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なぜ2001年が始まりなのか

<21世紀はいつから始まったか>


 新しい時代のスタートはなぜ00年ではなく、01年だったのか。21世紀の始まりは、なぜ2000年ではなくて2001年だったのか。このページでは、西暦1599年ころから西暦2000年の現在まで、400年余りに渡って延々と続けられ、今回も混乱を引き起こしてきた「世紀の大論争」について徹底的に考察していきたい。

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シドニーは、時代の最後の五輪か最初の五輪か?

 2000年9月に開幕して数々の感動シーンを生んだシドニー五輪。これは時代の区切りの中で、最後の五輪なのか、最初の五輪なのか。開会式の様子を報じる9月16日付け朝刊各紙の紙面は、新聞によって位置付けが真っ二つに分かれるという異例のことになった。
 「20世紀最後の五輪」という位置付けで貫いたのは、朝日と毎日だ。朝日の1面の見出しは「五輪に託す新世紀の夢」「戦争の世紀の終わり 和解の風」とはっきりしている。毎日の1面の見出しは「心ひとつ21世紀へ」だ。
 「今世紀最後の祭りが、幕を開けた」「この世紀はどんな色に塗られてきたのか。戦争の世紀だったと、多くの人が言う」「冷戦が終わり、世紀が変わろうとする今も、銃の音は、やんだわけではない」(朝日新聞1面 西村欣也編集委員)
 「2つの大戦と東西冷戦、その後に頻発した民族紛争などで、今世紀の五輪には世界が1つに集えない時代があった」「『平和の祭典』の場でともに歩む選手たち。その確かな足取りは、21世紀の世界が進むべき道筋を示している。まだ肌寒い春の夜のシドニーで、20世紀最後の聖火が赤く、熱く燃え上がった」(毎日新聞1面前書き)
 
 しかし、この2紙と対照的なのが読売だ。1面の見出しには、20世紀や21世紀に触れた言葉は何もない。スポーツ面の見出しは「新千年紀彩る‘春の祭典’」で、その右面の「聖火」という署名記事では、「新千年紀(ミレニアム)最初のオリンピックが南十字星のもとで開幕」「新千年紀に向けた、すばらしいメッセージ」「新千年紀の入り口に立つシドニー五輪」と、1つの記事の中に「新千年紀」という言葉が3回も使われている。
 


400年前から議論

 <どちらを祝うべきかで大論争>
 祝うべきは、あるいは大騒ぎすべきは、2000年の夜明けか、2001年の夜明けか、という議論は1997年から98年にかけて新聞や週刊誌などを賑わせてきた。1998年11月10日毎日新聞の「校閲インサイド いつから21世紀?」、98年4月8日付け毎日新聞夕刊の「世紀のお祝いいつ 2000年VS2001年」、98年1月3日付け読売新聞の「区切りは2000年か2001年か 日本、出遅れると大損!?」、97年11月21日付け毎日新聞夕刊の「境目はいつ? “世紀の論争”」、97年11月2日付け日経新聞の「もう一つの2000年問題」、97年1月11日付け朝日新聞の「対論 2001年か2000年か世紀の論争」など。
 
 <公式には2001年から21世紀>
 広辞苑では「20世紀は1901年から2000年まで」と明記され、日本標準時を管理する郵政省通信総合研究所でも「21世紀の始まりは2001年から」としている。「天文年鑑」などの各種年鑑もほぼこの立場で統一されており、最近相次いでいる20世紀回顧出版でも、一部を除いてほとんどが、20世紀は1901年から2000年までとして編集されている。
 欧米諸国でも、英王立グリニッジ天文台や米海軍天文台が21世紀は2001年からであるという見解を公表しており、政府機関や学術科学組織なども21世紀は2001年から始まるとすることで統一している。
 新たな1000年紀(ミレニアム)も、公式には2001年1月1日から3000年12月31日までとされている。(このホームページの中の「新たなミレニアム(千年紀)を前に」のページ参照)

 なお、21世紀と新ミレニアムの開始時期についての海外のサイトでは、次の英文ページが論理的で分かりやすく、参考になる。

 The 21st Century and the 3rd Millennium
 The New Millennium

 <16世紀末から議論>
 いつから新世紀か、というのは記録によれば1599年から議論があるところらしい。200年前には18世紀がいつ終わるのかで混乱し、英国タイムズ社が「99が100であると証明されない限り、今世紀は1801年1月1日まで終わらない」と社説に書いた。
 20世紀開幕の際にも大論争が起き、イギリスの王立天文台が「各世紀は、紀元1世紀を含めて正確に百年ずつで編成されるべきである」として、20世紀は1901年元日から始まると断を下して決着をつけた。これに対し、ドイツ皇帝ウィルヘルム2世は1900年に「1900年を20世紀の始まりとする」と宣言し、大英帝国の方は「冗談ではない」と反論した経緯がある。

 <福沢諭吉が決着>
 世紀という概念は、太陽暦が日本で採用される1873年(明治6年)以前には日本になかった概念だ。
 100年前の日本では、まだ西暦が一般に普及していなかったが、それでも20世紀は1900年からか1901年からかで、議論となった。国内の論争に決着をつけたのは福沢諭吉で、慶応義塾は「20世紀は1901年から始まる」と断を下し、1901年1月1日午前零時から三田の山上で「19・20世紀送迎会」を催した。参会者500人は前夜の午後8時から集まり、新講堂で晩餐会を開いた。
 このとき、新講堂の壁に掲げられた風刺画は、19世紀を象徴する老人が、19世紀の事件を描いた旗を引いて逃げていき、入れ替わりに20世紀を表す小童が手に手に木棒(希望)を持ち、頭に二〇の字をかたどった冠を付けて登場するというものだった。(自由国民社「読める年表日本史」などによる)

 <複雑なさまざまな要素>
 今回はとくに議論が複雑になっていたが、この中身を整理してみると、いくつかの要素に分解される。

 @まず、21世紀のスタートは2000年か2001年か、という素朴な議論で、公式には2001年で決着がついており、新しい千年紀(ミレニアム)についても、公式のスタートは2001年とされている。

 Aしかし一方で、21世紀は2000年からと思いこんでいる人たちも少なくなかった。

 Bまた、カトリックの総本山バチカンでは、2000年をキリスト生誕2000年の「大聖年」として、99年のクリスマスイブの深夜から1年余り続く行事が行われた。さらに、聖書に書かれた「至福1000年紀」が2000年に訪れるとする信仰的立場を持つ人々も存在していた。このため、新しい千年紀(ミレニアム)のスタートは、2000年だとする受け止め方がキリスト教圏では強かった。

 C一方、信仰的立場とは別に、西暦2000年という千番台の数字が1000年ぶりに変わる節目、そして2000年代のスタートを祝福した人々もいた。

 D21世紀の始まりは2001年であることは疑う余地がないとしながらも、それでもキリスト教圏に歩調を合わせて2000年にイベントを打たないと大儲けのチャンスを逸する、というイベント企業ペースの論調もあった。

 Eさらに、マスコミの中には「21世紀は正式には2001年からだとしても、2000年を実質的な新時代のスタートとしてもいいのではないか」とするところもあり、混乱に拍車がかかった。

 <ミレニアムに飛びつき、こぞって「世紀末隠し」の怪>
 1999年終盤になって、日本でもイベント関連企業やマスコミなどに、2000年を「ミレニアム」として新時代開幕ムードを意識的に演出しようという動きが現れ、2000年になっても尾を引いた。
 2000年1月15日日経夕刊の企画記事「ニッポニアン」で、塩谷喜雄編集委員は『瞬時に消えた「世紀末」』のタイトルで、「いつの間にか、世紀末という言葉が日本社会から姿を消してしまった」と指摘。「活字も電波も、メディアはこぞって2000年、新千年紀をたたえ、世紀末の陰影や残像はしまい込まれ、新世紀への期待がただ膨らんでいる」と記した。
 これに先立つ99年10月29日の毎日新聞夕刊コラム「近事片々」はいみじくも、『「世紀末」は禁句ってわけ』、と鋭く指摘している。実際、98年あたりまで、あれほどマスコミに氾濫していた「世紀末」という語はどこかに消え失せ、カタカナの「ミレニアム」ばかりがやたら目立った。
 1999年11月2日の読売新聞創刊125周年特集の別刷りは、「ミレニアム特集」を組んでいるが、ここでは2000年を新ミレニアムのスタートと位置づけ、さらに随所に21世紀という言葉を散りばめていて、これを読んだだけでは、21世紀は2000年からなのか、と勘違いさせられる。12ページに渡るこの特集の中でも、「世紀末」の語はなく、21世紀が2001年からであるという注釈も一切なかった。

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グールド教授の「暦と数の話」


 ハーバード大学のスティーブン・グールド教授によるエッセイ集「暦と数の話」が日本でも98年10月に発売されて話題を呼んだ。本の帯に「世紀の対決 2000年対2001年」とセンセーショナルに書かれているように、祝うべきはどちらかの年か、という問題にしぼって、さまざまな観点からアプローチしている。グールド教授は、聖書の「至福1000年」はいったいいつなのかという問題と、西暦紀元の創始者がゼロ年を設定しなかったことからくる世紀の変わり目をめぐる混乱の、主として2つの側面からこの問題を取り上げている。
 教授自身の立場については「この問題には決着のつけようがない」としているが、2001年を支持する立場と2000年を支持する立場には、世紀開始年論争の初期のころから、明確な社会的相関がある、と分析している。
 それによると、01年からの切り替えを支持する立場は「論理的」立場で、常に学者や権力者(それもとくに出版関係やビジネス関係)など、いわゆる「高級文化(ハイカルチャー)」を代表する人たちの圧倒的支持を受けてきた。
 これに対し、00年からの切り替えを支持する立場は「常識的感覚」の立場で、この立場を一貫して支持してきたのは、かつては「市井の人々」すなわち大衆と総称され、今は通俗趣味とか大衆文化(ポップカルチャー)と呼ばれているものを支えている層である、という。
 こうした分析には、異論も出るかも知れないが、この問題をめぐる一つの側面として、興味深い。



海外と日本のギャップ

 <日本と海外の意識差>
 上記のグールド教授の分析に習って言えば、海外とくにキリスト教圏では、キリスト生誕2000年を祝う意識と相まって「常識的感覚」の立場が優勢になっていたのに対し、日本では国民各層を通じて「論理的」立場の方が優勢となっていた。
 1999年9月2日の朝日新聞によると、東京・中央区の結婚調査サービス会社が未婚の男女1424人に行ったアンケート調査では、結婚するなら2000年と答えた人が625人、2001年と答えた人が799人と、2001年に軍配が上がった。理由は「スタートはやはり1から」「新世紀だから」という意見が圧倒的という。

 1997年11月2日付け日経新聞の特集「もう一つの2000年問題」によれば、海外では、2000年の年明けに「世紀のイベント」が集中しているのに対し、日本では2000年のイベントは少なく、2001年の年明けに向けてのイベントが多い。この特集では、内外のギャップについて、欧米ではカトリックの聖年にあたる2000年を「始まり」ととらえる見方が強いこと、これに対し日本では2001年1月1日を節目ととらえる傾向が強いこと、を指摘している。98年元日付け朝日新聞別刷り「新世紀カウントダウン」でも、日本では省庁再編や金融ビッグバン、さらに福島県や山口県の未来博などが、いずれも「2001年から21世紀」を意識しており、「民間業界も99年末を世紀末としてビジネスチャンスに生かす動きは鈍い」としている。
 また1999年1月16日の日経新聞は、1999年と2000年に日本全国で開催されるイベントをまとめているが、日経新聞社の調査によれば、このうち2000年イベントについては、都道府県や政令指定都市の約4割が「20世紀の総括」という点を意識したという。
 
 <海外の2000年イベント>
 99年2月7日日経によれば、「ヨーロッパのマスコミは世紀末とか21世紀の到来より来年、つまりミレニアムをいかに迎えるかというテーマに取りつかれている」(文化面 倉田保雄氏)。パリでは、イベント企画専門家たちから、2000年を迎えるアイディアが40余り出され、これをめぐるマスコミ報道も過熱した。案としては、「エッフェル塔に巨大な卵を産ませる」「ノートルダム寺院の鐘楼の上に高さ67メートルの三角帽子を載せる」「4月1日に全長3メートルのプラスチック製の金魚をセーヌ川に放流する」などが出た。

 各全国紙などによると、海外での2000年イベントとしては、次のようなものが計画・実施された。
 ニューヨークのタイムズスクエアでの、200万人参加による祝賀イベント。ドイツではベルリンへの首都移転の式典。エジプトのピラミッドや中国の万里の長城などでのイベント。
 このほか2000年通年のイベントとしては、英国グリニッジに建設する巨大ドーム「ミレニアム・ドーム」で開かれる「千年紀博覧会」、ロンドンに高さ欧州一の「ミレニアム・タワー」が完成し、テムズ川には「千年紀観覧車」も出来上がった、等々。

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 <バチカンの大聖年>
 ローマ法王庁(バチカン)は、1999年12月24日のクリスマスイヴの深夜に、サンピエトロ寺院の「ポルタ・サンタ(聖なる扉)」が開かれ、法王ヨハネ・パウロ2世が2001年1月6日の主顕日までの約1年余りを「グランデ・ジュビレオ(大聖年)」として祝うことを宣言した。ローマにはこの期間中、世界中から数億人の信者が訪れたと見られる。ドイツなどではカトリック、プロテスタント、正教会の3大宗派による共同行事も催された。教会を中心とした祭礼や巡礼は、1999年のクリスマスの4週間前の降臨節第1日曜日から2001年春の復活祭までがピークとなった。

 <ホワイトハウスはどちらも祝う>
 ホワイトハウスは、21世紀の正式な始まりは2001年1月1日としてきた。しかし、98年4月8日付け毎日夕刊によると、米USAトゥデー紙が97年秋に実施したインターネットの電子投票の結果では、約4000人の回答者のうち、「2000年1月1日に祝うべきだ」と答えた人が63%、「2001年1月1日に祝うべきだ」と答えた人が33%だった。そこでホワイトハウスは米国民の「2000年」志向をふまえた解決策として、2000年1月1日から2001年1月1日までを「ミレニアム・イヤー」と名付け、その1年間を全部祝うことにした。
 これについては、「正確には2001年からなのに、ホワイトハウスが2000年1月1日を祝う準備しているのはおかしい」という意見があり、99年12月14日の日経新聞夕刊によれば、クリントン大統領は12月13日放送のCBSラジオのインタビューで、「政府は民衆の意向に従う」と反論。さらに「1年後にまたお祝いすればいい。私はミレニアムの変わり目を2度も経験する大統領になれる」と述べた。

 <2000年の夜明け競争も>
 「世界で一番早い2000年の夜明け」をめぐる南太平洋島しょ国の競争も熾烈を極めた。トンガ、キリバス、ニュージーランドのチャタム諸島やアンチポデス諸島が名乗りを上げて、フィジーもランブカ首相の陣頭指揮でキャンペーンを展開。人が住む島としては、ニュージーランドのピット島が世界で最も早く2000年の日の出が訪れた場所とされているが、キリバスが1995年に日付変更線を東側に迂回させたことから、キリバスの最も東に位置する無人島のカロリン島が、世界で最も早く日が昇る場所となり、島の名称もミレニアム島と変えられた。1999年に入って、これらの国々の中には、年末から年始にかけてのホテル宿泊料を倍以上に値上げするところも出た。

 
<2000年への日本のとまどい>
 欧米で軒並み、2000年祝賀の準備が進む中で、日本のイベント企業やマスコミの中には、欧米とのギャップに対するとまどいが見られた。98年10月3日付け毎日新聞夕刊の「夢と希望の2000年ビジネス」という記事は、「新しい1000年代の始まりとなる西暦2000年まであと455日」という書き出しで、2000年を迎えるツァーや2000年に飲み頃を迎えるワインなどの話題をまとめた。文末の「暦の会」会長の談話は「学問的には21世紀は2001年からだが、イベントにはキリのいい数字がいい。カトリック教会の本家バチカンでも2000年を祝うというのに、きまじめなせいか日本人は2001年を重視している」としている。

 <欧米では2000年と2001年と2度祝う人たちも>
 欧米のキリスト教圏では、2000年を盛大に祝ってその後は何もしなかったのだろうか。98年12月26日付け読売新聞解説面のコラム「土曜教室」によれば、欧米では1999年の大みそかから元日を「千年紀の変わり目」として祝い、さらに翌2000年大みそかから元日を「世紀の変わり目」として、2年続けて祝うことにしている人もいる、と報じた。前述のように、バチカンが1999年12月25日のクリスマスから2001年1月6日の主顕日までを聖年として祝うことを決めていることや、欧米の政府もほぼこの形で2000年を年間を通して祝い2001年の幕開けになだれこむところが多いことから、結局は2度祝った人たちも少なくないようだ。

 <2000年は1年間が21世紀前夜祭>
 2000年を祝うことと21世紀との関係を、鮮やかに説明するのは、英国の千年紀祭「ミレニアム・エクスペリエンス」のイベント責任者、ジェニー・ページさんだ。1999年11月2日毎日新聞夕刊の「人・模・様」欄によると、ページさんは、21世紀は2001年からだとした上で、「2000年1月1日から12月31日までの366日間は、21世紀の長めの前夜祭なんです」と説明した。この位置づけは、2000年を1年間祝うことの意味や意義がはっきりしていて、キリスト教圏の人々に対しても、そうでない国々の人々に対しても、普遍的な説得力を持ったといっていい。

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中国は2000年説から一転、2001年に

 欧米や日本が公式には21世紀は2001年からであるとする見解で統一されてきたのに対し、中国は全く独自の路線を取り、これまで国を挙げて「21世紀は2000年から」の立場を取ってきた。しかし1999年に入って中国でも、21世紀は2000年からなのか、2001年からなのかの論争が広がり、中国政府も世界標準にならって21世紀は2001年からから開始とすることで統一することにした。
 98年11月26日の朝日によると、中国が国際常識より1年早く2000年を21世紀の始まりとしてきた理由として、シドニーに敗れた2000年五輪の北京誘致の際に、政府が「21世紀最初の五輪を中国で」と国民に大宣伝してしまったこと、さらに1999年は中華人民共和国の建国50周年にあたり、政府としてはこの年をもって20世紀の区切りとしたい政治的理由も働いていると見られ、これが中国国民に常識として定着してきたとしている。
 99年1月18日日経夕刊によると、このところ21世紀の起点を2000年に置くか2001年に置くかの問題が、中国国民の間で関心を集めており、1月16日付けの知識人向け中国紙、光明日報は1面で「21世紀は何年から」の特集記事を掲載した。それによると、中国では専門家らが1993年と96年に「21世紀は2000年1月1日から」と提言したのが基となって、主要マスコミも1999年を「今世紀最後の年」とした。一方で2001年を起点とする専門家もいて、光明日報紙は「一刻も早く権威ある統一見解が出るよう望む」と訴えた。
 99年1月22日付け朝日新聞によると、中国でも最近、南京の紫金山天文台が21世紀は2001年からであるという見解を示し、中国科学院天文委員会もこれを確認した。こうした情勢を受けて中国科学省は会議を開き、政府としても2001年開始で統一することを決めた。



世紀の大訂正(!!)
 

 1997年元日の毎日新聞は、別刷り3部で「2001年1月1日付け」の新聞8ページを、架空の記事であるという「おことわり」をつけて大特集した。この別刷りは、本文記事よりも、1面に掲載された訂正文の方が興味深い。

[訂正] 毎日新聞社は1872年の創刊以来、何度か「21世紀は2000年から始まる」と表記したことがありますが、21世紀は2001年からです。無知を恥じ、心からおわびして訂正します。

 
 この訂正は、「無知を恥じ」という率直なわび方も異例だが、なによりもこれから一層混乱してくる恐れのある「21世紀いつから論争」が、誤ったものにならないようにという、大メディアの強い責任感のようなものが感じられる。この別刷り3部を作ったこと自体が、「21世紀は2001年から」を読者に徹底させるための特集だったともいえる。


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すべては幻の西暦ゼロ年から始まった(?)

 <元年=1年>
 「21世紀はいつから」議論が出てくるそもそもの起因は、イエス・キリストが生まれたとされる年を西暦元年すなわち西暦1年としていることにある。これについて、1997年5月10日の日経新聞1面「春秋」コラムが、面白いことを書いている。

 元年は一年でありゼロ年でないところから来る問題や基数の違いによるちょっとした落とし穴もあって面白い。
 例えば、キリスト誕生の年から数え始めて百年を区切りとする年代区分の「世紀」。二十番目の二十世紀は1901年から2000年までだが、1900年からとする数え方もあり、ドイツで出版されている「二十世紀年代記」は1900年の記述で始まる。この方式に従うと、最初の世紀、つまり一世紀は九十九年しかないことになる。


 <ゼロの概念>
 1997年10月22日の朝日新聞夕刊科学面は、新著「千年期を問う」(日本では98年10月に「暦と数の話」として出版)が反響を呼んでいる米ハーバード大のスティーブン・グールド教授へのインタビュー記事で、つぎのように書いている。
 「教授によれば、六世紀に時間の仕切り直しをした際、ヨーロッパにはゼロの概念がなかったために、1年1月1日を最初の日と定めたことが、間違いの始まりだった。1900年は19世紀に、2000年は20世紀に属することになる」 

 <存在しないゼロ年>
 さらに1997年10月23日の日経新聞夕刊1面の「鐘」というコラムではこんな記述がある。
 「ゼロがどれだけ分かりにくい存在だったか。それは現在の暦に紀元ゼロ年が存在しないことからもうかがえる。感覚的には新世紀の始まりに思える紀元2000年が20世紀に分類されてしまうのは今の暦にゼロ年がないせいだ」

 それでは西暦ゼロ年に該当する年はいつなのだろうか。キリストが誕生したとされる年の前年か? いや、それは紀元前1年となり、それを含めて過去にさかのぼる100年間(紀元前1年−紀元前100年)が紀元前1世紀となる。つまり西暦紀元ゼロ年というのは、どこにも存在しないのだ。これは元号すべてにも言えることで、平成の始まりが元年=1年であり、平成ゼロ年がどこにも存在しないことを考えると分かりやすい。

 この問題に対しては、紀元前1年=紀元後0年としたらどうかという迷案(?)も出されている。そうすれば、1世紀は紀元0年から紀元99年までの100年間となり、同様に20世紀は1900年から1999年までとなり、21世紀は2000年からとすることに何の矛盾も生じないというわけだ。しかしこの案は、紀元前1年が紀元後0年でもあるという、2通りの呼び方が併存するまぎらわしさから、ほとんど顧みられていないようだ。



 キリストの誕生は西暦元年ではなかった!

 <歴史的な誤りが定着>
 キリスト教圏の国々では、2000年をキリスト生誕2000年祭として盛大に祝う諸々の行事が行われたが、実際にイエス・キリストが生まれたのは紀元元年ではなく、紀元前4年ころだったというのが現在の定説だ。なぜこのような誤りが生じてしまったのだろうか。
 過去の特定の年を紀元元年として、そこから起算して年を数える方法は紀年法と呼ばれ、政治的・宗教的根拠によってさまざまな紀元が作られてきた。ギリシャのオリンピアード紀元、イスラム教のヒジュラ紀元、ローマ建国紀元などが有名だ。
 西暦紀元はキリスト紀元とも呼ばれ、創始者は6世紀の神学者ディオニシウス・エクシグスで、525年ごろに著した「復活祭の書」の中で初めてキリストの降誕年を元年とする紀元を用い、ローマ建国紀元754年をキリスト降誕の年とした。ところがこの算定が誤っていたことが後の研究によって明らかになってきた。新約聖書などの記述によれば、イエスはヘロデ大王の晩年にベツレヘムで生まれた、とされているが(実際にはガリラヤのナザレが生地だったという説もある)、ヘロデは紀元前4年に没している、などである。
 キリスト降誕年が紀元元年よりも以前であることが明白となってきた時には、すでに西暦紀元は広く普及してしまい、変更はもはや不可能となってしまった。

 <キリストは12月25日に生まれたか>
 キリスト降誕年を考えたついでに、降誕日の方も見ておこう。新約聖書にはキリスト生誕にまつわる話が随所にあるが、その月日については触れられていない。キリストが12月25日の午前零時に降誕したというのは、初代キリスト教徒たちが作った神聖な神話とされている。キリストの誕生を祝う儀式は、3世紀からしだいに行われるようになり、最初のころは1月6日、3月21日(春分)、12月25日のいずれかだった。354年にローマ教会が12月25日に降誕祭を始めるようになり、379年にギリシャ教会もこれにならい、以降、この日がキリスト降誕の日として定着していった。12月25日は、農耕のローマ人の間で、冬至の後で太陽がよみがえる日として崇拝され、ヨーロッパ各地の農耕祭・農神祭として広く根付いていた。初代キリスト教の指導者たちは、農耕暦上の祭りとキリストの降誕日を結びつけ、クリスマスとして普及させていった、とされている。


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 作曲家池辺晋一郎さんの「空を見てますか…」

 作曲家、池辺晋一郎さんのエッセイ集「空を見てますか…」(芸術現代社)に、1996年新年に書いたこんなくだりがある。

二十一世紀の最初の年は次のどっち?
西暦二〇〇〇年。
西暦二〇〇一年。
ジャーン。答は二〇〇一年です。(中略)
「今世紀の整理をしたい」などと僕は言いつづけているのだけど、実は僕も最近まで勘違いしていた。世紀の変わりめは二〇〇一年と知って、何だか少しほっとしたような思いだ。

 「何だか少しほっとした」という池辺さんの思い、おおかたの人たちに共通だっただろう。
 余談だが、池辺さんのこのエッセイ集は、しっかりとした物の見方と研ぎ澄まされた感性、そしてユーモアあふれる文体がとても上質で、お勧めしたい好著だ。
 池辺さーん。「N響アワー」、いつも楽しく見ています。壇ふみさんとの絶妙のコンビも素敵です。今後ともご活躍を。



 99年正月紙面の記述から

 全国紙は1999年正月紙面の特集記事などで、99年が世紀末たけなわの年であることをうたった。
 しかし、新しい時代は2000年から始まるのか、2001年から始まるのかについては、従来にも増して大きな混乱が見られた。大勢としては、21世紀のスタートまであと2年、ということでは一致していたものの、あと1年で2000年代がスタートすることの方にポイントを置く企画や記述も少なくなかった。
 参考資料として、主な全国紙の1999年正月紙面の記述を引用しておきたい。

 極めて特異な論調としては、1月28日日経夕刊「ニュース複眼」で名和修編集委員が、「キリスト教世界では2000年は大きな聖年にあたり、欧米各国では新世紀を祝うイベントを来年に前倒しする傾向にある」として、日本でも景気対策として「この際、21世紀を1年前倒ししてはどうだろう」「法改正がいるわけでなし、閣議決定ですむ」と提案した。

 99年12月の新聞紙面では…
 1999年12月の新聞紙面から、この問題に関するいくつかの記述を抜粋しておく。


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 注目された2000年正月紙面の基調

 注目されたのが、2000年正月紙面の基調テーマは何でいくのか、という点だった
 99年9月17日毎日新聞の「社会部発」というコラムが、2000年スタート紙面をめぐる社内の議論の一端を紹介していて興味深い。それによると、「00年を今世紀最後の年ととらえて総括すべきだという意見。21世紀の始まりと見なして未来を展望しようという主張」などで深夜まで議論が沸騰した、とある。
 どの新聞社も悩みどころは同じはずで、ズバリ2000年という年を「最後」と位置づけるか、「最初」と位置づけるか、どちらの判断を取るのかだ。2000年が明けて各紙の記事を以下に列記したが、「2000年代スタート」と「20世紀最後」の相反するような表現が共存し、せめぎ合っていた。
 
 2000年明けの新聞紙面は…

 2000年正月の新聞紙面から、「2000年か2001年か」に関するいくつかの記述を抜粋しておく。多くの記事は、2000年を新しいミレニアム(千年紀)の始まりとしているが、中には新ミレニアムが厳密には2001年からであることを記しているものもあった。
 また世紀の変わり目との関係では、2000年は20世紀最後の年であり、21世紀は2001年からだとしている記事がほとんどだった。


 しかし中には、2001年まで待ちきれずに、今年2000年から21世紀とする発言や、それに近い記事も掲載された。


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 Y2K厳戒の中カウントダウン
 Y2Kへの厳戒態勢と重なって、世界各地の2000年開幕イベントは、いまひとつ手放しで祝賀気分に浸ることが出来る雰囲気には至らなかった。

 <米ではミレニアムイベント中止も>
 99年12月28日の読売夕刊に掲載された12月20日付「ワシントンポスト」紙の記事は、アメリカの各地で企画されていたミレニアムイベントの多くが、Y2Kでのトラブルの懸念から、キャンセルないしは縮小されている現状を伝えた。
 それによると、スミソニアン協会は3日間のイベント計画を縮小、ホワイトハウスは夜会の推定参加者数を下方修正、ワシントンで予定されていた慈善興行「アメリカの千年紀」は中止、数十のコンサートが予約が埋まらなかったりキャンセルとなった、等々。ニューヨークやワシントンなどで行われる数々のミレニアムイベントへの関心も低いままで、「新ミレニアムを祝う大騒ぎは空振りに終わるかもしれない」と、この記事は伝えた。

 <豪やNZでも2000イベントのキャンセル相次ぐ>
 主要国の中で最も早く2000年を迎えるオーストラリアやニュージーランドで、2000年の開幕を祝う行事やイベントが、2000年問題で観光客が見込めないとして中止決定が相次いだ。オーストラリアの旅行会社トラベル・オンラインは、計画していたポートダグラス沖で2000年1月1日を迎えるパーティーの取りやめを決定。ニュージーランドでも、オークランドで予定されていた世界的なオペラ歌手キリテ・カナワなどが出演するコンサートなど、2つの年越しコンサートが相次いで中止と決定した。
 ニュージーランドでは、こうした事態に危機感を抱いた政府が乗り出して、キリテ・カナワが出演する無料コンサートをテコ入れする一幕もあった。

 <旅行会社のツアー自粛>
 JTBは7月に入って、2000年問題での航空管制システムなどに確信が持てないとして、来年1月1日午前零時にまたがって航空機で移動するツアーの発売を取りやめる方針を明らかにした。現地時間とグリニッジ標準時のいずれにも適用するため、元日の午前9時までに日本を出発する国際線の大半も対象となった。日本旅行、東急観光、近畿日本ツーリストも同様の方針を打ち出した。これに、外務省によるこの時期の海外旅行への注意呼びかけが追い打ちをかけ、年末年始の海外旅行は総崩れの様相となった。大手旅行会社は10月に入って、ハワイ、グアム、サイパンについては「安全が確認された」としてツアーの募集を始めたが、北米や欧州はホテルの確保が難しく、見送られた。

 <2000年元日は航空便削減>

 1999年2月27日の朝刊各紙は、国際民間航空機関(ICAO)が今年1999年12月31日から2000年1月1日にかけて飛ぶ航空機の便数を減らしたり、飛行間隔を長くするなどして、交通量を絞り込むことを決めた、というニュースを大きく伝えた。コンピューターの誤作動による不測の事態が起きた場合にも、安全な航空管制を確保するための措置という。

 <Y2K要員確保でホテルも押さえられ>
 1999年5月18日付け日経新聞によれば、ニューヨークなど米国の大都市では、コンピューター会社などが2000年問題対応の臨時要員を宿泊させるため、年末年始のホテルの部屋を多数確保しており、このあおりで年末年始ツァー客のためのホテルの確保は難しく、ホテル側も価格設定に強気で宿泊料は高騰した。

 <海外旅行に警鐘、飛行機禁止の企業も>
 米国務省は1999年1月29日、1999年末から2000年初頭にかけての海外旅行については、途上国の2000年問題への対応の遅れから、「交通機関が混乱したり、クレジットカードや現金自動受払機の誤作動、また停電や断水の恐れがある」として、異例の公告を出して注意を促した。日本でも藤沢薬品が、常務以上の役員に対し、12月31日の夜出発する便から1月4日まで、飛行機の利用を禁止した。

 <通産省ロビーのカウントダウンもY2K対策>
 1999年3月5日から、通産省本館ロビーに「2000年カウントダウンクロック」の電光掲示板が設置され、2000年までの残り時間を分単位で刻んだ。これは2000年の開幕を祝うためのものではなく、Y2K問題への対応を促すためのもの。掲示板には「コンピューター西暦2000年問題への対応は完了していますか」というアピール文が書かれ、日本にとっての2000年開幕はY2K問題であることを端的に示した。

 <アーサー・クラークもミレニアム記念行事は2001年を提案>
 1999年1月20日の産経新聞によると、「2001年宇宙の旅」の原作者で92歳のアーサー・C・クラークは、「コンピューターの誤作動による大混乱が予想される『2000年問題』がお祝いごとを台無しにしかねない」として、1000年に一度のミレニアム記念行事は2000年ではなく、2001年に行うべきだと語ったことを伝えた。

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 2000年は最終年、2001年は初年

 <2000年は「おおみそか」>
 たとえれば2000年は、20世紀の「おおみそか」のようなものであり、また1000年間続いた第2ミレニアム最後の年として、「締めくくり的・さようなら的」色彩の強い年となった。年明けから年間を通じて、反省と述懐を込めてさまざまな行事やイベントが行われた着地の年だった。2000年は、the end of the Century であり、世紀末の終着点となった。2000年の米大統領選挙も、20世紀最後の米大統領選挙だった。

 <2001年は「元日」>
 2001年は、これこそが21世紀のスタートとして、そしてこれから1000年間続く長い第3ミレニアムの最初の年として、「元日」のような厳粛さと新たな決意をもって迎えられる節目となった。日本はもちろんのこと、キリスト生誕2000年祭を祝う西欧の国々でも、ミレニアム・イヤーとして2001年の冒頭までを祝祭の期間と設定するところが多く、2001年の開幕は慶祝行事のアンカーとなった。

 <このホームページのスタンス>
 このホームページは、21世紀の正式なスタートであり新しいミレニアムの正式なスタートである2001年を、一人一人が意義深く、楽しく、こころに残るやり方で迎えることを立脚点として、2001年こそがすべての節目であり、時代の切り替え点であるということを大前提にしてきた。
 2001年明けとともに21世紀が明け、このホームページはタイトルを「21世紀の歩き方大研究」と改めて、21世紀開幕の各地の様子や21世紀開幕にまつわる話題、21世紀はいったいどんな世の中になるのか、といったさまざまな21世紀関連の話題を収録し続けている。

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