。これに関して、日刊スポーツに興味深い話が載っています。米国防総省の報道官が「小惑星に対する保安責任者はNASA」と答え、宇宙からの脅威は米軍の守備範囲に入っていない、と強調したとのこと。なるほどNASAが必死で衝突の可能性を否定するわけです。(3月14日)

 <「この素晴らしき世界」の歌が流れる三つの映画>
 岩下志麻主演の映画「お墓がない!」を観てきました。映画も面白かったけど、エンディングに流れる歌が小比類巻かほるが歌う「この素晴らしき世界」(What A Wonderful World)だったのにはいささかびっくり。というのも、テリー・ギリアム監督の「12モンキーズ」のエンディングで流れた歌も、ルイ・アームストロングが歌う同じ歌だったからです。「お墓がない!」の原隆仁監督やスタッフたちが、「12モンキーズ」をどの程度意識していたかは分かりませんが、この歌には確かに、死や滅亡を予感させるものがあり、それへのアンチテーゼの形で、現在の世界に生きていること自体を感謝し賛美するという、「最後の歌」的な破滅と再生の響きがあるのですね。この二つの映画とは別ですが、「この素晴らしき世界」の歌が映画の中で使われた忘れられないシーンがあります。ロビン・ウィリアムズ主演の「グッドモーニング、ベトナム」です。サイゴンの米兵向けラジオ放送のディスクジョッキー、クロンナウアがクビになりかけて復職し、最初にこの曲のレコードをかけるところがあります。映像はスタジオから一転して、米軍に焼き払われ、炎上するベトナムの村。逃げまどい、泣き叫ぶベトナムの農民たち。ベトナムの人々の抗議のデモ。それを蹴散らす米兵たち。ラジオから切々と流れるアームストロングの歌。♪♪ 緑の木々、青い空、白い雲 …この素晴らしき世界…♪♪ 映像と歌がしっかりと結びつき、強烈なメッセージが伝わってくる映画史に残る場面です。(3月8日)

 <月に氷、1000組のカップルが100年間暮らすことが可能!>
 月の南極と北極に、氷の形での大量の水が存在することがNASAによって確認された、と今日の夕刊各紙が報じています。月で確認された水の総量は、1000組のカップルが100年暮らせる量、だそうです。これは、水の量を分かりやすく示すための、ものの例えなのでしょうが、僕はむしろこの例えの方に興味をそそられます。このカップルとは、もちろん若い男女でしょう。地球がボロボロになって、人類は絶体絶命の淵に追いつめられた。そこで、各国から一定の基準によって選ばれた1000組に、人類の将来を賭けるしかなくなった。この1000組は、月で自給自足していくしかない。与えられた時間は100年。水の残量が尽きる前に、彼らはほかの方法で水を作り出すか、別の天体へ移住するかの、いずれかを実現しなければならない。こうしたコロニーは、どんな社会になるでしょうか。指導者や自治組織は、どのようにするか。警察は必要なのか。殺人などの凶悪犯罪にどう対処するか。この間に、子どもが生まれたとしても、総人口は2000人を超えることはできない。だから子どもが一人生まれる度に、だれかが一人死ななければならない。こう考えると、一夫一婦制ではこ の危機を乗り切れないかも知れない。しかし特定のペアが恋に陥ったらどうなるのか。失楽園的情死はあり得るだろうか。こんな小さな集団の中でも、内乱や戦争が起きるかも知れない。さらに人間以外の動物や植物は、どの程度、共生していく必要があるのか。考えていくと、夜も眠れそうにありません。(3月6日)

 <20年前の殺人を名乗り出た男と、まとわり続けた被害者の生き霊>
 20年前に富士市の山林で銀行員を殺害した男が、時効から5年経ったいま、犯行を週刊朝日の記者に認め、警察署に出向いて名乗り出た、というニュースにさまざまなことを考えさせられます。とりわけ興味を引かれるのは、被害者の男性の姿が、夢の中や白昼の人混みの中に、繰り返し現れ続けたという、加害者の告白です。「夢は年月が経過するに従って回数が多くなり」、人混みの中に彼の姿を見た時には「その場で吐いたり、吐血したりした」といいます。これを単なる罪悪感から来る妄想・幻想と片づけることは出来ないような気がします。「私の脳裏では彼は生きていました」という言葉はとても重要です。加害者の男にとって、被害者は死んでいなかったのです。脳裏に生きているということは、現実に生きていること以上に、根元的な問題です。現実の人間は、いつか死ぬことは避けられない。しかし、誰かの脳裏に生き続けることが出来るならば、死んではいないのです。不死の魂や永遠のスピリッツなどは、それ自体が単独で存在するとは思いませんが、亡き自分を心底から深く思い起こしてくれる人がいる限りにおいて、その人の脳裏との関わりにおいてのみ、死者の魂やスビリッツ は存在するのだと言えるでしょう。奇しくも、この事件では被害者も加害者も同じ年齢。そして犯行を告白した加害者はいま、がんで先は長くないといいます。被害者と加害者それぞれの20年間は、実は2人の追跡と逃亡そして対決の長い20年だったに違いありません。(3月2日)

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1998年2月

 <携帯電話使った乗客は懲役刑、重大事故につながれば無期懲役>
 携帯電話を使用した乗客は5年以下の懲役刑! 電車内ではなく飛行機内での話、それも台湾の話です。昨年末に民間航空法を改正し、1月末に公布したもので、機内での携帯使用が重大事故につながった場合は無期懲役、と徹底的にキビシイ内容です。日本でもケータイの横暴さはこのところ目に余るものがあります。喫茶店やレストラン内はもちろん、JRの電車内でも車内放送での注意呼びかけもどこ吹く風。先日は、タクシーの女性運転手がケータイ片手に大笑いでしゃべりながら交差点を左折するのに出くわしました。ケータイを手にした人間は、その瞬間から人が変わります。普段はどんなにマナーの良い人間でも、ケータイを持つことによって何か特殊なパワーと特別な優先権を得たような錯覚に陥るのです。ケータイで話す声は、なぜ大きい声になるのか。これは、電波が弱くて交信しにくいためだけではありません。ケータイで話していることを、周りの人に気付いてもらいたい、という気持ちが無意識のうちにあるのかも知れません。しかし、もうそろそろ、日本でもケータイの作法とルールが確立されてしかるべきです。映画館やコンサート会場でケータイの呼び出し音が鳴ったり、さ らには演奏のさなかにケータイに出て話し込んだという話もよく耳にします。マナーの呼びかけに耳を貸さない者には、荒療治が必要なのかも知れません。コンサート中のケータイには、懲役1年から3年くらいが適当でしょう。無期懲役はちょっとかわいそうかもね。(2月26日)

 <あなたの名前を搭載した探査衛星が、半永久的に火星を回る>
 自分の名前を刻印したアルミ板を搭載した探査衛星が、半永久的に火星を回り続けるとしたら…。こんなロマンがわずか50円のハガキ代だけで、実現するとは、夢のような話ではありませんか。この計画は、文部省宇宙科学研究所が2月末日まで募集しているもので、すでに約7万人が応募し、締め切りまでに10万人を超えると予想されています。はがきの裏に、幅6センチ、長さ2センチの枠内に名前を書いて出すと、宇宙研でその名前を撮影して2.45センチ四方のアルミ板に焼き付け、今年7月に内之浦から打ち上げる火星探査衛星「PLANET−B」に搭載します。名前は顕微鏡でしか見えないほど小さくなりますが、この衛星は99年10月に火星軌道に到着して2年間に渡って火星大気や磁気圏を探査し、その後は半永久的に火星を回り続けるということです。こんなチャンスはめったにないことなので、僕もしっかり応募のハガキを出しました。あなたがいま初めてこの企画を知ったのでしたら、28日消印有効ですので、ぜひどうぞ。詳しい内容については、文部省宇宙科学研究所のホームページをご覧下さい。さきほど、日本 のH2ロケットが衛星「かけはし」の打ち上げに失敗したというニュースを見ましたが、「PLANET−B」がうまく軌道に載ることを期待していましょう。もしも火星人が探査衛星を捕獲してアルミ板を分析解読し、名前が書かれている地球人をつぎつぎと火星に「招待」することになったら、まあそれも楽しいか。(2月21日)

 <原田雅彦選手の饒舌と笑いは、地獄の苦しみの裏返しだった>
 最近の原田選手をテレビで見るたびに、なんて饒舌でお調子者でヘラヘラ笑いばかりしている軽薄な選手なのだろう、と思っていました。こういう選手にはメダルなんて無理だろう、という気もしていました。しかし、昨日のジャンプ団体で日本中を歓喜・狂乱させた瞬間の様子を見て、僕が持っていた上っ面だけに基づく偏見は、ぶっとんでしまいました。奇跡的な大逆転で金メダルが決まった時、原田選手は、しゃべることも笑うことも出来ず、号泣しながら言葉にならない言葉を発するのがやっとでした。これが原田選手が見せてくれた真の姿であり、これまでの多弁と笑いの原田は、世を忍ぶ仮の姿だったのだと、初めて分かりました。リレハンメルの大失敗からこれまで、原田選手には地獄の苦しみと重圧がつきまとい、その中で人前に姿をさらすことが出来る唯一の方法が、必要以上に調子よく笑顔を振りまき、リップサービスをしたり、ひょうきんにおどけて見せることだったのでしょう。だから、原田選手が笑っているのを見るたびに、彼をよく知る者は彼の心の内を思って泣いた、といいます。人間の限度を超えた壮絶な苦しみの中では、人は笑う以外に方法がないのかも知れません。ある いは饒舌になっていないと、自らが崩壊してしまうことを、意識下で感じていたのでしょう。昨日の原田選手の一回目。またかの失敗に彼は、目の前に地獄の底を見たに違いありません。二回目、彼は全存在をかけて突進を続け、「無」を突き抜けて立ったところが137メートル地点だったのです。原田選手がようやく、饒舌と笑いの呪縛から解放された瞬間でした。(2月18日)

 <21世紀の世界を変える超技術が続々と、いま誕生前夜>
 21世紀の世界や社会の姿を考える時、現在知られている最先端の技術でさえ、次の全く新しい技術に取って代わられるだろう、ということを頭に入れておく必要があるでしょう。15日付け日経新聞の特集によると、産業界のビックバンを予感させる超技術の数々が、いま夜明け前の状態にあるというのです。その一つが従来の「化学電池」に代わる「フライホイール電池」で、高速で回転を続けることによってエネルギーを蓄え続け、必要な時に電気エネルギーとして取り出せる「物理電池」です。すでに実用化段階に入り、自動車への応用に限ってみても、世界の勢力地図を変える可能性を秘めているといいます。さらにクローン技術の応用では、食糧増産から医薬品や臓器を製造する動物工場なども実現に向かっています。発生した二酸化炭素を放出せずに水素と反応させてメタノールを生産する技術の開発も進行中。これらの一連の発明・発見は近く開花を始めて、2020年ごろに一つのピークを迎えると予測されます。そうすると、あと20年から25年後の世界は、いかなるSFをも超えた真の意味での未来社会となっているものと思われます。おそらく今のように、人間個人が運転する自動 車などは、危険で野蛮な乗り物として姿を消していることでしょう。わずか5年前でさえ、インターネットの現在が全く予測されなかったように、まるで新しい未知の「道具」が広く普及している公算は大きいでしょう。いま必要なのは、大きく立ち後れている人間社会や国際社会の仕組みを、根本から考え直し、構築し直していくことだと思います。(2月15日)

 <清水宏保と里谷多英、二つの金メダルを見守る亡き父>
 日本中を沸かせたスケートの清水選手とモーグルの里谷選手の金メダル。この二人は、全く対照的な金メダルでした。清水選手の方は日本中のありとあらゆる期待を一身に受け、里谷選手の方は全く期待されていませんでした。清水選手は金メダルを取ることだけに狙いを定め、里谷選手は何も狙っていませんでした。清水選手の最も驚嘆すべきところは、2日間に渡る競技で、その2日とも最高の集中力を保ち続けたことです。この集中力は、この世のものとも思えないほどで、至高の境地といっていいでしょう。一方の里谷選手は、無私無欲に競技に没頭・集中する姿がひたむきで、芸術的ともいえる出来映えでした。本人も、「夢じゃないかと思う」というくらいですから、自分でも思いがけない高いレベルに到達出来たのでしょう。「君は雪のシンデレラ」という賛美のフレーズがまさにぴったりです。清水選手と里谷選手に共通している点は、ともに自分のコーチ役だったお父さんをがんで亡くしていることです。清水選手は7年前に、里谷選手は去年に。清水選手は、「金メダルを父に最初に伝えたい」といい、里谷選手は「父はきっと私を見ていた」と話しています。二人が意識するとしないと に関わりなく、競技場には確かに亡き父たちが来ていたのだと思います。透明な氷と真っ白な雪の中で、元気な父が手を振っている。二人の謙虚で飾らない人柄があってこそ、この瞬間に永遠なるものを通して父の存在に触れ、父と一体化することが出来たのでしょう。氷の世界、雪の世界では、時としてこうした奇跡が起きるものなのですね。(2月11日)

 <戦争のアンチテーゼとしてのオリンピック>
 米国によるイラク空爆のテロップが流れるのではないか、という緊迫した情勢のなか、長野五輪の開会式が行われました。盛り上がりに欠けたとか焦点がぼやけたとか、いろいろ言う人もいますが、僕は、なかなか簡素な中にもポイントをしっかり抑えていて、今の時代と日本にふさわしい充実した開会式だったと思います。この五輪を開く意味は何か、ということを全世界にアピールするのが開会式です。きのうの開会式は、戦争のない21世紀へ、という意味づけがはっきりしていました。近代オリンピックは20世紀とともに歩み、2度の大戦を始めとする厳しい国際情勢にもまれ続けてきました。戦争の対極にあるものは何でしょうか。それは平和であるだけではなく、人類の旺盛な活動であり、創造であり、熱気であり、祭典なのだと思います。だからオリンピックこそが真の意味で戦争のアンチテーゼの位置にあり、4年に一度(夏季と冬季で2年に一度)、人類が見る夢なのです。夢は、開催期間が終われば現実に戻る。それをみんなが承知の上で、夢を見ることに莫大なエネルギーを費やす。でも、夢は幻想とは違う。幻想はいつまでたっても幻想だけど、夢は現実を動かし現実を変える力に なるかも知れない。少なくとも、多くの人たちがそう信じているということにこそ、人類にはまだ救いがあり捨てたものではないという確信を得るのです。オリンピックなんてやめようという声が強まった時こそ、人類の危機なのでしょう。(2月8日)

 <全国の小中学校で刃物教育を必修科目にしよう>
 ナイフを振り回す「武闘派少年」の対策として、学校での所持品検査が叫ばれていますが、効果は疑問です。僕が子どものころは、鉛筆を削るナイフを各人が学校に持ってくることになっていて、所持品検査ではナイフを忘れると、えらく怒られたものでした。ナイフといっても肥後守(ひごのかみ)のようなものがほとんどで、僕たちはそれなりにナイフで遊んだものです。面白くてスリルがあったのは、片手のひらを机に置いて5本の指を大きく開き、もう片方の手で持ったナイフで、机とそれぞれの指の間を交互に突いていく早さを競うものでした。やたらに急いでやろうとして、指を傷つけてしまうことも多く、刃物の切れ味と怖さを子どもなりに身につけていきました。みんなが持ってきているから、ナイフは武力にも自慢にもなりません。今回も、子どもからナイフを取り上げるのでなく、入学と同時にその学校のマークの入った工作用ナイフを全員に持たせるといいでしょう。そして学年に応じた刃物教育をカリキュラムに組むのです。鉛筆削りから果物の皮むき、複雑な工作物の加工へ、とさまざまなことを体験させましょう。手を切って血を出す子も出るでしょうが、それも体験です。規定 のもの以外のナイフを持った子には、人権もへったくれもなく、徹底的に所持品検査と罰労働を課すことにします。こうした決まりや約束事を守れない子には、体罰以外のスパルタ的厳しさで望みましょう。権利を言うなら義務を果たす、このあたりまえのことを教えるのが学校なのですから。(2月5日)

 <たかが郵便番号、されど郵便番号>
 郵便番号が今日から7ケタになりました。これまでも一部地域は5ケタだったとはいえ、全国一律7ケタになるのは、手紙を書く側にとっては大変な負担です。3ケタでさえ調べるのは大変だったのに、こんどは調べるだけで青息吐息。町名の読み方が分からない場合は、もはや調べようがありません。年賀状の季節になったらどうなることでしょう。何丁目何番地何号という住居表示をきちんと書けば、郵便番号は読み取り機のほうで自動的に印刷するように工夫してほしいものです。もっとも、それが出来るなら、郵便番号そのものが必要ないということですね。郵政省が配布した新郵便番号簿を見ると、さらに絶望的な気持ちになります。あまりにも細分化されていて、見ていくだけで目がポケモン状態。町名が見あたらない場合は、また最初に戻って、「以下に掲載がない場合」に該当する番号になるのですが、見落としたのかも知れないし、この番号を書くのも不安です。もっと悲惨なのは、京都の場合です。碁盤の目の通りを生かした伝統的な住所の表示を無視して、無理矢理に7ケタを割り振ったものだから、これは超難関の大学入試問題よりずっと難解です。なにかもっといい方法がありそう なものですが、コンテストを行って国民からアイディアを募集してみたらどうでしょうか。郵便番号も住所も書かなくてOK、宛名の上に電話番号を書くだけで確実迅速に配達します、という民営サービスが出来たら、絶対に繁盛すると思いますけど。(2月2日)

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1998年1月

 <厳寒の宵に玲瓏と輝く三日月の凄みに思う>
 宵の西空にシャープな三日月が、輝いていました。大寒からのこの時期の三日月は、寒風の空に玲瓏と冴えて、その美しさには一年でも最も凄みを感じます。新月を過ぎて初めて姿を現す極細の月は、その形からして謎めいていて、まるで意志を持つがごとくです。この下界で、政・官・財から学校現場まで、こうも殺伐とした出来事が続き、アジアの国々でもアメリカでも穏やかならぬ事態が続いていると、月の黙々とした営みが実に偉大なものに思えてきます。月の公転周期と自転周期がピタリと一致していて、月の裏側が地球から決して見えないのは、どう考えても不思議すぎます。地球の引力による潮汐のため、月の自転周期が急速に遅くなったという理由を聞いても、やはり何か妖しいものを感じます。さらに不思議なのは、月の400倍の直径を持つ太陽までの距離が、月までの距離のちょうど400倍あるため、地球からの見かけの大きさが月も太陽も同じという恐るべき偶然です。月は地球の歴史を何もかもずっと見続けてきたのだ、と思うと、三日月が発する凄みの理由も少しばかり納得出来るような気がします。何億年も続いた恐竜時代も、人類の揺籃期も、大戦が続いたこの世紀も、月 はじっと地球を見ていたのです。やがて人類が衰退して滅びていく時も、月は何もせずにじっと見守っていくことでしょう。人類が滅んだ後の廃墟となった地球をも、月は相変わらず黙々と、満ち欠けを繰り返しながら見続けていくのでしょう。(1月30日)

 <日本を滅ぼさないためには大蔵省を廃止するしかない>
 このところ、エンドレスで出るわ出るわの官僚の不祥事や企業犯罪のニュースに食傷気味で、どの事件が何のことかも覚えていられなくなっていました。もうこうした話は見るのも聞くのもうんざり。しかし、今回の大蔵省金融証券検査室幹部の汚職事件には、心底から恐怖のようなものを感じます。それは、日本が崩壊していく恐怖、日本人と日本の社会が、まっしぐらに滅びていく恐怖です。それは怒り、驚き、あきれ、悲しみ、いずれとも違う身震いする感覚です。歴史を見ても、一つの帝国が歴史的な崩壊を起こす過程は、このような事件から始まっているのです。かろうじて崩壊をくい止めることが出来る方法があるとしたら、それは三塚蔵相の辞任ではなく、大蔵省を廃止することしかありません。大蔵省の監督機能はすべてなくし、政治判断が必要な事項は、国会の衆参予算委員会の下に置く。事務処理に関する事項は、一切民間機関に委託する。ほかの省庁の予算執行に関する事項は、それぞれの省庁の会計部門が行う。こうして大蔵官僚を一掃し、大蔵省職員は少数が衆参予算委の事務局に残留する。こうして膨大な予算と公務員が削減されます。これで日本の財政がやっていけるのか、で すって? 大丈夫です。むしろ、これまでよりもずっとうまくやっていけますよ。それどころか、日本の政治も経済も再び活性化して、国際社会の中で胸を張って進んでいくことが出来るでしょう。(1月27日)

 <アルコールを断って満3年、いま飲む炭酸割りとは>
 僕がアルコールを完全に断って今日あたりでちょうど満3年になります。かつての僕は、炭酸の入ったアルコールがなければ1日が終わりませんでした。最初はビール。やがてスコッチの炭酸割りになりました。ワインも発泡ものだけ。やがて、焼酎を炭酸で割って酎ハイに。ついでバーボンを炭酸で割って飲む時代が長く続きます。そしてジン、ウォッカと、僕の炭酸主義はとどまるところを知りませんでした。ついには医者から断酒を申し渡され、命が惜しいのでアルコールはやめました。しかし炭酸はやめられませんでした。この3年間、僕は相変わらず炭酸割りを飲み続けています。サイダーの炭酸割りを。サイダーなら炭酸で割らなくともいいのに、と思うでしょうが、サイダーだけでは甘すぎるのです。それに何よりも、僕は炭酸で割るという行為から抜けられなくなってしまいました。僕はアルコール依存症ならぬ炭酸依存症になったのだろうと思います。そこでふと思うのは、こうして飲んでいる炭酸は、地球温暖化にどのくらい影響があるだろうか、ということです。そういえばケーキなどを買うと入れてくれるドライアイス、あれだって気化して炭酸ガスになるのです。工場や車から出る 温暖化ガスに比べれば、このくらいは微々たるものかな、とも思うのですが。文字通り「気になる」ところです。(1月26日)

 <沈みゆく20世紀のノアの方舟−タイタニック>
 ノアの家族とすべての動物たちを大洪水から守るはずだった方舟が、浸水して沈み始めたら、ノアの物語はどう展開していくだろうか。映画「タイタニック」を観ながら、これは沈没していく現代の方舟の物語なのだと思いました。方舟には、大金持ちから貧乏人までさまざまな階層の人々が同舟していて、一等船客と三等船客とでは生存率に歴然とした大差がありました。貧しいレオナルド・ディカプリオと上流階級のケイト・ウィンスレットの恋。二人の身分の違いは、この大惨事の本質を象徴しているが故に、終盤の大パニックの中でも浮き上がることなく、観客の胸を突き刺すのです。ジェームズ・キャメロン監督のすごいところは、これまで何度も映画化されたタイタニックの事件を、20世紀の黙示録にまで高めた点でしょう。細部の再現にこだわればこだわるほど、映画はかえって現代への普遍性を増してゆき、沈みつつある方舟とは、20世紀そのものであり、この文明そのものなのではないか、ということに僕たちは気づくのです。方舟が沈んだ後の世界には、オリーブの若葉はもう生えて来ないでしょう。たとえあったとしても、それをくわえて来る鳩は、もう存在しないのです。(1月 23日)

 <20世紀日本のうたベスト10に百恵が2曲、なのになぜ?>
 NHK衛星放送が去年4月から12月末まで募集した「1000万投票BS20世紀日本のうた」のベストテンが19日、NHKホールからの生放送で発表されました。結果は@川の流れのようにAいい日旅立ちB神田川C高校三年生Dアジアの純真EいとしのエリーF荒城の月G秋桜H赤とんぼILOVE LOVE LOVE。1位はやっぱりという感じですね。5位のpuffyと10位のドリカムは大健闘でしょう。最も特筆すべきは山口百恵の歌が2曲も入ったことです。ところが昨夜の放送ではなぜか2曲とも、歌ったのは百恵ではなく、作詞作曲者でした。これって、百恵の歌に投票した延べ600万人にも上る視聴者を裏切ることになりはしませんか? ひばりやサザンなどのようにビデオ収録のものをなぜ披露出来なかったのでしょうか。「いい日旅立ち」を歌った谷村新司は「この歌は山口百恵さんと出会えて幸せだった」と話し、「秋桜」を歌ったさだまさしも「この歌は百恵さんのために作った歌です」と話していたように、この2曲のベストテン入りは百恵抜きでは考えられなかったことです。僕は百恵ファンではないのですが、BS最大の企画と大宣伝してきた1000万投票だけに、百恵に対するこの扱いに釈然としません。もっとも百恵自身は、この歴史的なランキングに2曲入るという、ひばりでさえなし得なかった結果に、しずかに微笑んでいるように思います。本のタイトルにあったように、やはり山口百恵は20世紀の菩薩なのです。(1月20日)
 この件について、1月23日の毎日新聞にさだまさしが「本当は、この歌に投票した人は、百恵さんの秋桜が聴きたかったろう。僕もそうだ」と書いています。そして「そのベストテンに2曲を送り込んだ山口百恵というスーパースターの偉大さを改めて思う」とも。

 <阪神大震災3周年に想う、6418人の最期の様子>
 6418人の死者。あの1・17からもう3年になるのですね。いま、僕に出来ることは、亡くなった人たちの最期の様子を出来るだけ具体的に、想い浮かべることしかありません。その一人を「私」と置き換えてみると、目に浮かぶようです。
 発生の瞬間、私は何が起こったのかも理解出来ないまま、家具の下敷きになっていて、家の一部も上に崩れているらしく、動くことが出来ない。近所で大爆発がおきたのかあるいはミサイルでも落ちたのだろうかと思う。家族はどうなっているのか、声をかけても返事はない。激痛が走るが、幸い出血はたいしたことはなさそうだ。何が起こったにせよ、体力を消耗しないようにじっとして持ちこたえていれば、きっと誰かが救助してくれるはずだ。なにしろ人口の多い近代都市なのだ。今の苦痛も時間が解決してくれる。だが、周りは異様に静かで、パトカーや救急車の音も聞こえない。そんなはずはない。何が起こっているのだろうと、少し不安になってくる。さらに待つ。何度か声を上げてみるが、反応はない。どこかで何かの音が聞こえる。救急隊にしてはヘンだ。煙が流れてくる。火事が迫っているのだ。なぜ消防車のサイレンがしないのだろう。煙が激しくなって呼吸が苦しくなる。体が動かない。家の一角に火が移ったのが見え、耐えられない熱さに襲われる。救助は来ないのだ。そして私は死ぬのだ、と初めて分かる。遺書を書くことも出来ないし、書いたとしても灰になるだろう。こうして 「私」は炎に焼き尽くされる。何年後かに「私」のこんな最期の様子を思い浮かべてくれる者が、どれほどいるだろうか。一人一人違う「私」、6418人。(1月17日)

 <ウソで当たり前の話に、ウソ発見機は何が出来るか?>
 錬金術ととともに、昔から人間の発明魂を刺激してきたものに、ウソ発見機があります。心拍数を図ったり発汗を調べたりと、さまざまな方法が考え出されてきましたが、ウソ発見機にビクともしない大ウソつきもたくさんいて、かえって小心者の真実がひっかかったりすることも多いようです。そのウソ発見機の決定版という触れ込みが、イスラエルの会社が軍事用に開発したウソ発見専用パソコンソフトで、ウソをつく時のストレスで起きる微量の音声の揺れをキャッチして真実度を5段階で判定、確度は85%だそうです。昨日の通常国会冒頭で、橋本首相が行った異例の経済演説を、日刊スポーツ紙がこのウソ発見ソフトにかけた結果が、大きく掲載されています。それによると演説の3カ所で「ウソ」「不正確」の赤ランプが点灯したとのこと。えっ、たった3カ所? という気もしますが、ウソが大手を振ってまかり通る政治の世界で、橋本首相はまだ良心的な方なのかも知れません。選挙演説や官僚の弁明、企業トップの釈明など、言う方も聞く方もウソであることを承知している話が、いまの世には多過ぎます。ウソ発見機にかけても、赤ランプが点灯しっぱなしでは、ウソ発見機の立場がな いではありませんか。(1月13日)

 <大雪の東京の夜に出現する19世紀の幻想−カンテラの炎>
 東京では2年ぶりの大雪警報が出され、都心は一面の銀世界に。東京に大雪が降った時、僕が楽しみにしていることがあります。JRのターミナル駅構内で、ポイントの凍結を防ぐために焚かれるカンテラの炎を見ることです。これを楽しむには、新宿駅のように、多くの線路が複雑に交錯し分岐している駅がいい。時間は、夕闇から宵にかけてが、一番美しく見ることが出来る。ホームからは見えにくいので、走る電車の中から、ドアのガラス越しに見るのがいい。昨夜も、僕は心躍らせて、電車に乗りました。新宿駅の構内にさしかかるあたりで、降りしきる雪の中、線路の下に揺らめくオレンジ色の炎が、あっちにも、こっちにも。大雪の夜にだけ出現する大都会の幻想的な鬼火。カンテラは、ブリキの壺に入れた灯油を綿糸の芯で燃やすだけの、極めてアナログ的な道具で、それは20世紀的、というよりむしろ19世紀的と言えます。もともとは照明用で、カンテラとはオランダ語で「明かり」という意味だそうです。何から何までデジタル化されて、人間の目に見えない極小のチップの中で、演算や制御や判断が行われる時代に、カンテラの炎は、わたしたちが失いつつあるアナログ的なるものの 代え難い価値に気づかせてくれるのです。(1月9日)

 <60億年後、燃え尽きる地球を看取る文明は存在しない>
 ニューズウィーク日本版の新年合併号に、ボルティモアにある宇宙望遠鏡研究所の天文学者ハワード・ボンドのこんな言葉が載っています。「太陽が赤色巨星となったときに地球は燃え尽きてしまう。脱出を考える時間は、まだ60億年もある」。しかし、僕は人類の文明は、もっとずっと早い段階で、消滅しているような気がします。だいいち、一つの生物種が60億年も栄えること自体、あり得ないことです。僕の予感では、地球の文明は、どんなに長くても1万年持つのが精一杯でしょう。ひょっとしたらあと1000年から2000年くらいが限度かも知れないとも思うのです。文明が終焉を迎える原因は、複合的なものになるでしょう。資源の枯渇。エネルギー危機と新エネルギー制御の失敗。生殖への意欲と機能の喪失。環境激変の加速度的進行。人類同士の低レベルな諍いと殺し合い。宇宙への植民も、ごく一部の人々に限られ、種としての存続にまではつながらない。こうして人類は、営々と築き挙げてきた物質文明、科学技術、膨大な知識、燦然と輝く無数の芸術作品などとともに、地球史の舞台から姿を消していくでしょう。文明にも寿命があることを認めることこそ、いまの人類が必要 としている視点なのだと思います。(1月5日)

 <21世紀まであと3年、1096日間に人類は…>
 1998年明けましておめでとうございます。21世紀の幕開けまであとちょうど3年。日数ではあと1096日です。本当にわずかな日数しかない、という気がします。この間に、人類がやらなければならないことはなんと多いことでしょうか。20世紀の殺戮と狂気、地獄と破壊、汚点と腐敗、屈辱と苦悩を、どのように克服して新世紀を迎えていくのでしょうか。
 さて、あと1096日となっていますが、365×3=1095ですので、「うるう年」があることが推測出来ます。ところが、これがなかなかの問題なのですね。西暦2000年は、うるう年かどうか。まず西暦が4で割り切れる年は、うるう年ですが、100で割り切れる年は、うるう年ではない(1800年や1900年は、うるう年ではなかった)。しかし400で割り切れる年は、うるう年である。こうして地球の公転周期と暦をシンクロさせるための、微妙な調整をはかったグレゴリオ暦により、2000年がうるう年となるのですね。
 これからの1096日間、人類は破局か発展かの厳しい瀬戸際に、何度か立たされることでしょう。(1月1日)



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