05年7月−12月のバックナンバー


2005年12月

 <効率と競争を原理とする社会への転換が、明日を奪う>
 2005年とは、いかなる年であったか。
 107人の死者を出したJR福知山線の脱線事故、郵政民営化否決と解散・総選挙による小泉自民党の圧勝、政府の予測より2年も早く人口減少社会への突入。耐震偽装事件。
 これらは、一見するとバラバラに起きている出来事のようだが、すべてが同じ根っこから発生していて、日本という国のいまが最も的確に発現している。
 根幹を流れるものは、アメリカ主導のグローバリズムを受けて、日本を市場経済原理に完全に開放し、競争と効率を旗印に、利潤の追求こそが最高の正義であるとする社会に転換することである。
 これまでの終身雇用制を柱とした日本型システムは、非効率で活力を生み出さないとして槍玉に挙げられ、企業の内部でも、地域同士でも、学校同士でも、すべてを競わせることが至上命題となった。
 日本型の平等・公平を目指したシステムはすべて取り崩され、「努力したものが報われる社会」というスローガンのもと、すべての国民は他人との激しい競争を否が応でも強いられる。
 この過程を通じて、社会がこれまで重きを置いていた価値観も急速に転換していく。
 市場で少しでも多く利益を上げて、他を蹴落として勝ち上がることが「善」であるならば、目に見えない部分の安全対策に力を入れるのは愚かなことであり、資本にとっては「悪」でしかない。
 大きな事故や大地震が起きなければ、それは表面化することもなく、確率的にはまず通しおおせるはずだ、と経営のトップは踏むだろう。
 こうして、福知山線の大惨事や、100棟近いマンションやホテルの耐震偽装は、同じ根の元から起こるべくして起きた。もちろん、これらが氷山の一角に過ぎないことは、みなが薄々感じている。
 市場至上主義と競争社会は、日本社会の格差を大きく拡大して、ヒルズ族に象徴される裕福層と、競争から取り残されたり競争に乗れなかった膨大な貧困層を生み出している。
 いまや中産階級は崩壊し、中流の幻想は消え去った。フリーターやニートは、強制される競争に参加したくない若者たちの消極的な抵抗である。
 裕福層への道を立たれ、明日の見えない多くの20代、30代は、貧困層へのなし崩し的転落の中で、圧倒的に小泉改革の支持に回っている。
 小泉改革によって、自らが格差社会の中の「貧」に入れられようとしているにもかかわらず、である。
 これは、アメリカの貧しい黒人たちやヒスパニックたちが、ブッシュ大統領再選の原動力となったことに共通する現象だ。
 転落しつつある層、明日への希望が見えない層は、その原因を作り出している強いリーダーシップに陶酔し、理屈ではなく強硬策に喝采を送るのだ。
 格差社会の進行は、結婚したくても出来ず、子どもを作りたくても作れない若者たちが増加している最大の原因となっている。格差と少子化は同じ現象なのだ。
 2006年から2007年にかけて、日本の社会はこうした傾向が一層鮮明になっていくだろう。
 日本に明日は見えてこない。(12月30日)

 <人口減少社会スタート、今世紀末に日本は2分の1に>
 政府の甘い見通しより2年も早く、日本は今年から人口減少社会に突入した。
 人口減少がどのような社会をもたらすかについては、人によって千差万別の見方があって、新聞に載っている識者の話を読んでもピンと来ない。
 極めて問題を単純化するならば、つぎのように言い表すことが出来るのではないか。
 すなわち、今世紀末に日本の人口が半分に減るということは、日本の社会で現在機能しているすべてのものが半分しか要らなくなるということなのだ。
 おおざっぱに言うならば、日本のすべての産業の企業の数、商店やスーパー、各種サービス業などが半分になり、そこで働く人たちの総数も半分になる。
 それによって、これもだいたいの話であるが、従業員1人あたりの所得は今と変わらない水準を維持することが可能だ。
 モノやサービスを含めて日本人が生産する富の総量が半分になるとはいえ、消費する総量もまた半分になると考えていい。
 ただし、こうした全体としての50%縮小がうまく機能していくためには、さまざまなハードルがある。
 まず、国や地方自治体に入る所得税も法人税も半分に減る。そのため、政府や自治体の規模や公務員の数も半分になる必要がある。
 自衛隊員の数も、警察官の数も、消防署の数も、医師の数も、教員の数も、なにもかもが目安として半分にならなければ、立ち行かなくなる。
 当然のことながら国民総生産GDPは半分に減る。自動車の国内消費台数も半分になり、デパートやスーパーの数も、商店や映画館も学校も、なにもかも半分で済むようになる。
 深刻なのは、既存のビルやマンション、アパート、戸建住宅など、不動産が軒並み空室だらけになり、新規建築がこれまでの半分になったとしても、大量の廃ビル、廃屋が出現する。
 さらに売るに売れない空き地が全国的に広がって、とりわけ地方は廃墟のような地域も多くなっていくだろう。
 これまで利用者の増加だけを頼りに見込んで、莫大な借金で建設した高速道路や空港、橋などは、利用者が半減すれば返済が不可能になる。
 また、こうした50%縮小に至る過程では、年金の受給者と支払い者との極端なアンバランスが生じて、年金制度は税金を投入しなければ乗り切ることが難しくなる。
 企業や商店が半分で済むということは、いまあるような経営規模が考えるならば、半分の企業、半分の商店が倒産、廃業、閉店に追い込まれるということだ。
 生き残りをかけた、壮絶な競争社会が展開され、縮小していく人口の中での成功者と脱落者の格差はますます顕著になり、富がひとにぎりの人たちに集中する一方で生活保護受給者は激増するだろう。
 人口減少とは、こうした社会への移行が、すでに今年から始まったということにほかならない。(12月23日)

 <科学技術と文明と人類、それぞれの寿命を考えてみる>
 このところ、シャバで起きている諸々の事柄はどうでもよくなって、人類の文明はあとどれくらい続くのか、というようなことがとても気になってきた。
 文明の存続期間を考える場合、農耕牧畜が始まった1万年前を文明の始まりとするならば、あと1000年程度続けばいい方だろう、と思う。
 では近代科学に基づいた技術文明はどのくらい続くかといえば、これは長くみてもあと100年から200年だろう。エネルギー危機と地球環境危機の両面から、行き詰るのは必至だと考える。
 かりにあと200年でいまの技術文明が終焉した後、残りの800年はどのような文明になるのか。
 想像は難しいが、そのころには温暖化の暴走による海面の急上昇や、動植物相の激変、伝染病や新しいウィルスの蔓延などで、世界人口も大幅に縮小している可能性がある。
 いいかえれば、エネルギーも食糧生産も都市や国家の有り様も、まったく変わっていると考えた方がいい。
 地球のあちこちに、かろうじて生き延びたさまざまな民族の集団が、ほそぼそと自給自足のコミュニティを作って、なんとか文明の火種だけは絶やすまいと、つつましく生活を続けている光景を想像する。
 原始共産主義社会の復活、といってもいいかも知れない。
 生産力が低いため余剰生産物が発生せず、裕福層と貧困層の乖離すら見られなくなっているだろう。マルクスやエンゲルスが夢見た共産主義が皮肉にもこんな形で実現する。
 その文明も、青息吐息で細々と続いた後で、ローソクの火が消えるように息絶えるだろう。これが今から1000年後くらいとみる。
 文明が終焉しても、人類はまだ三々五々と世界の各地に点在していて、極めて生きにくい環境の中でも生物種としてはさらに5000年から1万年くらいは生き続けるかも知れない。
 もはや農耕も牧畜も続ける環境になく、人口は世界全体でも数千万人程度に縮小してしまう。文明人としての生き方もプライドも喪失し、野蛮と粗野が当たり前になる。
 こうして文字も書物もない世界の中で、人類は猿人のような姿になり、やがていつしか完全に絶滅する。
 その後に、人類から枝分かれした新しい生物種が進化していくかどうかは分からない。人類が文明の名のもとでメチャメチャに破壊した地球環境を考えれば、新しい枝分かれはないように思う。
 こうして極めて短期間における地球史上6度目の生物大量絶滅が、さらに100万年から200万年程度続き、地球の様相は一変してしまうに違いない。
 これから、このホームページでは文明の寿命と終焉について、いろいろと考えていきたい。(12月16日)

 <広い宇宙に地球人しか見当らない50の理由>
 「広い宇宙に地球人しか見当らない50の理由」(スティーヴン・ウェッブ著、青土社)を読んだ。
 これは、「フェルミのパラドックス」について、現在までにさまざまな科学者や思想家、哲学者から出されている解を50に分類して考察したものだ。
 フェルミのパラドックスの要旨は、この本では次のように説明されている。
 「この銀河系には、地球外文明があちこちにいるはずだ。ところがその兆しは見えない。彼らはどこにいるのか」
 著者は、これに対する回答を、「実は来ている」「存在するがまだ連絡がない」「存在しない」の3つに分類した上で、その一つ一つについて、さまざまな角度から見ている。
 未知の物事について考察をー加えていく方法や、ありとあらゆる可能性について自然科学、社会科学など多彩な角度から分析していく手法はなかなか見事だ。
 基本的な立場は、われわれ人類がいる地球は、宇宙の中心でないだけでなく、特別な場所でもなんでもないという、コペルニクス原理あるいは平凡原理であり、これには僕も全く異論はない。
 50番目の解として、著者自身の考え方を最後に提起しているが、それについてはまた別のところで僕の意見を書いておきたい。
 ここでは、著者が考察の前提としているパラドックスの解釈に、どうも無理があるような気がしてならないので、その点についていささかの疑問を呈して置きたい。
 本の随所で著者が強調しているのは、銀河系の中に多数の文明があるとすれば、そのうちの長寿の文明の中には銀河系そのものの植民に乗り出しているに違いない、ということだ。
 これが正しいものとして推し進める限り、その超文明の存在についてわれわれがキャッチ出来ていないのは、パラドックスである、ということになる。
 僕は、この前提が間違っているように思えてならない。かりに、さまざまな絶滅の危機を生き延びた長寿の文明があっても、銀河全体の殖民に乗り出すとは考えられない。
 他の文明であっても、その惑星の生物種の一つであるとすれば、どんな文明の技術をもってしても種の寿命を乗り越えることは出来ないのではないか。
 著者のウェッブはイギリスの物理学者というが、力と勢いと技術で秀でた文明がつぎつぎと殖民に乗り出すのは当たり前と考えるのは、僕にはかつての大英帝国の残滓が感じられてならない。
 銀河の殖民に乗り出すような文明がないとすると、フェルミのパラドックスは、パラドックスでもなんともないということにならないだろうか。(12月9日)

 <ネットは時間の余裕を生み出すと見せて、時間を奪う>
 いつの間にか今年のカレンダーも最後の1枚になってしまった。
 会社に勤めている時には、1日はそれなりに長かった。なんといっても、その日にこなさなければならない仕事量がワンサとあって、仕事もはかどらず時間もなかなか経過しなかった。
 朝出勤してから夕方に仕事を終えるまで、9時間から10時間は飽き飽きするほど遅々としていた。
 それでも、過ぎてみれば1年は早く、経過した時間は矢の如くに感じられたものだ。
 会社勤めを辞めて、組織による束縛がなくなってみると、1日の長さがこんなにも短いものだったのかと驚くほどだ。
 たいして多くのことをやっていないのに、朝がきたらあっという間に昼になり、午後もたちまち夕方になって、何もまとまったことをしないうちに1日が終わる。
 1日が短いために、1週間もまたあっという間に過ぎていって、とりわけ月曜日から金曜日までの5日間の短さといったら、だいたい48時間くらいで過ぎていくような感じだ。
 いつも金曜日がくるたびに、今週ももう週末かと愕然とする。土日は普通の長さだと思うが、また月曜から金曜までは一瞬のうちに過ぎていく。
 考えてみれば、1年というのは、この短い1週間が52回繰り返されるだけで過ぎていく。
 10年前のいまころは、asahi.comが始まってまだ半年足らずで、会社のどの職場でもインターネットをみたこともないという部署がほとんどだった。
 そのころはまだ1日はたっぷりあったのだ。時間の経過がとてつもなく早くなったのは、僕が会社勤めをやめたこととともに、ネット社会が出現したことも関係しているような気がする。
 ネットはとても便利で、人間が自由に使える時間をたくさん生み出してくれているように見えるが、実は逆である。
 多くの人が経験し実感しているように、ネットは人間からたくさんの時間を奪う。時間が生み出されているように見えるのは、ネットによるまやかしであり幻覚に過ぎない。
 これからますますネットを中軸にしたデジタル社会のテンポは速くなり、それにつれて1日も1週間も1年もますます足早で過ぎていくことだろう。
 ネットという時間泥棒から身を守り、のどかにたゆたうような時間の中で生きることを考えないと、バーチャルなスピードに圧殺されてしまうような気がする。(12月2日)

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2005年11月

 <重力と加速度は同じ、アインシュタインの発見から90年>
 中学生の頃、アインシュタインの相対性理論を理解出来るのは、世界に7人しかいない、と何かで読んで、僕は8人目の理解者になろう、と難解な解説書にかじりついたことがある。
 その冒頭から出てきた基礎となる数式の意味が全く分からず、僕は途方に暮れるばかりだったが、この数式は高校で物理を習わなければ理解出来るはずのないものだった。
 等速度運動をする互いに異なる系における時間と空間の関係を解き明かした特殊相対性理論は、高校の物理が理解出来れば、原理的なことは呑み込める。
 難しいのは、加速度が加わった異なる系における物理法則を扱った一般相対性理論だ。これは僕の物理の知識では、歯がたつような理論ではない。
 しかし、通俗的な解説書に書かれている内容をすこし流し読みしただけでも、その一端を味わうことは不可能ではない。
 僕が身震いするほど感動するのは、重力と加速度についてのアインシュタインの洞察だ。
 だれもが、エレベーターが上昇する瞬間に自分の体重が少し重くなるような気がして、逆に下降する瞬間は体重が軽くなるような感じを受ける。
 またジェット・コースターに乗ると、速度の急激な変化とともに、体が前に引っ張られたり後ろに引っ張られたりするような感覚を味わう。
 こうして僕たちは、加速度というのは、重力に良く似たものであることを体験的に知っている。
 航空機を急上昇させて大きな重力を作り出したり、急降下させて無重力状態を作り出すことが出来るのは、このためである。
 アインシュタインは、加速度が擬似重力である不思議から目をそらさず、じつは重力は加速度そのものであるという重大な事実を発見した。
 加速度と重力は等価であって、観測者による区別が出来ないだけでなく、この2つがまったく同じものであることを導きだしたのだ。
 僕たちが日常的に生きている地球上の重力は、地球の質量がもたらした空間のゆがみによって、すべての物質が地球の中心に向けた加速度運動を続けていることを意味する。
 月やスペースシャトル、国際宇宙ステーションなどが地球の周りを回り続けているのは、空間のゆがみの中を落下し続けている姿なのだ。
 今日11月25日は、アインシュタインが一般相対性理論を完成させてからちょうど90年前となる記念すべき日とされている。
 僕たちは、科学技術の急速な発展の只中にいるが、最も身近な力である重力の正体と本質については、アインシュタインの発見以降はほとんど解明が進んでいない。
 21世紀中に、人類は重力を操ることが出来るようになるだろうか。(11月25日)

 <同期生たちが次々とこの世を去っていく衝撃>
 僕が勤めていた会社を辞めてかなりの歳月が経つが、いまもなお社報が毎月送られてくる。
 IT化がさらに進んで僕が知らないシステムが導入され、会社の組織も大変わりしている様子が、社報の記事からも伺える。
 僕がいた当時、まだはるか後輩だった人たちが、各部局の要職に就いていて、部下たちに檄をとばしている様子を読むのも面白い。
 最近、社報を開くたびにショックを受けるのは、先輩や同僚たちの訃報の数々だ。
 会社にいた当時は、僕が知っている社員や元社員が亡くなれば、訃報の張り紙によってただちに知ることが出来ていたが、いまは社報が唯一の情報源だ。
 昨日送られてきた社報を見て驚いたのは、僕の同期生がまた一人亡くなっていることだ。
 彼は、僕が社を辞める時に、驚きの様子でいろいろと僕に尋ねていたのが思い出される。
 僕の同期生は、その前後の入社組たちに比べて、どういうわけか亡くなる率が異常に高い。
 入社して数年で他界した者も何人かいるが、指折り数えてみると、ここ10年ほどはバタバタと亡くなっていて、10指では足りないくらいだ。
 たぶん僕と同じ分野に入社した30人近くのうち、半分はもうこの世にいないのではないか。
 この原因は、おそらく戦後の食糧事情が良くない時期に育ち盛りを過ごして、基礎体力が劣っていることを自覚せずに、メチャメチャな生活を続けてきたことが大きいと思う。
 タバコに連日の深酒、夜更かしに睡眠不足、偏った食事、溜まり続けるストレス。公休すら満足に取ることが出来ず、ましてや年休などは毎年、ドブに捨てるような有様。
 これが体にいいわけないが、分かっちゃいるけど‥なのだ。
 同期生の中で、僕だけは最後まで残って、少なくとも平均寿命までは病気や怪我をすることなしに生き延びてやる、と決意を新たにする。
 これは気力によるところももちろん大きいが、それを裏打ちするだけの日々の養生と精進によって左右されるに違いない、と僕は思う。
 僕の当面の目標は2030年まで無事にたどり着くこと。そして次なる目標はその5年後、2035年に日本を縦断する皆既日食を、この目で見ることだ。
 あと30年。達成出来るかどうかは、これからの生き方しだいであろう。(11月18日)

 <21世紀とともに、かつてお気に入りの音楽が色あせて>
 21世紀になって、世の中の光景がすこしずつ様変わりしていて、気づいた時には20世紀末とは全く異なった世界となってきている。
 国際的な政治・軍事の展開とりわけ、9.11テロとアフガン戦争、イラク戦争は、21世紀の初期値を大きく決定づけるものとなった。
 身近なところでは、ケータイの驚くべき進歩とブログの爆発的な普及がある。さらに薄型デジタルテレビやDVDレコーダーの普及も、社会が変わったことを実感させる。
 東京での超高層大型ビルの相次ぐ建設や、超高層マンションの建設ラッシュも、なんとなく白昼夢にも似た違和感を伴って、街の姿を変えている。
 こうした中で、僕は自分の内なる世界、精神の内部でも、こうした外界の変貌に規定された微妙な変化が生じていることに、最近ようやく気づいた。
 なんというか、言葉では説明しがたいのだが、ある種の虚脱感あるいは虚無感のようなものが広がっていて、それを超克すべき内実が未形成なのだ。
 たとえば卑近な例を挙げると、僕が20世紀中にはあれほど胸を震わせて聴いていたベートーベンの交響曲の数々が、聴いてもあまり感動しなくなり、むしろ退屈すら感じるようになったことだ。
 ベートーベンに限らず、モーツァルトにしてもショパンにしてもシューマンにしても、僕が少年時代から最も好んで聴いていた愛好曲の多くが、もはや神通力を持たなくなった。
 では現代音楽ならば満足できるのかというと、これがまたお恥ずかしいことに、バルトークなどは何度挑戦してみても、僕にはいまだにその良さが全く分からない。
 食わず嫌いではいけないと思うので、ことバルトークに関しては、レコードも買ってあるし、テレビの演奏会番組も録画してある。
 そして、こんどこそバルトークを理解できるようになろう、と意気込んで、解説書を片手に聴き入ってみるのだが、ダメなのだ。
 どこが良いのか分からないだけでなく、感動する箇所も、緊張感に打ち震える箇所もなく、ただひたすらに僕にとって無意味な音がそっけなく続くだけだ。
 僕は内心、ベートーベンなどのおなじみの名曲への感興が薄れた今ならば、バルトークを理解できるのではないか、と期待していたのだ。
 21世紀に見合うお気に入りのアートを、僕はいまだに発見できていない。というか、21世紀はアートと共存しにくい時代なのではないか、という予感すらある。
 精神が大きく後退して、マネーとテクノロジーが暴走し始めた時代。それが21世紀初頭の現代の実相のような気がする。(11月11日)

 <何もかも知ることなど無理の人生、ささやかに分相応に>
 先日録画してまだ見ていなかった「思い出の名演奏」という番組を再生して見た。
 シューラ・チェルカスキーというピアニストの最後の来日公演の様子という。
 84歳という高齢にもかかわらずダイナミックでパワフルな演奏ぶりには驚いたが、このピアニストは「ロマン派最後の巨匠」として知られる世界屈指のピアニストという。
 日本にも毎年のように来日して各地で公演を行い、多くのファンがいるという。
 僕は、このピアニストの名前すら知らなかったことに、軽いショックを受けた。
 趣味はクラシック音楽ですなどと言っていながら、名だたる演奏家の名前すら知らず、そもそもコンサートに行くことすら2年に1度あるかないかなのだ。
 そうやって考えていくと、僕はこの年まで生きてきて、何も知らないことが圧倒的に多いことに、愕然とする。
 クラシックですらこの程度なのだから、ましてポピュラー音楽の世界はまったくといっていいほど知らない。
 では演劇やお芝居はというと、これもほとんど知らない。観劇など10数年前に「ミス・サイゴン」を観たのが最後だ。
 映画も最近は1年に1回程度しか見ていない。名作といわれる作品で見てないものは山ほどある。
 文学作品も、ドストエフスキーなど極めて限られた作家のものをたまに読む程度だ。最近の日本の作歌に至っては、全く読んでいない。
 テレビもあまり見ないし、人気ドラマも見たことがない。
 スポーツとなるとさらに縁遠い。そもそも僕は、ゴルフとは何をめざして競っているスポーツなのか知らないくらいだ。
 囲碁やマージャンも僕は全くルールそのものを知らない。
 この世界で人々が熱中している諸々の文化・芸術や趣味・娯楽、スポーツから、さまざまな分野の学術研究に至るまで、僕の知らないことがあまりにも多過ぎて、息苦しくなるほどだ。
 だが、人は人。僕は僕。知らなければ知らないでいるのもまた、それで結構毛だらけではないか、と開き直ってみる。
 短くも限られた一個人の人生の中で、何もかも知ることなどあり得ないのだ。
 いくつかの分野で、ほんのちょっとだけ自分のお気に入りを持つ。小説や詩、音楽、絵画、映画。そしてちょっとだけ阪神ファンでいる。
 そんなくらいで上出来なのだ。たまに知らないアーティストや作品に出くわすのも、短い人生の中での、めっけもの、と感謝したい。
 ささやかに、分相応に、手のひらに入るくらいずつを味わって楽しんでいく。そのことに満足し、感謝すべきだと思う。(11月5日)

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2005年10月

 <自民新憲法草案、法衣の下の鎧と刀>
 今朝の各新聞朝刊は、自民党が発表した新憲法草案を大々的に取り上げている。主要全国紙を読み比べてみたが、批判的な論を張っているところはどこにもない。
 それどころか、中曽根案にあった復古調がバッサリと削られたとか、9条1項の戦争放棄はそのまま残しているなど、この草案が穏やかな内容になったことを高く評価しているようだ。
 9.11以降、アメリカ社会も変わったが、日本の新聞もすっかり変節してしまった。Y紙が率先して国粋主義的な憲法案を発表する中で、新聞全体が浮き足立ってしまった。
 権力への批判はもはや古臭いといわんばかりに、やたらと政府・与党を持ち上げたり擦り寄ったりする姿勢ばかりが目に付き、A紙もM紙もすっかり物分りのいい紙面になってしまった。
 小泉劇場のプロデュースを積極的に買って出て、自民圧勝と3分の2与党の出現の巨大な原動力となった日本のマスコミは、もはや時流の広報誌と言われても反論すらしていない。
 このようなタイミングでの自民草案の発表は、全国紙はおしなべてこの内容に好意的であるに違いないと、すっかり見抜いている権力の自信のほどが伺える。
 おそらく、多くの読者は新聞を読んで、自民草案の内容に満足し、とりわけ今回の総選挙でコイズミに陶酔した若い人たちも、やはりこの改正に熱いまなざしを寄せるに違いない。
 どの新聞を見ても、護憲の立場の人たちの反応や談話はほとんどなく、社民党や共産党については全くといっていいほどに無視してしまっている。
 僕は、この新憲法草案が9条1項の戦争放棄をそのまま残すことにしたのは、改憲反対の動きを封じ込め、9条がなくなることに危機感を持つ人たちへの目くらましに過ぎない、と思う。
 9条2項を全面的に取替えて自衛軍の位置づけを明確にし、文言はないものの集団的自衛権の発動と武力行使を容認する内容になっていることは、1項と矛盾する。
 1項の戦争放棄を残すならば、「軍」を持ってはならないのだ。自衛軍の海外での「国際貢献」が武力衝突となっていった時に、それでも戦争ではないと強弁していくのだろうか。
 自民草案は、1項を法衣としてまといながら、その下からは集団的自衛権と武力行使という鎧と刀が見え隠れしている。
 いくら1項を残していても、いざ自衛軍が武力行使を行って、戦争がエスカレートして泥沼になっていった時に、戦争放棄が空文化してしまうことは防ぎようがない。
 自民草案の前文に書かれた「日本国民は、帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務を共有し」という文言こそ、憲法改正の真の狙いが読み取れる。
 これは国防の義務と同義であり、有事にあたって戦争遂行への全面協力をすべての国民に義務付けるものである。
 おそらく、このくだりを根拠にすれば、徴兵制ですら憲法上、可能となるだろう。
 草案の法衣の部分にまどわされてはならない。その下の鎧と刀を、いまこそしっかりと見据える必要がある。(10月29日)

 <時は止まらなくてもいい、すべては夢のまた夢>
 「時よとまれ、お前は美しい」といいたくなるような瞬間というのは、だれにも何度か経験があるものだ。
 この言葉が悪魔的ともいえる魅力的な響きを持つのは、時というものがどんな場合でも誰にとっても決して止められるものではない、という大公理があるからだろう。
 人は若い時分には、この言葉の持つ深遠さをそれほど身にしみて感じることは少ない。若さは時とともに疾走し、むしろ時が止まることがないことが希望であり生きる原動力である。
 しかし、人生も後半に入って、時が決してとどまることなく流れ続けていくということは、かなり深刻な意味を持ってくる。
 旅先での素晴らしい光景。美術展で接する本物の名画。コンサートでの弾むような感動の響き。親しい人たちとの話はずむ会話。
 時が美しければ美しいほど、時が同じ速さで過ぎていくことが非情に感じられる。その美しい時も、あっという間に終わってしまい、それはどこにも残っていない。
 復元も可逆も不可能で、せいぜい記憶が生々しいうちに頭の中で反芻してみるのが精一杯だ。
 こうした素晴らしい時を経験することは、豊かな思い出を作ってくれるが、それ以上の意味はなんだろうか。
 感性を磨き、物の見方や考え方を豊かにしてくれるのか。確かに、そういう面は大きいが、それが血となり肉となるのは若いときならではであろう。
 美しい時をたくさん経験してきてあとに残るのは、甘美で懐かしさに満ちた追憶と、それの裏返しとしての空しさ、儚さではないのだろうか。
 時間については、さまざまな人が、哲学的な思索をめぐらせているが、その中でよく引き合いに出されるのが、豊臣秀吉の辞世だ。
 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
 秀吉ほどの栄華と権力を掌中にした成功者でも、死の床で思うことは、自分の人生のすべてが夢のまた夢であった、という深い慨嘆なのである。
 僕はこの辞世が好きで、会社を早期退職する時の送別会の挨拶で、この歌を引用して、「○○○(会社の名前)のことも夢のまた夢」と結んだ。
 その後は、細々と西行的な隠遁生活を続けているうちにも、時はどんどん流れていって、会社人間を終えてからもう8年半も経ってしまった。
 時が美しく見えることがあっても、僕はもう止まってほしいとは思わない。時が止まる時は、僕の存在もまた停止する時であることが分かってきたのだ。
 どんな時も、すべては夢のまた夢なのである。(10月23日)

 <株の販売電話は、高校の同窓会名簿が売られたため>
 個人情報保護法が施行されてから、電話による勧誘電話はめっきり減った。
 それでも時たま電話が鳴って、出てみるとマンション購入の勧誘だったりする。
 「この電話番号はどうやって調べられましたか」と、僕はまず最初に尋ねる。すると「地域の局番をもとに、番号を順番にかけています」という答えがほとんどだ。
 番号を順番にかけているため、つながった相手の名前も知らない、というのだ。
 以前は、名簿業者から買った名簿をもとにしているとか、かつて何かのユーザー登録をした時の個人データを業者から買っている、という返事が多かった。
 この方法は、個人情報保護法によって出来なくなったのだろう、と思っていた。
 ところが今日、電話が鳴って出たら、「○○さんですか」と僕の苗字を言う。用件は、株の販売についての案内だという。
 相手の会社は、聞いたこともない横文字の会社だが、僕の苗字を知っているということに、薄気味悪さを感じる。
 そこで、どうして僕の名前と電話番号を調べたのか尋ねてみたら、なんと僕の高校の同窓会名簿を、名簿業者から購入して、それを使って電話をかけた、と言う。
 同窓会名簿を使って、そのような株の販売勧誘の電話をかけるのは、個人情報保護法に照らして問題はないのかと尋ねてみたが、それは問題ないと考えている、という。
 そして、かけてきた会社の名前と電話番号、さらに名簿業者の名前と電話番号も、こちらからの求めに応じて教えてくれた。
 「株には興味が全くないので」と本筋の用件は断ったが、このようなことでは、今後、同窓会名簿への掲載も断るしかない、と思う。
 同窓会名簿には、名前と電話番号だけでなく、卒業年次、住所、勤務先など、流出しては困る個人情報がたくさん載っている。
 個人情報保護法の施行以来、社員名簿を作らない企業や、学級名簿の作成をやめた学校などが続出しているという。
 オレオレ詐欺や振り込め詐欺、さらに悪質リフォームなど、いったん流出した個人情報はどのような犯罪に利用されるか分からない。
 住基ネットや国勢調査も、すでに一部は流出しているのではないか、という気がしてならない。
 現代は、実名をさらして生きていくことが命がけの時代である。(10月17日)

 <リモコンが使えなくてもお湯が出る給湯器の恩恵>
 10月7日のブログで「給湯器とリモコンをつなぐ隠れた配線がトラブって‥」という記事を書いたが、これはその顛末記である。
 結末から先に書くと、給湯器とリモコンをつなぐ配線は外のベランダから壁の中を通り、床の下を延々と這った後にダイニングの壁に入り、そこからやっと出てリモコンにつながっている。
 この配線のどこかに異常があって、接触不良かショートなどを起こしているらしいのだが、部屋の壁や床に埋め込まれた配線をチェックするのは、実際問題として不可能である。
 そこで、この配線については放棄することにして、新たに壁や床に埋め込まない剥き出しの配線を張り、この配線につなぐことによってリモコンは再び作動するようになった。
 リモコンの設置場所を変えて、給湯器から近い場所にしたため、剥き出しの配線が部屋の中を伝う距離は最小限に縮めることが出来た。
 僕がここで書いておきたいのは、リモコンが作動しなくなってから配線をし直すまでの5日間、給湯器のお湯は蛇口をひねれば正常に出て、一度たりとも困ることはなかった点だ。
 最初は、リモコンが点灯しないのにお湯が出るのを不思議に思ったが、使用説明書を見ると「リモコンの故障などで表示画面が点灯しなくなっても、お湯を使うことは出来るようになっています」と書かれている。
 普通は、リモコンが故障すればお湯が出ないのは当たり前と思うが、故障してもお湯が出るように設計するというのは、革命的な発想の転換ではないか、と僕は感心する。
 ユーザーにとって、何が最も困るかといえば、お湯が出ないことなのだ。リモコンが表示されなくなっても、お湯さえ出ればユーザーの不満はうんと緩和され、修理に来るまでの不便はしのぐことが出来る。
 これはリンナイ独特の設計思想なのか、ほかのメーカーでも最近はそうなのかは分からない。
 しかし、故障しても基本性能は維持する、というスタンスを貫くまでには、社内でも相当の議論があったに違いない、と僕は想像する。
 一部が故障しても本体の作動に影響を与えない、という発想は、さまざまな分野で検討されてしかるべきだと思う。
 最も応用を期待したいのは、人体である。
 肝臓が働かなくなっただけで、あるいは腎臓が機能しなくなっただけで、それ以外のすべての器官は正常なのに死ぬほかはない、というのは改善の余地があるところだろう。
 そのためには、人工臓器などのさらなる開発が不可欠だとしても、発想の転換による新たな生命機能維持の仕組みが考えられてもいい時期ではないか。(10月11日)

 <季節の先取り、すでに来年の年賀状素材集が花盛り>
 僕が子どものころ、小学館の小学○年生という雑誌が発売される日が待ちきれず、その日には学校から帰るとすぐに本屋に飛んでいったものだ。
 このころは、付録がたくさん付いていて、10大付録は当たりまえで、12大付録さらには16大付録などということもあった。
 付録の中には、組み立て式の幻灯機や顕微鏡、さらにはなんとフィルムの付いた映写機まであって、これらのほとんどは厚紙を糊で貼ったりして作り上げていくものだった。
 組み立てるまでが楽しみで、実際に作動するのは1回か2回くらいで、すぐに切れたり破れたりしてダメになったが、付録なのだからこんなものだろう、と子ども心に納得していた。
 それよりも僕が不思議でならなかったのは、どの雑誌もそうだったが2カ月以上先の月のものを先取りしていることだった。
 10月になるとすぐに発売されるのが12月号で、11月には新年号、12月にはもう2月号となっていた。
 季節を出来るだけ先取りしたい傾向が、出版社にも書店にも、また読者の側にもあるのだろうと、子どもなりに考えていた。
 いまでは2カ月もの先取りは少なくなったがそれでも雑誌の多くは、1カ月から1カ月半くらいは先取りで発行しているように感じられる。
 雑誌ではないが、季節の先取りで最も早いのは、クリスマスに向けた商店街の雰囲気作りで、これは11月に入るともう始まる。
 こいのぼりも早く掲げるところがあって、ひな祭りが終わった3月10日すぎにはもう屋上に掲げるデパートもある。ビヤガーデンも4月のGW入り前にオープンして話題性をねらったりする。
 今日は10月もまだ5日で、つい3日前には東京で真夏日だったというのに、パソコン量販店の書籍コーナーではすでに、来年の年賀状の絵柄をCD−ROMに収録した素材集が花盛りだ。
 年賀ハガキの発売は11月1日で、年賀状の受付は12月15日からというのに、これまた気が早い季節の先取りである。(10月5日)

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2005年9月

 <甲子園には魔物がいる、高校野球にも阪神戦にも>
 甲子園には魔物がいる、とよく言われる。
 これは夏の全国高校野球の独特の雰囲気が、対戦するそれぞれのチームに思いもよらない影響を及ぼして、想像を絶する試合展開になるような場合に使われる言葉だ。
 それが、一昨年、そして今年の阪神タイガースの試合振りをみていると、まさに阪神の試合の時には魔物がいるという言葉がぴったりのように感じる。
 僕は甲子園での高校野球には3回入っているが、甲子園で阪神の試合を観戦したのは、一昨年の日本シリーズ第4戦だけだ。
 たったそれだけだが、この時僕は、阪神というチームとファンが一体となってかもし出す魔術的な集団幻影の奥に、はっきりと魔物の存在を感じとった。
 それは魔物といって悪ければ、阪神という地域の守護神のような超越的な存在だろう。
 今年の阪神の戦いぶりは、いろいろなところで分析されているが、日本のプロ野球を引張っていくのは巨人ではなくて自分たちなんだ、という強烈な自覚と自信が大きいのではないか、と僕は思う。
 阪神というチームは昔から、乗ってくると輪をかけて乗ってくるが、いったん凋落し始めると落ち方も豪快なところがあった。
 今年、とりわけ阪神が持ち味を発揮して波の乗ってきたのが、初めての試みだったセパ交流戦だった。
 巨人やほかのセのチームが、慣れない相手を前にしてもたついているのを尻目に、阪神は初顔合わせのパのチーム相手にどんどん力をつけていった。
 このあたりが、陽性でお調子者の阪神らしいところで、交流戦でパワーアップした戦力と自信が、その後のペナントレースの原動力となった。
 昨日の試合で、本拠地甲子園の伝統の巨人戦で胴上げをものにしたことは、岡田監督が何度も強調していたように、はかり知れないほどの意義がある。
 胴上げと六甲おろしの歓喜を目の前にして、呆然としている巨人の選手たちの姿が、とりわけ対照的で印象的だった。
 有り余るカネの力で、他チームの4番バッターとエース級ピッチャーをおしげもなく集め、一発攻勢で優勝をねらおうという、巨人のやり方には終止符が打たれたといっていい。
 甲子園の魔物の正体は、こうした巨人一辺倒・東京集中に対する、全国の健全なプロ野球ファンの願いと祈りのようなものがあるような気がする。(9月30日

 <ブログ全盛時代のホームページのあり方>
 去年の西安、そして今回のパリと、携帯電話1本で海外から写真付きで自分のブログを軽々と更新出来て、そのブログを読むのもコメントを読むのも携帯でOK、というのは驚きの体験だったが、そうなるとむしろ海外から簡単には更新出来ないホームページの現状に、これでいいのかという疑問を感じる。
 このホームページがまだ、「2001年の迎え方大研究」というタイトルだった20世紀の末、僕たちの一つの夢は、21世紀になったらすぐに、海外のどこからでも簡単にホームページの更新が出来るようになる、という期待だった。
 そのイメージは、ノートパソコンがもっと軽量小型化し、国際対応の携帯電話と接続して、写真を付けたホームページの更新をする、というようなものだった。
 ところが、21世紀が明けてもこの夢はいっこうに実現しない。その最も大きな理由は、ノートパソコンがやたらに機能の肥大化を追求するばかりで、通信という最も肝要な課題を置き去りにしたことにある。
 いまでもパソコンショップの書籍コーナーに行くと、海外でノートパソコンを使ってインターネットをするノウハウを書いた本が何冊かあるが、これを読むとさまざまな重たい周辺機器を持っていく必要がせある上に、プロバイダーや通信サービス会社への事前手続きが実に煩雑だ。
 ホテルなどの電話回線を使っての有線のネットでさえ、さほどに面倒極まりないのが実情で、まして携帯電話との組み合わせによるワイヤレスでのネットは、よほどのプロ以外にはほとんど手が出ないくらい難しい。
 こうしたノートパソコン側の怠慢に対して、全く予想外のアプローチからワイヤレスでの海外からのネット利用に突破口を開いたのが、ケータイの進化による写真付きメール機能の発達と海外ローミングの登場であり、これと平行してケータイからも簡単に更新が出来るブログの登場だった。
 まったく別々に進化してきたブログとケータイの機能が、期せずして相手を求めるように接近・融合して、海外からの写真付きモブログという、夢のようなことがいとも簡単に可能となった。
 これは、148グラムのケータイだけあれば、デジカメもノートパソコンも不要で、モデムやアダプターなどの周辺機器も一切いらない、という点から、20世紀末に夢見ていた海外からのホームページ更新のイメージを遥かに超えている。
 もちろん、いまのブログには古い記事ほど埋もれてしまって発見されにくくなるという構造的な問題があり、一覧性や求める情報へのアクセスのしやすさの点ではホームページの利点は大きい。
 にもかかわらず、たとえば通常のホームページの場合は、RSSリーダーの網のかからない、など時代に大きく遅れをとってしまっているのも事実だ。
 この先、ブログが過去の記事も整理・分類して簡単の見やすくなるなど、進化した第2世代ブログが登場するのも時間の問題のような気がする。
 すでに個人ホームページの退潮がささやかれて久しいが、ホームページはブログの勢いを超えて、再びネットの主流となることが出来るのだろうか。(9月25日)

 <海外旅行のクルーズでいつも見る幻想>
 パリに10日間ほど一人で旅をするというのは、僕の長い間の夢だった。今回、さまざまな好条件が重なって、ようよく実現することが出来た。
 パックツァーのように時間に縛られることもなく、面倒な人間関係も発生することなしに、その日の天候と気分によって好きな場所へ行って、好きなだけゆっくりする。
 ルーブルやオルセーの名画の前で、あるいはシャンゼンゼ通りの枯葉の歩道を歩きながら、また凱旋門の屋上に立って、このまま時間がとまってしまったらいいのに、という気持ちになる。
 しかし、どんなに至福の体験でも、どんなに心地よい時間でも、それはいつまでも続くことは出来ない。いつかは、その場を離れなければならない。
 一期一会という言葉は、どんな出会いも終わりがあり、どのような素晴らしい時間も永続はしないことを示している。始まったことは、いつか必ず終わる。
 セーヌ河クルージングで、僕はいつも海外旅行のクルージングの最中に感じる、一種独特の不思議な夢想状態に陥った。
 それは、いまクルージングしている自分は、実はもう90歳近い年齢で病床に臥せており、何十年か前の元気だったころの海外旅行を回想している、というものだ。
 ベッドの中で、もう動くことも十分に出来ない僕は、神様に最後のお願いをする。
 「あのころ、元気で海外旅行に出かけていた当時の自分に、もう一度戻りたい。そうしたら、どんな大変なことでものりきって、人生の後半を頑張ってもう一度生きていくことを約束する」
 そこに、なんと神様が現われて、「その代わり、戻った時点から今までに起こったことの記憶は全部なくなるが、それでよければ、戻してあげよう」という。
 その瞬間、僕はすでに生きた90歳までの記憶を失って、いまクルージングしている状態に突然戻ったのに違いない。
 海外旅行でクルージングをするたびに、いつも同じこの幻影に取り付かれるのは、これは幻想などというものでなく、本当にそうなのかも知れない、と思う。
 だとすれば、僕は神様との約束に背かないよう、これからの人生をどんなことでも乗りきって悔いのないように生きていく責務がある。
 僕は普段、神様など信じないが、90歳の病床から戻してもらったというのは本当にそうなのだ、と信じている。(9月19日)

 <ハリケーン大惨事は、地球と自然を甘くみた人災>
 米ルイジアナ州を襲ったハリケーン「カトリーナ」による大惨事は、目をおおうばかりの地獄図となっている。
 直撃を受けたニューオーリンズでは、48万人の市民全員に避難命令が出されていたが、数万人が逃げ遅れ、市内では多数の遺体が放置されたり水に浮いたまま、と伝えられる。
 さらに市内では、救援物資が届かずに住民が暴徒化して無法状態となり、商店の略奪や市民同士の殴り合いや銃の発砲、レイプが蔓延して手の付けられない有様という。
 警官のバッジをつけていると暴徒から襲撃されるため、バッジをはずす警官や、自ら暴徒の一部となって商品を略奪する警官すらいると報じられている。
 なぜこれほどの大惨事になったのか。
 ニューオーリンズはジャズの発祥の地であり、市民の3分の2が黒人だ。また市民の4分の1以上が貧困層で、10万人が自動車を持っていない。
 逃げることが出来ずに取り残された人たちの多くは、こうした貧困層であったと見られる。
 壊滅状態となったニューオーリンズは、市街地の大半が海面よりも低く、普段は堤防によって海水の流入を防いでいる。
 海面より低い土地に、これだけ大きな市街地が広がっている理由は、長年に渡る石油の掘削によって地盤の低下が進み、このような形になってしまったためという。
 これはある意味で人災であり、石油の採掘を優先するあまり、地盤沈下への対応を怠ってきたツケではないか、という気もしてくる。
 さらに、このような超大型ハリケーンが出現した理由についても、考えてみなければならない。
 報道によると、カトリーナが発生した大西洋の西インド諸島付近では、7月の海水温が例年よりも1度近く高かった、という。
 このようなハリケーンが出現した背景に、地球規模で進む温暖化が関係しているのではないか、と考えたくなるのは当然だ。
 予測によると、温暖化が進んで今世紀末に海水温が平均1.7度上昇したとすると、台風はやハリケーンの発生数は2割減るが、風速40メートルを超えるものは逆に増加する、とみられる。
 アメリカは、今回のカトリーナが温暖化の落とし子であるとは決して認めないだろうが、産業優先・国益優先でCO2の増加に有効な手立てを打ってこなかったことが関係していないと言いきれるだろうか。
 これはまだ始まったばかりで、陸と海と空のバランスを人為的に崩された地球の暴走は、これからが本格化していくような気がする。(9月3日)

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2005年8月

 <風速70メートルのハリケーンは、温暖化とは無関係か>
 NY原油が初めて1バレル当たり70ドルを突破した。
 もともと、世界的な需要の拡大から高騰が続いていたところへ、米メキシコ湾岸を直撃しているハリケーンによって石油生産・精製施設が稼動できなくなり、一気に原油価格を押し上げた。
 原油価格を押し上げるほどのハリケーンとは、いかなるものであろうか。新聞のニュースで見ると、最大風速が秒速70メートルとある。
 日本では、風速30メートルくらいでも街路樹が根こそぎ倒れたれり、施設の屋根が吹き飛んだりして、大きな被害が出る。
 おそらく風速50メートルになると、道路に止めてある自動車すら吹き飛ばされるくらいになり、木造の民家の中には全壊するところが相次ぐだろう。
 では風速70メートルとは、どのような状況であろうか。
 想像を絶する暴風で、イメージしにくいが、この速さを時速に換算すると、なんと時速255キロとなって、新幹線の最高速度と肩を並べる。
 255キロで走る新幹線の窓がかりに開いたとして、その窓から体を乗り出したらどのような風圧を受けるかを思い描いてみればいい。
 ブッシュ大統領はルイジアナ州などに非常事態宣言を出し、ニューオーリンズ市当局は全市民48万5千人に避難命令を出した、という。
 48万人もの市民が避難するというのは、ただごとではない。もはや戦争並みといっていい。
 このハリケーンは「カトリーナ」と名づけられ、勢力による5つの分類分けの最高レベルデアル「レベル5」に位置づけられている。
 このような桁外れのハリケーンが襲うのは、たまたま偶然のことなのだろうか。
 僕は、地球規模で起きている気候変動と異常気象の一つが、このハリケーンなのではないか、という気がしてならない。
 地球温暖化が進行している影響は、必ずしも猛暑や熱波として現われるとは限らない。時には異常な豪雨といして、時には前例のないほどの暴風雨として、また時には異常寒波として現われることすらある。
 「温暖化は役人の作文に過ぎない」とヌケヌケとほざいているブッシュ大統領には、今回のハリケーンがもしかして温暖化と深層でつながっているかも知れない、と考えてみることすらないだろう。
 アメリカの国益ばかりを最優先にしている間にも、地球はどんどん壊れていきつつある。ハリケーンはそのことを訴えるためにアメリカにやってきたのかも知れない。(8月29日)

 <8月の終わりの寂しさと空白感はなぜだろう>
 盛夏の8月は、海に行楽に帰省にと、日本人の動きが1年で最も活発になる「動」の季節というイメージがある。だが、本当にそうなのだろうか。
 僕は少年のころ、待ちに待った夏休みが意外なほどあっけなく過ぎていくことに、なにか不思議な割り切れなさと物足りなさを感じていた。
 とくに8月も下旬に入って、夏休みも残り1週間ほどという時期の、なんともやるせない寂しさと空白感は、いつも僕の心を締め付けた。
 宿題はすべて早めに片付け、自由研究もほぼ狙い通りの内容で完成させた。海水浴も読書も、それなりに計画通りに楽しむことが出来た。
 にもかかわらず、僕はいつもこの時期になると、結局、僕が最も期待していたことは、何事も起こらなかったのだという欠落感に、焦燥と落胆を味わった。
 僕が心の奥底で期待していたこととは、何だったのか。それはおそらく、小説の世界のような異性との出会いであり、胸がときめく夢のようなロマンスだったのかも知れない。
 あるいは、当時、僕が淡い思いを抱きつづけていた1学年下の女子について、望むべくもない憧れに焦がれていたのかも知れない。
 そうしていつも、夏休みはとどこおりなく過ぎていって、最も切望し渇望していたような恋の訪れはないままで、2学期を迎えていった。
 あのころから、どれだけの歳月が過ぎたことだろう。あの頃のときめきとは無縁の年になり、そのような出会いへの期待はもちろんあろうはずもない。
 でも、8月の終わりの寂しさは、昔も今も同じように襲ってくる。
 この空白感、寂寞感。8月の終わりは、秋そのものよりも、はるかに寂しくて、わびしい。(8月24日)

 <何でも入力変換に頼って、難しい漢字が書けなくなった>
 このところ、文字を書く機会が極端に少なくなっているような気がする。
 パソコンのキーボードで打つことが大半で、かなり画数の多い難しい字でも簡単に変換されて出てくるため、自分の書く力が衰えていることにほとんど気がつかない。
 キーボード以外では、ケータイのメールを打つことだが、これまた効率は良くないものの親指だけで押していけばなんとか文章は入力出来る。
 DVDの予約録画の時も、タイトルはリモコンでケータイに準じて入力するため、これも手で書く機会を失う。
 年賀状の宛名書きも文章も、年賀状以外で知人にハガキを出す時の宛名も、基本はすべてパソコンに頼っているので、ますます字を書かなくなっている。
 このため、ちょっとした機会に手で文字を書かなければならなくなった時に、とっさには書けない。
 ひらがなとカタカナはさすがに書くことは出来るが、それがあだになって、私的なメモ書きで他人の目にとまらないものは、漢字が面倒でつい、かなで書いたりしてしまう。
 しかし、そうもいかない場合は、本当に漢字を書けなくなってしまった自分に気づいて愕然とする。そもそも、この愕然という漢字も、自分ではもはや書くことは出来ない。
 暑中見舞い、残暑見舞い、誕生祝い、餞別、等々、間違うことの許されない熨斗書きなどでは、僕は辞書を見ないで書く自信はしだいになくなってきた。
 大きな辞書ではかえって時間がかかって面倒なので、僕が愛用しているのは、日用新字典という小さな辞書で、漢字を正しく書くことだけの目的で作られた辞書だ。
 見出しの漢字は大きい文字で見やすく載っている反面、その言葉の意味は二の次なので、小さな文字で10文字程度しかない。
 この辞書が意外に便利で、僕は物心ついてからずっとこの辞書のお世話になってきた。奥付けの発行日付を見ると、昭和33年となっている。
 前は書けていたのに書けなくなっている漢字は、膨大な数にのぼりそうだ。
 新聞に載っている漢字をちょっと見ただけでも、手書きが難しいか出来なくなっているのは、把握、鑑定、遺伝子、綱領、骨髄、累計、連鎖、繊維など、目白押しだ。
 そのうち、漢字を自分で書く日本人は貴重な存在となって、珍しがられる世の中になってしまうかも知れない。(8月18日)

 <ついこの間のように思い出す、日航ジャンボ機墜落事故>
 日航ジャンボ機墜落事故から今日で20年になる。
 あの日のことは、つい昨日のように鮮明だ。
 夕方6時を回ったころ、お盆前日の職場は、どことなく夏休みの雰囲気が漂っていて、帰省ラッシュの記事などがあちこちから出稿されて、翌日の朝刊はのんびりした紙面になるはずだった。
 デスク席には時事通信社のファックスが設置されていて、さまざまなニュースがファックスから流れてくる。
 なにげなく時事ファックスを見た一人のデスクが大声で叫んだ。
 「おい、ジャンボ機の機影がレーダーから消えたらしいぞ」
 職場のだれもが半信半疑のまま、手分けをしてあちこちに確認の電話をかけまくる。一方では警視庁クラブ、官庁クラブ、出先にいる遊軍などに招集の電話をかける。
 間もなく、NHKテレビのニュース速報でも、ジャンボの機影が消えたという速報が流れる。
 機影が消えたということは、レーダーの故障なのかもしれない。あるいは、飛行中に異常が発生して海面などどこかに不時着していることも考えられる。
 羽田担当や運輸省担当記者からの電話で、ジャンボには乗客乗員合わせて500人以上が乗っていることが分かってくる。
 本当に墜落していたら最大級の惨事だ。現場はどこなのか。それがなかなかつかめない。
 長野の山中で赤い炎が目撃された、という話が入ってくる。いや、群馬の山中らしい、とこれまた目撃情報が入る。
 まだ現場ははっきりしないが、とりあえず現地へと第1陣が社有車に分乗して向かう。写真部も乗り込む。
 模造紙に、分担表が書かれて張り出される。現地グループ、群馬・長野支局、羽田の日航オペレーションセンター、運輸相、等々。
 社内での作業で最も大変なのは、名簿班だ。日航の搭乗者名簿をもとに、本当に搭乗したのかの確認から始めなければならない。
 顔写真集めはどうするか。500人を超える顔写真を、支局通信局を総動員して集めるのは、手に余る作業だ。
 結局、顔写真集めは見送って、搭乗者がジャンボ機に乗り合わせた目的やいきさつについて、家族らから話を聞いて、全員分を1人につき2、3行ずつ載せることにした。
 これでも全段ぶち抜きの見開き2ページという膨大なものになる。
 騒然とした状況の中、ともかく朝刊に事故の全容をどれだけ詳しく、的確に掲載できるかが勝負になる。
 殺気立つ作業。溢れるほどに殺到してくる原稿。時間はどんどん経過していく。
 あれから20年も経ったのか。この夜のことは、本当についこの間のような気がする。
 あまりにも強烈な出来事は、実時間の流れを超えて、いつまでも記憶の中で脈打ち続けているような気がする。(8月12日)

 <人類初の原爆投下から60年に思う、地獄の姿>
 今日8月6日は、ヒロシマに原爆が投下されてから60年を迎える。今日の「時間の岸辺から」は、裏のブログと連動して、このことについて何か書こうと思う。
 僕は、この60年という節目にあたって、書きたいことはヤマのようにあったような気がするが、いざ今日を迎えてみると、何も書くことはないような気がする。
 それは、なんの感慨も思いもないということではなくて、むしろあまりにも言いたいことがありすぎて、結局は一個人がこのような欄に書くことの無意味を、つくづくと思うのだ。
 半端なことを書くくらいなら、書かないほうがまだいいとも思う。が、全く何も書かないのは、あまりにも無力であり、ある種の敗北のような気もする。
 ちょうど10年前、阪神大震災と地下鉄サリン事件のあった年、僕は遅めの夏休みをとって初めてヒロシマに原爆ドームや原爆資料館などを訪れてまわった。
 原爆資料館のおびただしい資料や証言集に、僕は強烈な印象を受けたが、その中でも一つの小さな証言が忘れられない。
 それは爆心地の近くで、熱線と爆風で衣服のほとんどがなくなり、顔や体の皮膚がただけて垂れ下がった裸の女学生が、陰部をむきだしにしたまま、うつろに歩いていた、という証言だ。
 当時の女学生にとって、これほど羞恥にさらされて恥ずかしい姿もないという格好で、もはやなすすべもなく、陰部をおおうことの意味も失った状態とは、いかなるものであろうか。
 数万度という光線を浴びて、人間として女としての状態が破壊され、その熱さと痛さ、苦しさ、のどの渇きの中で、全裸に近い剥き出しの姿は問題ですらない。
 この女学生は、何が起こったのかは全く分からないまま、もはや自分が人間の姿をしていないことを、漠然と感じつつ、生と死の間をさまようだけの意味で歩いていたに違いない。
 この女学生は精神や意識がもうろうとしている中で、まだ思考というものが残っていたとしたら、この時、何を思い何を考えていただろうかと思う。
 神は細部に宿りたもう、というが、僕はこの女学生の姿に最も過酷な地獄を見る。
 このような地獄が、この日、ヒロシマで何万も何十万も繰り広げられ、それぞれの地獄の中で、それぞれがのたうち回りながら死んでいった。
 僕は、いまさら核兵器の恐ろしさや戦争の悲惨さを、ここに書く気にはならない。
 ただ、人類は進化の過程でなまじ知性を獲得しなかったほうが、はるかに幸せだったに違いない、と思うのだ。(8月6日)

 <いまどき2時間半もの工事停電とは>
 戦後しばらくの間は、しょっちゅう停電があった。予告された停電もあったが、不意の停電も多かった。
 停電で困るのは、ラジオが使えなくなるくらいのもので、照明用にはどこの家でもローソクを用意していたので、突然の停電があっても、だれもがそういうものだと思っていた。
 銭湯に入っている時にも、よく停電を経験した。パッと灯りが消えて、男湯も女湯も、みなが真っ裸の状態で暗闇になる。
 しばらくすると、大きなローソクが運ばれてきて、銭湯の中は湯煙が揺らめく炎に照らし出されて、しばしの幽玄境となる。
 男湯に父親とともに来ている子どもを、母親が素っ裸で連れにくるが、ほの暗い中なので、平気で歩いている。
 こんな光景も、停電慣れした社会ならではのものだった。電気というのは、しばしば止まってあたりまえだったのだ。
 日本が豊かになって、停電は災害によるもの以外はほとんど起きないものになった。僕もここ20年ほどの間に、予告された停電は数えるほどしか経験していなかった。
 それが今年に入って、東京電力の工事停電がやたらに多い。今年5月22日の僕のブログでは、わずか15分の停電であっても、このIT社会においては影響が多方面に出ることを書いた。
 15分間の停電は、5月と6月の2度に渡って実施されたが、こんどは8月8日の未明になんと2時間半の工事停電を行うという予告チラシが入っていた。
 電気が止まれば、さまざまな家電製品の内蔵時計を始めとして、影響を受けるものは少なくない。
 最も深刻なのは、電話だ。おそらく大方の家庭でもそうだと思うが、昔の黒電話と違って、いまのファクシミリ兼用の電話機は、停電になると全く死んでしまうのだ。
 この2時間半の間、どんな喫緊の電話がかかってこようと、電話機は機能していないから受信が出来ない。また発信も出来ないから、いざという時には緊急の連絡も出来ない。
 もちろんエレベーターも止まってしまう。たまたまこの8日は新聞休刊日で朝刊がないからいいようなものの、普段だったら朝刊配達に支障をきたすところだ。
 前回の15分間の停電の時にもブログに書いたのだが、これだけ家庭の中に電化製品やIT機器が入り込んでいる時代には、電気を止めないで工事を行うことを真剣に考えるべきだ。
 例えば、本線の流れを瞬時にバイパスに切り換えて、工事が終わったらバイパスから元に戻すというようなやり方くらいは出来るはずではないだろうか。(8月2日)

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2005年7月

 <毎秒、400兆個のニュートリノが人体を通過している不思議>
 東北大学などのチームが、地底の深くから飛んでくる「地球ニュートリノ」の観測に世界で初めて成功したという。
 ニュートリノというのは素粒子の1つなのだが、ほかに存在が確認されているさまざまな素粒子と違って、ニュートリノは格別に身近な存在だ。
 まずニュートリノは、宇宙が誕生した直後のビッグバンで大量に誕生し、その時に生成されたものが宇宙に満ち満ちている。
 さらに太陽や他の星々からも、間断なくニュートリノが放射されているばかりか、宇宙空間のかなたで超新星爆発があると、たちまち嵐のように四方八方に放射される。
 ニュートリノは素粒子の中でも飛びぬけて小さく、その大きさは1センチの1億分の1のそのまた1億分の1でしかない。質量は電子の1千万分の1である。
 僕たちにとって、最も深刻な驚きは、このニュートリノは地球をあらゆる角度から幽霊のようにすんなりと通り抜け続けていて、人体は毎秒400兆個から1千兆個のニュートリノが通過しているという事実だ。
 自分の体には、ニュートリノなど通り抜けることは出来ない、と思うのは人間が微視的な視点をなかなか理解しにくいためで、人体は空洞だらけといっていい。
 毎秒、400兆個ものニュートリノが、人体のあらゆる部分を通り抜けつつある、ということを、僕たちは何ら意識することもなく、またそれによって人体の細胞が壊れることもない。
 僕の体の中を通過しているこのニュートリノの中には、真上から振り注ぐものや、真下から湧き上がってくるものもあるが、真横のさまざまな方角からもやってきている。
 それは、日本中のすべての人の体を通ってきており、また僕の体から出た後、ほかのすべての人の体に入っていくことだろう。
 この世界も地球も、地球上のさまざまな生き物も都市も建造物も、すべてがニュートリノの海にどっぷりと浸り、ニュートリノを内部に素通りさせながら存在している。
 僕は、いまだに解明されていないニュートリノの本質が今後明らかにされていった時、ニュートリノこそが世界と宇宙を支える最も基礎的な存在であることがはっきりしていくような気がする。(7月28日)

 <会社人間を辞めてから、重要な訃報も知らないまま>
 僕のように、早々と会社組織から脱出して、シャバの人間関係とほとんど関わりを持たないまま、世捨て人に近い状態で、一人気ままに生きていても、それほど不便も不自由も感じないものだ。
 ところが最近、たったひとつだけ困ることがあるのに気がついた。
 それは、かつて僕がお世話になった人たちが、一人また一人と他界していくことを、僕は知るすべもないまま、ずっと後になってから風の便りで知ることだ。
 本来ならば、通夜か告別式に何はさておいてもはせ参じなければならないほど、僕にとっては格別にお世話になった人なのに、訃報を知った時にはすでに何カ月も経っている。
 それでも、いままで知らずにいたことを詫びて、遺族あてに手紙と香典でも遅ればせながら出せばいいようなものだが、かえって失礼なような気がして、そのままにしてしまう。
 会社に勤めていたころは、社員や元社員の訃報は、どの部局の所属であれ、社内のあちこちに掲示され、義理を欠くような恐れはなかった。
 社を辞めてからもしばらくの間は、かつての同僚などから当時の先輩や仲間の訃報を知らせる電話がかかってくることもあったが、ここ数年はその電話もこなくなった。
 ということは、裏を返せば僕の念願であった世捨て人としての生き方が、ようやく実現しているということであり、俗世の弔事などが耳に入ってこないことは当然なのである。
 組織からは完全に忘れられ、組織の人間関係や人事の消息などとは無縁の状態となった僕にとって、弔事はもはや蚊帳の外といっていい。
 自分でこのような生き方を選んだのだから悔いのあろうはずはないのだが、それにしてもさまざまな人たちが急ぐようにして絶命している。
 僕が通算12年間在籍した苛烈な職場を経験した人の平均寿命は、58歳なのだという。
 そうか、さもありなん、と思う。
 会社を辞めていなければ、僕もたぶん、そんなところだったに違いない。
 会社人間として仕事人間として、身も心も使い果たしたところで、所詮この世は、波の間に間にふっとうかぶ泡のような幻影なのだ。
 うつし世は、移ろい消える夢まぼろしと、それほど違うとは思えない。
 歳歳年年花相似たり、年年歳歳人同じからず。歳月はすべてを押し流し、全てを消し去る。
 残るのは、かすかな夢の記憶だけ。(7月22日)

 <世界初の核実験から60周年、核使用への衝動は>
 世界初の核実験が行われた米ニューメキシコ州の実験現場が、実験からちょうど60年目にあたる16日、一般公開された。
 砂漠の中の実験現場にはモニュメントが立っていて、春と秋に一般公開されているが、実験のあった7月16日の公開は10年ぶりという。
 僕は、ナチス・ドイツが核兵器を開発する前に、先手をうって核開発を急いだアメリカの事情については、多少とも何かで読んだことがある。
 しかし、最初の核実験から僅か20日後にヒロシマに実際に投下するとは、なんという突貫工事だったのか、と驚かされる。
 核実験の成果を確認し、その破壊力を知った上で、迷うことなくヒロシマに、さらに3日後にはナガサキに投下したわけで、キノコ雲の下の地獄図はとうぜん折り込み済みであった。
 僕は、なぜナチスのドイツにではなく、日本に投下したのか、いまでも不思議に思うのだが、やはり白人に対しては投下出来なかった、という指摘は的を射ていると思う。
 それと、真珠湾へのうらみと屈辱の大きさであろうか。あのようなことをやられた仕返しをよく見ておけ、これがアメリカ流の報復だ、というわけだ。
 今日の朝日新聞に、被爆者1万3千人へのアンケートが載っている。その中で、目をひいたのは、原爆被害の責任はどこにあると考えるか、という問いへの答えだ。
 最も多い答えは日米両政府で50%、ついで米国政府が28%、日本政府が7%となっている。
 被爆から60年の今年は、原爆投下の責任をめぐる議論が改めて沸騰してきそうだ。
 アメリカは、日本本土上陸によって日米双方に膨大な犠牲者が出る事態を防ぐために必要な措置であり、原爆投下が太平洋戦争を終結させた、という論理が市民レベルにまで浸透している。
 僕は、精神論を振りかざして本土決戦辞さずの構えを崩さなかった日本の軍部・政府の姿勢が、原爆投下の格好の口実を与えてしまったことの責任は極めて大きいと思う。
 しかし原爆が軍の施設や軍港にではなく、市民が密集する都市に投下されたのは、明白な国際法違反であり、戦時国際法といえどもこのようなことは認めていない。
 目的が正しければ核兵器の投下もあり得る、という発想は今日の世界でも最も危険である。目的が正しいかどうかは、結局、個々の国の指導者の判断になってしまう。
 アメリカの先制攻撃論は、それに脅える国の側からすれば裏返しの先制攻撃論になっていく。とりわけ核については、先に叩かないと叩かれるという恐怖に歯止めがかからなくなる。
 核によるテロの恐怖も、過剰な反応へと結びつきやすい。
 世界はいまなお、核兵器という地獄の崖っぷちに立たされている。(7月17日)

 <満足感の後の虚無、夢のまた夢という感覚>
 日経新聞に連載中の渡辺淳一氏による「愛の流刑地」(通称愛ルケ)は、僕も毎日愛読していて、前回の「失楽園」よりも読みやすい気がする。
 性愛描写のたくみさも凄いが、菊治という56歳の主人公の揺れ動く心のうちが、なかなか面白い。
 今日の回は、これまでの流れとは一変して、主人公が「愛における熱情と虚無の葛藤」について考えるくだりが、哲学的・宗教的な深みを示唆するような感じを受ける。
 「男はいかに激しく、狂おしく愛しても、その果てに虚無というか、空しさの渕に突き落とされてしまう」というのは、男女の愛に限らず、男がよく体験する心境のように思う。
 僕は学生の頃も就職してからも、ひとつの大きなヤマ場を乗り越えた時には、安堵感とともにある種の空しさに襲われることを何度も経験してきた。
 海外旅行が終わて成田から帰る時に、充実感や満足感とともに、そうした時間はもはや存在しないのだという、しらじらとした虚無感もまた募る。
 秀吉の辞世は、そうした儚さを人生そのものに見て取っていて、僕の最も好きな辞世だ。
 露とおち 露と消えにし わが身かな 難波のことも 夢のまた夢
 僕が会社を辞めた時、真っ先に頭に浮かんだのはこの辞世であった。
 職場の女性たちが開いてくれた送別会でのあいさつで、僕はこの辞世をもじって引用した。
 僕が4年5カ月勤めたその職場は、社内では通称メディアと呼ばれていた。
 露とおち 露と消えにし わが身かな メディアのことも 夢のまた夢
 しんとして僕の挨拶を聞いてくれた若い女性たちには、この「夢のまた夢」という感覚は分からないのではないか、とも思った。
 あれからまた歳月が経過して、このホームページを立ち上げてからすでに8年という時間が過ぎ去った。
 会社を辞めてからの8年もまた、夢のまた夢だった。
 何事もひとつ所にとどまるものなど存在しない。万物は流転し、すべては移ろいゆく。
 あらためて「女は実体。男は現象」という言葉を思い出す。
 女は男に比べて、虚無感に襲われることは少ないのではないか、という気がするが、実際はどうなのだろうか。(7月12日)

 <パリ五輪の夢を阻止した立役者は、フランス憎しのアメリカ>
 IOCの総会で、北京五輪の4年後に開催される2012年のオリンピック開催地が、ロンドンに決まった。
 大方の人たちがパリ本命と見ていた中の大逆転だった。なぜパリは破れ、ロンドンが栄冠を勝ち取ったのか。僕はここに、複雑な国際関係が重苦しく影を落としているのを見て取る。
 パリの3度目の挑戦をぶち壊した最大の「功労者」は、アメリカであろう。
 1次予選を通過して開催候補地となっていた5都市のうち、ロンドン、パリ、モスクワはそれなりに開催を名乗り出る理由に正当性が見出せる。
 5都市の中で、立候補の意味に疑問を感じるのはニューヨークだ。アメリカは記憶に新しいだけでも、ロサンゼルス、アトランタで開催していて、またアメリカというのはだれもが首をかしげてしまう。
 政治家の選挙でよくあるケースだが、最有力とされる候補の足をひっぱるために、勝ち目がまったくない人物が立候補して、2番手と目される候補の当選を助けることはしばしば行われることだ。
 今回のニューヨークの立候補はこれに極めて似ていて、パリに決定することをひたすら阻止するためだけの立候補といわれても仕方がないだろう。
 実際、IOC委員による投票が進んで、2回目の投票で最下位となったニューヨークが振り落とされた後、3回目の投票ではニューヨークに入れていた票の多くがロンドンに入れられた。
 米英がイラク戦争を始める時に、この大義なき開戦に国際社会で最も強硬に異議をとなえたのが、フランスであったことは周知の事実だ。
 それから今日に至るまで、アメリカとフランスの関係は大きく亀裂が入ったまま、修復困難の状態が続いている。
 フランス憎しシラク憎しのアメリカが意地になって、パリでの五輪開催を妨害しようとしたのは、十分推測できることではないだろうか。
 アメリカがあえてニューヨークを捨石として登場させて、ロンドンを援護したのは、イラク戦争の盟友への御褒美なのである。
 そういう意味では、バルセロナ五輪を開催したばかりのスペインが、またマドリードをぶつけてきたというのも、パリ落としに大きな役割を果たしている。
 ロンドンとバルセロナの間では、パリとどちらかの決戦になった場合は、パリを落とすために票を譲り合うという「密約」もあったとささやかれているようだ。
 3度続けて敗れたパリは、招致委員会広報部長が「もう立候補することはない」とコメントしている。こんどはフランスがアメリカに復讐する番かも知れない。(7月7日)

 <子ども送迎ビジネスの繁栄は、子育て受難の反映>
 無抵抗の小さい子どもを狙った凶悪犯が各地で相次ぐ中、「子ども送迎ビジネス」に熱い視線が注がれて、警備業界などが続々と参入しているという。
 日本社会の荒廃もここに極まれり、という感じすらする。学習塾やおけいこ事の行き帰りに、子どもを送り迎えするのだというが、僕が真っ先に考えるのは、費用がばかにならないのでは、ということだ。
 僕は相場については知らないが、かりに週4回この送迎をやってもらった場合に、警備会社の人件費などを計算に入れると1カ月の費用は10万円を下らないのではないか。
 日本の社会は、階層格差も所得格差もジワジワと広がり続けていて、世界でもまれに見る2極分化が進行している。都心に林立している超高層マンションをポンと買える人たちが、相当数いるのだ。
 そういう「持てる家庭」では子どもの送迎にこれくらいのお金をかけても、痛くも痒くもないだろう。
 金持ちの家になるほど、子どものことが心配になってきて、学校の行き帰りも送迎をつけようというところが増えてくるかも知れない。
 しかし、家計が裕福とはいえない家庭では、子どものために送迎ビジネスを頼むようなゆとりはない。
 せめて防犯ブザーを持たせたり、ケータイを持たせるくらいが精一杯のところか。それでも奈良の小1女児誘拐殺害事件のような犯人に対しては、ほとんど効果はないような気がする。
 子どもがひんぱんに狙われる社会では、ゆったりとした子育てなど望むべくもない。子どもが生まれた直後から子育て期間を通じて、常に連れ去りなどを警戒してピリピリしていなければならない。
 ある程度まで大きくなったらなったで、こんどは別な心配が出てくる。自分の子どもが他人を殺傷するような事件を起こしはしないか。
 他人どころか、両親や兄弟に刃を向ける危険性すら考えてみなければならないのだ。
 子どもを無事に育てていくことが、今日ほど大変な費用とリスクがかかる時代はなかっただろう。
 少子化が止まらない原因は多岐に渡っているが、子ども送迎ビジネスが商売として成り立つほど、子育てそのものが危険と隣り合わせになっている状況は大きい。
 20年以上かかって子どもを育て、事件も起こさず災難にも遭わず、大学を卒業させたとしても、終身雇用制が崩壊した剥き出しの競争社会の中に送り出すのはまた大変なことだ。
 まして日本を「戦争が出来る普通の国」にしようという流れが強まっている中、自分の子どもが国家のために戦争に赴かされる事態を念頭に入れておく必要もあるだろう。
 こうした時代の気分は、子作りをためらわせ、結婚しても子どもは1人で手一杯という人たちをますます増やし続けることは明らかだ。(7月2日)


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