99年1月−6月のバックナンバー
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1999年6月

 <ロシアのスズダリで見た不吉なまでに美しい世界>
 ロシアの「黄金の環」と呼ばれるモスクワ北方のいくつかの古都を回ってきました。ロシア正教の総本山と言われるセルギエフ・パサドのトロイツェ・セルギエフ大修道院は、「カラマーゾフの兄弟」の世界が出現したような敬虔さと祈りの光景に、圧倒される思いでしたし、ヤロスラブリやウラジーミルの教会・寺院もすばらしかった。その中でも、最も印象に残ったのが、1人で歩きまわったスズダリの夜です。夜とはいっても夏至の時期なので、午後9時を過ぎても太陽が西の空高く照りつけ、子どもたちは外を走り回ったり川で水浴びをし、若者たちも大人も、つかの間の夏を惜しむように戸外の散策を楽しんでいます。地図もなく歩いていて、白い城壁に囲まれて金や青、緑の丸屋根の建物がたくさん立ち並ぶところにたどりつき、門が開いていたので中に入ってみました。静寂の中に、修道女が階段に腰掛けて祈りの言葉をつぶやいています。道に沿って城壁の中をさらに進むと、スカーフで顔を覆った若い修道女たち3人が、農作業の手押し車を押しています。夜の9時半。太陽はまだまだ輝き続け、丸屋根の建物には月がかかって、どこか遠い昔に物語の世界で見たことがあるような、幻想的 な世界。あちこちの草むらにはハーブのような強い香りがたちこめ、独特の官能的な匂いが漂っています。ロシアの大地の匂い。この世ならぬ美しさとは、こういうことを言うのだろうと身体が震える思いでした。あまりにも美しすぎるものには、不吉なものを感じてしまいます。そう、この夜、僕が見たものは、もはやこの世ではないもうひとつの世界、あちらの世界だったのかも知れません。この夜のことは、一生忘れることがないでしょう。(6月29日)

 <史上初の3億円宝くじの当選確率は、5億分の2以下とは>
 史上初の3億円宝くじの当選番号が、新聞紙上などで発表されています。1等の2億円はわずか2枚だけ。その中でも連番で前後賞をモノにしていれば、めでたく3億円になるというのですが。発売枚数は売上げ額から推定するに、5億5000万枚です。ということは、1等に当たる確率は、5億分の2以下という極端に低い数字です。この宝くじを買った人たちは、ひょっとすると自分が3億円の幸運を、という夢を買ったのでしょう。しかし確率論によれば、極端に低い確率の出来事は発生しない、と言われています。例えば、サイコロを100回投げて、100回とも6が出る確率は、数字の上では計算出来ても、現実には決して発生しない、というのです。では3億円の宝くじはどうか。当選番号があるのだから、当選者は出ているはずです。しかしこれは、発生しない確率に等しいといえるでしょう。それよりもむしろ、1年間のうちに殺人事件に遭って殺される確率や、落雷に打たれて即死する確率、フグ毒で中毒死する確率の方が、まだ3億円に当たる確率よりもはるかに高いのです。もっといえば日本で1年間に交通事故で死ぬ人は毎年10000人前後で、3億円より10000倍以上も 高い確率なのです。僕も数年前までは、毎回セッセと宝くじを買っていました。でも最近、ようやく分かりました。宝くじに当たることを期待するよりも、大病や事件・事故といった「負の宝くじ」に当たらないように用心することの方がはるかに大切だと。「負の宝くじ」は買わない人にも襲いかかってきますが、日常的に注意を払って生きることで、「当選確率」をうんと低く抑え続けることは十分可能だということも。(6月16日)

 <「日本最初のホームページ」に関するホームページを見る驚き>
 みなさんご存知でしたか? 日本で最初にホームページが発信されたのは1992年9月30日のことでした……こんな書き出しのホームページが存在するのを知って驚きました。「日本最初のホームページ」というホームページで、今から6年9カ月ほど前に、茨城県つくば市にある文部省高エネルギー加速器研究機構計算科学センターの森田洋平博士によって、日本最初のホームページが発信された経緯を記録として残し、多くの人に知ってもらおうというホームページです。当時、どのような状況の中で、日本でどのようにして最初のホームページが発信されていったか。そのサーバーはどんなサーバーだったか。驚くべきことには、このホームページには、日本最初のホームページのHTMLソースが掲載されていて、クリックするとその歴史的なホームページそのものが忠実に再現されます。Welcome to the KEK WWW serverで始まるわずか7行ほどのテキストだけのホームページ。これが、今日のインターネットの爆発的普及の最初の1歩なのだと思うと、実に感無量です。この6年9カ月間がすでに歴史として語られる不思議とともに、実は現在もまだ黎明期の一部に過ぎないのかも知れない、というめくるめく感覚にとらわれます。自動車や電話、テレビなどの歴史を見ても、最初の10年や20年はほんの揺籃期であって、真の爛熟期には、当初は想像だにしない進化を遂げるものです。ホームページはどこまで進化していき、人類と社会をどう変えていくのか。ひとつの文明の創生期を、多少なりとも中に浸って生きていくのも悪くはない感じがします。(6月13日)

 <「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」の含蓄>
 阪神タイガースがついにセリーグ単独首位。大阪共和国の熱狂ぶりが、ひしひしと伝わってきます。野村監督の采配もさることながら、その哲学には学ぶところが実に多いように思います。僕がとりわけ唸ったのは、「勝ちに不思議の勝ちあり、負けに不思議の負けなし」という野村語録です。これは今月初めの2試合の後の監督談話ということで、この通りの言い方をしたのか、後からマスコミが合成したのかは分かりませんが、近年にない名言として後世に残る言葉でしょう。今年のタイガースの戦いぶりそのものであり、野村イズムそのものであることはもちろんですが、この言葉はそれらを大きく超えて、現代という複雑怪奇な世の中を生き抜くための、もっとも基本的な心構えとして、実に多くの含蓄を含んでいると思います。「負けに不思議の負けなし」というのは、負けには負けるだけの原因があるということ。何の苦労もせず、思い切った策を講じなければ、負けるに決まっている。負けたのに、ごちゃごちゃと言い訳は無用なのだ、ということです。これは僕たちもおおいに肝に銘じる必要があるでしょう。それにもまして僕が凄いと思うのは、「勝ちに不思議の勝ちあり」という部分です 。勝者はすべてが必然的な勝利とは限らず、不思議の勝ちなのかも知れない。だから勝者は常に謙虚である必要がある。裏を返せば、とうてい無理な実力と状況でも、あきらめずに頑張っていけば、不思議の勝ちがあるかも知れない。不思議の勝ちがあることを信じて、どん底状態でも投げ出さずに頑張ろう。ノムさんの言葉は、明日の見えない時代に生きる僕たちに、勇気と希望を与えてくれるのです。(6月11日)

 <21世紀中ごろにサケが絶滅するというショッキングな予測>
 木枯らしが吹き始める旧暦11月15日の満月の夜、山形県や岩手県では、「オオスケ、コオスケ、今のぼる」という叫び声が、どこからともなく聞こえてくるといわれます。この声を聞いた者は3日のうちに命を落とすとも言われ、人々は家の中にじっと閉じこもって過ごします。オオスケというのは、サケの大神さまで、コオスケはサケの神々たちです。この日が過ぎると、各地の川にサケの群れが遡上してくるのです。日本では縄文の昔から、サケは定期的に訪れる貴重な栄養資源として、また霊性を備えた神秘の魚として、ありがたがられてきました。それ以来、現代にいたるまで、サケほど日本人の生活と結びついてきた魚はありません。サケはシッポの先から頭のてっぺんまで、捨てるところがない魚です。最近は高温高圧で柔らかくした「サケの骨」の缶詰も大人気です。このサケが、地球温暖化による海水温の上昇によって、なんと21世紀の中ごろに絶滅する可能性が高い、という見通しが、世界自然保護基金(WWF)から公表されました。トキやオオタカなどはいかにも絶滅しそうな感じがありますが、サケのように生息数が多い身近な魚が絶滅するとは、ショッキングです。地球の生 態系の危機が、私たちの予想をはるかに上回る深刻な状況にあるということなのでしょう。サケのいない21世紀後半の地球を想像出来ますか? もはや炊き立てのご飯にサケの塩焼きを味わうことも出来ず、サケ弁当、サケ茶漬け、サケおにぎり、石狩鍋は姿を消し、お雑煮も寄せ鍋もサケ抜きとなるのです。旧暦11月15日の夜には、遠く海のかなたから、「オオスケ、コオスケ、もういない」と、すすり泣くような声が聞こえてくるかもしれません。(6月8日)

 <4文字の省庁名をどのように2文字に略すかで悩む滑稽さ>
 2001年からの中央省庁再編によって誕生する4文字の省庁名の略称をどうするかで、関係者が頭を悩ませているそうです。新たに4文字省庁となるのは国土交通省、経済産業省、文部科学省、厚生労働省の4つで、これにすでにある農林水産省を加えて、4文字省庁は5つになります。農林水産省はすでに農水省という略称が定着していますが、ほかの4つはどう略すか。国交省、経産省、文科省、厚労省では、いずれもピンと来ないというわけです。こういうことになるのは、日の目を見るより明らかだったのに、統合される省庁の官僚たちはメンツから従来の省名を残すことに固執し、政治家を巻き込んだ名称論争に発展。結局、「太陽神戸三井銀行」のように、統合する名前をただ書き連ねただけの省庁名になってしまいました。いまさら略称で悩むとは、まったくもって滑稽な話で、それなら最初から分かりやすい2文字か3文字の省庁名にすべきだったのです。もっとも役所というのは、メンツと縄張りで動いているようなところがありますから、元の省名が消えるのは、全存在意義を否定されるような受け止め方をしたのでしょう。結局は政治がリーダーシップを欠いていた、といわざるを得 ません。さて、いまとなって略称をどうすべきか。正式名称は4文字で仕方がないとして、略称については従来の省名を離れ、「愛称」として一般から募集することにしたらどうでしょうか。国土交通省は「みどり省」、経済産業省は「ゆたか省」、文部科学省は「まなび省」、厚生労働省は「いのち省」なんてのに決まったら、近年にない大ヒットとなるでしょう。(6月5日)

 <防弾ガラスの檻に入れられ世界にさらされるオジャラン党首>
 死刑が確実と言われる反政府武装組織のリーダーが、防弾ガラスの檻に入れられて法廷に立たされ、死刑を阻止しようと闘う姿が映像メディアを通して地球をかけめぐる。多数の死者を出した連続テロの首謀者として、トルコの国家治安裁判所の法廷に出廷したクルド労働者党(PKK)のオジャラン党首の姿を映し出すテレビニュースは、衝撃的でした。この武装組織のことや、彼らが行ったとされるテロのことは、僕にはよく分からないのですが、その首謀者をガラスの檻に入れて出廷させた上、外国のテレビカメラを一斉に法廷に入れ、裁判を公開するという前代未聞の光景には、人間とは何かという本質的な問題について考えさせられます。防弾ガラスは、テロの犠牲者の遺族などによる報復を防ぐ一方、PKKによる党首奪還を防ぐため、というのが理由のようですが、実際には世界中に姿をさらし者にするためのガラスの檻という趣で、しかも死刑判決確実と言われますから、これから死刑になる極悪人が悪あがきする最後の姿を、徹底的に「鑑賞」してもらおうというサディスティックな匂いさえ感じられます。法廷で発言するオジャラン党首は、なんとか死刑を免れたい気持ちがありありで、 「PKKの武装闘争をやめさせることが出来るのは自分だけだ」「自分が死刑になったら、5000人が自爆テロをする用意をしている」と死にものぐるいです。やはり、オジャラン党首も死刑になるのは怖いのですね。トルコ政府は異例の公開裁判によって、裁判の公平さと死刑の正当性を国際的にアピールしたいのでしょうが、迫真過ぎるドラマは逆にオジャラン党首のメディアを意識した戦術に有利に働いて、死刑の言い渡しや執行が困難になるのではないか、という気もします。メディアを利用したつもりが、いつの間にか敵方に利用されていた、というのはよくあることです。(6月2日)

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1999年5月

 <通信傍受法の真の狙いは、戦争協力反対者の一斉検挙だ>
 警察による電話や電子メールの盗聴を合法化する「通信傍受法」は、なぜいま、あたふたと強行されようとしているのでしょうか。これはまさに、ガイドライン関連法と表裏一体の法案だからではないでしょうか。国会審議で政府がどんな釈明をしていようが、通信傍受法が成立してしまえば、いかようにも拡大解釈が可能です。早い話が、僕あてにネズミ講まがいの一攫千金勧誘メールや、有料ピンク画像の案内メールが送られてきて、その発信者が暴力団関係者と知り合いだったり、周囲に麻薬を扱ったことのある知人がいたとします。権力はそれを根拠に、こんどは僕の発信・受信するメールの中身を自由にのぞき見することが可能でしょう。僕が関与しないエッチ系のメールは毎日のように2、3件は送られてきますから、権力は僕の電話を傍受して裏付け捜査をしようとするでしょう。電話で気のおけない相手としゃべっているうちには、話のはずみの中で「あのやろう、ぶっ殺してやる」とか「あんなやつ、死ねばいいのに」ぐらいのことを言うこともあるでしょう。天下国家の話になって、「こんな政府なんか、ぶっつぶしてやる」と言うことだってあるでしょう。それを権力がしっかりと録音 していて、ある日、僕に逮捕状を持った警官が訪れ、殺人教唆や騒乱罪などの容疑で有無を言わさず逮捕、という白昼夢が現実となるでしょう。こうした盗聴が、権力にとって最も大きな効果を発揮するのは、周辺有事によって日本がアメリカの戦争に協力する事態となった時です。戦争協力に批判的な政党や労組、ジャーナリスト、協力拒否を叫ぶ市民グループなどの動きは、すべて通信傍受され、戦争非協力者たちは次々と逮捕・投獄されていくでしょう。通信傍受法の真の狙いは、有事に向けての言論封殺にあるのだと思います。(5月30日)

 <アンチ・ジャイアンツをも怒らせる無気力巨人のふがいなさ>
 僕は長年、アンチ・ジャイアンツを自認してきましたが、今年の巨人のふがいなさには、アンチ派としてあきれはて、怒りさえ覚えるほどです。アンチ・ジャイアンツは隠れジャイアンツだ、などと言うジャイアンツ・ファンもいますが、アンチがアンチとして存在理由を謳歌出来るのは、あくまでジャイアンツが適度に強いということが大前提なのです。強すぎても困りますが、まあリーグ3位か2位あたりにいて、ペナントレース終盤にかけていつ首位にのし上がるかも知れないという、いやらしさがあってこそ、巨人が敗れる快感が高まるのです。とりわけ下位の弱小チームが逆転サヨナラで巨人を破ったりした夜は、コーフンのあまり道路に飛び出して、だれかれ構わず抱きしめたくなるほどの喜びに酔いしれます。万一、巨人がリーグ優勝してしまった場合のアンチとしての正しい対処法は、にわかパリーグ・ファンに変身して、日本シリーズでの巨人の大敗に期待をつなぐのです。日本一を決める晴れ舞台で、巨人がパリーグの優勝チーム相手に、見るも無惨なボロ負けを喫していく時、アンチ派はジャイアンツ・ファンの悔しさを何度も何度も思い描きながら、恍惚状態となって愉悦のヨダレを ながすのです。しかし、しかしですよ。今年の巨人はいったいなんなんだ。試合展開にも、選手の動きにも、監督采配にも、まるでヤル気が見られません。清原と桑田はペナントレース途中でも放出すべし。長嶋さんは、これ以上傷つかないうちに辞任すべし。はやばやと堀内新監督を実現させ、アンチ・ジャイアンツの期待を裏切らない憎たらしい巨人として立ち直ってほしいものです。(5月27日)

 <朝に紅顔ありて夕べに白骨となる−横浜の麻雀店7人焼死>
 横浜のマージャン店で客ら7人が焼死した事件ほど、心底から人の世の無常を覚えた出来事はありません。この事件は昨夜7時のNHKニュースのトップで報じられたのですが、なんと火災が発生したのは、それからわずか3時間前のこと。鎮火して焼死体が発見されてからは2時間半しかたっていません。日曜日の夕方、マージャンに興じていたこの人たちは、自分たちの死が3時間後にNHK全国ニュースのトップで報じられるとは、一瞬たりとも想像だにしなかったでしょう。まことにこの世は一寸先は闇。亡くなった人たちは、それぞれに家庭やライフプランがあり、人生は当分この調子で継続中のはずでした。それがガソリンの爆発によって、何も分からないまま一瞬のうちに自分の存在そのものが炎上してしまったのです。行楽の途中の道路で、山や海で、順調に継続中の人生が一瞬のうちに断ち切られる事件や事故がこのところ目立ちます。長い闘病生活の末に力尽きたというのと違って、人生を振り返ったり、あとに遺された家族の心配をしたりするわずかの時間さえもありません。朝に紅顔ありて夕べに白骨となる、という「和漢朗詠集」の成句は、まさに このことなのですね。私たちは、その日その日を白骨となることなく無事に過ごすことが出来るだけで、感謝し幸せに思うべきなのです。そして紅顔のままで翌朝を迎え、またその日一日を白骨となることなく終える。これで十分ではありませんか。その上になお、出世だ利益だ権力だ、などと欲張るのは罰当たりというものでしょう。自分が今の一瞬一瞬を生きていることの有り難さを、謙虚に噛みしめたいと思います。(5月24日)

 <日本中が見守る中で、ついに誕生した小さなトキの命に思う>
 人間以外の命の誕生の瞬間を、これほど全国民が見守ったというのも、前例がないことでしょう。佐渡トキ保護センターで、今日午後ついに誕生したトキのひな。わずか67グラムの卵の中で、人間にはどうやっても手が出ない生命創造のドラマが進行し、ひなが殻を破ってこの世に生まれてきました。これだけ日本中が固唾を飲んで見守った背景には、一つの生物種を絶滅寸前にまで追いやってしまったことへの、日本人の苦い後悔と罪悪感があるはずです。ひとたび絶滅してしまえば、もはや決して人間の力では復元できないのです。絶滅はしなくても、これだけ稀少になってしまうと、繁殖させるのはいかに難しいか、だれもが身にしみて感じたことでしょう。地球は人間のものではありません。植物を含めた、生命圏全体の地球、という視点が、いまこそ必要です。人間は特別だから他の生物よりも優先的な権利があるのだ、などと思い上がるのは、とんでもない誤りです。まして人間のせいで爆弾や地雷をまき散らし、油田や森林を炎上させるなどの破壊行為は、自らの自殺行為であるだけでなく、生命圏全体を回復不能の不全状態に陥れるものです。人間は、もっと生命というものについて、謙虚 にならなければいけません。空爆で今日もまた民間人の死者が続出しているというのに、止める方法も確立できない、というのはあまりにも理不尽でバカげています。トキのひなの誕生は、21世紀に入る前に、日本も世界も、かけがえのない命の重さについて、原点に立って考えを整理する格好の機会だと思います。(5月21日)

 <これだけ科学が進歩しても、人間はなぜ「臓器」を作れないのか>
 今朝の読売新聞の「論点」に、多摩大学長のグレゴリー・クラーク氏が、日本の子どもが一人、外国に渡航して心臓移植を受けるたびに、その国で移植を待っていた別の子どもが一人死ぬ、という問題を書いています。この冷酷な事実は衝撃的です。日本国内の臓器移植でも、移植を受けるレシピエントに選ばれた幸運な数人の後ろには、いつになるか分からない提供臓器を待ち続ける膨大な患者たちがいます。待っているうちに命が尽きてしまう患者は、数知れないでしょう。提供される臓器の数は絶対的に不足しています。そこで、21世紀の移植医療を考える場合、2つの方策を平行して進める必要があると考えます。ひとつはクローン技術や遺伝子組み替え技術を駆使して、移植用の臓器を大量生産すること。いわば人格を持たない生きた臓器を工場で生産する方法です。ヒトの遺伝子を、ヤギなどに組み込んで人間の臓器を持った動物を大量飼育することも可能かも知れません。もう一つの方法は、人工臓器の開発を急ぐことです。マイクロチップの制御で半永久的に作動し続ける心臓や肺、肝臓、腎臓などは、人間の寿命を飛躍的にのばすことを可能にするでしょう。あるいは、チップ制御の人工 臓器とクローン技術や遺伝子組み替え技術との併用による、全く新しい臓器も可能かも知れません。他人の「死」を待ち続ける現在の移植医療には限界があり、あくまで過度的な対応でしかないでしょう。21世紀の科学がまず取り組むべきは、「命」と「身体」であり、「脳」と「心」です。そのためにも人類は、戦争や大量虐殺、破壊に明け暮れる現在の低レベルの文明から抜け出さなければなりません。(5月18日)

 <「乙女の祈り」の作曲者はポーランドの女性で、24歳の若さで夭折>
 男女平等に向けてさまざまな施策が進められている中で、僕は前から不思議に感じているのは、なぜ女性の作曲家が極端に少ないのだろうか、という点です。オーケストラ団員でもソリストでも、女性の楽器演奏家はたくさんいますし、女性の指揮者もいます。しかし、女性のシンガーソングライターなどを別にすれば、多くの人が聴いたことのあるクラシック音楽を作曲した女性はいるのでしょうか。どうも僕には、作曲という作業は女性にとって苦手なのではという気がします。文学や美術などでは女性が生みだした傑作が多いことを考えると、これはいかにも不思議です。純粋音楽のような抽象的な美を生み出す前に、女性は「生む性」としての具象に振り回されるという問題があるのかも知れません。そんななかで、あまりにもポピュラーなピアノの名曲「乙女の祈り」を作曲したパダルジェフスカ(パダチェフスカとも)が、ポーランドの女性であることを、最近初めて知りました。彼女は女流ピアニストで、ほかに24曲ほどのピアノ曲を作曲していますが、「乙女の祈り」ただ1曲のために永遠に名前を残すことになりました。「乙女の祈り」が作曲されたのは、ショパン没後7年ほど経った1 856年ごろ。その彼女は、わずか24歳の若さでこの世を去っています。彼女は祖国の大先輩ショパンにどんな思いを抱き、どんな青春の中でこの曲を作曲したのでしょうか。「乙女の祈り」というタイトルは、出版社がつけたとも言われますが、パダルジェフスカは何を祈り、なぜ夭折していったのでしょうか。この美しいメロディーにこめられた優しさと激しさから、彼女の短く燃え尽きた命を偲ぶほかはありません。(5月15日)

 <ソニーから発売のロボット犬は、行動を制御するソフトが興味深い>
 ソニーが来月1日から、学習機能を備えた犬型のペットロボットを、一台25万円で限定発売するというニュースに、いよいよそんな時代になったのか、という思いです。そのホームページを見てみると、このロボットはニュースで報じられたよりもはるかに複雑で高度な機能を持っていて、「幼年期」「少年期」「青年期」「成年期」という成長過程があり、「喜び」「悲しみ」「怒り」「驚き」「恐怖」「嫌悪」の6つの感情モデルと、「愛情欲」「探索欲」「運動欲」「食欲」の4つの本能モデルを持つ。この「食欲」というのは、エネルギーが少なくなってくると、充電してほしいと動作でせがむのだそうです。さらに興味をそそられるのは、行動パターンを管理する5万円の別売り基本ソフトによって、動作データを保存・交換したり、パソコンでオリジナルの行動パターンを編集して組み込むことが出来るという点です。AIBO(アイボ)という名称は、 AI(人工知能)やEYE(目)のアイと、人のよき「相棒」という意味からつけたということ。僕もほしいけど、これはまだ試作品レベルのような気がします。もう2、3年経てば、さらに表情が豊かで行動も多彩なペットロボットが、10万円を切る価格で発売されるでしょう。ロボット本体とソフトを分けるという思想は、今後のロボット文明にとってかなり重要な意味を持つことになりそうですね。パソコンと基本ソフト(OS)のような関係になって、ロボットの性能や思考、感情、性格などはソフトしだいでどうにでもなる、というシステムが確立されていくのでしょうか。人間型ロボットが発売された時には、さまざまなメーカーが独自のソフトを開発して売り出すことでしょう。悪のソフト、悪魔のソフトが闇で流通するのも、時間の問題でしょう。(5月12日)

 <DNAの長さは1個で2メートル、それが人体に60兆個もある驚異>
 生物すべてが持つ遺伝子のDNAは、近年の急速な研究の結果、従来の生命観を根本からくつがえす驚愕の仕組みであることが明らかになってきました。GW中に3夜連続で放映されたNHKスペシャルでは、CGを駆使してDNAの最新の姿を紹介していました。見終わった後、あまりも精巧で複雑な構造と働きに、こんなものが自然に出来上がってきたのだろうかと、感嘆してしまいます。1個のDNAに書かれた生命設計の暗号は10万種30億、長さは2メートルにもなり、それが人体の60兆個の細胞すべてに存在するというから、生命とは私達が考えている以上にはるかに大変なシステムなのですね。さらにDNAは内部での分業が徹底していて、さまざまな指揮命令を下したり働きを制御したり、外部の要因による損傷に対して連携プレーで防御したりと、あたかも一個の部隊のようにふるまっています。細胞が複製される時のDNAの動きは、オートメ化された巨大精密工場も及ばないほど厳密かつ細密で、DNAはそれ自体が小宇宙であるという言い方が出来るでしょう。生命誕生から40億年間、このDNAは綿々と子孫へ子孫へと引き継がれ、突然変異で進化を取り込みながら、いまの 私達につながっているのだと考えると、「私」とは「自分」とは一体何者なのだろうかと、ふっとめまいを感じるような感覚にとらわれます。それにしても、DNAの遺伝情報が、わずか4文字(4種の塩基)の配列による暗号として記述されているというのは、最大の驚異です。この暗号はどうやって決定されたのか。暗号とそれが意味する情報が、数十億年もの間、正確に対応し続けているのはなぜか。暗号のように見えるものは、実はさらに精密で複雑な内部構造を持っていて、詳細な設計図自身がDNAの内部に隠されていた…21世紀にはそんな大発見が待ちかまえているのかも知れません。(5月9日)

 <ピカソ展で強烈な印象、盲目の怪物ミノ タウロスとは人類の姿>
 上野の森美術館で開催されているピカソ展を観てきました。GW期間をはずして行ったのに、大勢の人たちで賑わっていて、現代人がいかにピカソに強く引きつけられているかが伺えます。青の時代から、キュビズム、新古典主義、円熟期から晩年へと、どの作品も息をのむほどの強烈な印象を与えてくれる傑作ぞろいの中で、僕が最も深い感銘を受けたのは、ギリシア伝説の人身牛頭のミノ タウロスを描いた数点です。ミノ タウロスの苦悩の目つきは観る者の心に突き刺さり、とりわけ「星降る夜、鳩を抱いたマリー・テレーズに導かれる盲目のミノ タウロス」は、醜怪な巨体を持て余して天に向かって咆哮し、清らかな少女に手を引かれて悶絶している姿が、ピカソ自身を越えて、現代の私達の姿そのもののように思えてきます。伝説のミノ タウロスは、父のクレタ王ミノスの業に怒った海神ポセイドンによって造られた怪物で、迷宮に幽閉されたまま、毎年アテナイより送られる少年たちを食べ、少女たちを陵辱して生きていた、といいますから、現代の人類がやっていることと、ほとんど変わりがないではありませんか。人類はいま、迷宮クノッソス宮殿の中で、視力を失ってさまよえる醜悪な怪物なのですね。ピカソの絵では、鳩を抱いたマリー・テレーズが唯一の救いとして描かれています。いまの人類には、手を引いて導いてくれる少女はもはや存在しないのではないか、という気がします。ミノタウロスの姿の先には、ゲルニカの牛や人間たちがつらなり、ゲルニカが発するメッセージは大破局への最終警告にほかなりません。(5月6日)

 <日本国憲法こそ20世紀から21世紀に引き継ぐ最大の財産だ>
 日本国憲法は、制定から52年を経て、いま厳しい試練にさらされています。去年の憲法記念日の「大世紀末つれづれ草」では、「前文」をしっかり見ておきましたが、今日は「基本的人権」の条文を見ておきましょう。
第十一条【基本的人権の享有と性質】
 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久 の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第十二条【自由・権利の保持義務、濫用の禁止、利用の責任】
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、こ れを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
第十三条【個人の尊重、生命・自由・幸福追求の権利の尊重】
 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限 り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 日本が世界に誇るものは、いま何があるでしょうか。バブルの崩壊ですっかり自信を失い、うつろな目でへたりこんでいる日本にとって、最後のそして最大のよりどころは日本国憲法です。あちこちで国際紛争が火を吹き始めているこの時期であればなおのこと、日本国憲法は21世紀への指針としての世界的な価値が一層高まっています。憲法の精神と条文を国内に活かしていくことはもちろんのこと、国際的に広くアピールしていく活動を、いまこそ広げていく時だと思います。(5月3日)

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1999年4月

 <英BBCキャスター射殺はNATOのユーゴTV局空爆への報復?>
 英国BBC放送の人気女性キャスター、ジル・ダンドーさんが射殺された事件で、セルビア人を名乗る男からBBCに電話があり「NATOによるセルビア国営テレビ空爆によって、多数の死傷者が出たことへの報復だ」と語った、ということです。警察当局は「あくまで可能性の1つ」と慎重な見方をしているとのことですが、ダンドーさんは番組の中で、コソボ難民救済の募金を積極的に呼びかけていたことや、ダンドーさんが殺害された時刻に、セルビア国営テレビ空爆で死亡した女性スタッフの葬儀がベオグラードで行われたことから、報復だった可能性は十分あり得るという見方も出ているとのこと。そうだとしたら、これは世界中の報道関係者、ジャーナリストにとって極めて深刻な問題を投げかけていると言えるでしょう。キャスター殺害は糾弾されるべき行為ですが、国連を無視して続けられているNATO軍のユーゴ空爆に対して、ジャーナリストはいったい何を発言してきたのでしょうか。ミロシェビッチのやり方が人権と世界平和にとって許されないからといって、空爆を支持ないしは黙認し続けた責任は重大です。とりわけ、ユーゴ軍と直接関係のないテレビ局を空爆した段階で、世 界の報道機関は一斉にNOの声を上げるべきでした。客観報道を装ってセルビア国営テレビのスタッフたちを見殺しにした各国の報道関係者は、「明日は我が身」の空爆であることを認識しなければなりません。どんなに目的が正しくても、国際紛争を武力で解決しようとすること自体が根本的に誤りであることを、世界のジャーナリストたちはいまこそ声を大にして叫ぶべきではないでしょうか。(4月30日)

 <「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」の原作は1文字多かった>
 GWを目前に東京は初夏のような陽気となって、街角の青葉がまぶしく映えています。そんな中でお昼に鰹のタタキを食べました。あとは、ホトトギスの声が聞こえてくれば言うことはないのですが、東京にホトトギスっているのでしょうか。だいぶ前のことですが「目に青葉 山ほととぎす 初鰹」の俳句について、物知りを自認するご隠居さまが無学の与太郎に対し、延々と苦し紛れの解説をするというような内容の落語がありました。ご隠居さま、いわく。「メニーはオーバー、山ほどトギス、ハツ、ガツ、オー!」と読むのが正しい。メニーという名前の外人の女性が、「トギス」という名前の鳥の肉が大好物で、ハツ(心臓)やガツ(胃袋)を焼き鳥にして食べるのが大好きだった。その彼女が、山のようなトギスを前にして、身振りもオーバーに「オー!」と喜んでいる、という意味だ、というのです。この落語家の名前は覚えていませんが、この珍解説の筋は強烈過ぎて忘れられません。ところで、落語のネタになるほど有名な元の句は、江戸時代の大坂の俳人山口素堂の作で、視覚、聴覚、味覚という三輻対の喜びをたたえたもの。正しくは、「目には青葉」で、「は」が入るのだそうですが 、いまではほとんどの場合、「目に青葉」と「は」を抜いて引用されていますね。僕も、「は」が入ると字余りになって、なんとなくモタモタして説明っぽくなってしまうように思います。「目に青葉」の方が、ずっと直感的で訴える力が大きいと思うのですが、みなさんはどう感じますか。(4月27日)

 <統一地方選の連呼も今日まで、4年後はどんな世の中に?>
 統一地方選後半の選挙運動も今日までとあって、あちこちから声を枯らして候補者名を叫ぶ選挙カーの音が聞こえてきます。前回4年前に、青島幸夫、横山ノック知事が誕生した時から、それほど年月は経っていないような気がするということは、次回の統一地方選もアッという間にやってくるということでしょうか。でも、次回の統一地方選の様子を思い描くことは、なんだかとっても難しいような気がします。それは西暦2003年、21世紀が開けて3年目の春です。中央省庁再編も、ペイオフ解禁もとっくに終わって、日韓共催W杯も前年に終わっています。石原都政はどのような評価を受け、石原氏は再選出馬をしているでしょうか。この間に、日本の政治や社会の姿はどのように変わっているでしょうか。ユーゴをめぐるNATO軍の攻撃はどのような形で解決を見ているでしょうか。そこはもう、未来社会のただ中といっていいでしょう。群馬県高山村に今月末、利用者が直接目で観察出来る世界最大級の望遠鏡が完成するとのことですが、4年後の出来事を一瞬だけ「望遠」出来るマシンがあったら、何が見えるでしょうか。覗いて見れば、驚きの連続でしょう。2003年の都知事選は。「 えっ、まさかの結果…!」 日本の総理は。「ええっ! この人が?」 日本の社会の、あまりの変わり様。「信じられない。こんなになっているとは!!」 アメリカは。「ウッソー! アメリカがこんなことに」 これからの4年間は、大変革の時期であることは覚悟していたものの、これほどの変貌に見舞われようとは、誰が予測し得たでしょうか。「時間望遠鏡」で見たことは、決してだれにも言ってはいけませんよ。(4月24日)

 <テレ朝の菅沼キャスターを降板させた元愛人の神経を疑う>
 テレ朝ニュースステーションの菅沼栄一郎さんが、週刊誌に女性問題が発覚して降板。朝日の編集委員にしては珍しく歯切れ良く威勢のいいコメントで、視聴者は溜飲を下げる思いだったのに、残念な事態です。それにしても、こういう男女の関係を週刊誌に告白する女性というのは、いったいどういう神経なのでしょうか。ルインスキーさんにしても、こんどの秘書嬢にしても、自らの告白によって、かつて愛人関係にあった男性が致命的な窮地に立たされることは百も承知のはず。自分を置き去りにして男だけがどんどん有名になっていくことへの嫉妬や復讐でしょうか。それとも、これをきっかけに自分も一気に名前を売りたいのでしょうか。かつて高部知子のニャンニャン写真を暴露したボーイフレンドは、「男の風上にも置けない」と囂々たる非難を浴びて結局自殺してしまいました。これと同じく、男女の秘め事をメディアに平気で暴露してしまう女は、やはり「女の風上にも置けない」という感じがします。菅沼さんの不倫が良いとかどうとかという問題ではなく、こういうのはルール違反だと思うのです。暴露する側は、鬱憤晴らしが出来てスカッとするのかも知れませんが、はっきり言って 汚いじゃないですか。伊丹十三監督の場合もそうでしたが、マスコミに載ってしまったが最後、暴露された側は防御のしようがないのです。しばらくの間は、菅沼さんの元愛人はテレビや週刊誌で引っ張りだこになるでしょうが、そんな生き方に空しく、寒々しいものを感じます。菅沼さんとしても、まさかの展開だったのでしょうが、ニュースステーションは、先のダイオキシン報道といい、ワキが甘いという印象を受けます。戦闘正面で戦う部隊には、ウィークポイントを抱えることは許されないのです。(4月21日)

 <縄文時代の起源が4500年古く1万6500年前になった衝撃>
 青森県の大平山元T遺跡で見つかった土器片の分析から、縄文時代の起源が従来の定説よりも4500年も古く、1万6500年前になる、というニュースは、単に考古学上の大発見にとどまらず、人類の歴史と将来を考える上で私達に大きな視点の転換を迫るものでしょう。一口に4500年前に溯るといいますが、この長さがどれだけのものであるかは、我々の20世紀がたかだか100年でしかないことを考えるとよく分かります。キリストが生まれてからでも、2000年しかたっていないのです。最後の氷河期が終わる1万1000年前より5500年も前に、世界の四大文明に先駆けて土器を作っていた縄文人たちに思いをはせると、なぜか懐かしい思いで胸がいっぱいになります。彼らにとって土器を作ることは、後の文明に向けての夜明けなどでは決してなく、決死の努力と苦闘でようやく切り開いた最先端のテクノロジーだったに違いありません。それまでの石器に代わり、土器を使って食物を煮炊きすることが可能となり、生活の仕方や社会のあり方を大きく変えることになりました。それは、蒸気機関の発明や電気の発明、コンピューターの発明などに匹敵する、飛躍的な文明の進歩で した。1万6500年前の青森で土器を作り上げた「彼」または「彼女」の、誇らしげな言葉が聞こえてきそうです。「土を使って、好きな形の固い容れ物が出来るんだ。もう石を割ったり削ったりする苦労はなくなる。私たちはこんないい時代に生きることが出来て幸せだ」。土器でグツグツ煮込んでいる今夜のごちそうは、何の料理でしょうか。(4月18日)

 <600年前に谷川岳に降った雨や雪を、現代人が飲めるとは>
 JR東日本が、上越新幹線の大清水トンネル工事によって谷川岳直下1000メートルの深さから汲み出し可能になった地下水を、だいぶ以前から「大清水」のブランドでミネラルウォーターとして販売しています。今日の新聞広告によると、その水というのがなんと600年前に谷川岳に降った雨や雪を含むということ。6つの地層によって濾過された水だそうで、あながち誇大広告ではなさそうですが、600年前に降った雨や雪を、現代の人々が飲むことが出来るというのは、ちょっとしたタイムショックです。はて、その雨や雪が降っていた時代は、何時代だったのだろうか、などと思わず日本史年表を開いてみたくなります。1399年、あった。ちょうど応永の乱があった年ですね。時代は室町時代で、足利義満がゆるぎない権力を確立した頃です。その2年前には京の都に金閣が造営されています。世阿弥が猿楽を能として発展させていったのもこの頃なのですね。谷川岳の真上、三国峠に雨雪が降り注ぐ中を、人々は何を思って峠越えをしたでしょうか。未来のことを、少しは考えることがあったでしょうか。どんな未来を思い描いたでしょうか。600年後の、この国。降りしきる雨雪を、 ずっとずっと後世の世に飲む人々がいるということを信じたでしょうか。こう考えていくと何だか悲しくなり、と同時に、今の今をバタバタともがきながら生きている私たちの時代も、所詮は歴史の一こまに過ぎないのだということに、妙な安堵感を覚えます。山々や大地は偉大です。天と地底をゆっくりと循環する水もまた、気が遠くなるほど偉大です。現代の日本に今年降った雨雪が、やはり600年後、西暦2600年ころの人々に地下水として飲まれる日がきっとくる。そう信じることで、少しは気持ちが落ち着くような気がしませんか。(4月15日)

 <石原慎太郎・新都知事は21世紀の東京をどうするのか>
 石原慎太郎氏の都知事当選は、強いリーダーを求める時代の閉塞状況が生んだもの、という分析が多いようです。このところ日本全体を覆うイライラ感の中で、日本人の意識は急速に保守化・右傾化していて、超タカ派で国粋主義者の石原氏にカリスマ的な強権を期待するムードがあるのかも知れません。すでにいろいろなところで論じられているように、東京都は2000年には財政再建団体へと転落することは避けられそうになく、都議会がオール野党となる中で、石原氏に出来ることは極めて限られています。石原氏は21世紀最初の都知事となるというのに、新世紀の東京についての石原氏のビジョンも不明のままです。石原新知事には期待することよりも危惧することの方が多いのですが、横田基地の返還を求めるくらいなら、まず「非核都市東京」を宣言し、核を搭載した米軍機や艦船が東京に立ち寄ることに断固として「ノー」を表明してほしいものです。そして環七の内側ゾーンは徹底的にマイカー規制をして、自動車の通行量を半分以下にすること。中止した原宿のホコ天を復活させること。新宿など繁華街のホコ天での大道芸やパフォーマンスを自由にすること。臨海副都心の開発は中止 して空間を緑地公園とすること。区市町村や民間に出来るだけ多くの事業を移譲・委託して、都政を身軽にすること。そして、これが最も重要ですが、2期目の出馬はせずに1期4年で知事の座を退く決意で臨むこと。ともかく、言動に注目してお手並み拝見といきましょう。(4月12日)

 <4月9日に受胎すれば2000年の元日に出産? どころか…>
 今日4月9日に受胎すると、2000年1月1日に出産する確率が数字の上からは最も高いのだそうです。欧米ではキリスト生誕2000年の元日にベビーを産みたいという気持ちがあってもおかしくありませんが、日本にはまさか、2000年が21世紀の始まりと勘違いしたまま、今夜ハッスルしようとウォーミングアップしているカップルはいないでしょうね。今日受胎するためには、この日が排卵日にあたることが大切です。それもクリアして、あとは仕込むだけ(!?)という新婚の奥様、せっかくの気分をそぐようで申し訳ありませんが、ちょっとだけヤボなことを言わせて下さい。運良く受胎に成功して、予定日が来年1月1日になったとします。時あたかも、コンピューター2000年問題で最も危険な日。多くの悲観論者の予測どおりに、年明けの瞬間から電気や水道などのライフラインが止まり、産院や産婦人科の医療機器も動かなくなって、どこも「出産には当分の間、対応できません」という張り紙を出してシャッターを閉めてしまったら…。そこへピッタリ予定通りにあなたの陣痛がはじまったら…。さあ、昔のように産婆さんを見つけるのも難しく、赤ちゃんを取り上げた経験の あるお年寄りも近所には皆無。アトランタ陥落の戦火の中で出産が始まったメラニーを思いだします。でも、今の日本ではスカーレットもレット・バトラーもいないのです。おろおろするばかりのダンナ様は何の役にも立ちません。「あの大混乱の中、近所の奥さんたちが総がかりで手伝ってくれて、ママは死ぬ思いであなたを産んだのよ」「ママには悪いけど、なんであと1年待ってくれなかったの? そしたら新世紀生まれの仲間入りが出来ていたのに」。2015年4月、前世紀生まれにとって、高校生活もまた憂鬱な3年間となりそうです。(4月9日)

 <パンを受け取ろうとバスの窓から出たコソボ難民の手に思う>
 映画「第三の男」のラスト近く、強烈な印象を受ける手のシーンを覚えていますか。地下水道で追われて行き場を失ったハリー・ライムが、地上の道路に通じる排水溝の蓋を開けようと手を入れるが、開かない。この時、地上にかろうじて出された指だけが、空をつかもうとしてもがく。この絶望的な指は、指だけしか映っていないことからよけい強烈です。コソボから追われたアルバニア系難民の様子を伝える1枚の写真に、このハリーの指を思い浮かべました。この写真は難民キャンプに到着したバスの窓からのびる2本の手と、2個のパンを渡そうとするもう1本の手が写っているだけのアップです。この手とパンが、バスの窓ガラスに映って、シンメトリーを形作り、実像と虚像が事態の絶望的な深刻さを示しています。このAPの写真は、こんどのユーゴ空爆とコソボ難民の拡大という事態を、何百行の記事よりも的確に伝えていて、最近の報道写真の白眉といっていいでしょう。バスの中に大勢の人がいるに違いないのですが、ガラス越しに悲しみの顔がかろうじて判別できるだけで(なんだかキリストのようにも、マリアのようにも見えます)、バスの全景も周囲の状況も分かりません。パンを 渡そうとしている人の顔も姿も分かりません。周囲を全てカットして、手とパンとガラス窓だけに絞り込んだことによって、この2本の手は40万難民の手になり、パンはいま必要とされているものの象徴となっています。パンを差し出す手が1本しかないことも、事態の重い意味を物語っています。援助とは「手を差し伸べること」なのだという原点の構図を、これほど強く示している写真はありません。(4月6日)

 <ナチスの爆撃に続いて炎上するベオグラード、21世紀は遠く…>
 ベオグラードが炎上しています。夜空に赤々と炎を上げているのは内務省のビルです。ベオグラード動物園では、空爆に備えてゾウやライオンが逃亡しないように殺害する準備を始めました。まるで歴史が58年前にタイムスリップしたような光景です。1941年4月4日とまさに同じ時期。ユーゴに反ファシズムのシモヴィッチ内閣が誕生したことへの報復として、ナチス・ドイツはベオグラードへの徹底的な爆撃を開始したのです。ユーゴ軍は壊滅し、ベオグラードは廃墟と化しました。この時もベオグラード動物園からライオンが逃げ出しています。ナチスに征服されたユーゴでは、後に首相となるチトーの率いるパルチザンが抵抗戦を始めています。こうした第二次世界大戦史の重いシーンが、20世紀も押し迫った1999年に、いままた繰り広げられているのは、人類の悪夢としかいいようがありません。なぜマスコミもインターネットも、この事態を収拾するために声を上げないのでしょうか。とくに日本のマスコミは、傍観者をよそおって知らん顔をしていますが、日本が火中の栗を拾う覚悟ででも、仲介役としてNATO軍の空爆と、ユーゴ政府のアルバニア系住民への圧迫をやめさせる ために動くべきです。今日の毎日新聞の夕刊は1面で「ユーゴは悪か? 圧倒的な米欧情報」という見出しで、一面的な情報に引きずられることへの警告を発しています。ほかの新聞も、もっと事態収拾に向けてきっぱりとした提言をすべきです。このまま泥沼の状態が長引けば、今世紀に人類が得たはずの貴重な教訓はすべて無に帰し、人類の歴史は20世紀のうちに終焉を迎えることでしょう。21世紀はあまりにも遠く、もしかしたらたどり着けないのかも知れません。(4月3日)

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1999年3月

 <サクラが選択した種族保存の道が、花の真っ盛りに散り急ぐこと>
 満開の桜の巨木を見上げて、ふと1本の桜の木にはどれほどの数の花が咲くのだろうかと、恐怖に近い畏敬の念にかられることがあります。新宿御苑などの大木が持つ花は、何万ではきかない、おそらく何十万の花をつけていると思われます。桜がこれほど多くの数の花を一度に咲かせる理由は何なのでしょうか。種子を結んで繁殖するためというには、桁外れに多すぎると言わざるを得ません。虫たちや小動物の活発な活動を助け、人間たちを喜ばせるため、という解釈も出来るかも知れません。だとすれば、開花からわずか10日間ほどで、花の盛りに一斉に散ってしまうのはなぜ、と問いたくなります。桜が多すぎる花を咲かせて、あわただしく散り急ぐのには、次のような桜の苦難の歴史があるものと僕は想像をめぐらせます。大昔の桜の先祖たちは、ほかの多くの種類の木々たちの間で、激しい生存競争にさらされていました。やさしすぎる花と小さな実をつける桜は、種として絶滅の危険にさらされていたのでしょう。もっとたくさんの花を咲かせたいという、種族保存への切実な希求が選択した方法は、葉が出るよりも早く一斉に花を咲かせることでした。これなら、すべての枝々を花だけで占 めることが出来ます。多くの虫たちを呼び寄せて受粉が済んだら、こんどは出来るだけ早く散って枝々を葉に譲り渡すのです。葉が出るのが遅れれば光合成が遅れ、幹や枝や根への栄養補給が遅れてしまうので、急がなければなりません。人間は「散り際が潔い」などと言いますが、桜にとっては花から葉への間髪を入れないバトンタッチは死活問題なのです。華やかな花吹雪が持つ、生きることの厳しさ。今年も桜の開花と散りどきは、人の心を揺さぶってやみません。(3月31日)

 <停滞する20世紀末、やがて訪れる大激動ですべてが一変する>
 このところ、どこを向いても気が滅入るようなニュースばかりで、世紀末の閉塞感はますます重くのしかかっています。あとになって振り返って見て、1999年はどんな年だったと総括されるのでしょうか。経済の停滞と政治の停滞。社会の停滞、地域の停滞。国際的にはアメリカを中心とするNATO軍によるユーゴへの空爆。冷戦終結による新しい世界秩序への期待もしぼみ、国連は完全に無力化。人類はテクノロジーだけが異常に肥大化し続ける中で、進歩の袋小路に入り込んでしまったかのようです。コンピューター2000年問題は、それ自体が極めて後ろ向きの問題であり、ツケの処理にすぎないため、いくら対策をほどこしても新しい希望にはつながりません。しかももはや手遅れの感があり、あとは「審判」を待つだけ、という諦観さえあります。社会が停滞している時には、文化も停滞する。20世紀末を代表する芸術や文化はいったい何があるでしょうか。いまは音楽にしても美術にしても文学にしても、18世紀や19世紀、せいぜい20世紀前半までの偉大な遺産を、繰り返し消費し続けているだけです。この後、人類はすべての国を巻き込んだ巨大な再編と統廃合の嵐に見舞われ 、全く予想もつかない新しい世界の姿が生まれていくような予感がします。直接的なきっかけは、2000年問題の混乱かも知れません。国際社会の骨組みも、国家や社会の姿も、地域や家族、そして文化・文明も、何年も続く大激動を経て、根本的な変革を経験するでしょう。日本という国が、いままでの形で存続するとは限りません。21世紀が明けて何年か経って新たな「現代」が始まった時、「20世紀」は歴史の中の1章へと移されることでしょう。(3月28日)

 <奇々怪々の日本海情勢、2隻の不審船の任務は何だったのか>
 あまりのタイミングの良さに、この2隻の不審船は日米のヤラセではないか、あるいは北朝鮮の不審船を想定した抜き打ち演習だったのではないか、などと疑う声があちこちから出ているほどです。小渕総理大臣の訪韓直後、そしてガイドラインの国会審議の最中に、これほど効果的な実演はありません。国内のタカ派は喜びのあまり涙を流さんばかりです。いったいこの2隻の不審船は何をしようとしていたのでしょうか。小学校の図工の時間でもあるまいし、「工作」などというものが、何らかの効果をあげる時代ではないはずです。日本の海保や自衛隊はなぜ、どちらの船をも停船させることが出来なかったのでしょうか。「捕まえてはならない船だった」として暗に、日本の了解(領海ではなくて)の下で起きた事態だったと推測するコメントも新聞に載っています。この奇々怪々の展開をどう見たらいいのでしょうか。日本があえて軍事的行動に出るように北朝鮮が挑発したのだとしたら、途中で追跡をやめたのは賢明だったと言えます。北朝鮮政府の関与しない、一部のハネ上がり分子による行動だった可能性もあります。北朝鮮の仕業に見せかけて、どこかのブローカーが仕組んだ事態だったの かも知れません。今後、日本では非武装中立の声はますますしぼんでいき、軍拡路線が大手を振ってまかり通っていくでしょう。戦後民主主義とは何だったのか、平和運動とは何だったのか。戦後日本の精神的バックボーンだった「平和と民主主義」はいま、20世紀の黄昏の中で風前のともしびです。(3月25日)

 <21世紀に実現するかもしれない人生200歳時代をどう生きる?>
 米国では遺伝子研究者たちの間で、人間の老化防止と寿命延長の研究がホットな議論を呼び、マスコミも「21世紀は人類200歳時代」と大々的に報じているということです。しかも、老年期を長引かせるのではなく、若年期や壮年期を長くすることが可能、と聞くと、思わず身を乗り出してしまいます。いいなあ、青年期から青春にかけての期間が100年間も続き、その後で80年間の壮年期が訪れる。最後の20年は、ほぼ現在と同じ老年期となって、200歳の寿命を全うして一生を終える。若年期が100年間続いたら、どんな生き方が出来るでしょうか。男も女も、若いままで何度も恋や結婚を繰り返すことが出来るでしょう。ゲーテのように80歳を超えて少女に恋をすることもあたりまえとなって、その恋が実を結ぶことも日常茶飯事となるでしょう。婚姻システムや家族制度も根本的に変わるでしょう。地球の人口爆発を抑えるためには、200年の間に何度恋をしても結婚をしても、一人の男が、そして一人の女が一生の間に作る子供は、2人が基本となるでしょう。いまのように、わずか30数年をサラリーマンとして働き通すだけで人生を終わるのではなくなって、研究者、芸術家 、政治家、スポーツ選手など、一生のうちにいろいろな生き方を堪能することが出来るでしょう。この長い寿命を使いこなすためには、途中で病死や事故死をしないことが絶対条件となるでしょう。戦争などは、もちろん論外です。社会システムの変革、とりわけ安全システムの確立が迫られるでしょう。この夢の長寿が実現するとしても、21世紀の最後のころでしょう。今生きている私たちにはもう手遅れなのですが、それでもなんだか希望がわいてくるような気がします。(3月22日)

 <移植された臓器は提供者の人生履歴を記憶しているか>
 昨日の毎日新聞にこんな投書が載ってしました。アメリカで臓器移植を受けた女性が、夢の中で臓器を提供してくれた青年に会ったというのです。うつくしい花が一面に咲く中で、青年は名前を名乗り彼女にキスをすると彼女の身体に吸い込まれるように消えた。彼女は回復後、最近亡くなった人の名前を調べて彼の名前を見つけ、両親に会いに行った。夢に現れた青年は、まぎれもなく交通事故で亡くなった息子であることが分かり、両親は驚くとともに涙した、というのです。投書の主は、自分はこうした話を信じる方ではないが、いまはテレビが報道したこの実話を信じたい気持ち、と結んでいます。信じるかどうかはともかくとして、僕は、提供された臓器はなんらかの形で、提供者の人生の経歴というか、生体としての履歴のようなものを記憶しているのではないか、という気がしてなりません。記憶は脳に専属し、ほかの臓器は一切の記憶と無関係だ、という議論は違うように思うのです。人間の身体は総体として1つの生命体として機能しているのであって、決してパーツの組み合わせではありません。身体のどの細胞にも、その人のDNAが一式ずつあるという驚くべき仕組みによって、切り 取られた臓器は依然として、提供者のDNAを持っていることになります。DNAは単なる遺伝情報の暗号にとどまらず、その人間のさまざまな体験や思い出を刻み続けている記録媒体の役目もあるのではないか、という気がします。女性の夢に現れた青年は、臓器のDNAに記録された提供者の人生の破片が生みだしたものであり、青年そのものだったのだ、と思うのです。(3月19日)

 <サマータイム導入に断固反対を打ち出した「週刊ポスト」を支持する>
 昨日発売された「週刊ポスト」が、「週刊ポスト」はサマータイム導入に断固反対する、という特集を組んでいます。こうした問題で、週刊誌が立場を鮮明にして、キャンペーン記事を掲載するのは、日本では異例のことです。この「ポスト」の記事はまず、サマータイム導入論者が最大のメリットとして掲げている、省エネと余暇需要の拡大について、省エネで期待される温室効果ガスの削減は0.6%でしかなく、それも余暇需要の拡大と真っ向から矛盾する、としています。確かに、省エネのためならば余暇需要の拡大は避けるべきだし、余暇需要の拡大による経済効果を狙うなら、微々たる省エネなど吹っ飛んでしまいます。このようにメリットがあいまいで矛盾していることに加え、デメリットたるや国民生活のあらゆる部分に影響してきます。日本のコンピューターサーバーやパソコンはサマータイム対応になっていないため、4月と10月の切り替え時期には、いちいち手動で時間を合わせ直す必要が生じます。さらに工場やオフィスから家庭まで、さまざまにセットされているタイマーもその都度セットし直さなければなりません。Y2Kと同様、奥深く組み込まれているチップなどは切り替 えようがありません。交通信号から大量輸送機関、列車ダイヤなど、どこかで切り替え漏れがあっただけで大事故に直結してしまいます。さらに西日本では4月や10月には、遠距離通学の児童や早朝出勤者らが、まだ真っ暗な中、家を出て通わなければなりません。「週刊ポスト」に続いてさまざまなメディアや企業、自治体、団体などが反対の立場を表明していくことを期待いたします。(3月16日)

 <周辺有事に巻き込まれて空襲される日本に、Y2Kが襲いかかる>
 東京に空襲警報が発令された夢を見ました。太平洋戦争の時と同じサイレンがうめくように鳴り続け、新宿方向から見る多摩地区の空が赤々と炎上しています。色彩も鮮やかなあまりにもリアルな夢に、目がさめてもしばらくは、現実と区別がつかなくて呆然としていました。国会で日米防衛協力の指針、いわゆるガイドライン法案の審議が始まったことが、無意識にあるのでしょうか。それとも10日が東京大空襲の記念日だったことからでしょうか。この夢は、なんだか今年後半から来年あたりにかけて起きることを、デフォルメした形で提示しているように思えてなりません。日本が当面の不景気脱出に目をとらわれているうちに、あれよあれよという間に近隣の有事がエスカレートして、予想もしない急展開で日本は戦時体制に引きずり込まれている。日本の米軍基地や自衛隊基地から次々と発進していく戦闘機。日本が後方支援を始めたとたんに、日本国内の主要基地への報復空爆が始まる。国内には非常事態宣言が発せられ、自治体にも民間にも、米軍を支援し国土を守ることが義務づけられる。戦争中止を求める市民運動はすべて徹底的に弾圧され、反戦運動のリーダーたちは続々と投獄される 。病院や医療施設は、負傷した米兵や非戦闘員でごったがえす。この戦時の混乱の最中に、コンピューター2000年問題が無数の箇所で同時多発して、破局に輪をかける。かくして日本は1945年を上回る焦土と疲弊の中で、21世紀の夜明けを迎える。今年後半、とくに9月からの日本社会のイメージがわいてこないのは、こうした危機が刻一刻近づいているせいなのでしょうか。(3月13日)

 <キューブリック監督死去の日は、2001年まであと666日だった>
 スタンリー・キューブリック監督の急逝は、言葉にならない悲しみと衝撃です。映画「2001年宇宙の旅」は、このホームページの出発点でした。あの映画がなければ、このホームページは決してあり得なかったでしょう。接近してくる2001年との遭遇を回避するかのように、キューブリック監督があわただしく姿を消したのは、なぜなのでしょうか。だれもが触れていないことですが、キューブリック監督が急逝した7日というのは、よくよく見るととんでもない日なのです。それは、21世紀の開幕2001年まで、あとちょうど「666日」の時点だったのです。666という数字は、知る人ぞ知る悪魔の数字です。僕はこうした数字の吉兆は信じない方ですが、キューブリック監督の死と2001年を結ぶ数字が666であることに、なにやら偶然を超えるものを感じてしまいます。こうした不思議な符号はともかくとして、キューブリック監督が姿を消した本当の理由は、タイム・パラドックスを回避するためだったのではないか、という気がしています。キューブリック監督自身が21世紀の化身であり、21世紀という近未来からの試験信号だったのではないでしょうか。タイムトラベラ ーは、同一の時刻に過去または未来の自分と、同時には存在出来ない。このタイムパラドックス回避の原則によって、現在のキューブリック監督は消えざるを得なかった。でも、私たちは21世紀のどこかでまた、キューブリック監督に会えるような気がします。キューブリック監督はいま、スターチャイルドとして生まれ変わろうとしているところなのでしょう。さようなら、キューブリック監督、また会いましょう…。(3月10日)

 <抗議殺到の「不要犬ポスト」が待ち受けるのは未来の私達>
 宮崎県が県内3カ所に設置している「不要犬ポスト」に対して、動物愛護団体などから抗議が殺到しているということです。ポストはコンクリート製で、フタを開けて犬を入れ、新たな飼い主が見つからなければ、犬管理所が処分する仕組み。この容赦のない施設に入れられる犬の姿が、未来の私達人間の姿とダブって見えてきます。「じゃあ、おじいちゃん、ここでお別れしましょうね」と家族に見送られ、手を振りながらポストに入って行くお年寄りたち。中には、車椅子から若夫婦によって抱えられて、ようやくポストにドサッと入れられるお年寄りもいます。ポストに入れられたお年寄りたちは、10日間だけ「夢のパラダイス」と名付けられた竜宮城のような部屋で、とびきりおいしい食事を提供され、その後は脳波に信号を送られて楽しい夢を見ながら陶酔状態のまま、全く苦痛のない状態で安楽死させられます。高齢化の波が限界を突破して、年金や医療費を社会全体で負担することが不可能となったため、超党派の議員提案による「高齢者安楽ポスト法」が成立したのです。ポスト入りを希望する人は、あらかじめ「ポストカード」に、自分が何歳以上になって、どのような状態になったらポ スト入りするのかを記入しておき、その上で家族の同意があって実行されます。このポストカードはコンビニやスーパーにも置いてあり、たいていのお年寄りがもらって行きます。お金持ちの老人はポスト入りではなく、遠い将来の蘇生と不老医療に期待して、コールド睡眠の道を選びます。ポストにするかコールドにするか、今日も大勢のお年寄りたちが、公園のベンチで日にあたりながら思案にふけっています。(3月7日)

 <「君が代」ではなく、みんなが歌えるこの歌を国歌に選ぼう>
 日の丸と君が代を国旗・国歌として法制化する動きが急展開です。日の丸については、ほかに適当な国旗も思いつかないし、デザインが世界に類がないほどシンプルで分かりやすいことなどから、国旗と決めてもまあいいか、というところでしょうか。しかし、君が代については、ちょっと待って、と言いたくなります。あの歌詞の分かりにくさと、古めかしさ、それにメロディーの覇気のなさは、なんとなく気が進みません。21世紀の日本の国歌としてどんな歌が最もふさわしいか、国民みんなで充分な議論をする必要があるでしょう。国民的合意を得るための最もいい方法は、みんながよく知っていて歌いやすい歌を国歌にすることです。有識者や作曲家、歌手などを含めた「国歌候補選抜委員会」を作って、10曲くらいに絞り、国政選挙の時に併せて国民投票を行うのです。候補として僕が一番に推したいのは、「♪♪ 兎追いしかの山、小鮒釣りしかの川… ♪♪」の文部省唱歌「故郷(ふるさと)」です。歌詞の2番は「♪♪ …山は青き故郷 水は清き故郷 ♪♪」と、日本が進むべき姿を端的に歌い上げています。オリンピックの表彰台でこれが流れたら、勇者も滝の如き涙を流すことでし ょう。滝廉太郎の「花」も国歌としてなかなか堂々とした美しさがあると思います。もっと勇ましい歌がよければ、文部省唱歌の「ふじの山」はどうでしょう。「♪♪ あたまを雲の上に出し 四方の山を見おろして… ♪♪」 うーん、これはアジアの国々から反発を招きそうですね。新しい歌なら、「時代」「翼をください」「TOMORROW」なども候補に入れておきましょう。こうして国民投票で決まった国歌なら、歌うも楽し聴くも楽し。卒業式で歌う、歌わない、の騒動もなくなることでしょう。(3月4日)
 追記:6日付け毎日新聞に「さくら さくら やよいの 空は…」の「さくら」の歌を国歌にしよう、という投書が載っていました。この歌も候補としていいですね。
 追追記:10日付け朝日新聞には、昨年の長野五輪閉会式で、会場の全員が歌った唱歌「故郷」のしみじみとした誇らしさにふれ、「故郷」を国歌にしては、と提案する投書が載っています。

 <「007 ロシアより愛をこめて」に出てくる老けた女スパイ役は>
 ショーン・コネリーが演じた007シリーズの中でも最高の作品は、テレンス・ヤング監督による2作目の「ロシアより愛をこめて」だと思います。ソ連なきいまとなっては、このロシアという響きが1963年の映画の中にあるということに深い感慨を覚えます。マット・モンローの歌うテーマ曲の切なくけだるい響きも、映画のテーマ曲としては「第三の男」とともに白眉でしょう。走るオリエント急行の車内での、ロバート・ショーとの映画史に残る対決。ボンド・ガールのダニエラ・ビアンキの美しさと純情。そして強く印象に残る脇役が、靴のつま先に鋭い毒針を仕込んでボンドの命を狙うKGBもどきの老けた女スパイです。この女スパイ役が、ロッテ・レーニャという伝説の大女優だとは、今朝の読売新聞の「私のヒーロー&ヒロイン」という記事で初めて知りました。なんとこのロッテ・レーニャは1900年のウィーン生まれといいますから、映画公開当時で63歳。ベルリンに出て女優となり、ユダヤ人の作曲家クルト・ワイルと結婚。劇作家ブレヒトの舞台に欠かせない女優でしたが、1935年、ナチスの迫害を逃れて夫とともにアメリカに亡命。その後は、アメリカで歌ったり舞台 に出たりしていた、というのです。「ロシアより愛をこめて」で、ボンドを最後の最後まで危機の崖っぷちに追いつめていく迫力は、こうした激動の生涯を背負っていて初めて出すことの出来る凄みなのですね。彼女の経歴で最も胸をうつのは、11歳で街娼にたっていた、という下りです。世紀が明けて間もないウィーンの街角に立つ幼い娼婦と、老けた女スパイ役の二重写しを通して、屈折した20世紀の姿が見えてくるような気がするのです。(3月1日)

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1999年2月

 <脳をコンピューターにコピーしておき、脳死患者と接続すれば>
 昨夜、多くの国民が固唾を飲む思いで見守った高知市での全国初の脳死判定。結果は、「脳死ではない」という判定となって、どことなくホッとしたような感じがあります。臓器移植法が施行されてからも、脳死ということについての実感がなかなつかめなかったのですが、今回は現実に判定の対象となる44歳の女性患者が出現したことによって、ニュースの解説も生々しい迫力を持ち、心臓が動いていて身体が暖かい状態のままで、臓器が摘出されていくということが分かりました。脳死と判定されたら、患者は「死んでいる」と判断されるわけですが、心臓はどの段階でどうやって停止させるのでしょうか。血液が全身を循環している途中で、その機能を強制的に終了させるというのは、考えてみれば大変なことです。21世紀には脳科学が飛躍的に発達して、2020年ごろには人間の脳の全ての内容を、コンピューターにダウンロードしてコピーすることが可能になると言われます。自分の脳をコピーしておいた人が脳死状態になり、脳死となった脳に代わってコピーの脳を身体に接続したら、どうなるでしょうか。完璧なコピーであれば、再び自力呼吸が復活し、意識や記憶、感情が蘇るのではな いでしょうか。コンピューターと接続したまま、話すことも可能になるでしょう。そうなれば脳死は人の死どころではなくなってしまいます。臓器移植を待ち続ける多くの患者たちのためにも、脳死による臓器移植だけではなく、心停止後の患者からの移植を効果的に行う方法や、人工臓器の開発を積極的に進めてほしいものです。(2月26日)

 <宵の空に2つの魂寄り添うごとく、金星と木星が超接近>
 昨日と今日、宵の西空をご覧になりましたか。互いにひかれ合う2つの魂が寄り添うように、2つの明るい星がぴったりと並んで輝いています。なんとなく、ああ、世紀末なんだなあ、という情感たっぷりのシュールな光景は、強く印象に残ります。明るい方が金星でマイナス4等、もうひとつは木星でマイナス2等。最も接近するのは今夜で、角度にして満月の見かけの大きさの15分の1にまで接近しています。ひとつを自分に見立て、もうひとつを逢いたくても逢えない愛しい人に見立てて、狂おしい気持ちをかき立てられている人も多いのではないでしょうか。亡くなった親や我が子。永遠に結ばれることのない片想いの相手。いつか自分の前に現れるはずの、まだ見ぬ王子さまや王女さま。そういえば、この2つ仲良く並ぶ星を見ていると、「月の砂漠」の童謡が聞こえてくるような気がします。♪♪ 金の鞍には 王子さま 銀の鞍には 王女さま 二つ並んで ゆきました ♪♪ この次に金星と木星がこれほど接近するのは、2016年になるということです。あと17年は見られない光景なのですね。そのころ、僕やあなたはどうしていることでしょうか。事故や病気に遭わずに生き延びた としても、おじいさん、おばあさんになっている頃ですね。そう思って見ると、今宵並ぶ2つの星は、一期一会の光景なのかも知れません。あなたにとっての寄り添う星に、ありったけの思いを込めて、また逢う日まで……。(2月23日)

 <「切りたくもあり 切りたくもなし」に続ける上の句、現代版>
 向井千秋さんが宇宙から呼びかけた「宙がえり 何度も出来る 無重力」の下の句に14万首を超える応募があったことは文化的事件でしたが、今日の日経新聞文化面で、日本文学者の中西進さんが面白い話を書いています。200年ほど前に柄井川柳という俳諧師が、「切りたくもあり 切りたくもなし」という下の句を出して、向井さんとは逆に、これに続ける上の句を全国から募集した、というのです。応募作の中に「盗人を とらえてみれば わが子なり」というのがあり、これが大いにうけて川柳という独特の形式となった、ということです。この下の句に対する現代版・上の句をつくってみました。
 ケータイで 愛のささやき 長電話 切りたくもあり 切りたくもなし
 初挑戦 手作りケーキ 出来上がり 切りたくもあり 切りたくもなし
 リストラで 路頭に迷う 社員たち 切りたくもあり 切りたくもなし
 おのこから おなごに変わる 性転換 切りたくもあり 切りたくもなし
 危篤なる 王の生命 維持装置 切りたくもあり 切りたくもなし
 腹開き よくよく見れば 別人ぞ 切りたくもあり 切りたくもなし(2月21日)


 <講演は生演劇に近い直接的なメディアだ−講師初体験記>
 聴衆の前で講師として話をするという体験は、これまで全くなかったわけではありませんが、その日の講演会を自分一人で完全に任せられるというのは、初めての体験でした。昨日、長岡商工会議所が主催した「21世紀からのメッセージセミナー」第1回目。この日の講師は僕だけで、話すテーマは「21世紀の社会はどう変わる? 期待と不安の中で2001年をどう迎えたらいいのか。時代の転換点で私たちは何をしたらいいのか」。このような超難題ともいえる内容を、1時間半でどう説明するか。そもそも、電子メディアの時代における「講演」はメディアとしてどのような役割を期待されているのか。案じればキリがありませんが、ともあれ備えあれば憂いなしというわけで、話す内容をメモ書きした資料などをたくさん用意し、ぶっつけ本番で壇上に上がりました。大勢の人々に向かって話すというのは、非日常の体験です。話し始めてしばらくして、当初考えていた順序で話を進めることは不可能ということが分かり、講演とはアドリブなのだ、と悟りました。アドリブでいいのだと思うと、不思議なもので、スラスラと饒舌に言葉が口から出てきます。聴衆の表情やメモを取る様子、会場全 体の空気などを感じながら、予定になかったことを話したり、口調を変えたり手振りを加えたり。話す内容も、何から何まで整合性を取って盛り込むよりは、ポイントを絞ってメリハリを効かせたほうがいいということも、話しているうちに分かってきました。講演とは、「講師」という役を演じる生の演劇のようなものなのですね。聴衆は話の中身だけでなく、「講師」の演技から受けるある種の全人格的メッセージ、非日常的な生の身体が伝えるハレの情報体験を期待しているのだ、と感じました。その意味で「講演」とは最も生々しく、最も直接的なメディアなのですね。(2月17日)

 <ハート型総菜で勝負? 日曜バレンタインの悲喜こもごも>
 今日は日曜日のバレンタインデーとあって、内心ホッとしている女性の皆さんは多いのではないでしょうか。それよりさらにホッとしているのは、例年なら朝から素知らぬ顔をつくろって緊張しっ放しの男性諸兄でしょう。期待し続けて結局はみじめな目に遭うくらいなら、いっそ毎年バレンタインデーを第2日曜と決めてほしい、なんて声も聞こえてきそうです。チョコ業界にとっては逆に、2月14日が土曜または日曜となった場合はバレンタインデーを金曜または月曜に移してほしいところでしょう。デパートの中には、義理チョコに見切りをつけ、ターゲットを家庭に切り替えたところも少なくないようです。食品売り場には、ハート型のコロッケやオードブルなどが「バレンタイン用総菜」として並び、一家団らんの食卓に売り込もうと懸命です。さらに朗報というか悲報というか、今年は3月14日のホワイトデーもまた日曜日なのですね。2月がうるう年でない場合、2月と3月は日付の曜日がそっくり一致。チョコ業界は踏んだり蹴ったりです。こんどは「ホワイトデー用総菜」でしょうか。まあ健全ではありますが、バレンタインデーやホワイトデーが秘める冒険やリスク、傷つくことを覚 悟の夢などがなくなって、なんとなく気の抜けたシャンパンみたい。そのうち日曜であるなしに関わらず、「バレンタインやホワイトデーはご家庭で」が定着して、ハート型のローストチキンや、ハート型の牛肉などが登場するかも。もっともここまでくればハート型である理由もないわけで、刺身でも寿司でも豚カツでも生鮮野菜でも、大安売りをして景気浮揚に貢献してもらいましょうか。(2月14日)

 <ハッピーエンドと悲劇的結末と、2通りのラストがある物語>
 チャイコフスキーの不朽のバレエ音楽「白鳥の湖」。このバレエは演出家によってラストの展開が全く異なるのですね。悪魔ロットバルトによって昼間は白鳥に姿を変えられ、夜だけ人間の姿になる王女オデット。王女と恋に陥る王子ジークフリートは、お后選びの場で悪魔の娘オディールを選ぶ。悲嘆に暮れる王女オデットと、悪魔の策略に気付いて苦しむ王子。ここまでは、おなじみの物語ですが、そのラストは、2人の愛の力で悪魔に打ち勝ち、めでたく結ばれる結末と、2人は結ばれるためにともに死ぬという結末と、2通りに別れます。どちらのラストがいいかは、それぞれですが、ぼくはどちらの結末にしても、悪魔の娘のオディールがなんだかかわいそうに思えてくるのです。父親は悪魔だとしても、オディールは何も悪いことをしたわけではありません。お后に選ばれて喜んでいるオディールはどうなってしまうのでしょうか。もっとも、オデットとオディールはプリマが1人2役で踊るのが通例ですし、妖艶なオディールは清純なオデットの内なる分身という解釈もありますから、ま、いいか。こんなことを思い浮かべたのは、手塚治虫さんの大人向け長編マンガ「人間ども集まれ!」の完 全版がこのたび実業之日本社から発売され、従来単行本として出ていたラストとは全く異なる週刊誌連載当時のラストが、同時に収録されていて、ドギモを抜かれたことによります。単行本の結末は悲劇の途中で不条理な余韻を残して終わっていますが、週刊誌連載バージョンはハッピーエンド。マンガとはいえ正反対の「歴史」があったとは衝撃です。人生にも、実は2通りの結末が用意されていて、私たちはそれに気付かないまま、ラストに向かっているのかも知れませんね。(2月11日)

 <手塚治虫さんが亡くなって10周年、その未来観と終末観>
 昭和の後を追うように手塚治虫さんが急逝してから、9日で10周年になります。生前の手塚さんに、高田馬場の仕事場で一度だけお会いする機会がありました。1時間あまり、貴重なお時間をさいていただいて、全集発行の構想などのお話を伺った後、僕は持参してきた復刻版の手塚マンガを3冊取り出し、サインをお願いしました。いまから考えると、なんとあつかましいことを、と汗顔の至りですが、手塚さんはイヤな顔ひとつすることなく、3冊それぞれにサインをして、さらにヒゲオヤジ、ヒョウタンツギ、レオの絵をスラスラと書き込んでくれました。サインだけでも嬉しいのに、キャラクターを3つも書いてくれた手塚さんの優しさに、胸が熱くなり天にも昇る気持ちでした。この3冊は僕の「家宝」となっています。もうひとつ、手塚さんとの関係では数奇な体験があります。92年2月、筒井康隆氏の朝日新聞連載小説「朝のガスパール」の中に僕が4日連続して小説内登場をした時、僕の実名のすぐ後で「手塚治虫のファンだというこの男」と書かれたことです。この小説は第13回日本SF大賞を受賞し、単行本にも文庫本にもなっていますが、僕が手塚さんのファンであることを記し たこの下りは、小説の中に永遠に残っていくのです。僕は手塚マンガの最大のキーワードは、終末観に裏打ちされた未来観だと思っています。手塚マンガに多いラストは、主人公の死によって破局寸前の人類や世界がかろうじて救われるケースです。手塚さんは亡くなったのではなく、未来のどこかにワープしていて、これかに起こる人類の滅亡と再生のドラマを見守っているのだと思います。(2月8日)

 <人類史上最高の発明・発見は何かをめぐってネットで論争中>
 人類史上最高の発明・発見は何か、をめぐって、ノーベル賞受賞者ら100人以上がインターネットの会議室「エッジ」で論争中です。「言語」「民主主義」「地動説」「宗教」「数学」「ゼロの発見」「科学」「通貨」「教育」「相対性理論」「印刷技術」「時計」「望遠鏡」「コンピューター」「人間の自我」「懐疑主義」など、さまざまな見解が出されていて、なかなか面白い。もともと一つに絞ることが不可能なことを承知で意見を戦わせているところがミソで、なかには意表を突く見解も続々と。たとえば「鏡」「消しゴム」「避妊用ピル」「老眼鏡」「馬の引き具」「干し草」「麻酔」「交響楽団」なども、ちゃんとそれなりの「史上最高」とする理由が挙げられています。「モーツァルト」という見解もありますが、モーツァルトって発明なのでしょうかねえ。ピルを挙げるならバイアグラだ、という意見も出てきそうですね。さて、あなたなら、人類史上最高の発明として何を挙げますか。僕もいろいろ考えてみました。うーん、これは難しいぞ。「宇宙」あるいは「この世界」の発見はどうでしょう。いや「時間」の概念の発見かな。「虚構」や「物語 性」あるいは「バーチャル」はどうでしょう。人間だけが持つもので、すべての進歩の原動力ということで。それに似ているけど「夢」はどうでしょう。だったら「希望」もいいかも。キザっぽくなりますが「愛」はどうでしょう。では「思考」や「志向」は? もっともこれらは「発明」というよりは、人間存在にもともと備わっているか、長い進化の過程で獲得してきたものかも知れませんね。僕が思うに、人類の究極の発見は、「人間」がこの世に存在することの不思議さの発見であり、人間の「存在理由」が誰にも分かっていないことの発見ではないでしょうか。(2月5日)

 <映画「のど自慢」の出演者はそれぞれが今の日本人の分身>
 井筒和幸監督の映画「のど自慢」を観てきました。うまい、面白い、鮮やか。舞台は日本の典型的な地方都市の桐生。そこにやってくる「のど自慢」。その日に向けてさまざまな人生が交錯していく。売れない演歌歌手の室井滋、職を失って焼き鳥に人生を賭ける熟年の大友康平、不器用な女子高生の伊藤歩、がんこ老人の北村和夫。この映画は、新しい時代を前に価値観が大きく変わりつつある時、人間にとって何が本当に大切なのかを考えされてくれます。それは、出世や権力でもなく、ましてや巨万の富でもありません。お金のかからないささやかな祝祭の場で、一生懸命に自分を表現し、自分が生きていることを確かめる。鐘が1つしか鳴らない人、2つ鳴る人、合格の鐘に躍り上がる人。この姿はまさしく私たちの姿そのもの。人生の鐘は思いのままにはなりません。合格の鐘が鳴るのは、運や巡り合わせとツキ、そしてそれなりの努力と、わずかながらの実力でしょう。合格の鐘が鳴る喜びもいいものですが、たとえダメでもそこに至る過程こそが意味あるものなのですね。「のど自慢」のステージで歌う出演者たちは、それぞれが今の日本人の分身なのです。そして「のど自慢」で歌われる「歌 」とは、新しい時代の生きがい、新しい価値の象徴なのだと思いました。「失われた10年」などと言われる90年代の終幕でも、庶民のしたたかな活力とパワーは、しっかりと健全です。笑って、泣けて、見終わって元気がわいてくる秀作で、世代を問わずオススメの映画です。(2月2日)

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1999年1月

 <2000年開幕の焦点はイベントよりもコンピューター誤作動>
 3…2…1…0。今年の大晦日の深夜、ニューヨークのタイムズスクエアやジャビッツ・コンベンション・センターでのカウントダウンの熱気を、全世界に伝えるテレビ生中継。それが2000年1月1日午前0時になった瞬間、群衆の歓呼や紙吹雪の中で一転、すべてのライトや電飾が消えて真っ暗闇に。テレビ生中継も次々とダウンして、大イベントは大パニックの始まりに。という心配は、杞憂でしょうか。このところ、新聞やテレビで伝えられる2000年という文字は、2000年代開幕のイベントの話よりも、コンピューター2000年問題の方に圧倒的な比重が置かれ始めています。どうやら今年の年末から来年にかけて、世界を待ち受けているものの全貌が見えてきた、という感じです。今日の夕刊各紙や夜のNHKニュースは、米国務省がこの問題で異例の「公告」を出し、今年末から来年始めにかけて海外旅行や海外滞在を予定している米国民に注意を呼びかけたことを大きく伝えています。国務省はとくに、輸送機関の混乱、クレジットカードや現金自動受払機などの誤作動、停電や断水などが旅行者に影響を与える可能性を指摘しています。また一昨日の報道によると、2000年問 題に無警戒な途上国は44カ国にものぼり、先進国への飛び火が懸念されています。日本でも自動車や食品など25業種で対応が遅れているという政府の調査報告があります。いずれにしても、いまや2000年への関心は、世界各国でコンピューターがどう作動し、どの分野でどんな混乱や被害が出るのかに絞られています。2000年問題は、20世紀が後回しにしてきた巨大なツケであり、人類が21世紀へ向かうために避けて通れない最難関の関所なのですね。(1月30日)

 <講談社のソックリさんでは悲しい朝日新聞の「週刊20世紀」>
 朝日新聞社創刊120周年記念出版と銘打った「週刊20世紀」の創刊号「1945年」が今日発売されました。講談社が2年前からシリーズで出している「日録20世紀」の「1945年」と比べてみましたが、堂々たる「二番煎じ」とはこのことを言うのでしょうか。まず表紙を開く。フロントページの写真は、どちらも昭和天皇とマッカーサーの初会見の記念写真。マッカーサーのポーズは両手を腰につけた勝利者のポーズですが、よく見ると昭和天皇のポーズが両者でわずかに異なっています。講談社の方では、天皇は左足をやや前に出した「休め」のポーズですが、朝日の方は「気を付け」のポーズになっています。写真の説明では、講談社が『写真を掲載した九月二九日の新聞を、時の山崎内相は不敬だとして発売禁止にする。ところが、GHQはただちにこの決定を撤回させた』。朝日は『写真を掲載した29日付の新聞各紙を内閣情報局が「不敬」として発売禁止とするが、GHQにより即日撤回させられる』。講談社の「人物クローズアップ」も朝日の「ひと」も、ともに「リンゴの唄」の並木路子なのは仕方ないとしても、原爆投下後の写真として、長崎で被爆して乳児に乳房をふくませ る母親の全く同じ写真を、講談社も朝日も使っているとは…。講談社のソックリさんになるのではなく、もっと独自のスタイルを創造してもよかったのではないでしょうか。両者が異なるところでは、1年の365日すべての日誌を収録している講談社に対し、朝日の日誌は主要なものだけ。メリハリが効いていて、おしゃれなのは講談社の方。というわけで「1945年」に見る限り、講談社の余裕勝ち、朝日の息切れ負けといったところでしょうか。(1月28日)

 <宇宙開発事業団から届いた夢いっぱいのメール便>
 NASDA(宇宙開発事業団)から、クロネコヤマトのメール便で大きな封筒が僕あてに送られてきました。はて、宇宙飛行士の応募申し込み書類だろうか、いやそんなわけないな、などとワクワクしながら開封してみると、なんと「宙がえり何度もできる無重力」に続く下の句を応募したことへの向井さんからの感謝のメッセージではありませんか。さらに、入選作100首を紹介する「宇宙短歌集」、「仕事場は宇宙」という向井さんのキャッチフレーズをもとにデザインしたミッションステッカー、向井さんの写真と和英両文で書かれた経歴のシート、さらに日本が2001年に打ち上げて、建設中の国際宇宙ステーションの実験施設となる「JEM」の愛称募集要項など、いろんなものがはいっています。NASDAもなかなかやりますねえ。僕は4、5首を即興で詠んでNASDAのホームページからオンラインで投稿しただけなのですが、こんなに夢いっぱいの贈り物をもらえるなんて。計14万首を応募した小中学生や一般の投稿者たちも、この夢のメール便を受け取っていまごろは全国津々浦々で歓声がわき上がっていることでしょう。送られてきた「宇宙短歌集」を読んでみると、無重力か らニュートンに思いをはせたものが3首あり、天女を詠みこんだものも3首。「まがらぬ足持つ我にも望みわく」(堺市・阿部恵子さん)など身体の不自由な人たちからの歌や、「地中の地雷も浮いたらいいな」(町田市・奥山久江さん)のように地上の平和を願う歌も目立ちます。宇宙と短歌を見事に結びつけ、史上最大の歌会を成功させたのは、向井さんの柔軟で新鮮な感性によるところが大きいのですが、これを皮切りにして、絵画や詩などさまざまな分野で新しい宇宙文化が芽吹いていくことを期待したいと思います。(1月25日)

 <「はしっこ」ほど味があっておいしい、食べ物も人間も>
 今日の朝日新聞夕刊芸能面のオフステージというコラムに、女優の高田聖子さんが「“はしっこ”ほどおいしい」という話を書いています。みんなが、食べ物のおいしいところは真ん中だと思って取り分けてくれるのですが、高田さんは大のはしっこ好きで、スイカや海苔巻き、ソーセージ、ようかんなど、とにかくはしっこはおいしい、と言うのです。はしっこがおいしい、というのは、真のグルメがみな心密かに思っていることなのですね。僕も実は、はしっこ大好き人間で、カステラなど四角いお菓子のはしっこは、甘くて固くて身震いするような醍醐味があります。さらにおいしいはしっこは、丸ごと固まりの状態で焼かれたローストビーフです。ホテルなどでは、ローストビーフを切り分けてくれる時に、わざわざはしっこを取り除いて、真ん中に近いところを切ってくれるのですが、僕はいつも、「あっ、そのはしっこでいいです。はしっこ下さい」と蚊の鳴くような声でささやくのです。すると相手は「うぬ、おぬし、ただものではないな」という目つきで相づちを返し、片づけようとしたはしっこをたっぷりと皿に盛ってくれます。はしっこは固さと軟らかさの境目で、微妙な焼き加減の苦心 が凝縮されています。歯ごたえといい、やや塩の効いた味加減といい、こんなおいしいところはありません。はしっこは何のためにあるのでしょうか。真ん中を支え、保護するため? というよりも、はしっこがあるからこそ真ん中が存在するのですね。そう考えると、人間でも同じです。いつもおいしいところにいる真ん中人間がいるのは、はしっこ人間がいるからなのです。はしっこ人間も食べ物と同じです。はしっこにいて目立ちませんが、その実、最も味わいが凝縮された、ただものではない人たちなのです。(1月22日)

 <がむしゃらな成長と発展志向に決別し、新たな価値観を>
 20世紀までの人類の歴史は、ひたすら成長と発展をめざして走り続け、競い合ってきた歴史でした。発展に勝ったものが、発展から取り残されたものを制覇し、配下に収めてまたひた走る。他よりも多く、早く、強く。この競争の行き着くところが、侵略であり、戦争となったのは当然でしょう。社会主義の実験も、まずは資本主義より優れた生産力を生み出す国家体制を目指し、そのため本来は人間解放のシステムとなるはずが、人間性を極限まで押し殺した戦時システムとして社会の隅々までを縛り続け、結局はまだ実験段階の域を出ないままで崩壊してしまいました。21世紀に向けていま、こうしたパラダイムを根本的に見直さなければならない時期に来ているのではないでしょうか。日本を含めた先進国がまず考える必要があるのは、経済成長は必要かどうかです。ゼロ成長でどこが悪いのでしょうか。いや、それどころかマイナス成長だって構わないではありませんか。第一、先進国は少子化が続いて人口もやがて減少に転じます。それならなおのこと、プラス成長という目標は不必要です。一人一人が最低限の衣食住を営みつつ、生きがいを見いだせる平和で安定した社会。それを実現するこ とのほうがはるかに重要です。バブル期のような分不相応の贅沢はやめましょう。ブランド品などなくたって生きていけます。経済的価値の主役は、すでにモノから情報へと移りつつあります。学歴社会もほどなく瓦解するでしょう。必要なのは、学歴や学力ではなく、「智力」となっていくでしょう。すべてを巻き込んだ怒濤のような変革の嵐が、あらゆる社会を襲っていくでしょう。すべての価値観が問われる時代が、もう始まりつつあります。(1月19日)

 <時よ止まるな、止まることがないからこそお前は美しい>
 昨夜、NHK総合テレビで、10年前に逝去した手塚治虫が生涯に3回挑んだ「ファウスト」について取り上げ、手塚がファウストによって残そうとしたメッセージは何か、を特集していました。この番組を見て、「時よ止まれ、お前は美しい」という、あのあまりにも有名な悪魔との契約の言葉について、考えてしまいました。悪魔の力を借りて若返ったファウストが、「時よ止まれ」というほどの至高の満足感を得る状態というのは、現代においては、どんな状態を意味するのでしょうか。このまま永遠に時が止まってくれたら、と願う心の状態とは、恋の成就の瞬間、それも心と体の双方が満ち足りた快楽の時でしょうか。それとも世界の真理をすべて解読し、理解しつくした瞬間でしょうか。僕がファウストの立場だったら、そのいずれの場合でも、時が止まることの無意味さ、空しさを思って、むしろ恐れおののくと思うのです。美しい時が止まったら、そこで満足するかというと、否でしょう。止まった時の美しさに慣れてしまって、一時の感動もしぼみ、もっと美しい時があるはずだった、と悔やむかも知れません。時が止まってほしいほどに美しいならば、その一瞬のかけがえのなさと、ほど なく訪れる凡庸な時たちの繰り返しを甘受するほうが、日本人には合っているのかも知れません。こう考えていくと、時は決して止まらないからこそ美しいのではないでしょうか。時は誰に対してもどんな状況でも流れ続けていくからこそ、未来を生み、希望を生みます。「時」は偉大な解決者でもあります。もしかして時こそが「神」なのではないだろうか、と思ったりします。おっ、いまメフィストが一瞬ギクリとした様子で尻尾を隠しましたね。(1月16日)

 <この1000年間で最も偉大な日本人は誰でしょうか?>
 英BBC放送が過去1000年間を代表するイギリス人をリスナーの投票で選んだところ、1位がウィリアム・シェークスピア、2位がウィンストン・チャーチル、3位がウィリアム・カクストン(この人だあれ?)、4位がチャールズ・ダーウィン、5位がアイザック・ニュートン、6位がオリバー・クロムウェルの順だったそうです。この結果に対してダーウィンやニュートンはもっと上位であるべきだという批判や、国王が入ってないことに対する不満など、かんかんがくがくの反響とのこと。こうした話を読むにつけ、イギリスという国はそうそうたる偉人を輩出してきたのだなあという思いを新たにします。ほかの国で同じ調査をすれば、やはり傑出した偉人たちの名が連なることでしょう。ドイツならばゲーテやベートーベン、フランスならばユゴーやナポレオン、ジャンヌ・ダルク。アメリカではジョージ・ワシントンやリンカーンなどが上位に入りそうですね。ところで、日本の過去1000年を代表する人物を選ぶとすれば、だれになるでしょうか。国内で偉大だっただけでなく、その後の世界に対しても大きな影響を及ぼしたことが選出基準です。となると、これが難しいのですねえ 。聖徳太子、福沢諭吉、板垣退助…彼らはお札の絵柄にはなっているけど、世界に向けてアピールするには今一つ弱い。紫式部、弁慶、義経、大石内蔵助らはどうでしょうか。日本人には絶大な人気があっても、これらの人を全く知らない外国人も多いでしょう。豊臣秀吉や千利休もしかり。こうして見てみると日本は島国である上に、長い鎖国で海外との交流が乏しく、世界に誇れる偉人の名をを挙げるのに四苦八苦します。結局、日本は共同体の国であり、ムラ社会の国なのだなあ、という気がします。100歩進む一人を出すよりは、みんなが一緒に1歩ずつ進む。それが日本の美徳でもあり、世界に通用しない狭さなのかも知れませんね。(1月13日)

<ポパイとオリーブは永遠に結ばれない恋人同士のままがいい>

 ポパイがオリーブとの70年越しの恋を実らせて結婚するというので、どの新聞も大々的に報じています。漫画の世界のこととはいえ、この結婚には「なぜ今頃になって?」と首をかしげたくなります。スーパーマンやスパイダーマンなど、米国漫画界のヒーローたちがここ2年ほどの間に次々と結婚しているとのことですが、本当に彼らの意志で結婚したのだろうか、と疑問です。そもそもヒーローとは、結婚をしないからこそヒーローであり続けるのであって、結婚してチマチマとした家庭生活を営んでいるヒーローなんて、夢もぶちこわしではありませんか。ヒーローとヒロインの恋の行方が永遠にハラハラした状態で続いていくことこそ、ボクたち大衆が最も満足するところなのです。とりわけポパイの場合は、幼いころ父親と生き別れた孤児で、<I am what I am and that’s all that I am.>(俺は俺で、だから俺なんだ)という独立独行、唯我独尊のポパイ哲学の持ち主です。だれに何と言われようと我が道を進み、細くて折れそうなオリーブを守るため、恋敵ブルートと戦い続けるところにこそ醍醐味があるのです。ポパイの結婚式には、生き別れた父親が現れるのでしょうか。これじゃ「男はつらいよ」の博の結婚式ですね。いっそ、嫉妬に怒り狂ったブルートが結婚式場に乱入して、オリーブをさらって行ったらどうでしょうか。「ポパ〜イ! 助けてえ〜」というオリーブのかん高い叫びで、物語は新たな展開となり、こうしてポパイとオリーブの恋は実を結ぶことなく、永遠に続いていくのです。(1月10日)

 <「生身の人間関係」でないから悪を生むと説くオジサンたちへ>
 インターネットによる青酸カリ宅配事件に続き、こんどは伝言ダイヤルを仲介した変死体事件。マスコミはここぞとばかりに、ハイテクメディアやバーチャル空間の危険性を煽り立て、「生身の人間関係が希薄なことが問題」とか「顔の見えない匿名性が悪の温床となっている」などとやり玉に挙げています。ハイテクを敵視しているオヤジ記者たちが鬼の首を取ったように溜飲を下げている様子が目に浮かびます。しかし、犯罪に電話が使われているからといって電話が問題だという議論は聞いたことがありません。また、犯罪に自動車が使われたからといって、自動車の存在が危険だという議論も出ていません。インターネットにしても伝言ダイヤルにしても、どう使われるかは社会をそっくり反映しているのであって、あらゆる種類の犯罪や破廉恥行為がすべて入ってくるのは、あたり前です。そもそも、ハイテクメディアが清潔で無謬で清く正しいなどということは、最初から誰も期待してはいません。いずれネットなどを介した銃や麻薬の取引、コギャル売春などが表面化するのは、時間の問題でしょう。もちろん、ネットや伝言ダイヤルのシステムやルールに問題があるならば、それを論議し、手 だてがあるものについては手を打つことも必要でしょう。しかしいま、「バーチャルだから悪を生む」といきり立っているオジサンたちに、聞きたいのです。あなたがたが大切さを力説する「生身の人間関係」こそ、これまでに数え切れないほどの殺人や殺戮、レイプや汚職を生みだしてきたのではないのですか。それどころか、さきの大戦やそれに伴う大虐殺さえ、「生身の人間関係」が生んできたのではありませんか。新たに手にした道具を利器とするか凶器とするかは、これからの私たちしだいなのです。(1月7日)

 <覚えていますか、昭和が終わった10年前の1月7日のことを>
 今年は1999年という西暦があまりにも世紀末ぴったりの数字並びのせいか、平成の元号がすっかりかすんでしまった感があります。どうもこの元号というのはやっかいで、西暦との変換がすぐに浮かんできません。昭和の場合は、25を足すと西暦になってとても覚えやすかったのですが、いまは平成に88を足すと西暦の下2桁になり、西暦2000年からは西暦の下2桁に12を足すと平成になるというややこしさです。年明けからマスコミは西暦の方に気を取られてほとんど触れていませんが、今年の1月7日は昭和が終わってちょうど10年になるのですね。10年前の今日あたりは、いよいよXデーか、というので、世の中は騒然としていました。連日のように昭和天皇の容態が発表され、吐血、下血、輸血の量が報じられていました。年賀状も「明けましておめでとう」や「賀正」「謹賀新年」はいつの間にか禁句となって、「迎春」ならいいだろうと、どの年賀状も「迎春」だらけでした。崩御は午前6時33分。かくして昭和64年は1月7日までとなり、翌日8日から「平成」がスタートしたのですね。元号が新しくなって、なんとなく「やれやれ」とホッとした気持ちと同時に、時代 の空気がはっきりと変わりつつあるのが全身で感じられました。その一方で、大喪の礼が終わるまでは手放しで喜べないムードもありました。あと4日で、平成がスタートして満10年を迎えます。この10年間の世の中の激動と変貌は、すさまじいものがありました。ベルリンの壁が崩壊し、ソ連も東欧社会主義も雪崩を打って総崩れとなりました。日本の社会も大きく変わりました。この先10年後、平成誕生20周年の2009年は、だれも予想がつかないような世界になっていることでしょうね。(1月4日)

 <1999年のスタートにあたり、世紀始め文化の可能性を探る>
 1999年明けましておめでとうございます。21世紀まで、あとちょうど2年。この2年間はどんな時代として、歴史に記録されるのでしょうか。いま世紀末まっただ中にあって、19世紀末が脚光を浴びています。ウイーン世紀末のクリムトや分離派のアーチストたち、オットー・ワーグナーの建築物。イギリスのピアズリー。こうした19世紀末の文化は、爛熟して時に退廃的でもある美の極みによって、僕達を強く引きつけると同時に、はたして20世紀末は後世から回顧されるほどの文化を創造し得ているのだろうか、と不安な気持ちにさせられます。日本はもちろんですが、諸外国にもこれが20世紀末文化だと言えるものがあるでしょうか。世界は2度の大戦とその前後の諸々の戦争によって、文化や芸術を生み出すパワーを喪失してしまったのではないか、という気さえします。しかし、20世紀末はこれという文化を生み出さないまま終わるとしても、21世紀の冒頭には、「世紀始め文化」とでもいえるものが、確実に誕生しそうな予感がしませんか。新しい文化を生む芽生えは、3つあると思います。インターネットの爆発的普及、国際宇宙ステーション建設開始、そして欧州単一通貨 ユーロのスタートです。この3つに共通している著しい特徴は、国境の無意味化です。国境の概念の撤廃こそ、20世紀を克服するカギであり、そこにこそ新しい文化や思想、芸術が開花する巨大な可能性を秘めているように思うのです。(1月1日)



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