98年7月−12月のバックナンバー

メニューにジャンプ


1998年12月

 <「紅白歌合戦」は、年神さまを迎える国民的奉納試合なのだ>
 今年はいろんな意味で「ヨコハマ」の年でした。その中でも、滅びを目前にして後のない戦いに挑み、サッカー日本一を決める明日の天皇杯決勝に勝ち進んだフリューゲルスは、日本人の涙を誘います。フリューゲルスの姿に、いつリストラされるやも知らぬ自分たちの姿を重ね合わせる企業戦士たちも多いことでしょう。もう一つの今年の顔は「毒」でした。和歌山のカレー事件に始まって、年末のドクター・キリコによるネット宅配事件まで、日本列島毒だらけ。「林さーん、お早うございまーす」。10月の冒頭、林真須美・健治夫婦逮捕の朝、捜査員たちが自宅に入る時の女性捜査員の挨拶が、いつまでも耳に残っています。関西弁のアクセントのこの挨拶は、テレビで何度となく放映された夫婦逮捕の映像に必ず入っていて、忘れられない響きを持っています。「お早うございます」という本来さわやかな挨拶言葉が、これほどまでに緊迫感を伴って発せられたのは、初めてではないでしょうか。つらく、重苦しい「お早うございます」は、今年の時代気分を象徴しているかのようです。そんなこんなで、1998年は暮れていきます。新しい年は、大晦日の日没から夜半にかけて年神さまとともに 訪れるのだそうです。だとすれば、「紅白歌合戦」とは、年神さまに奉納する「神前試合」なのですね。合戦形式をとっているのは、これで納得出来ます。紅白の司会者とは、年神さまに捧げる合戦を仕切る大役を帯びていて、中居クンは選ばれた神官、クボジュンは選ばれた巫女なのです。みなさんは、年神さまを迎える準備は出来ましたか。来る1999年がみなさま一人一人にとって良い年でありますように。(12月31日)

 <20世紀最大の発見は、「宇宙は無から誕生した」という発見>
 あと2年と2日で20世紀が終わります。20世紀は戦争と破壊の世紀でしたが、同時に発明と発見の世紀でもありました。この世紀になされた数々の発見は、相対性理論、量子力学、DNAの構造解明など、どれをとっても人類最大の発見と言えそうですが、強いて最大の発見を一つ挙げるとすれば、1981年から83年にかけて構築された「宇宙が無から創世された」という発見だと思います。詳しいことは理解の範囲をはるかに超えるとしても、今から百数十億年前に無から宇宙が誕生し、生まれた時の宇宙の大きさは10のマイナス30乗センチだった、というからこれほど衝撃的で深い感銘を受ける発見はありません。しかも宇宙誕生から1000分の1秒までの間に起こった宇宙の変貌の様子が順を追って解明されているのは、驚異的です。無から生まれたそんな小さな宇宙は、瞬く間にビッグバンを経て大膨張していく。銀河系宇宙が出来たのは120億年前、地球が誕生したのは46億年前、地球に最初の生命が誕生したのが38億年前。生命もやはり無生命から誕生したのですね。宇宙とは何のために創世されたのか。わずか数万年前に登場した人類とは、宇宙の中でどのような存在なの か。宇宙が自らを認識するための鏡のようなものか? 人間が残酷な戦争や虐殺、破壊を行うということは、とりもなおさず宇宙が自らの内に残虐性と愚かさを持っているということなのか。人類の生んだ数々の芸術も、宇宙がそのような崇高な精神世界を内包しているということなのか。21世紀の最大の課題は、100年前にゴーギャンが問いかけた「私達はどこから来たのか。私達は何者なのか。私達はどこへ行くのか」という根源的な謎を解明することでしょう。(12月30日)

 <コンピューター2000年問題を中国語で「千年虫」とは秀訳>
 今日の朝日新聞によると中国の経済日報と北京青年報が、時代を象徴する新語を紙面で紹介している、とあります。それによると「コンピューター2000年問題」は「千年虫」だそうです。もともと英語では millennium bug ですから、中国語の方がずっと適訳で、簡潔にして本質を言い表していますね。ハッカーは「黒客」だそうですが、「駭客」「破客」と表記することもあるようです。ついでにこの際、ほかのインターネット用語が中国語でどのように表記されているのか、調べてみました。国際互聯網(インターネット) 環球網または万維網 (WWW) 主頁(ホームページ) 瀏覧器(ブラウザ) 超文本標記語言(HTML) 統一資源定位符(URL) 電子郵件(E-mail) 服務提供商(プロバイダー) 調制解調器(モデム) 綜合業務数字網(ISDN) 用戸標識符(ユーザーID) 電脳病毒または軟件寄生蟲(コンピュータウイルス) 激光打印機(レーザープリンタ) 噴墨打印機(インクジェットプリンタ) 影像掃描器(スキャナー) 微軟(マイクロソフト) 視窓(Windows) 苹果電脳(アップルコンピュータ) 麥金塔(Macintosh) 英特爾(インテル) 奔騰(Pentium) 托放(ドラッグ・アンド・ドロップ) 導航器(ネットスケープ・ナビゲーター) 探険家(インターネット・エクスプローラ) 衝浪(ネット・サーフィン) 雅虎(Yahoo!) 単撃(クリック)  双撃(ダブル・クリック)。というような具合ですが、中国語にはカタカナのようなものがないので、結構苦心の跡がうかがえます。ハングアップが「死機」とはそのものズバリですが、チャットが「聊天」とはナゾめいています。マウスが「鼠標」というのも、かわいいですね。(12月27日)

 <ドラえもんのタケコプターは実現可能か、大まじめで考える>
 23日に千葉大学の理学部と工学部で行われた「飛び入学」の入学試験で、「ドラえもんのタケコプターが実現可能かどうかを検討せよ」という問題が出題されました。そこでこの問題を考えてみましょう。まず、あれはミニヘリコプターのような形をしていますが、かりに強力なプロペラによって浮揚力が確保出来たとしても、頭または首を持ち上げて体をぶら下げる形になって、全体重が首にかかり、苦しくて数秒と持たないでしょう。あの形で楽に空中を飛ぶためには、体全体を持ち上げるようにする必要があります。それに風や空気抵抗を考えると、目に見えない透明なバリアで、搭乗者を包む設計にする以外にないでしょう。浮揚力と動力は、プロペラでは限界があるので、やはりここは重力コントロールを使いましょう。それじゃ、頭につける竹トンボのようなものは、何のためにあるかというと、搭乗者の思考命令によって飛行方向や速度をコントロールするとともに、一緒に飛んでいるほかの仲間たちや地上との交信をする司令塔の役目を果たしているのですね。タケコプター同士やほかの飛行物体との衝突を避けるための、オートナビゲーシュンになっているのはもちろんです。タケコプタ ーは21世紀中に実現するかどうか。このカギは、重力コントロールが発見されて実用化されるか、さもなければリニアモーターカーの原理である磁力が空中でも利用可能になるか、にかかっているでしょう。用途はレジャーとか観光、スポーツなど。ちょっとした宅配便を届けるにもいいかも。まるで「魔女の宅急便」ですね。ここで新発見。タケコプターの原理は実は魔女のホウキと同じなのです。という解答で「飛び入学」試験には合格確実だあっ!(12月24日)

 <1999年最大のイベント、今世紀最後の皆既日食が欧州で>
 1998年もあと10日。来年1999年はどんな年になるでしょうか。西暦年数は9が3個並んで、いかにも世紀末の雰囲気を漂わせていますが、来年は大きな国際スポーツ大会もなく、嵐の前の静けさといったところでしょうか。そんな中で、とっておきのビッグイベント情報をこっそりお知らせしましょう。それは8月11日、ヨーロッパから中近東にかけて見ることが出来る今世紀最後の皆既日食です。夏休みの真っ最中という絶好のタイミングに加え、皆既日食となる地域にはヨーロッパの大きな都市が目白押し。ルアーブル、ルアン、ルクセンブルク、シュツットガルト、ミュンヘン、グラーツ、ブカレスト、カラチなど。パリはギリギリのところで皆既食帯からはずれ、太陽の99%が欠ける状態になりますが、ここは少し移動してでも皆既食を見たいところです。いまから、夏休みの皆既日食観測旅行計画を立てておきましょう。旅行会社もさまざまな観測ツァーを企画するはずですが、団体旅行でなく個人旅行のプランを練るのもいいでしょう。ねらった都市の天候が悪い場合には、晴れた地域に敏速に移動する、というバックアッププランを考えておけばベストでしょう。インターネット やテレビでも生中継されるとしても、皆既日食はぜひ現地で体ごと体験してみたいものです。これを見逃すと、次に起こる皆既日食は2001年6月21日のアフリカ南部ですが、日本からの旅行には条件が厳しくなります。ノストラダムスなど吹き飛ばし、1999年8の月に出現する2分間ほどの黒い太陽をいまから楽しみにしようではありませんか。(12月21日)

 <国連も国際法もドケドケ! 世界の憲兵アメリカ様のお通りだ>
 人類は結局、21世紀を見る前に破局を迎えるのだ、そんな気がしてくる昨日今日の展開です。アメリカの言う正義のためなら、何をやってもいい? フセインの存在が世界平和にとって脅威だから、アメリカはフセインを武力で抹殺してもいい? この論理こそ、2度に渡る世界大戦やベトナム戦争の未曾有の犠牲を通じて、人類と世界が克服することを誓った破滅の論理であり、悪魔の論理ではなかったのでしょうか。世界平和を脅かす国や指導者に対しては、国際世論をバックに国連を中心に解決していく、この方法しかないのだということを、世界は20世紀から学んだはずです。アメリカの掲げる正義が100%正しく、フセインのやり方が100%責められるとしても、国連を無視して勝手に武力攻撃することは許されないのです。クリントンのようなやり方がまかり通るならば、50年に渡ってコツコツと築き上げてきた国際社会のルールも枠組みも、総崩れです。フセインはますます自国の軍事力を増強し、もはや国連査察など受け付けなくなっていくでしょう。「神の敵」と戦うためには、大量破壊兵器がやっぱり必要なのだ、という言い分がまかり通っていくでしょう。さらに危険なのは 、こんどの事態が、他の紛争地域に及ぼす影響です。アメリカは同じ論理で、北朝鮮への武力攻撃を行う可能性が指摘されています。北朝鮮は、ますます戦時体制を強め、たたかれる前に核を使った先制攻撃に出る危険さえあります。時あたかも、韓国軍が北朝鮮の潜水艦を撃沈。あと2年しかない20世紀中に、もう一度、世界大戦が起こるのかも知れない、そんな予兆がします。(12月18日)

 <2008年五輪は北京に譲り、大阪は早めに名誉ある撤退を>
 2008年五輪への大阪の立候補は妥当でしょうか。日本はこれまで東京、札幌、そして今年の長野と、夏冬合わせて3度の五輪を開催しています。最強のライバルとして2008年五輪に立候補を表明した北京は、2000年五輪ではわずか2票差でシドニーに破れ、こんどこそ初の中国開催を実現しよう、と燃えています。大阪と北京と、どちらが国際的に説得力があるかは、火の目を見るより明らかです。日本国内でさえ、この際だから、大阪は立候補を取りやめ、名誉ある撤退をすべきだ、という声が広がっています。大阪が札束で招致委員のほほをひっぱたいて集票に奔走すれば、世界に恥をさらして回る結果にもなりかねません。すでに大阪はこれまでに招致活動で数億円を使っているとも言われます。せっかく横浜を破って日本の候補になったのに、いまさらひっこみがつかないし、関係者のメンツもあるでしょう。しかし、このまま突き進んでさらに何十億という費用を使ったあげく、北京に敗れたら(その公算は非常に大きい)、大阪が被るダメージと損害は、はかり知れないものになってしまいます。2008年の五輪開催地を決める2001年のIOC総会で、大阪が21世紀冒頭の決 定的屈辱を味わわないためにも、大阪は早めに2008年の立候補から撤退し、北京開催が実現するよう、全力で中国の応援に回るべきです。大阪の勇気ある決定は、日中友好の歴史に燦然と輝き、大阪の国際的地位を飛躍的に高めるでしょう。大阪府民と関係者の、時期を逸しない決断が望まれるところです。(12月15日)

 <ウサギ、トカゲ、悟空…2000年から台風名にアジアの言葉>
 今朝の日刊スポーツなどによると、国連アジア太平洋経済社会委員会と世界気象機関(WMO)でつくる台風委員会が、2000年から台風の識別にアジア太平洋各地の言葉を使うことを決めた、とあります。台風の名前といえば、日本では1947年から52年まで、米軍にならってキャサリン台風とかジェーン台風とか、アメリカ女性の名前がつけられていて、僕はキャサリンとかジェーンとかいう名前の女性はよほど凶暴なのだな、と子ども心で感心していました。こんどは14カ国・地域がそれぞれ10個の名前を選び、計140の名前から順に命名していくのだそうです。日本は、ウサギ、クジラ、コンパス、トカゲなど星座の名前を採用し、中国は悟空などを採用したとのこと。テレビの台風情報はどんな具合になるでしょうか。「ウサギは勢力を強めながら明朝、九州を駆け抜ける公算。ウサギの今後の進路に十分注意して下さい」「四国に接近しているトカゲは目もはっきりしており、太平洋側の各地は超大型のトカゲに対する警戒が必要です」。なんとなく童話の世界のようで、いまひとつ切迫感がありませんね。それに比べると、悟空などは名前からして大暴れしそう。「悟空は厚い雲を 伴って、ゆっくりとした速度で本州を通過中。各地に大きな被害をもたらしています」というのはサマになりますね。日本は星座の名前なんかやめて、怪獣やモンスターの名前をつけたらどうでしょう。「ゴジラは間もなく東京湾から関東地方に上陸する見込みです」なんてワクワク! ガメラとかモスラなども、台風の名前にピッタシ。東宝さんには気象庁が商標使用料を払うということで、いかがでしょうか。(12月12日)

 <真須美容疑者がカレー事件のホシでない1%の可能性とは>
 和歌山のカレー事件で、林真須美容疑者を再逮捕。本当にこれで事件は解決したのでしょうか。なんとなく、だれもがいま一つスッキリしないのはなぜでしょうか。捜査陣にも全面解決の達成感はなく、むしろ重苦しささえ漂っています。新聞やテレビの論調も、99%は真須美容疑者がやったことに違いないとしながらも、残る1%のそうでない可能性を否定しきれていません。動機は、保険金狙いなのか、住民への恨みなのか、どちらにしても無理があり、矛盾に突き当たります。消去法で、カレーにヒ素を混入出来たのは真須美容疑者以外にはいない、という論理で公判を維持出来るのでしょうか。なにか大きな問題が欠落しているような気がします。ワトソン君、君ならどう推理するかね? 真須美容疑者が、マージャン仲間に対する保険金殺人を企てていたことは間違いないが、真須美容疑者は直前になって実行を中止した。しかし何者かが、真須美容疑者の知らないうちに、ヒ素を使ってこの計画を遂行してしまった。最も仰天したのは真須美容疑者だろう。真犯人の狙いは真須美容疑者を犯人に仕立て上げ、死刑に持ち込むことである。なぜこのようなワナを仕組んだか。自分に多額の保険金を 掛けて殺そうとしていることへの先手防衛と報復。だとすれば、この真犯人は意外な人物であろう。しかもこの真犯人は、カレー鍋に自分で近づくようなヘマはしていない。ナベにヒ素を入れたのは、やはり真須美容疑者に恨みを持つ別人だろう。真犯人は真須美容疑者の最も身近な男性、共犯者も真須美容疑者による保険金殺人から危うく逃れた人物、と考えられないだろうか。ワトソン君はこのように推理しました。すべてのカギは、マージャンの突然の中止にある、という点ではホームズの意見も一致しています。(12月10日)

 <酷暑の独走で「金」の高橋尚子に、丸顔の素晴らしさを見る>
 バンコク・アジア大会女子マラソンでの高橋尚子選手の金メダルは、この沈滞しきった日本の社会に強烈なインパクトと感銘をもたらしてくれました。酷暑の中、アジア最高記録、世界歴代5位という驚異的な独走。「素質もなくて地道に練習するしかない。自分を強い選手と思っていない」という高橋選手は、レース前半に薄曇りとなって日差しが弱まったことを、「きっと、神さまが曇らせてくれているんだなあ、と考えて走った」といいます。試合後、報道陣に対して「大会前にそっけない態度をとってしまってすみません。走った後の笑顔を見ていただけたらと思って」と泣きじゃくったとは、なんという優しさといじらしさ。「金」を取った直後でも、自分を謙虚に見つめ、虚勢をはったり威張ったりするところが微塵もないというのは、すばらしいことです。高橋選手の人なつっこい笑顔を見ていて、女性の丸顔がこんなにも、美しいものだったのか、と目からウロコが落ちる思いです。そういえば里谷多英選手や久保純子アナウンサーも丸顔です。里谷選手は金メダルに「夢じゃないかと思う」と言い、久保アナは紅白の司会に決まって「ワーオ」と喜びつつも「私なんかで、ええんかいな」と これまた正直。丸顔娘に共通する飾らない謙虚さとでもいうのでしょうか。20世紀後半の日本は欧米志向のあまり、面長美人ばかりを持ち上げて、丸顔娘を不当に冷淡に扱いすぎたのです。21世紀を拓き、リードしていくのは、こうしたひたむきな、真ん丸顔のがんばり娘たちではないでしょうか。(12月7日)

 <掟破りで切断された古代エジプト王女の手のミイラが語るもの>
 最近はうんざりするようなニュースばかりですが、昨日の新聞に載った小さな記事が心に強く残りました。4000年前の古代エジプトの王女が貧しい人に施しをしたところ、一般人との交流を禁じた掟に触れて、手首を切断された。切り落とされた手首のミイラがアメリカで競売にかけられたが、売れなかったというのです。新聞には手のミイラの写真まで載っています。ただこれだけの話ですが、想像は果てしなく膨らみます。その王女は何歳くらいだったのでしょうか。16か17歳くらいでしょうか。ミイラのほっそりした指から想像するに、優しく芯が強く、それでいて掟の厳しさに疎い世間知らずだったのかも知れません。貧しい人に何を施したのか。これも想像をたくましくするに、相手は極貧の若い男で、王女が与えたのは、果物、たぶん葡萄だったのでしょう。超えられない垣根を超えて、王女と若者は、言葉も交わしたことでしょう。二人の間に恋心が芽生えたとまではいいませんが、何かお互いに惹かれるものを感じたに違いありません。この施しの様子が、スパイによってしっかりと記録され、告発されました。手首を切断される時の、王女の気持ちを察すると、哀れで胸が痛みます 。切断の瞬間。飛び散る血しぶきが目に見え、王女の絶叫が聞こえるようです。その後、王女はどのような生涯をたどったのでしょうか。施しを受けた若者は、王女に加えられた仕打ちを知って、どんな思いだったでしょうか。切られた手は、だれがどのようにしてミイラとして保存したのでしょうか。4000年前の王女の手は、いつの時代も変わらぬ人間の本質を語っているように思えます。優しさを貫くことは難しいが、残酷さを貫くことは簡単である、と。(12月4日)

 <天国の寅さんがタコ社長と再会して、またおっぱじまる喧嘩>
 天国にも柴又があって、やっぱり「とらや」というダンゴ屋があるのです。そこの居間で、寅さんと、初代おいちゃんの森川信が、お酒を酌み交わしています。「おいちゃん、地上ではそろそろ、寅がひょっこり戻って来るころだなあ、なんて言って空を見上げてオレのことを待っている季節だねえ」と寅さん。「バカだねえ、誰がお前のことを待つもんか。お前が死んで、あのシリーズはもう終わったんだぞ」とおいちゃん。そこへ、御前様の笠智衆がひょっこり顔を見せました。「今日は師走というのにあったかい気候でいい案配でしたな。コレ、寅はこっちへ来てから、すこしは精進しとるかな」。「へい御前様。こっちの国はわりと変化に乏しいようですが、まあ堅気にやっております」と照れる寅。そこへ表でドタドタと音がして、かけ込んできたのは、なんとタコ社長ではありませんか。「寅さーん、オレもとうとうこっちへ来ることになったよう」とタコ社長の太宰久雄。「いよう、タコ、久しぶりだな。お前と喧嘩が出来なくて、寂しがってたところよ。それじゃ盛大に歓迎会といこうじゃねえか」と寅。「寅さん、地上はどこもかしこも不況の嵐で大変だよ。鎌倉のキネマワールドも閉鎖だ そうだ」とタコ社長。「そうかい。みんなもう、オレのことなんか、忘れちまったんだな」と寅。「とんでもない。寅さん、あんたのうわさで持ちきりだよ。天国でも次から次へと美人に一目惚れして振られ続けてるんだろなあって。こっちでは何人に振られたんだい?」。「なんだと。人に言っていいことと悪いことがあるだろう。そのゆでダコみてえなツラ、洗って来い」。「久しぶりに会ったのに、ゆでダコとはひでえじゃないか」。つかみかかる二人を御前様も止めることが出来ず、おいちゃんは「オラ知らねえぞう」とオロオロするばかり。かくして、タコ社長の天国での1日目が始まったのでした。合掌。(12月1日)

ページの冒頭に戻る
メニューにジャンプ

1998年11月

 <2031年盛夏、東京都心の気温は43度になるという戦慄の予想>
 人間というのは、目先のことを考えるだけで精一杯の生き物なのですね。アルゼンチンで開かれた温暖化防止国際会議も各国のエゴが対立して見るべき成果もなく終わり、日本では財政構造改革法を凍結して膨大な赤字国債をさらに肥大させていく。つけはどんどん次の世代にたまっていく。つけの山で身動き出来ない状況になった時には、いまの無責任な指導者たちはこの世にいないのです。昨日の日経新聞別刷りの地球環境特集に、ギョッとするような予測が書かれています。エネルギー需要が増大を続ける東京都心では、2031年に夏の夕刻の気温が43度に達するという学者の推計です。43度!? 体温計の上限をも突破する暑さ。1994年の夏に東京で39度を記録したことがありましたが、この時でさえ、人間の生理的限界を超えた超猛暑と言われたものです。それが43度にもなったら、お年寄りを始めとして倒れる人たちが続出し、1日数百人というスケールで死者が出るでしょう。これだけの暑さになるとクーラーも効き目がなくなり、オフィスや工場、学校も機能がマヒして、人々は水着姿で街を行くのがあたりまえになるかも知れません。街のあちこちには、シャワー喫茶やプー ル喫茶が出来、繁華街や駅前には公衆シャワーが設置されるでしょう。半裸の女性たちを見ても、男たちは精子減少がいっそう進んで生殖意欲を失い、みなグッタリしてうだる夜を寝不足のまま過ごすだけ。「こんな状態になるまで、政治家は何をやっていたのか」と怒る声、嘆く声も、もはや手遅れ。いま手をこまねいていれば、33年後にはこの灼熱地獄絵図が現実となるかも知れないのです。(11月28日)

 <明日という字は明るい日と書く、ならば来年には明日がないのか>
 むかし「若いという字は苦しい字に似てるわ」という歌詞の歌があって、なるほど、若い時は誰でも苦しいんだ、などと妙に納得したことがあります。その歌の出だしの歌詞は「明日(あした)という字は明るい日と書くのね」でした。考えてみれば、明日はなぜ「明るい」なのでしょうか。これには、日本人の深い思いが込められているように思うのです。塩田丸男氏がある雑誌の中で、古今東西の俳句の中で最高の一句を強いて挙げるなら、自分は秋元不死男という俳人の次の句を挙げる、と紹介しています。
 明日ありや、あり、外套のボロちぎる
 これは敗戦直後に拘置所から出て間もなかった不死男の句で、想像を絶する貧しさの中でなお、「明日ありや」と自問して「あり」と自分に答えているのです。なるほど、僕たちは、今日がどんなに辛く苦しくても、つまらなくても空しくても、なお生き続けていることが出来るのは、明日が明るいという望みがあるからなのですね。明日が暗いと確信する時、人はその場に立ちすくんでしまうでしょう。今日の各紙朝刊に、電通がまとめた消費実感調査が載っていますが、それによると「来年は全体的に暗い年になる」と答えた人が、32.6%にも上り、昨年の同じ調査の11.9%の3倍にもなる、ということです。この実感は、おそらく正しいのでしょう。それでも明日がある、と信じることでしか、この世紀末を乗り切ることは出来ないように思います。(11月25日)

 <教皇グレゴリウスの勅命で永遠に消去された1582年の10日間>
 スティーブン・グールド著「暦と数の話」(早川書房)は世紀末に読むにふさわしい知的冒険の書です。この本のテーマは、僕のホームページの「2001年か2000年か」のページと全く同じで、祝うべきはどちらの年かという議論を、歴史的な経過や今日のさまざまな動きを折り込んで究明しています。この本には、暦にまつわる面白い話題が豊富にありますが、中には僕がまったく知らなかった驚くべき事実もあります。その一つが現在使われているグレゴリオ暦が制定された時の処理です。1582年2月、教皇グレゴリウス13世は大勅書を発令して、太陽暦とのズレが深刻になっていたユリウス暦を改正し、閏年の入れ方を新しくした暦法に切り替えました。ここまではよく知られていることですが、この時、グレゴリウス13世はすでに太陽暦とズレていた10日間をどうするかという問題を解決するため、その年1582年の10月5日から14日までの10日間を、永遠に存在しないものとして消去することにした、というのです。これは驚くべき柔軟かつ大胆な方法ではありませんか。一見すると、消された10月5日から14日までの間に起 きた事件の日付や、この間に生まれた人の誕生日はどうなるか、と考えてしまいますが、これは完全な錯覚で、前もってこれから先の10日間を消したのですから、この間に何事も発生するはずがないのです。つまりこの年の10月4日までがユリウス暦でその翌日がグレゴリオ暦10月15日になったのです。この間、自分の誕生日を祝うことが出来なかった人たちはまことにお気の毒。この夜、飲み明かした人は、暦の上で4日から15日まで飲み続けたわけですね。(11月22日)

 <オランジュリー美術館展の珠玉の名画を前に、現代の衰弱を憂う>
 Bunkamuraで14日から開催されているオランジュリー美術館展を観てきました。これは日本で開催される美術展としては、バーンズ・コレクション展とともに双璧の充実度を誇るといっていいでしょう。印象派からエコール・ド・パリまで81点まとまっての出展は、来年から2001年までかかる同美術館の大改装工事によって初めて可能になったということ。どの作品も上質で親しみやすく、たたずんでいると時の経つのを忘れます。19世紀後半から20世紀前半にかけて、まさに人類が築き上げた芸術の黄金時代。オランジュリーの作品群の完成度の高さを見るにつけ、20世紀の後半から今日に至る現代美術の「混迷・衰弱」に心細い思いがします。それは難解で聴衆を顧みない現代音楽においても同じです。今回の展示作品の中に、1908年に描かれたルソーの「釣りをする人々」という作品があります。上空に発明されて間もない飛行機が飛んでいます。当時の芸術家たちにとっても、科学の進歩は来るべきユートピアを約束する幸福の条件として映ったに違いありません。この新しい乗り物がやがて戦争に不可欠の乗り物となり、爆弾そして原爆を投下する手段として使 われていくとは、当時のだれが予想したでしょう。人類は第2次大戦を境にして今日まで、芸術や精神性の面では、衰退と脆弱化の一途をたどっているのではないでしょうか。21世紀、人類には新しい芸術を生み出す渇望や活力がはたして残っているのでしょうか。オランジュリーの名画たちは、時を超えて20世紀末の私達に、未来に進む精神のありようを問うているように思いました。(11月18日)

 <流星雨を見た者すべてが視力を失う「トリフィドの日」が現実なら>
 全天から雨のように降り注ぎ続ける緑色の流星雨。テレビやラジオは、この素晴らしい眺めを見逃さないように、繰り返し呼びかけ、世界中のほとんどの人々が流星雨を見る。そして、流星雨を見た人々は例外なく、視力を完全に失う。イギリスSFの傑作、ウィンダムの「トリフィドの日」です。18日未明に期待される「しし座流星群」によって、このような異変が現実に起こったらどうなるだろうか、と想像してみるのも楽しいものです。何も見えなくなった人々はまず、手探りで警察や消防署、マスコミなどに電話して、何が起こったのか知ろうとするでしょうが、警察官も消防署員もマスコミ従事者も、すべて視力を失ってしまったため、どこもかしこもパニックです。電話回線はパンク。交通から産業・流通、原発から自衛隊まで、何もかもがマヒ状態となり、あちこちで大きな事故が続発するでしょう。インターネットは手探りで接続しても、画面が見えないので、完全に無力です。群衆の混乱と騒乱。各国政府も対応に手間取り、パニックを沈める声明を出そうにも、国民への伝達方法がありません。ウィンダムの小説では、この状態でトリフィドが襲いかかってくるのですが、トリフィドが 襲わなくても人類は10日から20日程度で、半数以上が死に絶え、1月ほどのうちに9割が死に絶えるでしょう。たまたま何らかの事情で流星雨を見る機会を逸した一握りの人々を中心にして、人類が再興に立ち上がるのは、さらにその後です。世界や日本の昨今を見るにつけ、そうなった方がいいのかも知れないとも思ってしまいます。ということもあるので、「しし座流星群」は見ないでおこうかな…。(11月15日)

 <若き日の淀川長治さんが映画から教わった3つのスローガンとは>
 だいぶ昔のことになりますが、東京駅八重洲地下街の一角にある東京温泉で、素っ裸の淀川長治さんを見たことがあります。淀川さんはタオルで前を隠そうともせず、浴室のタイルの床で長い間横になって、のんびりとしたひとときを過ごしていました。淀川さんの顔を見つけて挨拶する入浴客のだれに対しても、ニコニコ顔で会釈を返していました。淀川さんが去年12月、日経新聞の「私の履歴書」というコラムに30回に渡って執筆した中の最終回で、若いころに自分が映画からもらった3つのスローガンを披露し、それが「私の若さの教科書」になっている、と書いています。この3つのスローガンとは、「苦労こい」「他人歓迎」「わたくしは、まだかつてきらいな人に、会ったことがない」。淀川さんは、これらの言葉をそれぞれ、15歳、18歳、19歳のころに、映画から教えてもらったといいますから、もうこれだけでも、映画の中の話のようです。その淀川さんにしてからが、テレビの録画でカメラに向かう時の気持ちを、「テレビは山の奥も、東京のどまんなかも、いっせいにうつる。こわい。神さま、助けて」と言い表しています。東京温泉で素っ裸でいる時、淀川さんは映画からも 離れて、最も神さまの近くにいたのではないでしょうか。日経コラムの昨年大晦日の最終回、淀川さんの最後の結びの言葉は、万人の胸を打ちます。「読者のみなさんは、この一年なにをなさったか。みんなと仲良くした、それが一番立派なことだよ」。淀川さんのご冥福を心からお祈りいたします。(11月12日)

 <「やぶさか」とは何のこと? 「やぶさかである」と言っていいの?>
 しょっちゅう聞く言葉なのに、よく考えると何の意味か分からない言葉は結構あるものです。その代表格が「やぶさか」です。「野党と話し合いをすることにはやぶさかでない」「業界としても前向きに取り組むことにやぶさかでない」。はて、「やぶさか」って何のことだろう。広辞苑を引くと、漢字では「吝」という字で、「物惜しみするさま。けち」とあります。つまり、「やぶさかでない」は、物惜しみはしない、けちではない、ということで、「…する努力を惜しまない」「快く…する」ということになるのですね。しかし、このもったいぶった言い方は、やんごとない地位や偉い立場にあるものが、「本来そんなことをするいわれはないのだが、世間も何かとうるさいし、まあこの際だから周囲の顔も立てて応じてやるか」と物惜しみたっぷりで、恩着せがましく言う言い方だと思っていいでしょう。こんな便利な言い方は政治家や経営者に独り占めさせないで、みんなが日常会話でどんどん使いましょう。「今夜あなたとお食事することにやぶさかではないわ」「帰りは君を送っていくことにやぶさかでないよ」。うーん、いったい本音はどっちなのか分からなくなりますね。じゃあ、「やぶさ かである」という言い方をしたら、どうでしょうか。「ボク、今日は勉強することにやぷさかだよ」「あたし、あなたとのお付き合いを続けることに、やぶさかなの」。意味がはっきりしていて、なかなか迫力がありますね。「政府としては消費税率を引き下げることにやぶさかである」「オレたちって、そういう内閣を支持することにやぶさかジャン」。(11月10日)

 <宙がえり 何度もできる 無重力 天女よびかけ 一億歌詠む>
 向井千秋さんが宇宙で詠んだ上の句に続けて、下の句を作ってほしいという国民への連歌の呼びかけは、日本の短歌史どころか、日本文化史における画期的な「歌遊び」ではないでしょうか。七七を作るのは、歌人素人を問わず、また老若男女幼児までだれでも参加できるし、万葉人が始めた日本独特の優雅な文学的コミュニケーションを、宇宙時代に再生させて新しい息吹を吹き込むものです。さっそく、テレビや新聞は、この下の句づくりで盛り上がっています。昨今の世相と結びつけた狂歌風のものも多く、「それにつけても金の欲しさよ」なんていう下の句もありました。みながすなる連歌づくりにわれも加わらむと下の句を詠める……
 宙がえり 何度もできる 無重力 誰も止めねば 永久回転
 宙がえり 何度もできる 無重力 採点どうする 体操競技
 宙がえり 何度もできる 無重力 かわいいわねと 宇宙人たち
 宙がえり 何度もできる 無重力 天女薦める 立体バスケ
 宙がえり 何度もできる 無重力 初めて気づく 地球の重み
 宙がえり 何度もできる 無重力 地上は今日も テロと爆撃 (11月7日)

 <止まらない巨象だったハイビジョン、2003年放送打ち切りの衝撃>
 あぶないところだった、あわててハイビジョンテレビを買わなくてよかった、と胸をなでおろしている人は多いことでしょう。今朝の日経1面トップで報じられた「ハイビジョン試験放送2003年打ち切り、デジタル転換急ぐ」の衝撃特ダネ。飛行中のスペースシャトルの船内では向井千秋さんがNHKのハイビジョンカメラで船内外の映像を撮影し、帰還後に大々的に放映することになっているという時に、関係者のショックはいかばかりかと察せられます。これはハイビジョン方式の完全な敗北であり、多額のお金と人材を投じてきた巨大プロジェクトの失敗にほかなりません。そもそもハイビジョンの開発は30年も前にさかのぼります。当時はコンピューターといえば部屋いっぱいを占めるほどの巨大なもので、やがてパソコンが登場して驚異的な進化を遂げ、世界的なネットワーク化とデジタル化が進行していくことなど、当時の開発陣が予想も出来なかったのは当然です。しかしその後、アナログ方式のハイビジョンで本当にいいのかという疑問は各方面から強く出され、とくに90年代に入ってからはこのままではデジタルの趨勢の中で孤立は必至と指摘されてきたのに、NHKも郵政省も突 っ走ってしまった。なぜもっと早く方向転換出来なかったのか。それは、ハイビジョンがNHKという「官」による巨大公共事業だったからです。これまでに投資した費用の巨額さ、メーカーからアーチストまで動員した関係者の数、そして何よりもNHKのメンツ。民間主導だったら、とっくに打ち切られていたでしょう。方向転換出来なかった巨象は、虚像の姿を残して消えていくのです。(11月4日)
 夜7時のNHKニュースによると、野田郵政大臣やNHK理事は、日経の報道内容について「そのようなことは一切ない」と否定した、ということです。

 <中央公論社の読売傘下入りは序章、情報再編で死滅する社が続出>
 中央公論社が読売新聞社の傘下入りというニュースは、いよいよ激動の情報ビッグバン到来を示しています。21世紀に向けて、新聞、出版、放送、通信のすべてを巻き込んだ未曾有の再編・淘汰が迫っているというのに、マスコミ業界には危機感や改革意識が乏しく、老舗の暖簾や伝統、バブル期の甘い夢にしがみついたまま、破局への道をまっしぐらに突き進んでいます。「紙の新聞は決してなくならない」などと根拠のない戯言を繰り返す大新聞の幹部や記者たち。恐るべき速度で進む情報通信革命から目をそむけ続ける大新聞は、真っ先に淘汰の大波をかぶって死滅していくことでしょう。その中で、新しい時代の流れを早くから読んで対応をはかろうとしているのは、日経と読売です。毎日は変革の志向はあるけど、経営基盤の弱さから動きが取れない状態。最も危機的なのは朝日です。朝日はトップから中堅、末端に至るまで、天下の朝日のプライドと奢りに浸りきっていて、改革に対して極めて保守的です。今朝の朝日家庭面のコラム「CM天気図」で、天野祐吉さんが新聞各社のCMについて触れ、いま新聞社のCMがやるべきことは、購読電話番号のゴロ合わせではなく、世の中が大き な音を立てて変わろうとしているときに、新聞はいったい何ができるのか、その役割をどう立て直そうとしているのかについて、新聞社がそれぞれの考えやプランをいきいきと人びとに伝えていくことだ、と述べています。天野さんがこのことを最も言いたかったのは、朝日に対してであることを、朝日のトップの何人が気付いているのでしょうか。(11月1日)

ページの冒頭に戻る
メニューにジャンプ

1998年10月

 <ほら、「じゃないですか」って言い方が流行っているじゃないですか>
 「私って朝に弱いじゃないですか」というヘンな言い方が若い人たちを中心に蔓延しているじゃないですか。最近は若い人だけでなく、年輩者も使うし、テレビに出ている芸能人やタレントも日常的に使っているじゃないですか。この言い方は、社会現象としてさまざまな分析がなされているじゃないですか。まず、この言い方は、はっきりモノを言うことを避けようとしているじゃないですか。しかしその一方では、相手に有無を言わせぬ同意を強要していて、やんわりと言っているように見せかけて、実は自分の意見の巧妙な押しつけになっているじゃないですか。この言い方を文法的に分析してみると、「じゃない」という否定形と「ですか」という反語の組み合わせになっているじゃないですか。だから、いったん否定したことの反語になって、「私は朝に弱くないだろうか、否、弱いに決まっているではないか」という強烈な肯定になるじゃないですか。この言い方は、自分自身のことや自分たちのグループのことを言う場合に最も効果的に使われているじゃないですか。例えば、「私たちってワインとチーズでめっぽう盛り上がるじゃないですか」とか「私っていまおなかペコペコじゃないですか 」とか、よく使っているじゃないですか。結局、自分はこうだとか、こうしたいとかを、ストレートに表現していないのに、相手の同意をちゃっかり先取りしている形になっているじゃないですか。僕たちって、こういう言い方されると、「いや、ちがうよ」とは言いにくいじゃないですか。(10月29日)

 <悪魔に魂を売り渡して好きなものがもらえるなら、あなたはどうする?>
 一昨日のN響アワー。リストのメフィスト・ワルツが終わったところで、壇ふみさんが池辺晋一郎さんに尋ねました。「先生は悪魔に魂を売り渡すとしたら、何を引き替えにもらいますか?」。池辺さんは「うーん、考えたこともないけど、悪魔の魂を買おうか」なんて言っていましたが、壇さんは迷うことなく「私だったら、やっぱり若さだわ。青春買うわ」っておっしゃいました。壇さんのようにまだ若くておきれいな女性でも、なお「若さ」なんですねえ。こうした素敵な答えをためらいなく表明出来る壇さんには、悪魔の方から恋をしてしまうかも知れませんね。あなたなら、悪魔に魂を売り渡してでも欲しいものは何ですか。僕だったらどうするか。お金? そんなものはアブクです。地位も名誉も権力も、魂と引き替えるにはミミッチすぎます。では、片想いの恋の成就は? 魅力的だけど、しょせん人の心はうつろうもの。どんなに激しい恋も、成就すれば色あせて終焉する。永遠に続く恋などこの世に存在しないのだよ。では、この世の真理を知りつくすことはどうだ。ファウストに近づいてきたではないか。しかし、真理に到達したとして、ではどうする? やはり空しく、満たされないの ではないか。そこで僕が魂と引き替えてでも欲しいものがあるとしたら「不老不死」ですね。まあ壇さんの若さと似てはいますが、僕は若くなくてもいいから、いまの状態のまま永遠に生きて、人類や地球、宇宙の最後の最後までを見てみたい。いかがですか、悪魔どの、契約しませんか。(10月26日)

 <2002年のクローンマンモス誕生へ前進、恐竜再生も夢ではない>
 日本の科学者が中心となって、SFを地で行く壮大な夢のプロジェクトが着々と進行しています。1万年前に絶滅したシベリアのマンモスを、クローン技術によって現代に蘇らせようという計画で、うまくいけば2002年にはマンモス誕生が実現する見通し、とのこと。中心となっているのは入谷明・近畿大教授で、ロシア・サハ共和国の氷壁に眠るマンモスから保存状態の良い体細胞核を採取し、タイのアジアゾウに移植する。それぞれの国に関係者の協力も取り付け終わった。実行開始は来年夏。計画がうまくいって、2002年にクローンマンモスが誕生した時、世界中が大騒ぎになることでしょう。誕生したマンモスはどこで飼育するのでしょうか。現代の世界でもマンモス飼育が可能であることがはっきりしたら、2頭目、3頭目のマンモスを誕生させ、動物園で一般公開することを考えてもいいかも知れません。マンモスの次は、クローン技術で恐竜を再生しようという計画が必ず出てくるでしょう。それについての世界の世論は、賛否両論に分かれるでしょう。さまざまな議論が噴出するにしても、僕は21世紀のかなり早い時期に恐竜の再生は実現するだろうと思います。再生された恐竜は 国際的な管理の下に、慎重に飼育されることになるでしょう。長い地球の歴史の中で、人間は最も遅れて登場した新顔に過ぎないのだという事実を、みんなが噛みしめるのも意義あることかも知れませんね。(10月23日)

 <戦争の投影としての「肝臓炎」−映画「カンゾー先生」の人間模様>
 今村昌平監督の「カンゾー先生」を観てきました。山下洋輔の洒落たジャズを背景に描かれるのは、太平洋戦争末期という時代の中を、たくましく、おかしく、優しく生き抜く人間たちの輝きです。柄本明演じるカンゾー先生は、往診への行きも帰りも自転車など使わずに、ただひたすら走り続けます。走ることはすでに自分の診療行為の一部であるとともに、走ることによって時代の狂気と対峙しているといってもいいでしょう。カンゾー先生は、どの患者に対しても「肝臓炎」という診断を下し続けるのですが、この町医者が解明しようと挑んだ「肝臓炎」とは、実は戦争の投影であり、病んだ時代の個人レベルでの発症なのだと思いました。ラストで原爆のキノコ雲がやがて肝臓の形に変わっていくのはシュールです。カンゾー先生もほかのさまざまな登場人物も、みなどこかアブノーマルで滑稽でぶざまに見えますが、実は彼らこそが真にまともに生きているのであって、狂っているのは時代の方なのだということに気付かされます。新人の麻生久美子が演じるソノ子は、そのことを最も見事に表現しています。淫売と呼ばれ少々オツムの弱いところがあるソノ子の、ひたむきさとやさしさが、狂気の 時代に毒されない清々しい救いとして、ひときわ印象に残ります。いつの時代でも、権力から最も無縁のところにいる市井の人々の中にこそ、人間の生きる原点があり、まっとうで正直な生の輝きがあるのですね。多くの人にお薦めの映画です。(10月20日)

 <西暦2000年の幕開けはコンピューターの世界同時反乱で破局か>
 数年前からずっと警告されていたコンピューター2000年問題が、あと1年2カ月ほどしか時間がない今ごろになって、ようやく騒がしくなってきました。英国政府はロンドンで始まった国際会議でこの問題での国際協調を呼びかけ、米国政府は19日から「全米2000年問題行動週間」とするなど、危機感をつのらせています。最も対応が遅いのは日本です。時間切れが迫っているのは分かるけど、戦後最悪の経済低迷の中で、企業としてはそれどころではないというのが実状でしょう。今朝の朝日と日刊スポーツがこの問題でそれぞれ1ページの特集を掲載しています。どちらの記事を読んでもよく分からないのは、30年前の技術者やプログラマーたちは、後々にこんな大問題になることをなぜ放っておいたのでしょう。結局、いつの時代でも人間というのはその時が最先端の時代と信じこんでいて、現在の行為が未来に及ぼす結果にまでは考えをめぐらすことが出来ない存在なのでしょう。いま私達に求められているのは、歴史を見通し、少なくとも数十年先から100年先くらいまでを常に考えて物事を運ぶこと。そして、自らを歴史の中の存在として謙虚に位置づけることです。このままでは 、2000年の幕開けは、祝賀ムードどころか日本発のコンピューター誤作動が引き金となって、世界中のコンピューターが連鎖的に反乱を増幅し、破局的な混乱を迎える危険があります。それは、21世紀を拓くための人類の「授業料」だとしても、とてつもなく高いものになることでしょう。(10月17日)

 <プロ野球祝勝会でビールをかけられる女子アナの姿は感動ものだ>
 プロ野球でVを決めた夜の恒例ビールかけ。スポーツ記者やカメラマンたちが、巻き添えになってビールをかけられるのは、昔ながらの光景ですが、これらの男どもにまじって、女性のアナウンサーやスポーツキャスターたちの姿が見られるようになったのは、ここ数年のことでしょう。あろうことか、花も恥じらう乙女(ではないとしても)たちが容赦なく頭からビールをかけられ、ずぶぬれになりながらも健気に選手や監督にインタビューする姿。これはまさしく、感涙、感動ものです。いえ、決して彼女たちのあられもない格好を見たいためだけではないのです。それももちろんありますが、本来男たちだけの祝祭の儀式の場に、彼女たちが果敢に突入を果たし、選手や監督たちとともにビールの洗礼を浴びるという、祝祭空間の共有の仕方に、胸が打ち震えるほどの感動と、コーフンを覚えるのです。髪のセットも化粧もあったものではありません。それどころか、雨ガッパなどを着ていても、ビールは頭から顔から、さらに首から服の中にも注がれ、もはや衣服も下着も通して彼女たちの全身は、ビールまみれとなり、なおかつ生中継のインタビューをその姿で続けなければならないという、このよ うな残酷かつ愉悦に満ちた場面というのは、そうそうないものです。久保純子(NHK)や白木清か(テレ朝)はずぶぬれ姿がとりわけカワユク、聖なる祝祭の場に捧げられた生け贄の処女のごとし。この後、彼女たちはずぶぬれの衣服をどこで着替えるのだろうと気になってしょうがないボクは、やはりオジサン世代に入ったのかなあ。などと思いつつも、こんどは日本シリーズのビールかけを見るのが楽しみでなりません。(10月14日)

 <政府から商品券をもらってうれしいか? 国民愚弄の浅知恵を笑う>
 低迷する消費を刺激するために政府・自民党が検討を始めた、いわゆる「商品券」構想をめぐって、さまざまな意見が出されています。使用期限付きで換金禁止の商品券を配れば、国民は買い物をするようになるだろうという、この浅はかな発想が悲しい。国民はお金がないから消費を手控えているのではないことは、さんざん言われているというのに。商品券をもらったらどうするでしょうか。まずはなんとか換金することを考えるでしょう。ヤミの換金サービスがあちこちで堂々と行われるでしょう。商品券で米ドルが買えます、という店も急増するでしょう。使用出来る商品を制限するとしたら、商品券の使えない店からの反発は必至です。どんな商品やサービスにも使えるようにすれば、日々の食糧や日用品、新聞代や公共料金などに使ってしまうでしょう。それで節約出来たお金を貯蓄に回すだけです。商品券で買った品物を返品すれば、現金で戻ってくるかもしれませんね。抜け穴だらけで、混乱は必至。所得の低い層だけに配布することも検討しているということですが、商品券を出す場面での屈辱を考えてみて下さい。何よりも、国民がものを買うかどうかの決定権を、お上が指示出来るとい う発想自体が国民愚弄もはなはだしいところです。しかもこの財源は、結局国民の税金です。商品券をどのようなルートで配布するにしても、さまざま問題が生じます。配った、受け取っていない、のトラブル。在日朝鮮人や外国人労働者に対してはどうするのでしょう。商品券の受け取り拒否や返上、さらには違憲訴訟などの動きも出るかも知れませんね。(10月11日)

 <38年ぶりV達成の横浜で思い浮かぶ浅沼社会党委員長刺殺>
 横浜ベイスターズが38年ぶりのリーグ優勝達成。そこで僕の脳裏に浮かぶのは、社会党の浅沼稲次郎委員長刺殺事件です。1960年10月12日。ラジオでは日本シリーズの実況放送が流れていました。三原監督のもと初優勝を遂げた大洋(現横浜)対大毎(現ロッテ)の第2戦。その野球中継が中断して、流れたのは臨時ニュース。「東京・日比谷で行われていた三党首立会演説会で、社会党の浅沼委員長が刃物で刺され、重傷を負った模様です」。さらに続報の臨時ニュース。「刺された浅沼委員長はさきほど死亡しました」。この速報は、日本シリーズをラジオで聴いていたすべての人々に大きな衝撃を与えました(なぜ僕にこの記憶がある? 伝聞の記憶なのか、それとも僕が実在したのか?)。60年安保の6.15から4カ月。日本中が揺れに揺れた政治の季節。民主主義という言葉が生き生きしていて、左翼も右翼もノンポリも、日本人がみな青春の血潮に燃えていた時代。退陣した岸内閣に代わって登場した池田内閣が、所得倍増政策を唱えて、高度成長が始まる直前でした。浅沼委員長の刺殺で、政治の季節は終焉し、長い経済の時代が始まります。この経済の時代の結末が、今日の日 本経済の凋落と社会の荒廃です。日本は経済大国の幻影と引き替えに、多くのものを失いました。横浜の久々の日本シリーズ進出は、僕達がこの38年間をそれぞれに総括する格好の機会なのではないでしょうか。(10月8日)

 <疑惑の夫婦逮捕でナゾ深まる和歌山カレー事件の動機は何か>
 保険金疑惑で夫婦を逮捕。そこで一段とナゾが深まるのは、無差別大量殺人をねらったかに見えるカレー事件は誰が何のために起こしたのか、という点です。カレー事件で誰が最も利益を得たかと考えていくと、迷路に入りこみますので、カレー事件を起こすことによって不利益を阻止しようとした者は誰か、と考えてみましょう。カレー事件が起きなかったら保険金疑惑は浮上しなかった、という点は本当かどうか。保険金疑惑は、カレー事件が起きる前に、保険会社などからの疑惑指摘によって警察が内定を始めていたという報道もあります。保険金疑惑にからんでいる人物は、妻のほかに、夫がおり、直接狙われた35歳のAさんや、46歳のBさんがいる。ヒ素を使える立場にあることは、妻と夫以外は知らない、というのはどこまで真実か。犯人は、無差別大量殺人を装って、関係のない他人を巻き込んでしまえば、動機面から捜査が壁にぶちあたることを十分知っていた。こう推理していくと、カレー事件の真犯人は、さまざまな面で、保険金疑惑事件と表裏一体の関係にあることが分かります。犯人にとってカレー事件の展開は誤算だったのか、それとも計画通りの展開だったのか。犯人がカレ ー事件によって阻止しようとした「不利益」の実体は何か? 事実は小説よりも奇なり、を地でいくような世紀末的事件です。(10月5日)

 <シューベルトの「死と乙女」に思い浮かぶ澄んだ大気の光と影>
 特定のメロディーが過去の特定の記憶を呼び起こすことはよく言われています。僕は、シューベルトの弦楽四重奏曲「死と乙女」第1楽章の第2主題を聴くと、なぜか澄んだ空気の中を降り注ぐ太陽の光と影の情景を思い起こすのです。暑くも寒くもない、五月晴れか秋晴れの午前。それは、いつの何の思い出というよりも、その太陽のまぶしく澄み切った光の具合と、影になった部分との強烈なコントラスト、その微妙な大気のにおいや感触が、直感的に思い浮かぶのです。いつかあの光と影の中に、僕がいた。幼い日のことだったのかも知れない。そばに母がいたような気もする。もっと後にも、この光は体験した。中学や高校のころ。大学のころにも、何度かこの光は僕の前に現れた。大気はあくまで冷涼に澄んでいて、塵や水蒸気がほとんどなく、日の光は純粋なままあらゆるものに注がれて、日ごろは見えない事物の内面からの輝きを引き出す。今日、久々に晴れ上がった東京で、本当に十何年ぶりかに、この輝く空気を体験しました。長い秋雨によって大気の塵が落とされ、地面がまだ湿っているため、車による埃も立たない。加えて乾燥した大気と雲一つない快晴。この驚異の日光と大気に浸る ことが出来たのは、午前中の2時間ほどでした。そしてこの感触は、不思議なことにシューベルトのあのメロディーを想起させてくれたのです。特定のメロディーと大気の光加減が、何かの暗号を通じて、深いところで繋がっているのだとしか思えません。(10月2日)

ページの冒頭に戻る
メニューにジャンプ

1998年9月

 <ローマの遺跡に思う−現代の私達に注がれる未来の人々の視線>
 ローマの街中の無数の遺跡やポンペイの遺跡に立って、不思議な既視感に襲われました。既視感というよりは、逆デジャ・ヴュといったほうがいいかも知れません。いまこうやって、古代ローマの文明の跡を見ている僕の視線が、何千年後かに、現在の文明跡地を「古代文明」として見ている後世の人たちの視線と、重なったような気がしたのです。そして一方では、はるか昔にローマの文明こそ最先端の時代であることを信じて疑わなかったローマ人たちの息づかいが、現在こそ文明の最先端であると思っている僕たちの呼吸と、重なったように思えました。この、過去、現在、未来の3重投影の感覚は、初めて実感するめくるめく感覚でした。僕達の生きる20世紀末の時代が、いつかは「古代」として、遺跡を観光されるような対象となっていく。そんなことはありえない、とみんなが思っているかも知れませんが、古代ローマの人々もそうだったのです。40世紀あるいは50世紀の人々は、20世紀から21世紀ころの文明や社会を、どう評価しどんな位置づけをしているでしょうか。それを考えると、僕達は個人のレベルでも社会や国家のレベルでも、あまりにもみっともない行動は取れなくなる のではないでしょうか。僕達は、未来に対して、多大な責任を負っています。歴史の評価に耐えうる文明を継続させていくこと。そしてなによりも私達の時代に文明を破綻させないこと。私達に注がれる、はるか未来の人々の視線を感じませんか。(9月30日)

 <キリストが再臨したら、この2000年間の世界をどう思うか>
 ヨーロッパの美術館をめぐるちょっとした旅をしてきました。大英博物館とナショナル・ギャラリー、ルーブル美術館、オルセー美術館、バチカン美術館。回ってみて驚いたのは、キリストの降誕や十字架刑(磔刑)をテーマにした絵画や彫刻の圧倒的な質量でした。とくに磔刑は、ほとんどあらゆる作者がテーマとして挑んでいて、この出来事がその後の世界とくにヨーロッパにいかに重大な影響をおよぼしたかが、うかがえます。キリストが現代に再臨して2000年間に起こったことを知ったら、何と言うでしょうか。「みんな、私が言いたかったことを誤解している。私の処刑の様子を大量に絵や彫刻にするよりも、もっとほかのことをやってほしかったのだ」と首を横に振るでしょう。神とキリストの名による宗教弾圧やユダヤ人迫害。20世紀に起きた戦争と抑圧、差別と弾圧、虐殺。アウシェヴィッツやヒロシマ、ナガサキ。これらの実状を知ったキリストは、「私がめざした世界は、こんなはずじゃなかった」と泣き崩れることでしょう。そして「私は再臨すべきではなかったのだ」とすごすごと消えてしまうかも知れません。一人の個人の言動によって、その後の世界の姿をすっかり変えて しまう影響力を及ぼしたのは、キリストをおいてほかにいないでしょう。それだけに、この2000年間についてのキリスト自身の総括をぜひ聞きたいものです。(9月27日)

 <「だんじりまつり」や「がんばれ!ニッポン!」が登録商標とは>
 登録商標とは商品名や会社名に認められるものだと思っていましたが、最近は「だんじりまつり」や「がんばれ!ニッポン!」などのキャッチフレーズを登録申請する動きが相次いでいるとのこと。なるほど、これも著作権を尊重する時代の流れかという気もしますが、一方では、どこまでをオリジナルのキャッチフレーズとして認めるかは、難しい問題です。「だんじりまつり」が認められるのならば、この祭りのかけ声の「ソーリャ、ソーリャ」は登録商標として認められるか。浅草三社祭の「ソイヤ、ソイヤ」や祇園祭の「コンチキチン」はどうか。「がんばれ!ニッポン!」が認められるならぱ、「ニッポン、チャチャチャ」はどうか。こうなると、いろいろなフレーズが登録申請される可能性がありますね。「地球にやさしい」から「宇宙船地球号」まで、申請されて認められたりしたら、うっかり使うことも出来なくなってしまいます。早い者勝ちでキャッチフレーズの申請合戦になりかねません。このホームページのタイトル「2001年の迎え方大研究」も申請しておかなくっちゃ。小渕さんは「冷めたピザ」を登録申請しておいた方がいいでしょう。クリントンさんとルインスキさんは「不 適切な関係」を登録申請したらいかが。(9月15日)

 <インターネット冷蔵庫よりも、超薄型のペーパータイプ端末を>
 インターネット家電の中で、いま注目を集めているのが、前面にインターネットの画面をはめこんだ冷蔵庫なのだそうです。冷蔵庫はいつも電源が入っている、広い壁面が空いている、家庭内で人がよく通るところにある、などが、理由ということ。いつも電源が入っているといえば、温水便座があるけど、トイレにインターネットというわけにもいかないでしょうからねえ。冷蔵庫のアイデアは秀逸ですが、長時間に渡ってネットサーフィンをしたり、ホームページの更新やメール作成をしたりとなると、いささか不便です。そこで、インターネット端末の一番いい形は、大学ノートサイズの超薄型、超軽量のペーパーインターネット端末ではないでしょうか。早い話が、プラスチックの下敷き程度の薄さ・軽さで、多少折り曲げても平気という柔軟性を持たせます。電源はボタン電池1個で1カ月は持つくらいにし、コードレスで送受信出来るのはもちろんです。これなら冷蔵庫の前面に張り付けるもよし、カレンダー感覚で壁に架けておくのもよし、バッグに書類と一緒に入れて持ち歩くもよし。キーボードもペーパータイプにします。さらにこの端末に、携帯テレビと携帯電話の機能も持たせましょう 。こんな端末が出来るのは、意外に早いのではないでしょうか。あと数年後、21世紀の冒頭にはこのタイプが普通になっていて、幼児からお年寄りまで1人1枚のマイ端末時代が出現していることでしょう。(9月12日)

 <マグワイアに真っ向から挑んだ投手陣に野球の神髄を見る>
 1985年10月24日、王選手の持つ55号ホームランに挑戦する阪神・バースに対し、巨人投手は5打席連続敬遠。1992年8月16日、熱闘続く甲子園で、星稜・松井(現巨人)に対し、明徳義塾の投手は5打席連続敬遠。こうした顔が赤くなるほどの汚辱はいつまでも語り継がれます。これが日本の野球なのです。ひるがえって米大リーグではどうでしょう。前人未踏の世界記録、62号ホームランを達成したマーク・マグワイア選手に、投手陣は真っ向から勝負を挑み、60号、61号、62号とも、全力投球の結果でした。日本だったらどうなるか。記録達成が近づくにつれて、敬遠気味の四球が乱発され、最初から捕手が立ち上がる敬遠四球も堂々と行われるでしょう。ブーイングや批判に対しては、「チームの勝敗を考えての敬遠で、やむを得ない」とか、「敬遠は投手も大きなリスクを負うのだから、逃げたという非難はあたらない」とか「投手のつらさも考えよ」とか、ハンで押したような弁解が返ってくるのが、目に見えています。野球の始まりは、投手が打者に対して打ちやすい球を投げること、という基本的なことが日本ではすっかり忘れられてしまいました。日本人がいかにス ポーツというものを歪曲しているかを示していて、恥ずかしい限りです。マグワイアの62号大記録を生んだのは、大リーグのすべての選手や関係者とファン、スポーツを心から大切にするアメリカの風土といってもいいでしょう。(9月10日)

 <黒沢明の「生きる」は後半なぜ告別式の回顧になるか>
 黒沢明監督の「生きる」を初めて観た時、物語の途中で一転して志村喬演じる主人公の告別式となる構成に強いショックを受けました。主人公の新たな生き方の全てが告別式での回顧シーンで綴られ、公園でブランコに乗って「ゴンドラの唄」を口ずさむ有名なシーンも、回顧の最後の一こまという驚き。その意味がよく分からなかったのですが、最近になって、人生とは、自分の死から逆算して生きることであり、告別式からの逆コマ回しそのものではないか、と思い始めています。「死」があるから「生きる」ことが光り輝き、重大な意味をもってくる。この映画で「ゴンドラの唄」は大変重要な役目を担っています。「命短し」という命題と、「恋せよ乙女」という命題。主人公は、小田切とよという少女の生き方に感銘を受けて、自分の生きがいについて目覚めさせられ、少女から「老いらくの恋い? だったらお断りよ」と疎まれるほど少女の後を追い続けます。映画では、これは恋などというものではないのだ、という描き方をされていますが、主人公は心の最深部で少女に恋をしていたに違いない、と僕は思っています。ガン死を目前に、生命を燃焼させ尽くすことが出来たのは、少女のまぶし い若さへの憧憬と、絶望的な深い思いがあったからにほかならない、と思うのです。こう解釈していくと「ゴンドラの唄」は、いっそう壮絶な味わいをもってきます。黒沢監督もいま天国のブランコで、この唄を口ずさんでいることでしょうか。ご冥福をお祈りいたします。(9月7日)

 <毒物事件の連鎖反応で崩壊する、信頼に支えられた社会>
 和歌山のヒ素カレー事件に続いて、新潟の毒入りポット事件、東京のクレゾール入り「やせ薬」事件、さらに長野の2つの毒入りウーロン茶事件と、日本社会の暗い病巣が一気に表面化してきた感じです。連鎖反応がこうも続く理由は、毒物の管理のずさんさはもちろんですが、犯人がなかなか捕まらないことが一番の問題です。犯人たちは、社会にたいする自分の「影響力」に密かにほくそ笑み、世の中なんてちょろいもんさ、と狂気の愉悦に浸っていることでしょう。こうした事件がもたらす社会へのマイナスは計り知れません。だいたい社会とか集団というのは、ほかの人間たちへの無条件の信頼の上に、かろうじて成立しているものではないでしょうか。だれかが毒を入れたかも知れないという疑いを持ち始めたら、スーパーの生鮮食品や持ち帰り総菜から、食堂やレストラン、学校や病院の給食に至るまで、すべて口にすることが出来なくなってしまいます。災害時の炊き出しや被災者に配られる弁当などは最も危険でしょう。人間すべてを疑ってかからなければならない社会とは、もはや息を潜めて自分の身を守るしかなく、活力も進歩も希望も生まれることのない牢獄社会です。今回の一連の事 件は、人間が長い時間をかけて醸成してきた社会集団の基本的な成立条件を崩壊させ、猜疑に満ちた野獣の状態に逆戻りさせてしまうものです。日本社会が今回の事態にきちんとけじめをつけないと、21世紀は来ない、といっていいでしょう。(9月4日)

 <秋の夕暮れと「もののあはれ」、20世紀のラスト3の秋に思う>
 9月の声をきいたら、とたんに風の音まで違って聞こえてくるから不思議です。
 秋きぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる 敏行
 日本人の季節感の中でも、秋ほど心に響く季節はありません。実りの秋とか芸術の秋とか食欲の秋などとは全く別の次元の、「もののあはれ」の本質を、全身で感じる瞬間が、秋の中に確かにある。そのことを、昔から日本人が直感的に感じ取っていたからにほかなりません。最も峻烈にそれを実感するのが、秋の夕暮れなのですね。
 心なき 身にもあはれは しられけり 鴫たつ澤の  秋の夕暮 西行
 見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの  秋の夕暮 定家
 実際、秋の夕を歌った歌は数知れず、「秋の夕暮」で終わる歌だけでも大変な数にのぼります。古来から、私達の先輩たちは、秋の夕暮れに、今存在しているすべてのものが、うつろう時の中で役目を終えて滅んでいく、存在の定めのようなものを見ていたに違いありません。それはこの世の本質、もともと「無」から生じたこの世界に、気が遠くなるほどの時間をかけてやはり「無」から生みだされたすべての生ある存在をつらぬく本質といっていいでしょう。20世紀文明は奢りの極みに達し、いにしえびとが直感していたこの真理は、見向きもされなくなってしまいました。些細なことで争いに明け暮れ、目先のことだけで頭が爆発しそうな哀れな現代びとたち。21世紀に持っていく必要があるのは、秋の夕暮れに宇宙存在の本質とはかなさを知り、いまの一瞬一瞬をいつくしむ感性だけで十分です。愚かな闘争心や征服欲は、20世紀に置いて行きましょう。(9月1日)

ページの冒頭に戻る
メニューにジャンプ

1998年8月

 <世界同時株安による世界経済危機は、レーニンの復讐という見方>
 ここ数日の世界同時株安の進行と、世界の経済危機の進行には、不気味なものがあります。混乱はロシア、アジアやヨーロッパだけでなく、中南米からさらにアメリカにまで波及しています。ロシア経済の危機も含めて、大きな震源が日本にあることは明白です。その中でも金融機関の不良債権は、素人目にもこれが世界経済のガンになっていることが感じられます。回収の見込みのない融資をした経営陣は、背任罪とか特別背任などの刑事責任を問われたり、商法上の違法行為として、法的責任を問われるべきではないでしょうか。無責任放漫経営の金融機関は破綻してあたりまえです。いまの世界の状況に対して日本の責任は重大ですが、その根底には資本主義が極めて脆弱になり、抵抗力を失っているという問題があります。米ウォール街には今回の株の暴落に対して「レーニンの復讐」という声が出ているといいます。20世紀の最も大きな挑戦だった社会主義が自壊したことで、資本主義も敵を失って緊張感がなくなり、内部から腐敗と崩壊の速度を早めつつあるのではないでしょうか。社会主義が突きつけた問題の重大さや意義を検証もせず、資本主義こそ永遠の繁栄システムなどと浮かれている うちに、世界中に火の手が回ってしまったというところでしょう。人類は結局、新たな経済体制や社会体制を見いだせないまま、21世紀に突入していくかに見えます。いま起きている危機の本質をズバリ一言で言い表す言葉として「レーニンの復讐」とは実に言い得て妙ではありませんか。(8月29日)

 <年312万円でバンダの後見人になって、ぜひやってみたいこと>
 日経夕刊によると、資金不足に悩む中国の広州動物園が年間約312万円でパンダの後見人を探している、とのこと。後見人になると、パンダに好きな名前をつけられ、パンダと一緒に遊んだり、パンダを広告に独占的に使える特権があるそうです。ただし飼育方法への口出しは出来ず、パンダが死んでもお金は返還されない。312万円が安いか高いかは、後見人としてどんなことが出来るかによるでしょうね。ぼくがもし後見人になるとしたら、名前をつけたり広告として使うなどはしない代わりに、ぜひやってみたいことがあります。それは、1週間だけそのパンダを借りて日本の僕の家に連れてくるのです。さて、パンダが家に来たら、1部屋を空けてパンダ様の滞在部屋とします。そして前の職場で一緒だった親しい人たちを招いて、パンダを囲んでのホームパーティーを開くのです。人数は25人くらいまでなら入れるでしょう。パンダには笹をたっぷり食べてもらい、僕達は飲んで食べ、CDをガンガンかけてパンダと一緒に踊り、記念写真を撮りまくります。報道陣は一切シャットアウト、テレビ出演もお断りです。翌日はパンダを連れて、新宿の超高層ビル街などを散歩して回ります。デパ ート見物もやりましょう。滞在中に、一度くらいは湘南の海岸あたりにも連れていきたいですね。パンダを交えたビーチバレーなんかも楽しそうです。あれえ、パンダの姿が、なんだかドラえもんに見えてきたぞ。なあんだ、これってすべてドラえもんの世界ではありませんか。ドラえもんとは、深層心理に潜むパンダ友好願望の表出なのかも知れませんね。(8月26日)

 <魔物になった横浜・松坂と、凡庸なる者のサリエリ的ため息>
 一言で言えば松坂の甲子園でした。昨日の決勝でのノーヒットノーラン達成・春夏連覇。昔から、甲子園には魔物がいる、といわれますが、もはや松坂自身が怪物を超えて魔物になったとしか言いようがありません。準々決勝の対PL戦や準決勝の対明徳義塾戦は、どんな状況になっても決してあきらめずに、奇跡を作りだしていくドラマが圧倒的な感動を呼び起こし、日本人に大きな勇気を与えてくれました。しかし、決勝の対京都成章戦でのあまりにも完璧過ぎるピッチングには、感動というよりも魔物であるがゆえの危険なものすら感じました。松坂に立ち向かった京都成章の古岡投手はすっかりかすんでしまい、結局、数十年に一度の逸材の前には、どんな努力もがんばりもチームプレーも歯が立たないのだということを、日本中に証明してしまった結果となりました。すべての凡庸なる者は、松坂の前に、サリエリ的ため息をつくしかないのです。17歳にして頂点を極めた松坂には、今後、一切の凡人道を廃し、堂々と魔物道を歩み続けてほしいと思います。その最低の条件は、巨人にだけは入団しないこと。出来れば横浜ベイスターズに入団し、奇しくもこの日亡くなった元阪神の村山投手のよ うに、21世紀の横浜のエースとして投手生命を燃焼させ、横浜の黄金時代を築き上げていく。ゆくゆくは横浜の監督として、21世紀を横浜の世紀にしていく。これこそが、すべての凡庸なるものを納得させる魔物道ではないでしょうか。(8月23日)

 <「不適切な関係」の原文を載せない日本の新聞の不適切な報道>
 クリントン大統領がルインスキーさんとの「不適切な関係」を認めたというので、昨日の夕刊から今日の朝刊にかけて、どの新聞もこの記事であふれています。「不適切な関係」とは、中学の英文和訳のようなヘンな言い回しです。実際にクリントン大統領は、どういう英語で表現したのか、だれしも知りたいところですが、なんと驚いたことに、どの全国紙も夕刊・朝刊を問わず、この原文を引用して説明している新聞は一紙もありません。このあたりが日本の新聞の唯我独尊・読者無視の最たるところで、読む側が何を知りたがっているのかについて、一瞥の考慮も見られません。日本の新聞が、こうした独りよがりで不適切な報道に甘んじているとしたら、情報ビッグバンを生き残ることはとうてい無理でしょう。というわけで新聞に見切りをつけて、インターネットで外国紙の記事を検索。ようやく「I did have a relationship with Ms. Lewinsky that was not appropriate. In fact it was wrong.」というくだりにたどりつき、「不適切な関係」は not appropriate の和訳なのだと分かりました。なるほど、こういう意味で不適切というなら、ほかにもいろいろあるぞお。小渕内閣と有権者の関係からして不適切だし、財政危機の中での公共事業の復権も不適切、不良債権に対する金融業界の対応も不適切で、そもそも政治家と国民の関係が不適切だ。核兵器は人類にとって不適切だし、ひょっとして人類は地球にとって不適切なのではないでしょうか。(8月19日)

 <首都機能移転なんてやめて、国会を47都道府県持ち回りに>
 新しい首相官邸の建設工事が、来年度から東京にある現在の官邸隣接地で始まり、2001年度に完成するとのこと。ということは、首都機能移転の是非を根本的に見直す必要がある、ということです。この未曾有の不況と財政危機の中で、14兆円ものお金をだれがどうやって捻出するというのでしょうか。首都機能移転が実現して2010年に新首都で国会を開こうなどと、いま本気で考えているのは、候補地域の人たちだけです。移転先が1カ所に決まったら、はずれた地域の熱気は一気に冷めるでしょう。一極集中の分散化や地震対策は、別に考えればいいのです。そこで僕の提案ですが、首都機能移転に代わる方策として、国会の開催地を一年ごとに47都道府県で持ち回りにしたらどうでしょうか。いわば国体方式です。その年の国会開催地となった地域では、通常国会、臨時国会、特別国会はもちろん、委員会審議もその地域で開催するのです。政党本部や書記、秘書たちも、この期間は地方を拠点に動きます。国会の会場をどうするかは、開催地の腕の見せ所です。屋内体育館や文化ホールなどを使ってもいいし、海辺や湖畔などで、納涼ナイター国会を演出するのもいいでしょう。 答弁資料を作成する官僚たちも移動することになり、政治家もお役人もいい体験となるでしょう。報道陣から陳情団までがついて回り、地域経済も潤うことでしょう。開会式や閉会式は、郷土民謡や地元の子どもたちのマスゲームなどで盛り上げましょう。議員入場行進もやりましょう。欠かせないのは議員宣誓です。「私達、議員一同は、日本国憲法に則り、正々堂々と……」。いかがです? 国会が身近で面白くなること請け合いだと思いますが。(8月16日)

 <屋内は冷房効きすぎで外は灼熱地獄−都市づくりの失敗>
 オフィスの冷房の効きすぎが、働く女性たちから指摘され続けています。オフィスだけでなく、喫茶店もレストランも、日本のビルの過剰冷房は目に余ります。大きな原因は、男性社員の背広とネクタイにあることは間違いないところですが、来客に対して失礼になるから、などの理由でいっこうに改善されません。それなら、来客を迎える応接室だけ冷房を強くして、仕事部屋は設定温度を高くしたら、と思うのですが、これまた部屋の中心に構える部長あたりが、背広とネクタイにこだわったら、もうダメです。「暑くて仕事にならん。冷房を強くしてくれ」などとつぶやき、その時点で小さな省エネは挫折するのです。屋内は寒くてガタガタ、一歩外に出るとヒートアイランドによる灼熱地獄でクラクラ。この状態は、電力会社や通産省にも問題があります。省エネを叫ぶ一方では、出来るだけ多くの電力需要を喚起してムダなく電力を売りさばこうと躍起になる矛盾。さらに根本的には、日本の都市づくりの失敗があります。今日の日経夕刊のコラムでサントリーの鳥井信一郎社長は、「これまでの都市づくりには、自然の不確実性を徹底的に排除し、コントロールしようとする思想があった」と指摘 。かりに東京23区のビルの屋上を緑化すれば、明治神宮の200倍の緑地が出現する。都市の緑被率を50%にすれば気温は3−4度下がる、として鳥井社長はビル自体の緑化に21世紀の都市づくりの方向を見いだしています。画期的な提案ですが、これを効果あるものにするためには、アジア的猥雑といわれる日本のビルのゴチャゴチャぶりや狭い道路など、都市問題全体として大改革していくべきだろうと思います。日本の経営者たちの意識が、来世紀にそこまで変わることが出来れば、の話ですが。(8月13日)

 <中島みゆきの「時代」が、いまほどぴったり響く時代はない>
 ♪♪ そんな 時代も あったねと いつか話せる 日がくるわ……
 8日に放映されたNHKの「第30回思い出のメロディー」。オープニングは塩田美奈子さんが歌う中島みゆきの「時代」。この歌ほど、いまの時代の空気にぴったり響く歌はありません。あらゆる面で閉ざされて苦境のただ中にある日本の社会。「時代」の歌詞は、その苦しい状況もやがて乗り越えて、過去の歴史の一こまとして笑って回顧出来る日が、きっとくることを確信させてくれます。と同時に、いま僕たちが時代の最先端だなどと思っている現在のこの瞬間も、確実に5年前、10年前、20年前へ、歴史の中の一時代へと遠のいていく、という動かし難い真実にも気付かせてくれるのです。いま僕たちは、80年代や70年代の社会を「そんな時代もあったね」と語り合います。でもその当時に生きた人々にとっては、その時こそが精一杯の現在で、後に歴史の一こまとして語られることなど、考えるどころではありませんでした。いまの1998年という時代も、時の経過とともに、20世紀末という歴史の中で、詳細に検証・分析され、あるいは懐かしい記憶とともに回顧される時代になっていくでしょう。「1998年、そんな時代もあったね」と。そして今の時代性をさらに強く語るフ レーズは「まわる まわるよ 時代は回る」というあのくだりです。時代が大きく回ろうとし始めているこの時代。自分たちがそのターニングポイントのただ中にいること。回る時代を恐れてはならず、自分たちも勇気を出して回る必要があるのだということ。さあ、時代とともに回っていこう。中島みゆきの「時代」は暮れゆく20世紀への挽歌であり、21世紀へ向かう人々への応援歌なのですね。(8月10日)

 <20世紀の悪魔の発明、核兵器を21世紀に持ち込むな>
 核分裂エネルギーが発見されたのが60年前の1938年。ナチスとアメリカとで激しい核兵器開発レースが展開され、ドイツは連合国との戦争に手いっぱいとなって、結局、アメリカがいちはやく開発に成功して日本に投下される結果となりました。人類のさまざまな発明の中でも、核エネルギーは最初から兵器として開発が進められた点で、特異です。しかも、広島型原爆でさえも、爆発時の中心温度100万度、出現した大火球の表面温度が30万度で、この火球が膨張しながら爆心地の市民を襲った時には太陽表面と同じ6000度の高温といいますから、いかに戦時とはいえ兵器としての許容範囲をはるかに逸脱しています。20世紀最悪の発明といわれるゆえんです。歴史に「もし」は禁物ですが、第二次世界大戦の勃発がもし阻止されていたら、核兵器は開発されなかったのでしょうか。僕は、やはり核エネルギーの発見は時間の問題であり、各国が核兵器開発競争にしのぎを削って、核兵器をめぐる疑心暗鬼や軍事的優位性確保への衝動から、結局は世界大戦が起き、核兵器は地球のどこかの都市に投下されていたように思います。投下した加害国は、ドイツや日本になっていたかも知れませ ん。被爆地は、中国やアジアのどこかの都市や、ヨーロッパの都市だったかも知れないと思うのです。結局、人間のレベルはその程度でしかない、ということなのでしょう。しかし、ヒロシマ、ナガサキという人類史上最大の地獄を経たことによって、人間の意識は少しはましになっているはずです。原爆の犠牲者たちに報いる道はたった一つ、「過ちは二度と繰り返さない」こと、すなわち核兵器を21世紀に持ち越さないことに尽きます。(8月7日)

 <35世紀末には日本の人口は、たった1人になる驚くべき計算>
 日本最高齢のお年寄りが114歳で亡くなったというさりげないニュースに目がとまります。人間はどんなに長く生きても、せいぜい114歳が最高だとは、つくづく人生とは短いものだと感じます。今年生まれた赤ちゃんが、21世紀を生き続けて22世紀の開幕まで見届けるためには、103歳まで生きなければならないのですね。さて、目先の経済危機やら政局のごたごたやらで、ほとんど注目されなかったニュースに、一人の女性が一生の間に生む子どもの数(合計特殊出生率)が、過去最低の1.42をさらに下回って1.39になったという厚生省の発表があります。この出生率がずっと続くと、日本の人口は35世紀末の西暦3500年には、たった1人になってしまう計算になるといわれます。これは数字の上だけの仮定の話とはいえ、荒唐無稽とはいえない深刻なものを感じます。人口がたった1人になったとき、彼または彼女はどうするでしょうか。残った親の葬儀を1人で済ませた後は、人口壊滅で廃墟と化した街を、とぼとぼと歩いてみましょうか。もう政府もなければ自衛隊も警察も存在せず、産業も商店も学校もメディアも何もないのです。自分1人しかいないのですから、この 国をどうするかは自分の好き勝手です。そもそも、この段階では国など無意味です。外国と連絡を取って国際結婚をしない限り、子孫は残せません。彼または彼女は、自分が食べるだけの保存食は確保してありますから、仕事に就く必要もないのです。だいたい何のためにどんな仕事をしろというのでしょう。ビルの谷間で「オーイ」と声を限りに叫んでみます。「オーイ」と空しく返ってくるこだまに、彼または彼女は「滅亡」という言葉の真の意味を実感することでしょう。(8月4日)

 <さようなら、キャミソール・ファッション−世紀末のつかの間の幻>
 立秋が1週間後に迫っているというのに、関東地方の梅雨明けはおあずけ。夏本番がなかなか来ないこともあってか、若い女性たちのキャミソール・ファッションは早くも流行のピークを過ぎて、関心は秋冬物に移っているそうです。このキャミソール、今年の世相史に残る鮮やかな印象を与えてくれたにもかかわらず、男性評論家たちの評論をあまり見かけません。テーマとして取り上げるのを、なにかためらっているというか、恥ずかしがっているようなところがあるのでしょう。キャミソール姿で街を行く女性は、まぶしすぎるくらいに美しくてセクシーです。赤や青、茶、黒というはっきりした色もいいけど、白や淡い色のキャミは、とりわけ女っぽくて、息が苦しくなるほどなまめかしい。キャミは、これまでの超ミニやシースルー、スリットなどよりも、はるかにオトコのDNAを甘く悩ましく刺激して、じろじろ見ないでなどというのはムリというもの。彼女たちは涼しい顔で(そりゃ涼しいだろうけど)歩きながら、ドギマギする男性の視線を楽しんでいる様子。しかし、レーセーに考えてみると、キャミは都会のおしゃれな街中だからこそ存在し得るのであって、田舎町や大自然の中では下 品になってしまいそうです。まして屋内ではインビな感じさえ与えてしまうのではないでしょうか。キャミは世紀末を彩るつかの間の幻だったのです。だからこそ夢の中でしか見ることのない、あり得ない姿の女性たちが白昼の都心に現れたのです。さようなら、キャミソール。1998年夏の追憶とともに、キャミは20世紀末博物館の中へ、ひらひらと舞いながら消えていくのです。(8月1日)

ページの冒頭に戻る
メニューにジャンプ

1998年7月

 <ウナギの蒲焼きだらけの日本と、スーダンで進む大飢餓>
 今日は、土用の丑の日というので、どの夕刊もウナギの蒲焼きを焼く写真だらけです。ホントに日本は不況だ倒産だといっても、食べるものが街中にあふれかえっているのですね。今日の朝日新聞の夕刊を手にして、1面と最終面の1枚だけを残して、中のページを抜いて見ましょう。すると右のページが2面、左のページが社会面になりますね。社会面には大きな写真付きでウナギ商戦の記事。「全品炭火焼き」「例年の倍の46品目」「お父さんの帰宅後、子どもが好きなおすしにして、ご家族みんなでどうぞ」。その右の2面には、「死にひんする子」の見出しで、あばら骨が透けて見えるほどになって横たわるスーダンの子どもたちの写真。母親たちは骨ばかりと化した子どもらをただ見つめるだけで、何千人もが死にひんしている、と記事にあります。日本はなぜスーダンの危機的飢餓に、毅然として援助の手を差し伸べないのでしょうか。誰も望まない政権ごっこのために内輪だけで大はしゃぎして、あたかも組閣の行方が日本の最重要問題であるかのような騒ぎ方ですが(新聞やテレビの責任は重いぞ)、小渕さんはまず食糧・医療・生活物資を満載した政府特別機に乗り込み、先頭に立ってス ーダンの飢餓を救う活動をすべきです。小渕さんは外相としてこれまでスーダンの飢餓にどういうことをやったのか、本人の口からはっきり聞きたいところです。明日になって、売れ残った蒲焼きが日本のあちこちでゴミとして大量に捨てられるころ、スーダンではまた多くの小さな命が消えていくのです。(7月29日)

 <青酸カレー事件、夏祭りの夜に嗤った悪魔は今夜も眠る>
 和歌山で戦慄の毒カレーライス事件が起こりました。これは単なるいたずらどころではなく、帝銀事件にも匹敵する青酸化合物毒殺事件です。犯人は大人か、未成年か。動機はうらみか、愉快犯か。何も分からない状態にもかかわらず、犯人について確実に言えることがあります。それは、犯人はほぼ間違いなく、昨夜は睡眠をとっており、また今夜もそして明日以降も毎晩眠るだろうということです。このような恐ろしい犯行を遂げた者でも、睡眠は取らざるを得ないのです。犯人はどんな気持ちで寝床についたのでしょうか。夢でうなされないのでしょうか。そこで、僕は思うのですが、殺人を犯した人間は、逃げ回っている限り、どんなに眠くても一睡も出来ないという状態をつくったらどうでしょうか。眠れない苦しさは、のどが渇いているのに水がない苦しさと、いい勝負でしょう。どうやってそんな状態を作るか。それは小学校へ入学する時に、すべての児童に予防注射を義務付けるのです。殺人防止の予防注射を。注射の効力は一生継続し、その者が人を殺したら、自首して出るまでは絶対に眠れなくなるのです。人権派の猛反対が予想されますが、こうした犯行の犠牲者を出さないことの 方がはるかに大事です。こうして21世紀には、殺人は全てとはいわないまでも、著しく減少するでしょう。戦争や内乱の場合はどうするか。眠れなくなって苦しむ人たちが一挙に増えそうです。それで戦争や内乱が減るのなら、それもいいではありませんか。汚職とか経済犯にも適用しましょうか。この世の中、眠れない人々の群れと化しそうですけど。(7月26日)

 <クローン羊の毛で編んだセーターを着てクローン牛を食べる宴>
 東京国際フォーラムで開かれている「大英国展」に、なんとクローン羊ドリーの毛で編んだセーターが展示されています。世界で最も有名になった羊の毛を使ったセーターというわけで、ドリーをセーターなんかにしちゃっていいのだろうか、という気もします。もっとも羊のことですから、クローンの記念碑としては皮よりも毛を残してやるほうが、羊冥利に尽きるというものでしょう。クローンといえば日本でも先日、石川県畜産総合センターで世界初の体細胞クローン牛2頭が誕生し、この2年以内に200頭のクローン牛が誕生する見通しとのこと。クローン牛を作る大きな目的の一つは、おいしい食肉を生産することですが、この牛肉はだれがどうやって毒味をし、どんな料理にして試食するのでしょうか。やはり畜産セーターの関係者や大学の研究者たちがステーキやしゃぶしゃぶなどにして食べるのでしょうか。安全性については、学生などの被験者たちに大量に食べさせて人体実験でもやるのでしょうか。クローン技術のテンポは予想を上回る早さで進んでいますので、21世紀のかなり早い段階で、クローンの食肉はレストランや精肉店に出回ることでしょう。参加者全員がクローン羊の毛 で編んだセーターを着て、クローン牛のローストビーフを食べるディナーパーティーなどが催されるかも知れません。デザートは、クローン牛乳とクローン鶏卵をたっぷり使ったワッフル。サービスにあたるウェイターたちは、みな同じ背格好、同じ髪型、同じ顔つき、同じ目もと口元。同じ声、同じしゃべり方。もしかしてこの人たちも、ク……!?(7月24日)

 <注文もしていない冷めたピザを前に、空腹のまま思案が続く>
 注文した覚えもないのに、冷めたピザがデリバリーで配達されました。これ、だれが注文したの? 「みなさんおなかを空かして待っているというもんで、急いでお持ちしました」。最初から冷めてるピザなんて初めてだな。作り置きしておいたの? 「いえ、オーブンの調子が悪いもんで。55年製のものをまだ使っているんですよ」。どうやって食べろというのかね、冷たくていかにもまずそうだな。「電子レンジで温めれば、おいしくなるとシェフが申しておりました」。このピザ、トッピングが何もなくて生地だけかい。「トッピングは今、何にしようかみんなで集まって考えておりまして。後からトッピングだけお届けに上がります」。生地だけ先に食べてろってわけか。もっとましな食い物はないのかね。「ほかには、いささか古いのと、ちょっと変わったのと、2品だけになるんですよ。材料をスッカラカンに切らしておりまして」。変な店だねえ。おたく、どこでやってるの?。「実はガレージセールなんすよ」。どうりでねえ。で、このピザ、もちろんサービスなんだろうね。「あ、お代は後日、しっかり請求に上がります」。悪いけど、このピザ持って帰ってよ。別なお店に頼み直すよ。 食い物ぐらい自分たちで決めたいよ。「お客さん、ほかに配達やってる店なんてありませんよ。前にやってたレンリツという店がつぶれましてね、老舗のうちがその後を引き継いでまた店を始めたってわけ」。どうする、このピザ食べる? それとも別な店が開店するまで気長に待つ? もうおなかペコペコ。何か食べないと死にそう。思案は続く。ピザはますます冷たく固くなって、ひからびていく。(7月21日) 

 <ふぬけなアメリカ版ゴジラはいらない、いまこそニッポンゴジラ蘇生せよ>
 ゴジラという名前を貸したのが、そもそもいけなかったのです。東宝さん! アメリカ人は、ゴジラの偉大さも重さも、その深い悲しみも怒りも、なんにも分かっちゃいないんです。だからCGやらを使いまくってピョンピョン飛び回る軽薄モンスターになってしまった。大都市を徹底破壊するでなし、魚の山におびき寄せられ、通常のミサイルで簡単に最期をとげてしまう。建物を本気でぶっ壊さないんなら、あんた何しにニューヨークに上陸したのさ、と言いたくなります。ゴジラは、空襲と原爆で都市も生活も無惨に破壊され続けた記憶と哀しみを、日本国民と共有していたのです。昭和29年の第一作ゴジラで、最も胸に迫るシーンは、ゴジラによって焼け野原となった東京の様子を全国に伝えるテレビの中継放送の中で、数百人の女学生たちが講堂で歌う平和への祈りのシーンです。
 ♪♪ やすらぎよ ひかりよ とくかえれかし
 ♪♪ いのちこめて いのるわれらの
 ♪♪ このひとふしの あわれにめでて
 実験室の中でたまたまテレビを見た芹沢博士が、オキシジェン・デストロイヤーを使うことを決断したのは、この祈りの歌の直後でした。この時の芹沢博士の絶望的な悲しみは、同時にゴジラにとっての悲しみであり、日本のそして日本人の悲しみだったのです。本土を攻撃された経験のないアメリカには、この祈りの歌がなぜゴジラのクライマックスで歌われたのか、歌ったのはなぜ女学生だったのか、考えてみることもなかったでしょう。アメリカ版ゴジラに開いた口がふさがらない僕たちは、いまこそ日本のゴジラの堂々たる蘇生復活を求めましょう。音楽はもちろん伊福部昭のあのテーマ曲。21世紀の開幕に沸く2001年の東京にゴジラが上陸するなんて、サイコーじゃないですか。(7月18日)

 <未来は完全に白紙状態。だから予測、予想、予知は当たらない>
 昨夜の天気予報では、今日の関東地方は平年並みの暑さに戻る、ということでしたが、実際には今日も一日肌寒い5月並みの低温。テレビのお天気キャスターが、予想がはずれたことをしきりに視聴者に謝っていました。予報といえば、今度の参院選でのマスコミ各社の世論調査は、自民惨敗を1社たりとも予測したところはなく、無党派層の動向を読めずに各社とも大はずれとなりました。さらに、文部省の測地学審議会地震火山部会が今日、これまで掲げてきた「地震予知」は実用化のメドがたたないとして看板を下ろし、基礎的な研究に重点を移す方向に転換する中間報告を出したとのこと。この3つの事例は気温、選挙、地震と、まったく対象は異なりますが、どんなに科学的に予測調査を行っても、ごく近い未来に起こることさえ言い当てるのは困難であることを示している点で衝撃的です。なぜ予測や予知は当たらないのでしょうか。結局のところ答えはただひとつ、未来は完全な白紙状態にあり、現在より後はいかようにでも成立しうるからなのでしょう。もっと言えば、「過去」は1通りしか確定されていないし、「現在」も1通りが進行中なだけですが、未来は個人レベルの一寸先でも何百 いや何千通りへの分岐があり、まして社会集団や地域、国へとスケールが広がるにつれ、可能性としての未来は何億、何兆、否、無限に分岐していると考えていいでしょう。もし神が存在するとしても、その神は未来を見通すことだけは出来ないと思います。白紙の未来を作る主体は、結局のところ名もない私達ひとりひとり。だから、怖くもあるけど面白い。だからこそ、明日がある。(7月15日)

 <小さな1票が作り出す21世紀の日本−参院選結果が示すもの>
 参院選の結果は、どの政党もマスコミも予想出来なかったドラスティックな結果になりました。今回誕生した新議員の任期は2004年まで。その途中には、今回非改選だったサイクルの参院選が2001年にあります。21世紀の日本の「初期値」を決める重みを持つ選挙だったと言えます。かくなる上は、一刻も早く、衆院解散・総選挙を行って、衆参ともに21世紀に向かう新しい政治地図を作る必要があります。それにしても、小さな1票が持つ恐ろしいほどのパワーと可能性に、有権者自身が一番驚いたのではないでしょうか。無党派層が増え、そのときそのときの自由な判断で、投票する政党や候補者を決めていく、いわば政治流民化は、まことに健全な傾向だと思います。地縁や血縁、組織のしがらみからも利益誘導からも無縁の1票は、流れを決定付ける1票であり、最も怖い1票です。マスコミはみな、橋本政権の経済運営にノーが突きつけられたとしていますが、ことはそんなに簡単ではありません。大蔵・厚生などエリート官僚の不祥事。政と官が企業・メーカーと癒着し続ける醜悪な構図。省庁再編をよってたかって潰そうと奔走する官僚や族議員。地雷廃絶や印パ核実験で のあいまいな態度。諫早湾をはじめ、意味を失った公共事業に無駄金投じてしがみつく破廉恥。こうした巨大な政官財の腐臭への拒絶という意味を、しっかり見据える必要があります。不況脱出が最優先だという議論も、そのための本道を見誤ってはいけません。小さくてチープな政府。民のことに官は口出しせずに、市場原理にまかせる。不良債権処理や業績悪化企業のために公的資金は一切投入しない。21世紀が求めているこの方向から背を向ける時、日本は本当に沈没するでしょう。(7月13日)

 <トラの肉を食べさせたテレビ番組に思い出す、秘めた昔話>
 フジテレビが、炒めたベンガルトラの肉を芸能人に食べさせ、その様子を放映したというので、大騒ぎになっています。このニュースを読んで僕は、はるか昔のひとつの物語を思い出すのです。むかしむかし、日本海に面した小さな町に、移動動物園がやってきました。なんの娯楽もない町のひとたちにとって、ゾウやキリンなどの本物の動物たちを見るのは、夢のような楽しみだったのです。動物園は、サーカス小屋のように、何日かするとまた次の町へと移って行きます。それは強い雨風が一晩中吹き荒れた夜明けのことでした。動物園のオリの中で、1頭のトラが息絶えて冷たくなっていました。オリの電灯のコードに触れた感電死でした。小さな町は、この哀れなトラの事件でもちきりでした。少年は、トラが慣れない北国の風雨の中、オリから出ようと必死にもがく様子を思い浮かべて、心を痛めました。そんなある晩、いつも帰りが遅い父が「今日はスキヤキだ」と、重い包みを抱えて帰ってきました。日本中が貧しかった時代。スキヤキなんて年に1回あるかないかの大ご馳走だったのです。父が持ってきた包みの中は、赤身の肉がたっぷり。その夜は家族で、おなかいっぱいスキヤキを食べま した。食べ終わって、ひとときの団欒。父がぼそりと言いました。「このスキヤキ、何の肉だと思う?」 「何の肉って、牛肉か豚肉でしょう」と少年。「この肉はなあ」と父が口を開きました。父の口から続いて出た言葉を、少年は決して忘れることが出来ません。その少年とは、いまの僕なのです。(7月10日)  

 <国民に週2回の断食を呼びかけたハビビ路線への危惧>
 インドネシアのハビビ大統領が、干ばつによるコメ不足に対処するため、国民に「毎週月曜と木曜に断食をしよう」と呼びかけ、「1億5000万人の国民が実行すれば、必要な輸入量と同じ年間300万トンのコメ節約になる」と訴えたということです。イスラム教の開祖マホメットの誕生を祝う式典での呼びかけといいますから、たぶんに宗教的なバックグラウンドを意識しての呼びかけと思われます。しかし、古今東西の国家の指導者の中で、「食べるな」と国民に呼びかけた人物も珍しいのではないでしょうか。だいたい国のリーダーの基本は、あまねく多くの人民に食べさせることにあるはずです。また民衆がリーダーに期待する施策の最たるものは、「日々食うに事欠かない生活」ではないでしょうか。世界史を見ても、革命の発端のほとんどは食べ物の欠乏です。「パンがないならなぜお菓子を食べないの?」と無邪気な名言を残してギロチンに消えた王妃。「なんじ臣民飢えて死ね」で問題となったメーデーのプラカード。「貧乏人は麦を食え」と言ったとか言わないでやり玉に上げられた首相もいました。ハビビ大統領の断食呼びかけは、本気であれ格好だけであれ、政権にとってかなりキ ケンなものをはらんでいるように思います。大統領自身や閣僚、公務員らは断食を率先して行うのでしょうか。軍や警察も実行するのでしょうか。子どもや妊産婦、病人などは断食を免除されるのでしょうか。スハルト時代とは違った局面を切り開こうとする意気込みは分かりますが、コメ不足ならまずコメを確保することが為政者の正道ではないかと思うのですが。(7月7日)

 <猛暑の中、イグアナたちが逃走したよほどの理由とは>
 梅雨明け前だというのに、各地で異常な猛暑が続いています。昨日は熱射病など暑さで3人が死亡。数十人が病院に運ばれました。さらに、東京、甲府、横浜で相次いでイグアナがベランダや路上に出現。パトカーで駆けつけた警官によって捕獲されるなどの騒動が起きています。なぜ同じ日に、申し合わせたように3匹のイグアナが逃走したのでしょうか。イグアナたちは、人間には分からない何かのシグナルをキャッチしたのかも知れません。この間は、狭山市でニシキヘビが逃げ出して捕まったばかりです。は虫類は、地球の生物史の上では人間などよりもはるかに先輩なのですから、彼らの異常行動を侮ってはいけません。ギリシャとイタリアでは気温が45度まで上昇して少なくとも10人が死亡しています。米フロリダ州では、高温と乾燥に落雷などが加わって大規模森林火災が多発、いまなお延焼中で住民7万人が避難。ロシア極東やカナダでも、森林が炎上中です。地球の大気圏の歯車が狂ってきているとしか思えません。そういえば今年は、日本付近での台風の発生がゼロで、最も遅い記録を更新中です。世界の各地で、バラバラに発生しているさまざまな天気や生き物の異常を、統一的・ 全体的にとらえて分析・判断する地球監視センターのような国際機関が必要なのではないでしょうか。至近距離では見えなかったことが、巨視的に見ることによって浮かんでくることは、おおいにあり得ることです。それは、すでにイグアナたちに見えているものと同じものかも知れません。(7月4日)
 続報。4日にはさらに越谷と四日市でもイグアナが逃走しています。荒ぶるイグアナさまよ、静まりたまえ。なんていうと「もののけ姫」みたいだなあ。(7月5日)

 <映画「ディープ・インパクト」の彗星が警告するもの>
 映画「ディープ・インパクト」を観てきました。女流監督のミミ・レダーは、荒唐無稽に流れることを避け、彗星との衝突の瞬間を迎える社会や人々の様子を、抑制を効かせてリアルに描いていて、さながら未来ドキュメンタリーといった感じの説得力があります。衝突に備えて地下都市を建設し、学者・教師・兵士・芸術家など選ばれた20万人と、コンピューターが無作為に抽出した80万人が地下都市に向かっていく様子が生々しい。抽出対象となるのは50歳まで、という年齢制限の残酷さ。選抜に漏れたひとたちの「俊寛」的絶望。抽出される資格のない年輩者たちの悲しみと諦め。抽出された息子や娘たちとの別れ。さまざまな地上の混乱をよそに、空にかかる彗星が、しだいに大きく輝きを増していくのが不気味です。映画と文学を問わず、僕たちはなぜか「地球最後の日」ものに、ワクワクし胸をおどらせます。僕たちの内に、終末願望のようなものが潜んでいるのでしょうか。袋小路で行き詰まった文明。精神や思想・文化の酸欠・窒息状態。人類をジワジワと包囲していく多種多彩な滅亡要因。もうそろそろ、何かが起きてもおかしくない、という予感。いや、何かが起きたほうが、むし ろいいのかも知れない、という覚悟のようなもの。もっとはっきり言えば、人間の奢りや思い上がりに対する天誅へのひそかな期待。「ディープ・インパクト」に描かれた「彗星」とは、今世紀から21世紀に持ち越される「負の遺産」からの重い警告なのだと思います。(7月1日)



ページの冒頭に戻る

メニュー