97年2月−12月のバックナンバー

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1997年12月

 <3年後の2000年大晦日に思いをはせる>
 1997年も今日でおしまい。あなたにとって、この一年はどんな年でしたか。このホームページにとってこの1年は、誕生から幼年期を経て少年期へと進んだ重要な年でした。さて、3年後の2000年大晦日、世の中はどんなことになっているでしょうか。タイムマシンでちょっとのぞいて来たい気もしますが、こわいような気もします。20世紀の最後の日。新聞、テレビなどマスコミは、どんな対応をしているでしょうか。アメリカやロシア、ペルーでは、大統領選挙が終わっているはずです。それぞれの大統領は誰になっているでしょうか。日本は、少なくとも1回は総選挙があるはずです。政治地図はどう塗り変わっているでしょうか。20世紀最後のNHK「紅白」の司会は誰になっているでしょうか。小林幸子と美川憲一の衣装対決は続いているでしょうか。元日からの省庁再編はスタートするでしょうか。どんな企業が倒産し、どんな会社が消えているでしょうか。インターネットは、どんな姿になっているでしょうか。あと、3年。長いようですが、その日は、足早にやって来るでしょう。みなさん、世紀が変わるその瞬間まで、がんばって生き抜こうではありませんか。(12月31日 )

 <短歌に詠まれた21世紀、惑星の枯山水とはもしかして…>
 今日28日の日経新聞読書欄に「今年の収穫」という特集があり、その中で歌人の高野公彦氏が印象に残った歌集と歌を挙げています。その中に塚本邦雄氏のこんな歌を紹介しています。
 二十一世紀われらは惑星の枯山水を見つつ渇くか
 高野氏は、人間は宇宙船に乗ってつぎつぎと未踏の惑星に降り立つだろうが、どの星にも生物を発見できず、荒涼たるその「枯山水」を見ながら飢餓感を覚えるだろう、として未来の地球人の孤独感をうたった歌と解釈しています。なるほど、と思いつつも、ひょっとして作者の塚本氏が意図したところとは異なるかもしれないが、この惑星というのは、実は地球なのではないか、という気がします。そうするとこの「枯山水」「渇く」の意味するところは壮絶なものとなってきます。また「われら」は人類すべて、となってきます。この三十一文字に描かれた世界が、現実のものとならないよう祈るばかりですが。(12月28日)  

 <酒匂川鉄橋を渡るたびに思い出す三船敏郎の迫真の演技>
 在来線の東海道線で熱海や伊豆方面に行く時、特急は1時間ほどすると酒匂川の鉄橋にさしかかります。僕はいつもここを通過する時、「踊り子号」は「第2こだま」となり、3000万円の身代金の入ったカバンを抱えた三船敏郎が目の前にいるのです。鉄橋の手前の堤に、さらわれた坊やと顔をかくした犯人の一人がいる。あの坊やに間違いないか、と仲代達矢が尋ね、特急は酒匂川を渡る。渡りきった堤に、三船敏郎は二つのカバンを窓から投下する。ナショナルシューズの実験をにぎり、反対派の重役連を追い出すために絶対に必要な金。これを手放した瞬間の、三船敏郎の表情がすごい。こうして黒沢明監督の「天国と地獄」の映画史上に残る名シーンは、この鉄橋を渡るたびにいつも、僕の眼前に再現されるのです。最初、「身代金は払いません」ときっぱり言明した三船敏郎が、ギリギリのところで払う決断をしていくこころの揺れも真に迫り、ラストの死刑囚山崎努との対面のシーンも忘れがたい。時代劇の三船敏郎もすばらしかったけど、僕にとっての三船敏郎は酒匂川鉄橋という「現場」に今も生き続けています。心からご冥福をお祈りいたします。(12月26日)

 <伊丹監督の死は、奢り高ぶるマスコミによる「他殺」だ!>
 伊丹十三監督の衝撃の死は、最初、他殺と思った人が多かったようです。遺書があったことなどから、自殺の線で落ち着いているようですが、これは、マスコミによる「他殺」以外のなにものでもありません。写真週刊誌の報じるOLとの関係があったのかどうかは、このさい、どうでもいいことです。問題は、写真週刊誌が一映画監督のプライバシーをここまで暴きたて、我が物顔で断罪を下す権利がどこにあるのか、という点です。そのことが社会正義や公共の利益とどう結びつくのでしょうか。このところマスコミの思い上がりは、とどまるところを知りません。かつては美智子皇后を罵倒し続けて言葉を奪い、花田兄弟力士の夫人たちのバッシングに奔走し、松たか子をたたきのめす。マスコミはいったい自分たちを何様だと思っているのでしょうか。売れれば何をやってもいいのですか。対抗手段を持たない弱い立場にあるものを、有名人、芸能人であるという理由だけで、徹底的に袋叩きにする。マスコミは敵対する相手を完全に取り違えています。暴くべき相手、たたくべき相手は、政官財にうようよしているではありませんか。こんなことを続けるようでは、半数以上のマスコミが21世紀に 入るころにはつぶれていくことでしょう。(12月22日)

 <ポケモンパニックはメディアによる脳波操作を実証>
 アニメ「ポケモン」によるパニック事件は、被害者1万人以上という報道もあり、これは予想以上に深刻な問題をはらんでいるといえます。アニメやCM映像が、視聴率稼ぎとより強いインパクトを追求し続けた結果、踏み込んでしまったのが、見る者の意識や感覚、記憶など、脳の深部にまで働きかける禁断の手法であり、ポケモンパニックはその流れの必然の結果です。今回の事件は、映像メディアによって脳波操作が十分可能なことを実証した「公開実験」となりました。メディアによる脳波への直接操作によって、脳(意識、心、精神)のプロパティやセッティングを変更し、破壊し、人格や人体に重大な傷害を与え得ることを、万人の前にさらして見せてくれたのです。コンピューターメディアの発達で、さまざまな分野に、脳波操作の危険は満ち満ちています。意識的に、さらに巧妙な信号を情報の内部に組み込んで、大衆の脳波の直接支配を企てるものが出ないとも限りません。まさに時代を先取りした事件として、注意深く見守ってきたいと思います。(12月18日)

 <マリオの奮闘で、熱い風との闘いは一歩を踏み出した>
 そっくりさんでいえば、サッカーの岡田武史監督は南こうせつ。自民党の梶山静六前官房長官はポパイ。そして温暖化防止京都会議の実質まとめ役を果たしたエストラーダ全体委員会議長は、スーパーマリオブラザーズのマリオ。この人、顔つきや風貌だけでなく、動きもマリオそっくりです。日本は議長国でありながら、せっかくの国際舞台で後ろ向きの策動に終始し、恥をさらすだけに終わりました。EUとアメリカ、発展途上国の利害対立の中、ともあれ議定書採択にこぎつけたのは、マリオことエストラーダ議長の人柄とリーダーシップに負うところが大きい。NGOの中には温暖化のイメージを「熱い空気」と捉えるものもありますが、僕はもっと端的に「熱い風」との闘いと捉えたいと思います。「東風が西風を征する」などという言葉もありましたが、東風も西風も南風も北風も、地球全体に「熱い風」が立ちこめ吹き荒れる。寒い地方の動物や植物が死に絶え、絶滅し、墓場が猛烈な勢いで広がっていく。穀物や家畜が育たなくなって、食料危機が訪れる。熱帯地方の伝染病や疫病が、過ごしやすかった先進国を襲う。経済成長は崩壊し、水没する国や地域が続出する。マリオが先頭に立って 挑んだ「熱い風」との闘い、21世紀の人類存続をかけた闘いは、始まったばかりです。(12月12日)

 <想像力が問われる100年後の世界大予言コンテスト>
 「This is 読売」新年号が「明治人の想像力を超えられますか」のキャッチフレーズのもと、「21世紀大予言・100年後の世界」の投稿を募集しています。第1回の募集ジャンルは「宇宙」。さて、100年後の「宇宙」で何を想像しますか? 5年後や10年後なら何とか想像出来ますが、100年後とは、日本も世界も人類も地球も、とてつもない変貌をとげているに違いありません。なまっちょろい想像や空想では、現実の変化に追い抜かれてしまいます。なにしろライト兄弟が飛行機を完成させてから、まだ92年しかたっていないのです。インターネットにいたっては、いまの世界的な大ブレイクを5年前に描いた人はほとんどいないのです。それを考えると、1901年に「二十世紀の預言」の中で、「東京−神戸間が2時間半」などと今の我々が舌を巻く予測をしていた明治人は本当にエライ! うーん、それにしても100年後の世界は描きにくい。ひょっとして、予測しにくいのは、100年後には人類が存在しないから? いや、想像力が現実を作っていくこともまた事実です。100年後の人類と地球のためにも、いまこそイマジネーションを働かせて、応募してみましょう !(12月9日)

 <快晴の富士山を取り巻く工場群の白煙>
 久々に新幹線に乗って、快晴の空の下、一点の雲もかかっていない富士山を見ることが出来ました。昔は、車内アナウンスで「ただいま左手前方に富士山がご覧になれます」などと案内があったものですが、いまは乗客も騒ぐでなく、はしゃぐでなく、淡々としたものです。僕が改めて驚いたのは、富士のすそ野に点在する工場の煙突から出る巨大な白煙の数々です。昔はこんなに工場がなかったはずなのに、いつの間に。この白煙の中身は、どんなガスなのでしょうか。有害物質は環境基準の範囲内なのかもしれませんが、人間の生産活動とは地球を絶え間なく汚し続けることなのだ、ということを文字通り白日のもとに突きつけられた思いです。煙の出ない生産活動は、科学の力をもってしても不可能なのでしょうか。日本全体の工場から出る煙、世界中の工場から出る煙。その総量を想像しただけで、気が遠くなりそうです。工場だけではありません。新幹線1本が東京−新大阪間を走るのに使う電力で、CO2はどのぐらい増えるのでしょうか。21世紀は、煙の出ない工場、CO2を出さない電力を、真剣に考える時期なのだということを、痛感しました。(12月6日)

 <コロンビア乗組員の記者会見、宇宙からの生中継に感銘>
 スペースシャトル・コロンビアの乗組員6人の宇宙記者会見が、さきほどのNHKニュース7の途中に、生中継で放映されました。各国の記者が英語で、日本語で、それぞれ所属を名乗って、乗組員に次々に質問し、米国からウクライナまで多国籍の乗組員たちが、ユーモアを交えて答えていく様子は、驚きの映像でした。いままで土井さんのほかの乗組員のことはほとんど知らなかったのですが、インド生まれの女性宇宙飛行士チャウラさんの美しい表情や、スコット飛行士の人なつっこそうな笑顔に、深い感銘を受けました。「宇宙遊泳をして何か人生観が変わったようなことがあるか」という質問に、土井さんが答えた「この(無重力の)生活を何年も続けていくと、その中から、新しい文化、思想、芸術が生まれてくると確信しています」という言葉に強いインパクトを受けました。無重力状態から生まれる文化・思想・芸術。これは人類の新しい発想であり、新しい開眼であり、視点の新たな跳躍といっていいでしょう。人類が21世紀を、そして新しい1000年を生きていくための方向を垣間見たような思いです。コロンビアの船内で乗組員たちは、一足先に2001年を生きているの です。(12月2日)

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1997年11

 <シューベルト生誕200年と2つのピアノ三重奏曲>

 世の中どこを向いても不機嫌で破廉恥でお先真っ暗の話ばかり。そんな中で、先日、FMラジオを聴いていたら、シューベルト生誕200年特集をやっていて、僕が初めて聴く曲なのに全身が金縛りになるほどの印象的なメロディーが流れてきました。ピアノ三重奏曲1番と2番。とりわけ2番の第2楽章は、なんと深く甘く切ない曲でしょうか。こんなすばらしい曲がこの世に存在することを知らずに、これまでの人生を過ごして来たことを、深刻に後悔しています。早速、CDを買ってきて改めて聴いてみましたが、シューベルトと言えば歌曲とあとは「未完成」「グレイト」「ます」「ロザムンデ」くらいしか聴こうとしなかった僕の、視野の狭さ、偏見と驕慢を恥じ入るしだいです。少年時代の僕は、音楽は交響曲や管弦楽曲ばかりを好み、それもベートーベン、チャイコフスキー、ワーグナーなどの壮大、華麗、勇壮なものばかり。いまごろになって、ようやくさまざまな作曲家たちの、さまざまなジャンルの知らない曲を耳にして、ハッと釘付けになるようになりました。シューベルトのピアノ三重奏曲が2世紀の時代を超えて訴えているものは、人間というものは時代や国境を超えて同じ感情を 共有することが出来るという驚嘆すべき事実です。(11月28日)

 <山一社長の号泣と土井さんの宇宙遊泳が時代を語る>
 昨夜から今日にかけて、実に印象的な二つの映像が、テレビを通じて全国民の前に伝えられました。一つは、「私らが悪いんです。社員は悪くありません」とカメラの前で号泣した野沢正平・山一証券社長と、もう一つは、漂流している衛星を手づかみで回収するという予定外の重大任務を見事に遂行した土井隆男さんの、日本人初の宇宙遊泳の生中継です。このあまりにも対照的な映像は、大時代の変わり目、世紀の転換を、見事に象徴しています。一方は、腐臭ただよう20世紀の遺物を引きずり、汚名とともに旧世紀に取り残される悪しき慣行や馴れ合い・無責任と破廉恥にしがみつく。かたや21世紀を自ら切り拓く知恵と勇気・聡明さをもって、協調と共存を重んじ、困難に果敢に挑戦し、グローバルな視点と地球人としての自覚を持ち続ける。世紀の転換点には、この二つの流れが激しくぶつかり合いせめぎ合って、とてつもない激変と瓦解、飛躍を作り出していくことでしょう。橋本行革をめぐる官僚や族議員の暗闘も、その一つです。省庁再編と日本版ビッグバンが実施される2001年は、日本社会が大変革する年です。二つの映像が示すものは、 2001年の「初期値」をめぐる葛藤なのだと思います。(11月25日)

 <書籍洪水の中から面白い本を見つけ出す方法>
 面白い本を読みたい、と思った時、あなたはどうやって読む本を選んでいますか? この問題は、現代の書籍氾濫大洪水の中では、極めて深刻な問題です。なにしろ一人の人間が読書に費やす時間は限られている。自分に合う本をどうやって見つけ出すか。最もポピュラーな方法は、新聞や雑誌の書評を参考にすることですが、どうも最近の書評は、面白さよりもテーマや内容の重要さを優先する傾向にあるので、書評にひっかからないものは落ちてしまう。書店の店頭でパラパラと手に取って、面白そうなものを買うのも楽しいけど、大書店であればあるほど、本の数が多すぎて手に負えなくなる。そこで僕は最近、大きな書店よりも、中規模でお洒落な書店を覗いてみることにしています。それも新宿駅近辺で、センスの良い大人の男女たちで賑わっているような書店に限ります。本の数が絞られている分、品揃えは厳選されています。この方法で見つけて100%面白かったのは、次の2冊でした。どちらも時の経つのを忘れること請け合いです。
 デイヴィッド・ロッジ『恋愛療法』(白水社)
 アリス・ホフマン『オーウェンズ家の魔女姉妹』(集英社) (11月21日)

 <奇跡の岡田マジックと指揮官の孤独>
 日本悲願のW杯出場を決めたサッカーのイラン戦。この壮絶なドラマの中で、多くの国民に感銘を与えたのが、岡田監督の選手交代の絶妙さです。とりわけカズとゴンの2トップを同時に引っ込めて、呂比須と城を出したのは、魔術的とさえ言えます。誰もが驚いたこの交代。どちらか1人でも、引っ込められる方は傷つく。しかしまさかの2人同時交代は、むしろ代えられる方の気持ちも収まりやすいのかも知れません。この交代が試合の流れを変えたのだからスゴイ。極めつけは、延長に入ってからの北沢から岡野への交代。打つ手打つ手がスバリ決まって、まさに神様仏様岡田様です。これまで試合に勝っても笑わなかった岡田監督が、今回初めて笑顔を見せました。監督へのインタビューの中で、最も印象的だったのは「この1か月半は孤独だった」という言葉です。これを聞いて、あの非情な選手交代を告げる時の監督の胸の内が、察せられる思いでした。戦いで成果を上げる指揮官は、孤独なのですね。日本一になったヤクルトの野村監督も、選手たちの熱い人望を集める半面、指揮にあたっている時は限りなく孤独なのではないかと、ふとそんなことを思いました。(11月17日)

 <「現代用語」「イミダス」「知恵蔵」98年版の判定結果>
 「現代用語の基礎知識」「イミダス」「知恵蔵」の98年版がそろって今日発売になりました。さて、この三つ巴の中からどれを買うか。独断による評定をしようと、書店に行ったのですが、なんとどれも、一冊ずつひもで結わえられていて、中を覗けないようになっている。ということは、新聞広告と表紙に書かれた特集の告知だけで、選ぶしかありません。この条件において、真っ先に買う気にさせられたのが「現代用語」です。創刊50周年をうたうだけあって気合いの入れ方が違います。特集は「21世紀の地球的問題を考える」で、その冒頭では対人地雷問題を正面から取り上げています。また特別付録の「現代用語20世紀事典」は、1901年の「20世紀開幕、八幡製鉄所に火が入る」から1998年まで、実に貴重な20世紀記録。次に「イミダス」ですが、巻頭特集の「2001年への架橋」が全力投球の力作。「知恵蔵」は、おやおや、どういうわけか特集にも付録にも、少なくとも新聞広告や表紙に見る限り21世紀や20世紀の文字が何もないとは。時代をつかみ損なったとしか思えません。ということで僕の独断判定の結果、金メダルに「現代用語」、銀メダルに「イミダス」、 銅メダルに「知恵蔵」という結果になりました。(11月14日)

 <「ラヂオの時間」に見るシナリオ通りにいかない面白さ>
 三谷幸喜監督脚本の「ラヂオの時間」を観てきました。これは実に新鮮な感覚の、現代コメディー傑作です。このテレビ時代にあえてラヂオ(ラジオでないところがいい)を取り上げ、舞台もほとんどがラジオ局のスタジオ。SFXもアクションもない代わりに、早いテンポの中で同時進行していく生放送のラヂオドラマに、観る者は完全に引き込まれて、気持ちよく笑えます。シナリオはあるのに、設定やストーリーがどんどんシナリオから離れていく生放送。この時間的制約を、大騒ぎしながら乗り越えていくことが出来るのは、想像力を挑発するラヂオだからなのですね。考えてみれば、シナリオ通りに展開しない生本番のドラマって、これ、僕たちの人生そのものじゃないですか。登場人物たちのエゴやわがままによって、シナリオにない出来事がどんどん起こって、みんなが右往左往していく。出演している俳優たちにも、はたしてどんな展開でどう決着するのか分からないまま、演じざるを得ない。しかも、やり直しのきかない本番。でも降りることは許されない。この映画の優れたところは、この設定をとことん追求することで観客を徹底的に楽しませてくれること。多くの人たちに観てもらい たい映画です。(11月10日)

 <ロシア革命80周年に思い出すスプートニクの光>
 1917年11月7日、ロシア革命。その日から、今日でちょうど80年。正直言って、たった80年しか経っていないのか、と驚く思いです。社会主義ソ連は、まさに20世紀とともに生まれ、20世紀とともに姿を消していきました。ソ連での実験を、21世紀の人々はどう位置づけ、どんな評価を下すのでしょうか。学生時代、僕にとってソ連は、人類が進むべき理想郷であり、ソ連こそが世界の平和勢力の筆頭であり、やがて日本もソ連のような社会主義になっていくのだ、と信じて疑いませんでした。訪日したガガーリンに歓迎の手を振り、ソ連の歌曲の調べに、階級のない社会のすばらしい様子を想像して、うっとりしたものでした。そして思いもしなかったソ連崩壊と東欧社会主義の崩壊。ソ連型社会主義が目指したものは、すべてが間違っていたのか。いま、ソ連という巨大な歯止めを失って、世界は極めて危険な状態のまま、21世紀に突入しようとしています。74年に渡る世界史上最大の実験が残したものを、人類はきちんと分析して、次の世紀に生かしていく必要があります。そのためにも、いまこそ総合的な「ソ連・東欧学」が必要でしょう。ソ連という語から思い浮かべるのは、 少年のころ宵の空に見つけた初の人工衛星スプートニクです。ゆったりと移動する白い光の点は、いまも僕の目に焼き付いています。(11月7日)

 <面白い物語を読んでこその楽しい読書>
 読書の秋、というわけか、このところ読書というよりも物語のとりこになっています。最近読んだ物語では、いま話題の北村薫の『ターン』が抜群のストーリーテリングで、最後まで一気に読ませます。哀しくて優しくて、心があったまる青春文学。でもこういう作品に対して専門家の評は辛いんだろうなあ。だから文学評論家なんてキライさっ。
 パトリック・オリアリーの『時間旅行者は緑の海に漂う』は、最近の海外SFではナンバーワンでしょう。エイリアンに恋をして、地球を最終戦争から救う男の物語。夢や時間、過去と未来、宗教などさまざまなテーマが織り合って、すばらしい世界が展開していきます。
 O・R・メリングの『妖精王の月』と『歌う石』。アイルランドのフェアリーランドで、少女たちが巻き込まれる夢と冒険のファンタジー。何はともあれ、読書を楽しむには、こうした物語が一番です。
 ウィリアム・ギブスンの『あいどる』。これだけは、超難解すぎて僕には理解不能。結局何が起きたのか、いまだに分かりません。それでも、活字を追って本の中の世界を迷うことだけでも、意味はあったと思っています。(11月4日)

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1997年10月

 <また会う日まで、火星探査機任務終える>
 火星からの驚異的な映像の数々を地球に送り続けてきたマーズ・パスファインダーとの通信が途絶えて1カ月。今日の朝日新聞夕刊によれば、このまま通信が回復しない場合、NASAの科学者たちは、火星着陸から4カ月となる11月4日に、ジャズを流して葬式を行い、今回の探査の終結と勝利を宣言するということです。探査車ソジャーナは、探査機の近くに戻って、通信が戻るのを待ちながら今も周りをゆっくり回っているとみられるとのこと。パスファインダーやソジャーナには、意識というものはないのでしょうけど、どんな気持ちだろう、とふと考えたりします。かつて南極の越冬隊が残してきた南極犬タロ、ジロを思いだします。機械も、定められた任務に忠実なだけに、ひとしお哀れさを感じます。人間は今後、さらにロボットの助けを借りる機会が増えていくでしょう。任務を終えた精密機械を、やむを得ず放置したり破壊したりする場合には、機械の任務遂行を讃えて感謝する謙虚さが必要だと思います。パスファインダーとソジャーナを葬送するジャズの響きは、人間とロボットの歴史に、新たなページを記すことでしょう。(10月31日)
 P.S.11月5日の朝日新聞夕刊共同電によると、研究チームは4日、「また会いたいから、さようならは言わない」とのメッセージを探査機に送って活躍をたたえたそうです。しかし、着陸機の“死亡宣告”やセレモニーなどはしない、ということで、先の記事とはちょっと話が違いましたね。

 <「サイコ」の女優がシャワー恐怖症>
 ウソのようなホントの話。今朝の日刊スポーツに載っていた記事です。ヒチコック監督の不朽の名作「サイコ」のあのシーン。会社の金を着服して逃げる途中のマリオンが、ベイツ・モテルでシャワー中に、包丁でメッタ刺しにされて死ぬ。このマリオンを演じたジャネット・リーが、あのシーン以来、シャワー恐怖症になって、なんと37年間もの間、シャワーを使っていない、と告白したとのこと。ちなみにリーは現在70歳です。なぜ襲われたのかもまったく分からぬまま、マリオンは、これでもかこれでもか、と包丁で刺されて、流れ出る血とシャワーから出る湯の中で、目を見開いて息絶えていく。この映画のおかげで、出張中にシャワーを使えなくなった人は、世界各国で膨大な数に上るそうですが、ジャネット・リー自身もシャワーシーンの呪縛から逃れられなかった、とは。ヒチコックの魔術的才能に改めて感嘆します。実は、僕もあの映画以来、浴室のドアのロックをしっかり確認し、用心深く警戒しながら大急ぎでシャワーを終えています。いやあ、シャワー口の形ってよく見ると、とてもとても、怖いですねえ(と、つい淀川さんの口調で)。(10月27日)

 <2分間の宇宙体験、1186万円>
 米の旅行会社が2001年から週2便の宇宙旅行の募集を始めた、と24日の読売新聞夕刊に載っています。参加費用は一人1186万円で、すでに15人が予約したそうです。もうそんな時代がやってきたのか、と改めて驚くとともに、この参加費用は安いか高いか、考えてしまいます。飛行時間は2時間半から3時間、そして無重力状態は2分です。しかし、時間は短くとも、宇宙旅行には違いないのです。大気圏外から青い地球を眺めて、そこに「自分」とは何なのかを発見し、「神」に出会うことが出来るのなら、安いものかも知れません。地上に生還した後は、世界観がガラリと変わって、伝道者としての道を歩むことになる可能性もあります。温暖化についての考えも大きく変わることでしょう。世界の指導者たちには、就任したら宇宙旅行を義務づけたらどうでしょうか。政治家だけでなく、企業のトップたちも同じです。僕も、お金があれば参加したいけど、願わくば2分の無重力状態を味わった直後に安楽死して、遺体はそのまま宇宙空間に漂流させてほしいと思います。その代わり片道切符ということで、費用は半額に……。ダメでしょうか。(10月24日)

 <ポイントキャストの使い勝手は>
 ポイントキャスト社と朝日新聞社が提携して16日から始めたプッシュ型情報サービスを、その日から使っていますが、これは機能といいデザインといい、なかなか斬新で使い勝手もまずまずです。まず受信ソフトが無料の上、インストールが簡単であること。これは、NC4.01やIE4.0の導入はまだ早いと様子を見ている人たちにとって、大変助かります。さらに、更新している間だけプロバイダーに接続され、更新終了と同時に自動的に接続が切れるのも、経済的です。改善してほしい点もいくつかあります。僕のように常時パソコンをONにしていない者にとっては、ポイントキャストを立ち上げた時点で自動的に更新されるようにしてほしい。さらに、大きなニュースが発生した場合は、発信者サイドから強制更新をかけてニュース速報を流すようにしてほしい。もっといえば、超重大ニュースの発生の場合は、ユーザーが電源をOFFにしていても、発信者からの信号でポイントキャストが立ち上がるようにしてほしい。女性の声で「ニュース速報をお伝えします。ロシアの核ミサイルが誤作動により、東京に向け発射されました」というふうに内容がアナウンスされると、さらにベターで しょう。(10月20日)

 <臓器提供する相手は誰でも良くはない>
 臓器移植法がきのうから施行されました。僕が提供する立場になったら、と考えてしまいます。提供するのは、やぶさかではないけど、提供する相手をきちんと選択したい。僕が共鳴出来る生き方をしていて、僕の分ともぜひ生きてほしい人に僕の臓器を使ってほしいのです。僕が臓器を提供した相手が、破廉恥な生き方をしたり多くの人に迷惑をかけたり地球環境をダメにしたりして、生き延びていくのは、耐えられません。提供した相手が、殺人を犯したり贈収賄で逮捕されたりしたら、臓器は返却してもらい、焼いて灰にして海に撒いてもらいたいと思います。その時になって「もう二度としないから、臓器の返却だけはカンベンして」と謝ってももう遅いのです。改めて臓器移植を受け直すか、さもなくば死んでもらいましょう。逆に、僕が移植を必要とする状況に置かれた場合は、提供者に対し、延命後どのように生きたらいいかを、納得いくまで話し合って条件を決め(こうした時間があるかどうか)、それに反した生き方をした時には臓器を返却したいと思います。(10月17日)

 <デンバーさんの死と宮崎アニメ>
 「カントリー・ロード」などのジョン・デンバーさんが軽量飛行機を操縦していて墜落死。デンバーさんの父は空軍パイロットで、デンバーさんもパイロットにあこがれていたといいます。この訃報で思い出すのは、宮崎駿監督のアニメ「耳をすませば」です。このアニメ誕生のいきさつというのが、宮崎監督が「カントリー・ロード」を聴いているうちに「いまの中学生にとってカントリー(故郷)とはなんだろう」と考え、構想が固まっていったといいます。「耳をすませば」の中で何度か流れる「カントリー・ロード」。中でも、主人公の少女が少年のバイオリン伴奏でこの歌を歌い、いつの間にか少年のおじいさんや、その知り合いも楽器を手に合奏に加わっていくシーンは、宮崎アニメ随一の名シーンでしょう。宮崎監督も子供のころから飛行機にあこがれていて、どのアニメにもたいてい空を飛ぶシーンが出てきます。「魔女の宅急便」や「紅の豚」などは飛行そのものがモティーフですね。ジョン・デンバーさんは、宮崎監督が画いたような美しい町並みの上空を、いまも「カントリー・ロード」を歌いながら飛び続けているのでしょう。(10月14日)

 <エルニーニョは21世紀からの警告>
 過去最大規模のエルニーニョの影響で、この冬は暖冬に。今朝の各新聞はいずれも長野五輪が雪不足になる心配について報じています。このエルニーニョ、ただごとではないという予感がします。いまインドネシアの山林を焼き尽くしている火災も、エルニーニョによる干ばつが原因とされています。南米の山林でも火の手が燃えさかっています。今年日本を襲来した初夏の2つの台風は、本来なら東へそれるべきものが、エルニーニョの影響でコースが北寄りになったものと見られます。なぜこんなに大規模なエルニーニョが発生しているのか。だれでも頭に浮かぶのは、地球温暖化の進行です。12月の京都会議に向けての手ぬるい温室効果ガス削減案に対し、通産省はそれさえ骨抜きにしようと奔走していますが、経済成長を追い求めようとする限り、破局はもはや避けられないところまで来ています。今回のエルニーニョこそ、21世紀からの警告であり、21世紀の地球の姿をかいま見せてくれる静かな予告編のような気がします。エルニーニョとは、スペイン語で「神の子」という意味だそうです。(10月10日)

 <立川談志と僕は内視鏡兄弟>
 立川談志が食道がんを高座で告白、手術成功で復帰、というのは最近のことですが、今日発売された週刊ポストを読んでいて、あっ、と声を上げました。談志の内視鏡手術を担当した医師というのが、僕が先日、胃や食道の内視鏡検査をしてもらった東海大学の幕内博康教授ではありませんか。ということは、僕と談志とは、「内視鏡兄弟」ってことだ!! うーん、これは奇遇だなあ。もっとも談志のほうは僕を知らないから、奇遇というのはヘンか。談志といえば、彼が以前ラジオで喋っていたこんな話を思いだします。
 談志が青森駅前広場で、リンゴを売っているオバチャンから、一口大に切ったリンゴを差し出されて、ほおばりました。すると、オバチャンは談志に向かって「あんた、すけべえ」と言うのです。談志は「そりゃあオレはスケベエに違いないけど、オバチャンよくオレのこと分かったね」と感心。ところがオバチャンの言う「すけべえ」というのは、「(そのリンゴは)酸っぱいでしょう」という意味だったと分かって、大笑い、というお話でした。(10月6日)

 <ダイアナ追悼CD>
 エルトン・ジョンの「キャンドル・イン・ザ・ウインド」のCDが日本など多くの国でヒットチャート1位、世界全体で2100万枚以上を記録して史上3位に。というニュースで、僕もCDを買いに、国内最大の品揃えという新宿高島屋12FのCDショップに行ってみました。葬儀の生中継はビデオに録ってあるので、それを見てもいいのですが、この曲を聴くために葬儀を再生するのもちょっとつらい。それに世界中でそんなに売れているものなら、1枚くらい買いたい、などとミーハー気分で店内を回って見たのですが、あれれ? ダイアナ元妃の写真とともに山積みされている光景を想像していたのに、店内にはダイアナのダの字もなく、エルトン・ジョンのコーナーにもそれらしきものは皆無。サッカー場のように広い店内を3周ほど回って、ひょっとして高島屋に来る客は、そのような流行なぞ見向きもしない客層なのかも、と心配になってきて、店員にそっと尋ねてみたら……。「あれですか。発売初日に売り切れて、今後の入荷は未定です」。ガ〜ン。このCDはいまや、たまごっち状態。世紀末の奇跡ダイアナに、改めて敬服したしだいです。(10月3日)
 P.S.その後、新宿マイ・シティのCDショップでようやく購入する事が出来ました。

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1997年9月

 <サッカー日韓戦に見る攻めと守り>
 昨日のサッカー韓国対日本。「攻撃は最大の防御なり」といいますが、この試合は「攻め」と「守り」の難しさを示すいい例として後世に残るでしょう。日本が1点先取した後、「守り」に転換した加茂監督の判断にはいろいろな異論があるところです。最もまずかったと思うのは、韓国が神経をとがらせていた呂比須をはずしたこと。さらに、「守り」に転換するなら、その方針を徹底させなければなりません。ところが、1−1の同点となった時、日本は守るのか攻めるのかあいまいなまま、中吊り状態となってしまいました。ここは、「守り」の方針をあくまで続けるべきだったでしょう。あわてて「攻め」に戻ったりするくらいなら、途中での方針転換はやるべきでなかったのです。うがった見方をすれば、韓国は後半のきわどい時間帯に日本に1点取らせて、逃げ切りに転じさせようとひそかに狙っていた、とさえ思えます。試合中、テレビに映し出される韓国の車範根監督の目は、不気味なほど恐ろしかった。それは、韓国がそして韓国の国民が、日本と日本国民を見つめるまなざしでした。(9月29日)

 <地球外知的生命と「コンタクト」>
 映画「コンタクト」を観てきました。カール・セーガンの小説も良かったけれど、映像の説得力はすさまじいものがあります。ジョディ・フォスターの好演も特筆ものです。地球外知的生命の存在確認は、おそらく21世紀に人類が成し遂げる最大級のトピックスとなるでしょう。それは地球上のさまざまな対立や混乱に、衝撃的な転換をもたらすでしょう。この映画でも描かれていますが、地球外知的生命の探査のための費用や要員をケチることは、人類の窒息行為です。今のこの瞬間も、はるかな宇宙空間の果てから、別な知的生命を探し求めるシグナルが、地球に降り注いでいることは、ほとんど確かといえます。人類のレベルがまだ、シグナルをキャッチ出来るところにまで達していないだけのことなのだと思います。このキャッチに成功して高度な文明とのコンタクトに突き進んでいくか、その前にテクノロジーの制御に失敗して破滅するか、いまやその段階に来ているといってもいいでしょう。この映画には、人類のそうした予兆と予感が、色濃くにじみ出ていると感じました。(9月25日)

 <自爆テロだった?佐藤長官辞任劇>
 佐藤総務庁長官の辞任劇には、なんともいえない空しさだけが残ります。佐藤孝行氏を総務庁長官に、というシナリオは、「保保」派が仕掛けた自爆テロだった、という見方があります。世論の猛反発は計算済みで、「自社さ」三党体制そのものの爆破が狙いだった、というわけです。シナリオ通り、まず最も窮地に立ったのが社民党であり、党首のおたかさんでした。しかし、今回のおたかさんは、めずらしく骨太なおたかさんに戻り、「ダメなものはダメ」と一歩も引かなかった。この姿勢の背後には、僕の独断によれば、マザー・テレサの国葬に出席したことと、その直前のダイアナ元妃の死を悼む世界的盛り上がりが、大きく影響していたと思います。世界をリードし続けた二人の偉大な女性の死の直後、おかたさんは、自分の使命の原点のようなものを感じたに違いありません。こうして、自爆テロはハネたけれども、「自社さ」は吹き飛ばなかった。テロの犠牲者はだれか。旧渡辺派やナカソネ大妖怪は無傷か。硝煙が晴れてくるに従い、横たわる死傷者の横顔がしだいに見えてくるでしょう。(9月22日)

 <石器の延長としてのインターネット>
 「400万年人類の旅」(ジェームズ・バーク、ロバート・オースタイン共著、三田出版会)という新刊を、「石器からインターネットへ」というサブタイトルに惹かれて読みました。単に石を砕いただけの石器を使うことを覚えた人類が、ウェブに見られるような情報テクノロジーを構築していくに至る。映画「2001年宇宙の旅」のプロローグのシーンを思い出します。人類の歴史を、「道具」の発明・発達という側面に絞り込んで捉え直したこの本は、地球の頂点に立った人類が、同時に破局の寸前に立たされるまでの状況を、豊富なデータとエピソードを織り込んでまとめています。人類史としては、もちろん一面的ですが、それだけにかえって問題のありかが鮮烈に浮き出ています。著者は人類が生き残れるための活路を、未来の情報システムの利用に見いだしています。人類史・文明史の中でのインターネットの位置づけと役割が、なんとなく見えてくるような気がします。(9月19日)

 <小説を面白くする「悪魔」たち>
 クリストファー・ムーアの「悪魔を飼っていた男」(東京創元社)という小説を読みました。これは読み出したら止まらない抱腹絶倒の面白さ。物語の楽しさを堪能出来ること請け合いです。カリフォルニアの田舎町でそれぞれに生きる多彩な登場人物が、ラストのクライマックスに向けて合流していくスリリングな展開。いやそれにしても、悪魔の出てくる小説は、どうしてみなこんなに面白いのでしょうか(この言い方って、林真理子の某小説のキャッチコピーだな)。古典ではゲーテの「ファウスト」、今世紀ではアシモフの「小悪魔アザゼル18の物語」など。小説の中の悪魔は、どれも頭が良い、狡猾ではあるけど機知に富んでいる、約束や契約を必ず守る、など共通点があります。さらに、「悪魔」の名から想像するほどには残忍ではありません。血も涙も良心のカケラもない本物の悪魔がいる場所は、現実の人間世界の中なのですね。そしてまた地獄も、現実世界に出現する以上の酷い地獄は存在しないのでしょう。(9月15日)

 <ショルティと「愛の死」>
 ダイアナ元妃やマザー・テレサの死去のニュースとともに、もう一人偉大な人物の死去がありました。今世紀最後の巨匠とも呼ばれる指揮者ゲオルグ・ショルティです。僕のビデオ・コレクションの中にもショルティのものが2本あります。一つは、ウイーン・フィルを率いて来日した時の公演、もう一つは、シカゴ交響楽団を指揮した地元シカゴでの公演のものです。どちらもワーグナーやリヒャルト・シュトラウスの作品が中心です。ショルティを偲んで、その中から何曲か聴いてみました。圧倒的にすごいと感じたのが、「トリスタンとイゾルデ」より「前奏曲と愛の死」です。この曲はフルトベングラーの名演が強く心に残っていますが、ショルティのゆったりと押し寄せる大波のような躍動感は、それと双璧といっていいでしょう。21世紀を目前にして逝った人たちを悼んで聴く曲としては、「前奏曲と愛の死」はあまりにもぴったりのタイトルで不気味なくらいです。死による再生への望みを力強く示唆して、ショルティの熱演は終わりました。(9月11日)

 <さようなら、英国の薔薇>
 ダイアナ元妃の葬儀の模様を伝えるテレビの生中継に、2時間近く釘付けとなっていました。これは、規模や形式、内容ともに20世紀最大の葬儀ではないでしょうか。ロンドンに集まった数百万人の市民、そして187カ国に中継されたテレビ映像は25億人が見たともいわれます。現代の世界で、これほど多くの人々が気持を一つに通じ合えたことが、ほかにあったでしょうか。ダイアナ元妃とその死は、20世紀を締めくくる「奇跡」にまで高められた、と言っていいでしょう。ウェストミンスター寺院での葬儀を見て感じたことは、21世紀に向かう新しい世界は、確実に「新中世」になるであろうということです。国境が意味を失い、さまざまな社会集団や潮流が、ボーダーレスの中で国境を超えて繋がりあっていく。そして、効率優先、物質本位の近代の価値観が没落していき、近代が潰したり置き去りにしてきたもろもろの価値が、見直される社会。ダイアナ元妃の生きてきた道とその死の意味を考えるとき、彼女が模索し切り開こうとしたものが、21世紀の世界の姿そのものであったことに気づくのです。
 さようなら、民衆のプリンセス。ダイアナ元妃は、新世紀に向かって生きる世界中の人々の胸に、永遠に生き続けていくことでしょう。(9月6日)

 <「週刊アスキー」の早すぎる挫折>
 5月に創刊したばかりの「週刊アスキー」が9月末発行の18号で休刊、というニュースに、やっぱり、という感じです。鳴り物入りでスタートした創刊号は買ってみましたが、いかんせん、何を言いたいための、何をアピールしたいための雑誌なのかが読者に伝わらず、中途半端な欲求不満だけが残りました。読者とともに作っていく、ということでホームページも作られ、僕も情報をインプットしましたが、それに対して受け取ったのかどうなのか、何の反応もなく、読者の意見や提案に対して、冷ややかな感じを受けました。まあ、こうした姿勢が結局は読者を獲得していくことへの失敗につながって言ったのでしょう。11月からパソコン情報誌「週刊アスキー」として再出発とのことですが、すでにパソコン雑誌は飽和状態であることを考えると、前途多難ですね。(9月4日)

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1997年8月

 <ダイアナ妃を殺した報道とは>
 ダイアナ元妃がパリで交通事故死! なんともショッキングな出来事です。世紀末には、こんな悲しいことも起きるということでしょうか。ダイアナ妃が来日した折、歌舞伎座から出て車に乗り込むダイアナ妃とチャールズ皇太子を、僕は偶然見ることが出来ました。ダイアナ妃は輝くように、とびぬけて美しかったことを覚えています。離婚と王室からの別離、自立と新たな恋。ダイアナ元妃は、世界のプリンセスへとたくましく成長していくところでした。地雷廃絶運動に力を入れ、英保守党政権時代の地雷政策を厳しく批判して注目を集めたのは、最近のことでした。交通事故の状況が、スクープ写真を狙う報道カメラマンたちのオートバイとのカーチェイス、というのがなんともやりきれません。報道対象を殺してまでも狙うスクープのあり方は、厳しく問われるでしょう。ダイアナ元妃は、36歳の若さ。21世紀を担ってほしい女性でした。(8月31日)

 <「たんぽぽのお酒」の新鮮な驚き>
 レイ・ブラッドベリの「たんぽぽのお酒」という小説を、晶文社発行の新刊で読みました。ブラッドベリといえば「火星年代記」など詩情あふれるSFを思い浮かべますが、この小説はSFではなく、少年向けのファンタジーです。読んでみると内容は深く、人生への思索に満ちていて、大人こそ読むべき小説という気がします。ブラッドベリがこれを書いたのは、作家活動の後半のようですが、物語の舞台が1928年夏というのが、驚きです。今から70年も前。この年、イリノイ州グリーン・タウンで繰り広げられるさまざまな出来事は、古さを全く感じさせないどころか、いまも世界中の少年が、青年が、大人が、悩んだり不思議に感じたりしていること、まさにそのものではありませんか。夏の終わりに読むのに、ちょうどぴったりの、心揺さぶられる小説でした。(8月30日)

 <死せるゲバラ、キューバを踊らす>
 カストロ議長とともにキューバ革命を遂行したチェ・ゲバラについて、さきほどのNHKニュース9が伝えたリポートにはビックリしました。ゲバラの遺骨がボリビアで発見されてキューバに帰ってきたのをきっかけに、キューバではゲバラのTシャツからゲバラ人形など、ありとあらゆるキャラクター商品を作って、社会主義キューバの結束固めを図り、さらに観光客相手に外貨獲得作戦を展開中。ゲバラの没後30年にあたる10月8日に向けて、ゲバラの生地をめぐる観光ツァーも組まれているとか。古い同志の中にはニガニガしく思う人もいるけど、背に腹は代えられない、というところ。ゲバラもあの世で苦笑していることでしょうが、これで大いに外貨を獲得して、国内が安定してくれれば、それも世界平和にとってはいいことかも。あのキューバ危機の戦慄を知る者にとっては、まさに隔世の感です。(8月25日)

 <さわやかだった平安・川口の熱投>
 甲子園の高校野球決勝は、智弁和歌山の初優勝となりましたが、敗れたとはいえ、多くの高校野球ファンに強い印象を与えてくれたのは、平安・川口の熱投でした。「大会屈指の左腕」という枕詞が常につきまとうプレッシャーの中で、6試合を一人で投げ抜いた屈強な精神力。心の底で川口に優勝させてあげたかったと思う半面、いや彼のためには負けて良かったのだ、とも思うのです。優勝して自信過剰な発言がポンポン飛び出るよりも、負けた姿を初めてさらけ出してむしろ良かった。そう感じさせるほど、敗れた川口の姿は美しかった。川口のこれからの野球人生にとっては、準優勝のほうがはるかに大きなプラスとなるように思います。今日の川口の姿は、多くの人々の胸にいつまでも残ることでしょう。高校を出てからの川口の活躍を見守っていきたいと思います。(8月21日)

 <甲子園の校歌はなぜ男声だけか>
 夏の甲子園もいよいよベスト8が決まりましたが、勝った学校の校歌について、今日の朝日新聞夕刊の「はてなてれび」に裏話が書いてあります。試合後に流れる校歌は、あらかじめ朝日放送の下請け会社が専属の男声合唱団によって作成しておいたテープを流しているとのこと。どうりで、どの学校の校歌も同じ声に聞こえるわけです。今年から開会式の司会を高校生が担当するなど、いくつかの改革が見られますが、校歌についても改革すべきではないでしょうか。まず共学校については、男女の混声にする。出来れば、録音ではなく、試合直後に歌詞の一番だけでも、実際にその学校の合唱クラブなどによってナマで歌ってもらう。一回戦で敗退したチームについても校歌を流す(そうしないと一度も校歌が甲子園で流れない)。いかがでしょうか。2001年夏の甲子園では、このうちのいくつかが実現していることを願っています。(8月18日)

 <8月に流れる「さとうきび畑」>
 NHKの「みんなの歌」でこのところ森山良子さんが歌って放送されている「さとうきび畑」という歌は、21世紀に歌い継がれる名曲でしょう。本来は10分を超す長い歌で、「歌謡コンサート」で鮫島有美子さんが全曲を歌ってから再放送のリクエストはがきが殺到し、3月の「感動の名場面」特集でノーカット再放送、それがまた大反響を呼んだという、すばらしい歌です。「ざわわ、ざわわ」という、さとうきび畑の風の中で、戦争で死んだ見知らぬ父に思いをはせる。鮫島さん、森山さんとも、抑制を効かせた絶唱で、戦争反対と声を大にして叫ぶわけではないのに、しみじみと戦争の無惨さと悲しみが伝わってきて、思わず涙してしまいます。8月のこの時期に、短縮バージョンながら「みんなの歌」でこの曲を選んだNHKの見識を高く評価したいと思います。(8月14日)
 追記:9月1日付毎日に森山良子さんが書いているところによれば、この歌を最初に歌ったのは、「愛しちゃったのよ」の田代みよ子さんで、森山さん自身はこの歌を歌い始めて25年以上になるとのことです。歌の作詞・作曲は寺島尚彦さんです。

 <クラークの「2001年」から「3001年」へ>
 アーサー・C・クラークの「3001年 終局への旅」を一気に読みました。時代は31世紀冒頭。1000年前にHALによって宇宙空間に放り出されたプール副船長が蘇生するところから始まり、モノリスやHAL、それにボーマン船長といったおなじみのキャラクターが、驚愕すべき姿となって再登場し、緊迫のストーリー展開となります。80歳のクラークの到達した境地は、とてつもなく深く広大で、哲学的かつ宗教的です。これを読むと、20世紀末の人類は、まだ「古代」のレベルにあって、しかも人類史上最悪の状態にある、という気がします。この先、破滅しなければ、の話ですが。「2001年」に始まるクラークのシリーズは、伝説から神話の域を超えて、第3ミレニアムに移行して生きる人類の「教典」のような位置を占めていくのではないでしょうか。(8月10日)

 <生きる者にとっての過去と「野ウサギのラララ」>
 人間にとって、時間の流れというのは、本当に近代市民社会が前提としているような絶対的で平等な物理的時間なのだろうか。そんなことに疑問を感じ始めているこのごろ、ちょうどぴったりの本を読みました。「野ウサギのラララ」という児童向け物語(舟橋克彦・舟橋靖子著、理論社)です。記憶喪失のウサギが島に流れ着き、アナグマの経営する新聞社で仕事をしながら、自分が失った時を探し続けます。ラスト近くでラララは、やっと自分が何者だったのかを思いだしますが、それはかなり衝撃的な過去だったのです。生き続けるものにとって、過去の持つ意味は、物理的時間とは全く別のものなのですね。過去は、どこにも存在しない。けれども、過去の思い出は、時系列をいったんメチャメチャにした上で、再構成されて希望や空想や夢を生み、今の自分を生かし続けてくれる。過去はいつでも自分の心の中に存在するといってもいいでしょう。こんなことを考えさせられる物語でした。(8月6日)

 <21世紀は「危機の世紀」>
 今日の毎日新聞書評欄に森谷正規氏がドキリとすることをはっきり書いています。「21世紀がいよいよ迫ってきているが、新しい世紀の百年はいったいいかなるものか。社会、生活はさらに進んでいくのだろうか」と問うた上で、「来世紀は発展の世紀ではなく、危機の世紀ではないか」というのです。いま21世紀論が盛んに論じられていますが、一番必要なのはこの「危機の世紀」という視点でしょう。もはや21世紀が夢のパラダイスとは誰も思っていないとはいえ、依然としてさらなる「発展」を期待する向きが圧倒的なのはゆゆしいことです。21世紀は「発展」そのこと自体、破局に直結するのだ、ということを認める必要があります。来世紀、私たちの前に突きつけられているのは、破局回避のための防衛戦なのです。(8月3日)

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1997年7月

 <「もののけ姫」が観客に手渡すメッセージとは>
 あまりの大人気のため劇場に足を運ぶのを躊躇していた「もののけ姫」をようやく観てきました。この映画は宮崎駿監督作品の中では最もスケールが大きく、テーマも深淵かつ深刻です。人間が生き続けることの原罪性、生産することの持つ根元的な矛盾を、これほど鮮やかに切り取った映像はありません。「人間はきらいだ」という叫びの悲痛さ。「神殺し」という究極の「狩猟」。この映画から伝わるものは、21世紀を前にした現代人への激しい絶望感です。にもかかわらず、見終わった後、寒々とした空しい気持ちで終わらないのは、この問題を乗り越えることが可能だとしたらあなたがた一人一人しだいですよ、というメッセージが手渡されるからです。この映画の真の結末部分は、観客を巻き込んで、これから始まるのだ、と受けとめました。(7月30日)

 <非公開となる神戸事件の家裁審判>
 神戸の児童殺傷事件で中3少年が家裁に送致されましたが、家裁の審判は非公開であることに、割り切れないものを感じる向きも多いようです。ところが、今回の一連の事件を公開裁判の場に持ち込む方法が、実はあるのですね。連続通り魔事件で死亡した女児や重傷を負った女児の両親が、少年の両親に対して損害賠償を求める民事訴訟を起こすことを弁護士と検討中とのこと。民事訴訟になれば、公開が原則の場で、事件の全容や動機、背景、両親の責任範囲などが争われることになり、当然、少年も法廷で供述することになるでしょう。少年法との整合性など難しい問題もありますが、密室の中となる家裁での審判よりは、はるかに風通しのいいやり取りとなることが期待されます。この事件の解明は、家裁よりは民事裁判が本命のような気がします。(7月26日)

 <女王陛下のインターネット>
 エリザベス英女王がインターネットに熱中している、と22日の日刊スポーツなどが報じています。コーチ役は夫のフィリップ殿下で、女王はネットサーフィンや電子メールのやり取りにはまってしまった、とのこと。英王室は今年3月にホームページを開設していますが、まさか女王陛下自らがアクセスしているとは。いかにもイギリスらしい話で、ほほえましくも、何となくうれしくなる話です。そうと分かったら僕のホームページも英語バージョンを作っておくんだった、と悔やまれるけど、だいたい女王陛下が日本の個人ホームページを見てくれるわけないか。振り返ってわが日本の皇室は、とてもホームページを開くなんてまだまだ。今の天皇皇后とも、パソコンには関心があるようなので、だれか優れたアドバイザーが付いてサポートすれば、画期的な「世界に開かれた皇室」になるのも夢ではないと思うのですが…。(7月22日)

 <あの震災から2年半>
 今日7月17日は、何かの日のはずだ。何だったっけ? 石原裕次郎の没後10周年。ああ、そうなんだ。でも、まだ何かありはしないか。ほらほら。そうだ、やっと思い出したぞ。阪神大震災から、今日でちょうど2年半になるんだ! 思えばあの1月17日からこれまで、実にいろいろなことがありましたね。当時は、一連のオウム事件もまだ表面化していなかったし、インターネットにしても、まだまだ一部の人たちでしか使っていなかった。asahi.comがスタートしたのはその年の8月に入ってからでした。阪神大震災を契機に、日本の社会も僕たちの生活や物の考え方も、大きく変わったように思います。あの震災以降、時間の流れが暴走し続けているような感覚に襲われます。(7月17日)

 <火星探査機「ソジャーナ」の名前の由来>
 岩にひっかかって立ち往生していた火星探査機「ソジャーナ」は無事に岩から離脱したとのこと。この探査機の名前の由来を知って感心しました。13日の毎日新聞によると、この名前は世界中から集まった3500から選ばれたもので、奴隷から差別廃止運動家になった米国人女性ソジャーナ・トゥルースにちなんで付けられた。「旅を終えて大地に降り立とう」と自由の獲得を訴えた彼女の主張から「火星の真理(トゥルース)を探す旅人」という意味が込められた、とのことです。今回の火星探査プロジェクトを進めているスタッフたちのスピリッツが伺える話です。(7月13日)

 <「ロスト・ワールド」に見る地球の大先輩の姿>
 「ロスト・ワールド ジュラシックパーク」を観てきました。公開初日とあって、新宿プラザは朝8時20分の回から超満員。4年前、パート1を観たのもやはり公開初日でした。当時はまだインターネットの姿もなく、バーチャルリアリティーなどという言葉も聞かなかった時で、スクリーンの恐竜に度肝を抜かれたものでした。さて、パート2の「ロスト・ワールド」ですが、映画の出来映えからいえば、今回の方が格段に優れているといえます。何よりも、恐竜たちが今回は、CGの片鱗も分からないほど完璧に「本物そっくり」で、実に生き生きと躍動しています。かつて地上を支配していて滅びたものたちを、いまバーチャルの世界で蘇らせる。それは単なるエンターテインメントを超え、何億年もの間、地球を守り続けてきた「大先輩」たちへの畏敬の念を呼び起こし、時を超えた連帯感すら感じさせてくれます。(7月12日)

 <集中豪雨のコントロールも出来ない現代技術>
 灼熱地獄が続いていた東京など南関東にようやく雨。で猛暑もホッと一息ですが、こんどは鹿児島県出水市で大雨による土石流のため死者不明20人以上。九州地方で雨続きのために災害が発生しそうなことは、昨日あたりからテレビでも警戒を呼びかけていて、みんなが知っていたはずです。火星に送り込んだ探査機から刻々とデータを受信し続ける一方で、人類は地上の気象災害を防ぐ術も知りません。人間はなぜ、自然災害から人々を守るために、科学技術の発達を本腰で活用出来ないのでしょうか。こんな状態では、温暖化防止にしてもうまくいくはずはなく、21世紀はお先真っ暗な感じがします。(7月10日)
 追記:11日の各紙に、専門家による今後30年間の「技術予測調査」が載っていますが、それによると、集中豪雨を緩和する技術の開発が実現するのは、2020年とのことです。(7月11日)

 <火星は人間のDNAをときめかせる>
 火星探査機マーズパスファインダーからの鮮明な画像は感動ものです。NASAの画像を伝えるインターネットには4日だけで1億人がアクセスしたとのことですが、僕も1億人の中の一人でした。小学生のころ、大接近した火星を250倍程度の天体望遠鏡で見た時の興奮を思いだします。赤っぽい輝きが印象的で、なにやら陰影のある模様のようなものが分かり、「どんな世界なのだろうか」と限りなく夢をかきたてられました。高村光太郎の「火星が出ている」という詩に、生きることの不思議さと厳しさをかみしめ、レイ・ブラッドベリの「火星年代記」のロマンに胸をときめかせた青春時代。火星はいつの時代でも人類のDNAを震わせる不思議な魔力を秘めている天体です。(7月6日)

 <香港返還とイギリスの去り際>
 香港返還の歴史的ドラマの中で、最も印象的だったのが、偉大な撤退者イギリスでした。英国国歌とともに引き降ろされるユニオンジャック。深夜、雨の中を、チャールズ皇太子とパッテン前総督の乗った英王室専用船「ブリタニア号」が去って行く。「正義が勝利した」と意気高々の中国とはあまりに対照的な姿。偉大な統治者だったイギリスが、その名誉と誇りを最後まで守りながら、万感の思いを胸に撤退していく光景は、滅び行く平家一門や追われる義経一行を思い浮かべ、日本人の心を揺り動かします。「たけきものもついには滅びぬ。ひとえに風の前のちりに同じ」。前へ進むことは比較的簡単です。問題は、引け際であり、去り際なのです。イギリスの姿から学ぶものは、人生における「さよなら」の仕方でもあると思います。(7月2日)

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1997年6月

 <神戸事件と少年の持つ残忍さ>
 神戸の淳君殺害事件で中3の14歳少年を逮捕。「本当にやったのだろうか?」というのが、大方の驚きでしょう。少年犯罪ということで、今朝のマスコミはどこも、少年の中学名以外はすべて伏せて書かれているので、よけいにもどかしい。いくら少年の人権があるといっても、どういう家族構成なのか、親はうすうす知っていたのか、殺害後も授業に出ていたのか、普段の成績はどうか、日頃の生活や言動はどうだったのか、などみんなが知りたいことは、山ほどあります。これから、少年Aについての膨大な分析、とくに動機と背景の解明が、新聞やテレビ、雑誌などで行われていくことを期待するしかありません。少年というのは残虐なものです。僕も子供のころ、子猫を石で殺したことがあります。ただ、そのことは、一生、原罪のように僕の心から離れることはありませんでした。普通の少年は、こうやって、みんな大人になっていくのです。(6月29日)

 <もう一つの現実としての小説世界>
 小説はもう一つの現実だ。と書かれた書評にひかれて、マイケル・ヴェンチュラ著『動物園 世界の終る場所』を読みました。もう若くはない男の、よみがえりの物語。読んでいくうちに、何だか僕と状況が似すぎていて、気味が悪いくらい。僕も昔はよく、仕事の途中で多摩動物公園に寄って、ボケーッとしていろいろな動物の前で時のたつのを忘れたものでした。この小説に出てくるリーという若い女性は、小説内の存在とは思えない不思議な力で、主人公だけでなく僕をも引きつけます。小説を読み終えても、リーのことが気がかりになってしょうがない。リーには僕もどこかで会ったことがあるような気がする。錯覚? デジャ・ヴュ? 小説を読んでいる間の精神の働きは、現実の出来事に対処している時の精神の働きと、等価値なのだと思います。そしてもう一つ、夢の中の出来事も、それらと等価値であると最近確信しています。「現世(うつしよ)は夢。夜の夢こそまこと」。小説も夢も、まことの人生の一部なのです。(6月26日)

 <21世紀の前日に地球を差し押さえる>
 今日の朝日新聞読書欄の「著者に会いたい」というコラムに、『地球・道具・考』の山口昌伴さんが提唱しているとして、こんなことが書いてあります。「2001年の始まる前日に、デパートをまるごと一軒差し押さえる。そのまま保存すると、二十世紀博物館ができあがる」
 僕は、これを次のように言い換えてみたらどうだろうか、と考えます。「2001年の始まる前日に、地球をまるごと一個差し押さえる。そのまま保存すると、二十世紀博物館ができあがる」
 23日から、温暖化防止や持続可能なエネルギー確保などをテーマに、国連環境特別総会が開かれますが、先進国の人々が、いまの生活の便利さを保持しようとする限り、21世紀の地球はお先真っ暗です。実効性のある対策に対しては、産業界や途上国が激しく抵抗するでしょう。すべての人類とすべての生き物が共生していくためには、2001年の前日に地球を差し押さえ、すべての資源の無駄遣いを凍結するしかないように思います。(6月22日)

 <圧巻、映画「誘拐」のモブ・シーン>
 渡哲也主演の「誘拐」を観てきました。この映画のすばらしいところは、前半のモブ(群衆)・シーンに真っ向から取り組んだところにあります。新宿や銀座といった大繁華街で、テレビカメラ30台を含む100人の報道陣の中を、身代金3億円の運搬が生中継されるシーン。500人のエキストラを使い、リハーサルなしの本番一回勝負のロケ。その生々しい迫力と真剣さが、圧倒的な感銘を与えてくれます。ただでさえ制約の多い都心のロケですが、妥協しないで正面からぶつかっていったスタッフたちの熱気と意気込みには、映画人の原点を見る思いです。どんなSFXも及ばないこのモブ・シーンは、日本映画に新たな活力を呼ぶ起爆剤となるでしょう。生中継の中を、3億円がいつの間にか犯人の手に渡ってしまったミステリー。真犯人の意外さ。そして、ガンを克服した渡哲也がガンに冒された警部を演じるリアリティーと人生の切なさ。見どころいっぱいの秀作です。(6月18日)

 <架空の出来事と時刻のイメージ>
 シチズン時計が、首都圏のサラリーマンやOLら345人に、伝説や物語の出来事について、何時ころのイメージかを尋ねた結果が、数日前の新聞に載っていました。それによると、水戸黄門が印籠を出すのは午後4時ころ、UFOの出現は午前2時ころ、などが最も多い回答だったそうです。僕がアレッと思ったのは、ゴジラの出現が午後3時ころだったことです。ゴジラは夜じゃなかったっけ? これは僕の解釈ですが、午後3時というのは、ゴジラが東京湾に姿を現す時刻なのです。ゴジラは一直線に都心に向かって、品川から浜松町あたりに上陸するのが午後5時。新橋から銀座に向かい、四丁目の和光の時計台を壊すのが午後9時ころ。霞ヶ関の官庁街や国会議事堂を破壊するのが午後10時。台東・江東・墨田の下町地区を延焼させるのが、午前零時から2時にかけて。そして午前4時ころ、ゴジラは焼け野原となった大都会を後目に東京湾に引き返していく、というのが僕のイメージにあるゴジラの行動パターンなのです。こうして書いて見ると、ゴジラは東京大空襲そのものなのですね。(6月15日)

 <インターネットでライブ中、加山雄三コンサート>
 いまインターネットでライブ中継されている加山雄三のコンサートを楽しんでいます。今回のライブで使われているプラグインソフトはRealPlayerですが、これはなかなか使えます。ライブを見ながら、別のウィンドウでホームページビルダーを立ち上げてこのページを書いています。ちょっとしたマルチメディア感覚。いま、森山良子と加山雄三のトークで盛り上がっています。さきほどは竹中直人がゲスト出演して歌っていました。ライブのソフトでは、Streamworksが、いまいち動きが粗く音も出ないことが多いのですが、このRealPlayerと、あとVDOLive、この二つはシャープで音も良く、今年後半の主流になりそうですね。あっ、いま「君といつまでも」が始まった。そして「しあわせだなあ」のセリフ、いいなあ。インターネットでライブ動画があたりまえになっていった時、個人ホームページはどのように対応していったらいいのか。そんなことに思いをめぐらせています。(6月12日)

 <「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」と映画中映画>
 篠田正浩監督の「瀬戸内ムーンライト・セレナーデ」を観てきました。圧巻は多くの映画評論が指摘しているように、別府航路の客船内の人間模様とドラマ。船内の客の一人一人があなたであり、私であったかもしれないという、なつかしい既視感。そして船の中で上映される「無法松の一生」によって、いつの間にか、観客みんなが客船の上にいる。この作り方は実に見事です。映画中映画といえば、最近では「12モンキーズ」の中でのヒッチコックの「めまい」が印象的でした。時の流れと変転、時間の集積、そのうつろいの中で人間が生きることの意味…。この二つの映画中映画は、そんなことをしみじみと考えさせてくれます。もしかして、僕たちが現実世界だと信じているこの世界もまた、「客船」の上の出来事であり、フィクションの世界の出来事なのかも知れないといった危うい感覚に、ふっとめまいがするような。(6月8日)

 <暗やみで緑色に光る人体が実現したら>
 大阪大学微生物病研究所が遺伝子組み替えによって、暗やみで緑色に光るネズミをつくることに成功した、という記事が今日の日経夕刊1面に載っています。特定の組織だけを発光させることも出来て、医療など広い分野に応用出来るということですが、この技術を、ほかの動物に適応していくと、かなり不気味です。暗やみで緑色に光るネコやライオン、キリン、ゾウなど、なんだか耽美的であり怖くもあります。人体に適用する希望者が続出したら、どうなるか。まず美容として、暗やみで光る手の指や耳を見せびらかす女性が出る。さらに両脚、あるいは両腕だけを暗やみで光るようにして夜の海辺などを散歩する。暗やみで緑色に光る目とか口などはどうだ。いっそのこと、全身を暗やみで発光するようにしたらスゴイぞ。というぐあいにエスカレート。動物の遺伝子組み替えは、やっぱり医療面に限定しておきましょう。(6月4日)

 <清原をこのままにしていいのか、ジャイアンツ>
 甲子園球場では、阪神が巨人を3タテで突き放し、これで阪神は借金ゼロにして勝率5割。思えばこの3連戦、おとといの第1戦での延長11回裏、八木のサヨナラ犠牲フライがすべてを貫く重みを持っていたのです。このとき巨人は今期初のサヨナラ負けを喫し、2戦、3戦にすっかり精彩を欠いてしまった。一方の阪神は、これで勢いづいて、やることなすことすべてがうまくいき、六甲おろしの歓喜・乱舞に。これから夏にかけての戦いぶりが見ものです。一方の巨人は、借金がなんと9つ。これは、テレ朝中継解説の村山実さんが言っていたとおり、清原をこのままにしておくことは、もう許されない状況です。長嶋監督は決断すべし。チーム全体が無気力ムードに包まれてしまい、このままではニュースステーションの長嶋三奈ちゃんがかわいそ過ぎます。父親譲りの明るくて陽気な三奈ちゃんに、これ以上つらい思いをさせないで下さい!(6月1日)

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1997年5月

 <神戸男児殺害事件と薔薇の文字>
 神戸で起きた男児殺害事件は、最近たいていの事件には驚かなくなっている日本人を、心底から戦慄させるものです。新聞やテレビで、おおぜいの人が犯人像や動機を推理していますが、首を切るという殺害方法は、通常の凶悪犯でも出来ることではありません。これはある種の「復讐」(社会への、警察への、あるいは学校や教育への)なのでしょう。口にはさまれていた紙片の文字「酒鬼薔薇聖斗」については、「さかきばらきよと(まさと)」という仮名を意味するという見方もありますが、僕がおやっと思うのは、「薔薇」という漢字を書ける者は少ない、ということです。僕自身、高校のころ、薔薇という漢字は、いくら練習してもついに書けるようにはなりませんでした。「薔薇」はいかにも劇画的・アニメ的で、この事件のカギとなる言葉のように思えます。(5月28日)

 <カンヌ国際映画祭と、観る者の内なる「うなぎ」>
 カンヌ国際映画祭パルム・ドール賞受賞の「うなぎ」を、新宿で観てきました。超話題作の公開初日で舞台挨拶があるとあって、上映2時間半前に行ったのに、もう200人ほどが並んでいました。舞台挨拶の時間になると、テレビカメラやらスチールカメラやら芸能レポーターやらが、ドカドカと入って来てもう大変な熱気。挨拶には、松竹の奥山和由専務を筆頭に、今村昌平監督、キャストの役所広司、清水美砂、哀川翔、佐藤充が並び、カンヌの興奮を観客と分かち合うすばらしいステージとなりました。映画の方は、今村作品にありがちな難解さがなく、とても分かりやすいストーリー展開で、それぞれ観る者の内なる「うなぎ」にシンクロしていきます。役所はもちろんですが、とくに清水美砂がすばらしい。まさに世紀末のマリアといった感じが、国境を越えて共感を呼んだのだと思います。(5月24日)

 <諫早湾の水門はなぜ開かない>
 諫早湾の干拓事業は、見直しを求める世論が日増しに高まっている中を、橋本内閣も、環境庁長官も、微動だにしません。「ムツゴロウを救え」という訴えは、政治を動かす力としてはあまりに無力です。政治はなぜ、かくも頑強に動こうとしないのか。容易に推測がつくのは、この事業をめぐっては、とてつもない金が動いたに違いない、ということです。過去に幾多の例を見るように、政官業の不透明な金の流れが明るみに出、検察当局などが動き出す、そして「事件」となって内閣の存立に関わる緊迫した政局が出現する。諫早湾諫早湾を開けることが出来るとすれば、不幸にして今回もこうした展開となること以外に考えられません。こうした「事件」にならずに、公共事業改革の試金石として、「諫早」を見直すことが出来るならば、そのとき日本の社会はようやく成人に達したと言えるのではないでしょうか。(5月22日)

 <ロバート・キャパが撮った一枚のバーグマン>
 ロバート・キャパ全作品展については4月25日にも書きましたが、今日はその第3部を観てきました。戦場や戦時中の写真から受ける衝撃については、もう触れませんが、今日最も心に焼き付いたのは、キャパと恋に陥ったイングリッド・バーグマンの写真でした。バーグマンを追ってハリウッドに行ったキャパ。結婚を望むバーグマンに、「危険を渡り歩く仕事だから」と自ら去っていくキャパが撮ったこの一枚の写真。天を仰ぐバーグマンは、口をほんのわずかに開き、目からは涙がこぼれ落ちそう。いえ、本当に泣いているのかも知れません。これほど美しく悲しいバーグマンの表情は見たことがありません。バーグマンの気持ちとキャパの思いのすべてが、この写真に凝縮され、百万語を費やしても語れないほどのものを、この一枚の写真が訴え続けているように思います。(5月18日)

 <「ふたりっ子」総集編に垣間見た2001年の大阪>
 NHK衛星第2で12日から4晩に渡って放映された「ふたりっ子」総集編を、バッチリと観ました。朝ドラ放映中はほとんど観ることが出来なかっただけに、こうやってまとめて観て、なんと素晴らしいドラマだったのだろう、とあらためて敬服します。芙奈、佳奈の双子姉妹からオーロラ輝子まで、出演者それぞれが乗りに乗っているのが、観る側に伝わってくる上に、エンタテインメントのツボをしっかり抑えた大石静の脚本には、テレビドラマもまだ捨てたもんじゃないな、と唸ってしまいます。とりわけ僕にとって興味深かったのが、2001年になってからの日本。未来をちょっぴり垣間見る思いでした。ManaKanaの歌う「二千一夜のミュウ」は、ピンクレディっぽい振り付けや歌詞がなかなか新鮮で、これは現実世界でもヒットしそうですね。(5月16日)

 <「失楽園」が問いかける悔いのない生き方とは>
 きのう、公開初日の「失楽園」を観てきました。従来の日本映画では、このてのテーマはどうしても重苦しく、湿っぽく、説明的になりがちですが、森田芳光監督は、スピーディーなショット割りや2種類のカメラによる斬新なアングル、そしてなによりも久木と凛子の関係を、究極の生の賛歌として、明るく肯定的に描いていて、見終わって爽快な満足感を得ることが出来ました。「二度とない人生をどう生きるか」。このテーマは、観るもの一人一人に鋭く問いかけられます。自分にとっての「凛子」すなわち、かけがいのない存在や生き甲斐を、いかにしたら見つけることが出来るか。これは不倫映画を超えて、新しい世紀に向けて僕たちが生きていくための原点を示唆してくれます。(5月11日) 

 <6500万年前の恐竜絶滅は偶然か必然か>
 福井県で、肉食恐竜の骨格の一部が発見された、とNHKのニュース9が報じていました。日本も含めて、地球のいたるところ、恐竜たちの天下が何億年も続いていたというのは、実に不思議なことです。6500万年前の、恐竜絶滅の原因となった大隕石の激突は、地球史の上で、偶然の出来事だったのでしょうか。その偶然がなければ、今も延々と、恐竜の時代が続き、ほ乳類を含めた新世代の生物の誕生はなかったのでしょうか。宇宙に無数に存在するとされる知的生命体のいるほかの惑星では、どのようなドラマがあったのでしょうか。やはり大隕石の激突のような、惑星環境を一変させる出来事がどこでも起きているのでしょうか。恐竜絶滅は偶然か必然か。考えだすと、夜も眠れません。(5月7日)

 <憲法記念日と「ちまき」の味>
 今日は日本国憲法施行50周年。今年は各種の世論調査で、改憲論が護憲論を上回ったというわけか、一種不気味なムードが漂っています。読売はともかくとして、朝日や毎日の論調もどことなく、もどかしそうです。僕にとって憲法記念日というと、子供のころいつも家で「ちまき」づくりをしていたことを思いだします。いまでこそ、ちまきは、市販されているのがあたりまえですが、当時は、どの家でも、端午の節句に向けて、餅米を笹に包んで蒸し、ちまきを手作りしていました。ちょうど、蒸しあがるのが、憲法記念日のころだったのです。日本国憲法は、ちまきの味です。そんな「ちまき」を、これからも大事にしていきたいと思います。(5月3日)

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1997年4月

 <小説内小説「夜の獣たち」の入れ子構造>
 GWはまず読書でも、というわけで、オースティン・ライトの『ミステリ原稿』(ハヤカワ・ミステリ)を読みました。小説内小説『夜の獣たち』を主婦スーザンが読んでいくという入れ子構造のメタ・フィクションで、これがめっぽう面白い。「読み出したら止まらない」(毎日新聞書評)というのは本当です。スーザンの読むペースに合わせてゆっくり読んでいって、3日間で読み終えました。主人公に同化していくスーザン、そのスーザンにいつのまにか同化していく現実の僕。ひょっとして、これを読んでいる僕もまた、小説内の出来事であって、だれかが息を殺して読んでいるのでは、と錯覚してしまうのが作者の仕掛けた知的ワナなのですね。読み終えて、平凡で安穏な日々がいかに貴重なものであるかを、スーザンとともに見つめ直しました。(4月28日)

 <キャパ全作品展が伝える殺戮と流血の20世紀>
 新宿の三越美術館で開かれているロバート・キャパ全作品展を見てきました。「ハナキン」とあって、大勢の若い人たちでいっぱいでしたが、会場は話し声もなく異様なまでに静まりかえっていて、観客の息詰まるような思いがピリピリと伝わってきます。20世紀とは、殺戮と流血の時代であり、民衆の苦しみと困窮で埋め尽くされた時代だった。平和は長続きせず、それも一部の人々の平和に過ぎなかった。人間は、そんな中でも必至に生きようとするものなのですね。キャパの写真はモノクロですが、カラーや動画も及ばない圧倒的な訴求力で迫ってきます。キャパがインドシナで地雷に触れて爆死した時、まだ40歳の若さだったとは初めて知りました。日本の多くの子供たちにも見てもらいたい写真展です。(4月25日)

 <ペルー事件、驚愕の武力突入>
 ペルー事件は、武力突入により犯人14人全員射殺、人質と特殊部隊員の計3人死亡という、大方の日本人にとっては驚愕の形で解決となりました。この事件の発生から経過、解決に至るまで、今後さまざまな評価が論じられていくでしょう。武装グループがサッカー中だったというのが、なんとも悲しい。
 日本は、このところ阪神大震災、オウム事件、O−157問題、動燃問題、ペルー事件と、世紀末的な事件・事故に見舞われています。世紀末的であるということは、20世紀的ということではありません。これらは、来世紀に起こるであろう事件・事故のすべての特徴と性格を、萌芽的に内包しているという意味で、すこぶる21世紀的事件なのだ、ということを、私たちは肝に命じておく必要があるでしょう。(4月23日) 

 <インターコミュニケーションセンターとバーチャル人間>
 西新宿の東京オペラシティタワー内に昨日オープンしたNTTインターコミュニケーションセンターに行ってきました。最先端の技術を駆使した仮想三次元空間など、面白い展示がいろいろありますが、見終わってなんだか目が回る、というのが正直な感じです。目玉ともいえる「ジャグラー」という展示は、線のみで出来ている三次元の人体たち(15人くらいいるでしょうか)が、ただひたすら受話器を空中に放り上げて、形を変えながら落ちてくる受話器を受け止める、という動作を無限に繰り返し続けているのです。21世紀はこのようなバーチャル人間があちこちに出現するのでしょうか。夢を感じるというよりは、不気味です。(4月20日)

 <JRの駅窓口も規制緩和しなくちゃ>
 3日ほど旅行しての帰り、予定より早い列車で帰ることにして、JRの駅窓口で指定券の変更を頼みました。そしたら…
 「お客さん、これは消費税率アップ前にお買い求めになっているので、変更にはちょっと手続きが」と、窓口の駅員さん。やおら厚い冊子を取り出し、カーボン紙を入れて、几帳面な細かい字でたくさんの欄に書き込むことしきり。5分ほどかかってこんどは電卓をたたき、「はい差額10円いただきます」
 えっ、10円のために、こんなに大変な書類を書く必要があったわけ? うーん、何かもっと簡便な方法はないのかねえ。こんなことをやっていると日本はますます国際社会から取り残されてしまうよ(ってのはオーバーだけど)。(4月17日)

 <ブラームスの4番と「キューポラのある街」>
 4月3日はブラームス没後100年だったのですが、メディアが大騒ぎすることもなく、淡々と過ぎてしまったのも、ブラームスらしかった。ブラームスといえば、意外な映画の中で、使われているのですね。吉永小百合の記念碑的映画「キューポラのある街」に、小百合演ずるジュンが友達の家で、生まれて初めて口紅を塗ってもらうシーンがあります。少女から大人への微妙な時期の、印象的な場面ですが、ふと流れてくるのが、ブラームスの交響曲第4番の最初の部分。ジュンの揺れる心の内を静かに暗示して、なんとも切なく胸に迫って来ます。この曲を聴くたびに、いつもこのシーンを思い出します。(4月14日)

 <「デビル」に見るブラッド・ピットの闇の魅力>
 「パラサイト・イヴ」を観たという話は、この間しましたね。今日は「デビル」を観てきました。ハリソン・フォードの円熟した演技もよかったけど、この映画はなんといってもブラッド・ピットの魅力に尽きます。彼の映画を観たのは「セブン」「12モンキーズ」に続いて3回目ですが、トム・クルーズの魅力がアメリカ的な健全さと明るさであるとすれば、ブラッド・ピットは闇の魅力、狂気の魅力といっていいでしょう。
 さて今夜は久々にくっきりと晴れ上がり、地球からしだいに離れていくヘール・ボップ彗星が西の宵空に妖しく輝いていました。三日月をはさんでシリウスがほぼ同じ高度にあって、巨大な二等辺三角形を形作り、壮絶なスペクタクルにしばし時を忘れました。(4月12日)

 <「1989年」に起こった出来事たち>
 ここでクイズです。次の3人に共通する事はなんでしょう?
 昭和天皇、手塚治虫、美空ひばり。3人とも神様だ、なんて答はバツですよ。正解は、3人とも同じ年に亡くなっているのですね。さらに、天安門事件、ベルリンの壁崩壊、消費税3%のスタート、これらも同じ年の出来事です。講談社から毎週発行されている「日録20世紀」、今日発売の号は「1989年」で、これまでの10冊の中では、最も現在に近い年です。平成元年に、このような重大な出来事が相次いで起きたということを、当時はあまり意識していなかった。今、こうやって振り返ってみて初めて、平成元年という年が、いかに歴史を大きく変えた年かということに気づいて、愕然とする思いです。
 8年前のいまごろ、あなたはどこで、何をしていましたか。(4月8日)

 <どうやって証明する? 宇宙人誘拐保険>
 「宇宙人誘拐保険」ってのがあったんですねえ。昨日の朝日によると、英国のGRIPという保険会社が売り出していた保険で、4000件の契約がある。アメリカで39人が集団自殺したカルト集団「天国の門」も、この保険に加入していて、「宇宙人に誘拐または殺害されたり、妊娠させられた場合、1人につき100万ドルを払う」という契約を交わしていた。GRIP社は、今回の事件を機に、この保険の新規販売と更新をやめることにした、とのこと。それにしても、もしも保険金の請求があった場合、それが宇宙人の犯行であることを、どうやって証明したらいいのでしょう? それよりも、人間も宇宙人なのだと考えると、この宇宙で発生するすべての犯罪は宇宙人の犯行となってしまって、もう収拾不能になってしまいそう。(4月5日)

 <幻のアニメ超大作「手塚治虫の旧約聖書」がオンエア>
 手塚治虫の幻のアニメ超大作として伝説となっていた「手塚治虫の旧約聖書」が今日からWOWOWで放映開始となりました。制作に8年間、制作費9億円、バチカン監修というぶっとびのスケール。すでにイタリア国営放送で93年にオンエアされたものの、日本では版権の関係から、本にさえなることがなかったという、ファンにとっては待望・感涙の日本初公開なのです。第1回の「天地創造」はまさに手塚ワールドの真骨頂。明日からは「カインとアベル」「ノアの箱船」「バベルの塔」というふうに、全26話が放映されるというから、ファンならずともゼッタイに予約録画を!(4月1日、これはウソでありません)

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1997年3月

 <電脳カルト教団の集団自殺>
 米カリフォルニア州で起きた宗教グループの集団自殺は、「ヘール・ボップ彗星とともに地球に接近する宇宙船に乗り込み、神の国で再生するため」のものだった、というショッキングなニュース。それにもまして驚きは、グループの中にはプログラマーが多く、インターネットを布教の道具とする「電脳カルト」だった、という点です。テクノロジーが発達すればするほど、人間の心は科学とは別なところに心の救いを求めていく、ということなのでしょうか。(3月30日)

 <ペルー人質事件で注目されるシプリアニ大司教>
 大詰めを迎えているペルーの日本大使館人質事件ですが、いま世界中から最も熱い期待を寄せられている人物が、シプリアニ大司教です。ペルー政府と武装グループの双方から厚い信頼を寄せられているということに見られるように、新しい時代の宗教者のありかた、ひいては宗教のありかたを左右する重大な試練を、大司教自らが背負って歩いているように思えます。
 30日が復活祭であることや、現在セマナサンタ(聖週間)のため大司教が自分の教区に入っていること、などクリスチャンでない日本人もみなニュースで知って、固唾を飲んで見守っているのです。この事件の行方を、21世紀における宗教の役割を指し示すものとしても、注目したいと思います。(3月28日)

 <ヘール・ボップ彗星、次に訪れる時人類は>
 今日の日没は、久々に雲一つない快晴に加えて、強い寒風でスモッグも春霞も完璧に吹き飛び、そのクリアな様は、恐ろしいほど。それはまるで、「西の空を見なさい」という天の啓示のようでした。双眼鏡を用意して、しだいに夕闇が広がっていく空に目をこらすこと約30分。6時半になろうという時、北西の方角に見えた! まごうことなくヘール・ボップ彗星でした。闇が濃くなるにつれ、右方向になびく尾もくっきり。双眼鏡は不要でした。大都会の宵空に輝くほうき星は、いかにも大世紀末ありありという光景でした。
 この彗星が前回地球を訪れたのは紀元前2213年、次回訪れるのは、2400年後の紀元4397年ということです。その時、まだ人類が存続しているとしたら、今の私たちは「はるかな古代人」と呼ばれていることでしょうね。(3月24日)

 <桜の開花宣言、願はくは花の下にて>
 東京で平年より8日早く、去年より10日早い桜の開花宣言が出ました。情報通信革命のうねりは、とどまるところを知らず、その速度はめまぐるしい限りですが、桜の花は「歳々年々花相似たり」で、悠久の時の流れを呼吸し続けているかのようです。この季節、西行の歌を思い浮かべる方も多いでしょう。
 願はくは 花の下にて 春死なん そのきさらぎの 望月(もちづき)のころ
 今年は3月24日夜が旧暦の「きさらぎの望の月」だそうです。(3月21日)

 <100年前のゴーギャンの問いかけ>
 NHKスペシャル「21世紀への奔流」の最終回が先ほど終わりました。19世紀末から20世紀初頭を生き抜いた画家ゴーギャンの言葉(というよりも作品名なのですが)が、全編をつらぬく通奏低音となって、問いかけ続けているのが、効果的でした。
 <私たちはどこから来たのか。私たちは何者なのか。私たちはどこへ行くのか>
 ちなみに、ゴーギャンがこの作品を描いたのは今からちょうど100年前の1897年ですが、これはそのまま現代の私たちが直面している最大の「問い」でもある、と言っていいでしょう。(3月14日) 

 <インターネットによる日食生中継>
 インターネットによる日食生中継を見ました。直前にNVATをダウンロードして起動し、7つのサイトをあれこれクリックして、ついに画像表示までこぎつけました。皆既食の瞬間は、わずかに残ったリングが消滅するとコロナが鮮やかに広がって黒い太陽を取り込み、20世紀最後の超感動もの。同時に見ていたNHK衛星第1は、雲のため太陽の中継が出来ず、世紀の生中継はインターネットの圧勝というところでした。(3月9日)

 <世紀末の閉塞感と世紀末バー>
 西麻布かいわいで、世紀末バーが流行する兆しを見せているそうです。手錠や鎖のオブジェ、官能的なショー、つまみにビタミン剤の盛り合わせ。女性客もお多く、「フェティッシュ」を一つの流行として楽しんでいるとか。世紀末の閉塞感が色濃くうかがえますが、こうした大状況の中で、「2001年」という言葉が、出口のない閉塞感を一気に覆すキーワードとして、注目されつつあります。日経トレンディの特集も、そのあたりの空気を敏感にキャッチしているようです。このホームページは、時代を半歩先取りしつつ、きめ細かく情報を集めていきたいと思っています。(3月4日)

 <千里の道も一歩から、さあ行ってみよう!>
 ホームページの作成にとりかかってから、ほぼ1カ月になります。試行錯誤と失敗の連続ですが、いろいろと勉強になることばかりです。これを始めてから、2001年関連や21世紀がらみの新聞記事をよく切り抜いてファイルするようになりました。このデジタルな世界で、紙の新聞をハサミで切るという古典的超アナログな作業をやることになるとは思いませんでしたが、発信する情報の精度を高め、内容に責任を持つためには不可欠な作業と思っています。今後ともよろしく、ご支援・ご愛読下さい。(2月28日)



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